私の哲学百章

私の哲学百章


はじめに                                      

 哲学とはフィロソフィア
 知恵(ソフィア)を愛する(フィロ)する事です
 人であれば誰でも踏み行うべき事です
 しかし誰も自らを哲学者
 すなわち知恵を愛する者だとは言いません
 何故でしょう
 それは哲学と言う意味が
 別な意味で流通しているからに他なりません
 哲学と言うと
 何か難しい本を研究する
 それが一般的な常識です
 しかし哲学とはそう言うものではありません
 哲学とは知恵を愛する事
 それ以外の何ものでもないのです

 私は俗に言う哲学者
 すなわち文献学者ではありません
 しかし私は自らを哲学者
 すなわち知恵を愛する者と
 声高らかに叫びます
 何故か
 それはこの本を読んで下さった方々を
 哲学者へと誘うのが私の役目だと思っているからです

 哲学
 この素晴しき学びの門を開くのが
 私の役目だと思っているのです

 さてこの著書名は
 「私の哲学百章」です
 私のと言う所が味噌です

 ソクラテス プラトン アリストテレス
 デカルト カント ショーペンハウアー
 その様な昔の哲学者を学ぶ事が
 哲学を学ぶ事だと思っているかも知れませんが
 哲学を学ぶとは決してそんな事ではありません
 哲学を学ぶとは
 先程から言っている様に
 知恵を愛する事を学ぶ事なのです
 もっと端的に言えば
 自分自身を愛する事を学ぶ事に他ならないのです

 「汝自身を知れ」
 ソクラテスの有名な言葉です
 ここに哲学の全てが集約されるのです
 貴方自身
 そこに全ての知恵の源泉があるのです
 貴方が貴方自身を愛さなければ
 貴方はその知恵の泉を知る事も無いのです
 哲学の始め
 それは貴方自身を愛する事です
 その方法は知恵を愛する事なのです
 禅問答の様に思えますが
 その内に分かって来ると思います

 さてこの著書名は
 私の哲学百章です
 何故私のなのか
 それは哲学が
 百人居れば百様 千人居れば千様 万人居れば万様だからです
 だから私のなのです
 もし哲学に一律を求めれば
 それは集団性を求める事に成ります
 それは結局党派を生み
 党利党略に走る事に成ります
 それは哲学にとって
 最も好ましくない事なのです
 だから哲学は何時でも
 私のなのです

 さてこの哲学百章は
 私が知恵を愛する過程で生まれ出て来る百章です
 百章に関する大まかなアウトラインは出来ています
 それは百の言葉と
 百の言葉の大まかなスケッチと
 百の言葉の大まかなストーリーです
 後の詳細は
 全て知恵を愛する過程で生まれ出て来るものなのです

 百の言葉はこの様にして生まれて来ました
 私にとって大切な言葉は何か
 私を表現する上で無くてはならない言葉は何か
 そんな観点で
 言葉を思い付くままに書き出して行ったのです
 その時その言葉に関する簡単なスケッチを添えました
 一応百の言葉が出尽くした時
 私はそれを並び替えて見ました
 すなわち一番下に私を置き
 一番上に神を置いて並び替えて見たのです
 そうするとそこに一定の秩序が見出され
 そこに大まかなストーリーが見えて来たのです

 この百の言葉の中には
 五つの結節と成る言葉があります
 それは私と人間と国家と世界と神です
 後の言葉は
 それぞれの間に存在する事に成ります
 また精神と言う言葉がキーワードにも成っています

 百の言葉のストーリーを大まかに示すと次のとおりと成ります

 私と知恵と言葉は三位一体である
 この三者を結び合わせるのが哲学である
 人は哲学
 すなわち知恵を愛する事に依って
 愛を知り自由を知り快楽を知る

 人は哲学への快楽により
 哲学の三門
 すなわち真善美を潜る事に成る
 人は真理は手強い事を知る
 しかし善と美は
 この世に溢れんばかりに満ちている事を知る

 人はこの善と美を更に求めんとして
 学びの門
 すなわち学問を潜る事に成る
 学問は師に付いて学ぶ事が一番良い方法だとは思うが
 師が見付からない
 そこで人は読書に依って学びの門を潜る事に成る
 人は読書に依って古代の哲人たちを知る
 そしてその哲人たちこそが
 最も自らに相応しい師である事を知る様に成る
 人は哲人との対話
 また自分自身との対話に依って
 知識を得る
 この知識を本に
 人は思想する事に成る
 そして人はその思想を
 文に作る
 すなわち作文する事を覚える

 この作文の技術に依って
 人の思想は飛躍的に発展する
 人はその技術を基に
 人生を幸福をそして平和を思想する
 人はその過程で正義の概念に気付く
 人はこの概念から
 信仰や祈りの真の意味を知ろうとする
 また天国の概念を知ろうとする

 人はまた無や死を考え
 無に至る道は瞑想であり
 瞑想の先には新生が在る事を
 また新生の暁には道が生まれ
 その道を歩む事に依って
 真の自己が
 そして強い意志が生まれる事を知る
 強い意志を持つ自己が確立した時
 人は徳を伴って
 この世に撃って出る事に成る

 しかし人は精神に未だ未開の分野がたくさんある事を知る
 そこで人は世に撃って出る前に
 精神の遍歴を始める事に成る
 人は先ず心を訪れる事に成る
 人は心こそが精神の練武場である事を知る様に成る
 またそこで気や性についての考察を深める事に成る
 なおここで言う性とは
 英語で言う所のネイチャーであり
 天性感性知性理性男性女性等々
 様々な性の生まれる基礎と成る性の事を言う

 人は次に観念の世界を訪れる事に成る
 人は観念こそが精神の独壇場である事を知る
 そこで人は存在や力や物や数や論理について考察を進める
 また価値についても考察を進め
 この世が最も価値を置く
 富と地位と名誉の真の意味を知る事に成る

 人はまた創造の源である芸術についても考究を進め
 詩と絵と音楽の神秘に迫る
 また芸術の源でもある遊びの心にも深く迫る

 以上の様な精神の遍歴を経た後で
 人は愈々覚醒に入り悟りを得て
 精神を完成させる事に成る

 精神の完成に依って
 人は始めて完全なる人間と成るが
 その前に人は肉体の衣を着なければ成らないのである
 精神はこの肉体を着る事に依って即座に
 欲望と苦悩を知る事に成る
 苦悩は感覚に基づくのではなく
 それは全て感情に基づくものなのである
 人はその感情を徹底的に解明し
 それを克服するものは忍耐であり
 そして習慣である事を知る様に成る
 人は忍耐と習慣を学び
 それを習い性とする事に依って
 始めて完成された人間としてこの世に出る事に成るのである

 人は人間に成ると
 即座に行動に着手する事に成る
 それは理想を完成し
 理想を仕事とする為である
 しかし人はそこで世間の壁にぶつかる事になる
 その壁を打ち破るのが勇気である
 だが勇気だけでは世間の壁を打ち破れない事を知る
 人はそこに礼が必要である事を知る
 人は勇気と礼を持って
 また友と家族の支援を受けて
 この世の様々な世間の壁を打ち破って行く事に成る
 人はそこで様々な経験をし
 愈々完成された人間に近づく事に成る

 人はそこで更に視野を広げる事に成る
 そこには政治 経済 社会等々様々な体制がある事に気づく
 また様々な情報が飛び交い
 様々な生活がある事を知る
 人はそこで理想の国家を想う様に成る
 そしてその理想の国家を実現させる為に必要なものが
 道徳であり宗教であり教育である事を知る様に成る
 人はまた理想の国家と引き比べて
 現在の日本を憂う
 そこには革命が必要である事を思うに至るが
 未だ革命を起こすまでには至らない

 人は国家を知り日本を知った後で
 世界へと旅に出る事に成る
 人はそこで民族 言語 風土 文化等を知る事に成る
 人はそれらの成果を基に
 更に地球について科学について歴史に付いて考究を進め
 普遍への確信を深め
 現代と言う時代を憂え
 遂に革命へと突入する事に成る

 人は気付くのである
 革命後の新世界も
 革命前の旧世界も
 全て世界というものは
 因果に依って齎されたものであり
 それらを統べるのは法であり
 また人間は常に命に命ぜられて動いているだけある事を
 そしてそれらを体現するものが
 自然であり宇宙であり時間である事を

 そして人は最後に気付くのである
 これらを全て統べているのが神であると
 人はそこで神について様々な考察をする事に成る

 これが大まかなストーリーです
 ここに百の言葉が順番に並べられています
 なお百の言葉が何かは
 目次を見て頂ければ有難いと思います

 さて最初にも言いました様に
 この著書の目的は
 皆様に哲学の素晴しさ
 すなわち知恵を愛する事の素晴しさを知って貰う為なのです
 その為にお願いがあります
 それは私と一緒に
 皆様も皆様の哲学百章を作って頂きたいと言う事です

 哲学百章の作り方は簡単です
 先ずは皆様が大切だと思っている言葉を
 思うままに書き出して行きます
 そして百に成ったら
 それをあれこれと並び替えて見るのです
 そうするとそこにある程度の秩序と
 ストーリーが見えて来ます
 そこまで来たら
 その秩序なりストーリーを序として書き出して行くのです
 後は百の言葉について
 その時々に浮かぶ思想をそのままに書いて行けば良いのです
 そして最後にあとがきで締めれば
 それで哲学百章が完成と言う事に成る訳です

 すなわち私がこれから進め様としている作業を
 皆様も一緒に進めて行って欲しいと思っているのです
 皆様はその作業の中で
 哲学
 すなわち知恵を愛する事が
 如何に素晴しいかを知る様に成ると思います
 「汝自身を知れ」
 何故ならそこに
 尽きせぬ知恵の泉があるからなのです

 この辺りで私の序を締めくくりたいと思います


第1章   私について                                               
 
 私とは何か
 それは全ての基礎の基礎
 そこから全てが生み出されて行く
 では私とは何か
 それは考える存在

 「我思う 故に 我あり」
 デカルトの言葉である
 私は思う
 これ程私と言うものを的確に表現したものは無いと

 私が思う だから私は存在する
 私が思わなければ私は存在しない
 共に真実である
 しかしこの事を人は良く理解していない

 私は私
 私はどんな時でも存在する
 そう主張される方が居るかもしれないが
 それは間違いである
 思っている限りにおいて
 私は存在するのである
 思いを止めた時
 私は存在しないのである
 しかし人は常に思い続けているので
 私が常に存在していると思い込んでいるのである
 完全に熟睡している時の状態を考えて見なさい
 そこに私が存在しているだろうか
 そこに存在するのは完全に熟睡している肉体だけである

 私とは考える存在なのである

 さてその私は何を思い何を考えるのだろうか
 それこそ千差万別である
 それに依って様々な人が生まれて来るのである
 その思考に依って
 凡人も生まれ聖人も生まれて来るのである
 何を思考するか
 それが私にとっては大切な事なのである

 私こそが全ての基礎の基礎
 私から全てが生まれる
 まさにその通りなのである
 この世界は私から生まれ出たものなのである
 神でさえも
 私が存在しなければ
 世界もそして神でさえも存在し得ないのである
 すなわち考えると言う私が存在しなければ・・・

 それではその私はどの様に思考するのか
 その思考形式を考えて見よう
 先ずは反応
 様々な感覚器官から情報が入って来る
 人はそれを得て危ないと判断する
 これが第一の思考形式である
 これは人間だけでなく動物も行う
 だからここでは動物的思考形式と呼んでもいい
 しかしやはり私が思考するのである
 
 次に欲求
 喉が渇いた お腹が空いた
 人は飲みたいと思い 食べたいと思う
 第二の思考形式である
 動物もここまで思考するのかもしれない
 しかしやはり私が思考するのである

 第一と第二の思考形式は
 全ての人間が例外なく同じ内容を思考する
 
 さてここから人間に差異が生じてくる
 すなわち欲望である
 喉が渇いた 飲みたい
 お腹が空いた 食べたい
 ここまでは全ての人間が同じ様に思考する
 しかし次の思考
 何を飲もうか 何を食べようか
 ここから様々な思考が生まれて来るのである
 そしてこの思考は止む事が無いのである
 人間の思考の大半は
 この欲望と言う思考で占められていると思われる程である
 そしてそれは私がしっかり思考しているのである

 人間の思考形式の中で
 欲望より更に大きな割合を占めているものがある
 それは認識である
 人の思考の大半は認識だと言ってよい
 欲望はその思考が強烈であるので
 思考の大半を占めている様にも思われるが
 その時間的長さから言えば
 圧倒的に認識なのである
 すなわちAはBである
 人間は絶え間なくこの認識と言う思考を行っているのである
 ただ何を認識するかに依って天と地ほどの差が付く
 やはりこれも私が思考しているのでる
 さてこの一番目から四番目までの思考は全ての人間が思考する
 一番目と二番目の思考は
 全ての人間が同じ様に思考する
 三番目と四番目の思考内容は本当に千差万別である
 これに依って人間に差異が生まれる
 しかし一番目から四番目までの思考形式は
 全ての人間が生まれながらにして持っているものなのである

 しかしこれから挙げる二つの思考形式については
 全ての人間が生まれながらにして持っている訳ではない
 選ばれた人間だけが持っているのである
 それは信仰と祈り
 信仰とはあるものを信じると言う思考形式であり
 祈りとはあるものに願いを掛けると言う思考形式である
 この二つに思考形式を持っているか否かに依って
 天と地の差が付くのである
 何故なら天国とは
 信仰と祈りに依ってこの世に実現されるものであるから
 だからこの信仰と祈りは
 全ての人間である所の私が思考する訳では無いのである

 さてここで一番目から六番目までの思考形式を整理し
 次の様に総括しよう
 すなわち一番目から四番目までの思考形式に依って
 私の世界が創り上げられ
 五番目から六番目の思考形式に依って
 私の世界に更に神の世界が付加されると

 私は考える存在である
 そしてその思考に依って世界が創り上げられて行く
 私の言う意味が分かって頂けただろうか

 私は考える存在である
 しかし私は一人では無い
 私一人で考え続ければドグマに陥る
 その私の考えを引き上げて呉れるのが知恵である
 第二章ではその知恵について考える


第2章   知恵について                                           

 知恵とは何か
 難しい質問である
 しかし私には答えの用意がある
 それは聖霊 アートマン ダイモニオン等々と同義語であると
 聖霊とはキリスト教の言葉で
 イエスの代わりに神から使わされる霊の事である
 アートマンとはインド哲学の言葉で
 聖霊とほぼ同義語である
 ダイモニオンとはギリシアローマ哲学の言葉で
 特にソクラテスやプラトンが使った言葉であるが
 その意味はやはり聖霊とほぼ同義語である
 私は知恵とはそれらと同義語だと考えているのである
 だから私は哲学
 すなわち知恵を愛する事を高く掲げるのである

 私が何故知恵を聖霊と同じ様に考える様に成ったかと言えば
 それ以外に例え様が無いと思ったからである
 アートマンにしてダイモニオンにしても同じである
 私の思想の舞台は私である
 私が思想を進め 知恵と対話をするその過程を省みる時
 キリスト教の場合であれば聖霊
 インド哲学の場合であればアートマン
 ギリシアローマ哲学場合であればダイモニオン以外に
 知恵を例え様が無いと思ったからである

 それともう一つは旧約聖書箴言のからの引用である
 箴言には知恵に関する言葉がたくさん出て来る
 それらの中には
 知恵と聖霊が同義語だと思わせる言葉もたくさんで来る
 例えば次の様な言葉である
 「主はその道の初めに私を造られた
  いにしえの御業になお先立って
  永遠の昔 私は祝別されていた
  太初 大地に先立って・・・・」
 これは知恵が自分の事を一人称で述べる件であるが
 ここで言う私とは聖霊以外の何ものでもない

 私は自らの経験と
 箴言のこれらの引用から
 知恵と聖霊は同義語だと考える様に成ったのである

 そして知恵と聖霊 アートマン ダイモニオン等々とを
 同義語扱いする事は何かと便利が良いのである
 何故なら私が哲学
 すなわち知恵を愛する事を勧める時
 それは全ての宗教哲学を勧めるのと同じ事に成るからである

 私は今の時点では確信している
 全ての哲学宗教の第一原則は
 知恵を愛する事にあるのだと

 さて私は第1章で
 私とは考える存在であると言った
 そしてその私は一人で考えるのでは無く
 知恵と共に考えるのだと言った

 私は一人で考える事が出来るだろうか
 私は第一章では
 一人で考えればドグマに陥ると書いた
 しかしあの言は取り消す
 人は一人では三歩も進めぬと
 それは一人で闇の中を歩く様なものだ
 人は常に知恵と共に歩む
 人が思考する時
 そこには知恵が常に寄り添い
 そしてその行く道を照らして呉れているのだ
 しかし人は知恵と言う存在を知らないから
 一人で歩いていると思い込んでいるのである
 人が一人で居る時
 それは真っ暗闇に一人で居る様なものである
 知恵はそれを哀れんで
 常に寄り添っているのである
 しかし人は知恵と言う存在を知らない

 もし人が知恵の存在に気づけば
 人はそれに対して
 我が主よ 我が師よと叫ぶ事だろう
 そしてもし人がキリスト教の中に居れば
 イエスキリストの言葉をふんだんに与えられる事だろう
 他の宗教に中に居れば
 その宗主の教えの言葉を
 知恵とはそう言う存在なのである

 もし人が知恵と言う存在に気付かずに
 知恵に対して金持ちにして下さいと願うなら
 知恵はその人に金持ちへの道を示す事だろう
 もし人が知恵と言う存在を知り
 その知恵に対して世界征服の道を示せと言えば
 知恵はその者に対してその道を示す事だろう
 しかしその時は聖霊等の名では無く
 悪霊等の名で呼ばれる事に成る
 しかしそれでもやはり知恵なのである
 知恵とは人が思考する時のその先の光であり
 その先の道案内人である
 しかし人は知恵と言う存在を知らないので
 何時も右往左往しているのである

 もし人が知恵と言う存在を知り
 知恵に対して
 真理の道を善の道を美の道を指し示してくださいと願うなら
 知恵はその者にふんだんに
 真善美の果実を下す事だろう
 それが哲学
 すなわち知恵を愛すると言う事なのである

 知恵の存在を知った者には二つの道がある
 一つの道は知恵を愛する道
 もう一つの道は知恵を利用する道
 この二つの道は太古の昔から交差し続けているのである
 前者の道は聖人へと向かう道であり
 後者の道は支配者へと向かう道である
 そして世の大半の者は知恵の存在を知る事無く
 この二つの道をただ右往左往しているだけなのである

 私の言う知恵と言う意味が分って頂けただろうか
 それでも未だ
 私は私一人で考え続けているのだと言う人が居たら
 私はその人にこの様な実験をお勧めする

 すなわちこの様に問うのである
 「主よ 私は本当に私一人で考え続けているのでしょうか」と 

 それに対する答えが知恵と言う存在である


第3章   言葉について                                              

 言葉とは何か
 私は序章の所でそのヒントを出している
 すなわち
 私と知恵と言葉は三位一体であると
 ここに私の秘密があり
 知恵の秘密があり
 言葉の秘密がある

 またこう言い換える事も出来る
 私が知恵を愛する事に依って言葉が生まれる
 言葉は私と知恵の子供たちであると

 言葉に関する有名な言葉が
 ヨハネ福音書の第一章第一節にある
 「初めに言があった
  言は神と共にあった
  言は神であった
  この言は初めに神と共にあった
  万物は言によって成った
  成ったもので言葉によらずに成ったものは何一つなかった」

 このヨハネ福音書の言葉と
 「私と知恵と言葉は三位一体である」と言う言葉は
 全く同じ事を言っているのである

 言葉とは言の事であり
 知恵とは神の事であり
 そして私とはこのヨハネ福音書の言葉を考えた私の事である
 ここで言う私とは普遍的に存在する私と言う事になる

 さてヨハネ福音書の言葉の中の
 「万物は言によって成った
 成ったもので言葉によらずに成ったものは何一つなかった」
 これこそが言葉の神秘である
 すなわちこの世界は全て言葉に依って成ったと言う事である
 そしてその生みの親は私と知恵と言う事に成るのである

 私が存在しなければ世界は存在しない
 また知恵が存在しなければ世界は存在しない
 言葉が無ければ世界は存在しない
 私と知恵と言葉
 この三者が何時も三位一体と成って
 この世界を創り上げて行くのである

 言葉とは何か
 それはこの世界の正体

 この世界を暴けば
 それは全て言葉

 要は私たちが何を考えるかにある
 私とは考える存在
 知恵とはその私に寄り添う存在
 そして言葉はその私と知恵から生まれて行く
 私が知恵を如何に愛しているか
 それに依って生まれて来る世界が変わって来る

 「求めなさい そうすれば与えられる
  探しなさい そうすれば見つけかる
  門を叩きなさい そうすれば開かれる
  誰でも求める者は受け
  探す者は見つけ
  門を叩く者は開かれる」

 私たちは何を求め 何を探し
 如何なる門を叩くのか

 クリスチャンであればそれは神の王国だろう
 そしてそれは与えられるだろう
 現世主義者であれば
 現世での成功の世界だろう
 そしてそれも与えられるだろう
 そしてそれは全て言葉の世界である

 そしてその生みの親は
 私とその私に寄り添う知恵である
 私と知恵と言葉は三位一体
 その意味が理解して頂けただろうか

 こう言う人が居るかも知れない
 貴方はこの世界は言葉で出来ていると言うが
 私の世界は物ばかりだと
 私の前には机とパソコンとコーヒーカップがあり
 私の周りを本と本棚と壁と窓と天井が囲っているが
 それらは全て物だ
 言葉など一つも無いと
 その様に言う人は言葉の意味を理解していない
 机もパソコンもコーヒーカップもその他の物も全て言葉である
 人は机が欲しいと思った
 そこに板が生まれ机が生まれた
 その歴史は敢て述べないが
 全て言葉に依って成ったのである
 物が緻密に成れば成る程
 多くの言葉を要する
 パソコンはその典型だろう
 パソコンを言い表すのにどれ位の言葉が必要なのか分らないが
 それは全て言葉に依って成っているのである
 そのパソコンの一つ一つの部品も
 それは全て言葉の結晶である

 物とは言葉が結晶したものである

 言葉が結晶し物と成る為に一つの条件が必要と成る
 それは自然の似姿である
 人は自然の似姿に真似て
 言葉を物として結晶させるのである
 もしその典型を見たいと言うなら
 芸術の現場に入るのがいいだろう
 ミケランジェロがダビデを作成している現場に入って見なさい
 その自然の似姿に真似て
 言葉を物に結晶させて行く過程が具に見て取れるだろう

 物とは言葉が結晶して成ったものである

 私は今 物に偏ってこの世界を見てきたが
 この世界は物に依らない世界の方が多い
 例えば政治の世界を見て見なさい
 それはほとんどが物を介せず
 言葉そのものに依って成っていると言ってよい
 政治家同士の言葉の遣り取り
 そしてそれの成文化
 それが政治である
 勿論それらは物に変って行くが
 それらは言葉の遣り取りの結果に過ぎない
 政治の本質は政治家同士の言葉の遣り取りなのである

 私たちの日常の世界を見て見なさい
 それもほとんどが言葉の遣り取りではないか
 物はその結果かまたは添え物に過ぎないのではないか
 最もその物も言葉の結果
 言葉の果実なのである

 この世界は言葉に依って成っている
 その意味理解して頂けただろうか

 そしてその言葉は私と知恵から生まれたものなのである

 この世界は言葉に依って成っている
 そしてその言葉は私と知恵が生み出したものである
 これが私と知恵と言葉の三位一体の秘密
 世界創造の秘密なのである

 どんな言葉でこの世界を飾るのか
 それが大切な事なのである


第4章   哲学について                                         

 哲学とはフィロソフィア
 知恵(ソフィア)を愛する(フィロ)事
 私がこの著書を通じて一番言いたい事である

 知恵を愛する事に依ってこの世界は変わる
 それがこの著書を通じて私の言いたい事である

 何故知恵を愛すればこの世界が変わるのか
 それは先ず自分自身が変わるからである

 人は知恵を愛する事に依って知るのである
 自分自身が如何に素晴しい存在であるかを
 そして人は自分自身が如何に素晴しい存在であるかを知る事に依って
 更にこの世界が如何に素晴しい存在であるかを知る様に成るのである
 そこから人は知恵への旅に出るのである

 知恵
 この素晴しい存在を知った者は
 もうそれ以外のものは欲しくならなくのである

 知恵以外は何も要らない
 知恵こそが私の全て
 人はそうまで言い切って
 知恵を愛する様に成るのである
 何故知恵を愛するのか
 それはそこに幸福があり快楽があるからである

 快楽こそが全ての人の行動の動機
 知恵はそれをふんだんに与えて呉れるから
 人は知恵を愛するのである
 知恵を愛する為には何の動機付けも要らないのである
 何故なら知恵を愛する事 その事が快楽だからである
 人は自然にその快楽に向く様に成るのである

 知恵を愛する事の快楽
 その快楽は美しく平穏で
 そして長続きする快楽なのである
 この世の快楽とは異質の快楽なのである
 この快楽を手に入れた者は
 もうこの世の快楽はどうでもいいと思う程に成る快楽なのである

 その快楽を手に入れる方法
 それは知恵を愛する事
 それでは知恵を愛する様に成るにはどうすれば良いのか
 それは先人に習うしかないのである
 すなわち知恵を愛した人々から学ぶしかないのである

 知恵を愛する者を哲学者と言う
 古今東西哲学者はたくさん居る
 しかし真に哲学 すなわち知恵を愛する方法を知りたいのなら
 古代の哲学者から学ばなければ成らない
 何故なら古代には純粋に知恵が存在していたからである

 古代には綺羅星の如く真の哲学者が居る
 誰から学んでも良いが
 もし二人挙げろと言うならば
 イエスとブッダを挙げて置こう
 この二人から知恵をそしてその知恵を学ぶ方法を学べば
 先ずは間違いない
 イエスが如何に知恵を愛したか
 ブッダが如何に知恵を愛したか
 そして二人が如何に幸福と快楽に包まれていたか
 それを学べば直に哲学
 すなわち知恵を愛する方法も分って来るだろう

 少し禅問答の様に成ったので
 現実に戻る事にする
 何故知恵を愛する事に依って世界が変わるのか
 それは世界の本質を見る様に成るからである
 世界の本質を見た者は現実世界とのギャップを見る
 そしてそのギャップを埋め様と努力するのである
 そこに世界を変える力が生まれて来るのである
 その変える力を革命と呼ぶ事も出来る
 イエスの革命を見よ
 ブッダの革命を見よ

 しかしそこに行き着くまでには
 知恵との長い二人旅が必要となるのである
 人は知恵と二人でこの世界を旅し続ける事に成る
 人はそれを旅行記として纏め
 着実にこの世界の知識を増やして行くのである
 そして理想と現実のギャップをしっかり見定める事が出来る様に成った時
 人はこの世に打って出る事に成るのである
 しかしその時は誰も知らない
 しかしそれまでの知恵との二人旅
 これが何よりも楽しいのである
 だから人は知恵を愛する事
 すなわち哲学を止められないのである

 哲学 すなわち知恵を愛する事の楽しさは
 知恵を愛した者にしか分らない
 だから知恵を知らない者は
 早く知恵を知る様に成るべきである

 よく知恵の泉と言う
 それ程 知恵は滾々と湧き出て
 そして甘露水の様に甘いのである
 知恵の泉を持つ者は幸いである
 その人は渇く事は無い

 知恵に依って人は生きる
 知恵を知らない者は生きていないのかもしれない
 知恵を早く知る様に成る事が大切である

 さて私は序章の所で
 私と知恵と言葉は三位一体である
 そしてその三者を結び合わせるのが哲学だと言ったが
 その意味が分って頂けただろうか

 私が知恵を愛する
 その行為が哲学である
 そしてその行為に依って言葉が生まれ
 世界が創造されて行く
 「私と知恵と言葉は三位一体である
  そしてその三者を結び合させるのが哲学である」とは
 そう言う意味なのである

 哲学
 知恵を愛する事の大切さが分って頂けただろうか
 素晴しい世界を創造するのは哲学に依ってである
 そして素晴しい世界を創造するのは私なのである
 素晴しい世界と素晴しい私を認識させて呉れる行為
 それが哲学なのである

 哲学万歳


 第5章 愛について                                         

 愛とはアガペーからエロスまで
 愛とは善しと認める事

 もしこの世が愛に満ちていたら
 この世はどんなに素晴しい事か

 私はAさんを愛している
 これはエロス
 AさんもBさんもCさんもそして人類皆を愛している
 これがアガペー

 エロスは個別的な愛
 アガペーは普遍的な愛
 エロスは肉体的欲求に基づく愛
 アガペーは精神的欲求に基づく愛

 もし人が素晴しき世界を望むのなら
 アガペーを望まなければならない
 何故ならエロスは絶えず躓き傷づくからである
 その肉体の様に
 それに引き換え精神は
 その大親である神を常に望もうとするから
 その世界は安泰なのである

 エロスは差別的な社会を生み
 アガペーは平等な社会を生む
 エロスの為に如何に争うが繰り返されている事か
 エロスの本質を知れば
 人はエロスの中に飛び込めない
 エロスに飛び込む者は火に飛び込む夏の虫
 焼かれて焦がれて始めて昇華する

 しかしそうは言っても
 人はエロス抜きには先に進む事が出来ない
 何故なら人は肉の衣を着ているから
 肉の衣を着ている限り
 人はエロスを求め続ける事に成る

 先ずは五感が訴える
 私に快楽を与えよと
 そこにエロスが生まれる
 目が耳が鼻が舌がそして肌が求める
 私に快感を与えよと
 そこにエロスが生まれる

 目が言う 善しと
 耳が言う 善しと
 鼻が言う 善しと
 舌が言う 善しと
 肌が言う 善しと
 そこにエロスが完成する
 しかしそれは束の間の愛
 エロスは気まぐれ
 常に新しき愛を求め続ける
 エロスの中に居る限り
 人は右往左往
 そしてそこには何時も
 差別と争いの種がある

 貴方の前に二人だけの女性が居たとしよう
 そして貴方にエロスが入ったとしよう
 そうすると
 貴方はその内の一人だけを善しと認める
 それはそれで善い事だが
 その反動として
 貴方はもう一人の女性に対して
 善しとは別な反動的な感情を持つ事に成る
 それがエロスの本質である
 これが言う所の差別の種である

 貴方が貴方とは別な男性と女性の三人だけの世界に住んでいたとしよう
 貴方と貴方とは別な男性に同時にエロスが入ったとしよう
 その時はどうなる
 言わずもがなである
 これが言う所の争いの種である

 この世界はエロスに依り成り立っている
 そしてその本質は差別と争いである
 私がそう言い切った時
 それに同意して呉れる人がどれ位いる事だろうか
 人はそれほどエロスに夢見ているのである

 仕方が無い
 私も貴方方の夢にお付き合いする事にしよう

 私は言った
 愛とはアガペーからエロスまでだと
 その無限的な階段を上り下りする事にしよう

 さて愛にはどれ程の種類があるのか
 恋愛 夫婦愛 親子愛 兄弟愛 師弟愛 友愛 人類愛etc
 そして哲学

 私が哲学と言う言葉を持ち出した時
 私を良く理解する人は
 私の言いたい事を理解して呉れたと思うが
 そうでない人はそうでないと思うので
 少し説明する事にしよう

 恋愛 夫婦愛 親子愛 兄弟愛 師弟愛 友愛 人類愛 そして哲学
 これがほぼエロスからアガペーへの階段である
 人は哲学
 すなわち知恵を愛する様に成って始めて
 普遍的な愛を知る事が出来る様に成るのである
 何故なら知恵にこそ全ての愛が詰まっているからなのである

 何時までも恋愛に留まっている者は
 動物とそれ程違いが無いのである
 何故なら恋愛とは
 五感の欲求と生殖的欲求に基づくもの以外のものでないからである

 もし結婚と言う制度が無ければ
 エロスの世界は弱肉強食の世界である
 強き者が五感の欲求と生殖の欲求を独占して
 ハーレムを形成する事に成る
 それ以外の男性は
 極端な言い方をすれば
 生殖的機能を強制的に剥奪される事にもなる
 もしエロスが本当に全くの自由競争の世界だったら
 その様な世界に成るのである

 しかし結婚と言う制度の中で
 世の大半の男性はエロスをある程度確保出来
 世の女性もそれに伴ってある程度のエロスを確保出来ているのである
 純粋なエロスとはそれ程にも烈しいのである
 パリスの恋を見ろ
 パリスの略奪愛を
 そしてトロイアは滅んだ

 現代は結婚制度を悪用して
 恋愛を遊び物にしている

 こう言う人たちが居るかもしれない
 私たちの恋愛はそんなものとは違いますと
 いいでしょう
 私はその様な人たちを讃える
 彼らは直に結婚し
 お互いの性を尊重しつつ愛し合い
 そして子と生み
 お互い愛した様に子を愛し
 そしてその子供たちも
 親が愛した様に
 子供たち同志も愛し合う事だろう
 夫婦愛 親子愛 兄弟愛
 これがアガペーへの愛の基礎である
 恋愛の中で
 肉体的欲求を越えた者たちだけが
 アガペーへの階段を昇って行ける

 恋愛の中にアガペーを垣間見た者だけが
 次の段階へと進んで行けるのである

 恋愛の中にアガペーを見出せなかった者は
 たとえ結婚して家族を作っても
 そこにあるのはエロスだけである
 彼らは動物的愛のままにその一生を送る事に成る
 恋愛の中にアガペーを見出す方法
 それは知恵を愛すると言う事である
 その為に必要な事が師を持つと言う事である
 結婚までに師を持ち
 師弟愛を育んだ者には
 たとえエロスと言う恋愛の中に在っても
 そこにアガペーを垣間見る事が出来るのである
 そこから理想の結婚
 そして理想の夫婦愛 親子愛 兄弟愛が育まれていくのである

 人は師の中に
 知恵への愛を見出す事が出来る
 勿論師は現実に存在する師が一番良い訳だが
 その様に行かない場合も多い
 その様な場合
 本の中に師を見出しても構わない
 その師と師弟愛を結び
 その師から知恵への愛を学べば良い
 そうすれば恋愛の中に在っても
 アガペーを見出し理想の結婚へと駆け上がって行ける
 しかしここで師とこの様な遣り取りがあるかも知れない
 弟子「夫婦の間柄がそんなものなら 妻を迎えない方がましです」
 師「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく恵まれた者だけである 結婚出来ない様に生まれついた者 人から結婚出来ない様にされた者もいるが 天の国の為に結婚しない者もいる これを受け入れる事の出来る人は受け入れなさい」なぞと
 この様な遣り取りの中から
 いきなり知恵への愛に向かう者が居るかも知れない
 しかし私は言う
 現代において純粋な知恵を見出す事は難しい
 いきなりそこに向かって
 純粋な知恵を見出す事が出来なければ
 これまた空しい
 だから私は言う
 やはり階段を一つずつ昇って行く方が良いと
 その方が彩り豊かなアガペーに達する事が出来ると

 さてこの様な愛を経た後
 人は友愛へと向かう
 ここで言うと友とは
 知恵を共にする友の事である
 これらの友は知恵への愛を誓い合い
 切磋琢磨して更に高い段階へと向かう
 そしてある時
 二人は純粋とも言える知恵を見出す事に成る
 その時二人は固く抱き合って喜ぶ事に成る
 ここまでがエロスの段階である
 そして最高のエロスの段階なのである
 これ以降
 人はただアガペーへと向かう
 アガペーとは知恵を愛する事
 哲学に他ならないのである

 哲学
 すなわち知恵を愛する事が
 この世の最高の愛なのである

 キリスト経は最もこの事を強く言う
 イエスと言う知恵を愛しなさい
 聖霊と言う知恵を愛しなさい
 神と言う知恵を愛しなさいと


 第6章 自由について

 自由とは快楽の一歩手前
 自由を経験しなければ
 誰も真の快楽へは達する事が出来ない
 自由とは何か
 自ら由

 私が私のままである事
 それが自由
 何にも囚われない私
 それが自由と言う状態

 私たちが如何に囚われの身か
 その事を自覚した者だけが
 自由に至る事が出来る
 しかし人はその事を自覚していない

 尾崎豊の歌に卒業と言う歌がある
 その卒業の意味する所は
 体制からの卒業
 しかし体制から如何に卒業しても
 人は自由に成れない
 人は却って縛り付けられる
 そして体制へと戻ろうとする
 人は何が自分を縛っているかを知らないのである

 人を縛っているもの
 それは私
 この世の私である
 この世の私が
 私をこの世にしっかり縛っているのである
 身動き出来ない程に
 この世のこの縛りを解く方法
 その方法は一つしかない
 それはこの世の私を殺す事
 この世の私が死んで
 私は真に自由に成る

 エロスからアガペーへ
 エロスの全てを断ち切り
 アガペーへと渡った時
 人は真に自由と成る
 そしてそこには天国とも言う境地が待っている

 人はかの世に渡らなければ自由に成れないのである

 私と知恵と言葉は三位一体である
 ここに私の秘密があり
 自由の秘密がある

 私は考える存在である
 私は知恵である
 私は言葉である
 この事が理解出来れば
 自由の秘密が解き明かされる

 ヨハネ福音書のあの有名な言葉にまた戻る事にしよう
 第1章第1節
 「初めに言があった
  言は神と共にあった
  言は神であった
  この言は初めに神と共にあった
  万物は言によって成った
  成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった」
 ここに私の秘密と自由の秘密がある
 すなわち私が言葉であり
 私が世界であると言う事である
 ここに自由の秘密もありまた快楽の秘密もある

 私が生み出す言葉
 それが世界である
 そしてその言葉その世界が
 真善美に溢れていたら
 私はどんなに快楽に満たされる事か
 そしてその時の私は如何に自由な事か
 これが私と言葉と世界と自由と快楽の秘密である

 自由とは 自ら由
 自分自身に成り切る事である
 自分自身に成り切る方法
 それが哲学
 知恵を愛すると言う事なのである
 知恵を愛すれば愛するほど
 自分自身の中に深く入って行く事が分る
 自分自身に深く入って行けば行くほど
 自分か如何に優れた存在か分る
 その時人は真に自由に成るのである
 何も要らない
 自分さえいればいい
 いいえ自分の中に存在するこの知恵さえいれば
 他は何も要らない
 これが自由の究極点なのである
 何故ならここに居れば
 何にも不自由する事無く
 そして幸福と快楽がふんだんに与えられるからである
 真の自由
 それは貴方の中にこそある
 そしてその正体は
 知恵を愛すると言うその一点にあるのである

 自由の意味を理解して頂けただろうか
 体制に刃向かっても
 そこには自由など無いのである
 却ってこの世に束縛されるだけである
 いきがっているアンちゃんたちを見よ
 彼らが自由だろうか
 彼らこそ正にこの世の奴隷ではないか
 自由とは自分の中にこそある
 その事を理解した者だけが真に自由なのである

 革命
 それは自由を求めての闘争である
 イギリス革命 フランス革命 アメリカ革命等々
 全てそうである
 だがその歴史の中に
 真の自由を見出せる者がどれ程いることか

 歴史上の中で最も大きな革命の一つは
 イエスの革命である
 この革命に依って
 真の自由が如何に多くの人に齎されたか
 それを知る人が
 真に自由を知る人である
 イエスに依って
 これまで秘儀中の秘儀であった知恵が
 多くの人に齎される様に成ったのである
 そこから人は自由を手に入れる事が出来る様に成ったのである

 自由
 それを見出した者とそうでない者には大きな差がある
 その差は自分に満足するか否かである
 自分に満足しない者は
 常にこの世に不平を言う
 それはこの世に対して物を言っている様に見えるが
 実は
 それは自分自身に対して唾を吐き
 自分自身を小突き回している事に他ならないのである
 なんと言う惨めな事か

 人は早く自由を手に入れなければならない
 その為の方法は哲学以外には無いのである
 すなわち
 知恵を愛すると言う事以外如何なる方法も無いのである

 自由の獲得術 それは哲学


第7章   快楽ついて                                           

 快楽と言うと眉をひそめる人が居る
 彼らは肉体の快楽を想像するからである
 しかし私の言う快楽とは精神の快楽である
 エピクロスの言う所の快楽である
 この快楽無しに人は知恵への旅に入る事は無い
 すなわち哲学に入り込む事は無い

 快楽とは全ての動機の第一である
 如何に立派な事でも
 この快楽と言う動機が無ければ
 人は指一本さえ動かそうとはしないのである
 快楽は全ての動機の第一なのである

 人の全ての行動を見れば分る
 その動機の第一が快楽である事を
 この快楽無しに物事は一歩も先に進まないのである

 それでは身近な行動を例に取って考えて見よう
 先ずは最も身近な行為である食事について考えて見よう
 そこの第一にあるのは快楽なのではないか
 こう言う人が居るかも知れない
 もう食事は飽き飽きだ
 食べたくないのだが食べなければ死んでしまうのでただ食べているだけだと
 飽食の典型だ
 しかし私は彼の化けの皮をいとも簡単に剥ぐ
 三食だけ強制的に食べさせないのである
 彼は食べたいと願う様に成る
 そこにあるのは快楽への欲求である
 空腹と言う苦痛に耐えかねて
 食べると言う快楽へ走ろうとするのである
 食べると言う行為は
 空腹と言う苦痛を和らげる為の快楽の一手段なのである
 人は三度三度慣例的に食べているから意識はしていないが
 食事すなわち食べると言う行為は
 空腹と言う苦痛を和らげる為の快楽の一手段に過ぎないのである
 しかし人は飽食に呆けて
 更なる快楽を求め様としている
 これが現代日本の悪弊である
 武士は食わねど高楊枝
 一汁一菜
 ここに食事の真の快楽があるのかも知れない

 次に仕事に行くと言う行為を例に取って見よう
 そこに快楽などがあるのかと訝しがる人がいるかも知れないが
 確かにそこに快楽があるのである
 だから人は仕事に行くのである
 ではどう言う快楽か

 こう言う人がいるかも知れない
 私は本当に仕事に行きたくない
 しかし仕事に行かなければ給料が貰えないから仕方なく行っているのだ
 そこに快楽など無いと
 しかしその人が仕事に行く限りそこには快楽があるのである
 ではどの様な快楽か

 確かにこの快楽を突き詰める事は難しい
 しかしそこには確かに快楽があるのである
 それは認知への快楽である
 そしてこの世の大半はこの認知への快楽から成っているのである
 この認知への快楽は哲学への快楽に似ているが
 本質的に違う
 哲学への快楽は快楽一本道であるが
 認知への快楽は苦楽相半ばしているのである
 と言うよりそこには
 僅かな快楽と多くの苦痛が横たわっていると言った方がいいのかも知れない
 だから多くの人は仕事に行く時苦痛を感じるのである
 しかし人が仕事に行く限り
 そこには認知への快楽が存在しているのである

 認知への快楽とは
 認め知る快楽であり
 認められ知られる快楽である
 前者の快楽が強い者は
 仕事もそして人生もそれほど苦痛では無い
 何故ならその快楽は自分である程度コントロール出来るからである
 しかし後者の快楽の強い者は
 仕事においても人生においても苦痛を強いられる
 何故ならその快楽は自分ではコントロールする事が出来ず
 全てをこの世に負っているからである
 この快楽が心一杯に広がった者は
 遂には仕事に行けなくなり人生を儚み
 そして時には自らの生を絶つ事もある
 認知への快楽は両刃の剣である
 だから苦楽が相半ばしているのである
 と言うより僅かな快楽と多くの苦痛がそこに横たわっているのである

 認めよう知ろうする快楽の強い者は
 この世において勝ち組と成る
 認められ様知られ様とする快楽の強い者は
 この世において常に負け組みと成る
 何故なら認めよう知ろうとする快楽の強い者は
 自ら道を切り開いて行こうとするが
 認められ様知られ様とする快楽の強い者は
 常に誰かから道を切り開いて貰わなければならない
 しかしこの世にそんな御人好しは一人も居ない
 だから彼は何時も負け組みと成るのである

 この世は認知への快楽に満ちている
 そして人は常に認知の剣を振り翳して戦っているのである
 この世の支配者は認知なのである
 だから人は認知への快楽へと靡くのである
 勝率がたとえ一分一厘でも勝ち目が残っている限り
 人は認知への戦い認知への快楽へと走るのである
 人が毎日仕事に行く理由
 それはそこに認知への快楽が横たわっているからである
 認知への快楽が無くなれば
 人は仕事へ行けなくなる
 そして時には自らの生を絶つ事にも成るのである
 何故なら認知こそがこの世に支配者であり
 彼は支配者から見放されたと思うからである

 認知 これこそがこの世の快楽の王なのである

 認知と似て非なるものがある
 それが知恵である
 認知がこの世の王であれば
 知恵はかの世の王である
 認知への快楽が強い者はこの世で成功する
 知恵への快楽が強い者は天国を得る
 天国かこの世の成功か
 それは二者択一である
 同時に二つを手に入れる事は出来ないのである

 さてここにおいてこの様な声が聞えて来た
 貴方の言う快楽論はよく分からないと
 いいでしょう
 そう言う肉の人の為に
 これから肉体の快楽と精神の快楽の徹底的な違いを教えてあげる事にしましょう
 貴方が精神的快楽を求める様に成る為に

 さて肉体の快楽の頂点は何であろう
 多くの人が言うだろう
 交合の快楽だと
 そしてそれは正しい
 何故ならそれは肉体上において
 最も高貴な行為だからである
 その行為に依って人が生まれるのである
 そんな高貴な行為に
 神は最高の快楽をプレゼントしたのである
 生めよ増せよ地に満てよ と言いながら
 そこに在るのは愛である
 そして究極のエロスである
 だからその行為に最高の快楽が在るのもまた当然である
 しかしそれは肉の範囲の事である

 その肉を越えた所に究極の愛があり究極の快楽がある
 それは知恵への愛であり知恵との交合である
 その快楽はこの世の最高の快楽よりも
 更に数段素晴しいのである
 譬えれば天国の様な快楽と言うのだろう
 その快楽を獲る為の方法が
 哲学
 すなわち知恵を愛すると言う事なのである
 その交合から生まれるのは言葉であり世界であり
 それを譬えれば天国と言い換えてもいいのである
 しかしそれは知恵を愛した者にしか分らない

 だから私は言うのである
 肉の人よ そろそろ精神に目を向けたらどうかと
 そこにはこの世の恋人が黒ずんで見える程の恋人が居るのだから
 光り輝くマノンが居るのだから
 さあ手を取り合って昇ろう
 この世成らぬエクスタシーを得る為に


 第8章   真理について                                        

 真善美は哲学の三門である
 そして真理は最後の門である
 この門を潜った者は何の憂いも無く自由闊達に成る
 しかしこの門を潜った者がどれ程居る事か

 善と美の門は割合簡単に潜れる
 その門を潜った者は思う
 この世界は何と美しさに満ちている事か
 何と善き事に満ちているのかと
 そして彼は真理の門を潜ろうとするのである
 しかしどうしても潜れないのである
 彼には如何にしても真理の世界が見えて来ないのである

 ピラトは聞いた
 真理とは何かと
 しかしイエスは答えなかった
 真理とはそんなものなのかも知れない

 斯く言う私も真理とは何か知らないのである
 私は真理の門の前に立つ時 何時も考えるのである
 真理とは一か多かと
 もし真理が一つであれば 
 その門を潜る価値がある
 しかし多であれば 私は潜りたくない
 何故なら私にはそれ程時間がある訳では無いから
 しかし私は思っている
 真理とは一つである
 でなければそれは真理とは呼べないだろうから
 そう言う訳で今日もまた真理の門を潜る事にする

 さて真理とは何か
 それは知恵である
 いいでしょう
 その線に沿って話を進めていく事にしましょう

 真理とは知恵である
 知恵とは真理である
 もしこの定義が成立するのであれば
 私は何時も真理を愛している事に成る
 何と喜ばしい事か
 しかし世の人は言う
 それは真実とは程遠いと

 一体真理とは何か
 全ての人に共通する真の理(ことわり)
 それは知恵しかないのではないか
 知恵以外に全ての人に共通する如何なる理があると言うのか
 知恵こそが
 全ての人に共通して存在する真の理
 そう言い切って何の間違いがあろう

 真理とは知恵である 知恵とは真理である
 そう言い切った時
 世の人は何か府に落ちない顔をする
 それは真理と言う意味を正確に理解していないからである
 世の人は真理と公理の意味を取り違えているのである
 三角形の内角の和は180度である
 これは公理である
 もしこれを真理だと言ってしまえば
 真理はたくさん存在する事になる
 それでは真理は一つであると言う定義に反する事に成る

 公理は真理から生まれた これは真実である
 公理と真理と真実
 この意味を正確に使い分ければ
 真理の意味がより明らかに成る

 公理とは真理の果実である
 公理とは真理を真に愛する事に依って生まれた真の果実
 公理は真実
 それは真理を愛する事に依って生まれた
 真理とは何時も変わらず知恵
 真理は知恵の別名に過ぎないと

 そうであれば
 哲学が真善美を求めると言う事であり
 その最高の形態が知恵を求め知恵を愛する事だと言う定義に何ら反する事は無い
 真理とは知恵
 だから真理は常に哲学の三門の最高で最後の門なのである
 この門を潜った者は天国の門を潜ったと同じ事なのである

 現在では公理は科学の専売特許の様に思われている
 しかしそうでは無い
 昔は公理は哲学の専売特許であった
 今は幾らか科学に譲り渡したが
 それでも公理の本家本元は哲学なのである
 「隣人を自分の様に愛しなさい」
 これが公理でないと誰が言えるのか
 「心を尽くし精神を尽くし思いを尽くして貴方の神である主を愛しなさい」
 これが公理でないと言えるのか
 こう言う人がいるかも知れない
 この世に神などいない
 どうして居ない者を愛せるのかと
 貴方は思い違いをしている
 もう一度読み直して見なさい
 『貴方の神である主』を愛しなさいと言っているのだ
 貴方の神である主とは
 貴方の中に存在する知恵の事ではないか
 知恵を愛さずして一体誰を愛すると言うのか
 貴方自身を愛さずして一体誰を愛すると言うのか
 隣人をと言うのか
 その前に貴方自身 貴方自身に存在する知恵を愛さなければ
 貴方は決して隣人を愛する事は出来ない
 その公理はこう言っているのである
 先ずは知恵を愛しなさい
 そしてその知恵を愛した様に隣人を愛しなさいと
 知恵を愛した事に無い者がどうして隣人を愛せようか

 真理から生み出された公理は一杯ある
 愛についても公理が一杯ある
 それらを集めて
 そして自らもその知恵に問い
 公理を生み出して行く
 これが哲学の作業である
 愛だけでなく幸福についても人生についても
 徳についても一杯の公理があり
 そして新たな公理が待っている
 それらを掻き集め生み出して行く事
 それが哲学
 すなわち真理を愛し知恵を愛すると言う事に他ならない

 真理とは知恵である

 ピラトはイエスに聞いた
 真理とは何かと
 もしピラトに聞く気持ちがあったら
 イエスはこう答えた事だろう

 真理とは神と言う知恵であり
 聖霊と言う知恵であり
 そして私と言う知恵であると


第9章   善について                                          

 哲学とは真善美を求める事
 善はその第二門である
 美の法門を潜り抜けた者でなければ
 善を知る事は出来ない
 何故なら善には何時も美が寄り添っているからである
 美しくなければ善ではないのである

 善とは善き事 good
 good god God
 善とは全て神に由来する事なのである

 神と言う概念を持つ者の行う行為は善を帯びる
 そうでない者はそうでない
 何故なら善とは神に由来する行為だからである
 善とは神に由来する人の行為を形容する時に使う言葉なのである
 自ら善いと思って行為をしてもそれは善とは呼ばない
 もし呼ぶとすれば偽善である
 何故なら善とは全て神に由来するものでなければならないからである

 こう言う人が居るかも知れない
 もしそうであれば
 善と言う言葉は宗教人だけの言葉であり
 この世の者には何の縁もない言葉では無いかと
 しかしそれはこの世の用法と異なると

 私はその人に言いたい
 本当に貴方には神は存在しないのか
 神と言う概念を持ち合わせていないのかと

 神は宗教人にだけ存在するのであろうか
 決してそうでは無い
 全ての人に存在するのである
 ただ多くの人がそれを認めたがらないだけである
 もし心を尽くし精神を尽くし思いを尽くして神を視れば
 確かにそこに神が存在する
 そこから善が生まれ出て来るのである
 それ以外は全て偽善である

 神とは何か
 それは神と言う概念
 神と言う概念が如何なる概念かと問われれば
 それは今日の所は善を生み出す大本
 もし心を尽くし精神を尽くし思いを尽くして
 善を生み出す大本を見詰めれば
 そこには確かにその大本が存在する
 その大本が何かと問われれば
 それは知恵
 神とは善を生み出す知恵の事に他ならない

 もし神に別の概念を付与すれば
 知恵はその神の名の下に
 その概念を絶え間なく生み出す事だろう

 知恵と神は同じ事

 一般的な宗教においては
 神は人の行為を統べるもの
 だから善は全て神に由来する事に成る
 たとえ宗教人でなくとも
 その概念は一般的に通用している
 だから神と言う概念を常に持つ者の行為は
 常に善を帯びる事に成るのである
 すなわち善を生み出す大本を内に持っている者は
 善を次から次に生み出す事が出来るのである
 そうでない者はそうでない
 彼はこれは善い事だろうかそうでないのだろうかと
 一々逡巡するのである
 そしてそれらは全て偽善へと流れて行くのである
 何故なら肉の者が判断するのは全て肉に依って判断するからである
 肉を超えた所の存在
 すなわち知恵とか神に依って判断する者は
 常に肉を超えて判断する事が出来るので
 確信を持って善を生み出す事が出来るのである

 good god God
 善は全て神(または神と言う概念)に由来する

 真善美は哲学の三法門である
 人は先ず美の法門を潜り
 次に善の法門を潜り
 最後に真理の法門を潜る
 真理の法門を潜った者は真に自由と成る
 「真理は貴方を自由にする」

 真理には善美が伴い
 善には美が伴う

 醜い善と言うものがあるだろうか
 善は皆美しいのではないか
 何故善が美しいのか
 それは美の洗礼を受けているからである

 善と美は一卵性双子
 美がある所に善がある
 何故か
 人は美を見て善しというからである
 美の訓練が出来た者には善が生まれ易い
 美の法門を潜り抜けた者に善が生まれる
 美を知らない者に善は生まれない
 醜い者には善は生まれないのである

 美の洗礼を受けた者が
 神を求める時
 そこに善が生まれるのである
 ただ善だけを求めても善は与えられないのである
 真善美が一体と成った時
 始めて善が生まれるのである

 だから善を求め様とするなら
 先ず哲学を求めなければならないのである
 哲学
 すなわち知恵を愛する時
 すなわち神と言う名を愛する時
 その時
 真善美が溢れんばかりに流れ出すのである

 特に
 善はgood god God
 神に由来するものだから
 哲学を愛しぬかなければならないのである


第10章 美について                                                   

 真善美は哲学の三法門である
 そして美がその第一門である
 美の法門を潜った者だけが
 善の法門真理の法門へと駆け上がって行く事が出来るのである
 美しさへの憧れが善への憧れ真理への憧れへと変わって行くのである

 美の法門を潜る為に必要な事は何か
 芸術の門を叩く事か
 それは第二である
 第一 それは自然
 自然の門が開かれた時
 美が限り無くその人に流れ込んで来るのである
 自然を真に知らない者は美を知る事は出来ない
 そして善も真理も
 何故ならそれらは全て自然の似姿に過ぎないのだから

 人は自然に依って先ず美を知る
 その美を知る事に依って
 人は善から真理へと駆け昇って行くのである
 自然に美を見出す事の出来ない者はその先に進む事は出来ない

 何故自然が美しいのか
 それは自ずから然りだからである
 それは無為の美 無垢の美
 花を一心に眺めた事があるだろうか
 もし一心に眺めた事がある者なら
 その美しさに驚かないで居られようか
 それはまるで小さな太陽
 その輝きに目が眩む様
 そんな美しさを見出した事は無いのですか
 一心に自然の一つ一つを見て見なさい
 それが如何に素晴しいか
 それが如何に輝きに満ちているか
 もしその事を理解すれば
 この世が如何に素晴しいかを理解出来る筈である

 「野の花がどのように育つのか注意して見なさい
  働きもせず紡ぎもしない
  しかし言っておく
  栄華を極めたソロモンでさえ この花一つほどにも着飾っていなかった」

 もし自然にこれだけの事を読み取る事が出来たとすれば
 自然から真善美全てを学んだ事に成る
 しかし哲学の初心者にそこまでは求めない
 先ずは自然から美を学びなさい
 何故なら
 自然で美しくないものは一つも無いからである
 自然に醜いものは何一つ無く全て美しいからである
 ミミズは汚い 蛆虫は気持ちが悪い
 最初からこう決め込んでいる人たちが居る
 そう言う人たちはミミズを蛆虫を一心に見た事が無いからである
 一心にそれらを見て御覧なさい
 それらが如何に素晴しく 如何に美に満ちている事か
 私は美的センスが無く そこに美を見出せません
 いいでしょう しかしもっと見詰めなさい 何か見えましたか
 見えました 命の美しさが 無垢なる生命の美しさが 一生懸命の命の美しさが
 いいでしょう もっと見詰めなさい 何か見えました
 見えました 見えました
 ミミズや蛆虫がこんなに素晴しく美しい存在だとは今の今まで思ってもみませんでした
 
 人は常に色眼鏡で見ている
 色眼鏡を取った時 そこに美が存在している
 色眼鏡を取る方法
 それは一心に成る事
 一心にそのものに成り切る事
 その時そこに美しさが自然に浮かび上がって来る

 自然は美しさに満ち満ちている
 先ずは自然で美しさを学ぶ事
 自然において美しさを学ぶ技術が習得出来たら
 そのフィールドワークを人間界に移す事に成る
 人間も元々自然だから
 そこには美しさが一杯にある
 しかし社会と言う仕組みの中で少し歪んでいる
 その歪を少し補正にしてあげて人間を見詰めるのである
 そうすると
 そこにはあの自然界で見た様な美しさが人間界にも満ち満ちている事が分かる様に成る
  
 人間の美しさとは何か
 それは行為の美しさ
 だから人間の美しさは善いと言う事に成る
 美と善は一卵性双子
 二人は常に寄り添っている
 その意味が理解出来ただろうか
 美が人間に宿る時
 その時美は善とも成るのである
 人間界においては美しき人は善き人
 人間界においては美しいだけの人は居ず
 善いだけの人も居ない
 人間界においては美しき人は善き人であり
 善き人は美しき人なのである
 その事に異を唱える者が居るだろうか

 こう言う人が居るかも知れない
 善き人は美しき人かも知れないが
 美しき人は必ずしも善き人では無いと
 貴方は自然で如何なる美を学んだのか
 全てが全て美しかったのでは無いか
 貴方は未だ色眼鏡を捨て切っていないのか
 私たちは自然で差別なき心を知るべきだったのだ
 全てのものに宿る美しさ
 それを理解する為に自然から美を学ぶべきなのである

 全てのものが美しい
 だったら人間も皆美しいのでは無いか
 人間が自然である限り

 私は言った
 少し補正してあげれば人間は皆美しいと
 補正とは
 正にその色眼鏡を取る事なのだ
 色眼鏡を取ってその人を一心に見詰めて御覧なさい
 その人に成りきる積りで
 どうです
 美しいでしょう
 痛い位に
 人はそれ程美しく在りたいのに
 この世がそうさせて呉れないのである
 すなわち私たち一人一人が身に付けているこの色眼鏡で

 人は皆美しい
 善き行いをしたいと望んでいる
 しかし皆がそれぞれ身に付けている色眼鏡で見ているので
 思う様に身動きが取れないのである

 人間の美しさは無為自然の美しさ
 色眼鏡を取り
 この世の衣全て脱ぎ捨てた時
 自然の輝きが眩いばかりに光出のである
 あの花を覗き込んだ時の様に
 何故なら人間もあの花と同様
 一個の太陽なのだから

 私の言う意味が分っただろうか
 その人の富も名誉も地位も全部剥ぎ取って
 生まれたばかりの赤子に戻してやるのである
 その子が如何に輝いているか
 その子の瞳を覗いて御覧なさい
 眩いばかりに輝いているでしょう

 その人がどんな人生を辿ったのか
 それを補正して上げるのです
 そうすれば人は皆美しいと言う事に気づく筈です

 人は美しい
 そして常に美しく在れと命ぜられている
 しかし人は美しく在り続ける事が出来ない
 何故か
 それはその声を聞くまいとして常に耳に手を当てているからである
 そして終には聾と成りその声が聞えなく成ってしまうからである

 自然
 自ずから然り
 その事をよくよく理解している人は何時までも美しい

 一般的に言って美しい女性とはどの様な女性を言うのか
 それは幼子の様なあどけなさを失わない女性
 自然の輝きを何時までも失わない様な女性の事ではないか
 彼女たちが天性の賜物として または努力の賜物として
 それを失わない様にと絶えず気を使っているからである
 その自然の贈り物を大切に大切に守っているから
 彼女は美しく見えるのである
 その賜物を投げ捨てた時
 彼女はこの世に泥み黒ずんでいくのである
 森光子と言う女優を見て御覧なさい
 80歳を越えているというのにあの様に美しくあろうとしている
 それは彼女がその賜物を宝の様に守ろうとしているからである
 幼子への回帰 無垢への回帰
 そこに美しさの秘密がある
 女性は割合美しく在り続ける事が出来る
 しかし男性の場合はそうは行かない
 何故なら男性は社会の生き物だからである
 社会に出るや
 男性はそれを捨てる様迫られる
 しぶしぶ捨てる者も居るし 喜んで捨てる者も居る
 喜んで捨てた者はこの世に馴染み泥みそして黒く成る
 この世では早く黒く成った者が成功者と成る
 この世で男性が何時までも無垢で在り続ける事は極めて難しい
 しかしその方法がある
 それが哲学
 すなわち知恵を愛する事
 知恵には自然無垢幼子その様なものが一杯に詰まっているからである
 イエスを見なさい
 白いどころか
 あまりにも白すぎて眩いばかりではなかったか
 知恵には幼子の無垢と賢者の無垢が
 そして自ずから然りと言う自然が一杯に詰まっているのである

 美は哲学の第一法門
 善は哲学の第二法門
 だから美しく且つ善く在りたいと思う男たちよ
 先ずは哲学を学びなさい
 そして同じ様に女性たちも

 善と美は一卵性双子
 善は美に寄り添い
 美は善に寄り添う
 だから別々に学ぶのではなく
 哲学と言うフィールドの中で同時に学びなさい
 善き人は美しき人
 美しき人は善き人
 そうあらんが為に哲学を学びましょう


第11章 学問について                                     

 学問とは学び問う事
 それでは何に学び何に問うのか
 勿論それは知恵
 知恵に学び知恵に問う事に依って
 全てのものが与えられるのである

 「求めなさい そうすれば与えられる
  探しなさい そうすれば見つかる
  門を叩きなさい そうすれば開かれる」
 これが学問である

 人が知恵に学び知恵に問う事に依って
 実に様々なものが
 と言うよりこの世の全てのものが与えられる
 これらを整理して系統立て行くと
 それが現在私たちが俗に言っている学問と言う事に成る

 では俗に言う学問に如何なるものがあるか
 それらを見て行こう
 学問の整理の仕方は色々あるが
 大学の学部に擬えるのが一番いいだろう
 何故なら人はそこで知恵を学び知恵に問い知恵を生み出し
 そしてそこから世に出て行くのだろうから
 大学の学部を見れば知恵の出入が分ると言うものである
 さて大学には如何なる学部があるのか

 先ず第一にあるのが哲学学部である
 この学部が無ければ大学は成立しない
 知恵が何かを知らずにどうして知恵を求められよう

 次に来るのが宗教学部である
 知恵に目覚めた者は哲学学部で学べばよい
 しかしどうしても知恵に目覚め切れない者はここで学ぶ事に成る
 哲学学部の落ちこぼれ組みをここで拾う

 次に来るのが科学学部である
 宗教学部に進む者は
 知恵を目指すが知恵に目覚め切れない者たちである
 しかし科学学部に進む者たちは
 知恵が何かを知らず知恵に無頓着で知恵の存在を知らない者たちである
 すなわち無知なる者である
 彼らは与えられた学科科挙を
 それこそ馬車馬の如く突き進む
 そしてこの世の使え人としてこの世に出て行く
 哀れむべき人たちである
 折角知恵の花園の入りながら
 知恵が何たるかも知らずにこの世を卒業して行く人たちである

 大学は大きく分けてこの三学部しかないのである
 その他教養学部として
 芸術学部 文学部 公理学部があるが
 全て哲学学部の付属学部である
 公理学部は自然社会における公理を見つけ出す学部である
 人気の高い学部である

 その他の大学として
 法科専門大学と医科専門大学がある
 法科専門大学はこの世の支配者が創設した大学で
 ここを卒業した者はこの世の支配者階級へと進む
 何故なら法はまたこの世の王でもあるからである
 通常法学は哲学学部の学科として学ぶが
 支配者階級は哲学学部から法学だけを独立させて
 法科大学を創設する
 これが世の倣いである
 医科専門大学はヒポクラテスの系譜に繋がる伝統のある大学である

 学問の王は哲学である
 何故なら直接知恵に学び知恵に問うからである

 次が宗教
 宗教は宗主に学び宗主に問う
 すなわち人間に学び人間に問うのである

 最後が科学
 科学は知識に学び知識に問う
 それは知恵の欠片たち

 例外としての法学
 法学は法に学び法に問う
 法はこの世の支配
 だから支配者は法を独占しようとする
 法学を哲学から独立させてはならない
 しかし世の支配者は
 法学を哲学から独立させ支配しようとする
 
 例外の二としての医学
 医学は命に学び命に問う
 尊い事
 ヒポクラテスをその祖とする
 
 その他として
 芸術学部はミューズに学びミューズに問い
 文学部は文に学び文に問い
 公理学部は理に学び理に問う
 
 これが学問の系譜である
 その他様々な学部があるが
 それらはこれらの亜流若しくは分派である

 哲学こそが学問の中の学問
 学問の王
 しかし現代では片隅に追い遣られている

 現代では科学が徒党を組んで王道を突き進んでいる
 誰も止められない程
 しかし止めなければならない
 
 元々学問は全て哲学であった
 そこから先ず宗教が独立した
 それから法学と医学が
 そして最後に科学が独立した

 現代では学問と言えば科学と言われるほど
 科学が学問の主流である
 法学 医学も科学と呼ばれる事を好む
 だから学問には哲学宗教科学の三つしかないと言っても過言では無いのである
 芸術 文学 公理学はその時々に依ってどちらかの学問に仕える事に成るが
 哲学に仕える事が多い
 しかし公理学は現代では科学に仕える事が多く成って来ている

 学問と言えば哲学 知恵を愛する事であった
 しかし現代では科学が主流となり
 徒党を組んで王道を突き進んでいる
 何故この様に成ったのか
 それは人間が分断され続けているからである
 このまま続けば
 科学は更に発展し
 人間は更に分断される事に成る
 人間は科学と言う知識に支配される様に成る

 「求めなさい そうすれば与えられる
  探しなさい そうすれば見つかる
  門を叩きなさい そうすれば開かれる」
 そう知恵が叫んでいるのに
 人は科学と言う知識に更に頼ろうとしている
 本当にこれで良いのか

 医学は命に学び命に問う学問であった
 しかし現代では技術に学び技術に問う学問と成っている
 現代の医学は科学以外の何物でも無いと言っても過言では無い
 だからこの様に命が軽んじられる様に成ったのである
 法学
 ここには秘儀がある
 だから支配者階級はこれを独占しようと努めたのである
 しかし現代の法学は技術に学び技術に問う学問と成り下がっている
 現代の法学も科学以外の何者でも無い
 だからこの様に世が乱れているのである

 哲学 宗教 科学
 いずれを選択するかに依って時代が変わって来る
 このまま科学を選択して
 更に細断化された世界に進むのか
 それとも一なる知恵に回帰するのか
 正に選択の時期に来ているのである

 私は期待する
 哲学 宗教 科学のバランスの取れた世界を
 もし人が哲学者であり宗教者であり科学者であれば
 この世界はどんなに素敵かと
 しかし私は恐れる
 この世の99パーセントが科学者で
 残りの1パーセントが哲学者宗教者ではないかと

 哲学は知恵に学び知恵に問う
 宗教は人に学び人に問う
 科学は知識に学び知識に問う
 この三つのバランスが取れた時
 善き人が生まれ善き世界が生まれる

 時代は何時も哲学に依って変わる
 知恵を愛すると言う学問
 すなわち哲学をもう一度学び直してみませんか

 知恵を愛し知恵に学び知恵に問うと
 求めているものが与えられ
 探しているものが見つかり
 そして新たな門が開かれるのである
 ワンダフルワールドへの新たな門が

 皆さん哲学と言う学問をもう一度愛してみましょう


第12章   読書について                              
 
 読書に依って人は成長する
 本を読まない者は成長する事が無い

 知恵の顕現は言葉である
 言葉を知らない者は成長も無いのである

 私たちの周りに知恵者がたくさん居て
 その知恵者から直接言葉を聞く事が出来れば
 本を読む必要は無いのかも知れない
 しかし私たちの周りに知恵者は居ない
 居たとしても一人か二人である
 
 知恵者と成る為にはたくさんの知恵の言葉を聞かなければ成らない
 たとえ私たちの前にイエスが居たとして
 たくさんの言葉を語って呉れたとしても
 私たちは本を読まなければならないのである
 ペテロもヨハネもパウロも
 自ら読んだ本と比べて正しいと思ったから
 イエスを信じたのである
 もしイエスの言葉だけで信じたらそれは盲信である
 何故なら何も拠り所がない信仰だから

 ペテロ ヨハネ パウロが参考とした教科書は旧約聖書である
 旧約聖書は正に知恵の書であった
 イエスの言行がその知恵の書どおりだったから
 彼らはイエスを信じたのである

 現在私たちの周りには師は存在しない
 師を求める為には本を読まなければならない
 だから本を読まない者には師が存在しないと言う事に成る 
 師が存在しない者の生活は無軌道に成る
 ここで言う師とは知恵に関する師の事である
 だから現代の日本はこの様に無軌道なのである
 特に知恵において

 私たちは本を読んだだけでは成長しない
 毎日12時間 本を読んだとしても成長しない
 何故なら彼はただ単に活字を追っているだけだからである
 知恵者として成長する為には
 知恵の書を読まなければならないのである
 知恵の言葉が一杯に詰まった知恵の書を読まなければ
 たとえ幾らたくさん本を読んだとしても
 知恵者としては成長しなのである

 知恵の書が如何なる書かと問われれば
 それはずばり古代の書

 古代の書は数千年の歳月を経て
 無駄が一切削ぎ落とされて
 知恵そのものになっているからである

 具体的にと問われれば
 古代中国の哲学書 
 古代インドの哲学書
 古代ユダヤので哲学書
 古代ギリシアの哲学書
 古代ローマの哲学書たちである

 もっと具体的にと問われれば
 古代中国の四書五経
 古代インドのウパニシャッド 仏教典
 古代ユダヤの旧約 新約聖書
 古代ギリシアのプラトン エピクロス エピクテトス等の著書
 古代ローマのセネカ マルクス キケロ等の著書
 と言う事に成るのだろう

 これらの書を読めば人間界の知恵を理解した事に成るだろう
 この後中世近代現代と様々な哲学者が生まれて来ているが
 それらは皆これらの亜流変形でしかない
 これらの知恵の言葉を理解したら
 人間界の知恵を理解したと言っても過言では無い
 後はこれらの知恵の言葉を参考にしつつ
 自らの知恵と語り合えば良いのである

 つまりはこう言う事である
 知恵との対話により言葉が生み出される
 この言葉と聖賢の言葉を比較するのである
 そしてもし聖賢の言葉と合っていたら善しとして
  自らの知恵の体系へと取り込んで行くのである
 これらの過程が知恵者への道程と成るのである

 自らの知恵にだけ頼ると独善に成る
 これらを指導し矯正する為にも
 聖賢の言葉が必要と成るのである
 その為にも読書が必要と成ると言う訳なのである
 
 知恵者として成長する為には師が必要である
 師は本の中に居る
 だから読書をしなければならないのである

 師を決める事において一つだけ勧告して置く
 決して最初から一人の師を決めないと言う事である
 最初の段階では幾人もの師を持つ事が望ましい
 何故なら一人に決め込むと
 その師に囚われる事に成るからである
 知恵の遍歴を経て
 最終的に一人の師を決める事ならそれはそれでいい
 しかし若い内から一人の師に決め込む事は推奨出来ない
 もし知恵者哲学者として成長したいのなら
 宗教者に成りたいのならそれはそれでよいのかも知れないが
 やはり積極的には賛成し難い

 因みに私が師とする者と
 その教科書を挙げると次の通りである
 イエス「新約聖書」
 ブッダ「法句経」他
 孔子「論語」
 老子「老子」
 ソクラテス「国家」他
 エピクロス「手紙」
 エピクテトス「要録」
 セネカ「道徳論」
 マルクス「自省録」
 ダビデ「詩編」
 ソロモン「箴言」

 私たちは読書に依って
 時代を超えて師を持つ事が出来き
 そしてその師と対話する事が出来る
 私たちは師との対話に依って
 知恵の言葉を得る事が出来る
 そして自らの対話に依っても
 知恵の言葉を得る事が出来る
 これら二つの言葉を比較して
 それが一致したものであれば
 それは知恵の言葉として自らの内に登録すればいいのである

 しかし私は知っている
 同じ主題について様々な師対話する時
 その答えは一つに成ると
 例えば
 「『心を尽くし 精神を尽くし 思いを尽くして貴方の神である主を愛しなさい』
   これが最も重要な第一の掟である
   第二もこれと同じ様に重要である
  『隣人を自分の様に愛しなさい』
   律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」
 と言う言葉について
 先の十一人の師に聞けば
 何れの師もその通りだと答える筈である
 ブッダも老子も
 それが知恵の真髄なのである

 読書は知恵を確認する為の作業である
 だから読書をしない者は知恵者には決して成れないのである
 自ら善しと幾ら主張してもそれは独善に過ぎないのである
 過去の聖賢の言葉の裏付けがあってこそ
 その者の言葉も知恵の仲間入りをする事が出来るのである

 だから読書をしない者は決して知恵者として成長する事は出来ないのである
 最も最初から神の知恵が宿っているなら別だが
 その様な者が果たしているのだろうか?


第13章   哲人について                                        

 ここで言う哲人とは哲学者の事である
 この哲学百章では標題を二字以下にしようとしたので
 哲人という言葉を使用したが真の意味はそう言う事である
 真の哲学者
 真に知恵を愛した者たちをここでは哲人と呼び
 表して行きたいと思う

 私が哲人として挙げるのは
 先ずは先の12章で挙げた十一人である
 確認の意味で挙げると次の通りである
 イエス ブッダ 孔子 老子 ソクラテス エピクロス エピクテトス セネカ マルクス ダビデ ソロモンである
 この内二人を挙げれと言われれば イエスとブッダ
 一人を挙げろと言われれば 今の所イエス
 だからこの哲学百章ではイエスの言葉の引用が多く成っているのである
 しかし私は知っている
 この十一人は知恵に依って結ばれているのを
 だから誰の言葉を引用しても同じなのだが
 彼らを代表してイエスの言葉を引用しているだけであると

 哲人 哲学者に共通している事は何か
 それは唯一つ
 知恵を愛し抜いたと言う事だけである
 
 彼らは皆 知恵の言葉の人たちである
 そしてその知恵の言葉は皆同じ泉から汲んでいるのである
 知恵と言う泉から

 時代 地域が異なれば
 その同じ言葉が違った様に聞こえる事がある
 しかしそれは同じなのである
 人がもし知恵と言う存在に気付き
 その知恵から汲まれたばかりの水を飲めば
 それが全く同じである事に気づく筈である
 しかしその水が地域と言う大地を潜り
 時代と言う大気に触れる時
 少しずつ変わって行く
 イエスはユダヤの風土に合った様に
 ブッダはインドの風土に合った様に
 孔子老子は中国の風土に合った様に
 ソクラテスエピクロスはギリシアの風土に合った様に語っただけである
 しかしその源泉は一つである
 その名は知恵
 知恵に依って皆兄弟なのである
 
 そしてその知恵の名も所が変われば変わってくる
 その知恵の名を的確に捉える事が出来れば
 私たちはその哲人の思想を的確に捉える事が出来る様に成る
 何故なら知恵は名が変わろうともその本質は同じだからである
 ここでもまたイエスの思想をスタンダードとして捉える事にしよう
 イエスは知恵の事を何と言ったか
 それはずばり聖霊

 イエスはよく言っている
 「父と子と聖霊の名に依って」と
 ここで言う父とは神の事であり
 子とはイエスの事である
 そして聖霊は知恵の事である

 私たちは誰も神を見る事が出来ない
 私たちは通常知恵を通じて
 神を見よう知ろうと努める
 神はその求めに応じて神の知恵を分け与える
 しかし誰も神を見る事は出来ない

 キリスト教の教えはこうである
 イエスは神の顕現であると
 神が肉の形を取ったものがイエスであると
 だからキリスト教の教えは分り易いのである
 イエスに倣えば神に倣うのと同じだと
 イエスに倣えば神に喜ばれると

 イエスは死んでしまった
 イエスに倣いたいがどうすればいいのか
 それは聖霊に聞きなさい
 すなわち知恵に聞きなさいと成るのである
 とても分り易い

 知恵は誰にでも存在している
 そして知恵に善き事を求めれば
 知恵は善き事をふんだんに与える
 知恵にイエスの言行を求めれば
 知恵はイエスの言行をふんだんに与えるのである
 それが知恵と言う存在
 「求めなさい そうすれば与えられる
  探しなさい そうすれば見つかる
  門を叩きなさい そうすれば開かれる」
 これが知恵と言う存在である
 キリスト教では知恵を聖霊と名を変えて
 その働きを最大限に利用しているのである

 この知恵の働きを
 知恵と言う名で最大限に広めたのはソロモンである
 ソロモンは知恵の人と良く言われる
 それは伊達ではなくその通りなのである

 旧約聖書「箴言」はソロモンの書である
 これは正に知恵の書である
 どの頁からも知恵と言う言葉が躍り出てくる
 正に知恵のオンパレードである
 その中でも第8章は珠玉である
 これこそが知恵の真髄である
 その一部はこの書の第2章にも掲出しているが
 私は「箴言」に依って
 そして「箴言」第8章に依って
 知恵とは聖霊であると確信する様に成ったのである
 もし知恵について学びたいのなら「箴言」を薦める
 「箴言」こそが知恵に関する最高の教科書である
 「箴言」には何の喩え何のカモフラージュも無く
 知恵と言う言葉で知恵を語っているから
 知恵を学ぶには最高の教科書である
 
 ダビデは知恵を何と呼んだか
 それは主
 ダビデはイエスを知らなかったし
 知恵と言う概念も持っていなかった
 だから彼は偏に主よ主よと呼んだのである
 ダビデには神と主と言う概念がある
 神とは絶対的存在である
 主とは神への執り成しをして呉れる存在である
 神と主を同じ様に使っている様に思われるが
 その二つを上手く使い分けているのである
 
 絶対的存在を敬い奉る時は神
 その神から執り成しをして貰う時は主
 何故なら神の恵み神の慰め神の慈しみ等々
 これらは全て知恵の言葉でなされるものであるから
 知恵と言う主に呼びかけなければならないのである

 神と主 または神と知恵
 誰の取り計らいも無く
 主を通じてまたは知恵を通じて神と交信すると言う遣り方
 これが最も純粋な宗教の形態であり
 また最も純粋な哲学の形態なのである
 ダビデにはモーセと言う師が居たが
 モーセに取り計らいを依頼する事無く
 直接に主を通じて神と交信を計らうとした
 だから純粋な信仰としてキリスト教に引き継がれて行ったのである

 古代ギリシアローマおける知恵の名はダイモーンである
 ウパニシャッドではアートマンである
 老子においては道である
 これらはキリスト教の聖霊と何ら変わる所は無い
 孔子の場合見分けるのが少し難しいが
 それは仁である
 孔子は良く使っている 仁に問えと
 これは知恵に問えと全く同じ用法である
 ブッダの場合はなお難しい
 キリスト経の様に聖霊に問えなどと言わないから
 しかし知恵はしっかり働いているのである
 奈良京都のお寺を訪ねて三尊像を見て見なさい
 如来の脇に必ず智慧の菩薩が寄り添っているのを見るだろう
 如来は智慧に依って働くのである
 ブッダの思想はこう言う事である
 無またはニルバーナに入り
 そこから出て来る時
 智慧が随伴して出て来ると
 無と言う神はブッダだけの思想である
 しかし考えれば無が一番神に近い表現かもしれない
 無から最初に生まれるのが智慧(と愛で)あると

 ブッダは知っていたのである
 無を求めればそこに知恵が随伴して来ると言う事を
 だから敢えて聖霊とかダイモーンと言う知恵を措定しなかったのである

 知恵
 これこそが全ての哲人の源である
 哲人が如何に知恵を愛し抜いたか
 それを知る事無しには
 人は知恵の道を進む事は出来ない

 私が挙げた十一人は知恵者の中の知恵者である
 先ずは彼らから
 知恵を愛する方法を学ぶのがいいだろう
 そうすれば次から次に新たな師が現れて来る
 新たな師に礼を尽くしつつ
 彼らから知恵を愛する方法を学べばよい
 二十人三十人四十人と
 多くの師から知恵の愛し方を学ぶ内に
 貴方にも知恵の愛し方が分って来るだろう
 もうその時は師を通じて知恵を愛するのではなく
 貴方自身の知恵を持って知恵を愛する事に成るだろう
 すなわち貴方の主 聖霊 知恵を持って
 神と交信する事に成るだろう
 あのダビデの様に
 またはイエスの様に

 師とは知恵を愛する方法を教えて呉れる存在である
 師を持たない者は知恵を愛する事が出来ない
 彼は何時までも無知に止まる

 哲人が何の為に存在するのか
 それは貴方に知恵の愛し方を教える為に存在しているのである
 だから恥ずかしがらすに
 貴方の師に知恵の愛し方を教えて貰いなさい

 「貴方方の誰がパンを欲しがる自分の子共に石をあたえるだろうか
  魚を欲しがるのに蛇を与えるだろうか
  このように貴方方は悪い者でありながら 自分の子供には良いものを与える事を知っている
  まして貴方方の天の父は求める者には良いものを与えて下さる」
 貴方方の師を天の父だと思って願い求めなさい
 そうすれば貴方の師は貴方に巨万の富を見せて呉れるだろう
 その時貴方はもう知恵以外は愛する事が出来なくなってしまうだろう
 まるであの守銭奴の様に
 何故なら知恵こそが全ての富の源泉でもあるのだから

 知恵と言う巨万の富を得る為にも知恵を愛しなさいと
 哲人はまた教える

 天国とは何か
 それは巨万の富の在処の事ではないのか
 それは知恵

 とにもかくにも哲人を師として持ちなさい
 そうすれば貴方にも分限者の道が開かれる

 哲人たちが如何に天国を夢想したか
 それを夢想するのもまた楽しい事ではないか
 貴方がイエスを師と仰ぎイエスと共に歩いたのなら
 ひょとすると天国が開けるのかも知れない 
 しかしそれは誰も分からない

 天国とは何か
 これもまた哲人に聞かなければ成らない
 とにもかくにも哲人を師に持つ事
 これが無ければ知恵の道は一歩も進まないのではないか

 勿論
 無知のままに泥んでいたいと思うなら
 話は別だが・・・


第14章   対話について                                         

 対話とは何か
 マルティン・ブーバーの「我と汝」と言う本を読んだ事があるだろうか
 あれが対話である
 我と汝
 私と貴方
 私と聖霊
 私と主
 私とダイモーン
 私と道
 そして私と知恵
 この両者間の言葉の遣り取り
 これが対話である
 この対話から世界が繰り広げられて行くのである

 誰と対話するのを好むかと聞かれた時
 聖霊と答える方々はクリスチャンである
 主と答えるのはイエスやダビデである
 ダイモーンと答えるのはソクラテスやマルクスである
 道と答えるの老子
 そして断然知恵と答えるのが私とかソロモンである

 対話の本質を理解して頂けただろうか
 それは知恵との対話以外の何物でも無い
 その対話に依って世界が創り上げられて行くのである

 あのソロモンの知恵の言葉を思い出して頂けただろうか
 「主はその道の初めに私を造られた
  いにしえの御業になお先立って
  永遠の昔 私は祝別されていた
  太初 大地に先立って・・・・」

 知恵は天地創造の前に造られていたのである
 天地は私と知恵の共同作業で創り上げられて行ったのである
 神が「光あれ」といったその瞬間
 すなわち私が生を受けた瞬間から
 私と知恵の共同作業に依って
 すなわち対話に依ってこの世界を創り上げて行ったのである
 この比喩を いえこの実在を理解して頂けただろうか

 不思議な事だが
 光あれと言うその前に知恵は存在していたのである
 「地は混沌であって 闇が深淵にの面にあり 神の霊が水の面を動いていた」
 私たちが胎内に居る時から知恵は存在していたのである
 「光あれ」と神が言った瞬間
 すなわち私が誕生したその瞬間に 
 私は誕生したのであるが
 その瞬間から私と私より少し先輩の知恵とは対話を進めながら
 この世界を創り上げて行ったのである
 始めはそれこそ言葉に成らない言葉で
 世界創造の意味を理解して頂けただろうか

 「貴方の天を 貴方の指の業を 私は仰ぎます
  月も星も貴方が配置なさったもの
  その貴方が心に留めて下さるとは 人間は何者なのでしょう
  人の子は何者なのでしょう 貴方が顧みてくださるとは
  神に僅かに劣るものとして人を造り
  なお栄光と威光を冠としていだかせ
  御手によって造られたものを全て治める様に その足元に置かれました
  羊も牛も野の獣も空の鳥 海の魚 海路を渡るものも」

 神に僅かに劣るものとして人を造ったのである
 もし人と神が天地ほども離れていたら
 私たちは神を求める事など出来ない
 人は神に僅かに劣るものなのである
 だから神を切実に求める事が出来るのである

 神とは知恵
 私たちより僅かに先輩なのである
 しかし永遠に先輩である
 だから私たちは神を敬いつつ
 神から下される世界を仰いで行かなければならないのである

 私たちは知恵との対話により
 その世界を垣間見つつ少しずつ自分の物にして行かなければならないのである
 御手に依って造られたものを全て治める様にと
 私たちの足元に置かれているのである
 羊も牛も野の獣も空の鳥 海の魚 海路を渡るものも

 その羊 牛 野の獣 空の鳥 海の魚 海路を渡るものを
 完全に手中にした時
 私たちに栄光と威光の冠が授けられるのである
 その為に必要な事 それが知恵との対話である
 知恵との対話により
 自然の美 自然の善 自然の真を見出した時
 私たちは自然をそして世界を支配する事が出来る様に成るのである
 その為に必要な事はやはり
 その羊との対話であり その牛のと対話であり その野の獣との対話であり
 その空の鳥 その海の魚 その海路を渡るものとの対話なのである
 私たちはそれぞれ個々と対話を進める事により
 自然の美を 自然の善を 自然の真を見出し
 自然の体系を見出し 神の知恵を見出す事に成る

 自然の体系を見出し 神の知恵を見出した時
 自然は私たちの支配下となり
 その時
 神から自然の栄光と威光が授けられる事に成るのである
 私たちは知恵と共に
 常に自然と対話を続けなければならないのである
 その栄光と威光が授けられる様に

 これは何も自然だけに限った事では無い
 人間界においても同じ事である
 この人間界に存在する
 一人一人と対話を進めて行き
 人間の美 人間の善 人間の真を見出し
 人間界の体系を見出し 神の知恵を見出した時
 人間界が私たちの支配下に成り
 その時 神からの人間界の栄光と威光が授けられる事に成るのである

 最も人間も自然だから
 これらの事はこう言う風に要約出来るのである
 自然の美 自然の善 自然の真を見出し
 自然界の体系を見出し 神の知恵を見出した時
 この世界が私たちの支配下に成る
 その時 神からの栄光と威光が授けられる事に成る
 何故なら知恵は神だからである
 私たちは神の世界を究明する為に
 絶えず知恵と対話をしなければならないのである
 私たちは全てのものと対話する時
 神と対話しているのである
 その牛も神であり
 その花も神であり
 そしてその人も神なのである
 私たちは神との対話により
 神の世界を究明して行かなければならないのである
 それが知恵との対話である
 だから私たちは一つ一つの言葉を蔑ろにしてはいけないのである

 対話
 それは知恵との対話の事であり
 また神との対話の事である
 だからその対話を蔑ろにしてはいけない

 花の命を大切にしなければならない
 乞食だからと言って
 その対話を蔑ろにしてはいけない
 そこに神が宿っているのだから
 だから神と思って対話しなければならないのである

 対話とは対面
 「光あれ」と言われたその瞬間から
 私たちは絶えず色々なものに対面しながら
 対話を続けて来たのである
 そしてその結果がこの世界である
 そしてこの世界は今もまた成長し続けているのである
 だから物事に対面した時は
 敬意を表しつつ対話して行かなければならない
 そうする事に依って
 素晴しい世界が形成されて行くのである
 この世界は全て対話に依って創り出された
 だから対話を大切にしなければいけない
 対話とは知恵のと対話の事であり
 それは取りも直さず神との対話の事だから


第15章   知識について                                                

 知識と知恵
 この二つは対立する概念である
 この二つを正しく理解すれば
 知識人と成り 知恵ある者と成る
 そうでなければ常に無知なる者と呼ばれる

 知恵とは何か
 それについてはここまでに散々延べて来た
 もう理解して頂けただろう
 さて知識とは何か
 それはずばり知恵の欠片
 だから幾ら知識を集めた所で
 知恵ある者と成る事は出来ないし
 また知識人と呼ばれる事も無い
 強いて言えばクイズ王
 クイズ番組では持て囃されるかも知れないが
 世に出れば誰も彼を知識人とは呼ばないし
 ましてや知恵ある者ともとも呼ばない
 強いて言えば物知り

 私たちはクイズ王と成る為に知識を得るのか
 そうでは無いであろう
 であれば何の為に知識を得るのか
 よい大学に入る為か
 その通りだろう
 よい会社に入る為か
 その通りだろう
 昇進試験に受かる為か
 その通りだろう
 知識とはこの世の通行手形
 この手形を持っていれば
 この世を何処までも駆け上って行く事が出来る
 だからこの世では
 知識がこれ程までに持て囃されているのである

 科学と言う学問を知っているか
 これこそがこの世の知識を集積し
 そして分散させる為の方法なのである
 科学と言う学問が一つの学問であれば
 私たちはこの世の知識を全て手に入れる事が出来る
 しかし科学はその名の通り 科(しな)の学である
 私たちはその科々(しなじな)の学を学ばなければ
 この世の知識を手に入れる事が出来ない
 その科々の学は百とも千とも万とも言われる
 だから私たちはこの世の知識は決して手に入れる事が出来ない
 私たちはこの世の知識を手に入れたと幾ら騒いだ所で
 それはこの世の知識の千分の一 万分の一 億分の一
 いえいえそれは一兆分の一でも無く
 無限分の一に過ぎないのである

 先程のクイズ王
 彼はその無限分の一を誇っているのである
 これと似た事は
 我々の身の回りは腐るほどある
 その典型が
 彼は東大卒である
 彼は最も多くの知識を要する大学に入り
 そして四年間を経過した
 だだそれだけである
 先程のクイズ王と何も変わらないのである
 しかしその手形はこの世でもっと高く買われるのである
 
 最も彼がその四年間の間に知恵を身に付ければ別である
 その時 彼の知識は大いなる有機体へと変貌し
 彼は知識人と成り 知恵ある者と呼ばれる事に成る
 
 さてこの辺りで知識人の定義をしなければならないだろう
 私たちはよく知識人とか教養人とか呼んで誉めそやす
 では知識人とは何か 教養人とは何か
 真の知識人とは知識に依って知恵を諭す事の出来る者であり
 真の教養人とは知識に依って知恵を教え養う事の出来る者である
 だから知識人教養人は知恵ある者でなければならないのである
 しかし知識が必要なのである
  ではどれ程の知識が必要か
 私は言う
 中学までの知識で十分である
 中学までの知識を縦横に駆使して
 知恵を教え諭す事が出来れば
 立派な知識人であり立派な教養人である
 もし高校までの知識を駆使して
 知恵を教え諭す事が出来れば
 超一流の知識人教養人と呼ばれる
 何故なら私たちは誰も
 高校までの知識を完全にマスターしていないのだから
 もしそれ以上の知識を使用する者が居るとすれば
 それは単なる科学者か
 単なる知ったかぶりである
 私は共に高く評価しない
 何故なら科学者とは知恵を知識を分断し続ける者であり
 知ったかぶりはその名の通りだからである

 私たちはどれ程の知識を学べば良いのだろう
 私は言った
 中学までの知識で十分だと
 高校までの知識があれば十二分だと
 しかし誰も高校までに知識を身に付けていない
 もし身に付けていたら
 皆が皆 東大に入っているだろうから
 人は高校までの知識を身に付けていないのに
 更に知識を求めている
 ああ!である
 私たちは何の為に知識を学ぶのか
 それは知恵を学ぶ為である
 私は最初に行った
 知識は知恵の欠片だと
 知識を何時までも集め続ければ
 それこそ塵の山と成る
 私たちは知恵を学ぶ為にこそ
 知識を学んでいるのである
 知識が塵の山ほどもあれば
 私たちはどの様にして知恵を学ぶのか
 その塵の山を整理するのに一生をかけるのか
 それが科学者たちである
 彼らはその整理の分担を決めて
 その知識の塵の山を整理しているのである
 私は貴方方に言う
 決して科学者に成るな
 また科学者もどきにも
 私は言う
 それよりも知恵ある者と成りなさいと
 その為に必要な知識は中学まで十分
 高校まであれば十二分だと

 もし知識人と呼ばれたいのなら
 もう一度高校までの知識を学び直しなおしなさい
 そうすれば貴方へも知識人としても道が開ける
 知識人とは何か
 知識を用いて知恵を諭す事の出来る者である
 高校までの教科書を学び直して御覧なさい
 そこに生きた知恵がきらきら光っているのが見える筈ですから
 その一例を取って知恵を諭して上げなさい
 それが知識人と言うものであり 知恵ある者である

 私は先程も言った
 知識は無限だと
 科学者たちはそれを追い求めている
 まるでそれが有限であるかの様に
 その限界を求めている
 しかし私は言う
 それは無限だと
 無限のものを求める
 それは雲を摑む様なものではないか
 科学者はそれに一生をかけている
 知恵が何かも知らないで
 その欠片を夢中に追っている
 ああ!である

 もし貴方が科学者に成りたいのなら
 知識を追い求め続けなさい
 しかし私ははっきり言って置く
 それは知恵を知識を分断するものである
 そこには命は無い
 それは命を細切れにする行為だと

 もし知恵ある者と成りたいのなら
 中学校の教科書 小学校の教科書に学びなさい
 そこには知恵が一杯にきらきら輝いているからと
 私たちにはどれ程の知識が必要なのだろうか
 知恵ある者と成る為には
 中学校の知識で十分
 高校までの知識があれば
 併せて知識人と呼ばれる事に成ると

 しかし人は知識を求め
 知識は分断され
 科学は更に発展する
 そこにあるのは命の分割
 ひょっとしたら
 どう仕様も処理出来ない知識の塵の山?
 知識は無限である
 私たちは何処までそれを求めようとするのか
 絵描きには三十六色か七十二色の絵の具があれば十分だろう
 だがコンピューター科学者は何色の色を生み出した事か
 一億色?
 誰がその色を見分けると言うのか

 貴方たちは知らないのですか
 色はその一色から生み出された事を
 その色の名は光
 私たちはそれを探す為に色を学び知識を学んでいるのである
 光
 全ての源
 それを探す為に知識を学んでいるのである

 貴方はその一億色から光を学びますか
 私ははっきり言います
 その色を数え上げた時 貴方の命は尽きると
 それが科学者の宿命であると

 しかし私たちの利便は科学者に負っている
 だから彼らが好んでそれを行うのであれば敢て止めはしないし
 感謝もする
 古代ギリシア古代ローマには奴隷が居た
 その奴隷の労働の上に市民の生活が成り立っていた
 現在もそれと同じである
 科学者と言う奴隷の労働の上に
 知恵ある者たちの生活が成り立っているのである
 だから好んで科学に従事する者には
 最大限の感謝の言葉を述べる事にしよう
 有り難し と

 貴方は知恵ある知識人と成りたいですか
 それとも科学者と成りたいですか
 もし前者に成りたいと言うのなら
 高校までの教科書をもう一度学び直しなさい
 いいえ中学までで十分です
 国語 社会 数学 理科 音楽 美術 保健体育 技術家庭
 外国語 それに道徳
 これらの教科書を買い求めもう一度学び直しなさい
 きっとそこに一杯の知恵への道を見出す筈です
 もし貴方が世の父親母親であれば
 その知識の依って子供たちを知恵への道へ導いて上げなさい
 きっと貴方には出来る筈です

 知恵が何かを知っていれば・・・

 知恵と知識は対立する概念である
 もし貴方が知恵とは何か 知識とは何かを知っていれば
 貴方は知恵ある知識人に成れる筈です

 ところで知恵とは何か?


第16章   思想について                                 

 思想とは思い想う事
 人間であれば誰でも行っている事である
 いえ人間であれば
 一時も休む事も無く思い想っているのである
 死んだ様に眠って居る時以外は
 何故なら人間は考える動物であり
 思い想っていない瞬間は無いのである
 後はそれを意識下に上げているかいないかだけの違いである

 人間は考える動物である
 死んだ様に眠っている時以外は
 人間は常に思想しているのである
 後はそれを意識しているか意識していないかだけである
 人間には五感ある
 それは感覚器官であると共に認識器官である
 感覚している時
 人は常に思想 すなわち思い想っているのである
 寒い 暑い 臭い 痛い 痒い 旨い 不味い 辛い etc
 これらはみんな思想ではないか
 思う事であり 想う事ではないか
 人間は思想する動物なのである
 床に就いた貴方を想像して見て御覧なさい
 如何に思想が渦巻いているか
 人は思想しない瞬間など無いのである
 貴方の一日を細切れにして見て御覧なさい
 思想していない瞬間があるだろうか
 一瞬たりともないのである
 死んだ様に眠っている時以外は
 何故なら人間は思想する動物だから

 貴方は未だ私の言う事を理解していないようですね
 死んだ様に眠っているとき以外は
 人は一瞬たりとも思想していない瞬間は無いと言う事を
 いいでしょう
 今 貴方は私の文章を読んで思想していますよね
 いやそれは違うとか その通りだとか
 いいですか それでは私の文章を読むのを止めて
 一分間だけ何も思わない様にして御覧なさい
 どうですか
 思想しない瞬間がありましたか
 それこそ思想が渦巻いていたのではないですか
 貴方はこう言うでしょう
 私は今は思想の為に本を読んでいたのだ
 急に思想は止められないと
 いいでしょう
 それでは三十分でも一時間でも一日でも
 好きなだけ思想しない様にして御覧なさい
 もし思想していない瞬間が一分以上あったら
 私は貴方に表彰状を差し上げます
 貴方は無の天才だと
 もし思想しない瞬間が三十分以上も続くなら
 私は貴方を師とします
 無我の天使として
 人は何時如何なる時でも思想しているのである
 仕事をしている時も
 遊んでいる時も
 眠っている時も(死んだ様に眠っている時は別である)
 用便をしている時も 風呂に入っている時も 食事をしている時も
 何時如何なる時も人は思想しているのである
 ただ死んだ様に眠っている時は別である
 何故ならその時は死の疑似体験だからである
 だからこう言う事が出来る
 人は死ぬその瞬間まで思想し続けると
 死に依って人の思想は止むと

 人は死後の世界に憧れる
 何故か
 それは死後の世界が無我の境地だから
 もうその世界では思想しなくていいと思うから
 人は安らかに眠れるのである
 あの深い死んだ様な眠り
 すなわち安眠を体験しているから
 だから人は死を恐れずに死に入って行けるのである
 もし死後の世界にも思想があるとぞっとする
 その訳の分らない死後の世界
 ひょっとした暗闇かもしれない
 ひょっとしたら赤鬼青鬼が居る世界かも知れない
 そんな世界で思想し続けなければならないと考えただけで
 人は竦んで死後の世界へ安心して行けなくなるのである

 思想
 これはある意味で天国と地獄の分岐点である
 もし死後の世界があるとしよう
 それはどんな世界でも構わない
 例えばそれが暗闇の世界だとしよう
 そしてそこに誰も居ず自分一人だけが居るとしよう
 そしてもう人は死ぬ事が出来ないとしよう
 そんな世界に人が投げ込まれたら
 大概の人は三日と待たずに狂い
 そして幻視幻聴の世界に生きる事に成るだろう
 その事を地獄と言うのかも知れない
 しかしである
 もし純粋に知恵を楽しむ者が居たとしよう
 彼の死後の物語はこうである
 彼は死後その世界に投げ込まれた時
 こう問うのである
 主よ(呼び方は好きな呼び方で良い)
 ここは何処でしょうか
 ここは死後の世界である
 暗闇の世界であり 貴方一人だけの世界である
 貴方はもうここで死ぬ事は出来ないと
 彼はこう答えるのである
 主よ 了解しました
 私は私一人で いいえ貴方と二人で
 新たな世界を築き上げますと
 その時 彼のもう一人
 生存中は知恵を呼ばれたその存在はこう言うのである
 『善し』と
 それから二人は二人三脚で
 誰にも邪魔されない純粋な
 二人だけの世界を築き上げて行くのである
 もしお好みとあれば
 人や動物を 木や森を
 また大地や海や大空を配置してもいい
 しかしそこに君臨するのは
 私と知恵の二人だけのである
 何故なら私と知恵の二人がこの世界の創造者なのだから
 知恵を友とする者は
 如何なる境遇に陥っても
 天国を築き上げる事が出来るのである
 ヘレンケラーを見なさい
 光も音も無い
 全くの暗闇の世界で
 あの素晴しい世界を創り上げたのである

 しかしヘレンケラーより優る者がここに居る
 その名はイエス
 イエスは死してその王国を築き上げた
 その王国に住む者は分るだろう
 その世界が如何に素晴しいか
 しかしその王国はイエスが死して創り上げたものである
 イエスと知恵とのその対話の中で

 イエスの世界においては
 皆がイエスの仕え人である
 しかしその事が何より楽しいのである
 何故なら彼らは皆イエスの作り物だからである
 イエスとクリスチャンは
 一体と成ってあの素晴しい世界を創っているのである

 それもこれも
 全てイエスと知恵との対話
 すなわち思想から流れ出でたものなのである

 思想の最も素晴しき形態
 それが知恵との対話である
 知恵を思い 知恵を想う時
 そこから生まれいずる言葉たち
 これが最も素晴しき思想の形態である

 思想で最も低き段階にあるのは
 感覚器官との対話である
 熱い 冷たい 寒い 臭い 痛い 苦い etc
 これらは最も低い段階の思想である
 だからと言って等閑にしていいと言っているのではない
 これらは生命の維持装置の役目をしているのだから

 私が言いたいのは
 人は一瞬たりとも思想していない瞬間は無いと言う事である
 感覚器官との対話から知恵との対話まで
 人は様々なものを対象としながら対話を続けているのである
 一瞬も休む事無く
 そしてこの対話の過程そのものが思想であると
 だから誰と何を対話するか
 そこに思想の格位が生まれて来るのである

 私の言いたい事が分って頂けただろうか
 私が言いたいのはこうである
 思想をするのであれば
 知恵を思い知恵を想いなさいと
 そこに素晴しい世界 ワンダーワールドが生まれると

 人は思想しない瞬間など無いのである
 何時如何なる時も思想しているのである
 死んだ様に眠っている時以外は
 勿論感覚との対話は必要である
 痛い痒い眠いetc
 これらは生命の維持防御装置であり
 これを疎かにする事は出来ない
 また感情との対話も必要である
 美しいetc
 これらは人生に潤いを与える
 それから友人妻家族etc
 これらとの対話は人を成長させる
 しかしこれらよりも何よりも増して重要なのが
 知恵との対話である
 この対話に依ってこそ
 いいえこの対話だけが素晴しい世界 
 ワンダーワールドを創造して行けるのである
 だからもし意識して思想するのであれば
 知恵を思い知恵を想いなさいと
 その知恵との対話から
 貴方の素晴しい世界が生まれて行くのだと


第17章   作文にについて                            

 作文 文に作る
 これに依って人の思想は爆発的に膨らむ
 ほとんど無限と言ってもいい程に
 しかし人一人が生きられる時間には限りがある
 その限りの範囲内で
 人は無限と言われる程の思想をする事が出来る
 もしこれを人類に置き換えれば
 ほとんど無限と言ってもいいのだろう

 さて文に作る事に依って
 何故思想が爆発的に膨らむのか
 それはその一瞬一瞬が知恵との対話と為り得るからである
 知恵は太古の昔から尽きせぬ泉と言われて来た
 しかし残念ながら
 人の脳の記憶容量には限りがある
 人は思想した事をほとんど記憶出来ない
 試しに貴方が昨日思想した事を思い出して御覧なさい
 どれだけ思い起こせますか
 人の思想に関する記憶用容量とはそれ程の物なのである
 思想とはアップツーデート
 ある意味ではその場限りの物なのである
 人が未だ文字を発明しない頃の思想
 それはある意味では貧弱だったのである
 千年一日 万年一日の如く
 人類は思想し続けて来たのである
 しかし文字が発明されてからの人類の思想の展開
 それは私が言うまでも無い事でしょう
 それは人類だけでなく
 人そのものにも当て嵌める事が出来るのである
 作文の技術を身に付けた者とそうでない者
 そこには天地ほどの差が付くのである
 作文の技術を身に付けた者は
 日々の思想を文に託して行く
 そして彼らはその思想を振り返る事が出来る
 そして思うのである
 ワンダフルと
 その思想の日々を思い出して感謝するのである
 私の主よ 私の知恵よ 有難うございますと
 貴方が居なければ私は何者だったのでしょうと
 貴方が居るお陰で
 私はこの様に素晴しい時間を過す事が出来ました
 それから今後も
 たぶん死ぬまで永遠に
 私は貴方との日々を楽しく思い出す事が出来るでしょうと
 それが作文の効用である

 思想は日々の命である
 その思想を長らえさせて呉れるのが文なのである
 イエスが何故永遠に生きながらえているか
 それはあの聖書と言う作文があったからである
 それは仏陀にしても同じ
 ソクラテス プラトンにしても同じなのである
 作文 
 文に作る技術を覚えれば
 その命
 すなわち知恵の命が
 運が良ければ千年も万年も行き続ける事が出来るのである

 作文 文に作る事に依って
 私たちは長い思想の道のりを歩いて行ける
 そしてその道程の中で
 素晴しい知恵の贈り物の数々を受け取る事が出来る
 それが何よりもの作文の効用である

 私がこの哲学百章を書き始めてからどれ位になるのか
 勘定していないから分らないが
 今日で第17章である
 その間に数々の知恵の贈り物を頂いた
 私は知っている事を書いているのではない
 その標題の下にただ書いているだけである
 ある意味では自動書記である
 その標題の下に流れ出す言葉を書き留めているだけである
 その結果が今日までに17章と言う訳である
 その間に私は様々な言葉を頂いた
 それが知恵の贈り物で無くして何だと言うのか

 こう言う人が居るかも知れない
 それは過去の知識の産物だと
 そうかも知れないが
 その知識の産物が
 私を生かして呉れるのであれば
 やはり私はそれを知恵の贈り物と呼びたい

 知恵とは何か
 それは私たちを生き生きと生かす言葉
 私は私の言葉に生き生きと生きる事が出来る
 だからその言葉は知恵の贈り物 知恵の言葉たち
 私たちは作文に依ってそれを生き生きと生かす事が出来るのである
 アップトーデートに

 作文と技術を身に付けた者とそうでない者は
 天地ほどの差が付く
 何故なら作文の技術を身に付けた者は
 日々をそして一瞬一瞬を
 知恵を共に歩く事が出来るからである

 知恵と共に歩いたその膨大な記録を目にする時
 私たちはやはり感謝せざるにはいられないのである
 私の神よ 私の主よ 私の知恵よ と
 ダビデの詩篇を見た事があるだろうか
 あの知恵と言う神と歩いた膨大な記録を
 あの素晴しい記録を見る時
 私は圧倒されてしまう
 あれ程素晴しい言葉たちが
 如何にダビデを慰め勇気付けた事かを
 あの域に達する為には
 やはり知恵を神までに格上げさせなければならないのである
 私の場合は知恵を知恵と見ている
 だから私の場合哲学と呼ばれる
 何故なら知恵を知恵として愛しているから
 時には不遜に聞えるかも知れないが
 しかし私は変わらず常に知恵に敬意を表している
 その敬意に応じて
 知恵は私に言葉を下さるのである
 もし私が知恵に神の様な敬意を表すれば
 知恵は私に神の言葉を下すのである
 この様なアップトーデートな知恵との遣り取りを
 作文に依って記録する事が出来るのである
 これらは全て知恵との遣り取り以外の何ものでも無い

 作文 それは知恵を記録する為の媒体なのである

 作文 文に作る技術が無ければ
 知恵との対話は堂々巡りに陥り易い
 無限の記憶力があれば別だが
 先程試験をした様に
 人の思想に関する記憶力はあれ程のものである
 その小さな記憶容量の中で
 知恵と対話を始めても直ぐにストップがかかってしまう
 無限の地平線を知恵と共に歩く為には
 また天上へと昇る階段を上って行く為には
 知恵との対話を文に作ると言う技術がどうして必要と成ってくるのである
 パウロが後から生まれたのに
 どうしてペテロ ヨハネと並んで
 使徒の中であの様に傑出したのか
 それはパウロが文に作る技術を持っていたからに他ならない
 ヨハネもそうであるが

 作文には三つの効能がある
 一つ目は
 知恵と共に無限の地平線を歩いて行けると言う事である
 時間がある限り
 私たちは知恵と共に在り続ける事が出来ると言う事である
 この効能が何よりも大きい
 二つ目は
 知恵と共に歩いたその軌跡を振り返る事が出来ると言う事である
 これは何よりの楽しみとなり慰めとなる
 三つ目は
 時空を越える事が出来ると言う事である
 作文に依って地域を超え時代を越えて
 知恵が生き続ける事が出来ると言う事である
 私がソクラテス プラトン イエスに会った様に
 私もまた後世の人々と会える事が出来るのである
 それは何よりの楽しみと成る
 しかしその事を求めてはいけない
 それはおまけ
 神の思し召しによるものだから

 作文の第一効用
 それは常に知恵と共に
 常に知恵から離れずに歩いて行けると言う事である

 とにかく知恵と対話をし続けようと思うならば
 作文 文に作る技術を覚えなければいけない
 
 では作文 文に作る技術とは如何なるものか
 それは一語に尽きる
 すなわち「思いのままに」である
 思いのままに書き続ける事
 これが最高の作文の技術なのである
 何故なら知恵とは
 思いのままに流れ出る言葉そのものなのだから
 そこに技巧や衒いが入れば
 もうそれは知恵で無くなる
 それはこの世のものとなる

 作文の最高の技術
 それは知恵から流れ出す瞬間を捉える技術である
 そこには何の技巧も必要ない
 強いて言えば 無垢な心
 無垢な心に流れ出す言葉を書き留める技術
 これが最高の作文の技術なのである


第18章   人生について                            

 人生とは
 人が生まれてから死ぬまでの
 人が生きた軌跡
 それは実に様々
 光り輝く様な人生もあれば
 暗く沈んだ人生もある
 何故この様に色とりどりの人生が生まれのか
 それは偏に知恵
 知恵を烈しく求めた者の人生は光り輝き
 知恵を求めなかった者の人生は暗闇の中の微かな光

 満艦飾
 これを楽しむ為に必要なものは光
 夜陰の中では満艦飾がある事すら気付かないだろう
 満艦飾を楽しむ為に必要なもの
 それは日中の強烈な光
 その光があってこそ
 満艦飾も誇らしげに輝く事だろう

 満艦飾の人生とは
 小泉首相やブッシュ大統領の事を言うのか 
 そうだ
 小泉首相は改革と言う知恵を信じ
 ブッシュは正義の力と言うものを信じた
 彼らがその旗頭の下に進む毎に
 満艦飾の旗が振られた
 彼らは思った
 善しと
 これが人生だ
 しかし彼らも死ぬ間際に人生の総決算を迫られる
 彼らもまたこの世で言う死を迎える
 その死は心臓停止である
 しかしこれが本当の人の死では無い
 人は心臓停止後も精神は生き続けるのである
 それが何時までかは知らない
 心臓停止後1時間なのか24時間なのか
 それとも火葬に付されるその時までなのか
 しかしその間に人はその人生の総決算を迫られるのである

 「その時には世界の始めから今までなく 
  今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである
  神がその期間を縮めてくださらなければ誰一人救われない」

 「その苦難の日々の後
  たちまち太陽は暗くなり
  月は光を放たず
  星は空から落ち
  天体は揺る動かされる
  その時 人の子の徴が天に現れる」

 「これらの事がみな起きるまではこの時代は決して滅びない
  天地は滅びるが 私の言葉は決して滅びない」

 さて小泉首相はどの様な総決算を迫られるのであろうか
 私は改革を言う旗頭を高く掲げたが
 あれは私の信じる道であったか
 私の保身の為の道だったのではないか ふむふむ 一進一退
 しかし彼が傷つけた人々が躍り出る
 貴方の人生途上
 私は貴方に依って傷つけられたと
 彼の知恵はその時彼の為に戦って呉れるだろう
 だが彼は成仏出来ない
 彼は死後煉獄の中で暮らす事に成る

 さてブッシュの場合どうだろう
 死後直後に彼の良心が躍りだす
 ああ私は私を偽ったと
 その途端に
 彼の言葉の為に死んだ亡霊たちが一斉に躍り出す
 彼の知恵は彼を助ける事はしない
 何故なら彼が彼の知恵を偽り侮り蔑していたから
 彼は死後一生
 地獄で暮らす事になる

 その死後が
 心臓停止後1時間なの24時間なのか
 それとも火葬に付されるその時までなのか知らないが
 それが死後の一生なのである
 そして彼ら二人は共に成仏は出来ないのである

 さてもう一度イエスの言葉を読み起こして頂きたい
 「神がその期間を縮めてくださらなければ誰一人救われない」
 「その時 人の子の徴が天に現れる」
 「天地は滅びるが 私の言葉は決して滅びない」
 神と言い 人の子と言い 私と言う
 これこそが知恵である
 もし人生において
 純粋に混じりけなく知恵に勤しんでいたら
 その時知恵が助けて呉れるのである
 人生の途上で知恵と創り上げた理想世界が
 そこに現出されるのである
 それを天国とも言うのである
 だから私は口を酸っぱくして言うのである
 知恵とは仲良くしておきなさいと
 この世の猥雑を交えずに 純粋に と

 さてこれはあくまでも私の想像であるが
 しかしこれが真実でないと誰が言えるのか
 心臓死と脳死どちらが先に来るかと言えば
 当然心臓だろう
 一分の間でも
 この世から放たれた時
 人の脳は相当の働きをするのではないか
 ビルから投身自殺を図ったものが奇跡的に助かった時
 その落ちる瞬間に
 人生の軌跡が走馬燈の様に駆け巡った言う話も聞くではないか
 そして死を専門とする
 宗教の数々の言葉もあるではないか
 喩えそれが1時間でも
 それはその人の心臓停止後の人生においては
 永久の様に思えるのかも知れない 
 この事は誰も否定も肯定も出来まい
 だから天国地獄煉獄の存在も
 誰も否定出来ないのではないか

 この事は取り敢えず差し置くとして
 実際の死の間際の事を考えてみよう
 やはりこの時 人は人生を総括するのではないか
 ここでもう一度
 小泉首相とブッシュ大統領に登場して頂く事にしよう
 彼ら二人のこの様に死の宣告が告げられたとしよう
 貴方方は明日一日意識の中で生き
 二日目は無意識の夢の中で生き
 そして三日目を迎えるその瞬間に死ぬと
 彼らは一日目をどんな意識の下に生きるか
 そして二日目にどんな夢を見るか
 皆さんも想像して見て下さい

 さて人生色々です
 どの様な人生があるのか
 その典型を見て行く事にしよう

 典型的な人生は人生八十年である
 男性の場合のその典型を描いてみよう
 中流の家庭に生まれ
 公立の小中学校に通い
 中流の進学校に進み 中流の大学校を卒業し
 中流の会社に入り
 中流の家庭から妻を貰い 子供を二人ほど作り
 中流の家庭を築き
 中程度の出世をし
 六十歳で退職し
 中程度の年金を貰い
 八十歳で三大成人病の一つで死ぬ
 これが日本人の男性の典型的な人生である
 ここに如何なる楽しみがあるのか

 私は良き友達に恵まれ
 良き妻 良き家庭 良き会社に恵まれ
 良き老後を過す事が出来き 天寿を全うした
 おお! 何と言う恵まれた方か
 しかし私が相手にしているのはマジョリティである
 読者にお聞きしたい
 貴方方はどうですかと
 おお! 何と言う結果か
 半数がそうだと答えるとは
 いい その様な方々に私は言う事は何もない
 ただこう祈るだけだ どうか天寿を全うして下さいと

 さて残りの半数の方々にお聞きしたい
 何故貴方は残りの半数の方々の様に
 幸せな人生を送る事が出来なかったのかと

 確かに私は貴方の言う典型を歩いた
 しかし私には良き友 良き妻 良き家庭 良き会社には恵まれなかった
 その結果として私の老後は良きと言われるものからは程遠いものであった
 貴方は七十九歳
 貴方の寿命は後一年
 貴方はそれで本当に善いのですか
 善い筈がない
 しかし仕方がない
 私はこのまま朽ちるよ
 あの死後の人生があってもですか
 貴方のその悔恨の気持ちが貴方の死後の人生を苛みますよ
 貴方は地獄に落ちる事はありませんが
 煉獄の中で死後の一生を暮らす事になりますよ
 それでも良いのですか
 良い筈がない
 しかし仕方がないだろう
 仕方はあります
 それは後一年を知恵と共に暮らす事です
 そうすれば七十九年分の不幸を補っても未だ余りある幸福に在り付けますよ
 そして死後はその知恵が貴方を天国に導いて呉れますよ
 私はそれに賭けよう
 これが第二の人生の典型である
 年齢は関係ない
 二十でも三十でも四十でも五十でも六十でも七十でも七十九でも構わない
 死ぬ前に知恵に気付く事である
 それが第二の人生の典型である

 私はこれで人生の三大典型を述べた事になる
 整理しよう
 第一の典型は
 自らの人生を幸福だったと言い切って死んで行くグループである
 先程の世論調査では半分となっていたが
 実際には一割にも満たないであろう
 そして彼らとて自らを欺いて死んで行くのである
 死後彼らは軽い煉獄で暮らす事になる
 第二の典型は
 人生とは何だったのだろう
 私の人生は幸福と呼ばれるには程遠いものであったと
 これがこの世の大半のクループである
 彼らは死後どちらかと言うと重い煉獄で暮らす事になる
 第三の典型は
 先程述べた様に死ぬ前までに知恵に気付いたグループである
 彼らは生前は知恵と共に暮らし
 死後は知恵に導かれて天国に向かう事になる
 最も恵まれた人々である

 この三つの典型の他に
 数は少ないが第四の典型がある
 それは地獄へ行くグループである
 ブッシュがその代表である
 多くの人を人生途上において死に追い遣ったグループである
 彼らは生前正義の哲学等を振り回すが
 死後それは何の役にも立たないのである
 死後直後から
 彼の良心が彼を苛み
 死者の亡霊が彼を苛む事になる
 死後彼を助ける者は誰も居なくなるのである
 
 第一第二第三のグループには少なからず知恵が寄り添っていた
 例えれば第一のグループはランタン
 彼らには人生の道がある程度見通せていたのである
 第二のグループは裸のローソク
 その途切れ途切れのローソクの明かりに
 彼らは人生の二三歩先しか見えていなかったのである
 第一第二のグループは知恵が何かを知らずに知恵を翳していたのである
 だから知恵の働きをよく理解出来なかったのである
 しかし第三のグループは知恵が何かを良く知っていたので
 知恵の恩恵に十分に浴する事が出来たのである
 知恵は文字通り太陽と成って
 彼の行く先々を照らして呉れるのである
 不幸の元凶である不安に彼らは苛まされる事はないのである
 暗闇は人を不安にする
 知恵と共に在る者が暗闇に目を向けると
 それが白日の下に照らし出されるのである
 だから彼は不幸になる事はないのである
 
 さて第四のグループはどうかと言うと
 彼らは知恵の事は良く理解しているが
 知恵に感謝する事無く知恵を専らに自分の為にだけ利用するグループである
 だから死後知恵が彼らを助ける事はないのである
 何故なら彼らは生前知恵を侮り辱していたから
 死後において知恵が関わらなければ
 それは全くの暗闇
 それは地獄も同じ
 様々な不安が彼を苛む

 さて人生とは何か
 様々な人生がある
 しかし基本形は三つ
 知恵を愛し知恵に感謝しつつ天国に向かうか
 知恵を徹底的に自らの為にだけ利用し地獄に向かうか
 知恵の事を知らずにまた煉獄の世界に入るか
 人生の基本形はこの三つ

 この世で楽しく暮らし 彼の世でも楽しく暮らす
 その為に必要な方法
 それは知恵を愛し抜く事
 それ以外に無いのではないか

 人生を如何に生くべきか
 結論
 知恵を徹底的に愛し抜き
 それをこの世に還元する
 これ以上の人生は無い


第19章   幸福について                                 

 幸福とは何か
 知恵と共に在る事
 それ以上の幸福は無い

 さて一般的に言う幸福とは如何なるものか
 良き家庭に生まれ 良き友に恵まれ
 良い会社に入り 良き妻を迎え 良き子供に恵まれ
 そして自らも良き家庭を築き 良き老後を暮らし
 そして天寿を全うする
 これが幸福な人生の典型ではないか

 私は前章でその典型を見た
 中流と言われる人々の約一割の人が
 自らの人生を振り返って
 幸福だと言い切った
 本当だろうか
 
 私ははっきり言う
 本当の幸福は死後に決まる
 死後の総括の中で
 自らの人生が幸福だったか不幸だったかは決まるのである
 しかし今はその事は伏せて置こう

 さて自らの人生を振り返って幸福だと言い切った人々
 彼らは何を持って幸福だと言い切ったのだろうか

 私は中流の家庭に生まれた
 裕福ではなかったが貧乏でもなかった
 必要な物は全て満たされた
 私の両親は愛情豊かな人だった
 死ぬまで私を愛し続けて呉れた
 私は快活でお喋り好きだった
 だから友達には欠く事は無かった
 幼稚園小学校中学校高校大学会社と友達に欠く事は無かった
 そして地域に入った今でも友達はたくさん居る
 私は今その一人一人を思い出す事が出来る
 それは私にとって掛け替えの無い財産である
 私は一流ではないが
 中流と呼ばれる会社に入り
 一定のサラリーを得る事が出来た
 この事が私の幸福の基盤を築いた
 衣食足りて礼を知る
 私は貧乏から来る不幸を免れる事が出来た
 私は私にお似合いの妻を貰い
 そして私たちにお似合いの子供を授かった
 私たちの両親が私たちを愛して呉れた様に
 私たちも子供を愛した
 そして子供たちも愛し返して呉れた
 その子供たちも今は立派な中流の家庭を築いている
 私はその事を振り返る度に幸せな気持ちに成る
 そして今 私は地域に入り
 地域会 老人会にと活躍している
 私は今七十九
 来年は天寿を迎えて他界する事に成るが
 私は私の人生を振り返って幸福だったと断言出来る
 勿論人生だから波風はあったが
 私の人生を総括すれば私は幸福だった
 
 何と言う幸福な人生か
 皆さんもそうですか
 そうだ
 私は皆さんを祝福します
 幸せな方々だと

 さて中流と言われた残り九割の方々よ
 貴方方は不幸なのですか
 そうではない
 幸福でも不幸でもない
 その中間と言った所だ
 
 ところで貴方方は幸福には成りたくないのですか
 勿論成りたい
 しかし私には先程述べた人の様な幸福な履歴はない
 私は今七十九
 後一年間余生を送ってこの世を去って行くよ
 幸福でもなく不幸でもなかったこの人生を

 ご心配なく
 一年もあれば立派に幸福に成れますよ
 幸福とは履歴では無く
 今在る事の幸せなのです

 さて幸福とは知恵と共に在る事
 それ以上の幸福はない
 この事を噛み締めて見よう

 何故知恵と共に在ると幸福に成るのか
 答えは簡単
 自分自身に還れるからである
 素晴しい自分自身に

 私とはこんなに素晴しい存在だったのか
 そう自覚で出来る時
 人は幸せな気持ちに成る
 これこそが幸福の原点である

 何故知恵と共に在る時
 自分自身を素晴しい存在だと自覚出来るのか
 それが三位一体の神秘である
 私と知恵と素晴しい存在
 その三者が一体と成る時
 先程の自覚
 私とはこんな素晴しい存在だったのかと自覚で出来るのである

 知恵とはその素晴しい存在へと導く道案内
 その道案内に従って道を歩いて行くと
 知らず知らず山の高みへと上って行く予感を感じる
 そして突如視界が開け
 その素晴しい世界が現出する
 そんな時人は思う ワンダフルと
 それが自分自身に還る事
 素晴しい自分自身に気付く事なのである
 知恵と共に歩けば
 毎日でもそんな世界が現出する
 だから知恵と共に在る者は
 常に幸福なのである

 知恵と共に在る者は
 毎日毎日知恵とのその遊びを楽しむ
 だから彼には不幸に成る時間が無いのである
 知恵と共にある者は毎日毎日が幸せだ言えるのである
 この幸せは思い込み又は思い込ませの幸福とは違う
 譬えれば流れいずる様な幸福感である

 先程の中流の一割の方々
 自らの人生を振り返って幸福だと言い切った方々
 彼らの幸福と
 知恵と共に在る者の幸福は質的に違うのである

 例えば彼らの一日を輪切りにして見よう
 彼らに幸福な時間があるだろうか
 はっきり言って彼らには無い
 彼らにあるのは
 幸福でも不幸でも無い時間だ
 先程の残り九割の方々を一緒だ
 勿論知恵と共に在る人は別である
 また知恵がたまたま訪れた時は別である

 知恵と共に在る者は
 常に知恵を呼び込む事が出来る
 だから彼は毎日でも幸せに成る事が出来る
 しかしそうでない者はそうではない
 彼らに知恵が訪れるのは偶然でしかない
 そんな時彼らは幸せだと感じる
 しかし知恵が訪れる日を彼らは知る事が出来ない
 彼らは気まぐれに幸福に成る事が出来るだけなのである

 知恵と言う存在を知らない者
 彼らの事を無知なる者と言う
 この世の大半の者がそうである
 先程の一割の方々も例外では無い
 知恵を知っている人以外は

 幸福に成る方法は簡単である
 知恵を知り知恵を呼び込む事だけである
 それに依って人は確実に幸福に成る
 幸福とは三位一体のエクスタシーである
 
 さて先程の九割の方々よ
 そして幸福だと言い切った一割の方々よ
 幸福に成る方法が分かっただろうか
 幸福に成る方法はいとも簡単
 知恵を知り 知恵と共に在る事

 知恵を知り 知恵と共に在り
 知恵と共にその素晴しき存在に突入する時
 人はエクスタシーを覚える
 それが至福の時
 知恵を知る者はそれが楽しみで
 毎日知恵と共に遊ぶ

 さあ皆さんも知恵を知り
 エクスタシーを楽しみましょう


 第20章   平和について                             

 平和とは何か
 「平和がありますように」
 これが使徒たちの挨拶であった
 そしてその相手の人々が
 それを受けるに相応しければ
 その平和はまたその人に与えられた
 平和は人から人へであった

 「平和を実現する人たちは幸いである
  その人たちは神の子と呼ばれる」

 使徒たちはどの様にして平和を実現したのか
 どうして使徒たちは神の子と呼ばれたのか
 その辺りを分析すれば
 平和の真の意味が分るのではないか

 使徒たちがどの様にして平和を実現させたのか
 その答えは簡単明瞭である
 それは知恵から知恵へである
 知恵から知恵に知恵が伝達する毎に知恵が花開き
 平和が実現して行ったのである
 彼らが何故神の子と呼ばれたか
 それは知恵を宿していたから
 神の子とは知恵と共に在る者の謂いなのである
 知恵から知恵に知恵が伝達する毎に知恵が花開き
 平和が拡大して行くのである

 平和とは何か
 それは知恵と共に在る者の状態の事
 彼は平和の中に居る
 それは彼は知恵と共に在ると同じ事なのである

 知恵と共に在る者が居れば
 彼の周りは平和に成る
 もし彼が知恵の伝道に対して力強い意志を持ち
 それを実行するならば
 その平和は村を町を国を
 そして世界をも被う様に成るだろう
 イエスを見て見なさい
 彼の知恵は世界を被った
 ブッダを見なさい
 彼の知恵もまた世界を被った
 それは完全では無く不完全ではあるが
 その被われた度合いに応じて
 平和は広がって行った
 私たちは一部には争いがあるものの
 総体で言えば平和を享受している
 そこにはイエスやブッダの知恵が
 少なからず影響しているのである

 知恵
 これこそが平和の種である
 その種を播き
 それを育てる
 これが知恵の伝道であり
 平和を実現する事なのである
 
 「平和を実現する人たちは幸いである
  その人たちは神の子と呼ばれる」
 この意味が分っただろうか
 神の子
 すなわち知恵と共に在る者が
 その知恵を伝道する毎に
 平和が実現して行くのである
 「平和がありますように」
 貴方にも知恵の種子が芽生えますようにと言う意味なのである
 平和を実現する為にどうすれば良いか
 その答えが分っただろうか
 それは知恵の伝道
 「知恵の花咲かせ」運動しかないのである

 知恵の花咲かせ運動に対して
 私は一つの希望を持っている
 それは哲学革命である
 すなわち知恵を愛する事に依って
 この世界を変えて行こうと言う運動である
 多くの者が知恵を愛すれば
 あちこちに知恵の花が咲く
 その花々が次第に集まり一つの群落を為す
 すなわち知恵の花園を
 その知恵の花園を訪れる者は
 誰でも平和な気分に成り幸福な気分に成る
 多くの人がその花園を訪れようになり
 何時しかその花園が王国へと変わって行く
 そんな革命である
 その王国の名は知恵の王国
 知恵を愛する事に依って知恵の王国を築く
 それが哲学革命の趣旨である

 私は思う
 この日本こそが
 哲学革命の舞台に相応しいと
 何故ならこの国には
 ブッダの思想とイエスの思想が上手く溶け合っているから
 衣食足りて礼を知る
 この国は今そんな時代に突入しようとしている
 しかしこの国においては
 誰も礼を教えず知恵を教えようとしていない
 大学の哲学科の先生たちよ
 貴方たちが知恵の伝道者と成るべきなのでないか
 私はこの書をまず大学の哲学科の先生たちに贈ろうと思っている
 最近はそんな気持ちで書き続けている
 知恵これこそが全ての源ではないか
 哲学科の先生たちよ
 決して科学者と成るな
 貴方たちは最後の最後まで
 知恵を愛し続ける者でなくてはならないのである
 貴方たちが最後の知恵の砦である
 そしてまたそこから知恵の革命
 哲学革命が起こって行くのである

 中国の書に「大学」と言う書がある
 大学の哲学科こそ正にその大学を担うべき所なのである
 大学哲学科の先生方よ 心せよ

 この章は平和を述べる章
 それが大学哲学教授への檄と成ったが
 しかし全く無関係なのではなく
 平和と大いに関係があるのである
 イギリス アメリカの大学で教鞭を取った
 ラッセルと言う哲学者を知っているだろうか
 彼が如何に知恵の伝道に心を配ったかか
 それに依ってこの世界が如何に平和に向かったか
 現在の日本の大学の哲学者にそんな者が居るだろうか
 少なくとも私の耳には聞えて来ない
 大学哲学科こそ
 平和のセンターでなければならないのである
 それを科学者の場としてはならない
 それが私の持論だ

 大学哲学科
 ここから哲学革命が起こる
 その為に
 私はこの様にして書き続けているのかもしれない
 哲学革命
 これに依って国家としての日本は平和に成る
 そして一人一人の日本国民は平和な気分の下に幸福になる
 これが哲学革命後の日本の姿である

 今この日本で
 知恵の事を知っているのは
 宗教者と大学哲学科の先生たちである
 しかし宗教者はセクトがあるので
 日本国民全てを束ねる事は出来ない
 日本国民全てを知恵に依って束ねる事の出来るのは
 大学哲学の先生たちである
 だから私はこの様に口を酸っぱくして檄を飛ばしているのである
 大学哲学科の先生は
 決して文献学者に成ってはいけない
 インド哲学専門中国哲学専門フラン主哲学専門ドイツ哲学専門
 古代ギリシア哲学専門古代ローマ哲学専門
 キリスト教学専門イスラム教学専門仏教学専門・・・等々
 その様にあってはならない
 勿論哲学科に仕える者としてその様な者があってもいいが
 哲学科の先生はそれら全てに精通し
 そこから知恵を抽出出来る者でなくてはならない
 哲学科の先生は
 その大学の中で最も優秀な先生でなくては成らない
 何故なら
 先程述べた学問だけでなく
 大学の全ての学部学科からも知恵を抽出出来る者でなくてはならないからである
 大学哲学科の先生は
 その大学においてザ・教授と呼ばれる者でなくてはならい
 それでこそ全ての教官学生が尊敬し
 その知恵の伝道もまたい大いなるものと成る事だろう
 もし各大学にその様なザ・哲学教授が一人ずつ居れば
 日本は世界一平和な国と成り
 知恵の王国日本と呼ばれる事に成るだろう
 何故ならその教授に依って知恵が学生に伝播され
 その卒業生から更に一般の人へと伝播し
 その伝播に応じて平和も拡大して行くだろうから

 大学哲学科こそ
 平和センター 知恵の枢軸
 大学哲学科の先生たちよ 心せよ

 平和
 その為に必要な事
 それは知恵の伝道
 それを誰がやるべきか?

 私は大学哲学科の先生が遣るべきだと思う
 その為に今私は旗を振り出した
 それが私の平和運動??!


第21章   正義について                                      

 正義とは何か
 正しくて義しい事
 そんなものがこの世に有るのか
 決して無い
 有るのは党派の正義だけである
 そしてその党派の正義に依って
 争いが生み出されて行くのである

 であれば正義を求める事は無駄な事か
 決してそんな事は無い
 正義とは一人一人の中にこそあるのである
 そしてそれは知恵の中にこそあるのである
 だからイエスは言ったのである
 「義に飢え渇く人は幸いである
  その人たちは満たされる」と
 知恵に求め知恵に問い知恵に質し
 そして知恵から与えられたもの
 それが正義 正しくて義しい事
 それはその人一人だけのもの
 しかし不思議な事だが
 それは知恵在る者たちの間で共有出来るのである
 だから正義は表出しなければならないのである
 そしてそこから知恵の連携が生まれて行くのである

 正義とは正しくて義しい事
 それは知恵から与えられたもの
 だから一人一人のもの
 しかしそれは知恵在る者の中で共有出来るのである
 だから正義は表出しなければならない
 しかし正義の表出は辛い
 何故ならこの世の正義が束に成って襲って来るから

 正義とは自分自身のもの
 だから表出せずに自らにしまい込んで置いても良い
 しかしそれでは正義は力を失い萎えてしまうのである
 正義は表出し続けてこそ力を持ち続ける事が出来るのである

 自ら正しいと思い義しいと思う事 正義
 その正義を言い続け実行し続ける事
 それはとても辛くまたとても難しい事
 先ずはこの世の迫害を受ける
 それはとても辛く耐える事が容易では無い
 しかしそれにも増して困難な事は
 常に知恵とあり続けなければならないと言う事である
 それは至難な事
 だから人はこの世の正義に組して流れて行くのである

 しかし知恵を知り知恵に目覚め知恵から言葉を頂いた者は
 その正義を表出しなければならない
 何故ならその正義の表出が無ければ
 知恵の連携が生まれないからである
 知恵の連携が生まれなければ
 この世の真の平和も生まれないからである
 知恵の連携 
 知恵の大いなる連帯
 ここから真の平和が始まって行くのである
 だから自ら正しいと思い義しいと思い 知恵が保証した事
 その正義は表出しなければならないのである
 それは毎日毎日である必要は無い
 特に強く感じたその時
 その時だけでもいい
 何故なら常に知恵と共に在る事など容易では無いだろうから
 ところで正義
 正しくて義しい事とは何だろう
 私たちは一つの正義があると考えがちである
 それに依ってマジックに掛かってしまうのである
 しかし私は言う
 人の行為の数だけ正義があると
 何か事を起こそうとする時
 人は判断する
 これは善い事だろうか悪い事だろうかと
 そこに正義が入り込むのである
 ブッシュは善しと判断してイラク戦争を始めた
 それはあくまでブッシュの正義である
 決してアメリカの正義では無い
 しかし人はマジックに掛かり
 アメリカの正義だと勘違いし
 その正義の波に乗ってしまうのである
 私ははっきり言う
 正義とは一人一人のものだと
 そしてその時々のものだと
 知恵に目覚めた者は時流に反してでも
 正義の表出をしなければならないのである
 そこから知恵の連帯が生まれるのである

 さてここで個人の正義 知恵在る者の正義と
 この世の正義 党派の正義との違いを述べて置こう
 個人の正義とは知恵在る者の正義の事だが
 それは自らが正しいと思い義しいと思い 知恵が保証した事
 一方この世の正義とは党派の正義の事だが
 それはある者が正しいと思い義しいと思った事に追従する事

 知恵在る者の正義はそれぞれがそれぞれに独立しているが
 しっかりとした連携が取られている
 それに引き換えと党派の正義は常に徒党を組み
 時の流れに応じて右往左往する

 私はここではっきり言って置く
 正義とは一人一人のもの
 一人一人が正しいと思い義しいと感じ 知恵が保証した事
 それは行為の数だけある

 正義の表出はとても辛く難しい
 先程も述べた様に
 この世の迫害があり
 常に知恵と共に在る事も困難だろうから
 しかし時には
 この世の平和の為に
 我々の正義を輝かそうではないか

 正義とは
 一人一人が正しいと思い義しいと感じ 知恵が保証した事


第22章 信仰について                              

 信仰とは信じて仰ぐ事
 何を信じて仰ぐのか
 神か
 そうだろう
 それでは神とは何か
 結局信仰を語る場合
 神を語らなければならないのである

 神とは何か
 私はそれをここで論じる積りは無い
 何故なら「神について」は
 この哲学百章の最終章で語る積りで居るから
 ここでは
 人は何故信仰に走るのか
 そして人は何故信仰にこれ程までに冷淡なのか
 その辺りを論及してみたいと思う

 数は少ないが
 熱烈な信仰に走る者がいる
 彼らをそれほどまでに駆り立てているのは何か
 それは熱情の神のせいか
 きっとそうなのだろう
 熱情の神に取り付かれた者は
 その神の如く熱情的に神を信仰する事になるのだろう

 彼らは言う
 神が全てと
 その通りなのだろう
 しかしそうなのだろうか
 神はそれほどまでに
 表で騒がしいものなのだろうか

 「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めて」
 これがイエス流の祈りの方法ではなかったか
 それを熱情的な信仰者は
 「会堂や大通りの角に立って祈りたがる」
 果たしてそんな所に神が居るのか

 私はやはり言わなければならない
 彼らは熱情の神に取り付かれていると
 彼らは真の神は知っていないと
 もし真の神を知っていたら
 イエスの様に
 奥まった自分の部屋に入って戸を閉めて祈るだろう
 神よと
 神は静謐な上にも静謐な所に存在するのだから
 勿論そこから熱情の神が生まれる事もある
 しかし最初から熱情の神に取り付かれた者は
 常に熱情の神と一緒だ
 彼は神の一面しか知る事が出来ない
 しかしそれはそれでも良いのだ
 少なくとも彼は神と言う存在を知る事が出来たのだから

 さてもう一方の人々
 すなわち信仰について冷淡な人々
 彼らがこの世のマジョリティである
 彼らが何故信仰について冷淡と言うか無関心なのか
 それは取りも直さず
 彼らが神を知らないからである
 神を知らなければ
 当然に信仰と言う概念も彼らには生まれて来ないのである

 何故彼らが神を知る事が無いのか
 それは偏に教育のせいである
 確かに信仰とは知識を放擲する事である
 しかし信仰に至るまでの導きは全てが知識に依るのである
 神とは斯々然々のものである
 そう教えて上げれば
 誰もが神への道を信仰への道を踏み出す筈である 喜び勇んで
 しかし現代では神は宗教の彼方である
 だから誰もが懼れて踏み出せないで居るのである
 何時から神は宗教の専売特許になったのか

 しかし神を宗教から解き放つ人々がいる
 彼らを神秘思想家と言う
 神秘思想家の系譜は古い
 ピタゴラスがそうだと言う
 しかし私たちは文献でそれを確認する事は出来ない
 ソクラテス プラトン
 彼らは立派な神秘思想家だ
 だがプラトンがあまりにも優秀な詩人であり作家であった為
 その著作は暗喩比喩に満ちた物語となっている
 そこから神秘思想を読み取る事は
 相当に優秀な神秘思想家でなければ読み取れない
 しかし私は言う
 ソクラテス プラトンが文献上に残る
 ギリシア最大の神秘思想家であったと
 彼らの影響はアジアヨーロッパへと広がって行った
 その影響を最も強く受けたのがイエスである
 イエスに依って神秘思想が大衆へと広まって行ったのである
 しかし大衆へと広まって行ったが故
 またその弊害も出て来たのである
 一方プラトンの神秘思想をそのまま受け
 それを純化させた者がいる
 プロティノスである
 3世紀はイエスの神秘思想とプロティノスの神秘思想の凌ぎの場であった
 そしてイエスの神秘思想が勝利した
 その立役者はアウグスティヌスであった
 アウグスティヌスの神秘思想の解説書
 「神の国」に依って
 イエス アウグスティヌス連合軍が勝利したのである
 その後ルネサンスを経て近代に至るまで
 その勝利は揺らぐ事は無かった
 
 東洋の神秘思想家と言えば
 釈迦 老子 孔子等々
 古代ギリシアローマではソクラテス プラトンに
 セネカ エピクロス マルクスアウレリウス等々
 古代ユダヤで言えば
 ダビデ ソロモン等々
 神秘思想家は古代には綺羅星の如くいる

 私の言う神秘思想家とは
 神秘主義者より概念が広い
 私の言う神秘思想家とは
 神の秘密を思想する者の謂いである

 上記で挙げた人々
 彼らは自らの力で
 神の秘密を解き放った人々である
 そして彼らは皆
 彼らの解き放った神に依って生きたのである
 すなわちその神を信仰しつつ終世を迎えたのである
 そしてその時こう言ったのである 善しと

 最も偉大な神秘思想家は
 勿論イエスと釈迦である
 彼らは彼らが解き放った神に依って生きた
 しかし彼の追随者たちは
 イエス釈迦及び彼らに続く後継者たちの神秘思想に囚われる事になったのである
 キリスト教であればイエスの系譜を継ぐ
 パウロ ヨハネ アウグスティヌス トマスアクィナス等々の教父たちに
 仏教であれば釈迦の意志を引き継いで
 様々な仏典を作成したブッダや龍樹 無著 世親の論者たちに

 私はあまり言いたくないがやはり言わなくてはならないと思う
 熱烈なクリスチャン熱烈な仏教徒であればあるほど
 彼らは自らの力で神を解き放つ事は出来ないだろうと
 彼らはどうしても熱情の神に囚われてしまう事になるだろうと
 しかしそれはそれで良いのである
 何故なら彼らには立派に信仰する神があるのだから

 さてもう一方の人たちを考えて見よう
 すなわち神に冷淡な人たち
 信仰に縁の無い人たちである
 彼らが何故神に冷淡で信仰に縁が無いのか
 それは先程も述べた様に教育のせいであると
 神とは赫々然々のものであると教えて貰えば
 皆喜んで信仰に向かうだろう
 しかしこの日本では誰も教える事が無い
 と言うより神の事を述べる事はタブー
 その結果神は宗教の彼方へと去ってしまった
 
 神は宗教の専売特許なのだろうか
 信仰は宗教の専売特許なのだろうか
 私は言う
 神と言う概念も信仰も敬虔な人なら誰でも持っていると
 敬虔な人であればあるほど
 神に関する強い概念を持つ様になり
 その神を信じ仰いで
 自らの世界を構築して行く事になるのである
 これが神秘思想家の系譜である
 だから真の神秘思想家は
 既存の宗教は参考書としては使うが
 最後はその宗教も放擲して
 自らの神の概念を持ち
 その神を信じ仰いで
 自らの世界を構築して行く事になるのである
 偉大な神秘思想家を見て見なさい
 私の言う神秘思想家を 
 ソクラテス プラトン イエス 釈迦 老子 孔子 セネカ エピクロス マルクアウレリウス ソロモン ダビデ等々
 私は言う
 彼らはそれぞれに神を見出し
 それを信じ仰いで
 彼らの世界を構築して行ったのである

 だから私はここで新たな提案をしたいと思う
 すなわち神に関して何らかのアレルギーを持っている人たちに
 先ずはこれら偉大な神秘思想家が
 神の事を如何に概念したか
 そしてその神に依って如何なる恩恵を受けたのか
 その事を理解すれば
 きっと神への道を信仰への道を踏み出す筈である
 その道先案内人が知恵である

 やはり私はここでこう結論しなければならないのだろう
 神への道信仰への道に至る為には
 まず知恵を愛さなければいけないのだろうと
 知恵の導きに依って神への道信仰への道が開けるのだから
 知恵を愛する(哲学)の最も良い方法は
 古代哲学者(神秘思想家)に学ぶのが最も良いと
 何故なら彼らの中には
 神 知恵 信仰が
 それこそ火花が散る位に一杯に詰まっているのだからと


第23章   祈りについて                                         

 祈りとは何だろう
 私はこれまで信仰と同じものであると考えていた
 しかし違うのである
 信仰とはその普遍なるものを信じて仰ぐ事 
 そして祈りとはその普遍なるものに祈る事
 「求めなさい そうすれば与えられる  
  探しなさい そうすれば見つかる
  門を叩きなさい そうすれば開かれる」
 これが祈りである
 祈りに依って
 私たちの世界が構築されて行くのである

 信仰とは無への道
 祈りとは有への道
 無に至る事がなければ有に至る事も出来ないのである
 「日々新たに」「新生」 
 ここに信仰と祈りの秘密が隠されているのである

 この世とかの世
 良く使われる言葉である
 かの世に渡る事がなければ
 かの世の概念をこの世に齎す事は出来ないのである
 ここに信仰と祈りの秘密がある

 その普遍なるものを信じ仰ぐ事に依って
 私たちはその普遍なるものに近づく事が出来る
 その時その普遍なるものは言うでしょう
 求めなさい 与えるからと
 その時私たちは祈るのである
 あれこれをお願いしますと
 その時そのあれこれが
 かの世からこの世に齎されるのである
 これが信仰と祈りの関係である
 最もこんなに直裁な遣り方で行われるのではなく
 それこそ阿吽の呼吸で行われるのである

 私たちの祈りがその普遍なるものの臨在の元に行われない時
 その祈りは空念仏となる
 空しく空に散って行く事となる
 祈りとはその普遍なるもの属性を頂くと言う行為に他ならないのだから

 私たちがよく挨拶とか手紙で
 斯々云々を祈っていますなどと結ぶが
 あれは空念仏の代表格である
 その祈りは決して実現しないであろう
 何故ならその普遍なるものの臨在に行われていないから
 しかしもしその祈りが
 その普遍なるものの臨在に行われているとしたら
 その祈りは実現する事だろう
 何故ならその祈りにはその普遍なるものの属性が身に付いているから
 そうならなければならないと言う属性が

 私たちは良く祈ると言う言葉を使うが
 祈りの前にはその普遍なる者と言う存在がなければならないのである
 その普遍なる者の存在がなければ
 その祈りは何時も空念仏である

 信仰と祈り
 これは表裏一体のものである
 信仰がなければその祈りは常に空念仏となる

 私たちの祈りが無駄にならない為に
 いえ私たちの祈りが生きる為に必要な事
 それはやはり普遍なるものを信仰する事
 しかし現代では信仰は宗教の彼方
 私たちはもう信仰を取り戻す事は出来ないのか
 私はその一つの方法を前章で述べた
 すなわち古代の哲学者が如何に神を概念し
 そしてその神を如何に信仰したかを学びなさいと
 私はもっと簡単な方法を示す事にしよう
 それが瞑想である
 もし貴方が真に瞑想する事が出来れば
 それだけでその普遍者を信仰するに至るだろう
 何故なら瞑想の真の目的は
 その普遍者を視る事なのだから
 もし貴方が瞑想に依って普遍者を視る事が出来れば
 貴方は必ず普遍者を信仰する事になるだろう
 何故なら普遍者とはそれ程までに強烈な存在なのだから
 しかし神の概念を何も知らずに瞑想に入っても
 ただ眠くなるばかりか
 若しくは様々な雑念に悩まされるだけであろう
 やはり神と言う概念を知らなければ
 その普遍者への信仰は起こって来ないのだろう
 神と言う概念を知る方法
 それはやはり古代哲学者に学ぶしかないのだと思う

 さて私たちはその普遍者を垣間見
 そしてその普遍者から
 求めないさいと言われた時
 私たちは一体何を祈るのか
 国際平和をか家内安全をか
 確かにこれらは求めるに価値のあるものだし
 祈るに価値のあるものだ
 しかし私の祈りは何時もこうだ
 「御心のままに」と
 そして私はその普遍者から下される甘露を味わう
 何故もない
 私は私の幸せだけを求めているのである
 私の幸せが家族に普及すればそれはそれで良い
 家族の幸せが地域に普及すればそれはそれで良い
 地域の幸せが国家に波及すればそれはそれで良い
 国家の平和が国際平和に波及すればそれはそれで良い
 しかしその様な事はあり得ない事
 だがである
 多くの者がその様に祈り
 その幸せが波及して行ったら
 その結果として世界平和が実現されるのではないだろうか
 私は思う
 その時人間に新しい類が生まれている事になると
 旧人類から現人類に移り変わった様に
 新たな人類が生まれる事に成るのだろう
 現人類の事をホモサピエンス(知性ある人)と言うらしいが
 その新人類はその用法で行くと
 ホモソフィア(知恵ある人)もしくは
 神々に近い人と呼ばれのかも知れない

 その時は争いが無く常に平和となる
 イエスの「神の王国」に近い存在になるのかも知れない

 私の祈りは何時も「御心のままに」である
 そして多くの人がそう祈って欲しいと思う

 因みにイエスが教えた祈りの文句は
 「天におられる私たちの父よ
  御名が崇められますように
  御国が来ますように
  御心が行われますように
  天におけるように地の上にも」である
 
 御心とは何か
 その意味を見出す時
 祈りの意味も浮き彫りにされる
 その時その祈りの中に
 御名が崇められ 御国が来 御心が行われるのである

 祈りとは貴方の理想の世界を構築する事にある


第24章 天国について                              

 天国とは何か
 それは私たちが想像し得る最高の理想世界
 百人居れば百人百様

 かつて帰って来た酔っ払いと言う歌がヒットした事がある
 その中に天国の描写があった
 それはこんな風だった
 天国よいとこ 一度はおいで
 酒は美味いし 姉ちゃんはきれいだ・・・
 酔っ払いの天国とはそんなところだろう

 しかし今私が話題としようとしているのは
 もっと聖なる天国の事だ
 私はローマ法王に聞いて見たい
 貴方の思い描く天国とはどんな天国ですか
 そして全てのカソリックの人たちは
 天国をその様に思い描いていますかと
 彼はどう答えるのだろうか
 こう答えるのだろうか
 天国は貴方の心の中に在ると
 その様に返されると
 私は私自身で天国を描かなければならない

 今しばらく天国の事について
 聖職者に聞いて回る事にしよう
 日本の臨済宗の最高位の人に聞いてみよう
 貴方は天国と言うものを想像出来ますかと
 彼はこう答えるのか
 天国などと言うものはない
 もし最高の理想世界を描けと言うのであれば
 それは無の世界だと
 私はそれに対してこう聞き返す事にしましょう
 それは有余涅槃無余涅槃の事ですかと
 彼はそれに対してそうだと答えるのか
 もしそうだとすれば私もそうだと答えたい
 私には有余涅槃無余涅槃以上の最高の状態は考えられない
 特に有余涅槃は生きている限りにおいて最高の状態だ
 それは恍惚であり法悦であり至福であり天国であり極楽だ
 私はその様な状態を想像する事が出来る
 それは完全な熟睡の中に覚醒している状態だ
 しかしそれも一瞬
 次の瞬間には思考が活動し始める
 私たちは生きている限り
 その一瞬を除いて完全なる無に成る事は出来ない
 無余涅槃
 それが完全なる無であれば
 死はなんら怖れるに足らない
 むしろ両手を広げて死を迎えたい
 しかしそれは誰も知らない
 そこには地獄があるかも知れない
 だから宗教に涅槃を求めるのか

 私たちは幼い時天国を次の様に描いた
 そこには神様や天使や良い人たちが居て楽しく過す事が出来ると
 それが天国の原型だ
 そしてそれを私は想像出来る
 それはかの有余涅槃から目覚めた時だ
 私たちが完全なる熟睡の覚醒からこの世に目覚める時
 私たちはその様な世界を思い描く事が出来る。
 私は次第に天国を描き始めている様だが
 今しばらく聖職者回りをする事にしよう

 今度は浄土真宗の最高位の聖職者に聞く事にしよう
 西本願寺と東本願寺の最高位のお二人に一度に聞く事にしよう
 浄土真宗の根本経典である観無量寿経や阿弥陀経では西方浄土すなわち極楽を描きますが
 あれは比喩ですかそれとも現実ですか
 それは比喩でもあり現実でもある
 それはどう言う意味でしょう
 貴方はどちらとして捉えたいのだ
 勿論比喩です
 だったらそう捉えればよい
 それに依って貴方の天国を描けばよい
 後は経典に従ってそこに行けるよう祈れば良いのだ
 とても有り難い説明有難うございました
 私はその説明で十分なのですが
 私の好奇の心がそれでは納得せず
 こう聞けと言うのです
 極楽が現実とはどう意味ですかと
 簡単な事だ
 死後極楽に行けると言う事だ
 そんな事を信じる人がいるのですか
 信じる者もいるし信じない者もいる
 信じる者には現実だと説き
 信じない者には比喩だと説く
 よくそれで分裂しませんね
 人の心は大きいのだ
 もう一つ駄目押しで聞かせて下さい
 その死後とは火葬に付されるまでの間の事ですか
 それとも火葬に付され肉体が全く消滅した後もですか
 貴方の思うとおりだ
 いえ 今回はそれでは納得しません
 前者か後者かはっきりさせて下さい
 それでははっきり答えよう
 前者だ
 え! それで本当に良いのですか
 死後とは荼毘に付されるまでのその間の事を言うのだ
 その間に人は地獄と天国を見る
 そこで地獄見ずに天国を見るようにと人は宗教に縋るのだ
 たったそれだけの為に人は一生をかけて宗教に奉仕するのですか
 そうだ たったそれだけの為にだ
 しかし死んだその者にとってそれは永久なのだ
 そこで無になれる者が最高 俗に言う涅槃
 次が天国その次が煉獄そして地獄と成る
 我々生きている人間にとっては僅かな時間だが
 死んだ者にとってはそれが永久となるのだ
 だから一生をかけて宗教に縋るのだ
 本当ですか 私の思いをただ写しているだけでは無いですか
 不服かね 私は貴方の鏡だ
 先程駄目押しだと言いましたが
 これが本当の駄目押しです
 それは脳の働きによるものですか
 すなわちその意味するところはこうです
 人は死後 すなわち心臓死以後も脳は働いている
 それが何時までかは分らない
 しかし火葬以後ではあり得ない
 その間に人は永遠の夢の様に天国を見地獄を見る
 それは全て脳の働き
 人は心臓死を死だと思っているが
 本当の死は脳死
 その死は現在考えている様な脳死ではない
 もっともっと微妙な死だ
 脳は心臓死以後も生きているのである
 通夜葬式は遺族の為にあるのではない
 あくまでも死者の為にあるのだ
 すなわち心臓死になった者が脳死の間までに
 天国に近づけるようにと祈る為の法事なのだ
 そうなのでしょうか
 その通りだ
 その事を信じて私たちに付いて来なさい
 やはり日本一の宗教だけありますね
 説得力が違う
 私を見透かしている
 そしてこうも言うのでしょうか
 「新曲」のダンテも
 プラトンの「国家」最終章のあの逸話のエルも
 そして死後から帰ってきた人たちも
 全てこの死後
 すなわちこの心臓死から脳死の間に体験した事なのだと
 全くその通り
 火葬に付された誰かが帰って来たと言う話を聞いた事があるか
 こんな事を聞くべきでは無いですが
 ラザロもそしてイエスもその死後から帰って来たのですか
 その通り
 だからこう言う事が出来るだろう
 人は心臓死以後最高三日まで脳は生き続ける事が出来ると
 そしてその脳が最高限度に働き続けた時
 人は蘇生すなわち復活する事が出来ると
 その為には心臓死に成っても
 すなわち五感が全く機能しない状態
 すなわち全くの暗黒の中に在っても
 光り輝き続ける事の出来る脳が必要なのである
 その様な脳があってこそ人は復活出来るのである
 しかしそれは極々限られた人
 我々凡人はその死後において地獄を見ずに天国を見る事が出来る様にと祈ればよいのである
 それが宗教であり哲学なのだ
 宗教 哲学は死を恐れずに死に入っていく為のレッスンなのである

 どうも有り難うございます
 私の弁を代弁して下さって
 今日は貴方に乗せられてしまったようだな
 どうもすみません

 さて聖職者周りもこれ位にして
 愈々自らの天国を語らなければならないのか
 いやその前に訪れなければならない聖者がいる
 その名はヨハネ
 ヨハネは黙示録で神の都エルサレムすなわち天の国の事を語っている
 それは次のようである
 都は神の栄光に輝いていた
 その輝きは最高の宝石の様であり透き通った碧玉の様であった
 また都の城壁は碧玉で築かれ都は透き通ったガラスの様な純金であったと・・・
 これらの表現は観無量寿経等の極楽浄土の表現と似ている
 すなわち金銀瑠璃 玻瓈硨磲 赤珠瑪瑙 而厳飾之・・・と

 ヨハネ様
 貴方は黙示録で神の都の事を述べていらっしゃいますが
 あれは比喩ですか現実ですか
 貴方はどう思う
 比喩だと思います
 どうして神の国を具象として描けましょう
 貴方の思うとおりに貴方の天の国を描きなさい
 天の国は貴方の心の中にこそ在るのだ
 有難うございました
 もう無駄口は叩きません

 さて愈々私は私自身で私の天国を描かなければならなくなった
 私の天国とは?
 私が何時までもそこに住みたいと思う様な国
 もっと極端な言い方をすれば
 私が完全な無になるまで
 すなわち涅槃に至るまでに
 私が住むべき国はどの様な国なのか
 私はここで涅槃と天国の区別をしておく
 私の言う涅槃とは完全なる無の状態と言う
 私にとってはこれ以上の状態はない
 天国とはそこに至るまでのステップである
 と言うか涅槃の一歩前
 私たちは天国に飽きた時
 その時始めて涅槃へと渡る事が出来るのである
 さて私が住むべき天国とはどの様な国なのか

 私の天国にはどれ程の面積が必要なのか
 大きければいいと言うものでは無い
 何故ならその天国の住人である私は現在の私
 すなわちこの現在の感覚を持つ私なのだから
 だから天国はこの私の感覚の及ぶ範囲内で秩序付けられた世界でなければならないのである
 ヨハネが描く神の都の面積は12,000スタディオン(2,220km)四方である
 かなりの大きさである
 多くのクリスチャンを受け入れる為にはそれ位の面積が必要なのだろう
 しかし私の国土においてはそれほどの面積は必要としない
 ここで私ははたと思った
 私の思い描く天国の主権者は誰であるかと
 私は先程天国の住人である私と書いた
 私はそれを書いた時
 私の天国の概念が広がっていった
 最も天国については以前にも思いを巡らした事もあったであろうので
 無意識下ではかなり進行していたのだろうが
 今回天国の標題の基に書き始めたので
 それが意識の上に上がって来たのだと思う

 私の天国の主権者は誰であろう
 この私である
 この私がこの王国の王なのである
 しかしこの王国には神の精神が漲っているのである
 何故なら私の王権は神から授けられたもの
 王権神授説
 これが私の王国の基本法なのである
 私は神からの付託を受けて私の王国を支配するのである
 
 さて私の王国にどれ程の国土が必要なのか
 私の王国にどれ程の国民が必要なのか
 私の王国にどれ程の国法が必要なのか
 それらは全て神から下されるもの
 私はその神から下されるものをただ書き綴るだけ
 その結果が私にとって神の王国すなわち天国となるのである
 だから私は今日も明日も明後日もそして死ぬまで
 神の言葉を書き続けなければならないのである
 その結果が私の天国なのである
 私の天国を何処まで拡げて行けるのか
 それは全て私次第
 神の言葉に注意深く耳を傾け
 そしてそれを忠実に書き写して行く事
 それが現世に私に課せられた宿題
 そしてもし死後が在るのなら
 その天国が私の死後を飾って呉れるのである
 何と素晴しい事ではないか
 天国を描く事は
 現世でも楽しくそして死後楽しく暮らせるとは

 天国を描く事
 これが私たちに神から課せられた宿題なのである
 私は死ぬまで真善美に溢れた世界を描きたいと思う
 そして死後神様に会えたら
 こう言う事にしよう
 これが貴方から課せられた宿題ですと
 そしてその永遠の様な夢の時を私の描いた天国の中で暮らす事にしよう
 そして無の世界へと旅立って行きたいと思う
 これが私の死後観であり天国観である

 なお私の言う死後とは先程から言っている通り
 心臓死から荼毘に付されるまでのある一定期間の事である
 その間に永遠の様な地獄を見ずに天国を見るようにと
 私は一生を神の言葉に捧げるのである

 しかし私は最後に言いたい
 死後が有ろうと無かろうと
 現世において天国を描く事は楽しい事だと

 私は死ぬまで私の天国を描き続けたい


第25章   死について                                    

 死とは何か
 そこには二つの概念がある
 一つは心臓死であり
 もう一つは脳死である
 心臓死は分り易い
 心臓の鼓動が止まった時であり
 誰でも判定出来る
 しかし脳死はそうはいかない
 現在は二人の専門医に依ってする事になっているらしいが
 すこぶる怪しい
 現在の脳死は臓器移植の為にその道の人たちが定めたものである
 私が言う脳死とは精神の完全なる死の時を言う
 完全なる脳死が何時かと聞かれても
 私は分からないと答えるしかない
 だた火葬の時には脳は完全に死ぬと言い切れる
 しかしその時でも精神が完全に死ぬとは言い切れない
 その時精神は灼熱地獄を味わっているのかもしれない
 ここで私は三つの死の概念を提示しなければならなくなった
 心臓死脳死は先にあげたが
 もう一つの死は精神死である
 精神の死が人間にとって本当の死である
 さて精神死脳死心臓死
 この三つの死がどんな順番で起きるのか
 それに依って死後の概念が全然違って来る
 この三つの死が同時に起きれば何の問題は無い
 たぶん死後の世界と言う概念が発生しなかっただろう
 しかし現実は違う
 違うが故に死後の概念が生まれて来たのである

 さて私は何が言いたいのか
 その前に三つの死の順番を整理しよう
 心臓死脳死精神死
 これらの三つの死の内どれが一番先に来るのか
 やはり私は言わなければならない
 心臓死が一番先に来ると
 もっと光を!と言って事切れた時
 それと同時に脳が死んだのだろうか
 精神が死んだのだろうか
 確かにその時肉体運動は終わった
 人はもう口を利く事も目を開ける事も手を上げる事も出来ない
 しかし感覚器官は僅かにその機能を残している
 そして精神活動が活発な活動を始めるのである
 やがて感覚器官も働かなくなった
 その時精神活動がこれまでも無くそして今後も無い様な
 猛烈な活動を始めるのである
 「その時には世界の初めから今まで無く今後も決して無いほどの大きな苦難が来るからである」と言われているように

 私たちは知っている
 運動器官が静かになれば精神活動が高まる事を
 感覚器官が静かになれば精神活動が更に活発になることを
 その事が死後これまでに無くそして今後も決して無い程に
 烈しく起きるのである
 その時人は原罪及びこの世で犯した罪々に苦しみ
 地獄を見煉獄を見るのである
 「神がその期間を縮めてくださらなければ誰一人として救われない」と言う様な苦しみを味わう事になるのである

 私たちにとって死が重要性を持つのは死後の概念があるからである
 死後と言う概念が無ければ死は何ら恐ろしいものでもなく
 むしろこの世に疲れた者に好ましいものになる
 ああ疲れた!死んできれいさっぱり無になるか
 そう言って人々は自ら死を選んでいくかもしれない
 しかし私たちは死を目の前にしてためらう
 そして多くの者が死を取り止める
 そこにあるのは死後の恐怖があるからではないか
 よく言われる
 「自殺した者は天国に行けない」と
 そんな言葉が死を取り止めさせるのではないか

 私たち現代人はよく死後の世界は無いなどと言う
 しかし死を直前にした時死の恐怖に囚われる
 そこにあるのは死後の概念では無いのか
 こう言う人がいるかもしれない
 この世への未練が死を止めさせると
 私はその人にこう言おう
 未練は断ち切る事が出来るが恐怖は断ち切れないと
 恐怖を目の前にした時人は必ず逃げ惑う
 これが本能なのである
 この本能の中に如何なる恐怖が刻まれているのか
 それが地獄煉獄か
 だが現代人は言う
 火葬されて灰と骨だけになった人間にどうして地獄が付き纏うのかと 
 私も全く同感だ

 イエスは死んで三日目に復活した
 私はこの三日の日々と言うものが
 死後の概念に大きく影響していると思われる
 人が人として在り得るのは三日目までであると
 四日目以降は如何なる人といえども人としては在り得ないと
 人はこの三日間に地獄を見天国を見そして全くの無に帰して行くと
 ダンテはこの三日間に地獄を見煉獄を見天国を見たのである
 プラトン国家のあのエルもこの三日間にあの死後の世界を見たのである
 そしてイエスも
 そしてイエスは私たちに福音を齎したのである
 私に付いて来なさい
 そうすれば貴方たちを天の国へと連れて行ってあげると

 私たち生きている人間にとっては僅かに三日だが
 その死後の世界に生きる人間にとってはそれが永久の様に思えるのである
 特に地獄煉獄に留まる者は
 そしてそれは全て脳の働きであり
 精神の働きなのである

 例え脳と言う臓器が焼かれ灰になり
 全く精神が機能しなくなっても
 その者にとってはそこに地獄が永遠に存在している様に思えるのである
 これが地獄の恐怖なのである
 「その時には世界の初めから今まで無く今後も決して無いほどの大きな苦難が来るからである
  神がその期間を縮めてくださらなければ誰一人として救われない」と言う恐怖が存在する事になるのである

 神に縋っていた者はその三日間の内に
 地獄煉獄そして天国へと渡り
 そして完全なる無と成ってこの世から消えて行くのである
 ダンテやエルは神の思し召しに依ってこの天国から帰還したのであり
 イエスはこの世界の民にその福音を齎す為に自らの意志で復活したのである
 完全な無に成らずに
 
 これは菩薩たちも同じである
 彼らはこの世の民を救う為
 完全なる無に成らずに自らの意志でこの世に帰還したのである
 これが死後三日間の神秘なのである
 現代の人々よ 理解して呉れただろうか
 だからゆめゆめ死後の世界など無いと高を括らずに
 この世を神に縋って一生懸命生きて欲しい
 神とは何か
 最終章で明らかにする事としよう

 今貴方方に言えるのは自分に正直に
 そして知恵を大切にしなさいと言う事だけだ
 そうすれば今世も楽しく来世も楽しくなる

 死すなわち心臓死は
 我々を今世と来世に分ける
 今世は八十年そして来世はたったの三日
 だが来世の方が今世に比べて何十倍も何百倍も
 いえほとんど無限大と言う程に長いのである
 何故なら地獄煉獄に留まる者にはその三日が永遠の様に思えるから
 これが私の死後に関する一考察である

 なお心臓死脳死精神死の死の順番は次の通りとなる
 先ず始めに来るのが心臓死
 それは誰も判定を間違う事は無いその時
 次が脳死
 それが何時かははっきりしないが
 火葬の時には完全にその臓器は死ぬ
 そして精神の死
 それは今見て来た様に地獄煉獄に留まる者はほとんど死ぬ事が無いのである
 それに引き換え地獄煉獄天国そして完全なる無を迎える事の出来る者は本の一瞬の内に精神の死を迎える事が出来る
 完全なる無 これがも最も好ましい死の姿なのである

 さて脳死と精神死とどちらが先かと言う疑問が残るが
 それに対してはこう答える
 完全なる無を迎える者は自らの意志に依って脳死の前に精神死を迎える
 それに引き換え地獄に留まる者は脳死のその時まで精神が脳に留まる
 だから彼らは火葬と言う灼熱地獄を味わう事になる
 煉獄天国へと渡る者は自らの意志で脳死前にそれらのステージに渡るので灼熱地獄は体験する事が無いなどと
 空想は空駆け回る
 だが誰も死後の事は知らない
 そして現代人と言われる人々も表上は死後は無いなどと言い切っているが
 ほとんどの者が心から割り切っていないのである
 そして死を直前にして慌てふためくのである
 もしそうなのであれば
 事前に死後を考察して
 その時を慌てふためかないようにする事もまた哲学の役目かと思う

 結局死を考察する時
 その死後を考察する事になるのである
 死後の恐怖を和らげる
 これが死の哲学なのである

 なお死の哲学には如何に現世を生きるかと言う事が含まれる
 それに対してはこう答える
 この世に天国を築く事
 それが現世をよりよく生きる事であると
 天国の事については前章で述べた

 この世を如何に素晴しい言葉で飾るか
 それが私にとっての天国構築
 
 この天国が私の死後を飾って呉れたら私は嬉しい
 結局心臓死以後の三日間
 たぶんそれは本の短い時間かも知れない
 未だ脳の能力が残っている間に
 地獄から煉獄 煉獄から天国そして無へと
 駆け上る練習をして置けば
 その時慌てふためかずにきれいな死を迎える事が出来るのだと思う
 この世で天国を構築する事
 それがきれいな死を迎える為の最も素晴しいレッスンなのである

 私たち人間には原罪がある
 だから死後皆必ず地獄に行く
 しかし原罪だけの者は直ぐにそこでそれを焼き尽くして
 次の煉獄へと進む
 煉獄での経験も既にこの世で経験済みの者は
 そこに留まる事無く更に次の天国へと進む
 天国での経験も既にこの世で経験済みの者は
 そこに留まる事も無く速やかに無へと帰って行くのである
 これが聖者と呼ばれる人たちのコースである
 一方この世でたくさんの罪を犯した者は
 その脳の能力が残っている間に
 その全ての罪を焼き尽くす事が出来ないので
 地獄に残ったままあの灼熱地獄を体験する事になるのである
 煉獄天国に留まる者はその中間の人々である

 などと連想は膨らむが
 この辺りで「死について」の章を終わる事にする


第26章   無について                                    

 無とは何か
 それは創造の起源
 私たちは無になる事に依って新たなものを創造出来る

 有から無
 そして無から有
 ここに創造の起源がある

 有で在り続ければ私たちはそのまま
 しかし無になる事が出来れば
 私たちは新たなものを創造出来る

 この世の楽しみは何かと問われれば
 それは創造
 創造の中にこの世の楽しみの全てが込められている
 もし私たちが快楽の中に生きたいと言うのであれば
 無にならなければならない

 さて無とは何か
 それはこの世の一切を捨てる事
 その為に如何なる方法があるかと問われれば
 この世に死ぬ事
 そうすれば最も素晴しい創造
 新生が待っている筈である
 しかしそれは出来ぬ事
 であれば他に方法があるのか

 完全なる無に成る為には死ななければならない
 しかしそれは出来ぬ事
 であれば次善の策を考えねばならぬ
 それが何かと問われれば
 瞑想
 瞑想とは瞑すなわち死を想う事
 死を疑似体験する事により新たな生を得ようとする試みである
 瞑想を自由自在に出来れば
 私たちは何時でも新たな生を体験出来る
 それは創造に満ち快楽に満ちた事
 だがその様な瞑想を出来る者がどれ程いることか
 確かにブッダは難無く瞑想に入る事が出来た
 そしてその死を体験する事に依って
 あの様な膨大な世界を創り上げる事が出来たのである
 もしブッダが現世に生きたままであったなら
 あの様な世界は創り上げる事は出来なかた

 ブッダは疑似体験の死に依って
 あの様な大きな世界を創り上げた
 ではイエスはどうか
 彼は本当の死に依って
 あの様な大きな世界を創り上げたのである
 私たちはどちらに習えばよいのか
 疑似体験の死により新たな世界を創る事か
 それとも本当に死んで新たな世界を創り上げる事か

 確かにイエスは本当に死んで
 あの様な世界を創り上げた
 しかしイエスは我々に本当に死ねとは言っていない
 イエスが我々に言っている事は
 罪において死ねと言っているのである
 それは簡単な様に思えた
 それが為多くの人がその死に向かった
 そして現在でも多くの人がその死に向かっている
 しかしそれは思いの外難しいのである
 多くの人がその罪に囚われて死ねないでいる
 
 一方ブッダは全面的に死ねと言った
 瞑想と言う疑似体験の死の中で
 そして多くの者がその疑似体験の中に死んで新たな世界を創り上げた
 しかしそれは軟弱に過ぎた

 イエスの死とブッダの死
 どちらに軍配を上げるか
 この現実の中に新たな世界を創り上げた言う点からはイエス
 創造に関する無常の喜びを多くの人に与えたと言う点からはブッダだと言う事になるのだろう
 
 完全なる無とは死の事
 その死の疑似体験が瞑想
 ブッダはその擬似の死に依って我々に大いなる創造の喜びを与えた
 イエスのそれはそれ程大きいものではなかった
 何処に原因が有るかと言えば
 死の大きさによる
 ブッダは全てにおいて死ねと言い
 イエスは罪において死ねと言った
 死の度合いが大きければ大きいほど
 創造の喜びもまた大きくなるのである
 しかしそれはまた現実から遠のく

 私は思う
 イエスの罪の死と
 ブッダの全面的な死を使い分ければ
 この世はまた楽しいと

 現実に生きる時はイエスの罪の死に倣い
 現実を降りた時はブッダの全面的な死を楽しむ
 そうすれば美しくかつ楽しく生きていく事が出来る

 イエスの罪の死
 これは途轍も無く難しい
 しかしこれを諦めれば
 私たちは美しく生きて行く事は出来ない
 現実に生きている限り
 イエスの罪の死に倣う
 勿論私たちはその死に到達する事は出来ない
 しかしその死に近づく事が出来る
 その死に近付けば近付くほど
 美しく生きる事が出来る
 美しき人生
 これがイエスの罪の死に対する報償である
 しかしそれは途轍も無く辛い
 いばらの道を十字架を背負って行くが如し
 だからその現実の道を降りた時は
 ブッダの全面的な死を楽しむ事にしよう
 そうすれば毎日毎日生まれ変わる事が出来
 イエスの罪の死もそれほど重荷にはならなくなるだろう
  
 イエスの罪の死とブッダの全面的な死
 これを上手く組み合わせる事により
 この人生を美しくかつ楽しく生きていく事が出来る

 イエスの罪の死に依って美しく
 ブッダの全面的な死に依って楽しく
 何と素晴らしき人生ではないか

 死とはイノセント 無に帰する事
 イエスの死に依って 罪が無に帰して無垢となる
 その暁は美しき人生
 
 ブッダの死に依って この世の全てが無に帰す
 その暁は新生 日々新たに
 ブッダの死には大いなる創造の喜びがある

 イエスの罪の死に至る道は鳩の様に素直に蛇の様に賢く
 切する如く磋する如く琢する如く磨する如く
 難儀な仕事である
 それに引き換えブッダの全面的な死に至る道は瞑想
 一気にかの世へと渡る
 何と楽しき道である事よ
 しかし落とし穴もある

 無が創造の起源と言う事であれば
 軍配は圧倒的にブッダの死へ
 しかし私たちがこの世に生きていると言う事を考えれば
 ブッダの全面的な死とイエスの罪の死を上手く組み合わせていく必要があると言う結論になる

 無とはこの世に死ぬ事
 その最も簡便な方法が瞑想

 次章ではその瞑想を考える


第27章   瞑想について                          

 瞑想とは何か
 それは瞑を想い 死を思い 無を思う事
 完全に無に成った時
 私たちは新たに生まれる事が出来る
 その理想の世界に
 しかしそれは私たちには出来ぬ事
 その疑似体験をさせて呉れる方法が瞑想
 
 瞑想の手法を取得すれば
 私たちは身近に理想世界に近づく事が出来る
 瞑想の手法を習得すれば
 私たちは気軽に理想世界を描く事が出来る
 瞑想の手法を修得すれば
 理想世界が私たちにより身近になるのである
 だから人が理想世界を望むのなら
 先ずは瞑想の手法を収得しなければならないのである

 瞑想の手法として最も知られている方法は座禅である
 最も私は座禅をした事が無い
 座禅をした事が無い者が
 座禅の事をとやかく言う事はおこがましい事ではあるが
 今回の主題が瞑想と言う限り
 座禅の事を避けて通る事は出来ないのであろう
 
 さて座禅の何が素晴らしいかと言えば
 それは結跏趺坐である
 何故ならそれによって不動になれるからである
 生身の人間が不動になる事によって
 その中で 生から死 そして死 更には死から生を体験する事が出来るからである 最も疑似ではあるが

 生から死とは何か
 それはこの世の穢れをすっかり洗い流す事
 死とは何か
 無になる事 
 死から生とは何か
 それこそ新生
 理想世界の創造
 この世からかの世へ
 自分自身が想像しうる限りの理想世界
 もし死後があるのであれば住んでみたいと言う世界
 そしてもしこの世界に創造する事が出来るのであれば創造したいと言うその世界
 その世界を創造する事
 それが死から生である
 そしてそれが瞑想の最終目的なのである
 いや瞑想には二つの目的があると言っていいだろう
 一つは死ぬ事無になる事
 もし人間が生きている中で死ぬ事無になる事が出来れば最高だろう
 人はそこでは何にも悩まされる事はないだろうから
 全くの無 これほど素敵な世界は無いだろう
 しかし人間は生きている限り死ぬ事無になる事は出来ないのである
 
 人間が生きている限りにおいて
 死ぬ事無になる事が出来るのは一瞬
 もし1分も死ぬ事が出来れば死の大大天才
 もし1分でも完全に死ぬ事が出来れば
 その人には新生が待っている事だろう
 しかし人間は生きている限り死ぬ事は出来ないのである
 先程から一瞬死ぬ事無になる事が出来ると言っているが
 それはあくまでも擬似の死
 人間は生きている限り死ぬ事は出来ないのである
 だから瞑想の目的は
 死ぬ事無になる事では無く
 理想世界を想像し創造する事にあるのである
 最もこの世の最後の瞑想の瞬間においては
 完全なる死完全なる無を瞑想したいものである
 ひょっとしたらその為に毎日毎日瞑想を続けるのかも知れない
 最後のその瞑想の瞬間を入定と言う

 もうこの世界で理想世界を十分に創り上げた
 後は本当に完全に無に成って死ぬだけだと想いながら

 結局瞑想もやはり死の準備訓練なのである
 この世の想いを残さない為に
 この世で想いを焼き尽くす為に
 その為にこそ瞑想があるのである
 この世で理想の世界を想い尽くす
 もう想う事は何も無いと言う位に思う為に瞑想と言う手段があるのである
 だから瞑想と言う手法を手に入れて
 瞑想に毎日遊んだ者には
 それ程死は恐いものでなくなるのである
 瞑想とはそう言う為にあるのだ
 だからブッダも瞑想を強く勧めるのだ
 仏像を見てみなさい
 全てが結跏趺坐ではないか
 あれがどう言う事を言っているか分かりますか
 私の様に常に瞑想に励みなさいと言っているのです
 そしてその為には
 この結跏趺坐が最も良いと言っているのです
 私も結跏趺坐を習いたい
 多分この結跏趺坐が瞑想には最も相応しい方法だと思う
 最も瞑想に至る道は結跏趺坐だけでは無い
 瞑想に至る道は様々に用意されている
 そうでなければ仏教徒しか瞑想をする事が出来ないと言う事になってしまうだろうから
 クリスチャンにもその方法は用意されている
 それが何かと問われれば祈りである
 しかし仏教ほどキリスト教においては瞑想を強く勧めていない
 それはイエスキリストの肖像を見れば明らかだ
 イエスキリストは若くそして精力的に活動している
 その中に瞑想の姿を見ることは無い
 唯一静止的な姿は祈りである
 イエスは祈りに依ってこの世を焼き尽くしかの世を仰ぎ見たなのである
 その最も象徴的な肖像はゲッセマネでの祈りであろう
 私からこの杯を取り除いて下さい
 いいえやはりそうでなく御心のままに
 これが最後一人で余裕があった時の祈りである
 
 私は前章でイエスの死はこの世における罪の死であり
 ブッダの死は全面的な死であると言ったが
 その意味が分って頂けただろうか
 イエスはこの世の罪において死ねと言っているのである
 それはとても辛い事である
 ゲッセマネでのあの祈りを視れば分るだろう
 あのイエスが汗が滲み出る程に祈り続けたのだから
 ペテロやヤコブヨハネも正視出来ない位に
 それに引き換えブッダの死は気軽である
 全面的に死ねと言っているのだから

 イエスのあの祈り
 この世の罪おいて死ねと言うあの最後の祈りは
 私たちに脈脈と受け継がれている
 その祈りはその後の世界を少しずつ変えていき
 現在においてもその祈りは息づいている
 イエスの祈りはこの世界を変えよと言う祈りだったのである
 それは私たち凡人には辛い
 しかしそれを避けて通れば
 私たちはイエスキリストに倣う事が出来ない
 だから出来る限りは倣わなかればならない
 だが全面的に倣えば私たち弱い者は潰されてしまう
 そこでイエスはそう言う私たちの為に別の祈りを用意して呉れたのである

 それは「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めて」の祈りである
 これはブッダの全面的な死と同様なものである
 これによって多くのクリスチャンが慰められているのである
 クリスチャンには二つの祈りが課せられている
 一つはそれこそ辛い祈りである この世を変えろとの祈り
 もう一つは甘美で甘い祈り 私の中に安らぎなさいとの祈り 
 この二つの祈りによってクリスチャンは生かされているのである

 「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めて」の祈りは
 ブッダの全面的な死
 すなわち仏教の専売特許の様に思われている瞑想と同じものなのである

 私は今トマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」を読んでいる
 これこそが正に全面的な死 瞑想のオンパレードである
 彼は常に全面的な死だけを憧れている
 それは甘美で甘い
 この書「キリストにならいて」の表紙に
 この書は世界中で聖書に次いで最もよく読まれている書物であると書かれている
 さもなんと思う
 何故なら甘い甘い書だから
 イエスの中で全面的に死ねばイエスが与えられる
 そう書かれているのだから
 ブッダの全面的な死と同じ事をそのままに謳っているのだ
 この世に疲れた者には限りなく甘い

 「疲れた者 重荷を負う者は誰でも私のもとに来なさい
  休ませてあげよう」
 このイエスの言葉どおりの書である

 しかしイエスは二つの事を課した
 トマス・ア・ケンピスがよく引用している詩篇
 その作者のダビデもよく二つの事を果たした
 しかしトマス・ア・ケンピスはその内の一つの
 甘い甘い瞑想だけをオンパレードさせた
 しかしそれはそれでよい
 私たち弱い人間にはそれだけで本当に十二分だ
 「主よ主よと言う者が皆天の国に入るわけではない
  私の天の父の御心を行なう者だけが入るのである」
 などと私たちを責め立てはしないだろう
 何故なら私たちは弱い人間
 疲れた者 重荷を負う者だから
 どうか貴方の中で休ませて下さいと祈る者だから
 だから私たちに瞑想だけに耽るなどとは言わないでしょう
 もし私がそこで十分に強くなったら
 貴方の御心をこの世において行ないますから
 それまではそうぞ私を休ませて下さい
 私に猶予を与えて下さいと
 そうイエス・キリストには祈る事としよう

 瞑想
 一言で言えば神の世界を想う事
 二言で言えば
 この世に死んでかの世を想う事
 瞑想をもっと発展させるとこうなる
 かの世をこの世に移し変える
 神の世界をこの世に実現させる
 「主よ主よと言う者が皆天の国に入るわけではない
  私の天の父の御心を行なう者だけが入るのである」
 イエスはこの様に瞑想に耽る事を戒めた
 それが為
 イエスの世界はこの世に実現していったのである
 しかし私たち凡人には少し辛いですよね
 だからこの世に在る時は
 私たちは出来る限りにおいてイエスキリストに倣う事にしましよう
 しかし現実を退いた時は
 トマス・ア・ケンピスやその師であり神秘主義者の総帥であるエックハルトや
 そして瞑想の本家本元のブッダに倣って瞑想に耽ることにしましょう
 これほどこの世に甘美な事は無いのですから
 瞑想それは神の世界を想う事ですから
 これ程素晴らしい事が他に有り得るでしょうか
 少なくとも「真善美」を求めている限りにおいては・・・


第28章   新生について                                  

 新生とは何か
 新たに生まれる事
 しかしそこには二つの意味がある
 一つはその言葉どおりに新たに生まれる事
 よく新生児と言う
 その意味での新生である
 全くの新たな意味での新生
 そこには大いなる希望があるのだろう
 もしその新生児に自我があれば
 しかし新生児はほとんど全くの無である
 その無から人生80年を生きて行く事になる
 この世の荒波に揉まれながら
 人生80年 その死に及んではその純粋無垢は跡形も無く消えている
 その時彼は何と思うのか
 一体私の人生80年は何だったのかと
 私はこの世に従って生きた
 しかしこの世は私に対して何の報償も与えて呉れない
 そればかりか老年には老いを
 そしてこの死の瞬間には死を
 これがこの世の報いか
 この世はあまりに酷い
 そう言いながら彼は新生の頃を思い出すのだろうか
 あの純粋無垢な時代を
 いいえそれは有り得ぬ事
 人が思い出せるのは
 物心が付いた時代の頃
 もうその頃は純粋無垢とは言えない
 何故ならその言葉どおり物に執着する心が生まれているから
 何にも囚われない純粋無垢な時代
 それは人の記憶には有り得ない事なのである

 しかしもう一つの意味での新生には
 それがありありと残っているのである
 そして彼はいつもその新生の時代を懐かしく思い出し
 そして至福に浸るのである
 ああ!あの新生の頃は何と幸せに満ちていた事か
 物皆が全て私の新生を祝って呉れた
 全てが私の為に
 それから私はその新たな生から今日までを生きて来た
 それは素晴らしき人生
 更に驚く様な事を言うと
 私の新生は一度ではないのだ
 私は何度も何度も新たに生まれそして今日あるのだと
 これが第二の意味で新生である

 一つ目は肉体における新生
 二つ目は精神における新生

 一つ目は一回きりだが
 二つ目は何度でも可能
 その端的な言葉が「日々新たに」である

 日々新たにとは
 日々新たに生まれると言う事なのだ
 貴方方は言うのだろうか
 そんな事が可能かと
 そんな風に直裁に聞かれれば
 それは無理だろうと答えるしかないのかも知れない
 多分彼は回向とか回心とか
 そんな新生の頃の強烈な思い出を想い出しながら
 日々新たに生きているのだろうと

 しかしだがである
 もし眠りを死と捉えたら
 私たちは日々新たに生まれる事が出来る
 朝日を浴びる毎に
 ああ今日も私は新たに生まれる事が出来たと言いながら
 その為に必要な事は何だろうか
 それは日々この世に死ぬ事である
 死ねば新生の可能性はある
 しかし生きたままでは新生の可能性は無い
 もし死んだ様に完全に熟睡出来たら
 きっとその人はその目覚めの瞬間にこう思うだろう
 ここは何処?私は誰?
 私は今日ここに生まれたのかしら?などと
 しかしその次の瞬間には昨日までのこの世のものが一斉に押し寄せ
 彼は昨日までの人を今日も生きていく事になるのだろう

 ところで新生とは何だろう
 新生を新たな世界に生まれる
 と言う風の解釈すれば
 私たちはいつでも私たちの意志で新たな世界に生まれる事が出来る
 その最も端的な言葉が
 この世からかの世である
 かの世に行く為には
 この世で死にかの世に生まれなければならないのである
 結局私の言いたい新生とはこの事を言っているのである
 その為の最も手軽な方法が瞑想である
 この世の死を思いかの世の生を想う
 この手法によって
 私たちは手軽に新生を体験できる
 しかし瞑想だけがその手段では無い
 先程述べた眠り
 これも新生の手段である
 もし完全に死んだ様な眠りの手法を習得出来たら
 その人はあのことわざのとおり
 「日々新たに」生まれそして生きて行く事が出来るだろう
 その為に必要な事は何かとと問われれば
 入眠の際に全くの無になる事
 そしてその無の中に一粒のかの世の種を植えて置く事である
 そうすれば目覚めのその瞬間に
 かの世の花が一斉に咲く事でしょう
 その時彼は言うのでしょう
 What a wonderfull world
 何と素晴らしい世界よと
 そして彼はその素晴らしい世界を一日生きて行く事になるでしょう
 少しはこの世に汚れながらも
 しかし彼はまた入眠の際には一切のこの世の汚れを洗い落とし
 そして全くの無になって眠りに就く事でしょう
 勿論一粒種を植える事は決して忘れはしません
 これが「日々新たに」生まれそして生きる人の日課なのです

 新生とは何か
 もう一つの新生がある
 それはこの世に新たに生まれる事である
 イエスの様に
 仏教の世界で言えば菩薩の様に
 この厳しい世界に生身の人間として
 かの世を生きる様にこの世を生きるのである
 イエスは少なからず私たちにもそれを強いている
 それは私たち弱い人間には中々に難しい事
 もしここからキリスト教に入れば
 全ての人がその教義に潰されてしまうだろう
 こんな弱い人間に
 どうしてこの世をかの世の様にに生きて行く事が出来よう
 それは聖人にだけ与えらものの様に思える
 イエスは神の子であるから論外として
 彼らの愛弟子たちはそれを立派に遣り遂げた
 特にパウロとペテロにはその言行録が残っているから
 私たちはそれを見本とする事が出来る
 彼らはイエスを産婆として
 この世に新たに生まれたのである
 イエスは言う
 私に倣え私に続く者に倣えと
 余程の確信が無ければ出来ない事
 
 かの世に生きる事
 これは多くの人がしようと思えば出来る
 しかしこの世をかの世の様に生きる事
 それは中々に難しい
 喩えれば
 それは修道僧と伝道僧
 修道僧とは自分自身を修める者の謂い
 伝道僧とは自分自身を修め更にこの世を治める者の謂い
 私たち弱い人間には中々に出来ぬ事
 それでもイエスは私たちにそれを行なえと命じる
 イエスの教えは中々に厳しい
 しかし多くの人がそれをやり遂げようとして殉職した
 そして次第次第にイエスの世界に染められていった

 さて様々な新生を述べたが
 私は先ず瞑想による新世界への新生を勧める
 そこは私たちがこれまで体験した事の無い様な世界だ
 そこに生まれるが良い
 そこから更に伝道僧 菩薩と成って
 この世をかの世の様に生きるかどうかは
 きっと神様仏様が決めて呉れる事だろう
 その前にやはり新世界を見て置かなければならない
 その為に新生が必要なのだ


第29章   道について                              

 道とは何か
 それは私たちが目標を定めた時
 私たちの目の前に現れて来る道である
 
 山に登ろうとする時
 私たちの前に道が現れて来る
 その道に従えば
 私たちは頂上を極め
 そしてまた戻って来る事が出来る
 もし道を反れたら
 私たちは迷ってしまう
 だから山に登る時は
 私たちは細心の注意を払って道に従う

 では私たちの身の回りを網の目の様に走っているこのみち
 このみちを何と呼ぶのか
 それは路
 道と路
 この二つから道路は出来ている

 道とは私たちが目標を定めた時に現れるみちである
 言わば旅路の道である
 それに引き換え路とは生活路である
 常に私たちの周りに在る
 私たちはそれを道とは認識してしない それは路である
 
 さて先程山登りの道を道と喩えたが
 私たちの人生も山登り喩えられるのではないか

 私たちが人生に目標を定め、人生を歩き出した時
 私たちの前に道が現れる
 それが道(タオ)であり Lordであり 導き手である
 「道可道、非常道」(道の道とす可きは、常の道にあらず)
 私たちが目標を定めた時
 この道が現れて来るのである
 
 一家を成す
 すなわち道を極めた人たちは皆この道に従ったのである
 強い目標を持てば持つ程
 この道は私たちの前にはっきりと現れて来る
 強い意志を持ち目標をしっかり見定めこの道に従えば
 その目標は必ず達成されるのである
 何故ならその道はLordであり導き手だからである
 要は如何なる目標を持つかと言う事である

 もし真善美を得たいと強く願うなら
 その道は私たちの前に喜んで現れて来るだろう
 老子の道にしたって
 キリスト教のLordにしたって

 主よ私に真善美を溢れんばかりに与えて下さいと
 強く念じれば念じる程
 その道(タオ)やLordは
 私たちに真善美を与えて呉れるだろう
 道は導き手であり道である
 日々私たちを導くと共に
 私たちが目標を見定めると
 その目標までの道程を示して呉れるのである
 道とはそう言うものである

 道と歩くとはそう言う事なのである
 勿論道を歩くと言ってもいい

 さてこの辺りで私の目標を定めなければいけない
 私はこれまで何をして来たのか
 言葉遊びか
 そう 最近特にその傾向が強かった
 言葉は生かしてこそ生きる
 言葉に戯れ過ぎると言葉は死ぬ
 私のこれまでは迷い路
 この迷い路から道へと向かわなければならない
 その為には目標を持たなければならない
 私の目標は何か
 それは「哲学革命」ではなかったのか
 この哲学百章もその為の道程だったのではなかったのか

 私はここに「哲学革命」を高く掲げる
 そうすれば私の前に道が現れるだろう
 そしてその道は日々私を哲学革命へと導いて呉れるだろう
 道とはそう言う存在である

 さて私の言う哲学革命とは如何なる革命か
 それは皆が知恵を愛する事に依って
 この世を変えて行こうとする革命である

 知恵を愛すれば愛するほど人は優しくなれる
 この優しさに依って世界を変えて行こうとする革命である

 知恵を愛する事
 それはphilosophia哲学
 私の使命はこの世に哲学を高く掲げる事
 哲学 
 すなわち知恵を愛すると言う行為に多くの人が多く集えば集うほど
 この世は優しくなる

 私はこの世に哲学を高く掲げる
 そうすれば私の前に道が現われて来るだろう
 そして私を日々導いて呉れるだろう
 道とはそう言うものである

 さて私は遠く視る
 そこには私の理想世界がある
 人々は皆満ち足りて優しい
 そこに在るのは自足と愛
 皆満ち足りているから優しい
 ただそれだけの世界だ
 だが私にとっては理想世界だ

 そこに至る私の道が見える
 その世界の前に哲学革命の炎が視える
 しかしその炎は限りなく優しい
 キャンプファイヤーに集うが如く
 皆哲学革命の炎に集っている
 そして銘銘が呟き合っている
 知恵とは何と優しい存在か
 私も知恵を愛する仲間と成ろう
 そう呟きながら
 哲学者 
 すなわち知恵を愛する者の輪が大きく拡がっている
 もう間も無く理想世界だ

 その前に私の道が見える
 その最初にこの哲学百章の完成がある
 それまでは言葉に戯れていたが
 この「道について」の章から使命が乗り移ったかの様だ
 知恵から離れまいとする意志が在り在りと見える
 知恵もそれに応じて知恵を授けている様だ
 知恵との二人三脚が始まった様だ

 哲学百章が冊子と成った
 そしてその冊子は全ての大学の哲学教授の元へ送られた
 哲学教授はその冊子を読んで思った
 哲学とは何だったのか
 私は何を教えていたのか
 哲学とは知恵を愛する事
 私に誰もその事を教えて呉なかった
 私の目が覚めた
 私も今日から
 哲学者
 すなわち知恵を愛する者に成ろうと
 その様にして哲学革命の波が大学から起こった
 もう誰も止める事が出来なかった

 先ずは全ての大学に哲学科が出来た
 そして哲学は大学の必修と成った
 その次に哲学が高校の必修と成った
 その次に哲学が中学の必修と成った
 これで自我の目覚めから自我の完成まで
 哲学が必修と成った
 皆が皆知恵を愛し合った

 優秀な学生が哲学科へと向かった
 その為大学には哲学部が出来た
 そして巷の生涯学習機関に
 哲学コースが多く設けられた
 皆が皆知恵を愛し合った
 そしてこの日本は知恵の響き合う国と成った
 「言霊の幸(さきは)う国 日本」に成ったのである
 古代人が夢に見た日本が実現したのである

 これが私の哲学革命への道である
 何と至福に満ちた道である事か
 私はその道を一心不乱に歩む

 幸せとは知恵を愛する事
 それ以外に無い事を
 この日本国民の大多数が知るまで

 私の革命への道は続く


第30章    自己について                           

 自分 自己 自我 私
 私を表現する言葉は様々にある
 この中で何故自己を選んだのか
 それは自己と言う言葉が
 この世に強い意志を持って打って出る私と言うイメージがあったからである

 私はこの哲学百章の序章の中で次の様に書いた
 「その道を進む事に依って
  真の自己が
  そして強い意志が生まれる事を知る
  強い意志を持つ自己が確立した時
  人は徳を伴って
  この世に撃って出る事になるのである」
 その流れの中からも自己と言う言葉を選択せざるを得なかったのである

 自分 自己 自我 私
 共に私を表現する言葉だが
 私はそれぞれに少しずつ違ったイメージを持っている

 自分とは自らの分 すなわち私の分
 私が創り上げたこの世界の総体を言う
 その周辺部は極めて曖昧模糊としている
 しかしこの世から自分を語りなさいと言われた時
 その自分はぎゅっと集約する
 それは自己に近い言葉となる

 自己についても様々な意味合いに取れるが
 今回私が取ったイメージは
 自己紹介の時の自己である
 この自己とは正に世に撃って出る時の私である
 私は斯く斯く云々の者である
 だから貴方方の仲間に入れて頂きたい
 自己申告の時の自己である
 私はこの様な者である
 だから私をその位置に付けて頂きたい
 
 この自己は自分にとっての客観的な自分であると共に
 他人からも客観的な自分である事を望む自分である

 私はこの章で自己紹介用の自分を語る事になる

 次に自我だが
 これも様々な意味合いに取れる
 今回私が取ったイメージは
 自我の目覚めの時の自我であり
 よく言われている所のエゴである
 一言で言えばこの世の私
 肉体欲望本能情念等々と一緒に成った私である
 自我は
 肉体欲望本能情念等々と一体と成った自分を生かそうとする
 だから時には肉体に欲望に本能に情念等々に従う事になる
 そんな時若き自我は悩む
 「若きウエルテルの悩み」と言う事になる

 次に私
 この定義は当分揺らぐ事は無い
 自分 自己 自我は
 今回初めて俎上に上げた様なものだが
 私についてはもう何年来も定義し続けている
 その定義は
 「我思う 故に我在り」の私
 すなわち考える存在としての私である
 私の全ての基礎の基礎
 この考える私の基に私の全ての世界が創り上げられる
 この私は一時も休む事無く(完全に熟睡している時だけを除く)考え続けているのである
 呼びかける者 問う者
 知恵を受ける者
 私とは考える存在
 なお「私」については第1章で述べた
 私を俎上に上げた時 私が生きて来る

 自分 自己 自我
 その全ての中に私は居る
 しかしどの場合においても
 私は純粋な形では存在していない
 何らかの付属物がくっついている

 自分 この概念が一番広い
 時と場合によって様々な使われ方をする
 自分の世界に遊ぶ
 そんな使われ方が一般である
 だが時には自己として使われる事もあり
 自我として使われる事もある
 しかし考える私として使われる事は無い
 考える存在としての私は私だけである

 自己は自己紹介の時の自己と考えるのが最も無難である
 そして自我はエゴ

 この整理の中でこれから私の「自己」を描く事にする

 さて私はこれから私の自己紹介をしなければならないに事になる
 私とは何か
 私とは考える存在である
 確かにそうだが
 ここで言う私とは自己紹介用の私である
 すなわち普遍としての私ではなく
 個としての私である
 この世に私が認めて貰いたいと思っている私である
 と言うよりも
 この世で私が生きたいと願っている私である
 私はこの世に於いて
 どの様に生きたいと願っているのか
 その答えは一つ「哲学詩人」としてである

 哲学詩人とは何か
 それは知恵を愛する者としての詩(うたい)人である
 私に何が幸せかと聞かれれば
 知恵を愛する事 そしてそれを言葉にする事
 だから貴方が何に成りたいかと問われれば
 「哲学詩人」と言う事になる

 知恵を愛する事(哲学)は
 誰にとっても一番幸せな事である
 私はその事を疑って止む事は無い
 しかしほとんどの人がそれを知らない
 その事も疑って止む事は無い

 私はこの著書の序章で言った
 私の目的は
 多くの人を哲学者
 すなわち知恵を愛する者に誘う事であると
 その為にも
 私は知恵を愛する者(哲学者)として知恵を愛する詩を(うた)い続けねばならないのである
 私の詩(うた)に
 一人でも知恵を愛する事に気付いて呉れたら私はそれで本望なのである
 知恵から知恵へ
 知恵への連鎖の中から
 この日本が知恵の王国に成ったら私はそれで本望なのである
 そしてこの世界が

 知恵を愛する事
 それは普遍を愛する事と同じ事
 私たちが普遍を愛すれば愛する程
 私たちは一つに成る
 私たちは知恵を愛する事に依って
 「人類皆兄弟」と言う境地まで行く事が出来るのである

 人類皆兄弟
 この境地に至る為には
 知恵を愛する道以外に道は無いのである

 私は前章で行った
 私の道は哲学革命への道だと
 その為に
 私は哲学詩人として
 知恵を愛する詩(うた)を詩(うた)い続けねばならないのである

 世の者が私に貴方の職業は何かと問うたなら
 私はこう答える事にしよう
 「私は哲学詩人であると」
 何の為に哲学詩人に成ったのかと問われれば
 こう答える事にしよう
 「哲学革命を行なう為」と

 これで私の「自己」紹介を終わる事にしよう
 ああ