哲学のすすめ
~哲学は皆様を100%幸福にする!~
はじめに
皆様は、至福に成りたいと思う時に、至福に成る事が出来ますか。
多くの人は、言います。
そんな事は、出来ないと。
もし、そんな方法あったら、皆様は遣ってみたいですか。
その方法は、お金はそんなにかかりませんが、時間はかかります。
それでも、遣ってみたいと思いますか。
もし、遣ってみたいと言う人がいましたら、その人に紹介します。
その方法とは、「哲学」です。
哲学の事を、ギリシア語で、philosophiaと言いますが、それは、智慧(sophia)を愛する(philo)と言う意味です。
この智慧を愛する事で、人は至福に成る事が出来るのです。
何故、哲学、すなわち智慧を愛する事で、人は至福に成る事が出来るのか。
それは哲学、すなわち智慧を愛する事が、本当の自分自身を愛する事に他ならないからです。
智慧とは何か、それは本当の自分自身の事です。
本当の自分自身とは何か、それは智慧の事です。
これが、哲学の大原理です。
その智慧、その本当の自分自身を愛する事に依って、人は至福に成る事が出来るのです。
しかし、私が幾らこんな事を言っても、多くの人は信じないと思います。
と言う事で、古今東西の五十人の偉大な哲学者を、証人として連れて来ました。
西洋からは、ダビデ、ソロモン、ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカ、イエス、パウロ、マルクス・アウレリウス、プロティヌス、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、エックハルト、クザーヌス、ルター、デカルト、スピノザ、ルソー、カント、ゲーテ、ヘーゲル、ショーペンハウワー、トルストイ、ジェームス、ヤスパースの二十五人、インドからはヤージニャヴァルキヤ、クリシュナ、ダゴールの三人、中国からは老子、孔子、孟子、朱子、王陽明の五人、インド中国仏教からはブッダ、龍樹、達磨、曇鸞、智慧、臨済の五人、日本からは聖徳太子、空海、親鸞、道元、中江藤樹、伊藤仁斎、石田梅岩、佐藤一斎、西郷隆盛、鈴木大拙、西田幾多郎の十一人の合計五十人です。
この五十人の偉大な哲学者の言葉に依って、皆様をその世界へと、御案内して行きたいと思います。
なお、この「哲学のすすめ」は、本文と「哲学読本(智慧の巻)」の二部構成に成っています。
「哲学読本(智慧の巻)」には、先程の五十人の哲学者の言葉を掲載しています。
本文は、これらの言葉を基に、展開して行きますので、先ずは「哲学読本(智慧の巻)」から、先に読んで頂きたいと思います。
「哲学読本(智慧の巻)」の中には、難しい文章もありますが、我慢して通読して頂きたいと思います。
出来れば、三回、通読して頂きたいと思います。
そうすれば、本文の内容も、良く理解する事が、出来る様に成ると思います。
なお、皆様は、この「哲学読本(智慧の巻)」だけでなく、これから、たくさんの「智慧の書」を、読む事に成ると思いますが、その際に、次の三つの事に留意して読んで行けば、それぞれの哲学者の智慧を、より早く、より深く、理解する事が出来る様に成ると思います。
一つ目が、「智慧とは何か」と言う事であり、
二つ目が、「智慧を愛するとは、どう言う事か」と言う事であり、
三つ目が、「智慧を愛すると、どうなるか」と言う事です。
ここで、その種明かしを、少しして置きます。
先ず、一番目の「智慧とは何か」と言う事ですが、これについては、それぞれの哲学者が、智慧を何と呼んだかを見付ける事に依って、それぞれの哲学者の智慧を、より早く、より深く、理解する事が出来る様に成ります。
と言う事で、「哲学読本(智慧の巻)」の目次を、御覧頂きたいと思います。
ダビデの主、ソロモン、ソクラテス=プラトンの知恵、アリストテレスの知性、エピクロスの知恵、セネカの英知、イエス、パウロの聖霊、マルクス・アウレリウスのダイモーン、プロティヌスの神、クザーヌスの知恵、カントの根源的最高善、ゲーテの神の霊、ヘーゲルの絶対的精神、ジェームスの潜在意識的自己、ヤスパースの実存、ヤージニャヴァルキヤ、クリシュナ、ダゴールのアートマン、老子の道、孔子、朱子、伊藤仁斎の仁、王陽明の良知、ブッダ、龍樹、達磨、曇鸞、聖徳太子の般若、臨済、空海、道元の仏、中江藤樹の明徳、石田梅岩の心、伊藤仁斎の真己、西郷隆盛の天、鈴木大拙の霊性、西田幾多郎の真の自己、これらが、全て智慧です。
所変われば、名も変わる。
地域や時代、宗教や哲学に依って、名は変わって来ますが、これらは皆、智慧なのです。
そして、それは究極的には、本当の自分自身に他ならないのです。
これらの解釈については、それぞれの哲学者の章で、それぞれに解説して行きたいと思っています。
二番目の「智慧を愛するとは、どう言う事か」と言う事ですが、これについては、それぞれの哲学者が、それぞれの方法で、それぞれに愛しているので、それぞれの哲学者の言葉に従って、理解して頂きたいと思います。
しかし、究極的には、答えは一つです。
それは、聖人賢人哲人たちの智慧を参考にしながら、自分自身の智慧を見付け、その智慧を愛し続けて行くと言う事です。
皆様も、これからは、この方法に依って、皆様の智慧を愛し続けて行く事に成るのです。
三番目の「智慧を愛すると、どうなるか」と言う事ですが、これについては、答えは一つです。
すなわち、至福に成るのです。
もう一度、目次を御覧頂きたいと思います。
アウグスティヌス、トマス・アクィナスの幸福、エックハルトの離脱、スピノザの至福、ルソーの至高の幸福、トルストイの至福、孔子の中、孟子の浩然の気、ブッダのニルヴァーナ、達磨の無心、智顗の止観、聖徳太子の解脱、空海の即身成仏、親鸞の自然法爾、道元の即心是仏が、それらを表現しています
これらの解釈についても、それぞれの哲学者の章で、解説して行きたいと思っています。
それでは、本文に入る前に「哲学読本(智慧の巻)」を通読して頂きたいと思います。
その際には、智慧とは何か、霊とは何か、私とは何か、本当の自分自身とは何か、心とは何か、至福とは何か、空とは何か、無心・無垢・無我とは何か、解脱とは何か、悟りとは何か、神とは何か、仏とは何か、天とは何か、主とは何か、等々について、自分自身の考えで整理しながら、読んで頂きたいと思います。
もし、皆様が至福、すなわち、恍惚とかエクスタシーを体験した事があるなら、その事を思い出しながら、もしくはその体験を、もう一度自分の身に引き寄せながら、読んで頂きたいと思います。
そうすれば、それぞれの哲学者が言いたい事が、痛い様に分る筈です。
何故なら、偉大な哲学者たちは、その事を皆様にお知らせしたくて、「智慧の書」を顕しているのですから。
それでは、「哲学読本(智慧の巻)」を、三回通読して頂きたいと思います。
「文字は殺すが、霊は生かす」。
霊とは、皆様の本当の自分自身の事です。
その霊に従って、読み進めて下さい。
皆様、有難うございます。
こんなにも難しい読本を、三度も読んで下さって。
こんなにも難しい読本を、三度も通読出来た方は、私が本文で言いたい事も、ほぼ理解して下さっていると思います。
答え合わせの積りで、本文を読んで頂きたいと思います。
それでは、本文に入って行きたいと思います。
第一章 ダビデの智慧
皆様は、ダビデの智慧を、理解出来たでしょうか。
ダビデは、智慧の事を、主と呼んでいます。
この主が、古今東西の全ての哲学宗教の基礎の基礎です。
少なくとも、西洋においては、その基礎に成っています。
この主から、キリスト教が生れ、この主を、西洋の哲学者は、研究し続けているのです。
ダビデの主は、ダビデの智慧そのものです。
しかし、この主と言う概念は、ダビデが発明したものではありません。
当時のユダヤ社会において、存在していた概念です。
そして、ユダヤ社会の多くの聖人賢人哲人たちが、その主を、研究し続けていたのです。
勿論、ダビデの前にも、多くの研究成果がありました。
ダビデは、それらの研究成果を基に、更に研究して、ダビデの主を、生み出して行ったのです。
そのダビデの主が、如何なるものであったか。
もう一度、「哲学読本(智慧の巻)」のダビデの章を、読み返して頂きたいと思います。
ダビデの主が、如何に、慈しみと正義に満ちている事か。
この主の慈しみと正義が、ダビデの心一杯に広がっていたので、ダビデは、その慈しみと正義の中で、生きる事が出来たのです。
しかし、ダビデも生身の人間です。
その心が、折れる事もあります。
そんな時、ダビデは、その主に縋り付いて、主に助けを求めたのです。
そうすると、その慈しみに満ちた主は、ダビデを助けてあげる事に成るのです。
何故、ダビデの主は、ダビデを救う事が出来たのでしょうか。
それは、ダビデが、主に願う事に依って、ダビデが、本当の自分自身、すなわち慈しみと正義に満ちた本当の自分自身に、還る事が出来たからに他なりません
すなわち、暗い心から、何時もの明るいダビデの心に、戻る事が出来からに他ならないのです。
「平穏なときには、申しました。『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と。主よ、あなたが御旨によって、砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると、わたしはたちまち恐怖に陥りました。」
この言葉が、その辺りの事を表現しています。
しかし、何時ものダビデを、見て下さい。
主と共に在る時のダビデを、見て下さい。
如何に、喜びに満ち溢れている事か。
「主は羊飼い、わたしは何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」
「あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す。命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」
「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与え、主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒め清らかで、目に光を与える。主への畏れは清く、いつまでも続き、主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にもまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」
「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身をよせる人は。」
「主は右にいまし、わたしは揺らぐことはありません。わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心していこいます。」
「主に申します。あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
何故、ダビデは、主と共に在る時、喜びに満たされているのでしょうか。
それは、ダビデが、本当の自分自身と一緒に成っているからに他なりません。
本当の自分自身とは何か。
それは、智慧の事であり、ダビデの場合で言えば主の事です。
それは、最高最善の理想の事です。
その最高最善の理想に触れ得たと思った時、人は至福に成るのです。
これが、哲学宗教における、至福の原理なのです。
皆様も、この至福の原理を、体感する事が出来る様に成れば、ダビデと同じ様な至福を、体験する事が出来る様に成るのです。
なお、ここで哲学と宗教の違いを、述べて置きます。
哲学とは、智慧を愛する事、宗教とは、神や仏を愛する事。
どちらも、全く一緒の事なのです。
何故なら、智慧も神も仏も、全く一緒なのですから。
只、愛し方が違うのです。
哲学は、一人で、智慧を愛します。
一方、宗教では、団体で、神や仏を愛します。
どちらが難しく、どちらが容易かと問われれば、哲学が難しく、宗教が容易だと言う事に成ります。
何故なら、哲学においては、自分自身で、古今東西の智慧の書(哲学書)を研究し、自分自身で、その智慧を見出さなければ成りませんが、宗教においては、聖典が与えられており、団体の構成員全員で、その神や仏の事を研究するので、その神や仏を見出す事は、それ程、難しい事では無いのです。
しかし、哲学において、自分自身で、その神や仏と同等の智慧を見出した時、その効果は、全く変わる事は無いのです。
すなわち、至福に成るのです。
皆様は、哲学を選びますか、それとも宗教を選びますか。
宗教を選ぶと言う人には、私は何も言う事は有りません。
その宗教の専門家が、皆様を、その神や仏に、導いて呉れると思います。
そして、その神や仏に、皆様が得心した時、皆様は、幸福に成る事が出来ると思います。
しかしもし、哲学に依って、幸福に成りたいと言う人が居たら、私はその人の為にこそ、この哲学のすすめを、書き進めて行きたいと思っています。
さて、ダビデは、幸福だったのでしょうか。
言うまでも、有りませんよね。
幸福だったですよね。
それでは、どんな風に、幸福だったのでしょうか。
「あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
これこそが、幸福の原理です。
これこそが、哲学宗教の幸福の原理なのです。
そして、これ以上の幸福は、有り得ないのです。
ダビデの言う「あなたと」とは、勿論、主の事です。
一方皆様、すなわち哲学者、すなわち智慧を愛する者としての皆様に取っての「あなたと」とは、智慧と言う事に成るのです。
なお、皆様は、あの「哲学読本(智慧の巻)」を、三度も通読して下さったのですから、立派な哲学者、すなわち、智慧を愛する者です。
これからは、皆様を、そう呼ぶ事にします。
そんな皆様、すなわち智慧を愛する皆様(哲学者としての皆様)が、「智慧のほかにわたしの幸いはありません」と、心から言い切る事が出来た時、皆様は、智慧を愛する者(哲学者)として、幸福に成る事が出来るのです。
ダビデの言う「あなたと」とは、主の事であり、皆様哲学者に取っての「あなたと」とは、智慧と言う事に成るのです。
宗教では、智慧に、主や神や仏と言う風に、第三者的人格を持たせます。
その為、宗教では、その智慧を、より具体的に、より強く愛する事が、出来る様に成ります。
一方、哲学では、智慧を、概念や理念として捉えます。
その為、その智慧を、より具体的に、より強く愛する事が、出来にくい面があります。
しかし皆様が、皆様自身で、主や神や仏と同等の智慧を見出した時、皆様は、その智慧を、より具体的に、より強く愛する事が、出来る様に成るのです。
何故なら、その智慧は、皆様が、皆様自身で見出した、主や神や仏と同等な、理念、概念、そのものなのですから。
そんな智慧を、皆様に見出して貰いたくて、この「哲学のすすめ」を、書いているのです。
尤も、この「哲学のすすめ」だけで、その智慧を見出す事が、出来るとは考えていません。
何故なら、皆様が皆様自身で、その智慧を見出す為には、もっと多くの偉大な哲学者(智慧を愛した者)の、もっと多くの智慧の言葉を読み、そして、それらの全ての智慧の言葉が、同一である事を、体得しなければならないからです。
この「哲学のすすめ」にある「哲学読本(智慧の巻)」にある哲学者の言葉は、僅か50人の哲学者の、僅かな言葉だけです。
これらの言葉だけで、それらの言葉が、同一である事を見出す事は、かなり難しいと思います。
皆様が、皆様自身で、その智慧を見出す為には、皆様自身で、多くの偉大な哲学者の智慧の書(哲学書)を、読んで行かなければなりません。
しかし、それはかなり難しい事です。
それでは、どうすれば良いのでしょうか。
そんな皆様の為に用意される物が、『哲学読本大全』と言う事に成るのです。
『哲学読本大全』とは、智慧だけでなく、愛や勇気や忍耐や節制や正義や徳や幸福や平安や自由や喜びや、その他様々な哲学的課題について、古今東西の偉大な哲学者たちの言葉(文章)を、それぞれの哲学的課題毎に集めて、編集した読本の事です。
この『哲学読本大全』が存在する事に依って、皆様は、それぞれの哲学的課題について、即座に研究する事が出来る事と成り、その研究を基に、更に深く研究して行く事が、出来る様に成るのです。
この『哲学読本大全』の作成は、何も難しい事はありません。
哲学に関心のある者が集まれば、直ぐにでも、作成する事が出来ます。
なお、『哲学読本大全』の作成方法については、章を改めに詳しく説明しますので、その際には、ご協力お願いいたします。
さて皆様、ダビデの智慧の言葉は、如何だったでしょうか
皆様は、ここで、こう言うかも知れません。
ダビデの主は、ユダヤ教の中の主であり、自分とは、全く関係ないと。
本当に、そうでしょうか。
もし、皆様の「心の近くにいて」、皆様の「心を諭し」、皆様の「心を確かにし」、皆様の「心に喜びを与え」、皆様の「思いを励まし」、皆様の「目に光を与え」、皆様の「耳を開き」、皆様の「頭を高くあげ」、皆様の「渇きを癒し」、皆様の「闇を照らし」、皆様の「灯火を輝かし」、皆様の「魂を生き返らせ」、皆様の「運命を支え」、皆様の「正しさに応じ返し」、皆様の「正しさを光のように輝かせ」、皆様の「道を完全にして」くださり、
また、皆様の「悩みを知り」、皆様の「嘆きを聞き」、皆様の「泣く声を聞き」、皆様の「叫びを聞き」、皆様の「訴えを聞き」、皆様の「願いを聞き」、皆様の「祈りに耳を向け」、皆様の「右にいて」、皆様の「盾となって守り」、皆様の「助けとなり」、皆様の「支えとなり」、皆様の「魂を沈黙させることなく」、皆様の「魂を陰府に渡さず」、皆様の「魂を死から救い」、皆様の「悔いる霊を救い」、皆様の「罪と過ちを赦し」、皆様の「嘆きを踊りに変え」、皆様の「魂を喜び踊らせ」、皆様の「心を喜び踊らせ」、皆様の「心の願いをかなえて」くださり、
また、皆様に「目を注ぎ」、皆様に「耳を傾け」、皆様に「道を示し」、皆様に「道を教え」、皆様に「知恵を与え」、皆様に「奥義を悟らせ」、皆様に「命を得させ」、皆様に「正義を語らせ」、皆様に「力を帯びさせ」、皆様に「救いの盾を授け」、皆様に「救いによる力を示し」、皆様に「勝利を授け」、皆様に「地を継がせ」、皆様に「繁栄をもたらし」、皆様に「永遠の喜びをいただかせて」くださり、
また、皆様を「見捨てることなく」、皆様を「敵の手に渡すことなく」、皆様を「脅かすものから救い」、皆様を「人間の謀りから守り」、皆様を「争いを挑む舌から免れさせ」、皆様を「苦難から救い」、皆様を「右の御手で支え」、皆様を「見守り」、皆様を「支え」、皆様を「恐れさせず」、皆様を「おののかせず」、皆様を「揺らぐことなくさせ」、皆様を「強い者として」くださり
また、皆様を「引き寄せ」、皆様を「とこしえに見守り」、皆様を「よろめくことなく歩ませ」、皆様を「しっかりと歩ませ」、皆様を「平らな道に導き」、皆様を「広い所に導き出し」、皆様を「まことに導き」、皆様を「草原の原に休ませ」、皆様を「憩いの水の畔に伴い」、皆様を「喜びと共に朝を迎えさせ」、皆様を「安心して憩わせ」、皆様を「満ち足らせ」、皆様を「恵に満たし」、皆様を「恵に潤おし」、皆様も「何も欠けることなくさせ」、皆様を「祝福し」、皆様を「喜び迎え」、皆様を「喜び祝い」、皆様を「高くあげて」くださる様な存在が、居たとしたらどうでしょう。
その様な存在は、存在するのでしょうか。
その様な存在は、存在します。
その様な存在が、何かと問われれば、宗教的用語で言えば、神や仏と言う事と成り、哲学的用語で言えば、智慧と言う事と成りますが、究極的に言えば、それは、本当の自分自身に他ならないのです。
皆様の「心の近くにいて」、皆様の「願いをかなえ」、
皆様に「目を注ぎ」、皆様に「喜びをいだかせ」、
皆様を「見捨てることなく」、皆様を「高くあげて」くださる存在とは、一体、何者でしょう。
もし皆様が、神や仏を信じていれば、それは、その神や仏でしょう。
もし皆様が、智慧を信じていれば、それは、その智慧でしょう。
そしてもし、皆様が、本当の自分自身を信じていれば、それは、その本当の自分自身に他ならないのです。
「本当の自分自身」とは何か。
それは、智慧の事です。
智慧とは何か。
それは、神や仏の事です。
本当の自分自身=智慧=神や仏。
これが哲学の大原理です。
神とは何か。
それは、good、God、GOD。
それは、最高善の事です。
その最高善を、神や仏として求めるものが、宗教であり、
その最高善を、智慧として求めるものが、哲学ですが、
その最高善を求めるのは、皆様自身です。
皆様が、その最高善を求める時、そこに存在するのものが、智慧であり、神や仏と言う事に成るのです。
尤も、智慧や神や仏は、仮称です。
実際には、存在して居ません。
もし、実際に存在するとしたら、それは、本当の自分自身(本当の皆様自身)と言う事に成ります。
しかし、本当の自分自身と言うものも、存在していません。
本当の自分自身とは、皆様が、それまでに最高善を求めて来た結果の、その知識の総体の事を言うのです。
それらの知識は、通常は意識されていないかも知れませんが、意識下の中には、存在しています。
そして、皆様が何かを求める時、それらの知識が、有機的に結合して、皆様に、最適な解を、与えて呉れる事に成るのです。
これが、神や仏や智慧の正体なのです。
これらの存在からの応答の事を、一般的に、インスピレーション(閃き)と呼んでいます。
このインスピレーションが起きた時に、人は、至福に成るのです。
何故なら、求めていたものに対して、最高最善の解が、与えられた事に成るからです。
人とは、考える存在です。
その考えに、最高最善の解が得られた時、人は、至福に成るのです。
これが、至福の原理なのです。
さて、ダビデに帰りましょう。
ダビデは、どれ程、至福を体験していたのでしょうか。
「主に申します。あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
「主は右にいまし、わたしは揺らぐことはありません。わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心していこいます。」
「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに見をよせる人は。」
「主は羊飼い、わたしは何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」
「あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す。命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」
ダビデは、日々、この至福を体験していました。
だからこそ、あんなに強く成れたのです。
さて、皆様はどうでしょう。
皆様は、どれ程、至福を体験しているのでしょうか。
ほとんどの皆様は、至福を体験した事が有りません。
だから、皆様は、そんなにも弱いのです。
さて、皆様に、もう一度、聞き直します。
ダビデの主は、皆様には、関係ないのでしょうか。
「文字は殺すが、霊は生かす」
皆様は、比喩を読み取る力を、身に付けなければなりません。
皆様が、「主」と言う言葉に、囚われている限り、皆様は、ダビデの心を、理解する事は出来ません。
皆様が、主の比喩を、読み解いた時、ダビデの心が、皆様の心と成るのです。
皆様は、未だ、哲学の道に、足を踏み入れただけです。
皆様の前には、偉大な哲学者たちの言葉が、山の様にあります。
それらの言葉を、一つずつ理解して行く事に依って、皆様の心も、偉大な哲学者たちと同じ様な心に、成って行くのです。
それが、哲学の過程なのです。
所で、ダビデの言葉は、どうだったでしょうか。
比喩が多過ぎて、少し、難し過ぎましたか。
でも、大丈夫です。
これから、たくさんの哲学者の言葉が、皆様の眼の前に、現れて来ます。
皆様が、それらの言葉を、一つずつ理解して行く事に依って、皆様の心は、ダビデの心に、近付いて行く事に成るのです。
そして、最終的には、皆様は、こう言う筈です。
「私の考えと、ダビデの考えは、全く一緒だ」と。
そして、更に、こう言う筈です。
「私の考えと、古今東西の偉大な哲学者たちの考えとも、全く一緒だ」と。
これが、皆様哲学者の、最終地点です。
その時、皆様の頭脳の中には、古今東西の偉大な哲学者たちの、最高最善の言葉たちが、蓄積されている事に成るのです。
その時、皆様は、自由自在な存在と成って、皆様自身を、自由自在に楽しむ事に成るのです。
「心の欲する所に従って、矩(のり)を躍(こ)えず。」
これは、孔子が、七十歳に成った時の、心境です。
皆様も、ここを目指して、哲学に励まなければならないのです。
この辺りで、ダビデを終わりたいと思いますが、「はじめに」の所で、発問して置いた三つの質問に答えて、ダビデの章を、終りにしたいと思います。
先ず始めに、「智慧とは何か」と言う事ですが、ダビデは、智慧の事を、主と呼びました。
ダビデの主は、ダビデの智慧、そのものです。
智慧とは何か。
それは、最高最善の知識の総体の事です。
ダビデは、主と言う名の下に、最高最善の知識を求めました。
その結果として、ダビデは、その主に依って、正義を知り、その主に依って、多くの恵みを受ける事に成ったのです。
主=智慧です。
皆様は、哲学者、すなわち智慧を愛する者ですので、この事について、惑う必要はないと思います。
次に、「智慧を愛するとは、どう言う事か」と言う事ですが、ダビデの智慧(主)の愛し方は、尋常ではありません。熱烈そのものです。
この智慧(主)への熱烈な愛、すなわち智慧(主)への熱烈な信仰が、西洋哲学の源流と成り、キリスト教に引き継がれて行ったのです。
最後に、「智慧を愛すると、どうなるか」と言う事ですが、至福に成るのです。
ダビデが、如何に、至福に満たされていたか。
今更、言う必要は、無いかも知れませんが、再掲して置きます。
「わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います。」
「慈しみをいただいて、私は喜び踊ります。」
「わたしの心は御救いに喜び踊り、主に向かって歌います。」
「主は右にいまし、わたしは揺らぐ事はありません。」
「あなたの家の滴る恵みに潤い、貴方の甘美の流れに渇きをいやす。」
「金にもまさり、多くの純金にまさって望ましく、密よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」
「主はわたしを草原の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせる。」
所で、至福とは何でしょう。
それは、皆様が、最高最善の理想に達したと思えた時の、気分の事です。
ここで、あまり不謹慎な事は、言いたくないのですが、皆様の科学的な心を、引き留める為に、言って置きます。
皆様が、至福に成った時、すなわち、皆様にインスピレーションが起こり、皆様が至福な気分に満たされて居る時、皆様の脳内には、モルヒネの六倍以上とも言われている、所謂、脳内モルヒネが、発生している事に成るのです。
これが、脳内生理学的に言う所の、至福の原理と言う事に成るのです。
脳内モルヒネを発生させる方法は、様々に有る様ですが、哲学が、群を抜けて、最高です。
何故なら、哲学は、最高最善の理想を求める事だからです。
皆様が、哲学に依って、最高最善の理想を求め、そしてその最高最善の理想に達し得たと思えた時、インスピレーションが起こり、その結果として、皆様は、至福に満たされる事に成るのです。
皆様が、哲学をしている間中、インスピレーションは、何度でも起こり、何度でも、至福に満たされる事に成るのです。
こんなにも、皆様に、至福を齎すものは、哲学以外、何も無いのです。
「哲学は、最高の快楽である。」
古今東西の偉大な哲学者たちが、異口同音に言っています。
皆様は、これから、偉大な哲学者たちの、たくさんの智慧の言葉を、学んで行く事に成りますが、常に、この事を、念頭に置いて欲しいと思います。
そうすれば、哲学が、楽しくて、楽しくて、仕方が無く成る筈です。
それでは、この辺りで、ダビデを終りにして、次は、ソロモンに入って行きたいと思います。
第二章 ソロモンの智慧
ソロモンは、ダビデの子であり、ダビデはソロモンの父です。
ダビデとソロモンは、親子なのです。
ソロモンは、ダビデから、主の概念を、十分に学びました。
そして、その主の概念を、世界人類の共通語である、智慧と言う言葉に、置き換えたのです。
この置き換えに依って、ソロモンの智慧は、当時の世界中に、広がって行ったのです。
シバの女王は、その智慧を求めて、その世界の果てから、はるばると、ソロモンに会いに来たのです。
ソロモンの智慧が、如何に素晴らしいものか。
「いかに幸いなことか。知恵に到達した人、英知を獲得した人は。知恵によって得るものは、銀によって得るものにまさり、彼女によって収穫するものは、金にまさる。真珠よりも貴く、どのような財宝も比べることはできない。右の手には長寿を、左の手には富と名誉を持っている。彼女の道は喜ばしく、平和のうちにたどって行くことができる。彼女をとらえる人には、命の木となり、保つ人は幸いを得る。」
「わが子よ、密を食べて見よ。それは美味だ。したたる密は口に甘い。そのように、魂にとっては、知恵が美味だと知れ。それを見いだすなら、確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない。」
「知恵を得ることは金にもまさり、分別を得ることは銀よりも望ましい。」
「わたしの与える実りは、どのような金、純金にもまさり、わたしのもたらす収穫は、精選された銀にもまさる。」
所で、この素晴らしい智慧を獲得する為には、どの様にすれば良いのでしょうか。
「わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを探し求める人はわたしを見いだす。」
「求めなさい、そうすれば、与えられる。
探しなさい、そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい、そうすれば、開かれる。」(新約聖書「マタイ福音書」)
この素晴らしい宝は、何処に、存在しているのでしょうか。
山の彼方にでも、存在しているのでしょうか、それとも皆様自身の中に、存在しているのでしょうか。
「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている。主を畏れることは悪を憎むこと。傲慢、驕り、悪の道、暴言をはく口を、私は憎む。わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力を持つ。わたしによって王は君臨し、支配者は正しい掟を定める。君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆、わたしによって治める。わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。」
この「知恵と言うわたし」は、山の彼方に存在しているのでしょうか、それとも皆様自身の中に存在しているのでしょうか。
「知恵の初めとして、知恵を獲得せよ。」
「あなた自身の井戸から水を汲み、あなた自身の泉から湧く水を飲め。」
この智慧は、皆様自身の中にこそ、存在しているのです。
皆様が、智慧とか、本当の自分自身とか、最高最善の理想と言った概念に目覚め、それを求めれば、求める程、その本当の私は、姿を現して来る事に成るのです。
皆様は、元々、傲慢、驕り、悪の道、暴言をはく口を、憎んでいるのではないですか。
もし、皆様が、本当の自分自身(最高最善の理想を目指す皆様自身)に目覚め、その本当の自分自身(最高最善の理想)を求めれば求める程、皆様は更に、見分ける力を持ち、威力を持つ事が、出来る様に成るのです、
そして、その本当の自分自身(最高最善の理想)に従って、正しい掟を定め、正しく裁き、正しく治める事に成るのです。
最初は、「自分自身」を、正しい掟に従って、正しく裁き、正しく治める事に成ります。
そしてもし、皆様が「自分自身」を正しく治める事が出来たら、その次は、皆様の身の回りをと言う風に、その範囲を拡大して行く事に成るのです。
これが、哲学の全過程です。
「求めなさい、そうすれば与えられる。捜しなさい、そうすれば見つかる。」
皆様が、本当の自分自身(最高最善の理想)を求めれば求める程、皆様は、皆様が求めるものを与えられます。
皆様が、本当の自分自身(最高最善の理想)を探せば捜す程、皆様は、皆様が捜しているものを見付ける事が出来ます。
そして、その結果として、皆様の心は、皆様が求めたもの、皆様が捜したものに依って、満たされる事に成るのです。
「神に従う人の結ぶ実は命の木となる。知恵ある人は多くの魂をとらえる。」
「神に従う人の道は輝き出る光、進むほどに、真昼の輝きと成る。」
皆様が、本当の自分自身(最高最善の理想)に従えば従う程、皆様は素晴らしい言葉を生み出し、その素晴らしい言葉が、多くの人の魂を、捕える事に成るのです。
皆様が、本当の自分自身(最高最善の理想)に従えば従う程、皆様の理性は輝き出し、更に進めば、皆様の理性は、真昼の輝きの様に、輝く事に成るのです。
なお、ここで、智慧と神と主の関係を、整理して置きます。
ソロモンは、微妙に、智慧と神と主を、使い分けています。
ダビデは、智慧と言う言葉は、あまり使いませんでしたが、それでも、主と神と智慧を、微妙に使い分けています。
この中で、皆様が、最も理解しにくいのが、「主」だと思います。
主とは何か。
ダビデの次の言葉が、主の概念を、最も明確に表しています。
すなわち、「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し、『あなたこそわたしの神』と申します」と言う言葉です。
「あなたこそわたしの神」、これが主なのです。
「わたしの神」、「皆様自身の神」、これが主なのです。
皆様に、実際に、インスピレーションを齎し、皆様を、至福な気分にさせて呉れる所のその存在の事を、主と呼んでいるのです。
この主は、常に、皆様の中に、存在して居ます。
そして、皆様が、その主に、何かを求める時、その主は、皆様に、最高最善の解を、与えて呉れる事に成るのです。
ですから、その主の事を、「わたしの神よ!」と幾ら叫んでも、叫び足りる事が無いのです。
次に「神」ですが、これは、その構成員全体が持っているだろう所の、最高最善の理想の総体と言う事に成ります。
個々の構成員が持つであろう所の、最高最善の理想は、まちまちです。
ですから、その最高最善の総体である所の、その神の事は、誰も、知る事が出来ません。
この神が、皆様の神と成った時、皆様は、その神を、実感情として、知る事が出来る様に成るのです。
皆様が、最高最善の理想を、強く持てば持つ程、その神は、皆様の中で、大いなる存在として、成長して行く事に成るのです。
最後に「智慧」ですが、それは、皆様が、それまでに、最高最善の理想を求めてきた結果としての、その最高最善の理想に関する知識の総体と言う事に成ります。
それは、通常は意識されないかも知れませんが、意識下の中において、多いなる存在として、存在しているのです。
そして、何かを求める時、それらが有機的に結合して、皆様に、最高最善の解を与えて呉れる事に成るのです。
ですから、智慧と主は、同じ事です。
智慧に、宗教的人格を持たせた物が、主と言う事に成ります。
なお、次の章で述べる、ソクラテス=プラトンは、この智慧を、宗教的な主から、きっぱり、切り離しました。
その結果、そこから西洋哲学の源流、すなわち、智慧を愛する(philosophia)と言う概念の哲学が、始まる事と成ったのです。
それでは、この辺りでソロモンを終りにしたいと思いますが、「はじめに」の所で発問して置いた、三つの質問に答えて、ソロモンの章を終りにしたいと思います。
先ず始めに、「智慧とは何か」と言う事ですが、ソロモンは、智慧の事を、知恵とそのままに呼んでいます。
しかし、ソロモンは、智慧を、主と同じ様な概念で扱っています。
すなわち、智慧にも、第三者的人格を持たせているのです。
その為、少し、戸惑うかも知れませんが、智慧とは、本当の自分自身(それまでに皆様が求めて来た最高最善の理想に関する知識の総体)だと言う事を、しっかり認識していれば、ソロモンの智慧は、それ程、難しくは無いと思います。
次に、「智慧を愛するとは、どう言う事か」と言う事ですが、これについて、ソロモンは、直截に言っています。
すなわち、「わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを探し求める人はわたしを見いだす。」と。
もし、皆様が、本当の自分自身(最高最善の理想を求める皆様自身)を愛し、その本当の自分自身(最高最善の理想)を捜し求めれば、その本当の自分自身は、皆様を愛し、そして、皆様の前に、その姿を現す事に成るのです。
最後に、「智慧を愛すると、どうなるか」と言う事ですが、幸福に成るのです。
「いかに幸いなことか。知恵に到達した人、英知を獲得した人は。」
「彼女の道は喜ばしく、平和のうちにたどって行くことができる。彼女をとらえる人には、命の木となり、保つ人は幸いを得る。」と言う事に成ります。
なお、命の木とは、言(ことば)を生み出す、命の木と言う意味です。
人は、言(ことば)に依って、生きています。
その言(ことば)が、その人に取って、最高最善の言(ことば)であれば、それが幸福なのです。
それでは、次に、ソクラテス=プラトンに、入って行きたいと思います。
第三章 ソクラテス=プラトンの智慧
ソクラテスは、プラトンの師です。
プラトンは、ソクラテスの弟子です。
ソクラテスとプラトンは、師弟関係にあります。
ソクラテスは、一冊の著書も著しませんでした。
ソクラテスの思想は、プラトンの著書の中で、展開されています。
そして、プラトンは、自らの思想のほとんど全部を、ソクラテスに託して、展開しています。
ですから、プラトンの著作上においては、ソクラテスの思想とプラトンの思想は、同一と見做して良いと思います。
と言う事で、ソクラテスとプラトンについては、この書においては、ソクラテス=プラトンと表記して、展開して行く事とします。
所で、皆様は、「哲学読本(智慧の巻」の「ソクラテス=プラトンの智慧」を読んで、どう感じましたか。
そうですね。
そこには、ほとんど宗教色が有りませんよね。
ダビデとソロモンは、ユダヤ教の中に在り、その中で、主や智慧の事を考えました。
一方、ソクラテス=プラトンが居た当時のギリシアは、一神教の支配下には無く、自由に学ぶ事が許されていました。
その中で、ソクラテス=プラトンは、智慧を哲学したのです。
ギリシア語で、哲学の事を、philosophia(智慧を愛する事)と言いますが、その源流を、ソクラテス=プラトンに求めても良いと思います。
ソクラテスは、若い時、東方を旅しています。
プラトンも、何度か、東方を旅しています。
ソクラテスもプラトンも、東方で、智慧の概念を、学んだと思います。
そして、その智慧の概念を、ギリシアに持ち帰り、ギリシアで自由に哲学したのです。
そして、新しい哲学の概念、すなわち、哲学とは智慧を愛する事だと言う概念を、打ち立てる事と成ったのです。
そして、この哲学の概念が、西洋哲学の源流と成って行ったのです。
智慧とは何か。
これが、西洋哲学の問いです。
この問いに対して、ソクラテス=プラトンは、既に、答えを出しているのです。
その答えとは、智慧とは、本当の自分自身であると言う事です。
「魂が純粋に自分だけで何かを考察する場合には、魂は、あの純粋で永遠で不死で不変な存在へとおもむき、そして、そのような存在と同族であるがゆえに、常にそれとともにあるのではないか、魂が自分だけとなり、そうなるのが可能であるかぎりはね。そして魂は、もはや、さまようことをやめ、あの真実在との関係にあってはつねに同一不変な状態を保つのではないか。なぜなら魂は、まさにそのような存在に触れているのだから。魂のこの体験こそ知恵と呼ばれるものではないか。」
「浄化(カタルシス)とは、さっきから論じられてきたように、魂をできるだけ肉体からきり離し、そして、魂が肉体のあらゆる部分から自分自身へと集中し、結集して、いわば肉体の縛めから解放され、現在も、未来も、できるだけ純粋に自分だけになって生きるように魂を習慣づけることを意味するのではないか」
「哲学は、肉眼による考察も、耳も他の感覚による考察も、すべて偽りにみちたものであることを示して、どうしてもそれらの感覚を使わなくてならないばあい以外はそれらから離れているようにと説得する。そして、魂が自分自身に集中し、沈潜して、自分自身以外の何ものも信頼せず、純粋に自分自身で純粋な『そのもの』を直観したときにだけこれを信じて、これに反してさまざまな事物のなかにあって異なった形をとるものを、自分以外のものを用いて考察するばあいには、そのような対象をけっして真実なものであるとしてはならぬ、そのようなものは感覚的な可視的なものであり、それに対し、魂が自分だけで見るものが叡智的な不可視的なものだと、教えてくれる。」
「魂が清浄な状態で肉体を離れる場合を考えてみよう。この魂は肉体的なものは何一つ、ひきずっていない。これは、魂が一生のあいだ、自分からすすんで肉体と協同したことはなく、肉体を避けて、自分自身に集中してきたからであり、このことをいつも練習してきたからである。これこそ、真に哲学することであり、真の意味で平然と死ぬことを練習することにほかならない。」
魂、すなわち「考える存在としての私」が、自分自身に集中すると、どうなるのでしょう。
そうですね。
「さまようことをやめ」、「同一不変な状態を保ち」、「浄化(カタルシス)」が起こり、「直観」が起きる事に成ります。
素晴らしい事だらけですね。
しかし、最終的には、二つの事に集約されて行く事に成ります。
それを、最も分かり易い言葉で言えば、『止観』と言う事に成ります。
止観と言う言葉は、中国の智顗と言うお坊さんが、生み出した概念です。
止観の『止』とは、さ迷う考えが、止まると言う事です。
そうすると、どうなるのでしょう。
そこには、「考える存在としての私」と、本当の自分自身(智慧=最高最善の理想)しか、存在しなくなるのです。
その時の状態の事を、「無心」「無垢」「無我」等々と様々に表現しますが、ソクラテス=プラトンは、その状態の事を、「浄化(カタルシス)」と表現したのです。
そんな状態の中で、更に、最高最善の事を考え続けると、何が起きるのでしょう。
「閃き」「直観」が起きる事に成るのです。
すなわち、最高最善の理想的な考えが、閃く事に成るのです。
閃いた後は、その考えを、楽しみながら、敷衍して行く事に成ります。
これが、『観』です。
この止観が、哲学の醍醐味なのです
江戸時代に、心学と言う学問を唱えた石田梅岩は、次の様に言っています。
「善心を求めて、無心に成る」と。
善心を求めるとは、どう言う事でしょう。
自分自身に集中して、善い事を求めると言う事です。
そうすると、どうなるのでしょう。
無心に成ります。
無心に成ると、そこに存在するのは「考える存在としての私」と、本当の自分自身(智慧=最高最善の理想)だけです。
そこにおいて、「考える存在としての私」が、最高最善の理想を、更に、考え続けて行くと、そこに、閃きが起こり、閃きが起きた後は、その閃きを基に、更に、最高最善の理想を考え続けて行く事に成ります。
そこにおいて、更に、閃きが起きると、その閃きを基に、更に、最高最善の理想を求め続けて行く事に成ります。
「善心を求めて、無心に成る」、そして「無心の中で、更に善心を求める」。
この事を、古今東西の偉大な哲学者(智慧を愛した者)皆、異口同音に言っているのです。
ソクラテス=プラトンは、これらの智慧の概念を、宗教から全く切り離して、誰にでも分かる様な言葉で、表現しようとしたのです。
その為、その智慧の概念が、全世界へと広がって行ったのです。
次のソクラテス=プラトンの言葉が、ソクラテス=プラトンの智慧の概念を、分り易く説明していると思います。
「こんなふうに、快楽と快楽、苦痛と苦痛、恐怖と恐怖を、まるで貨幣でもあるかのように、大きいのと小さいのを交換するのは、徳を得るための正しい交換とは言えないだろう。そうではなくて、われわれがこれらすべてを交換すべきただ一つの真正な貨幣があるだろう。知恵こそ、それなのだ。そして、もしすべてがそれを得るために、あるいは、それを用いて売買されるなら、そのときこそ真の勇気、節制、正義、一言にしていえば真の徳が存在するのだ。真の徳は知恵を伴うのであて、快楽、恐怖、その他、すべて、そういうものが加わろうが、とり去られようが、それは問題ではない。しかしこれらが、知恵からきり離されて、相互のあいだで交換されるなら、そのような徳は、いわばまさに絵に描いた餅にすぎないのであり、まさに奴隷の徳であり、なんらの健全さ真実も含まないであろう。真の徳とは、節制であり、正義であり、勇気であれ、すべて、そのような情念からの、まさに浄化(カタルシス)であって、知恵こそこの浄めの役を果たすのではないか。」
ここに、智慧の二つの働きが、示されています。
一つは、「浄化(カタルシス)」に導くと言う事です。
これは止観の「止」に該当します。
もう一つは、真の徳を生むと言う事です。
これは、止観の「観」に該当します。
無心、無垢、無我の心の中、すなわち浄化された心の中に、真の徳、すなわち勇気、節制、正義等々の様々な徳が生れて行く事に成るのです。
皆様が、最高最善のものを求めて行けば、皆様の心は、浄化されて行きます。
その浄化された心の中に存在するのは、「考える存在としての皆様」と、本当の自分自身(智慧=最高最善の理想)だけです。
その浄化された心の中で、皆様が、更に、最高最善のものを求めて行けば、その本当の自分自身は、皆様に取っての最高最善のものを、形ある物(言)として、与えて呉れる事に成るのです。
なお、最高最善のものが与えられると言っても、最高最善のもの全てが、一度に与えられる訳ではありません。
その時々に、一瞥が与えられるだけです。
その辺りを、ソクラテス=プラトンは、次の様に表現しています。
「魂が自分自身に集中し、沈潜して、自分自身以外の何ものも信頼せず、純粋に自分自身で純粋な『そのもの』を直観する」と。
これが、一瞥です。
すなわち、「閃き」であり、「直観」です。
この閃き(直観)の後、人は暫くの間、至福を感じる事に成るのです。
何故なら、求めていたものが、最高最善の形(言)で、与えられる事に成ったからです。
哲学が、習慣に成れば、この閃きは、頻発する事に成ります。
何故なら、哲学とは、最高最善のものを求める事ですから、当然に、その閃きが、頻発する事に成るのです。
哲学が、習慣化されれば、その閃きは、哲学をしている間中、何回も起こります。
そうなると、皆様は、哲学をしている間中、至福を感じ続ける事が、出来る様にも成るのです。
なお、ここで皆様に、智慧、すなわち本当の自分自身(最高最善の理想)の正体を、明らかにして置きます。
智慧とか、本当の自分自身などと言う物は、生まれつき、皆様の中に、存在している物では、無いと言う事です。
それは、皆様が、最高最善の理想を求めて行く事に依って、皆様の頭脳なり、皆様の潜在意識の中に、蓄積されて行く、最高最善の知識の総体の事だと言う事です。
そんな皆様が、改めて、その最高最善の理想を求める時、その智慧、その本当の自分自身、すなわち、それらの最高最善の知識の総体が感応して、皆様に取って、最高最善のものを、形ある物(言)として与える事に成るのです。
「本当の自分自身探し」と言う言葉は、何時の時代にもありますが、ほとんどの者が、その本当の自分自身を、探し出す事は、有りません。
何故なのでしょうか。
それは、その者が、最高最善の理想を求めていないからです。
最高最善の理想を求めていない者には、その本当の自分自身、すなわち最高最善の理想的な考えも、現れて来る事は無いのです。
現れても、ほんの一瞬です。
そんな「本当の自分自身探し」は、空しいものです。
「本当の自分自身探し」の道は、哲学以外には、有り得ないのです。
それでは、この辺りで、ソクラテス=プラトンを終りにしたいと思いますが、「はじめに」の所で発問しておいた、三つの質問に答えて、ソクラテス=プラトンの章を、終りにしたいと思います。
先ず、始めに「智慧とは何か」と言う事ですが、ソクラテス=プラトンは、智慧を知恵とそのままに呼びました。
ソロモンも、智慧を、知恵と呼びましたが、それは「主」の置き換えでした。
それでも、その智慧は、当時の東方世界に、広まって行ったと思います。
ソクラテス=プラトンも、その東方の智慧を、学んだと思いますが、その智慧を、その主から、きっぱり切り離したのです。
すなわち、智慧を、宗教からきっぱり切り離し、智慧(本当の自分自身)を愛すると言う概念の哲学を、創始したのです。
その事に依って、誰でも自由に、智慧を手に入れる事が、出来る様に成ったのです。
次に、「智慧を愛するとは、どう言う事か」と言う事ですが、この事について、ソクラテス=プラトンは、とても意味深い言葉を、述べています。
それは、「自分自身に集中する」と言う事です。
自分自身に集中するとは、ただ自分自身に集中すると言う事ではありません。
そんな事は、出来ないと思います。
自分自身に集中するとは、自分に取っての善き考え事に、集中すると言う事です。
例えば、勇気でも良いです。
勇気と言う事について、集中して考えれば、その他の考え事は、全て落ちて行きます。
皆様が、日頃思っている世間の悩みも、全て落ちて行きます。
そこにあるのは、考える存在としての皆様と、勇気と言う概念だけです。
皆様が、それまでに、勇気と言う事について、考えたり、学んだりした事があれば、それらの知識が有機的に結合して、皆様に取って、その時点での、最高最善の解が、与られる事える事に成るのです。
それが、「閃き」であり、「一瞥」であり、「直観」です。
その後、皆様は、至福と言う感情を、味わう事に成るのです。
ソクラテス=プラトンは、智慧を、本当の自分自身と言う概念に、置き換えたのです。
そして、それは、全く正しかったのです。
その為、それ以後の哲学者たちは、自分自身の中に、最高最善の理想を求める事に成ったのです。
最後に、「智慧を愛すると、どうなるのか」と言う事ですが、至福に成るのです。
皆様の心は、浄化され、皆様は、皆様が求めていたものに依って満たされて、皆様は、至福に成るのです。
なお、今回の「哲学読本(智慧の巻)」第三章「ソクラテス=プラトンの智慧」の中には、哲学の楽しみや快楽に関する言葉が、掲載されていない様ですので、別な著作(「国家」)から、その部分を引用して、ここに置いて置く事にします。
「真実在の観得がどのような楽しみをもたらすかということは、知を愛する人をのぞいて、他の誰も味わうことができません。」
「知を愛する人間は、真理がいかにあるかを知ることの快楽や、学びながらつねにそのような営為のうちにあることの快楽に比べて、その他の快楽をどのように評価するとわれわれは考えるべきだろうか。はるかにかけ隔たったとみなすのではなかろうか?」
「魂の全体が知を愛する部分の導きに従っていて、そこに内部分裂がないような場合には、それぞれの部分は、一般的に他の事柄に関しても、自己自身の仕事と任務を果たしつつ、正しくあることができるとともに、とくに快楽に関しても、それぞれが自己の本来の快楽、最も優れた快楽、そして可能のかぎりで最も真実な快楽を享受することができるのだ。」
皆様は、哲学(智慧を愛する事)に依って、「はるかにかけ隔たった快楽」、「自己本来の快楽」、「最も優れた快楽」、そして「可能な限り最も真実な快楽」を享受する事が、出来るのです。
その方法は、自分自身に集中すると言う事です。
すなわち、自分自身に取って、最高最善の事を集中的に考える事に依って、皆様は、「最も優れた、最も真実な快楽」を享受する事が出来る様に成るのです。
これは、ソクラテス=プラトンから、皆様への約束です。
それでは、次に、アリストテレスの智慧に入って行きたいと思います。
第四章 アリストテレスの智慧
アリストテレスは、プラトンの弟子です。
アリストテレスは、プラトンから智慧の概念を学びました。
しかし、最終的には、アリストテレスは、プラトンと袂を分かちました。
その原因は、色々あったと思いますが、その一つに、智慧の完全な獲得の方法があったと思います。
プラトンは、智慧があまりに素晴し過ぎたので、その完全な獲得は、生存中は、無理だと考え、死後を想定したのです。
一方、アリストテレスは、死後は想定せず、生存中に獲得できる最高の智慧の概念を、想定したのです。
プラトンは、最終的な智慧の獲得について、次の様に述べています。
「ところが真に知恵を愛し、ハデスにおいて、しかも、そこにおいてのみ、知恵に正々堂々と会えると言う、同じ希望をもっている人が、死に望んで嘆き、あの世へ行くのを喜ばないなんてことがありうるだろうか。なぜなら、あの世以外のところでは決して純粋な知恵に到達しえぬことを、彼は確信しているのだから」
「神々への種族へは、哲学を学んで、まったく浄らかなさまで世を去った者以外は、入ることを許されていない。学を愛する者のみがそれを許されている。」
「彼ら自身のうち、とくに哲学によってじゅうぶんに身を浄めた人たちは、以後はまったく肉体なしに生き、ほかの人たちよりもいっそう美しい住家にいたるのだ。その住家がどのようなものであるかを明らかにすることは、容易なことではないし、いまはもう、その時間もない。しかし、いままで述べてきたようなわけで、シミアス、われわれはこの人生において、徳と知恵とにあずかるために、できるだけのことをしなければならないのだ。なぜなら、報われるところはすばらしく、希望には大なるものがあるのだから。」
これは、死後を想定しての、ソクラテス=プラトンの言葉です。
一方、アリストテレスは、死後の世界は全く想定せず、生存中に獲得できる最高の智慧の概念を、想定したのです。
それが、次の言葉と言う事に成ります。
「もとより、かような生活は人間の水準を超えた生活であるに相違ない。なぜなら、人がかかる生活を営みうるのは、彼が人間たるかぎりにおいてではなく、かえって神的な何ものかが彼のうちに存するかぎりにおいてなのであって、この神的なものが複合的な人間にまさっているまさしくそれだけ、この活動も他の卓越性の即しての活動にまさっている。したがって、知性は、人間を超えて神的なものであるとするならば、知性に即しての活動にもっぱらな生活もまた、『人間的な生活』を超えて『神的な生活』であるとしなくてはならない。ひとは、しかしながら、『ひとなればひとのことを、死すべきものなれば死すべきもののことを知慮するがよい』という勧告に従うべきでなく、できるだけ不死にあやかり、『自己のうちなる最高の部分』に即して生きるべくあらゆる努力を怠ってはならない。」
勿論、アリストテレスも、生存中に、完全な智慧の獲得が出来ると、述べている訳ではありません。
しかし、アリストテレスは、死後の世界を全く想定せずに、生存中に獲得できる最高の智慧の獲得方法を、定義したのです。
それが、「知性は、人間を超えて神的なものであるとするならば、知性に即しての活動にもっぱらな生活もまた、『人間的な生活』を超えて『神的な生活』であるとしなくてはならない。ひとは、しかしながら、『ひとなればひとのことを、死すべきものなれば死すべきもののことを知慮するがよい』という勧告に従うべきでなく、できるだけ不死にあやかり、『自己のうちなる最高の部分』に即して生きるべくあらゆる努力を怠ってはならない。」と言う事に成るのです。
アリストテレスも、言っています。
智慧の完全な獲得は、「神的な生活」であると。
しかし、それでも、その不死に預かるべく、あらゆる努力を怠ってはならないと。
所で、アリストテレスは、完全なる智慧の定義を、どの様に定義したのでしょうか。
次の言葉は、「哲学読本(智慧の巻)」第二十一章「ヘーゲルの智慧」の中で、取り上げている、アリストテレスの智慧の概念に関する言葉です。
今回の「哲学読本(智慧の巻)」第二十一章「ヘーゲルの智慧」においては、ヘーゲルの「精神哲学」の、最終巻の、最終章の、最終節を、掲載していますが、その最後に、アリストテレスの、次の言葉を置いているのです。
すなわち、ヘーゲルが「精神哲学」で述べたかった「絶対的精神」とは、アリストテレスの智慧の概念と、全く同じであると言う事を、言いたかったのだと思います。
「そして、その思惟は自体的な思惟であって、それ自らで最も善なる者をその対象とし、そしてそれが最も優れた思惟であるだけにそれだけその対象も優れた者である。その理性はその理性自身を思惟するが、それは、その理性がその思惟の対象の性を共有することによってである。というのは、この理性は、これがその思惟対象に接触しこれを思惟しているとき、すでに自らその思惟対象そのものになっているからであり、こうしてそれゆえ、ここでは理性(ヌース)とその思惟対象(ノエートン)とは同じものである。けだし、思惟の対象を、すなわち実態を、受け容れるものは理性であるが、しかし、この理性が現実的に働くのは、これがその対象を所有しているときにであるから、したがって、この理性がたもっていると思われる神的な状態は、その対象を受け容れる状態というよりもむしろそれを現に自ら所有している状態である。そしてこの観想(テオーリア)は最も快であり最も善である。そこで、もしこのような良い状態に――われわれはほんのわずかの時しかいられないが――神は常に永遠にいるのだとすれば、それは驚嘆されるべきことである。それがさらに優れて良い状態であるなら、さらにそれだけ多く驚嘆されるできである。ところが、神は現にそうなのである。しかもかれには生命さえも属している。というのは、かれの理性の現実態は生命であり、しかもかれこそはそうした現実態だからである。そして、かれの全くそれ自体での現実態は、最高善の生命であり永遠である。だからしてわれわれは主張する、神は永遠にして最高善なる生者であり、したがって連続的で永遠的な生命と永劫(アイオーン)が神に所属すると。けだし、これが神なのだから。(アリストテレス『形而上学』第十二巻第七章から)」
ここで、アリストテレスは、神を定義しています。
しかし、この神は、山の彼方に居る神ではありません。
私たちの中に、存在し得る神です。
アリストテレスは、言います。
その神を、私たちも体験出来ると。
次の言葉が、それと言う事に成ります。
「この観想(テオーリア)は最も快であり最も善である。そこで、もしこのような良い状態に――われわれはほんのわずかの時しかいられないが――神は常に永遠にいるのだとすれば、それは驚嘆されるべきことである。それがさらに優れて良い状態であるなら、さらにそれだけ多く驚嘆されるできである。ところが、神は現にそうなのである。」
皆様は、未だ、止観と言う事を、十分に体験していないので、この意味が、分かり難いかもしれませんが、もし皆様が、止観を十分に体験する事が出来る様に成れば、この言葉の意味も、十分に理解する事が出来る様に成ります。
無心無垢無我の心の中で、皆様に取っての最高最善の理想を求めます。
そうするとそこに、閃きが起こり、皆様に取っての最高最善のものが、形ある物として与えられます。
その時、皆様は、至福を感じます。
これが「観想(テオーリア)は最も快であり最も善である」と言う事に成るのです。
しかし、人間に取っては、これはほんの一瞥であり、ほんの僅かな間の至福です。
もし、四六時中、最高最善の解が生れ、四六時中、至福の中に在り続ける事が出来れば、それが、「神」だと言うのです。
皆様は、考える存在です。
それは、皆様が、知性(理性)だと言う事です。
皆様と言うか、人間の生命体は、この知性(理性)です。
この知性(理性)が、永遠に最高最善の状態に在り続けている状態の事を、アリストテレスは、「神」と呼んでいるのです。
皆様の知性(理性)が、永遠に、この最高最善の状態で在り続ける事は、人間である限り、不可能です。
しかし、それでも、アリストテレスは言うのです。
「できるだけ不死にあやかり、『自己のうちなる最高の部分』に即して生きるべくあらゆる努力を怠ってはならない。」
この言葉に感応して、ヘーゲルは、絶対的精神と言う概念を、生み出して行ったのです。
また、カントの道徳哲学の要請に基づく、神の概念も、ここに源流があります。
知性(理性)は、皆様に取って、最高最善のものです。
この知性(理性)を、最高最善の状態まで持って行こうとする努力が、哲学と言う事に成るのです。
プラトンとアリストテレスは、西洋哲学の二大源流です。
「求められない物を求め続ける」と言うのが、プラトンの哲学のスタンスであり、
「求められない物を求められる所まで求め続ける」と言うのが、アリストテレスの哲学のスタンスです。
プラトンには、最終結論は有りませんが、アリストテレスには、最終結論が有ります。
要は、智慧の最終到達点を、何処に持って来るかによって、プラトン派が生れ、アリストテレス派が、生まれる事に成ります。
この「哲学のすすめ」は、皆様を、至福に導く事です。
皆様は、哲学に依って、至福に成る事は出来ます。
しかし、それは、皆様が、哲学をしている間だけの事です。
皆様が、哲学を止めて、また、この世に戻ると、皆様から、至福は離れて行きます。
そこで、こうします。
皆様が、この世に在る時も、至福で在り続ける事、これを、皆様の最終目標とすると。
もし、皆様が、この世に在る時も、至福であれば、皆様は、四六時中、至福で在り続ける事が出来ます。
皆様が、四六時中、至福で在り続けられるのであれば、それ以上、何を求める事が有るでしょう。
ここで、皆様の目標が、しっかり、定まった事に成ります。
しかし、私は、ここで、はっきりと、こう言って置きます。
それは、限り無く不可能に近いと。
しかし、だからと言って、諦めてはならないのです。
何故なら、アリストテレスは、「できるだけ不死にあやかり、『自己のうちなる最高の部分』に即して生きるべくあらゆる努力を怠ってはならない。」と言っているのですから。
そして、古今東西の偉大な哲学者たちも、異口同音に、その様に言っています。
勿論、プラトンも、その様に言っているのです。
アリストテレスとプラトンの相違は、唯、智慧の獲得の最終到達時点を、死後に持って来るか、生前に持って来るかの、違いだけなのです。
それを除けば、アリストテレスの思想と、プラトンの思想は全く一緒です。
どちらが、皆様を、哲学的に刺激するかと言えば、断然に、プラトンです。
プラトンの彩りに満ちた智慧の言葉は、皆様を刺激して、皆様を哲学に向かわせ、そして皆様に、至福の意味を、教えて呉れる事に成ると思います。
所で、ここで、限りなく、大きな目標を、立ててしまいました。
それは、この世に在る時も、至福で在り続けると言う事です。
その為には、どうすれば良いのでしょう。
理論的には、次の様に成ります。
古今東西の偉大な哲学者たちの智慧の言葉を学び、それに基づいて、皆様自身の哲学の体系を創り上げ、その哲学に基づいて、皆様自身を律して行く事です。
如何なる場合にも、皆様自身の哲学に基づいて、皆様自身を律して行けば、そこには、悩みや不安や後悔は、発生しないでしょう。
皆様は、あらゆる場合に、心の平安のままに、行動する事が出来る様に成ります。
これが、その哲学の理論と、言う事に成ります。
壮大な理論です。
皆様は、ここで、弱音を吐きたくなりますが、ここでも、皆様は、やはり、こう言うべきなのです。
「『ひとなればひとのことを、死すべきものなれば死すべきもののことを知慮するがよい』という勧告に従うべきでなく、できるだけ不死にあやかり、『自己のうちなる最高の部分』に即して生きるべくあらゆる努力を怠ってはならない。」と。
「心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず」
孔子が、七十歳に成った時の、心境です。
皆様は、ここを目指して、哲学に励まなければ成らないのです。
その為には、どうしたら良いのか。
古今東西の偉大な哲学者たちの智慧の言葉を学び、それに基づいて皆様自身の哲学の体系を創り上げ、その哲学に依って皆様自身を律し、そして更に、その行為が、「習い性と成る」までに、習慣化して行かなければ成らないと、言う事に成ります。
そうすれば、皆様も、孔子の心境にまで、達する事が出来ます。
皆様は、ここで、また、こう言います。
それは、困難に満ちた旅だと。
決して、そんな事は有りません。
それは、喜びに満ちた旅です。
何故なら、その旅は、皆様自身の、素晴らしい哲学体系を、皆様自身で、創り上げて行く旅なのですから。
そこには、インスピレーションが満ち溢れ、その結果として、その至福な気分の中で、皆様自身の哲学の体系を、創り上げて行く事が、出来るのですから。
この哲学を実践して行く為には、皆様は、二つの生活を、想定しなければなりません。
一つの生活は、純粋に、哲学を楽しむ為の生活です。
その時には、皆様は、至福を、十分に楽しむ事が出来ます。
これが、皆様の活力源と成ります。
もう一つの生活は、この世の生活です。
この世の生活とは、皆様が、純粋な哲学から、離れた時の生活の事を言います。
そこにおいては、様々な拘束が、生れて来ます。
その拘束の中における哲学が確立していないと、その拘束に、翻弄される事に成ります。
ですから、純粋に哲学を楽しむ時間において、その拘束の中における哲学を、確立して置かなければ成らないと、言う事に成るのです。
拘束される時間においては、至福を楽しむ事は、至難です。
何故なら、その拘束された時間は、皆様だけの時間では、無いからです。
そこには、他人との関係が生れて来ます。
その他人との関係においても、至福で在り続けようとするなら、その為の哲学を、確立して置かなければ成らないと言う事に成るのです。
その為の哲学が、如何なる物か問われれば、「愛の哲学」と言う事に成りますが、その前の哲学として、「心の平安の哲学」と言うものがあります。
この「心の平安の哲学」を、求めた者が、次の章のエピクロスです。
そして、この「心の平安の哲学」に、幾らか「愛の哲学」を混ぜ込ませた者が、その次の章のセネカです。
そして、この「心の平安の哲学」を含めて、「愛の哲学」を完成させた者が、その次の、次の章のイエスと言う事に成ります
この「愛の哲学」のお蔭で、生活(人間関係)の中においても、至福で在り続ける事が、理論的には、可能と成ったのです。
なお、その辺りの事は、エピクロス、セネカ、イエスの、それぞれの章の所で、説明して行きたいと、思っています。
それでは、この辺りで、アリストテレスを終りにしたいと思いますが、「はじめに」の所で発問して置いた、三つの質問に答えて、アリストテレスの章を終りにしたいと思います。
先ず始めに、「智慧とは何か」と言う事ですが、これに関して、アリストテレスは、二つの概念を、提示しています。
一つは、知性(理性)であり、もう一つが、最高善(智慧)です。
知性(理性)は、ソクラテス=プラトンが使っていた魂と言う言葉と同一概念ですが、それは、「考える存在としての私」の事です。
この「考える存在としての私」、すなわち知性(理性)が、最高善(智慧)を求める行為の事を哲学と呼んでいますが、アリストテレスは、この哲学よりも、更に高い境地を、提示しています。
それが、「認識を有する人」と言う事に成ります。
そして、それよりも、更に高い境地も、提示しています。
それが、「神」と言う事に成ります。
「哲学」、「認識を有する人」、「神」は、知性(理性)が達した到達点に依って、それぞれに、呼ばれる事に成ります。
「神」とは、知性(理性)が、常に、最高善(智慧)に在る状態の事を言います。
ここに、人間が達する事は不可能ですが、最高の範型として、提示しています。
「認識を有する人」とは、知性(理性)が、ある程度、最高善(智慧)を所有している人の事を言います。
「哲学」をする人(哲学者)とは、知性(理性)が、最高善(智慧)を求めている人の事を言います。
皆様は、未だ、「哲学者」ですので、「神」を範型として、「認識を有する人」に達する様、努力をしなければ成らないと、言う事に成るのです。
次に「智慧を愛するとは、どう言う事か」と言う事ですが、再掲に成りますが、次の言葉の通りと、言う事に成ります。
「知性は、人間を超えて神的なものであるとするならば、知性に即しての活動にもっぱらな生活もまた、『人間的な生活』を超えて『神的な生活』であるとしなくてはならない。ひとは、しかしながら、『ひとなればひとのことを、死すべきものなれば死すべきもののことを知慮するがよい』という勧告に従うべきでなく、できるだけ不死にあやかり、『自己のうちなる最高の部分』に即して生きるべくあらゆる努力を怠ってはならない。」と言う事に成ります。
最後に「智慧を愛すると、どうなるか」と言う事ですが、幸福に成るのです。
「幸福には快楽の混在が必要であるとされている。だが、卓越性に即してもろもろの活動のうちでも、最も快適なのは、万人の同意するところ、智慧(ソフィア)に即しての活動にほかならない。おもうに、やはり哲学(フィロソフィア=愛智)というものはその純粋性と安定性との点で驚嘆するに足る快楽を含んでいると考えられる。」
ソクラテス=プラトンも、言っていましたよね。
哲学は、「最も優れた快楽」、「最も真実な快楽」であると。
アリストテレスは、更に、続けて言います。
「知性の活動は――まさに観照的なるがゆえに――その真剣さにおいてまさっており、活動それ自身以外はいかなる目的も追求せず、その固有の快楽を内蔵していると考えられ、かく、自足的・閑暇的・人間に可能なかぎり無疲労的・その他およそ幸福なひとに配されるあらゆる条件がこの活動に具備されているものなることが明らかなのであってみれば、当然の帰結として、人間の究極的な幸福とは、まさしくこの活動でなくてはならないだろう。」
「それぞれのものに本性的に固有なものが、それぞれのものにとって最も善きもの、また最も快適なものなのである。ところで人間に固有なのは、知性に即しての生活にほかならない。まことに、人間は、彼のうちにおける他のいかなるものよりも、このものであるわけなのだから――。したがって、こうした生活が、また最も幸福な生活たるのでなくてはならない。」
皆様は、知性(理性)です。
皆様に取っての、「究極的な幸福」、「最も幸福な生活」は、哲学以外には、有り得ないのです。
それでは、この辺りでアリストテレスを終りにして、エピクロスに入って行きたいと思います。
第五章 エピクロスの智慧
ソクラテスもプラトンもアリストテレスも、そしてエピクロスも、アテネに住んでいました。
ソクラテス、プラトン、アリストテレスが、住んでいた当時のアテネは、当時の最高のポリス国家であり、そして三人共、その国家の枢要な一員でした。
一方、エピクロスが住んでいた当時のアテネは、アレクサンダー大王が、世界を制覇した後の、一都市であり、しかも、エピクロスは、その中の、一市井の人に、過ぎませんでした。
エピクロスは、そんな中で、幸福を哲学したのです。
「人はだれでも、まだ若いからといって、知恵の愛求(哲学)を延び延びにしてはならず、また年取ったからといって、知恵の愛求に倦むことがあってはならない。なぜなら、なにびとも、霊魂の健康を得るためには、早すぎるも遅すぎるもないからである。また知恵を愛求する時期ではないだの、もうその時期が過ぎ去っているのだという人は、あたかも、幸福を得るのに、まだ時期がきていないだの、もはや時期ではないのだという人と同様である。それゆえ、若いものも、年老いているものも、ともに、知恵を愛求せねばならない。年老いたものは、老いてもなお、過去を感謝することによって、善いことどもに恵まれて若々しくいられるように、若いものはまた、未来を恐れないことによって、若くして同時に老年の心境にいられるように。そこでわれわれは、幸福をもたらすものどもに思いを致せねばならない。幸福が得られていれば、われわれは全てを所有しているのだし、幸福が欠けているなら、それを所有するために、われわれは全力を尽くすのだから。」
エピクロスは、市井の中で、幸福を哲学したのです。
皆様は、若いのでしょうか、それとも年老いていますか。
そして、皆様は、幸福ですか。
皆様が、若くても、年老いていても、皆様が、幸福で無ければ、皆様は、幸福を得る為に、全力を尽くさなければ成らないと、エピクロスは、言っています。
そして、その為の方法も、明示しています。
その方法が、何かと言えば、哲学(智慧を愛求する事)と言う事に成ります。
何故、哲学に依って、幸福に成るのか。
それは、哲学に依って、皆様の霊魂が、健康に成るからだと、エピクロスは、言っているのです。
皆様は、ソクラテス=プラトンやアリストテレスから、皆様自身は、理性(知性)であり、その実態は、生命体であると言う事を、学びましたよね。
その理性(知性、霊魂)が、健康に成れば、その生命体である皆様自身も、健康に成ると言う事に成るのです。
その論法は、エピクロスであろうと、ソクラテス=プラトンであろうと、アリストテレスであろうと、偉大な哲学者であれば、皆、同じです。
しかし、エピクロスは、そんな哲学者の中でも、異彩を放っています。
何故かと言うと、快楽主義者と呼ばれているからです。
何故、快楽主義者と呼ばれているかと言うと、幸福の追求の基準に、「快楽」を持って来たからです。
「なぜなら、快が現に存しないために苦しんでいるときにこそ、われわれは快を必要とするのであり、苦しんでいないときには、われわれはもはや快を必要としないからである。まさにこのゆえに、われわれは、快は祝福ある生の始めであり終りである、と言うのである。というのは、われわれは、快を、第一の生れながらの善と認めるのであり、快を出発点として、われわれは、全ての選択と忌避をはじめ、また、この感情を規準として全ての善を判断することによって、快へと立ち帰るからである。」
「それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、――一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとはちがって、――道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(霊魂の平静=アタラクシア)ことにほかならない。けだし、快の生活を生み出すものは、つづけざまの飲酒や宴会騒ぎでもなければ、また、美少年や婦女子と遊びたわむれたり、魚肉その他、ぜいたくな食事が差し出すかぎりの美味美食を楽しむたぐいの享楽でもなく、かえって、素面の思考(ネーボーン・ロギスモス)が、つまり、一切の選択と忌避の原因を探し出し、霊魂を捉える極度の動揺の生じるもととなるさまざまな臆見を追い払うところの、素面の思考こそが、快の生活を生み出すのである。」
勿論、エピクロスは、自分自身で、自分の事を、快楽主義者と呼んだいた訳ではありません。
もし、エピクロスを快楽主義者と呼ぶのであれば、それは、断じて肉体的快楽主義者ではなくて、精神的快楽主義者です。
そう意味では、全ての哲学者が、精神的快楽主義者なのです。
エピクロスは、その快楽の頂点を、「霊魂の平静(アタラクシア)」に持って来ました。
この「霊魂の平静(アタラクシア)」こそが、古今東西の偉大な哲学者たちの、快楽の頂点でもあるのです。
智顗は、止観の「止」と呼び、石田梅岩は、「無心」と呼び、ソクラテス=プラトンは、「浄化(カタルシス)」と呼び、ダビデは、「無垢」と呼んでいるのです。
ですから、エピクロスだけが、特別な精神的快楽主義者であるのではなく、古今東西の偉大な哲学者は、一人の例外も無く、皆、精神的快楽主義者なのです。
エピクロスは、この「霊魂の平安(アタラクシア)」と言う快楽を得る方法として、「素面の思考(ネーボーン・ロギスモス)」と言う概念を、持って来ました。
素面の思考とは、何か。
それは、「一切の選択と忌避の原因を探し出し、霊魂を捉える極度の動揺の生じるもととなるさまざまな臆見を追い払う」事と言う事に成ります。
「一切の選択と忌避の原因」とは何か。
それが、「快楽」です。
何故なら、快楽は、「第一の生れながらの善」だからです。
この快楽を基準にして、「霊魂の平安(アタラクシア)」を、求めて行く事に成るのです。
何と言う、素敵な哲学でしょう。
皆様も、この哲学に惚れませんか。
しかし、冷静に考えて下さい。
これは、全ての偉大な哲学者の哲学でもあるのです。
皆様は、これまでに、ダビデ、ソロモン、ソクラテス=プラトン、アリストテレスと、四人の哲学者を見て来ましたが、彼等の中心に有ったものは、快楽以外の何ものでも、無かったのでは無いですか。
快楽以外に、人を動かす、何かが、有るのでしょうか。
ダビデも、ソロモンも、ソクラテス=プラトンも、アリストテレスも、哲学(智慧を愛する事)が、最高の快楽を齎して呉れたからこそ、哲学をしたのです。
その結果として、偉大な哲学者(聖人、賢人、哲人)と呼ばれる事に成ったのです。
哲学とは、そんなにも素晴らしい、賜物なのです。
エピクロスは、市井の中で、幸福を哲学しました。
そして、心を同じくする仲間と「エピクロスの園」を、開設しました。
エピクロスの園では、心を同じくする者たちが、切磋琢磨して、幸福の哲学の体系を求めたのです。
幸福の哲学の体系とは、何か。
それは、どの様な場合でも、選択と忌避の準備が出来ている、哲学の体系の事であり、どの様な場合でも、「霊魂の平安(アタラクシア)」を確保する準備が出来ている、哲学の体系の事と言う事に成ります。
この「哲学のすすめ」では、『哲学広場』と言う概念を提唱しています。
『哲学広場』とは、皆様が共同して、『哲学読本大全』を作成し、その『哲学読本大全』に基づき、様々な哲学的課題について、哲学的対話や哲学的共同研究を行う場所の事です。
勿論、皆様は皆様自身で、「哲学読本大全」等を基に、様々な哲学的課題について、それぞれに研究し、それらの哲学的課題についての知識を、確立させて行く事に成ります。
そして、哲学広場においては、それらの知識を、哲学的対話や哲学的共同研究を行う事に依って、それらの知識を、更に発展させて、皆様自身で、皆様自身の素晴らしい哲学体系を創り上げて行く事に成るのです。
ですから、『哲学広場』の概念と「エピクロスの園」の概念は、全く同じと言う事に成ります。
なお、『哲学広場』の事については、『哲学読本大全』の事と一緒に纏めて、「哲学読本大全と哲学広場について」と言う章を設けて、詳しく説明して参りますので、その際には、御協力をお願いいたします。
さて、エピクロスは、どの様にすれば、幸福に成る事が出来ると、説いたのでしょうか。
エピクロスの幸福に成る方法は、とても簡単です。
その方法は、次の言葉に、集約されます。
「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福かけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。」
皆様が、皆様の肉体を、飢えさせず、渇かさせず、寒くさせなければ、皆様は、幸福の最高の象徴であるゼウス(神)とも、幸福を競う事が出来ると言うのです。
これは、全くその通りです。
何故なら、皆様の正体は、理性だからです。
皆様の理性が、高まれば高まる程、皆様の理性は、最高の理性の象徴である神に、近付いて行く事に成ります。
神とは、最高の理性の象徴であり、最高の幸福の象徴です。
ですから、哲学に依って、皆様の理性が、神の理性に、近付けば近づくほど、皆様の幸福は、神の幸福に、近付いて行くと言う事に成るのです。
神とは何か。
エピクロスは、次の様に、定義しています。
「まず第一に、神についての共通な観念として人々の心に銘されているとおり、神は不死で至福な生者である、と信じ、神の不死性に縁遠いものや、至福性には不似合いなものを神におしつけることなく、かえって、神の至福性と不死性とを保持することのできるものをことごとく、神のものと考うべきである。というのは、神々は確かに存在してはいる、なぜなら、神々についての認識は、明瞭であるから。しかし、神々は、多くの人が信じているようなものではない、というのは、多くの人々は、かれらが一方で神々についてもっている考えを他方では捨てているからである。そこで多くの人々が信じている神々を否認する人が不敬虔なのではなく、かえって、多くの人々がいだいている臆見を神々におしつける人が不敬虔なのである。というのは、多くの人が神について主張するところは、先取観念ではなく、偽りの想定であって、それによると、悪人には最大の禍いが、いや最大の利益さえもが、神々からふりかかるというのだからである。けだし、神々は、つねにかられ固有の徳
にしたしんでいるので、かれら自身と類似した人々を受け入れ、そうでないものはみな、縁遠いものと考えるのである。」
エピクロスは言います。
神は、不死で至福な存在者であると。
不死とは何か。
それは、不死なる理性と言う事です。
すなわち、最高最善の永遠なる理性だと言う事です。
この事については、アリストテレスから学びましたよね。
神は、至福な存在者であると言う事も、また、アリストテレスから学びましたよね。
神は、最高の理性であり、神は、最高に至福な存在者である。
神とは、皆様自身の神の事です。
皆様は、「最高の理性」としての神を、閃きと言う体験で、実感する事が出来ます。
また、「最高の至福の存在者」としての神を、閃きの後の至福と言う体験で、実感する事が出来ます。
神とは、不死で至福な存在者である。
その神とは、皆様自身の神の事なのです。
「神の至福性と不死性とを保持することのできるものをことごとく、神のものと考えるべきである」と言う方針で、神を求めて行けば、皆様自身の中に、すなわち皆様の頭脳なり、皆様の潜在意識に、それらの素晴らしい知識が、神として、一杯に蓄積されて行く事に成ります。
そして、その知識から、皆様に、閃きが起こり、皆様は、至福に満たされる事に成るのです。
最後に、エピクロスの快楽の哲学を象徴する言葉を、ここに置いて置きます
「ところで、これらすべての始源であり、しかも最大の善で在るのは、思慮である。このゆえに、思慮は知恵の愛求よりもなお尊いのである。思慮からこそ、残りの徳のすべては由来しているのであり、かつ、思慮は、思慮ぶかく美しく正しく生きることなしには快く生きることもできず、快く生きることなしには思慮ぶかく美しく正しく生きることもできない、と教えるのである。というのは、残りの徳はみな快く生きることと由来をともにしているのであり、快く生きることは、それらの徳から離すことができないからである。」
ここで、エピクロスが言っている事は、全ての徳は、思慮から生まれるが、その思慮と徳は、最高の快楽、すなわち「アタラクシア(霊魂の平安)」中においてこそ、最高に耀くと言う事を言っているのです。
これが、エピクロスの「快楽」を基準にした哲学ですが、これは、古今東西の偉大な哲学者の哲学でもあるのです
皆様も、この哲学を、目指す事に成ります。
そして、この哲学によって、皆様も、清く、正しく、美しく、そして快く生きて行く事が、出来る様に成るのです。
この辺りで、エピクロスを終りにしたいと思いますが、「はじめに」の所で発問して置いた三つの質問に答えて、エピクロスの章を終りにしたいと思います。
先ず始めに、「智慧とは何か」と言う事ですが、エピクロスもアリストテレスと同じく、二つの概念を示しています。
それは、「智慧」と「思慮」です。
智慧とは、哲学の愛すべき対象の事を言います。
思慮とは、哲学に依って、ある程度、智慧が身に付いた状態の、頭脳の働きの事を言います。
アリストテレスは、この状態に在る人の事を、認識ある人と呼びました。
エピクロスは、智慧と知慮の違いを、次の様に、述べています。
「思慮は知恵の愛求よりもなお尊い」と。
エピクロスの言う所の思慮とは、単なる頭脳の働きの事では、無いのです。
皆様が、ある程度、智慧を求めて来たその結果としての、その頭脳の働きの事を、言っているのです。
その頭脳の中には、智慧を求めて来た結果としての、最高善に関する知識が、一杯に広がっています。
そんな頭脳の中において、思慮を働かせると、清く、正しく、美しく、そして快く生きる為の智慧、すなわち徳が、生れて来るのです。
その思慮は、最高最善の知識の準備が出来ていればいる程、高い能力を、発揮する事に成ります。
次に、「智慧を愛するとは、どう言う事か」と言う事ですが、エピクロスは、その為の方法として、「快楽」を持って来たのです。
快楽を持って、快楽に至る。
これが、エピクロスの哲学の原理です。
最高の快楽とは、「霊魂の平静(アタラクシア)」です。
この最高の快楽を目指して、様々な快楽の取捨選択(選択と忌避)を、行う事に成ります。
最後に、「智慧を愛すると、どうなるか」と言う事ですが、勿論、幸福に成るのです。
エピクロスの哲学においては、目的と結果が、同じです。
ですから、エピクロスの哲学においては、いち早く、幸福(最高の快楽=霊魂の平静(アタラクシア)に到達する事が、出来るのです。
なお、ここで、幸福の定義をして置きます。
皆様はもう、誤った幸福の定義はしていないと思いますが、皆様の幸福の定義について、釘を刺す意味で、エピクロスの幸福の定義を、ここに置いて置きます。
「幸福と祝福とは、財産がたくさんあるとか、地位が高いとか、何かの権勢だのがあるとか、こんなことに属するのではなく、悩みのないこと、感情の穏やかなこと、自然にかなった限度を定める霊魂の状態、こうしたことに属すのである、」
ここを目指して、皆様は、哲学をすべきなのです。
それでは、この辺りで、エピクロスを終りにして、セネカに入って行きたいと思います。
第六章 セネカの智慧
セネカは、BC4年生まれ(誕生年については広辞苑から引用)。
イエスも、BC4年生まれ(誕生年については広辞苑から引用)。
セネカとイエスは、同じ年の生まれです。
そして、セネカの思想とイエスの思想は、驚く程、似ているのです。
セネカの思想に、イエスと言う現人神を登場させれば、福音書が完成します。
セネカは、古代ギリシア・ローマ哲学を総括して、古代ギリシア・ローマ哲学を集大成しました。
そして、その哲学が、イエス(キリスト教)へと引き継がれて行ったのです。
哲学には、二つの哲学があります。
一つの哲学は、聖人賢人哲人を目指す哲学です。
道徳哲学と言っても、良いでしょう。
もう一つ哲学は、認識の為の哲学、智慧を愛する為の哲学、哲学の為の哲学です。
ソクラテス=プラトンやアリストテレスは、哲学の為の哲学です。
エピクロスは、これに、聖人賢人哲人に成る為の哲学的要素を加えました。
そして、セネカは、更に、徹底的に、聖人賢人哲人に成る為の哲学要素を加えたのです。
セネカは、道徳哲学を、完成させたのです
セネカは、ストア(禁欲)主義者と、呼ばれています。
そして、自らも、その様に、呼んでいます。
一方、エピクロスは、快楽主義者と、呼ばれています。
セネカとエピクロスは、両極の位置にあります。
それでも、セネカは、エピクロスの思想を、最大限に活用しているのです。
何故か。
それは、世間一般の呼び名が、間違っているからです。
ストア主義は、一般に、禁欲主義と訳されていますが、その名は、正当ではありません。
今、広辞苑で、ストア主義の意味を調べた所、「克己、禁欲」と言うキーワードが、出て来ました。
ストア主義は、全くの克己主義です。
そして、エピクロスの快楽主義も、全くの克己主義です。
そして、偉大な哲学者の哲学は、全て、克己主義なのです。
自分自身を克己して、本当の自分自身に成る。
これが、克己主義です。
セネカは、その事を熱く語っています。
これでもか、これでもかと言う位に、その本当の自分自身に成る事を、セネカは、熱く語っているのです。
皆様は、「本当の自分自身探し」を、何度か、試みた事があると思いますが、全て、失敗したと思います。
何故か、それは、皆様が、本当の自分自身とは何かを知らずに、その本当の自分自身を捜そうとしたからです。
皆様が、この書を読み進めている本当の理由は、皆様は、意識していないかも知れませんが、「本当の自分自身探し」です。
何故なら、皆様が、幸福を求めているからです。
皆様が、幸福に成ると言う事は、皆様が、「本当の自分自身」に成ると言う以外には、その方法が、無いからです
もし、皆様が、ここで、改めて、本当の自分自身探しを始めたいと宣言すれば、皆様に最適な、「本当の自分自身探し」の教科書を、一冊紹介します。
その教科書とは、セネカの「道徳書簡集」です。
セネカの哲学書としては、「道徳論集」と「道徳書簡集」の二冊が残っています。
どちらか一冊をと言う事であれば、「道徳書簡集」を推薦します。
何故かと言えば、「道徳書簡集」は、セネカ最晩年の著作ですので、「道徳論集」の内容も含まれているからですが、しかし、何よりものセールスポイントは、書簡集だと言う事です。
「道徳書簡集」は、割合短い文章の、百二十四の書簡から、成り立っています。
その為、一つ一つの書簡は、とても、読み易い物に成っています
そして、その書簡の宛先は、「ルキリウス君」宛となっていますが、その「ルキリウス君」宛とは、皆様宛に他ならないからです。
セネカの書簡を、皆様が、皆様宛の書簡として読んで行けば、セネカは、皆様に、哲学の素晴らしさを教え、そして、本当の自分自身探しの道も、教えて呉れると思います。
そして,更には、聖人賢人哲人への道へと、皆様を、導いて呉れる事にも成ると思います。
セネカは、「道徳哲学」の最高峰です。
そして、セネカの「道徳哲学」が、キリスト教(イエス)へと引き継がれて行ったのです。
それでは、「哲学読本(智慧の巻)」の言葉によって、セネカの智慧を、説明して行きたいと思います。
なお、セネカは、皆様が、皆様自身で、皆様自身の哲学の体系を、創り上げて行く上において、とても重要な哲学者と成って行くと思いますので、少し詳しく、説明して行きたいと思います。
セネカの「道徳書簡集」には、様々な哲学の概念が、鏤められています。
それらの概念を、一つ一つ学ぶ事は、皆様が、皆様自身の哲学体系を、創り上げて行く上において、とても参考になります。
しかし、「哲学読本(智慧の巻)」においては、紙幅の都合もありましたので、「自分」、「哲学(英知への愛)」、「喜び」、「幸福」、「理性」、「徳」、「善」、「神」の概念に関する言葉だけを集めて、掲載しました。
それでも、結構な数にのぼっています。
その為、その連関が、分かり難いと思いますので、ここでは先ず、その連関を、説明して置きたいと思います。
この連関には、方程式があります。
その方程式を示すと、次の通りと成ります。
本当の自分自身=英知=最高の理性=徳=最高善=神と言う事に成ります。
そして哲学とは、上記を求める行為と言う事と成り、
喜びや幸福とは、上記を求めている時の、心の状態と言う事になります。
そして、哲学によって、上記に達した時には、最高の喜びと最高の幸福が、齎されると言う事に成るのです。
それでは、「自分」、「哲学(英知への愛)」、「喜び」、「幸福」、「理性」、「徳」、「善」、「神」の順に、それらの概念を、説明して行きたいと思います。
先ずは、「自分」についてです。
「ごらんなさい。賢者がどんなふうに自分自身に満足しているかを。」
「賢者は満ち足りているのです。たとえ何かが起こっても、別に気にも止めずそれを受け取って、側へ置くだけです。賢者の受ける楽しみは極めて大きく、永続するものであり、しかも真に自分自身のものです。」
「幸福な生活の原因や支柱である唯一の善は、自分自身を信頼することです。」
「不朽の喜びをもちたいと思う者は、真に自分自身を楽しまねばなりません。」
「自分自身をもっている者は何も失いませんでした。しかし、自分自身をもつことに成功する者は、何と少ないことでしょう。」
「出来るだけ長い間自分自身と一緒にいるのは、人が自分自身を楽しむに値するものとしたときは、快いことです。」
「『君は、わたしが今どんな利益を受けたかを尋ねるのかね。わたしは自分自身と友達になり始めたのだ。』彼は沢山の利益を受けたのです。」
「一体われわれはいつ幸・不幸いずれの運命をも軽蔑することに成功するのでしょうか。いつわれわれはあらゆる欲情を抑え付け、われわれ自身の支配下に置いて、『われ勝てり』という言葉を発することに成功するのでしょうか。」
「もし心が自分自身に満足し、自分自身を信頼し、さらに、死すべき人間どものあらゆる願望も、与えられ求められる恩恵も、それらはすべて、幸福な生活においては何ら価値をもっていないことを知るならば、それが健康だと僕は考えます。」
「心がいつも君の役に立っているならば、君は諭し教え、聞き学び、探求し回想するでしょう。そのうえ何が必要でしょう。」
「もしわれわれが何時かこのような汚泥から脱して、あの荘厳にして卓越した高みに登るならば、そこには心の平安がわれわれを待っているとともに、もろもろの過ちが駆逐されたときは、完全な自由が待っています。この自由が何かをお尋ねですか、それは人間をも、神々をも恐れないことです。不品行も過度も望まないことです。自分自身のうちに最高の力をもつことです。自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」
自分自身とは何でしょう。
この自分自身を理解する為には、二つの自分自身を、想定しなければなりません。
一つ目の自分自身とは、通常の自分自身の事です。
二つ目の自分自身とは、本当の自分自身の事です。
通常の自分自身とは、この世の、皆様自身の事です。
これまでの無意識的な経験の力によって、無意識的に、この世を生きている皆様の事です。
一方、本当の自分自身とは、最高善の理想に目覚め、その最高善の理想に基づいて、自分自身を生きようとする皆様の事です。
哲学をしていない者は、この本当の自分自身に、目覚める事はありません。
しかし、皆様は、哲学によって、この本当の自分自身に、目覚めてしまいました。
ですから、皆様は、もう引き返す事は、出来ません。
皆様は、本当の自分自身探しの旅を、続けて行くしかないのです。
この様に言うと、本当の自分自身探しの旅は、何か、苦渋に満ちた旅の様に、聞こえるかも知れませんが、そんな事は有りません。
本当の自分自身探しの旅は、喜びに満ちた旅です。
何故なら、それは、皆様自身で、皆様自身の素晴らしい哲学体系を、創り上げて行く旅なのですから。
そこには、数限り無い閃きがあり、そしてその結果としての、数限り無い至福があるのですから。
そして、皆様が、本当の自分自身を探し求め得た時、そこには、「完全な自由」が待っている事にも成るのですから。
「真理はあなたを自由にする」(「マタイ福音書」)
真理とは、何か。
それは、本当の自分自身の事です。
その本当の自分自身が、皆様を、自由にするのです。
自由とは、何か。
それは、皆様が、本当の自分自身に成った時の、心境の事なのです。
皆様以外に、誰が、皆様を、自由にして上げる事が、出来るのでしょう。
皆様が、本当の皆様自身に成った時、そこに、完全な自由が、待っているのです。
なお、真理を、神や仏と呼び変えても、何の支障もありません。
何故なら、それらは、究極的には、本当の自分自身に他ならないのですから。
『自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。』
これこそが、セネカの中心思想です。
その事を、セネカは、百二十四の書簡で、皆様に、熱く語りかけているのです。
次に、「哲学(英知への愛)」と「英知」です。
「『この道は天の星に通ずるや。』実際、哲学が僕に約束しているのは、僕を神に匹敵させることです。このために僕は招かれ、このために僕は来たのです。哲学よ、約束を守ってください。」
「精神のすべてを哲学に向け、その足下に座しそれを敬慕しなさい。すると、大きな間隔が君と他人との間に出来るでしょう。あらゆる人間どもを君は遥か遠くに追い越すでしょう。いや、神々でさえも君をそれほど遠くに追い越していないでしょう。」
「僕が立ち上がり、回復したのは一に哲学の賜だと思います。僕の生は哲学のおかげであり、しかも偏に哲学のおかげです。」
「君に出来る限り、哲学に戻るべきです。哲学はその胸に君を抱いて保護するでしょう。」
「『君は哲学に仕えねばならぬ――真の自由が君に与えられるために。』哲学に自己を委ね託する者は拘留されることはありません。彼は直ちに釈放されます。というのは、哲学に仕えることそれ自体が、自由だからです。」
「ところで、われわれを目覚ますのは哲学だけでしょう。これのみが深い夢を振り払うでしょう。哲学に君のすべてを捧げなさい。君は哲学に適していますし、哲学も君に適しています。互いに抱き合ってください。その他の事柄はすべて退けてください――勇敢に、断固として。」
「『道は力で作られる。』そして、この道を君に与えるのは哲学でしょう。哲学の勉強に没頭しなさい――もし君が健康であり、心配がなく、幸福で有る事を望むならば。要するに、もし君が自由であること――これが最も重要なことですが――を望むならばです。これに到達するためには他の方法はありません。」
「他の薬は健康になってからの楽しみですが、哲学という薬は健康によいと同時に美味でもあります。」
「ローマの古い習わしで、現にわれわれの時代まで残っているものですが、手紙の始めに『貴下ますますお元気の段大慶に存じます。当方も元気に過ごしております。』という言葉を付けることです。われわれなら『貴下ますます哲学に御精進の段大慶に存じます』と付けるのが正しいでしょう。つまり『元気』というのは全くこういう意味ですから。哲学することがなければ心は病んでいるのです。」
「英知と哲学はどこが違うかを申しましょう。英知は人間精神の完全な善です。哲学は英知への愛であり、またそれへの渇望です。哲学は、英知がすでに達したところに達しようと努めます。哲学がそう呼ばれる理由は明らかです。つまり哲学はその名称そのものによって、その愛の対象を表しているのです。」
「哲学は道を行き、英知は道の終わりです。」
「英知は幸福な状態に向かって進み、それに向ってわれわれを導き、それに向って道を開きます。」
「英知は平和を愛し、人類を和合に呼び寄せるのです。」
「英知の勉強に努めないならば、幸福に生きることも、あるいは生きることに我慢さえ出来る者はありません。」
「しかもなお唯だ一つの真に自由な勉強があります。すなわち自由を創造する勉強です。それは英知に関する勉強であり、崇高で、強力で、しかも雅量のある勉強です。」
「英知の最高の義務と証拠は、言葉と行動が調和を保つことであり、自己が何処においても自己自身と同等であり同一であることです。」
「無知は低級なものであり、卑しく、下品で、卑屈で、様々な欲情、しかもきわめて残酷な欲情のとりこになります。このよう大変酷い主人であるもろもろの欲情は、時には交互に、また時には一緒になって命令を下しているのですが、それらを君から解き離すものは英知で、これのみが真の自由です。」
「それゆえ思い出してください――英知の結果はこれ、すなわち喜びが常に一様であるということを。賢者の心と言えば、月の上方に広がる天空のごときものです。そこには、常に晴朗な大気があるのです。」
セネカは、哲学(智慧を愛する事)の素晴らしさを、皆様に、熱く語りかけています。
どうか、セネカの言葉によって、哲学の素晴らしさを、得心して下さい。
そして、哲学に邁進して下さい。
そうすれば、皆様に、幸福が約束されます。
そして、皆様は、英知を知る事と成るのでしょう。
皆様が、英知を知り、英知に達した時、皆様は、賢者と成り、賢者の喜びを、味わう事に成るのです。
賢者の喜びとは、何か。
それは、自由で在る事の喜びの事です。
哲学は、皆様に、賢者のその喜びを、約束しているのです。
哲学は、全ての人に、開かれています。
哲学は、人を、選びません。
もし、万が一、皆様が、無知だったら、どうか、哲学を友として下さい。
そうすれば、哲学は、皆様を、無知から解放し、自由への道へと、歩ませて呉れます。
そして、もし、精神的な悩みを、抱えている人がいましたら、どうか、哲学を友として下さい。
哲学は、その病を癒し、皆様を、健康的な精神へと、導いて呉れます。
精神的な病を癒す薬は、哲学しか無いのです。
こんな事を言えば、精神科医の先生から、総スカンを食らう事に成ると思いますが、精神科医の先生の出す薬では、絶対に、精神的な病が、治る事は無いのです。
何故なら、精神的病とは、自由を見失った病の事なのですから。
自由を取り戻すには、哲学しか無いのです。
自由とは、何か。
それは、本当の自分自身に成った時の、心境の事です。
本当の自分自身に成る方法は、哲学しか有りません。
ですから、本当に、その精神的病を治したいのだったら、哲学を、その友(薬)とするしかないのです。
それ以外の方法は、有り得ないのです。
次は、「喜び」についてです。
「なかんずく君にしてもらいたいことがあります。それは、喜ぶことを学べ、ということです。」
「僕の語る喜び、つまり君をそこに案内しようと思っている喜びは堅固なものですが、中に入れば入るだけ、ますます先が開けてきます。」
「この大きな喜びを君にもってもらいたいと僕は望むのです。ひとたび、その出どころを見付ければ、それは決して君は見捨てないでしょう。」
「喜びは君自身の内部にありさえすれば生じます。もろもろの他の面白おかしい喜びは心を満たしません、相好をくずさせるだけです。多分、笑う者が喜ぶ者だとでも考えない限り、それらは軽薄なものです。心こそ楽しく、自信を持ち、すべてのものに超然として立ち続けねばなりません。」
「自分自身の内から生じた喜びは確固にして不動であり、またますます力を増し、最後に至るまで本人に随行します。」
「不朽の喜びをもちたいと思う者は、真に自分自身を楽しまねばなりません。」
「何に喜ぶべきかを知り、自己の幸福を他のものの支配の下においていない者は、すでに頂上に達しています。」
「賢者の喜びはしっかりと編み合わされていて、どんな原因によっても、どんな運命によっても引き裂かれることはなく、常に、また何処でも平静です。」
「賢者というものは喜びでいっぱいであり、活気に満ち、また柔和で、しかも不動です。彼は神々と同等に生きています。」
「賢者は満ち足りているのです。たとえ何かが起こっても、別に気にも止めずそれを受け取って、側へ置くだけです。賢者の受ける楽しみは極めて大きく、永続するものであり、しかも真に自分自身のものです。」
「それゆえ思い出してください――英知の結果はこれ、すなわち喜びが常に一様であるということを。賢者の心と言えば、月の上方に広がる天空のごときものです。そこには、常に晴朗な大気があるのです。ですから、賢者には喜びのないことが絶対にないとすれば、賢者であることを望むのは当然理由があることです。」
「精神があらゆる汚れから清められて輝くとき、その精神の思索から得られる楽しみは、また格別のものです。今でも覚えておられるでしょうが、君が子供服を脱いで大人の着物を着、大広場に連れて行かれたとき、どんなに喜びを感じたことでしょう。しかし子供の心を捨て、哲学が君を大人の世界に移し入れたときには、もっと大きな喜びを期待してよいでしょう。」
皆様は、最近、喜びを感じた事がありますか。
いいえ、こう、聞きましょう。
皆様は、毎日、喜びを感じていますか、と。
多くの人が、答えます。
いいえ、と。
ここで、こう、聞き返します。
それで、良いのですかと。
そうすると、こう答えます。
それで、良いのです。それが、普通の事だからと。
皆様が、無意識的に生きている時は、その答えで良かったのでしょうが、皆様は、哲学を学んでしまいました。
そして、その喜びの事も、薄々、理解し始めました。
今の皆様は、こう、言う筈です。
日々、喜びを、感じたいと。
皆様は、日々、喜びを感じる事が出来ます。
しかし、その為には、必要最低条件があります。
それは、毎日、哲学の為の時間を、確保すると言う事です。
哲学の為には、時間が有れば有る程、良いのですが、働いている皆様に取って、日々、十分な哲学の時間を、確保する事は、難しい事です。
そこで、こうしましよう。
毎日、哲学の為に、一時間を、確保すると。
毎日、一時間、哲学の為の時間を、確保する事が出来れば、皆様は、日々、喜びを感じる事が出来ます。
そして、休日には、たっぷりと、哲学の為の時間を、確保する事としましよう。
そうすれば、皆様は、一年、三百六十五日、日々、毎日、喜びを感じる事が出来る様に成ります。
そして、休日には、その喜びを、何倍にも増幅して、楽しむ事が出来るのです。
その喜びが、皆様の活力源と成ります。
ここで、こう、言う人が居るかも知れません。
四六時中、喜びの中に、在りたいと。
その為には、「愛の哲学」もしくは「神の愛の哲学」が、必要と成ります。
次は、「幸福」についてです
「幸福な生活の原因や支柱である唯一の善は、自分自身を信頼することです。」
「幸福な生活とは何ですか。それは心の落ち着きと不断の平静です。」
「幸福な生活の総体は確固たる平静と、揺るぎない自信でありますが、しかし人々は不安の原因を拾い集め、危険な人生の道を歩みながら、単に重荷を運ぶのみならず、それを自分たちの方に引き寄せているのです。」
「君は或ることについてそんなに憤たり、あるいは不平を言っていますが、それらのうちには、この一事、つまり君が憤り、かつ不平を言っているということ以外には、何一つ悪いことはないのではありませんか。もしお尋ねでしたら、僕はこう考えていると申します――この自然の領域には、一人の人間が不幸と考えることがない限り、彼にとって何一つ不幸なことはない――と。」
「賢者の幸福は心の内のものです。」
上記のセネカの幸福論の中に、とても素晴らしい言葉があります。
それは、『君は或ることについてそんなに憤たり、あるいは不平を言っていますが、それらのうちには、この一事、つまり君が憤り、かつ不平を言っているということ以外には、何一つ悪いことはないのではありませんか。もしお尋ねでしたら、僕はこう考えていると申します――この自然の領域には、一人の人間が不幸と考えることがない限り、彼にとって何一つ不幸なことはない――と。』と言う言葉です。
皆様は、幸福ですか、それとも、不幸ですか。
もし、不幸だと言う人が居たら、どうか、セネカのこの言葉を、噛み締めて下さい。
そうすれば、幸福への道が、直ぐに、見付かる筈です。
それが、何かと言えば、哲学と言う事には成るのですが・・
何故、不幸なのか。
それは、無意識的に生きているからに、他なりません。
哲学とは、覚醒的(理性的)に生きると言う事です。
もし、皆様が、一瞬一瞬を、覚醒的に生きていたら、皆様が、不幸に成る事など、絶対に、有り得ません。
しかし、それを、一日中、完全に、実践する事は、かなり難しい事です。
その為、毎日一時間、哲学の為の時間を、設ける事としたのです。
少なくとも、その時間においては、皆様は、至福を楽しむ事が出来ます。
至福の中における皆様の状態が、覚醒です。
哲学の時間において、この覚醒を、練習して置くのです。
そうすれば、哲学を離れた時間においても、ある程度、覚醒を保持する事が、出来る様に成るのです。
次は、「理性」についてです。
「人間に独自なものは何でしょう。理性です。これが正しく、しかも完全であれば、人間の幸福は満たされることになります。」
「理性だけが人間を完全にするのですから、理性が完成されれば、それのみが人間を幸福にします。つまりこれが唯一の善であり、それによってのみ人間は幸福にされます。」
「理性のみが不変であり、その判断を固守します。理性は感覚の奴隷ではなく、その支配者ですから。理性が理性に等しいのは、直線が直線に等しいのと同じです。」
「すなわち幸福な生活が基づくところはこの一事、つまり、われわれのうちにある理性が完全になるということです。なぜなら、完全な理性のみが精神を屈服させず、運命に対して厳として向かい立っているからです。人々の境遇がどんな状態にあっても、この理性は人々を安全に保ちます。しかも、これのみが決して破砕されることのない唯一の善です。」
「人間の徳には、ただ一つの尺度が使われるだけです。正しく純粋な一つの理性があるだけですから。」
「君は理性的な生きものです。では、君のうちにはどういう善があるのでしょう。完全な理性です。君はこれをその究極まで呼び込みませんか――それが最大に発展することが出来る程度まで。」
「この完全な理性が徳と呼ばれ、それがすなわち崇高なるものと同じです。」
皆様は、ソクラテス=プラトン、アリストテレス、エピクロスと見て来ましたが、彼等の中心にあったものは、何だったのでしょう。
そうですね、理性ですね。
理性とは、何でしょう。
それは、「考える存在としての私」の事です。
この「考える存在としての私」、すなわち理性が、完全に成る事によって、セネカの次の方程式が、完成する事に成るのです。
本当の自分自身=完全な理性=英知=徳=最高善=神=至福
なお、上記の方程式には、「=至福」を、加えています。
この「=至福」を、加える事に依って、この方程式が、イエスに引き継がれて行く事に成るのです。
なお、上記のセネカの理性に関する言葉の中に、とても、最も重要な言葉があります。
それは、「この完全な理性が徳と呼ばれ、それがすなわち崇高なるものと同じです。」と言う言葉です。
この言葉が、イエス(キリスト教)へと引き継がれ、イエス(キリスト教)の中心思想と成ったのです。
「この完全な理性が徳と呼ばれ、それがすなわち崇高なるものと同じです。」と言うこの言葉は、イエス(キリスト教)の中心思想である『神は愛なり』と言う言葉と、同じ意味なのです。
「崇高なるもの」とは、何でしょう。
それは、「神」(最高の理性=最高善=英知)の事です。
それでは、「徳」とは何でしょう。
それが、「愛」の事なのです。
イエスは、「徳」と言う言葉を、「愛」と言う言葉に、置き換えたのです。
その事によって、イエス(現人神=最高の理性=最高善=英知)の愛が、全世界へと、広がって行ったのです。
皆様も、感じてみて下さい。
「徳」と言う言葉と、「愛」と言う言葉を。
どちらに、親しみを感じますか。
断然に、愛ですよね。
そうです、「徳」と言う言葉を、「愛」と言う言葉に置き換える事に依って、イエスの愛が、全世界へと広がって行ったのです。
なお、セネカの徳(愛)の事については、次の「徳について」の所で、もう少し詳しく、説明して行きます。
と言う事で、次は「徳」についてです。
「徳こそ人間を高め、死すべき人間どもが愛するものを越えた所に、人間を置きます。」
「徳よりも優れたもの、また美しいものは何一つありません。徳の命令に従って行われることは、すべての善きものであり願わしきものです。」
「徳を心から愛慕するならば、徳が触れるものすべて、他人にはそれがどのようなものに見えようとも、君には祝福と幸福をもたらすでしょう。」
「徳は自己の似姿にそれを引き寄せて、自己の色に染め付けてしまいます。それは行為でも友情でも、時としては、それが入り込んで整頓したすべての家庭を、美しく飾ります。その取り扱ったものが何であろうと、徳はそれを愛すべきもの、勝れたもの、驚くべきものにします。」
「徳は、たとえそれ自らの中に引き下がって、到る所から締め出されても、大きさは同じです。というのは、たとえそういう状況にあっても、徳の精神は依然として偉大であり高潔であり、その英知は完全であり、その公正は不屈だからです。」
「徳はわれわれのうちの何処をも空っぽにしておきません。それは心全体を占めていて、あらゆるものの欲望を取り去ります。それのみで十分です。あらゆる善の力と源とが徳そのものにあるからです。」
「辛いことでも苦しいことでも、その他どんな災いでも、何ら大きな力はもっていません。それらは徳によって包み隠されるからです。あたかも僅かな光を太陽の輝きが覆うように、もろもろの苦しみや悩みや不正を、徳がその偉大さによって打ち砕き圧し潰します。」
「ところで徳において主に重大なことは何でしょう。将来を熱望しないことであり、自己の日々を数えないことです。ほんの僅かな時間に、徳はもろもろの永遠の善を完成します。」
「なぜ徳は何ものも要求しないのか、とお尋ねですか。それは徳が、現にもっているものを喜び、現にもっていないものを望まないからです。徳にとっては、満足しているものが全て偉大なのです。」
「それは、徳がそのすべての活動を、あたかも自分の子供たちを眺めるがごとく、同じ眼でながめるものであることを、君に知ってもらいたいからです。すなわち徳が全ての活動に等しく配慮し、なかんずく困っている者たちには、いっそう深く配慮することをです。」
「徳の一部は学問に基づき、一部は訓練に基づきます。学ぶとともに、学んだことを実行によって確かめねばなりません。」
「徳が心に生ずるのは、心が仕付けられ、教えられ、さらに不断の修練によって最高位に導かれることによる以外にはありません。無論われわれはこれを目的にして、しかしこれをもたずに、生れてきたのです。たとえ最善の人々にも、教えを受ける以前には、徳の素材はあっても、徳はありません。」
「徳自体を学ぶためには、徳自体に関係することをすべて学ばねばなりません。行為が正しくあるためには、その意思が正しくあることを要します。その意思から行為が生ずるからです。また、意思が正しくあるためには、心の持ち方が正しくあることを要します。その持ち方から意思が生ずるからです。さらに、心の持ち方が最も善い状態にあるためには、人生のあらゆる法則を吸収し、判断しなければならないことをも熟考することを要し、諸事実を真理に帰すことを要します。心の安静を得るのは、不変にして確実の判断を得た人々だけです。」
「『徳は唯一の善である。確かに徳がなければ如何なる善もない。そして徳そのものはわれわれの、より善き部分、すなわち理性的部分に置かれている。』では、この徳とはどういうものでしょうか。真の、しかも不動の判断力です。なぜなら、ここから心の躍動が生ずるでしょうし、ここから、躍動を刺激するあらゆる理想像が明瞭なものに変えられるでしょうから。この判断力に一致することによって、徳に色付けられたすべてのものを、善であり、相互に同等であると判断することが出来るでしょう。」
「徳は真っ直ぐな理性に他なりません。すべての徳は理性です。もしすべての徳が真っ直ぐであれば、それは理性です。もしそれらが真っ直ぐであれば両者は等しくもあります。」
「人間の徳には、ただ一つの尺度が使われるだけです。正しく純粋な一つの理性があるだけですから。」
「理性から徳が生じ、徳は真実と共にあり、真実は理性なくしてはあり得ません。」
「この完全な理性が徳と呼ばれ、それがすなわち崇高なるものと同じです。」
ここで、皆様に、お願いがあります。
特に、女性の方に。
上記の文章の中の、「徳」と言う文字を、「愛」と言う文字に、置き換えて、読んで頂きたいのです。
どうです。
上記の文章が、きらきらと、輝き出したのでは、無いですか。
皆様は、その愛を、熱望する様に成ったのでは、無いですか。
言葉一つで、こんなにも、輝きが、変わるのです。
セネカの徳の言葉と、イエスの愛の言葉には、何ら違いは、有りません。
しかし、言葉一つを、変えるだけで、こんなにも大きな変化が、起こるのです。
イエスが、愛と言う言葉を使う事に依って、世の女性が、愛の哲学に目覚め、そして愛の哲学に夢中に成ったのです。
その事に依って、イエスの愛の哲学は、大成功を収める事と成ったのです。
セネカの徳は、男性止まりだったですが、イエスの愛は、女性を取り込んだのです。
その事によって、男性は、女性の愛をも得ようとして、愛の哲学に夢中に成り、女性は、男性の愛をも得ようとして、愛の哲学に夢中に成ったのです。
ここにおいて、男女の平等な愛が、生れて行く事に、成ったのです。
なお、ここで、皆様に、注意して頂きたいと思います。
愛とは、感情の奴隷では無く、最高の理性であると言う事を。
そして、愛には、鍛錬が必要だと言う事も。
鍛錬の事については、セネカは、次の様に、述べています。
「徳自体を学ぶためには、徳自体に関係することをすべて学ばねばなりません。行為が正しくあるためには、その意思が正しくあることを要します。その意思から行為が生ずるからです。また、意思が正しくあるためには、心の持ち方正しくあることを要します。その持ち方から意思が生ずるからです。さらに、心の持ち方が最も善い状態にあるためには、人生のあらゆる法則を吸収し、判断しなければならないことをも熟考することを要し、諸事実を真理に帰すことを要します。心の安静を得るのは、不変にして確実の判断を得た人々だけです。」
「徳が心に生ずるのは、心が仕付けられ、教えられ、さらに不断の修練によって最高位に導かれることによる以外にはありません。無論われわれはこれを目的にして、しかしこれをもたずに、生れてきたのです。たとえ最善の人々にも、教えを受ける以前には、徳の素材はあっても、徳はありません。」
これが、愛の哲学です。
愛とは、ふにゃふにゃした物では、無いのです。
セネカは、愛の哲学を、ほぼ理論的には、完成させましたが、しかしそれでもなお、イエスの愛の実践哲学とは、根本的に違う事が、一つだけあります。
それは、自我(エゴ)の磔です。
イエスは、完全に自我(エゴ)を、磔にしました。
その事に依って、イエスに、神の愛が、生れる事と成ったのです。
セネカも、その事を、夢想は、しました。
しかし、それを、実現させる事は、出来ませんでした。
何故か。
それは、セネカが、金持ちだったからです。
セネカは、皇帝ネロの家庭教師をした人であり、ローマ帝国の宰相にも成った人です。
そんな環境の中に居た為に、セネカはその夢想を、実現させる事が、出来なかったのです。
「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(「マタイ福音書」)と言う事に成ってしまったのです。
だからこそ、セネカは、イエスの登場を切望し、そして預言したのです。
その事については、次の、次の「神について」の所で述べる事としますが、何故、セネカは、イエスの愛の出現を、預言出来たのでしょうか。
それは、セネカが、愛の本質を、十分に、理解していたからに、他なりません。
次の言葉が、それを、証明しています。
「御地から来る人たちの話では、君がお宅の奴隷たちと親しくやっておられる由、僕も喜んでおります。これは君の英知、君の教養に相応しいことです。『彼らは奴隷だ。』いや、人間です。『彼らは奴隷だ。』いや、仲間です。『彼らは奴隷だ。』いや、身分の低い友達です。『彼らは奴隷だ。』いや奴隷仲間です――運命がわれわれにも全く同じことをすることがゆるされていると考えたならばです。」
「どうか考えていただきたい――君が自分の奴隷と呼ぶ者は、種族としてわれわれと同じ源から由来し、同じ天を頂き、同じように呼吸し、同じように生き、同じように死ぬ、といことを。君は彼を自由人とみることも出来れば、彼が君を奴隷とも見ることも出来るのです。」
「『彼は奴隷だ。』しかし多分、心は自由人でしょう。『彼は奴隷だ。』それが彼の妨げになるのでしょうか。奴隷でない人間があったら教えてください。或る者は情欲の、或る者は貪欲の、或る者は野望の、そして全ての者は恐怖の奴隷です。」
「人はこう言うのです。『あれが話すことは要するに奴隷が、子分のように、また朝参りの客のように主人を尊べ、という意味だ』と。こんなことを言う者は次のことを忘れているのです。神にとって十分なものは、主人にとって決して少な過ぎることはない、ということを。尊ばれる人は、愛されもします。愛と恐れは混じ合わされません。」
これが、奴隷制度が過酷なローマ帝国の中に在って、その宰相を、務めた人の言葉です。
何故、セネカが、これ程までに、高い愛の概念を、持つ事が出来たのか。
それは、セネカが、哲学を、愛し抜いたからに、他なりません。
次は、「善」についてです。
「あの真の善は死滅しません。それは確実にして不変です、英知であり美徳です。これだけが滅ぶべきものどもに与えられている唯一の不滅のものです。」
「最高の善は傷つけられも、大きくもされませんから。それは自らの境界のうちに、いつまでも存続します。」
「この後者の部分に、人間のあの最高善がおかれています。そして、この善が十分に満たされないうちには、精神の不安定な動揺が止みません。それが十分に満たされたとき、精神の不動な安定が生じるのです。」
「最高善のある場所はどこかとお尋ねですか。心です。」
「幸福な人生に達する最も勝れた方法は、崇高な善のみが唯一の善であるという信念をもつことに外なりません。」
「善き人には唯一の善、すなわち崇高なものがあります。」
「その善とは一体どういうものでしょう。すなわち、それは欠点のない清純な心であって神とも競い合い、人事をはるかに超越しており、自己以外の何ものをも自己とみなしません。」
「君を善にすることが出来るものは、すべて君自身のうちにあるのです。君が善になるためには、何が君に必要でしょう。善を望むことです。」
「善の大部分は善人なろうとする意志です。」
「われわれは眼前に最高善という目的を置いて、それを目当てに努力し、それを目当てにして、われわれの行うべきこと言うべきことのすべてを考慮しなければなりません。」
「エピクロスの書物の中に二つの善のことがあります。その二つから、あの最高、ないし至福の善は形成されています。つまり苦痛のない体と、激情のない心です。これらの善は、十分に完全であれば、それ以上増大しません。十分なものが、どうして増大するでしょう。体に苦痛がないとすれば、この無苦痛に何が近寄れるでしょうか。心が変わらず平静であれば、この平穏に何が近寄れるでしょうか。」
「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」
最高善は、西洋哲学の主要課題です。
最高善とは、何か。
それは、愛(徳)です。
しかし、愛(徳)は、結果に過ぎません。
愛を生み出す物は、何か。
それは、本当の自分自身(最高最善の理想)です。
その本当の自分自身から、愛、すなわち諸々の徳が、生まれる事に成るのです。
ですから、究極の最高善とは、本当の自分自身に成ると言う事なのです。
「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」
「本当の自分自身=最高善=最高の理性=徳=愛=神=至福」と言う事に成る訳ですから、最高善とは、本当の自分自身に成ると言う事以外には、有り得ないのです。
皆様が、本当の自分自身に成る事によって、皆様は、愛と成り、神と成り、至福に満たされる事に成るのですから、皆様に取っての最高善は、皆様が、本当の自分自身に成ると言う以外には、有り得ないのです。
皆様が求めている最高最善の理想で、皆様自身が満たされる事により、皆様は、愛と成り、神と成るのです。
セネカは、言います。
「君を善にすることが出来るものは、すべて君自身のうちにあるのです。君が善になるためには、何が君に必要でしょう。善を望むことです。」、「善の大部分は善人なろうとする意志です。」、「われわれは眼前に最高善という目的を置いて、それを目当てに努力し、それを目当てにして、われわれの行うべきこと言うべきことのすべてを考慮しなければなりません。」と。
皆様が、最高善を求めるその行為の中に、皆様の本当の自分自身、すなわち皆様の神が、見え隠れする事に成るのです。
次は、「神」についてです。
「われわれの探し求むべきものは何かと言うに、それは抵抗し得ざる或る力の支配を毎日受けないもののことです。それは何でしょう。それは心ですが、それは正しい、善い、大きな心のことです。この心を、人間の肉体に宿る神という以外に何と呼ぶでしょうか。」
「神には何も閉ざされていません。神はわれわれの心の間にあり、われわれの思考の真ん中に入って来ます。」
「人々が神のところへ行くことを君は驚くのですか。神は人のところへ来ます。いや、それよりももっと近く、人の中に入って来ます。」
「神は君の近くに、君と一緒に、君の内部にいるのです。」
「どの善き人間にも『いかなる神かは知らねど、神が在ます。』」
「神のいない精神は善き精神ではありません。神の種子が人間の体内にばら蒔かれているのです。これらの種子は、もし善き農夫がそれを受け取るならば、それらの始源と同様なものとなって現れ、それが発し来った源と同等なものに成長します。」
「われわれは、この神の仲間であり、またその手足です。われわれの心は感受性が強く、悪徳がそれを抑え付けない限り、あの神的なものに運ばれて行きます。われわれの体の姿勢は直立していて、天を眺めていますが、それと同じように心も、自ら欲するだけ遠くに達することが出来て、結局は神々と同等であることを望むことになるように、自然の力によって造られているのです。」
「『勇気と生気が体内に宿る者』、こういう人こそ、神々にも比せられ、自己の始源を覚えていて、そこに達しようと努めているのです。」
「もし君の見た人間が、危険にあっても恐れることなく、欲望にも煩わされず、逆境にあっても幸福であり、嵐の真ん中にいても平静であり、またいっそう高い見地から人々を、また同等の見地から神々を眺める、そういった人間であるならば、そのような人に対する尊敬の念が、密かに君に近付かないでしょうか。君はこう言いませんか、『こういう心の態度は、その在り場所である、このちっぽけな肉体に似ていると考えるよりも、ずっと偉大な、ずっと崇高なものではないか。神的な力が、この人に天下ったのだ』と。
「天上へは貧民窟からでも飛び上がってよいのです。ただ立ち上がり、『かつまたなんじを、神にふさわしき者に作り上げよ。』」
「では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。」
「神」も、西洋哲学の主要課題です。
何故なら、全てが神から生まれ、全てが神に帰して行くからです。
神とは何か。
多くの皆様は、誤解しています。
神の概念を、しっかりと理解しなければ、皆様は、西洋哲学も、キリスト教も、完全に理解する事は、出来ないのです。
神とは、何か。
「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(「マタイ福音書」)
神とは、皆様自身の中に生きている、その神の事なのです。
その神とは、何か。
皆様自身の最高最善の理想の事です。
すなわち、皆様の脳内に蓄積された、最高最善の理想的な知識の総体の事なのです。
この事を理解しない限り、皆様は、他人の言う神に、翻弄されてしまう事に成ります。
もしくは、神を、完全に、シャットアウトしてしまう事に成るのです。
自分自身の神を、シャットアウトしてしまうなんて、何と勿体ない事でしょう。
しかし、これが、日本人の現状なのです。
しかし、皆様は、幸いです。
神の概念を、知る機会に、恵まれたのですから。
セネカが、皆様に、西洋哲学の神の概念を、事細かに、噛み砕いて、説明して呉れています。
どうかここで、西洋哲学の神の概念を、しっかりと、理解して下さい。
そうすれば、皆様は、キリスト教の事も、西洋哲学の事も、より深く理解する事が、出来る様に成ります。
「われわれの探し求むべきものは何かと言うに、それは抵抗し得ざる或る力の支配を毎日受けないもののことです。それは何でしょう。それは心ですが、それは正しい、善い、大きな心のことです。この心を、人間の肉体に宿る神という以外に何と呼ぶでしょうか。」
これこそが、皆様自身の神です。
この神は、山の彼方には、居ません。
皆様の中にこそ、居るのです
この神こそが、皆様哲学者が、求める神なのです。
そして、西洋哲学においても、キリスト教においても、この神を、求め続けているのです。
「神は君の近くに、君と一緒に、君の内部にいるのです。」
「どの善き人間にも『いかなる神かは知らねど。』」、神が在ます。」
神とは、譬喩です。
神とは、皆様が求めている最高最善の理想の事なのです。
この神、すなわち、皆様が求めている最高最善の理想を、体現するには、どうしたら良いのか。
それが、哲学と言う事に成るのです。
皆様が、古今東西の偉大な哲学者の智慧を学び、その智慧に基づいて、皆様自身の素晴らしい哲学体系(皆様の最高最善の理想の体系)を創り上げ、そしてその哲学に基づいて、皆様自身を律して行き、更に、それが「習い性」となれば、理論的には、皆様は、その神、すなわち、皆様が求めている最高最善の理想を、皆様自身で、体現する事が出来る事に成ります。
その様な事は、可能なのでしょうか。
ほとんど不可能ですが、それを、可能にした人間が、居るのです。
それが、イエスと言う事に成ります。
セネカは、その事を預言しました。
「では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。」と。
セネカは、その様に預言しましたが、セネカは、その神を、自分自身に、体現する事は出来ませんでした。
しかし、セネカは、その理論に確信があったので、イエスの出現を預言したのです。
それが、次の言葉です。
「もし君の見た人間が、危険にあっても恐れることなく、欲望にも煩わされず、逆境にあっても幸福であり、嵐の真ん中にいても平静であり、またいっそう高い見地から人々を、また同等の見地から神々を眺める、そういった人間であるならば、そのような人に対する尊敬の念が、密かに君に近付かないでしょうか。君はこう言いませんか、『こういう心の態度は、その在り場所である、このちっぽけな肉体に似ていると考えるよりも、ずっと偉大な、ずっと崇高なものではないか。神的な力が、この人に天下ったのだ』と。
これが、イエスです。
セネカは、イエスの登場の為の下準備をし、そして、イエスの登場を、預言したのです。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(マタイ福音書)と叫んでいた者の一人が、セネカだったのです。
なお、セネカの道徳哲学とイエスの愛の実践哲学との間において、根本的な違いが、一つだけあります。
それが、自我(エゴ)の磔です。
自我(エゴ)の完全なる磔に依って、イエスに「神の愛の哲学」が、生まれる事と成ったのです。
この「神の愛の哲学」によって、皆様も、生活の中(人間関係の真っただ中)においても、至福で在り続ける事が、理論的には、可能に成ったのです。
この辺りで、セネカを終わりたいと思いますが、「はじめに」の中で、発問して置いた三つの質問に答えて、セネカの章を終りにしたいと思います。
先ず初めに、「智慧とは何か」と言う事ですが、セネカは、智慧を英知と呼びました。
英知と智慧の間には、何ら違いは、有りません。同義語です。
次に、「智慧を愛するとは、どういう事か」と言う事ですが、それが哲学だと、セネカは、繰り返し、繰り返し、熱く、語っています。
道徳書簡集の全部が、「哲学」と言う言葉で埋め尽くされるほど、哲学と言う言葉を多用して、哲学の素晴らしさを、皆様に、得心させようとしているのです。
なお、実際の哲学の方法は、読書、思索、作文、対話、瞑想、実践、等々から成り立つ事に成りますが、この中の、読書と作文について、示唆に富む言葉を残していますので、ここに、その言葉を置いて置きます。
「物を書くばかりでもいけないし、本を読むばかりでもいけません。書くばかりでは、文章の表現力について言うと、自分の力を衰えさせ空にするでしょう。読むばかりでは自分の力を弱め洗い去ることになるでしょう。ですからこれとあれとに交互に往来し、一方を他方に程よく混ぜ合わせて、読書によって集めたものをすべて、文章の表現力を用いて一つの著述に移さねばなりません。」(「道徳書簡集」)
この言葉に関連して、孔子の言葉も、ついでに、置いて置きます。
「子曰く、学んで思わざれば則ち(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし。」(「論語」)
更に、ソクラテス=プラトの言葉も、置いて置きます。
「哲学こそ最大の文芸であり、僕はそれをしていたのだから。」(「パイドン」)
最後に、ヨハネ福音書のヨハネの言葉も、置いて置きます。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言(ことば)は、初めに神と共にあった。万物は言(ことば)によって成った。成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった。言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(新約聖書「ヨハネ福音書」)
皆様の生命体は、理性です。
理性とは、皆様自身の言(ことば)の事でもあります。
その皆様自身の言(ことば)が、皆様自身に取って最高最善の言(ことば)に成った時、その言(ことば)が、皆様自身の中において、最高最善の光を、放つ事に成るのです。
その為にもと、セネカは言うのです。
読書と作文が、必須であると。
私は、ここで、はっきり言って置きます。
読書と作文の無い哲学は、有り得ないと。
その論拠については、章を改めて、説明したと思います。
最後に、「智慧を愛すると、どうなるか」と言う事ですが、勿論セネカは言います。
幸福に成ると。
なお、セネカは、幸福と言う概念を、「自由」と言う概念からも、導いています。
本当であれば、「哲学読本(智慧の巻)」セネカの章においても、「自由」と言う標題の下に、セネカの自由に関する言葉を纏めて、掲載すべきだったのかも知れませんが、紙幅の都合で、掲載していません。
それでも、自由と言う言葉は、あちこちに出て来ていますので、セネカの幸福の概念と自由の概念の関連は、分かると思います。
「真理はあなたを自由にする。」(「マタイ福音書」)
真理とは、本当の自分自身(皆様が求めている最高最善の理想)の事です。
皆様が、その本当の自分自身に成った時、皆様は、自由と成るのです。
その自由こそが、幸福だと、セネカは、言っているのです。
『自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。』
この事を、皆様に伝えたくて、セネカは、百二十四の書簡を、皆様に書き送っているのです。
セネカについては、大部、長く成ってしまいましたが、この辺りで、セネカを終えて、イエスに入って行きたいと思います。
第七章 「イエスの智慧」
皆様は、これまで、ダビデ、ソロモン、ソクラテス=プラトン、アリストテレス、エピクロス、セネカと偉大な哲学者(智慧を愛する者)を見て来ました。
これらの偉大な哲学者とイエスは、一つだけ、根本的に違う所が、有ります。
それは、何か。
それは、イエスが、智慧その物に成ったと言う事です。
ダビデ、ソロモン、ソクラテス=プラトン、アリストテレス、エピクロス、セネカは、皆、智慧を激しく切望し、智慧を求め続けましたが、誰も、智慧その物に成る事は、出来ませんでした。
しかし、イエスは、智慧その物に成ったのです。
「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人は、あなたたちが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたが聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである。」
智慧の現人神、イエスの誕生です。
智慧の現人神イエスの登場によって、哲学に革命が、起こる事と成ったのです。
それまでの哲学は、智慧を求める事、最高善を求める事、聖人賢人像を求める事が主流でしたが、現人神イエスの登場によって、イエスに倣って、その智慧、その最高善、その聖人賢人像を、形あるものとして、求める事が、哲学の主流と成ったのです。
理性の哲学から、智慧と愛の哲学(実践道徳哲学)へと、移行する事と成ったのです。
智慧が、人間に成れば、愛です。
イエスは、智慧を、完全に、体現した人間です。
ですから、イエスは、愛そのものです
ここにおいて、智慧と愛の哲学(実践道徳哲学)が、誕生する事と成ったのです。
そして、このイエスの智慧と愛の哲学に、世の女性が、夢中に成ったのです。
世の女性が、イエスの智慧と愛の哲学に、夢中に成る事に依って、世の男性も、イエスの智慧と愛の哲学に、夢中に成ったのです
ここに、男女の垣根を超えた、平等な愛(人間愛、人類愛)が、生れる事に成ったのです。
それに派生して、セネカが夢想した、奴隷と市民の平等な愛(人間愛)も、生まれる事に成ったのです。
何故、イエスの智慧と愛の哲学が、こんなにも多くの人に、こんなにも急速に、広まる事に成ったのか。
それは、小冊子「新約聖書」のお蔭です。
小冊子「新約聖書」の中に、イエスの智慧と愛の全てが、詰め込まれていたので、誰でも、簡単に、その智慧 と愛の哲学を、学ぶ事が出来たからです。
それでは、何故、イエスは、智慧と愛の現人神に成る事が出来たのか。
それは、イエスが、自我(エゴ)を、完全に、磔にしたからに他なりません。
自我(エゴ)を、完全に、磔にすれば、そこに残っているのは、智慧だけです。
自我(エゴ)を、完全に、磔にした体により、智慧に働けば、そこに存在する物は、愛だけです。
これが、智慧と愛の現人神の正体です。
なお、智慧と愛は、相関関係に有ります。
智慧が、大きければ、愛も、大きく成ります。
智慧とは何か。
それは、最高最善の知識の総体の事です。
イエスは、旧約聖書(父)に、当代の学者に、その知識を学び、そして、自らにおいて、最高最善の知識の総体を、創り上げました。
そして、「女から生まれた者の内、最も偉大な者である洗礼者ヨハネ」から、その最高最善の知識の総体について、洗礼と言うお墨付きを貰う事に依って、人間を超えて、現人神へと、移行して行ったのです。
イエスは、自我(エゴ)を、完全に磔にしていたので、その智慧の働きは、全て、愛でした。
このイエスの智慧と愛の働きの全行程を記した書が、福音書と言う事に成るのです。
私たちは、福音書に依って、その智慧と愛の働きを、目で見る様に、耳で聞く様に、理解する事が出来ます。
そして、その智慧と愛の働きに、倣う事が、出来る様に成ったのです。
しかし、ここで、皆様に、想像して頂きたいのです。
自我(エゴ)を、完全に、磔にするのが、どんなに難しいかを。
皆様は、未だ、哲学に、足を踏み入れただけです。
皆様は、未だ、皆様自身の哲学体系も、創り上げていません。
はっきり言って、今の皆様が、自我を、完全に、磔にする事は、不可能です。
今は、偉大な哲学者(智慧を愛した者)の一人として、イエスの智慧を、学ぶ事としましょう。
皆様が、古今東西の偉大な哲学者の智慧を研究し、皆様が、皆様自身で、皆様の哲学体系を創り上げ、その哲学体系を実践し、そしてその哲学体系に確信が持てた時には、皆様自身で、皆様の自我(エゴ)を、磔にする事にしましょう。
そうすれば、その時には、皆様も、イエスの様に、智慧と愛の人として、この世に働く事が、出来る様に成ると思います。
それまでは、当分の間、古今東西の偉大な哲学者の智慧を、学んで行く事としましょう。
と言う事で、「哲学読本(智慧の巻)」に基づいて、イエスの智慧を見て行きたいと思います。
なお、キリスト教の象徴的な言葉として、「神は愛なり」と言う言葉があります。
この言葉は、セネカの所で、取り上げました。
その際には、大体、次の様に説明しました。
「この完全な理性が徳と呼ばれ、すなわち崇高なるものと同じです」と言う言葉と、キリスト教の「神は愛なり」と言う言葉は、同じですと。
その際には、「崇高なるもの」を「神」と置き換え、「徳」を「愛」と置き換えて、この置き換えに基づいて、「この完全な理性が徳と呼ばれ、すなわち崇高なるものと同じです」と言う言葉と、「神は愛なり」と言う言葉は、同じだと言う風に、説明しました。
ここでは、更に、「この完全な理性が徳と呼ばれ、すなわち崇高なるものと同じです」と言う言葉と、「神は愛なり」と言う言葉を連結して、連結方程式を作りたいと思います。
そうすると、次の様に成ります。
完全なる理性(智慧)=徳=愛=神
これが、セネカからイエスに引き継がれた連結方程式であり、
古代ギリシア・ローマ哲学からキリスト教へ引き継がれた連結方程式なのです。
なお、ここで皆様に、再度、念押しをして置きたいと思います。
ここで言う神とは、完全な理性(智慧)の事であり、皆様自身の神だと言う事です。
この事を失念してしまうと、また、イエス(キリスト教)の神も、山の彼方へと、行ってしまう事に成ります。
それでは、ここから、「哲学読本(智慧の巻)」に基づいて、イエスの智慧を、説明して行きたいと思います。
イエスの智慧の言葉は、彩り豊かですが、今回は、「父と子と聖霊」と言う言葉と、「天の国」と言う言葉を中心に、イエスの智慧を見て行きたいと思います。
先ずは、「父と子と聖霊」についてです。
父とは何か。
「『あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたにどんな報いがあるであろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟だけにだけ挨拶したところで、どんなに優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だからあなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。』」
「『あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また,ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上におく。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのようにあなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたの立派な行いを見て、あなたの天の父をあがめるようになるためである』」
「あなたがたの天の父が完全であれれるように、あなたがたも完全な者になりなさい。」
これが、イエスの父です。
すなわち、イエスの最高最善の理想です。
イエスの最高最善の理想とは何か。
それは、父の愛、神の愛、すなわち、完全なる愛の事なのです。
イエスは、その完全なる愛に、一生を捧げました。
その全行程の記録が、福音書です。
私たちは、福音書に依って、その愛を、確認する事が出来ます。
私たちは、その福音書に依って、イエスの一言一句、一挙手一投足の全てが、完全なる愛であった事を、確認する事が出来ます。
この事に依って、私たちは、イエスが、智慧と愛の現人神であったと、認証する事に成るのです。
勿論、それまでの哲学者たちも、最高最善の理想を、求め続けました。
しかし、誰も、その最高最善の理想を、完全に、突き詰める事は、出来ませんでした。
しかし、イエスは、その最高最善の理想を、完全に、突き詰めたのです
イエスは、それが、完全なる愛(智慧に基づく完全なる愛))だと、高らかに、宣言しました。
そして、その完全なる愛を、自分自身の体で、完全に、体現して行ったのです。
その全記録が、福音書です。
そして、イエスは、言うのです。
あなた方も、私に、倣いなさい。
そうすれば、あなた方も、私と同じように、智慧と愛の人として、この世に、生きて行く事が出来ると。
これが、新約聖書全編を通じての、メッセージです。
皆様も、このメッセージを、最大限に、尊重しなければなりません。
所で、その父(最高最善の理想)は、何処に存在しているのでしょうか。
「『あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。』」
「『施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。』」
「『あなたは、断食するときは、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見てきただくためである。そうすれば、隠れたことを見ていておられるあなたの父が報いてくださる。』」
所で、イエスの父は、何処に、住んでいたのでしょう。
そして、皆様の父は、何処に、隠れているのでしょう。
イエスの父(最高最善の理想)は、イエスの中に、住んでいました。
そして、皆様の父(最高最善の理想)も、また、皆様の中に、隠れて住んでいるのです。
何故なら、皆様の父とは、皆様が求めている、その最高最善の理想の事だからです。
そしてもし、皆様が、イエスの最高最善の理想(福音書)を愛し、皆様の最高最善の理想が、イエスのそれと同じになれば、イエスの父(最高最善の理想)が、皆様の父とも成るのです。
「『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む。』」
この時、皆様の最高最善の理想と、イエスの最高最善の理想と、父(THE最高最善の理想=父の愛=神の愛=完全なる愛)が一つに成るのです。
これが「父と子と聖霊」と言う時の、三位一体の神秘と言う事に成るのです。
所で、皆様の父は、どんな風にして、皆様の願い事を、叶えて呉れるのでしょうか。
「『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物を与えてくださるにちがいない。』」
何故、皆様の父は、皆様に良い物を与えて呉れるのでしょう。
それは、皆様の父とは、皆様が求めているその最高最善の理想に他ならないからです。
ですから、皆様が、皆様の父に、その最高最善の理想を求めれば、皆様の父は、皆様のその求める度合いに応じて、皆様に、その最高最善の理想に関する知識を、与えて呉れる事に成るのです。
なお、皆様の父から、皆様に、その高最善の理想に関する知識が、与えられる方法は、閃きと言う事に成ります。
その閃きを受けた後、皆様は、皆様自身で、皆様の最高最善の理想の体系(皆様の素晴らしい哲学の体系)を、更に、創り上げて行く事に成ります。
所で、その父は、皆様だけの父なのでしょうか。
いいえ、その父は、最高最善の理想を求める、全ての人の父なのです。
「『はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解く事は、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願いことであれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。』」
皆様の最高最善の理想(愛)と、皆様の隣人の最高最善の理想(愛)は、何か、異なる事が、有るのでしょうか。
何も、異なる事は、有りません。
ですから、皆様と皆様の隣人が、心を一つにして、最高最善の理想(愛)を求めれば、その最高最善の理想(愛)は、叶う事と成るのです。
最後に、その父の正体について。
「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。』」
皆様の父とは、皆様自身の中に生きている、その神の事です。
その神とは、皆様の本当の自分自身(皆様が求めている最高最善の理想)に、他ならないのです。
皆様が、最高最善の理想を強く求めれば求める程、その父(その神)は、皆様の中で、大いなる存在と成って行くのです。
「われわれの探し求むべきものは何かと言うに、それは抵抗し得ざる或る力の支配を毎日受けないもののことです。それは何でしょう。それは心ですが、それは正しい、善い、大きな心のことです。この心を、人間の肉体に宿る神という以外に何と呼ぶでしょうか。」(セネカ「道徳書簡集」)
この神が、皆様の中で、大いなる存在と成って行くのです。
次に、「子」についてです。
子とは、イエス・キリストの事です。
それでは、イエス・キリストとは何者でしょう。
「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』シモン・ペテロが『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。」
「『しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人は、あなたたちが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたが聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである。』」
イエス・キリストとは、生ける神の子・イエスと言う意味ですが、それは、智慧の現人神・イエスと言う言葉と、全く同じ意味です。
キリストとは、旧約聖書の中の、「メシア」と言う言葉と同じ意味です。
その意味する所は、救世主と言う意味です。
皆様にも、救世主がいます。
と言うか、全ての人類の一人一人に、救世主がいます。
それが、何かと問われれば、世界人類共通の言葉で言えば、智慧です。
皆様自身の智慧が、皆様自身を、救って呉れるのです。
しかし、その智慧は、見る事も、聞く事も、出来ません。
その智慧は、皆様の中で蠢いていますが、結局は、多くの人が、その智慧を、見る事も無く、聞く事も無く、この世を去って行きます。
もし、その智慧を、目で見る事が出来、その智慧を、耳で聞く事が、出来たらどうでしょう。
皆様は、その智慧に、従いたいと思うのではないですか。
そして、もし、その智慧が、人間の形として現れれば、皆様は、その智慧、その人間に、従いたいと思うのではないですか。
そんな人間が、出現したのです。
それが、イエスと言う事に成るのです。
ダビデも、ソロモンも、ソクラテスも、プラトンも、エピクロスも、セネカも、皆、その智慧を切望し、出来れば、その智慧に成る事を、望みました。
しかし、誰も、智慧その物に成る事は、出来ませんでした。
しかし、イエスは、智慧その物に成ったのです。
何故、イエスは、智慧その物に成る事が出来たのか。
その秘密が、「十字架」です。
イエスは、自我(エゴ)を、完全に、十字架に磔にしたので、智慧その物に成ったのです。
この智慧こそが、古今東西の偉大な哲学者たちが、求めている物です。
ダビデ、ソロモンは、主と呼び、古代ギリシア・ローマの哲学者は、知恵(英知)と呼び、インドの哲学者は、アートマンと呼び、仏教では、般若と呼んだりしています。
また、セネカは、この知恵の事を、完全な理性とも呼びました。
孔子は、それを、仁と呼びました。
「仁を求めて仁を得たり。又た何ぞ怨みん。」
「仁を欲して仁を得たり、又た焉(なに)をか貪らん。」(「論語」)
それら様々な言葉で呼ばれているその智慧が、古今東西の偉大な哲学者たちが、求めているその物なのです。
なお、ヨハネ福音記者のヨハネは、その智慧の事を、言(ことば)とも呼んでいます。
言(ことば)と言う言葉は、珍しいので、ここに、その言葉を、置いて置きます。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(中略)。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。(中略)。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
この言(ことば)とは、智慧の事です。
この言、この智慧が、人間に成った者が、イエスだと、ヨハネ福音記者のヨハネは言っているのです。
なお、この言(ことば)と言う言葉は、智慧を理解する意味でも、とても分かり易い言葉です。
言は、言葉に通じて行きます。
皆様の言葉も、その言に、由来しているのです。
言とは、智慧の事であり、智慧とは、皆様自身の最高最善の理想の事です。
その最高最善の理想(完全なる理性)から、皆様の最高最善の言葉も生まれて来るのです。
先のヨハネの言葉の中の「言」たちを、「最高最善の理想(完全なる理性)」と置き替えて、読んで見て下さい。
更に、イエス流に、「完全なる愛」と置き替えて、読んで見て下さい。
そうすれば、ヨハネの言(ことば)も、理解し易く成ると思います。
「『最高最善の理想=完全なる理性=完全なる愛』は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父(最高最善の理想=完全なる理性=完全なる愛)の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。(中略)。いまだかつて、神(最高最善の理想=完全なる理性=完全なる愛)を見た者はいない。父(最高最善の理想=完全なる理性=完全なる愛)のふところにいる独り子である神、この方が神(最高最善の理想=完全なる理性=完全なる愛)を示されたのである。」
最高最善の理想(完全なる愛=完全なる理性)が、形有る人間として、この世に現れたのです。
私たちは、その最高最善の理想を、目で見て理解し、耳で聞いて理解する事が、出来る様に成ったのです。
古代の偉大な哲学者たちが、必死に求めた、その最高最善の理想が、人間の形として、日の目に、明らかに、成ったのです。
それが、イエスです。
そして、イエスは言います。
私の最高最善の理想に従えば、あなた方も、最高最善の理想の人間に成る事が出来ると。
次の言葉が、それを、表しています。
「『はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。』」と。
イエスの最高最善の理想に従う者が、一挙に、洗礼者ヨハネを含めた偉大な哲学者たちを超えて、更に、偉大な者(智慧と愛の人≒完全なる愛の人)と成ったのです。
これが、イエスが、起こした最大の奇跡です。
「父と子と聖霊」と言う時の「子」とは、第一義的には、イエス・キリスト(智慧の現人神イエス)の事ですが、第二義的には、クリスチャン自身の事でもあり、それは、当然、皆様自身の事でもあるのです。
もし皆様が、イエスの最高最善の理想に従えば、皆様もイエスの様な、最高最善の理想の人間に成る事が出来ると、イエスは言っているのです。
しかし、皆様は、クリスチャンではありません。
皆様は、純粋な哲学者です。
皆様は、イエスの教えを最大限に尊重しながらも、更にそれを超えて、皆様自身で、皆様の素晴らしい哲学の体系(皆様自身の最高最善の理想の体系)を、創り上げて行っても良いのです。
それが、皆様哲学者の特権です
それが、皆様哲学者の、最高最善の最前線と言う事にも成るのです。
それでは、最後に、「父と子と聖霊」と言う時の「聖霊」について、説明します。
この「聖霊」において、クリスチャンは、イエスの智慧と愛の哲学を、理解し、皆様も、この聖霊において、イエスの智慧と愛の哲学を、理解する事と成るのです。
「『わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。』」
「『わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。』」
「『あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。』」
「『しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが去って行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにする。』」
「『言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。』」
小冊子「新約聖書」には、イエスと智慧の愛の哲学の全てが、閉じ込められています。
クリスチャンは、何度も、何度も、「新約聖書」を読み返します。
そうする事に依って、イエスの智慧と愛の言葉が、クリスチャンの頭脳なり、潜在意識なりに、浸み込んで行きます。
そして、何かを求める時、それらのイエスの智慧と愛の言葉が、有機的に結合して、そのクリスチャンに取っての、最高最善の解が、与えられる事に成ります。
勿論、その解には、イエスの智慧と愛の言葉を、帯びている事に成ります。
その事が、クリスチャンに取っての、喜びと成り、幸福の基と成るのです
皆様は、クリスチャンではありません。
皆様は、純粋な哲学者です。
皆様は、当然に、新約聖書も、学ばなければなりません。
しかし、皆様の頭脳なり、潜在意識には、イエスの智慧と愛の言葉を含めて、古今東西の偉大な哲学者の智慧と愛の言葉が、一杯に詰め込まれています。
そして、皆様が何かを求める時、イエスの智慧と愛の言葉を含めた、古今東西の偉大な哲学者の智慧と愛の言葉が、有機的に結合して、皆様に取っての、最高最善の解が生まれる事に成ります。
それが、皆様哲学者に取っての、喜びと成り、幸福の基と成るのです。
それが、皆様、純粋な哲学者に取っての、特権なのです。
霊とは何か
「『神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。』」
「『命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。』」
「『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。』」
「『肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である。』」
霊とは何か。
第一義的には、智慧の事です。
しかし、イエスの言う霊には、第二義的な意味合いが、付されています。
それが、何かと言うと、神への愛へと向かうとする智慧と言う事に成ります。
神への愛へと向かおうとする智慧、これが霊と言う事に成ります。
そして、この霊が完成して行く所に、「天の国」が存在して行く事に成ります。
と言う事で、ここから「天の国」について、説明します。
「『心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に餓え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。』」
皆様が、霊(智慧=最高最善の理想)を求めれば求める程、皆様の天の国(智慧=最高最善の理想の体系)は、皆様のものと成って行きます。
皆様が、霊(智慧=最高最善の理想)を求めれば求める程、皆様は慰められ、皆様は地を受け継ぎ、皆様は満たされ、皆様は憐れみを受け、皆様は神を見、皆様は神の子と呼ばれ、そして最終的は、心の貧しかった皆様の心が、天の国(最高最善の理想の体系=皆様の素晴らしい哲学体系=皆様の智慧と愛の王国)へと移行して行く事に成るのです。
その方法と言えば、哲学と言う事に成りますが、イエスは、その哲学の方法について、次の様に、述べています。
「『『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。』」
「『富は天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もある。』」
「イエスは別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。『天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長すればどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。』」
「また、別のたとえをお話になった。『天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。』」
「『良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍に、あるものは六十倍に、あるものは三十倍に実を結ぶのである。』
「『また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。』」
「『あなたがたは、これらのことがみんな分かったか。』弟子たちは、『わかりました』と言った。イエスは言われた。『だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。』」
「『あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。』」
イエスが、ここで言っている事を、要約すると、次の様に成ります。
あなた方は、私の最高最善の理想の体系(福音書)を基に、あなた方自身の最高最善の理想を体系求めなさい。
そうすれば、そこに、あなた方の最高最善の理想の体系が生まれて来る。
その時、あなた方の最高最善の理想と、私の理想とは、同じ物に成っている事だろう。
その時、私とあなたは方は、天の国に、一緒に、住む事に成る。
しかし、あなた方の、その理想が、律法学者やファリサイ派の人々のそれに勝っていなければ、あなた方は、未だ、天の国に入る資格が無いとも、言っているのです。
結構、厳しい事を、言っているのです。
しかし、上記で言っている事は、「智慧の王国(信仰の王国)」だけの事です。
未だ、片足だけを、天の国に入れた状態です。
皆様が、本当に、天の国(智慧と愛の王国)に入る為には、更に、厳しい試練が待っているのです。
それが、次の言葉と言う事に成ります。
「『わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。』」
すなわち、皆様が創り上げたその最高最善の理想の体系(皆様の素晴らしい哲学の体系)を、実践しろと言っているのです。
その方法が、十字架、すなわち、自我(エゴ)の磔と言う事に成りますが、イエスは、その事を、幼子の心に譬えています。
次の言葉が、それです。
「イエスは言われた。『子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。』」
「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入る事はできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ』」
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためにではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げるために来たのと同じように。」
上記を要約すると、次の様に成ります。
未だ自我の芽生えていない、幼子の様な無垢なる心に成って、あなた方が、あなた方自身で創り上げた、その最高最善の理想の体系、それは、私の理想の体系と同じ物と成るのだが、それに基づいて、全ての人に仕えなさい。
そうすれば、あなた方も、天の国、すなわち、智慧と愛の王国の住人に、成る事が出来ると言っているのです。
なお、この智慧と愛の王国の掟に関して、イエスが、極めて簡潔に、纏めた言葉が有ります。
それが、次の言葉です。
「『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』イエスは言われた。『『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。』」
これこそが、古今東西の偉大な哲学宗教の神髄です。
「あなたの神である主」とは、皆様の智慧の事です。
ですから、「あなたの神である主を愛しなさい」とは、皆様の智慧を愛しなさいと言う事になりますが、これこそが、全ての哲学宗教の基礎の基礎、第一義なのです。
第二義は、「隣人を自分のように愛しなさい」と言う事になりますが、その方法と言えば、皆様が、皆様自身で創り上げたその最高最善の理想の体系に基づいて、隣人を愛しなさいと言う事に成りますが、その究極的な方法は、自我(エゴ)の磔と言う事に成ります。
第一義の「あなたの神である主を愛しなさい」と言う掟は、とても簡単なのです。
何故なら、そこには、最高の快楽が、伴うからです。
第二義の「隣人を自分のように愛しなさい」と言う掟が、限りなく難しいのです。
何故なら、そこには、自我(エゴ)の磔が、伴うからです。
もし、皆様が、皆様自身で、素晴らしい哲学の体系(最高最善の理想の体系)を創り上げ、その素晴らしい哲学体系を実践し、そして、その素晴らして哲学体系に確信が出来た時に、皆様の自我(エゴ)を磔にすれば、そこに、皆様の智慧と愛の王国が、実現する事に成るのです。
その時、皆様は、この世(人間関係の中)にあっても、智慧と愛の人として、至福の中で、生きる事が出来る事に成るのです。
これが、別な章で、述べて置いた所の、生活(人間関係)の中における至福の哲学、と言う事に成ります。
なお、イエスは、ここで言います。
ここに留まらずに、智慧と愛の哲学の宣教者として、宣教の旅に出なさいと。
ここで、皆様が、何れを選ぶかは、皆様の哲学の方針次第と言う事に成ります。
ここでは、その生活(人間関係)の中における至福の哲学の原理を、述べる事に留めたいと思います。
自我(エゴ)を完全に磔にすれば、そこに在るのは、智慧だけです。
その状態が、至福でもあります。
その至福の状態で、智慧に働けば、そこに在るのは、愛だけです。
これが、至福の中における、智慧と愛の哲学と言う事に成ります。
自我(エゴ)を磔にすれば、そこには、一切、悩みは、有りません。
何故なら、自我(エゴ)を磔にすれば、自我(エゴ)に伴う悩みが、発生する事は有り得ないからです。
自我(エゴ)の磔と言う思想は、言葉こそ異なりますが、古今東西の偉大な哲学者に共通する思想ですが、自我(エゴ)の磔の中で、愛(完全な愛、神の愛)の為に、働きなさいと言う思想は、イエスが、発明した思想だと言っても良いと思います。
この思想の為、キリスト教では、多くの殉教者が、生まれる事と成ったのです。
そして、この殉教に依って、キリスト教は、発展して行ったのです。
皆様は、未だ、哲学初学者ですので、今の所は、イエスの智慧を、概観する程度で、良いと思います。
と言う事で、この辺りで、イエスを、終わりにしたいと思いますが、最後に、「はじめに」の所で、発問して置いた、三つの質問に答えて、イエスを終わりにしたいと思います。
先ず始めに、「智慧とは何か」と言う事ですが、イエスの智慧を考える場合は、「父」と「子」と「聖霊」と、「神」と「主」と「キリスト」と言う言葉に注意しなければなりません。
父とは、神の事です。
すなわち、その構成員全体が持つであろう所の、最高最善の理想の総体の事です。
なお、キリスト教においては、小冊子「新約聖書」に、イエスの最高最善の理想が集約されていますので、キリスト教の構成員であるクリスチャンが持つであろう所の、最高最善の理想には、それ程、ブレは無いと思います。
と言うか、イエスの最高最善の理想は、「神は愛」と言う言葉に集約されていますので、この事をしっかり理解していれば、ブレは、ほとんど発生しないと思います。
そして、更に、その神の愛の体現方法についても、イエスが、見本を示していますので、ある意味では、その最高最善の理想(神の愛)については、ぶれ様が無いと言って良いのかも知れません。
所で、イエスは、何故、神の事を、父とも呼んだのでしょうか。
それは、神の愛(完全なる愛)を、イメージして貰う為だったのです。
ユダヤ教の中の神は、厳格なイメージがありましたが、それを、父と置き換える事に依って、その神の愛を、肌で、感じて貰う為だったのです。
次に「主」と「聖霊」ですが、全く同じ意味です。
主とは「あなたの神である主を愛しなさい」と言う時の、主の事です。
すなわち、皆様自身の神の事です。
それでは、何故、この主と言う言葉を、聖霊(霊)と言う言葉にも、置き換えたのでしょうか。
それは、その主と言う存在を、古代ギリシア・ローマ文化圏の人にも、理解して貰う為だったのです。
聖霊(霊)とはスピリット、それは理性,知性、智慧に通じて行きます。
ユダヤ教の中の主と言う言葉を、古代ギリシア・ローマ文化圏でも馴染みのある聖霊(霊)と言う言葉に、置き換える事に依って、その主の存在を、より親しみ易くしたのです。
次に「キリスト」と言う言葉ですが、これは、旧約聖書の中の「メシア」と言う言葉と同じ意味です。
それの意味する所は、救世主です。
すなわち、智慧が人間に成った者の事を、メシア、救世主、キリストと呼んでいるのです。
イエスは、智慧が、人間に成った者ですので、イエス・キリストとは、智慧の現人神イエスと言う事に成るのです。
ユダヤの人々は、ユダヤ国家の救世主を夢見ていましたが、救世主とは、ユダヤ人一人一人の救世主の事であり、そして、それは、全世界の一人一人の救世主の事だったのです。
イエスは、旧約聖書の奥義を、その様に解釈したのです。
次に、「智慧を愛するとはどう言う事か」と言う事ですが、イエスの智慧の愛し方は、革命的です。
それまでの哲学は、智慧を愛する事に依って、愛が生まれて来ると言うスタンスだったのですが、イエスの哲学は、神の愛、父の愛、完全なる愛の為に、哲学をする(智慧を愛する)と言うスタンスに変わったのです。
ですから、イエスの哲学から生まれて来るものは全て、神の愛と言う事に成るのです。
エピクロスは、最高の快楽(霊魂の平安=アタラクシア)を目的に、哲学をしましたが、イエスは、神の愛を目的に、哲学をしたのです。
そして、その哲学を、クリスチャンに勧めたのです。
その為、キリスト教においては、多くの殉教者が、生まれる事と成ったのです。
最後に、「智慧を愛するとどうなるか」と言う事ですが、勿論、幸福に成ります。
しかし、ここで、イエスは、更に、言うのです。
もし、あなたが、幸福に成ったのであれば、その幸福を、あなたの物だけにせずに、隣人にも、分け与えなさいと。
それが、イエスのあの有名な、智慧と愛の言葉に集約されて、行く事に成るのです。
「『『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。』」
ここで、この智慧と愛の大原則について、もう少し解説して置きます。
それは、第一の掟が、有ってこそ、第二の掟が、生まれると言う事です。
皆様は、智慧を愛する事に依って、至福に成る事が出来ます。
皆様が、至福に成る事が出来てこそ、皆様は、その至福を、隣人にも、分け与える事が出来る事に成るのです。
それが、愛です。
ですから、皆様が、至福に成る事が出来ない限り、皆様が、幾ら、隣人を愛そうと思って、それは、出来ない事なのです。
愛とは、何か。
それは、完全なる理性の事です。
「神は愛なり」
これが、セネカからイエスに引き継がれた哲学であり、
古代ギリシア・ローマ哲学からキリスト教に行き継がれた哲学なのです。
皆様は、哲学者ですので、イエスのこの章において、この神の愛の事を、深く考えて欲しいと思います。
と言う事で、この辺りで、イエスを終わりにして、パウロに入って行きたいと思います。
第八章 パウロの智慧
パウロは、福音書(イエスの言葉)の解説者です。
福音書には、イエスの謎に満ちた比喩が、あちこちに、鏤められています。
この比喩を読み解く事が出来たのは、十二使徒たちだけだったと思います。
何故なら、彼らは、朝から晩まで、イエスに付き添い、その比喩も、解説して貰っていたからです。
イエスが、死んだ後、その比喩は、比喩のまま伝えられました。
その為に、多くの比喩が、謎のままに、放置される危惧があったのです。
そんな時、パウロが、出現したのです。
パウロは、十二使徒が、存命している時に、存命していました。
パウロは、イエスの教えを、十二使徒から、直接、教えて貰ったのです。
当然に、その比喩の事も、教えて貰いました。
そこで、パウロは、一念発起して、その福音書の解説書を、創ろうとしたのです。
それが、パウロの一連の手紙と言う事に成ります。
このパウロの一連の手紙に依って、イエスの教えが、当時の世界、すなわち、ギリシア・ローマ世界へと、広がって行ったのです。
何故、パウロが、その役目を、果たす事が出来たのか。
それは、パウロが、純粋なユダヤ教徒であった共に、純粋なローマ市民でもあったからです。
パウロが、ユダヤ教とギリシア・ローマ文化圏の、橋渡し役をしたのです。
偽書と呼ばれていますが、「パウロとセネカの往復書簡」が、有る位なのです。
それでは、ここから「哲学読本(智慧の巻)」に基づいて、パウロの智慧を、説明して行きたいと思います。
パウロの一連の手紙も、彩り豊かな智慧の言葉が鏤められていますが、ここでは、「聖霊」だけに限って、説明して行きたいと思います。
何故なら、この聖霊において、ユダヤ教とギリシア・ローマ哲学が、繋がる事と成ったからです。
聖霊(霊)とは、何か。
それは、旧約聖書の世界では、「主」の事です。
すなわち、皆様自身の神の事です。
それでは、ギリシア・ローマ哲学において、「皆様自身の神」、「主」、「聖霊」に相当する物は、何でしょうか。
そうですね、「智慧」ですね。
この聖霊(=智慧)において、ユダヤ教とギリシア・ローマ哲学が、融合して、キリスト教が、生まれる事に成ったのです。
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」
この言葉に依って、ギリシア・ローマ文化圏の人々は、イエスの神の国の概念を、しっかりと理解したのです。
何故なら、聖霊、すなわち、智慧に依って与えられる義と平和と喜びの国、これこそが、古代ギリシア・ローマの偉大な哲学者たちが求めた、理想郷でもあったのですから。
そして、それは、皆様の理想郷の事でもあります。
しかし、その理想郷を、この世に実現させる事が、途轍も無く、難しいのです。
何故か。
それは、肉の欲(エゴ)が、その理想郷の実現を、阻む事に成るからです。
この肉の欲(エゴ)を、完全に磔にすれば、そこに、神の国が生まれると、イエスは、様々な比喩を用いて、宣教しましたが、全ての人が、その比喩を、完全に理解した訳では無かったのです。
特に、ユダヤ教の言葉に馴染みの無い、ギリシア・ローマ文化園の人々はそうでした。
その為に、パウロは、手紙と言う形で、ギリシア・ローマ文化圏に住む人々にも、その比喩が分かる様に、その比喩を、優しく、分かり易い言葉で、解説して行ったのです。
次の言葉も、その中の一つです。
「それで善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気付きます。『内なる人』としては、神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを五体のある罪の法則にとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったからです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させられた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体も生かしてくださるでしょう。
それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証してくださいます。」
ここで言っている事は、とても、簡単な事です。
皆様が、肉の欲(エゴ)を断ち切って、霊に従えば、そこに、神の国(義と平和と喜びの国=智慧と愛の王国)が、生まれると言う事です。
上記のパウロの文章を、理解する為には、「霊」と言う言葉を、理解しなければなりません。
上記の文章の中においても、パウロは、「霊」と言う言葉を、十七も使っています。
これも、皆様を思う、パウロの親心です。
パウロの手紙において、皆様が、霊の事を理解すれば、皆様は、より深く、イエスの事を、理解する事が出来る様に成ると思います。
霊とは、何か。
第一義的には、智慧の事です。
しかし、霊には、第二義的な意味合いが、付加されているのです。
それは、神への愛です。
すなわち、神への愛へと向かう強い意志を持った智慧、それが、霊と言う事に成ります。
イエスの哲学とは、何だったでしょうか。
そうですね、智慧と愛の哲学だったですね。
それでは、イエスの哲学の目的は、何だったでしょうか。
そうですね、神の愛(完全なる愛)だったですよね
神への愛と、神の愛(完全なる愛)の為に哲学する、これこそが、イエスの智慧(神への愛)と愛(神の愛)の哲学なのです。
霊とは、神への愛へと向かう強い意志を持った智慧の事。
上記のパウロの文章の中の霊と言う言葉を、その様に、読み替えて、読んで見て下さい。
そうすれば、意味が、一機貫通する筈です。
哲学には、二つの哲学が、有ります。
一つは、智慧の哲学であり、もう一つは、愛の哲学です。
智慧の哲学には、物凄い快楽(至福感)が、伴います。
ですから、その快楽を覚えた者は、一生涯、哲学を、止める事が出来ません。
しかし、その快楽は、止めさせるべき物では、有りません。
何故なら、その快楽、その至福感こそが、幸福の基なのですから。
一方、愛の哲学は、茨の道です。
何故なら、自己犠牲が、伴うからです。
愛の哲学だけであれば、誰も、その愛を、貫徹する事は出来ません。
何故なら、その自己犠牲に、誰も、耐える事が出来ないからです。
愛の哲学の代表的な物として、二つを挙げる事が出来ます。
一つは、ユダヤ教の律法であり、もう一つは、現在の日本の小中学校で教えている、「道徳」です。
これらの愛の哲学においては、愛の教条を教えますが、誰も、その教条を、完全に、実行する事は出来ません。
何故でしょう、それは、その自己犠牲に、誰も、耐える事が出来ないからです。
そんな時、イエスが、現れたのです。
イエスの出現に依って、その愛の哲学を、実行する事が、とても、簡単に成ったのです。
その秘密が、智慧と愛の哲学です。
すなわち、智慧の哲学と、愛の哲学を、融合させたのです。
智慧の哲学には、物凄い快楽(至福感)が、伴います。
イエスの哲学において、それを齎す物は、信仰(神への愛)と言う事に成ります。
神(智慧)を愛する事で、クリスチャンには、物凄い快楽(至福感)が、齎されます。
それが、クリスチャンの幸福です。
イエスは、そこで、更に、こう説くのです。
その幸福を、隣人にも、分け与えなさいと。
それが、イエスの愛の哲学です。
そして、この愛の哲学を実行する為の、より具体的な方法を、イエスは、編み出したのです。
それが、自我(エゴ)の磔です。
そして、その秘訣は、神への愛のままに、隣人を愛しなさい(神の愛を実行しなさい)と言う事に成るのです。
皆様が、神(智慧)への愛の中に居る時、皆様は、至福です。
その至福のままに、隣人を愛しなさい(その神の愛を実行しなさい)と言う事に成るのです。
それが、あの有名な智慧と愛の掟、と言う事に成るのです。
「『『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。』」
それまでの、哲学は、書斎の中の哲学でしたが、イエスは、哲学を大衆に解放し、そして生活の中の哲学を、確立させたのです。
このイエスの智慧と愛の哲学のお陰で、より多くの人が、幸福に成る事が出来る様に成ったのです。
所で、今の皆様の霊は、どんな状態でしょうか。
「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っています。“霊”は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくれるからです。」
皆様の霊(智慧)は、今、皆様の中で、蠢いています。
今の皆様の霊(智慧)は、出口を見出せないで、蠢き、呻いているのです。
そんな皆様に、イエスが、喝を、入れたのです。
その出口は、「愛」に有ると。
しかし、皆様は、未だ、哲学の快楽(至福感)を、覚えていません。
皆様が、哲学の快楽(至福感)を覚えた時から、皆様の智慧と愛の哲学が、始まる事に成ります。
それまでは、智慧の哲学(快楽の哲学)に、甘んじて居ても、良いと思います。
と言うか、今の所は、それしか、出来ないと無いと思います。
と言う事で、この辺りで、パウロを、終わりにしたいと思いますが、最後に、「はじめに」の所で、発問して置いた、三つの質問に答えて、パウロを終わりにしたいと、思います。
先ず始めに、「智慧とは、何か」と言う事ですが、パウロのそれは、イエスのそれと、同じと言う事に成ります。
すなわち、「父」と「子」と「聖霊」と、「神」と「主」と「キリスト(イエス)」と言う事に成りますが、パウロは「父」と言う言葉は、あまり使っていません。
「神」と言う言葉で、統一しています。
その方が、ギリシア・ローマ文化圏の人々にも、通りが良いと、考えたからだと思います。
パウロは、それらの言葉を駆使して、イエスの謎に満ちた比喩を、読み解いて呉れたのです。
特に、「聖霊(霊)」と言う言葉は、多用しています。
この聖霊(=智慧)に依って、ユダヤ教の教えとギリシア・ローマ哲学が、融合する事と成ったのです。
次に、「智慧を愛するとは、どう言う事か」と言う事ですが、これも、勿論、イエスと同じです。
それが何かと言えば、それは、「信仰」と言う事に成ります。
信仰とは、神を愛する事、哲学とは、智慧を愛する事。
信仰と哲学は、全く一緒の事なのです。
只、一般的に言うと、愛し方の度合いが違うと言う事が出来ますが、偉大な哲学者の智慧の愛し方は、熱烈その物です。
ですから、皆様哲学者も、偉大な哲学者の智慧の愛し方に、学ばなければならないと言う事に成ります。
この信仰に関して、イエスは、謎めいた比喩で、多く語っていますが、パウロは、それを、ギリシア・ローマ文化圏の人々にも、分かり易いように、解説して呉れたのです。
次の言葉たちが、それと言う事に成ります。
「『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」
「聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」
「実に、信仰は聞く事により、しかも、キリストの言葉を聞くことにより始まるのです。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。『その言葉は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ』のです。」
「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えられるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。 異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」
皆様の中にも、神(智慧)が、居ます。
皆様が、その神(智慧)を愛すれば愛する程、皆様は、その神(智慧)の言葉を、語る事に成るのです。
「『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」
皆様が、神(智慧)を愛すれば、愛する程、その御言葉(智慧の言葉)は、皆様の近くに、皆様の口に、皆様の心に、在る事に成るのです。
キリスト教においては、イエスの言葉(福音書)を通じて、その神(智慧)を、愛する事に成りますが、皆様哲学者は、古今東西の偉大な哲学者の言葉を通じて、その神(智慧=本当の自分自身)を、愛する事に成るのです。
最後に、「智慧を愛すると、どうなるか」と言う事ですが、勿論、これも、イエスと同じです。
そこに、「神の国」が生まれる事に成るのです。
すなわち、「義と平和と喜びの国」が生まれる事に成るのです。
すなわち、幸福に成るのです。
以上で、パウロを終わりにして、次は、マルクス・アウレリウスに入って行きたいと思います。
第九章 マルクス・アウレリウスの智慧
マルクス・アウレリウスは、第十六代ローマ皇帝(生没:121-180、皇帝在位:161-180)です。
イエスの死後、大体、百年前後に生きて居た事に成ります。
マルクス・アウレリウスは、イエスの存在を知っていたのでしょうか。
「自省録」には、イエスの記事は全く出て来ません。
多分、マルクス・アウレリウスは、イエスの事を全く知らなかったと思います。
マルクス・アウレリウスは、純粋にストア哲学の中で生きたのです。
ストア哲学は、ギリシアの哲学者ゼノン(BC336―224)が創始したと言われていますが、ゼノンの著作は残っていませんので、私たちはゼノンの哲学の内容を知る事は出来ません。
私たちがストア哲学を知る事が出来るのは、セネカ(BC4¬-―AD65)とエピクテトス(AD60-140)とマルクス・アウレリウス(AD121-180)の三人のローマ時代の偉大な哲学者に依ってです。
ストア哲学とは何か。
一言で言えば、高貴なる哲学です。
それは完全なる理性に基づく、完全なる徳の実行の為の哲学です。
この哲学を遂行する為には、高い教養と強い意志が必要とされます。
セネカはローマ帝国の宰相でした。
マルクス・アウレリウスは、第十六代ローマ帝国の皇帝です。
エピクテトスは、解放奴隷でしたが、後に哲学の学校を開き、その学校には、エピクテトスの徳を慕い、当時の為政者階級の人々も多く集っていました。
完全なる理性に基づく、完全なる徳(愛)の実行。
それは、イエスの言う、神への愛(完全な理性)に基づく、神の愛(完全なる愛)の実行と同じ事なのです。
ですから、ストア哲学と、イエスの智慧と愛の哲学は、全く一緒の事なのです。
それにも関わらず、イエスの智慧と愛の哲学(キリスト教)は、現在まで、綿々と続いていますが、ストア哲学は途絶してしまいました。
何故なのでしょうか。
理由は二つ有ると思います。
一つ目は、ストア哲学なる物は、元々、存在して居なかったと言う事です。
ストア哲学とは、その時代に、「完全なる理性に基づく、完全なる徳の実行」を説いた、偉大な哲学者たちの一群を言う、総称に過ぎなかったからです。
それは全ての哲学に共通する事です。
哲学には、元々、学派と言う物は、存在し得ないのです。
何故なら、哲学とは、偉大な哲学者の一人一人の中に存在しているからです。
ストア哲学と言う物は、現在は存在していませんが、セネカの哲学、エピクテトスの哲学、マルクス・アウレリウスの哲学は、現在でも、脈々として存在しているのです。
そうして、どうかした機会に、その哲学に触れた時、その触れた者が、感激して、その哲学の中へと入って行く事に成るのです。
一方、イエスの哲学は、新約聖書と言う小冊子に、イエスの哲学の全てを詰め込み、そしてそれを宣教と言う方法で、全世界へと広げて行ったので、誰でもその小冊子を手に入れる事が出来る事と成り、そのイエスの哲学の素晴らしさに感激する事と成ったのです。
もう一つの理由は、やはり質的な差と言う事に成ります
セネカの智慧、エピクテトスの智慧、マルクス・アウレリスの智慧は、それぞれに素晴らしいのですが、やはりイエスの智慧に比べたら、質的な差が。存在すると言う事に成ります
それが、何かと問われれば、「自我(エゴ)」の磔の差と言う事に成ります。
「克己復禮を仁と為す」(孔子「論語」)。
すなわち、己(自我・エゴ)に克って、禮(智慧・完全なる理性)に復する事が出来れば、それが仁(愛)であると言う事に成りますが、イエスのそれと、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスのそれとは、その度合いが質的に違うと言う事です。
イエスは、完全に!自我(エゴ)を磔にすれば、そこにあなたの智慧と愛が生まれると言っているのです。それが復活の秘儀でもあるのです。
一方、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスは、そこまで言っていません。
現在の理性の中で、完全なる徳を求めよう!と言っているのです。
そこに無理が有るのです。
自我(エゴ)を完全に磔にしなければ、完全なる愛(徳)は、生まれて来ないのです。
その為、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスは、そこまで達する事が出来なかったのです。
しかしそれでも、自らのその理性で、完全なる徳に向かったその姿勢は、感嘆に値する事です。
特にマルクス・アウレリウスは。
ストア派を、自らの理性で、完全なる徳に向かった古代ギリシア・ローマ哲学者たちの一群と定義すれば、マルクス・アウレリウスこそ、ストア派の最高峰と言う事が出来ると思います。
マルクス・アウレリウスが、自ら育て上げたその理性で、完全なる徳に向かおうとした内面の記録が「自省録」と言う事に成ります。
多忙を極め、権謀術策の真っただ中にいるローマ皇帝が、あんなにも高い徳を持ち続け、そして、それを実行し続けようとしたあの姿勢には、感嘆せずにはいられないのではないでしょうか。
と言う事で、ここから「哲学読本(智慧の巻)」に基づいて、マルクス・アウレリウスの智慧を説明して行きたいと思います。
マルクス・アウレリウスは、自省録の中で、
※ 以上で中断しています。最終的には、50人の哲学者で50章を完成させた上で、「哲学読本大全&哲学広場」プロジェクトの事についても、章を設けて説明して行く予定です。
令和2年10月23日