哲学読本(智慧の巻)

哲学読本(智慧の巻)


目   次

第一章   ダビデの智慧・・・・・・・・・・・『主について』
第二章   ソロモンの智慧・・・・・・・・・・『知恵について』
第三章   ソクラテス=プラトンの智慧 ・・・・『知恵について』 
第四章   アリストテレスの智慧・・・・・・・『知性について』
第五章   エピクロスの智慧・・・・・・・・・『哲学(知恵の愛求)について』
第六章   セネカの智慧・・・・・・・・・・・『哲学(英知への愛)について』
第七章   イエスの智慧
 第一節  マタイ福音書より・・・・・・・・・『聖霊について』
 第二節  ヨハネ福音書より・・・・・・・・・『聖霊について』
第八章   パウロの智慧・・・・・・・・・・・『聖霊について』
第九章   マルクス・アウレリウスの智慧・・・『ダイモーンについて』
第十章   プロティヌスの智慧・・・・・・・・『神であるところの自己自身』
第十一章  アウグスティヌスの智慧・・・・・・『幸福について』
第十二章  トマス・アクイナスの智慧・・・・・『幸福について』
第十三章  エックハルトの智慧・・・・・・・・『離脱について』
第十四章  クザーヌスの智慧・・・・・・・・・『知恵について』
第十五章  ルターの智慧・・・・・・・・・・・『信仰について』
第十六章  デカルトの智慧・・・・・・・・・・『私は考える、故に私はある』
第十七章  スピノザの智慧・・・・・・・・・・『至福について』
第十八章  ルソーの智慧・・・・・・・・・・・『至高の幸福について』
第十九章  カントの智慧・・・・・・・・・・・『根源的最高善について』
第二十章  ゲーテの智慧・・・・・・・・・・・『神の霊について』
第二十一章 ヘーゲルの智慧・・・・・・・・・・『哲学の理念について』
第二十二章 ショーペンハウワーの智慧・・・・・『意志の否定について』
第二十三章 トルストイの智慧・・・・・・・・・『至福について』
第二十四章 ジェームスの智慧・・・・・・・・・『潜在意識的自己について』
第二十五章 ヤスパースの智慧・・・・・・・・・『実存について』
第二十六章 ヤージニャヴァルキヤの智慧・・・・『アートマンについて』
第二十七章 クリシュナの智慧・・・・・・・・・『アートマンについて』
第二十八章 ダゴールの智慧・・・・・・・・・・『アートマンについて』
第二十九章 老子の智慧・・・・・・・・・・・・『道について』
第三十章  孔子の智慧
 第一節 「論語」より・・・・・・・・・・・・『仁について』
 第二節 「大学」より・・・・・・・・・・・・『致知について』
 第三節 「中庸」より・・・・・・・・・・・・『中について』
第三十一章 孟子の智慧・・・・・・・・・・・・『浩然の気について』
第三十二章 朱子の智慧・・・・・・・・・・・・『仁について』
第三十三章 王陽明の智慧・・・・・・・・・・・『良知について』
第三十四章 ブッダの智慧
 第一節 「真理の言葉(発句経)」より ・・・ 『ニルヴァーナについて』
 第二節 「般若心経」より・・・・・・・・・・『般若について』
第三十五章 龍樹の智慧・・・・・・・・・・・・『知恵(般若)について』
第三十六章 達磨の智慧・・・・・・・・・・・・『無心般若について』
第三十七章 曇鸞の智慧・・・・・・・・・・・・『智慧(般若)について』
第三十八章 智顗の智慧・・・・・・・・・・・・『止観について』
第三十九章 臨済の智慧・・・・・・・・・・・・『君たち自身が仏だ』
第四十章  聖徳太子の智慧・・・・・・・・・・『法身と解脱と般若について』
第四十一章 空海の智慧・・・・・・・・・・・・『即身成仏』
第四十二章 親鸞の智慧・・・・・・・・・・・・『自然法爾』
第四十三章 道元の智慧・・・・・・・・・・・・『即心是仏』
第四十四章 中江藤樹の智慧・・・・・・・・・・『明徳について』
第四十五章 伊藤仁斎の智慧・・・・・・・・・・『仁について』
第四十六章 石田梅岩の智慧・・・・・・・・・・『自分の心について』
第四十七章 佐藤一斎の智慧・・・・・・・・・・『真己について』
第四十八章 西郷隆盛の智慧・・・・・・・・・・『敬天愛人』
第四十九章 鈴木大拙の智慧・・・・・・・・・・『霊性的自覚』
第五十章  西田幾多郎の智慧・・・・・・・・・『真の自己について』


第一章 ダビデの智慧・・・・・『主について』
(主の恵み、主の慈しみについて)
「主は羊飼い、わたしは何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」(23)
「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与え、主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒め清らかで、目に光を与える。主への畏れは清く、いつまでも続き、主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にもまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」(19)
「あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す。命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」(36)
「主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている。恵みの業は神の山々のよう、あなたの裁きは大いなる深淵。」(36)
「味わい、見よ、主の恵みの深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。」(34)
「御恵はいかに豊かなことでしょう。あなたを畏れる人のためにそれを蓄え、人の子らの目の前で、あなたに身を寄せる人に、お与えになります。御もとに彼らをかくまって、人間の謀から守ってくださいます。仮庵の中に隠し、争いを挑む舌を免れてくださいます。」(31)
「主の慈しみ生きる人々よ、主に讃美の歌をうたい、聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。ひととき、お怒りに成っても、命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」(30)
「見よ、主は御目を注がれる、主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い、命を得させてくださる。」(33)
「主は命の神。」(18)
「主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを、わたしの心にお与えください。平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに住まわせてくださるのです。」(4)
「わたしの魂は主によって喜び躍り、御救いを喜び楽しみます。わたしの骨はことごとく叫びます。『主よ、あなたに並ぶものはありません。貧しい人を強い者から、貧しく乏しい人を搾取する者から、助け出してくださいます。』」(35)
「主に申します。あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」(16)
「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことはありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見せず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。」(16)
「身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。いかに多くの民に包囲されても、決して恐れません。」(3)
「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。」(27)
「主はわたしの力、わたしの盾、わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得て、わたしの心は喜び躍ります。」(28)
「主よ、わたしの力よ。わたしはあなたを慕う。主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。」(18)
「主のほかに神はいない。神のほかに我らの岩はない。神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を完全にし、わたしの足を鹿のように速くし、高い所に立たせ、手に戦いの技を教え、腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。」(18)
「主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます。」(3)
「あなたは救いの盾をわたしに授け、右の御手で支えてくださる。あなたは自ら降り、わたしを強い者としてくださる。」(18)
「主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる。」(18)
「わたしは主に求め、主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。」(34))
「主はわたしの泣く声を聞き、主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受けてくださる。」(6)
「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主は私の運命を支える方。」(16)
「今、わたしは知った。主は油注がれた方に勝利を授け、聖なる天から彼に答えて、右の御手による救いの力を示されることを。」(20)
「主は油注がれた者の力、その砦、救い。」(28)
「主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。』」(2)
「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていだかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。」(8)
(主の救いについて)
「主よ、呼び求めるわたしの声を聞き、憐れんで、わたしに答えてください。」(27)
「主よ、わたしを見捨てないでください。わたしの神よ、遠く離れないでください。わたしの救いの主よ、すぐにわたしを助けてください。」(38)
「主よ、あなただけは、わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ、今すぐわたしを助けてください。」(22)
「主よ、わたしは貧しく身を屈めています。わたしのためにお計らいください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ、速やかにきてください。」(40)
「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。わたしが死んで墓に下ることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ、あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。主よ、耳を傾けて、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。」(30)
「主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よ、わたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるなら、わたしは墓に下る者とされてしまいます。」(28)
「主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。主よ、憐れんでください、わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。」(6)
「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、恵みの御業によってわたしを助けてください。あなたの耳をわたしに傾け、急いでわたしを救い出してください、あなたは私の大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き、隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。」(31)
「救いの神よ、わたしを離れないでください、見捨てないでください。父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。」(27)
「平穏なときには、申しました。『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と。主よ、あなたが御旨によって、砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると、わたしはたちまち恐怖に陥りました。」(30)
「主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ、わたしの足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませ、わたしの口に新しい歌を、わたしたちの神への賛美を授けてくださった。」(40))
「わたしの神よ、主よ、叫び求めるわたしを、あなたは癒してくださいました。主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせ、わたしに命を得させてくださいました。」(30)
「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び踊り、主に向かって歌います。『主はわたしに報いてくださった』と。」(13)
「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。わたしの魂があなたをほめ歌い、沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神よ、主よ、とこしえに貴方に感謝をささげます。」(30)
「慈しみをいただいて、わたしは喜び踊ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり、わたしの魂の悩みを知ってくださいました。わたしを敵の手に渡すことなく、わたしの足を、広い所に立たせてくれました。」(31)
「あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い、とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ、あなたによって喜び誇ります。主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。」(5)
「いかに幸いなことか、主をさけどころとする人はすべて。」(2)
(主の正義、主の裁きについて)
「主は正義を愛される。主の慈しみ生きる人を見捨てることなく、とこしえに見守り、主に逆らう者の子孫を断たれる。」(37)
「主の御言葉は正しく、御業はすべて真実。主は恵みと裁きを愛し、地は主の慈しみに満ちている。」(33)
「主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。」(11)
「主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示してくださいます。主の道を貧しい人に教えてくださいます。その契約と定めを守る人にとって、主の道はすべて、慈しみとまこと。」(25)
「あなたの慈しみ生きる人にあなたは慈しみを示し、無垢な人には無垢に、清い人には清くふるまい、心の曲がった者には背を向けられる。あなたは貧しい民を救い上げ、高く見る目を引き下ろされる。主よ、あなたはわたしの灯火を輝かし、神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。」(18)
「神の道は完全、主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに寄せる人に、主は盾となってくださる。」(18)
「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。」(23)
「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を示してくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。若いときにも老いた今も、わたしは見ていない、主に従う人が捨てられ、子孫がパンを乞うのを。」(37)
「あなたはいけにえも、穀物の供えも望まず、焼き尽くす供え物も、罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」(40)
「主は、従う人に目を注ぎ、助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。主は悪を行う者に御顔を向け、その名の記念を地上から断たれる。主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを救ってくださる。主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。」(34)
「主は言われます。『虐げに苦しむ者と呻いている貧しい者のために、今、わたしは立ち上がり、彼らがあえぎ望む救いを与えよう。』主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清められた銀。主よ、あなたはその仰せを守り、この代からとこしえに至るまで、わたしたちを見守ってくださいます。」(12)
「主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け、その願いを聞き、彼らの心を確かにし、みなしごと虐げられて人のために、裁きをしてくださいます。」(10)
「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。」(22)
「主は裁きのために御座を固く据え、とこしえに御座に着いておられる。御自ら世界を正しく治め、国々の民を公平に裁かれる。」(9)
「主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧に成り、御座を置かれたところから、地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて造られた主は、彼らの業をことごとく見分けられる。」(33)
「主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し、そのまぶたは人の子らを調べる。」(11)
「神を知らぬ者は心に言う、『神などいない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをしている。善を行う者はいない。主は天から人の子を見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」(14)
「心とはらわたと調べる方、神は正しくいます。心のまっすぐな人を救う方、神はわたしの盾。」(7)
「いかに幸いなことでしょう、罪を赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう、主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」(32)
「わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました。『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」(32)
(主に従う人について)
「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(1)
「主に従う人は、口に知恵の言葉があり、その舌は正義を語る。神の教えを心に抱き、よろめくことなく歩む。」(37)
「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ、主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主ははからい、あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを、真昼の光のように輝かせてくださる。」(37)
「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょう。 それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。」(15)
「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心をもつ人。」(24)
「主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。わたしは主の道を守り、わたしの神に背かない。わたしは主の裁きをすべて前に置き、主の掟を遠ざけない。わたしは主に無垢であろうとし、罪から身を守る。主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目に対してわたしの手は清い。」(18)
「主よ、正しい訴えを聞き、わたしの叫びに耳を傾け、祈りに耳を向けてください。わたしの唇に欺きはありません。御前からわたしのために裁きを送り出し、あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね、火をもってわたしを試されますが、汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。わたしの口は人の習いに従うことなく、あなたの唇の言葉を守ります。暴力を避けて、あなたの道をたどり、一歩一歩、揺らぐことなく進みます。」(17)
「主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。主よ、わたしを調べ、試み、はらわたと心を火をもって試してみてください。あなたの慈しみはわたしの目の前にあり、あなたのまことに従って歩き続けています。」(26)
「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください、あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。」(25)
「主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。その人は恵みに満たされて宿り、子孫は地を継ぐであろう。主を畏れる人に、主は契約の奥義を悟らせてくださる。」(25)
「主に望みをおき、主の道を守れ。主はあなたを高く上げて、地を継がせてくれる。」(37)
「主の慈しみ生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ。おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ。」(4)
「主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り、傲慢な者には厳しく報いられる。雄々しくあれ、心を強くせよ、主を待ち望む人はすべて。」(31)
「あなたの慈しみ生きる人は皆、あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。」(32)
「我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。我らの心は喜び、聖なる御名に依り頼む。」(33)
「主よ、それなら何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。」(39)
「主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。わたしの主よ、わたしの神よ、御自身でわたしに答えてください。」(38)
「どうか、わたしの口の言葉が御前の旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。」(15)
「神の子らよ、主に帰せよ、栄光と力を主に帰せよ、御名の栄光を主に帰せよ。」(29)
「神に従う人よ、主によって喜び踊れ。すべての心正しい人よ、喜びの声をあげよ。」(32)
「主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。琴を奏でて主に感謝をささげ、十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。新しい歌を主に向かってうたい、美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。」(33)
「心よ、主はお前に言われる。『わたしの顔を尋ね求めよ』と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。」(27)
「あなたを呼び求めます。神よ、わたしに答えてください。」(17)
「わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え、わたしの目に光を与えてください。」(13)
「主よ、あなたの道を示し、平らな道に導いてください。」(27)
「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み、わたしの神よ、あなたに依り頼みます。」(25)
「わたしは信じます、命あるものの地で主の恵みを見ることを。」(27)
「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し、『あなたこそわたしの神』と申します。(31)
「どのようなときにも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。」(34)
「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを」(27)
「わたしは、深い慈しみをいただいて、あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し、あなたを畏れ敬います。主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き、まっすぐにあなたの道を歩ませてください。」(5)
「命ある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家に帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」(23)
「わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み、あなたの大いなる教えを胸に刻み、大いなる集会で正しい良い知らせを伝え、決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存知です。恵みの御業を心に秘めておくことなく、大いなる集会であなたの真実と救いを語り、慈しみとまことを隠さずに語りました。」(40)
「わたしは主に無垢であろうとし、罪から身を守る。」(18)
「無垢であろうと努め、まっすぐ見ようとせよ。平和な人には未来がある。」(37)
「あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら、そのことがわたしを守ってくれるでしょう。」(25)
「無垢な人の生涯を、主は知っていてくださる。彼らはとこしえに嗣業を持つであろう。」(37)
「どうか、無垢なわたしを支え、とこしえに、御前に立たせてください。主をたたえよ、イスラエルの神を、世々とこしえに。アーメン、アーメン。」(41)
出典:ダビデ「詩編」
   日本聖書協会「聖書」
   1988年発行


第二章 ソロモンの智慧・・・・・『知恵について』
「知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか。高い所に登り、道のほとり、四つ角に立ち、城門の傍ら、町の入り口、城門の通路で呼ばわっている。『人よ、あなたに向かって私は呼びかける。人の子らに向かって私は声をあげる。浅はかな者は熟慮することを覚え、愚か者は反省することを覚えよ。聞け、わたしは指導者として語る。わたしは唇を開き、公平について述べ、わたしの口はまことを唱える。わたしの唇は背信を忌むべきこととし、わたしの口の言葉は正しく、よこしまなことも曲がったことも含んでいない。理解力がある人には、それがすべて正しいと分かる。知識に到達した人には、それがすべてまっすぐであると分かる。銀よりもむしろ、わたしの諭しを受入れ、精選された金より、知識を受け入れよ。知恵は真珠にまさり、どのような財宝も比べることはできない。
 わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている。主を畏れることは、悪を憎むこと。傲慢、驕り、悪の道、暴言をはく口を、わたしは憎む。わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力を持つ。わたしによって王は君臨し、支配者は正しい掟を定める。君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆、わたしによって治める。わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。わたしのもとには富と名誉があり、すぐれた財産と慈善もある。わたしの与える実りは、どのような金、純金にもまさり、わたしのもたらす収穫は、精選された銀にもまさる。慈善の道をわたしは歩き、正義の道をわたしは進む。わたしを愛する人は嗣業を得る。わたしは彼らの倉を満たす。』」(8)
「いかに幸いなことか、知恵に到達した人、英知を獲得した人は。知恵によって得るものは、銀によって得るものにまさり、彼女によって収穫するものは金にまさる。真珠よりも貴く、どのような財宝も比べることはできない。右の手には長寿を、左の手には富と名誉を持っている。彼女の道は喜ばしく、平和のうちにたどって行くことができる。彼女をとらえる人には、命の木となり、保つ人は幸いを得る。」(3)
「『わが子よ、わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして、知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら、分別に呼びかけ、英知に向かって声を上げるなら、銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら、あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するだろう。知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。主は正しい人のために力を、完全な道を歩く人のために盾を備えて、裁きの道を守り、主の慈しみ生きる人の道を見守ってくださる。またあなたは悟るであろう、正義と裁きと公平はすべて幸いに導く、と。知恵があなたの心を訪れ、知識が魂の喜びとなり、慎重さがあなたを保ち、英知が守ってくれるので、あなたは悪い道から救い出され、暴言をはく者を免れることができる。』」(2)
「わたしも父にとっては息子であり、母のもとでは、いとけない独り子であった。父はわたしに教えて言った。『わたしの言葉をお前の心に保ち、わたしの戒めを守って、命を得よ。わたしの口が言い聞かせることを、忘れるな、離れるな。知恵を獲得せよ、分別を獲得せよ。知恵を捨てるな、彼女はあなたを見守ってくれる。分別を愛せよ、彼女はあなたを守ってくれる。知恵の初めとして、知恵を獲得せよ。これまでに得たものすべてに代えても、分別を獲得せよ。知恵をふところに抱け、彼女はあなたを高めてくれる。分別を抱きしめよ、彼女はあなたに名誉を与えてくれる。あなたの頭に優雅な冠を戴かせ、栄冠となってあなたを飾る。』」(4)
「知恵は巷に呼ばわり、広場で声をあげる。雑踏の街角で呼びかけ、城門の脇の通路で語りかける。『いつまで、浅はかな者は浅はかであることに愛着を持ち、不遜な者は不遜であることを好み、愚か者は知ることをいとうのか。見よ、立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら、見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、わたしの言葉を示そう。』」(1)
「知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え、はしためを高い所に遣わして、呼びかけさせた。『浅はかな者は誰でも立ち寄るがよい。』意志の弱い者にはこう言った。『わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい、浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために』(9)
「わたしはあなたに知恵の道を教え、まっすぐな道にあなたを導いた。歩いても、あなたの足はたじろがず、走っても、つまずくことはないであろう。諭しをとらえて放してはならない。それを守れ、それはあなたの命だ。」(4)
「わが子よ、密を食べて見よ、それは美味だ。滴る密は口に甘い。そのように、魂にとっては美味だと知れ。それを見いだすなら、確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない。」(24)
「知恵に『あなたはわたしの姉妹』と言い、分別に『わたしの友』と呼びかけよ。」(7)
「知恵を得ることは金にまさり、分別を得ることは銀よりも望ましい」(16)
「主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め。」(9)
「神に従う人の結ぶ実は命の木となる。知恵ある人は多くの魂をとらえる。」(11)
「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」(4)
「あなた自身の井戸から水を汲み、あなた自身の泉から湧く水を飲め。」(5)
「神に従う人の道は輝き出る光、進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。」(4)
「愚か者が代金を手にしているのは何のためか。知恵を買おうにも、心がないではないか。」
(17)
出典:ソロモン「箴言」
   日本聖書協会「聖書」
   1988年発行


第三章 ソクラテス=プラトンの智慧・・・・・『知恵について』 
「こんなふうに、快楽と快楽、苦痛と苦痛、恐怖と恐怖を、まるで貨幣でもあるかのように、大きいのと小さいのを交換するのは、徳を得るための正しい交換とは言えないだろう。そうではなくて、われわれがこれらすべてをそれを交換すべきただ一つの真正な貨幣があるだろう。知恵こそ、それなのだ。そして、もしすべてがそれを得るために、あるいは、それを用いて売買されるなら、そのときこそ真の勇気、節制、正義、一言にしていえば真の徳が存在するのだ。真の徳は知恵を伴うのであて、快楽、恐怖、その他、すべて、そういうものが加わろうが、とり去られようが、それは問題ではない。しかしこれらが、知恵からきり離されて、相互のあいだで交換されるなら、そのような徳は、いわばまさに絵に描いた餅にすぎないのであり、まさに奴隷の徳であり、なんらの健全さ真実も含まないであろう。真の徳とは、節制であり、正義であり、勇気であれ、すべて、そのような情念からの、まさに浄化(カタルシス)であって、知恵こそこの浄めの役を果たすのではないか。』」(13)
「浄化(カタルシス)とは、さっきから論じられてきたように、魂をできるだけ肉体からきり離し、そして、魂が肉体のあらゆる部分から自分自身へと集中し、結集して、いわば肉体の縛めから解放され、現在も、未来も、できるだけ純粋に自分だけになって生きるように魂を習慣づけることを意味するのではないか」(12)
「魂が純粋に自分だけで何かを考察する場合には、魂は、あの純粋で永遠で不死で不変な存在へとおもむき、そして、そのような存在と同族であるがゆえに、常にそれとともにあるのではないか、魂が純粋に自分だけとなり、そうなるのが可能であるかぎりはね。そして魂は、もはや、さまようことをやめ、あの真実在との関係にあってはつねに同一不変な状態を保つのではないか。なぜなら魂は、まさにそのような存在に触れているのだから。で、魂のこの体験こそ知恵と呼ばれるものではないか。」(27)
「魂の解放こそ哲学の仕事であるのに、その解放のさなかに自分を勝手に快楽や苦痛にゆだねてもう一度肉体に縛りつけ、せっかく織った布をまたほどくペネロペのように、実りなき仕事をしなければならぬなどとは、考えないだろう。いや、そういった情念にわずらわされない平和を得、思惟にしたがってつねにそのなかに休らい、真実なもの、神的なもの、たんなる憶測の対象でないものを見、それに養われて生きているかぎりこのように生きなければならぬと考えるのだ。」(34)
「われわれの言うところでは、魂の解放を最も熱望するのが真の哲学者であり、と言うよりも、彼らのみがそれを熱望するものであり、哲学者の仕事とはまさにそのこと、すなわち、魂の肉体からの解放にほかならない。そうではないか。」(12)
「学を愛する人たちは、次のことに気づくのだ。哲学が自分たちの魂をあずかろうとするばあい、魂はどうしようもないほどに肉体に縛りつけられ、膠着させられてしまっており、事物を考察するにも、まるで牢獄の格子をとおしてのように、肉体をとおして見ることを余儀なくされ、自分たちだけでは自由に見ることができずに、そのため、まったく無知のなかに落ちこんでいるということに。そして哲学は、この肉体という牢獄の巧妙さを知っているのだということにね。この牢獄は人間の肉体的欲望を利用することによって、とらわれている者自身がすすんで自分を束縛することに、できるだけ協力するような仕組みになっているのだ。こうしてぼくの言うように、学を愛する人たちは気づくのだ、哲学こそはそのような状態にある自分たちの魂をとりあげて、やさしく慰め、その解放に努力してくれるものだということに。哲学は、肉眼による考察も、耳も他の感覚による考察も、すべて偽りにみちたものであることを示して、どうしてもそれらの感覚を使わなくてならないばあい以外はそれらから離れているようにと説得する。そして、魂が自分自身に集中し、沈潜して、自分自身以外の何ものも信頼せず、純粋に自分自身で純粋な「そのもの」を直観したときにだけこれを信じて、これに反してさまざまな事物のなかにあって異なった形をとるものを、自分以外のものを用いて考察するばあいには、そのような対象をけっして真実なものであるとしてはならぬ、そのようなものは感覚的な可視的なものであり、それに対し、魂が自分だけで見るものが叡智的な不可視的なものだと、教えてくれる。こうして真の哲学者の魂は、このような解放に対してけっして反対すべきではないと考え、そのゆえに、快楽や欲望や苦痛からできるかぎり離れるのだ。」(33)
「肉体のことだけに気をとられていないで、自分自身の魂のことを少しでも心にかかえて生きる人たちは、いま述べてきたような人たちのすべてに別れを告げるのだ。彼らは、自分たちがどこへ行くのかわかっていないような人たちとはたもとを分かち、みずから、哲学に反することはなすべきでないと、哲学の与える解放と浄化(カタルシス)に反することはなすべきでないという信念のもとに、哲学にしたがい、哲学の導くままに進んで行くのだ。」(32)
「魂が清浄な状態で肉体を離れる場合を考えてみよう。この魂は肉体的なものは何一つ、ひきずっていない。これは、魂が一生のあいだ、自分からすすんで肉体と協同したことはなく、肉体を避けて、自分自身に集中してきたからであり、このことをいつも練習してきたからである。これこそ、真に哲学することであり、真の意味で平然と死ぬことを練習することにほかならない。それとも、これは死の練習とは言えないだろうか。」(29)
「神々の種族へは、哲学を学んで、まったく浄らかなさまで世を去った者以外は、入ることを許されない。学を愛する者のみがそれを許されている。このゆえにこそ、シミアスとケベス、真の哲学者たちはすべての肉体的欲望から離れ、かたく身をまもって、それらの欲望のおもむくままにはならないのであって、財を愛する人たちのように財産をなくして貧乏になることを恐れるゆえにではない。また、彼らは、権力や名誉を愛する人たちのように悪しき生活にともなう不名誉や不評判を恐れるゆえにそれから離れているのでもない。」(32)
「彼ら自身のうち、とくに哲学によってじゅうぶんに身を浄めた人たちは、以後はまったく肉体なしに生き、ほかの人たちよりもいっそう美しい住家にいたるのだ。その住家がどのようなものであるかを明らかにすることは、容易なことではないし、いまはもう、その時間もない。しかし、いままで述べてきたようなわけで、シミアス、われわれはこの人生において、徳と知恵とにあずかるために、できるだけのことをしなければならないのだ。なぜなら、報われるところはすばらしく、希望には大なるものがあるのだから。」(62)
「哲学こそ最大の文芸であり、僕はそれをしていたのだから。」(4)
出典:プラトン「パイドン」
   中央公論社「プラトンⅠ」
   昭和44年4月20日初版印刷、昭和44年4月30日初版発行


第四章 アリストテレスの智慧・・・・・『知性について』
「ところで、幸福とは卓越性に即しての活動であるとするならば、当然それは、最高の卓越性に即しての活動たるべきであろう。最高の卓越性とは、しかるに、『われわれのうちなる最善なるもの』の卓越性でなくてはならない。それゆえ、これが知性(ヌース)であるにせよ、またそれ以外の何ものかであるにせよ、いずれにしても、その本性上、支配指導する位置にあり、うるわしきもの・神的なるものについての想念を持つと考えられるところのもの――こうしたものの、その固有の卓越性の即しての活動が、究極的な幸福たるのでなくてはならぬ。それが観照的な活動にほかならないことは既に述べられた。
 このことは既述のところに対してのみならず、ことがらの真にも合致すると考えられるのである。なぜかというに、この活動はわれわれの最高の活動である。知性はわれわれのうちに存在する最高のものであるし、知性にかかわるところのものは知識されるものの最高のものなのだからである――。さらにまた、それは最も連続たりうる。すなわち、観照(テオレイン)することはいかなる行為よりも連続的に行うことの可能なものなのである――。また幸福には快楽の混在が必要であるとされている。だが、卓越性に即してもろもろの活動のうちでも、最も快適なのは、万人の同意するところ、智慧(ソフィア)に即しての活動にほかならない。おもうに、やはり哲学(フィロソフィア=愛智)というものはその純粋性と安定性との点で驚嘆するに足る快楽を含んでいると考えられる。だが、智慧を求める営みよりも、すでに認識を有するひとの、その上に立った営みのほうが、いっそう快適であるのが当然であろう―。また自足性の最も多分に存するのは観照的な活動になくてはならない。もちろん、生に必須なもろもろの事物は、智者(ホ・ソフォス)も、正しきひとも、その他いかなるひとびともこれを要することは事実である。だがこのような事物に事欠かないとした場合、正しきひとならば、そこに、やはり正しい行為をなすべき相手のひとびとや、それを共にすべきひとびとを必要とするのであるし、節制的なひととか、勇敢なひととか、その他もまたそれぞれこれと同様であるのに対して、智者の場合は、たとえ自分だけでいても観照的な活動を行うことができるのであり、それも、智者であればあるほど、ますます然りである。はたらきを共にするひとびとを有しているならばおもうにいっそういいであろうが、それでもはやり、かかる活動を行うところのひとは最も自足的たることを失わないのである――。また、この活動のみがそれ自身のゆえに愛されると考えられるであろう。まことに、この活動から観照(テオーレイン=観る)という活動それ自身以外何もの生じないのであるが、これに対して実践的な活動からは、われわれは多かれ少なかれ行為そのもの以外に獲るところがあるのである――。また、幸福は閑暇(スコレー)に存すると考えられる。けだしわれわれは、閑暇をもたんがために忙殺(アスコレイン)されるのであり、平和ならんがために戦争を行う。いったい実践的なものもろの卓越性(徳)の現実の活動は政事とか軍事とかの領域において行われるものだと考えられるが、これらの領域についてのわれわれの営みは、いっそう非閑暇的な性質を有しているのであって、殊に軍事的な営みのごときは完全にそうである。政治家の営みも非閑暇的な性質を有しているし、のみならずそれは、政治するということそれ自身とは別に、覇権とか、名誉とかないしはまた『自分自身や国民にとっての幸福』――これは政治的活動そのものとは別のものであり、われわれの探求においてもいうまでもなくこれとそれとは別のことがらとみている――を獲得せんとするものにほかならない。かくしていま、もろもろの卓越性に即しての営みのうち、政治的とか軍事的なそれは、たとえうるわしさや規模においては優越してはいても、非閑暇的であり、或る目的を希求していてそれ自身のゆえに望ましくあるのではないのに対して、知性の活動は――まさに観照的なるがゆえに――その真剣さにおいてまさっており、活動それ自身以外はいかなる目的も追求せず、その固有の快楽を内蔵していると考えられ、かく、自足的・閑暇的・人間に可能なかぎり無疲労的・その他およそ幸福なひとに配されるあらゆる条件がこの活動に具備されているものなることが明らかなのであってみれば、当然の帰結として、人間の究極的な幸福とは、まさしくこの活動でなくてはならないだろう。この活動は、かくして、生涯の究極的な長さにおよぶことを要する。けだし、幸福を構成するいかなる条件も非究極的であってはならないからである――。
 もとより、かような生活は人間の水準を超えた生活であるに相違ない。なぜなら、人がかかる生活を営みうるのは、彼が人間たるかぎりにおいてではなく、かえって神的な何ものかが彼のうちに存するかぎりにおいてなのであって、この神的なものが複合的な人間にまさっているまさしくそれだけ、この活動も他の卓越性の即しての活動にまさっている。したがって、知性は、人間を超えて神的なものであるとするならば、知性に即しての活動にもっぱらな生活もまた、『人間的な生活』を超えて『神的な生活』であるとしなくてはならない。ひとは、しかしながら、『ひとなればひとのことを、死すべきものなれば死すべきもののことを知慮するがよい』という勧告に従うべきでなく、できるだけ不死にあやかり、『自己のうちなる最高の部分』に即して生きるべくあらゆる努力を怠ってはならない。それは、嵩こそ小さいが、能力や尊貴性においては遥かにすべてに優越しているのであるから――。また、このものが、われわれにおける支配的なものであり、よりよきものなのであってみれば、各人はこのものであるとさえ考えられてよい。もしひとが彼自身の生活であるところのものを選ぶのではなくそれ以外の生活を選ぶのであっては、まさにおかしいことというべきであろう。
 そうして、以前にいったことがいまの場合にも適合するであろう。すなわち、それぞれのものに本性的に固有なものが、それぞれのものにとって最も善きもの、また最も快適なものなのである。ところで人間に固有なのは、知性に即しての生活にほかならない。まことに、人間は、彼のうちにおける他のいかなるものよりも、このものであるわけなのだから――。したがって、こうした生活が、また最も幸福な生活たるのでなくてはならない。」(第七章)
出典:アリストテレス「ニコマコス倫理学」
   岩波文庫「ニコマコス倫理学(下)」173~177頁
   1973年2月16日第1刷発行、1993年11月5日第30刷発行


第五章 エピクロスの智慧・・・・・『哲学(知恵の愛求)について』
「人はだれでも、まだ若いからといって、知恵の愛求(哲学)を延び延びにしてはならず、また年取ったからといって、知恵の愛求に倦むことがあってはならない。なぜなら、なにびとも、霊魂の健康を得るためには、早すぎるも遅すぎるもないからである。また知恵を愛求する時期ではないだの、もうその時期が過ぎ去っているのだという人は、あたかも、幸福を得るのに、まだ時期がきていないだの、もはや時期ではないのだという人と同様である。それゆえ、若いものも、年老いているものも。ともに、知恵を愛求せねばならない。年老いたものは、老いてもなお、過去を感謝することによって、善いことどもに恵まれて若々しくいられるように、若いものはまた、未来を恐れないことによって、若くして同時に老年の心境にいられるように。そこでわれわれは、幸福をもたらすものどもに思いを致せねばならない。幸福が得られていれば、われわれは全てを所有しているのだし、幸福が欠けているなら、それを所有するために、われわれは全力を尽くすのだから。
 さて、わたしが君にたえず説き勧めてきたことを、それこそが美しく生きるための基本原理であると理解して、習い行うべきである。まず第一に、神についての共通な観念として人々の心に銘されているとおり、神は不死で至福な生者である、と信じ、神の不死性に縁遠いものや、至福性には不似合いなものを神におしつけることなく、かえって、神の至福性と不死性とを保持することのできるものをことごとく、神のものと考うべきである。というのは、神々は確かに存在してはいる、なぜなら、神々についての認識は、明瞭であるから。しかし、神々は、多くの人が信じているようなものではない、というのは、多くの人々は、かれらが一方で神々についてもっている考えを他方では捨てているからである。そこで多くの人々が信じている神々を否認する人が不敬虔なのではなく、かえって、多くの人々がいだいている臆見を神々におしつける人が不敬虔なのである。というのは、多くの人が神について主張するところは、先取観念ではなく、偽りの想定であって、それによると、悪人には最大の禍いが、いや最大の利益さえもが、神々からふりかかるというのだからである。けだし、神々は、つねにかられ固有の徳にしたしんでいるので、かれら自身と類似した人々を受け入れ、そうでないものはみな、縁遠いものと考えるのである。(中略)
つぎに熟考せねばならないのは、欲望のうち、或るものは自然的であり、他のものは無駄であり、自然的な欲望のうち、或るものは必須なものであるが、他のものはたんに自然的であるにすぎず、さらに、必須な欲望のうち、或るものは幸福を得るために必須であり、他のものは肉体の煩いのないことのために必須であり、他のものは生きることそれ自身のために必須である、ということである。これらの欲望について迷うことのない省察が得られれば、それによって、われわれは、あらゆる選択と忌避とを、身体の健康と心境の平静とへ帰着させることができる。けだし身体の健康と心境の平静こそが祝福ある生の目的だからである。なぜなら、この目的を達するために、つまり、苦しんだり恐怖をいだいたりすることがないために、われわれは全力をつくすのだからである。ひとたびこの目的が達せられると、霊魂の嵐は全くしずまる。そのときにはもはや、生きているものは、何かかれに欠乏しているものを探そうとして歩きまわる必要もなく、霊魂の善と身体の善を完全に満たしてくれるようなものを何か別に探し求める必要もないのである。なぜなら、快が現に存しないために苦しんでいるときにこそ、われわれは快を必要とするのであり、苦しんでいないときには、われわれはもはや快を必要としないからである。まさにこのゆえに、われわれは、快は祝福ある生の始めであり終りである、と言うのである。というのは、われわれは、快を、第一の生れながらの善と認めるのであり、快を出発点として、われわれは、全ての選択と忌避をはじめ、また、この感情を規準として全ての善を判断することによって、快へと立ち帰るからである。(中略)
つぎに、自己充足を、われわれは大きな善と考える、とはいえ、どんな場合にも、わずかなものだけで満足するためにではなく、むしろ、多くのものを所有していない場合に、わずかなものだけで満足するためにである。つまり、ぜいたくを最も必要としない人こそが最も快くぜいたくを楽しむということ、また、自然的なものはどれも容易に獲得しうるが、無駄なものは獲得しにくいということを、ほんとうに確信して、わずかなもので満足するためになのである。質素な風味も、欠乏にもとづく苦しみがことごとく取り除かれれば、ぜいたくな食事と等しい大きさの快をわれわれにもたらし、パンと水も、欠乏している人がそれを口にすれば、最上の快をその人に与えるのである。それゆえぜいたくでない簡素な食事に慣れることは、健康を十全なものとするゆえんでもあり、また、生活上果たさねばならない用務にたいして人間をためらわずに立ち向かわせ、われわれがたまにぜいたくな食事に近づく場合に、これを楽しむのにより適した状態にわれわれを置き、また、運にたいして恐怖しないようにするゆえんである。
それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、――一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとはちがって、――道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(霊魂の平静)ことにほかならない。けだし、快の生活を生み出すものは、つづけざまの飲酒や宴会騒ぎでもなければ、また、美少年や婦女子と遊びたわむれたり、魚肉その他、ぜいたくな食事が差し出すかぎりの美味美食を楽しむたぐいの享楽でもなく、かえって、素面の思考(ネーボーン・ロギスモス)が、つまり、一切の選択と忌避の原因を探し出し、霊魂を捉える極度の動揺の生じるもととなるさまざまな臆見を追い払うところの、素面の思考こそが、快の生活を生み出すのである。
ところで、これらすべての始源であり、しかも最大の善で在るのは、思慮である。このゆえに、思慮は知恵の愛求よりもなお尊いのである。思慮からこそ、残りの徳のすべては由来しているのであり、かつ、思慮は、思慮ぶかく美しく正しく生きることなしには快く生きることもできず、快く生きることなしには思慮ぶかく美しく正しく生きることもできない、と教えるのである。というのは、残りの徳はみな快く生きることと由来をともにしているのであり、快く生きることは、それらの徳から離すことができないからである。(中略)
それゆえ、以上のこと、そのた同類のことについて、君は、自分ひとりで、また、同好の友といっしょに、昼も夜も、思いをいたすべきである。そうすれば、君は、目覚めているときも眠っているときも、決して霊魂の動揺することなく、人間のあいだで神のごとく生きることになろう。なぜなら、不死なる諸善のただなかで生を送る人間は、可死的な生をもつものとは、いささかも、似るとろこがないからである。」(「メノイケウス宛の手紙」)
(心境の平静)
「正しい人は、最も平静な心境にある、これに反し、不正な人は極度の動揺に満ちている。」(「主要教説」17)
「正義の最大の果実は、心境の平静である。」(「断片(その二)80」)
「平静な心境の人は、自分自身にたいしても他人にたいしても、煩いをもたない。」(「断片(その一)79」)
「幸福と祝福とは、財産がたくさんあるとか、地位が高いとか、何かの権勢だのがあるとか、こんなことに属するのではなく、悩みのないこと、感情の穏やかなこと、自然にかなった限度を定める霊魂の状態、こうしたことに属すのである、」(「断片(その二)85」)
(自己充足)
「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福かけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。」(「断片(その一)」33)
「自己充足の最大の果実は自由である。」(「断片(その一)77」)
「自己充足は、あらゆる富のうちの最大のものである。」(「断片(その二)70」)
「明日を必要としない者が、最も快く明日に立ち向かう。」(「断片(その二)」78)
(哲学)
「真の哲学への愛によって、平静な心境を乱すやっかいな欲望は、ことごとく解消される。」(「断片(その二)66」)
「アベレスよ、わたしは君を祝福する、君はあらゆる汚染から浄められて、哲学の研究に向かったのだから。」(「断片(その二)」24)
「人間のどんな悩みをも癒さないようなあの哲学者の言説はむなしい。というのは、あたかも、医術が身体の病気を追い払わないならば、何の役にも立たないように、そのような哲学も、もし霊魂の悩みを追い払わないのならば、何の役にも立たないからである。」「断片(その二)54」
「われわれは、哲学を研究しているように装うべきではなくて、真に哲学を研究すべきである。なぜなら、われわれが必要とするのは、健康であるようにみえるということではなく。真の意味で健康であると言うことなのであるから。」(「断片(その一)」54)
「その他の仕事の場合には、それが完了したときに、はじめて成果が得られるのであるが、哲学研究の場合には、その喜ばしさは、認識のすすむのといっしょに進む。というのは、学び知ったのちに楽しさがあるのではなくて、学び知ってゆくことと楽しさが同時的だから。」(「断片(その一)27」)
「最大の善については、それが生じるのと、われわれがそれを楽しむのとは、同じである。」(「断片(その一)42」)
「われわれの生れたのは、ただ一度きりで、二度と生まれることはできない。これきりで、もはや永遠に存しないものと定められている。ところが、君は、明日の主人でさえないのに、喜ばしいことをあとまわしにしている。人生は延引によって空費され、われわれはみな、ひとりひとり、忙殺のうちに死んでゆくのに。」(「断片(その一)」14)
「人類の目的をかち得ている人は、だれもそこにいないときにも、いつもと同じように善い人である。」(「断片(その二)」83)
出典:エピクロス「メノイケウス宛の手紙」「主要教説」「断片(その一)」「断片(その二)」
   岩波文庫「エピクロス」
   1959年4月25日第1刷発行、1996年7月8日第27刷発行


第六章 セネカの智慧・・・・・『哲学(英知への愛)について』
(自分)
「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」(第七五)
「ごらんなさい。賢者がどんなふうに自分自身に満足しているかを。」(第九)
「賢者でなければ自己自身のもっているものに満足しません。自分自身を軽視することによって苦労するのです。」(第九)
「賢者は満ち足りているのです。たとえ何かが起こっても、別に気にも止めずそれを受け取って、側へ置くだけです。賢者の受ける楽しみは極めて大きく、永続するものであり、しかも真に自分自身のものです。」(第七二)
「幸福な生活の原因や支柱である唯一の善は、自分自身を信頼することです。」(第三一)
「不朽の喜びをもちたいと思う者は、真に自分自身を楽しまねばなりません。」(第七二)
「自分自身の内から生じた喜びは確固にして不動であり、またますます力を増し、最後に至るまで本人に随行します。」(第九八))
「自分自身をもっている者は何も失いませんでした。しかし、自分自身をもつことに成功する者は、何と少ないことでしょう。」(第四二)
「出来るだけ長い間自分自身と一緒にいるのは、人が自分自身を楽しむに値するものとしたときは、快いことです。」(第五八)
「『君は、わたしが今どんな利益を受けたかを尋ねるのかね。わたしは自分自身と友達になり始めたのだ。』彼は沢山の利益を受けたのです。」(第六)
「人生は充実しておれば長いものです。しかし、それが充実するのは、心がその本来の善を自らに与え、それ自らの支配力を自らに及ぼすときです。」(第九三)
「われわれの心すべきことは、すべての時間はわれわれのものである、ということです。しかしこのことは、まずそれ以前に、われわれ自身がわれわれのものになり始めなければ不可能です。一体われわれはいつ幸・不幸いずれの運命をも軽蔑することに成功するのでしょうか。いつわれわれはあらゆる欲情を抑え付け、われわれ自身の支配下に置いて、『われ勝てり』という言葉を発することに成功するのでしょうか。」(第七一)
「何に喜ぶべきかを知り、自己の幸福を他のものの支配の下においていない者は、すでに頂上に達しています。」(第二三)
「もし心が自分自身に満足し、自分自身を信頼し、さらに、死すべき人間どものあらゆる願望も、与えられ求められる恩恵も、それらはすべて、幸福な生活においては何ら価値をもっていないことを知るならば、それが健康だと僕は考えます。」(第七二)
「君を善にすることが出来るものは、すべて君自身のうちにあるのです。君が善になるためには、何が君に必要でしょう。善を望むことです。」(第八〇)
「どんな運命よりも強力なものは心であって、心自らの力で自らの行状を善悪いずれの方面にも導き、自らの幸福、あるいは不幸な人生の原因だからです。」(第九八))
「心のみがわれわれを高貴にします。心はどんな境遇からでも、運命を飛び越えて成長することが出来るのです。」(第四四)
「心が大きなものになるには、自らが外的なものを切り放し、何ものをも恐れることなしに自らに平和をもたらし、何ものをも求めることなしに自らに財を作ったとき以外のときでは決してありません。」(第八七)
「心がいつも君の役に立っているならば、君は諭し教え、聞き学び、探求し回想するでしょう。そのうえ何が必要でしょう。」(第七八)
「心の平静のためには場所は大して関係はありません。心こそ、あらゆるものを自らのために楽しくすべきものです。」(第五五)
「真の安静とは、その中において健全な精神が解き離れた境地です。」(第五六)
「とにかく、心の平静のうちには不安はありません。」)
「どんな方法でわれわれは、この不安動揺から遠ざかれるのでしょうか。唯一つの方法があります。ただし、われわれの生活が将来に進み出るのではなく、それ自体に集中する場合です。」(第一〇一)
「もしわれわれが何時かこのような汚泥から脱して、あの荘厳にして卓越した高みに登るならば、そこには心の平安がわれわれを待っているとともに、もろもろの過ちが駆逐されたときは、完全な自由が待っています。この自由が何かをお尋ねですか、それは人間をも、神々をも恐れないことです。不品行も過度も望まないことです。自分自身のうちに最高の力をもつことです。自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」(第七五)
「ああ、君はいつあの時を体験し得るのでしょうか。つまりそれは、時間が君には無関係だと分かる時であり、また君が平静で温和である時であり、しかも君は最高に満ち足りていているので、明日には関心のない時です。」(第三二)
(喜び)
「喜びは君自身の内部にありさえすれば生じます。もろもろの他の面白おかしい喜びは心を満たしません、相好をくずさせるだけです。多分、笑う者が喜ぶ者だとでも考えない限り、それらは軽薄なものです。心こそ楽しく、自信を持ち、すべてのものに超然として立ち続けねばなりません。」(第二三)
「なかんずく君にしてもらいたいことがあります。それは、喜ぶことを学べ、ということです。」(第二三)
「僕の言うことを信じてください。真の喜びは厳粛なものです。」(第二三)
「この大きな喜びを君にもってもらいたいと僕は望むのです。ひとたび、その出どころを見付ければ、それは決して君は見捨てないでしょう。」(第二三)
「僕の語る喜び、つまり君をそこに案内しようと思っている喜びは堅固なものですが、中に入れば入るだけ、ますます先が開けてきます。」(第二三)
「賢者の喜びはしっかりと編み合わされていて、どんな原因によっても、どんな運命によっても引き裂かれることはなく、常に、また何処でも平静です。」(第七二)
「賢者というものは喜びでいっぱいであり、活気に満ち、また柔和で、しかも不動です。彼は神々と同等に生きています。」(第五九)
「賢者は満ち足りているのです。たとえ何かが起こっても、別に気にも止めずそれを受け取って、側へ置くだけです。賢者の受ける楽しみは極めて大きく、永続するものであり、しかも真に自分自身のものです。」(第七二)
「不朽の喜びをもちたいと思う者は、真に自分自身を楽しまねばなりません。」(第七二)
「自分自身の内から生じた喜びは確固にして不動であり、またますます力を増し、最後に至るまで本人に随行します。」(第九八))
「何に喜ぶべきかを知り、自己の幸福を他のものの支配の下においていない者は、すでに頂上に達しています。」(第二三)
「精神があらゆる汚れから清められて輝くとき、その精神の思索から得られる楽しみは、また格別のものです。今でも覚えておられるでしょうが、君が子供服を脱いで大人の着物を着、大広場に連れて行かれたとき、どんなに喜びを感じたことでしょう。しかし子供の心を捨て、哲学が君を大人の世界に移し入れたときには、もっと大きな喜びを期待してよいでしょう。」(第四)
「それゆえ思い出してください――英知の結果はこれ、すなわち喜びが常に一様であるということを。賢者の心と言えば、月の上方に広がる天空のごときものです。そこには、常に晴朗な大気があるのです。ですから、賢者には喜びのないことが絶対にないとすれば、賢者であることを望むのは当然理由があることです。」(第五九)
(幸福)
「幸福な生活の原因や支柱である唯一の善は、自分自身を信頼することです。」(第三一)
「幸福な生活とは何ですか。それは心の落ち着きと不断の平静です。」(第九二)
「幸福な生活の総体は確固たる平静と、揺るぎない自信でありますが、しかし人々は不安の原因を拾い集め、危険な人生の道を歩みながら、単に重荷を運ぶのみならず、それを自分たちの方に引き寄せているのです。」(第四四)
「君は或ることについてそんなに憤たり、あるいは不平を言っていますが、それらのうちには、この一事、つまり君が憤り、かつ不平を言っているということ以外には、何一つ悪いことはないのではありませんか。もしお尋ねでしたら、僕はこう考えていると申します――この自然の領域には、一人の人間が不幸と考えることがない限り、彼にとって何一つ不幸なことはない――と。」(第九六)
「賢者の幸福は心の内のものです。」(第七二)
(哲学)
「『この道は天の星に通ずるや。』実際、哲学が僕に約束しているのは、僕を神に匹敵させることです。このために僕は招かれ、このために僕は来たのです。哲学よ、約束を守ってください。」(第四八)
「精神のすべてを哲学に向け、その足下に座しそれを敬慕しなさい。すると、大きな間隔が君と他人との間に出来るでしょう。あらゆる人間どもを君は遥か遠くに追い越すでしょう。いや、神々でさえも君をそれほど遠くに追い越していないでしょう。」(第五三)
「僕が立ち上がり、回復したのは一に哲学の賜だと思います。僕の生は哲学のおかげであり、しかも偏に哲学のおかげです。」(第七八)
「君に出来る限り、哲学に戻るべきです。哲学はその胸に君を抱いて保護するでしょう。」(第一〇三)
「『君は哲学に仕えねばならぬ――真の自由が君に与えられるために。』哲学に自己を委ね託する者は拘留されることはありません。彼は直ちに釈放されます。というのは、哲学に仕えることそれ自体が、自由だからです。」(第八)
「哲学が至る所でわれわれをどれほど励ましてくれるか、またキケロの言葉を借りれば、哲学は最大の事柄において如何にわれわれを助け、同時に最小の事柄にまでも降ってくるかを、君はまだご存知ないのです。どうか僕を信じ、哲学を相談相手に招きなさい。」(第十七)
「ところで、われわれを目覚ますのは哲学だけでしょう。これのみが深い夢を振り払うでしょう。哲学に君のすべてを捧げなさい。君は哲学に適していますし、哲学も君に適しています。互いに抱き合ってください。その他の事柄はすべて退けてください――勇敢に、断固として。」(第五三)
「『道は力で作られる。』そして、この道を君に与えるのは哲学でしょう。哲学の勉強に没頭しなさい――もし君が健康であり、心配がなく、幸福で有る事を望むならば。要するに、もし君が自由であること――これが最も重要なことですが――を望むならばです。これに到達するためには他の方法はありません。」(第三七)
「哲学の力は信じられないほど強力です。哲学の体の中には如何なる矢も刺さっていません。守りが固く、何ものをも突き通せないからです。哲学は或る矢の力は弱め、軽い矢でもあるかのごとく、自分の着物のゆったりとした襞でこれを避けるし、また或る矢は追い払い、それを射た者の方へそれを投げ返すのです。」(第五三)
「われわれは哲学で周りを囲まねばなりません。それは奪取し難い城壁で、運命がそれを沢山の兵器を持って攻撃しても越えられません。」(第八二)
「しかるに生活の技術を教えると自ら称するもの(哲学)は、如何なる状況によってもその働きを禁じられることはありません。なぜなら、それらはもろもろの妨害を打ち砕き、もろもろの障害を突破しているからです。」(第九五)
「死の影が見えてきても、哲学は人を晴れやかにし、肉体がどんな状態にあっても人を強くし、かつ喜ばしく、またたとえ肉体は衰えても、人を衰えさえることはありません。」(第三〇)
「他の薬は健康になってからの楽しみですが、哲学という薬は健康によいと同時に美味でもあります。」(第五○)
「善良な精神は、すべての人に開かれています。これに従えばわれわれはすべて高貴です。何人をも退けず、また選ばないのが哲学です。哲学はすべての人間に輝きます。」(第四四)
「もし哲学に何か善いことが別にあるとすれば、家柄を問わないことです。人間は誰でも、最初の起源に戻れば、みな神々から発しています。」(第四四)
「哲学者たちの一覧表を手に取ってごらんなさい。そうすること自体が君を強いて目覚めさせるでしょう――なんと多くの人たちが、君のために骨折っているかを見るならば。君も彼らの中の一人でありたいと熱望するでしょう。なぜなら、高貴なものに駆り立てられる最も善いものを、それ自らの中にもっているのは高邁な精神ですから。」(第三九)
「ローマの古い習わしで、現にわれわれの時代まで残っているものですが、手紙の始めに『貴下ますますお元気の段大慶に存じます。当方も元気に過ごしております。』という言葉を付けることです。われわれなら『貴下ますます哲学に御精進の段大慶に存じます』と付けるのが正しいでしょう。つまり『元気』というのは全くこういう意味ですから。哲学することがなければ心は病んでいるのです。」(第十五)
「英知と哲学はどこが違うかを申しましょう。英知は人間精神の完全な善です。哲学は英知への愛であり、またそれへの渇望です。哲学は、英知がすでに達したところに達しようと努めます。哲学がそう呼ばれる理由は明らかです。つまり哲学はその名称そのものによって、その愛の対象を表しているのです。」(第八九)
「哲学と英知の間には何らかの相違があることは、ほぼ確定しています。なぜなら、求められるものと求めるものが同じになることは不可能だからです。貪欲と金銭の間には大きな相違があります――前者は願い求め、後者は願い求められるものだからです。それと同じような相違が哲学と英知の間にもあります。つまり後者は前者の結果であり報酬です。哲学は道を行き、英知は道の終わりです。」(第八九)
「英知は幸福な状態に向かって進み、それに向ってわれわれを導き、それに向って道を開きます。」(第九〇)
「それゆえ思い出してください――英知の結果はこれ、すなわち喜びが常に一様であるということを。賢者の心と言えば、月の上方に広がる天空のごときものです。そこには、常に晴朗な大気があるのです。」(第五九)
「僕にとっては英知を熟考すること自体は、いつも多くの時間を奪い取ります。僕はそれを呆然として眺めますが、正に天空を眺める時と少しも変わりません。」(第六四)
「英知の最高の義務と証拠は、言葉と行動が調和を保つことであり、自己が何処においても自己自身と同等であり同一であることです。」(第二十)
「英知は平和を愛し、人類を和合に呼び寄せるのです。」(第九〇)
「英知の勉強に努めないならば、幸福に生きることも、あるいは生きることに我慢さえ出来る者はありません。」(第十六)
「しかもなお唯だ一つの真に自由な勉強があります。すなわち自由を創造する勉強です。それは英知に関する勉強であり、崇高で、強力で、しかも雅量のある勉強です。」(第八八)
「無知は低級なものであり、卑しく、下品で、卑屈で、様々な欲情、しかもきわめて残酷な欲情のとりこになります。このよう大変酷い主人であるもろもろの欲情は、時には交互に、また時には一緒になって命令を下しているのですが、それらを君から解き離すものは英知で、これのみが真の自由です。」(第三七)
「英知の原理は潜伏しています。あたかも宗教儀式の、なかんずく神聖な部分は、その宗教の奥義を伝授された者のみが知っているだけですが、それと同じように哲学における秘密も、その神聖な儀式に引き入れられ受け入れられた者たちにのみ開示されるのです。」(第九五)
(理性)
「理性のみが不変であり、その判断を固守します。理性は感覚の奴隷ではなく、その支配者ですから。理性が理性に等しいのは、直線が直線に等しいのと同じです。」(第六六)
「人間に独自なものは何でしょう。理性です。これが正しく、しかも完全であれば、人間の幸福は満たされることになります。」(第七六)
「この完全な理性が徳と呼ばれ、それがすなわち崇高なるものと同じです。」(第七六)
「人間の徳には、ただ一つの尺度が使われるだけです。正しく純粋な一つの理性があるだけですから。」(第六六)
「理性だけが人間を完全にするのですから、理性が完成されれば、それのみが人間を幸福にします。つまりこれが唯一の善であり、それによってのみ人間は幸福にされます。」(第七六)
「すなわち幸福な生活が基づくところはこの一事、つまり、われわれのうちにある理性が完全になるということです。なぜなら、完全な理性のみが精神を屈服させず、運命に対して厳として向かい立っているからです。人々の境遇がどんな状態にあっても、この理性は人々を安全に保ちます。しかも、これのみが決して破砕されることのない唯一の善です。」(第九二)
「君は理性的な生きものです。では、君のうちにはどういう善があるのでしょう。完全な理性です。君はこれをその究極まで呼び込みませんか――それが最大に発展することが出来る程度まで。」(第一二四)
(善)
「最高善のある場所はどこかとお尋ねですか。心です。」(第八七)
「この後者の部分に、人間のあの最高善がおかれています。そして、この善が十分に満たされないうちには、精神の不安定な動揺が止みません。それが十分に満たされたとき、精神の不動な安定が生じるのです。」(第七一)
「あの真の善は死滅しません。それは確実にして不変です、英知であり美徳です。これだけが滅ぶべきものどもに与えられている唯一の不滅のものです。」(第九八))
「最高の善は傷つけられも、大きくもされませんから。それは自らの境界のうちに、いつまでも存続します。」(第七四)
「善き人には唯一の善、すなわち崇高なものがあります。」(第七六)
「その善とは一体どういうものでしょう。すなわち、それは欠点のない清純な心であって神とも競い合い、人事をはるかに超越しており、自己以外の何ものをも自己とみなしません。」(第一二四)
「幸福な人生に達する最も勝れた方法は、崇高な善のみが唯一の善であるという信念をもつことに外なりません。」(第七四)
「君を善にすることが出来るものは、すべて君自身のうちにあるのです。君が善になるためには、何が君に必要でしょう。善を望むことです。」(第八〇)
「善の大部分は善人なろうとする意志です。」(第三四)
「われわれは眼前に最高善という目的を置いて、それを目当てに努力し、それを目当てにして、われわれの行うべきこと言うべきことのすべてを考慮しなければなりません。」(第九五)
「エピクロスの書物の中に二つの善のことがあります。その二つから、あの最高、ないし至福の善は形成されています。つまり苦痛のない体と、激情のない心です。これらの善は、十分に完全であれば、それ以上増大しません。十分なものが、どうして増大するでしょう。体に苦痛がないとすれば、この無苦痛に何が近寄れるでしょうか。心が変わらず平静であれば、この平穏に何が近寄れるでしょうか。」(第六六)
「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」(第七五)
(神)
「われわれの探し求むべきものは何かと言うに、それは抵抗し得ざる或る力の支配を毎日受けないもののことです。それは何でしょう。それは心ですが、それは正しい、善い、大きな心のことです。この心を、人間の肉体に宿る神という以外に何と呼ぶでしょうか。」(第三一)
「神には何も閉ざされていません。神はわれわれの心の間にあり、われわれの思考の真ん中に入って来ます。」(第八三)
「人々が神のところへ行くことを君は驚くのですか。神は人のところへ来ます。いや、それよりももっと近く、人の中に入って来ます。」(第七三)
「神は君の近くに、君と一緒に、君の内部にいるのです。」(第四○)
「どの善き人間にも『いかなる神かは知らねど、神が在ます。』」(第四○)
「神のいない精神は善き精神ではありません。神の種子が人間の体内にばら蒔かれているのです。これらの種子は、もし善き農夫がそれを受け取るならば、それらの始源と同様なものとなって現れ、それが発し来った源と同等なものに成長します。」(第七三)
「われわれは、この神の仲間であり、またその手足です。われわれの心は感受性が強く、悪徳がそれを抑え付けない限り、あの神的なものに運ばれて行きます。われわれの体の姿勢は直立していて、天を眺めていますが、それと同じように心も、自ら欲するだけ遠くに達することが出来て、結局は神々と同等であることを望むことになるように、自然の力によって造られているのです。」(第九二)
「『勇気と生気が体内に宿る者』、こういう人こそ、神々にも比せられ、自己の始源を覚えていて、そこに達しようと努めているのです。」(第九二)
「もし君の見た人間が、危険にあっても恐れることなく、欲望にも煩わされず、逆境にあっても幸福であり、嵐の真ん中にいても平静であり、またいっそう高い見地から人々を、また同等の見地から神々を眺める、そういった人間であるならば、そのような人に対する尊敬の念が、密かに君に近付かないでしょうか。君はこう言いませんか、『こういう心の態度は、その在り場所である、このちっぽけな肉体に似ていると考えるよりも、ずっと偉大な、ずっと崇高なものではないか。神的な力が、この人に天下ったのだ』と。(第四一)
「天上へは貧民窟からでも飛び上がってよいのです。ただ立ち上がり、『かつまたなんじを、神にふさわしき者に作り上げよ。』」(第三一)
「では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。」(第八七)
出典:セネカ「道徳書簡集」
   東海大学出版会「セネカ 道徳書簡集―倫理の手紙集―(全)」
   1992年9月21日第1刷発行、1994年5月25日第2刷発行


第七章 イエスの智慧


第一節 マタイ福音書より・・・・・『聖霊について』
(最も重要な掟について)
「『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』イエスは言われた。『『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。』」(二二)
(聖霊について)
「イエスは洗礼を受けると、すぐに水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえて来た。」(三)
「『見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。』」(一二)
「『わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうか心配してはならない。そのとき、言うべき事は教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたの中で語ってくださる、父の霊である。』」(一〇)
「『人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。』」(一二)
「『彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを全て守るよう教えなさい。』」(二八)
(天の父について)
「『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物を与えてくださるにちがいない。』」(七)
「『あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。』」(六)
「『施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。』」(六)
「『あなたは、断食するときは、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見てきただくためである。そうすれば、隠れたことを見ていておられるあなたの父が報いてくださる。』」(六)
「『あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたにどんな報いがあるであろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟だけにだけ挨拶したところで、どんなに優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だからあなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。』」(五)
「『あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また,ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上におく。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのようにあなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたの立派な行いを見て、あなたの天の父をあがめるようになるためである』」(五)
「『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』そして、弟子たちの方を指さして言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。』」(一二)
「『はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解く事は、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願いことであれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。』」(一八) 
「イエスはお答えになった。『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことはないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。』」(二二)
(天の国について)
「その時から、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」(四)
「『『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。』」(六)
「『わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。』」(七)
「『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えるまで、律法の文字から一点一画も消えることはない。だから、これらの小さな掟を一つでも破り、そうするように教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。』」(五)
「『律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。』」(二三)
「『はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。』」(一一)
「『富は天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もある。』」(六)
「イエスはたとえを用いて彼らに多くの事を語られた。『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。耳ある者は聞きなさい。(中略)だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍に、あるものは六十倍に、あるものは三十倍に実を結ぶのである。』(一三)
「イエスは別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。『天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長すればどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。』」(一三)
「また、別のたとえをお話になった。『天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。』」(一三)
「『また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。』」(一三)
「『あなたがたは、これらのことがみんな分かったか。』弟子たちは、『わかりました』と言った。イエスは言われた。『だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。』」(一三)
「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入る事はできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ』」(一八)
「イエスは言われた。『子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。』」(一九)
「『心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に餓え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。』」(五)
(イエス・キリストについて)
「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』シモン・ペテロが『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。するとイエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。』」(一六)
「『『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人は、あなたたちが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたが聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである。』」(一三)
「『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を追い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。』」(一一)
「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を癒された。」(八)
「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清く、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。』」(一一)
「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子と同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに『なぜ、あなたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である』。『私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどう言う意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」(九)
(信仰について)
「すると、一人のらい病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります』と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、らい病は清くなった。」(八)
「すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。『この方の服に触れさせえすれば治してもらえる』と思ったからである。 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』そのとき、彼女は治った。」(九)
「イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、『ダビデの子よ、私たちを憐れんでください』と言いながらついて来た。イエスが家に入ると盲人たちがそばに寄って来たので、『わたしにできると信じるのか』と言われた。二人は、『はい、主よ』と言った。 そこで、イエスが二人の目に触り、『あなたが信じているとおりになるように』と言われると、二人は目が見えるようになった。」(九)
「弟子たちはひそかにイエスのところに来て、『なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか』と言った。イエスは言われた。『信仰が薄いからだ。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。』」(一七)
出典:イエス「マタイによる福音書」
   日本聖書協会「聖書」
   1988年発行


第二節 ヨハネ福音書より・・・・・『聖霊について』
(言について)
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言(ことば)は、初めに神と共にあった。万物は言(ことば)によって成った。成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった。言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言(ことば)は世にあった。世は言(ことば)によって成ったが、世は言(ことば)を認めなかった。言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった、しかし、言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。『『わたしの後から来られる方は、わたしよりもすぐれている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。』わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(一)
(聖霊について)
「『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』ニコモデは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である。』」(三)
「『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもないところで、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。』」(四)
「『命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。』」(六)
「『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。』」(七)
「『あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。』」(一四)
「『わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。』」(十四)
「『わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。』」(一五)
「『しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが去って行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにする。』」(一六)
「『言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。』」(十六)
(父と子について)
「『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として来た。』(一二)
「『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む。』」(一四)
「『父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、全ての人を一つにしてください。彼らもわたしの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らもまた一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。』」(一七)
「『こうして、わたしのいるところに、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたも知っている。』トマスが言った。『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。』イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことはできない。あなたがたはわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。』フィリポが『主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足します。』と言うと、イエスは言われた。『フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分っていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。』(一四)
「『わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによってわたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたは出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの
掟である。』」(十五)
出典:イエス「ヨハネによる福音書」
   日本聖書協会「聖書」
   1988年発行


第八章 パウロの智慧・・・・・『聖霊について』
(聖霊について)
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(一四) 
「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」(七)
「それで善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気付きます。『内なる人』としては、神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを五体のある罪の法則にとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか。
わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったからです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させられた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体も生かしてくださるでしょう。
それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証してくださいます。」(七~八)
「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っています。“霊”は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくれるからです。」(八) 
「わたしたちは知っています。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわしたちを欺くことかありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(五)
「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和であなたがたを満たして、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(一五)
「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」(一)
「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに優れた者を思いなさい。怠らずに励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」(一二)
(信仰について)
「『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」(十) 
「聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」(十)
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(一)
「実に、信仰は聞く事により、しかも、キリストの言葉を聞くことにより始まるのです。 それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。『その言葉は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ』のです。」(一〇) 
「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を掲示するものです。その計画は今や現わされて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くために、すべての異邦人に知られるようになりました。この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」(一六)
「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。 行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えられるからです。 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。 異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」(三)
出典:パウロ「ローマの信徒への手紙」
   日本聖書協会「聖書」
   1988年発行


第九章 マルクス・アウレリウスの智慧・・・・・『ダイモーンについて』
「しかしもし君の内に座を占めているダイモーンよりも善いものはないように思われるならば、――そのダイモーンは個人的な衝動をすべて自分の支配下におき、もろもろの思念を検討し、ソークラテースのいったように、感覚的な誘惑をのがれて、神々の支配の下に身をおき、人類のためにつくすものであるが――もし他のあらゆるものはダイモーンより小さく価値のないものに思われるならば、それ以外の何物にも余地を与えるな。一旦ほかのものに心をかたむけると、君自身のものであり、とくに君に与えられたものであるこの善きものを、気をちらさずにもっと大切にすることが出来なくなるだろう。つまり理性と公共精神という善きものにたいして、大衆の賞讃とか権力とか富とか快楽への沈溺のごとく本質の異なるものをいっさい対抗させてはならないのである。すべてこのようなものは、たとえしばらくの間我々の生活にうまくはまり込むように見えても、とつぜん我々を打ち負かし、道ならぬところへ我々を連れ去ってしまうものなのだ。だから私はいうのだ、君は単純に、自由に、より善きものをえらび取り、これをしっかり守れ。」(第三章6)
「神々とともに生きる者とは神々にたいして常に自分の分に満足している魂を示し、ダイモーンの意のままになんでもおこなう者である。ダイモーンとはゼウス自身の一部分であって、ゼウスが各人に主人として与えたものである。これは各人の叡智と理性にほかならない。」(第五章27)
「幸福(エウダイモニアー)とは善きダイモーン、善き(指導理性)のことである。」(第七章17)
「君は三つのものから成っている。すなわち肉体、息、叡知である。この中最初の二つは、君がその面倒をみてやらなくてはならないというかぎりにおいて君のものである。しかし真の意味ではただ第三のもののみが君の所有物である。もし君が君から、すなわち君の叡智から、他人がおこなったりいったりすることや君自身がおこなったりいったりすることをことごとく払い除けてしまうならば、また君を未来において悩ますであろうことや、君を包む肉体およびこれと結びついている息のために君の意志とは独立に君にまつわりついている事柄や、また君の外を取り囲む渦巻きにまきぞえを食って行くものなどをことごとく払いのけてしまうならば、――その結果君の知性は運命に左右されるものから解放されて純粋になり、何物にも縛られることなく独立独行し、正義をおこない、身に起こる事柄をすべて受け入れ、真理を語ることができるのだ――左様、もし君がこの指導理性から肉情に由来する付加物や、未来及び過去に属するものを追放し、エムドクレースの『まどかなる球形の、そのゆるぎなきまろさを悦べる』ごとく自己を形成し、君の生きている時、すなわち現在の時のみを生きる修練を積むならば、余生を平安に、善意をもって、また君の『ダイモーン』との和みの中に過ごすことができるであろう。」(第十二章3)
「一言にしていえば、肉体に関するすべては流れであり、霊魂に関するすべては夢であり煙である。人生は戦いであり、旅のやどりであり、死後の名声は忘却にすぎない。しからば我々を導きうるものはなんであろうか。一つ、ただ一つ、哲学である。それはすなわちうちなるダイモンーンを守り、これの損なわれぬように、また快楽と苦痛を統御しうるように保つことにある。」(第二章17)
「もし君が目前の仕事を正しい理性にしたがって熱心に、力強く、親切に行い、決して片手間仕事のようにやらず、自分のダイモーンを今すぐにもお返ししなくてはならないかのように潔くたもつならば、もし君がこのことをしっかりつかみ、何物をも待たず、何物をも避けず、自然にかなった現在の活動に満足し、ものをいう場合にはいにしえの英雄時代のような真実をもって語ることに満足するならば、君は幸福な人生を送るであろう。誰一人それを阻みうる者はいない。」(第三章12)
「自分自身の理性と、ダイモーンと、その徳に帰依することを何よりもまず選びとった者は、悲劇のまねごとをせず、泣き声を出さず、荒野をも群衆をも必要としないであろう。なかんずく彼は何物を追いもせず避けもせずに生きるであろう。」(第三章7)
「さてもしすべて他のことは以上のものに共通だとすると、善い人間に特有なものとして残るのは、種々の出来事や、自分のために運命の手が織りなしてくれるものをことごとく愛し歓迎することである。また自分の胸の中に座を占めているダイモーンをけがしたり、多くの想念でこれを混乱させたりせずに、これを清澄にたもち、秩序正しく神にしたがい、一言たりとも真理にもとることを口にせず、正義に反する行動をとらぬことである。」(第三章16)
「なによりもみじめな人間は、あらゆる事象のまわりを経めぐり、詩人のいうように『地の深みを極め』、隣人の心の中まで推量せんとしておきながら、しかも自分としては自己の内なるダイモーンの前に出てこれに真実に仕えさえすればよいのだということを自覚せぬ者である。その奉仕というのは激情や無定見や、神々および人間どもからくるものに対する不満などにけがされるように、自己のダイモーンを純粋に守ることにある。」(第二章13)
「この器(肉体)は、これに奉仕するものよりも遥かにいやしい。なぜならば後者は叡智でありダイモーンであるが、前者は土であり凝血にすぎないからである。」(第三章3)
「君はいつでも好きなときに自分自身の内にひきこもることが出来るのである。実際いかなる所といえども、自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠家を見出すことはできないであろう。この場合、それをじっとながめているとたちまち心が完全にやすらかになってくるようなものを自分の内に持って居ればなおさらのことである。そして私のいうこの安らかさとはよき秩序にほかならない。であるから絶えずこの隠家を自分に備えてやり、元気を回復せよ。」(第四章3)
「自分自身の精神を敬い尊ぶならば、それによって君は自己の意にかなう人間となり、人びとと和合し神々を調和する者、すなわちすべての神々の配し定めるところに喜んで服する者となるであろう。」(第十六章16)
「自分の内を見よ。内にこそ善の泉があり、この泉は君がたえず掘り下げさえすれば、たえず湧き出るであろう。」(第七章59)
出典:マルクス・アウレリウス「自省録」
   岩波文庫「マルクス・アウレリウス 自省録」
   1956年10月25日第1刷発行、1992年9月5日第48刷発行


第十章 プロティヌスの智慧・・・・・『神であるところの自己自身』
「否、われわれの存在は、われわれがかのものの方に傾きさえすれば、それだけ存在度が多くなるのであって、その存在をよき存在たらしめるものもまたかしこにあるのである。そして存在がかのものから遠ざかれば、それだけで存在度は少なくなるのである。かしここそ精神のいこい場なのであって、いっさいの邪悪から清められたその場所へ駆けのぼることによって、精神は邪悪を脱するからである。精神が知性にめざめるのもそこにおいてであり、もろもろの悩みを受けずにすむのもそこにおいてなのである。否、真実の生というものはそこにおいてこそ生きられるのである。なぜなら、現在の生、神なき生と言うものは、実は生命の影に過ぎないのであって、かしこの生を模したものなのである。これに対して、かしこの生はすなわち知性の活動なのであって、この活動あることによって、それは神々を生むのであるが、これはまたかのものへの静かな接触によるのである。そして美を生み、正を生み、徳を生むのである。つまりこれらは、精神が神にみたされることによって、うちに孕むところのものだからである。そしてこれが精神の終始するところのものなのである。始めというのは、精神はかしこから出てきたものだからであり、終わりというのは、究極において求められる善がかしこにあるからであって、精神はかしこに生じることによって、自分自身が本来あったところのものになるからである。というのは、この世にあって、この世のものによって生きるというのは、脱落の結果であり、追放のためであり、天かける翅を失ったからなのである。
 また究極の善がかしこに求められるべきものであるということは、精神に生来やどっている愛のこころがまたこれを明らかにしているのであって、愛情(Eros)と精神(Psyche)のこの関係は、ちょうどまた絵画や物語において。両者が一対に取扱われて所以のものなのである。すなわち精神は、神とは異なるが、しかし神から出たものとして、神への愛情をいだくことは必然なのである。そして精神は、かしこにある限りは、天上のきよらかな愛をもつけれども、ここではそれは世俗的な愛慾となるのである。すなわちアプロヂテも、かしこにあっては天(Uranos)の一族としてきよらかさを保っているけれども、ここでは誰かれの区別のない、いわば娼婦化された世俗のアプロヂテとなるが、ちょうどまた精神は、どれもすなわちアプロヂテなのである。そしてまさにこのことが、アプロヂテの生誕と、エロスがアプロヂテといっしょにされることの隠された意味なのである。かくて精神は、それが生来の持前を保っているかぎり、神への愛情をいだいて、神と一体になることをこいねがうものなのであって、それはあたかも処女が、よき父に対して美しい愛情をよせるがごとくである。しかしそれが生成の世界に来て、求婚者の誘惑のごときものに欺かれる時、父を見すてて、もう一方のはかない愛欲に見かえ、これに耽溺するにいたるのである。しかしさらにまたこの地上的な耽溺が厭わしくなる時、精神はこの世のものから自己をきよめて、ふたたび父の膝下にわが身を寄せることに、よろこびを感ずるようになる。
 またこのような喜びを識らないという者があるならば、この世の愛をもとにして、そこから推して知るべきである。ひとが愛の対象として、まず何よりも求めている者を獲得することが、どんなよろこびであるかを思え。しかもそこに愛の対象とされているのは、やがては失われるはかないものであり、有害なものであり、仮象を対象とするうつろいやすい愛であることを忘れてはならない。それはもともと真実の愛の対象たるものではなかったのであり、われわれの究極の善として、われわれが求めているところのものではなかったからである。むしろ真実の愛の対象となるものはかのところにあったのである。そしてかのものに合体することも、かのものを分取して、真実にこれを所有する時にこそ可能なのであって、この真実の所有ということは、外部から肉によって包まれていない者にして始めて許されることなのである。しかし見たことのある者は、誰でも私の言おうとしていることを知っている。精神がかしこにおもむいて、すでにかしこに到達し、かのものを分有することになると、その時は生活が一変して、そのような生活状態におかれることによって、真実の生命を賄ってくれる者が直接その場にいることを知るようになり、もはやそれ以上何も必要としないようになる。否、むしろ反対に、他のいっさいのものを脱ぎ捨てて、ただそれひとつだけに立ち止まらねばならなくなる。すなわちわが身に纏う、その余のいっさいの残りものは、これを断ち切って、そのものひとつだけにならなければならない。従ってわれわれは、この地上から逃れ出ることを急がねばならず、われわれ自身の全体をもってかのものを抱擁し、われわれが神に用いることのないような、いかなる部分もわれわれのところにはないようにしようというのに、あらぬ方へ束縛されているわが身の上を嘆かなければならなくなる。
 かくて、そこに見ることが出来るのは、見ることが許されるかぎりの、かのものであり、また自己自身なのである。その自己自身は、知性的な光にみたされて、光り輝く自己自身であり、あるいはむしろ光そのものとなって、きよらかに、軽やかに、何の重荷もなく、神と化したというよりは、むしろすでに神であるところの自己自身なのである。それはこのような場合においては光明が点じられているけれども、しかしふたたび重荷が加えられるなら、まるで火の消えたようになる自己自身なのである。」 
原典:プロチノス「善なるもの一なるもの」
   岩波文庫「善なるもの一なるもの」41~44頁
   1961年12月16日第1刷発行、1995年6月15日第5刷発行


第十一章 アウグスティヌスの智慧・・・・・『幸福について』
「それでは、わたしたちが幸福な生活を想起し、愛し、熱望するのは、わたしがどこで、いつそれを経験したからであるか。幸福であることを欲するのは、わたし一人ではなく、またわたしと他の少数のものとではなく、わたしたちみなが等しくそれを欲するのである。しかしわたしたちは、幸福な生活を、確実な認識によって知らないのなら、このような確固たる意志を以ってそれを求めないであろう。しかしこのようなことはどうして起こるのであるか。二人のものに戦争に行くことを欲するかと問うなら、一人は行くことを欲すると答え、他のものは欲しないと答えるかもしれない。しかしかれらに幸福であることを欲するかと問うなら、両者はただちに、少しも躊躇することなく、それを望むと答えるであろう。両者のうち一人が戦争に行くことを欲し、他の一人が欲しないのも、別の理由からではなく、ただかれらが幸福であることを欲するからである。おそらくそれは、両者がその喜びを得る道を異にしていることによるのであろう。このようにすべてのものは、幸福を欲する点において一致している。かれらが喜ぶことを欲するかと問われるなら、異口同音に欲すると答えるであろう。この喜びそのものを幸福な生活と呼ぶ。この喜びをあるものはこの道によって得ようとし、他のものはあの道によって得ようとするが、すべてのものが到達しようと努める目標はただ一つ、すなわち喜びを得ることなのである。この喜びは、だれも経験しなかったということができないものであるから、そのゆえに幸福な生活という名を聞くごとに、それは記憶のうちに見出されて、そのものと認められるのである。
 主よ、けっしてこのようなことはない。あなたに向かって告白するあなたの僕の心は、けっしてこのようなことはない。わたしはどのような喜びを喜ぼうとも、自分を幸福であると考えるようなことは決してない。不信なものには与えられることがなく、あなたをた
だあなたゆえに崇めて、あなた自身がその喜びであるような人びとにのみ与えられる喜びが存するからである。幸福な生活とはあなたを求めて、あなたによって、あなたのために喜ぶことである。これが幸福な生活であって、このほかに幸福な生活は存しない。しかしほかに幸福な生活が存すると考えるものは、ほかの喜びを追求するのであって、真の喜びを追求するのではない。しかもなおかれらの意志は、ある種の喜びの構造からまったく離れ去ったわけではない。
 それゆえ、すべてのものが幸福な生活を欲するということは確実でない。あなたのみが幸福な生活であるのに、あなたによって喜ぼうとしない人びとは一般に幸福な生活を求めるということができないからである。それともすべての人は幸福な生活を求めているが、『肉の望むところは御霊に反し、御霊の望むところは肉に反するので、その欲するものをなし得ない』から、かれらはなし得るものに手をつけて、それに満足しているのであるか。かれらはなし得ないものをもなし得るようになるほど、それを熱心に求めないのであるか。わたしはすべてのものに、真理か虚偽が、そのいずれを喜ぶことを欲するかと問う。そうするとすべてのものは、幸福な生活を欲するということを躊躇しないように、真理を喜ぶほうを欲すると答えることに躊躇しない。じっさい幸福な生活は真理を喜ぶことなのである。そしてこの喜びは、神よ、『真理であり』、『わたしの光であり』、『わたしの顔の救いであり、わたしの神』であるあなたに対する喜びである。すべてのものはこの幸福な生活を欲する。すべての人はそれのみが幸福であるこの生活を欲する。すべてのものは真理に対する喜びを欲する。わたしは欺こうとする多くのものを知っているが、しかし欺かれようと欲するものは一人も知らない。それでは人びとはどこでこの幸福な世界を知ったのであるか。それはかれらが真理をも知ったところではなかろうか。かれらは欺かれることを欲しないから、真理をも愛するのである。そして幸福な生活を愛するとき、それは真理に対する喜びにほかならないから、かれらが真理を愛するということは疑いをいれない。しかしかれらは真理についてのある観念をかれらの記憶のうちに持たないなら、真理を愛することはないであろう。それでは何ゆえに真理を喜ばないのであるか。なにゆえ幸福でないのであるか。それはかれらがかれらを不幸にする他の諸物にもっぱら携わって、かれらを幸福にするものをかすかにしか記憶していないからである。『光はなおしばらく人間のうちにある』。かれらは歩み、『歩んで暗闇に追いつかれないようにするがよい』。
 しかしなぜ、『真理は憎しみを生み』、真理を述べ伝える『あなたの人』がかれらの敵になったのであるか。かれらは幸福な生活を愛し、しかもそれは真理に対する喜びにほかならないのではないか。その理由はかれらが真理をつぎのような仕方で愛するからである。すなわち真理でないあるものを愛する人びとは、かれらの愛するものが真理であることを欲する。そしてかれらは欺かれることを欲しないから、かれらが誤っているということを承認しようとしない。そんなわけで、かれらは自分たちが真理として愛しているもののために、真理を憎むのである。かれらは真理が輝くときには真理を愛し、真理がとがめるときに真理を憎むのである。すなわちかれらは欺かれることを欲せずに欺くことを欲するから、真理がそれ自身を明らかにするときには真理を愛し、真理がかれら自身をあらわすときには真理を憎むのである。そこで真理はかれらに対する返報として、かれらが真理によってあらわされることを欲しないにもかかわらず、かれらの意に反してかれらをあらわし、しかもそれ自身をかれらにあらわさない。人間の心はまったくこのようなものである。人間の心はまったくこのように盲目で意気地がなく、恥知らずでたしなみがなく、自分はかくれていようとしながら、なにかあるものが自分の目からかくれていることを望まない。人間の心はそれと反対のものを報いられて、それ自身が真理に対してかくれていずに、真理自身がそれ自身に対してかくれているのである。このように悲惨でありながら、人間の心は虚偽なものより真実なものを喜ぼうと欲する。それゆえ魂はなにものにも乱されることなしにただ真理によって、すべての真理の根源である真理そのものによって喜びを得るとき、はじめて幸福となるであろう。」
出典:アウグスティヌス「告白」
   岩波文庫「聖アウグスティヌス 告白(下)」43~47頁
   1976年12月6日 改訂第1刷発行、1994年7月5日第19刷発行


第十二章 トマス・アクイナスの智慧・・・・・『幸福について』
「人間誰しも各自の完全性の充足させることを欲しているのであって、このことがまさしく究極目的の究極目的たるゆえんである。」(27頁)
「幸福とは、究極目的への到達ということをいうものにほかならない。」(30頁)
「人間の幸福が何らかの被造的善において見出されることはありえない。けだし、幸福とは欲求をすっかり静もらせる完全な善なのであって、さもなくば、すなわち、そこにはなお欲求すべき何ものかが残存することになるであろうし、かくてそれは究極的目的たるのではないことになるだろう。しかるに、人間的欲求たる意志の対象は、普遍的善なのであって、それはちょうど知性の対象が普遍的真であるのと軌を一にする。ここからして、普遍的善ならざるかぎり、何ものも人間の意志を静もらせえないものなることが明らかに知られる。こうした善は、しかしながら、被造的な何ものかにおいて見出されることのできないものなのであって、それはひとり神においてのみ見出される。いかなる被造物もすべて分有された善性をもつにすぎないからである。かくして、人間の意志を満たすことのできるものは神を措いてほかにはない、『詩編』第一○二編に、『主はあなたののぞみをもろもろの善においてみたしたもう』とあるのもこうした意味にほかならない。だからして、ひとり神においてのみ人間の幸福は存するのである。」(57~58頁)
「究極の完全なる幸福というものは、神の本質を観ることにしか存しえない。」(87頁)
「人間知性が被造的な何らかの果についてその本質を認識するとしても、しかし神についてはその『存在するかどうか』をしか知らないとするならば、その知性はいまだ端的に第一因にまで迫っていないのであって、知性にはなお因を探求せんとする自然本性的な希求が残るのである。だからして彼はいまだ完全に幸福たるのではない。完全な幸福のためにはそれゆえ、知性が第一因の本質そのものに迫ることが要求される。かくして、だから、人間知性は、対象としての神に合一することによって、はじめて自らの完成を持つにいたるであろう。まことに、こうした対象においてのみ、上述のごとく、人間の幸福は存するのである。」(88頁)
「人間は神にかたどってつくられたとあるが、この場合の、神の『かたどり・像』という言葉の意味は、ダマスケヌスの説くごとく、それが知性的であり、意志決定に自由であり、主体的行動の可能なるものであるということにほかならない。」(1頁)
出典:トマス・アクイナス「神学大全」
   創文社「神学大全Ⅸ」
   1996年12月10日第一刷印刷、1996年12月15日第一刷発行


第十三章 エックハルトの智慧・・・・・『離脱について』
「ところでわたしは、離脱した心の祈りとはどのようなものなのかとさらに問おう。わたしはこれに答えて次のように言いたいと思う。離脱した純粋性には祈りというものはありえないと。なぜかといえば、祈る人というのは、神に何かを与えてほしいと願うか、何かを取り去ってほしいと願うかのいずれかであるが、離脱した心は何ひとつとして望むこともなければ、自由になりたいと思うようなものは何ひとつとして持っていないからである。そのために離脱した心は一切の祈りから自由なのである。離脱した心の祈りとは、神と同じ姿でいること、そのこと以外の何ものでもない。これこそ離脱した心の祈りの全貌である。このことに関してわたしたちは聖パウロの『栄冠を目指して走る者は多いが、それが与えられるのはただ一人である』という言葉について聖ディオニシウスが語っていることを引用することができる。魂の諸々の力はすべて栄冠を目指して走るが、それが与えられるのはただひとり本質のみである。走るとはすべての被造物を放棄して、非被造的本質へと合一することにほかならないとディオニシウスは語っている。魂がそこまで到りつくと、魂はその名を失い、神は魂をみずからの内へと引き入れ、魂はそれ自身において無となる。それはちょうど太陽が朝焼けを自分に引き寄せ、朝焼けそれ自身は無になるようなものである。人をそこまで導くのは純粋な離脱をおいてほかにない。このことに関しても次のようなアウグスティヌスの言葉を引くことができる。『一切の事物が魂にとって無となるところ、そこに魂は神的本性へと通ずる秘められた入口を持つのである。』この入口が、地上では純粋な離脱にほかならないのである。離脱がその高みに達するとき、それは認識から認識なきものに、愛から愛なきものに、光から闇になるのである。これに関してもまたある師が、心の貧しき人とは、わたしたちがいまだ存在しなかったとき、神は一切の事物を持っていたのであるが、ちょうどそのときのように一切の事物を神の手にゆだねる人たちのことをいうのである、と語っている言葉を引用することができる。このようなことは純粋な、離脱した心だけがなしうることである。神がどんな心の内よりも、離脱した心の内にあることを喜ぶということは次のことからわかる。もしあなたがわたしに、『神はすべてのものの中に何を求めるか』とたずねるならば、私は『知恵の書』の次の個所を引いてこう答える。『すべてのものの内に、わたしは安息を求める。』しかし唯一離脱した心の内以外のどこにもそうした完全な安息はないのである。そのために神は他のどんな徳の内よりも、どんなものの内よりも離脱の内にいることを喜ぶのである。あなたはまた、人は、神の流入を受け入れるようになろうとすればするほど、それだけいっそう浄福のうちにあるのだということを知らなければならない。その際最高の備えの内に自分を置くことのできる人は、最高の浄福にある人である。ところで、いかなる人も神と姿を同じにするのでなくては、神の流入を受け入れるようにはなることができない。どのくらい神と同じ姿になったかによって、神の流入をどのくらい受けいれるようになるかがきまるからである。同じ姿になることは、人が神につき従うことによるのであり、人が被造物につき従えば従うほど、それだけ神の姿からは遠ざかることになる。純粋な、離脱した心はどんな被造物にもとらわれることがない。離脱した心が完全に神につき従うのはそのためなのであり、それによって神と全く同じ姿となり、同時に神の流入を最もよく受けいれることになるのである。聖パウロが、『イエス・キリストを身にまといなさい』と言ったのはそのいみであった。すなわちキリストと同じ姿になることによってと言おうとしたのである。身にまとうということはキリストと同じ姿になることによってのみ可能だからである。さて次のことを知ってほしい、キリストが人となったとき、キリストがとったのはひとりの人間ではなく、人間としての本性であったということを。だからこそ、すべての事物を捨て去らなければならないのである。そうすれば、キリストがとったものだけが残ることになる。そうしてこそあなたはキリストを身にまとうことになるのである。
 ところで、完全なる離脱の高貴さと有益さとを認識しようと思う人は、キリストが弟子たちにみずからの人間としての本性について語った次の言葉に心をとめてほしい。『わたしがあなたがたから去って行くのは、あなたがたのためである。わたしが去って行かなければ、聖霊があなたがたに与えられないからである。』それはちょうど次のように言ったのと同じことである。あなたがたは、目に見える現在のわたしの姿からあまりにも多くの歓喜を得てきた。そのために、聖霊の完全な喜びがあなたがたに与えられていないのである。像より離れ、形なき有と合一しなさい。神の与える霊的な慰めは純粋なものであって、感覚的慰みをしりぞける人にのみ神はみずからを与えようとするからである。思慮深き人たちはみな耳を傾けよ。大いなる離脱の内に立つ人ほど心の晴れやかな人はいないのである。どんな肉の慰めも、身体的慰めも、霊を損なうことなしにはありえないのである。『なぜならば、肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからである。』だからこそ、肉の内に戒めを破る愛の種を蒔く者は、永遠の死を収穫し、霊の内に正しき愛の種を蒔く者は、永遠の命を収穫するのである。したがって、人が被造物から逃げ去るのが速ければ速いほど、それだけ早く創造主はその人に走り寄ってくるのである。思慮深い人はみな、ここのところをよく心にとめていただきたい。キリストの身体的姿からわたしたちが感ずる歓喜ですら、聖霊を受ける妨げとなるのであれば、はかない慰めから感じる放縦な喜びは、神への道のどれほど大きな妨げとなることであろう。離脱こそ最良のものである。なぜかといえば、離脱は魂を浄化し、良心を澄ませ、心を燃えたたせ、霊を目覚めさせ、求める心を励まし、神を認識させ、被造物を切り離し、神と合一するからである。」
出典:エックハルト「離脱について」
   岩波文庫「エックハルト説教集」(250~254頁)
   1990年6月18日第1刷発行、1997年6月16日第6刷発行


第十四章 クザーヌスの智慧・・・・『知恵について』
「無学者 知恵とは味わうことを知っているものです。知性にとって知恵より甘美なものは何もありません。そして、言葉のみを使って、味わうことなしに語るような人は、決して知恵あるものとみなされるべきではありません。しかし、知恵はすべてのもののうちどれでもない仕方で、すべてのものであるということを知っている人は、味わいながら知恵に関して語ります。なぜなら、知恵によって、知恵から、知恵において、すべての内的なものを知ることができるからです。しかし、知恵自身は最も高いところに住んでいるがゆえに、どんな味覚によっても知恵を味わうことはできません。それゆえ、知恵は味われえない仕方で味われるのです。なぜなら、知恵は、あらゆる味わうことができるもの、感覚されうるもの、理性的なもの、知性的なものよりも、いっそう高いものだからです。しかし、これを味わえない仕方で遠くから味わうことはできます。それはちょうど、ある種の香りは、いわば味わうことができないものの味の予感と呼ぶことができるようなものです。すなわち、香り立つものから発する香りは幾重にも広がり、ほかのものに受け取られると、私たちを香油の香りの中を香油を目指して走るように誘いますが、それと同じように、永遠で無限なる知恵はあらゆるものに輝きわたるので、私たちをある種の味の予感から実行へと誘って、驚くべき切望を抱いて知恵へと駆り立てるのです。
 つまり、知恵とは知性の精神的な生命なのです。知性は自らのなかに生まれつき具わったある種の味の予感をもっていて、それによって、これほどの熱心さで自分の生命の源を探求するのです。この味の予感がなくては、知性はそれを求めなかったでしょうし、たとえそれを見出したとしても、見出したことを知ることはなかったでしょう。だから、知性は、自分の固有の生命へと駆り立てられるかのように、知恵へと駆り立てられるのです。そして、それがいかに近づきがたいものであっても、生命の原理へとたえまなく昇っていくことは、あらゆる精神にとっては甘美なことです。なぜなら、生命へと昇っていくことは、たえまなくより幸福に生きることだからです。そして、自分の生命を求める者は、このことによって自分の生命を無限な生命であるとみなすように導かれるときには、自分の生命が不死なるものだと気づけば気づくほど、それだけ大きな喜びを得ます。そして、自分の生命の無限性の近づきがたさ、あるいは把握されがたさは、自分が切望した把握であるということに思いいたります。それはあたかも、もともと自分の生命の宝物を持っていた人が、それに辿り着いたようなものです。というのも、その人は、その自分の宝物が数えることも、重さを量ることも、大きさを測ることもできないほどのものであることを知るからです。この把握されえないことの知識は、喜ばしい最高の把握なのです。確かに、それは把握するものに関する知識ではありませんが、しかし生命の最愛なる宝物そのものに関する知識なのです。それはあたかも、ある人が何かをそれが愛すべきものであるがゆえに愛している場合、愛する対象のなかに無限で言い表しがたい愛の原因を発見したことを喜ぶようなものです。そして、その人が愛する対象の把握しがたい愛らしさを把握したときには、これが愛する者の最も喜ばしい把握なのです。何か把握されうるものに則って愛する対象を愛するときには、愛する対象の愛らしさが完全に計りがたく、無限で、限定されえず、把握されえないものであるときほどに、大きな喜びが得られることはけっしてないのです。これが把握されえないものの最も喜ばしい把握の仕方なのです。
弁論家 たぶん私は理解できたと思います。でもあなたが判断してください。つまりあなたが言いたいのは次のようなことだと思われます。それによって、それにおいて、それから、私たちが存在し動かされるところの私たちの原理は、そのいきいきとした甘美さが、愛情によって、味われえない仕方で味わられ、知性によって、把握されない仕方で把握されるときに、私たちによって始まりとして、中間として、終わりとして、味わられるのだということ、そして、原理を味わいうる仕方で味わい、把握される仕方で把握しようと努める者は、まったく味覚も知性も欠いているということです。
無学者 弁論家よ、あなたは大変よく理解しています。それゆえ、知性によって把握されうるものだけを知恵とみなし、自分たちによって到達されうるものだけを幸福とみなしている人たちは、真実の永遠で無限な知恵から遠く隔たっているのです。むしろ、彼らはある種の有限な平穏へと向かっているのです。彼らはそこに人生の喜びがあると思っているのですが、実際にはそこにはないのです。このことから、彼らは自分たちが騙されていることを知って、大変な苦しみを味わうのです。なにしろ、自分たちがあらゆる努力を払って赴こうとしているところ、幸福があると思っていたところに、辛苦と死を見出すのですから。なぜなら、知恵とは、無限で尽きることのない生命の糧であり、それによって私たちの精神は永遠に生きるのであって、私たちの精神は知恵と真理だけしか愛することはできないからです。
 なぜなら、すべての知性は存在することを欲しています。知性が存在することは生きることであり、知性が生きることは知解することであり、知性が知解することは知恵と真理によって養われることです。だから、輝く知恵を味わっていない知性は、暗闇のなかの目のようなものです。なぜなら、知性は目であるのに、光のなかにないがゆえに、見ていないからです。そして、その目は、見ることのなかにこそ存する喜ぶべき生を欠いているのですから、艱難辛苦のなかにいます。そしてこのことは、生というよりもむしろ死なのです。だから知性は永遠の知恵の食べ物以外のほかのどんなものへと向けられようとも、生を外れて、あたかも無知の暗闇に包み込まれたかのように、自分を生きている者であるよりも、むしろ死んだ者として見出すのです。そして、知性的な存在でありながら、しかも知解していないということは、限りない責め苦なのです。なぜなら、あらゆる知性が知解できるのは、永遠なる知恵においてのみなのですから。
弁論家 美しく奇異なことをあなたはおしゃいます。さあ、どうしたら、永遠なる知恵をそのように味わうことができるまでに私は高まることができるのかを、どうか話してください。
無学者 永遠なる知恵は、味わうことができるあらゆるものにおいて、味わうことができます。それはあらゆる喜ぶべきものにおける喜びです。それはあらゆる美しいものにおける美しさです。それはあらゆる欲求されるべきものにおける欲求です。だから、切望すべきすべてのものに関してそのように判断してください。では、どうして、知恵は味わうことができないのでしょうか。人生は、それがあなたの切望に適っているときには、あなたにとって喜ばしものではありませんか。
弁論家 もちろんそれに勝ることはありません。
哲学者 それゆえ、このあなたの切望が、それから、それにおいて、存在するところの、永遠な知恵において存在し、それなくしては存在不可能であるところの、同じくこの永遠なる知恵によってでなければ存在しえないのです。ですから、あなたは知性的な人生のあらゆる切望において、永遠なる知恵以外何ものも切望しないことになります。永遠なる知恵こそが、あなたの切望を完成するものであり、あなたの切望の始まりであり、中間であり、終わりであるのです。それゆえ、もし永遠に生きたいという不死なる生へのこの切望が、あなたにとって甘美なものであるならば、あなたはあなたのなかで永遠なる知恵の味の予感を体験するでしょう。なぜなら、まったく知られることのないいかなるものも欲求されることはないからです。たとえば、インドに果実があっても、私たちはそれを味わったことがないのだから、それをほしがったりしません。しかし、栄養になるものがなければ、私たちは生きることができないのですから、私たちは栄養を求めるのです。しかし、私たちは、感覚的に生きるためには、栄養物に対するある種の予感をもっています。それゆえ、子供は生まれつき乳に対するある種の予感を具えているのです。そのために、お腹が空いたときには乳の方へと向かっていくのです。
 つまり、私たちがそれによって存在するところのものによって、私たちは養われているのです。だから、知性は永遠なる知恵からその生命を得ているのであり、永遠なる知恵に対するある種の味の予感をもっているのです。それゆえ、自分にとって生きるために必要であるどんな食事においても、知性は、そこから知性的な存在を得ることができるようなところで養われるのでない限りは動かされません。それゆえ、もしあなたが知性的な生へのあらゆる切望において、知性は何に由来するのか、何によって動かされ、何を目指しているのかということに注目するならば、あなたはあなたのなかで、永遠なる知恵の甘美さとは、あなたにとってあなたの切望を甘美で喜ばしいものにするものであることを知るでしょう。それは、あなたをあなたの生の不死へと導くかのように、あなたを名状しがたい情熱でもってその把握へと導くほど、甘美で喜ばしいものなのです。それはあたかも、あなたが鉄と磁石に注目する場合と同様です。すなわち、鉄は磁石のなかに、いわば自分の流出の原理をもっています。そして、磁石が自分がそこにあることによって重い鉄を駆り立てているあいだは、鉄は驚くべき切望によって、重さに従って下方へと向かわねばならないという自然の運動を超えてまでも運ばれ、自らを己の原理に合一させることによって、上方へと動かされます。というのも、鉄のなかに磁石自身に対する自然的なある種の味の予感がなかったらば、ほかの石へと向かうよりも磁石へ向かって動いていくことはなかったでしょう。また、磁石のなかに銅に対するよりも大きな鉄への傾向がなかったならば、あの牽引力もなかったでしょう。
 それゆえ、私たちの知性的な精神は、永遠なる知恵から、そのように知性的な仕方で存在することの原理を得ているのです。その存在は、ほかの知性的でないものよりも知恵にふさわしいものです。だから、神聖な魂への照射あるいは流入は、刺激における切望に満ちた運動です。なぜなら、知性的な運動によって知恵を求める人は、内的に捉えられ、われを忘れて、肉体のなかにあってもあたかも肉体の外にいるかのように、前もって味わられた甘美さへと駆り立てられるからです。あらゆる感覚的なものの重さは、その人が自分を惹きつける知恵へと自らを合一させるほどには、その人を捉えることはできません。当惑するほどの讃嘆から感覚を放棄する人は、知恵以外のすべてをまったく取るに足らぬものとみなすようにと、魂を無感覚にします。彼らにとっては、よりすみやかに不死の知恵へと運ばれることができるために、この世とこの人生を去りうることが甘美なことなのです。この味の予感は、聖人にとってはすべての現象的な喜ばしいものをいまわしいものにし、知恵をよりすみやかに手に入れるために、どんな肉体的な責め苦をもきわめて平静な心でもって耐えられるようにします。この味の予感は私たちに、この知恵へと向けられた私たちの精神はけっして滅びることはありえないことを教えてくれます。なぜなら、もしこの私たちの肉体がどんな感覚的な絆をもってしても精神をもはや捉えていることができなくなって、精神がいまや肉体への隷従を解かれて熱望して知恵へと導かれるとするならば、精神は、肉体が滅びることによっては、決して滅びることはありえないからです。
 知恵へのこの同化作用は、私たちの精神に生まれつき内在しているもので、これによって、知恵そのもののなかにおいてでなければ安らうことができないのであり、それはあたかも、知恵のいきいきとした似姿のようなものです。というのも、似姿は、その似姿であるところのもののなかでのみ安らうのであり、それによって始まりと中間と終わりを有しているからです。そこで、いきいきとした似姿は、生命によって自ら唯一の安息の場所である範型へと運動を起こします。似姿の生命は自分のなかでは安らうことができないからです。似姿の生命は真理の生命の生命であって、似姿自身のものではないからです。だから似姿は、自分の存在の真理へと向かうように、範型へと動かされるのです。
 それゆえ、もし範型が永遠なるものであり、似姿が生命を具えていて、その生命のなかで自分の範型をあらかじめ味わい、切望して範型へと動かされるとするならば、生命的なその運動は永遠なる知恵である無限の生命のなかでなければ安らうことができないのだから、精神的なその運動は止まることはありえず、けっして無限の生命に無限的に到達することができないことになります。なぜなら、それは喜びに捉えられてもけっして嫌われることのないものに到達しようと、最も喜ばしい切望によって動かされているからです。知恵は最も美味しい食べ物であり、それは、永遠の食事を楽しむことをけっしてやめようとしないようにと、満足するために食べようとする切望を打ち砕くことはないからです。
弁論家 あなたの語ったことは、疑いなくたいへん素晴らしいことだとわかります。でも、知恵を味わうことと、味わうことに関して語ることができるということのあいだには、大きな違いがあると思います。
無学者 よくおっしゃいました。あなたからその言葉を聞くことができて嬉しいです。確かに、誰も味わったことのないものの味に関するすべての知恵は、味覚が触れるまでは空しく不毛であるのと同様のことが、この知恵に関しても言えます。この知恵は聴覚によっては誰も味わったことがなく、内的な味覚によって感受する人のみが味わうのです。その人は聞いたことに関して証言するのではなく、自分自身のなかで経験的に味わったことを述べるのです。聖人たちが私たちに残してくれた愛に関する多くの記述を知ることは、愛を味わったことがないならば、いわば空虚です。それゆえ、永遠なる知恵を求める人にとっては、知恵について語られたことを知るだけでは十分ではなく、むしろ、知恵がどこにあるのかを知性によって発見した後には、それをわがものにすることが必要なのです。それはちょうど、宝物が埋まっている畑を探し当てた人が、自分のものでない他人の畑に埋まっている宝物には喜べなくて、それゆえ、畑のなかの宝物を自分のものにしようとしてすべての持ち物を売ってその畑を買うようなものです。
 だから、人は自分のあらゆる持ち物を売って手放さなければならないのです。なぜなら、永遠なる知恵は、それを持つ人がそれを得るためにいかなる自分の持ち物も所持しないような場合でなければ、所有されることを望まないからです。実際、私たちが自分のものとしてもっているものは罪悪にすぎません。しかし、永遠なる知恵に関して私たちがもつものは善きもののみです。それゆえ、知恵の精神は罪に屈服した肉体のなかに住んでいるのでも、悪意をもった魂のなかに住んでいるのでもありません。むしろ知恵は、自分の浄い畑、知恵の秩序ある似姿、いわば自分の聖なる神殿に住んでいるのです。だから、永遠なる知恵が住んでいるところは、不死の果実がなる主の畑なのです。つまり、それは美徳の畑であり、知恵がそれを耕しています。そこでは精神の果実がなります。すなわちその果実とは、正義、平和,勇気、節制、貞節、忍耐なのです。
弁論家 あなたは以上のことを十分に説明してくれました。でも今度はあなたに次のことをお尋ねします。神はあらゆるものの原理ではありませんか。
無学者 誰がそう認めることに躊躇するでしょうか。
弁論家 永遠なる知恵は神とは別のものではないのですね。
無学者 神と別のものだなんてとんでもないことです。永遠なる知恵とは神なのです。
弁論家 神は言葉によって万物を形成したのですよね。
無学者 そうです。
弁論家 言葉は神なのですか。
無学者 そうです。
弁論家 知恵も同様ですか。
無学者 神はすべてを知恵においてなしたということは、神がすべてを言葉によって創造したと言うことにほかなりません。(以下省略)」
出典:クザーヌス「知恵に関する無学者との対話」
   平凡社「中世思想原典集成17 中世末期の神秘思想」(548~555頁)


第十五章 ルターの智慧・・・・・『信仰について』
「以上の全体から次の結論が生ずる。曰く、キリスト教的な人間は自分自身においてではなくキリストと彼の隣人とにおいて、すなわちキリストにおいては信仰を通して、隣人においては愛を通して生活する。彼は信仰によって、高く己を超えて神へと昇り、神から愛によって再び己の下に降り、しかも常に神と神的な愛のうちにとどまる。キリストがヨハネ伝福音書第一章に、『あなたがたは、天が開けて天使たちが人の子の上に昇り降りするのをみるだろう』といわれたのはそれである。
 見よ、これが、心をあらゆる罪と律法と誡めとから自由ならしめるところの、真の霊的なキリスト教的な自由である。神よ、われわれをしてこの自由を正しく理解し且つ保つことをえさせて下さい。アーメン。」(第三十)
「たましいがもし神の言をもつなら、もはや他の何ものをも必要としない。それは言だけで充分であり、そのときは食物も喜びも平和も栄光も技能も敬虔も真理も智慧も自由もあらゆる財も充ち溢れるばかりに所有する。」(第五)
「すべての神の言は聖くあり、真であり、義しく、平和的で、自由であり、すべての善にみちている。故に人が正しい信仰をもってこれにかたくすがりつくなら、かような人のたましいは神の言と合体し、しかも全く合一して言のあらゆる徳がやがてまたたましいのものともなり、たましいはまた信仰によって神の言から、聖く義しく真実に平和的に自由で且つすべての善に充ち、真正な神の子となり、ヨハネ伝福音書第一章に、『その名を信じた人々には、彼はすべて神の子となりうる力を与えたもうた』と言われているとおりである。」(第十)
「預言者イザヤは第十章にこの信仰の富を仰ぎ見て、『神は地上に些やかなものを残したもうであろう。この些細なものから洪水のように義が溢れ注がれるであろう』といった。すなわち信仰、あらゆる誡めがそのうちに簡潔に要約されて充実されるところの信仰は、溢れ出てこれを有する人々のすべての人を義とし、かくて彼等はもはや正しく義とされるために何をも必要としなくなるのである。」(第七)
「なぜなら誡め、それは必然的に数多くあり、しかも何の役にもたたない誡めの要求するすべての行いを課せられて、あなたはまったく無力であったのに、今やそれがいともたやすく簡単に信仰によって完うされるのである。その理由は、私がすべてのものを圧縮して信仰のうちにおいたからである。これをもつ者はすべて義とされるし、これをもたない者は何も得られないのである。」(第九)
「信仰のみが人間の義であり、あらゆる誡めの充実なのである。」(第十三)
「信仰が義の首であり、否、その全存在なのである。」(第十三)
「人間は内面的にたましいに関しては、信仰によって十分に義とされ、彼がもつべきであるすべてのものを既にもっている。」(第二十)
「この点から容易に認識されることは、どうして信仰がかくも多くをなしええられるのか、そしてどんな善行もこれと比較されることができないのかという理由である。なぜならどんな善行も、信仰のように神的な言に頼っていることはできないし、またたましいのうちにあることもできないので、ただ神の言と信仰のみが支配するからである。あたかも鉄が火に投げ込まれた焔と一つとなって焔のかたまりのような赤熱するのと同じように、たましいも言の有するものを受けとる。そこでキリスト者は信仰だけで十分であり、義とされるいかなる行いをも要しないということが明らかにされる。かくて彼がいかなる行いをももはや必要としないとすれば、たしかに彼はすべての誡めと律法から解き放たれているし、解き放たれているとすれば、たしかに彼は自由なのである。これがキリスト者の自由であり、『信仰』のみなのである。」(第十)
「信仰は、それが義たらしめると同様に、また善い行いをつくり出す。行いはいずれの人も義たらしめないので、人は行為をする前にあらかじめ義であらねばならないとすれば、信仰だけがキリストとその言とによる純粋な恩恵から人を義たらしめ祝福されしめるのに十分なのであることは、まったく明白であろう。かくていかなる行いもいかなる誡めもキリスト者には祝福を受けるのに必要ではなく、彼はむしろあらゆる誡めから自由であり、従ってその行うところのすべてのことをまったく価いなしに純粋の自由の心から行うべきで、これによって決して自己の利益や祝福を希願しない。彼はその信仰と神の恩恵とによってすでに充ち足り、祝福され、従って行為においてはただ神によろこばれようとするのみなのである。」(第二十三)
「かようにキリスト者はその首であるキリストと同じく、満ち飽きるばかりにその信仰によって満足を与えられ、更にますますこれを増し加うべきである。そは信仰が彼の生命であり義または祝福であり、上述したようにキリストと神とのもちたもうあらゆるものがこれによって彼に与えられているからである。」(第二十七)
「見よ、かようにして信仰から神の愛と喜びが溢れいで、また愛から、価いなしに隣人に奉仕する自由な、自発的な、喜びに満ちた生活が発出するのである。」(第二十六)
「あなたは信仰において既に充分であり、その点で神からすべてを与えられているときに、あなたにとっての過剰な財宝とか善行とが、あなたの身体を支配し且つ養うのに一体何の役に立つとなすのか。」(二十九)
「この故に言とキリストをよく自己のうちに形成し、この信仰を不断に鍛錬し且つ強からしめることが、当然すべてのキリスト者のつとむべきただ一つの行いであり修行でなければならない。」(第七)
「キリストの国は地上のではなく、また地上の宝によって存するものでもなく、真理、智慧、平和、喜び、祝福などのような霊的な宝によって成立するのである。」(第十四)
「キリスト者は王者たることによって万物を支配し、祭司たることによって神をも動かす。」(第十六)
出典:ルター「キリスト者の自由」
   岩波文庫「キリスト者の自由・聖書への序言」
   1955年12月20日第1刷発行、1994年6月6日第44刷発行


第十六章 デカルトの智慧・・・・・『私は考える、故に私はある』
「この国での私の最初の思索について語るべきか私にはわからない。というのは、それは極めて形而上学的で、普通の考えからかけ離れているので、だれでもが興味をもつとはおそらくいえないであろうから。けれども私が選んだ土台がしっかりしたものであるかどうか、判断してもらうために、私はそれについて語ることを、ある意味で強いられているのである。さて、前にも言ったように、実生活にとっては、きわめて不確実と分かっている意見にでも、それが疑いえぬものであるかのように、従うことが、ときとして必要であると、私はずっと前から気づいていた。しかしながら、いまや私はただ真理の探究のみにとりかかろうと望んでいるのであるから、まったく反対のことをすべきである、と考えた。ほんのわずかの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げすて、そうしたうえで、まったく疑いえぬ何ものかが、私の信念のうちに残らぬかどうか、を見ることにすべきである、と考えた。かくて、われわれの感覚がわれわれをときには欺くゆえに、私は感覚がわれわれの心に描かせるようなものは何ものも存在しない、と想定しようとした。次に、幾何学の最も単純な問題についてさえ、推理をまちがえて誤謬推理をおかす人々がいるのだから、私もまた他のだれも同じく誤りうると判断して、私が以前には明らかな論証と考えていたあらゆる推理を、偽なるものとして投げすてた。そして最後に、われわれが目覚めているときにもつすべての思想がそのまま、われわれが眠っているときにもまたわれわれに現れうるものであり、しかもこの場合はそれら思想のどれも、真であるとはいわれない、ということを考えて、私は、それまでに私の精神に入りきたったすべてのものは、私の夢の幻想と同様に、真ならぬものである、と仮想しようと決心した。しかしながら、そうするとただちに、私は気づいた、私がこのように、すべては偽であると、考えている間も、そう考えている私は必然的に何ものかでなければならぬ、と。そして『私は考える、ゆえに私はある』というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができると、判断した。
次いで、私がなんであるかを注意深く吟味し、次のことを認めた。すなわち、私は、私が身体をもたず、世界というものも存在せず、私のいる場所というものもない、と仮想することはできるが、しかし、だからといって、私が存在せぬ、とは仮想することができず、それどころか反対に、私が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的に確実に、私があるということが帰結する、ということを。逆にまた、もし私がただ考えることだけを止めたとしたら、たとえ私が想像したすべての他のものが真であったとしても、だからといって私がその間存在していたと、信ずべきなんの理由もない、ということを。さて、これらのことから私は次のことを知った、すなわち、私は一つの実態であって、その本質あるいは本性はただ、考えるということ以外の何ものでもなく、存在するためにはなんらの場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、ということを。したがって、この『私』というもの、すなわち、私をして私たらしめていることころの『精神』は物体から全然分かたれているものであり、さらにまた、精神は物体よりも認識しやすいものであり、たとえ物体が存在せぬとしても、精神は、それであるところのものであることをやめないであろう、ということ。
次に私は、一般に一つの命題が真に確実であるために必要な条件を考察した。というのは、真で確実だと私の知る一つの命題をいま見出したのであるから、その確実性が何において成立するかをも、やはり知りうるはずだと考えたのである。『私は考える、ゆえに私はある』という命題において、私が真理を言明していることを私に確信させるものは、考えるためには存在せねばならぬということをきわめて明晰に私が見るということより以外に、まったく何もない、ということを認めたから、私は、『われわれがきわめて明晰に判明に理解するところのものはすべて真である』ということを、一般的規則として認めてよいと考えた。ただしかし、われわれが判明に理解するものがいかなるものであるかを、正しく認めるには、いくらかの困難がある、と考えた。
それにつづいて私は、私が疑っているということ、したがって私の存在はあらゆる点で完全なのではないということ〔というのは、疑うよりも認識することのほうが、より大なる完全性であることを、私は明晰に見るから〕を反省し、私は私自身より完全な何ものかを考えることをいったいどこから学んだのであるか、を探求することに向かった。そして私は、それが、現実に私より完全であるところのなんらかの存在者から、でなければならぬということを明証的に知った。私の外にある多くの他のもの、たとえば天や地や光や熱やその他無数のものについて、私がもっている思想の中には、それらを私自身よりすぐれたものたらしめるように見える点は、何も認められなかったから、それらが真である場合は、それらは、私の本性がなんらかの完全性をもつかぎりにおいて、この私の本性に依存するものである、と私は考えることができたし、またそれが偽である場合には、それらが無からきたものである、いいかえれば、私が欠陥をもつがゆえに、それらは私のうちにあるのだ、と考えることができたからでる。しかしながら、私の存在よりも完全な存在者の観念に関しては、同じようにはいえなかった。というのは、そういう観念を無からとりだすことは明白に不可能であるし、また、それを私自身からとりだすこともできなかったからである。なんとなれば、より完全なものが、より不完全なものの結果であり、これに依存するものである、というのは、無からあるものが生ずる、というのに劣らず、矛盾だからである。したがって、当の観念は、私よりも完全でかつ私が考えうるあらゆる完全性をみずからのうちにもつところの存在者、すなわちひとことでいえば、神であるところの存在者、によって私のうちにおかれたものである、というほかなかった。(中略)
なぜならば、まず第一に、さきに私が規則として定めたこと、すなわちわれわれがきわめて明晰に判明に理解するところのものはすべて真である、ということすらも、神があり現存するということ、神が完全な存在者であること、および、われわれのうちにあるすべては神に由来しているということ、のゆえにのみ、確実なのである。そしてこのことから、われわれの観念や概念は、それらの明晰判明な部分のすべておいて、ある実在性を有し、かつ神に由来するからこそ、その点において真ならざるをえないのだ、ということになる。したがってまた逆に、われわれの観念や概念がしばしば虚偽を含むことがあるのは、それらの観念や概念の混乱した不明晰な部分についてであり、そういう点においてそれらは無を分有しているからなのである。いいかえれば、それらがわれわれのうちでそのように混乱しているのは、われわれがあらゆる点において完全なのではないからである。そして、虚偽または不完全性が、虚偽または不完全性であるかぎりにおいて、神に由来する、ということは、真理または完全性が無から由来する、というのと同様に、矛盾であることは明らかである。しかし、われわれのうちにあって、実在性をもち真であるところのすべてのものは、完全で無限な存在者から由来すると、われわれが確かに知るのでなかったならば、われわれの観念がいかに明晰に判明であろうとも、それらの観念が『真である』という完全性をもつことを、確信しうる理由を、われわれはもたないであろう。」(187~193頁)
「ここに私が神というのは、その観念が私のうちにあるその神、いいかえると、私が把握することはできないが、しかしあるしかたで思惟によって触れることはできるところの、すべての完全性をもっており、いかなる欠陥からもまったく免れている神である。」(271~272頁、「省察」より)
出典:デカルト「方法序説」
   中央公論社「世界の名著22 デカルト」
   昭和42年1月10日初版印刷、昭和42年1月20日初版発行


第十七章 スピノザの智慧・・・・・『至福について』
「定理四二 至福は徳の報酬ではなく、徳そのものである。われわれは快楽を抑えるから至福を楽しむのではなく、むしろ逆に至福を楽しむから快楽を抑えることができるのである。
 証明 至福は神への愛にある(この部の定理三六とその註解による)。そしてこの愛は、第三種の認識から生じてくる(この部の定理三二の系による)。したがってこの愛は、(第三部定理五九と三により)能動的な活動をなすかぎりの精神に帰せられねばならない。したがってそれは、(第四部定義八により)徳そのものである。これが第一の点であった。
 次に、精神はこの神への愛、あるいは至福を多く楽しめば楽しむほど、それだけものを知性的に認識する(この部の定理三二による)。言いかえれば、(この部の定理三の系により)それだけ感情にたいして大きな能力をもち、(この部の定理三八により)それだけ悪い感情からも影響を受けることが少なくなる。したがって精神はこの神への愛、すなわち至福を楽しむことによって、快楽を抑える力をえる。そして感情を抑える人間の能力は、たんに知性のみに存在するのであるから、だれも感情を抑えるから至福を楽しむのではない。むしろ反対に快楽を抑える力は至福そのものから生ずるのである。かくてこの定理は証明された。
 註解 以上によって、感情にたいする精神の能力と精神の自由について述べようとしたすべてのことを、終えた。これらのことから、賢者がどれだけ多くのことをなしうるか、また快楽によってのみ動かされる無知な人よりどれだけすぐれているかということが明らかになる。なぜなら無知な人は、外的な原因によってさまざまな仕方で動かされ、けっして心の真の満足に達しないばかりか、なおそのうえに自分自身や神そしてその他のものについてほとんど無知なままに生活しており、しかも影響をうけることをやめるやいなや、存在することもやめてしまう。これに反して。賢者は賢者として見られるかぎり、ほとんど心を動かされない。むしろ自分自身や神そして他のものをある永遠の必然性によって意識し、けっして存在することをやめず、常に心の真の満足に達しているのである。
 さて、私がここに到達するために示した道は、きわめてけわしい道であるかのように見えるが、それを見いだすことは不可能なことではない。じっさい、このようにまれにしか見いだせないものは、困難であるにちがいない。なぜなら幸福が手近なところにあり、たいした労力もかけずに見いだされるならば、それをほとんどすべての人がどうして無視することができようか。
 とにかくすぐれたものは、すべて希有であるとともに困難である。」(371~372頁)
「定理三六 神にたいする精神の知的愛は、神が自分自身を愛する神の愛そのものである。しかしこの場合の神は無限であるかぎりの神ではなく、永遠の相のもとで考察される人間精神の本質によって説明される神である。言いかえれば、神にたいする精神の知的愛は、神が自分自身を愛する無限の愛の一部である。
 証明 精神のこの愛は、精神の能動の一つに数えいれなければならない(この部の定理三二の系と第三部定理三による)。したがってこの愛は、精神が原因としての神の観念を伴いながら自分自身を観想するところの能動的行為である(この部の三二とその系による)。すなわちそれは、(第一部定理二五の系と第二部定理一一の系により)人間精神によって説明されうるかぎりの神が、自分自身の観念を伴いながら自分自身を観想するところの能動的行為である。したがって(前定理により)この精神の愛は、神が自分自身を愛する所の無限の愛の一部である。かくてこの定理は証明された。
 系 この帰結として、神は自分自身を愛すかぎりにおいて人間を愛し、したがって人間にたいする神の愛と精神の知的愛とは同じものであるということになる。
 註解 以上のことからわれわれは、自分たちの救済あるいは至福、あるいは自由が何に基づいているかを明瞭に理解する。すなわちそれは、神にたいする不変の、永遠の愛あるいは人間にたいする神の愛の中にある。だがこの愛あるいは至福は、聖書においては栄光(グロリア)と呼ばれているが、これは不当なことではない。なぜならこの愛は神に関しても精神に関しても、まさしく魂の満足と呼ばれるものであって、じつのところそれは栄光と同じことを意味している(感情の規定二五と三〇による)。なぜならこの愛は、神に関係するかぎり――いまなおこのことばを使うことが許されるならば――(この部の定理三五により)神の観念をともなう喜びであり、またそれは、精神に関係するかぎり(この部の定理二七により)の愛と同じものだからである。
 次に、われわれの精神の本質は認識することにあり、またその認識の始原と基礎は神であるから(第一部定理一五と第二部定理四七の註解により)、われわれの精神が、その本質と存在に関して、どのようにして、またどのような仕方で、神的本性から生じてくるか、そしてたえず神に依存しているのであるか、ということが明らかになる。私が直感的認識あるいは第三種の認識と呼ぶ個物の認識(第二部定理四〇の註解二をみられたい)がどれだけ多くのことをなしうるか、またそれが第二種の認識と呼ばれる一般的認識よりもどれだけ有能であるかをこの例によって示すことが、やりがいのあることだと思ったのである。なぜなら私は、第一部においていっさいが(したがって人間精神も)、本質と存在に関して神に依存していることを一般的に示したけれども――その証明は正当でありなんの疑いもいれない――われわれが神に依存すると言ったあらゆる個物の本質そのものから、このことを結論する場合ほど、われわれの精神を感動させないのである。」(365~367頁) 
出典:スピノザ「エチカ」
   中央公論社「世界の名著25 スピノザ・ライプニッツ」 
   昭和44年8月15日初版印刷、昭和44年8月25日初版発行


第十八章 ルソーの智慧・・・・『至高の幸福について』
「まだ自由だが、燃えたち、落ち着きがなく、知りもしない幸福に飢えている心が、好奇心にみちた不安な気持ちでその幸福をもとめ、官能にだまされて、やがてむなしい幸福の幻影にとらえられ、ありもしないところに幸福をみいだしたと考えている、そういう時期が人生にはある。わたしにとってはそういう幻想があまりにも長いあいだつづいた。悲しいことに、それに気がついた時にはもう遅すぎた。そしてわたしは、完全にその幻想をなくしてしまうことができなかった。その原因である死すべき肉体があるかぎり、それはいつまでもつづくことだろう。すくなくとも、いくらそれがわたしを誘惑してもむだで、わたしはそれにだまされはしない。わたしはその正体を知っている。幻想を追いながらも、わたしはそれを軽蔑している。そこに幸福の対象を見るようなことはせず、幸福のさまたげとなるものを見ている。わたしは、肉体の拘束から解放され、矛盾のない、分裂のない『わたし』になるときを、幸福であるために自分以外のものを必要としなくなるときを待ちこがれている。それにしても、わたしはもうこの世において幸福なのだ。この世のあらゆる不幸をほとんど意に介していないし、この世はわたしの存在にとってほとんど縁のないものとみなしているし、それに、この世からひきだせるほんとうによいものすべては私の力で手に入れられるからだ。
 できるかぎりはあらかじめその幸福と力と自由の状態に自分を高めるために、わたしは崇高な観照に自分をなれさせている。わたしは宇宙の秩序について瞑想する。むなしい体系によってそれを説明するためにではなく、たえずそれを讃美し、そこに感じられる賢明な創造者を崇拝するためにだ。わたしはかれと語り、その神聖な本質をわたしのいっさいの能力に浸透させる。かれの恵みに感激し、かれの賜物をうけてそれを祝福する。しかし、わたしはなにもかれにもとめない。わたしはなにをもとめたらいいのだろう。わたしのために事物の流れを変えてくれることか。わたしに好意的な奇跡を行ってくれることか。かれの知恵によってうちたてられ、摂理によって維持されている秩序をなにものよりも愛さなければならないわたしは、わたしのためにこの秩序がみだされることを望むのだろうか。いや、そういう無謀な願いを聴きとどけられるよりむしろ罰せられてしかるべきだ。わたしはまた、よいことをする力をもとめるようなこともしない。かれがわたしに与えているものをなぜ求めるのか。よいことを好むように良心を、それを知るように理性を、それを選ぶように自由を、かれはわたしに与えているではないか。わたしは悪いことをしたなら、弁解のことばをもたない。わたしはそれを欲するからこそ行うのだ。わたしの意志をかれに変えてくれるようにたのむこと、それは、かれがわたしにもとめていることをかれにもとめることだ。かれがわたしのすることをしてくれて、わたしがその報償を手に入れることになるようにと望むことだ。わたしの状態に満足しないこと、それはもう人間であることを欲しないこと、いまあることとは別のことを欲することだ。無秩序と悪を欲することだ。正義と真理の源、寛大で恵みふかい神よ、おんみを信頼するわたしの心の最高の願いは、おんみの意志が行われることだ。おんみの意志にわたしの意志を結びつけて、わたしはおんみがしていることをする。わたしはおんみの善意をみとめる。その報償である至高の幸福にもういまからあずかっているものと信じている。」(179~180頁)
「とにかく、神の無限の本質を見つめようと努力すればするほど、いよいよそれはわたしにはわからなくなる。しかしそれは存在する、わたしはそれで十分なのだ。理解されなければされないほど、ますますわたしは神を尊敬する。わたしはへりくだって、神に向かって言う。至高の存在者よ、おんみが存在するからこそわたしは存在する。たえずおんみのことを考えることは、わたしの源へわたしを高めることだ。」(163頁)
「良心!良心!神聖な本能、滅びることなき天上の声、無知無能ではあるが知性をもつ自由な存在者の確実な案内者、善悪の誤りなき判定者、人間を神と同じような者にしてくれるもの、おんみこそ人間の本性をすぐれたものとし、その行動に道徳性をあたえているのだ。」(172頁)
出典:ルソー「エミール『サヴォワの助任司祭の信仰告白』」
   岩波文庫「エミール(中)」   
1963年7月16日第1刷発行、1994年11月5日第48刷発行


第十九章 カントの智慧・・・・・『根源的最高善について』
「かかる叡智者という理念においては、道徳的に最も完全な意志と最高の聖福とが結びついて、世界における一切の幸福の原因をなしている。私はかかる理念が道徳性(幸福を受けるに値いすること)と厳密に対応する限り、この叡智者の理念を最高善の理想と名づける。それだから純粋理性は、根源的な最高善の理想においてのみ派生的な最高善を、従ってまた可想的世界即ち道徳的世界を形成する両つの要素〔道徳と幸福〕の実践的に必然的な結合の根拠を見出し得るのである。感官は我々に現象の世界だけしか示さないが、しかし我々は理性によって、自分自身をかかる可想界に属するものとして必然的に思いみざるを得ない。実際、感覚界はかかる結合を我々に示すものではない、それだから我々は、感覚界における我々の行状の結果にかんがみて、この可想界を我々にとっての来世と想定せざるを得ないであろう。要するに神と来世とは、純粋理性が我々に課すところの責務から分離せられ得ない――と言うのは、まったく同一の理性に基づく原理に従うものであるから、――二つの前提なのである。
 道徳は、それ自体一つの体系をなすものであるが、しかし幸福はそうはいかない。幸福が体系を構成するとしたら、それは道徳性に厳密に対応して授けられている場合に限られる、だがかかることは、聡明な創造者にしてかつ世界の統治者であるような存在者の支配する可想界においてでなければ不可能である。理性は、かかる存在者と、我々が来世と見なさざるを得ないようなかかる可想界における生活とを想定せねばならない、さもないと道徳的法則を無価値な虚仮と見なさざるを得なくなる。同一の理性は、道徳的法則から生じる必然的成果を道徳的法則に結び付けるものであるが、もしかかる前提がないと、この必然的成果はまったく失わざるを得ないだろう。それだからこそ、何びとも、道徳的法則を命令と見なすのである。しかし命令は、指図にア・プリオリに適合した結果を命令の規則と結びつけるのでなければ――換言すれば、かかる結果を生じせしめたところの規則と結びつけるのでなければ、従ってまた約束と威嚇とを伴っているのでなければ、命令ではあり得ないだろう。しかしまたこの命令が、最高善としての必然的な存在者、即ち合目的統一を可能ならしめ得るような唯一の存在者から出るのでなければ、命令や威嚇を伴うこともできないであろう。
 我々が、最高善の支配下にある理性的存在者と、かかる理性的存在者たちが道徳的法則に従って形成する集団とを考察の対象とする限り、かかるものを含む世界をライプニッツは恩寵の国と呼び、これを自然の国から区別した。かかる理性的存在者は、自然の国においても確かに道徳的法則に従いはするが、しかし彼等の行状の結果は、我々の感覚界における自然的経過に従ってのみ生じ得る。それだから我々が幸福をうけるに値しない行為をすることによって、幸福にあずかることを自分から制限しない限り、我々はあらゆる幸福が待ち設けている恩寵の国に住むわけである。そして自分は恩寵の国に住んでいる、という自覚が即ち理性の実践的に必然的な理念なのである。
 実践的法則は、それが同時に行為の主観的根拠即ち主観的原則となる限り、格律と呼ばれる。道徳をその純粋性と結果とに関して判定することは理念によって行われる。また道徳的法則に随順することは、格律に従って行われるのである。
 我々は、我々の行状を挙げて道徳的格律に従わしめねばならぬ。しかしこのことは理性が、我々の最高目的に厳密に適合するような結果を、――それが此世におけると彼世におけるとを問わず、――道徳的法則に従う行状に対して規定するような作用要因を、単なる理念にすぎぬ道徳的法則に結びつけるのでなければ不可能である。それだから神と、今は我々に見えないがしかし希望せられるような世界とがなければ、立派な道徳的理念も、なるほど賛同と讃嘆との対象にはなるであろうが、しかし行為の決意と実行とを促す動機にはならない。かかる理念は、およそ一切の理性的存在者にとって自然的でありまた同一の純粋理性によってア・プリオリに規定されているところの必然的な全目的を完全に充足するものではないからである。
 幸福だけでは、理性の立場から言って、とうてい完全な善ではあり得ない。理性は(我々の自然的傾向がいかに幸福を願おうとも)、幸福が幸福をうけるに値いすることに結びつかなければ、換言すれば、幸福が立派な行状と結合していない限り、幸福を是認するものではない。しかし道徳と幸福をうけるに値いすることだけでも、まだまだ完全な善ではない。善を全うするためには、実際に幸福にあずかることを希望し得ねばならない。個人的意図には一切かかわらぬ理性であっても、自分自身の関心をいささかも顧慮することなく一切の幸福を他の人々にも頒ち与えざるを得ないような存在者の立場に身を置くならば、これ以外に判断のしようがあるまい、かかる実践的理念においては、この両要素が本質的に結合しているからである。しかしそのような場合には、道徳的心意が条件になって幸福にあずかることを初めて可能にするのであって、逆に幸福への期待が道徳的心意をまず可能にするのではない。もしあとの場合だとすると、かかる心意は道徳的でなくなり、従ってまた完全な幸福に値いしないことになる。幸福が理性の前でみずから制限を認めるとすれば、それは我々自身の不道徳的な行状に由来する制限にほかならない。
 それだから幸福は、理性的存在者の道徳に――即ちそれによって幸福をうけるに値いするものとなるところの道徳に、厳密に対応するものである。我々が、純粋ではあるがしかしまた実践的な理性の指定に従って移り住まわねばならぬ世界において最高の善をなすところのものは、実にかかる幸福のみである。この世界は、もとより可想的な世界にすぎない、感覚界は、そこに含まれている物の自然から言って、目的のかかる総合的統一を与える見込みがないからである。またかかる可想界の実在性は、根源的最高善という前提以外の何ものにも基づき得ない、一切を充足するところの第一原因を具有する自存的理性は、その完全無欠な合目的性に従い、感覚界における物の秩序、即ち我々にとって極めて隠微な普遍的秩序の根底をなし、これを保持しかつ成就するのである。
 ところでかかる道徳神学は、思弁的神学に対して独自の長所を有する、即ちこの道徳神学が、唯一の完全無欠な理性的、根源的存在者に到達せざるを得ないという特長である。思弁的神学は、客観的根拠に基づいてかかる根源的存在者を指摘することすらしない、ましてこの存在者の存在を我々に確信せしめ得なかったのである。我々は先験的神学においてもまた自然的神学においても、理性がこれらの神学においていかに遠くまで我々を伴い行くにせよ、唯一の存在者――換言すれば、我々が一切の自然原因の上位におき、またそれと同時に一切の自然原因をあらゆる点でこれに依存せしめるに十分な理由をもつところの存在者を単に想定するというだけの有力な根拠をすら見出さないからである。これに反して、もし我々が、必然的な世界法則としての道徳的統一という観点から、かかる必然的法則にふさわし効果と、従ってまた我々を拘束する力とをこの法則に与え得るところの原因を考慮するならば、これら一切の法則をみずからのうちに剰さず包括するような唯一の最高意志が存在しなければならない。さもなかったら我々は、それぞれ相異なる個人的意志の間に目的の統一をどうして見出せるだろうか。かかる最高意志は全能でなければならない。さればこそ世界における全自然と道徳に対する自然の関係とがこの意志に従うのである。またこの最高意志は全知でなければならぬ、さればこそこの意志は我々の心意の内奥とその動的価値とを識別するのである。またこの最高意志は偏在していなければならない、さればこそこの意志は最高の世界福祉が要求するところの一切の必要に直ちに応じるのである。更にまたこの最高意志は永遠でなければならぬ、さればこそ自然と自由とのかかる一致はいかなる時にも欠けるということがないのである、等々。
 叡智者達の住むかかる世界は、単なる自然として見れば感覚界にほかならない、しかし自由の体系をしては、可想的世界即ち道徳的世界(恩寵の国)と名づけられてよい。叡智者達の世界に存する諸般の目的のかかる体系的統一は、この偉大な全体を形成するところの一切の物の合目的統一に必然的に到達せざるを得ない、そして物のかかる合目的統一が普遍的自然法則に従うのは、なお目的の体系的統一が普遍的、必然的な道徳的法則に従うのと同様である。こうして叡智者達の世界における目的の体系的統一は、実践的理性と思弁的理性とを合一するのである。もし、世界が、理性の道徳的使用と合致すべきであるならば、世界は一個の理念から生じたものと考えねばならぬ。かかる理性的使用を欠くならば、我々は自分自身を理性に値いしないものと見なすことになるであろう。実際、理性のかかる道徳的使用こそ、もっぱら最高善という理念に基づいて行われるのである。このようにして一切の自然研究は、目的の体系と言う形式に向かう方向をとり、この研究が最大の拡張を遂げると自然神学になるのである。しかし自然神学は、外部からの命令によって偶然的に設定されたのではなくて、実に自由の本質に根底をもつような統一としての道徳的秩序から出発した、それだから自然神学は、自然の合目的性を、ア・プリオリに物の内的可能と分離しがたく結びついていなければならぬような根拠の上に確立するのである。ここにおおいて自然神学は先験的神学に達する。この先験的神学は、最高の存在論的完全性という理念を体系的統一の原理とするものであるが、この原理は普遍的、必然的な自然法則に従って一切の物を結合する、およそ物はすべて唯一の根源的存在者の絶対的必然性にその根源をもつものだからである。
 もし我々が自分自身の目的を立てないとしたら、いったい我々は経験に関してさえ自分の悟性をどのように使用できるだろうか。ところで最高目的といえば、それは道徳性の目的である、そして道徳性のかかる最高目的を我々に認知せしめ得るのは、ひとり理性のみである。しかし我々が、かかる最高目的を有し、またこれらの最高目的を手引きに従っているとしても、自然そのものが合目的統一を設定していないとしたら、我々は自然に関する知識をすら、認識に関して合目的に使用することができないわけである。実際、自然のかかる合目的統一がなかったなら、我々は理性をすらももち得ないだろう、――我々は理性を訓練することも、また概念に素材を給する筈の対象によって、理性を開発することもできないからである。しかし道徳の合目的な統一は必然的であり、個人的意志そのものの本質に根底を有する,従ってこの統一を具体的に適用するための条件を含むところの自然の合目的統一も同様でなければならない。このようにして我々の理性的認識の先験的拡張は、純粋理性が我々に課すところの実践的合目的性の原因ではなくて、むしろその結果にほかならない。
 こういうわけで我々はまた人間理性の歴史においても、道徳的概念が十分に純化され規定されぬうちは、自然に関する知識も、また他の多くの学問において成就された理性の著しい開発すらも、神性に関しては粗雑でかつ漠然とした概念しか造り出し得なかったし、また一般にかかる問題については、驚くべき無関心しか示さなかったことを知るのである。しかし道徳的理念は、我々の宗教〔キリスト教〕における至純な道徳的法則によって必然的にいっそう高度の仕上げを経た、そしてこのことはまた対象に関して理性を鋭敏ならしめた。理性は、かかる対象に関心をもたざるを得なかったからである。こうして道徳的理念は、自然に関する広大な知識にも、また信頼し得る正しい先験的洞察(これはどんな時代にも欠けていたところのものである)にも頼らずに、神的存在者の概念を成立せしめた。この概念は我々が現在正しいとみなすところのものであるが、それは思弁的理性がこの概念の正しさを我々に確信せしめるからではなくて、まさにこの概念が道徳的な理性原理と完全に一致するからである。それだから思弁が、ただ思いみるだけにとどまり遂に主張し得なかったような認識を我々の最高の関心に結びつけ、なるほど論証された定説ではないにせよ、しかし純粋理性の最も本質的な目的に対して絶対に必然的な前提たらしめた功績は、なんといっても純粋理性にのみ、しかもその実践的使用にのみ帰せられるのである。
 しかし実践理性がかかる頂点に――換言すれば、最高善としての唯一の根源的存在者という概念に達したからといって、実践理性があたかもこの概念を適用するための一切の経験的条件を超越して、新奇な対象を直接に認識し得るように思いなし、ためにこの概念から出発して道徳的法則そのものをかかる概念から導来することは許されない。この道徳的法則こそ、その実践的な内的必然性が我々を自存的原因即ち聡明な世界支配者を前提するに到らしめ、これらの法則に効果を与えた当のものだからである。こういう次第であるから我々は、道徳的法則を偶然的なもの、世界支配者の単なる意志から導来せられたものとみなすわけにはいかない。ましてこの場合には、我々がかかる神的意志を道徳的法則に適うように案出しなかったならば、我々はこの意志についてまったく知るところがないであろう。実践理性が我々を指導する権利を有する以上、我々が道徳的行為を我々に課せられた責務と考えるのは、道徳的行為が神の命令とみなされるからではなくてむしろかかる行為を果たすべき責務が我々にあるからこそ、我々はこれを神の命令とみなすのである。我々は、理性の原理に従うところの合目的統一のもとで、自由を学ぶことになるだろう、そして理性がかかる道徳的行為そのものの本性にかんがみて我々に教えるところの道徳的法則を我々が神聖に保つ限り、我々は神の意志に適うものであると信じ、また我々自身および他の人達が相共に世界の福祉を促進することによってのみ、神の意志に仕えるものと信じるのである。それだから道徳的神学は内在的にのみ、即ち此世における我々の使命を達成するためにのみ使用せられ得る。従って我々は、一切の目的を包括するところの道徳的体系に随順し、また正しく身を処するに当っては、道徳的法則が示す理性の手引きに頼り、決して狂信に惑わされたり、それどころか罪に趨ったりしてこの手引きを放棄し、そのあげく最高存在者というこの理念にこの手引きを直接結に結びつけるようなことがあってはならぬ、そのようなことは、道徳神学の超越的使用であろう、そしてかかる使用は思弁の超越的使用と同じく、必ずや理性の究極目的を覆し、これを挫折せずにはおかないのである。」
出典:カント「純粋理性批判」
   岩波文庫「純粋理性批判(下)」(103~111頁)
   1962年7月16日第1刷発行、1993年12月15日第36刷発行
  昭和47年12月10日初版印刷、昭和47年12月20日初版発行


第二十章 ゲーテの智慧・・・・・『神の霊について』
「『神と世界』
    序 の 歌 
 みずからを創造し、かつ永遠のこのかた創造の任にある、かの者の御名において――。   
 信仰を創造し、信頼、愛、はた活動と力を創造する、かの者の御名において――。
 つねに呼ばれながら、なおその本来の性の故に隠れている、かの者の御名において――。
 われらが耳の及ぶかぎり目のとどくかぎり、見いずるはただかの者に似た既知のもののみである。
 われらの霊が火のごとく高く翔つとき、その比喩と形象はゆたかにあたえられる。
 こころひかれて先へ先へとたのしくさまよいゆけば、行手の道はよそおい美しい。
    ※
 ただ外から突きうごかして、その指先に万有を回転させる神があろうとも、それが何であろう!
 神の神たる所以は、世界のその内にあってうごかし、自然をおのれに、おのれを自然に蔵することである。
 かくて、神の中に生きてはたらき存在するものが、つねに神の力を失わず、神の霊を離れぬことである。
    ※
 内にこそ万有は存在する。
 さればこそ、もろもろの国民はめぐしき伝統をつたえて、何人も彼が知る最善のものを、神――彼の神と呼ぶ。
 これに天と地をゆだね、これを怖れ、なしうれば愛する。

    一 と 全
 限りなきものの中にみずからを見いずべく、個体はよろこんで消えてゆく。
 ここにすべての憂苦は失せる。
 熱い願望、あらあらしい意欲をすて、いとわしい要請によらず、きびしい規範によらず、すすんでおのれを捨てることこそ喜悦である。
 世界霊よ、きたれ、きたってわれらを浸透せよ!
 かくて、個に執する慣性とたたかうこそ、われらの力の至高の使命となる。
 よき霊、いつくしき師たちがめぐみもてやさしく、われらをかつて一切を創造し、いま創造しつつある者へとみちびく。
 硬化の鎧に固まらしめざらんために、被創造物をさらに創造し直すべく、永遠の生ける行為ははたらく。
 いまだ存在しなかったものも、よき星の群れ、彩ある大地へと生成するだろう。
 行為はけっして休息をゆるされぬ。
 うごきいで、つくりつつはたらき、まず形成し、さて変容せねばならぬ。
 瞬時を静止するかに見えるものは錯覚にすぎない。
 永遠なるものはいたるところに発動をつづける。
 いかんとなれば、もし存在の中に停滞しようとするとき、一切は無に崩壊せざるをえないからである。

遺 言
 いかなる存在も無に崩壊することはありえない!
 永遠なるものはいたるところに発動をつづける。
 幸に酔って存在に執着せよ!
 存在は永遠である。
 なんとなれば、万有がみずからを飾る法則が、もろもろの生命ある宝を保ち支えているが故である。
 真理はすでにとくに認められて、高貴なる人々を結び合わしていた。
 ひさしくも知られていた真理、これをとらえよ!
 地上の子よ、地球とそのはらからの星の群れに、太陽をめぐるべき軌道を示した賢者に感謝せよ!
 かくてただちに目を内に転ぜよ。
 気象高き者は疑うことなく、心の中におのれが中核を見いずるであろう。
 そこに規範に接するであろう。
 自立する良心こそは、なんじの徳行の日の太陽である。
 このときに、なんじは感覚をも信用することができる。
 なんじが理性に醒めてあるとき、感覚は虚妄の形を示すことがない。
 いきいきした眼尖によろこびもて観察して、豊かにあふれる世界の緑野を、足どりたしかにしなやかに行け。
 豊穣の祝福を節度をもって享受せよ。
 生が生を楽しむとき、つねに理性を失わざれ。
 かくてこそ、過去は恒久であり、未来はすでにはや生き――、現在は永遠である。
 ついにこれを体得したとき、なんじはただ生産的なるもののみが真であるという感情に充たされる。
 かくて、なんじは世の人のうごきを吟味するであろう。
 それは恣意にしたがって専断するが故に、なんじはただ少数者の一員となれよ。
 いにしえよりつねにかくしあったが、哲学者は、詩人は、ひとりしずかに、ただおのれの意志にしたがって愛の事業を成就した。
 かくしてこそ、なんじもうつくしい幸を獲るであろう。
 高貴なる人々のいつしかの共感を期することこそ、こよなくねがわしい使命である。」

「わたしたちは、自然探究者としては汎神論者、詩人としては多神論者、道徳家としては一神論者である。」(「箴言と省察」)より)

出典:ゲーテ「神と世界」
   岩波文庫「ゲーテ詩集(四)」(62~69頁)
   1957年11月5日第1刷発行、1996年10月8日第19刷発行


第二十一章 ヘーゲルの智慧・・・・・『哲学の理念について』
「哲学のこの概念は自己を思惟する理念であり、知る真理であり、論理的なものである。しかしこの論理的なものは、それの(論理的なものの)現実態としての具体的な内容のなかで確証された一般性であるという意味をもっている。学はこのような仕方で自己の端初に復帰している。そしてこうして論理的なものは学の成果である。しかもこの論理的なものは精神的なものである。前提をもつ判断作用においては論理的なものはそれ自身において(本性上)現象をもっていた。しかし論理的なものはここでは、前提をもつその判断作用から、したがってこの現象から、同時に自己の境位として自己の純粋原理へ自己を高めている。
 さしあたりいっそう進んだ発展を基礎づけるものはこの現われである。第一の現象を形成するものは、論理的なものを出発点としての根拠としてもち、自然を媒辞としてもっているような推論である。そしてこの推論においては媒辞としての自然が精神を論理的なものと契合させる。論理的なものが自然になり、そして自然が精神になる。精神そのものと精神の本質との間に立っている自然は、もとより両者を有限的な抽象化の両極に分離するようなことがなく、また自己自身を両者から引き離して一つの独立なものにするようなこともない。もしそのようなことをしたならば、そのときは自然は両者とは別の独立なもの、すなわち単に二つの他者を他者の立場から契合するにすぎないものになろう。自然はなぜこのようなことをしないかというと、推論が理念のなかにあるからであり、また自然が本質的に単に通過点・否定的契機として規定されているにすぎず、潜勢的自体的には理念であるからである。しかし、概念の媒介は移行という外面的形式をもており、学は必然性の行程という形式をもっている。その結果、ただ一方の極においてのみ、概念の自由は概念の概念自身との契合として措定されている。
 この現象は第二の推論においては止揚されている。というのは、第二の推論はすでに、過程において媒介者としての地位を占めているところの、そして自然を前提し自然を論理的なものと契合するところの、精神そのものの立場であるからである。これが理念における精神的反省の推論である。ここでは学は主観的認識作用として現れる。そしてこの主観的認識作用が目的としているものは、自由であり、主観的認識作用自身は自分に自由を作り出すという道程である。
 第三の推論は、自己を知る理性を絶対的一般者として自分の媒辞としてもっているところの哲学の理念である。そしてこの媒辞は、精神と自然に分裂して、精神を理念の主観的活動の過程にして前提し、自然を自体的(直接的)客観的に存在する理念の過程にして一般的極にする。理念は自己を両現象へ根源的に分割することによって、これら二つの現象を理念自身(自己を知る理性)の顕示として規定する。それで理念のなかでは、運動をつづけ発展するものは事象の本性すなわち概念であるということ、この運動は同様に認識作用の活動であるということが、結合されている。こうして理念は、絶対的精神として永遠に自己を活動させ自己を産出し自己を享受するところの、現実的自覚的な(自己自身に充足している)永遠の理念である。
 <アリストテレス『形而上学』(第十二巻第七章から)>
そして、その思惟は自体的な思惟であって、それ自らで最も善なる者をその対象とし、そしてそれが最も優れた思惟であるだけにそれだけその対象も優れた者である。その理性はその理性自身を思惟するが、それは、その理性がその思惟の対象の性を共有することによってである。というのは、この理性は、これがその思惟対象に接触しこれを思惟しているとき、すでに自らその思惟対象そのものになっているからであり、こうしてそれゆえ、ここでは理性(ヌース)とその思惟対象(ノエートン)とは同じものである。けだし、思惟の対象を、すなわち実態を、受け容れるものは理性であるが、しかし、この理性が現実的に働くのは、これがその対象を所有しているときにであるから、したがって、この理性がたもっていると思われる神的な状態は、その対象を受け容れる状態というよりもむしろそれを現に自ら所有している状態である。そしてこの観想(テオーリア)は最も快であり最も善である。そこで、もしこのような良い状態に――われわれはほんのわずかの時しかいられないが――神は常に永遠にいるのだとすれば、それは驚嘆されるべきことである。それがさらに優れて良い状態であるなら、さらにそれだけ多く驚嘆されるできである。ところが、神は現にそうなのである。しかもかれには生命さえも属している。というのは、かれの理性の現実態は生命であり、しかもかれこそはそうした現実態だからである。そして、かれの全くそれ自体での現実態は、最高善の生命であり永遠である。だからしてわれわれは主張する、神は永遠にして最高善なる生者であり、したがって連続的で永遠的な生命と永劫(アイオーン)が神に所属すると。けだし、これが神なのだから。」
出典:ヘーゲル「精神哲学」
   岩波文庫「精神哲学(下)」(328~332頁)
   1965年10月16日第1刷発行、1998年11月6日第16刷発行


第二十二章 ショーペンハウワーの智慧・・・・・『意志の否定について』
「意志の否定、廃棄、転換ということは、意志の鏡にあるところのこの世界の廃棄でもあり、消滅でもあるのだ。もしもわれわれがその意志をもはや鏡の中に見出せなくなったとしたら、意志がどこへ行ったかなどと問を発することはむだなことであって、そのときには、意志にはもはや「どこ」も「いつ」もないのであるから、意志は無のなかへと失われてしまったのだと嘆くことになる。
 もしわれわれが逆の立場に立つことが可能であるとすれば、記号が交換されて、われわれが存在すると考えられていたものが実は無であり、かの無こそは実は存在するものだということが示されてくるだろう。しかしわれわれが生きんとする意志それ自身であるかぎりでは、この後の無の方はただ否定として認識されるだけだし、否定として記号づけられるだけのことでしかあるまい。エンペドクレスの古い命題、等しきものは等しきものによってのみ認識されるという命題がわれわれからいっさいの認識を奪ってしまうからである。これとちょうど同じ理由で、まさにこれとは反対の関係になるが、エンペドクレスの同じ命題の上に、われわれのあらゆる現実的認識の可能性、すなわち表象としての世界、ないしは意志の客体性が、究極的に基づいているのである。なぜなら世界とは意志の自己認識にほかならないからである。
 それにもかかわらず、哲学が意志の否定として表現することがら、ただ否定というかたちでしか表現しえないことがらに関して、なにがしかの肯定的な認識を手に入れたいと、あくまで固執するならば、われわれとしては、意志の完全な否定に到達したすべての人が経験したあの境地を参考にしなさいと申し上げるよりはほかにいかなる方法もない。その境地というのは、忘我恍惚、有頂天、開悟、神との合一、等々と名づけられている境地のことである。しかしながらこのような境地は、厳密にいえば、認識とはよぶことができない境地であろう。なぜならそれは、主観と客観の形式をもはやそなえていないし、それにまたその境地に近づくには自分の経験によるしかなく、それは他人に伝達することができない経験だからである。
 しかしながらわれわれは徹頭徹尾、哲学の立場に立ちつづけるものである以上は、否定というかたちでの認識でがまんし、肯定的に表現できる認識のぎりぎりの境界石の所まで到達したことでせめて満足していただくのほかはない。そう考えたればこそ、われわれはこれまで世界の本質それ自体を意志であるとして、世界のあらゆる現象のうちにひたすら意志の客体性を認識し、この客体性を追跡して、暗い自然の諸力の、認識を欠いた衝動にはじまり、人間の最高度に意識的な行動にいたるまで、意志のこの客体性を跡づけてきたのである。そういう経過をたどってきたのだから、意志の自由な否定ならびに放棄がおこなわれると同時に、今や自然の諸力から人間の行動にいたるまでのありとあらゆる現象も一緒に廃棄されることになるのだという帰結を、われわれは決して避けようとは思わない。意志の自由の否定、放棄とともに、この世界を成り立たせていた混乱錯雑――あらゆる段階の客観性のうちに現れる終局も休息もないあらゆる不断の混乱錯雑――もなくなり、段階的に相次いで現れた諸形式の多様性もなくなり、意志がなくなるとともに意志の現象全体がなくなり、しまいにはとうとうこの現象の一般形式であるところの時間と空間もなくなり、さらにはまた現象の究極の根本形式である主観も客観もなくなってしまうのである。意志がなければ、表象もないし、世界もない。
 たしかにわれわれの前には無だけが残っている。しかしこのように無に帰してしまうことに抵抗するものがあり、これがわれわれの本性なのだか、まことにこれこそほかならぬ生きんとする意志である。生きんとする意志こそがわれわれ自身であり、それがまた我々の世界なのである。われわれがこれほどまでにも無を嫌悪しているということ自体が、われわれがいかにはなはだしく生を意志しているか、われわれが生きんとするこの意志以外のなにものでもなく、この意志のほかにはなにも知っていないということを、別様に言い換えていることにほかならない。――
 だが、しかし、われわれはいま自分自身の置かれているこのような悲惨さと捕囚の状態からいったん眼を転じて、すでに世界を超克せるひとびとにあっては、意志はすでに豊かな自己認識に到達し、意志は万有のうちに自分自身を再発見し、しかるのち意志は自分自身を自由に否定することにいたったのであった。こまで来てしまえば彼らはあとにはもう、意志の最後の痕跡が、その痕跡によってかろうじて命をつないでいる身体といっしょに、やがて消滅していくのを眺める日を待つばかりであろう。こうしてかれらを見つめていると、われわれの前に現れるのは、もはや休息なき混乱錯雑ではない。願望から恐怖への、また喜悦から悲哀へのこころの休まる間のない移り行きではない。意欲する人間の生の夢を織りなす希望、決して満たされもしなければ、完全に消えてなくなることもないあの希望のたぐいではない。そうではなく、そうしたものの代わりに、あらゆる理性よりももっと高いかの平安、大海に比すべき心のまったき寂静、深い安息、ゆるぎない確信、ならびに明澄さである。ラファエロやコレッジョが描き出したのは、容貌におけるこうした境地の残映にすぎないのであるが、それでも福音は確実にとらえているといえよう。福音とはすなわち、ただ認識だけが残り、意志が消えてなくなってしまったというそのことにほかなるまい。――
 ところで、われわれはこのとき、深い沈痛な敬慕の念をいだいてこうした境地を見つめるのであるが、これと並べてみると、われわれ自身の悲惨きわまりない救い難い状態はコントラストをなして、まざまざと照らし出されている思いがする。それはたしかにそうだが、しかしそれにしても、本書のこの哲学的考察は、われわれに永続的な慰めを与えることができる唯一の考察だといえよう。われわれは一方においては癒し難い苦悩と果てしない悲惨とが、意志の現象であるこの世界の本質をなしていることを認識してきたし、他方においてわれわれは、意志の廃絶とともに世界は流れるように消え去るさまを眺め、眼前にはただ空虚なる無が残るだけであることを知ったのであった。ここまでくれば、この考察はわれわれに永続的な慰めを与えてくれる唯一の書となるであろう。――
 われわれが世界を超克したかの聖者たちに、自分自身の経験のなかで出会えるなどということは、もちろんめったに恵まれないことであろうが、しかしかれらについて記録された物語や、内的な真実さという印章を押されて保証済みの芸術作品が、かの聖者たちをわれわれの眼の前に髣髴とさせてくれることと思う。そこでわれわれは本書の以上のような仕方に従って、これらの聖者たちの生涯や行状を考察して、無にまつわるあの暗い印象を払いのけなければならない。この無こそあらゆる徳ならびに精進の背後に、最終的な目標としてただよっているものであるというのに、われわれは子供が暗闇を怖れるように、この無を怖れているのである。」
出典:ショーペンハウワー「意志と表象としての世界」
   中央公論社「世界の名著 続10 ショーペンハウワー」(708~711頁)
   昭和50年8月20日初版印刷、昭和50年8月30日初版発行


第二十三章 トルストイの智慧・・・・・『至福について』
「『生は至福である』
 人の一生とその幸福は、肉体によって他人の霊および神により区別された各自の霊と、その霊の根源そのものとの、日と共に年と共に高まり深まり行く合一に存する。この合一は各自の霊が、愛によって自己を発現しつつますます劃然と肉体から脱却することによって成就される。したがって、もしわれわれが、肉体よりの霊のこの脱却がわれわれの真の生活であり真の幸福である事を悟るならば、われわれの生活は、いかなる災禍や、艱難や、病気などでみたされていても、打ち破り難い至福以外の何ものでもあり得ない。
一 人生はわれわれの把握し得る至高至上の幸福に他ならない
1 人生はよしんばいかなる人生であっても、これにまさる何物もない至高至上の幸福である。もしも人生を悪であると言うならば、そういう場合、われわれは、他の、想像される、よりよき人生と比較して、そういう事をうんぬんするに過ぎないのだ。が、われわれは他のいかなるよりよき人生も知らないし、また知り得ない。それゆえに、われわれのこの人生は、たとえいかなるものであろうとも、われわれにとって至高至上の幸福である。
2 われわれはどこかにもっと大きな幸福を得られると打算して、しばしばこの人生の幸福を粗略にする。が、そういうもっと大きな幸福などというものは、どこにも絶対あり得ない。なんとなれば、この人生において、われわれには、より以上のものがあり得ないような、そういう絶大な生の幸福が、与えられているからである。
3 この世界は冗談でもなければ、もっとよい永遠の世界へ移転するための試練の谷でもなく、この世界、われわれが現在生活しつつあるこの世界は、美しい、楽しい、永遠の世界の一つである。そしてわれわれはこの世界を、われわれと共に生きている現在の人々と、われわれより後にここに生活するだろうすべての人々のために、われわれの努力精進によって、より美しい、より楽しいものにする事が出来るのみならず、また当然そうしなければならないのである。
4 たとえいかなる運命の手からわれわれの分け前として投じて寄越されようとも、すなわち、情深い手から投ぜられようとも、また無情な手から投ぜられようとも、われわれに与えられたこの人生のあらゆる瞬間を、最上のものにすることが出来る。それは生命の妙術であり、理性に恵まれた存在の真の優越点である。(リフテンベルグ) 
5 われわれが不幸なのは、自分が幸福な事を知らないからである。(ドストイェフスキイ)
6 神への奉仕が人生の使命を組成すると断言する事は出来ない。われわれの一生の使命は、常にわれわれの幸福にあるし、また将来もそうに違いない。が、神はわれわれに幸福を与える事を欲したがゆえに、人々は、自己の幸福を把握するに当たって、神がわれわれに欲する事を実行し、彼の意志を遵奉するのである。
二 真の幸福は現在の生活にあって、《墓の彼方》の生活にはない
1 真実ならざる教えによれば、この世の生活は悪であって、善は来生にのみ獲得されることになる。が、真実なるキリストの教えによれば、人生の目的は善であり、そして善は現世において獲得される。真の幸福は常にわれわれの手中にある。それは影の形にそうごとく、善なる生活に付随する。
2 もし天国が諸君自身の内部にないならば、諸君は絶対に天国に分け入ることができないであろう。(御告の祈り)
3 この世の生活が別世界への行程に過ぎないということ、別世界においてのみ幸福であり得るのだということ、を信じてはならない。これは嘘である。ここ、この世においてのみ幸福であるべきはずなのだ。が、ここ、この世において、幸福でありたいと思ったら、われわれをこの世につかわした者その者が欲するごとくに、是非とも生活しなければならない。さらにまた、諸君がここ、この世において、幸福な生活を送ろうと思ったら、他人に向い、声を大にして、すべての人が神の意志に従って生活しなければならない、などと強いてもならない。これも間違っている。まず自ら神に従って生きる事だ。そして自分で努力する事だ。そうすれば、諸君自身も必ず幸福になるし、また他の人々もその結果、前より不幸にならないどころか、ずっと幸福になるであろう。
4 他の人の最も有害な、最も陥りやすい迷過は、彼等がこの世の生活において、自分の希望するような、そういう幸福を、すべて得ることが出来ないと考えることである。
5 この世界が涙の谷であり、苦い試練の場所であって、あの世の世界のみが幸福な世界だと断言する人々は、われわれが現在生活している時と場所にかぎられた世界以外の、あらゆる無窮の神の世界が美しいとか、もしくは、あらゆる神の世界における生活が美しいのだとかいう風に、断言するようなものである。なんという変てこな事だろう。果たしてこれが、自己の生涯の意義と使命に対する歴然たる無理解ではないだろうか!
6 真実なる生活に終始せよ。――そうすれば、諸君は多くの敵を持つようになるが、しかしそれ等の敵もまた、諸君を愛するようになるであろう。人生は諸君に多くの不幸をもたらすだろう。が、それ等の不幸のおかげで、諸君は初めて幸福になり、人生を祝福し、他の人々も祝福させるようになるのである。(ドストイェフスキイによる)
7 神に哀願するなんて、なんという奇怪な滑稽な話だろう!神に哀願する必要はない。神の掟を守り、神その者になればよいのだ。神に対する唯一の合理的な態度は、神は私に神自らの霊を入れる事によって与えた幸福に対して、常住坐臥彼に感謝する事である。主はその労働者であるわれわれ人の子を、主がわれわれに示した事を行いさえすれば、われわれの想像し得る至高の幸福が(霊的歓喜の幸福が)得られるような、そういう境地に置いたのだ。にもかかわらずわれわれは、神に対してその上にまだ何事かを嘆願するのである。もしわれわれがこの上に何か願い事をするならば、われわれがわれわれに使命づけられた事を、行っていないという意味になる。
三 真の幸福は自分自身の内部のみに発見される
1 神は私の胸に入り、私を通じて神自身の幸福を探求する。しからば一体いかなるものが、神の幸福であり得るだろう?それはつまり、神自身になるという一事に他ならない。(御告の祈り)
2 ある賢者は言った。《幸福を探し求めて、私は世界の全土を巡廻した。私は夜昼となるこれを探し求めた。私がすでにこの幸福を見出す事に全く絶望してしまったある時、内部の声が私に向かって言うのだった。「その幸福はなんじ自身のうちにある!」私はその声にきき入った。そして私は真実の、不変の幸福を発見した。》
3 なんじの胸に神と全世界とが包括されているにもかかわらず、なんじにはさらにいかなる幸福が必要だというのか?(御告の祈り)
4 もし自分の霊よりほかの何物をも、自己の所有と呼ばないならば、そういう人々は幸福だ。もし私欲に燃えた人々や、邪悪な人々や、自分たちを憎んでいる人々の間に生活して、彼等の幸福が何者にも奪い取られ得ないならば、彼等は実に幸福な人である。(仏陀の教え)
5 善なる生活に終始すればするほど、われわれはますます少ししか世の人々に対して不平を言わなくなる。邪悪の生活に終始する事が大であればあるほど、それだけわれわれは自分にでなく、他人に満足しなくなる。
6 賢人は自分の胸にすべてを捜す。が、痴人はそれを他人の胸に探し求める。(孔子)」
出典:トルストイ「人生の道」
   岩波文庫「人生の道 下巻」(249~254頁)
   1939年10月5日第1刷発行、1995年10月5日第22刷発行


第二十四章 ジェームスの智慧・・・・・『潜在意識的自己について』
「私たちのいわゆる『より以上のもの』と、この『より以上のもの』と私たちの『合一』の意味とが、私たちの研究の中心である。これらの言葉はどんな明確な叙述に翻訳されることができるであろうか?そして、これらの言葉はいかなる明確な事実を表しているのか?もし私たちが無造作に或る特殊な神学、例えばキリスト教神学の立場をとって、『より以上のもの』をただちにエホバと決めてしまい、『合一』を、エホバがキリストの教義を私たちに負わせるここと決めてしまうなら、それは不当であろう。それでは他のもろもろの宗教に対して不公平なことになるであろうし、少なくとも現在の私たちの立場からすれば、過剰信仰となるであろう。
 私たちはまず、あまり特殊化されていない言葉を使って始めなければならない。そして、宗教科学の義務の一つは、宗教を他の諸科学との連絡を失わせないでおくことであるから、私たちはなによりも第一に、心理学者たちも事実を認めるように仕方で『より以上のもの』を叙述しようと努めるのが良いであろう。潜在意識的自己は今日では公認された心理学的実在物である。そして私はこれこそ正に、要求されている媒介的な概念であると信じる。宗教的な考慮などまったく別にしても、私たちの魂全体のなかには、事実ほんとうに、私たちがいついかなる時に気づいているよりもより以上の生命がある。意識を超えた領域の探求はまだほとんど真剣に企てられていないが、マイヤーズ氏が1892年に彼の潜在意識に関する論文で言っていることは、それが初めて書かれた時と同じように今でも真実である。『われわれはそれぞれみな、実際には、自分で知られているよりも遥かに広大な永続的な精神的実在物である――どんな形で表しても決して完全には表現されえない個体である。自己は生体を通して現れる。しかしそこにはつねに自己の或る部分が現われないである。そしてつねに、有機的な表現の或る力が休止しているか保留されているかするようにおもわれる。』私たちの意識的存在を浮彫りのようにくっきりと際だたせているこの大きな背景の大部分は、無意味なものである。不完全な記憶、愚かしい連想、制止の働きをする臆病さ、マイヤーズのいわゆるさまざまな種類の『分離性の』現象、これらが大部分をなしている。しかしまた、天才の仕事の多くも、ここに起源をもっているように思われる。そして、宗教的生活においてこの領域からの侵入がどれほど著しい役割を演じているかは、回心、神秘的経験、および祈りに関する私たちの研究において、私たちの知ったところである。
 そこで私は一つの仮説としてこう提唱したい。すなわち、私たちが宗教的経験に結ばれていると感じる『より以上のもの』は、向こう側では何であろうとも、こちら側では、私たちの意識的生活の潜在意識的な連続である、という仮説である。このように承認されている心理学的事実を私たちの基礎として出発するならば、私たちは神学の欠いている『科学』との繋がりを保つことができるように思われる。同時に、宗教的人間は外的な力によって動かされているという神学者の主張も支持されることになる。なぜなら、客観的な外観をとって、当人に外部から支配されているような暗示を与えるのが、潜在意識圏からの特徴の一つだからである。宗教的生活においては、この支配は『より高い』ものと感ぜられるが、しかし、私たちの仮説によれば、支配しつつあるのは、もともと、私たち自身の精神のなかに隠れているより高い能力なのであるから、私たちを超越する力との合一の感じは、けっして単に見せかけだけでなく文字どおり真実な或るものの感じなのである。
出典:ジェイムス「宗教的経験の諸相」
   岩波文庫「宗教的経験の諸相(下)」(376~378頁)
   1970年2月16日第1刷発行、2012年8月24日第14冊発行


第二十五章 ヤスパースの智慧・・・・・『実存について』
「認識による定位づけによって誰にでもいやおうなしに知られうる内容として私に近づきうるすべてのものの総括を世界と名づけるならば、すべての存在はそのような世界存在でくみ尽されるかどうか、認識する思惟は世界定位でもって終わるのかどうか、という疑問が生ずる。神話的な表現のしかたで霊魂や神と呼ばれ、哲学の用語で実存や超越者と呼ばれるものは世界ではない。それらのものは、世界内の事物が知られうるものとして存在するのと同じ意味では存在するものではないが、しかしそれとは別の仕方で存在しうるものである。それらのものはたとえ知られなくてもけっして無なるものではなく、認識されなくても思惟されるものではあるだろう。
 このことから、ことごとくの世界存在に対立して何が存在するか、という問いに対する哲学的な根本決定が生ずる。
 それは、――現存在のうちには――存在しないが、しかし存在しうるしかつ存在すべき存在であり、それゆえ、それが永遠的であるかどうかを時間的に決断する存在である。
 この存在は実存としての私自身ある。私が私自身に対して客体とならないかぎり、私は実存である。私が私自身と呼ぶものを観ることはできないが、私は実存において自身が他に依存しないことを知っている。実存の可能性から私は生きる。実存の実現においてのみ私は私自身である。私が実存を把握しようとすれば、実存は私から消えうせる。実存は心理学的主観ではないからである。私が自らを客観化して自己を素質や特質として理解する場合よりむしろ実存の可能性のうちにある場合に、自己がより深く根ざしていることを私は感じる。実存は主観性と客観性との両極のうちに現存在として現象するものである。しかし実存は、対象としてどこかに与えられていたり、観察のために基礎的なものとして推論されたりするような或るものの現象ではない。実存はただ実存自身と他の実存にとってのみの現象である。
 したがって私の現存在が実存であるのではなく、人間は現存在において可能的実存である。現存在は現存するか現存しないかのいずれかであるが、実存は可能的なものであるがゆえに、選択と決断を通して、みずからの存在に向かって進むか、それともその存在からそれて無のうちに退くかのいずれかである。私の現存在と他の現存在の間には世界存在の狭さと広さという範囲の相違があるが、しかし実存は自らの自由の根拠に基づいて他の実存とは本質的に相違する。存在としての現存在は生きかつ死ぬが、実存は死を知らず、みずからの存在に対して高揚か没落かという仕方で関わっている。現存在は経験的に現存し、実存はただ自由としてのみ現存している。現存在は全く時間的であり、実存は時間のうちにあって時間より以上である。私の現存在は、現存在のすべてでないかぎり、有限であるが、しかしそれ自身で自己完結する。実存も独存せず、すべてではない。なぜなら実存は他の実存と関係し、超越者と関係するときにのみ存在するからであり、絶対他者としての超越者を前にして、自己自身のみによって存在しているのではないことを自覚するからである。だが現存在が際限のないものの相対的な完結として無限なるものと呼ばれうるのに対して、実存の無限性は開かれた可能性として完結のないものである。現存在にとって可能的実存に基づく行為は疑問である。なぜなら、時間のうちで己の存立を保つための現存在の配慮は無制約者に逆らわなければならないからである。この無制約者への道は現存在の損失をもたらし破壊に導くかも知れないから、現存在の配慮にとってはおぼつかないからである。その配慮は実存的行為を現存在みずからの存立ための諸条件のもとに置こうとしたがる。しかし可能的実存にとっては、現存在のそのような無制約の利用と享受は既に没落である。なぜなら、可能的実存はそれみずからの側においてみずからの現存在の現実を、みずからが無制約なものとして把握されるところの条件のもとに置くからである。それに対して、無制約的な単なる現存在の意志は、それの現存在が徹底的な挫折の現実としてそれみずからに明らかになるとき、絶望せざるをえないのである。
 現存在の充実が世界存在である。可能的実存は、それみずからが現象する領域として世界にある。
 知られたものとして世界は疎遠なものである。私は世界に距離をもって立っている。悟性ととって知られうるものや経験的に学び知られうるものは、単にそのようなものとしては私を突き放す。つまり、それらのものは私にとっては他者である。私はそれらに無関心であり、それらの現実的なものにおいては優勢な因果律にゆだねられ、妥当なものにおいては論理的強制にゆだねられることになる。私はそれらのもののうちでは安全にされていない。なぜなら私はそこに私と親近なるものの言葉を聞かないからである。私がより決定的に世界を把握しようとすればするほど、他者として、ただそれだけのものとして何の慰めもない世界のなかで、私はますます故郷を喪失したように感ずるようになる。慈悲深くもなく無慈悲でもなく無感動であり、法則性に隷属したり偶然性によろめいたりして、世界はそれみずからについては何も知らない。世界はとらえられない。けだし世界は私に非人格的に私にあい対し、部分的には説明されうるが全体としてはけっして了解されないものだからである。
 それにもかかわらず、私は世界を別の仕方で知っている。そのときの世界は私に身近であり、私はそのなかに住まっており、そこで安らってさえいる。その世界の法則性は私の理性の法則性である。すなわち私は私を世界に順応させ、私の道具を作り、世界を認識することによって安らっている。世界は私に語りかけ、世界のうちに、私に関与する一つの生命が息吹いている。私は世界に身をゆだね、世界のうちにいるときに全くくつろいでいる。世界はその小さなものや現前するものにおいて私にとって居心地のよいものであり、その巨大なものにおいて魅惑的であり、また身近なものにおいて無邪気なものであり、また遠方にあるものとしては私をそちらの方へ連れ去っていこうとする。世界は私の期待どおりの道を進まないが、しかし予想もしなかった実現や不可解な拒絶によって世界が私を驚かすときでさえも、私は没落のうちにありつつもなお世界に対する信頼を抱いている。」
原典:ヤスパース「哲学『実存開明』」
   中央公論社「世界の名著 続3 ヤスパース・マルセル」(49~51頁)
   昭和51年7月10日初版印刷、昭和57年7月10日初版発行


第二十六章 ヤージニャヴァルキヤの智慧・・・・・『アートマンについて』
「『さて、「この人間は、実に、欲望から成るものである」といわれています。彼は欲望のままにそれを意図する者となり、何事かを意図すればそれを行い、何事かを行えばそれに応じた者となるのであります。
この点について次の詩節があります。
執着ある人は、その特徴である思考力が、つなぎとめられているところへ業とともにおもむく。
  この世で彼が何をなすにしても、その業のはてまでいたり、再びその世界からこの世へと、業を積むために彼はたちもどる。
 欲望を持つ人は以上のとおりです。
 しかし、欲望を持たない人は、――欲望のない、欲望を離れた、欲望がすでに満たされた、アートマンを希求する人の諸機能は、上方へ出て行きません。彼はブラフマンそのものであり、ブラフマンに帰入するのです。
 その点について次の詩節があります。
彼の心の拠りどころとするすべての欲望が放棄されるとき、死すべきものは不死となり、この世でブラフマンに到達する。
 あたかも蛇のぬけがらが、蟻塚の上に遺棄されて生命なく横たわっているように、この身体も同様に横たわっています。そして身体をもたない不死の生気(プラーナ=アートマン)は、まさしくブラフマンであり、光輝そのものなのです。』
『わたしは尊師に千頭(の牛)をさし上げよう』とヴィデーハ国王ジャナカはいった。
(ヤージニャヴァルキヤはさらに続けた。)
『この点に関して次のような詩節があります。
太古以来の細い道は延々と連なり、わたしに及び、実にわたしによって見出される。
  それを経て、賢明なブラフマンを知る人々は、この世から解放されて、上方へ、天国へ至る。
  そこには白や、または青、黄、緑や赤があると人々はいう。
  この道は実にブラフマンによって見出され、それを経て、ブラフマンを知る人、徳行の人、光輝化とした人は行く。
  無知に耽溺する人々は文目もわからぬ闇に陥る。 
  知識に満足する人々は、しかし、それにまさるかのような暗闇に陥る。
  それらの世界は「無歓喜」といわれ、漆黒の闇におおわれている。
  無知の(アートマンに)めざめぬ者たちは、死後にはそこにおもむくのである。
  人がもし「わたしはこれである」と、アートマンをはっきり認識するとき、彼は何を望み、何のために、肉体に即して苦しむのであろうか。
  この身体内の洞窟に潜むアートマンを見出し、認識した人は、万物の創造者。――彼はいっさいを作り出すから。
世界は彼のものである。否、彼は世界そのものである。
まさしく現世にありながら、しかもわれわれはそれを知る。
仮にそうでないとすれば、無知と大きな破壊があろう。
それを知る人は不死となり、他の者はまさしく苦に至る。
このアートマンをまのあたりに神として、過去・未来の支配者として、人が洞見すれば、そのとき彼は疑念をいだかなくなる。
歳は、それのこちら側で、日々重ねて回転し、神々はそれを光の中の光、不死の生命として崇拝し、五種の生物の群れ、ならびに、虚空がそれを拠りどころとする、
そのアートマンこそを、不死であるわたしは知者として、不死のブラフマンとみなす。
  気息の真髄、また、眼の真髄、耳の真髄、思考力の真髄を知る人々は、万古不易の太初のブラフマンを認識した。
  この世において何物も、多様に存在しないとは、ただ思考力によってのみ、考察されるべきである。
  この世において、多様であるかにみなす者、彼は死から死に至る。
  この滅びることにない恒久のものは、全一的にのみ観察されるべきである。
  それは汚れなく、虚空を超越し、不生、偉大、不変のアートマンである。
 賢明な婆羅門はまさしくそれを知って、叡知を自らに培うべきである。
 多くの言辞を思いめぐらすべきではない。
 それはことばを疲れさせるだけであるから。
 まことに、この偉大なアートマンは、認識から成り、諸機能に存在し、心臓の内部にある空処に休らっております。それは一切の統御者、いっさいの主宰者、いっさいの君主であります。それは善行によって増大することもなく、悪行によって減少することもまったくありません。それはいっさいの主であり、それは万物の君主であり、万物の守護霊であります。それはこれらの諸世界を、ともに潰滅してしまわないように、相隔てている堰であります。
 婆羅門たちは、ヴェーダの学習により、祭祀により、布施により、苦行により、断食によって、それを知ろうと望みます。それさえ知れば、人は聖者となるのです。遊行者たちは、まさしくこれを世界としてもとめつつ、遊行するのです。まことに、こういうわけで、昔の知者たちは、「われわれにこのアートマンがあるのに、この世界があるのに、子孫をもって何になろう」と考えて子孫を望みませんでした。彼らは息子を得たいという願望、財産を得たいという願望、世界を得たいという願望から離脱して、乞食の遊行生活をしたのです。実に息子を得たいという願望は、財産を得たいという願望と同じであり、財産を得たいという願望はそのまま、世界を得たいという願望なのです。これらはいずれも願望であることに変わりはありませんから。
 この「非ず、非ず」というアートマンは不可促であります――それは把捉されませんから。不壊であります――それは破壊されませんから。無執着であります――それは執着しませんから。つながれていないが動揺もせず、毀損されもしないのです。人がなしたこと、なさなかったことが、それを焼き滅ぼすことはありません。
 このことは讃誦によって述べられています。
  これは婆羅門(ブラフマンを知る者)の永遠の偉大さ。
  行為によって増大もせず、減少もしない。
  それをこそ知るべきである。
  それを知れば、罪の行為によって汚されはしない。
 したがって、このように知る者は、安らかで、自制があり、平静で、忍耐強く、心を統一した者となり、自己の中にアートマンを認め、一切をアートマンとみなすのであります。罪が彼に打ち勝つことはなく、彼がすべての罪に打ち勝ちます。罪が彼を焼き滅ぼすことなく、彼がすべての罪を焼き滅ぼします。彼は罪なく、汚れなく、疑いをもたず、婆羅門となるのです。
 これがブラフマンの世界であります。大王さま、陛下はそれに到達されたのです』とヤージニャヴァルキヤは語った。
 『わしは尊師にヴィデーハ国民を、わし自身も諸共にさしあげ、奴僕として仕えよう』と(ジャナカ王はいった)。
(ヤージニャヴァルキヤはさらに続けて付言した。)
『まことに、この偉大な、不生のアートマンは、(祭祀にそなえられた)食物を食べる者、(祭祀の報償として祭主に)財産を与える者です。このように知る者は財産を得るのです。
 まことに、この偉大な、不生のアートマンは、不老、不滅、不死、安泰であり、ブラフマンであります。ブラフマンは、実に、安泰です。このように知る者は、まさしく安泰に、ブラフマンになるからです。』
出典:ヤージニャヴァルキヤ「ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド(自己の探求)」
   中央公論社「世界の名著1 バラモン経典・原始仏典」(98~102頁)
   昭和44年5月20日初版印刷、昭和44年5月30日初版発行


第二十七章 クリシュナの智慧・・・・・『アートマンについて』
(アートマンについて)
「自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。自ら自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし自己を制していない人にとって、自己はまさに敵のように敵対する。自己を克服し寂滅した人の最高の自己(アートマン)は、寒暑や苦楽においても、毀誉褒亡貶においても、統一された状態でいる。理論知と実践知により自己(アートマン)が充足し、揺るぎなく、感官を克服し、土塊や石や黄金を平等に見るヨーギンが、『専心した者』と呼ばれる。」(第六章)
「『風のない所にある灯火が揺るがぬように』とは、心を制御し、自己(アートマン)のためのヨーガを修めているヨーギンの比喩であると伝えられる。そこにおいて、心はヨーガの実修により抑制されて静まり、人は自ら自己のうちに自己(アートマン)を見て満足し、そこにおいて、感官を越えた、知性により認識されるべき究極の幸福を人は知り、そこに止まって真理を逸脱することなく、それを得れば、他の利得を劣るものと考え、そこに止まれば、大きな苦しみによて動揺されることがない、そのような苦の結合から離れることが、ヨーガと呼ばれるものであると知れ。」(第六章)
「自己において喜び、自己において充足し、自己において満ち足りた人、彼にはもはやなすべきことがない。」(第三章)
「愛憎を離れた、自己の支配下にある感官により対象に向かいつつ、自己を制した人は平安に達する。平安において、彼のすべての苦は滅する。」(第二章)
「慢心と迷妄がなく、執着の害を克服し、常に自己(アートマン)に関することに専念し、欲望から離れ、苦楽という相対から解放され、迷わない人々は、かの不滅の境地に達する。」(第十五章)
「欲望、怒り、貪欲。これは自己を破滅させる地獄の門である。それ故、この三つを捨てるべきである。アルジュナよ、この三種の暗黒の門から解放された人は、自己(アートマン)において最善の事を行い、それから最高の帰趨(解脱)に達する。(第十六章)
「意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)において満足する時、その人は智慧が確立したと言われる。」(第二章)
「心が制御され、自己(アートマン)においてのみ安住する時、その人はすべての欲望を願うことなく『専心した者』であると言われる。」(第六章)
「ある人々は瞑想によって、自らの自己のうちに自己(アートマン)を見る。他の人々は、サ―ンキヤ(理論)のヨーガによって、また他の人は行為のヨーガによって見る。」(第十三第章)
「努力するヨーギンは、自己のうちに宿る彼を見る。しかし、自己を制御しない、思慮のない者は、努力しても彼を見ない。」(第十五章)
「この身体におけるプルシャは、近くに見る者、承認者、支持者、享受者、偉大な主、最高の自己(アートマン)と言われる。」(第十五章)
(ブラフマンについて)
「すべての欲望を捨て、願望なく、『私のもの』という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。アルジュナよ、これがブラフマンの境地である。それに達すれば迷うことはない。」(第二章)
「ブラフマンと一体となり、その自己(アートマン)が平安になった人は、悲しまず、期待することもない。」(第十八章)
「内に幸福あり、内に楽しみあり、内に光明あるヨーギンは、ブラフマンと一体化し、ブラフマンにおける涅槃に達する。」(第五章)
「罪障を滅し、疑惑を断ち、自己(アートマン)を制御し、すべて生類の幸せを喜ぶ聖仙たちは、ブラフマンにおける涅槃に達する。」(第五章)
「欲望と怒りを離れ、心を制御し、自己(アートマン)を知った修行者たちにとって、ブラフマンにおける涅槃は近くにある。」(第五章)
「外界との接触に執心せず、自己(アートマン)のうちに幸福を見出し、ブラフマンのヨーガに専心し、彼は不滅の幸福を得る。」(第五章)
「常に専心し、罪障を離れたヨーギンは、ブラフマンとの結合と言う究極の幸福を得る。」(第六章)
「実に、意が静まり、激質が静まり、ブラフマンと一体化した罪障のないヨーギンに、最後の幸福が訪れる。」(第六章)
「意(こころ)が平等の境地に止まった人々は、まさにこの世で生存を征服している。というのは、ブラフマンは欠陥がなく、平等である。それ故、彼らはブラフマンに止まっている。」(第五章)
「知性が確立し、迷妄なく、ブラフマンを知り、ブラフマンに止まる人は、好ましいものを得ても喜ばす、好ましくないものを得ても嫌悪しない。」(第五章)
「清浄な知性をそなえ、堅固さにより自己(アートマン)を制御し、常に瞑想のヨーガに専念し、離欲を拠り所にし、我執、暴力、尊大さ、欲望、怒り、所有を捨て、『私のもの』という思いなく、寂静に達した人は、ブラフマンと一体化がすることができる。」(第十八章)
「万物の個別の状態は唯一者のうちに存し、まさにそれから多様に展開すると見る時、その人はブラフマンに達する。」(第十三章)
「ヨーガに専心した聖者は、遠からずブラフマンに達する。」(第五章)
「祭祀の残りものという甘露(アリムタ)を味わう人々は、永遠のブラフマンに達する。祭祀を行わない者にはこの世界もない。どうして他の世界があろうか。」(第四章)
(ヨーガについて)
「ヨーガに専心し、自己(アートマン)を清め、自己を制御し、感官を制し、自己が万物の自己となった者は、行為をしても汚されない。」(第五章)
「ヨーガにより行為を放擲し、知識により疑惑を絶ち、自己を制御した人を、諸行為は束縛しない。それ故、知識の剣により、無知から生じた、自己の心にある疑惑を絶ち、ヨーガに依拠せよ。」(第四章)
「自己(アートマン)を制御しない者はヨーガに達し難いと、私は確信する。しかし、制御して自己を支配した人は、適切な方法によってそれに達することができる。」(第六章)
「ヨーガに専心し、一切を平等に見る人は、自己を万物に存すると認め、また万物を自己のうちに見る。」(第六章)
「執着を捨て、成功と不成功を平等のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。」(第二章)
「実に、感官の対象と行為に執着せず、すべての意図を放棄した人は、ヨーガに登った人と言われる。」(第六章)
「ヨーガに登ろうする聖者にとって、行為が手段であると言われる。ヨーガに登った人にとっては、寂静が手段であると言われる。」(第六章)
「常修のヨーガに専心し、他に向わぬ心によって念じつつ、人は神聖なるプルシャに達する。」(第八章)
「ヴェーダ、祭祀、苦行、布施において功徳の果報が定められているが、ヨーギンはそのすべてを超越し、以上の教えを知って、最高なる本初の状態に達する。」(第八章)
「自己との類比により、幸福にせよ、不幸にせよ、それを一切においても等しいものと見る人、彼は最高のヨーギンであると考えられる。」(第六章)
「すべてのものに敵意を抱かず、友愛あり、憐れみ深く、『私のもの』という思いなく、我執なく、苦楽を平等に見て、忍耐あり、常に満足し、自己を制御し、決意も堅く、私に意(こころ)と知性を捧げ、私を信愛するヨーギン、彼は私にとって愛しい。」(第十二章)
「自己を静め、恐怖を離れ、梵行の誓いを守り、意を制御して、私に心を向け、私に専念し、専心して座すべきである。このように常に専心し、意を制御したヨーギンは、涅槃(ニルヴァーナ)をその極致とする、私に依拠する寂静に達する。」(第六章)
「常に心を他に向けることなく、絶えず私を念ずる者、その常に専心したヨーギンにとって、私は容易に到達される。私に到達して最高の成就に達した偉大な人々は、苦の巣窟である無常なる再生を得ることはない。」(第八章)
「ヨーギンは苦行者よりも優れ、知識人よりも優れていると考えられる。またヨーギンは祭祀を行う者より優れている。それ故、アルジュナよ、ヨーギンであれ。すべてのヨーギンのうちでも、私に心を向け、信仰を抱き、私を信愛する者は、『最高に専心した者』であると、私は考える。」(第六章)
「私を一切のうちに認め、一切を私のうちに見る人にとって、私は失われることなく、また、私にとって、彼は失われることはない。一体感に立って、万物に存する私を信愛する者、そのヨーギンは、いかなる状態にあろうとも、私のうちにある。」(第六章)
(智慧について)
「知識の祭祀は財物よりなる祭祀よりも優れている。アルジュナよ。すべての行為は残らず知識において完結する。それを服従により、質問により、奉仕により知れ。真理を見る知者たちは、あなたに知識を教示するであろう。それを知れば、あなたは再び迷妄に陥ることはなかろう。」(第四章)
「知識により自己(アートマン)の無知が滅せられた時、彼らの知識は太陽のように、かの最高の存在を照らし出す。それに知性を向け、それに心を向け、それを帰結とし、それに専念する人々は、知識により、罪障を滅し、不退転に至る。」(第五章)
「私は知識の対象を告げよう。それを知れば人が不死に達するところの。それは無始なる最高のブラフマンである。(中略)それは知識であり、知識の対象であり、知識により到達さるべきものである。それはすべてのものの心に存在する。」(第十三章)
「あなたに最高の秘密を説こう。理論知と実践知とを。それを知れば、あなたが不幸から解脱できるような。これは王者の学術、王者の秘密、最高の浄化具である。」(第二章)
「仮にあなたが、すべての悪人のうちで最も悪人であるとしても、あなたは知識の舟により、すべての罪を渡るであろう。あたかも燃火が薪を灰にするように、知識の火はすべての行為を灰にするのである。というのは、知識に等しい浄化具はこの世にないから。ヨーガにより成就した人は、やがて自ら、自己(アートマン)のうちにそれを見出だす。信頼を抱き、それに専念し、感官を制御する者は知識を得る。知識を得て、速やかに最高の寂静に達する。」(第四章)
「彼の企てがすべて欲望と意図を離れ、彼の行為が知識の火によって焼かれているなら、知者たちは彼を賢者と呼ぶ。」(第四章)
「あなたの知性が迷妄の汚れを離れる時、あなたは、聞くであろうことと聞いたこととを厭うであろう。聞くことに惑わされたあなたの知性が、揺るぎなく確立し、三昧において不動になる時、あなたはヨーガに達するであろう。」(第二章)
「堅固に保たれた知性により、意を自己(アートマン)にのみ止めて、次第に寂静に達すべきである。」(第六章)
「アルジュナはたずねた。『クリシュナよ、智慧が確立し、三昧に住する人の特徴はいかなるものか。叡知が確立した人は、どのように語り、どのように座し、どのように歩むのか』 聖バガヴァッドは告げた。――アルジュナよ、意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)において満足する時、その人は智慧が確立したと言われる。不幸においても悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は、叡知が確立した聖者と言われる。すべてのものに愛着なく、種々の善悪のものを得て、喜びも憎しみもしない人、その人の智慧は確立している。亀が頭や手足をすべて収めるように、感官の対象から感官のすべてを収める時、その人の智慧は確立している。」(第二章)
「愛執、恐怖、怒りを離れ、私に専念し、私に帰依する多くの者は、知識という苦行によって浄化され、私の状態に達する。」(第四章)
「四種の善行者が私を信愛する。すなわち、悩める人、知識を求める人、利益を求める人、知識ある人である。彼らのうち、常に専心し、ひたむきな信愛を抱く、知識ある人が優れている。知識ある人にとって私はこの上なく愛しく、私にとって彼は愛しいから。これらの人々はすべて気高い。しかし、知識ある人は、まさに私と一心同体であると考えられる、というのは、彼は専心し、至高の帰趨である私に依拠しているから。」(第七章)
(私について)
「私は一切の本源である。一切は私から展開する。そう考えて、知者たちは愛情をこめて私を信愛するのである。私に心を向け、生命を私に捧げ、互いに目覚めさせつつ、彼らは常に私について語り、満足して楽しむ。常に専心し、喜びをもって私を信愛する彼らに、私はかの知性のヨーガを授ける。それによって彼らが私に至るところの。まさに彼らへの憐愍のために、私は個物(アートマン)の心に宿り、輝く知識の灯火により、無知から生ずる闇を滅ぼす。」(第十章)
「私は不生であり無始である、世界の偉大な主であると知る人は、人間(じんかん)にあって迷わず、すべての罪悪から解放される。知性、知識、不惑、忍耐、真実、制御、寂静、苦楽、発生、消滅、恐怖、無畏、不殺生、平等心、満足、苦行、名誉、不名誉。これら万物の個々の状態は、ただ私のみから生ずる。」(第十章)
「私は一切のものの心に入る。記憶、知識、および除去は、私に由来する。私はまた、すべてのヴェーダにより知らるべき対象である。私はヴェーダの終局の作者であり、まさにヴェーダを知る者である。」(十五第章)
「私はこの世界の父であり、母であり、配置者であり、祖父である。知られるべき対象である。浄化具である。聖音オームである。讃歌、歌詠、祭詞である。私は帰結である。維持者である。主である。目撃者である。住処である。寄る辺である。友人である。本源であり終末であり維持である。宝庫であり、不滅の種子である。私は熱を発する。私は雨を収めて、また送り出す。私は不死であり死である。有であり無である。」(第九章)
「私は万物の心中に宿る自己(アートマン)である。私は万物の本初であり、中間であり、終末である。(中略)私は創造においては本初であり、終末であり、中間である。諸学においては、自己(アートマン)に関する知識である。私は語る者たちの言説である。(中略)私はまさに不滅の時間(カーラ)である。私はあらゆる方角に顔を向けた配置者である。私は一切を奪い去る死である。生まれるべきものの源泉である。(中略)私は統治者たちの杖である。征服を志す王たちの政策である。私は秘密事における沈黙である。知識ある人々の知識である。また、万物の種子、それは私である。アルジュナよ。動不動のもので、私なしで存在するようなものはない。私の神的な示現には限りがない。だが、私は示現の多様性の若干の例を述べたのである。いかなるものでも権威があり、栄光があり、精力あるもの、それを私の威光の一部から生じたものと理解せよ。だがアルジュナよ、そのように多く知っても何になろう。私はこの全世界を、ほんの一部分で支えて存在しているのだ。」(第十章)
「私を祭祀と苦行の享受者、全世界の偉大な主、すべての生類の友であると知れば、寂静に達する。」(第五章)
「私を万物の種子であると知れ。私は知性ある者たちの知性であり、威光ある者たちの威光である。」(第七章)
「人々がいかなる方法で私に帰依しても、私はそれに応じて彼らを愛する。人々はすべて私の道に従う。」(第四章)
「それぞれの信者が、信仰をもってそれぞれの神格を崇めようと望む時、私は各々の信仰を不動のものとする。彼はその信仰と結ばれ、その神格を満足させることを望む。そしてそれから諸々の願望をかなえられる。それらは実は私自身によりかなえられたものである。」(第七章)
「信仰をそなえ、他の神格を供養する信者たちも、教令によってではないが、実は私を供養するのである。何故なら、私はすべての祭祀の享受者であり、主宰者であるから。」(第九章)
「私に意(こころ)を注ぎ、私に常に専心して念想する、最高の信仰を抱いた人々は、『最高に専心した者』であると、私は考える。ただし、不滅で、説明され得ず、非顕現で、いたる所にあり、不可思議で、揺るぎなく、不動であり、堅固なものを念想する人々、感官の群を制御して、一切に対して平等に考え、万物の幸福を喜ぶ人々も、他ならぬ私に達する。だが、非顕現なものに専念した人々の苦労はより多大である。というのは、非顕現な帰結は、肉体を有する人々にとっては到達され難いから。一方、すべての行為を私のうちに放擲し、私に専念して、ひたむきなヨーガによって私を念想する人々、それらを私に注ぐ人々にとって、私は遠からず生死流転の海から彼らを救済する者となる。」(第十二章)
出典:クリシュナ「バガヴァッド・ギーター」
   岩波文庫「バガヴァッド・ギーター」
   1992年3月16日第1刷発行、1995年4月5日第5刷発行


第二十八章 ダゴールの智慧・・・・・『アートマンについて』
「これはわれわれの魂の喜びや真理についても言える。すなわち魂は常にブラフマンの中で成長しなければならないし、魂のすべての活動はこの究極の理念に導かれて転調されねばならないからである。そして魂が作り出すすべてのものは完全性という至上の霊に供物として捧げねばならないからである。
 このことについてウパニシャッドには次のような注目すべき言葉がある。『私は神を十分に知っているとも思わないし、ただたんに知っているとも、また知っていないとも思わない。』
われわれは知識の過程を経ることによってはけっして無限者を知ることができない。しかしながら、無限者がわれわれの理解の及ばないものであるなら、われわれには何の関係もない。われわれは神を知らないのに、神を知っているということこそ、真理なのである。
このことはウパニシャッドの別の一節の中に述べてある。『言葉も心も、ブラフマンのところから打ちのめされてむなしく戻ってくる。しかし、ブラフマンの喜びによってブラフマンを知る者はすべての恐れから解放されている。』
知性による認識は部分的である。というのは知性は一個の道具であり、われわれの存在の一部をなしているものに過ぎないからである。区分し分析することができる事物に関する情報を提供するに過ぎないからである。そしてその特色は一部分ずつに分類されることだからである。けれども、ブラフマンは完全なので、部分的な知識はけっしてブラフマンを知ったことにはならない。
 しかし、ブラフマンは喜びによって、愛によって知ることができる。というのは喜びは完全に知ることであり、またわれわれの全存在によって知ることだからである。知性は認識の対象からわれわれを切り離すけれども、愛は結合によって対象を知る。このような認識は直接的であり、疑う余地すらない。それはわれわれが自己を知るのと同じようなものである。いや、それ以上のものである。
 したがって、ウパニシャッドに記されているように、心はブラフマンを知ることができないし、言葉もブラフマンを表現することができない。ブラフマンはわれわれの魂によってのみ、ブラフマンにおける魂の喜びによってのみ、魂の愛によってのみ、知ることができるのである。言いかえると。結合によってのみ、われわれの全存在との結合によってのみ、ブラフマンと関係を結ぶことができる。われわれは「父」と一体でなければならない。われわれは「父」のように完全でなければならない。
 たしかにわれわれの内なる個我(antarātman)のうちで最高我(paramātman)を実現するときに、絶対的な完成の状態に達するのである。われわれはこの実現を存在しないものと考えることはできない。また、われわれの限られた力によってこうした実現を徐々に構築していけると考えることもできない。神とわれわれの関係がわれわれ自身で作り出したものであったなら、どうしてそれを真理として信頼することができるだろうか。またどうしてそれがわれわれを支えることができるであろうか。
 われわれ自身のうちには時間と空間が支配しなくなるところ、進化の連鎖の輪が根本的な一と融合するところがあるのを知らなければならない。個我(アートマン)のこの不滅のすみかのうちには、最高我(パラム・アートマン)の啓示がすでに完全になされているのである。『ブラフマン、すなわち、魂の内奥、最高の天(意識の内なる父)に隠れている無限者を知る人は、全知のブラフマンと一体となって、望みのものをすべて享受する。』
 結合はすでに達成されている。最高我がみずからわれわれの魂を花嫁として選び取り、結婚の式典はすでに行われたのである。荘厳な聖句(マントラ)が唱えられた。『おまえの心がわたしの心と同じようであれ。』この結婚式には進化が司会者とつとめる余地はない。「これ」という以外に表現しえないもの、直接的で、名づけようもない『現存者』が、われわれの存在の最も奥深いところにつねに存在している。『「これ」はわれわれの存在の究極の目的である。』『「これ」はわれわれの存在の至上の宝である。』『「これ」はわれわれの存在の無上のすみかである。』『「これはわれわれの存在の最高の喜びである。」』というのは最高の愛の婚姻は超時間のうちに行われたからである。そして今や愛の果てしない遊戯(līlā)が続いている。永遠の相の下で得られた無限者は、今や時間と空間の中で、喜びと悲しみの中で、この世とあの世の中で追い求められている。花嫁である魂がこのことを充分に理解するなら、彼女の心は喜びに満ち、安らぎを得る。花嫁である魂は川のように、みずからの存在の一方の端で完成の大洋に達しているのに、他方の端ではつねにそこに達しようとしていることを知っている。それは一方の端では永遠の安らぎと完成であり、他方の端では絶え間ない活動と変化である。花嫁である魂がこの両方の端が分離できないほどに結ばれているのを知るとき、世界がわが家であることを知る。というのは世界の主人がわが家の主人であることを知るからである。そのとき、魂のすべての奉仕は愛の奉仕となり、人生のすべての苦労も、すべての苦難も、愛の力を試し、微笑しながら愛人からの挑戦に応じるためにゆうゆう迫らず耐えしのぶ試練となる。」
出典:ダゴール『サーダナ』
第三文明社「ダゴール著作集 第八巻 人生論・社会論集」(126頁~129頁)
1981年7月31日初版第一刷発行


第二十九章 老子の智慧・・・・・『道について』
(道とは)
「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。道の物為(た)る、惟(こ)れ恍、惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。其の中に象有り、恍たり惚たり。其の中に物有り、窈たり冥たり。其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」(二十一章)
「之を視れども見えず、名づけて夷(い)と曰う。之を聴けども聞こえず、名づけて希(き)と曰う。之を摶(さぐ)れども得ず、名づけて微(び)と曰う。此の三者は詰を致す可からず、故に混じて一と為す。其の上は皦(きょう)ならず、其の下は昧ならず。縄縄として名づく可からず、無物に復帰す。是を無状の状、無物の象と謂い、是を恍惚と謂う。之を迎うれども其の首(こうべ)を見ず、之に随えども其の後(しり)えを見ず。古の道を執りて、以て今の有を御す。能く古始を知る、是を道紀と謂う。」(十四章)
「虚を致すこと極まり、静を守ること篤し。万物並び作(おこ)るも、吾、以て其の復を観る。夫れ物の芸芸(うんうん)たる、各おの其の根に復帰す。根に帰るを静と曰い、是を命に復(かえ)ると曰う。命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰う。常を知らざれば、妄作(もうさ)して凶なり。常を知れば容なり。容なれば及(すなわ)ち公なり。公なれば及(すなわ)ち王なり。王なれば及(すなわ)ち天なり。天なれば及(すなわ)ち道なり。道なれば及(すなわ)ち久し。身を没するまで殆(あや)うからず。」(十六章)
「物有り混成して、天地に先立ちて生ず、寂たり寥たり。独立して改まらず、周行して殆(つか)れず。以て天下の母と為す可(べ)し。吾、其の名を知らず。之に字(あざな)して道と曰う。強いて之が名を為して大と曰う。大なれば曰(ここ)に逝き、逝かば曰に遠く、遠ければ曰に反(かえ)る。故に道は大、天も大、地も大、王も亦た大なり。域中に四大有り、而(しこう)して王は其の一に居る。人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。」(二十五章)
「道の道とす可(べ)きは、常の道に非ず。名の名づく可(べ)きは、常の名に非ず。無名は天地の始め、名有あるは万物の母。故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に欲有りて以てその徼(きょう)を観る。此の両者は同じきより出でて而(しか)も名を異にす。同じく之を玄と謂い、玄のまた玄、衆妙の門。」(一章)
「道の常は名無し。樸(はく)は小と雖も、天下に能く臣とする莫きなり。侯王も若し能く之を守らば、万物将に自ら賓せんとす。天地相和し、以て甘露を降し、民之に令する莫くして自ら均(ひと)し。始め制して名有り。名も亦た既に有れば、其れ亦た将に止まるを知らんとす。止まるを知らば以て殆(あや)うからず。道の天下に在るを譬うれば、猶川谷の江海に於けるがごとし。」(三十二章)
「道の常なるは無為にして、而も為さざる無し。侯王若し能く之を守らば、万物将に自ら化せんとす。化して作(おこ)らんと欲せば、吾、将に之を鎮むるに無名の樸を以てせん。無名の樸ならば、夫れ亦た将に無欲ならんとす。欲せずして以て静かなれば、天下将に自ら定まらんとす。」(三十七章)
「聖人云う。我無為にして、民自ら化し、我静を好みて、民自ら正しく、我無事にして、民自ら富み、我無欲にして、民自ら樸なりと。」(五十七章)
「学を為せば日に益し、道を為せば日に損(へ)る。之を損らし又損らし、以て無為に至る。無為にして為さざる無し。天下を取るは、常に無事を以てす。其の事有るに及んでは、以て天下を取るに足らず。」(四十八章)
(道の働き)
「道は沖にして之を用うれども或(つね)に盈(み)たず。淵として万物の宗に似たり。其の鋭を挫(くじ)き、其の紛を解き、其の光を和らげ、其の塵に同じ、堪として或(つね)に存するに似たり。吾、誰の子なるかを知らず。帝の先に象(に)たり。」(四章)
「谷神は死せず、是を玄牝と謂う。玄牝の門、是を天地の根と謂う。緜緜として存するが若く。之を用うれども勤(つか)れず。」(六章)
「大象と執りて、天下を往かば、往くとして害あらず、安・平・太なり。楽と餌とには、過客も止まる。道の口より出ずるや、淡乎(たんこ)として其れ味わい無く、之を視れども見るに足らず、之を聴けども聞くに足らず、之を用いて既(つく)す可からず。」(三十五章)
「大道、氾(はん)として、其れ左右す可(べ)し。万物、之を恃(たの)みて生ずるも、而も辞せず。功成るも名有せず。万物を衣養しても、而も主と為らず、常に無欲なれば、小と名づく可し。万物、焉(これ)に帰して、而も主と為らず、名づけて大と為す可し。其の終に自ら大を為らざるを以て、故に能く其の大を成す。」(三十四章)
「道、之を生じ、徳、之を畜(たくわ)え、物として之を形づくり、勢、之に成る。是を以て万物、道を尊び徳を貴ばざる莫し。道の尊く、徳の貴きこと、夫れ之に命ずる莫くして、常に自ずから然り。故に道、之生じ、徳、之を畜い、之を長じ、之を育み、之を亭(やす)んじ、之を毒(あつ)くし、之を養い、之を覆う。生じて有せず、為して恃(たの)まず、長じて宰せず。是を玄徳と謂う。」(五十一章)
「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負い陽を抱き、沖気は以て和を為す。」(四十二章)
「道の天下に在るを譬うれば、猶川谷の江海に於けるがごとし。」(三十二章)
「上善は水の若(ごと)し。水は善く万物を利して而(しか)も争わず。衆人の悪(にく)む所に処(お)る。故に道に近し。」(八章)
「天の道は、其れ猶弓を張るがごとき与(か)。高き者は之を抑え、下(ひく)き者は之を挙げ、余りある者は之を損じ、足らざる者は之を補う。天の道は、余りある者は之を損じ、足らざる者は之を補う。」(七十七章)
「天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、召(まね)かずして自ら来る。 繟然(さんぜん)として善く謀る。天網恢恢、疏にして失わず。」(七十三章)
(道に従う)
「道は万物の奥なり。善人の宝、不善人の保(やす)んずる所なり。美言は以て尊を市(か)う可く、行いは以て人に加う可し。人の不善なるも、何の棄つることか之有らん。故に天子を立て三公を置くに、拱璧の以て駟馬に先立つ有りと雖も、座して此の道を進むるに如(し)かず。古の此の道を貴ぶ所以の者は何ぞや。以て求むれば得、罪有るも以て免ると曰わずや。故に天下の貴為(た)り。」(六十二章)
「上士は道を聞けば、勤めて之を行う。中士は道を聞けば、存するが若(ごと)く亡するが若し。下士は道を聞けば、大いに之を笑う。笑わざれば、以て道を為すに足らず。故に建言に之れ有り。明らかなる道は昧(くら)きが若(ごと)く、進める道は退くが若く、夷(たいら)なる道は纇(らい)なるが若し。上徳は谷の若く、大白は辱(けが)れたる若く、広徳は足らざるが若し。建なる徳は偸(うす)きが若く、質なる真は渝(かわ)るが若く、大なる方は隅無し、大音は声希(まれ)に、大象は形無し。道は隠れて名無きも、夫(そ)れ唯だ道のみ善く貸して且(か)つ成す。」(四十一章)
「希言は自然なり。故に飄風も終朝せず、驟雨も終日ならず。孰(たれ)か此れを為す者ぞ、天地なり。天地も尚お久しきを能(あた)わず、而(しか)るに況や人に於いてをや。故に道に従事する者は、道に同じ、徳なる者は徳に同じ、失なる者は失に同ず。道に同ずる者には、道も亦た之を得んことを楽(ねが)い、徳に同ずる者には、徳も亦た之を得んことを楽(ねが)い、失に同ずる者には、失も亦た之を得んことを楽(ねが)う。信足らざれば、信ぜられること有り。」(二十三章)」
出典:老子「老子」
   講談社学術文庫「老子」
   1984年10月15日第1刷発行、1993年8月30日第4刷発行


第三十章 孔子の智慧
第一節 「論語」より・・・・・『仁について』
(一について)
「子の曰わく、賜や、女(なんじ)予(わ)れを以て多く学びて之を識る者と為すか。対(こた)えて曰く、然り、非なるか。曰わく、非なり。予れは一以て之を貫く。」(巻第八)
「子の曰わく、参(しん)よ、吾が道は一を以てこれを貫く。曾子の曰わく、唯(い)。子出ず。門人問うて曰く、何の謂いぞや。曾子の曰わく、夫子の道は忠恕のみ。」(巻第二)
(仁について)
「顔淵、仁を問う。子の曰わく、克己復禮を仁と為す。一日克己復禮すれば、天下仁に帰す。仁を為すこと己れに由(よ)る。而して人に由らんや。顔淵曰わく、請(こ)う、其の目を問わん。子の曰わく、禮に非らざれば視ること吻(な)かれ、禮に非らざれば聴くこと吻(な)かれ、禮に非らざれば言うこと吻(な)かれ、禮に非らざれば動くこと吻(な)かれ。(後略)」(巻第六)
「子の曰わく、我れ未だ仁を好む者、不仁を悪(にく)む者を見ず。仁を好む者は、以てこれに尚(くわ)うること無し。不仁を悪(にく)む者は、其れ仁を為す。不仁者をして其の身に加えしめず。能く一日も其の力を仁に用いること有らんか、我れ未だ力の足らざる者を見ず。蓋しこれ有らん、我れ未だこれを見ざるなり。」(巻第二)
「子の曰わく、荀(まこと)に仁に志せば、悪(あ)しきこと無し。」(巻第二)
「子の曰わく、仁遠からんや。我れ仁を欲すれば、斯(ここ)に仁至る。」(巻第四)
「子の曰わく、仁に里(お)るを美(よ)しと為す。択んで仁に処(お)らずんば、焉(いすく)んぞ知なることを得ん。」(巻第二)
「(前略)未だ知ならず、焉(いすく)んぞ仁なることを得ん。(後略)」(巻第三)
「子の曰わく、人にして仁ならずんば、禮を如何。人にして仁ならずんば、楽を如何。」(巻第二)
「(前略)仁を求めて仁を得たり。又た何ぞ怨みん。(後略)」(巻第四)
「(前略)仁を欲して仁を得たり、又た焉(なに)をか貪らん。(後略)」(巻第十)
「子の曰わく、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。」(巻第五)
「子の曰わく、君子の道なる者三つ。我れ能くすること無し。仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼れず。子貢が曰く、夫子自らを道(い)うなり。」(巻第七)
「子の曰わく、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し。」(巻第三)
「子の曰わく、不仁者は以て久しく約に処(お)るべからず。以て長く楽しきに処(お)るべからず。仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす。」(巻第二)
「子の曰わく、唯だ仁者のみ能く人を好み、能く人を悪(にく)む。」(巻第二)
「子の曰わく、志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無し。身を殺して以て仁を成すことあり。」(巻第八)
「子の曰わく、民の仁に於けるや、水火よりも甚だし。水火は吾れ踏みて死する者を見る。未だ仁を踏みて死する者を見ざるなり。」(巻第八)
「曾子の曰わく、士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任と為す。亦た重からずや。死して後已む、亦た遠からずや。」(巻第四)
「子の曰わく、仁に当たりては、師にも譲らず。」(巻第八)
「子の曰わく、君子にして不仁なる者あらんか。未だ小人にして仁ある者はあらざるなり。」(巻第七)
「子の曰わく、如(も)し王者あらば、必ず世にして後に仁ならん。」(巻第七)
「子の曰わく、聖と仁の若(ごと)きは、則ち吾れ豈(あ)に敢てせんや。抑(そもそも)之を為して厭わず、人を誨(おし)えて倦まずとは、則ち謂うべきのみ。(後略)」(巻第四)
「子貢が曰く、如(も)し能く博く民に施して能く衆を済(すく)わば、如何。仁と謂うべきか。子の曰わく、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。堯舜も其れ猶(な)お諸(こ)れを病めり。其れ仁者は己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達す。能く近くを取りて譬(たと)う。仁の方(みち)と謂うべきのみ。」(巻第三)
「子夏が曰わく、博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う、仁其の中(うち)に在り。」
「曾子の曰わく、君子は文を以て友を会し、友を以て仁を輔(たす)く。」(巻第六)
「子貢、仁を為さんことを問う。子の曰わく、工、其の事を善くせんと欲すれば、必ず先ず其の器を利(と)くす。是の邦に居りては、其の大夫の賢者に事(つか)え、其の士の仁者を友とす。」(巻第八)
「(前略)君子、仁を去りて悪(いず)くにか名を成さん。君子は食を終うるの間も違うこと無し。造次(ぞうじ)にも必ず是に於いてし、顚沛(てんぱい)にも必ず是に於いてす。」(巻第二)
「顔淵、仁を問う。子の曰わく、克己復禮を仁と為す。一日克己復禮すれば、天下人に帰す。」(後略)」(巻第六)
「仲弓、仁を問う。子の曰わく、門を出ては大賓を見るが如くし、民を使うには大祭に承(つか)えまつるが如くす。己の欲せざる所は人に施すこと吻(な)かれ。邦に在りても怨み無く、家に在りても怨み無し。(後略)」(巻第六)
「子張、仁を孔子に問う。孔子の曰わく、能く五つの者を天下に行うを仁と為す。これを請(こ)い問う。曰わく、恭寛信敏恵なり。恭なれば則ち侮られず。寛なれば則ち衆を得、信なれば則ち人任じ、敏なれば則ち功あり、恵なれば則ち人を使うに足る。」(巻第九)
「樊知、仁を問う、子の曰く、居処は恭に、事を執りては敬、人に与(まじわ)りて忠なること、夷狄(いてき)に之(ゆ)くと雖ども、棄つべからざるなり。」(巻第七)
「樊知、仁を問う、子の曰わく、人を愛す。知を問う。人を知る。(後略)」(巻第六)
「樊遅(はんち)、知を問う。子の曰わく、民の義を務め、鬼神を敬して遠ざく、知と謂うべし。仁を問う。曰わく、仁者は難きを先にして獲(う)るを後(のち)にす。仁と謂うべし。」(巻第三)
「子馬牛、仁を問う。子の曰わく、仁者は其の言や訒。曰わく、その言や訒、斯(これ)を仁と謂うべきか。子の曰わく、之を為すこと難し。之を言うに訒なること無きを得んや。」(巻第六)
「子の曰わく、巧言令色、鮮(すく)なし仁。」(巻第三、九)
「子の曰わく、剛毅木訥、仁に近し。」(巻第七)
(学びについて)
「子の曰わく、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず。」(巻第一)
「子の曰わく、我れは生まれながらにして之を知る者に非ず。敏にして以て之を求めたる者なり。」(巻第四)
「子の曰わく、黙して之を識(しる)し、学びて厭わず、人を誨(おし)えて倦まず。何か我れに有らん。」(巻第四)
「子の曰わく、之を知る者は之を好む者に如(し)かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず。」(巻第三)
「子の曰わく、性、相い近し、習えば相い遠し。」(巻第九)
「子の曰わく、学びて時に之を習う、亦た説(よろこば)しからずや。(後略)」(巻第一)
「子の曰わく、君子、博く文を学びて、之を約するに禮を以てせば、亦た畔(そむ)かざるべきか」(巻第三、六)
「子夏が曰わく、博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う、仁其の中(うち)に在り。」(巻第十)
「子の曰わく、学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし。」)(巻第一)
「子の曰わく、生まれながらにして、之を知る者は上なり。学びて之を知る者は次なり。困(くるし)みて之を学ぶは又た其の次なり。困(くるし)みて学ばざる、民斯(こ)れを下と為す。」(巻第八)
「子の曰わく、由よ、女(なんじ)六言の六弊を聞けるか。対(こた)えて曰わく、未(いま)だし。居れ、吾れ女(なんじ)に語(つ)げん。仁を好みて学を好まざれば、その弊や愚。知を好みて学を好まざれば、その弊や蕩(とう)。信を好みて学を好まざれば、その弊や賊。直を好みて学を好まざれば、その弊や絞。勇を好みて学を好まざれば、その弊や乱。剛を好みて学を好まざれば、その弊や狂。」(巻第九)
「哀公問う、孰(だれ)が学を好むと為す。孔子対(こた)えて曰わく、顔回なる者あり、学を好む。怒りを遷(うつ)さず、過ちを式(ふた)たびせず。不幸、短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ学びて学を好む者を聞かざるなり。」(巻第三)
「子の曰わく、回や其の心三月仁に違(たが)わず。其の余は則ち日月に至るのみ。」(巻第三)
「子の曰わく、古えの学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。」(巻第七)
「(前略)君子道を学べば則ち人を愛す。(後略)」(巻第九)
「子夏が曰わく、百工、肆(し)に居て以てその事を成す。君子、学びて以て其の道を致す。」(巻第十)
「子の曰わく、道に志し、徳に拠り、仁に依り、藝に游(あそ)ぶ。」(巻第四)
「孔子の曰わく、命を知らざれば、以て君子たること無きなり。禮を知らざれば、以て立つこと無きなり。言を知らざれば、以て人を知ること無きなり。」(巻第十)
「子の曰わく、賜や、女(なんじ)予(わ)れを以て多く学びて之を識る者と為すか。対(こた)えて曰く、然り、非なるか。曰わく、非なり。予れは一以て之を貫く。」(巻第八)
「子の曰わく、朝(あした)に道を聞きては、夕べに死すとも可なり。」(巻第二)
出典:孔子「論語」
   岩波文庫「論語」
   1963年7月16日第1刷発行、1993年11月5日第50刷発行


第二節 「大学」より・・・・・『致知について』
「大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親たにするに在り、至善に止まるに在り。
止まるを知って后(のち)定まる有り、定まって后(のち)能く静かに、静かにして后(のち)能く安く、安くして后(のち)能く慮(おもんばか)り、慮りて后(のち)能く得(う)。
物に本末あり、事に終始あり、先後(せんこう)する所を知れば、則ち道に近し。
古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む
その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。
その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。
その身を修めんとする者は先ずその心を正しくす。
その心を正しくせんと欲する者は、先ずその意を誠にす。
その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す。
知を致すは物に格(いた)るに在り。物格って后(のち)知至る。
知至いたって后(のち)意誠(まこと)なり。
意誠にして后(のち)心正し。心正しくして后(のち)身修まる。
身修まってて后(のち)家斉(ととの)う。
家斉(ととの)いて后(のち)国治まる。国治まって后(のち)天下平らかなり。
天子よりもって庶人に至るまで、壱是(いっし)に皆修身をもって本と為す。その本乱れて末治まる者は否(あら)ず。その厚うする所の者薄くして、その薄う者厚きは、未だこれ有らざるなり。(此れを本を知ると謂い、此れを知の至(きわ)まりと謂うなり。)」
出典:「大学」
   講談社学術文庫「大学」(30~39頁)
   1983年1月10日第1刷発行、1995年3月20日第19刷発行


第三節 「中庸」より・・・・・『中について』
「天の命ずるをこれ性と謂い、性に従うをこれ道と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。
 道は須臾(しゅゆ)も離る可(べ)かざるなり。離る可きは道に非ざるなり。是(こ)の故に君子その睹(み)ざる所を戒慎し、その聞かざる所を恐懼す。隠れたるより見(あらわ)るるは莫(な)く、微(かす)かなるよりは顕(あらわ)なるは莫し。是の故に君子その独(ひと)りを慎むなり。
 喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。発して皆節(せつ)に中(あた)る、これを和(か)と謂う。中は天下の大本(たいほん)なり。和は天下の達道なり。中和(ちゅうか)を致して、天地位(くらい)し、万物育(いく)す。」
出典:「中庸」
   講談社学術文庫「中庸」(48~56頁)
   1983年2月10日第1刷発行、1995年4月17日第20刷発行


第三十一章 孟子の智慧・・・・・『浩然の気について』
「(前略)我善く吾が浩然の気を養う。敢て問う、何をか浩然の気と謂う。曰く、言い難し。その気たるや、至大至剛にして直く、養いて害(そこな)うことなければ、則ち、天地の間に塞(み)つ。その気たるや、義と道とに配す。是なければ餒(う)うるなり。是れ、義に集(あ)いて生ずる所の者にして、襲いて取れるに非ざるなり。行い心に慊(こころよ)かざることあれば、則ち餒(う)う。」(「巻第三公孫丑句上二」)
「孟子曰く、人皆人に忍びざるの心有り。先王、人に忍びざるの心有りて、斯(すなわち)、人に忍びざるの政(まつりごと)有りき。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行なわば、天下を治ること、之を掌の上に運(めぐら)すべし。人皆人に忍びざるの心有りと謂う所以の者は、今、人乍(にわか)に、孺子(じゅし=幼児)の将に井(いど)に入(お)ちんとするを見れば、皆、怵惕惻隠(じゅつてきそくいん)の心有り、交わりを孺子の父母に内(むす)ばんとする所以にも非ず、誉を郷党朋友に要(もと)むる所以にも非ず、その声(な)を悪(にく)みて然るにも非ざるなり。是に由りて之を観れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞悪(しゅうお)の心無きは、人に非ざるなり。辞譲の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。惻隠の心は、仁の端(はじめ)なり。羞悪(しゅうお)の心は、義の端(はじめ)なり。辞譲の心は、礼の端(はじめ)なり。是非の心は、智の端(はじめ)なり。人の是の四端あるは、猶(なお)、其四体あるがごときなり。是の四端ありて、自らを能わずと謂う者は、自らを賊(そこな)う者なり。其の君能わずと謂う者は、其の君を賊(そこな)う者なり。凡そ、我に四端有る者は、皆拡(おしひろ)めて之を充(だい)にすることを知らば、火の始めて然(も)え、泉の始めて達するが若(ごと)くならん。苟(いやしく)も能く之を充(だい)にせば、以て四海を保(やす)んするに足らんも、苟(いやしく)も之を充(だい)にせざれば、以て父母に事(つか)うるにも足らじ。」(「巻第三公孫丑句上二」)
「孟子曰く、大人とは、其の赤子(せきし)の心を失わざる者なり。」(「巻第八離婁章句上十二」)
「孟子曰く、仁の実(じつ)は、親に事(つか)うる是なり。義の実は、兄に従う是なり。智の実は、斯(こ)の二者を知りて去らざる是なり。礼の実は、斯(こ)の二者を節分する是なり。楽の実は、斯(こ)の二者を楽しむ。楽しめば則ち生ず。生ずれば則ち悪(いすく)んぞ已(や)むべけんや。悪(いすく)んぞ已(や)むべけんとなれば、則ち足の蹈(ふ)み、手の舞うを知らず。」(「巻第八離婁章句上二十七」)
「孟子曰く、君子深く之に造(いた)るに道を以てするは、その之を自得せんことを欲すればなり。之を自得すれば、則ち之に居ること安し。之に居ること安ければ、則ち之に資(と)ること深し。之に資(と)ること深ければ、則ち之を左右に取るも其の原(みなもと)に逢う。故に君子はその之を自得せんことを欲するなり。」(「巻第八離婁章句十四」)
「孟子曰く、其の心を尽くす者は、その性を知るべし。其の性を知らば、則ち天を知らん。其の心を存し、その性を養うは、天に事(つか)うる所以なり。殀寿(ようじゅ)貮(たが)わず、身を修めて以て之を俟(ま)つは、命(めい)を立つる所以なり。(「巻十三盡心章句上一」)
「孟子曰く、人の学ばずして能くする所の者は、其の良能なり。慮(おもんばか)らすして知る所の者は、良知なり。孩堤(がいてい)の童も其の親を愛することを知らざる者はなく、其の長ずるに及びて、その兄を敬することを知らざる也(もの)はなし。親を親しむは仁なり。長を敬するは義なり。他(た)なし、之を天下に達(おしおよ)ぼすのみ。(「巻十三盡心章句上十五」)
「孟子曰く、(中略)君子の性とする所は、仁義礼智にして心に根ざす。其の色(かおいろ)に生ずるや、睟然(すいぜん)として面(おもて)に見(あら)われ、背に盎(あら)われ、四体に施(なが)れ、言(ものい)わざるも、喩(さと)る」(「巻十三盡心章句上二十二」
出典:孟子「孟子」
   岩波文庫「孟子(上)・(下)」
   1972年6月16日第1刷発行、1993年12月5日第28刷発行


第三十二章 朱子の智慧・・・・・『仁について』
「性情の徳には、何もかもそなわっているが、一言でその妙をいい尽くすことができる。それは仁である。仁を求める方法は、いろいろあるが、一言でその要領を示すことができる。それは私欲に打ちかって礼に複(かえる)ことである(「克己復礼を仁と為す」)。仁というものは、天地が物を生じる心であって、人や物がそれをうけて心とするものである。天地が物を生じる心をうけて心とすればこそ、未発の前に、四徳がそなわっているのである。それは仁義礼智であるが、仁はすべてを統べている。已発の際には、四端があらわれる。それは惻隠・羞悪・辞譲・是非であるが、惻隠の心はすべてに通じている。仁の本体と作用が、万物を育成して保存し、万事に行きわたってその深奥に徹し、一心の妙を総合して、すべての善の長(かしら)となる理由は、そこにある。けれども人には、身体があるのだから、耳目鼻口四肢があって、かの仁をそこなうことがないというわけにはいかない。人々が不仁になると、天理をそこなって人欲をほしいままにすることによって、どこまで進むかわからないだろう。君子の学問が、仁を求めるのに熱心な理由はここにあるのであって、仁を求める要領は、その仁をそこなうものを除去するだけなのである。礼に反してものを視るのは、人欲が仁をそこなうからである。礼に反してものを聴くのは、人欲が仁をそこなうからである。礼に反しての言動は、人欲が仁をそこなうからである。人欲が仁をそこなう理由は、ここにあることがわかる。そこで、人欲の本を抜きとり、その源を塞ぎ、これにあくまで克ちぬいて、一たび迷いがとれ、人欲が尽きて理義が純化するに至れば、その胸中に存するものは、天地が物を生じる純粋な心であって、温かい春の陽ざしのようななごやかさがあるにちがいない。内にこもって徳行を成就すれば、もちろん一理とてそなわざるものはなく、一物もつつまざるものはない。物に感じて事理に通じれば,一事も理にあたらざるものはなく、一物もその愛をうけざるものはない。ああ、仁の徳が一言で性と情の妙を尽くし得る理由がそこにあるのであって、仁を求めるための要領は、孔子が顔淵に示した内容が、一言で尽くしえているということができる。」(論語「顔淵仁を問う、子曰く、克己復礼を仁と為す。一日己に克ちて礼に復すれば、天下仁に帰す。仁を為すは己による。しかして人によらんや。顔淵曰く、その目を請い問う。子曰く、礼に非ざれば視るなかれ。礼に非ざれば聴くなかれ。礼に非ざれば言うなかれ。礼に非ざれば動くなかれ。顔淵曰く、回不敏なりといえども、請う、この語を事とせん。」)
出典:朱子「朱子文集・語類抄」
   中央公論社「世界の名著 続4 朱子・王陽明」(208~210頁)
   昭和49年6月1日初版発行、昭和49年6月10日初版印刷


第三十三章 王陽明の智慧・・・・・『良知について』
(良知とは)
「夫れ、良知は、一なり。其の妙用を以って言えば之を神と謂い、其の流行を以って言えば之を気と謂い、其の凝聚(ぎょうしゅう)を以って言えば之を精と謂う。」(巻中)
「良知は、是れ、天理の照明霊覚の處なり。故に、良知は、即ち、是れ、天理なり。思いは、是れ、良知の発用なり。若し、是れ、良知の発用の思いならば、則ち、思う所は、天理に非らざるは無し。良知の発用の思いは、自然に明白簡易にして、良知は、亦、自ら能く知る。」(巻中)
「吾が心の良知は、即ち、所謂、天理なり。吾が心の良知の天理を、事事物物に致せば、則ち、事事物物は皆、その理を得(う)るなり。吾が心の良知を致すは、致知なり。事事物物、皆、その理を得るは、格物なり。」(巻中)」
「良知は、心の本体にして、所謂、恒に照らす者なり。心の本体は、起こること無く、起こらざること無し。妄念の発すると雖も、良知は、未だ嘗て、在らずんばあらず。但だ、人、在するを知らざれば、即ち、時、有って、或いは、放つのみ。昏塞の極と雖も、良知は、未だ嘗て、明らかならずんばあらず。但だ、人、察するを知らざれば、即ち、時、有って、或いは、弊(おお)わるるのみ。」(巻中)
「良知は、即ち、是れ、道にして、良知の人心に在るは、但だに、聖賢のみならず、常人と雖も、亦、此(かく)の如からざるは無し。若し、物欲の牽蔽有る無く、但に、良知に循(したが)ひ、発用流行し、将(も)ち去(ゆ)けば、即ち、是れ、道ならざるは無し。但だ、常人に在りては、多く物欲に牽蔽され、良知に循(したが)う能わず。」(巻中) ※発用流行=発現活動。
「道は、即ち、是れ、良知なり。良知は、原(もと)、是れ、完完全全なり。是なる的(もの)は、他(かれ)の是とするに還(かえ)し、非なる的(もの)は、非とするに還(かえ)し、是非、只だ、他(かれ)に依れば、更に、不是の處有ること無し。這(こ)の良知は、是(こ)れ、你(なんじ)の明師なり。」(巻下)
「爾(なんじ)の邦(か)の、一点の良知は、是れ、爾の自家の準則なり。爾の意念の着く處、他(かれ)は、是は便ち是と知り、非は便ち非と知り、更に、他(かれ)を、一些(いささか)も、欺き得ず。爾、只だ、他(かれ)を欺くを要せず、実実落落に、他(かれ)に依(よ)って、做(な)し去(ゆ)けば、善は便ち存し、悪は便ち去らん。他(かれ)の這(こ)の裏(うち)、何等の穏当快楽ぞや。此れ、便ち、是れ、格物の真訣にして、致知の実功なり。」(巻下)※何等の穏当快楽ぞや=何と穏やかで楽しい事か。※実実落落=実際に
「良知は、是れ、只だ、一箇の良知にして、善悪、自ら弁ず。更に何の善、何の悪を思う可きことかあらん。良知の体は、本(もと)、是れ、寧静なり。」(巻中)
「良知は、只だ、是れ、一箇にして、他(かれ)の発見流行する處に随い、當下(ただち)に具足す。」(巻中)※発見=発現。※流行=活動。
「良知は、本(もと)、是れ、明白なれば、実落に、功を用ひば、便ち、是なり。」(巻下)※実落に=実際に。
「心は身の主なり。而して、心の虚霊明覚は、即ち、所謂、本然の良知なり。其の虚霊明覚の良知が、感に応じて動く者、之を意と言う。」(巻中)
「盡(けだ)し、良知は、只だ、是れ、一箇の天理の、自然に明覚発見する處、只だ、是れ、一箇の真誠惻怛、便ち、是れ、他(か)れの本体なり。」(巻中)※真誠惻怛=真の誠の惻(いたむ)怛(いたむ)。
「誠は、是れ、実理なり。只だ、是れ、一箇の良知なり。」(巻下)
「義は、即ち、是れ、良知なり。」(巻下)
「良知は、只だ、是れ、箇(こ)の『是非の心』なり。」(巻下)※『是非の心』=孟子公孫丑上編の言葉。
「『是非の心』は、慮(おもんばか)らずして、知り、学ばずして、能くす。所謂、良知なり。」(巻中)
「能く、戒慎恐懼する者は、是れ、良知なり。」(巻中)
「所謂『人、知らずと雖も、己、独り知る所』とは、此は、正に、我が心の良知の處なり。」(巻下)
「本来の面目は、即ち、吾が聖門の、所謂、良知なり。」(巻中)※本来の面目=天然のままにして、少しも人為を加えない衆生の心の本性を言う。仏性(広辞苑より)
「這(こ)の些子(良知)、看て、透徹すれば、隋(たと)ひ、他(かれ)、千言万語するも、是非誠偽は、前に到れば、便ち、明らかなり。仏家の心印を説くが如く、相似たり。」(巻下)※心印=禅宗で、決定普遍な悟の体。仏印。仏心印。(広辞苑)
「良知は、即ち、之、『未発の中』なり。即ち、是れ、『廓然大公』、『寂然不動』にして、人人の同じく具する所の者なり。但だ、物欲に昏蔽されざる能はず。故に、須く、学んで、以って、其の昏蔽を去るべし。然れども、良知の本体に於いて、初めより、毫末も、加損、有る能わず。」(巻中)※『未発の中』=中庸の言葉。心が寂然不動であって、しかも万事に応じ得る状態を謂う。※『廓然大公』=易の言葉。※『寂然不動』=明道の定性書の言葉。
「此れ、良知の妙用の、方体無く、窮盡無く、『大を語れば、天下も能く載する莫く、小を語れば、天下も能く破る莫き』所以の者なり。」(巻中)※『大を語れば・・・』=中庸の言葉
「良知は、本来、自ら、明らかなり。」(巻中)
「良知は、原(もと)、是れ、精精明明の的(もの)なり。」(巻下)
「其の良知の体は、皦として、明鏡の如く、略々(ほぼ)、纎翳(せんえい)無し。」(巻中) ※皦=明らかなこと。
「良知は、夜気の発するにときに在っては、方に、是れ、本体なり。其の物欲の雑、無きを、以ってなり。学者は、事物扮擾(じぶつふんそう)のときをして、常に夜気の如く、一般ならしむるを要す。」(巻下)
「学者、良知を信じて、気の乱す所と為らずんば、便ち、常に、義皇以上の人と做(な)らん。」(巻下)※義皇=古代の聖人たち。「夜気清明の時、視ること無く、聴くこと無く、思うこと無く、作すこと無く、淡然として、平懐なるは、就(すなわ)ち、是れ、義皇の世界なり。」
「良知は、即ち、是れ、天の植えたる霊根にして、自ら生生して、息まず。」(巻下)
「良知は、是れ、造化の聖霊なり。這些(この)聖霊は、天を生じ、地を生じ、鬼を成し、帝を成す。皆、此より、出ず。真に、是れ、物と対する無し。人、若し、他(かれ)に復し、完完全全にして、少しの虧欠無くんば、自らの、手の舞、足の踏むを覚えざらん。知らず、天地の間、更に、何の楽しみの代わる可(べ)き有らん。」(巻下)
「天地も、人の良知無くんば、亦、天地為(た)る可からず。蓋し、天地万物は、人と、原(もと)、是れ、一体にして、その発竅(はつけう)の最も精なる虚は、是れ、人心の一点の霊明なり。」(巻下)※発竅=竅は穴。発竅は発する穴。
「人心は、是れ、天淵なり。心の本体は、該(か)ねざる所無く、原(もと)、是れ、一箇の天なり。只だ、私欲の為に、障礙さるれば、則ち、天の本体を失はる。心の理は、窮盡無く、原(もと)、是れ、一箇の淵なり。只だ、私欲の為に、窒塞さるれば、則ち、淵の本体を失はる。如今(いま)、念念、良知を致し、此の障礙窒塞を将(も)て、一斉に去り盡せば、則ち、本体、已(すで)に復す。便ち、是れ、天淵なり。」(巻下)※天淵=天の如く高く、淵の如く深し。※該(か)ねる=包む。
(良知は全ての人の心の中にある)
「良知の人心に在るや、万古に亘り、宇宙に塞って、同じからざる無し。」(巻中)
「良知の人心に在るは、聖愚を間(へだ)つる無く、天下古今の同じき所なり。」(巻中)
「天理の人心に在るや、古に亘(わた)り、今に亘り、終始有ること無し。天理は、即ち、是れ、良知なり。千思万慮して、只だ、是れ、良知を致さんとことを要(もと)むるなり。 良知は、愈々、思えば、愈々、精明なり。」(巻下)
「聖人の気象は、何に由って、認めん。自己の良知は、原(もと)、聖人と一般なり。若し、自己の良知を体認して、明白なれば、即ち、聖人の気象は、聖人に在らずして、我に在り。」(巻中)
「這(こ)の良知は、人人、皆有り。聖人は、只だ、これを保全して、些(いささか)の障蔽無し。」(巻下)
「夫れ、良知は、即ち、是れ、道にして、良知の人心に在るは、但だに、聖賢のみならず、常人と雖も、亦、此(かく)の如からざるは無し。若し、物欲の牽蔽有る無く、但に、良知に循(したが)ひ、発用流行し、将(も)ち去(ゆ)けば、即ち、是れ、道ならざるは無し。但だ、常人に在りては、多く物欲に牽蔽され、良知に循(したが)う能わず。」(巻中)※発用流行=発現活動。
「良知良能は、愚夫愚婦も聖人も同じ。但(た)だ惟(た)だ、聖人のみ能くその良知を致して、愚夫愚婦は致す能わず。此れ、聖愚の分かるる所なり。」(巻中)
「『惟だ、天下の至聖のみ、能く、聡明叡智を為す』と。舊(もと)は、何と玄妙と看しが、今看れば、原(もと)、是れ、人人に自有の的(もの)なり。耳は、原(もと)、是れ聡、目は、原(もと)、是れ明、心思は、原(もと)、是れ叡智なり、聖人は、只だ、是れ、一に、之を能くするのみ。能くする處は、正に、是れ、良知なり。」(巻下)※自有=生まれながらに持っている。)
「只だ、是れ、物欲の遮蔽するも、良心の内に在るは、自ら失うを会(え)ざるなり。雲の自ら、日を蔽うが如し。日、何ぞ、嘗て、失はれん。」(巻下)※日=太陽
「人、若し、這(こ)の良知の訣窮(けつけう)を知れば、隋(たと)ひ、他(かれ)、多少、邪思枉念(じゃしわうねん)するも、這裏(ここ)、一たび覚むれば、都(すべて)、自ら消融する。」(巻下)※訣窮=要点
(良知の働き)
「良知、誠に致せば、天下の節目時変は、応ずるに勝(た)う可からざるなり。」(巻中)
「夫(そ)れ、良知の節目時変に於けるは、猶(なお)、規矩尺度の方円長短に於けるがごときなり。」(巻中)
「世の君子、惟だ、その良知を致すを務むれば、則ち、自ら能く、是非を公にし、好悪を同じくし、人を視ること、猶、己のごとくにして、国を視ること、猶、家のごとくして、天地万物を以って、一体と為す。」(巻中)
「盡(けだ)し、思いの是非邪正は、良知の自ら知らざる者は無し。」(巻中)
「須要(かなら)ず、時時、良知を致すの功夫(くふう)を用ふれば、方才(まさ)に、『活発発地』なり。」(巻下)※活発発地=論語の言葉=心の生き生きとした様子。
「汝、只だ、良知上に在って、功を用ふるを要す。良知、存すること久しければ、黒卒卒(こくそつそつ)なるもの、自ら、能く、光明ならん。」(巻下)※黒卒卒=真っ黒
「若し、時々刻々、自らの心上に就(つ)いて、義を集むれば、則ち、良知の体、洞然として、明白にして、自然に、是は是、非は非として、纖毫(せんごう)も遁(のが)るること無し。」(巻中)
「若し、頭脳を曉(さと)って、吾が良知上に依り、説き出し来れば、行ひ将(も)て去(ゆ)くも、便ち、自ら、是れ、停當(ていとう)す。」(巻下)※頭脳=根本。※停當=道理に適う
「良知の頭脳を認むること、是當(しとう)し、去(ゆ)いて、朴実に功を用ふれば、自ら透徹して、此に到るべし。」(巻下、四七二)
「若(も)し、良知の発して、更に、私意の障碍無ければ、即ち所謂、『其の惻隠の心を充たせば、仁、用うるに勝(た)う可からざる』なり」(巻上)※『其の惻隠の心を充たせば、仁、用うるに勝(た)う可からざる』=孟子の言葉に基づく。※用うる・・・=用いきれないほど大きなものとなる
「即(も)し、心の良知にして、更に、障碍無く、以って、充塞流行するを得ば、便ち、是れ、其の知を致すなり。知(ち)致(いたれ)ば、意(い)誠(まこと)なり。」(巻上)※充塞・流行=充実・活動
「此の良知に依り、忍耐して做(な)し去(ゆ)き、人の非笑に管せず、人の毀謗に管せず、人の栄辱に管せず。他(かれ)の功夫(くふう)の、進有り、退有るに任せ、我は、只だ、是れ、這(こ)の良知の主宰息まずんば、久々にして自然に力を得るの處有らん。」(巻下)
「吾、人に、良知を致すには、格物上に在って、功を用ふるを教ふ。卻(かえ)って、是れ、根本の有るの学問にして、日は、一日より長進し、愈々久しければ、愈愈清明なるを覚ゆ。」(巻下)
「我輩の致知は、只だ、是れ、各々、分限の及ぶ所に随う。今日、良知、見在、此くの如くんば、只だ、今日の知る所に随って、拡充到底し、明日、良知、亦、開悟する有れば、便ち、明日、知る所に従って、拡充到底す。」(巻下)※到底=徹底。
「『夫れ、必ず事とする有り』とは、只だ是れ、義を集むるなり。義を集むるは、只だ是れ、良知を致すなり。義を集むると説けば、則ち、一時、未だ頭脳を見ざるも、良知を致すと説けば、則ち、當下(ただち)に、便ち、実地歩に、功を用ふ可べき有り。故に、區區は、専ら、良知を致すを説く。」(巻中)※區區=私。※必ず事とする有り=常に修行に努めて=孟子の言葉。※頭脳=根本
「良知は、見聞に由って、有らず、而かれども、見聞は、良知の用に非らざる莫(な)し。故に、良知は、見聞に滞らざるも、亦、見聞を離れず。」(巻中)
「若し、主意頭脳、専ら、良知を致すを以って、事と為せば、則ち、凡そ、多聞多見は、良知を致すの功に非らざるは無し。盡(けだ)し、日用の間、見聞酬酢(しゅうさく)して、千頭万緒と雖も、良知の発用流行に非らざる莫く、見聞酬酢を除けば、亦、良知を致す可き無し。」(巻中)※主意=主旨。※頭脳=根本。酬酢=杯のやりとり。応接。
「七情も、其の自然の流行に順えば、皆、是れ、良知の用にして、善悪を分別す可からず。只だ、著する所有る可からず。七情にして、著する所有れば、倶(とも)に、之を欲と謂ひ、倶(とも)に、良知の蔽をなす。然れども、纔(わづか)に、著する有る時は、良知も亦、自ら覚るを会す。覚れば、即ち、蔽去って、其の体に復す。」(巻下)※七情=喜怒哀懼愛悪欲(きどあいくあいをよく)
「良知は、喜怒憂懼に滞らずと雖も、喜怒憂懼も、亦、良知に外ならず。」(巻中)
「良知は、只だ、声色貨利の上に在って、功を用ふ。良知を致して、精精明明に、豪髪も、蔽無ければ、則ち、声色貨利の交はるも、是れ、天則の流行に非(あら)ざる無し、と。」(巻下)※天則の流行=天理の活動
「父を見れば自然に孝を知り、兄を見れば自然に弟を知り、孺子の井に入るを見れば自然に惻隠を知る。此れ便ち、是れ良知にして、外に求むるを假(か)らず。」(巻上)
「孺子の井に入らんとするを見れば、必ず惻隠の理あり。この惻隠の理は、果たして孺子の身に在りや。抑々(そもそも)、吾が心の良知に在りや。」(巻中)
「義は宜なり。心、其の宜しきを得る、之を、義と謂う。能く、良知を致せば、則ち、心は、其の宜しきを得るなり。故に、『集義』も、亦、只だ、是れ、良知を致すなり。」(巻中)
「斟酌調停、是れ、其の良知を致して、以って、自ら、慊(こころよ)きを、求むるに非らざるなり。」(巻中)
「其の良知を致して、自ら、慊(こころよ)からんことを、求むるを務めるのみ。」(巻中)
「若し、良知を信じて、只だ、良知上に在って、功を用いば、千経万典と雖も、;脗合(ふんごう)せざる無く、異端曲学は、一勘して、盡(ことごと)く、破れん。」(巻中)脗合=一致。
「此の致知の二字は、真に、是れ、箇の、千古聖伝の秘にして、百世以って、聖人を俟(ま)ちて、惑わず。」(巻下)
「只だ、是れ、良知を致す(致良知)の三字は、病無し。」(巻下)
(良知の学び方)
「你(なんじ)、真に、必ず、聖人為(た)るの志、有らば、良知上に、更に、盡(つく)さざること無からん。良知上に、些子(いささか)の別念を、留めて、掛帯せば、便ち、必ず聖人為(た)るの志に非ず。」(巻下) ※掛帯=離れない事。
「其の所謂、学なる者は、正に惟だ、その良知を致して、以って、此の心の天理を精察するものにして、後世の学とは同じからざるのみ。」(巻中)
「君子の学は、以って、己の為にす。未だ嘗て、人の己を欺くを、慮(おもんばか)らざるなり。恒に、自ら、其の良知を欺かざるのみ。未だ嘗て、人の己に信ならざるを、慮(おもんばか)らざるなり。恒に、自ら、其の良知に信なるのみ。未だ嘗て、先ず人の詐と不信とを、覚る求めざるなり。恒に、自ら、其の良知を覚らんことを務むるのみ。是の故に、欺かざれば、則ち、良知、偽る所無くして、誠なり。誠なれば、則ち、明らかなり。自ら信なれば、則ち、良知、惑う所無くして、明らかなり。明らかなれば、則ち、誠なり。明誠、相生ず。是の故に、良知は、常に覚り、常に照らす。」(巻中)
「昏闇の士も、果たして、能く、事に随い、物に随って、此の心の天理を精察し、以って、其の本然の良知を致さば、即ち、愚と雖も必ず明に、柔と雖も必ず強に、大本立って、達道行われ、九経の属も、一を以って之を貫いて、遺(のこ)すこと無かる可べきなり。」(巻中、二三一)※九経=中庸にある天下国家を治める九つの道。 ※「一を以って之を貫く」=論語の言葉。
「聖賢の学を論ずる、多くは、是れ、時に随い、事に就く。言、人ごとに、殊(こと)なる若しと雖も、その工夫頭脳を求むれば、符節を合するが若し。天地の間、原(もと)、只だ、此の性有り、只だ、此の理有り、只だ、此の良知あり、只だ、此の一件、有るに縁るのみ。」(巻中)
「大要、良知の同じきに出づれば、便ち、各々、説を為すも何の害あらん。」(巻下)※大要=根本において。
「良知、同じければ、更に、異なる處、有るを、妨げず」(巻下)
「問う、聖賢の言語は許多なり。如何(いかん)ぞ、卻(かえ)って、打して、一箇の做(な)さんと要するや、と。曰く、我は、是れ、打して、一箇の做(な)さんと要するにあらず。『夫れ道は一のみ』と曰ひ、又、『其の物たる二ならざれば、則ち、其の物を生ずること測られず』と曰うが如き、天地聖人は、皆、是れ、一箇なり。如何(いかん)ぞ、二にし得ん、と。」(巻下)
「『一を以って之を貫く』は、其の良知を致すに非ずして、何ぞや」(巻中)
「幸いとする所は、天理の人心に在るや、終に泯(ほろぼ)す可からず所ありて、良知の明らかなること、万古一日なれば、則ち、其れ、吾が抜本塞源の論を聞けば、必ず惻然として悲しみ、戚然として痛み、憤然として起ち、沛然として江河を決するが若くにして、防ぐ可からざる所ある者あらん。夫の豪傑の士の、待つ所無くして興起する者に非ずんば、吾誰と興(とも)にか望まんや。」(巻中)
「僕、誠に、天の霊に頼(よ)って、偶々(たまたま)、良知の学を見る有り。以為(おも)へらく、必ず、此に由って、而(しか)る後に、天下を得て、治べしと。是を以って、斯(こ)の民の陥溺を念(おも)う毎に、則ち、之が為に、戚然として、心を痛め、其の身の不肖を忘れて、此を以って、之を救わんことを思う。」(巻中)※僕=私
出典:王陽明「伝習録」
   明治書院「新釈漢文大系第13巻 伝習録」
   昭和36年9月1日初版発行、平成8年6月30日33刷発行


第三十四章 ブッダの智慧
第一節 「真理の言葉(発句経)」より・・・・・『ニルヴァーナについて』
(自己について)
「自分こそ自分の主である。他人がどうして主であろうか。自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。」(160)
「実に自己は自分の主である。自己は自分の帰趨(よるべ)である。故に自分をととのえよ。――商人が良い馬を調教するように。」(380)
「みずから悪をなすならば、みずからが汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。」(165)
「たとい他人にとっていかに大事であろうとも、他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。」(166)
「もしひとが自己を愛おしいものと知るならば、自己をよく守れ。」(157)
「馴らされた象は、戦場にも連れて行かれ、王の乗り物ともなる。世のそしりを忍び、自らをおさめた者は、人々の中にあっても最上の者である。」(321)
「馴らされた騾馬は良い。インダス河のほとりの血統のよき馬も良い。クンジャラをいう名の大きな象も良い。しかし自己をととのえた人はそれよりもすぐれている。」(322)
「何となれば、これらの乗物によっては未踏の地(=ニルヴァーナ)に行くことはできない。そこへは、慎みある人が、おのれ自らをよくととのえておもむく。」(323)
「つとめはげむのを楽しめ。おのれの心を護れ。自己を難処から救い出せ。――泥沼に落ち込んだ象のように。」(327)
「みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。」(370)
「思慮ある人は、奮い立ち、努みはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできない島(=ニルヴァーナ)をつくれ。」(25)
「水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯(た)め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。」(80)
「戦場おいて百万人に勝つよりも、唯一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。」(103)
「自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行いをつつしみ、自己をととのえている人、――このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神もガンダルヴァ(伎楽神)も、悪魔も。梵天もなすことができない。」(104)
「実に心が統一されたならば、豊かな智慧が生じる。心が統一されていないならば、豊かな智慧がほろびる。生じることとほろびることのこの二種類の道を知って、豊かな智慧が生じるように自己をととのえよ。」(282)  
「すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、――これが諸の仏の教えである。」(183)
(心について)
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もし汚れた心で話したり行ったりすれば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。」(1)
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もし清らかな心で話したり行ったりすれば、福楽はその人につき従う。――影からそのからだが離れないように。」(2)
「心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。」(35)
「心は、極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は心を守れかし。心を守ったならば、安楽をもたらす。」(36)
「心は、遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この心を制する人は、死の束縛からのがれるであろう。」(37)
「手を慎み、足を慎み、ことばを慎み、最高に慎み、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している、――その人を〈修行僧〉と呼ぶ。」(362)
「修行僧は、身も静か、語(ことば)も静か、心も静かで、よく精神統一をなし、世俗の享楽物を吐きすてたならば、〈安らぎに帰した人〉と呼ばれる。」(378)
「心が煩悩に汚されることなく、思いが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も怖れることが無い。」(39)
「深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、心清らかである。」(82)
「真理を喜ぶ人は、心清らかに澄んで、安からに臥す。聖者の説きたもうた真理を、賢者はつねに楽しむ。(79)
「賢者は欲楽をすてて、無一物となり、心の汚れを去って、おのれを浄める。そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行ないも静かである。」(88)
「正しい智慧によって解脱して、やすらいに帰した人――そのような人の心は静かである。言葉も静かである。行いも静かである。(96)
「正しい悟りを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれらを羨む。」(181)
「覚りのよすがに心を正しくおさめ、執著なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅び尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。」(89)
(ニルヴァーナについて)
「忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたもう。」(183)
「自己の愛執を断ち切れ、――池の上に出て来た秋の蓮を手で断ち切るように。しずかな安らぎに至る道を養え。めでたく行きし人(=仏)は安らぎ(ニルヴァーナ)を説きたもうた。」(285)
「健康は最高の利得であり、満足は最大の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。」(203)
「餓えは最大の病であり、形成させられた存在(=わが身)は最もひどい苦しみである。このことわりを知ったならば、ニルヴァーナという最上の楽しみがある。(203)
「愛欲に等しい火は存在しない。ばくちに負けるとしても、憎悪にひとしい不運は存在しない。このかりそめの身にひとしい苦しみは存在しない。やすらぎ(ニルヴァーナ)にまさる楽しみは存在しない。」(202)
「つとめ励むのは不死の境地(=ニルヴァーナ)である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は、死者のごとくである。」(21)
「このことをはっきりと知って、つとめはげみを能く知る人は、つとみはげみを喜び、聖者たちの境地(=ニルヴァーナ)を楽しむ。」(22)
「思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、つねに健(たけ)く奮励する、思慮ある人は、安らぎ(=ニルヴァーナ)に達する。これは無上の幸せである。」(23)
「仏の教えを喜び、慈しみ住する修行僧は、動く形成作用の静まった、安楽な、静けさの境地(=ニルヴァーナ)に到達するであろう。」(368)
「喜びにみちて仏の教えを喜ぶ修行僧は、動く形成作用の静まった、幸いな、やすらぎの境地(=ニルヴァーナ)に達するであろう。」(381)
「生きものを殺すことなく、つねに身をつつしんでいる聖者は、不死の境地(=ニルヴァーナ)におもむく。そこに至れば、憂えることがない。」(225)
「個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく理解するのに従って、その不死(=ニルヴァーナ)のことわりを知り得た人々にとっての喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。」(374)
「何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、――かれこそ実に最上の人である。」(97)
「ことばで説き得ないもの(=ニルヴァーナ)に達しようと志を起し、意(おもい)はみたされ、諸の愛欲に礙(さまた)げられることのない人は、〈流れを上る者〉と呼ばれる。」(218)
「一つは利得に達する道であり、他の一つはやすらぎ(ニルヴァーナ)にいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地にはげめ。(75)
「バラモンよ。流れを断て。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知る者であれ。」(383)
「修行僧よ。この舟から水を汲み出せ。汝が水を汲み出したらば、舟は軽やかにやすやすと進むであろう。貪りと怒りを断ったならば、汝はニルヴァーナにおもむくであろう。」(369)
「いそしむことを楽しみ、放逸におそれをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。」(32)
「明らかな智慧の無い人には精神の安定統一が無い。精神の安定統一していない人には明らかな智慧が無い。精神の安定統一と明らかな智慧とが備わっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。」(372)
「ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び、ニルヴァーナを得ようとめざしているならば、もろもろの汚れは消え失せる。」(226)
「心ある人はこの道を知って、戒律をまもり、すみやかにニルヴァーナに至る道を清くせよ。」(289)
(学びについて)
「だれがこの大地を征服するであろうか?だれが閻魔の世界と神々ともなるこの世界とを征服するであろう。わざに巧みな人が花を摘むように、善く説かれた真理の言葉を摘み集めるのはだれであろうか。(44)
「学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界ともなるこの世界を征服するだろう。わざに巧みな人が花を摘むように、学びつとめる人々こそ善く説かれた真理の言葉を摘み集めるであろう。(45)
「愛欲を離れ、執着なく、諸の語義に通じ諸の文章とその脈略を知るならば、その人は最後の身体をたもつものであり、『大いなる智慧ある人』と呼ばれる。」(352)
「真理を喜び、真理を楽しみ、真理をよく知り分けて、真理にしたがっている修行僧は、正しいことわりから堕落することはない。」(364)
(四諦八正道)
「さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)に帰依する人は、正しい智慧をもって、四つの尊い真理を見る。」(190)
「すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅におもむく八つの尊い道とを。」(191)
「これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころによってあらゆる苦悩から免れる」(192)
(止観について)
「バラモンが二つのことがら(=止と観)について、彼岸に達したならば、かれはよく知る人であるので、かれの束縛はすべて消え失せるであろう。(384)
(バラモンについて)
「螺髪を結っているからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生まれによってバラモンなのでもない。真実と理法を守る人は安楽である。かれこそバラモンなのである。」(393)
「彼岸もなく、此岸もなく、彼岸・此岸なるものもなく、怖れもなく、束縛もない人、――かれをわれは〈バラモン〉と言う。」(385)
「静かに思い、塵垢(ちりけがれ)なく、為すべきことをなしとげ、煩悩を去り、最高の目的を達した人、――かれをわれは〈バラモン〉と言う。」(386)
「身にも、ことばにも、心にも、悪い事をなさず、三つのところについてつつしんでいる人、――かれをわれは〈バラモン〉と言う、」(391)
「すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執著を超越して、とらわれることのない人、――かれをわれは〈バラモン〉と言う。」(397)
「怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身を整え、最後の身体に達した人、――かれをわれは〈バラモン〉と言う。」(400)
「蓮葉の上の露のように、錐の先の芥子のように、諸の欲情に汚されない人、――かれをわれは〈バラモン〉と言う。」(401)
「すでにこの世において自分の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれの無い人、――かれをわれは〈バラモン〉と言う。」(402)
「明らかな智慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最高の目的を達した人、――かれをわれは〈バラモン〉と言う。」(403)
「芥子粒が錐の先端から落ちたように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、――かれをわれは〈バラモン〉と言う。」(407)
「粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、ことばによって何人の感情をも害することのない人、――かれをわれは〈バラモン〉と言う。」(408)
「現世を望まず、来世をも望まず、欲求がなくて、とらわれの無い人、――かれをわれは〈バラモン〉と言う。」(410)
「こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底(=ニルヴァーナ)に達した人、――かれをわれは〈バラモン〉と言う。」(411)
「この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、――かれをわれは〈バラモン〉と言う」(412)。
「曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、――かれをわれは〈バラモン〉と言う。」(413)
「この障害・険道・輪廻(さまよい)、迷妄を超えて、渡り終わって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく、疑惑なく、執著することなくて、心安らかな人、――かれをわれは〈バラモン〉と言う。」(414)
「快楽と不快とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った英雄、――かれをわれは〈バラモン〉と言う。」(418)
「生きとし生ける者の死生をすべて知り、執著なく、よく行きし人、覚った人、――かれをわれは〈バラモン〉と言う。」(419)
「前にも、後ろにも、中間にも、一物をも所有せず、無一物で、何ものをも執著して取りおさえることの無い人、――かれをわれは〈バラモン〉と言う。」(421)
「前世の生涯を知り、また天上と地獄を見、生存をほろぼしつくすに至って、直感智を完成した聖者、完成すべきことを完成した人、――かれをわれは〈バラモン〉と言う。」(423)
出典:ブッダ「真理の言葉(発句経)」
   岩波文庫「ブッダの真理の言葉・感興のことば」
   1978年1月17日第1刷発行、1993年6月5日第27刷発行


第二節 「般若心経」より・・・・・『般若について』
「観自在菩薩、深般若波羅密多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。舎利子よ、色は空に異ならず。空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。受想行識もまたかくのごとし。舎利子よ、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず、この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明もなく、また、無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。菩提薩埵は、般若波羅密多に依るが故に。心に罜礙なし。罜礙なしが故に、恐怖あることなく、顚倒無想を遠離して涅槃を究竟す。三世諸仏も般若波羅密多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。故に知るべし、般若波羅密多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならざるが故に。般若波羅密多の咒を説く。すなわち咒を説いて曰わく、
 掲帝、掲帝、般羅掲帝、般羅僧掲帝、菩提僧莎訶(ぎゃてい、ぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか。往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)」
出典:ブッダ「般若波羅密多心経」
   岩波文庫「般若心経、金剛般若経」(10~15頁)
   1960年7月25日第1刷、1992年7月5日第45刷


第三十五章 龍樹の智慧・・・・『知恵(般若)について』
「『仏はスブーティに語った。もし菩薩が、すべての存在物は、永遠でもなく無常でもなく、苦でもなく楽でもなく、本質・自我があるのでもなく、本質・自我がないのでもなく、存在するものでもなく、存在しないものでもないなどと観察し、しかもこのような観念すらも作り出すことがなければ、これこそが菩薩の知恵の完成を追及している状態と呼ばれるものである。』
 これが意味することは次のようなことである。ちょうど涅槃というものが本来的には生ずることもなくまた滅することがないように、すべての存在物のありようもまたそのようなものでありこれが『すべての存在のあるがままのすがた』といわれるのである。次の般若波羅蜜を讃える詩節が説くとおりである。
 知恵の完成(般若波羅蜜)は真実の教えであり誤りのないものである。そこにおいては、念・想・観といったこころの働きはすでに除去され、ことばの働きもまた滅している。
 それは計り知れなく、何一つ欠点なく、清浄なるこころであり、常一である。尊くすぐれた人々であれば、まさにこのような知恵の完成を見ることができる。
 〔知恵の完成は〕ちょうど虚空がそうであるように、汚れなく、空虚の言説を欠き、文字を離れたものである。もし人がこのようにそれを観ることができるならば、その人はまさしく仏を見ているのである。
 もし、あるがままに仏と知恵の完成と涅槃を観るならば、この三者はまさしく同じ一つのものであり、その本質において異なりは何もない。
 仏や菩薩たちはすべて衆生を利益することができるが、知恵の完成はかれらの母であり、かれらをこの世界に生み出し、養育するものである。
 仏は衆生にとっては父であり、知恵の完成は仏を生んだ〔母である〕。そうであれば〔知恵の完成は〕すべて衆生の祖母ということになる。
 知恵の完成は唯一無二の教えに他ならないが、仏は種々の名によってそれを説き、衆生の能力に応じてかれらのために異なる名前でそれを呼んだのである。
 もし知恵の完成を獲得したならば、他人と言い争い議論しようとする気持ちは完全になくなる。それはちょうど、日が昇れば朝露がいっぺんに消えるようなものである。
 知恵の完成には、人々を恐れさせる力と恵みを与える力(威徳)があり、それが二種類の人を動かすのである。すなわち、愚者には恐怖を与え、賢者には歓喜を与える。
 もし人が知恵の完成を獲得したならば、その人は知恵の完成者である。そのような人は知恵の完成に執着することはない。ましていったいどうして、他のものに執着することがあろうか。
 知恵の完成はどこから来ることもなければ、どこかへ行くこともない。賢者があらゆる場所にこれを捜そうとしても得られはしない。
 もし人が知恵の完成を見ないのであれば、この人は束縛されているのである。たとえ人が知恵の完成をみるとしても、この人もやはり束縛されているといわれる。
 もし人が知恵の完成をみるならば、この人は解脱を得る。たとえ人が知恵の完成をみなくとも、この人もやはり解脱を得る。
 この知恵の完成は、まことに稀有なものであり、はなはだ深遠なものであり、また大いなる名声をもつものである。それはちょうど幻術によって作り出されたものが見られると同時に、実際に見られはしないのと同じである。
 仏たちも菩薩たちも声聞もたちも独覚たちもすべては、解脱・涅槃への道を知恵の完成によって獲得するのである。
 〔仏たちの〕言語行為は世間の人々のためになされたものである。〔仏たちは〕すべての衆生を慈悲深く憐れむがゆえに、ことばを使って仮にさまざまの教えをお説きになった。説かれはしたが、〔絶対的なものとして〕説かれたわけではない。
 知恵の完成は、たとえてみれば巨大な焔のようなものである。その周りをつかまえることはできない。実際、つかまえるとか、つかまえないといったことすらできないのである。
 あらゆる意味でつかまえるということがすでに放棄されていること、これが『つかまえることができない』ということである。つかまえることができないのにしかもそれをつかまえる、これこそがすなわちつかまえるということである。
 知恵の完成は生成消滅を特徴とするものではなく、すべての言語行為を超越したものであり、どこか依拠しとどまる場所をもつものでもない。いったい誰がこのようなもののすぐれた点を賞讃することができようか。
 知恵の完成は賞讃しがたいものではあるが、わたしはいま賞讃し終えることができた。いまだ輪廻の状態(死地)から解放されていないが、それでもすでに解脱できるものとはなっている。」
出典:龍樹「大智度論」
   中央公論社「大乗仏典<中国・日本編> 第一巻 大智度論」(208頁~211頁)
   1989年8月10日初版印刷、1989年8月20日初版発行


第三十六章 達磨の智慧・・・・・『無心般若について』
「問うて曰く、和尚は既に一切処に於いて尽く無心なりと云う。木石も亦た無心なり、豈(あ)に木石に同じからざるか。
 答えて曰く、爾我(じが)の無心は、木石に同じからず。何を以ての故ぞ。譬えば天鼓の如し、無心なりと雖復(いえど)も、自然に種種の妙法を出して衆生を教化す。又た如意珠の如し、無心なりと雖復(いえど)も自然に能く種種の変現を作す。爾我(じが)の無心も亦復(ま)た是の如し。無心なりと雖復(いえど)も善能(よ)く諸法実相を覚了し、真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し。故に宝積経に云わく、無心意を以て現行す、と。豈に木石に同じからんや。夫(か)の無心なる者は真人なり、真人は無心なり。
 問うて曰く、今は心中に於いて作す。若為(いかん)が修行せん。
 答えて曰く、但(も)し、一切事上に於いて無心なることを覚了せば、即ち是れ修行なり、更に別に修行有らず。故に無心なることを知れば、即ち一切寂滅して、即ち無心なり。
 弟子、是に於いて忽然として大悟し、始めて心外に物無く、物外に心無きことを知り、挙止動用、皆な自在なることを得て、諸の疑網を断じて更に罫碍(けいげ)無し。即ち起ちて作礼す。而して無心に銘して、乃ち頌(じゅ)を為(つく)りて曰く、
  心神は逈寂(けいじゃく)にして、色無く形無し。
  之を覩(み)れども見えず、之を聴けども声無し。
  暗に似て暗に非ず、明に似て明に非ず。
  之を捨つるも滅せず、之を取るも生ずる無し。
  大にしては即ち法界に廊周し、小にしては即ち毛端も停めず。
  煩悩之を混ずれども濁らず、涅槃之を澄ませども清からず。
  真如は本より分別なく、能く有情無情を弁ず。
  之を収れば一切立せず、之を散ずれば普ねく含霊に遍ねし。
  妙神は知の測る所に非ず、正覚は修行を絶す。
  滅するも則ち其の壊(え)することを見ず、生ずるも則ち其の成(じょう)することを見ず。
  大道、寂として無相、万像、窈(よう)として無名。
  斯くの如く運用自在なる、総に之れ無心の精なり。
 和尚、又た告げて曰く、諸の般若の中、無心般若を以て最上と為す。故に維摩経に云わく、心意無く受行無きを以て、而も悉く外道を摧伏(さいふく)す、と。又た法鼓経に云わく、若し心の得可き無きことを知れば、法は即ち不可得、罪福も亦た不可得、生死涅槃も亦た不可得、乃至、一切尽く不可得にして、不可得も亦た不可得なり、と。乃ち頌(じゅ)を為(つく)りて曰く、
  昔日、迷いし時は有心なりと為(おもい)ぬ、
  爾時(いま)、悟り罷(や)んで無心を了ず。
  無心なりと雖復(いえど)も能く照用し、
  照用するも常に寂して即ち如如(にょにょ)なり。
 重ねて曰く、
  無心無照にして亦た無用、
  無照無用にして即ち無為なり。
  此れは是れ如来の真法界、
  菩薩と辟支とに同じからず。
 無心と言うは、即ち妄想無き心なり。」
出典:菩提達磨「菩提達磨無心論」
   中央公論社「世界の名著 続3 禅語録」(82~84頁)
   昭和49年10月10日初版印刷、昭和49年10月20日初版発行


第三十七章 曇鸞の智慧・・・・・『智慧(般若)について』 
「『浄土論』に、
 『略して説くと、三種荘厳は一法句におさまる。』
 と説かれている。
 先に述べた仏国土荘厳十七種、仏荘厳八種、菩薩荘厳四種の二十九種荘厳を『広』といい、一法句におさまるのを『略』という。
 なぜこうした広と略が相互におさまりあうことを明らかにするかといえば、諸仏や菩薩には二種の法身がそなわっているからである。一には法性法身であり、二には方便法身である(法性法身は略の一法句であり、方便法身は広の二十九種荘厳である)。法性法身によって方便法身が生じ、方便法身によって法性法身があらわれる。この二種の法身は二種が異なって別々にあるのではない。異でありながら分けることができない。一であっても同じだとするわけにはいかない。広(二十九種荘厳)と略(入一法句)が相互におさまり、この二つが『法身』という言葉でまとめられている。五念門を修する行者は、この広と略が相互におさまる道理を知らなければ、自らを利し、他を利する仏道を全うすることができない。
 次いで『一法句』について、『浄土論』に、
 『一法句とは清浄句である。清浄句とは真実の智慧・無為法身である。』
 と説かれている。
 この『一法句』『清浄句』『真実の智慧・無為法身』の三句はたがいに関連しあっておさめている。どういう意味で『一法句』かといえば、法は『清浄』の功徳としてはたらくからであり、どういう意味で清浄を名づけるかといえば『真実の智慧・無為法身』であるからである。
 『真実の智慧』とは存在の実相をさとった智慧である。実相は一定のかたちのないもので、分別知を超えた実相、実在にめざめた智慧である。『無為法身』というのは、法性身である。法性は空寂であるから一定のかたちがない。一定のかたちがないから無相である。法身は無相であるからあらゆるかたちをとることができる。だから、仏の相好、浄土の荘厳はそのまま法身である。また真実の智慧は、分別知を超えた一切を知ろしめす仏の智慧である。一切を知る智慧がそのまま真実の智慧なのである。
 真実ということばで智慧をあらわすのは、何かを知ろう、何も知ることはないという分別知の作為でもなく、非作為でもないことを明らかにするからである。無為ということばで法身をあらわすのは、色(かたち)があるのでもなく、非色(かたちがない)のでもないことを明らかにするからである。
 何々でないということもないと非を重ねる。いかに非(でない)といっても、是(である)ことをあらわすことはできないだろう。およそ一般的には、是(である)は非(でない)ということである。また非(でない)ということがないならば、是(である)ということもない。そのように相対を絶して是(である)ともいえず、非(でない)ともいえず、いかに百非の否定的な表現によっても達しえないもの、それが清浄句、『真実の智慧・無為法身』である。」(143頁~145頁)
「『般若』とは一如の真実をさとる智『慧』の名であり、『方便』とは一如の真実がこの世にはたらく『智』慧をいう。一如の真実は心(分別)の作用を超えた『慧』、寂滅の境地である。その寂滅の境地が『智』として世間を包み、衆生のあらゆる心の苦因にこたえてくるのである。そのように智は衆生の根機にこたえながら、何も分別しない。また心の作用を止滅した寂滅の慧も何も分別することなく、一切の機根を平等にみとおすのである。したがって、智慧と方便はたがいに縁(よ)って動となり、たがいに縁(よ)って静となるのである。あらゆる機根にはたらきながら動きが静であることは智慧のはたらきであり、静でありながら動きをさまたげないのは方便の力である。この意味で、智慧と慈悲と方便とは般若をおさめており、般若は方便をおさめているのである。」(156頁~157頁)
出典:曇鸞「浄土論注(無量寿経優婆提舎願生偈注)」
   中央公論社「大乗仏典<中国・日本編> 第五巻 論注・観経疏」
   1993年4月10日初版印刷、1993年4月20日初版発行」


第三十八章 智顗の智慧・・・・・『止観について』
「四つに、通三徳ということについて述べよう。
 もし、多くの経典において異名が、みな止観に通じているとすれば、名というものは無量にあることになり、義もまた無量にあることになろう。そうであるのに、ただ三義をもって止観を解釈しようとする意味はどうしてなのであろうか。
 それは三徳(解脱と般若と法身)に対してのみ以下のような解釈を試みようとするからである。
 諸法というあらわれは無量であるのに、どうしてただ三徳に限っていうことになるのかについて、先に述べておこう。
 大論には、「菩薩は発心の初めから、常に涅槃を観じて仏道を行じているものだ」と言っている。大経には、「仏や菩薩は、みな、ことごとく秘密蔵の中に安置されている」といっている。秘密というのはすなわち涅槃のこと、涅槃というのはすなわち三徳のこと、三徳というのはすなわち止観のことである。自己も他人も、発心の初めと修行の後にいたるところと、すべてみな修してそこに入ることができることであるから、三徳をもって(止観を解釈する)するのがもっともわかりやすいのである。
もし、止と観の二字が、ともに三徳にかかわることについていえば、止というのは断ずること、断とは解脱に通じ、観というのは智慧のこと、智は般若に通じていくことを意味している。止と観とが等しいことは、偏らない平等のすがた〔捨相〕(捨というのは偏りのこころを捨てること)をいうことであるから、捨相というのは法身に通じている。また止というのは奢摩多(しゃまた:音写語。散乱したこころをなくして一つの方向に注ぐ。止・静・能滅と漢訳する)であり、観というのは毘姿舎邦(びばしゃな:音写語。正しく明らかに観察すること。観と漢訳する)である。他と邦が等しいということは憂畢叉(うびしゃ:音写語。こころを平等にもって一方に偏らないこと。捨、平等と漢訳する)のことで三徳に通じることは前に述べたとおりである。
問うていう。止観の二法が、どうして不思議の三徳に通じていくのだろうか。ありえないことのように思われるのだが、どうだろうか。答えていう。かえって、不思議の(一心の)止観をもってすれば、(一心の三徳に)通じていくことが理解されるであろう。
また、大品般若経には、(前には)十八空を明かして般若を解釈し、(後には)百八三昧をもって禅を解釈している。それら前後において二とおりの解釈をしているが、だからといって、禅に般若がなく、般若に禅がないという受け取り方になるものではあるまい。とくに、これらは,不二にして二、二にして不二である。不二というのは法身、二というのは定慧のことである。
このように、(法身と般若と解脱の)三法は、いまだかつて離ればなれに解釈されるようなことはなかったことを知らなければならない。
(中略)
止観が三徳に通じることはすでに理解できたことだろう。その他に、異名である遠離や知見等にも通じていくことは、同様に考えればよいだろう。また、三種の名であらわす法門にも通じることで、いわゆる三菩提・三仏性・三宝等の一切の三法があてはまるのである。」
出典:智顗「摩訶止観」
   中央公論社「大乗仏典<中国・日本編 第六巻 摩訶止観>」(214~219頁)
   昭和63年5月10日初版印刷、昭和63年5月20日初版発行


第三十九章 臨済の智慧・・・・・『君たち自身が仏だ』
「そこで師は言った。『今日、仏法を修行する者は、なによりも先ず正しい見地をつかむことが肝要である。もし正しい見地をつかんだならば、生死につけこまれることもなく、死ぬも生きるも自在である。至高の境地を得ようとしなくとも、それは向こうからやって来る。諸君、いにしえの祖師たちはみな、超え出させる導き方を心得ていた。今わたしが君たちに言い含めたいことは、ただ他人の言葉に惑わされるなということだけだ。自力でやろうとおもったら、すぐにやることだ。決してためらうな。このごろの修行者たちが駄目なのは、その原因はどこにあるか。病因は自らを信じきれぬ点にあるのだ。もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない、もし君たちが外に向かって求める心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。君たち、その祖仏に会いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。君たちはこれを信じきれないために、外に向かって求める。しかし何かを求め得たとしても、それはどれも言葉上の響きのよさだけで、生きた祖仏の心は絶対につかめぬ。取り違えてはならぬぞ、皆の衆。今ここで仕留めなかったら、永遠に迷いの世界に輪廻し、好ましい条件の引き廻すままになって、驢馬や牛の腹に宿ることになるだろう。君たち、わしの見地からすれば、この自己は釈迦と別ではない。現在のこのさまざまなはたらきに何の欠けているものがあろう。この六根から働き出る輝きは、かつてとぎれたことはないのだ。もし、このように見て取ることができれば、これこそ一生大安楽の人である。』」
「『諸君、三界(凡夫の迷いの世界)は安きことなく、火事になった家のようなところだ。ここは君たちが久しく留まるところではない。死という殺人鬼は、一刻の絶え間もなく貴賤老幼を選ばす、その生命を奪いつつあるのだ。君たちが祖仏と同じでありたいならば、決して外に向かって求めてはならぬ。君たちの〔本来の〕心に具わった清浄の光が、君たち自身の法身仏なのだ。また君たちの〔本来の〕心に具わった、思慮分別を超えた光が、君たち自身の報身仏なのだ。また君たちの〔本来の〕心に具わった、差別の世界を超えた光が、君たち自身の化身仏なのだ。この三種の仏身とは、今わしの面前で説法を聴いている君たちそのものなのだ。外に探し求めないからこそ、このような〔すばらしい〕はたらきを具えているわけだ。経論の専門家は、この仏の三身を仏法の究極としている。しかし、わしの見地からすれば、そうではない。この三身は仮の名前であり、また三種の借り物なのである。古人も『仏身の区別は仏法の教理によって立てたもの、また仏の国土はその理体によって設定したものだ』と言っている。法性の仏身とか、法性の仏国土と言っても、それはあきらかにちらつきなのだ。諸君、君たちはそれらをちらつかせている当体を見て取らなければならない。それこそが諸仏の出どころであり、あらゆる修行者の終着点なのだ。君たちの生ま身の肉体は説法も聴法もできない。君たちの五臓六腑は説法も聴法もできない。また虚空も説法も聴法もできない。では、いったい何が説法聴法できるのか。今わしの面前にはっきり在り、肉身の形体なしに独自の輝きを発している君たちそのもの、それこそが説法聴法できるのだ。こう見て取ったならば、君たちは祖仏と同じで、朝から晩までとぎれることなく、見るものすべてがピタリと決まる。ただ想念が起こると智慧は遠ざかり、思念が変移すれば本体は様がわりするから、迷いの世界に輪廻して、さまざまな苦を受けることになる。しかし、わしの見地に立ったなら、〔このままで〕極まりなく深遠、どこでもスパリと解脱だ。』」
出典:臨済「臨済録」
   岩波文庫「臨済録」(34~39頁)
   1989年1月17日第1刷発行、1994年6月6日第11刷発行


第四十章 聖徳太子の智慧・・・・・『法身と解脱と般若について』
「第一 歎仏真実功徳章
 如来の妙なる色身は、世間に与(とも)に等しきものはなし。無比なり、不思議なり。是の故に、今敬礼(きょうらい)したてまつる。(第一偈)
 如来の色は無尽なり。智慧もまた然(しか)なり。一切の法は常住なり。是の故に、我帰依したてまつる。(第二偈)
 心の過悪と、及び身の四種とを降伏(ごうふく)して、已(すで)に難伏地(なんぷくじ)に到りたまえり。是の故に、法王を礼したてまつる。(第三偈)
 一切の爾炎(にえん)を知り、智慧の身自在にして、一切の法を摂持(しょうじ)したまえり。是の故に、今敬礼したてまつる。(第四偈)
 称量を過ぎたる(法)に敬礼し、比類なきに敬礼し、無辺法に敬礼し、難思議に敬礼したてまつる。(第五偈)
 我を哀愍し覆護(ふご)して、法種をして、増長せしめ、此の世とおよび後の生に、願わくは仏常に摂受(しょうじゅ)したまえ。(第六偈)
 我久しく汝を安立(あんりゅう)す。前世に已に開聞せり。今復(また)汝を摂受す。未来の生もまた然(しか)せん。(第七偈)
 我已に功徳(くどく)を作(な)しぬ。現在および余の世にも、是(かく)の如きの衆(もろもろ)の善本あり。唯(ただ)願わくは摂受せられんことを。(第八偈)
爾(そ)の時、勝鬘および諸(もろもろ)の眷族(けんぞく)、頭面(ずめん)をもって仏を礼(らい)したてまつる。(中略)
 第一章、 歎仏真実功徳(仏の真実の功徳をたたえる)章。
 この章の趣旨を述べると、勝鬘夫人はこれまで、一度も常住不変の真理の教えを聞いたことがなかったが、このたびの父母の送ってくれた手紙によって、釈尊教えの教えを聞く事ができた。そこで、釈尊の説く常住・真実の教えをたたえて、みずから願いをおこして釈尊に帰依したのである。このことは、かつて夫人が無常なるものに帰依していたこととはまったく異なる。
 そもそも、善を完成するためには、その根本は仏に帰依することである。いま、ひろくよろずの善行を説く一道を明らかにしようとするから、仏への帰依を第一としたのである。このことを『優婆塞戒経(うばそくかいきょう)』は、『もしも仏と法と僧との三宝に帰依しない戒を受けるならば、その人のたもつ戒は堅固ではなく、あたかも、着物を色染めするときに色が膠で接着していないようなものである』と説いている。
 この第一章を二つに分ける。
 第一に、五つの偈は、まさしく常住・真実の教えをたたえて、願いをおこして仏に帰依することを示す。
 第二に、『我を哀愍し覆護して』(第六偈)より以下、章を終わるまでは、釈尊の救いを請うことを示す。
 第一については、五つの偈をさらに四つに分ける。
 初めの第一と第二の偈は、法身をたたえる。
 つぎの第三偈は、解脱をたたえる。
 つぎの第四偈は、般若をたたえる。
 つぎの第五偈は、総括して仏の三つの徳性である法身と解脱と般若をたたえる。
 ところで、仏のさとりの境界はよろずの徳を円満にそなえているといわれる。それにもかかわらず、何故にこの三つの徳性のみによって仏をたたえるのであろうか。そのわけは、法身はよろずの徳をそなえた本体であり、解脱は煩悩を断った自由自在の境界であり、般若はさとりの智慧である。それゆえに、よろずの徳性の中でこの三つの徳性が重要であり、もしこの三つをとりあげるならば、他の徳性はおのずからその中に顕れるからである。それで、ただこの三つの徳性に基づいて、仏をたたえるのである。
 また、夫人の父母からの信書によれば、『仏の聖なる徳性は無量のものであり、それらをつぶさに説明することができないので、省略して三つの徳性のみをたたえるのである』といわれた。それゆえに、勝鬘夫人もこれに従って、ただ三つの徳性をたたえるのである。このことの意味について、注釈家の間では種々の見解があるが、要点はいま述べたとおりであるから、他の見解は省略する。
 法身をたたえる二つの偈を二分する。
 第一に、第一偈と第二偈の前半は、応身(おうじん:人びとの能力に応じて教化すべく、肉身をとって現れた仏)をたたえる・
 第二に、第二偈の後半は、真身(しんしん:真理および真理の働きを身体としている仏で、応身として現れるもとの仏)をたたえる。
 真身と応身に分けたわけは、真身という仏の本来の地位<本地>がなければ、応身というこの世に教化の跡を示す仏の地位<迹地>がなく、迹地がなければ本地が顕れることもない。そこで法身をたたえる場合、つねに応身と真身の二つをあげてたたえるのである。
 『如来の妙なる色身は、世間に与に等しきもの無し』とは、この世に仏と等しい者はだれも存在しない、仏の『無等』をたたえている。そのわけは、釈尊とならんで信じられる梵天(ブラフマー。バラモン教の最高神)は梵天界の高処にいるけれども、地上の釈尊の頭頂を見ることはできないからである。
 『無比なり、不思議なり』とは、そのうちの『比』は『同類』をいう。この句の意味は、釈尊の妙なる肉身が、人びとの知識では思いはかれないと言う意味である。
 『如来の色は無尽なり』とは、そのうちの『色(身)』とは感受作用をもつ者をいう。つまりこの者の対象への働きかけを見ると、その働きに興(おこり)・廃(すたり)がある。けれども、いま色身をもつ如来の働きについていうのであるから、『無尽』とは色身の如来が存在する以上、人びとへの働きかけはきわまりなくつづくという意味である。この四句は、釈尊の身体(色)をたたえている。
 『智慧もまた然なり』とは、釈尊の心をたたえている。これまで釈尊の身体をたたえたのと同じように、その心もまた、他のいかなるものにも比べられず、また尽きることなく人びとに働きかけていくのである。
 『是の故に、今敬礼したてまつる』とは、応身としての釈尊をたたえる結びのことばである、ある注釈家は、『この句は第二偈の上の二つのつぎにあるべきだが、この経を誦出した人が結びのことばということで、第一偈の末尾に置こうとしたから、このようになっている』と説明している。
 『一切の法は常住なり』とは、釈尊の真身をたたえる。つまり、釈尊は人びとの祈念に感応して、応身としての姿を現したが、その真身は本来、不変不動であることを明らかにしている。また、『常住』とは不動のことである。また、常住以外の他のもろもろの徳性は、仏の境地に達する以前の段階に共通するものであるから、ここでは常住のみをたたえるのである。
 ところで、私(聖徳太子)の解釈はいささか異なる。それは、初めの第一偈は応身をたたえ、つぎの第二偈はすべての真身をたたえるものである。
 『如来の色は無尽なり』とは、『無尽』とは常住のことであるから、この句は釈尊の真身がいろ・かたちを離れたもの<無色>であり、常住のものであることをたたえている。なぜならば、もし釈尊の身体が生滅変化するものであるならば、どうして不尽といえようか。ここでは不尽と説くのであるから、釈尊の真身がいろ・かたちを離れた常住なものであるということは、自明なことである。だから、『如来の色は無尽なり』というのである。また、無尽の智慧がいろ。かたちとなって現れるから、いろ・かたちある仏の身体は無尽である、ともいえよう。また、いろ・かたちある仏の身体は、いろ・かたちをそなえるすべての人びとに働きかける根本であるから、『如来の色は無尽なり』ともいえよう。
 『智慧もまた然なり』とは、まさしく真身をたたえる。すなわち、真身は無尽にして、常住のものであると説く。
 『一切の法は常住なり』とは、おしなべて、真身と呼ばれるあらゆる存在をいう。
 つぎの第三偈は、解脱をたたえる。
 『心の過悪』とは、三つの毒心(貪りと怒りと迷妄)と四つの顛倒の見解(無常を常とみなす、苦を楽とみなす、不浄を浄とみなす、無我を我とみなす)とである。
 『身の四種』とは、四大(地・水・火・風の四つの構成要素)である。この二句は、迷いの世界である三界の内の全ての煩悩(四住地の悪)を解脱することをたたえている。
 また、ある解釈では(『心の過悪』とは貪りと怒りと迷妄との心の三悪であり)『身』とは殺傷と倫盗(ちゅうとう)と邪淫との身体でなす三悪であり、四種とは妄語と二枚舌と悪口とおべっかとの口でなす四悪であり、身三、口四、意三の十悪となる。つまり、迷いの三界の内のすべての悪をおさめとっていることを明らかにする、という。
 『已に難伏地に到りたまえり』の難伏地とは、金剛のように堅固な金剛心である。およそ、魔に四種があり、一つには天魔(死を逃れようとする者をさまたげるもの)、二つには煩悩魔(人を死に至らせる煩悩)、三つには五陰魔(ごおんま:身心の全存在)、四つには死魔(死そのもの)である。金剛心は天魔や異教徒たちに敗れることはなく、もろもろの束縛がすっかり清らかにのぞかれて、煩悩魔を降伏してしまう。けれども、ただわれわれの意志作用の魔と、生滅流転せしめ死に至らしめる魔から免れることができない。それゆえに、『難伏地』という。ある説によれば、『難伏地』とは、仏の境界のことであって、四魔といえども、仏を降伏させることはできないから、『難伏地』という、と。この句は、迷いの世界たる三界の外にあって、諸悪の根本とされる無明(真理に無知であること)の悪から離れることをたたえている。それで、ある説では、上の二句は有余解脱をたたえ、下の一句は無余解脱をたたえているとする。つまり、前者の『有余』とは迷いを引きおこす煩悩の因が滅したこと、後者の『無余』とは煩悩の因によって生じた苦しみの果を受ける肉体の滅したことをいう。すなわち、前の二句は四住地の煩悩を離れることをほめたたえており、煩悩の因が尽きていることを示してその果がないことを証明し、後の一句は無明を離れていることをほめたたえており、果がないことをあげて因が滅していることを証明する。だから、実際には因も果もともになくなっていることは明らかである。
 法雲法師(梁代の三大法師の一人)は、このようにいう。生死(しょうじ)に分段生死と変易生死がある。ここでいう『心』とは変易生死の果であり、『過悪』とは変易生死の因である。『身』とは分段生死の果であり、『四種』とは分段生死の因である。前の二句は三界の外の無明(無知。一切の煩悩根本)を断ずれば、変易生死の果が滅びることを明らかにし、後の一句は、三界の内の四住地の煩悩を除けば、分段生死の果報が滅びることを明らかにしている。だから、『降伏』という。『已に難伏地に到りたまえり』とは、煩悩が智慧をくらます場合に二種類ある。一つには、煩悩が万有のありのままのすがたを人びとに見せないようにすること。二つには、万有を見あやまって無常であると感得させること。もしも金剛心が生じて、すべての煩悩を断ちきれば、万有のありのままのすがたを明らかに見、もろもろの煩悩の束縛から免れることができる。そこで、『難伏地』というのである。つまり、煩悩にとらわれる限り、無常を免れることはできず、とらわれによる報いが生じる。だから『伏すべからず』とはいわないのである。『すでに』とは過ぎることである。金剛心を過ぎて仏地に至れば、無常・生滅の身を免れて、まどいも滅する。まどいの因も果もともに滅んだととき、解脱というのである、と。
 しかしながら、私の解釈はいささか異なる。それは、金剛心にとって伏しがたいものは、五陰魔と死魔とである。仏はすでにこれら二つの境界を超過している。それゆえ、『已に難伏地に到りたまえり』というのである。『是の故に、法王を礼したてまつる。』とは、たたえることばを結ぶ句である。
 次の第四偈は、般若(さとりを得る智慧)をたたえている。
 『一切の爾炎(にえん)を知り、智慧の身自在にして』とは、そのうち『爾炎』とは梁代の注釈者は『智母(ちも)』と訳している。智母とは観察の対象とされる究極の真実<真諦>をいう。さて空性なるものは、その対象を観察するところの智慧を生ずる根本であるから『母』と称する。この空性は生滅変化のない無為のもので、このような空智を身につけた仏は自由自在の働きをもつ。それゆえに、この二句は、空智をたたえているといえる。
 『一切の法を摂持したまえり』とは、有(千差万別のあらゆる存在)を照らして、すべての対象をおさめとっていることをいう。
 だから、この一句は、仏が存在の世界(有)においてあらわす智慧、つまり仏の有智(うち)をたたえているといえる。もっとも、一般の人びとの間でうけとられている真実<世諦・俗諦>によっても智慧を生じるが、それは究極の真実<真諦>に比べて智慧を生じることが劣っているから、『母』とは名づけない。
 ある解釈では、このようにいう。上の二句は真実そのものの智慧<実智>をたたえ、下の一句は真実の働きとしての智慧<方便智>をたたえる。そして『爾炎』とは、真諦と俗諦との二諦が智慧を生じることができるから、二諦を智母という。
 『智慧の身自在にして』とは、仏が真諦と俗諦の二諦の道理を明らかにして、思いのままに説くということである。下の句の『一切の法を摂持したまえり』とは、仏がさまざまなてだて<方便>をもって人びとをもらさずに教化し、さとりのための善を生じせしめることを明らかにしている。
 『是の故に、今敬礼したてまつる』とは、仏をたたえる言葉を結ぶ句である。
 つぎの第五偈は、仏の徳をまとめてたたえている。経文を見るがよろしい。(後略)
出典:聖徳太子「勝鬘経義疏」
   中央公論社「日本の名著2 聖徳太子」(102~109頁)
   昭和45年4月10日初版発行、昭和46年5月20日再版発行


第四十一章 空海の智慧・・・・・『即身成仏』
「問うていはく、『諸経論の中に、みな三劫成仏と説く。今、即身成仏の義を建立する。何の憑拠かある』。
 答う、『秘密蔵の中にかくの如く説きたまう』。
 『かの経説、如何』。
 『金剛頂経』に説かく、『この三昧を修する者は、現に仏菩提を証す』(この三昧とは、いはく大日尊一字頂輪王の三摩地なり)。
 またいはく、『もし衆生あって、この教に遭うて昼夜四時に精進して修すれば、現世に歓喜地を証得し、後の十六生に正覚を成ず』。
 いはく、この教とは法仏の自内証の三摩地大教王を指す。歓喜地とは顕教にいふところの初地にあらず。これすなわち自家仏乗の初地なり。具に説くこと『地位品』の中の如し。十六生とは十六大菩薩生を指す。具には『地位品』に説くが如し。
 また、いはく、『当に知るべし。自身すなわち金剛界となる。自身金剛となりぬれば、堅実にして傾壊なし。我、、金剛身となる』。
 『大日経』にいはく、『この身を捨てずして神境通を逮徳し、大空位に遊歩して、しかも身秘密を成ず』。
 また、いはく、『この生に於て悉地に入らんと欲せば、その所応に随ってこれを思念せよ、親(まのあた)り尊の所に於て明法を受け、観察し相応すれば成就を作(な)す』。
 この『経』に説くところの悉地とは、持明悉地、及び法仏悉地を明かす。大空位とは法身は大虚に同じて無碍なり、衆象を含じて常恒なり。故に大空といふ。諸法の依住する所なるが故に位と号す。身秘密とは、法仏の三密は等覚も見難く、十地も何ぞ窺はん。故に身秘密と名づく。
 また龍猛菩薩の『菩提心論』に説かく、『真言法の中にのみ即身成仏するが故に、これ三摩地の法を説く。諸教の中に於て闕(けっ)して書せず』。是説三摩地とは、法身自証の三摩地なり。諸教とは、他受用身所説の顕教なり。
 またいはく、『もし人仏慧(ぶって)を求めて菩提心に通達すれば、父母所生の身に、速やかに大覚の位を証す』。
 かくの如き等の教理証文に依って、この義を成立す。
 かくの如きの経論の字義差別、如何。
 頌(じゅ)にいはく。
六大 無碍にして 常に瑜伽(ゆが)なり         〔六大無碍常瑜伽〕
 四種 曼荼羅 各(おのおの)離れず           〔四種曼荼羅各不離〕
 三密 加持すれば 速疾に顕わる             〔三密加持速疾顕〕
重重 帝網(たいもう)なるを 即身と名づく       〔重重帝網名即身〕
法然に 薩般若(さはんにゃ)を具足して         〔法然具足薩般若〕
心数心王(しんじゅしんわう) 刹塵(せつじん)に過ぎたり〔心数心王過刹塵〕
各(おのおの)五智無際智を具す             〔各具五智無際智〕
円鏡力の故に 実覚智なり                〔円鏡力故実覚智〕』
釈していわく。この二頌八句をもって即身成仏の四字を歎ず。すなわちこの四字に無辺の義を含ぜり。一切の仏法はこの一句を出でず。故に両頌を樹てて無辺の徳を顕す。
頌の文(もん)を二つに分つ。初めの一頌は即身の二字を歎じ、次の一頌は成仏の両字を歎ず。
初めの中にまた四あり。初めの一句は体、二には相、三には用、四には無碍なり。
後の頌の中に四あり。初めは仏法の成仏を挙げ、次には無数(むしゅ)を表し、三には輪円を顕し、後には所由(しょゆ)を出だす。
〔六大無碍常瑜伽〕
いはく、六大とは五大と及び識となり。『大日経』にいふところの、『我、本不生を覚り、語言の道を出過し、所過解脱することを得。因縁を遠離せり。空は虚空に等しと知る』。これその義なり。(中略)
かくの如くの六大法界体性所成(たいしょうしょうじょう)の身(しん)は、無障無碍にして互相(たがい)に渉入相応し、常住不変にして同じく実際に住せり、故に頌に『六大無碍常瑜伽』という。無碍とは渉入自在の義なり。常とは不動不壊等の義なり。瑜伽とは翻じて相応という。相応渉入はすなわちこれ即の義なり。
〔四種曼荼羅各不離〕
「四種曼荼羅各不離」とは、『大日経』に説かく。『一切如来に三種の秘密身あり。いはく、字、印、形像なり』と。字とは法曼荼羅なり。印とは、いはく、種種の幖幟、すなわち三味耶曼荼羅なり。形とは相好具足の身、すなわち大曼荼羅なり。この三種の身に、各(おのおの)威儀事業を具す。これを謁磨曼荼羅と名づく。これ四種曼荼羅なり。(中略)
かくの如く四種曼荼羅、四種智印、その数無量なり。一一の量、虚空に同じ。彼はこれを離れず、これは彼を離れず。猶(なお)し空光(くうくわう)の無碍にして逆へざるが如し。
〔三密加持速疾顕〕
「三密加持速疾顕」とは、いはく、三密とは一には身密、二には語密、三には心密なり。法仏の三密は甚深微細にして等覚十地も見聞すること能わず。故に密といふ。一一の尊等しく刹塵の三密を具して、互相(たがひ)に加入し彼此摂持せり。衆生の三密もまたかくの如し。故に三密加持と名づく。(中略)
かくの如くの経等はみな、この速疾力不思議神通の三摩地の法を説く。もし人あって法則を闕(か)かずして昼夜に精進すれば、現身に五神通を獲得(ぎゃくとく)す。漸次に修練すれば、この身を捨てずして進んで仏位に入る。具(つぶさ)には経に説くが如し。
この義によるが故に「三密加持速疾顕」という。加持とは如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日(ぶつにち)の影、衆生の心水(しんすい)に現ずるを加といひ、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく。行者もしよくこの理趣を観念すれば、三密相応するが故に、現身に速疾に本有(ほんぬ)の三身を顕現し証得す。故に『速疾顕』と名づく。常の即時即日の如く、即身の義もまたかくの如し。
〔重重帝網名即身〕
「重重帝網名即身」とは、これすなわち譬喩を挙げてもって諸尊の刹塵の三密、円融無碍なることを明かす。帝網とは因陀羅珠網なり。いはく、身とは我身、仏身、衆生身、これを身と名づく。また四種の身あり。いはく、自性、受用、変化、等流、これを名づけて身といふ。また三種あり。字、印、形、これなり。かくの如くの等の身は、縦横重重にして、鏡の中の影像と燈光の渉入の如し。彼の身はすなわちこれこの身、この身はすなわち彼の身、仏身すなわちこれ衆生身、衆生身すなわちこれ仏身なり、不同にして同なり、不異にして異なり。
故に三等無碍の真言にいわく、『アサンメ イチリサンメ イサンマ エイソワカ』。
初めの句義をば無等といひ、次をば三等といひ、後の句をば三平等といふ。仏法僧これ三なり。身語意もまた三なり。心仏及び衆生、三なり。かくの如く三法は平等平等にして一なり。一にして無量なり。無量にして一なり。しかも終に雑乱せず。故に『重重帝網名即身』といふ。
〔法然具足薩般若〕
「法然具足薩般若」とは、『大日経』にいはく、『我は一切の本初なり。号して世所依と名づく。説法等比なく、本寂にして上あることなし』と。
いはく、我とは大日尊の自称なり。一切とは無数を挙ぐ。本初とは本来自然にかくの如く大自在の一切の法を証得するの本祖なり。
如来の法身と衆生の本性とは同じく本来寂静の理を得たり。然(しか)れども衆生は覚(かく)せず知(ち)せず。故に、仏、この理趣を説いて衆生を覚悟せしめたまう。(中略)
法然といふは、諸法自然にかくの如くなることを顕す。具足とは成就の義、無闕少(むけっしょう)の義なり。薩般若(さはんにゃ)とは梵語なり。具には、薩羅婆枳嬢曩(さらばしぢゃなう)といひ、翻じて一切智智といふ。一切智智とは、智とは決断簡択(けんちゃく)の義なり。一切の仏、各(おのおの)五智、三十七智、ないし刹塵の智を具せり
〔心数心王過刹塵 各具五智無際智〕
次の両句はすなわちこの義を表す。もし決断の徳を明かすには、すなわち智をもって名を得(う)。集起(じゅうき)を顕すにはすなわち心(しん)をもって称(な)となす。軌持(きじ)を顕すにはすなわち法門に称(な)をなす。一一の名号、みな人(にん)を離れず。かくの如くの人、数、刹塵に過ぎたり。故に一切智智と名づく。顕家の一智をもって一切に対してこの号を得るには同ぜず。心王とは法界体性智等なり。心数とは多一識なり。
『各具五智』とは、一一の心王心数に各各にこれあることを明かす。無際智とは高広無数の義なり。
〔円鏡力故実覚智〕
『円鏡力故実覚智』とは、これすなわち所由を出だす。一切の諸仏、何に因ってか覚智の名を得たまう。いわく、一切の色像のことごとく高台(こうだい)の明鏡の中に現ずるが如く、如来の心鏡もまたかくの如し。円明の心鏡、高く法界の頂に懸つて寂にして一切を照らして不倒不謬なり。かくの如く円鏡、何れの仏にかあらざらん。故に『円鏡力故実覚智』といふ。」
※三劫成仏=極めて長い時間をかけて修行してはじめてさとること。※仏菩提=ブッダの智慧。さとり。※三摩地=三昧に同じ。※十六生=十六菩薩の功徳を身にあらわし出すこと。※正覚=正しい仏のさとり。※法仏=法身仏。法身に同じ。※自内証=みずからの内心のさとり。※大教王=教えがすぐれていることを賛嘆した語。※自家仏乗=真言密教のこと。※十六大菩薩生=十六大菩薩の功徳を成就すること。※無上覚=無上の正覚。この上なきさとり。※金剛界=金剛界身。金剛界大如来。※身秘密=法身仏の三密活動。三密は身体・言葉・意の秘密のはたらき。※悉地=真言の行法をおこなってその修行の目的が成就すること。※持明悉地=明(仏の言葉)を唱えることによって行法の目的を成就すること。※法仏悉地=法身仏が自然にそなえもっている境地を成就すること。※等覚=仏と等しいさとりを得た菩薩。※十地=菩薩の修行すべき五十二階位のうち、第四十位から五十位までの菩薩。※他受用身=人々の宗教的素質に応じて真理の教えを説く仏身。※菩提心=さとりへとむかう心。※大覚の位=偉大なるとされる者すなわち仏の位。※頌=賛歌の詩歌。※六大=六つの粗大な物質要素のことで、地大・水大・火大・風大・空大・識大をいう。※無碍=障碍無く融けあうこと。※瑜伽=ヨーガの音写。相応一致すること。四種曼荼羅=大曼荼羅・三昧耶曼荼羅・法曼荼羅・謁磨曼荼羅。※三密=身体・言葉・意。※加持=仏の大悲の力が人々に加わり、人々の信心が仏のそれに応じて、互いに感応すること。※帝網=帝釈天の宮殿に張りめぐらされているという網で、羅網という。※薩般若=一切智。※心数心王=心数は心の作用、心王は心の主体。※刹塵=数の多いことの喩え。※五智=大日如来の全智を開いて五つとしたもの。法界体性智(真理の世界、全宇宙をもって智慧の本体とするもの)・大円鏡智(大きな円い鏡に、あらゆるものを映し出すように、ありのままに全てを認識する智慧)・平等性智(現象世界の全ての平等を知る智慧)・妙観察智(現象世界の全ての差別を知る智慧)・成所作智(全ての生きとし生けるものの救済にためにはたらきかける実働的な智慧)。※無際智=限りない広大な仏の智慧。※実覚智=あるがままにさとる智。如実智ともいう。※体=本体。※相=様相、すがた。※用=作用、はたらき。※輪円=正しい智慧が輪円のように欠滅のないこと。一般には、曼陀羅の意味に用い、輪円具足という。※本不生=万物が本来生じたものでないこと。※諸過=あらゆる妄想分別。※五神通=天眼通・天耳通・他心通・神境通・宿命通。※本有の三身=本来そなえている法・報・応の三身。※三等無碍の真言=入仏三昧耶の真言。※アサンメ イ チリサンメ イサンマ エイソワカ=等しきなきもの 三密平等なる 平等尊よ。成就あれ。※世所依=世間のよりどころ。※本寂=本来寂滅。※三十七智=金剛曼荼羅の根幹となる三十七尊の智。※多一識=多(区別)と一(平等)との相対を認めている識。ここでは無数識と意味する。
出典:空海「即身成仏義」
   筑摩書房「弘法大師空海全集 第二巻」(221頁~253頁)
   昭和58年12月5日初版第一刷発行、昭和62年5月20日初版第六刷発行


第四十二章 親鸞の智慧・・・・・『自然法爾』 
「自然法爾ということ。
 自然の自はおのずからということであります。人の側のはからいではありません。然というのはそのようにさせるという言葉であります。そのようにさせるというのは、人の側のはからいではありません。それは如来のお誓いでありますから、法爾といいます。法爾というのは如来のお誓いでありますから、だからそのようにさせることをそのまま法爾というのであります。また法爾である如来のお誓いの徳に包まれるために、およそ人のはからいはなくなりますから、これをそのようにさせるといいます。これが分かってはじめて、すべての人ははからわなくなるのであります。ですから、義の捨てられることが義である、と知らなければならないといわれています。自然というのは、元来そのようにさせるという言葉であります。阿弥陀仏のお誓いはもともと、人がはからいを離れて南無阿弥陀仏と、仏をたのみたてまつるとき、これを迎いいれようとおはからいになったのですから、人がみずからのはからいを捨て、善いとも悪いともはからわないことを自然というのである、と聞いています。如来のお誓いのかなめは念仏の人をこの上ない仏にさせようとお誓いになったことであります。この上ない仏といいますのは形もおありになりません。形もおありにならないから自然というのであります。形がおありになるように示すときには、如来のさとりをこの上ないものとはいいません。形もおありにならないわけを知らせようとして、とくに阿弥陀仏と申しあげる、と聞き習っています。阿弥陀仏というのは自然ということを知らせようとする手だてであります。このような道理がわかれば、この自然のことを常にとやかくいう必要はありません。いつも自然ということをとやかくいうならば、義の捨てられることが義であるということさえが、なおはからいとなるでしょう。これは如来の智慧が人の智慧のとどかないものであることを示すものです。正嘉二年十二月十四日  愚禿親鸞八十六歳」(108~109頁)
「南無阿弥陀仏と称えたうえにさらに帰命無碍光如来と称えるのはまちがったことである、ということこそ、はなはだしい誤りと思われます。帰命とは南無のことであり、無碍光如来の姿は光明であり、その本体は智慧であって、この智慧はとりもなおさず、阿弥陀仏だからであります。」(119頁)
出典:親鸞「末燈鈔」
   中央公論社「日本の名著6 親鸞」
   昭和44年7月1日初版印刷、昭和44年7月10日初版発行


第四十三章 道元の智慧・・・・・『即心是仏』
「いわゆる仏祖の護持している即心是仏は、外道や二乗(声聞・縁覚)の夢にもみないところである。ただ仏祖と仏祖だけが、即心是仏を体得し究めつくしてきたところの、聞と行と証を有している。こころみに、仏・即・是・心に分解してみると、こうなる。
 仏。仏は万事に専念してきたし、また万事を打ち捨ててきた。しかしながら、一丈六尺の黄金の仏身には似ても似つかぬ。
 即。即なる公案である。公案の現成を待つのでもなく、敗れ去るのも回避しない。
 是。すなわち三界である。退くのでも出るのでもない。ただ三界であって、唯心ではない。
 心。すなわち牆・壁である。それは、泥をこね水を混ぜたものではない、造ったものでもない。
 あるいは即心是仏、あるいは心即仏是、あるいは仏即是心、あるいは即心仏是、あるいは是仏心即と、さまざまに参究する。
 このような参究こそ、まさしく即心是仏である。その全体を挙げて、そのまま即心是仏に正伝するのである。このように正伝して、今日に至っている。いわゆる正伝しきった心というのは、一心がそのまま一切法、一切法がそのまま一心である。
 そこで古人がいうに、『もし心を認知体得すれば、大地は消滅して一寸の土もない』と。よく知るがよい、心を認知体得するときは、全天が落下し、大地は破裂する。あるいはまた、そのとき大地はさらに三寸の厚さを増すともいえる。
 古徳がいうに、『清く明らかに、優れている心とは、いったいなにか。それは山河大地であり、日月星辰である』と。心とは山河大地であり、日月星辰であることは、これによって明らかである。だが、この発言は、進めばなお不足が出るし、退けばかえって余りが残る。
 山河大地の心は、ただ山河大地のみである。さらに波浪もなく、風煙もない。日月星辰の心は日月星辰のみである。さらに霧もなければ霞もない。生死去来の心は生死去来のみである。さらに迷いもなく、悟りもない。牆・壁・瓦・礫の心は、牆・壁・瓦・礫のみである。更に泥もなく、水もない。四大・五蘊の心は、四大・五蘊のみである。さらに意馬もなく、心猿もない。椅子・払子の心は、椅子・払子のみである。さらに竹もなく、木もない。
 このような次第であるから、即心是仏はただ即心是仏、一点のしみもない。諸仏はただ諸仏、一点の汚れもない。それゆえに、即心是仏とは、菩提心を発し、修行し、悟りを開き、涅槃に入るところの諸仏である。まだ、菩提心を発せず、修行せず、悟りを開かず、涅槃に入らないのは、即心是仏ではない。
 たとい一刹那でも、菩提心を発し、修行し悟りを開くのも、即心是仏である。たとい一の粟粒のなかでも、菩提心を発し、修行し悟りを開くのも、即心是仏である。たとい限りない時間に、菩提心を発し、修行し悟りを開くのも、即心是仏である。たとい一念のなかに、菩提心を発し、修行し悟りを開くのも、即心是仏である。たとい半分のこぶしでも、菩提心を発し、修行し悟りを開くのも、即心是仏である。
 そうであるのに、長い時間かかって修行し成仏するのを、即心是仏でないというのは、即心是仏を、まだ見ないものであり、知らないものであり、まだ参学をしたことのないものである。あるいは、即心是仏を説き示す正師に遭わないものである。
 いわゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏である。釈迦牟尼仏、これが即心是仏である。過去・現在・未来の諸仏がともに仏となるときは、かならず釈迦牟尼仏となるのである。これが即心是仏である。」(即心是仏)
出典:道元「正法眼蔵」
   中央公論社「日本の名著7 道元」(135~137頁)
   昭和49年6月1日初版印刷、昭和49年6月10日初版発行


第四十四章 中江藤樹の智慧・・・・・『明徳について』
「問 人間の世の中で、第一に願い求めなければならぬものは何でしょうか。
答 心の安楽が最高である。
問 人間の世の中で、第一に嫌い捨てなければならぬものは何でしょうか。
答 心の苦痛よりほかなはない。
問 苦しみを去り楽しみを求める方法は、どのようなものですか。
答 学問である。
問 学問によって苦痛を除き安楽を得るという道理は、どのようなものなのですか
答 元来、われわれ人間の心の本体は安楽なものなのである。その証拠は、乳幼児から五、六歳までの心を見てごらんなさい。世俗の人も幼童の苦悩のない様子を見て、仏であるなどと言っている。このように、心の本体は安楽で、苦痛のないものである。苦痛は、ただそれぞれの人の惑いで、自分で作る病気である。心を譬えてみれば、眼のようなものである。眼の本体は、開閉自由で物を見るにもはっきりと気持ちの良いものである。もし、塵や砂が眼の中に入れば、開閉は不自由であり、物をはっきり見ることができず、苦痛は耐えられない。一時は耐えられないほどの苦痛でも、塵や砂をとり去れば、本体にかえって、開閉は自由であり、はっきりして気持ちがよい。そのように、心の本体は元来安泰であるけれども、惑いという塵砂のため、いろいろの苦痛があり耐えがたい。学問は、この惑いという塵や砂を洗い捨てて、本体の安楽にかえる方法であるから、学問をよくつとめ、工夫して受用すれば、本来の心の安楽にかえるのである。
問 誰でも人々は、貧賤勤労を苦痛とし、富貴安逸を安楽としております。ところが、苦楽はその人の境界にあるのではなくて、ただ心にあるというのはどういうわけですか。
答 そのような心得違いを凡見といって、浅ましい迷いである。凡夫は外面的なものを願う迷いが深く、真実の道理を弁えない意見であって、見かけだけで決める考えかたをする。そもそも明徳が暗ければ、俗習に染まり、人欲にこだわり、酒色財利の欲の迷いが深いから、天下を手に入れると天下を心配し、国を得れば国を心配し、家を持っていると家を心配し、妻子があれば妻子を心配し、牛馬を持てば牛馬を心配し、金銀財宝があれば金銀財宝を心配し、見ること聞くこと、たいてい苦しみとならないものはない。そうだとすると、天子となっても、下は庶人となっても、外見の見かけの違いはあっても、その心の苦しみに差別がない。だから古歌に
 憂きことの品こそ変われ、世の中に、心やすくて住む人はなし
と詠まれている。
 君子は明徳が明らかで、俗習に染まらず、人欲がまったくない。もちろん、酒色財利の欲気の迷いがないから、天下を手に入れてもそれにこだわらず、国を得ても憂いにならず、家を得ても煩わされず、妻子があれば楽しみ、牛馬があればそれにこだわらず、金銀財宝があれば、それらにとらわれることがない。見ること聞くことみな楽しみとなる。だから上は天子になっても、その楽しみは別に増すこともなく、下は庶人になっても、その楽しみが減ることもない。だから、帝王の御位は富貴安逸の極致であるが、和漢ともに歴代の帝王にして明徳が暗ければ、酒色財利の欲気の悩みのない者はいない。『箪瓢陋巷、蔬食を食らい水を飲む』という生活は貧賤の極致であるが、その楽しみは比べようがない。また、凡夫の場合でも、宮廷の官女は、その情欲のはけ口のない苦しみはやるかたがない。農夫の耕作は勤労の極致であるが、その心はさほど苦しいものではない。あの禹王が洪水を治められたのは勤労の極致であるが、その楽しみは快活であった。そのように、よく真実の理を心から弁えれば、苦楽が心にあって外面にあるのではないことは、理解しにくいことではない。」(170~171頁)
「問 学問の本意が明らかでないことが天下の大不幸であるとは、どういうことですか。
 答 学問は明徳を明らかにすることを主意真髄とする。明徳は、われわれ人の形をしているものの根本であり、主人である。この主人が暗ければ、あたかも主君がぼんやり者で家来が無秩序であるようなもので、その人の思う行うこと、みな天理に背き、もっぱら明利の欲が深く、親を親ともせず、君を君ともせず、ただひたすら自分には利があり人には損害をあたえることに知恵を働かし工夫し、互いに争ったり奪い合ったりし、はなはなだしい場合には主君や親を殺す悪逆の行為もする。人間の万苦は明徳の暗いことから起こり、天下の兵乱もまた明徳の暗いことから起こっている。これは天下の大不幸ではないか。聖人は、これを憐みに思い、明徳を明らかにする教えを立てて、人の形をしている者には、学問をするように勧められた。四書・五経に説かれていることは、みなそれである。
 問 四書・五経は世間にゆきわたって、読む者はたくさんいるが、この真の意味が明らかでなくて、世の中の人びとが学問を謗るのはどうしてですか。
 答 世の人が学問を謗るのは、世の人の誤りではない。それは学問をする人の誤りである。世間の学問をする人を見るに、学問の真の意味を知って学問に志す人は少ない。多くは物読み奉公の望みか、あるいは医者の飾りか、あるいは伊達道具のためか、この三つを志してとして学問をするので、学問第一義の明徳を明らかにすることにはまったく関心を持っていないから、心を正しくし身を修める益はなく、文芸を自慢する病がかさむばかりである。ときには志の真実な人もあるけれども、すぐれた先覚者に直接教えを受けることがないので、道は自分の心の中にあるという事を弁えず、ただ先王の法や賢人・君子の跡を人の守るべき道と認め、これで心を正しく身を修めようと技倆を励むために、本来はいきいきとして滞りのない心がかえってくすんでしまって、自分の心に固有している明徳のおおらかさが消え、角々しい性質が日にかさみ、次第に人と仲良くせず、変わり者になってしまう。こうなれば、学問の益というのは、ただ文芸ばかりである。世間の人が、これを見て、物読み・出家・医者などのほかは学問は無益であると取り沙汰するのは、理由のないことではない。
 もしまた、世間の学者各個人ごとに、凡情に基づく風習態度を洗い捨てて、学問の第一義である明徳を明らかにして、孝・悌・忠・信の真実があれば、親は子の学問しないのを嘆き、主君は臣下の学問のないことを嫌い、学問を謗る声がなくなるだけでなく、士はもちろんのこと、農夫・商人に至るまで、学問がなくてはどうにもならぬことだともてはやすであろう。そうだとすれば、世俗の人は学問そのものを謗るのではなくて、学者を謗るのである。それは学者自身の招いたところである。しかるに、私ども学問をする者のくせで、世間の人が学問を謗るのを聞いて、あるいは腹を立て、あるいは笑い軽蔑して、その誤りが自分の身から出ていることを知らない。このことから考えると、学問の真義に志のない学者は、世間の学者を謗る人よりも、聖人の学問にとっては一層重い罪人であるといえよう。」(165~167頁)
「明徳は人の本心、天の人に与へし所以にして人の得て以て万物に霊たる所の者なり。その体は至虚至神にして、天地万物の理を具え、その用は至霊至妙にして天下の万事に応ず。即ち人性の別名也。明は心に属し、光明正大、燭さざるなきの謂なり。(中江藤樹の明徳図説より)」(307頁)
出典:中江藤樹「翁問答」
  中央公論社「日本の名著11 中江藤樹 熊沢藩山」
  昭和51年6月15日初版印刷、昭和51年6月25日初版発行


第四十五章 伊藤仁斎の智慧・・・・・『仁について』
「問う。『孔子・孟子のいう仁とは、その趣旨はいったいどのようなものでしょうか。』
『仁とは、人道の根本であり、あらゆる善の要である、人道に仁と義があるのは、天道に陰と陽があるようなものだ。だから「仁は人の安らかな住まいであり、義は人の正しい道である」といったのだ、仁と義の両者は離れられないものでありながら、しかも仁こそ重要なのである。それで孔子の弟子たちは、仁を日常ごく当たりまえのこととして、とくにその意義を疑う者はなかった。だから「論語」という書物は、すべて仁を修養する方法を説き、仁の意義を説いたものではないのだ。弟子たちが問うたことも、夫子(孔子)の答えたこともみなそうである。(中略)』
問う。『仁が徳として完成されたときにはどのようになるのか、おたずねしてよろしいでようか。』
『よろしい。慈愛の心があらゆるものにまじりあってゆきわたり、自身の内から外部にひろがり、あらゆるところにゆきわたり、残忍で薄情な心が少しもない、これこそ仁と謂うのである。こちらには心をかけるがあちらにはかけないというのは、仁ではない。一人にだけ心を通じるが十人の人には通じないというのは仁ではない。ほんのわずかな時間にもあり、眠っているあいだにもはたらき、心につねに愛があり、愛が心に満ち、心と愛とが完全に一つになっている、これこそ仁である。だから徳というものは、人を愛するのがいちばん大切であり、人の心をそこなうことより不善なことはないのだ。孔子学派において、仁を学問の根本義とするのは、このためであるとすることができよう。』
問う。『徳というものは、人を愛するのがいちばん大切である。だから孔子学派は、仁を学問の根本義とするのだということですが、どうか最後までその説をおきかせください。』
『徳としての仁というものは、言葉や口でいいつくすことのできるものではない。この世界に王となれば世界中にゆきわたり、一国の君主となれば国中に、一家の主人となれば一家中に、父となればその子に、夫となればその妻に、兄であればその弟に、弟であればその兄にゆきわたるものだ。この仁によって自分をただせば、心や行いが正しくなる。これによって事務を処理するときには、成就する。自分がよく人を愛すれば、人もまた自分を愛してくれる。おたがいに親しくし愛して、父母がなかむずまじく、兄弟が仲よくするようにすれば、何をしてもでき、何事も成就するものだ。舜が一年でそのまわりに村ができ、二年すれば町となり、三年たって都市ができたように、また、成湯が東に向かって征伐にゆけば、北狄(えびす)が怨んだようなこと、これが仁の効果である。不仁の者はこの反対である。残忍で人をきずつけるので、人びとはそむき、肉身も離れさり、死ぬまでやまないものだ。だから仁というものは、道徳の根本であり、学問の究極の段階であり、世界中の善で、仁よりすぐれたものはない。』
 少年は、『わかりました』といった。
問う。『仁はつまるところ愛につきるのでしょうか。』
『究極のところは愛につきる。愛は、実体のある徳である。愛がなければ、仁という徳をみることができない。かりにも、少しでも残忍で薄情で人をそこなう気持ちがあるときには、仁であることはできない。だから、学問というものは、仁に到達できて、はじめて実態のある徳となるのだ。いろいろな善行は仁の発展したものである。仁の徳というものは、その影響が大きなものなのだ。』
出典:伊藤仁斎「童子問」
   中央公論社「日本の名著13 伊藤仁斎」(484~486頁)
   昭和47年2月1日初版印刷、昭和47年2月10日初版発行


第四十六章 石田梅岩の智慧・・・・・『心について』
「学者――あなたが言うとおりならば、心を悟るためには仏法を交えて用いてよろしい、というように聞こえます。しかし仏法は私の仕事ではないので、同じことならば儒道によって知りたいと思います。仏法を除くことはできないのでしょうか。
答え――『孟子』には、『憐みの心がなければ人でない。恥を感じなければ人でない』と言います。あなたがさきほどから心を知ることができないのに苦しみ、赤面して不善を恥じているのは、恥を知る心があるからです。その恥を知る心をつきつければ、仁義の良心に達するでしょう。仏法による必要はありません。自分の心を知れば、そこにはもはや、儒・仏の区別もないでしょう。たとえば、ここに鏡を研ぐ人がいるとしましょう。その人が上手ならば鏡を研いてもらう。研ぐ材料に何を使うかを訊くまでもありません。儒・仏の法を用いるのも、このように自分の心を磨き研ぐための道具です。磨いたのちに、研ぐ道具にこだわるのはおかしいでしょう。たとえ儒家で学んでも、学び知ることができなければ役に立ちません。仏家で学んでも、自分の心を正しくすることができなければよくないでしょう。心に二つあるわけではありません。仏家で習えば心が別のものになると思うのは笑止のことです。仏家でも初めは儒学から入る僧侶が多い。儒書が妨げになって、仏意を知ることがむつかしくなったという例を聞きません。儒者もそのように、自分の心を磨く道具として仏法を用い心を知ればどうして儒家の妨げとなるでしょうか。すでに僧侶は、儒者のほうで発明したことでも、それを仏法のために用いているのです。また仏典によれば、仏は悟るものです。『悟る者は一切衆生の迷いを解く』という。迷いが解ければ本来の自己にもどるので、世界はただ一つの心の現われになると言います。そのように迷いの解けた本体を名づけて、仏性をいいます。仏性をいうのは天地と人間の本体です。最高とところでは、性を知るほかに仏法はありません。仏から二十八代目の達磨大師は、『見性成仏』を説きました。また儒教でも『道の根本は天に発する』(「漢書」)、したがって『天の命を性という。性に従うのが人の道である』(「中庸」)と説いています。性というものも天地と人間の本体です。神・儒・仏ともに悟る心はかわりません。どの法によってもみな自分の心を知ることになります。(中略)
 そこである人がいいました――この客の質問にはまだ十分に答えられていないようです。あなたの答えを聞いていると、『学問の道はほかにない。ただ本来の善心を求めることだけである』(「孟子」)とも言い、また『聖人の心は無心である』とも言う。無心ならば心を求める必要はないでしょう。ほんとうに心を求めようと思えば、無心を説くのはまちがいでしょう。どちらが本当で、どちらがまちがいかを、はっきり決めないで、このようにまぎらわしく説明しているのは、どういうわけでしょうか。
 答え――教えの道は、『一事に膠着して融通がきかず』、『一をとって百を捨てる』ようなものではありません。たとえて言えば一本の丸木筏に乗るようなものです、よく乗りなれた者は、どこを踏んでも真中になるので乗りやすい。乗りなれない者は丸木だからぐらぐらして踏むところを知らず、乗ることがむつかしい。学問の道もこういうものです。心を知らなければ理屈を聞いても分からない。また心を知る者は何を聞いてもそこに同じ道理があるので、みな自分の心によく理解されます。その『本来の善心を求める』というのも、『聖人の心は無心である』というのも、二つの違ったことではなく実は同一のことです。ものを生みだすことが天地の心であり、生みだされるものがそれぞれものを生みだす天地の心を取得して自分の心とします。その心が人欲におおわれて見失われているのです。だから、心をきわめつくして天地の心にかえろうとするときには、『本来の善心を求める』と説明します。求めて得られれば天地の心となります。天地の心になった状態を説明するときには、『無心』といいます。天地は無心であっても四季が交代し万物が生じます。聖人も天地の心を得て私心なく無心のようであっても、仁・義・礼・智が行われます。聖人の学問を論ずるのは、この心を知ってからだと思いなさい。」
出典:石田梅岩「都鄙問答」
   中央公論社「世界の名著18 富永仲基・石田梅岩」(253~257頁)
   昭和47年5月20日初版印刷、昭和47年5月30日初版発行


第四十七章 佐藤一斎の智慧・・・・・『真己について』
「本然の真己有り。躯殻の仮己有り。須らく自ら認め得んことを要すべし」(「言志録122」)
「胸臆(きょうおく)虚明ならば神光四発す。」(「言志録161」)
「深夜暗室に独座すれば、群動皆息み、形影倶(とも)に泯(ほろ)ぶ。是に於いて反観すれば、但(た)だ方寸の内烱然(けいぜん)として自ら照らす者有るを覚ゆ。恰も一点の燈火暗室を照破するが如し。認め得たり、此れ正に是れ我が神光霊昭の本体なるを。性命は即ち此の物。道徳は即ち此の物。中和位育に至るも、亦只(た)だ是れ此の物の光輝、宇宙に充塞する処なり。」(「言志録214」)
「心の霊光は、太陽と明かりを並ぶ。能く其の霊光に達すれば、即ち習気消滅して、之が嬰類を為すこと能わず。聖人之を一掃して曰く、『何をか思い何をか慮らん』と。而して其の思いは邪(よこしま)無きに帰す。邪無きは即ち霊光の本体なり。」(「言志後録9」)
「仮己を去って真己を成し、客我を逐(お)うて主我を存す。是をその身に擭(とら)われずという。」(「言志後録87」)
「人は当に自ら我が軀(み)に主宰あるを認むべし。主宰は何物たるか。物は何れの処にか在る。中を主として、一を守り、能く流行し、能く変化し、宇宙を以て体と為し、鬼神を以て迹(あと)と為し、霊霊明明、至微にして顕わるもの、呼びて道心と做す。」(「言志後録104」)
「学を為すの緊要は、心の一字に在り。心を把(と)って心を治む。之を聖学と謂う。」()言葉志晩録1」)
「胸次虚明なれば、感応神速なり。」(「言葉志晩録5」)
「認めて以て我を為す者は気なり。認めて以て物と為す者も気なり。其の我と物と皆気たるを知る者は、気の霊なり。霊は即ち心なり。其の本体は性なり。」(「言葉志晩録11」)
「人の霊、知有らざる莫(な)し。只だ此の一知、即ち是れ霊光なり。嵐霧(らんむ)の指南と謂う可し。」(言葉志晩録12)
「天下の物、理有らざる莫(な)し。この理即ち人心の霊なり。学者は当に先ず我に在る万物を窮むべし。孟子曰く、『万物皆我れに備わる。身に反(かえ)りみて誠なれば、楽焉(これ)より大なるは莫し』と、即ち是れなり。」(「言葉志晩録12」)
「心は現在なるを要す。事未だ来たらざるに、邀(むか)う可からず。事己(すで)に往けるに、追う可からず。纔(わず)かに負うとも纔(わず)かに邀(むか)うとも、便(すな)わち是れ放心なり。」(「言葉志晩録175」)
「人は当に自ら吾が心を礼拝し、自ら安否を問うべし。吾が心は即ち天の心。吾が身は即ち親の身なるを以てなり。是を天に事(つか)うと謂い、是を終身の孝と謂う。」(「言葉志晩録177」)
「愛敬の心は、即ち天地生々の心なり。草木を樹芸し、禽虫を飼養するも、亦唯だ此の心の推(すい)なり。」(「言葉志晩録188」)
「夢中の我も我なり。醒後(せいご)の我も我なり。その夢我(むが)たり、醒我(せいが)たるを知る者は、心の霊なり。霊は真我なり。真我は自ら知りて、醒睡(せいすい)に間(へだ)つること無し。常霊常覚は、万古に亘りて死せざる者なり。」(「言葉志晩録292」)
「経書を読むは、即ち我が心を読むなり。認めて外物を做(な)す勿(なか)れ。我が心を読むは即ち天を読むなり。認めて人心と做す勿れ。」(「言志耄録3」)
「真の己を以て仮の己に克つは、天理なり。身の我を以て心の我を害するは、人欲なり。」(「言志耄録40」)
「端座して内省し、心の工夫を做すには、宜しく先ず自ら其の主宰を認べきなり。省する者は我か、省せらるる者は我か。心は個(も)と我にして、躯も亦我なるに、此の言を為す者は果たして誰か。是れを此れ自省と謂う。自省の極は、乃ち霊光の真の我たるを見る。」(「言志耄録50」)
「人は童子たる時、全然たる本心なり。稍(やや)長ずるに及びて、私心稍(やや)生ず。既に成立すれば、則ち更に世習を夾帯(きょうたい)して、而して本心殆(ほとん)ど亡ぶ。故に此の学を為す者は、当に能く斬然として此の世習を袪(さ)り以て本心に復すべし。是を要と為す。」(「言志耄録51」)
「人心の霊なるは太陽の如く然り。倶だ克伐怨欲、雲霧のごとく四塞すれば、此の霊烏(いすく)にか在る。故に誠意の工夫は、雲霧を掃いて白日を仰ぐより先(せん)なるは莫し。凡そ学を為すの要は、此れよりして基(もとい)を起こす。故に曰く、『誠は物の終始なり』と。」(「言志耄録66」)
「人は須(すべか)らく快楽なるを要すべし。快楽は心に在りて事に在らず。」(「言志耄録75」)
「胸次清快なれば、則ち人事の百艱を亦阻(そ)せず。」(「言志耄録76」)
「霊光に、障碍無くば、則ち気乃ち流動して植える餒(う)えず、四体軽きを覚えん。」(「言志耄録78」)
「英気は是れ天地精英なり。聖人は之を内に蘊(つつ)みて、肯(あ)えて諸(これ)を外に露(あら)わさず。賢者は則ち時時(じじ)之を露わし、自余の豪傑の士は、全然之を露わす。若(もし)夫(そ)れ絶えて此の気無き者をば、鄙夫小人(ひふしょうじん)と為す。碌碌(ろくろく)として算(かぞ)うるに足らざる者のみ。(「言志耄録80」)
「自らを欺かず。之を天に事(つか)うと謂う。」(「言志耄録106」)
「『楽しみは是れ心の本体なり。』惟(た)だ聖人のみ之を全うす。何を以てか之を観る。其の色に徴し、四体に動く者、自然に能く申申如(しんしんじょ)たり、夭夭如(ようようじょ)たり。」(「言志耄録135」)
出典:佐藤一斎「言志録」、「言志後録」、「言志晩録」、「言志耄録」
   講談社学術文庫「言志四録(一)言志録」、「言志四録(二)言志後録」、「言志四録(三)言志晩録」、「言志四録(四)言志耄録」
   1981年12月10日第一刷発行、1997年9月22日第25刷発行


第四十八章 西郷隆盛の智慧・・・・・『敬天愛人』
「道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。己に克つの極功(きょくごう)は『意勿(な)し、必勿し、固勿し、我勿し』(論語)と云えり。総じて人は己に克つを以て成り、自らを愛するを以て敗るるぞ。能く古今の人物を見よ。事業を創起する人其事大抵十に七八迄は能く成し得れ共、残り二つを終わる迄成し得る人の希れなるは、始は能く己を慎み事をも啓する故、功も立ち名も顕るるなり。功立ち名顕るるに随ひ、いつしか自らを愛する心起こり、恐懼戒慎の意弛み、驕矜(けうきょう)気漸く長じ、其成し得たる事業を負(たの)み、苟(いやしく)も、我が事を仕遂んとてまづき仕事に陥り、終に敗るるものにて、皆自ら招く也。故に己に克ちて、睹ず聞かざる所に戒慎するもの也。」(12頁)
「己に克つに、事々物々に臨みて克つ様にては克ち得られぬなり。兼て気象を以て克ち居れよと也。」(13頁)
「学に志す者、規模を宏大にせずは有る可からず。去りとて唯此ここにのみ偏倚すれば、或いは身を修するに疎に成り行くゆえ、終始己に克ちて身を修する也。規模を宏大にして己に克ち、男子は人を容れ、人に容れられては済まぬものと思へよと、古語を書て授けらる。『恢宏其気者。人之患。莫大乎自私自吝。安於卑俗。而不以古人自期。』古人を期するの意を請問せしに、堯舜も以て手本とし、孔夫子を教師とせよとぞ。」(13頁)
「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。」(13頁)
「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を盡(つくし)て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。」(13頁)
「聖賢に成らんと欲する志無く、とても企て及ばぬと云う様なる心ならば、戦いに臨みて逃るよりなお卑怯なり。朱子も白刃を見て逃る者はどうもならぬと云われたり。誠意を以て聖賢の書を読み、其の處分せられたる心を身に体して心に験する修行致さず、唯个様(かよう)の言个様の事と云うのみを知りたるとも、何の詮無きもの也。予今日人の論を聞くに、何程尤もに論する共、處分に心行渡らず、唯口舌の上のみならば、少しも感ずる心之れ無し。真に其の處処分ある人を見れば、実に感じ入る也。聖賢の書を空く読むのみならば、譬へば人の剣術を傍観するも同じにて、少しも自分に得心出来ず。自分に得心出来ずば、万一立ち会えと申されし時、逃げるより外有る間敷く也。」(17頁)
「至誠の域は、先ず慎独より手を下すべし。閑居即慎独の場所なり。小人は此處処万悪の淵藪なれば、放肆柔情の念慮起さざるを慎独とは云うなり。是善悪の分るる處なり。心を用ゆべし。古人云う『静を主とし人極を立つ。』(宋、周濂渓の語)是其れ至誠の地位なり、慎ざるべけんや。」(21頁)
「知と能とは天然固有のものなれば、『無知之知は、慮らずして知り、無能の能は、学ばずして能くす。』(明、王陽明の語)と、是何物ぞや、其唯心之所為にあらずや。心明なれば知又明なる處に発すべし。」(21頁)
「勇は必ず養う處あるべし。孟子云わずや、浩然の気を養うと。此気養はずんばあるべからず。」(22頁)
出典:西郷隆盛「西郷南洲遺訓」
   岩波文庫「西郷南洲遺訓」
   1939年2月2日第1刷発行、2009年7月6日第57刷発行
【内村鑑三「代表的日本人」西郷隆盛より】
「西郷の生活はこのように地味で簡素でありましたが、その思想は、これまで紹介してきましたように、聖者か哲学者の思想でありました。
 『敬天愛人』の言葉が西郷の人生観をよく要約しています、それはまさに知の最高極致であり、反対の無知は自己愛であります。西郷が『天』をどのように把握していたか、それを『力』とみたか『人格』とみたか、日頃の実践は別として『天』をどういうふうに崇拝してか、いずれも確認するすべはありません。しかし西郷が、『天』は全能であり、不変であり、きわめて慈悲深い存在であり、『天』の法は、だれもの守るべき、堅固にしてきわめて恵みゆたかなものとして理解していたことは、その言動により十分知ることができます。『天』とその法に関する西郷の言明は、すでにいくつか触れてきました。西郷の文章はそれに充ちているので、改めておおく付け足す必要はないでしょう。
 『天はあらゆる人を同一に愛する。ゆえに我々も自分を愛するように人を愛さなければならない。』
 西郷のこの言葉は、『律法』と預言者の思想の集約であります。いったい西郷がそのような壮大な思想をどこから得たのか、知りたい人がいるかもしれません。
 『天』には真心をこめて接しなければならず、さもなければ、その道について知ることはできません。西郷には人間の知恵を嫌い、すべての知恵は人の心と志の誠によって得られるとみました。心が清く志が高ければ、たとえ議場でも戦場でも、必要に応じて道は手近に得られるのです。常に策動をはかるものは、危機が迫るときは無策です。
 『誠の世界は密室である。その中で強い人は、どこにあっても強い。』
 不誠実とその肥大児である利己心は、人生の失敗の大きな理由であります。西郷は語ります。
 『人の成功は自分に克つにあり、失敗は自分を愛するにある。八分どおり成功していながら、残りの二つのところで失敗する人が多いのはなぜか。それは成功がみえるとともに自己愛が生じ、つつしみが消え、楽を望み、仕事を厭うから、失敗するのである。』
 それゆえ私どもは、命懸けで人生のあらゆる危機に臨まなければなりません。西郷は、責任のある地位につき、なにかの行動を申し出るときには、『わが命を捧げる』ということを何度も語りました。完全な自己否定が西郷の勇気の秘密であったことは、次の注目すべき言葉からも明らかです。
 『命も要らず、名も要らず、位も要らず、金も要らず、という人こそもっともあつかいにくい人である。だが、このような人こそ、人生の困難を共にすることのできる人物である。またこのような人こそ、国家に偉大な貢献をすることのできる人物である。』
 『天』と、その法と、その機会とを信じた西郷は、また自己自身を信じる人でもありました。『天』を信じることは、常に自己自身を信じることをも意味するからです。」
出典:内村鑑三「代表的日本人」
   岩波文庫「代表的日本人」(40~41頁)
   1995年7月17日第1刷発行、2009年5月7日第30刷発行


第四十九章 鈴木大拙の智慧・・・・・『霊性的自覚』
「霊性は精神の奥に潜在しているはたらきで、これが目覚めると精神の二元性は解消して、精神はその本体のうえにおいて感覚し思惟し意志し行動し能うものと言っておくのがよいかも知れん。」(250頁)
「霊性的直覚が無限大円環性であるから、その中心がいたるところにあるといわれ、『親鸞一人のためなり』という一人の意味が看取せられるであろう。繰り返して言うまでもないと思うが、この一人は個己的一人ではないのである。そう考えられたら、毫釐(ごうり)の差は天地懸隔で、取り返しのつかない錯誤を生ずる。一人は超個的一人で、中心のない無限大円環の中心を形成するところのものである。霊性的自覚はこの中心のない中心を認得するときに成立する。そのとき『天上天下唯我独尊』の一人者となるのである。それが真実の個己――超個己の自己限定である。個己でない個己という矛盾がもっとも具体的事実として認得せられ、この存在が究意性をもってくるのである。親鸞の日本的霊性は、一方にありては伝統的に法然に刺戟せられながら、また他の一方にありては、それが大地との生ける接触によりて、ほんとうにみずからもまた生けるものとしての直覚が成立したのである。
 超個の個としての一人は孤独性をもっている。絶対に孤独であると言わなければならぬ。『寥寥たる天地の間、独立、望みなんぞ極まらん』と言われるように、中心のない円環内に一人という中心を認得するところの意味は、こんな矛盾的論理にほかならぬのである。それで孤独は絶対に孤独であって、しかも『春山は乱青を畳み、春水は虚碧をただよわす』のである。絶対の孤独の一人はかくのごとき万差の個多そのものなのである。かくのごとき矛盾の可能なるゆえんは、われらのいずれもが無限大の円環の中に、中心のない中心を占めて、そこで起臥しているというもっとも具体的な事実が厳存するからである。これが霊性的直覚である。
 霊性的自覚は個己における最後の経験だから、一人性をもっているのである。ただ論理からいうとそれはソリプシズム(注:独在論、唯我論のこと)だと考えられよう。しかしソリプチックだと言うところに、すでに然ざるものが現れているので、ソリプシズムは元来ただの論理でも成立せぬのである。しかしそれはそれとして、霊性的直覚の世界では、この直覚そのもののほかは、すべて第二義性をもつことになっている。すなわち個己的直接性を帯びないものはいずれも古びたものとして取り扱われるのである。他人の記録の注釈または解釈に憂き身を窶(やつ)すことはしないのである。それは古着であり、買置きであり、人伝えであり、報告であるから、そのものとしては価値のないものである。霊性はいつも一人であり、覿面である、赤裸々であるから、古着の世界に起臥することを嫌う。個霊は超個霊と直截的に交渉を開始する。いかなる場合にも媒介者を容れぬ。それでその直覚は超個霊の個霊化でなくてはならぬ。個霊は個霊でしかも個霊でない。そのゆえに、個即超個、超個即個でなければならぬ。即心即仏は非心非仏で、非心非仏は即心即仏であると言うは、これゆえにほかならない。霊性的自覚はもっとも具体的であるからもっとも個己的である。しかしてそのゆえにまたもっとも抽象的でもっとも普遍的である。それは一人の直覚である。周辺のない円環の中に中心のない中心を占めていることの自覚である。これが親鸞の日本的霊性により表現せられると、『弥陀の本願はただ親鸞の一人のためなり』ということになる。絶対愛の中に摂取せられるときは、善も悪もそのままにしておくのである。二元的・歴史的・直線的生活はそのまま否定せられないでよいのである。否定即肯定、肯定即否定という矛盾の論理が絶対愛すなわち無辺の大悲という面にも、またあてはめられて妥当なのである。」(352~353頁)
出典:鈴木大拙「日本的霊性」
   中央公論社「日本の名著43 清沢満之・鈴木大拙」
   昭和45年10月20日初版印刷、昭和45年11月10日初版発行


第五十章 西田幾多郎の智慧・・・・・『真の自己について』
「終わりに臨んで一言しておく。善を学問的に説明すればいろいろの説明はできるが、実地上真の善とはただ一つあるのみである、すなわち真の自己を知るということにつきている。われわれの真の自己は宇宙の本体である、真の自己と知ればただに人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きている。しかして真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。しかしてこの力を得るのはわれわれのこの偽我を殺しつくして一たびこの世の慾より死してのち蘇るのである(マホメットがいったように天国は剣の影にある)。かくのごとくにしてはじめて真に主客合一の境にいたることができる。これが宗教道徳美術の極意である。キリスト教ではこれを再生といい仏教ではこれを見性(けんしょう)という。」(201頁)
「上来述べたところをもってみると、神は実在統一の根本というごとき冷静な哲学上の存在であって、われわれの暖かき情意の活動と何らの関係もないように感ぜられるかもしらぬが、その実は決してそうではない。さきにいったように、われわれの欲望は大なる統一を求むより起こるので、この統一が達せられたときが喜悦である。いわゆる個人の自愛というも畢竟かくのごとき統一的要求にすぎないのである。しかるに元来無限なるわれわれの精神は決して個人的自己の統一をもって満足するものではない。さらに進んで一層大なる統一を求めねばならぬ。われわれの大なる自己は他人と自己を包含したものであるから、他人に同情を表し他人と自己の一致統一を求むるようになる。われわれの他愛はかくして起こってくる超個人的統一の要求である。ゆえにわれわれは他愛において、自愛におけるよりも一層大なる平安と喜悦を感ずるのである。しかして宇宙の統一なる神は実にかかる統一的活動の根本である。われわれの愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である。」(155頁)
出典:西田幾多郎「善の研究」
   中央公論社「日本の名著47 西田幾多郎」
   昭和45年8月10日初版発行、昭和49年9月15日再版発行