哲学百章ノート
哲学百章
それは私の夢です
このノートはその夢を叶える為のものです
私にとって真に必要な百の言葉とは何か
そしてその言葉たちはどの様に繋がっているのか
それらを解明するのがこのノートの役目です
私は私の世界に住んでいます
この世界を形作っているものは何か
百の言葉の抽出はその為の作業です
百の言葉を抽出して
私は私の世界を俯瞰します
これが私の世界か
私は思います
もっと素晴しい世界はないのか
その模索も哲学百章の役割です
哲学百章は
今の私を俯瞰すると共に
未来の私を切り開く為のものでもあるのです
哲学百章にはそんな役割があるのです
私の世界になくてはならない百の言葉
それを探し出すのが先決です
その為の試行錯誤が
これから繰り広げられます
その試行錯誤の中で
私の世界が見えて来るのだと思います
私とは何か
この試行錯誤が
そんな疑問にも答えて呉れるのだと思います
先ずは
この私の世界を概観する為に必要なものは何であろうか
それこそ私ではないか
もし私が居なければ私の世界などあり得ない
それは誰それの世界だ
世の者は
世界などと言うものが存在していると思っている
しかしそんな物など存在しない
あるのはそれぞれが思い描いている世界でしかない
私には私の世界があるが
私の隣に住む彼には
また彼の世界がある
彼の世界と私の世界は全く違う
それでも私たちは世界の事を語る
一体どんな世界を語っているのか
ある識者が行った
今日の世界情勢は緊迫の度を深めていると
この世界とはどんな世界か
国と国の関係の事か
この地球を分割した国々
及びその統合的な関係を言うのか
大体においてそんな所だろう
だが私ははっきり言う
それぞれにその世界を語らせて見ろ
百人居れば百人百様
千人居れば千人千様
万人居れば万人万様の世界があると
私たちは小中高と
同じ様な教科書を使って
その世界を学んで来た
それでもその有様だ
私が嘘を言っていると思うのか
それでは小中高と同じ教科書で学び
そして今高校を卒業した者に
こんな作文を書かせて見ろ
広辞苑に
世界とは「地球上の人間社会のすべて。万国」とあるが
その世界について千字以内で述べよと言う作文を書かせて見ろ
貴方はその千差万別のあり様に驚くだろう
これが一万字十万字となって見ろ
その世界は全く別物である
私たちが世界と言って
共通の認識を持てるのは上記の広辞苑の言葉位であろう
言葉が増えれば増えるほど
その世界は大きく変わって行くのである
私の言う意味が分かっただろうか
世界はそれぞれに在ると言う意味が
上記の広辞苑の意味は極狭い意味での世界でしかない
世界と言う概念はもっともっと大きい
言葉に尽くせないほど
いえ私ははっきり言う
世界を言葉で尽くす事など出来ないと
だから私は言うのだ
世界とはそれぞれが切り取ったその分だけだと
大いなる世界もあれば
ほんのちっぽけな世界もある
それが世界の現実なのである
そこで物を言うのが私と言う存在なのである
平成16年5月20日
「私」について
この哲学百章は私を確認する為のものである
私とは何者か
それを確認するのが哲学百章である
私に無くてはならない百の言葉とは何か
先ずはそれを見付ける事
そしてその百の言葉はどの様に繋がっているのか
それを解明する事が
この哲学百章の役目である
私たちの目の前には無数の言葉がある
この言葉から
たった百の言葉を選び出す
それは困難を極める作業だ
私が百の言葉を選び取った時
他の言葉たちは文句を言わないだろうか
どうして私たちが選に漏れたのかと
私は言葉たちにそう言わせない為にも
慎重を期さねばならない
貴方の事はちゃんとここに書いて居ますよと言える様に
さて「私」と言う言葉はほぼ確定なのだろうか
もしそうであれば「自分」と言う言葉が不平を言うだろう
私はどちらを選ぶべきか
「私」かそれとも「自分」か
「自分」と言う言葉が言う
「自分」にはより普遍なる概念がある
しかし貴方が「私」と言う言葉を使う時
その私とは貴方の事ではないかと
確かにその通りかも知れない
「私」と言う標題で書き始める時
私はこの私から書き始めねばならないだろう
であれば「私」は確定である
何故なら哲学百章は紛れも無い「私」の書なのだから
私は私から書き始める時
決して「自分」を疎かには出来ない
何故なら自分とは私の領分なのだから
私が居て自分と言う領分が在り得るのである
その事は言葉が証明して呉れるだろう
さて1つの言葉 標題が確定した
次の言葉 標題は何であろう
きっとそれは「世界」であろう
哲学百章の
今の所の副題は
「私と世界の間で」だからである
全ての基礎は私から始まった
その基礎の上に立つ物は何か
そしてその果ては
それが世界である
私を一歩出れば世界
そしてその世界の果ては私の想像し得る果て
だから私は想像し得る限り
世界の果てを想像し創造しなければならない
それに依って私の世界が広がる
私の世界の果ての東西南北はそして天地は
それを定めなければ
私の世界は確立し得ない
さて世界を語る時
新たな概念が浮び来る
それは「宇宙」
世界と宇宙には厳然とした境界がある
その境界を定めなければ
世界が宇宙と成り
宇宙が世界と成る
その世界は曖昧模糊とした存在に成る
しかし境界を定めれば
その世界は手中となる
宇宙と世界の境界は
玄厳然としなければならない
「宇宙」が言う
よもや私は選に漏れる事は無いでしょうねと
しかし私は言う
貴方は世界の付属物だ
宇宙が言う
聞き捨て成らないと
私は言う
世界が在って貴方が存在し得る
「私」と「自分」の関係と一緒だ
「自分」の様に私に従いなさいと
「宇宙」は言った
分かりましたと
貴方の言葉に任せますと
さてここに大いなる言葉が出現した
その言葉とは「言葉」
言葉が在ってこそ
「私」が在り「世界」が存在するのではないか
「言葉」この標題はほぼ確定か
「知恵」が言う
私はどうなるのかと
私は言います
知恵と言葉は違うと
言葉を言と言い表せば
それは同じ概念に成るかも知れませんが
知恵と言葉は明らかに違います
私は言います
知恵こそが「この素晴しき世界」の生みの親だと
だから「知恵」は何時の場合でも選に漏れる事はないと
それでは「言葉」はどうだ
言葉も選に漏れる事はありません
「私」と「知恵」と「言葉」と「世界」
この四つは確定です
どの一つを欠いても
この素晴しき世界は在り得ないのです
哲学百章は
この素晴しき世界を創り上げるのがその目的なのかも知れませんので・・・
平成16年5月28日
「私」と「知恵」と「言葉」と「世界」について
哲学百章は私の世界である
そして百の言葉が私を飾る
私は今百の言葉を模索中である
私にとって真に必要な百の言葉とは何か と
私は昨日までに四つの言葉を選んだ
「私」と「知恵」と「言葉」と「世界」と言う四つの言葉を
たぶんこの四つの言葉は動かないだろう
この四つの言葉で
「哲学百章 ~私と世界の間で~」を描く事も出来る
しかしそれは彩りに欠けたものと成る
私は彩り豊かに私の世界を描きたいのである
その為には百の言葉が必要だし
その百の言葉は今も私を待っているのである
私はその百の言葉を探し出して上げなければならない
そしてそれに依って私を描かなければならない
「知恵」と「私」と「言葉」が私に迫る
だから私は百の言葉を見つける為に
今日もまたこの様にして
言葉の旅に出掛ける
さてあの四つの言葉に続いて
私に必要な言葉とは何であろう
それは哲学ではなかろうか
私が現わそうとしているのは「哲学百章」ではないか
「哲学」と言う言葉を抜きにして
どうして哲学百章が語ら得よう
そう哲学こそが
私がこの世に訴えたい言葉なのである
哲学はフィロソフィア
知恵(ソフィア)を愛する(フィロ)事
だがこの世の者はそんな事など思っていない
彼らが考えているのは文献学である
俗に言う哲学者
いえ彼らは哲学者 知恵を愛する者だったのだろう
だがこの世の者が考えている哲学とは
その哲学者の文献を研究する事だと思っている
何と嘆かわしい事か
知恵が叫んでいるのに誰も耳を貸さない
その哲学者たちも
知恵に耳を傾けろと言うのに
その哲学者の一字一句に囚われている
つまりは躓きの石に
私は哲学を本来の意味で開放する
哲学革命もその1つの流れであったが
この哲学百章もそれに資そうとするものである
哲学とはフィロソフィア
知恵(ソフィア)を愛する(フィロ)事 愛知
私はこの事を世に強く訴えようと思い
この哲学百章を著そうとしているのである
だから「哲学」と言う標題は確定である
さて五つが決まった
次は何であろうか
科学か
これについては検証が必要だ
私は哲学を語る時
その対極に科学を置く
すなわち哲学は統合し
科学は分断すると言った類に
私は思う
私が科学と言う言葉を使う時
それは最終的にはこの世への非難の言葉と成る
だから「科学」については標題として出す事は出来ない
その標題の言葉は私を現わすものでなくてはならない
例え彩り豊かな言葉であっても
標題として掲げる訳にはいかない
科学は哲学の端(つま)とし語るべきものなのである
さてそれでは知識はどうか
哲学と科学と言う風に
知恵と知識を並べる
知識も標題としては退けられるのか
「知識」は私を現わす言葉ではないのか
違う
知識と科学は違う
知識は必要だ
知識が無ければ知恵は働かない
私が必要とする知識とは常識の事だ
それを越えるものは科学の専管となる
常識の範囲が何処までか
それに依ってその世が決まる
常識とはその言葉どおり
常に識っておくべき事である
常識の範囲を何処までにするか
議論の分かれる所である
義務教育が教える内容に限るのか
それとも高校教育が教えるものまで含むのか
高校進学率が90数パーセントに及ぶ事を考えれば
高校教育で教える範囲までと言う事になるのだろう
それを越える事は科学の専管に属する事である
常識を超えて学ぼうとする者は
科学の弊に陥る事になる
もっとも科学専管の道を歩もうとする者は別である
彼らはその道をしっかり歩いて
我らを下支えして貰えればそれでいい
それが彼らの性なのだろうから
しかし世の者が常識を超えて学ぼうとする時
科学の弊が生まれて来る事になる
この世を見ろ
この情報の氾濫を
これこそが科学の弊ではないか
まともに常識も知らないくせに
科学の端に走ろうとする
これが現代の分裂の機構だ
さて常識とは何か
それは高等学校の
国語 地理歴史(世界史日本史地理) 公民(現代社会倫理政治経済)
数学 理科(物理化学生物地学) 保健体育 芸術(音楽美術工芸)
英語の教科書に載っている程度の事と考えたが
少し専門的に過ぎるのか
やはり常識とは
中学校の
国語 社会 数学 理科 音楽 美術 保健体育 技術・家庭 英語
の教科書に載っている程度の事だろう
中学校のそれをオールラウンドに知っている者が常識ある者
高等学校のそれをオールラウンドに知っている者は教養ある者
それ以上を学ぼうとする者は科学の弊に走る者
勿論科学専管の道に進もうとする者は除く
これが私の知識常識に関する考えである
人は常識人であるべきであり
教養人と成るよう務めるべきである
それ以上を知ろうとする者は科学の弊に走る者
私が何故知識常識に歯止めをかけるのか
それは人が科学の片端に成らない為
そして哲学人に成る為なのである
中学校の知識さえあれば
我々は知恵と十二分に語る事が出来る
そして高校の知識があれば
我々は知恵を十分に人に語る事も出来る
しかしそれ以上の知識は
世の人を惑わせるだけである
知恵は共通の知識の中に咲く花なのである
私たちは知恵の花を咲かせる為
常識人と成り教養人と成るべきなのである
私たちは知識の為に知識を学んではいけない
知恵の為にこそ知識を学ぶのである
大きな美しい知恵の花が咲くようにと
平成16年5月29日朝
「哲学」と「知識(常識)」について
さて百の言葉の内
「私」「知恵」「世界」「言葉」「哲学」の五つについては確定であるが
「知識」については保留である
何故ならその知識が条件付の知識だからである
無条件に知識を求めよとは
私は言えないからである
私が求めよと言うのは常識であって
それ以外の知識は求めるなと言っているのである
そんな中途半端な視点から
知識について述べる事は出来ない
「常識」であれば別だが
常識と言う言葉については今朝思い付いただけで
それに関する概念は持ち合わせていない
常識について彩り豊かな概念が生まれれば
その時は考えるが
今の所知識も常識も保留と言う事にしよう
「私」「知恵」「言葉」「世界」「哲学」
この五つの言葉に続く言葉は何だろう
自然か
そう自然だ
この素晴しき世界
その原型は自然だから
その自然の似姿が我々に在る時
それもまた素晴しき世界と成るが
その様な事は滅多に無い
この素晴しき世界と言う時
それはほとんど自然と同義語だから
「自然」を百の言葉から外す訳にはいかない
さて六つの標題が決まった
七つ目は何か
人間か
そう人間だ
何故人間か
それは私が人間だから
私は私を素材として人間を描く
もし私の描く人間が世から認められれば
私は人間を摑んだ事に成る
もしそうでなかったら
私は私を素材として更に人間探求の旅を続けねばならない
どちらにしても
「人間」を百の言葉から外す事は出来ない
七つの標題が決まった
八番目は何か
神か
たぶんそうだろう
だがこれには検証が必要だ
今の所私には神は存在しない
だが将来に渡っても神が存在しないとは限らない
私は私に神が居て呉れたらいいとも思う
絶対至善の神が私を統べて呉れたらいいとも思う
またこの世の人々の心の中に神が居て
神がこれらの人々を統べて呉れたらいいと思う
私にとって神の概念はとても大切な概念だ
八つ決まった
九番目は何か
精神か
これには更に検証が必要だ
私は精神の正体が分かって来た
それは我々の内に存在する存在者だ
時々に依って呼ばれる名が変わる
知恵と呼ばれる事もあれば
神と呼ばれる事もある
その精神に如何なる性格を付与するかに依って
その存在者の性格も決まってくる
神とか知恵は良い方の存在者だが
精神は悪い方の存在者にも成る
例えば悪魔とか
精神は同じ人の中でも様々にその姿を変える事もある
例えば神とか悪魔とか天使とか
時と場合に依って
それぞれの名で呼ばれる存在者が入れ替わり立ち代る事もある
精神とは我々の内なる声に応答する声である
その内なる声は
様々に姿を変える事もあるが
神だけであったり知恵だけであったりする事もある
その違いは精神統一の問題
精神を神だけに帰依させれば
その他の姿は現れて来ないだろう
精神一到何事か無さざらん
精神分裂病もまたこの辺りに端を発している
以上見て来た様に
精神は神や知恵に非常に近い言葉である
だから今の所ペンディングである
ただ今後の次第では
百の中に入って来る可能性はある
では九番目の言葉は何か
それはずばり心
心こそは知恵や神が活躍する場であり
またそこは世界が創造される場でもある
心を抜きにして私は語れないし
「私」を含めて
一番目から八番目までの言葉も語れないし
そして百の言葉も語れないのである
心は私の練武場なのである
心こそが私が主人公となる晴れ舞台
平成16年5月29日夜
「自然」と「人間」と「神」と「心」について
さて九つが決まった
その九つとは
「私」「知恵」「言葉」「世界」「哲学」「自然」「人間」「神」「心」
これに継ぐ十番目の言葉は何か
私は今観念の世界を描きつつある
私が世界と言う場合も観念の世界である
私は実際そうだと思うが
観念ではない世界が在るのだろうか
在るとすれば
それはどんな言葉で呼ばれるのか
実存か
実存とは実際存在する事
であれば
私の世界は
私の観念の中で実際に存在する
しかしそれは時と場合に依って変わる
永遠普遍に変わらない世界などと言うものがあるのだろうか
在りはしない
全ては観念の中で入れ替わる
では実存とは何を言うのか
私にも隣の彼にもそして世の全ての人にも
共通に実存すると言う世界が在るのか
例えばこう言う事が在り得る
東京と言う町はどう言う町か と問われれば
百人居れば百人百様
千人居れば千人千様である
だから世の全ての人に共通する東京は存在しない
ただこう言えば別である
東京と言う町に東京タワーと言う塔がある
この塔についてこう言えばすなわち
東京タワーは北緯○度○分○秒
東経○度○分○秒の位置に存在する
こう言えば世の全ての人がそうだと言う
またその東京タワーを目の前にして
これが東京タワーであると言えば
皆そうだと言う
結局実存とは
AはBである
この中にしか存在し得ないのである
これに副詞や形容詞やその他の言葉が1つでも入ってくれば
もうその世界は万人共通の実存ではなくなるのである
またAはBであるが何時も万人共通の実存なのではない
例えば私がこう言ったとする
私は神である
これは万人共通の実存には成り得ない
世の者はこう言うだけである
あいつは狂っていると
私は思う
もし万人共通の実存が在るとすれば
それは数詞と四則演算及びit is 固有名詞だけだと
先ずはit is 固有名詞について
彼は小泉信一郎であると言えば
世の者はそうだと言うだろう
だがこう言えばどうだろう
小泉信一郎は立派な政治家である
もう喧々諤々各個人の観念は分かれ
立派な政治家としての小泉信一郎は
この世において実存し得なくなる
立派な政治家としての小泉信一郎は
この世の一部の人の中でのみ実存し得るのである
小泉信一郎はとても立派な政治家などと言えば
その実存は更に狭められて来るのである
言葉が増えれば増えるほど
その実存の割合は減って来るのである
実存がこの世全ての人に共通するものでなければいけないのであれば
it is 固有名詞しか実存し得ないのである
it is 普通名詞は微妙である
普通名詞は個人に依ってその観念が変わって来る事もあるので
ただ厳密に言わなければ
それもまた実存と成り得る
例えば
小泉信一郎は政治家であるが如き
しかしもし小泉信一郎は政治家ではなく独裁者であるとか
小泉信一郎は政治家ではなく策士あるとかと言う集団があれば
小泉信一郎は政治家であると言う実存もなくなるであるが・・・
ただ小泉信一郎は首相であると言う事については異を唱える者はいないであろう
普通名詞は幅が広い
固有名詞的なものから観念的なものまで
例えば私は神であるが如きまで
私はその様な事は言わないが
その様に言う者もまた多い
だから普通名詞はその時々の判断
だから何時も実存に成るとは限らないのである
もう1つの実存は
数詞と四則演算
これこそが動かない実存であろう
これに依って不動の科学が発達して来た
我々は数字を突きつけられる時反論が出来ない
それは首下に剣を突き付けられたのと同じ事
だからこの様に科学が大手を振っているのである
しかし私は思う
純粋な実存としての科学と科学もどきを区別する必要があると
純粋な実存としての科学
それは全てを数字に置き換えられるものでなければならない
数学はその全てが実存としての科学なのだろう
それから物理学科学生物学地学の中の
数字に置き換えられる分野の全て
及びそれらの応用の医学工学等
それらのものについては
一応実存としての科学として認める事にしましょう
それ以外のものについては
実存と呼ぶ事についてはペンディング
例えば宇宙物理学原子物理学等々の中で永遠無限や無を扱う分野
また脳内神経生理学等の中で人間の意志決定等まで言及しようとする分野
これらについては実存と呼ぶ事についてはペンディング
と言うより物理学者医学者等の御伽噺に踊らされてはいけない
永遠無限や無や自由意志等は
何時の時代でも哲学者の専管事項なのである
平成16年5月30日
5月30日の記事は
「数」の事について語ろうとしたのである
数には神秘的な所があるが
私は未だ開闢していない
ピタゴラスは数の神秘を語ったと言う
私はそれを学びたいものだ
私は思う
現在は数に蚕食されつつあると
バーチャルな世界
それは数で作り上げられた世界なのではないか
そのバーチャルに踊らされている人間が増えて来ているのではないか
だが数の事はこれ位にしよう
数は今の所科学や知識と同様ペンディングとだ
百を巡る言葉の中で
最終的には入って来るかも知れないが
十番目の言葉ではない
それでは十番目の言葉は何か
「私」「知恵」「言葉」「世界」「哲学」「自然」「人間」「神」「心」
に続く十番目の言葉は何か
「人生」にしよう
私たちが生まれてから死ぬまで
これが人生
その限られた時間の中で
世界をどの様に描くか
それが人生に与えられた課題
私たちが死ぬまでに
善しと言える世界を創り上げる事が出来るか
それが人生に与えられた課題
十一番目は「真理」か「幸福」か
もし真理があるとすれば
それは知恵だろう
だが知恵は真理ではない
それらの源泉だ
もし真理があるとすれば
それらは知恵のかけら?
私は真理について証をする為に生まれその為にこの世に来た
真理に属する者は皆私の声を聞く
ピラトは言った
真理とは と
真理が神であり知恵の実存であれば
真理だけを単独に語る事は出来ない
それは神のまたは知恵の属性として語られるべきものである
真理について別の概念が生まれれば
その時は百の言葉に入るかも知れないが
少なくとも十一番目の言葉ではない
では幸福はどうか
私たちは幸福に成る為に生まれて来た
だが幸福ではない
幸福への階(きざはし)を見付ける事が
人生のターニングポイントであれば
幸福は外す事は出来ないだろう
さて十二番目
十二時十二月十二支十二神将そして十二使徒
十二は円満な数の最後を飾る数字
当然十二番目に来る言葉は「快楽」であろう
私は快楽については言いたい事がある
快楽こそがこの世を突き動かす原動力
そして私自身をも
快楽に依って十二の言葉は一つに繋がる
平成16年6月2日
「人生」と「幸福」と「快楽」について
さて十二の言葉が選ばれた
試しに並べて見よう
「私」「知恵」「言葉」「世界」「哲学」「自然」「人間」「神」「心」
「人生」「幸福」「快楽」
どれもこれも素敵な言葉である
どの言葉も
私を描く時欠く事は出来ない
私はこの十二の言葉で私を描く事も出来る
しかし私の実相に迫る為には
やはり百の言葉が必要なのである
さて十三番目の言葉は何か
それは「時間」だろう
私に残された時間はそれ程多くない
その時間をどの様に活用するか
それが私の後半生の課題でもある
若い時は時間など気にしていなかったが
セネカの「時間の短さについて」を読んで
時間が急に私に迫りだして来た
私は時間を惜しむ様になった
吝嗇家の様に
私は一種の強迫観念に囚われる様に成った
時間と真正面から向き合う事
それが今の私の課題である
芸術は長し 人生は短し である
さて十四番目の言葉は何であろうか
この哲学百章は
私自身を描く場であるが
私のコスモスを描く場でもある
私の世界
私の素晴しい世界を描く為に必要な言葉もまた必要である
そんな類の言葉として
それは「愛」
愛によって素晴しい世界が描かれる
私の今の愛がどれ位か
それは問わない事にしよう
私の愛の可能性
それを描く為にも
「愛」は欠くべからざる言葉である
愛は全ての善き概念を包括する
しかしそれを実行に移す為には
別な概念が必要である
愛が思い
「徳」が実行する
徳とは愛が具現したものである
愛は徳に依ってこの世に生きる
愛から徳へ
それが事実難しい
習い性と成る
これが徳である
幾ら頭の中で考えても
すなわち愛の事を思っても
それが実行されなければ
その愛はこの世には生きられないのである
愛から徳へ
その事で多くの人が悩む
特に善き人々が
徳がどれ程あるのか
それを数えるのもまた楽しみ
平成16年6月4日朝
「時間」と「愛」と「徳」について
さて十五の言葉が決まった
あと八十五である
次から次に決まるのか
それとも渋滞するのか
取り敢えず確認の意味で十五を挙げよう
「私」「知恵」「言葉」「世界」「哲学」「自然」「人間」「神」「心」
「人生」「幸福」「快楽」「時間」「愛」「徳」
さて十六番目は何であろうか
私を描く為に必要な言葉
若しくは私の理想を描く為に必要な言葉
その言葉は何であろう
私がここ迄成長出来たのは何のお陰か
読書のお陰ではないか
ここ十年の読書
この読書が無ければ
今日の私には辿り着けて居なかっただろう
そしてもう一つは作文
作文と言う言葉は
今一つぴんと来ないのだけれど
これに変わる言葉が無いので
一応作文として置こう
詩と置き換えても良いのだが
それでは私自身の言葉になり
普遍性に欠ける様に思われるので
読書との対と言う事も考えて
一応作文として置こう
詩については
これから巡る言葉の中で必要があれば
その時挙げればいい
人の成長に無くては成らないもの
それが読書
読書無くして
人の心は成長しない
しかしまた読書だけでも
人の心は成長しない
そこに思索と言う行為が入らなければ
人の心は成長しないのである
読書は播種である
だから本は選ばなければならない
毒草を播けば
貴方の心は毒される
雑草も播けば
貴方の心は荒れるだけだ
だから本は良書を選ばなければ成らない
さて貴方が良書に辿り着いたとしよう
そうすれば貴方には良書の輪廻が始まる
それは目くるめく素敵な世界
しかしながら
貴方は何時までも良書の輪廻のままである
貴方はその輪廻から次の世界へ移れない
何故なら思想の羽は貴方をそんなに遠くまで飛ばさせないから
貴方は常に日々の思想のまま
すなわち千年一日の如く
貴方はそこに止まったまま
貴方が思想の階段を上る為に必要な事
それが作文?
いえやはり私をそれを「詩」と表わす事にしましょう
私たちには日々思想が生まれます
特に読書を契機にして様々な思想が生まれます
しかしそれはその日限りです
私たちは次の朝を迎えると
もうその思想を忘れてしまいます
私たちは日々その思想を流しています
勿体無い事です
私たちはその思想を階段にして
更に高い所へも上って行く事が出来るのです
その為にはその思想を階段に変えて行く必要があるのです
それがその思想を書き留めると言う事
すなわち作文 文に作ると言う事なのです
思想は本当に軽いものです
あっという間に流れ去って行きます
だから後で書き留めようと思っても
後の祭りです
一番いい方法は
思想のままに書き留める事です
それが詩です
詩はその心の源流を捉える事が出来ます
だから私はいつもその手法だけを用いています
詩は
私にとって思想の源流を押さえる為に無くてはならない道具なのです
さて「読書」と「詩」については一応確定としよう
では「思想」または「思索」についてはどうしよう
思想とは思い想う事
古代から現代まで
文献さえあれば
私たちはその思想を手繰る事が出来ます
思想とは思い想う事
私たちがどの様に思想し何を思想すべきか
とても楽しい素材
百の言葉に入れる事としよう
思索については
読書の付属物であり
作文の付属物
敢えて標題とするまでは無いであろう
平成16年6月5日朝
「読書」と「詩」と「思想」について
さて十八の言葉が決まった
確認の意味で掲出しよう
「私」「知恵」「言葉」世界」「哲学」「自然」「人間」「神」「心」
「人生」「幸福」「快楽」「時間」「愛」「徳」「読書」「詩」「思想」
さてこれらに継ぐ言葉は何であろう
私を現わす為に必要な言葉
私の理想を描く為に必要な言葉
これまでの私の人生に無くてはならない言葉
またこれからの私を生きていく為に無くてはならない言葉
私は国家と家族と言うゆりかごの中で生きて来た
そしてこれからも
この二つについて
私の思いと想いを言い表せねばなるまい
国家とは
家族とは
私たちは国家を選べない
また家族をも選べない
しかし私たちは家族も国家も変えて行く事が出来る
革命と言う手法で
理想の国家と現実の国家
理想の家族と現実の家族
この狭間で奮闘する私を描く
国家を国家足らしめているのは何か
それは法
では家族は
暗黙の了解 掟
やはりそれも法
法とは何か
そこには神秘がある
法の神秘の謎を解く役目は
知恵と私
知恵と私に依って
法の神秘を謎解く
そこには大いなる知恵が隠されていた
と成るのか・・・
国家と家族と法
この守護の下だけで私たちは生きていけるのか
生きていけると言えば生きていける
国家は貴方たちの命を保証する
しかし命とは何か
その明確な概念も無しに生きて何になる
命とは
そこにも神秘がある
この神秘を解かずして
どうして生きていける
命は貴方方に命じているのである
生き生きとして生きよと
それが生命
その辺りの事を私は知恵と協力して解く
さて一気に四つ決まった
「国家」と「家族」と「法」と「命」
二十台に突入した 二十二
次の言葉は何であろう
私の世界になくてはならない言葉とは
私は現代に生きている
現代については言いたい事が山ほどある
現代は確定か
貴方の言いたい現代とは
歴史の中の現代か
それとも現代の中の現代か
現代の中の現代である
いいだろう
聞き直すが
現代と社会はどう違う
現代と社会は違います
社会には普遍としての社会があります
現代とはこの現在の精神の有り様を言うのです
よろしい「現代」を確定させなさい
それから「社会」と「歴史」も
もう一つ聞こう
法と政治は違うのか
違います
法には普遍なる真理がありますが
政治はパワーバランスです
政治は権力に左右されるものなのです
権力とは何か
その時代の精神の象徴です
どう言う事か
貴方には聞えないのですか
時代の呼ばわりが
その呼ばわりに良く耳を傾けた者が
時の権力者と成るのです
今どの様な呼ばわりがあるのか
右向け右です
さてまたもや四つが急に決まった
「現代」と「社会」と「歴史」と「政治」
この四つが出たと成れば
次に続くのは経済か
私が経済について
嘗て何度かその哲学を考えようとした事がある
しかし何時も頓挫である
経済に哲学があるのか
経済は現象学ではないのか
人文学の中では経済学が一番科学に近い
だから私のその哲学が中々浮かんで来なかったのだろう
だがここでは少し腰を据える必要があろう
百に入れるか入れないかと瀬戸際だから
もし経済が私の自由に成るのなら
経済哲学は有り得る
しかし実験科学の様に
それが全て数値に置き換えられるのであれば
それは純粋科学である
さてどちらか
やはりその前にせねば成らぬ事がある
すなわち経済とは何か
その定義付け概念付けである
私は経済は経して済する事
すなわち所得の再分配であると考えている
そうであればそこには立派な哲学が入り得る
しかしそれが富の獲得なのであれば
それは数字に置き換えられる立派な科学である
富の獲得
それは数字により全てが思い通りになる
それは科学であり
哲学の入る余地など無い
さて経済とは富の再分配か
それとも富の獲得か
経済は経して済する事
であればそこには立派な哲学が入り得る
私は今回その様な観点から
経済哲学を考えて見よう
と言うよりも経済は
私にとって立派な哲学であった
その事についてやっと気づいた
プラトンやディオゲネスの事が頭に浮かんだのである
私の経済哲学
それは清貧の哲学である
私の経済哲学
それは足るを知るの哲学なのである
私はその観点から
徹底的に経済を哲学する
今日は本当に言葉が良く浮かんだ
今日の夜だけで九つ
収穫収穫
平成16年6月5日夜
「国家」と「家族」と「法」と「命」と「現代」と「社会」と「歴史」と「政治」と「経済」について
さて二十七の言葉が決まった
「私」「知恵」「言葉」「世界」「哲学」「自然」「人間」「心」「神」
「人生」「幸福」「快楽」「時間」「愛」「徳」「読書」「詩」「思想」
「国家」「家族」「法」「命」「現代」「社会」「歴史」「政治」「経済」
私は今日この課業を休んで
朝から一日中山登りをしていた
もし朝のあの気持ちのいい時間にこの課業に取り組んでいたら
きっと素晴しい言葉をたくさん見つけたに違いない
しかしそれはそれ
やはり私は私
私はその山登りの間もこの課業の事を考えていた
私は自然の中に居た訳だから
自然とは何かと言う事を念頭に置いていた
そんな私に浮かんで来たのが
感情と感覚の問題であった
私は雄大な自然を見て言う
ワンダフルと
しかし私は言う
これは感覚か感情かと
私はもう少し
私自身の心の動きを見詰めなければならない
私の心には幾通りの働きがあるのかと
先ずは感情
これはつぶさに手に取る様に見る事が出来る
喜怒哀楽を中心に
私はその類型を見る事が出来る
この私自身を材料にして
私は思う
感情こそが人の心の全てではないかと
泣き喚き叫ぶ
これも全て感情の働きではないか
喜ぶ悦に入るこれも同じ事
私たちの心の動きは
全て感情として捉える事が出来るのではないかと
私たちは感情の類型研究に依って
心の動きを捉える事が出来るのではないか
私は思う
感情以外に如何なる心の動きがあると言うのか
感情は奥が深い
今日は時間切れ
今日はここまで
平成16年6月6日夜
「感情」について
さて感情に入る前に
経済の事をお浚いして置こう
私は経済にも哲学があると思い
百の言葉の中に入れた
しかし考え直せばやはりそこには哲学は無い
経済学は現象の学である
富の再分配は国家政治の役割であり
経済の中にはそんな働きは無い
経済の働きは
ただ富の追求である
それは全て数字に置き換えられる
だから経済には
哲学の入る余地が無いのである
経済
すなわち富の追求こそが
この世の第一原理なのである
この世のこの第一の経済体制を如何に打破するか
そこ哲学の入る余地があるのである
この世の経済体制を打破し
新たな世界を創り上げる
そこにこそ哲学の役割がある
その事を哲学革命と言う なぞと・・・
と言う事で
経済については
今の所百の言葉から外す事にしよう
勿論今後の流れの中で入って来る可能性はある
さて感情
これについては避けては通れないであろう
喜怒哀楽
そして百八の煩悩へと続く私たちの感情
また喜び悦楽至福
そう言った類も全て感情の動きではないか
感情の動かない時と言うものがあるのか
貴方は言うのか
仕事をしている時
そこには私情などないと
私は言う
職場こそ私情のオンパレードではないかと
私が言うのは事務と取っている時
会計の計算をしている時を言うのだ
例えば決算を取っている時
果たしてそうか
計算が合わないと言っては
自らに愚痴を言い
決算が出来た時は
それこそ口に出して喜ぶのではないか
やったとか やっと出来たとか
私はこの様にして文を書いている
この一連の動きの中では感情の動きは無い
本当か
大有りではないか
上手い言葉が見付かったとか
それこそ口にもしないかも知れない
そして意識もしないのかも知れない
しかし私ははっきり言う
貴方は感情の中で文を書いていると
人の感情の動きが無に成るのは
それこそ無と言う瞑想に突入した時だけ
または死に譬えられる様な深いに眠りに入った時だけ
それ以外は人は感情に左右され続けているのである
赤ん坊は快不快しか無いと言う
これこそが感情である
感情とは快不快が
脳の発達と共に発達した快不快の事である
貴方は言うのか
認識と言う心の働きがあると
いいでしょう
AはBである
これは認識の働きである
しかし私は言う
そこにも感情の動きは有ると
人は感情の流れの中で
意識し認識するのである
感情は時にはバックコーラスを歌い
時には主題を歌う
妙なる音楽の下で
歌い意識し認識する者は美しい
私たちは遂々彼に惹かれる
だがそうでない者はそうでない
感情は素晴しい標題だ
そこには人間開闢の可能性がある
感情と音楽は同じだ
私はそこに様々な規則を見出す
ト音記号にヘ音記号シャープにフラット
四分音符に八分音符その他エトセトラ
私はそれらの規則を見出し
感情を歌う
さて音楽が出て来たので
音楽を百の言葉に入れようか
勿論
音楽が無ければ私の世界は索漠
またこの世も同じ
音楽はこの世を潤す清涼剤
音楽が無ければ如何
索漠
終いには灼熱の砂漠となる
音楽は私たちの感情と整える
もし音楽が無ければ
私たちの感情はもつれにもつれ
烈しく燃え上がる
その結果が灼熱の地獄?
そこまでは言わない事にしよう
今でこそ音楽が氾濫しているが
良い意味でも・・・
江戸時代はどうだったのだろう
熊さん八さんはどうだったのだろう
彼らはどれ程音楽に接したのだろう
音楽無しで
彼らの感情の世界は如何様にあったのだろう
それらは抜きにしても
音楽が私に及ぼす影響
それだけでも百に値する
さてそれでは珈琲はどうか
私にとって音楽よりも無くてはならないものなのではないか
珈琲
本当はコーヒーと書きたいのだが
この百の言葉は漢字
それも二文字以下と言う
暗黙のと言うより
私の中では確固として取り決めがあるので
珈琲と言う言葉を使わざるを得ないのであるが
百の言葉に入るのか
百の言葉に入れるとしたら
かなり出色である
他の言葉が普遍的な言葉であるのに対して
これはかなりプライベートな言葉である
何故なら珈琲を飲まない人も多いのだから
何故珈琲か
それは珈琲が私にとって覚醒剤だから
私はこの様にして
毎日文章を書いているが
これは珈琲に依る所が大きいのである
私のウィークデーの日課を説明しよう
夕食後音楽を聴きながら
マグカップ一杯の珈琲をテーブルに置きながら
読書を始める
しかしまともに読む事は出来ない
直に睡魔が襲って来
私は机にうつ伏せになって転寝をする
私はその時間を正確に把握した事な無い
三十分前後なのだろうか
その後小一時間程読書をする
それから文章を書き始めるのだが
本格的に珈琲を飲み始めるのは
文章を書き始める時からである
それから就寝の時まで
すなわち文章を書くのを終える時まで
ちびちびと珈琲を飲む
たぶんそのちびりちびりが
私の脳を覚醒させて行くのだろう
転寝に依り
この世の汚れがすっかり落ち
読書に依って精神の歩調が上手く整った時
珈琲をちびりちびり飲んで行くと
次第に精神が高揚して来るのが分かる
私はこの高揚に任せて書いている
これらのリズムが上手く整った時
私は自動書記の様に
私に浮かび来る言葉を次から次へと書く
そうでない時は言葉を自らの中から選び出して書く
その二つの間には大分差がある
私は自動書記に成る事を願って
その様に体調を整えるのである
最後に飛ばさしめて呉れるのが
私にとっての覚醒剤すなわち珈琲なのである
だからかなりプライベートではあるが
私を語る時
珈琲は外す事が出来ないのかも知れない
音楽と珈琲と来たら
次に来るのは旅だろうか
私は旅が好きである
そして行楽も
私が旅と言うのは一泊以上の行楽の事であり
行楽とは日帰りの旅の事である
どちらも同じ事である
旅と呼んでも行楽と呼んでもいいのであるが
旅の方が
すっかり馴染むので
そちらを選択する事にする
さて私が何故旅が好きなか
それはそこに人を読み自然を読む事が出来るからである
私は読書が大好きである
しかし時間が無い為ほとんど読書が出来ない
私は何時も嘆いている
私はこの様に文章を書く事が好きだ
しかし時間が無い為思う様には書けていない
この事も不満だ
私は旅が好きである
しかし時間が無い為思う様には旅も出来ていない
これもまた不満
私は私の全ての時間を
読書と詩作(この様な形で文章を書く事を言う)と旅に充てる事が出来たらどの様にいいかと思う
しかし今は叶わぬ事
早く60が来ればいいとも思うが・・・
私が何故旅が好きなのか
それは私が読む事が書く事が好きだから
私は根っからの旅ガラスなのである
物見遊山
すなわち新しきものには全く目が無いのである
旅から旅へ
私は根っからの旅ガラスなのである
平成16年6月8日
「感情」と「音楽」と「珈琲」と「旅」について
さて三十の言葉が出て来たと思うが
ここで再確認し
新たな言葉探しの旅に出る事としよう
さてその三十とは
「私」「知恵」「言葉」「世界」「哲学」「自然」「人間」「神」「心」
「人生」「幸福」「快楽」「時間」「愛」「徳」「思想」「読書」「詩作」
「国家」「家族」「法」「命」「現代」「社会」「歴史」「政治」
「感情」「音楽」「珈琲」「旅」
三十丁度あった
珈琲はかなり異色だが
私を語る場合外せないだろう
それから詩を詩作と変えた
これは読書に対する言葉としての詩作である
作文としてもいいのだが
私は自ら書くものを詩と言うイメージ付けしている
だから詩作と銘打った
心のままに
それが私の詩の概念である
だから詩作と銘打った
以上の三十は確定の仮置きとしよう
これらを土台として
私の百の言葉探しに出掛けるとしよう
さて私を現わす三十一番目の言葉とは
「革命」か
私は言い表す場合
革命と言う言葉は必ず必要か
必要だろう
少なくとも今の私を言い表す為には
私はある掲示板で
哲学革命を打ち出した
今は休止しているが
興味が尽きたから休止している訳ではない
この哲学百章の完成が
先ずは私の仕事だと考えたから
あちらを中止しただけである
私が世に出る時
哲学革命をおいては他にあるまい
哲学革命の主題
それは知恵への回心
そして知恵に依る命の革まりである
さて私はこの辺りで
この世の私に目をやらなければいけない
私の趣味
それは知恵を愛する事
それはとても素敵で高尚な趣味
しかし貴方に聞く
貴方は哲学を趣味で終わらせて良いのか
哲学こそ実学なのではないか
仰せの通りです
しかしどの様に生かせと言うのですか
それは貴方自身が考える事ではないか
そうです正に真善美です
この世の私が
真であり善であり美である様にと
哲学があるのです
哲学の根本は何か
それは知恵と共に在ると言う事です
そこまで分かっているのなら
それに従いなさい
さてこの世に於ける私の処世方
知恵と共に在るこの世の処世方
如何なる法があると言うのか
処世について
私はこれまで仮の姿でこの世を生きて来た
しかしそれで良いのか
私自身を生きる必要なないのか
私自身を生きるとは
知恵と共に生きる事
知恵と共に生きるには
この世を捨てねばならない
この世を捨ててこそ
知恵をこの世に生かす事が出来る
私の仕事は知恵のメッセンジャー
知恵の広報官
その為にこそ私は存在している
今私は私の仕事に目覚めねばならない
私が広報官に成る為に必要な事
それは私がこの世に実在しなければならないと言う事
すなわち実名の私がこの世に存在しなければ成らないのである
今私はその為に準備中である
この「哲学百章~知恵と共に~」が
私の広報官としての初仕事に成る
私に使命が下された
私の使命または私の仕事について
平成16年6月9日
「革命」と「仕事」について
私の使命は知恵の広報官に成る事
そしてその最初の仕事が
この「哲学百章~知恵と共に~」との事
いいでしょう
遣り甲斐のある仕事ではないですか
その前に仕事とは何か
その哲学的意味を考えて見よう
仕事とは事に仕える事
では事とは何か
事毎にか
きっとそうだ
私たちは事毎に仕えなければならない
上司が変わったと言っては
その事に仕え
職場が変わったと言っては
その事に使える
その事は定まらず
変転流転する中で
私たちは事毎に仕える
私は思う
私たちに定まった事とは無いのか
私たちは変転流転するその中で
事毎に悉く仕えなければならないのか
私は貴方に言う
その悉く変転流転する事々の中に
一つの事がある筈だ
それら全ての事々を生み出す一つの事がある筈だ
その事を探し出し
その事に仕える事
それが貴方の仕事だ
一つの事とは何だ
それは私と知恵が全てを生み出していると言う事
私と知恵に依って
この世界の全てが生み出されていると言う事
その事でしょうか
それ以外に何がある
であれば私の仕事とは
知恵と共に共同して
素晴しき世界を創る事
そうなのでしょうか
そして
「哲学百章~知恵と共に~」は
私の仕事であると
そう言う風に解釈してよろしいのですね
その通り
その仕事を持ってこの世に打って出よ
そう仰りたいのですね
その通り
貴方もこの世の顔を持て
これが私ですと言う様な顔を
それが「哲学百章~知恵共に~」
だと言うのですね
その通り
貴方の思う様に
貴方の世界を描きなさい
さて「哲学百章~知恵と共に~」が
私のこの世へのデビュー作と決まった
であれば更に心して
百の言葉探しに出る事としよう
さて「革命」「仕事」と来たが
これに続く言葉は何か
死か
そうだ死だろ
私は何を釈迦力になって革命を起こそうとしているのか
何故その様に仕事に一生懸命打ち込もうとするのか
それは全て
穏やかな死を迎える為ではないか
私はこの世の金字塔を見上げて
この世に穏やかにお別れを言う為に
革命に仕事に打ち込もうとしているのではないか
私の生きた証を
それを金字塔の様に打ち立てたい
それがこの世の生きた証
そう思って釈迦力になっているのではないか
この世の生は死を迎える為のレッスン
この世の生が無を迎える時
貴方の生が蘇る為に
貴方にはこの世の生が必要なのである
この世の生のレッスンで
貴方が何処まで行きつけたか
それに依って蘇りの程度が決まるのである
もし貴方が普通の人であれば
精々七七四十九日でしょう
しかし貴方が十分にレッスンを積んでいれば
貴方は貴方がこの世に生きた命だけ蘇る事も出来ます
更に貴方がレッスンを積んでいれば
更に百年も二百年も生きていけるでしょう
蘇りで一番有名なのはイエスです
彼は自ら宣告したとおり蘇り
そして二千年も生き続けています
蘇りとは
言葉に依る蘇りなのです
私は居ないが
私の命の言葉は蘇り生き続けて行くのです
それが言葉の神秘です
この儚い世の中の私を蘇らせ
私を生き続けさせて行く為には
私の言葉を文字と言う金字塔に変えて行かなければならないのです
私は今その仕事をしているのです
死とは何か
明日への宿題としましょう
平成16年6月11日
「死」について
さて昨晩は時間切れで
死とは何かが今日の宿題と成った訳だが
果たして死とは何か
死とはこの世の終わりである
死後にはどの様な世界があるのか
死後には世界は無い
もっとも死を何時にするかに依っては違う
心臓停止が死か
もしそうであれば
私は言う
それ以後も人は生き続けると
脳死が死か
誰がそれを判定すると言うのか
人の死は人に依って判定されるのか
私は言う
心臓停止後も勿論脳死後も
人は生き続ける
人は徐々に無と言う死に向かうのである
昔は七七四十九日の頃に漸く無と言う死に至ったのだろう
しかし今は違う
火葬されてしまえばそれまでだ
人はそこで完全なる死を迎える
しかし人は生き続ける
このパラドックスの中に人の死がある
人は死ぬが生き続ける
その意味はこの世の肉体としての命は死ぬが
言葉としての命は生き続けると言う事である
イエスを見なさい
二千年経った今でも
私たちの心の中に生きているではないですか
それは全て言葉と言う命に依って生きているのです
さて死に続く言葉は何か
瞑想か
私は瞑想はしていないが
瞑想をしている
瞑想とは無に成る事
若しくは無を思い無に成る事
それを意識して出来れば
その人は偉い!
しかし私は瞑想している
秘密を明かそう
それは転寝である
若しくは睡眠
休日の朝は瞑想する必要はあるまい
睡眠によりこの世の汚れをすっかり振り払っている筈だから
問題なのは平日である
この世の仕事が終わり
自ら一人になり
自らに向かおうとするが
自らの中に入れない
それはこの世の穢れが
自らに向かう事を邪魔しているからである
こんな時に瞑想が必要なのである
この世の穢れを振り払い
清浄なる無に成る為に
瞑想が必要なのである
私ははっきり言う
瞑想とは無に至る為の手段である
一旦無に至れば
もう瞑想は必要ないのである
何時までも無を思い続けるのは阿呆である
死して命を得る
その為にこそ瞑想と言う手段があるのである
死して天国に至れば
そこで天使と言う知恵と自由に遊び回れば良いのである
そして私が知恵と共にいた証
それこそが言葉なのである
私には瞑想は必要だが
今の所必要ではない
何処でも直ぐに無に成れる様な瞑想の技術を習得出来れば
それに越した事は無い
しかし今の私にとって転寝ほど素敵な瞑想はないと思うのである
もっとも転寝は瞑想すなわち無に至る手段ではあるが
それだけでは知恵と自由に遊び回れないのである
私は転寝に依って無に成った後
その精神を起こして上げなければならない
その為の方法が音楽と読書と珈琲なのである
この世に死し生き返った命を
音楽や読書は珈琲の力に依って立ち上げて始めて
私は知恵と遊び回れる様になるのである
さて死と瞑想と続いたが
その次に来る言葉は何だろう
天国と地獄か
理想郷でありユートピアか
いいでしょう
天国の事を書きましょう
私ははっきり言います
天国はこの世にこそあると
肉体の完全なる死以後には
天国は無いと
もし完全なる無の世界を天国と言うのであれば
肉体の完全なる死後は天国と言えましょう
それを天国と言う概念で括るのであれば
しかし天国の概念はそうではありませんよね
どちらかと言うと歌えや踊れの世界ですよね
そんな世界は
私が存在するこの世にしか有り得ないのです
さて天国とはどんな世界か
私はこれまでもその世界を示唆する様な言葉を
あちこちで述べていますから
感の言い方はもう分かっていると思いますが
それこそが知恵との遊行なのです
私は思います
天国極楽は
仏像や仏像画に描かれているあの世界だと
光背に歌い踊り奏でる天女を携えて
一人静かに黙想する
あの中にこそ天国極楽が出現しているのだと
天国は私と知恵との遊行の中に在り
さて「死」「瞑想」「天国」と続いたが
その次に来る言葉は何か
私の大いなる世界を創造する為に必要な言葉とは何か
宇宙か
私は宇宙は一度却下した
その時の理由は
宇宙は世界の付属物であるからと言う理由であった
宇宙とは世界の付属物か
宇宙とは大いなる広がりの事か
確かにそうだろう
だとすれば世界とはどう違う
世界とは私の手中にあるもの
宇宙はその手中外
さて手中外のその世界を
私は手にする事が出来るのであろうか
さてあの時私は言った
宇宙と世界の境界を定めねばならない
そうでないと
宇宙が世界となり
世界が宇宙となるからと
さて宇宙と世界の境界は何処にあるのか
月は宇宙か世界か
太陽はどうか
銀河はどうか
ビッグバンはどうか
こうしよう
太陽系までを世界
それ以外は宇宙と
太陽系であれば
ロケットで行こうと思えば行けるし
帰っても来れる
だから手に届く
だから世界とする事にしよう
銀河はもう宇宙
誰が銀河の数を正確に知ると言うのか
それぞれが試算しているだけではないのか
そんなあやふやな世界は世界と呼ばない
それを宇宙と呼ぶ
宇宙とは誰もが自由に想像できる世界
勿論科学的知恵を大いに利用してもいい
しかし全ての人が納得できる知見を
これが宇宙である
ビッグバンなどは
ある科学者集団の絵空事
それをこの世の大半が真に受けているのである
私はそれをよく研究した事は無いが
漏れ聞えてくる言葉を総合すれば
それは絵空事に過ぎない
私ならもっと素敵な世界を描く事が出来る 筈
宇宙とは天体の事か
そう
だから宇宙は百の言葉からやはり却下
心の宇宙はどう
それは全て私の手中
それは時間に依って全てが語られる
心の宇宙の果て
それは時間の限りの果て
私たちの心の宇宙の果ては
死を持ってそこで終了する
だから心の中においては
世界と宇宙は同義語なのである
宇宙はまたも却下されてしまった
では精神はどうだ
精神は知恵や神と同じ類の言葉だとして却下されたが
それで本当にいいのか
確かあの時は
精神が却下され
その代わり心が採択された
ここでもう一度
心 知恵 神 精神の関係を調べて見よう
心は祭壇である
私と知恵の研究フィールドでもある
ここから私の世界が創り出されて行く
心は私に取って無くてはならないものである
神はまた
我々の心が想像しまた創造し得る最高の概念である
これを外す事は出来ない
であれば精神はどうか
ところで精神とは何か
時間が来たので
これは次回への宿題とする
平成16年6月12日朝
「死」と「瞑想」と「天国」について
さて精神が今宵の宿題となっている様だが
精神とは果たして何か
精神と心はどう違う
精神と知恵はどう違う
精神と神はどう違う
精神と心は明らかに違う
心は精神の練武場である
精神を精なる神と約すれば
知恵と精神は同義語である
精神を精なる神と約すれば
神とは
精なる神が知恵が
仰ぎ見る最高の存在者である
と言う事であれば
精神と知恵は同じ事か
精神を精なる神を約すればそう言う事になる
精神には色々の意味を充てる事が出来るが
今の所
私は精神に精なる神と言う意味を充てている
それは知恵と同じ事
だから敢て精神は百の言葉には入れない事にする
また精神は却下か
さて却下が二つ続いたので
今度は採択される言葉を選ぼう
私の世界を描く為に必要な言葉は何か
哲学とは真善美を愛する事
だがそこでは
たぶん美そのものについて言及する事は無いであろう
美は愛とも違う 徳とも違う
美はそれだけで存在する
もっとも大きな意味で捉えれば
美は徳に内包され
徳は愛に内包されるのかも知れないが
ここでは美そのものについて言及する事としよう
美は私にとって欠くべからず存在である
もし私に美意識が無ければ
私は醜い存在に成り果てるかも知れない
私の美を美たらしめているのは私の美意識である
さて私にとって美とは何か
結局それは美徳に通じるのか
では芸術とは何か
果たして美しい絵と言うものがあるのか
花を見て美しいとは言わないのか
それを美徳と言う範疇で括れるのか
美とは行為か感覚か
私たちは音楽を聞いて美しいとは言わない
心があらわれるとか
愉快になるとか楽しくなるとか
それは形容動詞の類だ
しかし我々は美しい絵を見ると美しいと言う
それは美しい写真美しい花を見ても同じ事
美 美しいとは視覚の専売特許化か
私たちは美しい行為を見て美しいと言うのか
言う
それは視覚限定か
そう
視覚に再現出来るものだけを美しいと言う
絵画と音楽はどう違う
そこには美と言う共通点は無いのか
一時的には無い
絵画の第一主眼は美である
私たちは美からその絵に入って行く
音楽の第一主眼は快楽である
快よさ楽しさから音楽へと入って行く
音楽は直接精神に訴える
絵画は視覚を通さなければならない
絵画により快楽を得る為には
それを音楽にまたは言葉に変えなければならない
私は今分かった
美しい行為の秘密が
それは全て視覚的行為でなくては成らないのだ
それが善い行為に成る為には
そこに言葉の介入が必要になるのだと
美しいき行為と善き行為
美しき行為は美しい
それは一瞬だが何時も美しい
美は天稟のものである
善き行為は時と共に善くなる
善き行為は努力の賜物
美しき行為を求めてはならない
それは天賦ある者にだけに許された行為
善き者と成る様努力しなさい
そうすればそれに連れて美しくなる
美と善は哲学の範疇だが
それぞれにそれぞれを述べなければならない
さて善とは
私たちは善き行為は一つずつ積み上げていく事が出来る
一日一善と言う言葉もある位だから
塵も積もれば山となる
これは善にも適用できる
善の山々が出来たらどんなにか楽しい事か
さて善とは何か
善き行為とは何か
突き詰めて見よう
そしてそれと徳とはどう言う関係にあるのか
善と徳は同じか
同じであればどちらかを削らねば成らない
違うとすればどちらも私にとっては大事な言葉だ
百八の煩悩があると言う訳だから
百八の徳があってもいい訳だ
一方悪はどうだ
百を越える悪があると言うのか
私は言う
悪とは一つだ
それは神に従わない事
善も一つ神に従う事
神と言う言葉が前近代的だと言うのならば
それを知恵に置き換えて良い
知恵に従わない事それが悪
神に従う事それが善
それを良心善心に置き換えても良い
さて善美と来たからには真理は避けられまい
真理と芸術については明日への宿題とする
平成16年6月12日夜
「美」と「善」について
さて今日の宿題は真理だと言う
善美が片付いたから
今日は真理だと言う
さて真理は一度却下されたのではないか
それは知恵を愛する事
すなわち哲学と同義語だからと言う理由で
しかし私はここで思い直そう
先ず哲学と言う言葉が
この世では本意から懸け離れた意味で使われていると言う事
また知恵についても同様だから
真理と言うアドバルーンを出して
ここでもこの世の者を惹き付けて見ようと
真理とは
知恵を愛する事 哲学の事
そんな事を言えば
この世の者は目を丸くするだろう
しかし私は思う
知恵を愛する事以外に
どんな真理が在ると言うのか
真理とは1+1が2であると言う事を言うのか
これは真理では無い 公理である
誰もがそうだと認める事実
その事を公理と言う
真理とは
その者が真だと認める事
それは知恵を愛する事
すなわち哲学から生まれる
真理とは哲学の証果である
この世に真理は一つしかない
それは知恵を愛する事
それ以外はみんな仮虚である
知恵が真だと言うもの意外に
如何なる真理があると言うのか
私ははっきり言う
真理とはその者にしか有り得ない
しかしこんな事を言うと
世の者が迷うので
あまり真理の事は口に出さない方が良い
真理とは
知恵を愛する事 哲学にしかない
真理の証果を示せと言えば
知恵が真だと認めたものだけを示せば良い
しかしそれは世を迷わせる
この世で真理と言われているもの
それは全て公理に過ぎない
すなわちそれはこの世の者が真だと認めたものに過ぎない
真理は全て自らの内にある
そして真理に証印をするのは知恵だけである
真理とは知恵を愛する事 その事 若しくはその事の理
もし証果を示せと言われたら
その知恵との対話で生み出された証果を示せばいい
それは貴方にとって全て真実である 真理の証果である
真理はそれぞれの人の心の内にしかないのである
その真理を見つけ出すか出さないか
そこに真理の鍵が掛かっているのである
ピラトは言った 「真理とは」
真理とは貴方の心の内にある知恵と言う存在である
そして貴方と知恵との対話の中で
貴方が真だと思い
知恵が真だと認証したもの
それが貴方とっての真理である
そしてそれ以外に真理は無い
しかし真理の事を口にすると
この世に馬鹿にされるだけだ
だから真理の事はあまり口にしない方が良い
ただこれだけを思い続ければ良い
真理とは知恵を愛する事
ただこれだけだと
これこそが真なる理である
真理を標題にする事は難しい
私がそれを真理だと言えば
私以外の者は違うと言う
議論百出
真理に関する議論は納まる事は無い
だからイエスも答えなかったのである
私は思う
そしてこれ以外に無いと思う
またイエスもきっとこう思ったのだと思う
真理 真の理とは
知恵(聖霊)を愛する事だと
ここで真善美をもう一度お浚いして見よう
真とは知恵 または知恵を愛する事 哲学だと
善とは知恵に従う事 それは知恵の命令に従う事 それは徳に通じて行く
美とは知恵の似姿を見る事
美はその原型を持つ者だけに許される事
自らに美を求めてはいけない
美しく成りたいのなら善をこそ追求しなければならない
そうすれば一生の最後に望んで美しく在る事が出来るかもしれないと
さてそこで芸術だが
芸術とは何だ
私にはこれまで芸術に関する明確な概念は無かった
今日その概念付けをする事にする
まずその範囲は何処までをいうのか
絵画はどうだ
第一番だろう
彫刻はどうだ
絵画と同程度だろう
工芸はどうだ
それも時と場合に依る
美を求め続けてのそれであれば当然芸術である
単なる用はどうか
それは芸術ではない
そこには経済 富の追求の原理が働くだろうから
書道はどうか
文字は正確に伝わればそれでいい
勿論きれいに越した事はない
ただそこに華美を求めるのは禁物だ
書道は実用の学である
それを美を求める学とするは却下
だから書道は芸術には含まない
それでは音楽は芸術に入るのか
一般社会的に言えばそうだ
芸術大学に美術部と音楽部が有る様に
だが音楽を芸術に入れるとなると
それなりの理論武装が必要である
上記の音楽以前の学科は全て
そこに共通するものは美である
だが音楽の第一原理は快楽である
私たちは音楽を芸術の範疇に入れる時
新たな芸術の概念が必要と成って来るのである
さて芸術とは何か
もう一度絵画に戻って見よう
絵画の入り口は確かに美である
しかしそれが単なる美である限り素通りである
そこに音楽または思想を発生せしめなければ
その絵画は私たちと何の関係もないものと成る
結局その絵画が私たちに音楽かまたは思想を齎さない限り
それは芸術だとは言えないのである
すなわちそれが私たちの時間の中に入って来ない限り
それは芸術足りえないのである
そう言う意味で彫刻はどうだ
絵画ほど音楽思想を生じさせないがやはり生じさせる
では工芸はどうか
工芸はほとんど素通りである
だから工芸は芸術として価値は低いと言わざるを得ない
さて工芸まで含めるとして
これまで挙げた芸術の範囲は
絵画 彫刻 工芸 音楽だったが
映画はどうなるのか
そう言われると困る
そうなると当然演劇も芸術に入って来る
これも一般社会的に言えば
大概の芸術学部に
美術科音楽科に加えて映画学科演劇学科等があるものである
しかしここで困るのは
それらを芸術に入れた時
文学がどうなるかと言う事なのである
とりあえず文学は除くとして
映画演劇を芸術に入れるとした場合の
芸術の概念が必要に成って来るが
先程の概念のままでよいか
よいでしょう
快楽を齎すものであるとの概念で
さて私の芸術の概念は
快楽を齎すものとなってしまった
このままの概念で本当によいのか
見直しが必要なのではないか
その様な疑問が生じたが
時間切れなので
この続きは次回への宿題とする事にしよう
平成16年6月13日朝
「真理」と「芸術」について
芸術とは快楽を齎すものである
この第一原理はそのままでよい
しかしこれだけだと芸術の範疇があまりにも大きくなる
制限付けをしなければならない
その制限とは
様式により表現されたものと言う事になる
すなわち様式に依り表現されたもので
私たちに快楽を齎すもの
それが芸術と言う訳である
様式による表現とは
絵画であればキャンパス筆絵の具等
彫刻であれば大理石ブロンズ等勿論鑿も必要だろう
工芸であれば粘土ガラス布エトセトラ
音楽であれば楽器や歌い手
舞踊であれば衣装や踊り子
演劇であれば舞台や役者
映画であれば音楽演劇プラスカメラ等
そして文学であれば紙と鉛筆
これらの様式で表現されたもので
我々に快楽を齎して呉れるもの
それが芸術である
だから例えこれらの様式により表現されていても
それが我々に快楽を齎さなければ
それは芸術とは言えない
それは騒音と呼ばれたりガラクタと呼ばれたりする
芸術が芸術である為には
少なくとも自分を除いて二人の者に快楽を齎さなければならない
それで始めて芸術足りうる
もし十人の者に快楽を齎したのであれば
貴方は自らを芸術家と名乗ってよい
さて芸術の事はこれ位にして
次の言葉に急ごう
私にとって必要な百の言葉とは何か
文学はどうする
今芸術の中に取り込まれた
それに私は文学の事について述べる事はそれ程無いと思う
詩はどうだ
たぶん詩作の中で謳われるだろう
もう言葉の関係はいいのか
文字はどうだ
ひらがなカタカナ漢字英語中国語フランス語
言語はどうだ
既に言葉を標題に挙げている
しかし言葉とは別の観点から
言語については書ける
文法若しくは論理学の観点から
言語を百の言葉に入れよう
私は思う
文法こそが論理ではないかと
私の文章は
かなり逸脱している
しかし文法にはぎりぎりの所で法っている
そうでなければ
私は私の言葉または知恵を伝える事が出来ない
AはBである
これが全ての言語の最も基本的な法である
この法を足掛かりに
私は文の法または論理をまたは言語の真髄を
または思想の原点を追求する
例えば書き出しはこうだ
この世界には百を越える言語が有ると言う
この言語の異なる人々は
お互いを理解する事が出来ないのだろうか
バベルの塔のあの事件の時は
確かに理解出来なかったのかも知れない
しかし人々は今では理解し合っている
何故か
それはお互いの言語に共通の法があったからではないか
それこそが私たち人間を臍帯させ合っているのではないか
と言う風に
言語から文法へ
文法から論理へ
論理から神の法へと
すなわち我々は神の子なのだ
と言う風に・・・
さて言語に続く言葉は何か
論理か
論理は言語その法で十分だ
学としての論理学
ナンセンスそのもの
論理は我々の言葉の内にこそある
言語系統で忘れているものは無いか
言葉と言語
この二つの標題があれば
全てを網羅するだろう
さてそれではもう一度
科学と知識に突入しよう
どちらも却下された言葉だ
科学が却下された理由は
如何に彩り豊かな言葉であっても
私自身を現わすものでなければ
採択する事が出来ないと言う事であったが
あれから流れが変わった
例え私自身を現わす言葉では無くても
その言葉に依って私を表す事が出来るのであれば
採択すべきだと
科学を標題に書き続ける時
科学に対する非難の言葉が続くと思うが
そこにこそ私自身が浮かび上がって来るのではないか
そしてそこでこう言えばいい
これが私だと
さて知識についてどうする
確か前回は却下では無く保留だった筈だ
知識を手放しで礼賛する事は出来ない
だから保留だと
先ず知識とは何か
そして真に必要な知識とは何か
その辺りを書く事に依って
私が浮かび上がって来る筈だ
科学 知識 共に今回は採択
さて次に来る言葉は宗教だろう
しかし今日は時間切れ
次回への宿題としよう
平成16年6月13日夜
「言語(論理)」と「科学」と「知識」について
私はどの宗教にも属していない
しかし私は思う
全ての人が何れかの宗教かに属していたらいいと
そうすればこの世はもっと穏やかになる
無神の心が蔓延るこの世は索漠として嫌だ
皆にそれぞれ神が有れば
皆それぞれ一人ずつを大切にする筈だ
神がいないばかりに
皆遣りたい放題だ
誰がこの世から神を放逐した
宗教には必ず神が居るのか
仏教には神は居るのか
神が居なくても宗教は成り立つのか
宗教法人の要件は何か
幸福の科学では
何を奉っているのか
大川隆法か
いや仏だ
仏教では仏が神となる
宗教に必要なもの
それは仏法僧
先ずは仏と言う絶対者
この絶対者が居なければ宗教は存在しない
次に必要なものが法
これが経典仏典聖典だ
これが無ければまた宗教は成立しない
最後に必要なものが僧
僧団
この僧団の団長が宗主と成る訳だ
仏教では釈迦だった筈であるが
その流れを汲む者は一つも無い
今ある仏教は全てその分派だ
例えば浄土真宗
その宗主は親鸞
そして幸福の科学の宗主は大川隆法と言う具合に
さてキリスト教はどうだろう
その宗主はイエスのままか
そう
だからキリスト教に置いては
イエスの教えが崩れていないのである
我々は誰でもイエスに立ち返れる
それがキリスト教の偉大な所だ
仏教では
誰それが仏教の教えはこうだと言えば
それに反論する事が出来ない
仏教にはそれぞれに都合のいい様に経典があるから
私たちは仏教においては満足する事は出来るが
知恵を磨く事が出来ない
仏教においてはそれぞれが良いから
さてイスラム教では何故あの様に対立があるのか
それは宗主が割れているから
イスラム教は若い宗教である
宗主マホメットがそこに見えている
見えているにも関わらず
宗主がそれぞれに居ると言う
ここら辺りに分裂の基がある
シーア派とスンニ派
イスラム教を研究して見る価値はある様だ
さて宗教の次に来る言葉は何だろう
民族か
確かに私は最近中国韓国と旅をした
その旅の経験から民族を語る事も出来るが
やはりそれは二の次だ
私がその辺りで言わなければならない事は
それは美(うま)し国 日本
言霊の幸う国 日本
まほろばの国 日本である
そう
その様な国に日本を創り変える為に
若しくはその様な日本に返して上げる為に
私が存在しているのである
私の存在意義
それはこの日本を知恵の王国 日本に変える事なのである
誰もが日本万歳と言える様に
その為にこそ私は存在している
その手段は哲学革命
哲学革命のその暁に
美(うま)し国 日本が待っているのである
さて美し国 日本に継ぐ言葉は何か
世界平和か
そうだろう
何故世界は平和に成れない
平和とは何か
人はその意味を知っているのだろうか
平和を阻害するものは何か
争いか差別か
それとももっと何か根本的なものがあるのか
平和とは我々の内に平和が在ると言う事
そこから世界平和へと続く
世界が平和で無いのは私の世界が平和で無い為
何故私の世界は平和でないのか
その辺りに世界平和を説く鍵がある
何故私の世界は平和でないのか
何故私の世界が平和でないのか
それは私が私自身に満足していないから
私は私自身を飛び出して私を求める
そこに争いの種がある
もし私が私自身に満足して
私以外に手を出さなければ
そこには何の争いも無い
私が私自身から出るから
そこに争いが起こるのである
ブッシュを見よ
彼が如何にアメリカ自身に満足していないかを
アメリカを見よ
アメリカが如何にアメリカに満足していないかを
日本を見よ
私のお陰で
まほろばの国 日本 美し国 日本 言霊の幸ふ国 日本と
成っているではないか なぞと・・・
平和に続く言葉は何か
自由で無くて何であろう
自由には深い意味がある
その辺りを詮索すれば
百の言葉が次々に浮かび上がって来る事だろう
だが時間切れの様だ
その辺りについては明日への宿題としよう
平成16年6月14日
「宗教」と「日本」と「平和」について
自由とは一体何だろう
自らの由
自ずからの存在理由
そこに自由があるのだろうか
そう
自由とは自分の中へ突入する事
そこに自由が生まれて来る
自由とは自分が自分であり続ける事
その事を自由と呼ぶのである
だから自分を知らない者には自由なぞ無い
若者が
それも突っ張った若者が
自由自由と叫んでいるが
彼らの自由とは体制からの自由
だが私ははっきり言う
彼らは自由に成れない
結局は自分自身を持て余し
だちを構成して行く
そしてその中で拘束される事を何よりも喜ぶ
これもまたこの世の奴隷
自由
それは一人居の中にしか居ない
自由は
孤独を愛する者にしか与えられないのである
何故なら
一人に成る事に依って
自分を良く知り
自らの由を
よくよく知る事に成るのである
自らの存在理由を
私が何故存在するのか
その事を知った者は
自由
彼にはもう何も必要ない
ただ彼さえ居れば
これが自由の究極が
彼は永遠に
我と汝の対話を続ける
自由とは
究極的には
我と汝の対話に没頭する事である
その為に必要な事は
この世を捨てると言う事なのである
それは仏教用語で出世と言う
世を出る
そこに究極の自由の境地があるから
自由と涅槃と天国は同じ事
自由の究極的解釈
さて究極から
この世に少し戻って
自由を考えるに
その自由を脅かすものは干渉である
だから信教の自由 思想の自由 etcの自由なのである
子供が何故干渉を嫌うのか
それは自由への真似び事
彼らは真の自由とは何かを知らない
しかしそれでも自由に憧れているのである
自由は全ての人々の憧憬
だが本当に自由の意味を知っている者は少ない
さて自由に続く言葉は何か
孤独か
孤独は自由の所で思う存分に語れば良い
それでは自由に続く言葉は何か
平等か
私は平等について
これまであまり考えた事が無い
私にとって重要な言葉ではなかったのだろう
これまでは
しかし本当にそうなのだろうか
今日ここで検証する事にする
さて平等とは何だ
そう問われてもぴんと来ない
しかし今の今
ピーんと来た
それは人類皆兄弟
それよりもぴったり来る言葉は
人間は皆神の子だと言う事だ
神の子と言う事により
この世の人間は皆平等なのだ
しかしこの世は平等だろうか
そう
私はこの事を世に訴えなければ成らないのだ
人類の一人一人が皆平等に成る様に
私は哲学革命を進めて行くべきなのだ
革命を突き動かすもの
そして憲法や憲章の基礎と成っているもの
それらには必ず目を遣って
思索しなければならない
さて我が日本国の憲法はどんな事を謳っているのだろうか
人権か
それは人類皆兄弟
すなわち平等の中で謳えばよい
戦争の放棄か
それは平和
思想信仰等の自由
それは自由で述べる
個人の尊重
それも自由で述べる
両性の尊重か
そう「性」については述べなければなるまい
私は性について深く考えた事は無い
しかしそれを起点に思想の糸を手繰れば
私自身を明かす秘密が隠されているのだろう
そしてこの世の秘密も
人は何故男であり女であるのか
人は何故天使でないのか
人は何故愛憎に死ぬまで係わらなければ成らないのか
そこに男と女の秘密が隠されているのか
もし男ばかりの世界が在ったら
女ばかりの世界が在ったら
アマゾンの世界はどんな世界だったのか
何故ヘラクレスはその世界を撃たなければならなかったのか
私は男性を希望した故に男性に成った
私は女性を希望した故に女性に成った
これは真実である
性倒錯の世界は問題外
私は男性女性の性から性格にまで至る
性とは心に生まれ出もの
それが私の性に関する原点
さて性と性格は別々に論じるのか
それとも性の中で論じるのか
勿論性の中で
男性女性はイントロダクションである
性格と来れば習慣があるが
習慣を百の言葉に入れるのか
習いて性となる
これが習慣の事であるが
これはまた徳に繋がる
徳と習慣を別に論じるか
それとも徳の中で論じるか
徳の中で論じる事とするか
継続は力也 それは習慣の事 そしてそれは徳の事
学びて時に習う また楽しからずや
「学ぶ」と言う言葉はとても素敵な言葉である
しかし私の百の言葉には入れる事が出来ない
何故なら動詞形だから
これを名詞形にしなければ
百の言葉に入れる事が出来ない
さて学ぶを名詞形に変えるとどうなるのか
学問か学習か勉強か
学びて時に習うだから
学習が一番ぴったり来る様だが
学習と言う言葉だけを取り出すと
あまりこの世に重みがない
あまり重きを置かれている言葉の様ではないが
私がこの言葉に新しい息吹を与える事にしよう
学問では科学に近い言葉になる
勉強でもいいのだが
学ぶと言う要素が少し弱くなる
学びて時に習う 学習には
学問と言う言葉と勉強と言う言葉が上手くミックスされている
この言葉を上手く使えば私を上手く表現できるのかも知れないが
時間が来た様だ
「学ぶ」事については次回への宿題としよう
平成16年6月15日
「自由」と「平等」と「性」について
学びて時に習うまた楽しからずや
学習を百の言葉に入れる事としよう
学習と言う時
それは学問とは違う
それは正に
学んで時に習う事
この事以外の何物でも無い
この奥義をどれ程の者が知っているというのか
学ぶ
この事が無ければ何も始まらない
しかし学ぶだけでは
学びて思わざるすなわち冥しである
がり勉さんは正にこれであり
専門馬鹿さんんもまたこれである
しかし学ばなければ何も始まらない
さて学んでどうする
学んで時に習わなければならない
習うとは倣うでもある
聖人の行為を学んだとしよう
貴方はどうすべきか
それに倣わなければならないのではないか
時に習うとはどう言う事か
そうそれは時々にと言う意味である
時を見つけては時々に
時を見つけては時々に
時を見つけては時々にと言う意味である
すなわち瞬時も疎かにせずに習うと言う事なのである
それに依って貴方は聖なる人に倣う事が出来るのである
これは徳それから習慣に繋がる行為へと続く
さて学習と言うからには
やはりその学びの門が幾ら程あるのか
それも研究の分野としなければなるまい
私たちは何をどれ位学べば良いのか
学問はそれ程数え切れない程有る
私たちはその全ての門を潜らなければならないのか
等々
学習において
学習学問勉強等を総括する事にしよう
さて私は今学習を百の言葉に入れた訳だが
やはり学問をそれに代わるものとしよう
学習は学問の門を潜った後の話である
学問
学びの門とは一体どの様な門なのでしょう
私はその門を突き止めねばならない
そして私はそれをこの世の者に知らせなければならない
この世の者が迷わずに学ぶ事が出来る様に
学問への道を示す事が私の使命である
学びと言う王宮に至る門を示す事
それが私の使命だ
さて学びの門 学問とは何処にあるのか
東京大学にあるのか
いえ 貴方の直ぐその目の前に在るので有る
さあ門を叩け 開かれるであろう
さて私は今この哲学百章をどの様な文体で仕上げるのか
少し迷っている
ですます体にするのかである体にするのかも重要であるが
それよりも重きを置いて考えているのは
私自身との対話にするのか
読者との対話にするのかと言う事である
しかしここに来てその結論は出来上がりつつある
すなわち読者を対象に対話を進める
何故ならこの哲学百章は哲学革命の契機の書となるべきものだから
私は読者を焚きつける
そこから火が上がる様に
私は読者を貴方と言う言葉で挑発する事にする
等々と闘争モードに入った様だ
まだたぶん五十も行っていない筈だ
追々どの様な形式にするのか考えればよい
今は百の言葉を追う事に専念する事にしよう
学問に続いて決定した言葉は対話である
対話について述べる事は幾らでも有る筈だ
さて対話と誰と誰が対話をするのか
それは我と汝
すなわち私と貴方
貴方とは誰か
貴方とは全ての者が貴方を成るが
基本的には二人しかいない
一人は私の中に存在する者
私が一人居る時
私は何時もこの者と対話をしている
今日この様に言葉が出て行くのも
その者との声なき対話の結果である
さてもう一人の貴方とは
この世に於いて
私の目の前に立つ者その者である
私たちは目の前に立つその者と
対話をしなければならない義務がある
それこそが隣人を愛せよと言うあの黄金律なのである
しかし私は言う
最終的に貴方は一人であると
私の中に居る貴方と言う存在者
それは私の目の前に立つその者の中にも存在する
私がその目の前に立つその者の中に貴方を見出した時
その時を何と呼べば良いのだろう
そう
その時貴方はこう呼べば良い
私の捜し求め続けていた友が
今日漸く見付かりましたと
友とは私の中に居る貴方に近い存在を持つ者を言う
友は知恵に依って繋がる
友とダチは区別しなければならない
そうでないと
貴方はダチと呼ばれるその友に拘束される事になる
友は
この世の貴方を解放するものでなくてはならない
然るにダチは貴方をこの世に縛る
友とダチその対比の中で
私は友を語る
この世に友を見出す方法
私はその方法をこの哲学革命で打ち出す
知恵に依る連帯
そこに真の友情の輪が広がる
この哲学百章は私を現わす書では有るが
哲学革命の緒となる書である
すなわちこの様な方法で
哲学革命の輪が広がって行くのである
この様な方法に依って
真の友情の輪が広がって行くのである
すなわち私の言いたい事はこうである
誰でも友を見出したい
しかし見出せない
皆が皆この世の仮面を被っているから
誰もその本性を現わそうとしない
何故ならこの世がずたずたにするからである
しかしこの哲学百章は十分な準備の元この世に繰り出す
譬えこの世の大半から攻撃があっても
私の真の友は私を見出す
それだけで私は十二分
もし私に三人の友が出来れば
この三人でこの世を変えて行く事が出来る
私はこの書を書き続ける中で
私の使命を見出しつつある
私の使命
それはこの世に哲学革命を起こす事
そしてこの書がその契機となる
私は自由だ
だから私の遣りたい事を遣る
ただそれだけの事
真の友の連帯の為に
「学問」「対話」「友」で五十に限り無く近づいたと思うが
その確認と
五十突破記念については
今日は時間が来た様であるので
次の機会にする事としよう
平成16年6月16日
「学問」と「対話」と「友」について
さて言葉は五十に至ったのか
検証する事にして見よう
「私」「知恵」「言葉」「世界」「哲学」「自然」「人間」「神」「心」
「人生」「幸福」「快楽」「時間」「愛」「徳」「思想」「読書」「詩作」
「国家」「家族」「法」「命」「現代」「社会」「歴史」「政治」「感情」
「音楽」「珈琲」「旅」「革命」「仕事」「死」「瞑想」「天国」「美」
「善」「真理」「芸術」「言語」「科学」「知識」「宗教」「日本」
「平和」「自由」「平等」「性」「学問」「対話」
何と丁度五十ではないか
これから後どの様な五十の言葉が続くのか
楽しみである
私は思う
却下された言葉が復活する事が大いに有りうると
その第一が宇宙である
宇宙は一度却下した
却下理由は
宇宙が世界の付属物だからと言う事であった
確かにその通りである
世界のその果てが宇宙である
我々が世界を語る時
宇宙はその世界の端(つま)として語ればそれで十分だ
と言う論理だったが・・・
しかし宇宙は語らねばならない
この世界を依り確固たる世界にする為にも
私のその宇宙の定義が
この私の世界を確固たるものにする
宇宙
それは私自身が考えるもの
宇宙を科学者から受け取ってはならない
誰も分からない宇宙のその果て
その果ての事について
宇宙物理学者の御伽噺を真に受けては成らない
宇宙は常に自分自身で考えなければならない
その為にこそ
貴方は知恵を愛する者
哲学者なのだから
宇宙の果てのその果て
原子の中のその中またその中
そこには何か存在するのか
「無」か
宇宙を語る時
併せて無を語らねばならない
勿論主題を立てて
無とは何か
何も存在しない事か
そんな事が有り得るのか
宇宙の果てのその果ては
全くの無か
全くの無とはどう言う存在か
原子を考える時
そこに無と言う概念が入り込む余地があるのか
物体がある
例えばシャープペンシルの芯
これは分子の集合体である
その分子の構造がどうなっているかは知らないが
様々な分子が繋ぎ合わされて
今ここにシャープペンシルの芯があるのである
それは様々な分子の集合であり
シャープペンシルの芯と言う原子から成り立っている訳ではないのである
もうここから既に
原子と言う概念が曖昧に成ってきてはいるが
その事はあまり厳密には問わない事にしよう
この世の物体は
様々な分子構造の集まりである
そう言う風に定義して置こう
そこから議論を起こす事にしよう
この世の物体が全て分子構造の集合体で有るとすれば
この世の物体の構造の基本単位は分子と言う事になる
分子が原子の集合体または結合体であると言う事は常識である
であれば原子が
この世の物体の最小の基準単位と言う事に成る
であれば
この世には無と言うものは存在しないと言う事に成るのではないか
全ての物体
これは勿論空気も含めて
そして真空も含めて
そこには全て物体が存在し
そこには分子の集合体が存在し
そこには必ず原子が存在する
であれば
この世には無と言うものは存在しないのではないか
私は今
真空の中にも物体は存在すると定義したが
果たしてそれでいいのか
今私が広辞苑を調べたら
「物質のない空間」と言う定義付けがあったが
これが物体の無い空間と同じ意味だったら
それこそ真空こそが無なのではないか
我々は原子の中に無を探すのでは無く
真空の中にこそ
無を探すべきではないのか
私は思う
この世に完全なる真空は有り得ないと
完全なる真空が存在すれば
全ては無に帰して行くと
私は言う
原子空間の中にも
そしてこの宇宙空間の中にも
様々な微粒子が瀰漫しているのである
もし完全なる真空が
僅かでも存在すれば
そこに全ての物が吸収され
この世には何も存在しなくなる
それこそが完全なる無である
もし貴方が完全なる無を求めるのなら
完全なる真空を求めなければならない
完全なる真空が出来れば
全てがそこに吸収される
貴方もこの世界も何もかも
その時この世には何も存在しなくなる
だから私は結論する
宇宙は限り無く存在すると
もし宇宙の果てに
無 真空が存在すれば
そこに宇宙は吸収され
宇宙は存在し得ないのである
宇宙
それは数限り無い存在
だれだ
ビッグバンで宇宙が出来たなぞとのたまう者は
無と無限と宇宙
この世に無など言うものは存在しないので有る
だから人は無に憧れるのである
人は死したら無に帰すのではないか
いえ
それは物理学の法則に従い
無限へと帰って行くのである
だから貴方は宇宙人
またはコスモポリタン
死は無限へと帰って行く一里塚
死は宇宙の一員なる為の一里塚
死して宇宙に瀰漫する
それが死の役目
死して生と成る事は有り得ないのか
有り得る
死して貴方は土と成る
土となり
植物の根から吸収されて
植物の細胞と成る
動物に食べられて動物の細胞と成る
人間に食べられれば人間の細胞に為る
そこで貴方が人間に生まれたいと意志するならば
貴方は精子と成り卵子と成り
また人間へと生まれ来る
これが食物連鎖
または輪廻と言う
しかし今の人間は人間に生まれ変わる事が難しく成っている
何故なら火葬と墓石に依り
貴方は火葬に成り僅かな存在と成る
その上墓石でブロックされる
貴方が土に還る可能性は極めて小さい
貴方は食物連鎖を止めたのである
さて今日はとんでもない所に来た様だが
宇宙を五十一番目の言葉に入れるかどうか
一応入れて置こう
勝手に宇宙論を述べるのもまた楽しである
さて地球を入れるかどうか
次回への宿題とする事にしよう
平成16年6月20日夜
「宇宙」について
さて今日の宿題は地球との事
地球について何を語れと言うのか
それは地球人
私は今日本人である
アメリカ人が居り
韓国人が居り
そしてイラク人が居る
私の理想とするのは地球人
地球一家
それは何の事?
私はこの地球のこの日本に生まれた
私の生まれた時代はそうであった
そして今もそうである
しかしそれが何時まで続くと言うのか
ヨーロッパを見よ
EUと言う模擬国家が出来た
往来自由
それが国家の国家たるゆえんである
国境の廃止により
国家エゴか少なくなる
それにより統一国家が生まれる
民族はどうなる
言語はどうする
宗教は
本当に世界国家 地球国家と言うものが有り得るのか
私の言う地球人とは
そう言う意味では無い
私の言う地球人とは
この地球を愛する民の事である
この地球とは何か
今述べた様に
様々な国家があり民族が居り
様々な言語宗教がある
それだけでは無い
こちらの方がよりグレートなのかも知れない
様々な自然である
その違いを認めて
それらを引っ括めて愛する民の事である
私たちが生まれた時は
私たちはほとんど日本人でしか有り得なかった
しかし今は違う
今は成ろうと思えば地球人に成れる
特に今からの若い者は
地球人の第一要件
それは様々な民族国家言語宗教を知り
様々な自然を知っていると言う事
地球人たる為には
哲学者であり旅人でなくてはならない
私が最も尊敬する地球人はプラトン
彼はその許せる範囲で地球を旅した
エジプトイタリア地中海諸国
すなわちプラトンの時代の地球を
彼はその見聞に依って
あの様な大哲学者に成った
ゲーテ
彼もイタリア旅行があったから
あの様に生き生きとした哲学詩人と成った
彼がイタリアに行かなければ
彼は青瓢箪の文学青年に終わっていたかも知れない
若きウエルテルの悩みとヒット小説を書いた一文学青年として
終わっていたかも知れない
彼をあの様な地球的な詩人とした謂われは
あのイタリア旅行にあったのである
ドイツ人から地球人への脱皮
それがあのイタリア旅行だったのである
彼はたぶんイタリアフランス英語に堪能だった筈である
さあ若者よ 地球人と成ろう
誰にもは勧めない
哲学者たる若者よ
貴方に勧める
さあ旅に出なさい
その旅が貴方を大いなる哲学者とする
さて原点に戻ろう
地球とは何か
それは私にとっては問題ではない
地球が何かと強いて問われれば
私はこう答えよう
それはキャンパスであると
私はそこに国家を宗教を民族を
そして素晴しい自然を描くと
そう 地球は私のキャンパス
アメリカ それは自由の王国
中国 それは若きエリート
韓国 それは儒教の国
日本 それは堕落の国 それを私は知恵の王国に替える
そう言う風に
私はその精神を摑んで
国々を描く
そして何時しかそれは理想形と成り
私の素晴しき地球が出来上がって行く
地球は私のキャンパス
宗教にしても然り民族にしても然り
そして自然はその姿を壊さない様にそのままに描く
そこには私の素晴しき地球がある
あるがままの地球
そして理想形の地球
その先には何があるのか
私は次の言葉を捜さなければならない
それは無か
そう無
無を越えなければ
私は何も描けない
無があってこそ
私はフリーハンドで
この世界も描けるのである
無とは何か
それは自由への出発点
そして自由の終章
自由は無に始まり無に終わる
無と無の間の微かな夢
それがこの私の人生
無から無へ
その微かな空間で私は泳ぐ
私は金魚
宇宙は無限
無限を求めても仕様が無い
無限は存在する
それだけを認めれば良い
それよりも無を求めなさい
そこに貴方は収斂する
そして貴方は居なくなった
ワンダフル!ワンダフル!ワンダフル!
さあ無に成りましょう
人は幾ら求めても無には成れない
自殺しても無には成れない
ただ苦しむだけだ
だから無を求めなさい
限り無く無を求めなさい
そうすれば次第に無に近づく
それは無などと呼ばれるものではないが
しかし貴方にとっては限り無く無
それで良い
その無に満足しなさい
そこに至福がある
無とは至福か
無 以外にどんな至福が在ると言うのか
仏教は無を求める究極の宗教
キリスト教は三日三晩の無と復活を求める宗教
キリスト教の軸足は極楽にある
私は両方の極意を知っている
だから私は仏教徒であると同時にクリスチャン
さて地球 無と来たが
その次に続く言葉は何か
気と精神か
そんな所だろう
気は初出だが
十分に検討する価値がある
精神はこれまで二度却下されているが
それでもやはり検討しなければならないのだろう
だが時間が来た
そう言う訳で
この二つについては次回への宿題としよう
平成16年6月21日
「地球」と「無」について
今日の宿題は気と精神との事
この内先ず気から考えよう
気については
これまで余り考察する事は無かったが
私にとっては大事な言葉である
私はこれまで気に依って生きて来た
最近その気が弱くなって来ている
これは憂うべき事
この気を
また以前の様に
周りの人々を幸せにする気へと変えて行かなければ成らない
私が存在するだけで
ほんわかな気分に成る様な
私の気に変えて行かなければならない
私は以前は皆が幸せであれと
そんな風に思っていた
その気は私を越えて
周りの人々を幸せに導いた
しかし最近は私自身が幸せであれと
願う様に成った
その為その気は私にだけしか作用しなくなり
私が存在するだけで周りがほんわかに成ると言う
あの気を発しなくなった
気とは思いの発露である
たとえ言葉に出さなくても
その思いは通じる
気が有ると思わせるだけで
その思いは相手に通じる
気違いとは
気が通じていると思って
勝手に行動する者の事
気持ちがいい
いい気持ちの発露
気色が悪い
気が色として出てしまった事
気は色に出すと
気色悪くなる
気は気のままに
これが大原則
気を形や色や言葉に為しては成らない
その時点で気が散る
お天気屋さん
私は典型的なお天気屋である
私は何故にこれ程までに天気に左右されるのか
それは私が自然だからだろう
さて私は気と言う言葉で何を表そうと思っているのか
陰気陽気人気者
気は我々の体現
もし言葉が無ければ
人は皆気で自らを表現しなければならない
私は生気(精気)を発しているか
私は生きているか
私の精神私の精霊は健在か
私は健気にこの世を生きているか
悪気ばかりでこの世を渡っていないか
気のいい人に成る様努力しているか
何時も気分晴れ晴れとしているか
気が沈んでいる事は無いか
天気が変わる様に気も変わっていい
気が晴れる
気が重い
気に成る
気がつく
気が塞ぐ
気を揉む
気のせい
気が強い
気が弱い
気にする
気が大きい
気をつける
気が回る
気にかける
気が早い
気が済む
気が気でない
気を病む
気が有る
気が引ける
気を引く
気が狂う
気が滅入る
気が利く
気が散る
気が多い
気が短い
気を入れる
気が進まない
気が漲る
気を回す
気を散らす
気が合う
さて気とは何か
それは生まれいずる思い
言葉無き言葉
言葉なき世界の第一言語
言葉無き動物の世界の第一言語
動物の世界を見よ
それは気の世界ではないか
もし貴方がその気を読めれば
動物の言語
言葉無き言葉
すなわち気を理解した事に成る
それは飼い主とペットに良く見られる
彼らはお互いを理解したと思う
確かに理解し合っているのである
その事を気が通じると言う
それは言葉より確かである
何故なら言葉はその気を表現する一手段に過ぎないから
私たちは気が通じ合えば言葉は要らないのかも知れない
ペットと飼い主はその一例だろう
恋人同士もそれに近い
気が通じ合って居る時は言葉は要らない
気が通じ合わなく成った時
その気を通わせる為言葉が必要に成って来る
さて気の本質は何か
それは自然な愛
人工的な愛 すなわち言葉に飾られた愛ではなく
自然な愛の事を気と言う
だから動物との間の方が良く気が通じ合う
だから天気と言う
明日天気になあれ♪
さて今日は精神まで百の言葉に引き入れる積りであったが
時間が来た様だ
精神が百の言葉に入るのか否か
それは次回への宿題としよう
私は何故精神を百の言葉に入れる事に拘るのか
それは精神が彩り豊かな言葉だから
しかし私は二回も却下した
その理由は
精神と知恵がほとんど同義語だし
精神と神もまた有る意味では同義語だと言う理由からだったが
果たしてそうなのか
それでいいのか
精神を精なる神と読めば
それは知恵と同義語
また神とも同義語に成る場合もある
精神を巷の者が捉えるように捉えれば
それは心の概念へと移って行く
そのどちらでもない
精神と言う概念が有り得るのか
その辺りで百の言葉に入れる事を躊躇している様だが
私はこう言おう
精神と言う言葉で
それらをもう一度復習しなおせば良いではないか
この世の人々の為に
この書は私の書であると共に
この世を啓蒙する書でもあるのだから
だから彩り豊かな
この世の人々の気を引く言葉を
百の言葉から外してはいけない
それに思索する事に依って
精神に新たな概念が生まれないとも限らない
そう言う事で
百の言葉入りを今日ここで確定させる事にしよう
さて急遽精神が百の仲間入りをした訳であるが
気と精神に継ぐ言葉は何になるのだろう
夢 希望 欲望か
欲望に重点を置いて考えて見る事にしよう
時間オーバーなので
これについて今度こそ次回への宿題としよう
平成16年6月22日
「気」と「精神」について
さて今日の宿題は欲望との事
私にとって欲望は必要欠くべからざる言葉か
欲望とは欲して望む事
何を欲し何を望むのか
私の意志に依ってか
本能に依ってか
私は何を欲し何を望んでいるのか
私が生きる為
私は何を欲し何を望んでいるのか
私は生きる為
何かを欲し何かを望まないといけないのか
何も欲せずに何も望まずに
自然に生きては行けないのか
人間以外の動物は
何かを欲し何かを望まなければ
生きて行けないのか
動物は欲する事はあるのか
有るだろう
望む事はあるのか
無いだろう
欲するとは何か望むとは何か
私が一番良く知っている動物 猫で
その欲望の形態を観察する事にしよう
猫はお腹が空いた時鳴く
これは食べ物を欲するからだろう
これに異議があるか
無い
であれば猫は欲する事になる
戸が閉まっている時 猫は鳴く
これは入れて欲しいと鳴くのだが
これは入れて欲しいと欲するからか
それとも入れて欲しいと望むからか
さてどちらか
食べ物の場合は生理からである
本能が猫に泣かせたのだろう
戸を開けて入れて欲しいと鳴くのは
本能からか
帰巣本能と言う言葉もあるが
果たしてそれか
その猫はねぐら以上の憧れを持って鳴くのではないか
開けて欲しいと
であれば
それは望みではないのか
望む事と欲する事
そこには違いが有るのか無いのか
無い筈は無い
望むと欲するは元々違うのだから
私は欲望と言う言葉を選択しようとしている
欲と言う事を前面に出したいのであれば欲求と言う言葉を使えばよい
望みと言う事を前面に押し出したいのであれば希望と言う言葉を使えばよい
私はここで欲望と言う言葉を選択しようとしている
であるからにはこの言葉を選択する為の理由が必要だ
私にとって欲望がどの様な意味を持つと言うのか
私は今分かった
欲望と言う意味が
それは欲に絡み付いた望みの事である
欲そのものは良くも悪くも無い
それは自然そのものである
私たちは生きて行く限り本能が欲求する
それは満たして上げなければ成らない
お腹が空いた
喉が渇いた
大便小便が出そうだ
眠くなった
寒い 暑い
我々はその欲求に従って本能を満たして上げなければならない
そうしてあげなければ我々は生きていけない
しかし人間の場合
その欲に望みが絡む
例えば旨い物を食いたい
既に本能の欲求を超えた
私ははっきり言う
人間の欲には全て望みが絡む
だから人間が欲する事は
全て欲望と言う
如何に望むか
それが人間の欲望
そこから希望とか絶望とか言う言葉も生まれて来る
私ははっきり言う
欲に大小など無い
欲は自然なものだ
望みに大小があるのだと
ある時は望みは小さい方が良い
ある時は望みは大きい方が良い
望みに依って人間の価値体系が生まれて来るのである
何を望み何を望まないか
そこに欲望の価値体系が生まれて来る
しかし私は思う
人間は全て欲望するのか
欲無しに望む事は無いのか
例えば私が知恵を求める
Bさんが神を求める
ここに欲が存在するのか
私ははっきり言う
欲が無ければ
誰も何も望まないと
であれば知恵を求める神を求めると言う事は
人間本来の本能なのか
そう それは隠された人間の本能
それを見出した者はその本能の欲求に捕らわれる
後はそこで如何に望むかだけだ
微かな本能と強い本能
強い本能は貴方を強いる
微かな本能は貴方を誘うだけ
そこに自由意志が存在する
全ての人間の行動
それは欲に基づき望みが支配する
すなわち人間の全ての行動は欲望にかかっている
欲望の新たな概念を見出したのか
まあいいでしょう
その線に沿って百の言葉に入れなさい
微かな本能と言う事について
今一つぴんと来ない所はあるが
やはり欲と言う原動力が無ければ
望みと言う意志だけでは
一生を通す事は出来ないのだろう
この微かな本能の抽出も
欲望の項の一つの課題と成るのだろう
さて欲望の次に来る言葉は何か
夢か
夢は欲望の中で捉えればよい
望みと言う範疇の中で
理想か
触手が動くが
これも希望の範疇で捉えればよい
または思想の中で
いつもの事だが
五十までは順調に行くが
五十を越えると段々に難渋に成って来る
何故なら五十の言葉がほとんどとカバーしているから
もっと極端な事を言えば十ほどの言葉が全て覆っていると言ってよいし
更に極端に言えば
百の言葉は三つの言葉で覆われるとも
その三つの言葉は
私と知恵と言葉
しかし私と知恵と言葉だけでは誰も振り向かない
原石がそこにあっても
人はただ石ころと思うだけである
この哲学百章は100カラットのダイヤモンドである
だから様々な切り口が必要となるのである
そう言う意味では
理想も百の言葉に入れてもよい
その斬新な切り口で
すなわち理想郷ユートピアと言う観点から
ここで私の理想世界をスケッチして
皆さんに私の理想世界を垣間見て貰うと言う趣向で
すなわちプラトンの哲人王国やモアのユートピアの様に
勿論あの様なしっかしりしたものではなく
ほんのクロッキーの様なもになるが
私の哲学革命の一里塚として描くのもまた面白い
すなわち私の知恵の王国の
政治 経済 国家 家族のあり方等を・・・
理想について
ここでは理想とは何かとは問いません
ここでは私の理想世界を
すなわちユートピアを描きたいと思います
と言う風な切り口で
理想を標題にする事も面白い
五十の言葉で私の土台を語り
後の五十の言葉で私の花を咲かせる
そんなストーリーになるのかも知れない
そう言う流れから行けば
創造(想像)などと言う言葉も百に入って来るのかも知れないが
時間になったので次回以降の宿題とする事にしよう
平成16年6月23日
「欲望」と「理想」について
さて今日の宿題は
創造を百の言葉に入れるかどうかとの事
創造=芸術ではないか
改めて創造を百の言葉に入れる必要は無い
天地創造
創造物語と言った概念もあるが
それもこれも全て芸術の領域
改めて創造を銘打つ程の事は有るまい
さて創造が一言の元に却下されてしまったが
それでは次に来る言葉は何か
教育か
そう教育である
政治 経済 社会と続いた事があったが
あそこで当然に教育も出て来るべきだったのだろう
教育と
科学 学問 知識と競合する面があるが
それでも教育は百の言葉の中に入る
教育をどう考えるか
それは大人の
それも知恵有る大人たちの大いなる宿題だからである
人は知恵に依って変わる
しかし素晴しい教育制度があれば
人は知恵に気付く事が多くなり
それだけ知恵有る人が増える事に成る
古代ギリシアを見ろ
あそこには素晴しい教育制度があった
その本質を見抜き
それを現代に蘇らす事
それが心ある大人
知恵有る大人たちが行うべき課題
現代の日本の教育と
古代ギリシアの教育にはどんな違いがあるのか
そもそも教育とは何か
古代ギリシアにはどんな教育制度があったのか
そこには求める者に教師が居たと言う事である
求めよさらば与えられん
古代ギリシアはその事を体現した
何故古代ギリシア人は求めたのか
それはそこに理想があったから
と言うよりも
そこにアテネ神が居たから
彼らはアテネ神に誘われ誘われて
その理想へと向かったのである
その理想とは何か
それは黄金率であり黄金律
彼らは理想の美を求め追い続けてのである
その為に彼らは師を必要としたのである
その欲求を満たす為
中国の諸子百家と同じほど
美の先生たちが生まれたのである
要はそこにアテネ神
または知恵の神が存在するかどうかと言う事だ
教育の究極の目的
それはこの世に知恵の神を現わす事
私はその観点から教育を語る
皆さん教育の目的は何だと思いますか
この世に仕える者を生産する事ですか
それも一つの考え方でしょう
しかし私は貴方にこう質問します
もし貴方が教師だったら
その教え子に何を教え
どの様に育てて行きますか
それは知恵の大切さを教え
知恵有る者に育てて行く事ではないですか
であれば
教育の究極の目標は
「知恵」を気付かせ
この世に知恵の神を存在させる事ではないですか
その為にこそ哲学革命が有るのです
その革命以後は
知恵が巷に溢れる様に成るのです
それが知恵の王国日本のあるべき姿なのです
さて教育は当然百の言葉に入るべき言葉であるが
教育と言う言葉から
親子関係師弟関係と言う言葉が派生してくる
親とは師とは教師とは
そこに生まれ来るのが
大人と言う概念である
教育を考える時
大人と子供
特に大人と言う概念がとても大切に成って来るのである
さて大人とはどう言う存在を言うのか
小人と言う言葉がある
これは子供の事ではない
大人に成れない大人の事を小人と言うのである
では大人と小人はどう違うのか
偏に知恵である
知恵が存在するかしないか
それに依って大人とも小人とも呼ばれる
さて私はこの大人と言う言葉で
何を表そうと思っているのか
私は大人か
そうでないのなら
背伸びした言葉は使わない方が良い
はいはい分かりました
大人は却下
子供は存在として美しい
私はその美しさを讃える
子供の賛歌
私にとっては欠くべからざる言葉である
結婚
これについても言いたい事がある
一杯有る
世に警告したい事もある
百に決定
さて一挙に三つが決まった
教育と子供と結婚である
さてその次には何が来るのか
私は今私の身の回りに目を遣り出している
私の身の回りで
私を表現する為に必要欠くべからざるもの
それは一体何だろう
衣食か
この言葉は芸術性に欠けるが
やはり欠くべからざる言葉なのだろうか
衣食足りて禮を知る
私はこの事は痛切に思う
この辺りから経済にまで言及するか?
私は思う
衣食が足りればそれで良しすべきである
しかし人間の欲望は限りが無い
寒さ暑さ飢え渇きが凌げれば
それで良いのであるが
人間はそこに留まる事が出来ない
何処にそのラインを引けば良いのか
これが衣食の問題である
そしてそれは経済体制へと連結して行く
衣食は衣食に留まらない
人間の欲望は何処まで膨らめば良いのか
衣食と欲望と経済体制
これらを絡めて書くか
衣食の問題は欲望の問題であり
経済体制の問題であるが
衣食と言う観点から
そこいらを絡めて書くとするのか
これらの概念には富と言う言葉も纏わりつく
これらについては今日はもう時間が来た様であるので
次回以降への宿題とする事にしよう
平成16年6月24日
「教育」と「子供」と「結婚」について
今日の宿題は富との事
富を百の言葉に入れるべきか
入れるべきであろう
経済が却下され
今また衣食が却下されようとしている
これらに代わる言葉として
富は百の中に入れるべきであろう
富と言う言葉で
私は何を表現しようというのか
それはこの世の富とかの世の富
あのイエスの言葉を引用する
貴方方は地上に富を積んではならない・・・
富は天に積みなさい
この世の富
それは知識に起因する
かの世の富
それは知恵
私はこの前欲望の事を語った
欲望とは欲に絡み付いた望みであると
古代ギリシア人が
尾頭付きの鯛を望んだだろうか
それは全て知識に由来するもの
私たちは日本人
鯛は目出度い
鯛は美味しい
鯛は高い
それらの知識が欲に絡まって高望みをさせる
そしてその欲望を果たす為
私たちは奮闘する
それが富の起源
富は欲に絡みついた知識
その知識が発する高望みに依って生まれるものなのである
富の起源
それは知識の絡まった欲望
若しくは純粋な欲望
欲望の望みを
知識に基づいたもであると概念付ければ
そして欲望とは実際その様な者である訳だから
富の起源は欲望と言ってよいだろう
さて聞こう
貴方に富の上限はあるのか
はっきり言って無い
貴方が純粋な若者で有れば有る程
貴方は富への旅へと駆り立てられるだろう
しかしその旅は直に頭打ちに成る
そして貴方は自らの富の上限を定めそこに満足する様に成る
それでも富の虜には違いない
なまじっか知識が有るだけで
貴方は欲望の虜になってしまうのである
欲望から知識を切り離して見ろ
その欲望は可愛いものだ
幼児を見ろ
あの様な純粋な欲望のままでありたいものだ
そこには未だ富の概念は無い
さて分かったかね
富が知識の産物であると言う意味が
これが世の富である
一方
私はかの世の富と言う概念も措定した
そしてそれは知恵で有るとも意義付けした
ここに知識対知恵の論争が始まる
知恵はこの世の富については
知識が求める様には求めない
知恵が求めるこの世の富は
ほどほどに 中庸
衣食足りて禮を知る程度なのである
それがどれ程か
それを示す事はまた
この世界環境を守ると言う意味からも有意義なのかも知れない
さて富が百の言葉に決定したが
これと関連の強い言葉が三つ有る
すなわち地位と名誉と力である
この内地位と名誉については
富の中で述べる事も可能だが
力については
富からもはみ出てしまうのかも知れない
力も百の言葉に入るのか
さて力とは何だ
その本質をずばり言えば
富を生み出す元本
この元本を手に入れれば
富は自らその富を生み出す
すなわち打ち出の小槌
私は今力の本質を見抜いた
それは意志
それも高い所に上ろうとする意志
そこから力が生まれて来る
高いポテンシャル
そこに力が生まれる
さて私を見よ
今私は高い所に上ろうとしているのか
している
この哲学百章こそが
正にそれである
私はこれを完成した暁に
その高台からこの世を見る
そこに私の力が生まれる
しかしそれは始まりの第一歩
さて富 力と二つの言葉が立て続けに続いたが
意志はどうだろうか
百の言葉には入れないのか
自由意志と言う言葉がある
私は何を自由に意志するのか
右か左かである
右か左かを選択する事を意志するのである
後退は無いのか
無い
前進有るのみと言う選択はないのか
無い
留まると言う選択は無いのか
無い
有るのは右か左かである
右とはどう言う意味か
左とは
意味など無い
有るとすれば
右がrightでleftである
私がその本質の意味をずばり言おう
それは如何に右左をすばやく選択するかだ
その選択に依って貴方は遠い所まで出掛けて行ける
右を選択しても左を選択しても間違いなどと言うもの無い
ただ貴方は進めば良いので有る
もしその結果が中庸であれば
貴方は中庸の人と呼ばれ
それが右に偏れば右翼
左に偏れば左翼とも言われる事に成る
もし貴方の選択が早ければ早いほど
貴方は中庸の道を歩く事になる
選択が遅ければ遅いほど
貴方はどちらかに偏る事になる
私は今何を述べようとしているのか
それは意志
意志とは選択の事であると言っているのである
もし理想の選択をと言われれば
右左右左と順序良く選択する事である
その事に依って貴方は振れない中庸の人と成るのである
貴方は右の人からも左の人からも謗りを受ける事は無い
貴方は右の人とも左の人とも上手く遣っていける
貴方は両方を知るが故に
結局意志とは「然り然り」と言う事ではないのか
そうすれば私は何時も中庸の人と成れる
Aさんがこう言った そうですね
Bさんがこう言った そうですね
Cさんがこう言った そうですね
私たちは何にも否と言う事は無いのではないか
皆がそれぞれに正しい
皆がそれぞれに正しいと言っているのだから
結局私の自由意志とは
否と言わずに然り然りと言い続けて
この世を走り抜ける事なのではないか
結局私は何者なのか
結局私は自由意志
全てを善しと言いながら
その善しと言う私を善しと認める者
結局私は自由意志
結局自由意志とは
私自身の事なのである
すなわちこの私の事なのである
私は全てを瞬時に右左と選択する自由意志なのである
その選択があまりにも瞬時なので
私とその自由意志を見て取れないが
私とは全てを瞬時に右左と選択する自由意志なのである
さて私は言った
力の本質は意志であると
それも高みの上ろうとする意志であると
私は右左を瞬時に選択しながら
高みへと上ろうとしていると言うのか
私はこの議論にはついていけない
今日は富と力に留める事にしよう
たぶん六十を越えたと思う
次回はこれらをラインアップさせた上で
新たなスタートを切る事にしよう
平成16年6月25日
「富」と「力」について
さて今日は時間も余りないから
先ずは六十幾らかをラインアップさせる事にしよう
それから時間があれば次の言葉を模索する事にしよう
先ずは六十幾らかについて
「私」「知恵」「言葉」「世界」「哲学」「自然」「人間」「神」「心」
「人生」「幸福」「快楽」「時間」「愛」「徳」「思想」「読書」「詩作」
「国家」「家族」「法」「命」「現代」「社会」「歴史」「政治」「感情」
「音楽」「珈琲」「旅」「革命」「仕事」「死」「瞑想」「天国」「美」
「善」「真理」「芸術」「言語」「科学」「知識」「宗教」「日本」
「平和」「自由」「平等」「性」「学問」「対話」「宇宙」「地球」
「無」「気」「精神」「欲望」「理想」「教育」「子供」「結婚」「富」「力」
六十二である
後三十八である
今後の言葉選びには難渋すると思う
これまでは外なる世界を中心に言葉を選んで来たが
これからは内なる世界から選んでいかなければならないのかもしれない
とにかく時間が来てしまったようだ
全てを次回に繋ぐ事としよう
平成16年6月26日朝
さて六十三番目の言葉は何であろうか
私を表現する為必要欠くべからざる言葉は何であろうか
信仰であろうか
そう
自信もその中に入れて良いかもしれない
とにかく今日はこの二つの言葉を中心に考察する
これまでの六十二言葉の中に
信じると言う概念の言葉は無かった
だからこれらの内の一つは確定だろう
信仰か自信か
この二つの言葉の概念は全く別か
別で有れば
それぞれを百に入れても良いと思うが
さてどうなのだろう
そしてどちらが私により重要な言葉なのか
先ずは信仰と言う意味
これは言葉どおりだと
信じて仰ぐ事
誰を信じ誰を仰ぐのか
それはそれぞれにあってよいが
究極のそれは何か
一般的に信仰といえば
神を信じ仰ぎ仏を信じ仰ぐ事
またその宗師信じ仰ぐ事
例えばイエスを釈迦を
キリスト教に限って考察して見よう
キリスト教における信仰とは何か
神を信じ仰ぐ事か
イエスを信じ仰ぐ事か
それとも聖霊を信じ仰ぐ事か
これ以外に何か信じ仰ぐ存在があるのか
私たちは神を信じ仰ぐ事が出来るのか
いつの間にか時間オーバー
信仰はとても大切な問題
次回への宿題とする
平成16年6月26日夜
さて昨日何故時間オーバーに成ったかと言えば
新約聖書を飛ばし読みしたから
信仰の言葉に限って
やはりそこには二つの概念があった
イエスに対する信仰と
神または父またはあなたの神である主に対する信仰に
イエスであれば分かり易い
イエスの言葉や行為を信じ仰ぎ
それに倣う者として頑張ればいい
しかし神となると
我々はそれをどの様に信じどの様に仰げばいいのか見当が付かない
神とは何か
信仰を考える時
そこに行き着く
我々は何を信じ何を仰げばよいのか
イエスと言う神か弥陀と言う神か
神を信仰すればどうなると言うのだ
何故人は信仰しなければならないのか
とにかく信仰と言う言葉は
私に何故と言う言葉を多発させる
百の言葉に入れるべきである
さて自信はどうか
自信とは何か
自らを信じるとはどう言う事か
これもまた難しい
この哲学百章の最初の言葉は私である
この私を信じる事が自信なのか
私とは何者か
きっと第一章で敷衍されるだろう
その私を信じる事が自信なのか
私がはっきり言おう
私とは選択する意志
自信とは
その意志を信じる事
すなわち何にも迷わない事
それが自信
いいでしょう
それが自信の本質であると言う事で
ですがお伺いします
その自信は如何にすればつくのですか
そこに哲学の本質がある
哲学とはどう言う意味かね
知恵を愛する事です
私がはっきり言おう
信仰とは知恵を愛する事
自信とはその知恵と共にある貴方を信じる事
これが信仰と自信の極意だ
分かったか
はあ
貴方が行くべき道に
自信と信仰が無ければ
貴方は何処へも進めない
自らを信じなさい
貴方は知恵と共に在る
貴方が知恵と共に在る為に必要な事
それは知恵への信仰である
知恵を信仰する為に必要な事
それこそが知恵在る人々を尊敬する事
その為に必要な事
それが知恵の書を読むと言う事
知恵の書とは
古今東西の人々が
知恵の書と認めた書
聖書であり仏典であり
優れた哲学者(知恵を愛した人々)の書
自信については
流れに依って百の言葉に入る
しかしそうは言っても
今は百の言葉を決める作業をしている訳だから
今日現在でそれを決めなければ成らない
入れるか入れないか
一応入れる
さて信仰自信と続いたが
次に来る言葉は何か
今私は私の内界を旅している
私の内界において
無くてはならない言葉とは何か
以前に却下された意志か
意志も入れなければ成らないだろう
三業とは身口意の事
三業の一つを疎かには出来まい
と言うよりも
身口は意の結果に過ぎないのではないか
この意志から全ての行動が発せられるのではないか
そしてその意志と自信は密接に連携し合っているのではないか
自由意志
特に近代の哲学者が声高らかに言続けた言葉
この言葉をやはり百から外す訳には行くまい
さて信仰自信意志と立て続けに三つ続いたが
この次に来る言葉は何か
当然行動だろう
身口の業であり行
これが行動である
信仰自信意志そして行動
この四つの言葉で
私の行動主義が説明出来るかも知れない
現代の哲学に
行動主義またはプラグマティズムと言う言葉があるらしい
私はその意味が分からないではないが
それに組する事は無い
何故なら信仰があって始めて行動に意味が出て来るからである
勿論自我の生まれない以前の幼児の頃は別である
しかし自我が生まれた以後の私たちは
意志無くして何も行動出来ないからである
意志が生まれる為には信仰と自信が無ければならないのである
行動には二つある
この世の原理に基づく行動と
知恵に基づく行動である
この世に基づく行動だけであれば
衝突だらけだ
知恵に基づく行動
その為には信仰と
それに裏打ちされた自信が必要なのである
さて信仰自由意志行動を続いたが
経験観念は必要ではないのか
経験論観念論と言う哲学の分野がある位ではないか
いいでしょう
二つとも纏めて百の言葉に入れましょう
私の経験論観念論を語る事にしましょう
もっとも経験については
これまで一度も思索した事が無いのだが
経験について
私は何を語ればよいのだろう
私は今広辞苑を調べて見た
経験論とは
認識の源泉をもっぱら経験に求める学説
一切の観念は感覚的経験から生じる・・・
認識の源泉はもっぱら経験にある
そうでしょう
経験以外に私たちはどの様な経験をする事が出来ると言うのでしょう
一切の観念は感覚的経験から生じる
これについては条件付である
本を読み物を書き閃きを感じる
これらも全て感覚的経験だと言えば
正にその通りでしょう
私たちは経験以外に如何なる源泉を持たないでしょう
私たちの一秒一秒の積み重ねが
正に経験そのものでしょうから
要はその中で如何なる経験をするかと言う事なのです
神秘体験 これも正に経験です
私たちは経験以外に如何なる認識の源泉も持たないのです
閃きの連続 それは素晴しい経験
それらを神秘体験と名付けてもいいのです
もし五感だけを感覚的経験と言うなら
その論法は即座に却下です
しかし第六感を入れるなら
その論法はその通りと言うしかありません
第六感こそが閃きそのもに違いないのですから
現代の脳医学では
それはシナプスのより大いなる連動とも言うのでしょう
それはそれでも良いのです
後はその閃きを
如何なる言葉に現わすかです
詩人を知りたければ詩人の国へ行け
その閃きの中に詩人の国が生まれるのです
それも体験経験です
私はそう言う意味で経験論者です
如何なる経験体験に自らを導くか
それが大切な事なのです
私のそれは
古代哲学への旅
インナートリップそして知恵への旅なのです
さて観念論について
今私は広辞苑を見た
正にその通りだと思う
私は徹底的な観念論者である
この世界は私が創り上げた世界である
それ以外の世界が私に在ると言うのか
私ははっきり言う
経験論と観念論は何ら齟齬する所は無い
経験により認識し
観念により創り上げる
これが世界である
要は如何に素敵な経験をし
如何に素敵な世界を創り上げるかと言う事なのだと
やはり休日の朝は素晴しい
一挙に六つも言葉を増やした
今日は次回への宿題は無い
次回は次回自で考えて欲しい・・・
平成16年6月27日朝
「信仰」「自信」「意志」「行動」「経験」「観念」について
今私は内界において言葉を捜し求めている
これまでの百の言葉の中から
内界に関連のある言葉を拾い出して見る事としよう
「私」「知恵」「知識」「経験」「意志」「感情」「快楽」「行動」
「信仰」「自信」「観念」「欲望」「精神」「気」「心」と言った所か
この内で最重要な言葉は私と知恵
この対話に依って私の世界が全て創られて行く訳だが
その世界創造の過程において
上記の言葉たちが絡み合って来る訳なのであるが
私と知恵の次に来る言葉は何だろう
やはりそれは快楽である
この快楽が無ければ
私は知恵を呼ばないかも知れない
私は私のまま生きて行くのかも知れない
私が私のまま生きて行く事を何と言うのか
それをエゴとか自我と言うのか
であれば自我を百の言葉に入れるべきではないか
知恵と共に無い私
その事を自我と呼ぶのであれば
自我を百の言葉に入れるべきではないか
今広辞苑で見たら
自我は私とも書いてあった
自我と私は一緒か
であれば屋上屋を連ねるで却下だが
自我と私は一緒なの別なのか
私は物を書く時
この様に私と言う言葉を使う
しかしこの私はエゴと呼ばれている自我(または私)では無い
物を書く時の私
そしてその際に私と表記される私には
少なからず知恵が同伴しているのである
だからこの哲学百章の第一章で取り上げる私とは
エゴまたは自我と呼ばれる私では無い
たぶん第一章の私には
全くのエゴと呼ばれる私では無く
少なからず知恵の混じっている私である
もし純粋なエゴを取り上げ様と言う事であれば
エゴと言う意味の自我を取り上げるべきかも知れないが
このエゴと呼ばれる自我で何か言い表したいものがあるのか
私は私自身の中に
純粋にエゴと呼ばれる私を抽出する事が出来るのか
たぶんそれは世間の中の私の事であるが
それを上手く表記出来るのか
知恵と共に無い私とと言うものを想定出来るか
出来る
世にある私を想定すれば
それは知恵と共に無い私だ
よかろう
それを自我と措定して
何か書けるか
書けない
それもやはり私である
それも含めて
第一章の私の中で書かねば成らないだろう
だから・・自我は却下
私と知恵の間には何時も快楽が随伴している
それは楽しい事だ
私と知恵と快楽
その次に寄り添う者は何だ
言葉である
言葉が生み出される事により
私の世界は彩り豊かなものに成って行く
私の世界を敷衍して行く事はそれで楽しい事だが
今日の今の目的はそれでは無い
百の言葉探しである
私の内界において
無くてはならない言葉は何だろう
認識はどうだ
認識は無くてはならないだろう
意志と少し似ているがやはり違うのだろう
今日はその辺りを思索して見よう
こう言ったらどうだろう
認識が集め
意志が最終決定をすると
認識と言う言葉を集めると言う言葉で包めると
感覚と言う言葉がまた飛び出して来る
感覚が諜報部員で
認識が参謀で
意志が大将
そんな所なのだろうか
感覚と認識の間にはどんな差異があるのか
感覚とは何か
五感の事か
第六感は認識か感覚か
私は言う
第六感は認識である
言葉に成らない認識
それを言葉にするのは詩人であり預言者
私の言いたい事はこうである
認識とは感覚の統合作用
それは全てを言葉に現わそうとする
見る これは感覚作用
赤い これは認識作用
第六感は動物的認識 神的認識
それを読み解く為には特別の才能が必要
通常の私たちは五感を活用し
過去のバックデータから
それを認識する
本を読む
これは五感に依る認識作用である
では聞く
物を書く
これも五感に依る認識作用か
それとも純粋なる認識作用か
もう一つ聞く
五感に依らない認識作用と言うものがあるのか
感覚と認識は分けられるのか
感覚論認識論は水掛論法になるのではないか
私の世界を語る場合に必要か
私の知り得ない所での作用をあれこれ言っても
何の説得力も無いのではないか
見る
網膜に象を結ぶ
ここまでは物理学的に皆が納得いく
ここからは神経を経由して
その刺激が脳に伝わり
脳がそれを再現し
脳に詰められたバックデータを基に
脳がそれを判断し
脳がそれを言葉に表現しようとする
これが認識
どれ程認識出来たか
そこに認識の差が生まれる?
感覚論も認識論も
無駄無駄無駄
結局それらを統合して
一言で言い表せば
それが知識どまりか
それとも知恵に到達しているか
それだけの事である
故に感覚認識は却下
それらは知恵と知識の論争の中に含まれる
もし知恵知識論争を
脳内生理的に言えば
如何に多くのフィードバックを持つかどうかと言う事である
すなわち如何に素晴しいフィードバックを持つかと言う事
その為にも
それに相応しい学問が必要で在ると言う事
要は如何に素晴しい言葉を生み出しえると言う事
その為にも
まずその入り口である感覚器官は
より善きものを味あわせる事が必要であると言う事ぐらい
感覚論について言えば
認識論については知恵の章で十二分に言い尽くされる
依って感覚認識とも却下
平成16年6月27日夜
さて感覚認識とも却下との事であるが
共に捨てるのは忍び難い
特に感覚は
感覚は
我々の認識の入り口である
この感覚を如何に研ぎ澄ますか
これは人生における重要問題なのではないか
感覚
もしあるがままに感じる事が出来れば
それはそれは素敵な世界なのかも知れない
しかしだ
感じると言う事はそれが既に認識だ
純粋に感じると言う事が有り得るのか
感覚とは一体何を意味するのか
あるがままに写す
それは出来ない事
網膜に映る
その次の瞬間には
莫大な情報が脳から発せられる
私は途轍もないコンピューター
制御不能なコンピューター
このコンピューターの動きを止めて
純粋に感じる事など出来ない
感覚
この主題で
私は一体何が言えるというのか
無に成って
物を見
物を聞き
物を嗅ぎ
物を味わい
物にタッチする
それは素晴しい感動の数々?
それともこの上ない恐怖体験
とにかくそんな事は有り得ない
私は思う
新奇珍奇は人の好むもの
何ゆえかと問われれば
そこに感動があるから
私たちは新しき物に心動かされる
日々新たに
この格言もそこから来ている
結局
やはりそこに行き着く
同じ物を見ても
感動する者もいれば
そうでない者もいる
みずみずしい感覚で
この意味する所は
やはり日々新たに?
感動する心とは
真善美に満ち満ちた心の事
生理学的な受容器官としての感覚器官は
我々はそれをどうする事も出来ない
だから
感覚と言う場合
何時でも真善美に変換できる心を用意して置くとい言う事になる
純粋な感覚などと言うものは無い
少なくとも人間はそれを認識できない
感覚と言う言葉を
人生の上で役立てて行こうと思うなら
それを真善美に変えて行くと言う心を準備していなくてはならないと言う結論と成る
それでも感覚を百の言葉に入れるか
こんな書き出しではどうだろう
私たちには感覚器官と言うものがある
それは俗に五感と呼ばれているものである
すなわち見 聞き 嗅ぎ 味わい 触れる感覚である
私たちはこの感覚無しには一歩も先に進めない
試しにその五感が今この瞬間に全て無くなったしよう
さて貴方はどうする事が出来ますか
勿論パニックに陥りますよね
さてその期間が一時間一日そして一週間たったとしよう
貴方はその生活に慣れて来た
さて貴方はどうする
勿論貴方一人では何も出来ませんが
そこはそれ
人生とは上手く出来たものです
貴方を手引きする人が現れて呉れます
すなわち貴方の生活の面倒を見る人が現れます
しかしその人は貴方が生きて行く上で必要最小限の面倒を見て呉れるだけです
さて貴方はどうします
貴方は何をどう感じますか
先ずは貴方はその人をどの様に認識するのでしょう
貴方はその人を見る事も聞く事も嗅ぐ事も出来ません
この事についてはある程度想像する事が出来るでしょう
この次の感覚が一番厄介です
貴方はその人に触れても何にも感じる事が出来ないのです
もしその人が女性だったら
普通だったら柔らかいとか暖かいだとか
そんな感覚を味わう事が出来ますが
貴方はその人に触れても何にも感じる事が出来ないのです
これは非常に想像する事が難しい感覚です
人は何かに触れれば
何かを感じます
たとえおしでめくらであっても
ヘレンケラーはそれを水と感じました
しかし貴方はそれについて何も感じる事が出来ないのです
冷たいとも流れいくともさらさらとも
そこにあるのは全くの無の感覚
貴方はその感覚を想像出来ますか
はっきりと言いましょう
人に触覚が無くなったら
それは透明人言だと
普通の透明人間は
相手からは見えませんが
自分は自分の事が感じる事が出来ます
しかしこの透明人間は
自分をも感じる事が出来ないのです
今私は感覚の本質へと迫ろうとしているのです
全ての感覚が失せた時
人は魂と成るのです
貴方は死ぬまでその魂と付き合わなければ成らないのです
すなわちその時の魂のまま死ななければならないのです
私たちは感覚に依ってフィードバックしますが
今その感覚が全て失われているのですから
貴方は一歩も先へと進めないのです
貴方はその時の魂のまま死ななければならないのです
これが地獄と天国を分かつ鍵と成るのです
誰もその時を知らない
だからその時々を大切にしなければならない
実際生きている間に
この様に感覚が全く無に成る事は有り得ない
しかし貴方にはその事が起こりうるのです
それは通夜から焼き場に行くまでの期間
その間貴方は魂のまま生きながらえなえばならないのです
貴方はそれに耐えられない
そして貴方はその間に地獄と呼ばれる所に落ちて行く
しかしキリストと共に生きた者仏と共に生きた者には
彼らがその救いとなる
これが宗教の真髄である
貴方はその焼き場まで耐え得れば
貴方は無と言う至上へと上り行く事が出来る
貴方は輪廻を破する
しかしほとんどの者はその期間を耐えられない
そして輪廻へと落ちて行く
三日三晩貴方が耐えられれば
貴方は昇天する
貴方がイエスの様に三日耐えられれば
貴方は昇天する
無感覚とはこの上なく恐ろしい感覚なのである
感覚へ救いを求めるが
貴方は得られない
その足掻きの中で
貴方は地獄へと沈んで行く
貴方の頼みの綱である感覚は
その時貴方を助けては呉れない
貴方が泣き叫ぼうが
貴方は真の真の闇の中でもがく
そこでの一時間は貴方の一生に匹敵する
何故なら貴方はそこで何も測る事が出来ないから
無とは永遠へと繋がるのである
無の神秘が分かったかなそして永遠の
宇宙をその論法で測れ
さてこんな論法で感覚を論じる事にするか
認識は不要
世に言う感覚とは認識の事だから
純粋な感覚など人間には無い
あったとしても人間は感知できない
世に言う感覚とは認知認識の事である
さて感覚の神秘を解いた後
何処に向かえば良いのか
永遠と無限だろう
しかしそれは宇宙の所で語ればいい
少し形而上に入り過ぎた様であるので
ここでまた形而下に戻る事にする
嘗ての百の言葉から一つ取り出した
それは遊び
私にとって遊びが大切なのか
遊びと旅はどう違うのか
はっきり言って一緒なのではないか
遊びとは一体何なのだ
学び遊ぶ
仕事が終わった さあ遊ぶぞ
そんな概念か
もっとも前者と後者は違う
学び遊ぶは遊び学ぶと同じ事
同音異義語
後者の場合 そこに一呼吸ある
仕事が終わった さあ遊ぶぞと
遊ぶとは精神の開放の事
仕事中 精神は仕事に拘束されていた
それは不自然な事
その不自然から解放された だからさあ遊ぼうぜとなるのか
遊ぶとは精神に遊ぶ事
これが本質
この本質を見誤らなければ
遊びは何時も楽しい
楽しくない遊びと言うものがあるのか
ある
この世の遊びと言う遊びを見よ
それがどれ程楽しいというのか
マージャンパチンコケイリン
その楽しみが如何程か
それはまた苦痛の種でもあるのではないか
その類の遊びは
この世に山ほど
彼らはあの本質を見失っていると言えないとでもいうのか
いいでしょう
遊びとは精神の開放
そこから敷衍して行きなさい
百の言葉入り 決定
さて私の勘定では
たぶん七十に成ったと思う
七十を再掲して
再スタートを切りたい所だが
時間になった様だ
次への宿題としよう
なお次回は悟りと悩み
その辺りから入って行こうかなどとも思っている
煩悩と悟り
宗教の本質を垣間見る事としようか
さてさて・・・
頂上は見えて来たのか
私は今山を登っているのではない
山の麓を散策しながら
山を見守っているのである
私と言う山を
哲学百章は
私と言う山の登攀記
しかし私は知っている
それが決して山頂で無い事を
山頂と思ったら
また次から次へと山が現れ出で来るのである
私の山は深い
勿論皆様方の山も
その山に上らずしてどの山に上ろうと言うのか
時間オーバー
平成16年6月28日
「感覚」と「遊び」について
さて七十に到達したと思う
その事を確認した上で
次の言葉探しの旅に出よう
悩み喜び祈り悟り
そんな言葉でもいい
ここまで来れば同音異義語も止む得ない
この哲学百章は
私と取って欠くべからざる言葉たちなのだから
さて先ずはその七十とは
「私」「知恵」「言葉」「世界」「哲学」「自然」「人間」「神」「心」
「人生」「幸福」「快楽」「時間」「愛」「徳」「思想」「読書」「詩作」
「国家」「家族」「法」「命」「現代」「社会」「歴史」「政治」「感情」
「音楽」「珈琲」「旅」「革命」「仕事」「死」「瞑想」「天国」「美」
「善」「真理」「芸術」「言語」「科学」「知識」「宗教」「日本」
「平和」「自由」「平等」「性」「学問」「対話」「宇宙」「地球」
「無」「気」「精神」「欲望」「理想」「教育」「子供」「結婚」「富」「力」
「信仰」「自信」「意志」「行動」「経験」「観念」「感覚」「遊び」
遊びで始めてかな交じりの言葉が出て来た訳だが
これからその類の言葉がまた幾らか出て来ると思う
先ずはどの言葉からか
祈りか悟りか悩みか喜びか
はたまた怒りか
これまでの七十の言葉の傾向は
無色透明であったが
今挙げた五つの言葉は
それらと少し趣を異にする様でもあるが
その辺りを考察しつつ
百に入れるか否か検討して行きたいと思う
さて七十一番目に来るのはどの言葉か
私の中で一番大事と思える言葉
それはやはり悟りではなかろうか
無とか瞑想とか
それに近い言葉は
もう既に百の言葉に投げ込んでいるが
やはり悟りもこの中に入れるべきであろう
悟りとは何か
それは哲学宗教の第一命題の様に想える
きっとそうなのだろう
そこから幸せや喜びも生まれて来るのだろうから
さて悟りとは何か
それは無ではないのか
はっきり言う
無は悟りでは無い
無は悟りに至る為の準備段階である
無と言う段階が無ければ悟りに至れないが
無そのものは悟りでは無い
イエスの復活を知っているだろう
彼は死して蘇った
あの蘇りこそが悟りである
死と言う無を経験して
イエスは蘇りと言う悟りと体験したのである
蘇りとは悟りである
悟りとは新生である
新しく生まれてこそ悟りがあるのである
新しく生まれるとはどう言う意味か
それは物皆全てが新しい
そう言う事である
新鮮な感覚で全ての事物を見詰めると言う事
それが悟りである
感動する心
それが悟りである
結局は新しいシナプスの構築
新しい価値観の創設
新しい真善美の構築
これこそが新生
そこに預かるのが
真善美の言葉たち
すなわち古今東西の
知恵を愛した人たちの言葉なのである
そこから
貴方の新しい真善美の世界を構築する事
これが悟り
悟りは一朝一夕には生まれないが
徐々に進行して
ある時一気に開ける
それは山登りに似ている
それが悟り
眺望が開ける
それが悟り
悟りは一生に一度では無い
何度も何度も悟りを体験しなければならない
それに依って悟りの意味も分かって来る
悟りがどう言う意味であるにしろ
私は悟りについて一生懸命語らねばならない
と言う事で百の仲間入り決定
さてその次は何だろう
祈り
それはこれまで私には馴染みの無い言葉だった
しかし今後の私にとって
それは欠くべからざる言葉と成るのではないだろうか
祈りとは何だ
それは菩薩に成ると言う事
もし私が山登りを何度も体験し
その悟りに意味が分かったら
それを多くの人と分かち合う事
分かち合おうと思う心
山ガイドとして
それが祈り
私は祈り続ける
この世が真善美に満ちた世界に成ります様にと
それが私の祈り
私は菩薩として祈る
あの弥陀の仏の様に
四十八誓願の様に
私も私なりの誓願と立てる
それが祈り
信仰と祈りそれはどう違うのか
信仰とは一人知恵を仰ぎ見る事
祈りとは祈願
この世が知恵の世界に成ります様にと祈る事
信仰は限り無く内なる世界に向かう事
祈りはこの世が善き世界で在ります様にと祈る事
私は自分の為にと祈る事は無い
私の隣人に善き事が在ります様に
この世界に善き事が在ります様にと祈る
自分に対しては
知恵と共に在る事
ただそれだけを祈る
それを信仰と言う
ただ単に祈るとは
この世が善き世界である様にと祈る事
信仰とは
我が内なる世界が善き世界で在ります様にと祈る事
すなわち何時も知恵と共に在ります様にと祈る事
この考え方に依り
祈りが百の言葉入り決定
私は今後
祈りを真剣に考えなければならない
今私が
法然の「選択本願念仏集」
親鸞の「浄土和讃」等に導かれたのも
その縁に依るのだろう
もう一度
阿弥陀仏または法蔵菩薩の四十八願を学ばなければならない
さて悟り祈りと続いたが
それに継ぐ言葉は何であろうか
喜びであろう
喜びに類する言葉はこれまで二つ出ている
一つは感情であり
もう一つは快楽である
感情の所では
様々な感情を並べ
それに私の私見を打ち立てる
たぶんそんな論法で進んで行くだろう
喜びはその中の端(つま)となるのだろう
一方快楽については
その本質は喜びである
全くダブってしまうのか
快楽と喜びはどう違うのか
それとも違わないのか
喜びと快楽は厳密な意味では違うのかも知れない
上り詰めて行く段階 それが喜びであり
上り詰めた後のあの無と成る様な感覚 それが快楽
そんな風にも区別出来るが
さてどうしたものだろう
そうこうする内に時間が来てしまった
これについては次回への宿題とする事にしよう
平成16年6月29日
「悟り」と「祈り」について
何故幸せが三番目かと
それにはこう答えよう
幸せとは
喜びや快楽の中に在る時の状態だったり
それに憧れを抱いて居る時の状態だからと
幸せとは形容名詞であり
喜びや快楽は形容動詞の事である
では聞こう
喜びと快楽はどう違うかと
やはり私はこう言おう
私の言う快楽とは
エピクロス快楽主義の快楽であると
それは無に近い状態
悟りに近い状態
中庸の快楽だと
何にも属さない快楽
ある意味では絶頂の快楽
エクスタシー
それに引き換え喜びは
苦中の喜びであると
喜びの概念を謳う時
そこには苦労や苦悩が存在する
その対比の中で喜びと言う概念が生まれて来る
喜びはこの世の中での概念
快楽至福エクスタシーには
この世は一切関わらない
この世が少しでも入り込んだら
もうエピクロスの快楽は無い
と言う事で
この世を歩む上で
私たちに齎される喜びと言うものについて考察する事に成るのか
それは一体何の事だ
いや違う
そんな喜びなど何処に在ると言うのか
譬え在ったとして
それは私には関わりは無い
もし喜びと言う言葉を
百の仲間入りさせるのであれば
私にとって
それが重要な言葉でなくてはならない
喜びとは何だ
そして快楽とは
快楽はいい
快楽はこれまでも十分に思索して来た
この新出の喜びと言う言葉
この言葉は私にとってどう言う意味を持つのか
どうでもいい言葉であれば 却下するだけの事
私は私の内をインナートリップする
それは快楽を齎して呉れるから
そしてそこに喜びが在るからではないのか
快楽は結果
喜びは進行形
そう そうなのか
すなわちこう分析したらどうだ
貴方のインナートリップは
それが全て快楽か
それともそれは喜びと快楽から成っているかと
もし前者であれば
喜びが入って来る余地など無い
しかし後者であるとすれば
そこに喜びの意味が見出されるのである
喜びは掻き立てる心
快楽は結果
やはりそうなのか
切り口を変えよう
もし貴方が喜びと言う言葉で
その一章を飾ろうとする時
どの様な書き出しで書き始める積りかと
喜び喜悦恍惚
やはり喜びは快楽の一種だ
喜びを単独で独立させる事には無理がある
それは快楽の中で謳え
と言う事で取り敢えず却下
新しき意味が見出された時は
その時はまた採択する事としよう
後 悩み怒りと言う言葉が残されているが
その言葉で私は私を十二分に表現する事は出来ない
何故なら私には余り縁の無い言葉だから
百の言葉は
酌めども尽きる事の無い源泉で無ければならない
さてそれでは次に来る言葉は何か
価値についてか
そうこれについては語る事が出来るだろう
価値論と言う哲学の一分野もある位だから
さてその前に
苦悩については
私には縁の無い言葉である
縁が無いと言えば正確で無いので
縁が薄いと表現しよう
苦悩とは
この世に生きている者の言葉である
私はこの世に生きては居るが
それは仮の姿
私が本当に生きていると言えるの
今のこの世界
今のこの世界に生きている限り
私は不幸になる事は無い
しかしこう言う私にも不幸が襲って来る事がある
それは病老死
この内の老については
私にとっては余り苦にならないと思う
老人に成ったからと言って
この世界が無くなる訳では無いから
死についても無色透明である事が出来る様に思う
一番問題なのは病である
病が私の肉体を直接蝕むとき
やはり私は苦悩を直面しなければならないのだろう
苦悩
この言葉については
私がその時苦悩しない様に
その準備の為に
学び習っておく必要が有るのかも知れない
そう言う見地から
苦悩を百の言葉に入れるか
死に至る病とは絶望の事であると
キルケゴールは言ったとの事であるが
それはある意味で真である
病に完膚無きまでに冒された時でも
それでも希望を持てる者
その者が真の信者である
自分を最後まで信じ続ける事の出来る者である
その為には
道の道とすべきはしゅゆも離れず
そう言う関係を作っておかなければ成らないのだろう
そう言う観点から
苦悩を百の言葉に入れる事にしよう
さて価値が吹っ飛んでしまった様だが
価値について述べる事はたくさんある
価値とはイズム主義セクト
この世に何故これ程までに価値が氾濫しているのか
それは誰もが真の価値を知らないから
皆がそれぞれを皆一番価値があると言う
ブッシュを見よ
アメリカの民衆主義が一番だと口癖の様に言う
あの愚かなアメリカの国民も
漸くその愚に気付き始めたらしい
改革無くして発展無し
これは真に近い所を突いている
しかしこれはこう言わなければならない
革命無くして幸福無しと
この意味する所が
哲学革命なのである
私はその為に
この哲学百章を現わしているのかも知れない
私の主義セクトイズムは
知恵至上主義である
知恵が一番
私は知恵の新たな連帯を築く
その為にも
私は私の価値論をぶつ
価値は主義イズム主張セクトへと繋がります
皆さんはどんなイズム価値をお持ちですか
拝金主義ですか
決してそんな事はありませんよね
ではどう言う主義ですか
資本主義ですか民主主義ですか
私ははっきり言います
それは皆拝金主義であると なぞと・・・
価値については色々な切り口がある
百の言葉入り決定
さて私たちは何故苦悩するのか
それは価値体系がぐらついているから
何故ぐらついているのか
それは立っている地盤がくらついているから
地盤とは何か
それこそが経済体制
我々はこの経済体制の上にあって踊らされている
経済体制は見えぬ悪魔
陸に上がった魚
まな板の上の鯉
私たちは知らず知らずに踊らされている
私は以前経済を却下した
その代わりに富を採択した
私はこの経済体制を論じる為にも
経済を主題として取り上げるべきではないか
所有の概念
支配の概念
分配の概念
そして価値
私は経済と言うソフトな主題の元に
この世を告発する必要が有るのではないだろうか
時間が来た様であるので
これについては次回への宿題とする事にしよう
平成16年6月30日
「苦悩」と「価値」について
さて今日の宿題は
経済を百の言葉に入れるかどうかとの事であるが
さてどうしたものか
経済体制から入って行くか
資本主義 共産主義 社会主義 民主主義
どんな経済体制があるというのか
それは全て拝金主義ではないか
お金を奉らない主義主張セクトがあるというのか
この世に
みんなお金に踊らされているのではないか
お金とは何か金銭とは何か
人は何故それに踊らされるのか
人は何故その為に踊らなければならないのか
それは一体どんな音楽を奏でるというのか
人は何故金の為に踊らなければならないのか
そこに快楽が在る
快楽を得んが為
人は金に踊らされている
金が有れば快楽を買えると思っている
若い頃はそうだった
今でもそうである
お金があれば良い家に住める
美味しい食べ物が食べられる
音楽会美術展にもふんだんに行ける
そんな快楽をお金は齎して呉れる
今の私は昔の私と比べるとスリムに成った
環境のいい部屋と
本と音楽
それに旅行に行けるだけのお金が有ればいい
水光熱費衣住宅代を除いて自由になるお金
すなわち小遣いが
月々三四万円あればいいい
それから季節毎に旅に行く為のお金がそれぞれ数万円ずつあればいいなどと
やはりお金を仰いでいる
拝金主義と成り下がっている
人は夢を語る時同時にお金をも夢見ている
お金は私たちを突き動かす原動力である
何故ならその元が快楽だから
人は快楽に依って突き動かされている
さて経済とは何だ
金銭なしの経済なるものがあるのか
昔は物々交換だったと言う
それも経済か
経済の本質は何か
私には未だそれが見えていない
だから
私は経済と言う言葉で私を語る事が出来ない
経済とは経して済する事なのか
経済は英語でエコノミー
私は今広辞苑と研究社の英語辞典を調べて見た
そこに私は私が語るべき概念を見出した
先ずは広辞苑
そこに経国済民とあった
また英語辞典では興味のある意味を三つ見出した
先ずエコノミーの基本的な意味は
節制節約節用倹約簡潔等々の意味であるとの事
私はこれから閃きの様なものを感じた
後二つの内の一つは
(自然界などの)無駄の無い運行理法有機的組織との事
ここからも閃きを貰った
最後の意味は
(天の)配剤 摂理
(人類の創造贖罪などに関する神の)計画との事
the Mosaic economyとはモーセの律法との事
the Christian economyとはキリスト教神法 新約経論との事
私はこれで経済の真髄を知った
そして私が語るべき方向も見えて来た
私は経済と言う言葉で
この世の者が思いもしなかった世界を描く
私は新たな経済体制を説く
説けるかどうか
それは神様が決めて呉れるだろう
さて経済が百の言葉入り決定
私は経済で私の夢の経済体制を語る
その先には何があるのか
原始キリスト教は共産体制だったのか
だったのだろう
それは共産共有体制
それはプラトンの理想国家
あの哲人が支配する国家と同じ
マルクスはそんな事は思わず共産体制を説いた
そこにマルクスレーニンの共産主義の間違いがあった
私はキリストプラトンの視点から
新たな共産体制を打ち出す
共産と言うよりも
共有と言う事を重点に置くのかも知れない
貴方の物は私の物
私の物は貴方の物
現在フリーマーケットなるものが流行っているが
私の新経済体制もあの辺りを範とする
しかしそこで交換される物は金銭では無く愛である
そこに新しい経済体制の本質があるのである
それを神の摂理と言ってもいい
摂理とは何か
それが真理
私の新経済体制は真理の体現
さてどんな経済体制が打ち立てられるのか
さて経済の次の言葉へと進もう
どんな言葉が待っているのか
私は経済に新たな意味を見出した
そして百の言葉に入れた
そんな論法で新たな言葉を生み出し得ないか
現代の風潮を何か告発出来ないか
現代はどう言う時代だ
それはコンピューターの時代
その本質は何か
情報の時代
今お金の次に重宝されるのは情報
この情報の秘密を暴くの私の務めではないか
情報はインフォメーション
先程の経済と同じ手法で入って見るか
広辞苑には特段面白い意味は無し
ただその類語で面白い言葉を見出した
それは情報局
昭和15年に外務省情報部陸軍省情報部海軍軍事普及部内務省警保局図書課を統合して設置した機関 昭和20年廃止とあった
諜報 情報機関 スパイ そしてプロパガンダ
この辺りに情報の秘密が隠されているのか
もし情報が一手に集約されたら何が起きるのか
どんな事が起こり得るのか
中央集権国家とか言うものは
情報が国家に集約された国家の事なのではないか
さてインフォメーションとは
時間が来た様である
情報については次回への宿題とする
平成16年7月2日
「経済」について
さて今日の宿題は情報を百の言葉に入れるかどうかと言う事
その手始めがインフォメーションと言う英語との事
早速研究社の英語辞典を調べて見る事にしよう
インフォメーションには目新しい意味は見出せなかった
六つほどの意味があったが
それらは全て私が情報と言う言葉について持っている概念であり
またはそうかと思わせる概念であった
ただその動詞形のinformについては
私を少し閃かせる概念があった
それはそれは
魂を入れる 元気づける
(人の心に感情などを)吹き込む 満たすと言う意味であった
また特徴(本質生命基礎)を為すと言う意味もあった
ここまで来ればformの意味も調べなければなるまい
formの動詞形には十の意味があったが
どれも形作ると言う意味であった
ただその中に
(人物品性精神などを教育訓練によって)作り上げるとか
(習慣を)作る 身につけるとか
(思想意見を)まとめる (概念を)形づくるとかあったが
ここいらから新たな情報の概念を生み出す事にするか
ただ私は思う
情報と知識はどう違うのかと
情報とは情動を伴う知識ではないかと
私たちが情報と言う場合
それはほとんどがマスコミの情報を指すのではないか
それはセンセーショナルに私たちを動かす
情報とは元々そんなものなのではないか
だから国家は情報を一手に握ろうとするし
マスコミはその利権を離そうとしないのではないか
知識は我々に信仰的な力を齎す
情報はそれを利用して
我々を策動する事なのではないか
国家は国家のいい様に国民を策動する
マスコミはマスコミ各社に有利に成る様に
情報を画策しその臣民を策動する
知恵 知識 情報
私はその本質をこの民に知らせなければならない
情報に踊らされるな
知恵と共に在れ
その為に必要な知識を学べと
知識と情報は違う
知識とは求めた末に与えられるもの
情報はただ与えられるもの
情報機関の与える情報に注意せよ
時間が来た様だが
情報を百の言葉に入れるのか
今日は仮置きとしよう
決定は次回への宿題とする
平成16年7月3日朝
さて今日の宿題は情報を百の言葉に入れるかどうかと言う事
私には情報の真髄が分かって来た
だからと言って百の言葉に入れるべきかどうか
情報とは情動に訴える知識
またはその知識を提供する事
知識は既に百の言葉に入っている
屋上屋を重ねるか
情報は知識の一分野
またはその一分野の知識を提供する事
それを百の言葉に入れるべきかどうか
しかし現代においては
お金の次に重宝されるもの
外してよいものか
ところがどうだ
その第一のお金については入れていない
それは富で説くし経済で説くとの事
であれば
情報も必要が有れば知識で説けばよいではないか
と言う事で今回は見送り
もっともこれから百を決定するまでの間に
再浮上しないとも限らない・・・
さて次の言葉は習慣か
そう
習慣については述べなければなるまい
それは徳に含まれるが
しかしまた全ての徳を包含するものでもある
習慣無しに如何なる徳も完成されない
そんな事を習慣の所で述べる事にしよう
学習
学びて習う事までは出来る
しかしそれが慣らい性となるまでにどれ程時間のかかる事か
だから私は言うのである
偉人聖人と成る為には
若い内に知恵の灯が点されなければならないと
これは若い人への勧め
外す事は出来ない
学びて習う
習いて慣れる
この事を説く事にしよう
この言葉だけで十二分
さて習慣の次に大事な事
百の言葉は
私にとって大事な言葉であると同時に
この世を覚醒させる言葉でなくてはならない
そんな言葉にどんな言葉が残されているとういのか
後二十五
私を表現する為に必要欠くべからざる言葉として
比喩は該当しないのだろうか
私は思う
この世は比喩だと
その比喩を如何にもっともらしく語るか
それが哲学の役目だと
この世に真実なるものがあるのだろうか
あるとすれば一つである
後は全てその真実の比喩
そうではないのか
現代は科学の時代
科学は真実らしく語る
しかし私は言う
そこに何か真実があるかと
この世は原子から出来ている
本当か
この世は素粒子から出来ている
本当か
私は言う
もっともらしく真実を糊塗しているだけではないかと
真実と言う何時まで経っても有り得無いのではないか
1+1=2
本当か
そう思い込んでいるだけではないか
1とは何か
2とは何か
それは全て比喩なのではないか
1を1と呼び
2を2と呼ぶただそれだけの事ではないか
結局はあの記号論理学と言う概念に落ち着くのか
記号と言う比喩を使って
脳のシナプスの回路を納得させているだけではないのか
たぶんそれは01
または有か無か
結局この世には
有る無しのその二つの信号しかないのではないか
その二つの信号を使って
様々な比喩を作り上げているのではないか
シナプスの回路を使って
要はその電気刺激
その総体にもっとも近い比喩
人はそれを人間の歴史の中で作り上げて来たのではないか
この哲学百章も
その人間の歴史の原点に帰納する作業なのである
私はその比喩を読み解き
その原点へと回帰しなければならない
だから私にとって比喩は外せない言葉
私は人に向かう時は
比喩でしか語る語る事が出来ない
私の電気回路と人の電気回路を同調させる様な言語記号比喩を作り出さなければならない
無から有が作り出されてのではない
また有から無に成ったのでもない
有と無は始めから存在していたのである
世界各地にある創造神話を見ろ
そこには必ず有と無が存在する
貴方は言うのか
無と言う存在が有ると言うのかと
さて存在と言う言葉が出て来た
私はこれまで入れて来ていない
迷う
これを百の言葉に入れるべきかどうか
私は存在で何を語る事が出来るのだろうか
存在とは何か
それは有と無
それはどう言う意味か
私たちには有と言う存在と
無と言う存在しかないと言う意味である
私にはその意味する所が分からない
はっきり言おう
人には生と死しか無いと言う事である
人は生まれる 有と言う存在を得る
人は死ぬ 無と言う存在を得る
無と言う存在が有り得るのか
貴方には有と言う存在しかないのかも知れないが
この世界には無と言う存在が在る
それを統べるのが
貴方に親(ちか)しいその存在である
私は死してもその存在は在る
その存在が私の無を認めて呉れる
そしてその無を新たにして呉れる
その蘇りの神秘はやはり言なのか
言霊の幸(さきは)ふ国は
その存在が統べる
さて無とは何でしょう
有と言う存在が有ります
また無と言う存在があります
この有無両方の存在を統べるのが
真の存在者ではないでしょうか などと
存在については
全ての哲学者が一人残らず語って来たものです
私も私の存在論を打つ事にしましょう
さて今晩はとんとんとんと
習慣比喩存在と三つの言葉が決まったが
四つ目の言葉が生まれるのかどうか
時間も迫っている様なので次回に期したいと思うが
時間の許す限り考察する事にしよう
文化文明文学
文(ふみ)また文(あや)の事について未だ語っていない様だ
比喩の所で少しは語るだろうが
やはりこれは
文を明らかにする文に化する
そう言う大きな観点から語る必要がある
時間に成った様であるので
このままの形で次回に引き継ぐ
平成16年7月3日夜
「習慣」「比喩」「存在」について
さて今日の宿題は
文化文明文学文字のいずれかをまたは全部を
百の言葉に入れるべきかどうか
少なくともこの内の一つは入れねば成らないだろう
第一に入れるとすれば はやり文化である
文(ふみ)に化する文(あや)に化する
これが人間の歴史だから
人間の出発点は
それを文(あや)に化した時から始まる
そしてそれを文(ふみ)に化した時
人間は異常な発展を遂げる事と成った
文字文学は
文化を研究する為の一手段である
また文明とは
文が文が明かされる事を言う
世界四大文明
そこで如何なる文が明らかにされたのか
それは文(ふみ)
その文(ふみ)に依って神の義が明かされた
だから文明と言う
文明とは神の出現
だからもし文明国家などと言う時は
そこに神が存在していなくてはならない
この日本は文明国家といえるのか
そこには如何なる神が存在すると言うのか
その神の名は科学か
そんな視点から文化文明を語ろう
百の言葉に入るのは
それらを代表して文化
さて文化が決定したが
文学文字は百の仲間入りは出来ないのか
少なくとも文字は出来ない
文字は文化の所で語り尽くせば良い
文学について 何か語りたい事があるのか
文学の諸形態を語りたいと思います
すなわち詩評論小説戯曲随想等を
それらを述べてどうなる
それらは何の違いも無い
そこに有るのは世に向かう態度だけだ
純粋な者はその思いを詩で謳うだろう
この世にがちがちな者は評論でしか書けないだろう
彼にはこの世が全てだから
だからこの世が正しい様にしか書けないのである
彼には善悪の彼岸に達する事は出来ない
詩人はこの岸あの岸を自由に往来する
その他の者はその中間
そんな所だ
もし貴方がそれを一つの題として取り上げるのなら
それらについて例を挙げなければならない
何か思い当たる所がるのか
私は文学の巨人ゲーテを取り上げたいと思います
彼らそれら全てに精通していました
何故なのでしょう
私ははっきり言う
ゲーテは哲学者だと
彼はだたそれを詩と言う表現を用いただけだと
分かりました
文学について語る事はないと
もし文学を語るのであれば
哲学の中で語れば良いと
哲学とは知恵を愛する事
それは言葉を愛する事に通じ
言葉を愛するためには文字を蔑ろに出来無い
そこに文学の意味が見出される
文を学ぶ
それは知恵を学ぶ為に必要な事
しかしそれは全て哲学でカバー出来る
文学は却下
さて次の言葉探しに出よう
たぶん今七十八
八十に成ったらまた記念パーテーを遣る
すなわち八十の言葉全員に揃って頂き
お互いの消息を確認し合い再会を祝福するのである
さて取り敢えず後二つの言葉探しに精を出す事にしよう
中庸はどうか
それは難しい
何故ならそれは中庸の徳と言う様に
徳の概念に入って来るからである
この徳と言う言葉が
百の大きな壁となっている
何故なら徳の中に
素晴しい言葉たちが集まっているからである
すぐさま思い当たるだけで
勇気寛容忍耐節制と続く
これらの言葉たちはそれだけを独立させて述べたいのだが
今の所それらを徳の所で一括して述べようと考えているので
百の言葉への仲間入りが出来ないでいる所である
しかし中庸については百の仲間入りをさせる事にしよう
中庸は勇気忍耐寛容節制より高い概念の言葉である
徳を中庸と言ってしまえばそれまでだが
私は今の所それに決断を下す事は出来ない
徳と中庸を並立させるのかそれとも同音異義語とするのか
それはこれからの考察の中で明らかにある
徳 中庸は悟り無瞑想と深く係わりあって来る
また徳中庸は全ての哲学者が考えるべき問題である
徳中庸が同じなのかどうかは今の所差し置く事とし
とにかく百の言葉に入れる事にする
さて今私は百の言葉を集めている
それは私自身を表現する為であると同時に
私の今後の理想を表現する為のものでもある
またこの世を覚醒させる為の言葉でもある
私は徳の中の様々な徳を
徳と言う一つの言葉の中で括ろうとしているが
それで果たして良いのか
それぞれの徳を一つずつ独立させて
この世に公にした方が
私自身の向かう目標にも成り
またこの世を覚醒させる為にもなるのではないか
私の理想の徳を語る
それでも良いのではないか
徳の中には本当に素晴しい言葉たちが居る
この言葉たちをこの世に出して上げるのが
この哲学百章の大きな目的なのではないか
八十の言葉でこの世界を語り
残りの二十でこの世で踏み行うべき行為
すなわち愛を語る必要があるのではないか
愛とは徳の顕現である
少なくとも私はそう思っている
これからの二十は
愛の実践の章となる
この章が無ければ
哲学百章は無意味である
ただ一人の世界観を語っただけの者にしか成らない
その世界を実現させる為にも
徳の実践愛の章が必要と成るのである
さて徳には如何なる徳があるのか
そしてその徳について如何に語る積りか
これからそのスケッチである
そうこうする内に時間が来た様である
徳の考察については次回以降への宿題とする
如何なる徳があるのか 楽しみである
平成16年7月4日朝
「文化」と「中庸」について
さて今日の宿題は
徳の中の様々な徳を
それぞれ独立させて
それぞれを百の言葉の中に入れるかどうかと言う事であるが
その前に
八十を突破したので
八十突破記念祝賀会を開催しようと思う
それでは八十の言葉の皆様どうか集合願いします
「私」「知恵」「言葉」「世界」「哲学」「自然」「人間」「神」「心」
「人生」「幸福」「快楽」「時間」「愛」「徳」「思想」「読書」「詩作」
「国家」「家族」「法」「命」「現代」「社会」「歴史」「政治」「感情」
「音楽」「珈琲」「旅」「革命」「仕事」「死」「瞑想」「天国」「美」
「善」「真理」「芸術」「言語」「科学」「知識」「宗教」「日本」
「平和」「自由」「平等」「性」「学問」「対話」「宇宙」「地球」
「無」「気」「精神」「欲望」「理想」「教育」「子供」「結婚」「富」「力」
「信仰」「自信」「意志」「行動」「経験」「観念」「感覚」「遊び」
「悟り」「祈り」「苦悩」「価値」「経済」「習慣」「比喩」「存在」
「文化」「中庸」
何と八十二までに至っている
後十八 先が見えて来た様にも思える
それでは今日の宿題に入ろう
徳のそれぞれを百の言葉に入れるかどうかを
ところで私は徳の項で徳をどの様に語る積りか
さて皆さん 徳とは何でしょう
私がはっきり言います
徳とは愛の完成です
そして全ての哲学と全ての宗教の終着点です
徳に依って全てが完成するのです
哲学宗教の最終目標は
徳に依ってこの世にユートピア樹立する事です
極楽天国は理想を描く事ですが
ユートピアはこの世に実現させる為の構想です
その為には徳の完成が無くてはならないのです
さて徳とは何でしょう
それは行動に移した愛の行為です
愛とはただ善しと認める事です
愛する事は誰でも出来ます
しかしその愛を実践しようする時
この上ない障害が立ちはだかるのです
この障害を乗り越え愛を実践する為には
徳が必要なのです
愛も一つ 知恵も一つです
しかし徳は集合体です
徳は愛と知恵に導かれます
さて徳には如何なる徳が有るのでしょう
勇気忍耐寛容自制節制と言った所でしょうか
この内自制は忍耐に含めてもいいと思います
節制はどちらかと言うと経済的な徳です
だからこう言う事が出来るかも知れません
三大徳と聞かれれば
それは勇気忍耐寛容であると
節制は清貧へとも通じると
この他に徳に似た言葉があるのでそれらを考察する事にしよう
先ずは正義
これは徳の様に思われるが
これはイズム主義主張セクト
本質は価値観に関する言葉である
何が正義か
アメリカの正義かイスラムの正義か
正義が正義をかけて争う事に成る
真の正義はと聞かれれば百人百様と言う事に成る
その正義をお互いに認め合う事が平和と言う事なのだが
誰もその事に気付いていない
私の正義
それはこの哲学百章で述べる全てだ
この全てを認めてくれる人こそ
真の平和の使者だ
私の言う意味が分かるだろう
正義とは知恵のままに生きると言う事に他ならないのです
さて私はふと思った
正義も百の言葉に入れてもいいのではないかと
私はこれまで正義と言う言葉には馴染めなかた
と言うのは今さっき言った様に
正義と言う言葉が
アメリカの正義イスラムの正義と言う様な使われ方をして来たからだ
しかし本当の正義とは
今私が言った様に知恵そのものに従う事なのではないか
であれば正義に新しい意味を付して
私は正義について大いに語る事が出来る様に思う
さて今私は徳で思い出した
謙譲の美徳を
謙譲の美徳こそイエスが説いた徳ではないのか
貴方方で偉くなりたいと思う人は皆に仕える者に成りなさい等々
徳と似ている言葉としてもう一つ礼儀礼義がある
礼儀とは禮の儀の事であり
礼義とは禮の義の事である
どちらも大切な言葉である
時間が来た様である
禮 誠 道等々
それから勇気忍耐寛容 節制 正義 謙譲を決定するかを含めて
次回への宿題としよう
平成16年7月4日夜
さて私は今晩デカルトの方法序説を読んだ
六部から成る内の二部を読んだ
ここで言う方法とは
理性を究める為の方法だと
私が何故この本を読み始めたかと言うと
そこにあの有名な
我思う故に我ありと言う言葉が有ると聞いたからである
未だ出て来てはいない
デカルトはそれをどの様に言う積りか
さてここで問題となるのは
理性とは何かと言う事である
理性と言う言葉はこれまでも浮かばなかった訳では無い
しかしそれはいつも知恵や精神とバッテングするのである
精神と理性はどの様に違うのか
知恵と理性はどう違うのかと
デカルトは言った
論理学は少し役に立った
数学はかなり役に立った
何の役に立ったのか
それは理の究明
理とは一体何か
それは因果の連鎖の事では無いのか
AはBである
BはCである
故にAはCである
我々は連鎖の中に居る時物が良く見えない
その連鎖を離れた時
その連鎖が良く見える事がある
それが上記の論理学方程式である
デカルトはこの辺りの事を言っているのである
であれば理性とは
この因果の方程式を間違いなく解く事
であればそれは知恵とどう違うのか
私はこう言いましょう
理性は知恵の中に含まれる
しかし理性は知恵では無いと
知恵には恩恵も含まれる
勿論閃きも
しかしデカルトの言う理性にはそれは含まれない
デカルトの理性は
あくまでも論理学方程式が正である所にしか働かない
結論
だから私の百の言葉の中には理性は入り込まない
それだけを単独に挙げても語る所は少ない
故に却下
理性は知恵精神の所でその端として語れば良いし
また性の所で
知性理性感性悟性等々と共に語れば良い
さて現代は情報の時代
情報を却下してよいのか
知識とバッテングするとの理由で却下したが
この現代を語る場合
情報を外して語る事が出来るか
理想の社会を描く為にも
情報の本質に迫って置く必要が有るのではないか
情報はこの世に見えぬ悪魔である
情報の中を行き来しながら
悪魔が高笑いをしているのが私には見える
この世は私のものだ ワッハハと
悪魔は情報を媒介に人の脳の中に入り込む
そしてDNAを操作する
もう私から誰も逃れる事は出来ないと
私は悪魔の計画を見た
それはこの世から神を壊滅させる事
かのDNA遺伝子から神の遺伝子を断ち切る事
もう直ぐにでも成功しそうだ
しかし私は悪魔の前に立ちはだかる
それこそが哲学革命
知恵の革命
知恵を第一に立てる
私の生活に倣えと
新聞は読まない
テレビも見ない
週刊誌月刊誌も読まない
情報源はラジオだけ
それも朝昼晩の三回だけ
何の事は無い
戦前の生活に戻るだけの事である
その代わりその時間
古今東西の哲学者の本を読む
それも厳選された良書だけ
さてこの日本国民の生活はどうなるか
皆に知恵が漲る
知恵と知恵が往来する事になる
私は哲学の会を打ち立てる
これは政治団体でもあるし
経済団体でもあるし
倫理団体でもある
この哲学の会の目的は
真善美を求め
真善美の社会を樹立する事にある
この哲学の会は知恵を愛する者の集団である
知恵を愛する者は誰でも会員に成る事が出来る
この哲学の会の最終目的は
この日本に哲学革命を起こし
この日本を知恵の王国日本を樹立する事にある
この哲学の会には正会員と賛助会員を置く
正会員の資格
それは哲学百章を会に上程する事 ただそれだけ
しかし私は言う
哲学百章を上程した者は
もうこの世には返れないと
彼は知恵の王国目指して哲学革命の戦士となる と
さて今日の宿題は様々な徳を挙げる事にあった筈だが
逸れてしまった様だ
それにもう時間が来た様だ
我が哲学の会
それを維持発展させる為にも必要な徳
それは寛容であり忍耐でありそして勇気ではなかろうか
そしてこの会を維持する為の第一の経済法則は節制ではなかろうか
この会には清貧の思想がある
節制とは肉の欲を抑える事
それは経済と深く係わる
この知恵の王国においては
衣はあのギリシアの様に質素
食もそして住も
何故ならこの国民においては節制が行き届いているから
食事についてはこんな事を言う
水とパンと僅かばかりの副菜があればいいと
さて皆さんどんな経済体制が想像されますか
こんな国家が現代おいて存立出来るのでしょうか
この会においては
また会員一人一人に一番大切な徳は勇気です
自らの信念を通す勇気
これがこの会において一番大切な徳なのです
この徳に依って
真善美の世界がこの世に出現して行く事に成るのです
勇気が無ければ何も生まれないのです
勇気とは自らの知恵をこの世に打ち立て様とする気概です
この気概が無ければ何も進まないのです
寛容
これもこの会において
そして一人一人の会員においてとても大切な徳です
この意味する所は差別なき社会平等な社会の実現です
皆それぞれに違って貴いと言う事です
この会においては様々な主義主張があるかもしれません
しかしそれが自らの知恵から生まれたもので有る限り
それはとても尊重されなくてはならないものなのです
しかしセクトを持ち込むのは厳禁です
はっきり言ってこの会の会員は皆がそれぞれなのです
しかし皆がそれぞれでありながら皆が一つなのです
その臍帯は知恵です
皆が知恵に依って結ばれているのです
この会ではそれぞれの知恵を信じ仰いでいます
皆それぞれ言う事は少しずつ違いますが
結局は異口同音に同じ事を言っているのです
善き哉善き哉と
その為に必要な徳
それは寛容
それは全てを受け入れる広い心の事です
忍耐
それはこの世の自分を押さえる力です
この会に忍耐が無ければ争いばかりです
時間オーバー時間オーバー
と言う事で今日はここで終わり
平成16年7月5日
さて昨日の論の結論をここで述べる事にしよう
先ず情報について
これについては決定
確かに情報は情動に訴える知識の事であるが
この知識が今この世界を動かしているのである
それは策動にも似た力を持つ
だから私は情報を訴えなければならないのである
知識は必要である
知恵を働かせる為に
しかし情報は必要では無い
それに依って貴方方は傀儡と成る
すなわち操り人形に
貴方が貴方で在る為に
貴方を策動させる情報から離れなければ成らない
貴方は知恵を共に在る様にしなければならない
私は情報と言う主題でその事を訴える
私は情報を告発する事に依り
この現代を告発する
全ては哲学革命へと続く
さて徳について
勇気忍耐寛容そして節制は
百の言葉入り確定
私はこれらの言葉を哲学革命への手段として使う
何故なら徳とは知恵を有らしめる為のものであり
徳とは愛の顕現に他ならないから
哲学革命は
知恵を旗印に愛の世界を実現する事
その為にも
先の四つの徳は無くてはならない
さて四つの徳の本質は何か
勇気 それは知恵の発現
忍耐 それは知恵の発現の為の準備
寛容 それは知恵の持続
節制 それは知恵の発現の為の準備
忍耐と節制はどう違うのか
忍耐とは感情の力に負けない事
節制は知恵の道ならし 知恵の露払い知恵の太刀持ち
何故知恵の発現の為に節制が必要なのか
それは知恵は肉から離れた所で大きな力を出すから
その為には肉の欲の煩いから離れていなくては成らない
その為にこそ節制が必要なのである
すなわち肉に関与させない体質を作る事
それが節制の大きな役割なのである
勇気忍耐寛容は
この世において知恵を発現させる直接の力であるが
節制はその力を養う為のトレーニングなのである
さてここでまた少し迷うのである
この四つの徳をそれぞれ独立させるか
それぞれの徳を主題にして
物語れるほどのものを自身に持っているかどうか
私は徳の主題の元に何を語る積りか
その辺りの所について少し迷う
取り敢えず徳の書き出しについて語って見よう
皆さん徳とは何だと思いますか
私がずばりお答えします
それは知恵の顕現であると
もし知恵が脳の中に留まる限り
それは知恵と呼ばれる事はありません
一種の知識です
それが肉化してこそ
始めて知恵と呼ばれます
精神と肉体の結婚
そこに知恵が生まれます
そしてそれを発現させる為の力が徳と呼ばれるのです
徳はたくさんあります
百八の煩悩があると言われていますが
それに対応するだけの徳もまたある訳です
私は百八の煩悩を数えた事はありません
しかし今日はその縁なのでしょう
可能な限り数え上げて行く事にしましょう
それではスタートと言う事で
先ずは怒り
それから憎しみ執着ねたみそねみ誹謗中傷落ち込み
裏切り寝返り不実虚妄妄想不正直嘘悪口甘言愛着
絶望苦悩不信欲望背信羨望偽証盗み
広辞苑に依る煩悩
貪 瞋 痴 慢 疑 見
貪欲貪り慢心疑心
煩悩罪原罪
煩悩とは罪には及ばないもの
しかし原罪から発するもの
心に起因するもの
欲に起因するもの
感情に起因するもの
見解に起因するもの
そして知恵に反するもの
私は今煩悩を帰納で捉えようとしているが
私の得意な演繹で行く事としよう
すなわち第一原因から攻めて行くと言うあの手法で
さて煩悩の第一原因は何か
それは知恵への反抗
いいえそれは知恵を知らない事から全て生まれる事
だから煩悩の第一原因をと言われれば
すなわち無知 知恵を知らない事と成る
しかしこれを煩悩と言うのか
言わない これは煩悩の第一原因であり
そこから生まれる数々の美醜善悪真偽の対極にあるもの
すなわち醜悪偽となる
その観点から煩悩を述べよ と言う事になるのではないか
真には善を含み 善には美を含む
その論法から行くと
究極の論理はこうなる
真理すなわち知恵に反するものは全て煩悩
究極の結論は
この世の全てが煩悩
知恵に目覚めていない者はその全てが煩悩と言える
だから煩悩の数を数えるのはナンセンス
私はこう言おう
この世の者はその全てが煩悩であると
これが原罪の本当の意味
しかし知恵に目覚めた者はその原罪から
すなわち煩悩から逃れ得ると
さて私は煩悩の本質を摑んだ訳だが
それと徳はどう関わるのか
徳とは四天王であり十二神将である
この事が私の徳について言いたい事
京都奈良のお寺を回った事がありますか
あの四天王や十二神将に足蹴にされているのが煩悩
そして四天王や十二神将が徳
彼らは如来と両菩薩を守護する
如来とは?
両菩薩が知恵と愛?
今日もまた時間オーバー
徳とそれぞれの徳を独立させるか
これについてもう三日も迷っている
四天王をそれぞれ独立させるか否かの問題なのか
時間オーバーの為
自ずと次回への宿題となる
平成16年7月6日
「情報」について
さて私は徳の中の様々な徳について
三日三晩も迷って来た訳だが
ここらで結論すべきではないか
勇気忍耐寛容そして節制
この四つの徳を百の中に入れるべきではないかと
それぞれの徳について今述べるべき事は無いかも知れないが
それを目にして書かなければ成らなくなった時
きっとたくさんの閃きが生まれて来るだろうと
その予言の中でこの四つの徳を百の言葉の中に入れる事にする
さて次に残されたのは道 誠 そして義または正義
この内の道については確定だろう
道については書くべき事が一杯ある様に思われる
道は比喩に満ち満ちている
私は道でこれまでの道を語りこれからの道を語る
さて次に誠であるが
誠とは何であろう
それは誠心誠意の事か
それは心を尽くし思いを尽くし精神を尽くしと同じ意味か
であれば私にとって重要な言葉となるのだろう
心を尽くし思いを尽くし精神を尽くして神を愛する事
これが最も重要な掟なのだから
その神を愛する時の心構え
それが誠なのだろうか
これまで出て来た百の言葉の中でそれに類似するものがあるのか
有るとすれば信仰 すなわち信じて仰ぐ事だが
信仰と誠は同じ事か
誠を尽くす尽誠と信仰は同じ意味か
かつて愛と誠と言う漫画があった
愛が女で誠が男であった
彼らはどうなったのか
誠は愛に何を為したのか
誠は愛に何を為したのか
二人は最後にはどうなったのか
結ばれたのか
だとしたらどの様な変化があったのか
愛はより強くなり誠もより強くなったのか
愛と誠は一つに成り得たのか
さて聞こう
誠とは愛に付き添うものか
それとも知恵に付き添うものか
それとも両方にか
誠を捧げるとはどう言う事か
やはりそれは誠心誠意
それは徳の事だ
何かに仕える時の態度の事
仕える者は何でも良い
妻であれば夫
臣民であれば君主
友であれば友
そして信仰者であれば勿論その絶対者
誠とは徳である
勇気忍耐寛容節制は知恵の発現の為の徳であるが
誠は知恵に仕える時のその態度の事である
それは信仰と言う概念と重なる所もあるが
この世の徳として
私は誠を説く
と言う事で百の言葉に入れるか?
さて誠を語る時どの様に語るか
さて皆さん愛と誠と言う漫画をご存知ですか
もう一昔前の話ですから
知らない人も多いと思います
こう言う私も
それがどの様なストーリーで
どの様な結末に成ったか知りません
ただその漫画について言える事は
その当時一大ブームを起こしたと言う事と
愛が女で誠が男だったと言う事だけです
たぶんこのネーミングが
この漫画を一大ブームを起こさせた所以だと思います
さて皆さんは
何故愛が女で
何故誠が男だったか分かりますか
それは奇を衒ったからです
その奇がまんまと当たったと言う訳なのです
私が何を言いたいか分かりますか
本来は愛が男で誠が女であるべきだったのです
それは何時の時代にも変わらない真実
それをウーマンリブの走りよろしく
愛を女とし誠を男とする錯綜の世界を描いたから
あの様に拍手喝采を浴びたのです
私の言う意味が分かりますか
誠とはより大きな対象に向かう時の心の状態の事なのです
男が女に誠を尽くす
そんな時代の先取りをしたからこそ
あの漫画が一世を風靡したのです
そして正にこの世をその様に成りました
愛と誠は先駆けだったのです
現在何処のお役所にもある女性優待係
彼らはこの愛と誠をその経典としなければならないほどなのです
などと 書いたら
少なくともこの世の半分を占める女性から総すかんを食らうのでしょうか
いいえ決してそんな事は有りません
誠を知る者は皆
私のこの言に イエスと言う事でしょう
この世の風潮を苦々しく思っている女性を多いのです
それをもし公言でもすれば
女の中の裏切り者として糾弾されるから
ただ黙っているだけなのです
私はそう言う誠ある女性の代弁者なのです と書いたら
女性の全てが
あの人は少し変なのじゃないと言うのでしょうか
さて私は誠について本当は何が言いたいのでしょう?
つまりこう言う事が出来ます
誠については未だ言うべき事を持っていないと
しかし誠と言う言葉を私を発展させる素地を持っているし
またこの世を直す為の素地も持っていると
たぶん哲学百章の後半は
徳を中心とした構成に成るのだと思います
それはそれでまたいいのではないでしょうか
その辺りを期待して百の言葉に入れる事としますか・・・
さて次に義または正義
ここはやはり道 誠と一字が続いた事から
義を取る事にしましょう
さて義とはどう言う意味か
私はそれを義(ただ)しいと読むが
世間はそれをどう理解しているのだろうか
広辞苑を引いて見る事にしよう
一 道理条理物事の理に適った事
二 利害を捨てて条理に従い人道の為に尽くす事
三 四 五 省略
取り敢えず一二で私の言いたい事に近いので
OKとする事にしよう
さて義と言った場合
真善美と対比される事になる
義と真善美は対置かそれとも包含か
よく聖書では神の義と言う言葉を使う
この場合の義とは
真であり善の事か
それとも善の事か
それとも別の意味合いになるのか
義の場合正義と言う言葉が問題と成る
正義と言う言葉を使えば
その時からその正義はセクトを現わす言葉に成る
正義と正義の戦い それが戦争
そして勝った方が正義と成る
これはこの世の法則
だからこの世では強い者が何時でも正義と成る
真善美は純粋な哲学用語である
そこにおいては純粋に哲学(知恵を愛する事)に浸る事が出来る
しかし義の場合は時と場所による
その辺りを見究めつつ義を語る事にしよう
と言う事で百の仲間入り決定か?
さて今日の最後に礼または礼儀
これもまた一字の流れから礼と言う事に成るのか
礼と言う言葉を哲学者は嫌う傾向がある
そこに偽善と言うにおいがするからなどと言った理由で
しかし私は言う
礼は哲学者の為の第一関門である
この門を潜らなければ誰も哲学者に成れないと
実を言うと
私も礼と言う言葉には偽善を感じる
標題には礼と言う言葉を使うが
本文ではそれを禮に改める事にしている
何故なら禮の方がその本質をよく突いているから
禮とは祈りにおいて豊かに示されてもの
それが簡約され流通したのが礼
だから世に流通する礼が貴方の禮に適わないなら即座に却下してもいい
しかしその世に流通している礼が貴方の禮に適うものならそれに従わなければならない
何故かと問われれば
貴方が知恵と遊ぶ事を訝しがれない為である
もし貴方が礼に適った生活をしていれば
貴方の知恵の事に関して大胆に述べても
ある程度許して貰える
何故なら知恵の言葉は
この世をあまりにも刺激的過ぎるから
しかし貴方がこの世の礼に適った生活をしていれば
それも許され時にはそれを認めて呉れる者も現れる
貴方は実際の生活においてはこの世に従わなければならない
その為に必要な事がこの世の礼を守ると言う事なのである
イエスも言っているではないか
貴方の義が律法に勝っていなければならないとか
律法を守れとか
この律法こそが礼に他ならない
律法も預言者が神の霊を受けて書いた言葉でこの世に流通しているもの
また礼も預言者たちが神の霊を受けてこの世に流通したもの
それは流通しているが故に流通での損傷はある
しかしそれを差し引いてもその価値は十二分にある
だから礼には粛々と従うのが一番
さて今日は
勇気忍耐寛容節制
道 義 誠 礼の八つが一挙に決定か
もしそうであれば九十に到達
愈々最後の十となるのだが・・・
時間が来ている様だが どうする
いいでしょう 今日は大盤振る舞いと行きましょう
一挙に八つの決定
そして九十への大台入り 祝
七夕記念でもある
次回は九十の整理から始める事にしよう
平成16年7月7日
「勇気」と「忍耐」と「寛容」と「節制」と「道」と「義」と「誠」と「礼」について
さて昨晩の大判振る舞いで
愈々九十の大台に乗った様である
先ずはその九十から整理する事にしよう
何と言う事
計算間違い
未だ八十九である
前回八十の大台に乗った時
今回の様に陳列して数えた時
八十二と数えたが
今回数え直したら八十であった
その計算ミスが今回尾を引いたと言う事になる
さてそう言う訳で今日現在八十九
後十一先が見えたか
私は前に言語で論理を語ろうとした
世界には数え切れない程の言語がある
しかし人々は言語を越えて理解し合う事が出来る
それは言語に論理があるから
その論理を交換し合う事に依り
お互いを理解し合う事が出来る
その論理とは文法であり
その言語が翻訳であると
そう言った論法で
言語の項で論理を語らうと思っていたが
やはりそれには無理がある様だ
論理で一つの項を立てるべきだと
論理と言う言葉も
私にとっては未開の分野だ
今回これを百の言葉に取り入れ
それを目の前にする時
きっと新しい視界が開けて来るだろう
所で論理とは何だ
今私はデカルトを読んでいる
方法序説は読み終わった
ここに我思う故に我有りが出て来る
また今省察を読んでいる所だか
ここに私は在る私は存在すると言う言葉が出て来る
この哲学百章も私の書である
正にデカルトの言うとおり
私の思考そのものの道程である
そこには一時も私が存在しない事は無かった
そしてその時私は精神だった?
私と精神は同じものか
私と知恵はどう違うのか
知恵と精神はどう違うのか
精神を精なる神と読めば
精神と知恵は同じこと?
さて今私は論理の事を述べているのである
論理とは何か
それはこの世から離れない為の唯一の靭帯
この靭帯と繋がっている限り
貴方はこの世で貴方の思想を自由に展開出来る
もし貴方がこの靭帯から離れる時
貴方は狂人と言われる事に成る
先程も述べた様に
この論理と言う言葉は私にとって未開の分野だが
これに手を付ける事に依って私の世界は大きく広がる事と成る
百の言葉入り決定
さて今気に成っている言葉がある
それは覚醒
覚醒については珈琲の所で述べ様と思っていたが
やはりそれでは駄目で
覚醒と言う項を一つ設けねばならないのだろう
珈琲を削って覚醒を入れても言いのだが
今日の所は
別立てとする事にしよう
何故覚醒か
それは精神が最も極まった状態だから
その状態において人は神を見たり
予言を聞いたりたくさんの直感直智閃きを感じるのだから
よく覚醒剤を飲んだ者は言う
神を見たと
それは何故も無い
覚醒剤が覚醒を催す薬に他ならないからである
シャーマンは覚醒剤を飲んで
神を見神と対話出来たのだろう
昔から詩人は酒を飲むと相場が決まっている
何故も無い
酒も一種の覚醒剤だから
酒のその作用は覚醒剤から麻薬へと変わって行く
こんな素晴しい薬は無い
おまけに副作用がそれ程ないと来ている
酒は百薬の長
もし覚醒の段階だけで留めておけば
これに勝る者のは珈琲位であろう
何故なら酒は覚醒から麻薬へ
または覚醒から眠りへと誘うから
酒の覚醒の時間は短い
そして覚醒の後が見っとも無い
それに引き換え珈琲はスマートである
西田佐知子のコーヒールンバにある様に
アラブの偉いお坊さんが飲んでいたのである
さてどうだ結局はコーヒーに繋がっていくではないか
珈琲の所で思う存分珈琲を謳う事にするか
珈琲はミューズの友達
さて私を表現する為に必要な言葉
またはこの世を覚醒させる為に必要な言葉
未だ未だ残っている筈
さてこの世を振り返って見よう
この世はどの様に成り立っているのか
私が居て家族職場学校そして時には地域が在る
これが全てではないのか
その中であれやこれやと迷いながら生きている
これが世の中の実態ではないか
そこにマスコミと言う
情動策動を練る情報が横行している
ただそれだけの社会ではないか
私たちは世界を知らないのに
マスコミから流れて来るその世界を世界だと信じ込んでいる
この世はそんな哀れな世界ではないか
だから旅は貴い
少なくとも自らの目で見て
自らの中で世界を構築する
その分だけ
世のあき盲らよりは偉い
さて私はそんな世間を暴く必要が有るのではないか
貴方方が世間だと思ってる世界は
こんなにもちっぽけな世界なのですよと
こんなちっぽけな世界で貴方はどう生きたいと言うのですか
私は首相に成ってこの世を支配したい
おお立派な事だ
私もかつてはそんな夢を見た事がある
今はマスコミの世界
首相の一挙一動に世間の目が行く
首相はこの世の花形である
誰もが首相に成りたいのだろう
それは最もな事
よしそうであれば
私は首相養成講座を開く事にする
この講座を卒業出来れば
必ず首相に成る事が出来る講座を
さて時間が来た様だ
私は世間の事を述べたかったのである
政治家の世間
それもそんなに大きなものではない
首相養成講座の場合はやはり高校から始めなければならない
と言うのはやはり首相に成る為には
一応一流と言われる大学を卒業していなければならないから
国民を代表する訳だから一応それなりが必要だから
しかし国会議員養成講座であれば話は全然違う
一応の大学を出ていればそれで良い
後は世間をどう渡るかだけだ
貴方は世間は大きいと思っている
私ははっきり言う
政治家の世間とて我々の世間と変わらない
私と家族と地域と職場
これと全然変わらない
ただ職場が少し違う
地域が職場になるのかも知れない
ルートセールスマンと同じだと考えれば良い
後は貴方の政治哲学だけだ
私がその政治哲学を教える
これをマスターして
地域セールスマンに徹すれば
貴方は国会議員に成れる
世間を入れるかは次回への宿題とする
時間オーバー
平成16年7月8日
「論理」について
さて今日の宿題は世間を百の言葉に入れるかどうかと言う事
世間に似た言葉に世界と言う言葉を早い内に掲出している
世界と世間はどう違うか
渡る世間は鬼ばかり
と言う様に
この実在する私が活動する範囲
それが世間である
貴方は一日にの内でどれだけ活動出来るか
そして一生の内で
これが貴方の世間である
世界は違う
世界とは私が認識し得る全ての事である
実証しようと思えば出来る
それが私の世界の限界である
さて私はこの世間の中で
議員養成講座を開設するのである
昨日は国家議員養成講座と銘打ったが
読者の皆さん皆さんが今日から取り組もうとする者には取り組める様
議員養成講座とする事にします
市町村議員都道府県議員国会議員
そのいずれをも目指す事が出来る様に
さてその入門編である市町村議員講座を只今から開設します
ある県庁所在地の市議会議員で考えて見ましょう
有権者の数が40万人で議員定数が40人だとしましょう
1万票取れば絶対当選です
しかしハードルはこんなに高くありません
投票率を80パーセントとすれば
9千票で当選です
これはあくまでも中位当選であって
最下位当選であれば
度数分布を考えれば6 7千票で当選です
どうです
市議会議員のバッチが目の前にちらついて来たのではないですか
しかしこんなちゃちな事は考えません
生きている限り永久に市議会議員である為に
常に1万票を取る事にしましょう
さて作戦開始です
貴方は会社員のままで構いません
ただし就業規則以上働いてはなりません
また有給休暇等の権利は全て行使しなければなりません
要は会社は腰掛
当選までは二束のわらじを履く事になります
さて貴方は議員と成って何をしたいのでしょう
それが明確でなければ貴方は議員には成れないでしょう
もしそんな明確なビジョンを持っていないのであれば
私が明確な政治哲学をお教えいたしましょう
それに沿って従えば
貴方は間違いなく市議会議員に成れる
さてその政治哲学とは
哲学政治または智の政治学の事である
すなわち智の連帯に依って
貴方は市議会議員となるのである
貴方の議席は常に用意されている
貴方にはもう立派な哲学があろう
何! 未だ無い
だったら先ずは私の哲学の会に入りなさい
そこで哲学を学んでから撃って出なさい
さて貴方は哲学の会で
哲学すなわち知恵を愛する事知恵を学ぶ事が身に付いた
さあ撃って出よう
先ずは貴方はその都市で
哲学の会を
名前はどうでもいい
その会を立ち上げなければならない
そこには当然会則が無ければならない
会則はざっとこんなものである
この哲学の会は
知恵を愛する者の集う会である
私は思った
私が哲学の会を立ち上げてあげなければならないと
この哲学の会は
心ある人々に依って
この日本に隈なく広がって行くのである
そこには議論は無い
有るのは全て共感である
私の哲学の会はそんな会なのである
何故議論が無いのか
そこには小出しが無いから
そこでは皆が
少なくとも正会員は皆が皆全人格なのだから
そこにはたくさんの人格があります
貴方方はその内の気に入った人と
知恵を話し合い
そしてこの世界を真善美に満ちた世界に変えて行けば良いのです
この哲学の会では
正会員が皆哲学百章を現わしています
それはある意味で全人格の表出なのですから
さて大分話が反れてしまったようである
今日の宿題は世間を百の言葉に入れるかどうか
世間とは最初に定義した様に
実在の私たちが活動し得る範囲
これを世間と言う
その世間を省察する時
その世間が如何に卑小であるかを実感する
その世間を変えて行く為に
私は哲学の会を創設しようとしているのである
心ある者が心ある生活が出来る様にと
この知恵の会にはあらゆる宗教宗派の人々が集う
人々は宗教宗派を超えて知恵を哲学を語る
そこから真善美に満ちた世界が生まれて来る
と言う様な事で世間を百の言葉に入れる
世間の中で哲学の会が頭出しをする?
さて昨日私は論理を論じた
論理に近い言葉に因果と言う言葉がある
論理と因果は違うのか
それとも同じか
同じであれば因果を百の言葉に入れる事は出来ない
この世は因果で回る
それは真実
釈迦もイエスもそう論じたのだろう
さてこの世は論理で回る
そうでは無い
論理とは個人の中で完結する概念
論理は成熟すると結果する
その結果が原因と成り因果が回る
論理はいきなり果とも成るが
因の本でもある
私たちは論理で因果を断ち切る事も出来る?
論理は私たち理性の旗頭
一方因果はこの世の道理
因果と道理はこの世で鍔迫り合いをする
因果とはこの世の法則
因果を抜きにしてこの世は語れまい
因果で因果の法則を説く事にしよう
これについてもこれまで議論した事は無かったが
今回の省察に依って
きっと新たな世界が広がるだろう
因果とは何か
この世の全ての動き
何故人は死ぬのか
それは人が生まれて来たから
何故戦争が始まるのか
それは争いの種が播かれたから
では聞こう
今回のイラク戦争の種は何かと
遠因は幾らでも遡れるが
直接の原因と言えば
ブッシュの驕り
この戦争の責任は一人ブッシュが負わなければならない
そこには戦争の大儀が何も無いのだから
裁かれるべきはフセインではなくブッシュ
と言う様な論法で因果を語るのか
それもいいが
やはり因果の第一法則に遡るべきだろう
因果の第一法則は私たちが無知であると言う事?
そんな事等を含めて論じる事としよう
百の言葉に決定
さて私を論じる為に必要な言葉
その中に物が在るべきだろう
私はこの物についても論じた事が無い
それは何故か
それはそれが私に何も訴えて来なかったからである
しかし私を語る時
今度は私がそこに出向いて語らなければ成らないのだろう
物との対話
対話が成立するのかどうか分からないが
とにかく出向かなければならないのだろう
さて物とは何か
物とは感覚し得る全て?
想像上の物は物とは言えないのか
例えば麒麟とか
物と観念は別なのか
例えば観念し得る物があるが
それは物では無いのか
私は海王星も冥王星も見た事は無いが
それでも海王星冥王星が存在する事を知っている
海王星冥王星は物では無いのか
物である
であれば私は感覚していなくても
この世の誰かが感覚し
そしてその大半の者がそうだと言えば
物は存在する事になるのか
例えばUHOは物かそうでないのか
UHOを見たと言う者は結構いる
しかし信じない者も多い
UHOは物である
物は存在する必要は無い
ただそれを知覚に依って再現できなければ物とは言わない
では聞こう
アンモニアの匂いが漂っている
しかし視覚に見える事は出来ない
そのアンモニアは物かそうでないのか
それは視覚に依る物ではあるい
いえ視覚に依る物である
たとえ人間の通常の視覚には見えなくとも
機械を通して見えれば
それは物と言われる
たぶんその時の状態を映す何らかの機械があるのだろう
物とは視覚的に存在するもののの事か
では聞く
音楽は物か
あれは物では無い
あれは純粋な観念そのものである
物とは人間が視覚で確認できるもの
それを物と言う
勿論時代に依って
物の範囲は変わって来るが
物の概念は変わる事は無い
嗅覚味覚触覚は視覚の隷属機関に過ぎない
視覚で確認出来なければそれらは物とは言えない
しかしこう言おう
視覚味覚触覚で確認できる物は全て視覚でも確認する事が出来ると
勿論機械を使うか
さて聴覚で感じる事の出来るものは物ではないのか
先程は音楽を例に挙げたが
確かに音楽は複雑すぎて
それを物と言う事には抵抗があるかもしれないが
例えば目の前にある茶碗を人差し指で弾いた時に出るその音
その音は物ではないのか
音波系で調べれば規則正しい音波が観測される筈だが
それは音が目に見えたのではない
音を人の見える形に表現し直したに過ぎない
だから音は物ではない
いいでしょう
物をそう定義して
さてその物は
私の一番の関心である知恵と
どう係わっているのか
私ははっきりこう言おう
人は物に拘り過ぎている
視覚に拘り過ぎていると
賢い人を聡いとも言う
耳が公の心
そう言う人を聡い人と言うが
そこには視覚は関係しない
目の見えない人と耳の聞えない人とどちらが聡いか
それは目の見えない人
目の見えない人は視覚に騙される事が無い
彼は公平な心で耳から聞く事が出来るから
視覚は人をあまりにも邪魔する
すなわち物に囚われて人は公の心を持つ事が出来ないのかも知れない
そんな論法で物を論じるか
と言う事で今日も時間が来た様だ
今日は宿題を出さない事にしよう
さてこれで九十三か
平成16年7月9日朝
「世間」「因果」「物」について
さて後七つである
私を表現する為に必要欠くべからざる言葉
後どんな言葉が残されているのだろう
大学はどうか
有為な若者へ贈る言葉として
大学
それは技術教育の一環か
であれば何も言う事は無い
この社会の一翼を担うべく大学があるのか
であれば私は何も言う事は無い
本当に大学とはそう言うものなのか
大学とはその為にこの世に仕組まれた仕組み
それをどう言う積りか
確かにその通りである
私は大学について何を言おうとしているのか
私が言おうとしているのは
あの四書五経の内の一つ大学の事である
またギリシアのスコレーに端を発する大学の事である
大学において閑暇があるかどうか
そこに大学の意義がある
もし一週間毎日四時五時まで講義がある様では
それは大学とは言えない
それは高等技術専門学校と言うべきだろう
そこで貴方は高等な技術を身に付ける
大学とは
その字の通り大いに学ぶ事である
我々は大いに学ぶ為に
小学中学高等と
大いに学ぶべき基礎を学んだ
後はその基礎の上に多いに学ぶべきである
我々は何を学ぶべきか
不思議に聞えるかも知れないが
我々自身を学ぶのである
我々自身の中に全ての秘密が隠されているのである
その秘密を一つ一つ解き解す事が学ぶと言う事なのである
その為には大いなる暇が無ければ出来ないのである
デカルトは言った
私は大いなる閑暇を得た
そこで私自身を知ったと
大学には大いなる閑暇があるべき
そして学ぶべき大いなる講座があるべき
もし理想をと言われれば
東京大学と言う事になるのだろうか
最も今では大学院が大いに学ぶべき所で
大学は未だ基礎を習う所?
いいえそうでは無い
真に大学と言える所は哲学科だけ
後の全ての学科は高等技術専門学校である
工学部理学部農学部水産学部の全ての学科の皆さん
工場に行きなさい研究所に行きなさい
そしてその専門的技術を生かしなさい
貴方は確かに大学で技術を学んだのである
経済学部法学部の全ての学科の皆さん
企業に行き企業戦士と成りなさい
その知識を利益に変えなさい
さて文学部の皆さん
皆さんについては留保します
貴方はその余りある時間で何を学びましたか
私は貴方の言う哲学百章を
自らの内に学びました
おお!我が愛する友よ
貴方こそ私と語るに相応しい
そうその為に私は大学を語ろうと言うのである
もし大学が私の言う様な大学だったらどうなるのだろう
たぶんそれはギリシアの様に成るだろう
私は新たな奴隷制度を打ち立てる
しかしこの奴隷制度においては
奴隷が奴隷である事に喜々としている
この事がギリシアの奴隷制度と異なる
奴隷の養成期間が現在大学と呼ばれている所である
そこでは様々な技術者を養成する
違う
現在の制度そのものが奴隷制度なのである
その中で我々哲学の会の者だけが
あのギリシア市民
特に哲学を愛した者の様に
閑暇を楽しむのである
どう言う事かって?
奴隷の方々には大変だけど
奴隷の方々が働いたその上澄みを楽しもうと言う事なのである
奴隷の方々は幸運にもその給与と言う報酬を有難く思っている様だから
我々はその上に胡坐をかいて楽しむ事としよう
さて私が大学と言う言葉で言いたかった事は
大学生の皆さんへ
皆さんは専門教育を受ける為に大学に入って来られました
それは当然の事です
その専門教育を生かして
この世の歯車として
この世を立派に動かして行かなければなりません
しかしそれだけでは空しいのではないでしょうか
大学に入った本当の理由は
自分自身を知るためにこそあるのです
自分を良く知ってこの世を良く知る
その中からこそ真に素晴しい社会が目覚めて行くのです
違う
私の目的は大学生を哲学革命の戦士に仕立てる事だ
常に大学から革命の火の手が上がった
私は大学生を革命戦士に仕立てる
大学生には素晴しい可能性がある
何故なら彼らには大いなる閑暇があるから
私はその閑暇に訴える
その閑暇は知恵を学ぶ為にこそあると
私は大学生へと言う一文を寄せる事にする
大学生へ
私は貴方方へ告げる
大学生の第一の目的は知恵を学ぶ事にあると
専門教育は第二である
もし貴方方が知恵を学べばこの世は変わる
しかし貴方方が専門教育に堕せば
この世もまた科学に堕する
貴方は哲学の戦士となるのか
それとも科学の戦士となる積りか
この世を統合しようとする積りか
この世を分断しようとするのか
哲学と科学
哲学が第一目的
科学は第二
哲学は主人科学は従者
この事をきっちりと弁えなければならない
その為にも大学生よ
貴方方の第一目的は知恵を学ぶ事にある
それが大学本来の意味であり意義
大学を逸脱するな
と言う様な事を
大学と言う言葉で述べる積りか
さて時間が来た様だ
二晩空けたので感の戻りが鈍い様である
次回へ続く
平成16年7月11日夜
さて昨日は大学を百の言葉に入れるべきかどうか検討した
しかしやはりそれは入れない事にしよう
未だ誰もが大学に行く訳では無い
この書は全ての若者に読んで貰う為にある
私が何故大学と言う言葉を選ぼうとしたか
それは我が息子我が娘に伝えたいと思ったから
我が息子我が娘に伝えたいのであれば
別に立てればいい
この哲学百章は言わば私の普遍である
偏らない言葉を選ばなければならない
普遍と言う言葉は百の対象にはならないのか
普遍とは遍きに存在する真理
真理と普遍はどう違うのか
真理が一つであれば
それは普遍
一つの真理が遍く存在する
そんな状態の事を普遍と言う
それはまた神との同義語
私たちは普遍を真理を神を求める
その道先案内人が知恵
これが私の論理
さて普遍とは何だろう
遍く存在するもの
それは神以外にはないだろう
であれば神とは何だ
それは普遍と言う存在か
そうきっとそうだろう
そしてその普遍から齎されるもの
それをある者は真理と言う
真理とはその理が真らしきもの
私は普遍と真理と神の知恵の連環から逃れられない様だ
普遍について私は何も語る事は無いのだろう
それは真理で語り
神で語る
また知恵の所で顔を出さない訳にもいかない
と言う事で普遍も却下か
さて希望はどうか
希望と似た言葉として既出のものとして
理想と欲望がある が
少しニュアンスが違うのではないか
私は何を希望するのか
私は何を理想とするのか
理想とは私の思い描く最高の世界の事である
希望とは私が達しうる最高の存在の事
理想とは広がり
希望とは最高の存在へ向かおうとする意志の事?
そう希望とは意志の一種
それはとても貴い意志の事
だから百の言葉に入れるべき
理想では理想の世界を力一杯描けば良い
欲望とは肉と精神の絡み付いた欲の事
欲望の現状を特と説けば良い
希望ではその最高存在者に至ろうとする
その健気の意志を言い表せば良い
と言う事で百に決定
さて真善美の内
善についてはそれらを表わす言葉を大分選択した
すなわち徳とそれに連なる言葉たちである
例えば勇気忍耐寛容節制 道 義 誠 礼
しかし私は美に連なる言葉を選んでいない様な気がする
と言う事で美に連なる言葉を選ぶ努力をする事にする
さて私の気に懸かっていた言葉として
優雅があるが少し語呂が悪い
そのニュアンスを正確に伝えるとすれば優雅さであろう
その観点から私は雅と言う言葉を今思い付いた
雅と言う言葉は日本固有の言葉の様に感じるが決してそうではないであろう
ソロモンの有名な歌は雅歌である事からも
そう言う訳で雅を百の言葉に入れる事にするか
ところで雅とは何だらう
それは美の本質に迫るものか
美とは何だろう雅とは何だろう
雅は優雅風雅
私たちはその立ち振る舞いを見ていると
ついついその風情が湧いてくる吹いてくる
私たちの中に在る美の原型がうずく
私たちは美を直接見る事が出来ない
私たちは優雅さ風雅
その雅の中に美の原型を求めようとする
そこに美そのものは無いかも知れないが
私たちは何かしら美を垣間見た様に感じる
風雅優雅 雅にはそんな風情があるのかも知れない
さて私は雅で美を本当に語る事が出来るのか
美と言えば美術
美術の本質は何だ
それは雅か
少し違うかも知れないが
ひょとしら本質はそうなのかも知れない
さてどうなのだろう
私たちは日本の美術を見る時
そこに雅を感じる様に思う
ところが西洋の美術を考える時
何かしら雅を感じる事が出来ない場合もある
日本の美術と西洋の美術は本質的に違うのか
日本の美術は
最も明治以前の美術の事であるが
それは一種雅の世界
だが西洋のそれは個の世界
それはそうだろう
西洋においては
ルネサンスと共に個が発達して来た
今私が読んでいるデカルトを見よ
何と言う個の世界か
それは何と1600年代前半の事
驚くが当然だろう
ルネサンスとは何と十三世紀後半から十五世紀後半との事
さもありなん
デカルトの出現も
私たちはルネサンス以前に遡れば
そこの美術に雅の世界を見る事が出来るのかも知れない
私は美術の本質を見た
そこには二つの世界が流れる
雅の世界と個の世界
しかし個の世界だけでは詰まらないし
美は在り得ない
個を如何に雅の世界に絡ますか
それが近代美術の流れである
私たちは美術に個を見るのか雅を見るのか
その二つのハーモニーを楽しむ
それが近代美術の楽しみ方である
それでは聞こう
純粋な雅とは何か と
それは美の第一形象の事である
その第一形象をどう捉えるか
それに依って美術家の画風と言うか
風雅さが決まる
と言う様な論法で
美の第一子
美術の本源を語る事にしよう
さて今日私が雅と共に思い付いたのが幽玄である
これもまた日本独特の言葉の様であるが
果たしてそうなのか
私は今思った
幽玄が美の第一子であり
雅が幽玄の第一子であると
幽玄は全ての美の顕現に通じる
それは美術だけでなく音楽にも通じて行く
雅 それは主に美術へと通じて行く
雅は幽玄から生まれる
幽玄は美の第一子
雅は幽玄の第一子
だから音楽の方が依り美を含む
美術よりも
見るに耐えない絵と言う者は存在するが
聞くに堪えないと言う音楽は存在しない
音楽に個を入れようとする動きがある
しかしそれは邪道であり
それは聞くに堪えない音楽を生む
音楽に個を入れようとする者は
幽玄が何かを知らない者である
そんな音楽がこの世に蔓延った時
幽玄はこの世にさよならを言うのであろう
もし貴方がその音楽を聴く時楽しくなれば
貴方は幽玄の世界に誘われているのである
幽玄を楽しめ
美を垣間見ろ
さて「希望」「幽玄」「雅」を決定するか否かは
次回への宿題とする
平成16年7月12日
さて今日の宿題は
希望幽玄雅を百の言葉に入れるべきかどうかと言う事
この内希望については入れても良い様な気がするが
どの様な論が展開され得るのであろう
私たちは何時の時代でも希望を持っています
その希望が如何なるものか
それを検証する事に依って
希望の本質を見極める事が出来るのでは無いでしょうか
さて現代の私たち
私たちは一体何を希望しているのでしょうか
お金持ちになる事でしょうか
ある者は希望しているかも知れませんが
ある者は希望していないかも知れません
この現代が希望しているものは何でしょう
それはあまりにも大きすぎます
ではこの日本
そしてその日本の若者
彼らが何を希望しているのかを見て行きましょう
それに依って希望の本質を見極める事にしましょう
さて日本の若者は一体何を希望しているのでしょうか
良い職に付く事でしょうか
本当に全ての若者が良い職に付く事を望んでいるのでしょうか
それはある意味では本当でしょう
仕事とは仕え事
私たちはこの一身を仕える為に差し出すのです
誰に
そこの所を若者は知りません
若者どころか世の多くの者はそれを知らないままに
この一生を終えてしまうのです
さて私たちは何に仕えるべきなのでしょうか
その事を見究めた者は
その仕え事に一身を捧げます
そして振り返って
こう言います
善しと
彼は希望の中に仕事を完遂させたのでしょう
私はやはり思います
希望とはその事を望みつつこの世を渡る事であると
その為に仕事の選択は大いに大切です
しかし誰も希望を持たずにこの世を渡っている
それが現状ではないのでしょうか
私たちが希望を持つ時
始めて神通力が生まれるのです
神通力 神に通じる力を持つ為には
希望を持ち続けなけらばならないのです
さてここに百人の人が居ます
実に様々な人々です
私は彼らに質問しました
貴方の希望は何ですか と
これがその百の答えです
彼女と結婚したい
お金持ちに成りたい
大臣に成りたい
大きな家が欲しい
海外旅行がしたい
恋人が欲しい
いい大学に入りたい
いい会社に入りたい
休暇が欲しい
早く大人に成りたい
お金が欲しい
可愛いお嫁さんに成りたい
自由に成りたい
看護婦に成りたい
マザーテレサみたいに成りたい
神父に成りたい
・・・・・・・・
私は思う
結局希望の最終目標は
善き仕事に付きたいと言う事に繋がると
何故なら仕事に依って
その希望を叶える事が出来るからである
もし職に付いていない若者に
貴方の希望は何かと問えば
大概の者は善き仕事に付きたいと述べるであろう
何故ならそこに希望の本質があるから
私たちは何故社長に成りたいと望むのか
何故大臣に何故看護婦に何故弁護士医師に成りたいの望むのか
それはその職が
彼らの希望を叶えると思うからである
富地位名誉の為か
勿論それらもあるが
しかし本質はそれとは違う
その本質は愛 博愛 隣人愛である
人々を助けたい
その微かなる希望を望みつつ
彼らは善き仕事を希望するのである
たとえそれらが目に見えなくても
しかし現実は彼らを斯くも砕く
そして彼らはその日暮らしに追われる事に成る
彼はその希望をいつの間にか失ってしまうのである
さて私は希望について何が言いたいのか
言いたい事は未だ定まってはいないが
それが目の前にあることに依って
新たな展開が期待出来るであろう
と言う事で百に決定とする
さて美の従者たち
雅と幽玄はどうするか
日本的であり
普遍的でない様な気がするが
どうしたものか
雅を普遍的な言葉で言い表せばどうなるのだろう
華と言う言葉が近いが
雅の奥ゆかしい美が表現されていない様な気がする
それに華と言う言葉も普遍的な言葉では無い
美を表現する為に雅が必要か
その前に私を表現する為に雅が必要か
私と雅は如何なる関係があるのか
私は雅人か
そう私は雅人である
だから私は美しいのである
私はがさつでない
私の雅はその奥城から生まれる
その奥城の名は幽玄
幽玄については言いたい事が次から次に出て来そうだ
幽玄については決定とする事にしよう
雅はその中で述べれば良いのかも知れない
と言う事で
今日は希望と幽玄を決定する事にしよう
時間が来たので今日はここまでとする
平成16年7月13日
「希望」と「幽玄」について
さて今私はデカルトを読んでいる
デカルトは私の理性を呼び覚ます
理性認識悟性
これが如何なるものであるか
デカルトは我々に問う
私は前にそれに答えた
それは論理であると
デカルトも言うだろう
そうだと
デカルトの論理学は幾何学だ
積み木を一つずつ積み重ねる様に
論理を積み重ねて行く
そしてそれらの論理の一連の働きを
理性とか悟性とか認識と呼んでいる
さて私は理性悟性認識について語る事が出来るのか
それらは知恵と如何なる相関関係にあるのか
私は思う
知恵を語る前に理性を語る必要が有ると
理性とは知識を論理で追う心である
その知識を論理で追えば追うほど
その知識はより確かなものとなる
デカルトはそれを真理と言ったが
私はそれをより確かなものとなると言い表す事にする
真理は何時になっても到達できないが
より確かなものは次から次に実現して行くから
さてここで理性と知恵を比較検討し
語らなければならない
理性は過つ事が無い様にと働く心の事である
その原則は論理に従う事
さて聞こう
知恵も論理に従うのか
私は答える
否と
勿論論理を従える事はある
しかし時には論理を切り離し宙に飛ぶ
詩人が積み木の様に
論理を一つ一つ積み上げて行くだろうか
彼は閃きの中で
もう一つの世界に行くのではないだろうか
私が言いたいのはこうである
知恵ある者は
異言と共に預言を語ると言う事である
知恵ある者は
異言を預言で紡いで
この世にかの世界を垣間見せると
デカルトの論理学は正しい
それは形而下学と言える
しかしこの世界は一つでは無い
二つある
すなわち形而上の世界と
形而下の世界
形而下の世界はデカルトの論理が通用する
と言うよりもその論理がその世の掟である
しかし形而上は違う
形而上に有るのは知恵の閃き
それはよく稲妻に譬えられる
知恵に馴染みの無い者は
その閃光に耐えられない
だが知恵有るもの見よ
喜々としてその光を身に浴びているではないか
理性はこの世を上手く渡る為の手段である
私は理性の本質を究め
その養成方法を語る
その様な事が出来るのか
出来る
デカルトの方法論はそれであり
私は私なりにその方法論を説く
しかしそれはデカルトのそれと変わる事は無い
すなわち我思う故に我有りである
この大原則を知れば理性は容易に身に付く
私は知恵の対極にあるものとして理性を語る
理性は我有りから始まり
知恵は貴方から始まると
すなわちこう言う事が出来るかも知れない
理性の芽生えが無ければ
知恵を生まれ得ないと
何故なら私が居なければ
貴方も存在しないのだからと
この辺りを突いて理性を語る事にしよう
百に決定
今日は未だ時間もあるが
明日からの旅の準備もあるので今日はここまでとしよう
平成16年7月14日
「理性」について
さて愈々大詰めだ
ここ二三日でたぶん百を越える事だろう
さて私を表現する為に必要な言葉とは何だろう
ここ四五日に間に思い付いた言葉がある
それは環境と健康と生活
これらが百に値する言葉か
今日はその辺りを考える事としよう
さて先ずは生活
これは百に値する様に思える
私たちは生活している
実存主義者たちの言葉を借りれば
その生活の中において
私たちたちは確かに実存しているのである
さて生活とは何か
それは私たちが生きそして活きる事か
生き生きと活きる事か
一体それはどう言う事か
結局それは命の命ずるままに生きよと言う事なのだろう
その事を中心に生活を述べるのか
それとももっと生活感を持って述べるべきなのか
生活と似た言葉で既出の言葉として人生がある
人生は生まれてから死ぬまでの事
そこには様々なドラマがある
生活には時間の概念があるのか
生活とはその時生きそして活きる事なのか
私たちには本能と言う言葉がある
勿論人間であるから本能のままに活きる事は出来ない
だから生きそして活きると言うのだが
生活には本能と理性の混交が見られる
良く生きるとは
この本能と理性を切り離して
良く活きる事なのではないか
もし私たちが本能に委ねたら
私たちは肉体的快楽を追い求める事になる
本能とは肉体的快楽を求め続ける事である
その事に依って生を維持し続けるのである
肉体的快楽に任せればどう言う事になるか
それは争い
一方の快楽は他方の苦痛を生む
最も端的に言えば
一方では生を享受し
他方では死を甘受しなければならない
これが本能
肉体的快楽を求めるものたちの結末
それでも良いのか
であれば生活を本能に任せればいい
しかしその事については誰も善しと言わない
そこに理性の出番がある
生活とは本能を押さえつつ理性のままに生きる事
それが生活の模範
しかしそれでは本能が黙っていないだろう
そこで賢い人間が結婚生活なるものを生み出した
そこで彼らは通常は理性的に振舞うが
ある時間彼らが本能に身を任す事を許す
これに依って
人間の生活に理性が保たれ続けて来た
しかし今を見よ
恋愛と言う名の下に
本能が横行し始めている
女に本能の手段を渡して見ろ
その結末は 何とおぞましい事か
貴方方にはそれが見えない
しかし私にはそれが見える
貴方方は女の横行を許した
貴方方はその尻拭いをしなければならない
何と哀れな時代よ
男が女の尻拭いをしなければならないとは
男よ
貴方は何時男のプライドを捨てた
何時から女の奴隷に成り下がったのか
男よ
鎌を擡げよ
私たちは何時から男を捨てた
それはあの鎌を捨てたあの時から
あの時まで確かに私は男だった
あの鎌を捨てたあの時から
私は次第に男で無くなった
ああ
私が充実していたあの頃
あの頃はもう帰っては来ないのか
そこの男よ嘆く出ない
私が貴方に鎌を差し出す
知恵と言う鎌を
この鎌により
貴方の大地を耕せ
そしてもう決して女性をのさばらすな
女性をその一角に頚木で繋いで置け
貴方の為に良く働いて呉れる牝牛の様に
さて私は生活について
一体何を言いたいのか
導入部を少し間違えた様である
生活については
こう入って行かなければならなかったのである
ある百科辞典を見た
これは項目ごとに整理されていた辞典であった
私はその内の生活と言う項目の辞典を見た
そこには五つの大見出しがあった
それは衣と食と住とスポーツと趣味とあった
私がこれで生活の概念を了解した
それは衣食住と余暇生活の事であると
私はその観点から生活について述べる事にする
衣食住無しに人は生活する事は出来ない
良く言う
衣食足りて礼を知ると
これは本当の事である
何故なら礼すなわち禮は余暇の中にこそ在るのだから
その論法で生活を語る事にしよう
礼を百の言葉に入れたが
それはこの生活をより楽しくする為
純粋に言えば生活の中の余暇生活を楽しむ為に
さて私は生活で何が云いたいのか
言いたい事は山ほどにある様な気がする
清貧もその一つだろう
ここから環境へとも発展して行く
取り敢えず生活は確定だろう
さてその派生である環境
これを百の言葉に入れるかどうか
時間も来た様であるので次回への宿題としよう
なお環境は一回俎上に上がった様な気もするが
また別な視点から視界が開けるかもしれない事だろう
平成16年7月20日
「生活」について
さて前回で生活を決定させた。
今日の宿題は環境との事であるが
今日は先ず健康から考察して行きたい
健康なる肉体に健全なる精神が宿る
私たちは精神を語る前に
その下地として肉体を語らねばならない
この肉体がぼろぼろである場合
健全なる精神をキープする事が出来るか
それは並みの人には並大抵でない
と言うよりもほとんど無理である
最後の時に一時的に達観するだけである
健全な精神をキープする為には
やはり健康な肉体をキープしなければならない
健康な肉体をキープする為に必要な事
それはやはり睡眠栄養運動であろう
この内睡眠栄養については気を付ければ
それだけでキープ出来る
やはり厄介なのは運動である
精神を楽しもうとする者は
寸暇を惜しんで精神と楽しもうとする
その結果時間不足である
運動に回す時間が無くなる為
その結果として肉体は幾らか軟弱になる
その結果
健康なる肉体に健全なる精神が宿ると言う
あの諺が活きて来ない事になる
精神に遊ぶ者は
どうしても肉体が軟弱に成るので
その精神を実行に移す力が弱くなる
その為に真っ当な健全な精神が育たない事になる
惜しい哉
それでも精神派が肉体派よりも数段も格は上である
何故なら人間とは精神だから
ただ肉体が弱い為精神を実行する力が弱いと言う事だけである
健康なる肉体に健全なる精神が宿る
その典型を挙げろと言えば
それはやはりソクラテス
ソクラテスの如き強靭な肉体と強靭な精神が有れば
鬼に金棒
さて私が言いたいのは健康なのかそれとも肉体なのか
私は主題を外れつつある様な気がする
もし健康であれば
健康の定義から入るべきである
さて健康とは何だろう
それがどうして私を表現する為に必要か
そこから入らなければならない
何故健康が必要か
それは肉体の悪魔に負けない為
そして愛の実践を厭わない為
その為に健康が必要?
方向転換
肉体を標題に謳う事にする
肉体は公器
これを自由に操れる者が
聖なる者
肉体は不平を言う
これに轡を嵌め手綱を掛ける者が
より聖なる者
肉体を愛馬の様に乗り回す者が
より聖なる者
肉体を手中に収めた者
彼こそが聖なる者
聖なる者とは
肉体を完全に支配した者
肉体が喜々として彼に従う様であれば
彼は真の勇者
さて私は肉体を主題にしてこの様に語ろう
人間とは肉体と精神から成る
これらは引き離す事は不可能の様に思える
肉体と精神は一体と成ってこの世を闊歩している様に見える
しかし私は言う
肉体と精神は厳然として二つに分ける事が出来る
これをきれいさっぱりに二つに分ける事が出来れば
その人の精神はより高く飛翔すると
人間には目的が二つある
一つは飛翔
精神の飛翔である
肉体を離れて限り無く神に近づく事である
その為に精神から肉体を切り離さなければいけない
もう一つの目的は愛の実践すなわち徳の実行である
その為に必要な事
それは肉体を従える事である
愛の実践 徳の実行は
肉体を駆使して始めて可能となるからである
その為に必要な事
それは肉体を精神に服従させる事なのである
私はこの肉体と言う標題の下で
肉体を精神に服従させる為の方法を説く事にする
肉体を精神に服従させる為の方法
それは愛犬を育てる事であり
愛馬を育てる事である
決して甘やかしてはいけない
徹底的に服従させる事である
その服従の暁にはどうなる
愛馬愛犬としての誇りを持つ事が出来
またよその者が言うだろう
素晴しい犬ですね素晴しい馬ですねと
そしてその犬をその馬を見ろ
喜々として貴方に従っているではないか
これこそが肉体を服従させる為の方法だ
具体的メソッドは調教師に聞け
私は年だからもう肉体を服従させる事は出来ない
この我が儘な肉体に寄り添って生きて行きます
いいだろう そうしなさい
だが若者たちよ 貴方たちには許さない
再度調教し直しなさい
私がその方法を教える
先ずは粗食に耐える事を覚えなさい
そうすれば貴方の胃はもう叫ばないだろう
衣服については簡素を覚えなさい
そうすれば貴方は人目を気にする事も無くなる
なぞと・・・
時間が来たので今日はここまで
平成16年7月21日
さて愈々夏である
夏の週末は海と決まっている
今年も早速楽しんだ
夏の海は全てが静まっている
私はその静寂を楽しんで来た
さて百の言葉の続きに入ろう
前回では肉体がほぼ確定
私が存在する為には
この肉体の事を語らねばならないだろう
躾の行き届いた犬の様に馬の様に
この肉体を鍛えて置くべきだったが
後の祭
だが訳も無く吠えしきる犬の様には成らない事にしよう
と言う様な事で
この肉体を語る事にしよう
さて私はこの週末に考えて事が二つある
それは普遍と環境である
どちらも海の光景を見て考えた
静かな海を楽しんだと書いたから
誰も居ない海に行ったと考えたかも知れないが
そうでは無い
海水浴場に行ったのである
無料休憩所にコザを敷いて
珈琲を飲みながら一人悦に入っていたのである
若者や子供づれのはしゃぐ声でとても賑やかだったが
私にとってはこの上なく静かっだのである
静けさや岩にしみいる蝉の声
夏は全てが止まっている
特に夏の海においては
私はその静寂を楽しんでいたのである
私はそこで普遍と環境を考えたのである
私がそこで普遍を考えたのは
そこに楽しむ親子連れや恋人たちを見てである
親子夫婦恋人etc
これらは普遍なのではないのかと
何時の時代にも夫婦が居り親子が居り恋人たちが居たのではないかと
普遍と言うと何か一つの存在
すなわち神を考えがちだが
我々の身近に変わらずに存在するもの
それも普遍なのではなかろうかと
我々人間は考える存在である
我々が考える限り
そこには夫婦があり親子があり恋人たちが居るのではないかと
貴方は言うだろう
古代ギリシアの時代
彼ら奴隷に夫婦と言う存在があり親子と言う存在があり
恋人たちと言う概念があったであろうか
私は言う
古代ギリシア市民にそれらの概念が無かったというのかと
有ったであろう
であれば奴隷人にも当然に有ったのである
古代の奴隷人にはそれが厳しく制限されていただけである
彼らには少なくとも夫婦と言う存在はあった
でなければ
奴隷は存続し得なったであろう
その時代に現代の科学があれば
夫婦は存在しなかったかもしれない
すなわち人工授精である
現在の犬牛豚を見よ
優秀に成ればなるほど全て人工授精だ
もしその技術が
あの古代ギリシアにあれば
その奴隷人には夫婦親子恋人と言う者は存在しなかっただろう
しかし私は言う
そこには何の文化も発達しなかただろう
そこに有るのは退廃だけだっただろうと
しかしそこには確かに奴隷の文化が有った
だから古代ギリシアはあの様に発展したのである
二つの文化の葛藤の中で
古代ギリシアはあの様に健全に発展したのである
私は言う
たとえ子供が乳離れして手が掛からなくなり
奴隷市場で売られたとしても
そこには親子の関係が有ったのである
私はそこに普遍を見るのである
恋人についても同じ様な事である
男女が別々に厳しく分けられていたとしても
そこには恋が有り恋人たちが存在していたのである
私はそこに普遍を見るのである
最も古代ギリシアのおいては男女はそれほど厳しく峻別はされていなかったと思うが・・・
それが為に二つの文化圏が独自に発達したのである
そこにある意味ではイエスキリストが生まれる素地も在ったのである
古代ギリシアから古代ローマへ
それは奴隷階級と市民階級の融合の橋渡しをしたのである
ニーチェは言った
イエスの思想は奴隷根性だと
私は言う
その通りだと
それは素晴しい奴隷の思想である
虐げられた者の
この世に耐えに耐えた者たちの思想である
それを奴隷根性の一言で言い切ってしまえば
彼にはあの様な結末しかなかったのであろう
この世に耐えた者たちの愛の思想
それがイエスキリストの思想である
何と素晴しき思想ではないか
泥沼に蓮の花が咲く
その事を否定してしまえば
そこには優生思想しか生まれない
私はそこから普遍と環境を思ったのである
人間は考える存在である
我思う故に我在り
この言葉が今私を強く捉えている
それは巷では
近代の自我の芽生えを象徴する言葉として捉えられているが
私ははっきり言う
人間が考える存在だった時から
その事はそうだったのである
すなわち人間が存在し始めたその時から
我思う故に我在り
天下天下唯我独尊
始めに言ありき
これは全て同じ事を言っている
私が考える
だからこの世界が存在する
俗に言う観念論ですかね
我思う故に我あり故にこの世界が存在する
この事を観念論と言うのであれば
私は誰よりも観念論の旗を高く掲げる
私はその静寂な上にも静寂な海水浴場で
普遍と環境を思ったのである
その海水浴場の母と幼子
それは普遍ではないか
その他にも色々な普遍を見たが
それはさて置き
そのその母と幼子に限って言っても
そこには
人間が考える存在である限り
母と幼子と言う普遍が存在しているのだと
そしてそこに父や兄弟を付け加えた家族を
更に祖父母叔父叔母を加えた親族を
私は海水浴場でその普遍を見たのである
それは普遍であるが
またそれは個であると
そこに環境と言う概念が生まれてくるのだと
色々な環境が叫ばれているが
人間が耳目にする最初の環境で
一番身近な環境
それは家庭環境である
私はそこで普遍と共に
環境を思ったのである
私はこう思うのである
人間は誰でも東大に合格出来るのだと
しかし環境の精で斯くも差が開くと
人間は考える存在である
この事を正しく理解したら
世の全ての者は東大に合格出来るだけの知識は身に付くのである
しかし如何かな
環境が違う為
この様にも差が生まれるのだと
私のこの考えにソクラテスもプラトンもデカルトも賛成する
東大入試試験の知識位
誰でも彼でも身に付くと
その試験問題を出す者たちの知恵の高さを見ろと
皆お猿さんに毛の生えた様な存在ばかりではないかと
そんな事を
時の止まった様な静かな海水浴場で考えたのである
さて普遍と環境を百に入れるかどうか
時間が来た様であるので
次回への宿題とする事にしよう
平成16年7月26日
「肉体」について
さて普遍と環境を百の言葉の中に入れるか入れないか
これが今日の宿題との事であるが
とにかく入れて見よう
そして総括して見よう
百を越えているかいないのかと
それではラインアップ
「私」「知恵」「言葉」「世界」「哲学」「自然」「人間」「神」「心」
「人生」「幸福」「快楽」「時間」「愛」「徳」「思想」「読書」「詩作」
「国家」「家族」「法」「命」「現代」「社会」「歴史」「政治」「感情」
「音楽」「珈琲」「旅」「革命」「仕事」「死」「瞑想」「天国」「美」
「善」「真理」「芸術」「言語」「科学」「知識」「宗教」「日本」
「平和」「自由」「平等」「性」「学問」「対話」「宇宙」「地球」
「無」「気」「精神」「欲望」「理想」「教育」「子供」「結婚」「富」「力」
「信仰」「自信」「意志」「行動」「経験」「観念」「感覚」「遊び」
「悟り」「祈り」「苦悩」「価値」「経済」「習慣」「比喩」「存在」
「文化」「中庸」「情報」「勇気」「忍耐」「寛容」「節制」「道」「義」「誠」
「礼」「論理」「世間」「因果」「物」「希望」「幽玄」「理性」「生活」
「肉体」「環境」「普遍」
丁度百である
さてどうしたものか
これで終わるのか
漏れた言葉は無いか
無駄な言葉は無いか
もう一度再チェックして見る事にしよう
この百の内
勇気忍耐寛容節制の徳のそれぞれと誠
これについては代わる言葉があれば代えて良い様な気がする
時間が来た様である
今日はここ迄とする
平成16年7月28日
「環境」と「普遍」について
さて今日は光景 友 恋について考えました
そして時間です
平成16年7月29日
週末の朝です
週末の朝は一人自分と向き合う場ですが
しかし夏です
夏の週末は海と決まっています
そう言う事でこれから海に出かけます
その海で海と語らいながら
自分と語り合う事にしましょう
百の言葉を携えて
平成16年7月31日朝
夏はどうも落ち着きません
直ぐに週末に目が行きます
その為この日々の思いが途切れてしまいます
今日もそうです
もう直ぐ切り上げなければならないのです
週末をあそこに行くかここに行くか
思うだけならその思いは何時しか沈静するでしょう
しかしインターネットに手を付けたらもうお終いです
そのぎりぎりの時間までインターネットに追いまくられる事になります
さて愚痴を愚痴るのは止しにしましょう
その残された時間を哲学百章の傾ける事にしましょう
さて哲学百章では取り敢えず百の言葉が決まりましたが
これからはその練磨です
この百で果たして良いか と
手元に百のメモがあります
ここには「友」がありません
友を百の言葉に入れるかどうか
余り時間はありませんが
今日は残りの時間をそれに充てる事にしましよう
友については全く考えなかった訳ではありません
俎上に上がりましたが
ある意味で却下したのです
却下理由は私に余り馴染が無いと言う事からです
しかし事変が有ったのです
事変の内容については述べない事にしますが
とにかく友にについて考えた方が良いのではないかと
そんな内心の囁きがあったのです
さて友とは何でしょう
私は友と言う時
ゲーテの友情を思い出します
ゲーテは本当に友を大切にしました
それは何故だったのでしょう
ゲーテは友に自分の分身を見たのでしょうか
それが為自分を大切にする様に友を大切にしたのでしょうか
ええきっとそうです
ゲーテの類まれなその思想の中に
多くの人が入り込んで来たのです
だからゲーテは自分を大切にする様に
その人々を友として労わったのです
そうでなければ
あの様な人情味溢れる物語は生まれて来なかったでしょう
さて友とは何でしょう
そうです
それは他人に自分を見る事なのです
他人の中に自分が見えて来た時
その時その他人が友と言う存在に成るのです
結局多くの友を持てると言う人は
その人の中に多くの人が住める余地があると言う事なのです
友と言う時
太宰治の走れメロスを思い浮かべる人があるかも知れませんが
あの主人公の心の中には友と言う概念はありません
あるのは義務です
その一心の忠誠心の中に義務が完遂されたのです
ただそれだけの事です
しかしもう一方の彼には友の概念があります
彼は主人公に自分の信頼を見たのです
そして果たしてその信頼が完成したのです
彼には充足があったことでしょう
私が完成した と
友とは自分を完成させる媒体なのです
私は世と変わった事を言います
しかしそれは私にとっては真実なのです
私はうわ言の様に語ります
その言葉が何を意味するかも頓着無しに
しかし私は感じるのです
その文章を後で読み直した時
そこにははっきりとした意味があると
私はうわ言の様に語りますが
確かに私自身を語っているのです
それが私と言う存在ですが
それと友とはどんな関係にあるのでしょう
私はこう言いたかったのでしょうか
友とは無意識にお互いを交換出来る者の謂いだと
私は思います
ダチは簡単に出来ますが
友を作る事は至難の業だと
何故なら友と成るには
心が相似形でなければならないから
私は先程こう言いました
友とは自分の心を反映出来る者だと
その為には相似形である必要ああるのです と
さて心の相似とは一体どう言う事を言うのでしょう
相似の三角形
逆さになったり向きが反対になっていたら
それが相似であることを見付けるのに戸惑う事があります
しかしその対角線とその中心点を見出した時
私たちはその二つが相似である事を確信します
友もそう言う事です
友と成る為には大きさは問いません
しかし相似が必要なのです
二等辺三角形と正三角形はやはり相容れないのです
常に相容れるもの
それは正三角形です
正三角形は時を越えて時代を超えて
友達であり続ける事が出来るのです
なぞと今日はうわ言の様に喋り捲りました
時間が来た様です
それではまた明日まで
なぞと・・・
平成16年8月3日
「私」「知恵」「言葉」「世界」「哲学」「自然」「人間」「神」「心」
「人生」「幸福」「快楽」「時間」「愛」「徳」「思想」「読書」「詩作」
「国家」「家族」「法」「命」「現代」「社会」「歴史」「政治」「感情」
「音楽」「珈琲」「旅」「革命」「仕事」「死」「瞑想」「天国」「美」
「善」「真理」「芸術」「言語」「科学」「知識」「宗教」「日本」
「平和」「自由」「平等」「性」「学問」「対話」「宇宙」「地球」
「無」「気」「精神」「欲望」「理想」「教育」「子供」「結婚」「富」「力」
「信仰」「自信」「意志」「行動」「経験」「観念」「感覚」「遊び」
「悟り」「祈り」「苦悩」「価値」「経済」「習慣」「比喩」「存在」
「文化」「中庸」「情報」「勇気」「忍耐」「寛容」「節制」「道」「義」「誠」
「礼」「論理」「世間」「因果」「物」「希望」「幽玄」「理性」「生活」
「肉体」「環境」「普遍」
さて百の言葉が一応決まった訳であるが
これで良いのか
足すべきものはないか
引くべきものはないか
その吟味が必要なのだろう
一応この百で納得はしているが
勇気から始まり誠に終わる徳の数々の言葉
これについては整理してもいいのではないかと思っている
代わりの言葉が出て来たら
勇気忍耐寛容節制道義誠
この内
道については入れるべきであろう
道は徳とは少し違う
徳から独立した言葉だ
それにこの言葉は詩的である
この言葉にはたくさんの言葉が従う
だからこの言葉は百に無くてはならない
それから義
これも使い方に依っては
徳とニュアンスを別にする
聖書で使われる義
それは徳とは異なる
義に飢え渇く人々は幸いである
義のために迫害される人々は幸いである
貴方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義に勝っていなければ・・・
それは徳の概念で括れない
それより上の概念である
義により全ての戦争が行われて来た
正義とは何か
私はその事に迫ろう
道と義これは百の言葉から落とす事は出来ない
残りの勇気忍耐寛容節制それに誠
これらは徳に包括させても良い
そうすれば後五つの言葉を入れなければならない
友はどうか
友を入れよう
友の居ない私には書きにくい題材だが
真の友の概念はある
それを描き出す事にしよう
絵画はどうか
音楽と対と成る絵画は?
入れる事にしよう
今回パリに行く事でもあるし
詩と絵と音楽を人に強く勧める者でもある事だし・・・
音楽は直接精神に働く
たとえ教養が無くてもそれは人を動かす
しかし絵画は知識が必要だ
何故ならそれは読み込まなければ成らないから
例えば古典派の絵画
聖書の知識が無ければ画家とは本当の意味で対話は出来ない
抽象画はどうか
尚更である
あんな絵を読むのは頭でっかちの人間だけである
では印象派の絵はどうか
音楽にかなり近い
それでも知識は必要だ
知識の必要の無い絵画は無いのか
ある
風景画である
風景画は一番自然に近い
だから音楽の様に自然と人の心の中に入って来る
それでもやはり読み込まねばならない
なぞと
そんな趣旨で書くか
て後三つ
ところで勇気忍耐寛容節制は本当に外してよいのか
その辺りの鬩ぎ合いも含めて
次回への宿題としよう
平成16年8月19日
「友」と「絵画」について
さて日にちが飛んで申し訳ない
夏の週末
当然海に行っていた訳だが
そこで思った
普遍を入れるべきではないかと
たぶん入っているだろうとも思った
しかしあにはからんや
入ってはいなかった
私は思い出した
普遍と言う言葉が
俎上に上がった時
真理と対峙させて
これは同じものではないか
同じものでなくても
真理の中で述べればそれでいいのではないかなどと
さて真理と普遍は同じなのだろうか
ピラトは言った
真理とは? と
イエスはそれに答えなかった
真理は一つなのか
それとも多数なのか
私は何時もここで迷う
一つの真理
その謎だけが残されたとしたら
私たち人類はその謎解きに誰でも挑戦出来る
しかしもし多数の真理があるのだとしたら
私たちは誰も真理を見出せない
デカルトは言った
我思う
故に我ありと
この言葉が今私にとって
一番関心がある
思想するから私が存在する
思想するから人間が存在する
思想こそが全てである
どの様に思想するか
それが問題である
哲学の歴史はそうではなかったのか
ピラトに対するイエスの言葉はこうだったのではないか
貴方のその言葉が真理だ
だから真理を大切にしなさいと
言葉が真理
そのとおり
だから言葉を大切にしなければいけない
言葉を如何様に使うか
その大原則が
隣人を自分の様に愛しなさい
イエスはその事だけを言っていたのではないか
隣人を愛する事がそんなに難しいのか
難しいから
イエスは非難され
そして最後には殺されたのである
隣人を愛する事
平成 年 月 日(作成日不明)
私は今どん底に落ちようとしている
何故か
私自身を見失っているから
私自身が無ければ私は何者か
それは風に流される葦
私は風に流され右左
私は右往左往
もう這い上がれない程
何故そんな私に成ったか
それは私自身に還ることが無かったから
どう言う事か
それはこう言う事
私は書く事に依って私に還る
しかし今私は調べ物に依ってそれを全く蔑ろにしていたから
調べ物とはパリ旅行のあれこれ
先ずは地図に依る町並み精査
それからガイドブック
そして画集等に依る絵の下調べ
私はこれらに依って
パリの知識は増えた
しかしその分だけ私から遠のいた
それだけなら良かったが
しかしその間に私には色々の打撃があった
そして今日最後の鉄槌を食らわされた感じだ
それが為どん底と言ったのである
私は今最後の鉄槌と言った
普段の私であれば
蚊が刺したか蜂が刺したかの程度
それを私は鉄槌などと言う表現を使う
これこそが正に私が私を離れている理由
如何なる事が私に鉄槌を喰らわせる事が出来よう
もし私が私であれば
すなわち
私が言葉にあれば
如何なる事も私に打撃を加える事は出来ない
しかし私が私から離れ言葉から離れる時
私は些細な事で打撃を受ける
私よ私自身に帰れ
私は言うが
私は帰れない
何故ならパリの誘惑が大きいから
私は何故パリに行くのか
それは私が大きく成る為
すなわち私の世界を広げる為
私はその下調べに依って
私の世界は今大きく開こうとしている
それを完成させる為にも
この下調べは重要なのである
私とパリ旅行
上手くバランスを取ればいいのだが
今パリ旅行が私に勝っている
だから今私は私を亡くしているのである
私は思っている
パリ旅行から帰れば
私は確かに大きく成っていると
私は確かに世界の中心地をみたのである
文化の中心地を
私はこれに依って世界を類推出来る
その精度は格段に上がっているのである
素晴しき私の為に
今はそのレッスン中
だから私の居ない私に耐える事にしよう
少々の打撃は甘んじて受ける事にしよう
しかしこれ迄とは違って
少し余裕を持って
スコレーとは余暇
あまりに詰めないで
幾らかの自分を残しつつ
パリ旅行に邁進する事としよう
そう言う訳でパリ計画
七日間の主題を定めよう
一日目(日) パリの制覇
二日目(月) パリの絵心Ⅰ(ルーブル)
三日目(火)
四日目(水)
五日目(木)
六日目(金)
七日目(土)
平成 年 月 日(作成日不明)
夏も終わり
パリ旅行も終わった
哲学百章に本格的かかる事にしよう
さて百はどうなっていたのか
ここに再掲する事としよう
「私」「知恵」「言葉」「世界」「哲学」「自然」「人間」「神」「心」
「人生」「幸福」「快楽」「時間」「愛」「徳」「思想」「読書」「詩」
「国家」「家族」「法」「命」「現代」「社会」「歴史」「政治」「感情」
「音楽」「珈琲」「旅」「革命」「仕事」「死」「瞑想」「天国」「美」
「善」「真理」「芸術」「言語」「科学」「知識」「宗教」「日本」
「平和」「自由」「平等」「性」「学問」「対話」「宇宙」「地球」
「無」「気」「精神」「欲望」「理想」「教育」「子供」「結婚」「富」「力」
「信仰」「自信」「意志」「行動」「経験」「観念」「感覚」「遊び」
「悟り」「祈り」「苦悩」「価値」「経済」「習慣」「比喩」「存在」
「文化」「中庸」「情報」「勇気」「忍耐」「寛容」「節制」「道」「正義」
「誠」「礼」「論理」「世間」「因果」「物」「希望」「幽玄」「理性」
「生活」「肉体」「環境」「普遍」
現在思い付く中で百に入れたい言葉として
「古代」「文学」「絵画」「夢」「都市」「時代」「数」がある
これらを次の様に入れ替える事にしよう
「言語」を「文学」に入れ替える
「現代」を「時代」に入れ替える
「寛容」「節制」「希望」を落として
「絵画」「都市」「数」に入れ替える
言語を文学に入れ替える理由として
文学の中で言語を取り上げる事が出来る
また「言葉」を百の中に入れているので
「言語」では主に文法翻訳を中心に述べる積りであったので
その辺りを「言葉」及び「文学」に分散させる
現代を時代に替えた理由としては
時代の中で
現代古代を対比して述べる事が出来るから
寛容節制を落としたのは
勇気忍耐寛容節制は徳に関する事であるが
「徳」については百の中に入れているので
この中で述べる事が出来るから
なお勇気忍耐は徳の中でも特に述べる必要が有るから残す事にする
希望夢を落としたのは
それらは最終的には「祈り」へと通じて行くから
また希望夢に通じる言葉「理想」も百の中に入っているから
さてこれでほぼ百が決定
何故文学を入れたか
曖昧である
やはり言語を残し文学は入れない事にする
言語についてはこの様な調子で始める
日本語英語ドイツ語中国語フランス語スペイン語etc
世界には実に様々な言語がある
世界の国の数よりも多いと言う
ある本に依れば○○在ると言う
何故この様に多くの言語が生まれたか
そしてそこに共通するものは何か
その辺りを中心にして
言語を読み解いて行きたいと思う
時代については現代と古代を対比して述べたいから
述べたい事は一杯ある
私は古代礼賛者であり
現代を苦々しく思っている者である
絵画を何故百に入れたか
それは私が子供たちにそして読者に何時も
「詩」と「絵」と「音楽」と 言う風に
三点セットで推奨しているから
詩と音楽は百に織り込み済み
何故「都市」を百に入れたか
それは今回のパリ旅行も大きく影響している
花の都パリ
私はパリに行って都と言う意味が良く分かった様な気がする
日本の都東京は都足るか
そして日本の都市は
否応に都市になった都市
その実態を暴く共に
もし理想の都市と言うものがあればそれを描く
何故「数」を百に入れたか
私は昔から数の神秘について考えて来た
それに対する持論は未だ生まれていない
それを生み出す場としたい
今回のパリ旅行の際の地図
ここからも数(幾何学)に関する閃きがあった
また論理現代との相関を考える事にする
さてこれで百がほぼ決定
この百をどの様に並べるか
その前にこれらの言葉の概念を纏めて置く事にしよう
「私」とは私
「知恵」とは私の随伴者
「言葉」とは私と知恵が血肉したもの若しくは私と知恵の子供
「世界」とは私の子供たちが創った世界
「哲学」とは世界を生み出す為の方法または子供生み出す為の
「自然」とは世界を創る為の参考書
「人間」とは世界が生まれ自然を観照した時に生まれし物
「神」とは私と人間と世界と自然の仲介者
「心」とは祭壇 神に私を捧げる場所
「人生」とは重き荷を負うて歩く如しか若しくは快楽の中に生きるか
「幸福」とは選択の事 幸福な人生も不幸な人生もそれは全て選択
「快楽」人生の第一指針 快楽に沿って生きれは不幸無しエピクロス
「時間」カーラ 全てを飲み込む 飲み込まれない為私はこの書を書く
「愛」エロスからアガペーまで 私はアガペーに私の愛を注ぐ
「徳」愛の実戦部隊 徳無くしてこの世に愛は無し
「思想」思い想う事人間誰でも行う事だが千差万別 善き思いを願う
「読書」読書無くして教養なし
「詩」私が作る者は全て詩 私の韻律の中で私は謳う
「国家」家族と国家は相似形 家族が分裂すれば国家も分裂
「家族」全ての基礎の基礎 家族無くして国家無し 家族の基礎は愛
「法」全てを裁くもし従わなければ しかし法は限り無く優しい
「命」命は命ずる 生き生きと生きよと 命には従うしかない
「時代」古代は統合現代は分裂 私は古代を讃え現代を嘆く
途中ですが今日はここまで
平成16年10月2日
「百の言葉ほぼ決定」
「社会」利益者たる私が享受する全ての世界 利益が無ければ社会無し
「歴史」人間の精神の変遷史 古代の精神から現代の精神まで
「政治」現代の精神の表象 今現代人は何を思うのか 覚醒か混沌か
「感情」肉体と精神の協和または不協和 肉体無ければ感情なし
「音楽」時間を伴う精神の悦楽 不協和を排する
「珈琲」私の覚醒に至る手段 もし珈琲が無かったら私の覚醒は・・
「旅」自然の学習人間の学習世界の学習 旅無しの教養は虚構
「革命」哲学革命こそ我が仕事 世界の命を革ためる
「仕事」私の職名は哲学詩人 哲学をこの世に広める為生まれて来た
「死」毎日死して毎日生まれる 日々新たにこれこそ死の特訓
「瞑想」死を思う手段だが誰も死を思う事は出来ない 死のシュミレ
「天国」瞑想の第一段階 死への準備過程 天国無くして人は死ねぬ
「美」私にはどれ程美が埋もれているのか ここは私の美の発掘現場
「善」善は美しい だから私は善を求める 私が美しく在る為に
「真理」真善美 真理とは何か ここでもまた求め続ける 真理とは?
「芸術」哲学科学芸術 哲学は芸術を求め科学は芸術を排する
「言語」文法こそが法の法 だから人間は分かり合える
「科学」科学は細分化を続ける 命が無くなるまで 科学の終着点は?
「知識」知識は知恵の花を咲かせる 知識はまた知恵の芽を摘む
「宗教」宗教心の無い民族は軽薄 日本人を見よ 民族の拠り所
「日本」自堕落の国日本 この日本を如何に救うか それが私の使命
「平和」戦争と平和その分岐点にあるのは 心の平和その分岐点は余暇
「自由」自由の為にどれだけ血が流されたか 真の自由とは?
「平等」差別の無い社会は有り得ない 社会は利益追求の場だから平等
「性」性は生まれながらのもの?いいえ性は心から生まれるもの!
「学問」如何なる門を叩くべきか 学問 学びの門から人は生まれる
「対話」私と貴方の対話そこに全てがある 対話が無ければ永遠の沈黙
「宇宙」世界と宇宙 手が届くか届かないか 宇宙論は程ほどに
「地球」この美しき地球 出来る限り歩き尽くしなさい 地球の歩き方
「無」無こそが絶対平安 無に成る為に 瞑想祈りetc ブッダの思想
「気」気を生かす 生気 気の元元気 気はポテンシャルエネルギー
「精神」精神は精なる神 一人一人に与えられた精霊 精霊により生きる
「欲望」人は欲望に依って生きる 欲望が無ければ生を止められる 死
「理想」理想もまた祈りへと通じる 希望夢と同じ類 祈りにより止揚
「教育」教育とは国家意識を植え付ける事 国家意識無くして国家無し
「子供」子供は宝 子供がいる限り国家は繁栄し続ける 生めよ増やせよ
「結婚」聖なる結婚それは私と貴方の結婚 子供は言葉たち
「富」富は子供たち 生めよ増やせよ地に見てよ イエスの言葉を見よ
「力」力はより高き所より 自らの力を高めたければ昇れ より高く
「信仰」祈りを尽くしたら後は信じ仰ぐ事 最後の手放し
「自信」自らを信じてあげる事 自らの中にこそ大いなる力が在る
「意志」意志とは選択 何を選び取るか そこに自由意志がある
「行動」行動しなければ讃え様が無い 神の意志を実行する事
「経験」経験により知識は実と成る お百度を踏む事が大切
「観念」観念論は思想が全てと言う事 経験もまた思想?
「感覚」五感 見る聞く嗅ぐ味わ触る それもまた思想?
「遊び」余暇スコレー遊び そこにこそ高みに上る力が生まれる
「悟り」悟りに至る道 それが我が人生 如何なる悟りが在るのか
「祈り」祈りこそが理想世界を実現させる 祈りに継ぐ祈り
「苦悩」苦悩はアンシャンレジームのもの 新世界には希望あるのみ
「価値」何が一番価値があるのかお金か自由か民主主義か イズム
「経済」とは経して済する事 富を再分配する方法の事ではないのか
「習慣」習慣は第二の性格 性格を変えたければその事を習慣とせよ
「比喩」この世は全て比喩 比喩に一喜一憂するのは如何なものか
「存在」何が存在すると言うのか それはこの私 それ以外は全て比喩
「文化」とは文に化する事 何を文に化すると言うのか 精神
「中庸」中庸の美徳とは それを列挙開示しましょう 新たな徳の始まり
「情報」とは情に訴えるもの プロパガンダ 知識とは違う
「勇気」最も気高い徳 勇気さえあれば不可能なものはない
「忍耐」私たち平民に最も必要な徳 忍耐さえあれば不幸にはなるまい
「道」ロード タオ 私たちを常に導くもの 歩き続けなければならない
「正義」正義とは何か 有るのか無いのか 見極めて見ましょう
「誠」誠こそが私が私である為に最も必要なもの 誠とは何か?
「礼」とは潤滑油 これが無ければ何時もぎくしゃく 礼儀作法
「論理」は記号に置き換えられるのか 論理は主題に集約 全集合
「世間」渡る世間は鬼ばかりか そう しかし鬼と見ない約束が大切
「因果」因果は巡る 何時何時までも 因果の彼岸 それが無または死
「物」人と物と事 人事 人物 事物 物は実在するのか 物理学
「幽玄」美の奥城 古池や蛙飛び込む池の音 ポチャン 静の中の微かな動
「理性」理性感性知性悟性天性習性根性etc様々な性の代表者
「生活」生き活き生活の為の十か条 早寝早起き 肉体の活性化
「肉体」この重きもの 如何にして飛ばさしめるか 心身滅却すれば
「環境」地球環境生活環境学習環境家庭環境 環境って何?
「普遍」私は普遍偏在するものを求めている 有れば無ければどうする
「作文」思想は文に作る事に依って永続性を持つ 少なくとも百年は
「絵画」絵画に私はどれだけの事を読み込む事が出来るか それが教養
「都市」パリを例にして 秩序ある都市無秩序な都市 メガロポリス
「数」視聴覚は数の論理の中へ 味覚嗅覚触覚は不可能か?五感と数
※ 「理想」を削除して「作文」を入れ込んでいる
平成16年10月3日
「百のアウトライン?」
今日は10月9日
この5日間
哲学百章の仕事をしていなかった訳では無い
ワード上の仕事をしていなかっただけである
私は先ず百の言葉を紙面に並べて見ようと思った
その時思い付いたのが
私を一番下にして
神を一番上にする方法だった
この方法は正解だった
私は何度か並べ直す内に
ほぼ秩序立った順序を見出した
この間に百の言葉の入れ替えもあった
その結論を示すと次のとおりである
「私」「知恵」「言葉」「哲学」「愛」「自由」「快楽」
「真理」「善」「美」「学問」「読書」「哲人」「対話」「知識」「思想」「作文」
「人生」「幸福」「平和」「正義」「信仰」「祈り」「天国」
「死」「無」「瞑想」「新生」「道」「自己」「意志」「徳」
「心」「気」「性」「象徴」
「価値」「富」「地位」「名誉」
「観念」「存在」「力」「物」「数」「論理」
「芸術」「詩」「絵」「音楽」「遊び」
「覚醒」「悟り」「精神」
「肉体」「欲望」「苦悩」「感覚」「感情」「忍耐」「習慣」「人間」
「行動」「理想」「仕事」「世間」「勇気」「礼」「友」「家族」「経験」
「政治」「経済」「社会」「体制」「情報」「生活」
「宗教」「教育」「道徳」
「国家」「日本」
「旅」「民族」「言語」「風土」「文化」
「地球」「歴史」「科学」「普遍」「時代」「革命」
「世界」「因果」「法」「命」
「自然」「宇宙」「時間」「神」
勿論この百の言葉にはストーリーがあるが
時間が来たので
それについては次回にの述べる事にする
平成16年10月9日朝
「百の順番について」
「私」と「知恵」と「言葉」は三位一体である
この三者を結び合わせるのが「哲学」
すなわち知恵を愛する事である
私は哲学
すなわち知恵を愛する事によって
「愛」を知り「自由」を知り「快楽」を知った
私は哲学への快楽により
哲学の三門を潜った
すなわち真善美を
「真理」は手強かった
私はそれに対する回答を未だ得ていない
ピラトは聞いた 真理とはと
しかしイエスは答えなかった
真理とはそんなものなのかもしれない
しかし「善」と「美」は
この世に溢れんばかりに満ちていた
私はそれを更に学びたいと思い
学びの門
すなわち「学問」を潜った
それは師に付くとか
学校に通うと言うものではなく
「読書」だった
私は読書に依って古代の「哲人」たちを知った
それはとても素晴しい体験だった
私は哲人との「対話」により
また自分自身との対話により「知識」を得た
私はその知識を本に思い想った
すなわち「思想」した
またその思想を文に作った
すなわち「作文」した
この作文の技術は
私の哲学を私の思想を飛躍的に高めた
平成16年10月9日夜
私はこの技術により
「人生」を「幸福」を「平和」を思想した
その途中で私に「正義」の概念が生まれた
この正義により
「信仰」や「祈り」や「天国」が生まれて来る
天国を思想する場合
「死」も思想しなければならない
また似た言葉としての「無」も
無に至る道は「瞑想」であり
瞑想の暁には「新生」がある
新生すなわち新たに生まれる事によって
そこに「道」が生まれる
その道を辿る事に依って
人は「自己」を確立させる
自己が確立する事によって
強い「意志」が生まれる
その強い意志と「徳」を伴って
人はこの世に撃って出るのである
この世に撃って出る前に
整理して置かなければならない事がある
その第一が「心」である
それと似た言葉としての「気」も
また心に生まれるものとしての「性」もまた整理していかなければならない
次に整理して置かなければならないのは「価値」である
この世は「富」や「地位」や「名誉」に重きを置くが
これらの真の意味に付いても整理して置かなければならない
次に整理して置かなければならないのは「観念」である
「存在」「力」「物」「数」「論理」についてここで整理する
勿論「芸術」についても整理して置かなければならない
芸術は創造の力であり
新たな世界の原動力である
「詩」と「絵」と「音楽」には創造の神々が潜んでいる
「遊び」心についても整理する
精神の遍歴が終わった後で初めて精神を完成させる事に成る
精神の完成の為に必要なのが「覚醒」と「悟り」である
覚醒と悟りにより
人は始めて「精神」を完成させる事に成る
精神が完成して始めて人間に向かう事に成るが
人間と成る為に必要な事が肉の衣を着ると言う事である
肉体を着るやいなや人に「欲望」が生まれ
「苦悩」が生まれて来る事に成る
この苦悩は「感覚」ではなく「感情」に由来するものである
感情を思いのままにさせない為に「忍耐」が必要となる
それが「習慣」と成って
人は始めて「人間」と成るのである
平成16年10月?日
「百の言葉のストーリー」