第十九章 最後に

第十九章 最後に

 そろそろこの辺りで、この冊子を締めたいと思います。
 この冊子については、半年程で仕上げる積りでしたが、思いの他、長く成ってしまいました。
 そしてその間に思想の変化も生まれて来ました。
 この最終章では、その辺りを記して行きたいと思います。

 この冊子を書き始めた時、私の思想の中心に在ったのは、智慧のみでした。
 智慧を愛する事に依って、人は幸せに成る。
 日本国民一人一人が智慧を愛する様に成れば、日本は幸せな国家と成る。
 そんな思いから書き始めたのです。

 ですから、哲学国家日本とは、国民一人一人が智慧を愛する事に依って、成熟して行く国家日本の事です、とそんな風に書き出したのです。
 確かに智慧を愛すれば人は幸せに成ります。
 その事は私は体感していましたので、その事は声を大にして言う事は出来たのですが、
 しかしそれはその場限りの事だったのです。
 すなわち智慧を愛している間は、人は幸せな感情に浸る事が出来るが、
 この世に還ってしまえば元の木阿弥、この世の人としてこの世に翻弄される、
 その事もまた痛い様に実感していたのです。
 ですから、ある意味では無責任にスローガン的に書き始めたのです。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』  これが最も重要な第一の掟である。 第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」

 「あなたの神である主を愛する事」、すなわち智慧を愛する事がどんなに素晴らしい事であるか、それは私には痛い程分かっていました。
 ですからこの書を書き始めたのですが、「隣人を自分のように愛する」とか「天の父の御心を行う」とかと言う事、すなわち『愛』の事についは、良く分かっていなかったのです。
 ですから「哲学国家日本」と言っても、それは無責任なスローガン的なものに過ぎなかったのです。
 尤も智慧を愛する事に依って、国民一人一人が幸せを実感する事が出来る様に成るのなら、それはそれで価値の在る事であるとは、勿論思っていましたが、
 しかしそれに依って日本が幸せに成るかどうか、それは良く分からなかったのです。
 何故なら、多くの日本人が自分だけの幸せの島に閉じ籠ってしまったら、どうなってしまうのだろう、そんな危惧感も持ってはいたからです。
 ですから、そんな曖昧さを残しながら、この書を書き始めたのです。

 しかし一方、『智慧』については、確信がありました。
 古今東西の聖人賢人たちの中心にある『それ』、それが智慧である事について、私は確信を持っていました。
 ですから「ソロモンの智慧」、「ダビデの智慧」、「イエスの智慧」、「パウロの智慧」、「孔子の智慧」、「王陽明の智慧」、「老子の智慧」、「ソクラテス=プラトンの智慧」、「エピクロスの智慧」、「セネカの智慧」、「クリシュナの智慧」、「デカルトの智慧」として書き始めたのです。

 こんな事を言えば笑われるかも知れませんが、
 私は聖人賢人と呼ばれる人たちの言葉であれば、それらの言葉の大抵を智慧に還元させる事が出来ます。
 それらの言葉が素晴らしければ素晴らしい程、それらの言葉はいとも簡単に智慧へと還元させる事が出来ます。
 何故か、何故ならそれらの言葉が私が心から求めていた言葉だからです。
 智慧とは何か、それは本当の自分自身の事です。
 それらの言葉が素晴らしければ素晴らしい程、それらの言葉はいとも簡単に自分の物と成るのです。
 もしそれを皆様に説明する必要があるのであれば、それを智慧と言う言葉に還元して説明すれば良いのですから。

 しかし『愛』については、分かっていなかったのです。
 しかしそんな私にも愛を知るチャンスが訪れたのです。

 その最初のきっかけがダビデ訪問の時です。
 その時に、ダビデの『無垢』と言う言葉に憧れを感じたのです。
「無垢であろうと努め、まっすぐ見ようとせよ。平和な人には未来がある。」
「あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら、そのことがわたしを守ってくれるでしょう。」
「わたしは主に無垢であろうとし、罪から身を守る。」
 しかし私には未だ『無垢』の意味は分からなかったのです。

 その次に菩提達摩を訪れました。
 その時に、『無心』の意味が痛い程はっきりと分かる様に成ったのです。
「無心と言うは、即ち妄想無き心なり。」
「無心なる者は真心なり、真心なる者は無心なり。」
「爾我の無心は、木石に同じからず。何を以ての故ぞ。譬えば天鼓の如し、無心なりと雖復(いえど)も、自然に種々の妙法を出して衆生を教化す。又如意珠の如し、無心なりと雖復(いえど)も、善能(よ)く諸法実相を覚了し、真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し。」
「問うて曰く、今は心中に於いて作す。若為(いかん)が修行せん。答えて曰く、但(も)し一切事上に於いて無心なることを覚了せば、即ち是れ修行なり、更に別に修行有らず。故に、無心なることを知れば、即ち一切寂滅して、即ち無心なり。」
「問うて曰く、若為(いかん)が能く是れ無心と知ることを得ん。答えて曰く、汝子細に推求し看よ。心は何の相貌をか作す。其の心は復(は)得可べきや。是れ心か、是れ心ならざるか、為復(は)た内に在るか、為復(は)た外に在るか、為復(は)た中間に在るか。是(かく)の如く三処に推求して心を覓(もと)むるに、了(つ)いに不可得にして、乃至、一切処に求覓(もと)むるも亦た不可得なり。当に知るべし、即ち是無心なることを。」
 ここにおいて、私は無心の意味を了解したのです。
 そして、無心、無垢、無我、無為、無事等々、古今東西の聖人賢人たちの言う『無』の概念も了解したのです。

 その次に老子の『恍惚』に出会ったのです。
 この『恍惚』と言う言葉において、私は全ての聖人賢人の『それ』を心から理解する事にが出来る様に成ったのです。
 次の言葉がそれらの全てを代表しています。
「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。 道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。其の中に象有り、恍たり惚たり。其の中に物有り、窈たり冥たり。其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」

 王陽明の次の言葉も後押しをして呉れました。
「聖人の気象は、何に由って、認めん。自己の良知は、原(もと)、聖人と一般なり。若し、自己の良知を体認して、明白なれば、即ち、聖人の気象は、聖人に在らずして、我に在り。」

 そしてセネカの次の言葉で、『愛』を了解したのです。
「この完全な理性が徳と呼ばれ、それがすなわち崇高なるものと同じです。」
 この言葉は「神は愛なり」と言う言葉と全く一緒だったのです。
 そしてそれはまた、「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。」とも全く一緒だったのです。

 そして最後にクリシュナの次の言葉により愛の実践方法を学んだのです。
「祭祀のための行為を除いて、この世の人々は行為に束縛されている。アルジュナよ、執着を離れて、そのための行為をなせ。」
「あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為の束縛から解放されるであろう。放擲のヨーガに専心し、解脱して私に至るであろう。」

これはパウロの言う次の言葉と全く一緒です。
「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして捧げなさい。これこそがあなたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善い事で、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

 そしてこれらの全てを貫いていたのが、デカルトの「我思う、故に我在り」だったのです。

 これが今回の智慧の旅の総括的結論と言う事に成ります。
 最初は智慧の旅の積りでしたが、
 最終的には『智慧と愛』の旅で終わったのです。
 とても実りの多い旅だったと思います。

 『愛』とは何か。
 私は愛とは何かをしなければいけないものだと、思い込んでいたのです。
 しかしそうでは無かったのです。
 『愛』とは、この世に在る時も『智慧』と共に在る事だったのです。
 そう思う事に依って、『愛』が私に取ってとても身近な存在と成ったのです。

 『愛』とは何か、それは『恍惚』の事。
 もしそれを形に現わしたいのであれば、それは『微笑み』。
 皆様がその状態を常に維持し続ける事が出来れば、皆様そのものが愛に成るのです。
 『愛の人』とは『恍惚の人』の事。
 それは『聖人』の事。
 もしそれを形に現わしたいのであれば、それが『微笑み』。
 そんな風に愛を理解する事に依って、『愛』が私に取ってとても身近な存在と成ったのです。

 愛とはブッダの微笑み。

 私は何度か、その『微笑み』にチャレンジしてみました。
 そしてその試みは結構成功したのです。

 人は微笑みの中に在ると、結構『恍惚』を保持し続ける事が出来るのです。

「夜気清明の時、視ること無く、聴くこと無く、思うこと無く、作すこと無く、淡然として、平懐なるは、就(すなわ)ち、是れ、義皇の世界なり。」
「良知は、夜気の発するにときに在っては、方に、是れ、本体なり。其の物欲の雑、無きを、以ってなり。」
「無心と言うは、即ち妄想無き心なり。」
「無心なる者は真心なり、真心なる者は無心なり。」
「故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に欲有りて以てその徼(きょう)を観る。」
「主は羊飼い、わたしは何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を追い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」
「顔淵、仁を問う。子の曰く、克己復禮を仁となす。」
「最高善のある場所はどこかとお尋ねですか。心です。」
「われわれの探し求むべきものは何かと言うに、それは抵抗し得ざる或る力の支配を毎日受けないもののことです。それは何でしょう。それは心ですが、それは正しい、善い、大きな心のことです。この心を、人間の肉体に宿る神という以外に何と呼ぶでしょうか。」
「では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。」
「自己において喜び、自己において充足し、自己において満ち足りた人、彼にはもはやなすべきことがない。」
「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」
「ごらんなさい。賢者がどんなふうに自分自身に満足しているかを。」

 智慧と共に在る時、人は恍惚に成ります。
「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
 皆様が「奥まった部屋に入り戸を閉め」一人に成って智慧を愛する時、皆様は『恍惚』に成ります。
 これが智慧が皆様に与える智慧の報酬です。
 皆様がこの『恍惚』を体感した時から、皆様は『愛の人』と成る事が出来るのです。

 皆様がこの世に在る時も、この『恍惚』を維持し続ける事が出来れば、皆様は『愛の人』と成るのです。。

 ブッダの微笑み。
「聖人の天下に在るや、歙歙として天下の為に其の心を渾にす。百姓皆其の耳目を注ぐも、聖人は皆之を孩とす。」

 母親の微笑み、聖母マリアの微笑み、そしてブッダの微笑み。
 もし皆様が全ての人を赤ちゃんの様に見る事が出来れば、皆様は聖人です。
 皆様は常に微笑みながら、そして必要であれば手を差し伸べるでしょう。

 もし皆様が『恍惚』の感覚を心から知り抜き、
 そしてこの世に在る時も、微笑みの中でその『恍惚』を維持し続ける事が出来れば、
 皆様は『愛の人』です。

 ですから皆様が愛の人と成る為には、
 先ずは『恍惚』を知り抜かなければならないのです。
 皆様が『恍惚』を知る為の方法、
 それが哲学(智慧を愛する事)なのです。
 皆様が智慧を愛すれば愛する程、皆様は『恍惚』に成るのです。

 何故皆様が智慧を愛すれば、皆様は『恍惚』に成るのか。
 それは智慧を愛する事に依って、皆様が本当の皆様に成るからです。

 皆様が智慧を愛すれば、皆様は智慧の根源としての智慧に至ります。
 そこが皆様に取っての神の国なのです。
 そこが皆様に取っての天の国であり、極楽であり、涅槃であり、ニルヴァーナなのです。
 そこにおいて皆様は、何処までも何処までも、皆様が皆様自身なのです。
 その感覚が『恍惚』なのです。
 そしてその中において、皆様は皆様が心から求めているもの、すなわち『愛』を心から感じる事が出来るのです。
 その感覚もまた『恍惚』なのです。
 その『恍惚』の中で、皆様の『智慧と愛』が全うされている事に成るのです。
 「知を致(きわ)むるは物に格(いた)るに在り。物格(いた)りて后(のち)知至(きわ)まる。」
 ここにおいて皆様の『智慧と愛』が全うされているのです。
 そしてそこにおいて皆様は『恍惚』と成るのです。

 この『恍惚』をこの世に在る時も、維持し続ける事が出来れば、
 そこに皆様の『智慧と愛の王国』が生まれる事と成るのです。
 その過程が次の通りです。
「物格りて后(のち)知至(きわ)まる。
 知至まりて后(のち)意誠なり。
 意誠にして后(のち)心正し。
 心正しくして后(のち)身修まる。
 身修まりて后(のち)家斉う。
 家斉いて后(のち)国治まる。
 国治まりて后(のち)天下平らかなり。」

 この『恍惚』こそが、皆様に取っての絶対基準なのです。
 何故なら、皆様がこの『恍惚』と共に在れば皆様は常に幸せですし、
 皆様がこの世に在る時も、この『恍惚』と共に在り続ければ、
 皆様のその世界が素晴らしい世界へと変貌して行く事に成るのですから。
 「What a wondefull world!」
 それは『恍惚』と共に在る時の世界の事なのです。
 「無為にして為さざるは無し」
「常に無欲にして以て其の妙を観る」
「無心と言うは、即ち妄想無き心なり。」
「無心なる者は真心なり、真心なる者は無心なり。」
「爾我の無心は、木石に同じからず。何を以ての故ぞ。譬えば天鼓の如し、無心なりと雖復(いえど)も、自然に種々の妙法を出して衆生を教化す。又如意珠の如し、無心なりと雖復(いえど)も、善能(よ)く諸法実相を覚了し、真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し。」

 この『恍惚』こそが皆様の絶対基準です。
 この『恍惚』から皆様の素晴らしい世界が生まれて行くのです。
「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」

 皆様はこの『恍惚』をこそ求めなければならないのです。
 皆様が『恍惚』に成った時、そこには古今東西の聖人賢人たちの『それ』が一堂に会している事に成るのです。

 しかしここではっきり言って置きます。
 皆様が恍惚を求めれば、恍惚が向こうからやってくる、恍惚とはそんな簡単なものでは無いのです。。
 皆様が『恍惚』に成る為には、やはりそれなりの修業が必要なのです。
 その修行こそが、哲学、すなわち智慧を愛する事なのです。
 そしてその王道が古今東西の聖人賢人たちの智慧の言葉に学ぶ事なのです。

 何故古今東西の聖人賢人たちの智慧の言葉に学べは、皆様は『恍惚』と成る事が出来るのか。
 それは古今東西の聖人賢人たちの言葉に依って、皆様が本当の皆様に達する事が出来るからです。
 皆様が本当の皆様に達したと思った時、皆様は『恍惚』に成るのです。
 何故ならその時、皆様は何処までも何処までも皆様が皆様自身なのですから。
 そしてそこにおいて古今東西の聖人賢人たちの『それ』を感じる事が出来るのですから。
 そこにおいて世界の中心が一つで在る事を感じる事が出来るのです。
 その一連の感覚もまた『恍惚』と言う事に成るのです。

 皆様が『恍惚』に成る為には、皆様は毎日毎日、古今東西の聖人賢人たちの智慧の言葉を学ばなければ成らないのです。
 皆様がその中で少しでも良いですので『恍惚』を感じる事が出来れば大成功です。
 それを毎日毎日続けて下さい。
 そうすれば『恍惚』が頻繁に皆様を訪れて呉れる様に成ります。
 そうなれば、もう大大成功です。
 皆様はその『恍惚』を求めて、毎日毎日、古今東西の聖人賢人たちの智慧を学び求める事に成るのです。
 もう皆様は哲学(智慧を愛する事)が止められなく成ります。
 その様な過程の中で、皆様は古今東西の聖人賢人たちの『それ』が一つで在る事を了解する事と成るのです。
 皆様がそこまで至った時、皆様は真の哲学者(智慧を愛する者)と成ったと言う事が出来るのです。
 そしてそれを認証するものが、これまた『恍惚』なのです。

 『恍惚』こそが、皆様が聖人君子に成る為の絶対条件なのです。
 何故なら、『恍惚』を知る事に依って、皆様は哲学者と成り、
 その『恍惚』をこの世に在る時も維持し続ける事に依って、皆様は聖人君子と成るのですから。

 『恍惚』こそが、皆様が聖人君子に成る為の絶対条件なのです。
 皆様! 
 毎日毎日、『恍惚』を求めて、古今東西の聖人賢人たちの智慧の言葉を学びましょう!
 その第一歩が『哲学読本(智慧と愛の巻)』の作成です!。

 さあさあ皆様! もう躊躇は許されません。
 今日から早速『哲学読本(智慧と愛の巻)』の作成に取り掛かりましょう。
 『哲学読本(智慧と愛の巻)』が皆様を幸せにし、
 そして世界中を幸せにするのです。

 皆様のそれに対する報酬は『恍惚』です。
 これ以上に素晴らしい神からの贈り物が何処に在るのでしょう。

『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』
『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』
『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』、『恍惚』
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 『恍惚』に依って、皆様は清く正しく美しく成るのです。

 終わり

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