「哲学詩集 ~智恵を求めて」
哲学詩集 ~知恵を求めて~ 2003/ 4/16 21:23
私は哲学が大好きです
日々の思想を詩に託して行きたいと思っています
その先に何があるか
それは神のみぞ知るです
私は哲学詩人 2003/ 4/16 21:25
私は詩人
哲学詩人
私は知恵を愛する者
知恵の限りを尽くして
知恵を愛したい
知恵の効能 2003/ 4/16 21:30
知恵とは何か?
私は知らない
しかしその効能は知っている
知恵を求める時
そこには幸せが訪れる
幸せの源泉 2003/ 4/16 21:44
哲学を再認識しよう
哲学とはphilosophia
知恵(sophia)を愛する(philo)事
人類誰でも踏み行うべき事
そこに幸せの源泉がある
知恵と知識 2003/ 4/16 21:46
知識と知恵を混同してはならない
知識は無機質
知恵は有機質
いえそれ以上のもの
知恵は命
知恵によって貴方に命が与えられる
命と知恵 2003/ 4/16 21:55
命とは何か
それは貴方に命じられたもの
そして貴方の命
その命によって貴方の命が芽吹く
共に知恵が絡む
知恵者ソロモンの言葉 2003/ 4/16 22:05
知恵とは何か
私は知らない
そこで知恵者ソロモンに聞いた
ソロモンは言った
主を畏れる事は知恵の初め
無知な者は知恵をも諭しをも侮ると
ここに全てが集約されるのか
主とは何?
主とは何者? 2003/ 4/16 22:20
主とは何?
もう核心に入ろうと言うのか
何事にも早すぎる事はない
全ての事が
遅きに失するのだから
だが私は躊躇する
主とは何者?
それに答える事について
ダビデの言葉 2003/ 4/16 22:36
主とは何者?
私はダビデに聞いてみた
ダビデは常に詩っている
主よ 主よ と
ダビデは言った
私の詩を深く味わいなさい
そこに答えが隠されていると
そう言う訳で今日はこの辺にしたいと思います
私の主 2003/ 4/17 21:18
私は十数編読んでみた
ダビデの詩を
しかし分からなかった
私の魂は眠りこけていた
目覚めよ
そう
私の魂は
肉の重みに負けていた
しかし今
私の肉は徐々に軽く成って来ている
きっと
羽が生え
私は私の主の近くにまみえる事だろう
私の主に
主の愛し方 2003/ 4/17 21:28
私の主
私はそう呼んだ
主とは
私の主以外で一体誰の主であろう
しかし不思議な事だが
私の主 貴方の主
彼の主 彼女の主
そして全人類の主
皆一様に同じだ
もし主を愛して愛し抜けば
主の愛し方によって
主の格付けが決まる
ダビデを見よ
彼が如何に主を愛し抜いたかを
幸せの素 2003/ 4/17 21:47
私には主がいる
私の慰めの元だ
眠れぬ夜
私は主の名前を連呼する
そうすると主は
私を安らかな眠りへと誘う
もし主がいなければ
私は不眠症にもなっただろう
ダビデは言っている
神に僅かに劣るものとして人を造ったと
だから主は
貴方の一歩先を行く者だ
もし貴方が主と語り続けていたら
貴方には前進があるのみだ
主とは人それぞれにいるのである
貴方の主を見つける事
そこに貴方の全ての幸せの元がある
主との付き合い方 ダビデの場合 2003/ 4/17 22:03
ダビデを見よ
彼が如何に主と語り続けたかを
あれこそが
主と付き合うための良き見本だ
ダビデは
主を高き所に置いた
そして彼は
全霊を込めて主と向き合った
彼が全霊を込めて
主と向き合えば向き合う程
彼は日に日に高められて行った
彼自らの主によって
勿論挫折する事もあった
しかし彼は不屈の精神をもって
主へと立ち返ったのである
その不屈の精神によって
彼はあれほどに高められたのである
私の場合 2003/ 4/17 22:35
私の場合ですか?
残念ながら
ダビデの様な
強靭な精神と
強靭な肉体には恵まれなかった
だからダビデの様に
主を高き所に置く事は出来なかった
しかし私は私なりに模索した
そして見付けたのである
私の有り様を
私は知っている
主がいつも私の一歩先を行く事を
だから思ったのである
私と主の二人三脚を
公に現そうと
それがこの哲学詩集である
この哲学詩集は
一人称で語られているが
そこには常に主が寄り添っているのである
何故なら
私が前進する時
そこには常に主が寄り添っているのだから
幸福の源泉 2003/ 4/19 11:57
私がこの世に属していたら
主を求めなかっただろう
私自身が主となって
この世を闊歩した事だろう
だが私はこの世において低き者
だから主を求める
私の幸福の源泉を求めて
主との抱擁 2003/ 4/19 12:13
私は幸せが何かは知っている
それは精神の高揚だ
精神が高揚する時
そこには至福感がある
人はそれぞれに
精神の高揚を求める
恋人が恋人を求める
これこそが
精神の高揚を求める極みではないか
しかし私は知っている
それが長く続かない事を
しかし私は知っている
それよりも甘く切なく
そして長続きする高揚を
それは主との抱擁
主に抱かれる時
私は至福の中にある
だから私は主を求める
主が傍らにいる限り
私は不幸にはならない
幸せの第一歩 2003/ 4/19 12:37
ダビデは主を高く掲げた
神として
しかし私はダビデの様な
強靭な肉体に恵まれなかった
私は主を求めた
しかしそこには神は存在しなかった
しかし私にも主がいた
私の主は師であった
時には友ともなる
主は人それぞれである
それで良い
主を神と呼ぶか 師と呼ぶか
それは人それぞれで良い
しかしそこには厳然とした事実がある
たとえ名は変わろうとも
主は貴方の導き手であると言う事実
まずは主を捜し求める事
そこから貴方の幸せが始まる
私の使命 2003/ 4/20 11:42
ダビデは
主によって国をまとめた
散り散りの民を
主によって統一したのである
だから彼は王
私は
ダビデの様に強くない
しかし私にも使命がある
私の使命は
主を告げ知らせる事
だから私は詩人
そこの貴方
貴方には主がいますか
いません
それで貴方は幸せなのですか
私は詩人
民に主を告げ知らせる
詩人 2003/ 4/20 11:53
詩人とは何か
戯言を言葉にする事か
それでは言葉が死んでしまう
言葉は命
人の心に命を吹きかける者
彼こそが詩人
旧約聖書の詩人たちを見よ
自らの命を言葉に変えて
命を世に与えた
しかし世は彼らを嘲った
ダビデを見よ
王でありながら詩人
彼が如何に嘲れたかを
人は言う
主などいないと
それでも彼は怯まなかった
彼こそが王の中の王
詩人の中の詩人
哲学詩人 2003/ 4/20 12:09
日本に詩人がいるのか
私は日本の詩で感動した事はない
心を動かされた事はない
ましてや命を与えられた事などない
私の好きな詩人はゲーテ
それも晩年の
ゲーテの格言詩は
私の心を動かす
命を貰った事もある
しかし彼にも増して
素敵な詩人群がいる
それは古代の哲学者達
彼らの哲学詩は
私に何度も何度も命を吹き込んだ
私の理想はゲーテ
そして古代の哲学詩人たち
古代の哲学者たち 2003/ 4/20 12:19
理想の
古代の哲学詩人を挙げろと言うのか
挙げられない
何故なら全ての古代哲学者がそうだから
たとえ散文で書いていても
それは詩だ
その律動が
私を律動させ
天へと天かけさせるのである
古代哲学者は
皆その命を与えたかったのである
その主を
天国への鍵 2003/ 4/20 12:29
主とは何か
それは天へ天翔ける時の随伴者
天へは一人では昇れないのである
天国へ行きたければ
まず主を捜し求めなければならないのである
そこの貴方
天国へ行って見たいとは思わないのですか
だったらまず主を探し求めなさい
孤独な者たちへ 2003/ 4/21 21:23
人は
いつでも二人三脚である
幼い時は
母や父や兄弟と
それから年経るに従って
友や恋人
そして妻または夫と
貴方の年月を振り返って見なさい
そこにはいつも誰かがいたのではないか
彼は言った
幼い頃は別として
私には友も恋人も妻もいなかったと
そこで私は彼に聞いた
貴方は幸せだったかと
彼は答えた
幸せではなかったと
だから幸せを求めたと
そして今私は幸せであると
そうです
主は孤独な者の為にこそいるのです
孤独と苦悩に打ちひしがれている貴方
貴方の為にこそ主かいるのです
孤独な者たちよ
私に付いて来なさい
貴方を癒してあげる
ある孤独者の告白 2003/ 4/21 21:48
私は彼に聞いた
何故幸せなのかと
彼は答えた
私は気付いたのです
私は一人ではないと
私は孤独でした
そして空虚でした
私は空虚を埋めようと
読書をしました
しゃかりきに
そんなある時です
本の向こうから言葉聞こえて来たのです
私はその言葉に答えました
それからです
私は一人ではなくなったのです
私は一人がいとおしくなったのです
一人静かに本を読んでいると
言葉が語り掛けて来て呉れます
それからはめくるめく世界です
どんな映画より素敵です
私はめくるめく恋と言うものはした事がありませんが
たぶんきっとそれよりもずっ~と
素敵な世界だと思うのです
だから今私は幸せなのです
ある孤独者の告白
名あるは万物の始め 2003/ 4/21 22:18
私は彼に聞いた
その相手は誰なのかねと
彼は答えた
知りません
本を読んでいると
自然に語り掛けて来て呉れるのです
名前は無いのかね
ありません
名前を付けていないのはなかね
そのとおりです と
アンネの日記を見よ
アンネは何と名付けたか
確かキティではなかったか
ダビデを見よ
何と名付けたか
主よ神よ
名によって格付けが決まる
孤独な貴方方に忠告する
決して神と名付けるな
貴方はその神に押し潰されてしまう
もし呼ぶのであれば師と名付けなさい
または主と
その師はまたは主は
常に貴方の一歩先を行く者
貴方を貴方の好きな所へ導いて呉れる
もしそこで貴方が十分に強くなって
世に出て行こうとする時
その時はその名を神に変えなさい
ダビデの様に
古代哲学を読み漁れ 2003/ 4/21 22:28
孤独な貴方方に忠告する
神が自然に降りてくると考えるな
神は求める者にしか降りて来ないのである
「求めよさらば与えられん」
先程の孤独者の話を聞いたか
彼は言ったではないか
がむしゃらに本を読んだと
私は彼に聞いたのである
どんな本を読んだのかと
古代哲学の本を読みましたと
彼は正に的を得ていたのである
古代哲学には神様がひしめきあっているのである
どの本を読んでも神様がお出ましになる事になっているのである
孤独な貴方方に忠告する
古代哲学を読み漁れと
自由の為の学 古代哲学 2003/ 4/22 21:23
貴方方は
古代哲学の本を読んだ事がないのか
難しいと思っているのか
とんでもない事である
これ程面白い本があろうか
もし自分自身を求めているのであれば
自分とは何か
まずこれに答えられなければ先には進まない
自分を知らない限り
貴方は常に自分が他人だ
他人と一緒にいる
それも四六時中
貴方はそれで気詰まりしないのか
貴方は余程鈍感だ
さあ自由に成れ
そして本当の自分に還れ
その為にこそ古代哲学がある
自分と自由 2003/ 4/22 21:34
自由と自分
この事を知った者に
天国の鍵が渡される
後は天国を目指して
遍路があるのみ
自分と自由
似ているとは思わないかね
私の誕生記念日 2003/ 4/22 21:43
私とは何か
そして貴方とは
私と貴方
我と汝
この対話の中から
私が生まれる
私一人であれば
それは空虚
「今日私は貴方を生んだ」
そう貴方から言われた者は
如何に幸いか
ダビデを見よ
そしてイエスを
変幻自在な貴方 2003/ 4/22 21:50
自由とは
貴方を通じて
貴方へ天翔ける事
貴方は無限大
そして
貴方は最も身近な人
貴方は人ともなれば
無限大ともなる
貴方は変幻自在
誰が貴方を留められよう
私の楽しみ 2003/ 4/22 21:59
貴方は無限大
だから限らなければならない
貴方は主
そして私の師
貴方に誘われて
私は世界を逝く
それは私にとっての楽しみ
そして私にとって
それ以上の楽しみはない
精神界 2003/ 4/22 22:06
私は前にも書いた
幸せは精神の高揚だと
貴方は精神界の主の主
貴方をおいて
幸せの素が何処にあるというのか
人生は短く芸術は長し 2003/ 4/22 22:13
精神とは
精なる神の事
そして貴方
貴方と精神は同義語
貴方の中に古今東西の精神が漂う
私はどれ程汲み干せるのか
人生は短く芸術は長し
詩人の真実 2003/ 4/22 22:38
私は詩人
私は何も知らない
ただ浮かび来る言葉を
書き留めるだけ
だがそれは私にとっては真実
だから私は真実を描く者
無我の中の自由 2003/ 4/23 22:08
無我
その中に私が生まれる
そして貴方が
その中で
私と貴方は
手を取り合って
自由へと赴く
自ら由 2003/ 4/23 22:26
自由
その甘露は甘い
その味を占めた者は
もうそれ以外のものは求めない
常に自由へ自由へと靡く
自由とは貴方自身の事ではないか
自ずから由なる者よ
自ら由
詩人を知りたければ詩人の国へ行け 2003/ 5/ 7 21:13
私は言葉遊びをしているのか
そう
私は言葉遊びを楽しんでいる
言葉遊びこそが
天国への吊り橋
この橋以外に
天国に渡る道はない
これは真実
言葉以外に
如何様な道具が
貴方を天国へ運ぶと言うのか
言葉を自由に操れる者
彼は天国に近い
詩人を知りたければ
詩人の国へ行け
言葉は命 2003/ 5/ 7 21:29
言葉とは何か
哲学者たる私の出番か
貴方方は知っていたか
言葉とは命であり
貴方の命を紡ぐものであると言う事を
この事を知る者は
言葉を大事にする
言葉に依って
貴方は善き者とも
悪ろき者ともなるのだから
言葉は命
これを高く掲げよ
影から光へ 2003/ 5/ 7 21:36
抒情詩は
幻影を掴むもの
哲学詩は
真実を語るもの
ゲーテを見よ
晩年のゲーテを
彼は死ぬ間際まで
知恵を求め続けた
もっと光を と
彼も
影から光へ転向したのである
だから彼の詩は輝き続けるのである
抒情詩と哲学詩 2003/ 5/ 7 21:58
抒情詩を書く者よ
詩を書くのを止めよ
叙情を掴むつもりが
蜷局に巻かれる事になる
感情の蜷局に
感情の蜷局は
精神をもその渦に巻き込む
その渦から
誰が貴方を引き上げようと言うのか
精神以外の誰が
哲学詩の世界 2003/ 5/ 7 22:10
抒情詩を書く資格のある者は
透徹した精神の持ち主だけ
その光に映し出された影は
我々を楽しませる
知恵無き者よ
まずは光を求めよ
そこから詩が始まる
哲学詩の世界が
ループの拘束 2003/ 5/ 7 22:19
何故私が抒情詩を貶すのか
それは実例を見たが故
私は彼女に忠告した
まずは哲学
すなわち真善美を求めよと
しかし彼女は自分の中に入って行った
そして自らのループの中で
浮き沈みを繰り返す事になった
彼女は哲学に目覚めない限り
そのループから逃れられない
ループの拘束
律動 2003/ 5/11 10:29
私は
私の詩を読み返した
そして律動した
何故も無い
私自身だから
そこには私が居た
この世でない私が
私はその時
彼の世と往来していたのだろう
詩人を知りたければ詩人の国へ行け
天国の照明 2003/ 5/11 10:41
律動
これによって準備が整う
私は前に書いた
古代の哲学は
私を律動させると
この律動によって
私は天へと天翔けて行くのである
貴方は天国とは何か知っているか
それは詩人の国
その国において
彼は天使に見える
時には神にも
詩人を知りたければ詩人の国へ行け
しかし私はここではっきり言う
ここで言う詩とは
抒情詩の世界ではない
あくまでも哲学詩の世界である
抒情詩は影を写すもの
この世の世界
哲学詩は光に迫るもの
光こそが天国の照明
本当の私 そして本当の貴方 2003/ 5/11 10:55
貴方方は
光を見た事があるか
貴方の心を
隈なく照らすものを
見た事はあるまい
貴方の心は
何処も彼処も塞がっているのだから
私が教えてあげよう
その塞がった心を
解き放つ方法を
古代哲学を読め
ただこれだけだ
古代哲学の律動は
貴方の心を綻びさせる
それは貴方にとって善い事
貴方は言う
あ!光だ
そこから
本当の貴方が始まる
詩人の悦び 2003/ 5/11 11:07
本当の私とは何か
それは空
何も無い
譬えれば真白きスクリーン
その真白きスクリーンに
私自身を描く
その光に映し出された
私自身を
それが詩人
詩人にはそれ以外の悦びは無い
真実の影 2003/ 5/11 11:16
私は前にも書いた
私は詩人
私は何も知らない
しかし私の書くものは真実だと
その意味が分かっただろうか
私は毎日
空になって
白に向かう
その時
白に
私が映し出される
私はそれを描く
それは私には真実
そして貴方方にとっても真実の影
何故ならその光のよって映し出されたものだから
詩人の真実と人類の真理 2003/ 5/11 11:28
誰も私を誹る事は出来ない
何故なら私は詩人だから
彼は言う
あいつは嘘八百を並べていると
彼にはそうかもしれない
しかし私には真実だ
詩人は真実を描く
そして
読者はその影を拾う
詩人の真実は
詩人にとっての真実
だがそこに真理が隠されていないと誰が言えよう
今日私は貴方を生んだ
そう言われた者が
今日居ないとは限らない
今日私は貴方を生んだ 2003/ 5/11 11:39
「今日私は貴方を生んだ」
神は
何故その者を生んだのだろう
それは真理を照らす為
光を照らす為
彼は言う
見よ と
そこには光があり真理がある
だがこの世で
その光を
その真理を見れる者がどれ程居ようか
この世の暗幕で覆われた
この世の中で
高貴な二つの人種 2003/ 5/11 12:00
何故暗幕で覆われているかって
それは暗幕を取り払わんが為
その暗幕を取り払って見よ
貴方は盲人となるだろう
パウロの様に
そしてプラトンのあの洞窟の住人の様に
しかし心配はいらない
貴方は徐々にその光に慣れるだろう
そして貴方は思う
あの暗幕の中の世界とは何だったのかと
そこから二つの人種が生まれる
行人と詩人が
パウロは前者の典型
勿論菩薩様たちも
して私は・・・・
私は旅の途中
もっと光を 2003/ 5/11 20:54
私は旅人
行き先は
勿論天国
貴方は言う
もし天国へ行けなかったらどうする
全てが無駄ではなかったかと
私は言う
たとえ行けなくても
私は幸せ
旅の途中の
あの満艦飾の数々
旅に出なければ
見られなかた事々
私は真っ平なのだ
暗幕の中で過す事が
もっと光を
私はゲーテの様に旅に出たのである
ローマの光 2003/ 5/11 21:03
ゲーテが何処に旅したかって
勿論イタリア
イタリア紀行を読んでみろ
ゲーテの感性が瑞々しく開花しているではないか
もしゲーテが
イタリアに旅行しなかったら
彼は北国の詩人で終わっていただろう
あの彩りに満ちた詩群は生まれなかっただろう
彼はイタリアで見たのである
光を
ローマの光を
古代ローマ 2003/ 5/11 21:19
ゲーテはローマに憧れた
そして行き見た
ローマの光を
その光を目にした時から
彼は古代ローマ人となった
彼の作品を読んでみろ
古代ローマの精神が脈々と脈打っているではないか
彼は近代にありながら
古代ローマの精神を煌々と輝かせたのである
だから私はゲーテが好き
そして貴方方も
しかし貴方方は知らない
古代ローマの光を
光から聖火へ 2003/ 5/11 21:40
ゲーテは古代ローマに憧れた
しかし彼はギリシアを求めなかった
そこに彼の精神が生まれた
ローマン(浪漫)主義が
ギリシアとローマは
命と退廃ほどに違う
ギリシアで生まれた命が
ローマで完成し
そして退廃へと向かって行った
ゲーテは正にその光を見た
それは近代の精神に合った
彼によって古代ローマは完成し
彼によって近代ヨーロッパは完成した
彼より後は退廃へと向かう
だから貴方方に忠告する
まずはゲーテへ向かへ
それから古代ローマに飛べ
そこから古代ギリシアに還れ
そこで貴方は見るだろう
光から聖火への点火を
光の名残 2003/ 5/11 22:07
貴方方は知っているか
拝火教を
彼らはその聖火を
大事に大事に守る
何故か
それは
その火に光が残っているから
光から火へのその瞬間を残しているから
貴方方はキャンドルサービスをした事がないか
キャンドルをじっと見詰めている時感じなかったか
生への回帰を
それと同じ事だ
ギリシアには光の名残がある
聖火の秘密 2003/ 5/11 22:19
貴方方は
光の効能を数え上げた事があるか
無い筈である
何故なら数え上げられないから
何故ならこの世の全てが
光に帰していくから
しかし私は大胆に言う
第一の効能は点火であると
光から火への転化
これによって人は人間となった
この為プロメテウスは
ゼウスから怒りを買った
私たちは火を見詰める時
人間となったその瞬間の事を思い出すのである
聖火 火の秘密 拝火教
1年12月365日8760時間525600分31536000秒 2003/ 5/12 22:04
今日と言う日は二度とない
私は今日と言う日を大事にしているか
明日を思い今日を急いでいるのではないか
ああ!
貴方には今日と言う一日しか与えられていないのを知らないのか
今日と言う日を
大事に大事に過せば
不幸の影など入って来ない
しかし私は明日を思って
今日を分裂させている
その隙間に
悪魔が忍び込む
悪魔とは今日の貴方を分裂させるもの
貴方には今日と言う一日しかないのだから
今日私は幸せだったと言える者は幸いである
彼は明日も明後日も言うだろう
今日も幸せだったと
一日を大事に過すとは
一時間一時間を大切に過す事
一時間一時間を大切にするとは
一分一秒を大切にする事
私には分からない
一分一秒を大切にすると言う意味が
何も言わずに目を閉じよ
分かりました
一分の長さが十二分に長い事が
その一分の間に
私は空になり白になる事が出来ます
そして新たに生まれる事が出来ます
ああ
私は思います
私が如何に時間を垂れ流しにしていたかを
私は時間に楔を打ち込みます
そして貴方に感謝し貴方方に感謝します
私の時は彩り豊かなものとなるでしょう
イスラムの教えは立派です
時の拝礼はとてもとても大切な事なのです
一秒の事は不問にしときます
その大切さが分からないから
一秒は古代にあったのか
一秒は何を意味するのか
一秒で何が出来るのか
一秒は微分積分の賜物か
私たちは一分で生まれ変わる事が出来ますが
一秒で何をする事が出来るのでしょうか
私は分からない
一秒の意味する所が
やはり一秒は科学の産物か
それとも神秘が隠されているのか
一秒毎に息を吐き
一秒毎に息を吸い
一秒毎に脈を打つのか
1年12月365日8760時間525600分31536000秒に何か秘密が隠されているのか
時間の基礎単位は一秒か一分か一時間か一日か一月か一年か?
1日24時間1440分86400秒
貴方方は時と真正面から向かい合った事があるか
時は無為に過すくせに
時と真正面から向き合った事はないではないか
だったら時と真正面から向き合え
貴方の目の前に懐中時計をぶら下げ
一日にらめっこをしてみろ
きっと時間の神秘が分かる筈さ
一秒の神秘 2003/ 5/12 22:18
私は分かった
一秒の意味する所が
一秒は言葉の単位である
一秒毎に言葉が浮かび
一秒毎に言葉が出て行くのである
それは呼吸と同じ事
我々は一秒毎に思考しているのである
一秒で一音節
言葉の最小単位
一秒を良く知る者は詩人
そのリズムは
人の呼吸を助け
人の脈を正す
私は詩人
一秒を大切にする者
私は一秒の神秘に辿り着いた
時はカーラ 2003/ 5/13 20:37
私は昨日より
時を大切にした
そして幾らか幸せになった
時と競っても
時に負かされ
絶望するだけ
だったら
時を奉り
時に感謝を捧げ
時に大切される方がずっといい
因果の法則を知っているか
時を大切にする者は
時に大切にされる
時とは何か
時とはカーラ
そう言っても分かる者は千に一人もいまい
私の詩を知りたければ
バカヴァッド・ギーター11章33節を読め
時はカーラ
私は時に感謝を捧げ
時の傍らをそっと潜り抜ける
私は決して時とは争わない
時と友達になれ 2003/ 5/13 20:43
時の餌食にどれ程の者がなったか
貴方は知っているか
私は言う
ほとんどの全人類だと
時を越えた者がいるだろうか
一人もいやしない
だから貴方方に忠告する
時と友達になりなさい
そうすれば死の枕で
時が優しく詩って呉る筈
私の良い子よ おやすみと
時に逆らってはいけない
時と友達となれ
因果応報の原則 2003/ 5/13 20:56
時とは何か
私は言う
時とは言葉也と
私は昨日語ったではないか
一秒の秘密を
あそこに時の秘密が隠されている
貴方は一秒毎に言葉を発しているのではなかったか
それが時の秘密であり言葉の秘密だ
時は言葉也
優しい言葉を集めた者には優しい時が寄り添う
怒りの言葉を集めた者には
その報いがある
因果応報の原則也
カーラは友達 2003/ 5/13 21:07
時はカーラ
大口を空けて
全ての時を飲み込む
カーラは透明が故
誰も気付かない
しかしある時気付く
物凄い形相をしたカーラを
だがその時はもう遅い
貴方は地獄へ落ちて行く
時を感謝する者に
カーラは優しい
まるで友達のごとく寄り添う
貴方方に忠告する
時に感謝しなさい
そしてカーラと友達になりなさい
時は言葉也 2003/ 5/13 21:19
貴方方は言う
時に感謝するとはどう言う事か
分からないと
貴方方には時の記念日と言うものがあるではないか
あれと同じ事だ
あれと同じ様に時を祝え
そうすればカーラも喜ぶ
貴方方は言う
何の事かさっぱり分からないと
私は誰を相手にしているのか
物分りの悪い乳飲み子か
貴方方は記念日には何をする
あれやこれや囃し立てるのではないか
それで善いのである
時は言葉也
もう一度この言葉を味わえ
カーラは友達 2003/ 5/13 21:32
時に想いを馳せる
時が答える
そうそうそれで良い
その会話の中で
貴方は時の真髄に迫る
そしてカーラを垣間見る
その時だ
囃し立てなさい
あ!カーラだカーラだと
カーラは照れくさそうに
貴方の前に出て来る
その時だ
しっかりカーラを掴みなさい
カーラは照れくさそうに
貴方に頷く
さあもう貴方とカーラは友達だ
決してカーラを離さない様に
時は言葉也 2003/ 5/13 21:45
時の神と言う言葉を知っているか
知らない
それなら時の運はどうだ
知っている
時はそれ程に貴方を左右しているのだ
だがもう大丈夫
時の氏神カーラがいつも貴方に寄り添っているのだから
貴方はいつもいつも幸せ
貴方は不幸に落ちる事は無い
何故ならカーラ
貴方自身が友達だから
時は言葉也
もう一度この言葉を味わえ
言葉を大切にしよう 2003/ 5/13 22:11
私は時と共に生きている
そして言葉は時と共に生まれ来る
時と言葉と私のトライアングル
この中に私の全存在がある
私とは何者
私は言葉也
時とは何
時は言葉也
言葉とは何
言葉は神と共に在った
言葉は神であった
言葉を大切にしよう
言葉と時間の追いかけっこ 2003/ 5/15 21:08
もう9時か
そう叫ぶ時
時が迫り来る
誰が時を越えられよう
私は目を瞑り
黙祷した
時と言葉が追いかけっこをやっている
どちらも負けじと競り合っている
とても空になり白になる事など出来ない
それで良い
それが今日の始まりだ
祝宴は後の楽しみ
饗宴の世界へ 2003/ 5/15 21:17
時が消えた時
生まれ来る言葉
それは真実の言葉
時との競り合いの中で
生まれ来る言葉
それは時の重荷を背負っている
すなわち死の影を
詩人は時を越えん事を願う
あの詩人たちの国へ行かん事を願う
詩人を知りたければ詩人の国へ行け
あの言葉どおりの国へ
私は詩人
今日もあの世界へと向かう
あの饗宴の世界へ
アガペーへ 2003/ 5/15 21:47
饗宴と言えば
勿論プラトンの饗宴
彼らは一杯の盃で
饗宴を楽しんだ
言葉の饗宴を
私も詩人
一杯のコーヒーで
彼らの饗宴へと向かった
私はソクラテスに聞いた
入っていいですかと
彼らは暖かく持て成して呉れた
それはエロスに満ち溢れた世界
そしてアガペーが見え隠れする世界
私はその世界を楽しんだ
しかし私は思った
ソクラテスと差で
アガペーを語り合いたいと
いえ
アガペーへ溶け込みたいと
この世を愛す 2003/ 5/15 22:15
ソクラテス
アガペーって何ですか
それは愛の極致だよ
そこには階段を昇る様にしてしか行けないのですか
そうだよ
そうだと僕の様に
エロスの経験の無いものは行けないのですか
そう言われると困るね
でも思い出してご覧
貴方のこれまでが
如何にエロスに満ちていたかを
それを再確認しなさい
そしてそれからアガペーに向いなさい
その時は私も付き合ってあげるから
さてはて困った
私がエロスに満ちていたなんて
でも思い出すしかない訳だし
あ!そうなのかな?
道生一
一生二
二生三
三生萬物
そうなんですか?ソクラテス
あれもう何処にも居やしないや
夢の中へ 2003/ 5/15 22:32
この世を愛せずして
どうしてアガペーに向えよう
この世を愛しぬいてこそ
アガペーに向かえると言うもの
この世とは
私がこれまで創造して来たこの世界
この世界を再認識してから
それからアガペーに向かうとするか
そうですよね?ソクラテス
やはり居やしないや
ソクラテスもお寝んねかな
私も寝るとするか
夢の中へ
知恵者の楽しみ 2003/ 5/17 9:59
コレヒトの言葉ほど
我々知恵を求める者にとって
感慨深い言葉はない
コレヒトは言う 冒頭で
なんと言う空しさ すべては空しいと
そして結論で言う
「神を畏れ その戒めを守れ」と
我々哲学者
すなわち知恵を愛する者は
世界を極めんと尽くす
しかしそれは風を追うようなもの
だが私は言う
それこそが知恵者の楽しみ也と
ソフィアと手をつなぎこの世を闊歩する
これ以外にどんな楽しみがあると言うのか
言葉の饗宴 2003/ 5/17 10:07
飲み食いにどれ程の楽しみがあると言うのか
確かに
愛する恋人と
愛する妻と飲み食いするのは楽しいかもしれない
しかし私はソフィアを撰ぶ
ソフィアとの饗宴を
言葉との饗宴を
ソフィアよ出て来てお呉
ソフィアについて 2003/ 5/17 10:17
貴方は知らなかったのか
ソフィアは言葉であったと
初めに言があった
言は神と共にあった
この一節を知らないのか
そして
言は神であったと続く一節を
ソクラテスを見よ
彼が如何にソフィアに憧れたかを
彼は言った
私は自らが無知である事を悟ったと
ソフィアを目の前にする時
そう言わない者が誰がいようか
無知なる者よ!
一つの真実 2003/ 5/17 10:32
私は迷う
キリストがソフィアなのか
マリアがソフィアなのか
無罪の胎に
キリストを生んだマリア
キリストがソフィアなのか
マリアがソフィアなのか
「今日私は貴方を生んだ」
生まれ出でた者がキリスト
そして言葉
そしてソフィア
無罪たる胎のマリア
それは空になった私の事
私はまた今日一つの真実を得た
仏教とキリスト教の融合 2003/ 5/17 10:40
キリスト信仰と
マリア信仰
どちらも大切だ
キリストは私たちを幸せに導く
だがその為には
キリストを生む胎が必要だ
空になる為の技術
それがマリア信仰
マリアの様に
無罪たらん胎になる事を願う
これがマリア信仰
私は言う
仏教の空
それはマリアにならん為の技術
そこから生まれたキリストと遊ぶ術
それがキリスト教
仏教はキリスト今日の一歩前で止まっているし
キリスト教は仏教の足跡を空しくしている
仏教とキリスト教の融合
それが私の使命
私は詩人 2003/ 5/17 10:51
私は詩人
もし私が行人であれば
この様な事を述ぶれば
叩かれるだろう
だが私は詩人
私の心に降って湧いて来た言を
言葉にして書き付ける
ただそれだけ
この信仰なき世界に
信仰の欠片を投げ落とす
それが私の使命
ダビデの言葉を思い起こせ
「神を畏れ その戒めを守れ」
私は詩人
その言葉には拘束されない
だが私は述べなければならない
言葉の神秘 2003/ 5/17 11:05
神とは何か
神を畏れ
神を敬った事の無い貴方方には分かるまい
だが私は言う
人類が生まれたその日から
人類が死ぬその日まで
神は貴方方に君臨し続け
貴方方を裁く
貴方方はその言葉で裁かれる
神から生まれたその言葉
すなわちキリストにより
貴方方に忠告する
決してキリストを十字架に架けるな
貴方方の今吐いたその言葉
その言葉で
貴方の総決算
すなわち貴方の臨終の時裁かれる
言葉を
すなわちキリスト
すなわち神の子を大切にしなさい
アーメン
真善美の源泉 2003/ 5/17 11:34
はっきり言う
貴方方が世にある時
その時はキリストは降りて来ない
貴方が一人になった時
その時キリストは貴方に降りて来る
だから貴方方に忠告する
なるべく一人の時間を持つ様にと
貴方の優しさ
それはキリストから貰うもの
貴方の知恵
それもキリストに由来するもの
貴方の善きもの 美しきもの
そして真なるもの
それは全てキリストに由来するもの
だから一人になりなさい
キリストも言っているではないか
私よりも父母兄弟を愛する者は
私に相応しくないと
貴方が父母兄弟を離れて
キリストを愛すれば
今よりも何倍も何十倍も何百倍も
父母兄弟を愛する事が出来る様になる
これがキリストの真実
ますは神を求めよ
そこに貴方の真善美の源泉がある
雅歌 2003/ 5/17 21:44
雅歌は
私には分からない
私の知恵が未だそこまで達していないのか
それともそんな深い意味は無いのか
私は黒い
だけど愛らしい
何を意味するのか
私には分からない
乙女 乙女たち 若者
そしてソロモン
その関係は私には分からない
私の知恵はそれ程に浅いのか
それともこの歌に
知恵の秘密は隠されていないのか
ソロモンの知恵
私は箴言と
コレヒトの言葉でそれを学んだ
しかし雅歌から学び取る事が出来ない
私の知恵は未だそこには達していないのか
ソロモンよ
そこに居るなら 教えて呉れ
雅歌の意味を
雅歌の知恵の秘密を
貴方も王そして私も王 2003/ 5/17 22:02
エルサレムのおとめたちよ
誓ってください
愛がそれを望むまでは
愛を呼びさまさないと
りんごの木の下で
わたしはあなたを呼びさましましょう
あなたの母もここであなたをみごもりました
知恵の木の下で
それは代々の事
その木の下で
「今日私は貴方を生んだ」
貴方の愛に呼び覚まされて
貴方はソフィア
そして私はマリア
ソフィアはキリスト
マリアはマリア
マリアとキリストは
絶えず生まれ続けている
私のマリアよ
そして私のキリストよ
ソロモン
これでいいのか
貴方も王
そして私も王
雅歌の秘密そして三位一体の秘密 2003/ 5/17 22:41
マリアは
キリストを望んだ
そしてキリストが宿った
キリストもまた
マリアを望んだ
日々生まれる為に
マリアは真理
キリストすなわちソフィアは知恵
真理と知恵
二人が離れる事が出来ようか
真理は知恵を生み
知恵は真理に憧れる
真理と知恵は常に二人三脚
しかし私は思う
共に女か?
マリア
すなわち真理とは無罪の胎
これ以外に真理は有りえない
マリアがいなければ
キリスト
すなわち知恵は生まれ得ない
真理と知恵
どちらが先か
言うまでもあるまい
真理と知恵
それは両性具有
杞憂するな
私は真理子とも知恵子とも書かなかった筈だ
真理と知恵
それは共に貴方の中に存在する
貴方は真理ともなり
知恵ともなる
三位一体の真理に近づきつつあるのだよ
分かるかね
乙女と若者とソロモン
その関係を読み取れば
その時三位一体の秘密が明かされる
私はソロモンそして私は王
ここに秘密を解く鍵がある
私は雅歌の秘密を読み取った
そして三位一体の秘密も
知恵と勇気を持って! 2003/ 5/17 22:55
貴方に秘密を明かそう
貴方は王
いえそれ以上の者
貴方は王であり創造主
その創造主に
知恵と真理は寄り添う
これが三位一体の真理
貴方はその国を任された王
この秘密を元に
雅歌を読み解き明かせ
貴方は創造主
この世界は貴方によって創られた
貴方は王
この国は貴方によって支配される
知恵と真理
この二人は貴方にとって
掛け替えの無い従者
さあ今日貴方の国が生まれた
その国を大事に育てよ
知恵と勇気を持って!
貴方は貴方の王国の王 2003/ 5/18 9:57
私の王国
私はそれを
大事に育てているか
貴方が右と言えば右に動き
貴方が左と言えば左に動く
それが貴方の王国ではないか
自身を持って支配せよ
貴方が分裂していたら
その国も分裂
さあ!自身を持って
貴方の王国を支配せよ
王国の支配 2003/ 5/18 10:13
最も善き国政は
王国
プラトンもあれ程に力説しているではないか
貴方はその王国の王
その国を民主主義に委ねるつもりか
それとも独裁者に譲り渡すつもりか
貴方は王国の王
王の意味を良く良く考えよ
民主主義とはどう言う事か知っているか
貴方に力が無いから 自身が無いから
百人居たら百人の意見を聞き右往左往
千人居たら千人の意見を聞き右往左往
キリストの王国が民主主義で有り得るか
その事を良く良く考えよ
貴方は王国の王
神から支配を任された者
貴方の従者は真理と自由
その者に良く良く聞け
それ以外は阿諛追従の者たち
王権復古 2003/ 5/18 10:23
貴方にお聞きします
貴方のお国は
どんなお国ですか
自由と真理に満ち満ちたお国でしょうか
それとも・・・
え!
流浪の民であり
この世の奴隷人
ああ!なんと嘆かわしい
王国の王として生まれながら
奴隷人に成り下がっているとは
私に付いて来なさい
貴方を貴方の王国の王に復権させてあげるから
綺羅星のごとくそして王の様に 2003/ 5/18 10:36
貴方は綺羅星を見た事がありますか
それと同じ事です
貴方も王国の王
そして私も王国の王
それは夜空の綺羅星のごとく
調和を図りながら輝いているのです
一つの綺羅星が
他の綺羅星にちょっかいを掛ける事がありますか
それと同じ事です
これは精神界のお話です
宇宙がそれに例えられる
精神界のお話です
イエスも言っているではないですか
貴方たちの国を準備してあげようと
貴方もその王国の王です
王の様に振舞え
お花畑について 2003/ 5/18 22:19
私は今日バラ園に行って来た
日本でも有数と言われるバラ園に
私はそこで花園の秘密を知った
雲が低く重く垂れ下がり
誰もが気が塞がりそうな天気だった
だがそこだけは違っていた
花々は自ら光輝いていた
そしてそこに居る人々も
その花々の気を吸って
その様に光輝いていた
私は知った
花園の秘密を
良く聞くではないか
死後に向かう途中は
お花畑が一面に広がっていたと言う事
何故か
お花畑を通らなければ
誰もが恐ろしくて死後の世界にいけないから
貴方方に言って置く
彼らは誰も死後の世界まで行っていないのである
彼らはみんな死後への途中から
この世へ生還した者ばかりなのである
死神は
この世で一番のお花畑を用意しているのである
貴方方が怖気づかないように
死後の世界に向かう事を
死後の世界は誰も知らない
だが私は言って置く
貴方方にとって死後の世界は
お花畑より善い世界ではあるまい
日本でも有数と言うバラ園に行って見よ
そしてそこで
そのお花畑と貴方の精神を比較して見よ
貴方の精神がそのお花畑より美しければ
貴方は天国へ行ける
しかしそうでなければ
貴方の行き先は地獄か煉獄だ
日本でも有数と言うそのバラ園は
貴方の精神のバロメーターだ
日本でも有数と言うそのバラ園に
何度も何度も足を運び
死後の旅路への準備をして置け
貴方の精神がそのバラ園よりも美しくある様に
クセルクセス 2003/ 5/19 21:07
エステル記を読んだ
捕囚の民を救った英雄
彼女はユダヤにあって
いつも褒め称えられるのであろう
だが私は知った
クセルクセスの不甲斐なさを
彼が王であったが故
ペルシャは衰退した
あのペルシャの大軍が
ギリシアの小兵に負けた
私には良く分かる
自らの金の指輪 印章を
誰彼と無く貸し与えていた
玉璽
それはあの大国においては
王そのものではなかったか
その王が
昨日は右だと言い
今日は左だと言う
それでは民は従えぬ
民は二人の王には仕えられないものである
どちらかに偏るのが人の常
私は白ばら党
私は赤ばら党
そうして内紛が起こって行く
一人でありながら二人の王
クセルクセスは本当に馬鹿な王
だがユダヤ人にとっては偉大な王
古代歴史の縦軸 ユダヤ 2003/ 5/19 21:31
クセルクセスによって
ユダヤとギリシアが繋がった
ユダヤ ギリシア ペルシア
貴方はどの国に重きを置く?
ダレイオス クセルクセスの何百年も前
ユダヤにはダビデ ソロモンの王国があった
勿論それは
プラトン ソクラテスの何百年も前の事
だから私はユダヤに軍配を上げる
更に言うならば
ダビデ ソロモンのそのまた何百年も前に
モーセ ヨシュアが居たのである
それはエジプトファラオの時代の事
古代の歴史は
ユダヤを縦糸に織り成されているのである
エデン 名無き世界 2003/ 5/19 22:04
エデン
それはバビロニアに在った
そこはナツメヤシの茂る天国
そこでは何不自由なかった
あの反逆の天使が現れるまでは
彼は一人その天国を後にして
荒野に向かった
彼はそこで
四十日と四十夜一人で修行をした
そして知った
神の元でなくても生きて行けると
そして彼はエデンに戻り
その国の住民を煽動した
アダムとイヴもその煽動に乗り
エデンを後にした
それから後の労苦は
貴方方自身がご存知のとおり
アダムとイヴの末裔である貴方方が
反逆天使の名は名
またの名を知識
またの名を文字
貴方は文字を消し去り
知識を消し去り
名を消し去らなければ
貴方の故郷エデンには還れないのである
名あるは万物の始め
エデンからバビロニアへ 2003/ 5/19 22:20
エデン バビロニア
そこは神が支配する世界あった
そこには神以外の支配者は居なかった
そこにある賢い一族が居た
彼らは言葉を記録する術を
何代も何代にも渡って研究した
口承でない術を
そしてある時
その一族から大天才が生まれ
その術を完成させた
それから何代も何代にも渡って
彼らは言葉を記録し続けた
秘伝中の秘伝として
そんなある時
その一族からまた大天才が生まれた
彼はそれらの記録を読み返して思った
神はいない
我々が神だと
そこからバビロニア王国が生まれた
そしてエデンは無くなった
王国は武器の力で生まれたのではない
知識の力より生まれたのである
知恵を求めて三千里 2003/ 5/20 21:39
私は返答しない事にしていた
しかし貴方のその言葉が
貴方自身の言葉であれば
私は貴方を慕う
貴方は私の一歩先を行く者だ
だから答えて欲しい
世界が現れる時とはどんな時か
何故世界が現れる時自己を見失うのか
真実からの輝きとはどんな輝きか
何故その輝きが自己であると観るのか
まとめて答えて欲しい
もしその言葉が
貴方自身の言葉でなければ
私に関わり合わないで欲しい
私は私の道を行く
知恵を求めて
これは manganet55 さんの 99 に対する返信です
若者よ 先ずは世界を手に入れておけ 2003/ 5/21 21:25
三千里は遠いか近いか
確かに近くはない
しかし遠くも無い
もし貴方にその意志が有れば
一年で闊歩出来る
三千里
それは全ての大陸を横断縦断出来る距離
ユーラシア大陸をアフリカ大陸を
南北アメリカ大陸を
そしてオーストラリア大陸を闊歩出来る距離だ
若者よ
五年を掛けて全ての大陸を闊歩せよ
しかしこれは物見遊山の旅ではない
正に修行の旅
毎日8時間1年365日歩いて到達出来る距離だ
若者よ修行せよ
たったの五年間ではないか
それは貴方の人生ではほんの僅かだ
若者よ修行せよ
世界を貴方の手の内の納めて置け
若者の為の修行 千日世界徒歩旅行 2003/ 5/21 23:02
千日回峯と言う修行を知っているか
千日間比叡の山々を回峯する修行だ
若者よ
貴方方に新しい修行を与える
千日世界周遊
千日間世界を歩き続ける修行だ
コースは3コース
ユーラシア大陸コース
アフリカ大陸コース
南北アメリカ大陸コース
決まりはこうだ
千日間の間に
それぞれのコースの大陸の全ての首都を巡って
スタートの首都に戻ってくる
一日に8時間歩く
宿泊は全てテント
飯は一汁一菜+α+β程度
食事材料以外にはお金は使わない
食事は全て自炊
宿泊場所は原則河原
常に清潔を保つ
すなわち毎日一日は川で水浴びをする
生活用具は全て背負い
この旅の原則は
修行をしている事を相手に悟らせない事
その為 身なりはパッカーだが
常に今ホテルから出てきたごとく
常に身なりをきちんとしておく事
すなわちそこの国の住民に
胡散臭い目で見られないようにする事
この旅は世界発見の旅であると同時に
自己発見の旅だから
その国の住民に余計な拘りをさせない事が大事
河原でテントを張る時は
その国の言葉で
「私は世界千日徒歩旅行をしている者です
今日一日だけこの河原にテントを張る事をお許し頂きたい」
と言う様な張り紙を出し
そこの国のその地区の住民に寛大に処して貰う事が大事
テントを出たら
今ホテルを出て来たパッカーのごとく
颯爽とリュックを担いで歩く事が大切
この旅の目的は歩く事
そして世界を見る事が目的
その国の人々との交流は否定しないが
最小限に止める事
毎日1日8時間歩くと言う大原則は
如何なる事があっても崩さない事
そうでなければ
それは修行ではなくなり
すぐにリタイヤするか
どこかの国に滞留する事になるは必至
これは千日回峯と並ぶ修行であると認識する事が大事
そうすればきっと千日世界周遊を成し遂げらる筈である
さあ私もその気になって始める事とするか
まずはユーラシア大陸コース
スタートは北京
ペキン ハノイ ビエンチャン プノンペン バンコク ヤンゴン ダッカ ティンプー カトマンズ ニューデリー イスラマバード カブール テヘラン テヘラン バグダット ・・パリ・・・モスクワ・・・ウランバートル ペキン
千日3万キロ
ユーラシア全首都巡りの
千日世界徒歩旅行の終わり也
貴方は行人か詩人か? 2003/ 5/22 21:33
貴方の言う事は私は分かる
しかし私は分からない
自己が輝く光であると言う事が
貴方はその輝く光を体験した事があるのか
その前に貴方に聞く
貴方は行人か詩人か
行人であれば
妄りに言葉する事は許されない
しかし詩人であれば
私と同じく
戯言を言葉する事は許される
貴方は行人か詩人か
貴方はその光の中へ突入した事があるのか?
これは manganet55 さんの 103 に対する返信です
詩人の真実 詩人のアイデンティティ 2003/ 5/22 21:47
私は思う
今日本では
詩人が増殖中であると
仕舞には
全人口の半数が詩人となるだろう
何故か
それは言葉に飢えている為
人とは言葉である
その言葉が塞がれた時
人はその存在が危うくなる
そんな時
人は詩人に逃げる
詩人とは言葉の人
彼の言葉は彼にとっては全て真実
彼は詩人として
自らのアイデンティティを確立する
詩人にとって
彼の言葉は全て真実
それが彼のアイデンティティとなる
若者たちへ 2003/ 5/22 22:29
私は思う
今の日本には
行が欠けていると
石の上にも三年
誰が出来るだろう
千日回峯
日本で出来るのは一人か二人
だから私は提案するのである
千日世界徒歩旅行を
これは旅行と名付けられているが
修行である
1日8時間千日毎日歩き続ける
雨の日も嵐の日も
北京を振り出しに
東南アジア 南アジア 西アジア 東奥 西欧 そしてパリ
それから北欧 モスクワ 中央アジア
シルクロード そして振り出しの北京
この行程千日の徒歩がそのまま修行となる
その修行要件は次のとおり
一 毎日8時間一日も欠かさず千日歩き続ける
一 宿泊は河原でテント 食事は自炊
一 毎日川で水浴をし常に身奇麗にしておく
一 食材以外には金銭は使わない
さあこの修行を終えた時
貴方は言うのだろうか
この世は幻だと
それともゲーテとなって
色彩り豊かな詩を書き上げるのだろうか
それは誰にも分からない
その修行をした者にしか分からない
日本人諸君
特に若者よ
そこの36歳の若者よ 貴方もそうだ
修行に励もうではないか
詩人となる前に行人となろう
特に若者たちへ
私は詩人 だから私の言葉は真実 2003/ 5/22 22:49
私は知っている
インドは人を酔わせ
人を軟弱にする事を
私は若者に忠告する
インドに行く前に
まずは世界を見よと
もし貴方が自由なら
世界を旅して見よ
世界全ての国を旅し終えたら
(勿論千日世界徒歩旅行の要領で)
その時はインドへ行け
その時貴方はラマナ・マリハシと並ぶ事が出来るだろう
そして言うだろう
過去の全ての聖人がそう言った様に
「全ては空の空だと」
私は詩人
言葉のままに書き付ける
だから私の言葉は真実
正義とは? 2003/ 5/23 21:51
サムエル記を読み終えた
古代の正義の厳しさが身に沁みる
しかし私は思う
その正義が脈々と現代に息づいているのを
ブッシュを見よ
彼こそが現代の正義の志士だ
勝利して
彼は正義の志士となった
ダビデの様に
ダビデに
常に神が寄り添っていた様に
きっとブッシュにも
神が寄り添っているのだろう
でなければ
彼はあの様に高く立つ事は出来ない
さあそこで検証だ
ダビデの神とブッシュの神は同じ神か
それとも別の神か
それは後代にならなければ分からない
百年と言う時が経過して分かるもの
しかしその事が分かる者がいる
それが預言者 真の詩人
彼は未来からの言葉を預かった者
その彼が言う
ブッシュとダビデは全くの別物だと
私はダビデに会った
ダビデは胸を開いて言った
どうぞご随意にと
私はその中に入った
それはとても芳しかった
そして私はそこに見た
何も不正が無い事を
私はブッシュにも会った
ブッシュも言った
ご随意にと
私はその中に入った
少し臭った
そして邪な心も見た
私は恥じた
ブッシュとダビデを比べた事を
ダビデも戦で
何千人何万人と殺した
それはブッシュも同じ事
そこに違いが生まれるのは
正義と言う名
さて正義とは?
古代の正義 2003/ 5/23 22:11
私が正義を口にする
珍しい事だ
きっとサムエル記の精だろう
サムエル記の主人公ダビデ
彼の手は
何千人何万人何十万人と言う血に染まっている
それでも彼は正義の士だ
古代から現代にかけて
彼こそが正義の頭だ
何故彼が正義の頭か
それは神
彼が全て神に従ったが故
バガヴァッド・ギーターの
アルジェナとクリシュナの会話を聞いた事がないのか
たとえ貴方が殺さなくても
彼らは既にカーラに殺されているのである
ダビデはただ神に従って殺しただけ
だから
彼は神から高く掲げられたのである
彼が殺人鬼だと思うな
彼は慈しみの人である
彼は神に殺された人を殺し
神に愛された人を愛す
全て神の御心のままに
私は思った
古代の正義は厳しいと
正義の定義 2003/ 5/23 23:02
古代の正義と現代の正義に違いがあるか
一点の違いもない
全く同じだ
正義
それは神に従う事
この一点だけ
だが現代においては
正義を行う事が難しく成って来ている
神の声が聞き辛くなってきているから
ダビデは良かった
あんなにはっきり神の声が聞こえたのだから
正義とカーラ 2003/ 5/24 10:09
私は思った
正義とは
我々民には関係の無い事
正義とは
王の為にだけある事だと
王だけが
人を殺す権能を持っている
正義とは
それは平和の為
ダビデが尽くし
ソロモンが完成させたあの王国
あの王国では
ダンからぺエル・シェバまで
いちじくの木やぶどうの木の下で
人々が憩い安らかに眠った
それはそれまで無かった事
ソロモンが残党を一掃した
それもこの為
全て神の御心に適った事
だから正義
正義は裁きの座にある者だけの事
そしてそれは平和の為
またブッシュに戻ってしまう
ブッシュはやはり正義だったのか
しかしそれは誰にも分からない
正義には二つの要件がある
一つは平和の為
もう一つは神の御心に従ったと言う事
ブッシュは神の声を聞いたのだろうか
それは誰にも分からない
預言者以外は
私は預言者
ブッシュの心の中に入った
そこには邪があった
だからブッシュは正義ではない
ブッシュは歴史の必然
すなわちカーラに従っただけ
彼もまたカーラに飲み込まれてしまう
正義を行った者だけ
彼だけが神によって高く掲げられる
正義はカーラに飲み込まれる事はない
正義は神の思し召し 2003/ 5/24 10:34
さて正義を検証しよう
アレクサンダーは正義だったか
カエサルは
ナポレオンは
アレクサンダーは戦に死んだ
カエサルは暗殺
ナポレオンは幽閉
彼らに正義は無かったのか
はっきり言おう
彼らが戦に勝ち続けている時
それは正義であった
彼らはただ神の声に従っただけ
だがそれからが違う
やはり彼らはこの世の人
カーラに飲み込まれてしまった
ダビデの様に
最後まで神に寄り添う事が出来なかった
アレクサンダー カエサル ナポレオン
彼らは歴史上の人物
ダビデ
彼だけが正義の人として永遠に輝く
やはり詩人は得?
あの詩編が無ければ
ダビデもこの様に高く掲げられなかっただろう
いえそれもこれも
全てが神の思し召し
心と言葉と存在と 2003/ 5/24 10:54
人の心は誰にも分からない
唯一つだけ分かる方法がある
それが詩
詩の中で
人の心が言葉となる
私は詩人
私は心のままに
言葉のままに書き付ける
だから私の詩は私の心
何故なら
その時そこには私しか居なかったから
私の存在
それは言葉
言い換えればそれが私の心
私の詩(うた)はしりとり詩(うた) 2003/ 5/24 11:08
私の詩(うた)は
しりとり詩(うた)である
しかし私は思う
しりとりこそが人の全存在であると
人は誰も飛躍出来ない
人はいつも一歩一歩である
その一歩一歩こそがしりとり
人は飛んだつもりになる
しかしそれは前を受けての事
前の言葉が私を位置づける
人が言葉なら
人の全存在はしりとり
だから私の詩(うた)もしりとり詩(うた)
ささやかな飛翔 それが詩人の楽しみ 2003/ 5/24 11:23
人は飛んだつもりになる
しかしそれはしりとりの間だけの事
しかしそれはそれで良いではないか
飛翔感
これこそが人の楽しみ
そして詩人のささやかな楽しみ
私は飛んだ
何処から何処に
いえ私は飛び回ったのである
何処から何処に
もと来た場所に
人とはそう言う存在なのである
その楽しみを知るのは詩人
だから詩人は詩(うた)い続けるのである
万葉植物園 2003/ 5/24 22:03
万葉植物園いい
まずはその木を見る
そして盛りを想像し
そして歌を読む
イメージと合った時
その歌の世界が
目の前に広がる
千年の時を越えて
私はその木の前に立つ
桜に松竹梅
馴染の木々はイメージ通り世界が広がるが
その他の木々は中々に難しい
何度も足を運ぶ必要がある
そしてゆっくりと
全ての木々は盛りを過ぎていたか
未だ盛りを迎えていなかった
そんな中にあって
一つだけ盛りを迎えているのがあった
それはうのはな
私は始めて卯の花を見た
いや初めて意識した
確か卯の花を題材にした抒情歌があった
私は今その詩を思い出せない
その歌を今度聞く時は
臨場感豊かなものとなって
私に迫るのだろう
からたちの木もあったが
白い花は青い実となっていた
真弓梓山吹橘・・・
由緒正しい木々ばかり
万葉に出て来る植物167種を集めていると言う
毎日でも行きたい植物園であった
レバノン杉とレバノンの森 2003/ 5/24 22:41
レバノンの森とレバノン杉
ソロモンはその宮殿と神殿を作るため
30アンマを優に超えるレバノン杉を
レバノンの森から切り出した
今そんなレバノン杉があるのだろうか
そしてレバノンの森は未だあるのだろうか
30アンマとは
ソロモンの宮殿と神殿の高さ
その高さは私が想像するに
大仏殿の高さ+5メートル程
レバノンの森は三千年以上にも渡って切り出されて来た
私は思う
もうレバノンの森はないだろうと
そこは殺伐とした禿山
もう雨を降らす元気もない
もしそれが残っていたら
世界遺産条約第1号
屋久島より先に
歴史発祥を見つめ
そして支えて来た森だから
屋久島の森 2003/ 5/24 22:47
森 太古 原始
それは我々の故郷
貴方は屋久島の森に入った事があるか
入った事があれば
それを実感するだろう
太古の森
原始の森
我々先祖の住んで居た森
その森を体験したければ
屋久島の森に入れ
ただし命は保証しない
日々新たに それは詩人の糧 2003/ 5/24 22:56
我々は日々新たに生まれている
昨日は正義の森に
今日は太古の森に
明日は何処に生まれ
どう生活するのか知らない
それは神が知るのみ
日々新たに
これこそが人の楽しみ
そして詩人の糧
一とは? 2003/ 5/25 10:33
歴代の王には正義は宿らないのか
ただ初代の王にのみ正義が宿るのか
ダビデを見よ
ウリヤの1件以外は
全て神の御心に適った事であった
すなわち正義であった
ソロモンを見よ
あれ程豊かな知恵と
豊かな富を神より与えられた
そのソロモンが
神の御心を行わなかった
後の王は押して知るべし
何故
それは
神は一也
との知識を持っていなかったから
神は一
その確信が有れば
どうして分裂が起こり得よう
どうして八百万の神々が生まれよう
ダビデは常に一を拝んだ
そこには何の分裂もなかった
ダビデはただその一に従った
さて一とは?
ゼロとは そして一とは ? 2003/ 5/25 10:57
一とは
そしてゼロとは
日中にはゼロと言う概念は無かった
零
あれは当て字に過ぎない
零とは極めて小さい 極めて少ない事
ゼロとは本質的に概念が違う
零は当て字に過ぎない
もしゼロを漢字で表現するなら
それは空か無
何故それを使わなかったか
それは空や無があまりにも広大だから
さて諸君
ゼロと一の本質入って来ているのだよ
分かるかね
愚か者たちへ 2003/ 5/25 11:13
ダビデの神は一
そしてイエスもそれに従った
ブッダの神は 空または無
本質的に違う
私は前に書いた
インドは人を酔わせ人を軟弱にすると
一は重荷を負うて歩むがごとし
空または無とは
貴方自身が神になる事
現代の軟弱な若者はインドへと憧れる
ここで一言インドを弁護しておく
空または無に突入する事が最終の目的だあったとしても
その前にインドでは
大いなる一と言う修行を置いている事を
現代の軟弱な若者はそこを抜いて
いきなり神になろうとしている
愚か者よ!
詩人の楽しみ 2003/ 5/25 11:22
私ですか
私は神になろうとも
王になろうとも思っていません
ただ神から落ちる言葉を拾い集めるだけ
もし私が若くして 神を知ったなら
修行を重ねていたのかもしれません
でも私には時間がありません
だからただ空を見上げて
そこから落ちて来る言葉を拾い集めるだけ
それが詩人と言うもの
そしてそれが詩人の楽しみ
天職 2003/ 5/25 11:34
私は自己弁護をしているのかもしれません
もし私が今日
全てを捨てて
飛び込むならば
遅いとは言えないでしょう
でも私にはそれが出来ないのです
いえ神の思し召しが無いのです
私はこの世にあってかの世を憧れる者
それが詩人と言うもの
そして今は
それが私の天職だと思っています
私が私である為に 2003/ 5/25 11:39
詩人か行人と聞かれれば
私は詩人と答えましょう
誇りを持って
私は私の真実を描く
それしかないのです
そしてそれが私のアイデンティティなのです
私が私である為に
私は詩人であり続けたいのです
未だ見ぬ兄弟へ 2003/ 5/25 11:59
私が丁寧語を使う時
それは貴方方に同調を求める時
そうでない時は
この世を相手に訴える時
私がどうして貴方方の同調を得る必要があろう
私は私
そし貴方は貴方
確信を持ってそれを貫こうではないか
もし私に一なる神が居て
貴方にも一なる神が居る時は
その時は私と貴方は兄弟
それは自ずから分かると言うもの
そうだろう兄弟
未だ見ぬ兄弟へ
人類皆兄弟 2003/ 5/25 12:05
私は未だ一なる神を見つけていない
それを探して捜索中
知恵ソフィアに従って
もし私が一なる神を見つけた時
その時は全人類が兄弟となるのかも
確か何処かにそう言うキャッチがあったよね
「人類皆兄弟」と言う
虚無 それは旋律なき空間 2003/ 5/25 20:48
貴方方は虚無感と言うものを感じた事はないかね
頭にも心にも何の旋律も生まれて来ない空間
そんな空間
感じた事はないかね
ある やはり
今の私がそんな空間だ
だが私は知っている
この最初の律動が
私に旋律を与えて呉れるのを
さあ旋律よ
私に降って来てお呉
リズムとハーモニーを伴って
ボレロ 2003/ 5/25 20:55
貴方方はボレロを聞いた事はないか
あれと同じ事だ
その僅かな旋律を逃さなければ
最後にはあの様に雄大な曲となる
まずは隗より始めよ
とにかく始める事が大切
その最初の律動が
貴方を大きな世界へと運ぶ
特急と鈍行 2003/ 5/25 21:10
ホップステップジャンプ
三段跳びであの世に渡る事も出来る
一方
一歩一歩階段を昇るようにして
やっと上り詰める事が出来る時もある
それはその時次第
私は知っている
この世をスパッと断ち切る事が出来れば
あの世に渡るのも早い
この世を断ち切る最も良い方法
それは転寝
机の上にうつ伏せになって
十数分間程仮眠を取る事が出来れば
それが最高
その後は元気百倍
一気にかの世に渡る事が出来る
今日はそれが出来なかったので
一歩一歩上るしか手立てが無い様だ
かの世の見聞録 2003/ 5/25 21:23
私は何の為に歩いている
見聞録を書く為か
そうだ
だが私が書きたいのはこの世の事ではない
かの世の事だ
その為には光にならなければならない
この世に居る限り
重力が邪魔して
飛ぼうにも飛べない
私の旋律よ私の羽よ
早く私を飛ばさしめてお呉
等身大の私 2003/ 5/25 21:40
今日は駄目な様だ
私の頭の中には
重石が詰めれているようだ
今日はこの重石を引きずって歩かなければいけない様だ
囚人の様に
日々新たに
その為には
死して生まれなければならない
ここでの死すとはすなわち眠る事
眠ってこの世を引きずらない事
これが日々新たにの必要条件
勿論瞑想でも良い
しかし私は瞑想が出来ないので
夜には転寝をする事にしている
今日はそれが出来なかったので
この世に在所のまま
この詩集に向かって居ると言う訳である
それは光の詩集ではない
歩く早さの詩集
何時までも景色が変わらない
等身大のわたし
詩はホップステップジャンプ
ジャンプでかの世に渡れたら成功
しかし今日の私はホップステップジャンプ
いつも地べたに還るだけ
これでは何時まで経っても
かの世には渡れない
今日は等身大の私を演じるか
羽よ! 2003/ 5/25 21:52
私は知っている
この世と断ち切られていれば
次第に速さが増し 光になる事を
光になれば自由自在
瞬時に好きな所に行ける
それが詩の魅力
しかし今日の私は
近在在所を経巡るだけ
何の目新しさもない
ただこの世の私が居るだけ
羽よ
私に生えてお呉
そして私を飛ばさしめてお呉
光舞う旋律 2003/ 5/25 21:58
私は知っている
羽とは旋律である事を
今日の私には旋律が生まれて来ない
私は虚無のまま
その虚無に
無理に言葉を押し込もうとしている
それは詩ではなく
論文
私は論を展開しようとしている
この世は論と理
それが無ければ一歩も先へは進めない
私はこの世を重石を引きずって歩いている
そこには詩の楽しみは無い
あの光舞う旋律は
ない
悲哀の為に悲哀の中へ 2003/ 5/28 21:33
人は
遊び楽しむ為に生まれて来た
そして悲しみ悩む為に
それはその人次第
その人の選択次第
私は快楽を旨として来た
快楽主義者であろうと努めて来た
しかし私は思う
ここらで悲哀を身に纏わなければと
悲哀があってこそ
慈愛が生まれると言うもの
慈愛あてこそ
人間
私は人間である為
悲哀の中に自らを投じようと思う
さて悲哀とは
この世の悲哀とは
私はここで言って置こう
かの世に悲哀などない
そこは天国
歌えや 踊れやの世界
私は天国行きを
常に旨として来た
その私が悲哀に身を置こうとしている
さて悲哀とは
この世に身を置けば
悲哀に満ち満ちている
それらを数え上げれば
這い上がれない程になる
しかし私は言う
自らの悲哀の中に
私を投げ込もうとしているのではない
貴方方の悲哀の中に
私を投げ込もうとしているのである
慈愛の為に悲哀の中へ
これは manganet55 さんの 142 に対する返信です
天使 それはこの世とかの世の架け橋 2003/ 5/28 22:16
タイトルを間違えてしまった
慈愛の為に悲哀の中へを
悲哀の為に悲哀の中へと書いてしまった
しかし私は思う
この世の人は多かれ少なかれ
悲哀の為に更に悲哀の中へと向かっているのではないかと
私はそんな人の悲哀を身に付けたいのである
私は人間である
だから彼らの悲しみを身に纏う事が出来る
私は彼らに言う
何をそんなに悲しんでいるのか
私に付いて来なさい
私がその悲しみを楽しみに変えてあげる
さあ私に付いて来なさい
それこそが慈愛
だが人々は言う
私はこのままでいいのです
これが私であり
これが私の一生なのですと
彼は自らの悲しみを楽しみとしている
それはそれでいい
私はそう思って彼の前を立ち去った
彼は悲しむ為に生まれて来たのである
悲しみはいい
切ない思いは楽しみへの一歩手前だ
恋する女性を見よ
彼らは自らの悲しみを
その悲しみの故楽しんでいる
それはそれで良い
そうでなければ歌など生まれない
私は知っている
悲しみは悩みを生み
悩みは苦しみを生む
苦界に落ちた者
彼には
もうその最初の悲哀など思い出せない
彼は苦の為に更に苦界へと落ちて行く
苦の輪廻が続く
私は彼の苦界へと降りて行く
そして言う
何の為にそう苦しんでいるのだと
彼は言った
分かりませんと
そこで私は彼と一緒になって
その苦界の輪廻を遡った
そして最初の悲哀の門が見えて来た
私は彼に言った
もう一度
この悲哀の門を潜るかと
彼は言った
いいえと
その彼は
今私と一緒に
歌えや踊れやの世界に居る
程々の悲しみはいい
それが無ければ芸術など生まれはしないだろう
私は彼らの傍らをそっと過ぎる
悲しみの輪廻の中から苦界へ落ちた者
そんな彼らの中へ私は降りて行く
そして言う
何の為にそんなに苦しんでいるのかと
苦界からの脱出
それは簡単な事
この世に死ねば良い
私は手に唾つけて
彼の目に押し当てた
彼の耳の押し当てた
そして舌に押し当てた
その時彼は言った
見えます
聞こえます
そして語りだした
天国の有様を
私は彼に言った
貴方も天使になった
この世とかの世の架け橋になりなさいと
私は今の所コーヒー党 2003/ 5/29 21:41
私は酔っている
酔っているといっても
今は9時
そんなに酔っ払っているいる訳ではない
品のいい飲み方を終えて
今帰ってきたばかりと言うところか
そんな私が
今書き出している所
私は言った
天国は歌えや踊れやの世界だと
私は歌っていないし
踊ってもいない
だた少し酔っているだけ
そんな私はどんな世界
その世界を現すのが
今日の私の役割
程好い酔いは良い
その酔いが長く続けば
それで天国に行けるかも
でも
酔いの運命はこう
酔っ払ってしまうか
冷めてしまうか
どちらも大して良いものではない
それより覚醒の方がずっといい
李白はどんな酔いをしてたのか
泥酔か覚醒か
泥酔であれば
泥に塗れ地に還る事
そこには人間の欠片はない
酔って覚醒
それは大いに有り得る事
私がコーヒーを飲んで覚醒する様に
李白は酒を飲んで覚醒していたのだろう
そうでなければ詩は書けぬ
詩は覚醒して
真髄に辿り着いた時
始めて書けるもの
それはコーヒーであろうと
酒であろうと
瞑想であろうと
あるいはまた覚醒剤であってもいい
しかしその持続が問題となる
一番いいのは瞑想
その次がコーヒー
酒まではいいとしよう
覚醒剤
一年一ヶ月で廃人になってもいいのなら
それもまた良い
しかし私は言う
一年と一ヶ月では
貴方の世界は極め尽くせない
長寿が良い
長寿を全うする術を考えよ
私は瞑想に憧れる
しかしその術を知らない
だから私は今
コーヒーに甘んじている
私は今の所コーヒー党
愛それは私にとっての要石 2003/ 5/29 21:47
一昨日来
私は愛に身を置こうとしている
しかし私は知恵に奔る
愛
それは私にとって要石
愛の詩人へ 2003/ 5/30 21:57
今日から
私は愛の詩人
貴方の為に
愛の歌を歌います
貴方が居るから
私も愛の歌が歌えるのです
貴方はマノン・レスコー
私の愛人です
貴方は言います
早くあの帽子を取って来てと
私は言います
ウィと
そして谷の底に降りて行きます
彼女は言います
お水が飲みたいわと
私はまた
その深い谷の底に降りて行きます
彼女は言います
ほらほら見て
美味しそうな葡萄の実だこと
私は千尋の崖も怖れません
ああ
やはり私は愛の詩人には成れない
私は常に知恵が先走る
それが何だ
何の為にそんな事をする
私の知恵は
愛の暴走を許さない
いえ
知恵の一歩先を歩く事さえ許そうとしない
おい知恵よ
貴方は何の為に存在する
知恵の為か 知識の為か 愛の為か 快楽の為か
何の為か
答えよ
答えます
快楽の為です
知恵よ
それで本当にいいのか
愛を蔑ろにしていいのか
貴方は誰ですか
誰の代弁者ですか
いえ今はその事は問わない事にしましょう
答えましょう
私は愛を蔑ろにしていました
それでは駄目だと思ったのです
だから貴方が先程見た様に
マノンレスコーに愛を捧げようとしたのです
でも貴方が見たとおり
私は愛を三秒も続ける事が出来無かったのです
私には知恵が内在しています
その知恵は無駄な感情に
すぐに頚木を嵌めようとします
そんな訳で
私は無駄な感情
すなわち恋愛には走れない様に成っているのです
恋愛
それは知恵無き者たちの
祭りごと
知恵有る者たちは
誰も彼も
天国を目指すのです
そちらの方がずっと
快く楽しいから
すなわち快楽に満ち満ちているから
貴方に聞く
愛とは何だ
愛とは
アガペーからエロスまで
すなわち
神の愛から男女の愛まです
その中に全ての愛が含まれます
知恵有る者たちは
神の愛 神への愛を熱望します
そして私もそうでした
でもそれだけではやはり駄目だと思ったのです
男女の愛まで行く必要は無いと思いますが
成り行きでそうなればうれしいのですが
少なくともその中間に身を置かなければと
そう思って愛の詩人に成ろうと努めていると言う訳なのです
愛の二重唱 2003/ 5/30 22:17
気付きましたか
私が丁寧語を使っているのが
私はもう神を相手にしていません
貴方方を相手にしているのです
私は貴方の同調を求めているのです
そして同情を買おうとしているのです
私は知っています
恋愛とは
私が貴方を愛するのではなく
貴方が私を愛する事を求めているのです
私も恋愛までとは言いませんが
そんな愛の類に身を投じようとしているのですから
まずは貴方に同調して貰わなければいけません
そして私を愛しても貰わなければならないのです
私には見えます
何だこいつは
愛を言葉で買おうというのかと
そうなのです
私はいつも知恵が先走り
愛の二重唱さえ歌えないのです
私の歌のお相手は神様
この世にそんな人が居たら
無邪気に愛の歌も歌えるんですが・・・
だから私はこの世の愛に泥めないのです
もしこんな私と
無垢なままに
愛の二重唱を歌える方がいましたら
どうか相手を願います
私の愛する人よ 今何処 2003/ 5/30 22:26
未だ見ぬ愛する人よ
私にはだんだん
貴方が見えてきました
この世は広い
私より優しい人が居ないとも限らない
今日この言葉を見てくれた貴方
貴方はひょっとしたら
私よりもずっと無垢で優しくて
神を愛する人かもしれない
未だ見ぬ恋人よ
貴方は神をとてもとても愛する方です
そうでなければ私を愛する資格がありません
どうしてこの世を向いている人に
私の愛が見えましょう
同じ神様を目の前にする時
私たちの口に自ずからと
二重唱が零れ出て来るのです
私の愛する人よ
今何処
永遠の邂逅 2003/ 5/30 23:06
未だ見ぬ私の恋人よ
私は貴方を待っていたのです
貴方に会う為に
ここまで歩いてきたのです
貴方もそうです
貴方は私に会う為に
今日までそうして歩いてきたのです
私たちはとても優しい心の持ち主です
でもそれはこの世では通用せず
私たちはそれを固い殻の中に閉じ込めて
今日までこの世を歩いてきました
いつかその優しい心が花咲く事を願いつつ
世の人々は言います
あいつは優しくない奴だと
そうではないですよね
あまりにも優しいが故に
その優しさをこの世に出せないでいるのですよね
でも貴方は思い始めていますよね
本当はやはり私は優しくないのではないかと
決してそんな事はありません
貴方はとてもとても優しい方です
でもその優しさは
この世では通用しないのです
あまりにもピュアな為
貴方は何時しかその優しさを忘れ
この世の仮面を被ったままこの世を去る運命にあったのかもしれません
でももう大丈夫です
ここに私が現れたのですから
そして貴方が私の為に現れたのですから
私のピュアな心と
貴方のピュアな心は同じです
貴方の心で思うその優しさが
私の心にもそのままに現れます
これこそ二重唱です
私は貴方の声を受け
そして私は貴方の声を受け
私と貴方のどちらかが止めない限り
その二重唱は永遠に続いて行くのです
永遠の邂逅を得た様に
愛の歌を歌いましょう 2003/ 5/31 9:59
私の愛する人よ
そう呼びかける時
貴方は答えます
私はここに居ますよと
それだけで十分です
文字に現す必要は有りません
その言葉だけで十二分です
私は知っています
言葉が文字に成る時
大いなる葛藤が有る事を
その葛藤の中で
私たちの優しい心は失せて行きます
思うだけで十分です
私の優しい心に
貴方の優しい心を
合わせて下さい
そして歌いましょう
愛の歌を
言葉上の兄弟夫婦 2003/ 5/31 10:15
私の未だ見ぬ恋人よ
貴方はとてもとても優しい人です
その優しさは限りが無い程
そして貴方も知らないのです
その優しさの限りを
貴方は私によって優しい人と成るでしょう
そして私も
私たちはその為に
今日こうして結ばれるのです
優しさ
それは愛の泉から汲みます
貴方はその泉が何処にあったか知っていますか
もう忘れたのではないですか
まずは私と貴方で
その泉を探し出すのが先決です
あった!あった!
良かった!良かった!
もう私たちは兄弟姉妹
そして夫婦です
私の発する言葉は貴方に響き
貴方の発する言葉は私に沁みます
私たちは
言葉の上では兄弟夫婦です
どんな肉親たちより
言葉が響き合います
何故なら
同じ愛の泉を口にしたのですから
夫婦の資格 2003/ 5/31 10:42
私の未だ見ぬ恋人よ
貴方は言います
もう私たちは夫婦となったのですかと
私は言います
いいえ あれは言葉の上だけです
私たちは言葉に言葉を重ねて
愛を深めて行かなければなりませんと
ところで
私の未だ見ぬ恋人よ
貴方は夫婦とは何だと思いますか
永遠の契りを結んだ男と女?
そうですね
それではどんな契りを結んだのでしょう
・・・
私が答えましょう
それは対話です
永遠の対話を約束したのです
すなわち優しい言葉に優しい言葉をです
私たちは優しい人間です
そして私たちの口から出る言葉は
全て優しい言葉です
何故なら愛の泉から出る言葉だから
だから私たちは今でも
夫婦となる資格はあるのです
勿論言葉の上で
子供 それは言葉の結実 2003/ 5/31 11:13
私の未だ見ぬ恋人よ
夫婦の結実とは何でしょう
勿論子供ですよね
ところで子供とは何でしょう
・・・
私が答えましょう
子供とは言葉の結実です
十月十日
対話を続けていったその先に
子供が生まれます
しかしそれは誕生の始まりです
その後二十年
対話を続けて行かなければ成りません
その先に
子供は言葉の人となってこの世に出て行くのです
その対話が淫らな対話だったら
淫らな人間としてこの世に出て行きます
私たちの子供は
優しい人間となってこの世に出て行きます
何故なら
私の言葉も貴方の言葉も
愛の泉から汲んで来た言葉だから
愛する人へ 2003/ 5/31 21:18
未だ見ぬ恋人よ
お許し願いたい
確かに貴方が居り
私を待っている事は分かっています
でも未だ私には力が足りない様です
愛の力が
私はもう少し知恵の旅を続けて行きます
そして愛の力が付いた時
その時はまた帰って来ます
その時まで待って居て下さい
今度の旅は貴方も一緒です
愛と知恵に満ちた人に成りたいと思います
貴方の為に
そして私の為に
私の愛する人よ
私をお守り下さい
私は愛の人 2003/ 5/31 21:46
知恵とは何?
愛とは何?
私には二つの命題が与えられた
この問いに答えない限り
私は愛の人にも
知恵の人にも成れない
愛とは何 そして知恵とは
愛とは人を認める事
知恵とは神を認める事
私は愛の人であり
知恵の人ではないか
誰を憚ろう
未だ見ぬ恋人よ
私は貴方を
何時如何なる時でも
善しと認めます
何故なら
私は愛の人だから
そして私は知恵の人でも在るのです
未だ見ぬ恋人よ
私を怖れないで下さい
どうぞ私の中に入って来てください
貴方が神と対話して来た様に
貴方は私と対話が出来るのです
素晴らしい事だとは思いませんか
あの世だけに期待を掛けて来たのに
この世にもそんな世界があるのを知って
だから恐れないで
どうぞ入って来てください
その無垢な心のままに
私も貴方と同じ様に
この様に無垢なのですから
私と貴方は兄弟姉妹
神を同じ父として持つのですから
私は神とだけの対話が幸せでした
そして貴方も
でも今日からは違います
私と貴方で
この世に天国を創ろうではありませんか
キリストも言っています
心を同じくする二人の所に私も居ると
愛の宿敵とは 2003/ 5/31 22:37
私は愛の人です
でも
この世に降りて行くに連れて
愛の力が弱くなって行きます
何故なのでしょう
知恵の力が足りないから?
その通り
貴方は何の為に
右手に知恵の剣を持っているのだ
愛を成就させる為ではないか
その剣を豆腐にも劣る詩に変えるとは何事か
お言葉ですが
私は詩人なのです
知恵を言葉に変える
その事を私がしなければ
誰も知恵など振り向かないのです
そうか
それならそれは認めてあげよう
しかしそれは二次的な事
まずはこの世で
愛の宿敵を断ち切らねばならない
愛の宿敵って何ですか
貴方が愛を実行する時の事を考えよ
貴方がバスに乗っていたとする
かなり高齢な老人が乗って来たとする
それもかなり疲れている様だ
さて貴方はどうする
席を立ち
老人に「どうぞ」と声を掛け
席を譲ります
貴方はそうするか
いいえ
何故しない
それとも出来ないのか
そこに愛の宿敵が潜んでいる
知恵の力で暴け
そして断ち切り曝せ
二度と潜まない様に
愛の言葉 2003/ 6/ 1 11:13
愛とは
降って湧いて来るものではないのです
愛には
事前の修練が必要なのです
その為にこそ知恵が必要なのです
貴方は何の為に知恵の旅を続けているのか
知恵の為の知恵の旅ではあるまい
え!
愛の為にこそ
まずは知恵を求めるものだ
どう言う事でしょう?
何時如何なる時でも
人を愛せるよう
事前に準備をして置く
その為にこそ
知恵はまず存在しているのだ
どう言う事でしょう
貴方は何時如何なる時でも人を愛せるか
いいえ
ほとんど何時如何なる時でも
人を愛せません
何故だ?
分かりません
準備が出来ていないからだ
私は言ったではないか
愛とは降って来るものではないと
事前の周到な準備があってこそ
始めて人を愛せるのだ
愛とは何だ
分かりません
それで人を愛せるか
済みません
私も私なりなりに
愛の定義は持っています
それは
「善しと認める事」です
それなら何故その様に振舞わない?
それは私が人間だからです
すなわち
人と人の間に居るからです
私はこの様な人間である
それなのに私はこの様に低く置かれている
そのプライドが
周りの者全てを
善しと認められないのだと思います
その者が近くに居れば居るほど
貴方に聞く
貴方とは何者だ
私とはこの様な者です
どの様な者だ
済みません
具体的には言えませんが
私は社会の中に居り
前後左右上下にそれぞれ人が居り
私はその中であまり高く評価されていないと言う事です
それが為人を愛さないと言うのか
それで良いのか
貴方は人を永遠に愛せなくなるぞ
それでいいのか
いいえ良くありません
本当はもっと愛したいのです
貴方を愛する様に
では愛すれば良いではないか
それが出来ないのです
私を善しと認めていないのに
どうして相手を善しと認められるでしょう
結局貴方は人を愛せないという事か
そうなのかもしれません
だから貴方だけを愛するのかもしれません
ソフィアと言う貴方だけを
私はソフィア
貴方の問いには全て答える
しかし貴方が問わない問いに答えない
貴方の問いはそれで良いのか
お聞きします
愛とはどれだけあるのですか
貴方が人と接する時
そこには必ず愛が存在する
その愛を顕在させるかさせないか
それは貴方の意志次第だ
私は言った
愛には準備が必要だ
準備とは何か良く考えよ
分かりました
準備とは何かが
それは愛する意志です
常に相手を善しと認める意志です
もしその強い意志を持っていれば
会う人毎に
善き事を認める事が出来ます
そしてその善き事を通じて
その人に貴方を見る事が出来るのです
それこそが愛です
相手を通じて貴方を見る
その時愛が成就するのです
例えば
かのバスに乗り込んで来たご老人
私は善しと認め
彼に一言「どうぞ」と声を掛けて
席を譲ります
これで愛が成就です
貴方との約束を果たしと言う事で
私の心には喜びの声が沸き起こります
それが愛の報酬
例えばコンビニで
お金を払って品物を貰います
その時売り子の目を見てこう言います 「ありがとう」と
その一言で愛は成就です
貴方との約束を果たしたと言う事で
私の心はまた喜び震えるのです
何時如何なる時も一声です
その一声に乗って
愛が相手の心に届くのです
そしてその時愛が成就です
ありがとう
thank you(貴方に感謝します)
これが第一級の愛の言葉です
私は勉強したいと思います
愛の言葉を
瞳の愛の真実 2003/ 6/ 3 22:09
愛とは何か
それは言い尽くせ得ぬものか
愛とは何
相手の目に
自分を見出す事か
愛とは何
それは言い尽くせ得ぬものか
私はある男性遍歴の
愛の人にあった事がある
私は彼女に聞いた
愛とは何ですかと
彼女は答えた
愛とはね
相手の目に自分を見出す事よと
私はその意味が分からなかった
そこで彼女に聞き返した
それはどう意味ですかと
彼女は答えた
貴方はお坊ちゃんね
未だ恋をした事が無いんじゃない
そう言いながら
私の目をずっと覗き込んだ
そして私も
そして分かった
彼女の言っている意味が
私は彼女に瞳に
私を見出した
それは彼女も同じ事
だが果たして
それが愛だろうか
瞳はそれ程に真実なのだろうか
貴方に言う
人の中で瞳が真実で無ければ
何が真実だと言うのだ
心です
愚か者
貴方に心が見えるか
はっきり言って置こう
人は瞳を通して
人の心を見るのである
瞳を見ずして
どうして心が見得よう
その人の瞳に自分を見出すとは
どう言う事か
よくよく考えよ
貴方が最も自分らしくなるとは
どう言う時か
そしてその時
貴方はどう感じるか
その事思い出せ
そして
もしそれが眼前で起こったら
貴方はその時
その事をどう思う
ひょっとしたら
いえきっと
それを愛と呼ぶでしょう
それが瞳の真実なのです
かの男性遍歴の愛の人
彼女はそれを求めて遍歴して来たのです
彼女は思った
ここに愛があると
しかしそれは長くは続かなかった
それが瞳の愛の限界なのです
彼女はそれに気付かずに
なお遍歴を続けているのです
瞳は全てを受け入れるが
すぐに全てを閉ざしてしまうのです
それが瞳の愛の限界
貴方方は聞いた事がないか
一目ぼれと言うのを
それがまさしく瞳の愛だ
貴方は一目で
彼女の瞳に
貴方の全生涯を見る
一瞬の内に
それは真実
そして夢幻
貴方はその夢幻に
この世の儚さを知る
彼女は懲りずに
その一瞬の真実と夢幻を求めて
また遍歴の旅に出る
瞳の愛
それは真実だが夢幻
恋の人は
その一瞬の真実を永遠と見誤り
恋の遍歴を続ける
詩人は
その一瞬の真実を普遍へと高めようとする
哲学者はそれを見て
笑い嘆く
愛とはそんな所には無いよ!と
始原の愛 2003/ 6/ 3 22:30
哲学者たる貴方よ
貴方に聞く
愛とは何処にあるのか
私は知りません
貴方は言ったではないか
「愛とはそんな所には無いよ!」と
確かに言いました
それは瞳には愛は無いと言っただけの事です
愛がどこにあるか
私は知りません
私は今その旅路の途中なのです
貴方はその旅路の中に
愛が有ると思っているのか
有るか無いかは分かりません
分からないから捜索中なのです
貴方は魚を探すのに山に登るのか
獣を探すのに海に潜るのか
愛と言う
その大きな的が貴方には見えないのか
目の見えない者よ
愛とは何処に有るのでしょう
私に見せて下さい
もう決して見誤る事が無い様に
相良直美の歌を思い出せないか
愛 貴方と二人♪
そこに愛がある
私と貴方
我と汝
その間にしか愛は無い
全てがここに終局する
そして全てがここから始まる
始原の愛
それを捉えた者には
愛の祝福が途絶える事は無い
心のままに 2003/ 6/10 21:38
私は5月28日より
愛の詩を詩おうと努めて来ましたが
止めようと思います
やはり心のままに
詩たって行こうと思います
天下天上唯我独尊 2003/ 6/10 21:56
私は今
心のままに詩たって行こうときめました
さて
今の私の心にあるものは
それは脱力感
この脱力感を
高揚感へと運びたい
それが今の私の気持ち
どうすれば
どうすれば良いのでしょう
それは人に聞いても詮無き事
自らの中に
力が湧いて来るのを待つしか有りません
私は今思いました
自信こそが力
これが全ての原動力であると
天下天上唯我独尊
そう言い切れて居た時は
どんなに力に満ちて居たかを
私は私
そのプライドが揺らいだ時
貴方は貴方でなくなる
天下天上唯我独尊
そう自分に言い聞かそうではないか
「智恵とは何」 どうぞ教えて下さい 2003/ 6/22 20:45
「哲学詩集 ~智恵を求めて」
この掲示板の標題です
智恵を求める旅は続きます
しかしこの詩集ではありません
今新たに企画を立てている所です
「智恵とは何」
これに答えられる人が居たら教えてください
新たな企画の中で生かして行きたいと思います
この詩集は消えない程度に維持して行きます
「智恵について」の
皆様の様々な意見を書き込んで頂けたら有り難いと思います
sophialover(智恵の愛人)より
智恵を探す旅 2003/ 7/ 5 11:44
哲学とはフィロソフィア
智恵(ソフィア)を愛する(フィロ)事
智恵は存在するのではないのでしょうか
智恵を探す旅
それが哲学なのではないでしょうか
智恵が無いと誰が断言できるのでしょう
これは halbgottjp さんの 166 に対する返信です
智恵への旅 2003/ 7/ 7 22:01
私は智恵を垣間見た
これ程にあからさまに智恵が語られるのを見た事が無い
目が痛い程である
しかし一つ一つの言葉は真実である
私は思う
これが正典から外された理由が
これ程あからさまに語られれば
誰も智恵など探しはしないだろうと
智恵はこれこれである
彼はそう満足して
智恵への旅などには出ないだろう
私は智恵の一つの概念に辿り着いた
しかしこれで終わりではない
終わりの始まりである
確かに私は智恵の概念を得た
しかし智恵に直接まみえた訳では無い
ただ智恵に関する一つの概念を得ただけである
智恵に直接まみえるまで
私は智恵への旅を続ける
これは joschkashow さんの 168 に対する返信です
素晴らしき世界の創造の為に 2003/ 7/ 7 22:11
貴方は誰か
貴方流に言えば無
しかし無は認識できない
私の経験と感覚から言えば
私は言葉
無から混沌を経て生まれ出でて来た言葉
何故在るのか
人間だから
何を為すべきか
言葉による言葉の賛歌
素晴らしき世界の創造
これは manganet55 さんの 169 に対する返信です
智恵の書について 2003/ 7/ 8 21:58
manngnetさんへ
私は智恵に関する素晴らしい言葉を見付けました
それは旧約聖書続編智恵の書7:22a-8:1です
joshkashowさんが授けて呉れた言葉です
私の掲示板72番「旧約聖書続編智恵の書」に載っています
一読して感想を頂けたら有り難いと思います
これは manganet55 さんの 173 に対する返信です
言葉の役割について 2003/ 7/ 9 22:10
主はその道の初めにわたしを造られた
いにしえの御業になお先立って
永遠の昔わたしは祝別されていた
大初 大地に先立って
わたしは生み出されていた
深淵も水のみなぎる源もまだ存在しない時
これは箴言に書かれている
智恵に関する言葉です
ここで言うわたしとは智恵の事です
ま 言わば智恵の独白です
これと似た言葉を
ヨハネの福音書に見出します
初めに言があった
言は神と共にあった
言は神であった
この言は初め神と共にあった
万物は言によって成った
成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかた
よく似ているとは思いませんか
貴方は何者と聞かれたとき
だから私は言葉であると答えたのです
もし人間が神の子なら
言葉以外の如何なる存在が神の子で有り得るのでしょう
そして言葉は智恵でもあるのです
旧約聖書続編智恵の書7:22a-8:1の
智恵を言葉に置き換えて読み直して見ましょう
言葉には理知に富む聖なる霊がある
言葉はどんな動きよりも軽やかで純粋さゆえに全てに染み込み全てを貫く
言葉は神の力の息吹
言葉は永遠の光の反映
言葉は一人であっても全てができ自らは変わらずに全てを新たにし世々にわたって清い魂に住み神の友と預言者を育成する(神の友と預言者を育成すると言うフレーズが好きです)
言葉は地の果てから果てまでその力を及ぼし慈しみ深く全てをつかさどる
言葉以外に
この事を為し得るものがあるのでしょうか
イエスの言葉
ブッダの言葉がそれを証明しています
彼らの言葉は時間を超え空間を超え
この世の人々に浸透しているのです
私もその言葉の端くれです
しかし私のその言葉の世界は
未だワンダフルワールドとはいかないようです
私ははっきり言います
この世の全てが全て
言葉に依って創られているのです
私も貴方も
そしてこの地球も
私と貴方 そしてこの地球
この関係を素晴らしい世界に変えていく事
それこそが私こと 言葉の役割なのです
これは manganet55 さんの 175 に対する返信です
神の子として 2003/ 7/ 9 22:28
私とmanganetさんの「四賓主」はどう言う関係なのでしょう
看主客なのでしょうか
それとも看客主
それとも看主主
はたまた看客客
比べるなんて詰まらないですよね
きっとこうです
いいえこうあるべきです
私も主 そして
manganetoさんも主
共に恒星と成ってこの世に輝こうではありませんか
その為にこそ
私たちは存在しているのではないでしょうか
神の子として
これは manganet55 さんの 175 に対する返信です
哲学への愛 2003/ 7/ 9 22:48
私は知っています
この世は差別によって成り立っていると
言葉には二つの力があります
一つは差別する力です
もう一つは一つにする力です
この内の前者は強力です
この世の全てを差別して行こうとします
そうしなければ自分が存在して往けない
そんな脅迫観念にでも取り付かれたように
貴方方の一つ一つの言葉を思い出して御覧なさい
気付かないかもしれませんが
貴方方は猛烈な勢いで差別し続けているのです
それがこの世の力と言うものなのです
言葉には二つの力がある
一つは智恵と呼ばれるもの
もう一つは知識
この知識のよって
世界は分断され裁断され
そしてし支離滅裂となる
それが現代と言う世界
私の憧れは古代
古代は良かった
智恵が生き生きとしていた
科学と哲学
科学は分断し
智恵は統合する
科学の原動力は知識
そして哲学の原動力は智恵
だから私は哲学を愛する
智恵を愛する事愛する
yoschkaさんへ 2003/ 7/12 23:30
joschkaさんへ
トピ消さないで下さい
私は貴方ほど波長の会う人を知りません
勿論実在する人物の中ではと言う事です
過去の聖人哲人たちには
彼らの翼に乗せて貰って
色々な所に連れて行って貰いました
でも実在する人物で
しかもこんなに身近な存在で
かの世界を垣間見せて呉れるのは貴方しかいません
あの智恵の書のあの言葉を
あんなタイミングで差し出して呉れるなんて
やはり非凡な何かが在るのだと思います
それから夢の中で自分自身の霊を見た事がある
と言った様な記事がありましたよね
あの記事も心に残っています
それからjoschkaさんには前に会った様な気がします
私がこの掲示板ではなく
別な掲示板を立ち上げた時
その時が最初の掲示板だったのですが
その掲示板の横に居た様な気がします
その霊的な詩に
とても気になってはいたのですが
敢て書き込む事はしませんでした
その貴方は風のごとく現れて
風のごとく去って行きました
もっともあの方が貴方だったかは
確信は持てませんが・・・
違ったら御免なさい
私は本当は書き込みはしたくなかったのですが
言が言葉に変わって行く様で
でも貴方が去るとの事
そう言う事で取り合えず筆を執ったという次第です
それから貴方はクリスチャンとの事
それも神学校の大学院まで進まれた
私のキリスト教は全く独善です
貴方との対話により
キリストの事をもっと知る事が出来たらなあなんて
心の隅でちょと思ったりもしていたんです
そんな貴方が去るという事で
筆を執ったと言う次第です
ひょっとしたら
もう二度と会えないかもしれない訳ですから・・・
本当に去ってしまうのですか
私の為にもう少し居残って呉れませんか
私とjaschkaさんはたぶん同じベクトルの中に居ると思います
散文の形で表現して呉れたら
もっともっと理解が深まると思うのです
肉を全く介在しない
霊的なお付き合いが出来たらどんなにか嬉しいと思います
キリストの事について
対話して行けたら
どんなにか素晴らしいと思います
神意について 2003/ 7/17 23:08
神意とは素晴らしきもの
神意のお陰で
また幸福の階段を上って行ける
もし神意が
私の逸る気持ちを抑えて呉れなかったら
今日の今の私は無かった
これは joschkashow さんの 183 に対する返信です
ちょっと面食らった体験をしました 2003/ 7/28 22:51
yoschkさんへ
今私は貴方に二千字近い文章を書いて送ろうとしたのですが
何かの拍子に消えてしまいました
それで今度貴方が立ち上げた掲示板に戻って見たのですが
そこに書かれていたメッセージがなんと「宝」でした
私が貴方に書いて送ろうとしたメッセージも「宝」だったのです
何かしら不思議な気持ちになりました
テレパシーか何かなのでしょうか
それとも偶然なのでしょうか
私の書いた宝に関するメッセージはこうです
精神は宝の山である
その宝の山に入り
たくさんの宝を掘り出し
より多くの人に分かち与えた人
彼を偉人と呼ぶ
joschkaさんは精神の奥の奥へ入った人
joschkさんは今詩人
しかし行人に成る機会を与えられた人
異言を預言に変えるべき時に来ているのではないか
異言とは私と神との対話
私と神だけが通じれば良い
言葉は短い法が良い
言葉も何も無い方が良い
しかしそれでは形を残せない
だからそれは詩
預言とは神から預かった言葉を
この世の人々に授ける事
だからどうしても散文にならざるを得ない
yoschkさんは今行人と成るべき時の人
だから預言の事も勉強したらどうですか
と言った類のメッセージを送ろうとしたのです
どうです
joschkさんが書いたメッセージと良く似ていると思いませんか
これは何かの偶然なのでしょうか
それともテレパシーか何かなのでしょうか
とにかく私とyoschkさんは
同じ波長の中
同じベクトルの中に居る事が証明されたのだと思います
ちょっと不思議な体験の中で面食らっています
でもjoschkさんは恵まれていますね
自由な時間
その自由な時間で
精神を何処まで飛翔出来るのでしょう
その高さは
そして東西南北は
またお邪魔に行きます
これは joschkashow さんの 192 に対する返信です
ゲーテ詩集と対訳ソフトについてご教示を 2003/ 7/29 21:58
joschkaさんへ
まだまだ行っちゃ駄目ですよ
joschkaさんから教えて貰いたい事が一杯あるのですから
その一つがドイツ
私は第二外国語はドイツ語を取りました
それはゲーテを読みたかったから
(その当時はヘルマンヘッセにも熱を上げていました)
でもそれは所詮無理な事でした
アルトハイデルベルク
その声を聞くと
あの懐かしい鐘の音が思い出されます
その鐘を聞きながら
そしてビールを飲み交わした
あの懐かしい大学時代
私はそこに居なかったが確かにそこに居た
しかし貴方は確かにそこに行ったのですよね
ハイデルベルグがゲーテゆかりの町だとは知りませんでした
ゲーテが散策した河畔のその小道
その小道は未だそのままに残っているのでしょうか
その小道に立ちお城を見上げ町並みを見下ろす時
私はこう叫ぶのでしょうか
アルトハイデルベルグ!と
そう言う訳でまだまだ行っちゃ駄目ですよ
joschkaさんにはドイツの事を一杯教えて貰わなければならないのだから
そう言う訳で最初に教えて貰いたいのはゲーテの事です
私はゲーテが大好きです
古代哲学者と同じ位好きです
何故ならゲーテは古代ローマを体現したその人だから
近代と言う未だあの長閑な時代に
ゲーテにより近代は完結し
そして退廃と言う現代に向かって行きました
ゲーテは近代の完成者であると同時に
古代の体現者でもあるのです
どうしてその様な人に魅力を感じないで居られるでしょう
特に古代と言う精神を知った私に
たぶんそれはjoschkaさんも同じだと思います
私はゲーテの詩が好きです
それも晩年の
「神と世界」とか「格言的」とか「警句的」とか「神と心情と世界」とか「温順なクセー二エン」とか「格言と反省」とかそんな詩が大好きです
しかし私が日本語で目にするのはそれのほんの僅かです
私はそれをまとめて読みたいのです
しかしそれは不可能です
そこで教えて貰いたいのですが
「これらの詩集の完全版を日本語で読む方法は有りや無しや」です
つまりはこうです
まずはこれらの詩集がインターネット上に有るか無いかと言う事
次に日本語ドイツ語の翻訳ソフトが有るか無いかと言う事です
もしこの二つがあれば不完全ながらも
これらの詩集を完読する事が出来ると思うのです
インターネットとドイツに詳しいjoschkaさん以外に聞く人はいないと思います
どうか宜しくお願いします
これは joschkashow さんの 196 に対する返信です
ゲーテ詩集全集について 2003/ 7/30 22:01
yoschkaさんへ
ありがとうございます
ところでその全集は何巻位になるのですか
その中で「温順なクセーニエン」((Zahme Xenien)
私の持っている詩集の解説では
「第1集から第9集まで 1812-32」となっていますので
晩年から死の直前まで書き続けた詩集だと思うのですが
それは何巻位になるのですか
それから「格言と反省」(Maximen und Reflexionen)
これについての解説は
「1809- 散文で その数 約1400」と 詩集とは別立てで書いてありますが
これはその全集の中に入っているのですか
それから
神と世界(Got und Welt 1827)
格言的(Sprichwortlich 1812-14)
警句的(Epigrammatisch 1815-20)は入っていますか
その全集の定価はどれ位するのですか
古本の場合どれ位で求められますか
最後にその全集名と出版社名を教えて頂ければ有難いです
それから最後の最後に
もしこれらの詩集の中で
yoschkaさんが訳された詩があったら
一つ披露して頂けると
とても光栄に思うのですが・・・
これは mmshowjp さんの 204 に対する返信です
真夏の正午の光景 夏の海 2003/ 8/ 4 22:50
yoschkaさんへ
訳詩ありがとうございました
精神が覆うのは地球
その片手は地上を
他方は宇宙を指しながら
正に私の為に詩った様な詩です
その為にこそ私は智恵を旅しているのです
私の地球は
私の宇宙は
素敵な世界か
全ての昼と全ての夜の
その美しさとその正しさとその偉大さに
私は何時感謝の念を捧げる事が出来るのだろう
その日まで
私の智恵の旅は続く
ところで〈青を楽しむ〉との言葉がありましたが
私はこの三日間
青と白と緑を満喫して来ました
青と白と緑のコントラストは
永遠の祝福の一歩手前の光景
全てが止まり
永遠の祝福を捧げるかのよう
真夏の正午の光景
南の海
これは forever_blue_rose さんの 206 に対する返信です
普遍の愛に 2003/ 8/ 5 21:57
普遍の愛
だからこそ自由に成れる
アベラールとエロイーズ
それがその典型
だが学識に過ぎた
私と貴方
貴方が誰かは問わない
しかし私たちは等身大だ
等身大で普遍を語る
こんな喜ばしい事があるだろうか
普遍を語る時
何の遠慮も要らない
私が誰で
貴方が誰である事を全くに問わないのだから
普遍
その大海原に舟を漕ぎ出す時
私はわくわくする
きっと貴方もそうだろう
その二人が大海原で出会う
それは全くの奇跡
そんな奇跡が起きたのか起こるのか
これは forever_blue_rose さんの 209 に対する返信です
虚空に向かって 2003/ 8/ 5 22:29
私は誰に向かって語ればよいのか
私に対してか
そんな事は有り得ない
世間に対してか
世間は無視するばかり
であれば誰にか
勿論貴方に
貴方とは誰か
それは二人の貴方
一人の貴方
それは私がずっと寄り添ってきたその人
もう一人の貴方?
それは誰?
もしそんな人が現れれば
私は貴方に語る様に
その人に語る
それはこの世の至福
そんな事が有り得るか?
有り得ない!
しかし小出しの愛なら有り得る
普遍の愛の小出しの愛
それを語るのが貴方
そうでしょう○○さん
しかし貴方はそう呼ぶ事を許して呉れないようだ
だから今日は私は虚空に向かって叫ぶ
貴方が答えなければ
私はまた
「我と汝」の世界に入って行くしかないのかもしれません
命の木の実 2003/ 8/ 6 22:52
yoschkaさんへ
ありがとうございます
これで書簡も適うと言うものです
王座から 流れ出る
命の水の川は
大通りの中央を通り
両岸には
善悪を知る知識の木の実に触れた
イヴも 触れ得なかった
命の木が
月一度
年に12度
実を 実らす
其の葉は ハーブ、万病を癒す
とても難しい
しかし智恵を鍛えるには最適な公案
さて「イヴも触れ得なかった命の木」とは
さてはて
今の所私にはそれが全く分からない
しかし直に分かるだろう
それが智恵と言うもの
善悪を知る知識の木の実に触れ
そしてそれを食べたイヴ
そのイヴが触れ得なかった
そして今も触れ得ていないと言う命の木
何故触れ得ないのか?
イヴは善悪を知る者ではないか
その善悪の知識によって触れれば良いではないか
それとも神が見えないバリケードを張っているというのか
しかしそれは神のする事ではない
イヴはその善悪の知識のよって触れ得ないのか
善悪の知識が命じるのか
触れるなと
しかしそんな事がイヴに我慢できるだろうか
では何故触れ得ない?
命の木は月に一度実を実らす
その実は見るに美味しそうな実か
それとも見るに耐えない不味そうな実か
後者であれば触れないだろう
しかし触れ得ないと書いてある
であればやはり見るに美味しそうな実であろう
何故触れ得ない
その木の実は見えないのか
そうであれば木も葉も見えない事になる
見えない物を触れ得ない事
それは当たり前の事
そんな言葉は神の言葉ではない
その木の実は確かに見えるが
触れ得ないのである
何故か
私には答えが見出せない
視点を変える事にしよう
王座から流れ出る命の水
その水は川となって大通りを流れる
そしてその両岸には命の木がその実を実らせている
私たちはその命の木に触れ得ないのなら
その命の川から命の水を飲め良いではないか
その川にも入り得ないのか
きっとそうだろう
きっと命は飲み食い出来ないものなのだろう
知識のようには
命とは
それは見えるが触れ得ないもの
命は巷に数多に見出せるが
決してそれには触れ得ない
命は月に一度実を実らす
それは満月の夜
満天の天空に大きな大きな実を実らす
そこから落ちる雫
それは人を潤す
生き生きと生きよと
真夏の正午ではないが
満月の零時
その子午線にある満月は
人に命を与える
生き生きと生きよと
真夏の正午 夏の海
そこでは全てが止まり
人を無へと誘う
月と太陽
命を与えるのは月
そして智恵を与えるのは太陽
私たちは太陽によって智恵の実を与えられ
そしてそれを食べた
月は私たちに命を与えるが
決してその実は与えない
月は私たちに命を与え
そしてその命を飲み尽くす
月はカーラ
時間の象徴
命の川とは正に時間の事
そしてその畔に咲く命の木の実とは
月の事
子供たちは言う
あの月を取ってと
しかしそれは触れ得ない
神は私たちに時間を与える
ふんだんな様に
しかしそこから命の水を飲む者は少ない
そして月は月に1度 年に12度
そしてその寿命の数だけ実る
しかし誰もそれを手にする事は出来ない
極恵まれた極少数の人を除いては
yoschkaさんはもう命の木の実を食べましたか?
これは forever_blue_rose さんの 214 に対する返信です
エデンの園の前にて 2003/ 8/ 7 23:38
yoschkaさんへ 失礼しました
命の木の事は
創世記の2章と3章に書かれているのですね
命の木の実を食べ
永遠に生きるものと成らない為に
アダムとエバを追い出してしまったのですね
そしてその門番にケルビムときらめく剣の炎を置かれたのですね
何故神は
アダムとエバが永遠に生きる事を望まなかったのでしょう
アダムとエバを愛玩動物の様に考えていたのでしょうか
死んでしまえばまた新たな愛玩動物を作ろうと思っていたのでしょうか
しかし善悪の木の実を食べてしまった
私と同じ知る者となった
命の木の実と食べれば
永遠不死
私と同じ存在
私は二人は要らない
だから命の木の実に手を触れないよう
二人を追い出し
そしてケルビムと炎の剣をその門番に置いた
しかし神は思った
自分と同じく知る存在
その存在を朽ちるに任せるには忍びない
そこで神はその存在に命を与えた
一代限りの
それも労苦を添えて
そしてエバにはeverと言う命も与えた
その命によって今日の私が存在する
そして世界の全人類が
私と全世界の人類との共通の特徴
それは「知る存在」
だから知恵の木を食べた者は
命の木にも憧れる
彼はしっかり見ているのである
エデンの園のその中央に
二つの木が並んで咲いていたのを
だがどうしてエデンの園に戻れよう
そこにはケルビムときらめく剣の炎が番を張っているのに
私には三つの疑問が残る
何故蛇が唆すに任せたか
何故知識の木の実を食べるのを許したか
何故命の木の実を食べるのを許さなかったか
私は思う
これは神の予定説だと
成るべくして成った
神はこの事をお見通しだった
そしてこの事を楽しんでいるのである
人類が
いえ人類の叡智が
命の木を手に入れようと
必死果敢に挑むのを
神はそれを上空より
微笑ましく眺めているのである
しかし命の木は絶対に手に入れられない
誰がケルビムを打ち負かす事が出来よう
誰が炎の剣と振り落とす事が出来よう
しかし神はエデンの園のその前で
その戦いに殉死したものを
記念碑を建てて讃える
ゲーテ プラトン ダビデ ソロモン 孔子 老子・・・
だが私は敢て二人の人物の
その戦いの結果は公表しない
それは神話に属する事だから
私たちは神に成れるのでしょうか
永遠不死の神に
それよりも知る存在で満足する方が良いのではないでしょうか
しかし命の木を手に入れる為の戦いは続けなければならない
神はその事を御所望なのだから
その為にケルビムと炎の剣を置かれたのだから
神はその事を御所望なのだから
エデンの園のその前に立って見よ
何と芳しい戦いの光跡か
見よまた犠牲の炎が上がった
エデンの園の前にて
これは forever_blue_rose さんの 216 に対する返信です
神の国について 2003/ 8/ 8 12:29
yoschkaさんへ
私は仏教徒でもキリスト教徒でもありません
しかし仏の教えやキリストの教えは
何時も何時も有難く受け入れている者です
そんな私に一つの疑問があります
それは神の国の事 または涅槃の事です
それには二つの立場がある様に思います
一つは生きたまま神の国に入る
または有余涅槃
もう一つは死して神の国に逝く
または無余涅槃
勿論神の国と涅槃は違いますが似た様なものです
yoschkaさんの立場は
前者ですかそれとも後者ですか
その前にもう一つ
神の国と天国は違うのか
私は思います
天国は近いと
日帰り可能なそこにあると
真夏の正午 夏の海
私はコーヒーを片手に
浜辺の木陰に座り
白い砂 青い海 白い雲 青い空
そして真夏の太陽を受けた岸辺の緑
それらをずっと見ていると
次第に全ての感覚が溶け合う様に感じられ
そして無に誘う様に感じられます
そんな時私は思います
ここは天国か
いや天国の一歩手前だと
天国のもう一つの譬え
人間の快楽中の快楽
その次の瞬間の
あの無の様な感覚
あれが天国の例えではないかと
しかし私とかyoschkaさんの快楽はそんなものではありません
その無の様な感覚が
永続する様な感覚
それでありながら覚醒していると言う感覚
それこそが神の国ではないかと
その為に必要な事
それは神との対話
またはその御使いとの対話
すなわち聖霊〈私流に言えば精神 精なる神)との対話
私たちは聖霊を語る時
常に真なるもの善なるもの美なるものを語ります
それは私たちが求めて止まないもの
だからそれを求め続けている時は
私たちは至福
決して不幸な気持ちには成れないのです
そうではないですか
yoschkaさん
しかし神の国はあっと言う間に去ってしまいます
あれは夢幻ではなかったかと
しかし決してそうではありません
確かに貴方は神の国を垣間見たのです
でもそこに永住する事は出来ません
永住する為には
命の木を手に入れなければ出来ないのです
そしてそれはケルビムときらめく炎の剣が守っている限り不可能なのです
一つだけエデンの園に入る方法があります
それは肉体を捨てて魂だけになった時
そのときはケルビムも燃え盛る炎の剣も貴方を害する事はありません
貴方は易々とエデンの園に入り
その命の木を目にするでしょう
しかし貴方はその実を手に取る事も
食する事も出来ないのです
何故なら貴方には肉体が無いから
私は思います
生きている内にも
死んでからでも
人は神の国の住人になる事は出来ないのです
ただ神の国の住人になる事を
憧れる事だけが許されているのです
その憧れ人こそが
哲学(philosophia)者なのです
またそれは人類(ホモサピエンス=知る人)の権利であり義務であるのです
それへの憧れとその実践
それによってそれに似た者となる
これが最高の哲学者
古代にはその様な哲学者がたくさんいます
もし聖霊が訪れていないのなら
それらの哲学者に学ぶのも一つの手です
yoschkaさんは幸いです
いつも聖霊が訪れ
神の国を垣間見ているのだから
これは forever_blue_rose さんの 218 に対する返信です
その時間の砂山を齧って置け! 2003/ 8/12 20:37
貴方には有るではないか
知恵も哲学も
しかし私は貴方にはかかずりあわない
貴方には一言言って置く
その時間の砂山を齧って置け と
これは boke23tomaranai さんの 224 に対する返信です
私は知恵の旅の途中 2003/ 8/12 21:34
yoschkaさんへ
私は今日は酔っています
まさか貴方に書簡を送れるとは思っていませんでした
しかし今こうして送っています
これも神様が私をここに迎えて呉れたお陰だと思います
神に感謝
その気持ちの無い者は時間に食われろ!
yosichkaさん 済みません
今日の私は酔っています
だからと言って何でしょう
これこそが酔いの奥にある本当の気持ち?
私は批判する人を一切好みません
彼らは人の上に立とうとする人
人の上に立ったってたかが3メートル弱
それよりも神の国に立ちましょう
そうすれば人の国が見渡せると言うもの
私は人を批判する事は好みません
しかしそう言う私が
この前の書簡で
何某との名前も記憶していませんが
貴方を詰る様な言葉を吐いていたので
それこそ反射的に批判の文句を並べて
それこそ貴方を擁護するような気持ちで送ったのですが
これも全て肉の成せ業
貴方は微笑んで頷いて呉れると思いますが
これこそが肉の毒
彼にはそれが分からないので
「目には目を!」
私の義侠心が成せる業
私と共に投げ捨てましょう
そして彼がもし
神とは知恵とは哲学とは
そこに目覚めたら
暖かく迎えてあげる事にしましょう
ところで
yoschkaさんの内には神の国が到来し
yoschkaさんの霊は神の国に到達しているとの事
この事は中々に言える事ではありません
喩えそう思っても次の瞬間にはそれが夢幻だと思ったりするものです
しかしyoschkaさんはあちこちその様な事を言っています
yoschkaさんには確信があるのだと思います
そこでお聞きしたいと思うのですが
「神の国」とはどんな国ですか
その国の王はどんな王ですか
そして市民は
市民はどんな生活をしているのですか
ところで
yoschkaさんは王ではないのですか
やはり王に隷属しているのですか
王は何を命令するのですか
その命令に喜々として応える事が出来ますか
出来るでしょう
でもそれは至福でしょうか
至福でしょう
人はそれ以上の何求める事が出来るのでしょう
人の至福
それは神に喜々として従う事
そこに自ずから神の国が出現する?
私には分からない
私は知恵の旅の途中だから
だがyoschkaさんは得難き存在
だからもう少し
いえ貴方が飽きる限り私に付き合ってください
sophialover(知恵の愛人)より
これは forever_blue_rose さんの 222 に対する返信です
来週の火曜日に再会出来たら嬉しいです 2003/ 8/13 22:13
yoschkaさんへ
貴方を怒らせてしまったようですね
貴方はもうここには戻って来ないのでしょうか
これも酔いの為せる業
それとも私の理解力の無さに
呆れて飽きてしまったのですか
しかし私はいつも誠心誠意
酔っている時は酔っているなりに
覚めている時は覚めている者の様に
私は残念です
yoschkaさんとはもっと理解し合えると思ったのに
心の深い所でいだき合えると思っていたのに
何かいつもすれ違い
それは私が男で哲学者
yoschkaさんが女で信仰者
その違いから生まれたのでしょうか
私は哲学者
何時までも子供 何故?何故?
貴方は母親 信仰者
「これこれはこうこうですよ」
この違いの中で
私たちはいだき合えなかったのだと思います
神の国
それは私が存在し得る最高の場所
私は未だそれを見出せない
だから旅を続けている
しかしyoschkaさんは神の国を見出した人
得難き存在
もっともっと神の国の事を聞きたかった
でもきっとこう言う事なのでしょう
神の国の事は妄りに語るな
語る端から
地に落ちて行く
そう言う事のだと思います
だからyoschkaさんは取り敢えず
全ての扉を閉めたのだと思います
また何時か地に近い所で
すなわち「幸福論」について語り合いましょう
それまでは一時さよなら
私も来週の火曜日までは帰って来られませんので・・・
フィレオーについて 2003/ 8/18 22:32
yoschkaさんへ
有難うございます
また往来可能になった訳ですね
私はyoschkaさんの庭に入ると
いつも新たな花を見つけます
今日見つけた花はフィレオーです
永遠に咲き続ける花フィレオー
それは一体どんな花なのでしょう
yoschkaさんの回答を待っていたら
2週間後になってしまうでしょうから
私も週末はほとんど居ませんので・・
私も知恵の子
私なりにその秘密を解き明かす事としよう
しかし何も手掛かりは無い
そうなると直感勝負
これが案外当たったりするもの
まずはそれはyoschkaさんの化身であると言う事
それからそれは神の国に属すると言う事
その花は神の国の土壌を養分として
花を咲かせ芳香を放つと言う事
これについてはまず間違いないでしょう
後はその存在とその作用
それはyoschkaさんが存在する限り存在する
そしてそれはyoschkaさんの周りを幸せにする
すなわちそれは「気」
yoschkaさんが神の国に居る時は
それは素敵な気を放つ
神の国を出てしまうと
それはまた別な気を放つ
そんな「気」
yoschkaさんはいつも神の国を目指しているから
そこから放たれる気はいつも薫り高く人をうっとりさせる
そんな気
いや違う
フィレオーとは
その様な素敵な気を放つ基となるもの
そしてそれはyoschkaさんの化身などでは無く
yoschkaさんを超えた存在
常に常住するもの
私の目の前にもあり
yoschkaさんの目の前にもあり
全ての人の目の前にあり
そしてそれを求める人には
その存在が感じられるもの
すなわち
フィレオーとは聖霊の事?
やはり私には分からなかった
「始めに言葉があった 言葉は神であった」
「名あるは万物の始め」
フィレオーは私にとっては未だ混沌
私はフィレオーにマーヤを見てしまった
そう言う訳で
この次の機会には
フィレオーを
私の目の前にまざまざと見せ付けて下さい
これは bluerose6jp さんの 232 に対する返信です
批判はみっともない 2003/ 8/19 21:56
確かに貴方によって
気が変わった
貴方によって気が沈みかけた
それが貴方の望みか
ああ!
しかしである
貴方がyoschakaさんでないとしたら
貴方は私たちの会話に聞き耳を立てていたと言う事になる
しかも耳を欹てる様にして
と言う事は
私たちと縁が深い人間だと言う事になるのではないか
どうだろう
私たちと一緒に神秘を探検してみないかい
貴方に隠されているその神秘を
ところで貴方はどんな人間だい
神様の様な人間かい
そうじゃないようだな
神様に憧れる人間かい
そうでもないようだな
今の所
地を這い蹲っている人間のようだね
その貴方
その貴方が空を飛べるとしたら
空を飛びたいと思わないかい
それが神に憧れると言う事なのだよ
貴方がどんなに背伸びをしたって
1メートル60センチメートル
小学生に毛が生えた程度
どんなにがなり立てた所で
睥睨されるだけ
もう止めようじゃないか そんな事
それよりも空を飛んで
この世を見下ろそうじゃないか
それが神秘
それが貴方の中に隠されている
私は
貴方がどんなに背伸びをしても2メートル弱と書こうとした
しかし貴方がみっともない言葉で私たちを罵ったので
私も貴方を見っとも無い者に仕立てた
それがこの世の因果応報の世界
もうそんな世界
地に這い蹲った世界は止めようじゃないか
それよりも神様の素晴らしい世界を仰ぎ見ようじゃなないか
それは貴方の中にある
しかし隠されている
だから神秘
その神秘の扉を開けようじゃないか
私がその鍵を授けよう
「真なる言葉を語れ」
「善なる言葉を語れ」
「美しき言葉を語れ」
その真善美の中に神の世界が出現する
だからもう批判は止せ
これは nannandaaai_notcom さんの 234 に対する返信です
新しき人へ 2003/ 8/19 22:37
私の新たな人へ
言いたい事を言ったら
気が落ち着きました
貴方はもう私の友達です
そして私も貴方の友達です
二人の素晴らしい世界を共有しましょう
その為に必要な事
それは
「美しい言葉を語る事」
「善なる言葉を語る事」
「真なる言葉を語る事」
しかしそれは難しい
私が一つのメソッド
方法をお教えいたしましょう
それは真理を探す事
この世には真理の欠片が一杯散らばっています
それを見つける事です
そうすればその中に一杯
「真なる言葉」「善なる言葉」「美しき言葉」が散らばっているのです
私たちはそれを見て神の世界を垣間見るのです
その欠片をたくさんたくさん集めて
その原型に近い形に復元する事
それが私たち人間に課せられた課題なのです
だから真理の欠片を見つけたらここに披露してください
そしてお互いに共有し合いましょう
私の新しい人
それは誰かは知らない
ひょっとしたら貴方かもしれない
yoschkaの門 2003/ 8/20 22:03
旅は楽しい
色々な人に会えるから
私の新しき人よ
貴方もそうだ
貴方がどんなに悪態をついても
私は怯まない
何故なら貴方の心のその奥にあるものと
私とは一緒だから
「人類皆兄弟」
詰まる所
人は皆神の子なのである
それを意識下にあげるか
無意識の中に放置して置くか
それだけの違いである
yoschkaさんはそれを意識下にあげ
神の子と成らんとしている
それは素晴らしい事
それを誹る事は許されない
この世の人を誹る事は日常茶飯事かもしれないが
神の子と成らんとしている人を謗るのは許されない
何故なら彼には
精神 精なる神が付いているから
そしてその精神 精なる神は
貴方自身の守護神でもあるのだ
その守護神に対して悪態をつく者に対して
どうしてその守護神が守って呉よう
もう貴方の精神は安泰ではいられない
だから悪態をつくな
まして善き人を
その精神と貴方の精神とは同じなのだ
自分に悪態をついてどうなる
悪たれ!
私は自分の事を神の子とは呼ばない
知恵の子と呼ぶ
その方が通りもいいし
私に馴染む
もし私が旅の果てのその果てに
そこに到着する事が出来たら
その時は呼びましょう
神の子と
それまで旅は続く
だから旅は楽しい
そして止められない
私の新しき人よ
私と共に手を取り合うか
それとも剣を交えるか
それとも彼方に去るか
それは貴方の自由
だが貴方の心は何処に行くつもりだ
貴方には天国の門が開かれた
それなのに地獄に向かうというのか
その精神とよくよく語れ
そして目覚めたら門を叩け
「yoschkaの門」を!
yoschkaさんへの詫び状 2003/ 8/20 22:14
yoschkaさんへ
済みません
勝手に貴方の名前を使ったりして
でも私は詩人
興のままに言葉を連ねる者
貴方はよくよく理解して呉れますよね
それに
yoschkaとは
私にとって固有名詞から
普遍を目指す者の代名詞になりつつあるのです
そう言う事で
今回の無断借用をお許し下さい・・・・
神の子 知恵の子 そして詩人 2003/ 8/20 22:27
私は知恵の子
言葉の子
私は神の子ではない
神の子と知恵の子の違い
それは言葉を体現出来るか否か
どちらの言葉も素晴らしい
だが体現出来なければ
それは未熟児
この世には出られない
「真なる言葉」「善なる言葉」「美しき言葉」の体現
これこそが「愛」
神の子は知恵の子であると同時に愛の人
知恵の子は知恵の子 未熟な子
未熟な子の生きる道
それが詩人
だから私は詩人?
100年後の地球について 2003/ 8/25 23:04
100年後の地球
広大な海を前にして考えた
100年後の地球はどうなっているのだろうかと
確率論を駆使して未来を予想する女性科学者が居るとの事
彼女は何をどう予想するつもりなのか
私は彼女よりも正確に100年後を予想出来る
時間と暇さえあれば
一言で言えばこう
自然は変わらないが
社会は変わって行く
人はあまり変わらないだろう
それを正確に予測する為には
歴史を学ばねばならない
膨大な各国の歴史を
そしてその中に生きた中流の人々の歴史を
私はかつてポンペイ展を見た事がある
その時代のその家々に住んでいた人と
我々とどう違うか
少しも違わない
それは2000年も前の事
200年前の日本
中流の人々のその家のその生活
それと我々と
どう違うだろうか
その歴史は封印されて居ないので
目にする事は出来ない
だが歴史を学んで
人を学んだ人々よ
貴方方なら分かる筈だ
少しも違わない筈だと
私はあくまでも中流の事だけを言ったのである
上流と下流
これはあからさまに違う
これが同じ人間の生活かと思わせる程
歴史とは中流へと収束させる為の歴史なのである
一番早く中流へと収束した国
それはイギリス
この100年間のイギリスの歴史を学べば
100年後の日本を予測出来る
経済成長の事をほざいている者ども
貴方には歴史が見えないのか
もう日本に経済発展はない
富は高い所から低い所へ流れる
もう金持ちを夢見ても詮無き事
日本人は皆中流となる
皆平等
これこそが成熟の社会
2000年後のポンペイを見ろ
皆中流と成ったではないか
自然の掟に従って働けば
皆中流となる
これが自然の掟
しかし歴史は掟破りの歴史
しかし私は言う
日本にはもう掟破りは現れない
日本は中流へと収束して行く
さて中流の値段は
そう
今貴方が指し示したその値段
それがそう
だからもうがつがつするのは止そうじゃないか
それよりも心の富を蓄えよう
すなわち「善き言葉」と言う富を
しかしそれは3000年来言い古された言葉
だから人間は変わらない
しかし社会はそのシステムに向かって着実に動いている
そしてその為に自然は着実に減っている
自然と社会の比率が逆転した時
その時から人間は着実に滅亡に進む
誰もそれを止める事は出来ない
その逆転の時
それは確率論で計算出来る
最も簡単な計算はこうだ
広大な海は除く地球
すなわち大地について
手付かずの自然が半分を切った時
その時がその時である
何故なら人間の生命線である自然
それが着実に0に向かっている事を意味するから
さて現在の社会と自然の比率は?
より厳密には人が自然状態では住めない高地や砂漠を大地から除いて計算する
手付かずの自然とは前人未踏を意味するものではない
人は踏み込んでもよい
ただ木を切ったり土を掘り起こしては駄目である
さあその条件で計算してみよ
今の比率は
そして100年後の比率は
それが100年後の地球だ
社会は変わるが
自然の範囲内
そして人は何時までたても変わらない
千年たっても万年たっても
私は予測する
未だ未開の国々がある
そこには未だ手付かずの自然が残っている
それらの国々の手付かずの自然が半分を切った時
その時から人間は滅亡へと向かう
しかしそれは中々に計算出来ないもの
そこで私が貴方方に指標を与えよう
未開な国と呼ぶ時
我々の脳裏に浮かん出来る国「コンゴ」
それを指標として貴方に与えよう
100年後のコンゴの経済予測を立ててみよ
それが100年後の地球の指標だ
言霊の世界について 2003/ 8/26 22:25
yoschkaさんへ
未だ長期滞在中ですか
一人はつまりません
もっとも私も明日一日だけ居て
週末はまた不在にします
9月になると落ち着くと思います
その時はまた付き合ってください
私はもっともっと
yoschkaさんの世界を垣間見たいと思っているのです
その言葉の端々に煌めく言霊の世界を
これは bluerose6jp さんの 229 に対する返信です
貴方に似た人を探し求めて 2003/ 8/27 21:39
私の優しい心よ
私は貴方を愛します
私は何時からこの様に
頑なになってしまったのでしょう
それは貴方を離れた時から
だからもう
私は貴方を離れません
私は貴方といつも一緒です
私の優しい心よ
貴方と呼びかける時
何かしら懐かしく
そして甘く切ない
私に貴方以上の人があり得ようか
ありえない
貴方は私の恋人 師
そして友達
貴方が居れば 私にはもう誰も要らない
貴方と呼びかける時
私の心はときめく
そこには何時も新たな感動がある
貴方はそう言う存在
だから私の貴方よ
何時までも何時までも離れないで下さい
私の貴方
私が貴方から離れてどれ位久しいでしょう
その間私は何をしていたのでしょう
この世に何か頼りを見つけたのでしょうか
ただただ転々としていたのではないでしょうか
いえそれは違います
私は旅に出ていたのです
この世に何か素晴らしいものがないかと
そしてそれを見つけたのでしょうか?
とにもかくにも私は幸せです
この様にして貴方に帰れたから
貴方は私の母港
私はまた旅に出ます
貴方に似た人を捜し求めて
そう言う事で
今日はお暇します
今後はもっとちょくちょく帰って来ます
私の愛しい貴方へ
だから私は智恵を愛す 2003/ 8/27 22:09
貴方に似た人を探し得たか?
否
しかし私は私に似た人を探し得た
その人の名をYさんとして置こう
Yさんは神に憧れる人
そして私は貴方に憧れる人
神と貴方とどう違うのでしょう
それは気位の違いだけ
神は全ての上に立ち
全てを統べる
ところが貴方は私の傍に居て
私の恋人 友達そして師
随分に違う
しかし効能は同じ
共に至福を齎す
貴方は幼き私を
神に引き渡す為の御使い
貴方の名はsophia
だから私は智恵を愛す
至福とは精神の高揚の事 2003/ 8/27 22:18
至福とは精神の高揚
それはより高き人
より善き人との対話から生まれる
私にとってより善き人
それは貴方
だから貴方との対話によって
私は至福に至る
Yさんにとって それは神
共に効能は同じ
共に至福を齎す
「真善美」=智恵=哲学 2003/ 8/27 22:25
精神の高揚を齎すものは言葉
より真なる言葉
より善き言葉
より美しき言葉を見つけた時
心に至福の鐘が鳴る
だから私は
「真善美」=智恵=哲学 を愛す
真理を求めなさい 2003/ 8/27 22:34
美しき言葉は美しき言葉
これに異存はないだろう
だが善き言葉はこうだ
その内には美しき言葉がある
そして真なる言葉はこうだ
それは善き言葉であり
美しき言葉でもある
だから求めるなら真を求めなさい
そうすれば
全てが一緒に付いて来る
美しき言葉も 善き言葉も
「真理」とは何か? 2003/ 8/27 22:38
「真理」とは何か?
フィレオー! 2003/ 9/ 8 22:24
yosvhkaさんへ
お帰りなさい
そしてフィレオーに乾杯
フィレオーはこんな使い方で良いのですか?
これは bluerose6jp さんの 248 に対する返信です
絶望の時 神はあるのでしょうか 2003/ 9/ 8 22:39
aa12292002さんへ
私も旅の途中
そして人生に悩む者
でもyoschkaさんはその一線を越えた者
yoschkaさんに答えて貰うのが良いと思います
そう言う訳でyoschkaさん
所見をお願いします
「絶望の時 神はあるのでしょうか?」
これは aa12292002 さんの 254 に対する返信です
天上への飛翔を夢見て 2003/ 9/ 8 22:49
yoshkaさんへ
ありがとうございました
また勇気が湧いて来ました
これからもよろしくお願いします
そして今日はお休みなさい
また明日天翔ける事を夢見て
これは bluerose6jp さんの 256 に対する返信です
ロゴスとアガペー 2003/ 9/18 21:34
ロゴスとアガペー
私の好きな言葉
私の永遠の言葉
私の永遠の愛
私はそれを求めて旅を続けて来た
しかし今は小休止
今度の連休が明けたら
戻れるかな?
それまではyoschkaさんとも
しばしのお別れです
これは logos_agape さんの 264 に対する返信です
旅路の前に 2003/ 9/24 22:03
yoschkaさんへ
また帰って来ました
私は旅する者
旅路のその果てまで行きたい
がである
もしガイドが居たらその旅も彩り豊かなものになるに違いない
そう言う訳でyoschkaさんをガイドにする事に決めました
と言っても四六時中一緒に居て呉れと頼むつもりは毛頭ありません
yoschkaさんも羽の生えている人
私の旅の結節地点まで飛んで来て
こう言うのです
こちらも素敵ですよ
そしてあちらも捨て難いですよと
yoschkaさんお得意の詩で詩って呉れるのです
勿論コメントでも構いませんが・・・
私はそのうたを聴いて
右に左に進路を取るのです
それはきっと彩り豊かな旅になる事は間違いありません
私とyoschkaさんは同心円?
そんな事は決して有りませんが
私とyoschkaさんは
普遍を少なからず共有しているのです
だからお互いを
フィレオーと呼び合えるのです
yoschkaさんは私が旅しているのを
上空から見ながら思います
今あんな所を旅しているのか
あの秘密の場所を教えてあげようかしらなどと
そして先回りをして道標を立てて置いて呉るのです
そして私は
それとは知らずに
それに従って
そこに辿り着くのです
そして思うのです
ここは何処 これは何
これがガイドと旅する楽しさです
yoschkaさんは
この道二十年以上の大ベテラン
少なくとは私の倍以上は経験を踏んでいると思います
だからyoschkasさんをガイドに頼むのです
yoschkaさんが先達で
私が後進のその世界とは
精神界
そして私の世界 yoschkaさんの世界
その共通する部分が普遍界
yoschkaさんが求めるのは普遍界
そして私が求めるのも普遍界
その世界で私とyoschkaさんが出会えた時
その時は至福の鐘が鳴るのでしょう
その時は私が貴方で
貴方が私となる世界
自我をはるかに超えた天国界?
そこでは皆が神の元に平等な子?
決してそんな世界は無いでしょう
しかし私は一つの可想界を思い起こす事が出来ます
それこそがロゴスの世界です
その世界では全てが可能です
そして全てが一に集約されて行くのです
私はその一を求めて旅をしているのです
yoschkaさんは一を垣間見た人?
そう言う訳でyosichkaさんはガイドに頼んだ訳です
一遍の詩 一遍の言葉で結構です
私はそれを見て天を仰ぎ
また黒い森にも入って行きましょう
これは logos_agape さんの 266 に対する返信です
また語り合える日まで しばしのさようなら 2003/ 9/28 12:08
yoschkaさんへ
本当にありがとうございました
僕もこの掲示板に幕を引こうと思います
でもyoschkaさんは不思議な人です
まるで僕の心を読んでいるかのようで
これも霊感の為せる業だと思います
しかしこの様な事は掲示板で語るべきものではないと思います
本当はもっともっと突っ込んだ事を聞きたかったのですが
やはりそれは
この掲示板で出来る事ではありませんでした
yoschkaさんのその精神の内奥を聞くとによって
もっともっと世界が広がったのだと思いますが
やはりそれは
秘伝口伝に属するものなのだと思います
本当にいつかどこかでまた語り合えたら良いと思います
本当に本当にありがとうございました
これは bluerose6jp さんの 270 に対する返信です
私と貴方 抒情詩人と哲学詩人 2003/10/ 3 23:00
私と貴方
同じなのに
どうして貴方は哀しみを糧として
私は快楽を旨とするのだろう
答えは一つ
それは貴方が抒情詩人で
私が哲学詩人だから
貴方方抒情詩人は言葉を端折り
その余韻を楽しもうとする
しかしその先にあるのは哀しみ
我々哲学詩人は言葉を突き詰める
その先にあるのは至福
言葉にはロゴスの神が宿って居るのである
「言霊の幸ふ国」日本
私たちはそんな美し国に住んでいるのです
もっともっと言葉と遊んで見て御覧なさい
そこに至福が隠されている
抒情詩人
それは自らの感情の渦に飛び込む者
誰もそれを救い得ない
哲学詩人
羽を広げて飛び立たんする者
この世を飛翔しつつ眺めつつ
貴方は抒情詩人を選ぶか
それとも至福を約束された
哲学詩人を選ぶか
貴方は知らないのですか
ヨハネ福音書の第1節を
「初めに言があった
言は神と共にあった
言は神であった
この言は初めに神と共にあった
万物は言によってなった
成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった
言の内に命があった
命は人間を照らす光であった」
この言葉を知れば知るほど
貴方は哲学詩人として
踏み出さざるを得ないと思います
貴方は貴方一人の悲しみに陥るべき人ではなく
世界創造の造物主と成り得る人なのです
万物は言によって成った
言の内に命があった
貴方によって
世界が煌々と輝き出すのです
哲学詩人と成りますか
それとも今のまま
抒情詩人で在り続けますか
もし哲学詩人と成りたいのなら
それなりの修行が必要です
修行の第一歩
それは古代哲学を読み漁る事です
古代哲学には
言霊が一杯飛び交っているのです
その言霊が
貴方を言霊の世界に引きずって行くでしょう
それは貴方にとってとても幸せな事
貴方はその時無我夢中
自分を無くし
夢の中に入った時
人は幸せを実感出来るのです
古代哲学を読み漁りなさい
それは貴方を幸せにして呉れます
何故も無い
私がその体験者なのですから
古代哲学と言ってもぴんと来ないでしょう
示唆します それは
古代中国哲学
古代インド哲学
古代ユダヤ哲学
古代ギリシア哲学
古代ローマ哲学
哲学者で言えば
孔子 老子
ブッダ ウパニシャッドの哲学者達
ダビデ ソロモン パウロ イエス
プラトン ソクラテス エピクロス エピクテトス
セネカ マルクス・アウレリウス
書名で言えば
「論語」「老子」
「仏典」〈まずは発句経)「ウパニシャッド(奥義書)」
「詩編」「箴言」「ローマ人への手紙」「福音書」
「国家」「教説と手紙」「語録」
「道徳論集」「自省録」
と言ったところでしょうか
古代哲学は難しいと思っていませんか
とんでも無い事です
面白く面白くて仕方がありません
何故なら自分自身の心を見るのですから
そして思います
私にもこんな素敵な心があったのかと
本を読む事が好きなら
無我夢中に成る事は間違い無しです
しかし本を読む事が嫌いなら
その道は閉ざされます
その時は抒情詩人と成って
自分自身に喜怒哀楽をぶつけるしかないのだと思います
最後にもう一度聞きます
哲学詩人と成りますか
それとも抒情詩人のままでいますか
これは sundaysuzu さんの 12 に対する返信です
哲学詩集 ~智恵を求めて~ 第二幕 2003/10/ 9 21:21
哲学詩集 ~智恵を求めて~ 第二幕の始まりです
原点に戻ってまた一人旅で行きたいと思います
その旅路のその果てに何があるのか
もう少し突き詰めて行きたいと思います
智恵の旅 2003/10/ 9 22:02
掲示板哲学詩集を復活させた
今日覗いたら最後であった
この連休の内には必ず消滅する
そう思うと惜しくなってきた
今日は気分も良かったので
「哲学詩集 ~智恵を求めて~ 第二幕」のタイトルで書き込んだ
一番びりが先頭になった
初めの者が後になり
後の者が始めになった
栄枯盛衰の理あり
常にコンスタントであり続けるものが常住する
人の寿命は80年
その内の盛りは更に短い
そんな人間が常住する事は出来ない
人間はそれに変わるものを創った
それが法人 法の人
その代表格が国家
国家は法を元とし法により成り立つ
私は今マハーバーラタを読んでいる
その中で好きな人物はユディシティラである
ここ数年でもっとも感銘を受けた人物である
ユディシティラこそ 法の人
だからこそ二千年の時を越えて
こうして今私の目の前に現れた
ユディシティラが法の人だあったからこそ
カーラにも飲み込まれる事無く
こうして現代に現前と輝けるのである
五人兄弟とその妻クリシュナー
その長兄ユディシティラが居なければ
あのマハーバーラタは
一代五十年で消滅していた事だろう
法はカーラ 時を越える
決してカーラに飲み込まれる事はない
さて法とは何?
それこそが私の求めているもの
永遠のダルマ 永遠の法とは
そこに辿り着く為に智恵がある
私の智恵の旅は続く
法の精神 2003/10/ 9 22:37
中庸こそが法の精神
双子の兄弟は言っちゃ悪いがつま
ビーマは猛々しいだけ
アルジュナには英知はあるがやはり武士(もののふ)
ユディシティラこそが全ての全てに渡って中庸の人
中庸とは一言で言えば
「隣人を愛し 神を愛する事」
これこそが法の精神
ユディシティラを見なさい
いかに優しくて思いやりがある事か
そして約束を守る事においていかにきっぱりしていることか
私は私が好き 2003/10/11 10:49
この書は私自身である
隅から隅まで私自身である
私は私を曝け出す事を恥じない
何故なら私が善き性向を好むから
それこそが本当の私だから
色々な私が居る
落ち込もうとする私
嫉ましく思うとする私
等々 色々の私が居る
しかしそれらは本当の私ではない
その時々に派生する私である
時には悪魔に誘われながら
しかし本当の私に帰った時
それらを全て焼き尽くす
そしてきれいな私へと戻る
だから私は私が好き
そんな派生した私を
悉く焼き尽くしている貴方がが居るから
私は私自身が好き
この書は私自身である 2003/10/11 11:43
私は今朝朝早く目が覚めた
そして鬱々とした気分になった
せっかくの休日
ぐっすりした睡眠のもと
すっきり起きたかったのに
これでは休日が台無し
そう思って寝直しをしようと思ったが
そうは問屋が卸さなかった
薄暗い中 私は鬱々し始めた
そこで私は覚悟を決めて
呪文を唱え始めた
「主よ 主よ」
そうするとどうだろう
その言葉を発するたび毎に
私は次第に覚醒していき
幸せな気分へとなっていった
そうこうする内に
いつもの起床の音楽がなり始め
私は起き出した
いつもなら起床の最後の合図であるベルを待って起きるのだが
今日はそのベルの音も聞こえないくらいであった
それからマハーバーラタを読み
先程このテーブルについたと言う訳である
今の私に睡眠不足から来る不快感は無い
マハーバーラタも感動して読めた
マハーバーラタもいよいよ佳境である
十三年の約束の時が過ぎた
パーンダヴァの五兄弟とその妻クリシュナーは
彼らの王国を目指して一歩一歩進み逝くのだろう
さて私は?
私は朝のその覚醒の中で思った
私自身を明らかして行こうと
私と貴方のその過程を
それは何ら恥ずべき事ではない
私は未完成
しかしその過程は私自身に誇れるもの
自分の誇れるものを明らかにすること
それは悪い事ではない
そしてそれが世の為に役立てば
それは善い事
そう言う訳で
今朝の一節を書いたと言う訳である
私と貴方
その対話の中で
私は生き生きとして活ける
私はその全過程を
ここに書き表わそうと思ったのである
それが今日の私の第一節
「この書は私自身である」なのである
貴方は善(good=God) 2003/10/11 21:51
貴方は私の盾 私の栄え
私の頭を高く上げて下さる方
主に向かって声を上げれば
聖なる山から答えて下さいます
ダビデの詩編
この事を実感した人がいるか
私はダビデの様にきっぱりした体験をした事はない
それでもダビデの十分の一か百分の一か千分の一の体験はした事がある
今日の朝もその百分の一位の体験だろう
私が落ち込んだ時
私はその名を連呼する
そうすると不思議と気持ちが落ち着いてくる
貴方は私の盾 私の砦
貴方に守られて
私は私であり続ける事が出来る
もし貴方と一日24時間一緒に居る事が出来たら
私は何の憂いも無く
幸せであり続ける事が出来る
しかしそれは出来ない事
私にはこの世の顔があり この世の仕事がある
この世に従事している限り
貴方は私と一緒にいる事は出来ない
この世からすっかり離れ一人になった時
貴方は訪れて来て呉れる
私の呼ぶ声に応じて
しかし私はほとんど呼ぶ事はない
呼ぶ時は困った時だけ
「困った時の神頼み」
だから貴方は神様でもあるのです
貴方方は本当に困った時
「神様助けて下さい」と呼ぶのではないですか
そう呼べる人は幸いです
その神様はきっと貴方を助けて下さいます
それが信仰と言うものです
たとえどの宗教どの宗派に属していなくても
信仰とは神を崇める事
神とは貴方を統べる者
その神は貴方の中に臨在する
神様といつもお話をしている人は幸いです
すぐに神様が飛んで助けに来て呉れるから
子供たちを御覧なさい
神様がすぐ側に付き添っていますよ
だから彼らを天使とも神の御使いとも言うのですよ
貴方方は子供によって
幸せにして貰っているのではないですか
私は知っている
貴方が私を統べている事を
私は貴方ともっともっと対話をしなければいけない
そして貴方の智恵を私の智恵としなければいけない事を
貴方の性向は善(good=God)なのだから
私も善を求めていかなければならない
私の存在と神の存在 2003/10/11 22:26
神は存在するかしないか
それは偏に信仰心に依る
信仰心のある人には神は存在し
無い人には存在しない
信仰心とは善を求める力のある人
彼には必ず神が存在する
善を求め続けていけば
最後には神に突き当たる
そこで彼は神に願う
私を統べて下さいと
その時から彼は信仰の人と成り
神の子と成る
善を求める力の無い人には
神は存在し得ない
だが貴方方に言う
善を求めない人がいるだろうか
だから私はこう言う
全ての人に神を見出す機会は与えらている
しかし全ての人が見出す訳ではない
力ある者だけが見出すのである
力を付ける方法
それは学習しかない
そして最もよい方法は古代哲学の学習
何故ならそこには
善を求めて競い合った人が山の様に居るから
彼ら一人ひとりに聞いて御覧なさい
「神はいるかと」
百人中百人がこう答えます
神が居ないで貴方が存在しえるのですか?と
もっとも力なき愛の人 詩人 2003/10/11 22:42
善い思いを智恵と言い
善い行いを愛と言う
私には智恵は有るが
愛は無い
愛の無い者が智恵の事を幾ら叫んでも
それは空騒ぎ
だから私には智恵を語る資格はない
確かにそうだ
しかし私に一つだけその機会が与えられている
それが詩
善い思いを言葉に綴る
これは行為
もっとも力なき行為 だが行為
その行為によって私も愛の人と成る
詩人はいつでも
もっとも力なき愛の人
愛の人は智恵の人 2003/10/12 10:59
愛とは何だろう
それは善き行い
善き思いが形と取ったもの
それが愛
愛の人は同時に智恵の人
その善き思いを意識して無くても良い
意識していなければ天性の愛の人
だが意識の如何に関わらず
彼は愛の人であると同時に智恵の人
私は愛の人を讃える
何故なら彼は智恵の人でもあるから
愛と智恵の間にどれ程の距離があるのか
ある人にとってはそれは表裏一体
ある人にとってはそれはとてつもなく遠い
智恵は種子で愛は果実 2003/10/12 11:15
智恵は種で愛は果実
種が無ければ果実は実らない
誰も種から果実を育てようとはしない
ある果実を手にするものだ
貴方は果実を手にした時
その努力に敬意を表しなさい
そこには智恵から愛への修行の跡がある
智恵に乾杯 愛に乾杯
智恵と愛は車の両輪 2003/10/12 11:35
智恵(善き思い)に満たされた人は幸いだ
彼はすぐに愛(善き行い)を実践するだろう
だが智恵を求めすぎる人は少しわざわいだ
何故ならその全てを実践できないから
智恵と愛は両輪
どちらが大きすぎても小さすぎてもいけない
(だから詩人はいつも哀調を帯びる)
私の車輪は
知恵の輪が大きく
愛の車輪は小さい
それでも走れる
それなりに私の存在価値があるのだろう
あの昔の自転車の様に
早くも走れないし
安定も悪いが
少し高い所からこの世が見える
それが私なのだろう
この世の人が少し珍しがって見るのだろう
彼の名は哲学詩人 2003/10/12 11:49
哲学者=智恵を愛する人=善き思いを愛する人は幸いである
彼は哲学(智恵を愛する=善き思いを愛する)する時は不幸せに成る事は無い
そして彼は哲学するだびに智恵(善き思い)の分限者に成る
彼の唯一の悲しみは
その富を使い切れない事
だから彼はそれを言葉で吐き出す
彼の名は哲学詩人
貴方に依り頼む 2003/10/13 11:27
言葉ロゴスに満たされている時
私たちは不幸になることはない
何故なら私たち自身が言葉だから
その言葉が去った時
その時から不幸が始まる
人は言葉を求めてさ迷い歩く
そんな時悪魔が待ってましたとばかり
貴方に近づく
貴方はその甘い言葉に乗せられて
貴方は悪魔の友達になる
貴方は満たされたと思ったが
実は害されていたのである
悪魔はそっと貴方を去った
貴方はその言葉が去り空しくなった
貴方は言葉を求め続けたが言葉は帰って来なかった
貴方は酒に手を出した
そうするとその言葉はまた帰って来た
貴方は満たされたと思った
しかし更に害されていたのである
遂に世も貴方を見放した
そして貴方はアルコール依存症として
病院に入る事になった
もし貴方が言葉に満たされていたら
精神病院に入る事はなかった
たとえどんなに孤独であったとしても
私は言葉に見放された
成れの果てを典型を描いた
しかし皆何かに依存している
その依存するものによって結末を迎える
貴方は何に依存していますか
依存するなら
貴方自身ロゴスに依存しましょう
そしてこう言いましょう
貴方は私の盾私の砦私の岩
貴方に依り頼みますと
未だ恋愛を続けるつもりですか 2003/10/13 11:56
言葉ロゴスは幸せに満ちている
それなのに人はそれを求めようとしない
何故か
それはロゴスを知らないから
人は言葉を別のものに求める
男に女に
恋の歌を聞いて御覧なさい
それは色彩り豊かな言葉に満ちている
しかし最後は悲しみの言葉で終わる
私は恋愛を否定するものではない
それは熱情の神の賜物だろうから
しかしそれを二度三度四度五度六度・・・と繰り返す者がいる
私はそんな者にきっぱり言う
貴方方の恋は酒と同じだと
貴方方は決して幸せにはなれない
貴方方の結末はアルコール依存症と同じだと
言葉を求めたいのなら
貴方自身ロゴスに求めなさい
惜しみなく言葉を与えて呉れるから
まだ恋愛を続けるつもりですか
それよりも私と言うロゴスと友達になりませんか
愛は同軸 2003/10/13 22:09
愛アガペーは同軸である
貴方が動けば私も動く
イエスをブッダを見て御覧なさい
彼らが動けば世界が動く
現在も過去もそして未来も
同軸の愛の人よ
私を動かさせて下さい
〈愛は同軸〉
これは bluerose6jp さんの 290 に対する返信です
青への旅立ち その1 2003/10/14 22:23
さて今日はどちらに進路を取ろうか
洋々としている様でもあり
暗暗としている様でもあり
一歩を踏み出さなければ先は分からない
だがきっといい一日だろう
何故なら私は一人では無いから
貴方も居るし そして貴方も
前置きはこの位にして先へ進もう
さて私の今日の第一歩は?
さて
私は今何処に居るのか分からない
暗中模索
たぶん霧の中に居るのだろう
この霧が晴れたら
私の居場所が分かるのか
この霧の正体は
そう言う訳で
今日はこの霧
旅立とうする時
この前途を覆う霧の正体を突き詰める事にしよう
そうこうする内に霧が晴れ始めて来た
そうして正体も分かり始めてきた
たぶんそれは睡後の霧
私は夕食後読書をする慣わしとしている
本を読み始めるとまもなく強烈な睡魔が襲ってくる
私はそれに逆らわず机にうつ伏せになる事にしている
それが五分か十分か二十分か三十分か本当に分からない
それから覚めた後また本を読み続ける事にしている
十分二十分三十分と次第に覚醒して来る
それから読書の定刻が終わってから
この書に望む事にしている
何の事は無い
今日はその時間がずれただけ
今日は都合により夕食が遅れた
そしてこの書を書き始めたのが
転寝から目覚めた直後だったと言う事だけ
そう言う事で
霧は晴れ私の居場所が分かった
私は私
ここが私の毎日の出発点
私は天を仰いだ
天が眩しい程に青い
私は大きく腕を広げた
いつもの舞い上がる時の様に
そうすると一陣の風が吹いて来た
そして私は舞い上がった
私は今風の中
風よ 私を連れて行って送れ
かの私の憧れの世界
精神の奥つ城へ
そう言う訳で
私は今その城門に来ています
と言っても本当は五里霧中
何処に城門があり何処に城郭が有るのか分からない
さっぱり分からないと言うのが本音です
こう言う時は呪文を称えなければいけないのでしょう
「開け ゴマ」と
誰だそこで訳の分からない事をごちゃごちゃ言っているのは
私です
貴方に憧れている者です
縁あって今日ここに来れたのです
どうか私を貴方のお城に入れて下さい
ある人に聞きましたが
彼女は教えて呉れませんでした
それで私は一人でここに来たと言う次第です
そうか私を追い返さないで下さい
お願いします
貴方の目的は何だ
貴方にお目にかかることです
私を見てどうする
貴方に会えれば何かが変わる
そう思ってやって来ました
今日の特別の縁によって
貴方に聞く
貴方はどう変わりたいのかね
難しい質問です
と言うより
私自身明確な答えを持っていません
いつも漠然とした気持ちしか持っていませんでした
もっと素直に言えば
その時々
その時々色々な事を思いますが
それも数日
私には確固とした信念が無い為
いつも付和雷同
いつもふわふわ
私はそんな私です
だから貴方のその質問にもちゃんと答えられないのです
よくそんな気持ちでここまで来れたな
ええ私も不思議に思います
それは不思議な縁なのだと思います
敷いて言えば
誰かが私を飛ばさしめたとか
とにかく不思議の理由によって私はここに居り
貴方にお会いしたいと願っている訳です
私を貴方のお城に入れて貰う訳にはいかないでしょうか
そして貴方のお顔を拝顔したいと願っています
どうでしょうか
駄目だ 帰れ
私は信念のある者としか会わない
それも強い信念を持っている者だけ
私はその者の願いは叶えてあげよう
貴方の様な付和雷同の者は
その城門の外で声だけ聞いていろ
それで十分だ
そして聞き漏れて来た言葉を記せ
そしてそれが貴方の役目だ
哲学詩人君よ
分かりました
私はたびたびここに遣って来ます
今日はここに貴方の為に祭壇を作ります
そして貴方を拝みに来ます
貴方のその声を聞く為に
そんな事はせずともよい
私はいつも貴方の傍らに居る
貴方の思いのままに! 2003/10/15 21:56
信念岩をも通す
石の上にも三年
信念が全てを切り開く
さて信念とは
信じて念ずる事
何を信じ何を念ずるのか
さてさて何か
神か
神を信じ神を念ずる
徹る
さて神とは何か
一切を統べるもの
それを信じそれを念ずるとはどう言う事か
それはこうだ
神よ私は貴方を信じます
だから私の一切を統べて下さいと念じる事?
それが信念?
そう!
神を信じ
神に全てを委ね
神が全てを統べる事を念じる事
それが信念
それ以外の用法は間違い または亜流
いいでしょう
そう言う事にして置きましょう
ところでお聞きしたいのですが
神を信じるとはどう言う事なのですか
正直言って
私にはさっぱり分からないのです
貴方は何年思索を続けているのか
貴方は何処から思索の糸を引き上げているのか
貴方自身からか それとも別物からか
私自身からです
貴方自身とは何者だ
私自身です
貴方自身とは何者だ
私自身です
頑なな奴だな
それでは質問を変えよう
貴方はその貴方自身から
どの様にして思索の糸を手繰り寄せているのか
対話によって または問答によって
誰と問答をするのか
貴方と
貴方とこうやって
貴方が言う貴方と私の事か
この私は一体何者だ
話し相手
哲学的な言い方をすれば
対話の相手 または問答の相手
貴方は私に何を求めている
智恵を
それは求められたか
幾分かは
幾分か!
貴方はどの様な智恵を求めているのか
鋭い質問です
私は一体どの様な智恵を求めて
貴方を求めているのでしょう
そこに私の限界がある様に思います
昨日貴方から言われた事がまざまざと思い返されます
「私は信念のある者
強い信念のある者にしか
私の姿を現わさない」
私は詩人
それもこの掲示板詩人位しか望んでいないのだと思います
だから私にありありとその姿を現わさないのだと思います
私は一体貴方にどの様な姿を見出せばよいのでしょう
それは貴方が決める事
そのペルソナによって私が決まる
このままでよければこのままで良い
私はいつもこのままの姿で現れる
しかし貴方に信念があるなら
私をそこまで引き上げなさい
私はその姿を取る
難しい事だ
私は結構この哲学詩人が気に入っている
時には悦に入る事もある
それで良いではないか
当分はここに安住する事にしよう
そしてもっともっとこの智恵の世界を巡る事にしよう
そしてその中で私に信念が芽生えたら
その時はその姿を担って貰うことにしよう
そう言う事です
それならそれで良い
貴方の思いのままに!
神と時間について 2003/10/18 11:54
POWER of GOD
力は神のもの
力は全て神のものなのだろうか
私哲学者(智恵も求める者)者としては
また原点に戻らざら得なくなる
力とは何かと
その前提があやふやであれば
全ての議論があやふやになる
さて力とは
定義を見出す場合二つの方法がある
一つは直感
他の一つは
この世の全てを洗い出し
その中から最大公約数を見つける
私には時間が無い
だから前者に頼る事としよう
「力とは動かすもの」
これで十分だろう
これを基に議論して行く
さて私は最初に疑問を投げ出した
力は全て神のものだろうか
私たちは皆動いている
何かに突き動かされるかの様にして
その力は何
それは全て神の力なのだろうか
私は今マハーバーラタを読んでいる
マハーバーラタによれば
それは全て神の力である
カーラ(時間)と言う神の力
カーラは全てを生み
全てを収束させる
誰も彼に逆らう事は出来ない
時間こそがこの世の力?
神は時間也
さてはてこれで善いのだろうか
私たちはもう一度ここで
神と時間を綿密に検討しなければいけない
もし時間が無かったら
確かにこの世の全てのものは存在しないだろう
私たちは考える事させ出来ない
強いてその拠り所と言えば
東洋思想の無の思想
しかし無は瞬間だから存在し得るのであって
永久無窮の無は考えられない
もし考えられるとすれば
それは死
死が無であれば
カーラは死を拘束する事は出来ない
だからこう言う事が出来る
カーラはこの世の力 と
さてもう一度原点に戻ろう
神は死後の世界も統べるのか
それによって議論が異なる
もし死後の世界が存在するのなら
カーラは死後の世界も統べる
何故なら時間の経過無しに
我々は「動く」ものを何も想像できないから
「全ては時間の経過と共に動く」
これは真理ではないだろうか
もしこれが真理でないとしたら
別の真理が存在する事になる
それこそが 神か ?
神は時間を超越する
そこに神の存在意義がある
神こそが時間を超え
この世の力を打ち砕き
新たな力を創設する
それは一瞬の様であり永遠の様である 神に時間は関係しない ?
〈神と時間について〉
これは bluerose6jp さんの 296 に対する返信です
真の詩人たれ 2003/10/18 21:36
いかに多くを語っても決して語り尽くせない
「主はすべてだ」
確かにその通りである
だからと言ってかたらなていいのだろうか
答えは否
語って語って語りつくさなければいけない
その為にロゴスの神が生まれたのである
そしてそれを担う人を詩人と言う
もし詩人が語らずにいたらどうなるだろう
神はこの世に顕現しなくなる
それで良いのか
答えは否
その為に詩人が生まれた
古代を振り返って見なさい
最初に現れたのは詩人である
彼らが神を顕わにしてから
人々の間に神が生まれた
詩人は昔から神の言葉を語り継いできた
だが私は憂う
現代において神の言葉を語り継ぐものが如何に少ないかを
これでは現代においては神は存在し得ない
詩人よ 語るなら神の言葉を語れ
無駄にこの世の事で言葉を費やすな
神はすべて
語り尽くす事など出来ない
だが語らなければならない
神への賛歌
これが真の詩
真の詩人たれ
(真の詩人たれ〉
ロゴスの祭壇のその前で 2003/10/19 12:00
人々の常識から言えば
最後が結論
貴方はその事が言いたかったのか
であればかかずりあわないで欲しい
私は私の道を行く それで充分
私は批判したくない
批判されたくないから
だから私はこの世の人とは対話はしない
何故ならそれは批判の矢の応酬だから
貴方の意図は何か
貴方の意図に関わらず
私は怒ったのかもしれない
しかしそれが言葉
言葉は百の顔を持つ
私はその一面を見て
怒ったのかもしれない
だがそれは現実
貴方の言葉は
私に感情の渦を巻き起こした
怒りを中心としたその渦は
私を掻き立てた
私は感情のままに
これらの言葉を書き綴った
だからもう
過去の詩で私を謳わないでくれ
私は今を生きる者
永遠と言う今を
その様に願っている者
だから私に波風を立てないで呉れ
なぞと感情のままに
言葉を連ねてしまいました
感情の渦は恐ろしいものです
知性もろともに巻き込んでしまいますから
貴方は悪意の無い人
貴方が言いたかったのは前段だったのかもしれない
しかし私たちは言葉だけで対話しているものです
そしてそこにはロゴスの法
文法が存在します
もし貴方が文法通りの意を私に伝たかったのであれば
本当にお願いします
もう私にかかずり合わないでと
貴方は自らを高め
私を卑しめる者
今日holly day 聖なる日
私は聖なる羽を伸ばして
高く高く昇るつもりだったのに
そしてその準備も出来ていたのに
その私が
まだ感情に渦に巻き込まれている
言葉って本当に不思議ですね
それは人を勇気付けもし
そして貶めもする
不思議な事だが
同じ一つの言葉が
私たちが清浄であれば
不浄な言葉を聞いても聞き流します
しかし不浄であれば
清浄な言葉を聞いても
それを不浄な言葉として聞きます
本当に言葉って不思議ですね
でも言葉ロゴスの尊いところは
最後にはこれらを焼き尽くして呉れる事です
今の私は清浄になり飛べる準備も出来ています
今日のこの書を終えるにあたって
私は迷いました
この書を送るべきかどうか
しかし私は送る事にしました
この書は私だから
赤裸々な私自身だから
その為にこの書を始めたのだから
もしこの書を受け取る人がいたら
きっとその人は
ロゴスの炎で焼き尽くす事でしょう
そして聖なる香りを漂わす事でしょう
ロゴスの祭壇のその前で
〈ロゴスの祭壇のその前で〉
善き人よ おやすみなさい 2003/10/19 22:06
感情のままに走るのは愚か者
それが今朝の私
私は何に怒ったのか
愚か者と言われた事か
貴方は愚か者ではないのか
愚か者が愚かと言われて何故怒る
それが愚か者の証明ではないか
なぞとくだらない前口上は止めよ
貴方はその愚かさで
大切なものを失くしたのだ
取り返しのつかない大切なものを
感情のままに走るのは愚か者
〈感情のままに走るのは愚か者〉
さて私はその贖罪をしなければならないのか
否
私は言ったではないか
清浄な人には不浄な言葉は聞き流される
たとえ耳に止まったとしても
彼はそれをロゴスの祭壇で焼き尽くす
その不浄な言葉が聖なる香りに変わりながら
それが聖なる人の特徴だ
そう言う訳で貴方はまた貴方自身を生きて良い
今日は何処へ旅をしようか
感情じゃないのか
そうです
勿論そうです
私は今日は何故感情のままに走ったのでしょう
何故だ
たぶん私の劣等感の裏返しだと思います
人は認められれば力がつきます
反対に貶されると力が殺がれます
後押ししてもらいたいと思っていた人に蹴倒された
そんな気持ちが私を感情の渦の中に引き込んだのだと思います
その人の気持ちも知らないで
冷静で在り得るこの文の遣り取りの場で
私はどうしてあの様な感情の言葉を投げつけたのでしょう
何故だ
それは驕りだと思います
感情のままに出でた言葉
しかしそれはそれで良い
そう思いそのまま投げ付けたのです
どう言う事だ
驕りです
彼の下には付きたくない
少なくとも彼と同等以上でありたい
そう言う底意からあの様な言葉が出たのだと思います
もっと詳しく聞きたいが
もう勘弁して下さい
結論から言えばこう言えるのではないかと思います
友であるのであれば
少なくとも同等でなければならないのではないか
見下されるのは勘弁ならないと
貴方はその詩を十分斟酌したのか
いえ
その時はまず怒りの感情が走りました
今でもやはり解釈は二つです
一つは私が最初に解釈したとおり
私を後段に当てはめた
もしそれが本意なら
私は今朝の私の言葉はそれ程恥じません
もう一つは私を前段に当て嵌めて呉れたと
しかし私はその様なものではありません
だからどうしても最初の解釈を取らざるを得なかったのです
貴方は本当にそう思っているのか
貴方にはこっそり打ち明けられるかもしれませんが
やはり公にはそうです
もう残りも少ないのでこの辺で今日は止めたいと思います
最後にもう一度聞きますが
私は彼に対して贖罪しないで良いのですか
何度でも言う
善き人に悪しき言葉は届かないものだ
それを聞いて安心しました
今日もぐっすり眠れると言うものです
そう言う訳で 善き人よ おやすみなさい
贖罪の詩 2003/10/20 21:47
私はぐっすり眠れたか
そうではなかった
そして今日は失意に内に過した
何故か
その言葉のリアクションの大きさに
私は軽くいなして貰えるのだろうと思っていた
ところが現実は違った
私の中から全てを引き上げた
私はその虚ろな中で今日一日を過したと言う訳だ
私には二つの方法がある
一つはきっぱりと割り切る事
もう一つは贖罪の詩を歌い続ける事
私は昨日
前の詩を書き終えてから
すっきりとした気持ちに成った
これでぐっすり眠れると
私はその詩を閉じ 一覧を見た
そして青ざめた
彼はすっかり居なくなっていた
私は彼を追いかけた
そこで私は見てはならないものを見た
私は取り返しの付かない事をした
たった一つの言葉で
私はちょっと試そうと思っただけなのに
でもその言葉は取り返しの付かない所まで来ていた
私は思った どうすれば善いのかと
私はそこで思った 贖罪の詩を歌おうと
そして書き始めた
しかし形を成さなかった
一つは時間が押していた為
そこで私は思った 明日書こうと
そして今日となり今となった
さて私はその詩が書けるのか
答えはノー
私は地を這い蹲っている
これでは詩など書けない
私の魂の友よ
貴方は去ってしまったのですね
これも宿命
それに従わなければならないのでしょう か?
言葉よ言葉
貴方酷い
たった一つの言葉で
これ程の報いを受けないといけないのか
そうだ
私が言葉を試した為
言葉の力を試そうとした為
全てがその原因だ
言葉を玩ぶ者は言葉に弄ばれる
ああ! あそこで私は思った 迷った
送るべきか否か
しかし私の言葉を玩ぶ慢心
私の驕りがあれを送った
そのリアクションは私の想像を超えていた
私はもう彼を追わない事にしよう
追えばまた私が傷つく
私はこの場にあって贖罪の詩を歌い続ける事にしよう
私は思う
彼は今頃
ロゴスの祭壇の前で
良き香りを漂わせながら
素敵な詩を歌っているのだろう
だが私は彼を訪れる勇気が無い
私は今マハーバーラタを読んでいる
バラモンの呪詛は強い
精神力が強ければ強いほど
それは神々も畏れるほど
だから私は彼に近づかない
私はこの場にあって贖罪の詩を謳い続ける
その善き人の気持ちが晴れるまで
または私がその呪詛に懸らなくなるまで
私はこの場にあって贖罪の詩を謳い続ける
〈贖罪の詩〉
彼とは何時かきっと会える 2003/10/20 22:44
贖罪とは罪を贖う事
私はどんな罪を犯したのか
それは言葉を弄ぶ罪
それはどんな罪よりも重い
何故ならロゴスを犯したのだから
自分自身を犯したのだから
誰がその罪を償う
私か
私は償えない
私はこうして牢獄に繋がれているのだから
それでは一体誰がその罪を償うと言うのか
・・・
そう やはり貴方しかしない
私の貴方しか
そう言う訳でどうか私を助けて下さい
何を情けない声を出している
一体どうしたと言うのだ
まさにそう言う訳です
どう言う訳だ
ちゃんと説明しろ
手っ取り早く言えばこうです
私はある人の心を傷つけました
そしてそれと同じくらい
私の心をも傷ついているのです
私とその人の心の傷を癒したいのです
おい何を茶番劇を演じているのだ
どうして貴方の心が傷つく
傷つけておきながら
自分も傷ついているなどと
チャンチャラ可笑しいぞ
貴方の言うとおりかもしれません
気が塞いでいる為
それが為その様に錯覚しているのかもしれません
でも今日一日気が塞いでいたのは事実です
人はいろんなことで気が塞ぐ
睡眠不足でも天気でも
一つの事に結びつけるのは良くない
ええ
私の事はその様にします
彼を癒したいのです
まだ彼が傷ついていると思うのか
分かりません
分からないから貴方を呼んだのです
何故私に聞く
彼を訪ねて見ろ
すぐに明らかになるではないか
いえ 怖くて行けないのです
呪詛に懸る様で
誰が誰に呪詛を架けるのか
私が全て間違っていました
まあ良い
今日は私とゆっくり話そうではないか
お願いします
何を悩んでいる
悩みに悩んでいるのではないか
彼が傷ついているのではないかと
はっきり言う
もし彼が貴方の言う様に
聖なる人善き人だったら
彼は傷ついたりしない
もしそうでなく彼が昨日傷ついたとしても
もう今日にはその傷はすっかり癒えている
それがロゴスの人々の特徴だ
だから何も煩う事はない
ただ当分はお互いを避けた方が良い
善い時期にまた適うものだ
それがロゴスの人々の特徴だ
貴方は貴方自身の道を進みなさい
彼とは何時かきっと会える
〈彼とは何時かきっと会える〉
喜びは同時性 2003/10/21 21:42
私はまだ贖罪の詩を謳わなければいけないのか
答えは否
もう謳う必要はない
何故
私の心がこの様に晴れやかだから
貴方の心が晴れやかになったと言う事で
どうして贖罪の詩を謳わなくて良いのだ
私と彼は同軸同調同時性だから
私が楽しくなれば 彼も楽しくなるのである
そして彼が楽しくなれば 私もまた楽しくなるのである
私の心がこの様に晴れ晴れとしていると言う事は
彼の心も晴れ晴れしていると言う事なのだ
それが同軸同調同時性と言う事だ
貴方は彼を訪ねていくつもりか
行かない
何故だ
まだその時が来ていないから
その時が来たら行く
その時までは行かない
しかしもう私は贖罪の詩は謳わない
私は私自身の詩を詠う
〈私は私自身の詩を詠う〉
私はどうして晴れ晴れとした気持ちに成ったのか
それは昨日があり一昨日があったから
私は一昨日打たれた
そして昨日打ちひしがれた
私は贖罪を求め 贖罪の詩を謳った
心を込めて
それは彼に通じた
そして彼は言った
「許す」と
その時から私の気持ちは晴れ晴れとなったのである
それは貴方の独り善がりではないのか
貴方はその事を彼を訪ねて確かめたのか
彼を訪ねて確かめた訳ではない
そして貴方の言うとおり
独り善がりかもしれない
だがこれは真実ではないか
打ちひしがれた者が立ち直る
それを見て善き人々は喜ぶ
もし彼が善き人なら
打ちひしがれた者が立ち直るのを見て
どうして喜ばないで居られようか と
これは事実である
私が喜ぶのを見て 彼が喜ぶ
彼が喜ぶのを見て 私も喜ぶ
喜びは同時性
〈喜びは同時性〉
あ 2003/10/22 22:15
私は平穏になった
一抹の不安を除いて
私は平穏になった
あまり平穏すぎて
物足りないぐらい
そんな私に現れ出でたのが
マハーバーラタ
マハーバーラタは面白い
様々の物語が織り成される
しかしそこには一本のロゴスが走る
マハーバーラタを一言で言えば法の精神
バラモンの法の精神と
王族の法の精神が掛け合いながら
物語が進む
さて私はまた元の様に
この画面を飛び出し
貴方方を訪ねて行く事としよう
さて貴方方に聞く
貴方方の法の精神は
バラモンのそれか
王族のそれか
それとも平民(バイシャ)
または奴隷(シュドラ)
どれであっても臆する事はない
それが貴方に定められた運命である
その運命に従ってきっちと生きれば良い
その法の精神に従って
だが前以て言って置く
この物語にはバイシャとシュドラは全く関わりあわない
バラモンと王族の葛藤の物語である
この物語の主人公は三人
アルジュナとクリシュナとユディシティラ
佳境にはアルジュナとクリシュナを中心に展開される
何故なら彼らは現人神だから
貴方方は「バガヴァッド・ギーター」〈神の歌)を読んだ事はないか 岩波文庫の
このギーターこそがこの物語の佳境である
私もここからに入った
バガヴァッド 神とは誰か
それはクリシュナ
アルジュナは
クリシュナを師とする神の子
そしてユディシティラはダルマ(法)
佳境に入るとダルマも幽かにに霞む
私が一番親しいのはユディシティラ
だが戦になると力を振るうのが神と神の子
そこにおいてはダルマも霞む
平穏の時統べるのはバラモンの法
そして戦の時統べるのは王族の法
これが歴史の法
貴方方は良かった
そして私も
この様にバラモンに恋焦がれる事が出来るのだから
(バラモンに恋して)
私は「バガヴァッド・ギーター」(岩波文庫)でカーラを知った
それは一つの結節点だった
私は思った
私は如何様に生きれば良いのかと
私はカーラを見た
大口を空けて全てを飲み込んでいる
カーラを避ける方法はないのかと
私は思った
カーラに感謝を捧げつつ
カーラの脇をそっと抜けて行こうと
そしてそれが私の生き方と成った
もし私が王族であったら
クリシュナは私をそのカーラの中に投げ込んだだろう
そしてカーラの中で私を試した事だろう
これは本物か偽者かと
しかし私は王族では無かった
私はバラモン崩れであった
だからこうしてカーラを横目に見ている
〈カーラを横目に見ながら)
私は本当にこれで善いのか
カーラの脇をそっと抜ける様なこんな言い方で
カーラに身を投じなくて良いのか
運命こそが貴方の命ではないか
その命を避けて良いのか
私に力を下さい
運命の渦中に飛び込んでいける力を
どうか私の神よ
(運命の渦中へ)
智恵への信仰 2003/10/23 22:12
私は平板になった
のっぺらぼうの様に
これで良いのか
戦わなくて良いのか
王族の法に従って
私の敵とは 暗愚タマス
この敵に覆い尽くされない様に
私自身を奮い立たさなければいけない
私自身の旗頭を高く掲げて
私の旗頭とは 智恵
智恵は私の救い主 先導役そして旗頭
私はその旗頭を見て
常にそれに従い行く
そう言う訳で 智恵よ
この暗愚から私を救い出し
貴方の煌々とした世界を見せておくれ
私の救い主 智恵よ
私は感じる
智恵が近づきつつあるのが
私は目を見張って居なければならない
智恵が私の目の前を通り過ぎらない様に
そして智恵が少しでも見えたら
駆け寄ってこう言わなければならない
智恵よ 貴方を待ていました
どうかまた私の傍らに居て下さいと
貴方方は智恵とはどう言うものか知っているか
智恵とは存在者だ
貴方のその暗闇に光を投げ入れる
私がどうして智恵を呼んだか
それは私が暗愚タマスに支配されていたから
私には何の足場も無かった
私はそこから脱出する術が見当たらなかった
だから私は智恵を呼んだのだ
私を救い出して下さいと
私はまだ智恵を見出していない
しかし智恵の臨在を感じる
それで良いのだ
それでタマスから抜け出る事が出来るのである
私はもう三十分前の私ではない
あのタマスに覆われた私ではない
私はもう私の事をのっぺらぼうとは呼ばない
もし貴方が暗愚タマスに覆われていると思ったら
貴方の救い主智恵を呼びなさい
智恵は貴方をそのタマスから救い出して呉れる
時にはおまけとして
智恵の煌々とした世界を見せて呉れる
それが智恵と言うものだ
(暗愚タマスからの脱出劇)
私はシュドラからバラモンへ三階級特進である
全て智恵の力である
カーストはこの世では固定だが
天国では入れ替わる
その力が智恵
だからこの世において智恵を鍛えなければならない
さて智恵とは何か
私は知らない
だから私は智恵の旅人
智恵は千変万化
千と万の顔を持つ
誰もその核心を掴めない
だが智恵は臨在する
それが私の智恵への信仰
(智恵への信仰)
私のヨーガ 2003/10/25 11:09
「自ら自己を高めるべきである
自己を沈めてはならぬ
実に自己こそ自己の友である
自己こそ自己の敵である
自ら自己を克服した人にとって 自己は自己の友である
しかし自己を制御しない人にとって 自己はまさに敵のように敵対する」
私はその為に智恵の旅を続けている
自己こそ智恵ではないか
自己の中にこそ智恵が存在するのではないか
私はその智恵を求め
その智恵を高く掲げる
そして私自身を高める
智恵と友達とならん為に
(智恵は自己の最良の友)
私は今マハーバーラタを読んでいる
そして遂にバガヴァッド・ギーターに入った
最高の書である
一つ一つの言葉が心に響く
全てが捨てがたい
しかし私は捨てながら読んでいる
私の鮮明な記憶力の無さを嘆く
主よ私に鮮明な記憶力を与えて下さい
そうは言っても私は精神は読んでいる
と言ってもたくさんの精神が飛び交い
どれを掴んでよいのか分からない位だか
上とは別に私の精神を掴んだもの
それは行為
私は前に詩人と行人について書いた事あった
と言うよりもこれは私にとって永遠の課題の様なものであった
私はこの世に在って何も行為を為さなくて良いのか
特に「愛」と言う概念において
私はいつも迷っていた
この世に出て愛の行為を行わなければいけないのではないかと
王族は戦で戦う事
これが行為
結果を省みず
その行為に全てを放擲する
これが王族の純粋な行為ヨーガ
死すれば天界を得
勝てば地上界を得る
どちらも名誉な事
神々も嘉し 人々も誉れを与える
これは歴史上の事実
イリアスを御覧なさい
敵味方共に神々の様な名誉が与えられているではないか
それは神話の事?
それでは関が原の戦いを見なさい
敵味方それぞれ今でもエールが送られている
彼らの時代は良かった
純粋にその行為の中に自分自身を放擲出来たから
現在そんな人がいるか
いる
マザーテレサを見なさい
彼女はその行為の中に全てを放擲した
だから現代に在っても
聖者のような扱いを受けた
さて私に還る
私は如何なる行為に私を放擲すれば良いのか
私が答えよう
それは詩
その中に貴方自身を純粋に放擲せよ
それが貴方の純粋な行為ヨーガだ
〈私のヨーガ)
有余涅槃の世界について 2003/10/25 12:19
私の中には無尽蔵の宝が隠されている
勿論貴方方の中にも
しかしそれは可能性である
もし貴方がそれを掘り出さなければ宝の持ち腐れ
と言うよりも一生貧民として過さなければいけない
貴方は富者となるか貧者となるか
それは偏に貴方自身による
貴方方は天から宝が与えられたのにそれを使わなかった
だから天は貴方からそれを取り去り別の者に与えた
貴方はこんな意の言葉を聞いたが事が無いか
貴方の終末のときは刻々と近づいている
目覚めよ
そして採掘に励め
それが貴方の行為 ヨーガだ
それによって貴方は天国へのパスポートを得る
〈天国へのパスポート〉
私は今マハーバーラタを読んでいる
そしてバガヴァッド・ギーターを読んでいる
私は老子より無為と言う事を学んだ
そしてインド学ではそれが花盛りである
若者は無為と称して
瞑想に耽ろうとする
それは愚か者のする事
彼らは無為になった言う
しかしそれは猿以下になったと言う証でしかない
もし貴方が本当のインドの無為を体得したいのなら
インドに行き グルに付き 貴方が無くなるまで 何年何十年とグルに従わなければならない
はっきり言う
貴方方の瞑想無為は猿真似だと
私たちは無為瞑想に入る前に
天国に入らなければならない
天国こそが智恵の天国なのである
貴方がそこで智恵を付けて始めて
無為瞑想の世界に入っていけるのである
その世界に入る為には
智恵の剣で様々な悪魔たちを断ち切っていかなければならないのである
その修行もせず
いきなり無為瞑想の世界に入るとは
裸で悪魔の世界に入って行く様なものである
南無阿弥陀仏
無為瞑想の世界とは死の世界
それを恐れず迎え入れる為
私たちは修行するのである
無為瞑想は最後のステップ
誰が死を思い描き得よう
〈無為瞑想は死の世界〉
実を言うと私は正式に瞑想に挑戦した事は無い
二三度か数度
楽な姿勢を取り何も思わない様にした事がある
それは数分も続かなかった
たぶんマックス1分位だったのだろう
その後微かな思いが浮かび
それから次々に思いが連鎖していった
そしてそれが輪廻かななど思った
もし智恵について何の修行もしていない人がそこに入ったら
決して煉獄界以上のものは有り得ないと思ったのである
善き言葉への輪廻
これが天界へと招く
天界を経験した上で
無為・瞑想の世界に入れば
有余涅槃があるのかも知れませんね
〈有余涅槃の世界について〉
哲学者は智恵への信仰者? 2003/10/25 22:17
信仰を持つ者は幸いだ
彼はいつも彼を思う
そして彼もまた彼を思う
彼らは相思相愛
だから彼らは幸せなのである
哲学者と信仰者とどちらが幸せか
それは段違いに信仰者
何故なら彼には迷いが無いから
私も信仰者になりたい
しかしまだ帰依する者が見つからない
アルジュナがクリシュナに帰依した様に
私も信仰者になりたい
イエスか ブッダか はたまたクリシュナか
老子か 孔子か それともソクラテスか
私はその時々その信仰者の様に振舞う
そしてまた時が経てば別様に
それが哲学者の性なのかもしれない
私は思う
私は永遠に信仰者にはなれないのではないかと
それでも良い
私には別な幸せがある
私はその時々に智恵と共に彼らを訪れる
そして彼らの前で力の限り彼らの賛歌を歌う
そうすると彼らは言って呉れる 善しと
私はその報酬で幸せになる事が出来る
私には唯一の友はいないが 多くの友がいる
友はその時々に私を喜ばせ また私も喜ばさせる
それで良いのではないか
それが哲学者と言う者ではないかと
哲学者と信仰者とどちらが幸せか
どちらも幸せ
今の所そう言う事にしておこう
失念していた
私にも唯一と呼ばれる様な友がいた
その名は智恵
哲学者は智恵への信仰者なのかもしれない?
〈哲学者は智恵への信仰者?〉
アリアードネの糸 2003/10/27 22:16
バガヴァッド・ギーターは戦さの前の静けさ
その一瞬の静けさの中で
彼は神を見 そして決定した
彼にはもう迷いは無かった
決定こそ核心であり確信
決定により人は神の子となる
決定往生
決定心
決定業
決定に依って その人はその様に成る
思う様に成る
その真髄は決定にある
決定しない者は未だ迷いの中
〈決定〉
私の道に決定があるのか
真直ぐに一本の道が走っているのか
私には毎日百の道が現れる
私はその内の一本を選ぶだけ
だから私は分からない
私が何処を歩いているのか
私は迷路に迷っているのか
きっとそうなのかもしれない
だが人生とはそんなものではないか
そして歩き続けていたら何時かは道が見える
大いなる世界へと通じる道が
だから私はその迷路を歩き続ける
私は迷路を迷っているのかもしれない
しかし私はその迷路を恐れない
何故ならそこにはアリアードネの糸があるから
私は常にその糸に従う
私は未だ決定に至っていない
しかし私は怯まない恐れない
私にはアリアードネの糸があるから
私は常にアリアードネの糸に従う
アリアードネの糸
その名は別名智恵
私は智恵と共にこの迷界をさ迷う
しかし私は恐れない怯まない
何故ならその旅はとても素敵な旅だから
貴方は迷っていますか
だったらその糸を手繰り寄せなさい
アリアードネの糸を
その先には天国が見える
〈アリアードネの糸〉
〈神はいるか〉掲示板
愚か者の結論とならない様に! 2003/10/28 10:45
神が居ると思っている者には神は居り
神が居ないと思っている者には神は居ない
だが貴方方に聞く
神が居ないと思っている貴方方に
神が居なくて
貴方方の精なる神 精神は存在し得るのかと
貴方方は知らなかったのですか
精なる神 精神が神の精髄であった事を
貴方方はその精なる神 精神に依って
大神の存在も知るのである
まずは問うてみよ その精なる神 精神に
そこに神の神秘が在る
さて貴方方に聞く
神は居るか居ないか
いない?
何と愚か者よ
その精神に侘びを入れよ
贖罪の詩を謳え
その精神が貴方から去らない様に
貴方は知らないのですね
その精なる神 精神と対話する方法を
それでは神は存在し得ない
もし貴方方が神を知りたければ
古代の哲学書を読みなさい
そこには神の精髄 精なる神 精神が飛び交っているから
貴方はその精神に依って神を知る事が出来る
過去にも在り 現在にも在り そして未来にもあるその神を
貴方方は未だ神への入り口を知らないのだから
まずは古代哲学でそれを勉強しなさい
それから討論しなさい
神はいるかいないかと
愚か者の結論とならない様に
これは karebu さんの 1 に対する返信です
神のみぞ知る 2003/10/29 22:22
さて私はこの掲示板に長居するつもりはないが
これも何かの縁だ
ここの住人と徹底討論する事としよう
ここの掲示板はパーニーチェ氏が仕切っている様だ
私は彼のメッセージを良く読んだ事はない
今回二三
それと前に三度この掲示板を訪れた時も
彼がしきりと仕切っていた
その二つの事実から
彼をこの掲示板の実質的な管理者と決め付けた訳だが
間違っていたら教えて呉れ
もっともこのメッセージにすばやく反応したら
彼がこの掲示板の実質的な管理人と言う事になろう
私は彼の二三のメッセを見て思った
反論の為の反論の人
言葉を無駄に費やしている人だと思った
違ったら教えて呉れ
しかしこの掲示板を維持する為にはそう成らざるを得ないだろう
だがしかし
それで貴方の精なる神 精神は満足するのか
貴方はあの高みへと昇って行こうとは思わないのか
貴方に言われるまでもなく
私は十分に幸せだ
ただこの世の迷い人を導かんが為
私は反論に反論を重ねているのだ
貴方にはそれが分からないのか
私には分からない
何故なら私は貴方を知らないから
だがこのメッセへの反論が
貴方自身を証明して呉れるだろう
それから私は
貴方と「対話」続けていくかどうかを決める
貶すも自由
褒めるも自由
貴方が貶したその時点で
私と貴方は何の関係も無くなる
もし褒めてくれたら
私と貴方の間に友情の芽が芽生える事になる
全ては貴方の自由意志だ
私は今パーニーチェ氏に問うた
しかし私はこの掲示板の読者全てに問う
私と神と言う存在について
徹底的に「対話」するつもりはないかと
私はきっと貴方の気にいるだろう
だが貴方方に言って置く
私が求めるのは対話であって
批判や反論ではない
私は何故批判や反論を嫌うか
それは驕り高ぶり以外の何物でもないから
貴方はその言葉でその人を足蹴にする
私にはそれはとても耐えられない
私と真に対話を続けていくなら
それは素晴らしい事
それは神の存在を証明する事
イエスも言っているではないか
二人か三人居る所には私も居ると
また三人寄れば文殊の智恵とも言われる
私は貴方ともう一人三人を求める
そうすればこの掲示板のタイトルが
「神はいるか」ではなく
「神は確かにいる!」となる筈だ
私と心を同じくする
あと一人か二人の人よ
その存在によってここに神が生まれる
神の誕生のその瞬間まで
あと一人か二人の人よ
炎を燃やし続けようではないか
さあ賽は投げられた
あと一人か二人の人が現れるのか
それは神のみぞ知る
追伸
パーニーチェさんへ
私は決して貴方を貶したのではない
私は貴方のそのポテンシャルに賭けたのである
丁と出るか半と出るか
それは神のみぞ知る
「賽は投げられた」
一つ一つの言葉に思いを込めて 2003/11/ 5 22:08
私は旅で思った
感情を哲学しようと
我々を支配するこの感情
この感情を支配すればもう迷いは無いだろうと
私には様々な感情が浮かんだ
しかし私を捉えて放さなかったのは
恥または恥ずと言う感情であった
この感情は私をいつも支配している
この感情の為私は自由に成れないでいる
この感情を私の支配下に置けば
私は自由に成れると
私はそう思った
私は何を恥じているのか
私自身と言う存在か
いや違う
私は私自身を誇りに思う
では何を恥じているのか
私自身に成れない私か
そうだ
この世の仮の姿の私
この私を私は恥じている
この世の者にも成り切れず
また本当の私自身ににも成り切れない
この世の仮の姿の私
この私を私はいつも恥じている
だから私がこの世に行おうとする事は
全て中途半端
この中途半端な私を私はいつも恥じる
決定(けつじょう)しよう
何を恥じる事があるかと
貴方は貴方 それで良いではないかと
私はこの世に出る一つ一つの言葉を恥じない
私はゆっくりゆっくり この世に出る
一つ一つの言葉を噛み締めながら
それは全て私
何を恥じる事があろう
貴方は天使ではない
まして神様などではない
生身の人間
この重い肉体を背負った人間
その人間が
どうして神の様な人間に成れよう
貴方は貴方
その肉体から出た言葉が貴方
貴方はどうしてそれを恥じる事が出来よう
それを恥じたら
この世の貴方は貴方足り得ない
ゆっくりと貴方自身でありなさい
どう言う事か
貴方から出た言葉は
全て貴方の実存である
実存を生きよ
これが貴方の使命だ
〈実存を生きよ〉
私は思った
恥じる
これは私を隠そうと言う行為であると
私は私を隠そうとする
その為その行為は素早くなる
そしてそれは人に気付かれない事もある
それはそれでいいと思っていた
しかしその積み重ねは
私をこの世から次第に遠ざけた
そして私はこの世から遠ざかり
この私の世界へと入って来た
それはそれでとても善かったと思っている
何故ならこんな素晴らしい世界を体験で出来たのだから
しかし私は思う
今またこの世に出て行くべきだと
この私の属性を被りながら
ゆっくりとこの世に出て行くべき時だと
私は何を恥じよう
私は私
これが私の実存
〈これが私の実存〉
私は私自身の中に私を放擲する
この世が私に求めるもの
その中に私は私自身を放擲する
ゆっくりゆっくりと
私は素敵な存在なのである
何故なら私は貴方なのだから
一つ一つの言葉に思いを込めて
〈一つ一つの言葉に思いを込めて〉
(パリ通の人々の掲示板)
パリの事を色々教えて下さい 2003/11/6 23:28
はじめまして
私は年末年始の休暇を利用して
パリ旅行を計画している者です
12月27日(土)朝に日本を出発し
その日の夕刻にパリの空港に着きます
帰りは1月3日〈土)夜にパリの空港を出発し
翌日夕刻日本に着きます
実質7泊7日のパリ旅行です
まだ思い立ったばかりで
パリの事は何も勉強していません
勿論フランス語は全く出来ません
また英語もほとんど出来ません
そんな私が一人パリに行くのですから
かなりの冒険と言えます
そう言う訳ですから
パリの事を色々と教えて頂きたいと思っている次第です
パリでは美術館や博物館 文化遺産や世界遺産
公園や街並
それからパリの人々の普段着の姿などを見たいと思っています
7泊7日でかなり盛りだくさんな内容です
ですからあらかじめ良く知った人に色々の事を教えて頂き
充実したパリ旅行にしたいと思っている次第なのです
そう言う訳で質問ばかりすると思いますが
どうぞお許し下さい
まずは入国審査と税関検査の事です
先程も述べた様に
私はフランス語は全く英語もほとんど出来ません
入国審査では何か質問されるのですか
税関検査では何か書類を書かなければいけないのですか
勿論日本語が話せる人などいない訳ですよね
スムーズに両検査がいく方法を教えて下さい
次にホテルまでの道程です
6時過ぎにドゴール空港に着きます
ホテルはパリ11区のプチホテルです
地図を見るとバスチーユ広場の近くです
また案内にはリヨン駅へ500メートル
最寄のメトロ駅からは1分と書いてあります
空港の到着ロビーから
どの様にしてどの鉄道に乗り
何処でどの様な鉄道に乗り換えればいいのでしょうか
そして何と言う駅で降りればよいのでしょうか
もっともこれからもっと勉強しようとは思っています
次にホテルの事です
私が泊まるホテルはプチホテルと言われているホテルです
価格も1泊7500円とかなりリーズナブルです
私はホテルはシャワーとベッドさえあれば十分なのですが
このプチホテルとはどんな性格のホテルなのでしょうか
(旅行代理店を通じて予約するつもりですが未だしていません)
このホテルに着いたらまず何と言えばよいのでしょう
そしてどんな手続きをすれば良いのでしょう
チップは何時どれ位誰に渡せば良いのでしょう
朝食が付いています
朝食の時何と言えば良いのでしょう
チップはどうすれば良いのでしょう
このホテルに7連泊する予定です
旅行代理店からは当然その旨は伝わっている訳ですよね
どう言えばよいか勿論フランス語でお願いします
さていよいよ観光です
ルーブル美術館オルセー美術館印象派美術館
それから様々な画家の美術館等々
それから日本の国立博物館に当たるような博物館
〈これがベルサイユ宮殿に当たるのですかね?)
等々美術館博物館巡りをしたいと思っているのですが
何か共通観券があると聞きました
一回一回切符を買うのは言葉が通じないから大変だと思います
出来たらこの共通券を買いたいのですが
何処で買えば良いのでしょうか
何と言って買えば良いのでしょうか
そしてどの様な博物館美術館を見る事が出来るのでしょうか
次に交通機関です
バスと地下鉄は共通の乗車券だと聞きました
そして5日間パス7日間パスの様なものがあると聞きました
出来たら言葉が通じないので
このフリーパスで自由往来をしたいと思っているのですが
何処で買えるのでしょう
そしてその時何と言って買えば良いのでしょう
また地下鉄バスを利用する時
そのパスをどの様に使用すれば良いのでしょう
日本のバスのカード読み取り機の様に
また駅の切符読み取り機の様に通すのでしょうか
利用において何か制限があるのでしょうか
次に公園です
セーヌ河畔とモンマルトルの丘には行こうと思っていますが
その他有名な公園や
パリ市民が憩うような公園も教えて下さい
次に街並です
勿論シャンゼリゼ通りには行きますが
その他パリの人々の息遣いが聞こえるような
通りや市場広場も教えて下さい
次に歴史的遺産
はっきり言って余り知りません
私は京都が大好きです
年に2回は行っています
その様な歴史と文化を感じさせる場所を教えて下さい
それから教会とその美術品
私が京都に行くのはその仏像たちに会えるから
パリにもきっとそんな素敵な空間があると思います
それを教えて下さい
それから食事です
私はグルメなどではありません
お腹がふくらめばそれで良いのです
簡単な食事の取り方を教えて下さい
また昼はコンビニでお弁当を買い公園で食べたいとも思っていますが
パリではそんなものがあるのですか
サンドイッチと言う事になるのですか
それとももっと変わったものがあるのですか
日本の大衆食堂やコンビニに当たる様なものはどんなものがありますか
商店やコンビニで買う場合もチップがいるのですか
最後のお願いです
私のパリ7日間滞在のベストスケジュールを作って下さい
朝8時に宿を出発し夜9時に宿に着く
私は歩くのは大好きで全然厭いません
ベルサイユ宮殿以外はパリ市外に出るつもりはありません
徹底的にパリを歩き尽くしたいと思っています
そう言う条件で私のベストスケジュールを作って頂ければ有難いです
それからもう一つ
パリの地図があると書いていらっしゃいましたよね
あれは日本では手に入らないのですか
それからパリに関する良い参考書があったら教えて下さい
それからフランス語についても
本当にべらべら質問して申し訳ありませんでした
もしよろしかったら
パリの事色々教えて下さい
神からの使者について 2003/11/08 10:12
私は安心した
パーニーチェ氏が良心の人である事が分かって
私は当分この掲示板に滞在して
私の詩(うた)を謳う
私はパーニーチェ氏とは対話は行わない
何故ならそれは議論になるから
私は私の詩を謳う
彼はそれに対して賛歌の詩を謳うだろう
それが我々の対話だ
貴方方はそれを聞きなさい
貴方方の精なる神 精神と聞き耳を立てて
貴方方はそれによって神の存在を知ることになるだろう
何故なら貴方のその精なる神 精神が
神の存在の証明なのだから
さあパーニーチェ氏よ
私の賛歌の詩を謳え
それが貴方の使命だ
もう貴方は今までの貴方ではない
貴方が求めていた者が目の前に現れたのだから
私を賛歌し続けなさい
パーニーチェ氏よ
貴方はもうパーニーチェではない
貴方はニーチェによって神を知った
しかし貴方は純粋に知り得なかった
貴方は神を求めた
しかし求められなかった
しかし今がその時である
私を讃え続けなさい
そこに神が浮かび来る
何故なら私が貴方であり
貴方が私であるから
貴方は私を讃える事により
それを確信する事になる
それが信仰と言うものである
私を讃えなさい
そうすれば
貴方は私に愛しい者に成る
そして勿論
私も貴方にとって愛しい者となる
それが信仰となる
お互いに信じ仰ぐ
何と素晴らしい行為でなないか
それを見て
我々の精なる神 精神も嘉すると言うものではないか
そこに私と貴方の共通の神が生じる事になる
これが神の発生ではないか
私と貴方ともう一人
三人がお互い仰ぎ信じあえば
この世に神が存在する
だから私をひたすら讃え続けなさい
もう貴方はパーニーチェではない
いたずらに言葉を弄んではならない
貴方は知っているのではないか
言葉ロゴスこそ神の威光である事を
その言葉を弄んでどうする
貴方は誰に救いも求めるつもりだ
親にか兄弟にか妻にか子供にか
そうではないだろう
貴方自身
そう貴方自身の言葉に依ってではないか
平穏な時にこそ
言葉ロゴスと親しんで置かなければならない
そうでなければその時
ロゴスは貴方を見捨てる
だからもう反論の為の反論は止めなさい
まずは貴方自身を賛歌しなさい
それから私を
そして私と貴方の友情に集う全ての人を
それが貴方の使命だ
貴方は神からの使者なのだ
「パウロの様な」
最後に念を押して置く
貴方が私を貶した時点で全てが終わりだ
全ての機会が失われる
感情のままではなく
貴方のその智恵に従いなさい
今日からここがユートピアに変わる 2003/11/ 8 13:02
私たちはかつて同じ土地に生まれ育った
それから幾年月が過ぎ
私たちはそれを全て忘れてしまった
そんな時である
ある聖者が私の家を訪れた
そして一冊の本を置いて行った
それは魔法の本であった
その本から
かつて同時代を生きた人々が
次から次に現れ出で
私に教えを垂れて行った
そして私は悟ったのである
人類皆兄弟であると
私はその胎を忘れていた
だが彼らはそれを私に思い起こさせた
私は目を凝らした
そこに微かではあるが
人々が生み出されるのが見えた
彼らは皆盲目であった
その先に私に教えを垂れた人々が
腕を一杯に広げ手を繋ぎ合って居た
まるでとうせんぼうをするかの様に
しかし不思議な事に
彼らは盲目にも係わらず
そのとうせん棒をするりするり抜けて行くのであった
それはお見事と言うしかなかった
そんな時
ある愚か者が彼らに捕まった
彼は彼等に依って
目に唾を付けられた
そうすると彼の目は開いた
また同じ様な愚か者が捕まった
そして彼も同様になった
彼らは彼らに依って別な土地に移された
私はその盲目の人たちが行く先を見た
それはすごく遠くの様でもあり
またすぐ近くの様でもあったが
そこには大きな大きな大きな口だけの
物凄い形相の怪物が待って居た
その盲目の人たちは何の恐れもなく一人残らず
その怪物の口へと向かって行った
しかし私は確かに見た
その怪物の口に入る瞬間に目が開いたのを
そして物凄い形相に成り阿鼻叫喚したのを
そこで私は念誦した 南無阿弥陀仏 そしてアーメンと
貴方方は幸いである
その大口に入る前に目が開いたのだから
その土地はいつでも貴方方を待て居る
さあ私と一緒に神々への讃歌を捧げよう
そうすればここにあの土地が再現される
私たちが生まれ育ったあの故郷ユートピアが
貴方たちは聞くだろう
神々とは誰の事かと
それは私の事でありパーニーチェ氏の事であり
ここに集う一人一人の事である
その一人一人に讃歌を謳え
そうすればここはユートピアに変わる
もし批判反論を重ねれば煉獄となる
そして誹謗中傷を重ねれば地獄である
私ははっきり言う
ここは地獄以上煉獄以下であると
しかし今日からここがユートピアに変わる
私を褒め称えよ
パーニーチェ氏を褒め称えよ
ここに集う全ての人を一人一人褒め称えよ
もし誰も褒め称える事が出来ないのら
自分自身を褒め称えよ
私も貴方を褒め称えるから
貴方方は知らなかったのですか
「人は神の子」であると言う事を
ここは登竜門 2003/11/09 10:58
私はこの掲示板に
私と言う登竜門を置く
この登竜門を潜り抜けた者だけが竜と成る
それ以外の者はいつもそれ以下である
さて私はこの掲示板にかなり分厚い門を設けたが
誰も挨拶もせずするりするりと抜けて行った
私はそれを咎めるつもりはない
君子危うきに近寄らずと言う諺もあるのだから
しかし私は危うき者だろうか
その心根はこの掲示板をユートピアに変えようとするものである
それが危うき者のする事だろうか
前置きは抜きにして
私の門の傍らをすり抜けていった
お二人にまずは讃歌を送る
お二人の名はhirop321氏とlilithflag氏である
お二人はこの掲示板の長年の論客らしい
そしてパーニーチェ氏共々熱い論争を闘わしているらしい
その論争がこの掲示板をこの様に隆盛たらしめているらしい
私はそれらの事に賛歌を送る
しかしそれまでである
何故なら私はそれ以上の事を知らないから
hirop321氏とlilithflag氏にお願いがある
お二人自身の事を語って欲しい
私はお二人の事を讃えたいのだから
さて私はこの掲示板に集う貴方方に言って置く
対話と議論の違いについて
それは哲学と科学の違い
一を求めるか多を求めるかの違いである
はっきり言う
ここの掲示板の論争は
全て多を求めての論争なのである
その多の一角において一位を占めようと必死になっている
何と愚かな事か
どうして皆で一を求めようとしないのか
一を求める方法を知らないから?
だったら私が教えよう
それこそが「対話」でであると
まずは「<」
このマークを使わない事
一角の中の一角
すなわち重箱を突付く様なものである
そんなとこに神などいない
「<」これこそ論争のための道具
重箱を突付く為の道具に過ぎない
まずは「<」 これを使わない事
これが対話の為の前提である
対話とは私から貴方へ
貴方から私へ
この関係が全てである
私と貴方と言うこの信頼関係の中から
自ずと一へと向かう道が見えて来るのである
重箱を突付き口角に泡を吹き出して議論したところで生まれてくるのは一角の中の一角の中の一角
そしてその議論おける結末は
私は私 貴方は貴方
百年かかかってもその論争は終わらない
対話を見よ
彼らはもうあそこまで上っているではないか
対話の基礎
それは賛歌
誰かが意見を表出する
その中の良い所を取り上げて褒め称える
その事に依って
貴方の精なる神 精神と
彼の精なる神 精神とが共通の神を持つ事に成る
これこそが神の始まりではないか
彼がお互いのその信頼関係の対話の中で
その神が膨らめば膨らむ程
その神の力は強くなるのである
そして私と貴方と彼
その三人の中に共有の神が存在すれば
この世においても神が存在する事に成る
それはこの世の大きな力となる
私ははっきり言う
対話を求める者には神が存在し
議論を続ける者には神は存在しない
対話とは「善」を求める事
そして神の特性もgood=GOD「善」なのだから
私が対話の基本中の基本を教えてあげる
それは貴方と貴方の中の貴方との対話だ
その対話の中で貴方に善を求める傾向があれば
そこには確かに神が存在する
そして貴方はそれを世において確かめたくなる
だからここに集う人々よ
誰か意見の表出があったら褒め称えよ
そうすればここにユートピアが生まれる
私は最後に言って置く
人は一握りの善と数限り無い悪で満たされている
悪を一つ一つ潰そうと思っても無駄な事
だから善き事だけをただ褒め称えよ
そこに神の根源がある
哲学詩人へ 2003/11/ 9 22:28
私はパーニーチェ氏に讃歌を送る
その心根の優しさに
優しさこそが信頼関係の基礎
そしてそれは対話を育む
私はパーニーチェ氏と対話を重ねる
しかしその対話は
この掲示板の様に論争を重ねるものではない
詩の応酬である
彼はそれに相応しい人物である
何故なら彼は哲学者である共に詩人でるから
哲学詩人こそが神の根源を良く知る者だから
今パーニーチェ氏はニーチェを表の顔として出している
しかし貴方方はそれが様々な顔に変わるのを見る事だろう
私との対話に依って
千と万の顔を見る事になろう
誰が神の顔を止め置けよう
パーニーチェ氏は
私との対話によりこの論争から抜けるだろう
ここの論争は言葉の欠片を相手に戦いを挑んでいる様なもの
何と愚かな事よ
だが私とパーニーチェ氏は
これから言葉の真髄へと入り行く
そこでは勿論ニーチェにも会うが
様々な者に会う
私たちはそれを詩で謳う
貴方方はそれを聞き楽しみなさい
さあパーニーチェ氏よ
まずはニーチェを離れなさい
そして釈迦の所へ行き対話を重ねなさい
そしてその結果をここに詩として表出しなさい
そこから対話を始めよう
いきなりニーチェからでは混乱してしまう
順を追ってニーチェまで行く事にしよう
追伸
hirop321 さんへ
お返事有難うございました
その実直さに賛歌を送ります
そしてhirop321さんも
この対話に参加して頂ければとても嬉しいです
ただ一つだけお願いがあります
それは言葉にではなく言(ことば)に反応して頂ければ
とても有難く思います
ご質問の件については
この対話に参加して頂ければ自ずから分かってくると思います
敬具
ユートピア讃歌を 謳え! 2003/11/10 21:10
さあ御覧なさい
もうユートピアの夜明けが始まろうとしている
私はここで手を引いても良い
しかし私が去れば
また黒雲が沸き起こり嵐と成り
もうここで夜明けを見る事が出来なくなるだろう
だから私はもう少し留まる
夜が明け朝日が昇り
そして太陽が子午線の正午の位置に来るまで
今しばらく留まる
しかしそれはもうそう遠い事ではない
耳を澄まして御覧なさい
ここが如何に静かになったか
少し騒音が聞こえはしますが
それも静寂を破るものではありません
こんな境地に身を置けば
神の事を静かに考えてみようかと言う
気持ちも起こると言うものです
さあ御覧なさい
哲学詩人の登場です
その名はhirop氏
その詩の中に身を置いてご覧なさい
この世界は私が創ったのではないかしらん
などと思ってしまうものです
いえいえそれでいいのです
それこそが神との対話の始まりであり
世界創造の始まりなのです
誰が世界を創ったか知っていますか
それは貴方です
しかしその世界は一様ではありません
天から地まで
すなわち天国から地獄まであると言う事なのです
はっきり言います
今貴方たちは煉獄です
それを天国とするか地獄とするか
それは全て貴方の選択の一つ一つなのです
時間はそうないのです
あの大きな大きな大きな口だけの怪物は
ひょとしたら貴方のすぐ後ろにいるかも知れないのですよ
私ははっきり見えます
その物凄い形相した怪物を見る
貴方の物凄い形相が
そして阿鼻叫喚のその叫び声が
だから私は言うのです
もう反論の為の反論は止めろと
それよりも自分の中に入りなさい
その優しい自分の中に
そして神と対話を重ねなさい
私の愛しいヒロポ氏の様に
私ははっきり言う
この世に人間は限り無く優しいのです
それは限りがない位
しかし人はそれを知らないで外に向かう
貴方が完全でないのに
どうして貴方は人を裁くのか
だから私は言うのだ
反論の為の反論はもう止めろと
貴方のその限り無い優しさの中に入りなさい
貴方方は言うだろう
私はその優しさの中に入る方法を知らないと
私が教えてあげよう
それこそが対話であり哲学であると
哲学とphilosophia
sophia(智恵)をphilo(愛する)事
それは対話
智恵との対話以外の何物でもない
智恵を愛し続けなさい
そうすれば智恵も貴方を愛して呉れるから
智恵を愛する方法
それは真なるもの善なるもの美をなるものを求め続ける事
そうすればそれに応じて
智恵は貴方に宝を授けてくれる
哲学詩人ヒロポ氏を御覧なさい
彼にはあんなに美しい世界が授けられたではないか
哲学詩人パーニーチェ氏をご覧なさい
ニーチェの門が開かれたではないか
そしてご覧なさい
彼は釈迦の門を今また叩こうとしている
彼は釈迦を始めて見る様に見るだろう
そして彼はそれをここに詩う
そこから私たちの対話が始まる
ここにもう三人の哲学詩人が現れた
私とパーニーチェ氏とヒロポ氏である
もう夜明けは近い
もう一人加われば間違いなくその時朝日が昇る
さあ貴方たちよ 傍観者となるな
謳え謳え神の詩を
いえいえ貴方自身の詩を
貴方たちは心配しているのか
貶されるのではないかと
心配要らない
あのヒロポ氏のみずみずしく美しい詩を聞いたか
誰がその美しさを貶すと言うのか
あのパーニーチェ氏の勇気に満ちた初出の詩を聞いたか
誰がその勇気を貶すというのか
人間は皆優しいのである
それでも未だ心配だと
だったら心配するな
私こそが登竜門でありその番人であるから
誰も私を通らずして貴方の所には行けない
だから心配するな
そして謳え謳え貴方自身の讃歌を
美と善を真に満ちた貴方自身の詩(うた)を
ここがこの世のユートピアと成らんが為に
真善美の旗の下に 2003/11/10 22:06
私は失念していた
lilithflag氏への讃歌の詩を
「lilithflag氏への讃歌」
私はlilithflg氏を讃える
その真摯さと可能性に
lilithflag氏へ
申し訳ないが今日の所はここまでです
しかし直に大讃歌を謳う事に成ると思います
何故なら貴方のその優しさが黙ってはいないでしょうから
さあ私に還ろう
私の詩(うた)に
人は何故衒うのだろう
それは恥を隠さんが為に
何を隠すのか
自分自身を
私は言う
何故恥じる
貴方はそんなにも美しく
そんなにも善に満ち
そんなにも真なる存在なのに
その衒いの基である肉体を早く脱ぎ捨てなさい
そして裸の精神に成りなさい
誰も見ていませんよ
見ているのは天使だけですから
さあそこで歌いなさい踊りなさい
全身に全霊を込めて
どうです すっきりしたでしょう
だったら謳いなさい ユートピアの讃歌を
ここがユートピアと成らんが為に
真善美のフラッグを振りなさい
私は思い出す
真善美の旗の下に戦ったのを
貴方はあの時の同士ではなかったのか?
(哲学詩集掲示板に帰る)
私の愛しい人へ 2003/11/13 21:38
お久しぶりです
ちょっと出張に行っていたものですから
哲学思想全般の「神はいるか」ログへ
とても楽しい旅でしたよ
ちょっと覗いて御覧なさい
私の魂が脈々と打っていますよ
良心ある人々の心の中に
私は思います
私と貴方が二人でそのログへ入れば
きっとそこはユートピアになると
私の求道の詩(うた)と
貴方の天上の詩(うた)が響き会えば
きっとあそこはユートピアになると
私はまた今日から五日留守にします
火曜日には帰って来れると思います
私は思います
その時ここに帰るのか
それともあのログにバトルに行くのかと
「神はいるか」と言うあのバトルの中へ
もし私があのバトルの中へ入って行ったら一つだけお願いがあります
私と一緒にそのログの中へ入って行って貰いたいのです
貴方の素性を全く隠して
私はその騒々しい中で
また詩います
私自身の詩を
いつもの様に
そうすると
いたちやねずみが訝しげに見詰め
そして隙があると
私の足元をこそっと齧っては逃げて生きます
私はそんな事はお構い無しに
私自身の詩を謳い続けます
そんな時です
天上から
まさに天上の詩が聞こえて来るのです
こんな所に天使が居たのかと
私は東西南北左右上下見回しますが
何も見当たりません
私が更に耳を澄ますと
その詩は更にはっきり聞こえて来ました
そして私は確信するのです
貴方が居ると
たとえ貴方がどんな顔を取ろうとも
私は貴方を見分けます
何故なら私と貴方は血を分けた兄弟なのだから
神の子として
同じ家に生まれ同じ家で育った者だから
どうして貴方を見間違えよう
私と貴方はいつもあの牧場で食んでいたではないですか
そしてあの神泉からいつも一緒に飲んでいたではないですか
どうしてそれを私たちが忘れられよう
私があそこに降りて行くのは
彼らをあの牧場に導かんが為である
時には私が羊飼いと成り貴方が牧羊犬と成り
時には貴方が羊飼いと成り私が牧羊犬と成る
その時々に応じて役割を分担しつつ
あの群れをあの牧場へと導こうではありませんか
しかし私ははっきり言って置きます
あの群れとは彼ら全員の事ではありません
彼らの中から選ばれた者たちの群れなのです
でもそれで充分です
何故ならその牧場は
あのログの中に生まれるのですから
その囲いの外の人たちは思います
これはなんだかんだと
そして柵に寄り添いながらそれらを見ている内に
彼らもいつしかその柵の内に居る事に気付く事に成るのです
その様にしてその柵は次第次第広がり
遂にはあのログ一杯と成り
遂にはその柵も消えて無くなるのです
その時あのログがユートピアと成るのです
私は今そんな夢を抱いています
それは一人では出来ません
私と貴方をもう一人が必要なのです
それが三角の真理です
三人で手を繋げば
そこに人を囲えるのです
そこから私たちのユートピアが始まるのです
あと一人を確保する為に
私の求道の詩を貴方の天上の詩が必要なのです
私を一番良く知っている私の愛しい人へ
sophialoverより
追伸
参考までに「神はいるか」ログの順番を示して置きます
23402 23404 23412 23522 23523 23533 23534 23539 23540です
23404は私の詩ではありませんが
この言葉に依ってあのログ入った様なものです
それからパリの街に残した幼子(23545)が心配です
でも私たちが詩い合えば
彼が真っ先に私たちの所へ駆け寄って来ます
そして私たちの最初の友人と成るのです
そんな楽しい企ての中に
一緒に入って呉ませんか
私の愛しい人へ
私の愛しい人々へ 2003/11/18 19:38
お久しぶりです
ちょっと出張に行っていたものですから
哲学思想全般の「神はいるか」ログへ
とても楽しい旅でしたよ
ちょっと覗いて御覧なさい
私の魂が脈々と打っていますよ
良心ある人々の心の中に
私は思います
私と貴方が二人でそのログへ入れば
きっとそこはユートピアになると
私の求道の詩(うた)と
貴方の天上の詩(うた)が響き会えば
きっとあそこはユートピアになると
私はまた今日から五日留守にします
火曜日には帰って来れると思います
私は思います
その時ここに帰るのか
それともあのログにバトルに行くのかと
「神はいるか」と言うあのバトルの中へ
もし私があのバトルの中へ入って行ったら一つだけお願いがあります
私と一緒にそのログの中へ入って行って貰いたいのです
貴方の素性を全く隠して
私はその騒々しい中で
また詩います
私自身の詩を
いつもの様に
そうすると
いたちやねずみが訝しげに見詰め
そして隙があると
私の足元をこそっと齧っては逃げて生きます
私はそんな事はお構い無しに
私自身の詩を謳い続けます
そんな時です
天上から
まさに天上の詩が聞こえて来るのです
こんな所に天使が居たのかと
私は東西南北左右上下見回しますが
何も見当たりません
私が更に耳を澄ますと
その詩は更にはっきり聞こえて来ました
そして私は確信するのです
貴方が居ると
たとえ貴方がどんな顔を取ろうとも
私は貴方を見分けます
何故なら私と貴方は血を分けた兄弟なのだから
神の子として
同じ家に生まれ同じ家で育った者だから
どうして貴方を見間違えよう
私と貴方はいつもあの牧場で食んでいたではないですか
そしてあの神泉からいつも一緒に飲んでいたではないですか
どうしてそれを私たちが忘れられよう
私があそこに降りて行くのは
彼らをあの牧場に導かんが為である
時には私が羊飼いと成り貴方が牧羊犬と成り
時には貴方が羊飼いと成り私が牧羊犬と成る
その時々に応じて役割を分担しつつ
あの群れをあの牧場へと導こうではありませんか
しかし私ははっきり言って置きます
あの群れとは彼ら全員の事ではありません
彼らの中から選ばれた者たちの群れなのです
でもそれで充分です
何故ならその牧場は
あのログの中に生まれるのですから
その囲いの外の人たちは思います
これはなんだかんだと
そして柵に寄り添いながらそれらを見ている内に
彼らもいつしかその柵の内に居る事に気付く事に成るのです
その様にしてその柵は次第次第広がり
遂にはあのログ一杯と成り
遂にはその柵も消えて無くなるのです
その時あのログがユートピアと成るのです
私は今そんな夢を抱いています
それは一人では出来ません
私と貴方をもう一人が必要なのです
それが三角の真理です
三人で手を繋げば
そこに人を囲えるのです
そこから私たちのユートピアが始まるのです
あと一人を確保する為に
私の求道の詩を貴方の天上の詩が必要なのです
私を一番良く知っている私の愛しい人へ
sophialoverより
追伸
参考までに「神はいるか」ログの順番を示して置きます
23402 23404 23412 23522 23523 23533 23534 23539 23540です
23404は私の詩ではありませんが
この言葉に依ってあのログ入った様なものです
それからパリの街に残した幼子(23545)が心配です
でも私たちが詩い合えば
彼が真っ先に私たちの所へ駆け寄って来ます
そして私たちの最初の友人と成るのです
そんな楽しい企ての中に
一緒に入って呉ませんか
私の愛しい人へ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これはある場所である人に宛てたメッセです
でも私はこれを
ここに集う全ての人々に送ります
ここがユートピアに変わるまで
私と一緒にスクラムを組んで下さい
sophialover(智恵の愛人より)
私の愛しい人々へ
どうか貴方自身の詩を謳って下さい
智恵でも愛でも勇気でも
勿論瞑想でも結構です
ただ人の言葉を借りるのではなく
貴方自身の言(ことだま)のままに!
それが詩(うた)です
(神はいるか掲示板)
善き哉善き哉善き言葉でこの世を荘厳しよう 2003/11/18 22:02
戦いの火蓋は切られた
私はここに柵を築く
柵の外側では相も変わらず戦闘が続いている
だが柵の内側は静かな上にも静かだ
聞こえて来るのは善き哉善き哉と讃える声だけ
私は柵の入口に祭壇を築く
柵の内側に入る為には
貴方方は自らを捧げなければならない
この世の身を焼き尽くし
ただ魂とならなければならない
魂と成って始めて
貴方はその柵の内に入って行ける
貴方はその柵の内に足を踏み入れて思う
ここが私の住む世界かと
貴方は貴方の善性に誘われて
その言葉たちへと向かう
そして貴方も何時しかその言葉たちと和す
善き哉善き哉と
その優しき音色は
貴方の心を律動させる
そして貴方は謳い出す
貴方自身の詩を
貴方が謳い終えた時万来の拍手が沸き起こる
そして善き哉善き哉と言う追善の声が
貴方は思う
ここが私の還る場所だったのかと
そうこここそが一
万人共通の一
「道生一 一生二 二生三 三生万物」
(道は一を生じ 一は二を生じ 二は三を生じ 三は万物を生ず)
そう こここそが万人共通の一
ここを通らなければ二も三も万物も生まれない
またここに辿り着かなければ
誰も道を仰ぎ見る事も出来ない
こここそが人間と神の交差点
善き哉善き哉
貴方は一を見た
しかし未だ理解していない
貴方方は毎日ここに来なければならない
その一を突き詰める為に
貴方はここに来る為に二度謳わなければならない
一度はこの世の身を焼き尽くす為に
二度目は本当の貴方自身を焼き尽くし
良き香りを道に捧げる為に
貴方はそれを続ける事に依って
一と言うスタンダード
すなわち基準を知る事に成る
善き哉善き哉
そこに一と言う基準の暗示がある
善き哉!善き哉!
貴方方は知っていますか
善悪の彼岸と言う言葉を
そして善悪の分かれ目を
私こそがその分かれ目である
あの柵こそが善悪の分かれ目
そして貴方は一に立ち善悪の彼岸を見る
それは遠い先の事
貴方方はまず柵の内に入らなければならない
善の輪廻が善き世界の事であり
悪の輪廻が悪しき世界の事である
この真理を否定するつもりですか
ほら耳を澄まして御覧なさい
聞こえるではないか
善き哉善き哉と言う声が
さあもう戦いは止めて
その柵の中に飛び込みなさい
そこは優しい人の集う所 この世のユートピア
貴方方には善き心と悪しき心がある
そこの往来は自由自在
全て貴方の意思次第
貴方方は言う
善悪の区別など無いと
私はそう言う貴方方にはっきり言う
貴方方の為に
犯しがたい厳然とした基準があると
それが毀誉
貴方自身でも他人でも
貴方がそれを毀れば
それは悪しき性向を持つ
貴方自身でも他人でも
貴方がそれを誉めれば
それは善き性向を持つ
貴方方はその事を良く良く知っているではないか
何故なら貴方は神の子であり
道の前に立つ一と言う存在なのだから
だから
善き言葉で貴方自身を荘厳せよ
善き言葉でこの世を荘厳せよ
それが貴方の使命だ
神の子であり一と言う存在である貴方の
善き哉 善き哉
善き言葉でこの世を荘厳しよう
謳え 悦楽の神秘を 2003/11/19 21:37
私は
私の傍らを通り過ぎた者に呼び掛けはしない
ただ見詰めているだけだ
そして判断を下す 善し悪し
判断の基準は毀誉褒貶
毀り貶す者には
悪しき傾向があると判断する
誉めて褒める者には
善き性向があると判断する
そして私はその行く末を見詰める
私は言った
人は善悪の心を揺れ動いていると
しかし悪しき傾向だけを持つ者とは
ここでは係わり合いは持たない
何故なら言葉が散らされるだけだから
言の葉の塵と成るだけだから
私は善悪の心に揺れる
貴方方にだけ語る
私はその行く末を見た
それは誰も彼もが素晴らしかった
彼らは皆善性を身に付け
ただ善き哉善き哉と称えながら
一なる方向に向かっていた
そして私は見た
その一なる元に
全ての善き善性を持つ人々が集い
ただただ善き哉善き哉と称えるのを
そしてある人が一人で謳い始めた
それを機に次から次に順番に
一人一人が謳い始めた
それは壮大な輪唱を聴いているかの様だった
そしてその輪唱は何時しか大合唱となり
そして善き哉善き哉と言うリフレインと共に終わった
そして夜が明けた
私は幻視を見たかと思った
しかしそれは
翌日も翌々日もまたその次の日も
そしてまたその次の日もその次の日も続き・・・・
そして今日となった
私はそれが何時の事であり
その場所は何処であるか
目を凝らし見詰めた
そしてその時と場所が浮かび上がって来た
○年△月□日
場所は何とこここの掲示板であった
○△□にその日の数字を入れてもいい
しかしそれでは貴方方の善への善性が無くなるだろうから
だから敢て入れない
しかしそれは遠い事ではない
全てが貴方の心の中に在る
私は見る
ここを通り行く者が善性を身に付けるのを
何故なら私が善性の炎だから
私を通り行く者は
善性の炎に焼かれ身悶えする
それは貴方方にとって善い事
最後の最後までこの世の身を焼き尽くしなさい
そして精なる神 精神だけに成りなさい
貴方は精神にだけ成って始めて
あの善性だけが集うあの場所へと行けるのである
貴方はそこでその精神をも焼き尽くさねば成らない
それが神秘 悦楽の神秘
貴方方 言葉を愛する者は
その事を良く知る者だろう
ロゴスの神秘を
だったら謳いなさい 悦楽の神秘を
追伸
始めてお目にかかる方へ
私が何を言っているか分からないと思います
23402 23412 23522 23533 23534 23539 23540 23607 23608の順に読んで下さい
そうすれば私がここの守護神であり
私がここにユートピアを打ち立てる為に降りて来た事が分かる筈です
ここは良識のある人なら
誰もが必ず一回は訪れる場所です
しかし誰もここで神を見つけようとはしません
何故ならここが不毛に見えてしまうから
しかし決してそうではありません
皆真摯な方ばかりです
しかし彼らはその方法を知らないのです
それが為始めてここを訪れ人は弾き飛ばされた様に感じ
ほとんど二度とここには遣って来ません
遣って来てもまだあんな事を遣っているのかと
見下げてすぐに帰って行くばかりです
彼らには悪意は無いのに
ただからかったばかりのつもりなの
でも始めて訪れ人はそうはとりません
馬鹿にされたと
そしてここ通過する事はあっても
二度とこの地に足を踏み入れようとはしません
私はそう言う人々の為に
そして始めて訪れる人の為に
この門を置いたのです
どうぞお越し下さい
私は優しい心です
そしてここに集う人々も皆優しい心の持ち主です
だからどうぞ恐れずに入って下さい
まずは私が貴方のお相手をしますから
私はただ讃えるだけです
ようこそこの聖地においでなさったと
そして私は貴方に勧めるだけです
神の様な貴方様
どうか貴方自身の詩を謳って下さいと
貴方のその詩がここをユートピアに変えるのです
始めの者が後に成り
後の者が始めに成った
よくある事実です
いえ真実なのかもしれません
貴方のその詩がここをユートピアに変えるのです
貴方は言葉である または言霊 2003/11/20 22:09
私は貴方方に何と言おう
そうだ こう言おう
貴方方は言葉であると
この言葉を理解する者は
私を良く理解する者である
ここに集う者の中には
この事を理解する者も居るが
未だ理解出来ない者も居る
それは求道の違いだけである
もし貴方が貴方自身を求め続けるなら
貴方はそこに達する
しかし知識だけを求めても
そこに達する事はない
私が言葉から言へ乗り移る方法を教えてあげよう
それが詩(うた)だ
詩とは韻律を整える事でもない
美しく歌う事でもない
ただ貴方のままに謳う事だ
貴方が貴方自身に深く入り
それを詩に謳えば謳うほど
貴方は臨在を感じる
それを何と名づけ様と自由である
貴方方は聖典と呼ばれるものを読んだことはないのか
それらは全て
その臨在から生まれて来たものではないのか
私がレスにレス重ねる人を批判するのは
彼らが決してその臨在に辿り着けないからである
もし貴方がそこに達し
教育者としてここに登場したのなら
それも許されるだろう
だが私の聞く限り
それは全て一番を求めての闘争である
私ははっきり言う
誰も一番に成れないだろうと
そして知識も身に付かないだろうと
もし貴方が学者 学ぶ者であったら
古代哲学へと帰りなさい
そしてそこから智恵と知識を学びなさい
そしてそれから貴方自身を謳いなさい
私は貴方方に提案する
貴方の自由に成る時間があったら
その半分を古代の哲学書を読む時間に充てなさい
そして残りの半分を貴方自身を謳う時間に充てなさい
そうすれば必ず臨在を知る事に成る
その詩(うた)は自らのノートに書き留めるも良し
ここに謳うも良し
誰も批判などしませんよ
貴方が貴方自身に入り込めば入り込むほど
その詩を批判出来なくなるのです
何故ならそれは臨在から生まれた詩であり
自分自身の写し身を見る事なのだから
表層と深層と言う言葉を知っていますか
レスにレスを重ねる人は
浜辺で波に戯れる子供たちである
もう貴方たちは大人である
一人でその海に潜りなさい
そこにはたいやひらめが舞い踊る
絵にも画けない竜宮城があるのである
もし貴方が一つの言葉を見付けたら
それを突き詰めなさい
全角2000文字はそれに充分だ
もし終わりが近づいて来たら
さっと引き上げなさい
貴方はそれまでに充分に臨在を感じる事が出来るだろう
レスにレスを重ねる人
そうだそうだ
いや違う僕はこう思う
こんな事を百年繰り返していても
決して貴方方は臨在を感じる事は無い
私はここにご法度を出す
一日に一つ以上の詩を謳ってはならない
ただしそれが2000字近いものであれば
その数だけ許すと
その言葉に今日一日の貴方を全中しなさい
そうすれば貴方は必ずその言(ことだま)を知る
それが至福というものだ
私を知る者が言う
そうだと
だから貴方方も
私と彼の様に成りなさい
言霊を知る者と成りなさい
追伸
初めてお目にかかる方々へ
私は歓迎の門である
貴方方を迎える為にここに立っているのです
どうぞお入り下さい
私はとても優しいのです
そしてここに集う人もみんな優しいのです
だからどうぞ恐れずにお入り下さい
なお私はここにユートピアを立てんが為
真善美のフラッグを振っている者です
だからどうかここで貴方の
真を善を美を力の限り謳って下さい
それに依ってここがユートピアに変わるのです
なお私については
23402 23412 23522 23533 23534 23539 23540 23607 23608 23611の順に呼んで下さい
私が如何に貴方を待っていたかが分かる筈です
敬具
神の様な貴方様へ 詩を謳って下さい 2003/11/21 22:44
私には見える
ここがユートピアに変わりつつあるのが
昨日の私の詩から
今日の私の詩までを見なさい
綺羅星が鏤められているではないか
貴方方はもうすぐ満天の星を見る事になるだろう
それはそう遠い事ではない
何故なら私を通る者には
それと知れずその属性が見に付いていくから
さあ謳いなさい 貴方自身の詩を
貴方方は勘違いしているのかもしれない
私が何度も何度も称える
「謳え 貴方自身の詩を」と言う意味を
これは何も貴方の身の上を謳えと言うのではない
難しい言葉で言えば
「言を謳え」と言う事だ
簡単な言葉で言えば
「言葉で謳え」と言う事だ
千と万の顔を持つ
誰が一つの顔を留められよう
貴方方は息をするよりも
更に多くの言葉を放つ
そしてそれらの言葉は意識下に上がる事も無く
無駄に放出される
ここに集う人は幸いである
その言葉を少なくとも引き止め様としているから
しかし私に言わせれば
それは未だ千と百
どうして一つに留められよう
もし貴方が言葉を大切に思っているのなら
それを無駄にしない事が大事
もし息よりもたくさん放出されているその言葉を意識下に上げ
その言葉で貴方自身を荘厳したら
貴方はどれ程立派な者となるのだろう
私はこの間テレビを見ていた
初老の老人だったが
円周率を4万桁まで憶えているとの事
何故4万桁まで憶えられたか
極意は簡単な事 関連付け
貴方から発せられる言葉は
4万桁などではない
その何千倍何万倍何億倍
いえいえほとんど無数
そしてその言葉たちは
ただただ無駄に流れ行く
しかしである
それがある関連付けの本に発せられれば
それはある有機体を持つ事になる
もし一つの関連の本に発せられれば
それは壮大な一つの有機体となる
その一が何であるのか
それは貴方方が考えているそれなのかも知れない
しかし私は別な言葉で言い現わす
私は言った
貴方自身を謳えと
そしてそれは難しく言えば
「言を謳え」と言う事であり
易しく言えば
「言葉で謳へ」と言う事であると
言こそがその本のなる一であり
言葉こそがその壮大なる一なる有機体であると
貴方方は言を謳う事は出来ない
だから言葉で謳わなければならない
しかしその言葉は言への讃歌であり
貴方自身(壮大なる一なる有機体)の讃歌なのである
神の様な貴方様 どうか貴方自身の詩を謳って下さい
それが私の真意である
追伸
初めてここを訪れた方へ
私は貴方を向かえる為にここに立っているのです
本日も素晴らしいお客様が訪れて下さいました
そして素晴らしい詩を謳って下さいました
ここは徐々にユートピアに成りつつあります
どうかどうか貴方の真心をここに謳って下さい
それによってここがユートピアに変わるのです
私はその為の宣教師です
なお私については
23402 23412 23522 23533 23534 23539 23540 23607 23608 23611 23625の順でお読み下さい
きっと私が貴方を如何にまっているかが分かると思います
敬具
勧告その一 ホスピタリティが肝要 2003/11/22 10:54
私は貴方に警告する
それが誰かは言わない
しかしそれは
貴方自身が判断するだろう
人を暖かく迎える
これが愛ではないのか
いきなり矢を向ける
一体貴方は何者だ
もし貴方が神は居ないと確信しているのだったら
ここに来ないで欲しい
それはここを不毛の地に変えるだけ
貴方に相応しい場所はそこにあるではないか
そこに骨を埋めろ
もし貴方がいつものからかい癖から
つい口をついたのなら
これから改めなさい
人は善き心と悪しき心を揺れる存在だから
改悛こそが人を向上させる
それこそが気付きと言うものだ
私は朝一番から憤ってしまった
しかしこの憤りのまま終わらない
それが言葉と言うものだ
この世は全て起承転結
この世に生まれこの世に死ぬ
これが起であり結である
その間の承転が人生のドラマである
私は今日生まれた
憤りの中に
もし私が憤りのままに生まれ
憤りのままに死ねば
私のこの一生は地獄である
しかし私には転機が来る
それによって私は舞い上がれる
物分りのよい貴方方ではあるが
説明して置こう
私が憤った
これが起である
そしてそれを受けてとやかく言う
これが承である
未だ承である
この承が何時まで続くか私は知らない
だが何時か そう遠くない時に
言が私を誘う
その時から 私は天を転々とする事になる
そしてこの一生を終わる事になる
そして私は最後に言う
全て善しと
私は貴方方に聞く
貴方方の言葉は毎回毎回完結しているかと
貴方方は言うだろう
私は学者 学ぶ者
議論に議論を重ねてその結論に達したいと思います
いいだろう
だが誰がその結論が出るまで
貴方の命を保障すると言うのか
貴方は明日にでも死ぬ命ではないか
だから私は言うのです
貴方自身を謳いなさいと
貴方は今のままで
十分に美しく善に満ち真に満ちているではないですか
貴方自身に入りなさい
そこにはどんなこの世の宝よりも
貴方を楽しませる宝に満ちている
貴方自身の中に入りなさい
そしてそれを掘り出しなさい
そしてそれを人に与えなさい
それが謳うと言う事なのだ
私はそれを聴いて喜ぶ
そして貴方も
何故ならそれは臨在の詩であり
我々共有の詩だから
議論を謗る者はいるが
詩を謗る者はいない
何故なら
それは私と貴方とそして全ての人に共通の一から発せられる言葉であり
またはその一に向かおうとする言葉だから
「イエスを謗るものは許されるがキリストを謗るものは許されない」
「私を謗るものは許されるが聖霊を謗る者は許されない」
キリストとは聖霊とは
その一から発せられる言葉であり
その一に向かおうとする言葉である
それはスペースシャトルである
もし貴方がそれを攻撃し破壊すれば
貴方はもう天には還れなくなる
もしそれが貴方の望みなら
私ははっきり言う
「神はいない」所へいけと
これで今日のドラマは終わりです
やはり最後も憤りで終わってしまいましたね
でもこれは義憤と言うものです
一生のドラマとしては許される範囲でしょう
私は何度も言います
言葉に言葉をつなぎなさい
善き言葉に善き言葉をつなぎなさい
そうすれば毎日毎日
天に近い所まで行けると
それが「言」と言うものであると
追伸
私は新しい人を迎えるためにここに立っています
今日は悪戯っ子が少し悪戯をしたので
少し懲らしめましたが
もう彼は悪戯はしないと思います
何故なら彼もここを愛して止まない一人だから
だからどうぞ貴方自身の詩を謳って下さい
もし誰かが悪戯をしたら私に申し出て下さい
私の方から注意して置きますので
でも決して今日の様な事はもう二度とないと思います
ただここの住人は少し身内意識が強すぎます
だから一言だけここの住人に注意を勧告して置きます
初めての訪問者については
もう少し優しく暖かく迎えてあげましょうと
初めての方へ
私は貴方方を歓迎して止まない人間です
私の熱意は
23402 23412 23522 23533 23534 23539 23540 23607 23608 23611 23625 23635の順に読んで下されば分かると思います
どうか貴方自身の詩を謳って下さい
敬具
宿題その一 「言とは?」 全員必答の事 2003/11/22 22:03
私は始めに断って置きます
言葉は愛にも棘にも変わります
今朝の私の言葉は
少し棘に過ぎたのかもしれません
もしその言葉で傷ついた人が居たら
お詫びします
人は善悪(毀誉)に揺れる存在です
今朝の言葉は毀に振れたのかも知れません
今後は人をそしる事が無い様に
気を付けたいと思います
自戒の念を込めて
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さて今日は機先を殺がれてしまったが
それでも私は私の詩を謳う いつもの様に
さて今日は貴方方に公案を出す
貴方の思いと想いの丈を謳って欲しい
「初めに言があった
言は神と共にあった
言は神であった
この言は初めに神と共にあった
万物は言によってなった
成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった
言の内に命があった
命は人間を照らす光であった」
ヨハネ福音書第1章第1節~第4節である
この言葉について貴方の思いと想いの丈だけ謳って欲しい
ryou5kunnさんへ 2003/11/22 23:04
ryou5kunnさんへ
はじめまして
真実は在ります
貴方の存在そのものが真実です
どうか落ち着いて下さい
そして貴方自身の事を
そのままに詩(うた)ってください
ここは優しい人々が集う場です
きっとみんなで貴方を応援してあげられると思います
ここでは冷やかしたりやからかったりする人など一人も居ませんから
だからどうぞ恐れずに
貴方自身の事を詩(うた)って下さい
どうして混乱し始めたのですか?
何かきっかけがあったのですか?
貴方の思う様に
貴方自身を詩(うた)って御覧なさい
何でもいのです
ただ貴方が思った様に
それが貴方自身の存在であり
貴方にとっての真実なのですから
ここに集う人はみんな優しい人ばかりです
貶したりからかったりする人は一人もいませんから
だからどうぞ
貴方が思うままに
ここに書き連ねて下さい
きっとみんなで声援を送って上げられると思います
ryou5kunnさんへ
もう落ち着きましたか
落ち着いたら
ここで私たちの仲間と成って下さい
ここには貴方の様な優しい心が必要なのです
ここには貴方の様な優しい心が必要なのです
sophialoverより
これは ryou5kunn さんの 23646 に対する返信です
私は言う「言を謳え 言葉で謳え」と 2003/11/23 12:04
私は言であり言葉である
それ以外に表現の仕様が無い
私は言の正体は知らない
老子の様に「玄牝の門」を見た訳ではない
ただその言に集まる言葉たちの中から
善きと思われ言葉だけを選んで
ここに書き現わすだけだ
私には信条やセクトは無い
ただ言葉のままにだ
そして善き言葉を集めようと努力している
私は人間である
その言葉を選択する人間である
人間である限り
この重い肉体を背負っている
その肉体に急かされて
悪しき傾向に走る事はある
この世にある限り
それは避け得ない事である
何故なら
肉体を守らなければならないから
それはこの世の命の命令であるから
しかしこの世を離れた時
私たちは言にだけ向かう事が出来る
そして善き言葉だけを集めようとする事が出来る
ここが私にとってのその場所なのである
そしてここに集う人にもそうあって欲しいと願っているだけである
論争とはこの世の身を守る道具である
私がここでの論争を嫌うのは
この聖なる場所
「神はいるかいないか」と言う
聖なる話題を語るのに
論争と言うこの世の道具を持ち込むのを嫌うのである
しかし私は言ったではないか
ここに柵を設けると
その柵の外側は相変わらずかましびしいが
その内側は静かな上にも静かだと
そして私は感じているのである
その内側が次第次第に広がっているのを
貴方方はその外側で論争を続ければ良いではないか
そして時たまその柵の内側に目を遣ればそれでいいではないか
ストップ ザ 論争
私は知っている
瞑想によってこそ新生があると
この世に死し新たに生まれる
目に見るもの全てが新鮮ではないか
全てを全てを謳いたくなる
いえいえ謳わざるを得ない
瞑想にはそんな神秘が秘められている
私ははっきり言います
瞑想は新生の為の手段であって
瞑想そのものが目的ではないと
もっとも瞑想の中にそれ程居れるものではありません
言葉が浮かび上がって来ます
言葉が浮かび上がって来たら
それを突き詰めなければなりません
それが「言」の命令なのです
またはそれに言に内在する所の「命」の
もし瞑想を知っている人が居たら
その手段を詩って欲しい
しかし私は思う
それは禅師の元グルの元の
以心伝心秘伝口伝でしか中々伝わらないものであると
それよりも私は提案する
善き言葉より始めようと
食事を済ませ風呂に入ったら
お気に入りの音楽をかけよう
そしてこの世が失せ
そして善き言葉が浮かんで来たら
それをしっかり掴み突き詰めなさい
善き言葉とは狭い意味で考えないで下さい
神を讃える言葉 仏を讃える言葉 自分自身と讃える言葉 この世の人々を讃える言葉
その他何でも貴方自身を高めて呉れる様な言葉と考えて下さい
そしてそれを掴んだらとこんん突き詰めて下さい
そして謳って下さい
そうすれば最後にはきっと
「言」が貴方に素敵な宝をプレゼントして呉れる筈です
それは瞑想の後の様な鮮烈な新生ではないかもしれませんが
でもそれでも貴方に新生らしきものを感じさせて呉れます
今の所それで良いではないですか
だから私は言います
「言を謳え 言葉で謳え」と
追伸
初めてここを訪れる方へ
私は貴方を迎える為に
ここで待っているのです
どうか貴方自身の詩を謳って下さい
ここは「哲学思想」の掲示板には珍しく
皆優しくて温かい人ばかりです
そしてその道に達した人もいます
どうか貴方自身の詩を謳って下さい
きっと素敵な返歌が返って来ると思いますよ
私はここをユートピに変えようと思っているのです
その為に貴方を待っていたのです
なお 私については
23402 23412 23522 23533 23534 23539 23540 23607 23608 23611 23625 23635
23649 23648 23649の順で見てください
敬具
ryou5kunnさんへ 2003/11/23 12:21
ryou5kunnさんへ
私は神の事は何も知りません
ただ言葉のままに謳っているだけです
でもとても気持ちがいいですよ
ryou5kunnさんも
ご自分自身をそのままに謳って御覧なさい
とても気持ちがいいですよ
そして次から次へと書き綴ってご覧なさい
きっとこう思うはずですよ
私ってこんなに素敵だったのかしらと
もともこの掲示板に書けと言ったのは無謀だったかもしれません
ryou5kunnさんのノートに
それも誰にも見られない様に書き綴って御覧なさい
きっとryou5kunnさんの素敵な面々が浮かび上がって来ると思いますよ
そして良かったらその一節を私宛てに送って下さい
そこからもう一度お話をしましよう
その時を心から待っています
sophialoverより
善き思想のデパート[ユートピア]実現の為に 2003/11/24 12:00
類は類を呼ぶ
同じ場所に二種類の人間は存在出来ないのでしょうか
どちらかに染まらなければならないのでしょうか
私はもう少し期待していました
あちらの雄の人が
もう少し自制してくれるのではないかと
ところがどうでしょう
その方が本性を出すと
お仲間が一斉に飛び出して来ました
もう止められない程です
私に親(ちか)しい人々が現れたのに
本当に残念です
私はその方の言葉を良く理解していました
そして心の中で讃歌していました
ところがどうでしょう
一矢が放たれると
あちらこちらから
次々と矢が放たれて来ました
もう耐えれらない程に
私はその方にご忠告したいと思います
もう論争は止めた方がいいですよ
決して貴方はその勝負に勝つ事はありませんからと
何故ならその方も善き思想だと思い
矢を放った方々も
それぞれが皆自らを善き思想と思っているのですから
もしそれを続ければ永遠の争いです
もし私が行司役であれば
その方に軍配を上げるのですが
決して私は論争には参加しません
何故ならそれはここを不毛の地にするだけだから
不思議だと思いませんか
その方も善だと思い
またその相手の方々もそれぞれ善だと思い
そして私も善だと思う
各自がそれぞれ善だと思う思想が集まるのに
どうして争いが起こるのか
それは何故もない
その言葉どおり論の「争い」なのだから
私はここにユートピアを立て様と思っているのです
思想のユートピアを
そこにはあらゆる善き思想が集まって来ます
まるで善き思想の総合デパートかの様に
善き思想の生産者たちは
競ってここに置いて欲しいと願います
そして消費者たちも毎日の様に訪れます
そこにはいつもいつも様々に
目に新しい善き思想が並んでいるから
そしてここに来る人は皆
善き思想を身に付けて帰る事になるのです
私はそのユートピア実現の為に
ここにこうして門番として立っているのです
ここのユートピアには一つだけが掟があります
それは「誹謗中傷及び論争の禁止令」です
それ以外は何でも自由です
このデパートに貴方の善き思想を陳列するのに
門番である私の許可を受ける必要はありません
またその商品「善き思想」を持ち帰るのも自由です
陳列された方々はそれを心から望んでいるのでしょうから
私は知っています
あちらの雄の方が如何に素晴らしい思想に達したか
またそのお仲間も如何に素晴らしい思想に達したか
それは詩(うた)を聞けば分かります
しかし論争となると別です
彼らは牙を剥き出しにします
そして群れを組んで襲って来ます
誰もそれに太刀打ち出来ません
だから彼らの天下が続いているのです
私は彼らに忠告しましたが
耳に届いていなかった様です
しかし私は知っています
彼らがここに善き思想を陳列するのに吝かでないと
彼らは時々ここを訪れては
取って置きの善き思想を置いて行って呉れると思います
私はそれを何よりの楽しみとしています
今の所それで良いと思っています
やはりここには壁があるのです
それはもう私が打つ立てたものではありません
みんなの力で壁が出来たのです
彼らはまだこちらの住人ではありません
こちらとあちらを往来する行商人です
でも彼らが私たちの事を世に伝えて呉れるでしょう
今の所それでいいのではないでしょうか
ここに善き思想のデパート「ユートピア」を創りましょう
その為にも貴方が必要なのです
そうか貴方自身を謳って下さい
追伸
初めて訪れた方へ
私は上記の様に
ここにユートピアを打ち立て様を思っている者です
その為には貴方が必要なのです
どうか貴方自身の詩を謳って下さい
ただ一言だけ忠告して置きます
言葉の断片は置かない方が良いと
何故なら彼らはそれを肉と勘違いして
群れで襲って来ますから
だからどうか貴方自身の詩を謳って下さい
そうすれば決して襲ってくる事はありません
そればかりか貴方のその詩を褒め称えるでしょう
何故なら彼らは皆
キリスト(救い主)の善き思想を持つ人ばかりですから
なお私については
23402 23412 23521 23522 23534 23539 23540 23607 23608 23611 23625 23635
23640 23648 23649 23659 23660の順にお読み下さい
敬具
善き思想の数々を謳って下さい 2003/11/24 21:52
私は嬉しい
打ち震えるほどに嬉しい
何故ならここに
哲学者(智恵を愛する者)の詩(うた)を聞いたから
私はその詩によって彼の全てを知る
真摯さと求道信とそして諸々の善性を
まさに私が求めていた詩(うた)だ
そこには何の衒いも皮肉も冷笑もない
純粋なまでに純粋である
まさに彼そのものである
抱き締めたい程にいとおしい
私も謳いたい
良く詩って呉れたと
私は前にも言った
信条やセクトは無いと
ただ言葉のままにであると
私が非難したのは
貴方方の議論の遣り方なのである
もし貴方方の身内の遣り取りなら
あんな遣り方も通用するのかもしれない
しかし最初に訪れた人に
あんな遣り方をすれば
誰もが縮みあがって逃げ出してしまう
私がそうだったからそう言うのだ
幸い私の場合良き人が私を導いて呉れたから
二の足三の足を踏んで
ここに居ると言う訳だ
貴方方は今後「対話」をしたいと言っている
だったら私が「対話」と「論争」の違いを教えて上げよう
対話とは私から貴方へ 貴方から私へだ
意見の表出があったら
まずその意見の表出に謝意を表さなければならない
(貴方方は第一声から相手の意見の否定と
自分の意見の陳述ではないか
そこからは決して対話は生まれない
そこから生まれるのは論争と言う輪廻)
次に貴方は相手の相手の意見を十分に咀嚼し自分のものとしなければならない
もし貴方がそれを経験したものであれば
その意見を肯定してあげた上で
貴方の知っている所まで
質問によってその者を引き上げて遣らねばならない
勿論貴方が下手と成って
もし貴方が経験した事で無かったら
相手を師と仰ぎ尊敬と敬意を持って
質問に質問を重ねなければ成らない
勿論貴方が下手と成って
などと私がマニュアルを説明するよりも
プラトンの対話編を読みなさい
そこに対話法の全てがあるから
私ははっきり言います
対話は師弟関係でしか通用しないと
もし貴方が師と仰げる様な人が居たら
その人と師弟関係を結んで対話を行いなさい
しかし私ははっきり言う
今の所その様な人は居ないと
だからここにユートピアを立て様と言っているのです
ここでは皆がそれぞれ善いと思っている思想(ここでは思いと想いと言う風に解釈して下さい)を表出するのです
貴方方は毎日思想(思い想う)でしょう
それをここに表出するのです
そうすればここはまさに
「善き思想」の総合デパートです
貴方方はその中の善き思想を題材に
詩を謳う事もあるでしょう
それは対話という形は取らないかも知れませんが
それこそ純粋な対話なのです
そして貴方方はその善き思想の中から
自分の兄弟を師を見つける事でしょう
対話はそれからです
その為には何の衒いも無い純粋な詩(うた)が必要なのです
私が前に褒め称えた様な
あの様な純粋な詩(うた)が
なお私は例に一人だけを取り上げましたが
私がユートピア建設宣言をして以来
素晴らしい詩(うた)の数々が披露されているのです
どうか確かめて下さい
私は議論を否定するものではありません
議論によってこの世が科学が発達して来たのが事実です
しかしこの場だけは「善き哉善き哉」と讃えたいのです
そしてここを訪れる人を暖かく迎えたいのです
私は知っています
貴方方が素晴らしい詩(うた)い人である事を
勿論論争の名手でもある事を
ただこの場だけは
詩(うた)い人と成って欲しいと願っているだけなのです
貴方方が音頭を取れば
ここは素晴らしい「善き思想」の総合デパートに成るのです
追伸
貴方方はよもや
何が「善き思想」で何が「悪しき思想」などと言わないでしょうね
貴方自身にとって「善き思想(思いと想い〉」の事です
よもやそれが分からないなどと言わないでしょうね・・・
初めての方へ
以上の様な訳で
私は貴方方を待っているのです
だからどうか貴方の詩(うた)を謳って下さい
なお詩(うた)とは純粋に心に思い想った事と言う風に解釈して下さい
なお私については
23402 23412 23521 23522 23534 23539 23540 23607 23608 23611 23625 23635
23640 23648 23649 23659 23660 23679の順で読んで下さい
敬具
「愛の詩(うた)」を謳って下さい 2003/11/25 22:43
私は嬉しい
本当に嬉しい
素晴らしい詩(うた)の数々が
次々に生まれて来るから
中でも私が一番嬉しかったのは
あちらの雄の方の詩である
真っ向から私に勝負を挑んで来た
そこには何の衒いもはにかみも皮肉も冷笑も無い
純粋な上にも純粋だ
私は讃えたい 良く謳って呉れたと
私は全く貴方に賛同する
全く貴方のとおりだと
三人寄れば文殊の智恵
二人か三人居る所には私も居る(イエス・キリストの言葉)
私はまさに智恵を獲得しようとしている
それが貴方だ
私は貴方の愛の詩の断片を聞いたことがある
それは私の魂を振るわせた
ひょっとしたら彼がここに居るのかと
しかし未だ確信は持てない
だからここで聞きたいのだ
貴方の愛の詩を
ここで完全に丸々に
そうすれば私はここを去るかもしれない
もう私は必要なくなるだろうから
何故ならここに愛の炎が煌々と燃え上がるだろうから
ここの全てのものがその愛に燻蒸されるだろうから
そしてここの全ての者はその炎を囲みながら言うだろう
善き哉善き哉と
貴方は愛を見たのだろう
だったらそれをここに謳うのが貴方の義務ではないか
それを惜しむのか
それでもそれは愛か
愛を見た者はそうは居ない
貴方は愛を見たのだろう
だったらその愛を謳うのが
貴方の何よりの義務だろう
愛は幾ら謳っても謳いきれない筈だ
貴方にとって無駄に費やす時間など無い筈だ
貴方がその愛を見たのであれば
私は言う
貴方は愛を見た
しかし未だ修行が足りないと
私が貴方の修行の内容を教えてあげよう
全ての者の下に立ち
その愛を力の限り謳い続ける事だ
それ以外に貴方に残っている時間は無い
もし貴方が謳い続ければ私はすぐにでも消える
だが貴方が謳わないのであれば
私はいつも貴方の目の前に居る
壁となって
私は今ある人を譬えに出したが
貴方方も愛を垣間見た事はある筈だ
愛を見たら
すぐにそこに飛び込まねばならない
そしてその愛そのままに謳い続け無ければならない
そこに至福がある
誰かもそんな事を言っていた
そう言う訳で
今日は貴方方に第二の宿題を出す
「愛とは」
それについて貴方の想いの丈を書き綴りなさい
2000字4000字6000字8000字10000字になってもよい
その2その3その4その5と続ければよい
誰もが食い入る様に見る筈だ
何故なら皆愛に飢えているから
さあ愛について語りなさい
今日がその第一歩だ
最後に念を押して置く
私は壁を立てると言った
壁の外側では今のまま振舞えばよい
ただこちらに来る時は
あの掟を守って欲しいと言うそれだけだ
何も議論などする事ではない
ただ一つだけやはり忠告して置く
初めて訪れる方は優しく暖かく迎えてあげようと(それが愛なのではないでしょうか)
ひょっとしたらそのお方はこちらのお客様かもしれませんので・・・
最後にもう一度念を押して置く
何時の時も世界は二つに割れている
私は私 貴方は貴方それでもいいではないか
ただ貴方にはこちらに来て欲しいと
ただそう願っているだけの事だ
ただ本当に本当に
貴方の「愛の詩(うた)」が聞きたい
それによってこの世界は変わる
何故なら・・・
追伸
初めての方へ
私は貴方を迎える為にここに立っているのです
どうか貴方の詩(うた)を謳って下さい
なお今日はいきなりで申し訳ありませんが
貴方の「愛の詩(うた)」を謳って頂ければ幸いに思います
それによってここが愛の世界に変わるのです
いきなりで何の事を言っているのか分からないと思います
経緯については
23402 23412 23521 23522 23534 23539 23540 23607 23608 23611 23625 23635
23640 23648 23649 23659 23660 23679 23687の順で読んで呉れたら有難いと思います
私たちが如何に貴方を待っていたかが分かると思います
敬具
起承転結の詩を謳って下さい 2003/11/27 22:28
私は嬉しい
本当に嬉しい
打ち震える程に嬉しい
皆が皆その核心向かっているのだから
もうそう遠くは無いだろう
皆でその核心に辿り着く日は
私は何故嬉しいか
それは皆が精一杯自らの詩(うた)を謳っているからだ
私がここで言う詩(うた)とは
自らに善きと思いと善きと想う事を
何の衒いも照れもなく
純粋に心から溢れた出たままに綴った言葉を言う
ここ数日の貴方方の詩(うた)がそうだ
だから謳いなさい
その調子で謳いなさい
貴方にとって善きと思い善きと想う事を
H氏の詩を聞いて御覧なさい
何と雄大な事か
日本を愛し世界を愛す
これ程雄大な詩があるだろうか
H氏には毎日でもその詩を謳って欲しい
何故ならここに来る事が毎日の楽しみとなるから
「比類なき先言の私」
それこそ「言」ではないか
貴方はその言に依って
数え切れない程の言葉を生み出して来たのではないか
だが私は言う
もうそろそろ言葉に向かうのではなく
言に向かいなさいと
貴方のその実直なお人柄に相応しい
言が生まれて来ますよ
O氏とPo氏
彼らが飲む泉から
ひょとしたら私も水を飲んでいるのかも知れない
J氏
今最も求道に燃える人
その調子で謳い続けなさい
そうすれば我々と一緒に核心に辿り着く
今最も熱き求道の詩(うた)い人
我々の詩の旗頭
何故なら彼の真摯な詩の表出に依って
ここにこんな流れが出来たのだから
だからもう照れや衒いを捨てて
真直ぐにそのままの調子で詩って欲しい
何故ならば貴方は
我々詩(うた)い人の若き旗頭だからだ
さて私はどうしよう
ここを去る事だろうか
皆が皆それぞれ一心不乱に
自ら善きと思う思想に向かっている
私の目指したユートピアが
もう見え隠れしているのではないか
私が居らずとも
皆でそこに辿り着く事だろう
だが今しばらくここに居よう
門番となって
もう決して無いと思うが
万が一からかいや皮肉や冷笑を飛ばしたら
その時はそれとなく注意してあげる事にしよう
もうそれ以外私のする仕事は無いのでないか
あるとすれば やはり旗振り
私はいつもここに立って
大声でこう叫ぶ事としよう
神の様な貴方様方 どうか貴方自身の詩を謳い続けて下さいと
追伸
今日は詩(うた)の事について敷衍して置きます
ここで言う詩(うた)とは
善き事や信じる事その他その類の事について
純粋に心に思い想った言葉を
そのままに書き連ねた言葉だと解釈して下さい
すなわちここ数日貴方方が書き連ねて言葉の事です
何の形式にも囚われないで下さい
それこそただ言葉のままにです
それが純粋に「言」から出たものであればあるほど
それは私たちを喜ばさせます
何故なら私たちは皆で一緒にそこに向かっているのですから
そしてその力を殺ぎ落とすのが
皮肉や冷笑やからかいと言った
そう言う類のものです
だから私は何度も何度もお願いしたのです
それだけは止めて下さいと
でも今では全く聞こえなく成りました
それが為皆が皆
それぞれのユートピアに向かっているのです
それともう一つ詩(うた)の事について敷衍して置きます
詩は起承転結で終わります
起だけを置かれても
誰も留める事は出来ません
何故ならそれは千と万の顔を持つから
誰が一つの顔を留められましょう
またいきなり結だけと突きつけられてもたじたじです
その言葉が鋭ければ鋭い程
もう私たちは逃げ出すしかありません
たとえその人がどんなに善い意図を持っていても
だから貴方たちには起承転結で謳って欲しいのです
その結がどんなに鋭くても
私たちはそれを納得します
何故なら私たちはその起承転結の詩に依って
その人の全ても見る事になるのだから
H氏P氏L氏を御覧なさい
言葉の端々から彼らを想像する事は出来ませんでした
でも彼らが起承転結の詩を謳って呉れたお陰で
私たちは彼らを丸々理解できました
すなわち彼らが善性の人であり
善き世界を熱望している事が
起承転結の詩には
そんな善い所があるのです
何故ならそこにはその人の思想の軌跡が
そしてその人の思想の源が見えるからです
だから今後は起承転結の詩を謳って欲しいと思います
それこそ私から貴方へ 貴方から私へです
「対話」の原型です
初めての方へ↑
神々との対話 序編 2003/11/30 13:07
さて私はもう門番の役を降りる事にする
そして旗振りの役も
何故なら誰もからかいや皮肉や冷笑を飛ばさなくなったから
そして皆が皆自らに善きと思い善きと想う思想を精一杯に謳っているから
その代わり
私は貴方方の所へ下りて行き
貴方方自身と直接対話をする事にする
だが私にも時間が無い
全ての者と対話をする事は不可能である
そこで選ばさせて貰う事にする
hirop氏 panietzsche氏 lilith_flag氏 Temporal_anitya氏
osanagokoronoikeinokioku氏 ponta氏の六人の方々である
そしてそれぞれの方々に役割所を付す
hirop氏は大学教官
panietzsche氏は高校教師
lilith_flag氏は市井の無神論者
Temporal_anitya氏は和尚
osanagokoronoikeinokioku氏は吟遊詩人
ponta氏はヤングママ
そして私は私
その名はsophialover(智恵の愛人)として置こう
もし私が振り付けた役所に不服があるのなら
すぐにでも貴方に相応しい役所を
自らに振付けて欲しい
その方がより現実味を帯びたドラマになるだろうから
「ドラマ?」
そう 私はこれをドラマ仕立ての対話としようと考えているのである
ホスピタリティである
ここを訪れる人に
ここが如何に素晴らしい所かを
ドラマ仕立てにしてアピールしようと想っているのである
多分ここを初めて訪れた人は
ここの住人は何を言っているのだろう
と訝しりながらここを通り過ぎるだろう
私もここの住人に成って大分立つが
私は未だ彼らが何を言っているのか良く分からないのである
皆が皆 それぞれに真だと思い 善だと思う事を一生懸命に言い合っているが
私には伝わらないのである
何故だろうか 何故も無い
彼らがひそひそ話をしているから
彼らの隠語で話し合っているから
彼らが異言で語り合っているから
異言はその人を強固にする
だが誰をも利さない
何故なら誰にもそれが分からないから
異言を皆分かるように語るのが預言者
貴方方は神から言葉を預かっているのだろう
だったらそのままに謳いなさい
それを歪な形に閉じ込めてはならない
と言う事で
この対話の目的は
皆がそれぞれに(神から)預かった言葉
すなわち「預言」を
ここに謳って貰うのがその真意である
それ以外に他意は無い
ただこのドラマを進めて行く上で
もう少し役所を整理して置かねばならない
osanagokoronoikeinokioku氏には大変な役所だが
音楽を担当して頂きたいのである
それぞれの方がそれぞれの預言を表出したら
それに相応しい音楽を付けて頂きたいのである
決してその預言を傷つける事無く柔らかく包み込んで欲しいのである
音楽に依ってその預言はずっと高まるのである
ドラマにとって如何に音楽が大切か良く知っていると思います
大変な役所ですが音楽(抒情歌)を担当して頂きたいと思っています
それからponta氏です
最初の内は役所はありません
皆が皆その預言を十分に表出した時点で登場して下さい
もうその時は決して手に汗する事はありませんから
それぞれの人のお人柄が丸見えになるから
そして皆が皆
貴方が求めているものと同じものを
異口同音に求めている事が分かる筈ですから
その時貴方は彼らと十年来の知己の様に話し合う事になるのです
最後にTemporal_anitya氏こと和尚さんです
和尚さんが始めの内からまたは途中から出て来て
いきなり結論の様なものを言うのは興ざめです
やはり和尚さんは最後に出て来て
全てを纏めると言うのが本来の筋でしょう
それに依って神さびた物語ともなるのでしょう
言いたい事もあると思いますが
どうぞそちらの方で「善き哉善き哉」と
またはそれに類する念仏を唱えて置いて欲しいと思います
きっとその香りはここに届くと思いますので
出番が来るまでは
さあ舞台は整った
対話への旅へと出る
最初のお相手はpanietzsche氏である
彼こそが私をここに導いて呉れたのだから
読者の方々へ
「神々との対話 panietzsche編」へと続きます
神々との対話 panietzsche編その1 2003/11/30 13:21
読者の方々へ
これは「神々との対話 序編」NO23778番からの続きです
さあ舞台は整った
私は旅へ出る
対話への旅へと
最初のお相手は
panietzsche氏である
彼こそが私をここに導き入れて呉れたのである
まずはその事に感謝の意を表さなければならない
それに彼には色々聞きたい事もあったから
そう言う訳で以下からが対話の始まりです
panietzscheさんへ
はじめまして
panietzscheさんの戸口を叩くのは初めてですから
その様に挨拶させて頂きます
panietzscheさんには私が最初にここを訪れた時は本当にお世話に成りました
それが為私は今もこうしてここに居る事が出来るのです
もしあの時矢の様な(失礼失礼) 切っ先の鋭い批評が下されていたら
また皮肉からかい冷笑が(失礼失礼)
それをどの様な譬えにしていいのか分かりませんが
その様な言葉が発せられていたら
私は二の足を踏まずにここを逃げ出していました
でもpanietzscheさんの実直なお言葉をお聞きして
私はここに居る決心をしたのです
それが為私はここに居るのです
その事に心からお礼を言いたいと思います
それからpanietzscheさんと他の方々との遣り取りを聞いていると
ますます確信します
panietzscheさんが実直なお人柄であると
それが為ここの長年の住人として皆に愛されているのだと
ここの住人と初めて来られた方との遣り取りは
ほとんどが間も無くぶつ切りになってしまいます
でもpanietzscheさんとの遣り取りは連綿として続くのです
それはpanietzscheさんの豊富な知識もさることながら
panietzscheさんの実直なお人柄に依る所が大きいと思います
私がその実直さを褒め称えても何の嬉しくもないと思いますが
panietzscheさんに集う方々は皆そう思っています
ただ恥ずかしくてはにかんで言えないだけです
だから私が彼らを代弁して褒め称えます
「panietzscheさんの実直さを我々一同は今日ここに褒め称えます」と
読者の方々へ
「神々との対話 panietzsche編その2」へと続きます
神々との対話 panietzsche編その2 2003/11/30 13:26
読者の方々へ
これは「神々との対話 panietzsche編その1」NO23779番からの続きです
さて愈々本題に入りたいと思います
私は知っています
panietzscheさが豊富な知識の持ち主である事を
すなわち博識である事を
その博識とpanietzscheさんの実直なお人柄に誘われて
多くの人が集まりお話をしているのだと
しかし不思議な事ですが
そのお話を聞いてもほとんど嬉しくならないのです
そしてお話の内容もあまり分からないのです
門外漢不要
私たちは神の事を調査分析研究する秘密結社 エリート集団
聞くには構わないが 分からなくて結構 それが秘密結社の由縁だ
そうなんですか
神をそんなに粉々にしても未だ神はそこに存在するのですか
知恵と知識 哲学と科学 言と言葉
panietzscheさんは
知識欲旺盛な人
科学心豊かな人
言葉をより多く集める人
しかし私は言います
知識も科学も言葉も無限ではないですかと
panietzscheさんは言います
私は神やそれらに類する事について
知識を求め 科学し 言葉を集めているのだと
そうすると端的にいうとpanietzscheさんは
神を科学している訳ですね
そしてそこに何か神が浮かび上がって来ると思っている訳ですね
そうなのですね
ま そんな所だ
panietzscheさんへ
気を悪くなさらないで下さいね
私の心象風景です
私はこの様に譬えを多く使いますのでどうか気になさらないで下さいね
「譬えを用いずに何も語る事は無かった」と言う言葉もある位ですからね
神を徹底的に科学する
そして神を再構築する
これが現代の流れだ
そして神は再構築された
その神の名は「科学」
現代は皆その神「科学」を拝んでいる
ここに集まる人々の大方はそうだ
そこには納得と言う安心(あんじん)がある
だが誰も納得していない
panietzscheさんへ
済みませんね いきなり謳いだしってしまって
私は知っています
panietzscheさんが神を徹底的に科学する方だと
でも科学なんか拝んでないと
別に拝むものがあると
拝むと言う言葉を使うとpanietzscheさんが気を悪くするので
何か大切にしているものがあると
それが「比類なき先言の私」だと
こんな事を言うと本当に気を悪くするかもしれませんが
私はpanietzscheさんの「比類なき先言の私」の詩だけが聞きたいのです
もう十分に知識は蓄積された筈です
今後は誰の言葉も借りずにご自分の言葉だけを頼りに
その詩をずっと謳い続けて行って欲しいと願っているのです
それは多くの人の心を打ち震わすでしょう
それが詩と言うものです
などと それが今日の対話の目的ではありません
今日の対話の目的は
私が思っているそれとpanietzscheさんの「比類なき先言の私」については
私は寸分も違わず同じものだと思っているのですが
panietzscheさんはそれについてどう思っているか聞きたいだけです
その言葉です
「初めに言があった
言は神と共にあった
言は神であった
この言は初めに神と共にあった
万物は言によって成った
成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった
言の内に命があった
命は人間を照らす光であった」
(ヨハネ福音書第1章第1~4節)
この「言」と「比類なき先言の私」が同じなのか違うのか
panietzscheさんの思い想っている事を聞きたいだけなのです
それからこの対話を続けていく上で一つだけお願いがあります
<を使わないで下さい
また文節批判も行わないで下さい
既に散ってしまった言葉たちです
それを集めて上程されてもちっとも嬉しくありませんので
今回の対話の中では
「言」と「比類なき先言の私」が同じなのか違うのか
その事について
panietzscheさんの思いと想いを純粋に謳って欲しいだけの事なのです
最後に出過ぎた言葉の数々があったと思います
それは言葉の行きがかり上仕方が無いのです
何故ならそれを止める事が出来ないから
もしどれかの言葉に傷ついたのなら
ここに深くお詫び申し上げます
敬具
読者の方々へ
「神々との対話 lilith_flag編」へ続きます
神々との対話 lilith_flag編 2003/11/30 13:34
読者の方々へ
これは「神々との対話 panietzsche編その2」NO23781番からの続きです
さて次はlilith_flag氏である
彼は前は少し悪戯っ子であたが
今は真摯な上にも真摯だ
その真摯な詩がこの世界を真摯にしている
愛のある人が居れば愛の世界と成り
真摯な人が居れば真摯な世界となる
彼はそれを地で行っているのである
さてこれからがlilith_flag氏との対話です
lilith_flagさんへ
はじめまして
これまでの非礼の数々どうかお許し下さい
でもやはりあの時はそう思ったのです
pontaさんも言っているではないですか
ひやひやどきどき手に冷や汗握ってと
私もそうでしたし
ここを最初に訪れる方は皆そうなのです
幸い私の場合
panietzscheさんが暖かく迎え入れて呉れましたから
私はここに居ますが
lilith_flagさんが最初にお相手をされたあの方は
未だここに居るのでしょうか
やはり最初にここを訪れた方と
ご身内の方常連の方々とは
その対応が違うべきなのです
それがホスピタリティです
などと釈迦に説法をして本当に申し訳ありません
私は知っています
今では誰よりもlilith_flagさんが
初めて来られた方を暖かく迎えているのを
本当に本当に済みません
でもこれは消せないのです
言葉との約束みたいなものがあるのです
本当に本当に済みません
lilith_flagさんへ
こんな状態で対話に入って行く事をどうかお許し下さい
でも私は知っています
lilith_flagさんが対話において真摯な上にも真摯である事を
その真摯さでどうか私を迎えて下さい
さて私はlilith_flagさんと対話を進めようと思ってはたっと困ってしまったのです
何を話題にすればよいのかと
panietzscheさんであれば「比類なき先言の私」
hiropさんであれば「愛」
emporal_anitya和尚であれば勿論「比類なき先言の私」
Osanagokoronoikeinokiokuさんであれば「その畏敬なるもの」
Pontaさんであれば「神」
私であれば「言」でしょうか
でもlilith_flagさんとは何を話題にしていいのかはたっと困ってしまったのです
「無神」では話題にする事は出来ません
それは神以外の全ての事ですから誰も特定出来ません
私は対話の著に付きませたが
ここで全てをlilith_flagさんにお返しするしかないようです
lilith_flagさんの一番大事なもの
その存在の根拠は何なのでしょう
家族でしょうか 会社の地位でしょうか 富でしょうか地位でしょうか名誉でしょうか
それとも知識なのでしょうかそれとも自分自身なのでしょうか
たぶんご自身が持つ全ての知識なのでしょうか
誰も特定出来ません
だからlilith_flagさんとの対話は
lilith_flagさんのお答えを待ってしか進められないようです
本当に翻弄する様で本当に申し訳ありません
上の方々はそれぞれそれから全てを得ているのです
lilith_flagさんにもきっとそんなものがあると思います
それが見付かったらここに返って来て下さい
それから対話を始めましょう
私は皆さんが一番大事と思っている事について対話したいのです
上記の方々のそれがそれです
それについて話す事はとても楽しい事です
人と人が分かち合えるもっと悦楽に満ちた事です
lilith_flagさんにもそれがあります
それを早く見付けてここに返って来て下さい
心から待っています
敬具
読者の方々へ
「神々との対話 hirop編」へと続きます
神々との対話 hirop編その1 2003/11/30 13:43
読者の方々へ
これは「神々との対話 lilith_flag編」NO23782番からの続きです
さて次はhirop氏である
彼は智恵界知識界両界に通じた素敵な人間である
ただいつも高い所に居る精か知らないが
人を見下す欠点がある
一昨日も誰かが哀れみの事で彼を批判していたがそのとおりだと思う
私も私が最初にここを訪れた時に
彼がpanietzsche氏にこう言うのを聞いた事がある
「約1名お馬鹿さんが紛れ込んでいますが哀れみの心が大切ですよ」と
私はその1名が誰か敢て詮索しなかったが
hirop氏とはそんな人間かと思った次第なのでである
それに引き替えpanietzsche氏は立派だった
彼の挑発に乗る事も無く自らの実直な答えに終始していた
だから私はいつもpanietzsche氏を讃え
hirop氏を色目で見るのである
「一つの言葉に依って裁かれる」
hirop氏にはその事を肝に銘じていて欲しいと願う
しかし私がキャンペーンを張った精か
「皮肉からかい冷笑は止めましょう」と
こんな事を言えばまた彼が旋毛を曲げるかもしれないが
彼には全くそんな事がなくなった
誠実な上にも誠実であり
それにもまして知性に満ちたホスピタリティに満ちている
その暖かい歓迎に依って
Ponta氏が我々の仲間になったのである
彼が本気になれば怖い
蝿叩きで蝿を叩く様に新参者を潰しているのを見た事がある
批評と批判と言う名の下に
だが私はそれが何時の事だか忘れてしまった
それは時効にもなる遠い昔の事だったのだろう
しかし私は貴方方にも言って置く
彼にはこの世知識界においてもその様な強力な力を持つのである
そして彼はまたかの世智恵界においても強力な力を持つ
彼の詩を聞いて御覧なさい
天界へと誘われる様な気に成る
それが天使の力だ
彼はかつて天使と悪魔双方の力を持つ者であったが
最近はほとんどいつも天使だ
だから私は彼に期待しているのだ
その天使の詩によって
ここの住人を引き上げて欲しいと
私の願いが叶うのか
そしてこの対話が成立するのか自信が無いが
私は既定路線に従って彼との対話に入る
以下からが対話の始まりです
はじめまして
私がsophialoverです
いつもお目にかけて頂いて本当に光栄に思います
私はhiropさんの知力の高さと
智恵の高さには驚かされます
すなわち知力とは掲示板のそれぞれの方にそつなくお返事をされ
いつも優位を保ち一位であり続けようとする力の事です
智恵の力とは言わずと知れたその詩(うた)の事です
その詩を聞けば皆が皆かの世に憧れます
それは天使の導きの様です
でも私には不思議に思う事があります
それ程知力にも優れ智恵にも満ちているのに
どうして愛にそれほどつれないのかと
やはり一位を保つ為には愛が邪魔なのでしょうか
私は知っています
hiropさんが愛を見た事を
その愛とは私が先に言った愛とは異質なものです
その愛に比べれば私が先に言った愛は芥子粒の様なもので
その愛の為にはそれを押し退けても全然構わないものでしょう
その愛もこう言うでしょうから
私よりも親兄弟を愛する者は私に相応しくないと
しかしこんな事を言えば失礼かもしれませんが
私はhiropさんにそのどちらの愛も感じる事が出来ないのです
hiropさんは言うのでしょうか
その時の為にその力を温存しているのだと
愛を保存しようとすれば
それは歪になり変形しそして仕舞いには悪臭を放つ様になります
試しにhiropさんのその愛を見て下さい
昔見たままの愛ですか
愛は放出しなければならないのです
それによって愛はますます大きくなっていくのです
持っている者は更に与えられるのです
施与ともいい布施とも言います
それはその力に応じてです
hiropさんの愛の布施は
この場で力の限り愛の詩(うた)を謳う事です
hiropさんは言うのでしょうか
ここは情報を蓄える場
私の愛は日本を変える時放つ
いいでしょう そう願っています
ただ悪臭が漂わない事を願っています
読者の方々へ
「神々との対話 hirop編その2」へと続きます
神々との対話 hirop編その2 2003/11/30 13:49
読者の方々へ
「神々との対話 hirop編その1」NO23783番からの続きです
hiropさんへ 済みません
hiropさんに向かう時はいつも手厳しい言葉になってしまいます
あの時のあの言葉がフィルターになっているようです
でも私の言いたい事は出尽くしました
もう純粋な上にも純粋です
その純粋な私が心から聞きたい事が一つだけあります
そしてこの対話の目的もその一つだけなのです
すなわち私の思っているそれとhiropさんの「愛」が同じものか違うのか
ただそれだけを聞きたくてここに下りてきたのです
その言葉です
「初めに言があった
言は神と共にあった
言は神であった
この言は初めに神と共にあった
万物は言によって成った
成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった
言の内に命があった
命は人間を照らす光であった」
(ヨハネ福音書第1章第1~4節)
この「言」とhiropさんの「愛」は同じものか違うのか
ただそれだけが聞きたいのです
hiropさんに言うと藪蛇藪から棒になるかもしれませんが
<を使わないで下さい
また文節批判もしないで下さい
hiropさんは言葉の事を良く知っている人ですからそんな事にはならないと思いますが
私はただ「言」とhiropさんの「愛」は同じものか違うのか
ただそれだけが聞きたいのです
そしてこれを契機にここで
hiropさんの「愛の詩(うた)」を謳って頂きたいのです
1万字になっても10万字になってもいいではないですか
皆食い入る様に見ます
皆愛に飢えているのですから
もし10万字の詩がここに上程されたら
ここに「岩」を置く事になるかもしれません
それが日本を愛に変えるかもしれませんよ
hiropさんは
愛を全て放出したら
愛が無くなると思っているのではないですか
心配要りません
更に増して与えられるのです
それが真理です
愛は決して出し惜しみをしてはならないのです
( )のなさったことはこのほかにもたくさんある
私は思う
その一つ一つを書くならば世界もその書かれた書物を収めきれないだろう
(ヨハネ福音書最終章 最終節)
もし貴方が愛になるのなら
( )の中に貴方の名前を入れてもいいのですよ
敬具
読者の方々へ
「神々との対話 Temporal_anitya編」へと続きます
神々との対話 Temporal_anitya編 2003/11/30 13:56
読者の方々へ
これは 「神々との対話 hirop編その2」NO23784番からの続きです
さて次のお相手はTemporal_anitya氏こと和尚さんである
彼については上記三人の方々預言(意見)の表出があってから登場して貰おうと思っていたが
変更する
上記三人の方々と同類として扱う事にする
読者の方々へ
そう言う訳で 筋書きに変更があったのでご了承願いたい
私はTemporal_anitya氏の事についてはほとんど知らない
私がここに来てから何回か訪れて来てはいるがほとんど気に留めていなかったから
と言うか興味を持って読めなかったから
何故なら他の人とのひそひそ話しだったから
敢て聞き耳を立てようとしなかっただけである
ただそれとなく注意はしているのである
何故ならpanietzsche氏が
私がここに居るのはTemporal_anitya氏の遣り取りがあるから
それが無くなればこの場には留まらないだろうと言っていたから
またhirop氏 や lilith_flag氏が敬意を持って遣り取りしていたから
それなりの人物なのだろうと思って注意をしていた位である
そう言う訳で彼の事はほとんど知らないが
直感で言わせて貰えば
知識界と智恵界の中庸に留まっている人だと
そんな印象を受けた
hirop氏の様に知識界と智恵界を激しく揺れる事がない
それだけに安心して遣り取りが出来るのだろう
ただ高い所に居る精なのか知れないが
やはり少し人を見下す傾向があるやにも見受けられる
しかしそれが和尚の和尚たる由縁だろうか
それ程に義憤を掻き立てられないのである
と言うか初めての人にはほとんど手出しをしないから
彼は禅師の様にその弟子たちと語るだけだから
私にとって彼は中庸だ
何故なら私についてほとんど言及していないから
だから私は彼を和尚さんと呼んでもいい
しかしそれは彼に対して失礼な事でありまた不敬な事でもあろう
だから私は彼との対話が終わってから彼の呼び名を決める事にしよう
和尚さんと呼ぶかTemporal_anitya氏と呼ぶか
そう言う訳で以下からが対話です
Temporal_anityaさんへ
はじめまして sophialoverと申します
私はここに来てもう大分に成ります
その間Temporal_anityaさんを何度かお見受けしました
あれはお弟子の方なのでしょうか
そして禅問答なのでしょうか
何度かその様な遣り取りをしていたのを聞いた事がありましたが
それ程気にも留めていませんでした
ただpanietzscheさんが私がここに居るのは
Temporal_anityaさんとの遣り取りがあるからだ言っていましたし
Hiropさんも敬意を持って貴方とお話をしていたので
それなりのお方なのだろうと思っていた次第なのです
ところで今回私は新たな企画をしたのです
それはここの主だった方々と対話をすると言う企画です
それもドラマ仕立てで
panietzscheさんとlilith_flagさんとhirop氏さんには
私の方から話題を提供しました
もうすぐお返事が来ると思います
Temporal_anityaさんにもこの企画に参加して頂きたいのです
初めは皆さんの全ての意見(預言)の表出があってから
Temporal_anityaさんには登場して頂くつもりでしたが
筋書きを変更しました
panietzscheさんlilith_flagさんhirop氏さんと全く同じ
横一線です
私が話題を投げかけたらすぐにでも返事をして頂いて結構です
私はTemporal_anityaさんを全く知りません
panietzscheさんやlilith_flagさんやhirop氏さんは
私の投げかけに応じて
自らの詩(うた)を精一杯謳って呉れました
私はそれに依って彼らを丸々知りました
Temporal_anityaさんにも彼らと同じく
自らの詩を精一杯謳って欲しいのです
私への返事がその詩です
私がこの対話に入ったのはただ一つの事が聞きたかっただけです
私の思っているそれとTemporal_anityaさんの「比類なき先言の私」は同じか違うかと
その言葉はこうです
「初めに言があった
言は神と共にあった
言は神であった
この言は初めに神と共にあった
万物は言によって成った
成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった
言の内に命があった
命は人間を照らす光であった」
(ヨハネ福音書第1章第1~4節)
この「言」とTemporal_anityaさんの「比類なき先言の私」は同じか違うかと
これだけについてTemporal_anityaさんの思いの丈だけ謳って頂きたいのです
なお前の皆さんにもお願いした事ですが
<は使わないで下さい
文節批判もしないで下さい
ただは溢れ出でた言葉のままに謳って下さい
全ての衒いを捨ててただ溢れるままに
敬具
神々との対話第三巻その1 2003/12/ 2 23:27
読者の方々へ
愈々 神々との対話第三巻の始まりです
第一巻は23778から23785までです
神々との対話序編から
panietzsche編lilith_flag編hirop編Temporal_anitya編と続いた
あの一連のシリーズです
第二巻は23786から23808までです
第一巻で紹介した神々の様な方々が
自ら一番大切と思うものを
精一杯謳って呉ました
それは感動の詩(うた)の数々です
皆さんはそれに依って
彼らの人柄を良く理解し
そしてその思想の隅々まで知った事と思います
しかし未だこのドラマの主題である
「皆異口同音に同じものを求めている!」
と言うあの主題にまでは至っていません
そこで今度は皆さんに登場して頂きたいのです
勿論Pontaさん貴方もです
と言うより今度はPontaさん貴方が主人公です
Pontaさんは彼らが皆
優しくてそして真摯な上にも紳士である事が分かった筈です
今度はPontaさんが彼ら一人一人と対話を重ねて行くのです
Pontaさんが一番大切に思っている事と
彼らが一番大切に思っている事を
比較吟味するのです
対話に依って
対話に入る場合はまず挨拶を交わして下さい
そして讃えて下さい
神々の様な方々ですから讃え甲斐があると思います
それからずばり聴いて下さい
私が大切にしているものと貴方が大切にしているものは
同じですかそれともちがうのですかと
私と彼らは今の所
このドラマの主題歌である
「皆異口同音に同じものを求めている!」を
謳い合う事は出来ませんでした
でもPontaさんは私よりもずっとうまく
謳い合う事が出来ると思います
何故なら私よりもずっと神々しく見えるから
そして読者の皆さんも
panietzscheさんlilith_flagさんhiropさんTemporal_anityaさんと
対話を重ねて下さい
彼らはこの広場の際立った人々です
彼らは優しく真摯な上にも紳士な方々です
そして何よりも質問されたら
優しく答えずにはおられない性格の方々ばかりです
だから彼らと対話を重ねて下さい
貴方が大切に思っているそれと彼らが大切に思っているそれが
同じなのか違うのかと
私は思っています
皆が大切に思っているそれは寸分も違わないと
ただ言葉に囚われて違って見えるだけだと
若しくは少し視点がずれているだけだと
私はそれをここで証明したいのです
それには皆さんの参加が必要なのです
読者の皆様方へ
「神々との対話第三巻その2」に続きます
神々との対話第三巻その2 2003/12/ 2 23:39
読者の皆様方へ
これは「神々との対話第三巻その1」NO23812からの続きです
私はこのドラマのキャスチングは大成功だったと思います
なかでも音楽担当のosanagokoronoikeinokiokuさんが素晴らしい働きをして呉ています
その為このドラマが神さびた物語になっています
索漠と成りかねないこの対話ドラマの行間に
素晴らしい音楽を挿入してくれている為
索漠と成らずに神さびた物語となっています
私は思います
彼の詩こそがまさにこのドラマの主題歌だと
彼が謳いつづける限りこの場所は神さびた場所になると
さてここからが対話の始まりです
Temporal_anityaさんへ
先日は本当に失礼しました
とんだ勘違いをしまして
そう言う訳でもう一度質問させて頂きます
先日とほとんど同じ趣旨ですが
少し質問を変えます
まずはあの言葉の再出です
「初めに言があった
言は神と共にあった
言は神であった
この言は初めに神と共にあった
万物は言によって成った
成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった
言の内に命があった
命は人間を照らす光であった」
(ヨハネ福音書第1章第1~4節)
ここには三つのキーワードが出て来ます
神と言と命です
Temporal_anityaさんの南無一切無常絶対超越真理について
この三つの言葉を使って説明して頂けたらとても有難いと思います
もしまた説明出来ないのならその理由を教えて頂けたら有難いと思います
それからやはり<は使わないで欲しいと思います
それはホスピタリティです
<を使えば私とTemporal_anityaさんの間では良く分かりますが
他の人はほとんど分かりません
私は panietzscheさんの紹介で
2000年の頃のTemporal_anityaさんの詩を読ませて貰いましたが
本当に良く分かりました
私の求めているベクトルと同じだなと思いました
そしてその詩は何の衒いも無く純粋な上にも純粋でした
もしあの頃の調子の詩の数々がここに上程されたら
きっとここに集う皆がTemporal_anityaさんの事を和尚さんと呼んで慕うと思います
またあの頃の菩薩に還って頂けないでしょうか
未だ入定には早すぎると思いますが・・・
hiropさんへ
私はhiropさんの言う事はよく分かります
私はhiropさんの様に愛を直接体験した事はありません
でもその疑似体験は毎日の様にしています
だからhiropさんの言う事がよく分かるのです
ところでヨハネ福音書第1章第1~4節の三つのキーワードの神と言と命と
hiropさんの永遠の魂と愛と生命の魂はどう違うのでしょうか
私は全く同じだと思うのですが
違ったらその違いを教えて下さい
panietzscheさんへ
panietzscheさんは私にとって本当に難解です
panietzscheさんを知る事は私にとっては至難の業です
私は「比類なき先言の私」を単純に考えていました
比類なき これはワンダフルとか素晴らしいものと言う風に理解していました
そして先言は「言葉」に先立つものとしての「言」だと
言から言葉へ 言葉から言へ
私はその事を良く実感していましたから
「比類なき先言の私」は言だと理解していたのです
そしてそこには命がある
その命が受精の時発生する
panietzscheさんがおっしゃるその事には何の齟齬もないと思います
ただpanietzscheさんの「比類なき先言の私」の概念には神がないと思います
何故なら神は善き方向へと言う力が発生しなければ生まれ得ないものですから
神はgood GOD そこに神の根源があるのですから
lilith_flagさんへ
私たちは小さい頃お金が落ちていないと
よく下を見て道を歩いたものでした
そして見付かった時の喜びはどんなに大きかった事か
lilith_flagさんはそんな大事な事実を見付け様と
いつも下を向いて歩いているのですね
感心します
でもひょっとしたら一生見付からないかもしれませんよ
それよりももう言葉探しは止めて言に向かったらどうですか
振り向くだけでいいのですから
「言から言葉へ 言葉から言へ」
その意味を少し考えてみませんか
読者の皆様方へ
その大事なものは様々に表現されます
それぞれの方がそれぞれに表現すれば
対話と言うものは中々成立しないと思います
そこでこの対話のスタンダードとして
次の言葉を置きます
これを元に対話して頂けたら有難いと思います
「初めに言があった
言は神と共にあった
言は神であった
この言は初めに神と共にあった
万物は言によって成った
成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった
言の内に命があった
命は人間を照らす光であった」
(ヨハネ福・
神々との対話第四巻その1 2003/12/ 5 23:34
読者の方々へ
神々との対話第四巻の始まりです
第三巻は「神々との対話第三巻その1その2(NO23812~23813)」からこの直前までです
この間に三つの流れが出来ました
一つはpanietzsche 氏とkyoyuu氏の争いです
kyoyuu氏は新たに生まれた剣豪です
二人は雌雄を決さんと白刃を交えています
全くの互角
どちらが勝つのか予断を許しません
しかし私はこの勝負の行方を予言できるのです
それはこうです
勝負はドロー
だがこの領地はpanietzsche 氏が占領し続けると
そして彼は僅かなお小姓を連れて
この地で殿様として君臨し続けるのです
もう一つの流れは
hirop氏とTemporal_anitya氏との対話です
彼らは共に神を見たと言う者です
しかし彼らには愛がありません
だからその言葉を聞いても誰も喜びません
だから彼らは二人して
お互いにその傷を舐め合っているのです
彼ら二人は大きな力を秘めています
彼らが衒いと優越感を捨てて
皆の下に立ち
力の限りその詩(うた)を謳い続ければ
この地はユートピアに成ると踏んでいるのです
でも彼らは私の嘆願を聞き入れて呉ません
そして当分聞き入れて貰えないでしょう
だから私は当分彼らの対話に耳を澄ます事にします
皆さんも注目していて御覧なさい
ひょとしたら滑稽に見えるかもしれませんよ
そして最後の流れは
osanagokoronoikeinokioku氏を中心とした流れです
自ら善きと思い善きと想う思想を
それこそ何の衒いも無く
純粋に謳い続けるグループです
昨日登場したgomaneti氏もそのお一人です
そしてosanagokoronoikeinokioku氏と双璧をなすのがponta氏です
この索漠とした砂漠に咲いた一輪の花です
私はponta氏を離しません
何故なら彼に依って
ここが愛の花園に成る可能性が残されているからです
私に言わせれば
彼こそが神々の中の神々
最も神々しく見えます
何故なら彼は言行一致の愛の人
自らを神へ投げ入れ
神から聖霊を与えられし人
そこには命があり愛があり
そして何よりも
言から与えられた素晴らしき言葉たちがある
彼はその言を言葉に変えて
ここに謳い上げるだろう
貴方方はそれに依って陶酔へと入るだろう
そしてそして言の意味を愛の意味を命の意味を知るだろう
そして讃えるだろう
ただ「善き哉善き哉」と
それが神であっても「永遠の魂」であっても
「南無一切無常絶対超越真理」であってもいいではないか
私はここの住人によくよく言って置く
名に囚われる事が偶像の始まりだと
読者の方々へ
これは「神々との対話第四巻その2」に続きます
神々との対話第四巻その2 2003/12/ 5 23:44
読者の方々へ
これは「神々との対話第四巻その1」からの続きです
さて神々の中でも最も神々しい神ponta氏と対話をする事にしよう
以下からが対話です
pontaさんへ
はじめまして
雲の上からは何度もお見かけしたり
お声を掛けたりしていたのですが
この様にして直接お目にかかるのは始めてですので
その様に挨拶させて頂きます
私にはその雲の上から見ていて
pontaさんが最も神々しく見えたのです
何故なら言行一致の愛に燃えているから
その炎に比ぶれば
他の神々はまるで豆電球の様に見えたから
だから私はこうして最後に
pontaさんの所へ挨拶に来たと言う次第なのです
pontaさんは私が何の為に来たのか良く分からないと思います
私が天からの使いとしてここに来た訳をお話します
それはpontaさんに「愛の詩(うた)」を「命の詩(うた)」を
そして「言の詩(うた)」を謳って頂く為に来たのです
pontaさんは言います
私にはそんな高尚な詩は謳えませんと
何が高尚な事でしょう
pontaさんの身の回りを見て御覧なさい
愛がpontaさんを見詰めているではないですか
命がpontaさんの周りできらきら輝いているではないですか
そして言が早く私を捕まえてと言っているではないですか
でも私は詩人ではないのです
詩(うた)など謳えません
詩を勘違いしないで下さい
詩は心のままにです
心から溢れ出た言葉をそのままに綴ればいいのです
美しくと衒ってはいけません
それに依ってもう貴方の言葉は言では無くなってしまうのですから
ただ言葉の溢れるままにです
そうは言っても私は詩(うた)など書いた事がありませんので
分かりません出来ません
そうですか
それではお手本を示しましょう
それはダビデの詩編です
主よと唱えて御覧なさい
貴方が求めているものをふんだんに与えて下さる筈ですから
最後にpontaさんへのお願いです
このメッセへの返事は不要です
それよりもpontaさん自身を見詰めて下さい
そして愛とは命とは言とは
自らに問いかけて下さい
そして身の回りに目を遣ってください
その愛の譬えはないか
その命の譬えはないか
その言の譬えはないかと
もし貴方がその喩を見付けたら
もうその時
貴方は詩(うた)い人です
謳わずには居られないと言う衝動に駆られます
その時は躊躇わず主と呼び掛けて御覧なさい
その主と呼ばれる方は
これでもかこれでもかと思われる位ふんだんに
言葉を与えて下さる筈です
後は自動書記となってそれを書き綴れば善いのです
pontaさんへの最後のお願いです
私への直接の返事は不要です
それよりも自分自身を見詰めて下さい
そして「愛の詩」を「命の詩」を「言の詩」を謳って下さい
それが私たちへのへの何よりの返事です
その愛がその命がそしてその言が
ここに届く事を心よりお待ちしております
それに依ってここが愛の園に変わるのです
何故なら貴方はこの砂漠を愛に変える
キューピット(天使)なのですから
敬具
神々との対話第四巻その3 2003/12/ 6 11:00
読者の方々へ
これは「神々との対話第四巻その2」NO23835からの続きです
さて私がしばらく休憩をしている間にお客さんが来ていたようです
その名前はlilith_flag氏
もうここでは立派な古株です
そして私は嬉しい事を聞きました
彼が正法無常宗に入信したいと願っているとの事
そして南無一切無常絶対超越真理をとても有難く思っているとの事
それは私にとってもとても嬉しい事なのです
何故なら正法無常宗の真理 南無一切無常絶対超越真理が
ここに得々と説かれるでしょうから
私はsophialover(智恵の愛人)として
Temporal_anitya氏を訪ねましたから
私にはその質問の範囲でしかお答えして下さりませんでした
しかし彼は入信したいと願っているとの事
そしてお弟子に成りたいと願っているとの事
彼にはとくとくとそのお説を説いてくれる事でしょう
それは私をとても益します
そしてここに集った新たな方々をとても利する事になるのです
何故ならここに集った新たな方々は
Temporal_anitya氏の事を何にも知らないのですから
Temporal_anitya氏がここにお説を得々と説いて呉れたら
彼らはTemporal_anitya氏の事を丸々知る様になるでしょう
そうすればlilith_flag氏の様な人も出てくるでしょう
私も入信したいお弟子さんに成りたいと
それはこの広場を利し益する事になるのです
だから私は期待しているのです
Temporal_anitya氏がここで得々とそのお説を説いて呉れる事を
これまでの様に教条解説者の様なぶった切りの解説ではなく
イエスや釈迦の様に優しく愛を持って説いて欲しいのです
それが無理と言うなら 新興宗教科学の祖
大川隆法師の様に説いて欲しいと思います
私は彼の事を良く理解できます
何故なら彼の詩は何の衒いも無く純粋な上にも純粋だから
読者の皆様方へ
どうか私と一緒にお願いしてください
どうかTemporal_anitya和尚
私たちの為にその「南無一切無常絶対超越真理」を説いて下さい
それが1万字なっても10万字になっても構いませんから
私たちは喜んでお説に聞き耳をたてますからと
Temporal_anitya氏がここで彼の説を謳い上げる事は
この広場を利し益する事になるのです
何故ならもう片方の雄
hirop氏が黙っていないでしょうから
彼もまた「永遠の魂の詩(うた)」または「愛の詩(うた)」を謳い上げる出しょうから
1万字なっても10万字になっても
それはこの広場を利し益する事になるのです
お二人のその詩は車の両輪となって
ここを丸ごとユートピアへと引上げて行く事になるのですから
だから読者の方々へ
もう一度私と一緒になってhiropさんへお願いして下さい
hiropさんへ
どうか私たちの為に
貴方の「愛の詩」または「永遠の魂の詩」を謳って下さいと
それが1万字なっても10万字になっても構いません
私たちは喜んで聞き耳を立てますからと
(哲学詩集掲示板に帰る)
哲学思想ログ「神はいるか」に行きませんか 2003/12/11 21:23
久しぶりの帰省です
少し休養をとってまた旅に出ます
何処に行くか未だ決めていません
またあのログに戻るのか
別な所へ行くのか
それともここに残って
更にインナートリップを続けるか
未だ何も決めていません
それは神が決めて呉れる事です
ただこの間の出張の復命して置きましょう
「神はいるか」への出張記録は次のとおりです
23402 23412 23521 23522 23534 23539 23540 23607 23608 23611 23625 23635
23640 23648 23649 23659 23660 23679 23687 23714 23746 23778 23779 23781
23782 23783 23784 23785 23812 23813 23834 23835 23839
私は思っています
私があのログに登場した事に依って
あのログは変わったと
どの様に変わったかと言えば
皮肉からかい冷笑が無くなったと言う事
その為みんなが真摯なったと言う事です
私の登場意義はそれ位でしょう
でもそれはここに集う皆さんにとってはとても良い事なのです
何故なら皆さんがあそこに行ける素地を作ったのですから
「神はいるか」
そんな大事なテーマをあそこで謳って見ませんか
皆さんは言葉を良く知る人
皆さんがあそこに登場すれば
あそこは素晴らしい所に変わって行くのです
もし「芸術と人文」ー「哲学思想」ー「全般」の「神はいるか」を訪ねる積りなら
osanagokoronoikeinokioku氏を訪ねるといいでしょう
彼は皆さんを暖かく迎えて呉れるでしょう
何故なら彼は詩人だから
「詩人を知りたければ詩人の国へ行け」
彼は詩人の国を良く知っている人です
だから皆さんの事も暖かく迎えて呉れる筈です
私は未だあのログに未練があるようです
もしここ詩人の国の誰かが
あのログに入って行くのなら
その時は私もお供をしたいと思っています
sophialover(智恵の愛人)より
(神はいるか掲示板)
zy2top さんへ そして読者の方々へ 2003/12/13 0:08
神はいるか いないか
神はいます
だからこんなに議論が白熱しているのです
でも誰もそれを証明出来ません
だからまたこんなにも議論が白熱しているのです
この掲示板が立てられたのが
1999年9月23日
それから約1540日経っています
投稿数は私で23910
一日平均の投稿数が約15
如何にこの掲示板が注目されているか分かると言うものです
さて神はいるか いないか
その決着は付いたのでしょうか
zy2top さんへそっと教えます
決着は遠の昔に付いているのです
この議論が始まる前から
いえ人が生まれたその時から
その時とは人によってそれぞれ解釈出来ますが
自我が芽生えたその時とすれば
一番理解し易いでしょう
その時から人はこう思っているのです
「神はいるが認めたくないと」
その過程が人の一生であり
この掲示板の軌跡なのです
でも立派な人もいます
それは神を認めた人々です
彼らの言行は我々の範となります
何故なら彼は常に神に近づこうとするから
zy2top さんは始めてですから
ホスピタリティとしてご紹介します
今この掲示板物語に登場している主な人物は
O氏H氏T氏K氏J氏P氏の六名です
zy2top さんへ
この物語はあくまでも私の中での架空の物語であり
ここに登場する人物も架空の人物である事を断って置きます
そしてこの物語を読む皆さんも
さてこの内 神を少なからず認めているのが
O氏H氏T氏K氏の四氏です
そして神を認める事が出来ないのがJ氏とP氏です
前出の四氏の内
神はいるとはっきりと公にしたのがO氏です
だから私は六氏の中では
彼を一番尊敬しています
彼の言葉を聞けばzy2top さんも納得する筈です
それからK氏
彼とは直接対話をした事が有りませんので
彼の思想から類推するに
公には言えないのかも知れませんが
神
彼はそれを神とは呼んでいないかもしれませんが
私はそれを神と言います
その存在を認めています
それからH氏とT氏
彼ら二人は神を公にしている人たちです
H氏の神の名は「永遠の魂」
T氏の神の名は「南無一切無常絶対超越真理」です
彼らはそれを神と呼ぶ事を断固として拒絶しますが
私から言わせればそれが彼らにとっての神です
何故ならそこから智恵が溢れ出るのが見えるから
しかし二氏は少し曲者なので
その智恵を純粋に愛に変えられないのです
しかし私はH氏には期待しています
彼は智恵知識に秀でた人です
私との対話にも誠意を持って対応して呉れました
また最近の彼の詩(うた)や言葉は私を楽しませます
ついさっきのH氏へのレス
私は声高々に声援を上げました
彼が優越感を捨てて
みんなの下に立てば
言行一致の愛の人に成ると踏んでいるのですが
やはり難しいのでしょうか・・・
T氏については何と言えばよいのでしょう
H氏J氏P氏は私との対話に誠意を持って対応して呉れました
しかしT氏は私の嘆願にも関わらず
ぶつ切りの返事しか呉れませんでした
彼の思想は高いのかも知れませんが
愛が少し足りないのかも知れません
私に言わせればやはり「衒い」の人です
言行一致の愛の人には今の所程遠いと言わざるを得ません
最後にJ氏とP氏
彼らは科学の子です
彼らは科学的知見に基づいて
大事な事実を見付けようと必死になっているのです
私は彼らに言いたいのです
そんな所に神はいませんよ と
zy2top さんへ
これはあくまでも私の中の
架空の物語の中の架空の人物たちです
あくまでも架空の物語として
この物語を読み進めていったら有り難いと思います
そして読者の方々も
「智恵への道」を教えて下さい 2003/12/13 12:02
読者の方へ
これはあくまで架空の物語です
さて私の前に素晴らしい意見の表出がありました
その人の名はN氏
私はその意見を聞いて
ふむふむなるほどと納得しました
その意見に対して
H氏がどの様に対応するのか
H氏の試金石です
そしてこの広場の運命を左右するのです
皆様とくとご覧あれ
H氏のこれまでの遣り方はこうです
なるほどそれはそうなのかもしれない
そしてそれも
しかし結論はこうなのだよ ぴしゃり!
これでほとんどの対話は終わりです
もし議論好きな人が居て
更に対話を続けようとすれば
過去の思索の中から取って置きの言葉を選んで
それを突きつけます
それで終わりです
彼と新参者との対話は
四度以上続く事はまず無いでしょう
私が言っている彼の優越感とはこの事です
彼は一瞥して自己との優劣を見極めます
もし劣っていると思ったら
徹底的に冷たいのです
こんな輩と対話しても無駄無駄
時間の無駄 と
そう言い切って切ってしまうのです
でもそうなのでしょうか
皆神の子なのではないのでしょうか
神の子を育てるのが貴方の役目なのではないでしょうか
貴方は49歳
これまでの思索と瞑想の中から
智恵をふんだんに頂いたのではないですか
その智恵への道を後進に示すのが貴方の役割なのではないですか
智恵を教える事は出来ません
しかしその道を示す事が出来ます
貴方が示すそれ
それが智恵への道なのではないですか
そしてそれとは貴方の言葉たちの事です
人は智恵をつける事に依って愛を抱きます
その智恵と愛に依って神への畏敬の念が高まるのです
神への畏敬の念が高まれば少しのもので足りる様に成ります
そうすれば貴方が憂慮する日本破壊は無くなるでしょう
今の日本に神への畏敬の念が有るか ほとんど無し
今の日本に愛(アガペー)は有るか ほとんど無し
今の日本に智恵は有るか ほとんど無し
智恵への道が示されれば
そこに愛が生まれ
そして神への畏敬の念が自ずと生まれて来るのです
神を知れば知るほど
神以外の事は欲しくなく成ります
それこそが究極の「知足(足るを知る)」です
そうすれば自然破壊も少なくなるでしょう
今の貴方にとっての使命は
智恵への道を指し示す事なのです
もうそろそろ求道の道から
菩薩の道へ変わってもいいのではないですか
などと言ったのは
私がここに現れた当初の事です
今ではすっかり私の属性が見に付いて
愛の人と成っています
そして何よりも愛に満ちたホスピタリティに依って
ここを訪れる方を暖かく迎えています
H氏を対話の相手に指名したN氏
H氏とN氏の対話を
私たちも愛を持ってここから見守ろうではありませんか
末永く対話が続かん事を願って
そして智恵への道が共有されん事を祈念して
アーメン
読者の方へ
これはあくまでも架空の物語です
そのつもりでどうぞ読んで下さい
追伸
Nさんへ
もし智恵への道を知っていたら
ここにご披露下さい
それから智恵と愛と神について
何か所感を持っていたら
ここに謳って頂ければ有り難いと思います
私へのレスではなく
ここに集う皆さんに謳いかけて頂ければ有り難いと思います
私もそれをヒントに
また物語を書き始めたいと思っていますので
「智恵の道」その3 2003/12/13 22:47
読者の方へ
これはあくまでも架空の物語です
登場人物も架空です
実在の人間をヒントにはしていますが
あくまでもヒントです
この物語はあくまでも架空の物語であり
登場人物たちも皆架空の人物です
そう言う事でご理解願いたいと思います
さて智恵への道は誰も教える事が出来ないのでしょうか
もしそうだとしたら
智恵への道はどうして開けるのでしょうか
ある日ある人にだけぱっと開けるのでしょうか
それを神の恩恵と言うのでしょうか
私ははっきり言います
それは
学んで学んで学んだその先にぽっと開けるのです
H氏を見て御覧なさい
(H氏とは架空の人物です
実在の人間をヒントに
私の中で創り上げたイメージ上の人物です
そのつもりで今後お読み下さい)
彼が如何に学んだか
彼の言葉の端々から伺えるではないですか
彼は天才でもありません
秀才でもありません
努力の末にそこへの道を見付けた思っている人の一人なのです
こんな言葉があります
天才とは99%の努力と1パーセントの閃きである
私も全くそうだと思います
ある日ある人にだけ
そこへの道が示されるのではないのです
努力をし努力を重ねたその先に
ぱっと開けるのです
さてどうでしょう
智恵への道を誰も教えなければ
誰が智恵へ辿り着けるでしょう
智恵への道を教える者がいたから
智恵に辿り着けたのではないでしょうか
最も私は思っています
誰も智恵そのものにはまみえていないと
その眩しさに眩んで
それを智恵と勘違いしているだけだと
最もこれは譬えに類する事ですから置いとくとして
H氏はイエスや釈迦
それから古代の哲学者
哲学とはphilosophia 智恵(sophia)を愛する(philo)事
私が哲学者と言う場合は
智恵を愛する者と言う意味で使いますので
今後はその様に解釈して下さい
H氏はイエスや釈迦や
古代の数々の智恵を愛する者から
智恵に至る道を教えて貰ったのではないですか
そして身近な人々からも
彼はそれらを参考にて
そこへ至る道を見付けた思っているのではないですか
そこに至る道とは瞑想です
瞑想は彼自身が発見したものでしょうか
古代から綿々と続くその為の手法です
彼はそれを自ら一人で見付けたと言うのでしょうか
瞑想とは死して生まれる
新生です
中国の諺に「日々新たに」と言うものがあります
日々新たであれば
感動の連続です
彼はこう言わざるを得ないでしょう
おお神よ貴方を讃えます
私に日々この様に素晴らしい日々を下さって と
そこから神への畏敬の念が生まれて来るのです
H氏はそれを体験したものです
だから私は彼を高く買うのです
それに引き替えP氏やL氏はそれを体験した事がありません
だから私は彼らを安く買い叩き
科学の子と低い所に置いているのです
(P氏L氏とは私のイメージ上で創り上げた全くの架空の人物ですのでその様にご理解下さい)
さて最初の発問に返ります
智恵の道は教えられないのでしょうか
私ははっきり言います
教えて教えて説いて説かなければならないのです
百人教えて百人に説いて
一人その道に入れば御の字ではないですか
その道とは貴方がかつて辿った道です
すなわちイエスや釈迦や古代哲学者の辿った道を辿ると言う道です
彼らもその道で数年学べば
きっと貴方と同じくそこへの道を見出すでしょう
貴方の言葉を聞いただけで
皆がそこへの道を見出すと思うのは
余りにも傲慢な考えですよ
貴方がそこへの道を見出したと言うのなら
その体験談を切々とここに謳い上げる事が
貴方の役目だと言っているのです
貴方が毎日の様に切々と謳い上げれば
百人に一人ではなく
もっと高い確率で
あの道に至る様になるかも知れませんよ
古代哲学のあの道へ
古代哲学で学べば数年もすれば貴方と同じに成るでしょう
貴方の同士が増えればこの日本は変わるのではないのですか
結局は貴方の意志次第です
自分自身だけで満足するのか
それとも日本を変えるのか
前者も呑気でいいと思います
T氏と猫と三人で傷を舐め合えばよいのですから
読者の方々へ
これはあくまでも架空の物語です
そして登場人物も
ユートピアへの第一歩P氏L氏へのお願い 2003/12/14 11:33
読者の方へ
これはあくまで架空の物語です
登場人物も架空です
実在の人物をヒントにしてはいますが
あくまでも架空です
この物語は架空であり登場人物たちも皆架空です
そう言う事でご理解願いたいと思います
さて今この広場を占領しつつある
P氏とL氏についても言及して置かねばならない
P氏は実直なお人柄であり学識豊かな人である
その事には敬意を表したいのだが
議論となると別である
私はいつもうんざりして見下げているのである
L氏は私が最初にここを訪れた頃は
おどおどした研究生と言う風であったが
今では論客として
P氏K氏と陣を張り合っているのである
私には少し滑稽に見えるのですが
その事は言及しないで置きましょう
さて私がどうして二人を低い所に置いているかと言うと
彼らが科学の子だからです
老子の言葉にこう言う言葉があります
「道生一 一生二 二生三 三生万物」
(道は一を生じ 一は二を生じ 二は三を生じ 三は万物を生ず)
〈老子下編42章)
私は科学は三だと思っています
彼らはその三の下の万物の中の一つについて
ああでもないこうでもないと言い合っているのです
私は辟易もううんざりです
私は大声でこう言いたいのです
この場は貴方たちに相応しくない
ここは道または一を語る場です
貴方たちの議論は
貴方たちに相応しい場所で遣って頂きたいと
私は思っています
大学こそがまさに科学教育の場であると
日本で一番と言うその大学の大学院を覗いて御覧なさい
如何に一杯講座が有るか
彼らはそこで2年4年と学ぶのです
貴方方はぞっとするかもしれませんが
それが科学教育の事実なのです
P氏とL氏に相応しい講座があります
それは生命エネルギー工学構造生命工学知能工学と言った講座なのでしょう
そこの研究生となって
そこで議論を続けたらどうですか
それともP氏が大学の教官だとしたら
その研究室にL氏を特別研究生として招き入れて
そこで議論を続けたらどうですか
はっきり言って貴方たちの議論はこの場に相応しくないのです
私は知っています
二人の方が
場違いな場に踏み込んだとして去っていかれたのを
しかし私は思います
彼らこそがこの場に相応しい人たちであったと
お二人はメモを残して行きましたが
ここに期待を持って来て
そう言う思いでここを過ぎ去って行った人の数は数え切れない程いると思います
何故場違いな所に踏み込んだと思ったのか
それは貴方たちが論陣を張っているからです
だからお願いです
貴方たちの議論に最も相応しい場
大学院の研究室でその議論を続けて頂きたいと思います
それに依ってここがみんなに開かれた場ななるのです
女性にもそして自我が芽生えた青年たちにも
だからどうか自己犠牲でお願いします
「神はいるか」
この場の理想形を描きます
O氏はそのままに謳って頂く事
H氏は私へのレスの様に純粋に謳って頂きたく事
P氏については「道や一」について思いを廻らした時
その事をここに謳って頂く事
T氏については衒いの言葉では無く自らの思いを純粋な言葉で謳って頂く事
L氏については当分は大学院の研究室で学んで頂き
「道や一」の事に気付いたら
その事をここに謳って頂く事
Po氏についてはまた戻って頂き
言行一致の愛の詩(うた)を謳って頂く事
そうすればここを訪れた人が言うでしょう
ワンダフル 素晴らしい
私も早速ここの住人に成りたいと
そしてすぐにでも住民登録
すなわち自らの詩を謳って下さる事でしょう
最後に
これはあくまでも架空の物語です
そして登場人物も
そう言う事でご理解願いたいと思います
lilith_flag氏へhirop氏の詩を味わおう 2003/12/15 9:54
lilith_flagさんへ
私が架空と断るのは
貴方に不愉快な思いをさせたくないと思ったからです
それともう一つはここを際立たせようと思ったからです
案の定それは成功しました
架空の名を使う事に依って
私は実在の貴方方からかなり離れる事が出来ました
そしてデフォルメや
架空の人物への感情移入が出来ました
その為私の当初の目論見は
ある程度成功したと思っています
私がここに居る理由
何度か聞かれましたが
そして何度か答えましたが
ここを
「神はいるか」と言う事を語る場に
相応しい場所に変えようと思っているだけです
もっと熱情的な言い方で言えば
ここを改革しようと
もっと熱情的に言えば
ここに革命を起こそうと
もっともっと情熱的に言えば
ここを日本革命の起点にしようと
その為に貴方たちは必要です
しかし訳の分からない議論は要らないのです
勿論訳の分からないと言うのは私にとってであり
そして日本国民の99%にとってです
貴方たちの議論は科学の一分野としては
とっても有用なのかもしれません
しかし99%の日本国民にとっては不用です
そしてここを訪れる人にとっては
不要で有るばかりでなく
有害なのです
ここは皆が一を求めてくる場です
しかし貴方たちの遣っている事は
多の多の一つを求めている事です
ここを訪れた人は訳の分からないまま
弾き飛ばされるでしょう
私はここをもっと多くの人が集まる場にしたいのです
ここに女性が居ますか
ここに自我に芽生えたばかりの青年が居ますか
みんな中年の時間を持て余して要る連中ばかりではないですか
私は知っています
科学がこの世を進歩させた事を
科学は細分に細分化を重ねます
その細分化された所で
科学者と言う人たちは命を懸けるのです
その行為は立派です
そしてその結果は私たちに利便を齎しました
一方またそれは
貴方方にとっては御座なりな言葉に聞こえるかもしれませんが
「自然破壊」を生み出しました
さて貴方方に聞きます
細分に細分化を進めると言うその科学は
何時までその細分化を続けると思いますか
私がはっきり言います
それは人類滅亡の時まで
科学とは人類に取り付いたがんなのです
その生命体を殺すまで
細胞分裂をし続け増殖し続けるのです
貴方たちはその科学に加担するものです
だから私は貴方たちを嫌うのです
いえ貴方たちの議論を
でも最近はこう言う人も増えて来ています
科学の進歩ももうこれ位でいい
もっとゆっくり生きようと
これで科学の進歩〈細分に細分化を続ける行為)が止まるのでしょうか
答えは否です
常にその分野には一位を目指す者がいるのです
彼らは常に一位を目指して鎬を削ります
そして一位を目指して新たな分野を開拓して行くのです
人類が生まれたから今日(こんにち)まで
それは科学〈細分に細分を重ねると言う行為)の歴史であったし
今日〈きよう〉から人類滅亡のその日までも科学〈細分に細分を重ねると言う行為)の歴史なのです
科学とは人類を滅亡させる悪魔だったのです
ほら貴方のすぐ後ろで
悪魔が照れ笑いをしているではないですか
ばれていまったかと
しかし貴方がその事を知ったとしても
その歴史は変える事は出来ません
でも唯一つその歴史を変える方法があります
それが貴方の気付きです
貴方が気付けば歴史は変わります
そして悪魔も平伏す事でしょう
恐れ入りましたと
そしてその方法を教えて上げましょう
それこそがhirop氏の詩を味わう事です
hirop氏の詩(うた)を味わったら
それに対する貴方自身の詩(うた)を謳いなさい
それに依って私は決める
貴方を讃えるのかそれとも貶すのか
貴方は今神の子と成るのか
これまでどおり科学の子〈悪魔の子)として生き続けるのか
まさに選択の時にあるのです
神の子への道 それは快楽の道 2003/12/16 21:29
さて私は貴方方に屈して
ここを去るのか
答えは否
私がここに来たのは
貴方方を分裂させる為です
三人居れば二人と一人に
四人居れば二人と二人に
五人居れば三人と二人に
そしてその目論見は功を奏して来ています
O氏については何も言う事はありません
H氏については
私が何か言えば旋毛を曲げて
自らの意志を翻すかもしれないので
言いたくは無いのですが
ま そんな事は無いと思いますが
自らの道を歩こうとしているのです
私は素晴らしい世界を頂いた
これまではそれを私一人で独占して来たが
これではいけない
分かち合おう 共有し合おう
そして今彼は菩薩への道を歩み続けているのである
彼がその道を歩き続ければ
彼は菩薩になる
何故なら
彼には溢れる智恵の泉があるから
これで二人
さて三人目
三人目はlilith_flagさん貴方ですよ
私は貴方の真摯さが
何かしら可愛いらしく見えたのです
その為ちょっとからかったりしましたが
その事はお詫びします
でもやはり自然の為せる業だったのですね
貴方は女性との事
真善美の内
真は置いとくとして
善き事
そして美しき事となると目が無いと思います
だから貴方はこちら側の住人なのです
自分自身の中に入って御覧なさい
それが如何に素晴らしい世界か
如何に美と善き事に満ちているのか
その世界に入ったら
もう現世の事はどうでもよいと思われる位
素敵な世界なのです
貴方はたぶんその世界に入った事が無いと思います
だから貴方を誘っているのです
こちらに来なさいと
貴方とP氏は本当の師弟関係なのですか
だったら誘いませんが
もし掲示板上の師弟関係だったら
師をP氏からH氏に変えなさい
彼はその世界に行った事のある者です
彼がガイドとなって
貴方をその世界に案内して呉れるでしょう
そこに行った者でなければ
そこへは案内出来ないのです
そこに行った事が無い者が案内すれば
あんな里山でも遭難する事になるのです
ところでlilith_flagさんは何を求めているのですか
知識や事実ですか
それとも幸福ですか
もし後者だったらこちらにすぐに来なさい
貴方をすぐに幸せにして上げるから
幸福とは何だと思いますか
それは快楽です
H氏もその様な事を言っていましたが
これは古代ギリシアの哲学者
エピクロスが強く唱えた説です
私もそう思っています
と言うよりも私は徹底した快楽主義者です
さて人間にとっての最大の快楽は何だと思いますか
これについては中々答え難いと思いますので
これに近い別の譬えで言い表します
露天風呂でいきなり湯船に入った時の
あの一瞬 無と成る様な境地
あの境地を思い浮かべて下さい
それは全ての人間の最高最大の
あの快楽と似た様なものだから
その快楽が一瞬ではなく
かなり長く続くとしたら
貴方はその快楽に身を任せたいとは思いませんか
それが貴方自身に入ると言う事なのです
私が言えば信憑性が無いから
H氏に聞いて御覧なさい
私への反発がなければ
彼もきっとそうだと言う筈です
貴方は女性ではないですか
もっともっと美しく成りなさい
その為にも貴方自身の中に入りなさい
彼もそうだそうだと言う筈です
「必然と偶然?」
そんな事はその中に入れば
一瞬にして了解しますよ
さあ貴方への幸福の道は開かれているのです
こちらに来なさい
こちらに来て美しき人と成りなさい
善き人と成りなさい
そうすればそこに真理の冠も授けられるでしょうから
H氏も言っている様に
貴方は神の子です
こちらに来て
神の子と成りなさい
それとも今までどおり科学の道を歩み続けますか
今が貴方の選択の時です
panietzscheさんへ素敵な詩を有難う 2003/12/17 21:39
panietzscheさんへ
素敵な詩をありがとうございました
panietzscheさんも詩人なのですね
見直しました
今後もその調子で謳い続けて下さい
もし刺激が欲しいのなら
もっともっと刺激的な詩を謳ってもいいですよ
全く貴方の言うとおりです
行為によって菩薩になるのです
科学にひたむきに命をかける者を
科学者と言う菩薩の別名を与えて讃えます
その行為はとても尊いのです
でもその結果は・・
今日の所は不問にして置きましょう
行為に依って菩薩になるのです
この世には様々な菩薩が居ます
そして格位もあります
と言うよりも一位とその他があるといった方が良いでしょう
その他については一々数え上げませんが
貴方の身の回りを見て御覧なさい
たくさんの菩薩が居る事に気付くでしょう
でも貴方はその一位の菩薩の事を知らないでしょう
だから私が教えて上げます
それは神へと誘う者です
彼の名を神の御使い
または天使と言います
貴方方四人の仲で
H氏がそれだと言っているのです
彼は今天使と言う菩薩の道を歩き始めているのです
そして貴方はその他の一つである
科学者と言う菩薩の道を
どちらも菩薩です
しかしそこには大きな開きが有るのです
すなわち天と地の開きが
貴方は地に這い蹲って
そして同業者を掻き集めようとしています
彼は今まさに天に昇らんとし
一人でも多くの者をそこに導かんしています
そんな差が有るのです
そしてたったそれだけの差なのです
私は前に貴方に言いました
「彼は譬えによらず語る事は何も無かった」と
私もどちらかと言うとその類です
だから私の一つ一つの言葉を捕らえて
それは事実と違うなどと言わないで下さいね
私の詩全体で
一つのイメージを捕らえて下さいね・・
でも私にはとても嬉しかった事がある
貴方が詩人であったと言う事が
私は貴方の詩(うた)をもっともっと聞きたい
だから毎日毎日その様に謳って貰いたい
そうすればここに集う人が思う
ここは何と素敵な所だろうと
貴方とH詩の詩が
まさにここの両輪だ
その車はここを丸ごと天へと運ぶ
貴方の詩(うた)は分かり易い
分かり易い事が何より大切だ
そして貴方は科学者としてのバックボーンがある
貴方の詩はこの世の人を惹きつける
貴方がこの世の人を引き付ける
そしてH氏がそれを天へと運ぶ
そんな分担で遣ればどうだろう・・・
私は前に異言の事を言った
ここでもう一度復習して置こう
貴方方三人の遣り取りはまさに異言だ
貴方方三人を利するかもしれないが
他の者を利する事はない
しかしそれが預言に変わった場合は別だ
まさに貴方の詩(うた)それが預言だ
貴方方の異言は三人にしか分からなかったが
貴方の預言
すなわち貴方のあの詩(うた)は
99.9%の日本人に分かる
私が言いたいのは
誰にでも分かる言葉で
貴方の思想を語って頂きたいと言うことなのである
誰でもとは高校を卒業した程度の人
彼らこそが貴方の思想を熱望しているのである
私が理想形を描こう
貴方がここに集う人を
哲学の高殿へ導く
そしてそれを
H氏が天へと導く
どうです 素晴らしいアイデアでしょう
そして貴方も時には
H氏と二人で手を取り合って天へと上る
そうすれば貴方のお弟子さんのFさんも一緒に付いてくると思いますよ
そうすればここはまさにユートピアではないですか
何々H氏が心配だ
彼が一緒に来るか心配だ
心配要りません
彼もここに引きずり出します
もっと彼だけが
私と目と目を合わせて話をしていないのです
貴方とかH氏とかL氏は
私と面と向かって相手をして呉れました
しかし彼はどうしてもその様な対応を取って呉れないのです
今日私へメッセージがあったのですが
ほんの一言だけでしたが
それだけで十二分なのですが
今日は時間が無いので止めて置きます
次にメッセが来た時は必ず引き出します
そして貴方たちが謳った様に
彼にも謳わさせます
貴方も聞きたいでしょう
彼の詩(うた)を
断片ではない正真正銘の詩を
科学者よ歯車の様な論理を鍛えなさい 2003/12/18 21:24
long_light_seven_さんへ
お便り有難うございました
貴方が始めてです
私に真っ向から勝負を挑んで来たのは
そして貴方は私の事を読んでいる
それが何より有りがたい
私の事を一から説明する必要が無いから
でも私は貴方に敬意を表したいと思う
貴方は16歳高校1年生との事
高校1年生でこんな高い思想に辿り着くなんて驚きです
このまま貴方が思索を続けて行けば
貴方は間違いなく天才に成ります
ニーチェと言う天才に
そして貴方の行く末は
狂ったニーチェです
何故なら貴方には神が居ないから
私が神と言う意味を勘違いしないで下さい
と言うよりも貴方が思っていると言うキャラクター
それこそが神なのですよ
貴方はその神にどんなキャラクターを与えるのですか
貴方自身が与えたそのキャラクターに依って
貴方は支配されるのですよ
貴方は今そのキャラクターに
科学と言う名を与えた
だから貴方の神は科学なのです
それで不服ですか
神を敬っている人を見て御覧なさい
彼が如何に
神に素晴らしい性格を付与しているか
彼はその神に依って支配されているのです
彼は神に真なるもの善なるも美なるものを求めます
そしてその行為に依って
彼はネクターを授けられるのです
それはとてもとても甘く
身も心も蕩かしてしまいそうです
彼はそれが飲みたくて
また(真にして)美しき善き行為に走るのです
その循環が
彼を神の子に変えて行くのです
ところで貴方は16歳高校1年生
将来は科学者に成りたいとの事
であれば大学に行き大学院に行く積りでしょう
貴方はそこで何を専攻したいのですか
ここでこんな事をいきなり言っても分からないと思いますから
まずは日本一と言うその大学のホームページに行きなさい
そして大学院にどんな講座が有るのか調べなさい
もし載っていなければこうしなさい
近くの図書館行きなさい
そこに百部近い法令集があります
そこから教育・文化 国立大学の目次から
「国立大学の学科及び課程並びに講座及び学科目に関する省令」と言うものが有ります
そこに日本一と言うその大学の大学院の講座の一覧があります
そこから貴方が専攻したいと言う
その講座を選びなさい
それから議論を始める事にしよう
と言うよりも私は貴方に勧告する
もし本当に科学者に成りたいのなら
こんな所で議論はしない方が良いと
科学とは論理です
徹底的に数学と理科を勉強しなさい
そうすれば貴方は立派な科学者となる
科学者の武器は論理
それは一寸の狂いも無い歯車の事である
だから貴方は歯車と成る為
一生懸命数学と理科を勉強しなさい
こんな所で議論などしてはいけません
もし貴方がかつて神を信じていた事あるなら
その時の事を思い出しなさい
そして思い出したら
H氏の所を訪ねなさい
彼は私の様に雷電を落とす様に話すのではなく
手取り足取り
貴方をまたそちらに導いて呉れるだろうから
何故なら彼の名は
神のみ使いまたは天使と言う名なのだから
long_light_seven_さんへ済みませんね
高校1年生の貴方にこんな刺激的な事を言って
でも貴方が私を知っており
貴方の思想も相当な所まで来ていると思ったから
いつもの私の様に語ったのです
でも私は貴方と
議論も対話も出来ません
何故なら私はここに分裂の嵐を巻き起こす為に来ているのですから
貴方がこれまでどおり
神はいないと言う前提で私に向かってくれば
私はいつも雷電を投げ続けなければならないから
それは貴方を傷つける事になるから
それよりも
神を信じていたあの頃の事を思い出してみませんか
そして私とH氏と貴方の三人で
もう一度あの国に言って見ませんか
それならば大歓迎です
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
残念
T氏が現れたのに今日も時間切れ
T氏よ
イタチやネズミの様に
こそこそ穴から出て来て
私のすねを齧るのは止めて欲しい
正々堂々と私の前に出て呉れ
私は隈なく貴方を見てから決める
貴方がインチキ和尚か
本当の和尚かを
死して生 瞑想 十字架 新生 2004/ 1/ 7 21:10
私がしばらく居ない間に
ここは大分流れが変わった
私は未だその流れを掴めないでいる
今しばらく漂いながら
私はまたここを私の世界へと変えて行く
その手立てはドラマ
私は今のここの登場人物がうまく掴めていない
それで今の登場人物たちに
これまでのドラマのストーリーを振り返って頂く事にする
私がここを去ったのは約三週間前
その時の主な登場人物は
O氏H氏P氏T氏L氏K氏の六人だった
この内L氏K氏は去った
T氏は登場回数がめっきり少なくなった
P氏は硬軟使い分けながら
相変わらずここの寵児だ
今しばらくすれば
永住権も与えられるのだろう
H氏は私の教えを受けて
菩薩道をまっしぐらだ
私が居た時より
大分高い所を飛んでいる
もう手が届かない程だ
しかし心配は要らない
彼もまたいずれ私の手中に入る
O氏については何も言う事は無い
強いて言うのであれば
このドラマにおける誠実
何故ここの流れが変わったのか
それはL氏K氏が去り
T氏の登場回数が少なくなったからである
L氏K氏は論客であり
T氏はP氏の相談相手
彼らが居なくなる事により
彼は科学的議論を展開し得なくなったのである
その代わりに登場したのが
強烈なキャラクターを持つJ氏
P氏は手持ち無沙汰に
J氏のお相手をした
それが為
ここにこの様な嵐が起こっているのである
しかし私は言う
三週間前よりも
今の方がずっと良いと
何故なら
P氏が科学的専門的知識を駆使せず
平易な誰にでも分かる言葉で
皆と議論をしているから
そしてその主題はいつも
「神はいるか」
今皆がその話題に没頭している
それはとてもとても良いこと
P氏とJ氏
私がどちらに軍配を上げるか
断然J氏である
何故なら彼は神はいると公言しているのだから
真理は一つ 神は一つ
こう公言している人に
どうして議論を吹っかけられるだろう
それは彼が神を知らないから
真理を知らないから
神を真理を垣間見た者は
もうその事を議論しないものだから
神はいないと
いつも神を信じる者に楯突く者
彼こそが科学の子悪魔の子
近代から現代にかけては
神の子と科学の子悪魔の子の対峙の世界
今ではもう科学の子〈悪魔の子)が
この世を支配したかに見える
だがよくよく見て見なさい
O氏をH氏をJ氏を
彼らはそれらの所に居ながら
旗頭を精一杯に振り翳しているではないか
ここに神が居ますよと
何故貴方方はそれに耳を澄まさない
科学の子よ
貴方方はこの世に死ななければならない
この科学世界に
私がその方法を教えよう
それが瞑想だ
死して貴方は生まれ得る
瞑想はこの世に死ぬ最も簡便な方法である
貴方はその死後
そして再生の時思うだろう
「なんと素敵な世界かと」
そしてその時貴方は言う
「神よ貴方を讃えます」と
そこに神が出現する
もし神を知りたかったら
瞑想しなさい
瞑想の方法を知りたかったら
私のお弟子であるH氏に聞きなさい
彼は毎日瞑想を実践している者である
私に代わって
懇切丁寧に教えて上げるだろう
神がいるかいないかと議論する者よ
まずは神を知りなさい
それからもう一度議論をしなさい
しかし私ははっきり言って置く
99パーセントの人間が
もう議論などしないだろうと
神を知る方法
それはほらほら
そこに転がってはないか
瞑想
そして手っ取り早い導師が居るではないか
ほらほらそこに
H氏
まずはH氏に教えを乞え
そこから始めようじゃないか
諸君
この世の貴方を十字架に張り付け様ではないか〈その最も簡便な方法が瞑想)
そして新たに生まれ様ではないか〈そこに神が出現する)
神の国への第一歩 それが貴方です 2004/ 1/ 8 22:28
私には今聞こえた様な気がする
その六人とは誰の事かと
教えて上げよう
O氏H氏P氏T氏L氏K氏の六人の事を
O氏は詩人である
求道精神に満ちた詩人ある
彼の詩(うた)を聞けば
かの世に思いが馳せる
しかし彼はそれ程登場しない
彼の詩を聞きたければ
目を凝らし耳を澄ましていなければならない
H氏はここの常連である
毎日一度はここに登場して
瞑想的な詩(うた)を謳って呉れる
彼の長けている事は
この世とかの世に精通していると言う事だ
その瞑想的な内容について
誠意を持って聞けば
それに誠意を持って答えて呉れる
彼は今私の教えを受けて
菩薩道を邁進中である
今の彼は私にとって愛しい
前の彼はT氏とふざけた遣り取りをしていたが
それがきっぱり無くなった
彼は今自分の信じる道だけを歩いている
彼は今気付いたのである
時間の少なさと
伝える事の多さに
P氏については敢て言う事はあるまい
一覧を覗いてご覧なさい
そこに一番たくさん登場するのが彼である
彼がここの住人に成ってからどれ程立つのか知らない
しかし彼は常に一番手と成って
ここを引っ張って来たのである
その陰には涙ぐましい程の努力がある
まっ 彼は人柄がいい
だから永住権を手に入れる一歩手前まで
こうしてここに居続ける事が出来たのである
彼は無神論者
私は立ち退きを要求してるのだが
馬耳東風
だから私は彼を有神論者に変える
これがこのドラマの一つの狙い目
読者諸君も
その役どころに大いに貢献して貰いたい
T氏はここの両輪であるH氏とP氏の相談役
自らを和尚と称している
絶対真理を体得したと吹聴する者である
大阪弁か京都弁か知らないが
そんな言葉で衒った言い方をする者が現れれば
それが彼である
彼は決して自らの事を語らない
言った者の言葉に
鸚鵡返しに答えるだけである
彼は最近ほとんど登場しなくなった
もしその様な者が登場すれば
それが彼である
彼はかつてはH氏P氏に一目置かれていた
L氏は無神論者
自らそう宣言する者
P氏を師の様に慕う者
かつてはP氏との間で
がちんこの論理学論争を遣っていた
そこはとても常人が入れない様なもの
そこに割って入って行ったのがK氏
P氏とK氏は火花を散らす様な論理学闘争を遣った
軍配はどちらに上がったのか知らないが
P氏が降りたのは事実である
P氏が降りた為
今度はK氏とL氏の論理学論争が始まった
しかしこちらは何時とも無く下火に成り
二人は期を同じくしてここを去った
それは私が去ったのとほぼ同時期
だがである
この内L氏が帰って来たのである
今朝
今朝早朝皆さんに新年の挨拶をしたのが彼である
彼は無神論者である
自らそう高々と宣言する者である
私の忌み嫌う所の者であるが
私にとって彼はいとおしいのである
何故なら彼の可愛らしい秘密を知っているから
私はその可愛らしさを攻めて
彼を有神論者に変える
これがこのドラマの大きな見所である
皆さんも是非この為に
一役も二役も三役も買って頂きたい
最後にK氏である
私は彼とは一度も語る事は無かった
私は彼が有神論者であると思っていたのだが
今となっては確かめる術は無い
彼は風の様に来て 風の様に去った
これが約三週間前までのストーリーである
私たちが去った直後から
ここに大きな嵐が起こったらしい
その原動力となったのが
J氏ではなくY氏
徹底的な有神論者であるY氏は
ここに大きな嵐を巻き起こした
有神論者無神論者が入り乱れて
「神はいるか」論争が始まった
それはどちらにとっても良い事だった
それは神への導きの始まり
そのY氏はここ二三日姿を見せなくなった
しかし私は彼を呼び寄せる
そして私の使徒して働いて貰う
四天王が邪鬼を足蹴にする様に
彼に依って無神論者が足蹴にされる
彼はまた荒野で呼ばわるヨハネである
天国は近づいた悔い改めよと
また彼は無神論者に対してこう叫ぶ
マムシらの子よ 誰が神の怒りから逃れられると教えたのかと
そして八人目の登場人物が
R氏貴方です
どうか私たちの仲間と成って
ここを素晴らしい世界に創り変えて下さい
この世は言葉に依って成った 2004/ 1/ 9 19:17
私は脚本家 ストーリーテーラー
私は好きな様にこの世界を描く
私が返り咲いてから未だ三日目だと言うのに
もう私の世界へと胎動し始めている
ここは今私の世界へと向かって驀進中
このドラマに厚みが出て来た
何故なら二枚看板に成ったから
一人は言わずと知れたH氏
もう一人は新星の様に現れたR氏
この二枚看板に依って
私は私の世界を思う様に描く事が出来る
H氏とR氏は何の違いも無い
ただ経験の差だけである
H氏はそれに気付いてから大分なる
そしてその間思索と瞑想を続け
自分自身の世界を確立した
彼は議論などしない
自らの教えを宣べ伝えているだけだ
彼は今宣教師と成ってこの世に在るのだ
R氏は未だ経験が浅い
しかしその進んでいる道は同じだ
今H氏が少し眩しく感じられるかも知れないが心配要らない
直に貴方もその様に成る
私はその道の二枚看板を得た
初学者と経験者の
私はこの二枚看板を使って
思う様に私の世界を描く
私はこんな言葉を聞いた事がある
かつては本を読むのが楽しみだったが
今は自分を読むのが何よりの楽しみだと
H氏とR氏はその心境に達している
彼らは自らを読みそれを文字に現わす
するとどうだろう
次から次に言葉が溢れ出てくる
汲み尽せない程に
彼は思う
私ってこんなに素晴らしい存在だったのかと
そこに神が現れる
初めに言があった
言は神と共にあった
言は神であった
この言は初めに神と共にあった
全てのものはこれによってできた
できたもののうち一つとしてこれによらないものはなかった
「ヨハネ福音書第1章第1節~3節」
この言葉をもう一度噛み締めてみよう
読者諸君
この言葉の意味が知りたかったら
H氏とR氏に聞きなさい
懇切丁寧に教えて呉れる筈だから
神の定義 神とは○○ だから神はいる 2004/ 1/ 9 21:37
さて役者が揃った
ここに本格的な
「神はいるかいないか」論争を始める
役者とは
O H R P L氏の五人である
事前打ち合わせの際に
P氏よりこんな意見が出された
神の定義をせずに
神はいるかいないかなどと論争するのはナンセンスだと
私もその通りだと思った
一部反対意見も有ったが
私がこう言って彼らを説得した
この論争は各人を際立たせる事が目的ではない
もし神と言うものに
最大公約数的なもの見出さればそれが成果なのだと
最後まで反対した者もいたが
最終的にはP氏の意見が通った
それでこの論争の最初に
各人がそれぞれ
「神の定義」を披露する事になった
神とは○○○○○○○○・・・である
だから私は神がいると思う〈確信している)
〈だから私は神がいないと思う)と
読者諸君
こんな恵まれた機会は二度とありませんよ
ここの主だった人々が一同に会して
その神の定義を語って呉れる
そしてそれだけでは有りませんよ
ここにこれまで無かった様な
「神はいるか」論争が展開されるのですよ
そしてその結論は
皆さんがあっ!と思う様な結論に成るのですよ
皆さんとくとご覧あれ
出演者の皆様へ
皆さんは何度も何度も神の定義は披露している
もう辟易だとおっしゃるかも知れませんが
皆さんが一同に会して神の定義を述べると言う事には
とても大きな意味があるのです
預言者である私に言わせれば
そこに神が出現するのです
そのショックはとても大きいものです
特にP氏とL氏 それに連なる無神論者にとって
神とはこう言うものだったのか
と言う新たな発見となるのです
神については
AはBである
BはCである
故にAはCである
と言う様な論理学は通用しません
神はそれなのです
その指し示したそこに神が居るのです
O氏H氏R氏の指し示すそれに顔を向けなさい
そこに貴方方は神を見る事に成るでしょう
また貴方方の定義に
たくさんの神の顔を指し示して呉れるでしょう
それは貴方方にとっての大発見なのです
それがH氏の言う気付きなのです
神はそこにいるのに
貴方方が気付かなければ
天空の彼方です
若しくは無神です
P氏とL氏よ
このシンポジウムは
実は貴方方の為に企画したのですよ
貴方方が有神論者への転向点となる為に
それにしてもP氏よ
貴方がパウロの様に回心するのは何時のことなのでしょうね
貴方が回心すれば
私は三羽烏の弟子を持つ事に成るのですがね・・・
人生は短し 芸術は長し L氏へ 2004/ 1/10 11:51
最初に皆さんにお断りして置きます
この物語はフィクッションです
ここに登場する人物を参考にしていますが
全て私の頭の中で創り上げたフィクションです
そう言う事で読者の皆様方にはご了解願いたいと思います
なお今後この物語を書き進めるに当たっては
最後に必ず下記の注を付したいと思います
※注 この物語はここに登場する人物はを参考にしていますが 全て私の頭の中で創り上げたフィクションです と
さて
「喩えを用いずに語る事は何も無かった」
私は喩えを多用しデフォルメを用いる
それはここを際立たせたい為
ホスピタリティである
私のホスピタリティは責められるべきものだろうか
無神論者が言う
貴方の言論は不愉快だと
しかし愉快不愉快は
個人の主観の問題
もしそれが刑法で言う所の
誹謗中傷の罪に当たるのだったら
私は言葉を慎む
しかしそうでなければ
私は徹底的に責める
もし貴方に不愉快な思いをさせたと言うのであれば
それは貴方にとって薬になった言う事なのだ
何故なら貴方はそれに思いを馳せなければいけないから
そしてそれでも自分が正しいと言う結論を下せば
貴方は何にも変わらない
しかしもしそこに貴方が何かを気付けば
貴方は神への道へと進む事が出来る
O氏H氏R氏の意見を聞いて・・・・
H氏がこう言ったのを聞いた事がある
この世は幻想だと
私もそう思う
幻想なら愉快に楽しく過した方が良いではないか
それが私の快楽主義である
何もそこに苦渋に満ちた世界を持ち込む事はない
その為に必要な事
それが神と言う存在だと言うのだ
私は人間だから
真善美に満ちて楽しく過したい
その為に神無しでどうやって行けるというのだ
P L氏に聞きたい
確かに言葉に夢中に成っている時
不幸に成る事はない
貴方は言葉を捜す行為に無我夢中に成って
無我の状態になっているから
我無しの時 それが幸せの状態だから
だがその状態から抜け出した時
貴方のその言葉たちは貴方を飾ってくれるのか
楽しませて呉れるのか
貴方のその言葉は何処から拾って来たのか
ガラクタ市からか
貴方はそんな言葉で満足するのか
どうしてO H R氏の様に
神の言葉を集めようとしないのか
初めに言があった
全てのものはこれによってなった
言葉は星の数よりも更にたくさんあります
それこそが無限と言うものです
その中でこの一生にどんな言葉を見つけるか
「善く説かれた真理の言葉を摘み集めるのは誰か」
それがO H R氏である
P L氏よ
貴方方の集めた言葉が
貴方を飾りますか
貴方を楽しませて呉れますか
せいぜいファイリングボックスで死蔵するだけではないですか
特にL氏よ
貴方が科学者だら
科学的知識に没頭する事については何も言わない
それが飯の種だろうから
しかし貴方が市井人だったら
どうして幸福の知識を求めようとしないのか
貴方の遣っている事はどぶさらいだ
貴方はそれを家に持ち帰れないばかりか
貴方を臭くする
この世が幻想だったら
どうして楽しい事に目を向けない
どうして好き好んで労苦に身を投げ入れるのか
「一日の労苦はその一日だけで十分である」
それなのにどうして貴方は一日が終わったと言うのに
また労苦に身を投げ入れるのだ
貴方は幸せに成るべき人間だ
その為に必要な事
それはただ顔の向きを変えるだけ
ほらほら
O H R氏の指し示すそちらに顔を向けよ
そこに神がいる
私は不可知派などとのたまって言っても神は見付かりませんよ
神は求めるその姿勢の中に現れるのですから
ところでL氏よ
貴方はR氏の言う様に若いのでしょうか
だったら未だ神を見出すのは無理なかも知れませんね
貴方が挫折をした時 その時神が現れるのでしょうか
でもそれまでに貴方が死んだとしたら
結局貴方はこの世で神を見出せなかった事に成りますね
その損失は大きい
それが貴方の言う運命論なのでしょうか
それにしても
人生は短いと言うのに
どうして人はこうも
無駄な事に時間を費やすのでしょう
※注 この物語はここに登場する人物はを参考にしていますが 全て私の頭の中で創り上げたフィクションです
神の様々な定義について 有神無神双方より 2004/ 1/10 23:59
私は無神論者の神の定義を聞いた
それでは神は存在し得ないと思った
まずはL氏
貴方は何時まで質問を続ける気か
何故何故と
貴方はもう大人ではないか
神はこれこれである
どうしてそこから出発出来ない
次にP氏
神は仮象である
その通りである
だからと言って
サッカーボールの様に蹴飛ばしていいのか
私は無神論者の神の定義を聞いて知った
神の存在非存在の理由を
それは敬虔
O H R氏を見て御覧なさい
彼らが如何に敬虔かを
それに引き替え
P L氏が如何に言葉を弄んでいるかを
P氏へ
決して貴方のお人柄を貶す積りはありません
貴方はこの世に人気のある方です
でもそれはこの世限りです
かの世に貴方のエロスは通用しないのです
かの世への愛
すなわち神への愛(アガペー)が無いから
今の所貴方には神は現れないのです
L氏へ済みませんね
いつも責めてばかりで
愛したのですがいつもシャットアウト
だから当分攻め続けるより仕方が無い様ですね
これも愛です
お二人はまず敬虔を学ぶ必要があるようですね
人類愛から始めるのが手頃でしょうか
(P氏へ ニーチェは引き合いに出さない方が良いですよ 最終的には狂った人ですから・・・)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
神の素晴らしい定義を聞いた
NO24235のY氏の定義
「神は無である」
これはH氏の称える所の瞑想と関連がある
死して生
無だからこそ全てが創造出来る
初めに言があった
言は神と共にあった
言は神であった
この言は初めに神と共にあった
すべてのものはこれによってできた
無から始めて生まれて来るのが言
瞑想を体験すれば
無から始めて生まれ来る
その微かな言の瞬間を捉える事が出来る
だから瞑想を体験する者は
神を体現出来るのである
最初が尊いのである
道は一を生じ
一は二を生じ
二は三を生じ
三は万物を生ず
道から一が生じる瞬間を体験できる者は
神を知る者なのである
だから古今東西瞑想が持て囃されて来たのである
死して生
この世に死んで始めて
かの世に生まれる事が出来るのである
すなわち神の国とも天国とも言える国へ
しかしすべてはその一瞬に掛かっているのである
瞑想をする者は
毎日毎日生まれ得るのである
すなわち先ほどのあのヨハネの言葉を実感出来るのである
「日々新たに」
この事を理解できない者は
神の事は理解できない
※注 この物語はここに登場する人物はを参考にしていますが 全て私の頭の中で創り上げたフィクションです
有神論者の方へ 是非菩薩道への道を! 2004/ 1/11 11:15
初めにお断りして置きます
この物語はフィクションです
ここに登場する人物を参考にしていますが
全て私の頭の中で創り上げたフィクションです
そう言うことで御理解願いたい思います
そう言う事で H氏へ
私は貴方の言う事が全て理解できる
貴方は全て私の中だ
だから私は貴方を自由に泳がせている
しかし貴方は私を理解出来ないとの事
だったら私に楯突くのはお止しなさい
貴方は我執に囚われ幻想の中で生きている
それは私も同じ事
幻想と幻想が議論してどうなる
それよりもその幻想を正しいと信じ
それに突き進む方が
より生産的ではないか
貴方は方便と言う言葉を知らないのか
「敬虔により神が生まれる」
貴方はこの事を否定するつもりか
貴方が詭弁を弄する積りが無ければ
決して否定出来まい
私は今その事を高く掲げているのである
どうしてそれが悪い
貴方は宣教者伝道者の道を知らないのか
彼らが如何に戦ったか
彼らの信じる道
それは貴方から言わせれば幻想
そしてそうなのかもしれない
しかし彼らはそれらを信じて
その道を邁進したのである
その中に
「敬虔により神が生まれる」
そんな言葉が無かったと言えるのか
人は言葉に囚われている
要はどんな言葉に囚われるかと言う事だ
守銭奴を見ろ
金儲けの言葉に囚われている
出世の道を歩む者を見ろ
上司の言葉に囚われている
しかし貴方は神の言葉に囚われ様と思っている
私もそう在りたいと願っている
ただそれだけの事だ
P氏L氏はここの無神論者の代表格である
だから私は無神論者を攻める様に
この二人を攻める
「妄りに言葉を弄するな」
貴方はこんな方便を聞いた事がないか
私は今無神論者にその事を突き付けているのである
貴方はP氏L氏の神に関する陳述を聞いて
何か嬉しくなった事があるか
有るまい
彼らはこの世の言葉を
ただ継ぎ接ぎの様の繋ぎ合わせているだけではないか
何故なら彼らは貴方やO R氏の様に神の源泉を知らないから
私は彼らをその泉まで連れて行こうとしているのだ
つまりは菩薩道
だからとやかく言わないで
もし出来る事なら
貴方もお二人をその道までご案内して差し上げなさい
貴方が言う事は分かる
しかし菩薩道の為には方便が必要なのだ
貴方が私を理解出来ない理由を教えて上げよう
それは貴方がこの世に生きているからだ
すなわち優劣の社会の中に
私は貴方より優れている
その自我意識により
貴方は私を理解できないのだ
貴方も知っている様に
私は貴方とも議論はしない
ただ貴方を利用するだけだ
この道の第一人者として
そして出来る事なら
その様に活躍して呉れる事を願っているだけだ
旋毛を曲げないで
※注 この物語はここに登場する人物はを参考にしていますが 全て私の頭の中で創り上げたフィクションです
主を畏れることは知恵の初め 無神論者へ 2004/ 1/11 20:32
「主を畏れることは知恵の初め」
旧約聖書箴言第1章第7節
私はこの言葉をここに集う皆さんに紹介する
そしてこれへの解釈を求む
特に無神論者の
有神論者の答えには
そうだねとただ頷くしかない
しかし無神論者の答えは違う
大笑いだ
皆で無神論者の答えを大笑いしようではないか
私はここを無神論者の愚かさの証言台とする
彼らは自らの答えに依って
自らの愚かさを証言する
その審判員は皆さん
答えが一つ出る度に大笑いしようではないか
私が無神論者の特質を教えて上げよう
それは不敬と詭弁だ
私はここでは誰とは言わない
言えば誹謗中傷の罪に当たるだろうから
だが見てみなさい
それらに連なる無神論者の面々を
彼らに神を敬う気持ちなど更々ない
そして如何に詭弁を弄しているか
それに引き替え有神論者を見なさい
O H R氏及びそれらに連なる有神論者の面々を
彼らが如何に敬虔であり
如何に言葉を大事にしているか
彼らは吟味する
この言葉は神から出た言葉か
それともこの世の言葉かと
そしてよくよく吟味された言葉だけがここに表出される
私たちはそれを聞いて嬉しくなる
そして励みになる
私たちも頑張ろうと
「主を畏れることは知恵の初め」
私は貴方たちに聞く
無神論者に知恵があるのだろうかと
私ははっきり答える
彼らには知恵は無い
彼らに有るのは知識だけだと
彼らは知恵の意味を知らないのである
私はP氏をあまり責めたくない
彼はいい人だ
私のレスにも懇切丁寧に答えて呉れる
それに彼は神への造詣が深い
しかし彼は飛び越えられないのである
彼はこれまで貯えた知識を無駄にしたくないと思っているのである
だから自らの意志で無神論者に留まっているのである
だが私は言う
飛び越えなさい
そうすれば貴方には大いなる世界が広がっていると
その知識が大いなる知恵へと変わると
金持ちが天国に行くよりも
らくだが針の穴を通る方が優しい
律法学者が天国に入るのも難しい
彼はこれまで貯えた知識と言う富を手放せないでいるのである
しかし私は言う
貴方が神への畏敬の念を持てば
それは倍にして与え返されると
読者の皆さん
彼がどんな答えを返すか楽しみにして下さい
でも笑っちゃ駄目ですよ
彼は良いお人柄の人ですから・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さて私はここで
何故こんなにも時間を無駄にしているのか
ここを神の国に変える為か
ここに有神論者を一人でも増やす為か
前者はほとんど無理
後者もやはり無理
ただP氏が変われば雪崩現象が起こる
しかし私一人では駄目だ
H氏が協力して呉れれば
その可能性もあるが
だがあの調子じゃ駄目だ
それではR氏は
彼は未だ入ったばかりだし
そこまでは求められない
と言う事ははやり
P氏の天下が続くと言う事か
誰か革命児はいないのか!
※注 この物語はここに登場する人物はを参考にしていますが 全て私の頭の中で創り上げたフィクションです
畏敬の念を持つ事はそんなにも難しいのか 2004/ 1/12 12:07
私は人を貶したりしない
ただ戦っているだけだ
私は貴方たちの様に人を貶したりしない
お馬鹿なYo氏などと口が裂けても言えない
しかし貴方たちは平気でそんな事を言っている
私が最初にここを訪れた頃
貴方たちは初参者たちに対して
よってたかってその様な事をしていたではないか
私がそれについては徹底的に浄化したので
今ではそう言う事はほとんど無くなった
ただL氏には未だその癖が少し残っている様だが
私がここで遣ろうとしているのは戦いだ
ここの無神論者のナンバー1とナンバー2に
戦いを挑んでいるのである
場合に依っては
私が返り討ちを受けないとも限らない
そんな危険な戦いに臨んでいるのである
貴方方の言う「貶す」というレベルのものではないのだ
それにしても H氏よ
貴方も貴方なりの理想の国を描いているのだろう
だったら茶々を入れずに
私を応援したらどうだ
私のこの戦いの目的は
この世のP L氏を殺し
かの世に再生させてあげる事だ
私はそんな聖なる戦いに挑んでいるのだ
茶々を入れるな!
私が今彼らに要求している事
それは二つだ
神を敬え
詭弁を弄するな
この二つについて
まずはP氏
彼は本当に造詣が深い
そして親切だ
彼を変える事は至難の業だ
彼は律法学者なのかも知れない
彼の言う事は聞きなさい
だが彼の行いは真似ては成らない
私は彼に言う
神を敬いなさいと
すると彼は言う
神はいない
どうして敬う事が出来るかと
彼はもうすっかりニーチェだ
まるでニーチェの霊が乗り移っているがごとく
そこで私は言葉を変えて言う
人間を敬え 自然を敬えと
彼はどう答えするのだろう
「主を畏れることは知恵の初め」
この解釈に対して
それは脅迫神経障害の事と答えた様に
やはりその様な答えをするのだろうか
読者諸君はどう思うか
P氏は人間的に敬虔なのだろうか
私が貴方方に答えて上げよう
彼はこの世の人間である
彼は親切でエロスに満ちている
だから世の人は彼を慕う
しかし彼の中には神はいない
彼は神はいないと公言し
それを足蹴にしているのだから
私は彼に一つだけお願いするのだ
神を敬って欲しいと
彼はまた言う
神はいないと
しかし私ははっきり言う
神がいないのではなく
彼は神を知らないのである
誰か神を知る者よ
彼に神を教えては呉れぬか
私ははっきり言う
彼は神に偶像を求めているのだ
そんなものは何処を探してもいない
神はアブラハムの神であり ヤコブの神であり イスラエルの神なのだ
そしてO氏の神でありH氏の神でありR氏の神なのだ
神は大空の彼方などにはいない
貴方の中にこそいるのだ
それを知らない限り
貴方には決して神は現れない
私が百万遍唱えても
それは馬耳東風馬の耳に念仏
まずは瞑想をしなさい
そしてどぶの様な知識を
全て拭い去りなさい
そうすれば本当の貴方が見えて来る
そしてその時貴方は思う
神よ
と言っても
それはやはり貴方にとっては暖簾に腕押し
だから私は貴方に提案をしよう
貴方は関西圏の人らしい
だったら京都の禅宗の寺に一週間籠もりなさい
そうすれば貴方はそれに気付く
その時貴方の知識は知恵へと変わる
その時はO H R氏を超えて
貴方の声がここで大きく響く
私が太鼓判を押す
だからすぐに実行しなさい
貴方はその時
アガペーエロス全ての愛を持つ者に成るのである
さてL氏
本当にこの人は頑な人だな
男性よりも更に
私はあれ程忠告したのに
美しく成りなさいと
言葉に反応しないで
自分の言に反応しなさい
貴方には未だその意味が分からないのですね
私は貴方への戦いは止めようと思っていたのに
また立ち向かって来るのであれば
受けて立つより仕方がありませんね
何しろ貴方はナンバー2ですからね
願わくば
私に反応せず
O H R氏及びそれに連なる有神論者の言葉に反応する事を願います
※注 この物語はここに登場する人物はを参考にしていますが 全て私の頭の中で創り上げたフィクションです
ドラマ最終回 お見逃し無く 2004/ 1/12 21:50
さてこのドラマもいよいよ佳境だ
このドラマの結末はこうだ
P氏が神への畏敬の念を表出する
刻一刻とその時が近づいて来ている
私は彼に聞いた
神に畏敬の念が持てるかと
彼ははっきり答え無かった
だが隷属を強いる神
ルサンチマンの神には畏敬の念は持てないと言った
それは当然だろう
だから取り合えずこの事については保留
次に私は
自然に畏敬の念を持てるかと聞いた
彼は言った
自然は畏敬の念の対象では無いと
まっ いいでしょう
最後に私は彼に聞いた
人間に畏敬の念が持てるかと
彼は言った
人間に対して畏敬の念を持っているからこそ
人間に隷属を強いる神には畏敬の念は持てないのだと
私は成る程だと思った
これまでのホスピタリティ
それがその証明だろうと
しかし次の瞬間驚くべき事が起こった
NO24430からNO24441までのK氏との遣り取り
あれも人間に対する畏敬の念の表出だろうかと
(これはこの議論の本質ではありませんので飛ばして結構です
でもやはりこれがこの議論の本質なのかな
無神論者は言葉を弄ぶと言う・・・)
しかし私は彼から素晴らしい言葉を聞いた
私は神はいないなどと言った事はない
「神は無記」だと言うのが私の考えだと
私は神は無記だと言う言葉は始めて聞いたので
そのはっきりとした意味はよく分からないが
たぶんその字のごとく
神は書き表わす事が出来ない
言い表す事が出来ないと言う意味だろう
だったら私やO H R氏の神と何ら違わないではないかと
そこで私はもう一度聞く
その「無記なる神」に畏敬の念が持てるかと
これが最後の質問です
そしてこれで今回のドラマは終わりです
出演者の皆さん本当に有難うございました
私の演出に良く付き合って下さって
私はしばらく旅に出ます
そしてまた帰って来ます
その時はホームドラマにしましょうか
戦闘ものにしましょうか
それとも創世記にしましょうか
今から楽しみです
それでは次回会える日まで
sophialover(知恵の愛人)より
※注 この物語はここに登場する人物はを参考にしていますが 全て私の頭の中で創り上げたフィクションです
(古代哲学聖典シリーズの始まり)
イエスキリストに倣いて マタイ福音書より 2004/ 1/24 11:37
私はクリスチャンではありません
私は sophialover 知恵を愛する者です
私はその過程でイエスに会いました
それはとても素敵な体験でした
私はそれから何度もイエスを訪ねました
今回もまたマタイの所にいるイエスに会いに行きました
そしてそこで決心しました
イエスの様にクリスチャンの様に生きようと
「主よ主よと言う者が皆天の国に入るわけではない
私の天の父の御心を行う者だけが入るのである」
この言葉はいつも私の心の中に引っ掛っていました
私は一人静かになると主よ主よと呼び掛けていました
もっともはっきりと口に出して呼び掛けていた訳でもなく
心の中ではっきりと主よ主よと呼び掛けていた訳でもありません
言葉に成らない言葉で
その主と呼ばれるものに呼び掛けいたのかもしれません
そして私はその主と呼ばれるものから
たくさんのプレゼントを頂きました
それはとても素敵な体験だったし今でもそうです
だから私は生ある限り
主よ主よと呼び掛けるのでしょう
それはそれで良いのです
もうその事は片付いているから
問題は後段です
「天の父の御心を行う者だけ入るのである」
「はっきり言っておく
私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたことは私にしてくれたことなのである」
私はその小さき者にどれだけ良い事をして上げたのでしょう
私の過去帳を見ると恐れます
そこにはその記事がほとんど見られないから
だから私は決心したのです
イエスの様にクリスチャンの様に生きようと
ここは私が一人静かになって
主よ主よと呼び掛ける場所です
と同時に
ここは皆が集まる広場です
私はこの広場の一角に立って
こう呼び掛けたいと思います
「悔い改めよ 天の国は近づいた」と
イエスやヨハネがそう呼び掛けた様に
この広場に集う者から
それはどう言う意味かねと聞かれたら
私は「心を尽くし精神を尽くし思いを尽くして」
それに応えたいと思います
全てマタイ福音書からの言葉を引用して
イエスがある律法学者から
どの掟が最も重要でしょうか聞かれた時
彼はこう答えています
「心を尽くし精神を尽くし思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい
これが最も重要な第一の掟である
第二もこれと同じ様に重要である
隣人を自分のように愛しなさい
律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」と
そしてこれがイエスの教えの全てです
私は思います
この掟に従がっている限り
私はイエスの様にクリスチャンの様に生きて行く事が出来るのだと
最後にお願いがあります
ご覧の様に私は俄かクリスチャンです
この私を真のクリスチャンに変えて呉れる人を望みます
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには私もその中にいる」
そんな友を望みます
イエスキリストに倣いて マタイ福音書より2 2004/ 1/24 22:53
天の父の御心を行うとは
隣人を自分のように愛する事です
「飢えていたときに食べさせ
のどが渇いていたときに飲ませ
旅をしていたときに宿を貸し
裸のときに着せ
病気のときに見舞い
牢にいたときに訪ねる」事です
この最も小さき者の為に
しかし私はここで告白しなければなりません
私はその様な小さき者を見た時
その様にしてあげたいと言う気持ちは湧き起こりますが
一度としてそれを行為に移した事はないのです
何故なのでしょうか
私がファリサイ派の人間であり
サドカイ派の人間だからでしょうか
きっとそうです
ヨハネは私を見てこう言いました
「蝮の子よ 差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか」と
またこうも言って呉れました
「悔い改めにふさわしい実を結べ」とも
だから今 私はこうしてクリスチャンの様に生きようとしているのです
私がクリスチャンを尊いと思うのは
神を求めるその技術ではなく隣人愛に有ります
「わたしは柔和で謙遜な者だから私の軛を負いわたしに学びなさい
そうすればあなたがたは安らぎを得られる
わたしの軛は負いやすくわたしの荷は軽いから」
クリスチャンはその言葉どおり
いとも軽くその軛を負っています
軛とはたった二つの事です
私の神である主を愛する事と
隣人を自分の様に愛する事です
一番目の愛は割りと容易いのです
「あなたの神である主を愛しなさい」
「主はわたしの主にお告げになった」
「わたしはアブラハムの神イサクの神ヤコブの神である」
神を愛するとは
私たちの主 すなわち霊を愛する事です
その霊がイエスの言行に近ければ
それは聖霊とも呼ばれ
そうでなければ別の名で呼ばれる事になります
私たちは自らの霊に依って
神とも父とも呼ばれるその存在を知る事になるのです
だから神は一様ではなく
それぞれの神なのです
それは人間であれば誰でも行っている事なのです
だから主よ主よと言う者は五万といるのです
しかし天の父の御心を行う者は少ない
だから私はその行いをいとも容易く実行しているクリスチャンを尊敬し
それに倣おうとしているのです
天の父の御心を行う方法は
聖書の中に綺羅星のごとく鏤められています
私はその一つ一つを取り上げて
私に何が不足しているのか検証して行きたいと思います
そう言う訳で
私はクリスチャンとしては全くの初参者です
もしクリスチャンとして長年の経験者がいましたら
どうかアドバイスをお願いします
私は何を悔い改めれば善いのでしょうか
イエスキリストに倣いて マタイ福音書より3 2004/ 1/25 11:06
「心の貧しい人々は幸いである
天の国はその人たちのものである」
山上の垂訓の開口一番の言葉です
私は今この言葉をしみじみ感じます
私は以前は心の貧しい人でした
勿論今でもそうですが
昔に比べれば少しは豊かに成ったと感じています
そして時々は天の国を垣間見る事が出来ます
だから私は幸せなのです
「富は天に積みなさい
そこでは虫が食うこともなくさび付くこともなくまた盗人が盗み出
すこともない
あなたの富あるところにあなたの心もある」
私の富はどれ程なのでしょう
それは他人と比較するものではありません
自分自身の中で比較すれば良いのです
昔に比べて豊かに成った
それだけで十分でしょう
それだけで心が豊かに成るのではないでしょうか
「天の国のことを学んだ学者は皆 自分の倉から新しいものと古いもの
を取り出す一家の主人に似ている」
もし私の富が倉一杯あったら
この家に集う皆さんに
一つずつでもお配りしたいのですけれども
皆さんご承知の様に
私はクリスチャンとして第一歩を踏み出しただけのものです
私はこれから天の国の事を一つずつ学んで行かなければなりません
もし私の富が倉一杯になったら
その時は皆さんにもお配りしたいと思います
しかしこの場所は不思議な場所なのです
ここは私が主よ主よと
私の神である主を愛する場所であると同時に
「隣人を自分のように愛しなさい」という場所でもあるのです
私は少なくともそう言う意志の基にここに立っています
「あなたがたは地の塩である
だが塩に塩気がなくなればその塩は何によって塩味がつけられよう」
「あなたがたは世の光である
山の上にある町は隠れることができない」
「ともしびをともして升の下に置く者はいない
燭台の上に置く
そうすれば家のものすべてを照らす」
「そのようにあなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」
これはクリスチャンの義務なのです
僅かなものから与える
これにも大きな価値があるのです
そう言う訳で 私はここを
私の神である主を愛する場所であると同時に
隣人を自分の様に愛する場所にしたいと思っています
偽善だと思われるかも知れませんが
今の私を省みれば
これが今の私に出来る最善の行為だと思うのです
「信じて祈るならば 求めるものは何でも得られる」
そんな気持ちでここに立ちたいと思います
イエスキリストに倣いて マタイ福音書より4 2004/ 1/25 23:10
教会に属するクリスチャンの皆さんへ
私は教会に足を踏み入れた事がありません
ですので
神父さんや牧師さんの話を聞いた事もありません
また教会の教条に関する本も読んだ事がありません
私が唯一根拠としているのは聖書だけです
それを私なりに解釈して自らへの教えとしているだけです
ですから皆さんが教会から教えて貰った教えとは大分違っているかもしれません
時には皆さんを不愉快にさせる事があるかも知れませんが
ご了承頂きたいと思います
私はsophialover 知恵の愛人です
知恵が居る所なら何処へでも行きます
もし地獄に知恵が居ると言うのなら
そこへも行きましょう
しかしそう話は聞いた事がありませんので
行かずに済んでほっとしています
私が知恵を訪ねて行った所は
ブッダの所であり 老子の所であり 孔子の所であり
プラトンの所であり ソクラテスの所であり エピクロスの所であり
セネカの所であり エピクテトスと所であり M・アウレリウスの所であり
そしてBC以前の古代哲学者の所です
その旅はとても素敵な旅でした
知恵とはこんなものかと
そこで教えて貰った様な気がします
その中で最も私に影響を与えた者は誰かと問われれば
やはりイエスとブッダを上げるしかないと思います
ここに集う皆さんは
イエスの教えとブッダの教えは違うかの様に議論していますが
私に言わせれば全く同じだと思います
しかし今回はそれが主題ではありませんので
その説明はここではしない事にします
今回の主題は私がクリスチャンになる事です
教会に属するクリスチャンの方はふざけるなと言うのかも知れません
洗礼を受けずにどうしてクリスチャンに成れるのだなどと
不遜と言われるかも知れませんが
私はイエスから直接洗礼を受けたいのです
またはペテロから
私はイエスやペテロを哲学者
すなわち知恵を愛する者として訪ねます
その目的は彼らの弟子となる事です
それも一番弟子に
もし彼らが私を弟子として認めて呉れるなら
イエスは「火と聖霊」によって
ペテロは「父と子と聖霊の名」よって
私に洗礼を授けて呉れる事でしょう
たぶん今回は無理でしょう
それはそれで良いのです
今回の私の目的は私の生き様を見て欲しいのです
たとえ教会に属さなくていても
クリスチャン(イエスキリストに倣う者)への道があると言う事を示唆したのです
ここに集う皆さんはクリスチャンには成りたいが
教会に縛られるのが怖いと言う方がいらっしゃると思います
(そんな事は決して無いと思うのですが)
そんな方々に一人でもイエスキリストに倣う道があると言う事を示唆したいのです
その為に私はマタイ福音書を片手に
クリスチャンへの道を歩きたいと思います
イエスから直接洗礼を受ける為に
イエスキリストに倣いて マタイ福音書より5 2004/ 1/26 23:32
皆さん貴重な意見を有難うございました
私には時間がありませんので
皆様一人一人にお答えする事が出来ません
ですので
ここでまとめてお答えさせて頂きます
まずはmayumi x22xさんへ
私もmayumi x22xさんの仰る通り
マルコ マタイ ルカの順で書かれたと思います
しかし私は順番はどうでも良いのです
「後にいる者が先になり 先にいる者が後になる」
と言う言葉もある位ですから
後世のクリスチャンがマタイを一番にしたのだから
私もそれに倣いたいと思います
それに少なくとも哲学者〈知恵を愛する者〉なら
聖書は全部は読んでいなくとも
マタイの福音書位は読んでいると思います
何故なら一番先にあるのですから
私は皆さんと言葉を共有したいと思っているので
マタイの福音書を選んだのです
それにこんな事を言ってもイエスは許して呉れると思うのですが
三福音書の中では
マタイ福音書の言葉が一番洗練されていると思います
私は心地よいリズミカルな言葉を皆さんと共有したいと思っているのです
次にyuti7さんへ
私もyuti7さんの仰る通り
私もイエスキリストは神だとは思っていません
イエスは実在の人 人の子です
あの第一章の系図にある通り
アブラハムから数えて42代目の人の子です
マリアを母とする
しかし彼はまた神の子です
「これは私の愛する子 私の心に適う者」
そう天から声がした時
彼は神の子と成ったのです
それはヨハネから洗礼を受けた時
その時イエスは
「神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」のです
その時から
イエスは神の子して歩き始められたのです
「あなたがたの目は見ているから幸いだ
あなたがたの耳は聞いているから幸いだ
はっきり言っておく
多くの預言者や正しい人たちは
あなたがたが見ているものを見たかったが見ることができず
あなたがたが聞いているものを聞きたがったが聞けなかったのである」
この言葉を理解できる人は幸いです
私は人の子としてイエスほど神の霊を具現化した者は
イエスの先にも後にもいないと思います
イエスはキリスト
すなわち救い主としてこの世に現れたのです
人の子としてのイエスキリスト
神の子としてのイエスキリスト
これは私たちが目標とする事の出来る最大限の目標です
この目標に向かって
イエスキリストに倣うものをクリスチャンと言うのです
クリスチャンに成る方法は二つあります
一つはペテロ及びそれに連なる人から
「父と子と聖霊の名」によって洗礼を受ける事です
何故ならペテロは
「あなたはペテロ 私はこの岩の上に教会を立てる」
とイエスから言われたその人だからです
もう一つは今私が遣ろうとしている様に
イエスから直接
「聖霊と火」によって洗礼を受ける事です
ペテロがイエスから洗礼を受けた様に
その為にはペテロをも排して
イエスのみを信じて仰ぎ続けなければならないのです
イエスの愛弟子になる必要があるのです
イエスは実在の人 人の子です
イエスが聖霊を受けた時 すなわち洗礼を受けた時
イエスはキリスト(救い主)と成ったのです
そしてイエスは常に聖霊を通じて神を仰ぎ見ていたのです
それは私たちも同じ事です
私は人の子 sophialoverです
もし私が聖霊受ければ すなわち洗礼を受ければ
その時私はクリスチャンと成ります
そして私はその聖霊を通じて神を仰ぎ見る事になるのです
イエスに倣いて
私は今私と一緒に成って
イエスから直接洗礼を受けようと言う者を求めているのです
「求めよ さらば与えられん」
「二人または三人がわたしのなによって集まるところにはわたしもその中にいる」
最後にJAさんへ
貴方の言う通りです
私は教会に縛られたくないから一人でいるのです
私はsophialovr 知恵の愛人です
私は何時までも知恵の愛人でい続けたいのです
私は知恵の愛人であると同時にクリスチャンでありたいのです
私は知恵の愛人であると同時に仏教徒でありたいのです
私は知恵の愛人であると同時に
エピクロスの徒 ソクラテスプラトンの徒 エピクテトスの徒
孔子 老子の徒でありたいのです
それも一番弟子として
それが私の目標です
イエスキリストに倣いて マタイ福音書より6 2004/ 1/27 22:35
「蝮の子らよ あなたは悪い人間であるのにどうして良いことが言えようか
人の口からは心にあふれていることが出て来るのである
善い人は良いものを入れた倉から良いものを取り出し
悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる
言っておくが人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて裁きの日には責任を問われる
あなたは自分の言葉によって議とされ
また自分の言葉によって罪あるものとされる」
私の倉にはどれ程善い言葉があるのでしょう
私は恐れます その少なさに
だから私はsophialover 知恵の愛人として
またクリスチャンとして
一つ一つ善い言葉を摘み集めて行きたいと思います
私は私の心の中を覗くと二つの倉が有るのに気付きます
一つは善い倉で もう一つは悪い倉です
私は一人静かに居る時は
その善い倉から善い言葉を取り出そうと努めます
そうすると善い言葉が独りでに踊り出て
私の為に歌や踊りを踊って呉れます
それはとても楽しいひと時です
だから私はこうして毎日一人引きこもり
「私の神である主」に「主よ主よ」と呼び掛けるのです
言葉に成らない言葉で
その主は私の呼びかけに応じて
素晴らしい言葉を授けて呉れます
それはとてもとても楽しいひと時です
だからこうして私は毎日一人引きこもり
主よ主よと呼び掛けるのです
しかし私が世に出ると
この倉はぴたりと閉まって決して開こうとしません
その代わり もう一つの倉 すなわち悪い倉が
鍵が一人で解けるのか
今にも開きそうにギイギイと軋しみ始めます
しかしそれは独りでに全開になる事は有りませんが
ある拍子にそれが全開と成り
「悪意殺意姦淫みだらな行い盗み偽証悪口などが心から出て来る」のです
私は告白しなければなりません
その悪口が口に出そうに成った事を
前にも皆さんに言いました様に
ここは私が主よ主よと呼び掛ける場であると同時に
皆さんが集う場です
私は広場から丸見えです
そんな広場に集うある一人が
私を指差して あれを見よと言いました
私は怒りに震え 怒りの言葉を返そうかと思いました
しかし私は自重して時が過ぎ行くのに任せました
そうすると私の主が
私の怒りを焼き尽くし
私に素敵な霊を授けて呉れました
それが為私はこうして天の国を仰ぎ見れる所まで来れたのです
そして私はその人に対する悪意は全く無くなりました
今日もまた私は私の主によって
「聖霊と火」によって洗礼を授けられたのかもしれません
今日の最後に
私はこの言葉をここに集う皆さんに贈ります
「イエスはこれらのことをみなたとえを用いて群集に語られ
たとえを用いないでは何も語られなかた」と
一つ一つの言葉に囚われていては
聖書は楽しめないと思いますよ
貴方の神である主を通じて
イエスに呼び掛けてご覧なさい
イエスはきっと貴方の為に素敵な世界を見せて呉れると思いますよ
イエスキリストに倣いて マタイ福音書より7 2004/ 1/29 7:45
「あなたがたも聞いているとおり隣人を愛し敵を憎めと命じられている
しかし私は言っておく
敵を愛し自分を迫害する者のために祈りなさい」
こんな気高い愛があるでしょうか
たぶんイエス以前の人たちはそんな言葉は聞いた事が無かったと思います
この言葉によって
愛の革命が起こったのです
それはペテロ パウロを経て
世界中に広まって行きました
それが世界中に定着したのか
それは問わない事にします
しかし私は一人のクリスチャンとして
それを心に刻みたいと思います
たとえそれが実現出来なくても
私の心の中に刻み続けて行きたいと思います
私の蟠りは消えつつあります
言葉ってなんて素晴らしいのでしょう
「人はパンだけで生きるものではない
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
この言葉を実感出来る人は幸いです
今日もまた
私はその言葉の滴を頂きました
私の神である主に
主よ主よと呼びかける時
そこから溢れ出る言葉は
神の言葉以外の何でありましょう
「だれかがあなたの右の頬を打つなら
左の頬も向けなさい」
私はサンドバッグにも成りましょう
それが神の御心なら
ここは私が主よ主よと
私の神である主に呼びかける場であると同時に
皆さんと交流する場です
ある人が忠告して呉れました
そんなに主よ主よと唱えているだけでは
誰とも交流出来ませんよ
もっと人の心の中に入って行かなければなりませんよ と
尤もだと思います
そう言う訳で
私に意見を下さった方には
出来るだけお返事をさせて頂きたいと思っています
rashale_1463さんへ
いつも暖かいメッセージ有難うございます
今日もまたrashale_1463さんのメッセージによって
書き続けて行こうと思いました
本当に有難うございました
rashale_1463さんの仰るとおり
今回もまた
私はストーリーテーラーとして登場しています
それは自己顕示欲の為せる業だと思います
しかし同時にまた
神の言葉と言うか
善き言葉と言うか
そんな言葉を皆さんと一緒に共有したいと言う気持ちがあるのも本当です
その為聖典仏典と言われるものの中で
皆さんが一番良く知っているであろうと思われるマタイ福音書を選んだのです
私は今回マタイ福音書を読み返して
新たな発見をしました
それは神の概念です
マタイ福音書では
「あなたの神である主」と言う言葉が何度か出てきます
それも大事な所で 例えば
「あなたの神である主を拝みただ主に仕えよ」とか
「心を尽くし精神を尽くし思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」とか
私はこの言葉によって
私の神が随分と近く成りました
その為 このシリーズでは
「私の神である主」と言う言葉を多用して
それに呼びかける形を取っています
この用法については
本当のクリスチャンが聞けば眉をひそめるものなのかも知れませんが
私のその「私の神である主」が否と言わない限り
その用法で続けて行きたいと思っています
「あなたの神である主」
これを解く事が
マタイ福音書を読み解く鍵になるのだと思います
マタイ福音書は本当に素敵な書です
もう一度読み返して見ませんか
そして何か気付いたらまたメッセを下さい
神の言葉と言うか善き言葉と言うか
そんな言葉を共有出来たら
どんなにか素晴らしいと思います
mayumi_x22xさんへ
私を高めて呉れる為
いつも厳しい言葉有難うございます
心から感謝しています
イエスキリストに倣いて マタイ福音書より8 2004/ 1/29 23:01
everlikeyou2003さんが仰る様に
私はお題目を唱えているばかりです
何故お題目を唱えているのか
それは楽しいからです
自らの楽しみだけであれば
「あなたが祈るときは奥まった自分の部屋に入って戸を閉め
隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言う様に
一人静かに主よ主よと祈れば良いのです
しかし私はこの様にこの大広場に立って祈っています
「祈るときにもあなたがたは偽善者のようであってはならない
偽善者たちは人に見てもらおうと会堂や大通りの角に立って祈りたがる
はっきり言っておく
彼らは既に報いを受けている」
はっきり言います
私は偽善者です
クリスチャンと言う言葉を隠れ蓑に
ただ自分を主張しているだけなのです
それは自己顕示欲と言う欲の為せる業なのです
しかし私は前にも言った様に
神の言葉というか 善き言葉というか 美しい言葉というか
そんな言葉を皆さんと共有したいと思っているのも事実なのです
その為に私は主よ主よと呼びかけ
皆さんの注目を引こうとしているのです
「心の清い人々は幸いである
その人たちは神を見る」
私は知っています
神を見た人たちを
彼らはもうそれ以外に何の楽しみもなくなります
彼らは毎日「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」
主よ主と呼びかけるのです
そして毎日毎日神の言葉の雫を頂くのです
彼らは「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」様に成るのです
私はここに集う人の様に知識はありません
私の知識と言えば
イエスやブッダ ソクラテス プラトン エピクロス エピクテトス セネカ M・アウレリウス
孔子 老子 それにBC以前の哲学者達〈知恵を愛する者たち〉の僅かばかりの言葉だけです
しかしそれだけで私は十分幸せに成る事が出来るのです
私が一人「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」主よ主よと呼びかけると
それらの聖人たちが私の為に言葉を携えて出て来て呉れるのです
この言葉はどうでしょう この言葉も素敵ですよと 列を成して
どの言葉を撰ぼうかと 迷う位に
そして私が一つの言葉を選ぶと
その聖人が私の為にそれを講釈して呉れるのです
それはとてもとても楽しい時間です
私は人間です
だから真であり善であり美で在りたいと願います
それらの欲求の全てを
彼らがその言葉で満たして呉れるのです
だから私は毎日毎日「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」
主よ主よと呼びかけるのです
「天の国は次のようにたとえられる
畑に宝が隠されている
見つけた人はそのままに隠しておき喜びながら帰り持ち物をすっかり売り払ってその畑を買う」
神を見た人は
全てを代償にして
その「天の国」を買い取ろうとするのです
「心を尽くして精神を尽くして思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい
これが最も重要な第一の掟である
第二もこれと同じ様に重要である
隣人を自分のように愛しなさい」
この内の第一の掟は私にとってはそれ程重要ではないのです
私はもうそのハードルを越えていると思っているから
問題なのは第二の掟です
これは見上げる様に高い
とても飛び越せない程に
しかし一歩が大切
その一歩が今の私の行為なのです
大広場で主よ主よと呼びかけること
すなわち祈る事は偽善です
しかしもし祈り方を知らないのだったら
その祈り方を見せて上げるのも一つの愛ではないか
そう思って私はここでこうして
祈り〈主よ主よと呼びかけ〉続けているのです
ここは私が主を愛する場であると同時に
皆さんを愛する場なのです
今日の最後に祈り方の原型をここに置いて置きます
「天におられるわたしたちの父よ
御名が崇められますように
御国が来ますように
御心が行われますように
天におけるように地の上にも」
そしてこれらは全て
「あなたの神である主」を通じて行われるのです
イエスキリストに倣いて マタイ福音書より9 2004/ 2/ 2 22:04
「どんな願い事であれ
あなたかたのうちの二人が地上で心を一つにして求めるなら
私の天の父はそれをかなえてくださる」
「二人または三人がわたしの名によって集まる所には
わたしもその中にいる」
私は三日程留守にしていました
そして今日帰って来た訳ですが
その激流の凄さに驚いてしまいました
この激流の中でかつて私が
水浴をしていたなどとても信じられませんでした
私はただただその流れを見守るしかありませんでした
いつかまた静かに成る事あるだろうと思って還ろうとしました
そんな時です
こんな声がしたのです
ここにおいでよと
そこを見ると
そこだけが水溜り様に静かに成っていました
私はその声に誘われて
今ここにこうして座っているのです
不思議な事ですが
先程のあの激流が
今はもう清流に変わろうとしているのです
本当に不思議な事です
「二人または三人がわたしの名によって集まる所には
わたしもその中にいる」
そんな言葉を実感した
今日のこのひと時でした
sophialoverより
心優しき人へ
イエスキリストに倣いてマタイ福音書より10 2004/ 2/ 3 22:50
the third heavenさんへ
いつも暖かい言葉有難うございます
私もthe third heavenさんと同じ様に
‘私がここに存在しているのは
神の栄光の実現のためである‘ と思っています
その為に私はクリスチャンとして
ここを一歩ずつ歩き続けているのです
「あなたがたは世の光であ
山の上にある町は隠れることができない」
「ともし火をともして升の下に置く者はいない
燭台の上に置く
そうすれば家の中のもの全てを照らす」
「そのようにあなたがたの光を人々の前に輝かしなさい
人々があなたの立派な行いを見てあなたがたの天の父をあがめるようになるためである」
立派な行いか偽善かは私たちを惑わします
これは偽善ではないか
そんな惑いから
立派な行為の芽が潰されていきます
もしマザーテレサが第一歩を踏み出さなかったら
あの神の栄光があったでしょうか
私たちクリスチャン(イエスキリストに倣おうとする者)は皆神の子です
その神の子が善しと思い
聖霊が後押しして呉れるなら
それは立派な行いです
躊躇せずに人々の前に輝かすべきです
the third heavenさんの言葉は
私の心を震わせ
私の心に勇気を与えて呉れます
それは心ある人々にもきっと同じだと思います
the third heavenさんがここに素敵な言葉を置く事
それこそが
神の栄光の実現 だと思うのです
これからもどうかここに素敵な言葉を置いて下さい
私の為に
そしてここに集う心ある人々の為に
everlikeyou2003さんへ
いつも暖かい言葉有難うございます
everlikeyou2003さんはここの良識だと思います
「憐れみ深い人々は幸いである
その人達は憐れみを受ける」
そんな言葉を地で行っている人だと思います
これからも良識の人として
二つの世界の架け橋に成って下さい
sophialoverより
イエスキリストに倣いてマタイ福音書より11 2004/ 2/ 4 23:43
私もrashale_1463さんの仰るとおり
‘ヒトは神を知らない
見ることも出来ず 感じることも出来ず 接することもまた不可’
そしてまた
‘神に存在するのは神という言葉のみ’だと思います
悠久無限の神をどうして私たちが
知る事が出来るでしょう
見る事が出来るでしょう
感じる事が出来るでしょう
接する事が出来るでしょう
私たちはその悠久無限の神を前にした時
神に存在するのは神と言う言葉のみと言わざるを得ないと思います
しかしそれでも私は神を求めて歩き続けているのです
古代の哲学者達は神を求めて続けました
私もそれに倣って神を求め続けているのです
古代の哲学者達は
私に様々な神を見せて呉れました
しかし私は思っているのです
最後には一つの神に収束していくのだと
ブラフマンとアートマン
私は今回マタイの福音書を読んで
その事にまた気付きました
それは「父と子と聖霊の名によって」です
その名によって洗礼を受ける時
私たちは神を知る事になるのです
「父のほかに子を知る者はなく
子と子が示そうと思う者のほかには父を知る者はいない」
私たちはイエスの示す言葉に依って聖霊を知る様に成った時
父なる神を知る様に成る事が出来るのです
マタイ福音書には二つの神が存在します
一つは「あなたの神である主」と言う時の神です
もう一つは「父」と言う言葉に代表される神です
この神は私たちが一般にイメージする神です
悠久無限 完全無欠 天地創造その他あらゆる冠称を付ける神です
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ
正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」神であり
「あなたがたの父が完全にあられるように
あなたがたも完全な者となりなさい」と言う時の神であり
「神はこんな石からでもアブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と言う時の神です
私たちがいきなりこの神に呼びかけても
私たちはそれを見る事も触れる事も感じる事も
勿論知る事も出来ません
そんな時私たちは思います
神とはただ言葉だけの神だと
しかしもう一つの神
すなわち「あなたの神である主」を通じて神を仰ぎ見る時
そこに私達は神の顔を見る事が出来るのです
一つではなく 千と万の いえそれ以上の
それがまさに天の国であり 神の国なのです
「神は死んだ者の神ではなく
生きている者の神」なのです
また「私はアブラハムの神でありイサクの神でありヤコブの神」と言う様に
神はそれぞれに存在する神なのです
しかしそれは聖霊を通じて一つに集約されていくのです
これが全ての宗教の神秘なのです
「あなたの神である主」とは聖霊の事です
この聖霊を通じて神を知る様になるのです
イエスの言葉に導かれて
「あなたの神である主」については
キリスト教では聖霊と呼ばれますが
もし宗教を勉強した事がある人なら
ぞれが様々な名によって呼ばれる事を知っていると思います
その主によって神を垣間見る時
人はこの上なく心地よい気分になるのです
だから主を知り神を垣間見た者は
毎日「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」
神を垣間見ようとするのです
快楽と言う「父からの報い」を得る為に
「心を尽くし精神を尽くし思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい
これが最も重要な第一の掟である
第二もこれと同じように重要である
隣人を自分のように愛しなさい
律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」
私は思います
この言葉こそが全ての宗教の黄金律であると
一番目の掟は自分が幸せになる為です
二番目の掟は自分が幸せになった様に
他人をも幸せにしてあげたいと言う気持ちに成る事です
いきなり神を掴もうとしてもそれは空を掴む様なものです
それよりも「あなたの神である主」を通じて神を垣間見て見ませんか
それは永遠に解けないそして永遠に快楽を提供し続けて呉れるパズルの様なものです
私たちは誰も神を一掴みにする事は出来ません
神の部品を組み立てる事
ここにこそ快楽と言う「父からの報い」があるのです
第二の掟は途轍も無く難しい
しかし第一の掟は容易いのです
今日からでも第一の掟を実行して幸せに成りませんか
「わたしは柔和で謙遜な者だから わたしの軛を負い私に学びなさい
そうすればあなたは安らぎを得られる
わたしの軛は負いやすくわたしの荷は軽い」
イエスキリストに倣いてマタイ福音書より12 2004/ 2/ 5 21:57
一体どうしたと言うのでしょう
私が昨夜メッセを書き込んでから
今日の今までメッセが無いとは
機械の故障があったのでしょうか
それとも皆さんの心に何か変化あったのでしょうか
今日はマタイ福音書でも
お気に入りの言葉をここに置いて還ろうと思います
「あなたがたも知っているように異邦人の間では
支配者たちが民を支配し
偉い人たちが権力を振るっている
しかしあなたがたの間ではそうであってはならない
あなたがたの中で偉くなりたい者は皆に仕える者になり
一番上に成りたい者は皆の僕になりなさい」
仏教徒として 法句経より 2004/ 2/ 9 23:15
私は「イエスキリストに倣いて マタイ福音書」を書き始めた時は
マタイ福音書 マルコ福音書 ルカ福音書 ヨハネ福音書
使徒言行録 各手紙 そしてヨハネ黙示録を通じて
私のクリスチャンとしての生き様を描こうと思いました
しかしここに来て
それは一生をかけても書き上げ得ないドラマだと思う様に成りました
「イエスのなさたことはこのほかにもまだたくさんある
私は思う
その一つ一つを書くならば世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」
(ヨハネ福音書最終章最終節)
私の人生の目的は
クリスチャンの様に生きる事です
しかしまた仏教徒の様に生きる事も
そしてまたソクラテスプラトンの徒
エピクロス エピクテトス 老子 孔子の徒として生きる事も
私の人生の目的です
更に私の身近な人生の目的は
また別な所にあるのです
そう言う訳でクリスチャンとしての生き様は今日までとし
今日からは仏教徒の様に生きて行こうと思っています
教会に属するクリスチャンには本当に不快な言葉の数々
どうかお許し下さい
しかし私は今でも思っています
「私の神である主」が否と言う様な言葉は置いていないと
クリスチャンとしてここを去るに当たって
ヨハネ福音書第1章第1節から第5節までをここに置いて行こうと思います
「初めに言があった
言は神と共にあった
言は神であった
この言は初めに神と共にあった
万物は言によって成った
成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった
言のうちに命があった
命は人間を照らす光であった
光は暗闇の中で輝いている
暗闇は光を理解しなかった」
言葉こそが天地創造の根源です
言葉によって素敵な世界も邪悪な世界も
すなわち天国も地獄も創り上げられて行くのです
貴方が今使ったその言葉
その言葉は貴方を天国に導いて呉れますか?
全て譬えです!
さて私は今日から仏教徒として生きて行く訳ですが
私がその根拠経典として選んだのは法句経です
何故法句経を選んだか
それは誰でも手軽に手に入れる事が出来るから
そして誰でも手軽に読み切る事が出来るから
読書通の方なら一時間で読み切る事が出来ます
そうでない方でも三時間もあれば十二分に読み切る事が出来ます
手に入れる方法ですが
三十万以上の都市にお住まいの方であれば
そこの大型書店に行けば必ず手に入れる事が出来ます
そうでない方はamzonその他の方法ですぐに手に入れる事が出来ます
流通している本は
岩波文庫の「ブッダ 真理の言葉 感興の言葉」と
講談社学術文庫の「法句経」です
私の持っている本は前者ですので
私はそれを利用して行きます
「ブッダ 真理の言葉 感興の言葉」の内
「真理の言葉」が法句経です
そしてそれはダンマパダとも呼ばれています
今日は時間がありませんので
その中には入って行きませんが
私は私に宿題を出したいと思っています
私は「イエスキリストに倣いて マタイ福音書4」の所で
「ここに集う皆さんは
イエスの教えとブッダの教えは違うかの様に議論していますが
私に言わせれば全く同じだと思います
しかし今回はそれが主題ではありませんので
その説明はここではしない事にします」
などと言っています
今回はそれも一つの主題にしていきたいと思っています
私はここに入る前に小1時間ほどで法句経を一通り読んだのですが
その宿題はかなり難しそうです
しかしその内に答えきっとは出ます
それが知恵と言うものです
今回は知恵の神秘についても
皆さんと一緒に考えて行きたいと思っています
sophialover(知恵の愛人)より
仏教徒として 法句経より その2 2004/ 2/10 23:57
「つまらぬ快楽を捨てる事によって
広大なる楽しみを見る事が出来るのであるなら
心ある人は広大な楽しみを望んでつまらぬ快楽を捨てよ」
(法句経290節)
これはエピクロスの快楽主義と全く同一である
「快が目的であると我々が言う時
我々の意味する快は
道楽者の快でもなければ性的な享楽な内に存する快でもなく
肉体において苦しみの無い事と霊魂において乱されない事に他ならない」
〈エピクロス メノイケウス宛ての手紙より〉
これこそが法句経で言う所のニルヴァーナである
「ニルヴァーナと言う最上の楽しみがある」(203節)
「健康は最高の利得であり満足は最高の宝であり信頼は最高の知己でありニルヴァーナは最上の楽しみである」(204節)
「精神の安定統一と明らかな智慧がそなわっている人こそ既にニルヴァーナの近くにいる」(372節)
「心ある人はこの道理を知って戒律を守り速やかにニルヴァーナに至る道を清くせよ」(289節)
「貪りと怒りを断ったならば汝はニルヴァーナにおもむくであろう」(369節)
「ニルヴァーナは最高のものであると諸々のブッダは説きたまう」(184節)
私の仏教徒としての目的はこのニルヴァーナに至る事である
しかし私は言う
仏教徒だけがこのニルヴァーナに向かっているのだろうか
私は言う
クリスチャンもエピクロスの徒も孔子老子ソクラテスの徒も
そして心ある哲学者(智慧を愛する者)は皆そこへと向かっているのである
何故か
それは人間が感じうる最大の快楽〈幸福〉だから
麻薬や覚醒剤よりもそして性的快楽よりも更に
それは温厚で平和的な快楽 そして持続する
法句経290節をもう一度噛み締めて御覧なさい
釈迦が嘘を言うだろうか
もう一度福音書を復唱して御覧なさい
イエスが如何にその安らぎへ導こうとしたか
しかし貴方たちは気付かない
何故なら暗闇の中に生きているから
どうしてその光が見えないのか
法句経を開いて御覧なさい
福音書を開いて御覧なさい
そして心ある哲学の書を
そこには眩しい程の光があるではないか
どうして貴方たちには見えない!
「あなたたちは聞くには聞くが決して理解せず
見るには見るが決して認めない
この民の心は鈍り
耳は遠くなり
目は閉じてしまった
こうしてかれらは
目で見ることなく
耳で聞くことなく
心で理解せず 悔い改めない
わたしはかれらをいやさない」
イエスやイザヤが言った様に
貴方方は何時まで闇の子でい続けるのか
目を開きなさい
目が見えないなら 耳で聞きなさい
耳も聞えないなら 心で感じなさい
貴方方は未だ心は残っているだろうから
もしそれを微かでも感じた者が居たら 手を上げなさい
私が貴方をニルヴァーナへと案内して上げる
天国とも神の国とも極楽とも涅槃とも言われるその世界へ
などと今日はちょっと神懸ってしまいました
やはりクリスチャンの衣を脱いだ影響が大きいと思います
自らクリスチャンの名乗る時
私には教会の敬虔なクリスチャンの事が頭にありました
私はもっと奔放に表現しても良かったのですが
やはり敬虔な教会のクリスチャンに嫌な思いをさせてはいけないと
そんな心持があったので
幾らか表現を控えていました
しかし今私はクリスチャンの衣を脱ぎ仏教徒です
何に囚われる事も無く自由に発言しようと思っています
クリスチャンが何故敬虔か
それは新約聖書があるからです
そこには人の子として 神の子として生きる術が一杯に光っています
私たちは新約聖書を手にする時
どうしても敬虔に成らざるを得ないのです
それはとてもとても素敵な事なのです
私は思います
日本のもっともっと多くの人がクリスチャンに成ればいいと
そうすれば日本はもっともっと素敵な国に成るのだがと
私はひょっとしたら
一人でも多くの人をクリスチャンに導く為に
ここに立っているのかも知れません
それに引き替え仏教は人を敬虔にはしません
それは経典が無いにも等しいからです
仏教で敬虔に成る為には余程の哲学者(智慧を愛する者)か
僧団に入るしかないのです
それ以外の人は蚊帳の外です
その経典の言葉が自分の物に成らない限り
その教えは人を敬虔にしないのです
それが日本の仏教徒の現状です
ルターが聖書に還れと言った様に
私はここに立ってお経に還れと言う事にします
まずは私は
仏教徒として 法句経より その3 2004/ 2/11 11:08
私はこのシリーズに入る前に自分に宿題を出しました
「ここに集う皆さんは
イエスの教えと釈迦の教えは違うかの様に議論していますが
私に言わせれば全く同じだと思います」
これを解く事もこのシリーズの主題であると
イエスの教えは「父と子と聖霊の名によって」
すなわち神とイエスと聖霊に象徴されます
三位一体と言う言葉もありますが
私はこの世の垢に染まった言葉は使わない事にします
それよりもイエスが直接に言った言葉を
その根拠としたいと思います
マタイ福音書にはこの様な言葉がありました
「父のほかに子を知る者はなく
子と子が示そうと思う者のほかには父を知る者はいません」
ここに三位一体
すなわち「父と子と聖霊の名によって」が象徴されています
耳あるものは聞きなさい
さて私はこの言葉を捜して
法句経を二度三度と読みました
しかしそれに類似する言葉は見出せませんでした
しかし昨日私がニルヴァーナと言う言葉を使った時
その答えが出たのです
いみじくも後世のクリスチャンは三位一体と言いました
それこそがまさにニルヴァーナではないかと
ニルヴァーナ
そこには神が居り
イエスの言葉が有り
私と言う聖霊が存在する
そこで私はイエス共々神との祝宴を楽しむのである
そこがニルヴァーナである
そこで「広大なる楽しみを見る事が出来る」(290節)
「ニルヴァーナは最高のものであると諸々のブッダは説きたまう」(184節)
「ニルヴァーナと言う最上の楽しみがある」(203節)
三位一体とニルヴァーナは全く同じ事です
イエスはニルヴァーナを
神とイエスの言葉と聖霊に分けました
そうした方がこの世の人には分かりやすく
人々がより敬虔に成るからと思ったからです
そしてそれはその通りに成りました
しかし釈迦はそれをニルヴァーナのまま
すなわち三位一体のまま置きました
それは哲学者(智慧を愛する者)の為の教えだったからです
本当の哲学者(智慧を愛する者)は
その教えをとてもとても有難りました
何故なら人をこの世の最大快楽(幸福)に導いて呉れたからです
しかしこの世の人にはその教えが良く分かりませんでした
だからその教えをこの世の人に分かり易くする為
千とも万とも言えるお経が出来上がった行ったのです
そしてそれは現在も進行中です
現在の新興宗教もその類です
釈迦はそれを明確に示さず
三位一体のままに置いて置きました
だから人々はそれぞれの神を創り上げる事が出来たのです
すなわち偶像を
私たち仏教徒は思います
どの経典を根拠にすれば良いのかと
私は思います
仏教は諸々の仏陀の教えであると
その教えは人々の間に宗教として布教されて行きました
しかし私は思います
釈迦の教えは哲学者(智慧を愛する者)の教えそのものであると
真の哲学者(智慧を愛する者)は
もう一度原典に還る必要があると思います
その為に私は法句経を置きました
私がその一番弟子に成る為に
そして皆さんもそれに与れる様に成る為に
「ニルヴァーナは最高のものであると諸々のブッダは説きたまう」(184節)
そこで私は諸々の仏陀
すなわち釈迦やイエスやソクラテスプラトンや孔子老子 エピクテトスエピクロス共々
神との祝宴を楽しむのです
貴方もその一員と成りませんか?
仏教徒として 法句経より その4 2004/ 2/11 22:27
私は思います
法句経は釈迦の言葉だと
もし貴方が哲学者で幸福に成りたければ
まずは法句経を読みなさい
釈迦のその言葉は貴方を智慧の高殿へ上げ
そしてニルヴァーナと言う至福へ貴方を飛ばさしめて呉れるでしょう
法句経でニルヴァーナと言う言葉が出て来るのは
423節中 僅かに7節だけです
その外は全て戒めの言葉です
私たちが知恵の高殿に上る為に必要なのは
この戒めの言葉だけです
この戒めの言葉により智慧の高殿に上り詰めた時
その時始めて
貴方をニルヴァーナへと誘う風が吹いて来るのです
貴方方の様に
初めから神よ神よと望んでも
神は絶対に現れません
貴方方はあの宗教の黄金律を忘れたのですか
「心を尽くし精神を尽くし思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい
これが最も重要な第一の掟である
第二もこれと同じように重要である
隣人を自分のように愛しなさい
律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」
見なさい
釈迦は見事にこの言葉通りの事を言っているではないか
自らを矯め 隣人を愛し 瞑想により心静かに成る時
ニルヴァーナへ渡れるのだと
この瞑想こそが「貴方の神である主を愛する」事に他ならないのです
なお瞑想に関する記事も
423節中 7節に出て来ます
私が何故法句経を高く買うか
それは手軽に手に入るからでもなく
手軽に読み切る事が出来るからでもなく
本当に貴重な戒めの言葉が一杯に詰まっているからである
その戒めを守れば
その結果としてニルヴァーナへと行ける
ニルヴァーナについてはそれ位の事しか書いていないのである
形而上学的な事に頭を悩まさずとも
形而上の世界に行ける
法句経はそんな素敵な書だからです
それに引き替え般若心経を見て御覧なさい
神の国を知る公案としては第一級のものです
しかしこの経典だけでは誰もニルヴァーナへ渡れないのです
何故ならあの第二の掟
隣人愛が一行も書かれていないから
私は思います
般若心経は神の国を知る為の公案として
仏様が切り取られて来られたものだと
(仏様すみません
勝手な喩えに使って
この次般若心経に言及する事があったら
その時は一生懸命飾り立てますので
そう言う事で今日はご勘弁下さい
決して不敬から出たものではありません
ここに集う皆さんに
法句経の素晴らしさを知って貰う為に
遂々口から出てしまったのです
仏様も御理解して呉れますよね
(仏様)よろしい 貴方の好きな様に
仏様有難うございます)
そう言う訳で皆さん 仏様も
法句経は素晴らしいお経だと太鼓判を押して呉ました
早速法句経を買い求めて見ませんか
そして私と一緒に勉強して見ませんか
哲学者(智慧を愛する者)として
仏教徒として 法句経より その5 2004/ 2/12 22:56
panietzcheさんへ
返信有難うございました
panietzcheさんの言う事も分かりますが
私は今私の既定路線を走らなければならないのです
またいつか議論する事もあると思いますが
その時はよろしくお願いします
今日は返信に対する感謝の念だけに留めさせて頂きます
さて皆さんは人生哲学に興味はありませんか
人生とは 世界とは 真理とは 正義とは 悪とは 自分とは
怒りとは 汚れとは 愚かさとは 賢さとは 知恵とは 快楽とは 愛とは 欲望とは
老いとは 死とは 道とは 修行とは 悟りとは 瞑想とは 心とは
そしてニルヴァーナとは
もしこれらの事に興味があるのなら
すぐに法句経を手に入れなさい
法句経にはこれらの事が章立てて
四行詩のリズミカルな詩(うた)で謳われているのです
その美しい調べに乗ってその詩(うた)を楽しむ時
私たちはもうニルヴァーナの近くまで来ているのです
それを何度も何度も暗誦してその言葉を自分の血肉としなさい
もしその言葉が自分の血肉と成ったならそれを行動に移しなさい
それから「自分の奥まった部屋に入って戸を閉め」瞑想を楽しみなさい
そうすれば何時しかニルヴァーナへと誘う風が吹いて来ます
そしてそこで釈迦共々天国を楽しみなさい
天の国に入る為には
神への愛(瞑想)と隣人愛が必要なのです
神よ神よと言うだけでは駄目なのです
その者の末路を見て御覧なさい
不敬と詭弁に満ちているではないですか
おぞましいほどに
隣人愛はとても難しい行為です
特に我々「蝮らの子」にとっては
その難しい行為を少しでも易しくして呉れるのが
言葉たちです
イエスの言葉や釈迦の言葉や
その他聖人偉人哲人たちの言葉で頭が一杯に成った時
私たちはもう
「悪意 殺意 姦淫 みだらな行い 盗み 偽証 悪口」を
口から出せなく成るのです
しかしこれは隣人愛の第一歩です
次の第一歩が途轍も無く難しいのです
その為に私たちはイエスの衣を 釈迦の衣を着る必要があるのです
すなわち神の子 仏の子として
自覚を持ってその道を歩まなければ成らないのです
ここに集う人々の中には隣人愛を勘違いしている人がいるのではないでしょうか
兄弟友達先輩後輩上司近所のおじさんおばさん
こう言う人たちを愛する事を隣人愛と考えているのではないでしょう
(勿論これも隣人愛ではありますが・・・)
「自分を愛してくれる人を愛したところであなたがたにどんな報いがあろうか
徴税人でも同じことをしているではないか」
「自分の兄弟だけにあいさつしたところでどんな優れたことをしたことになろう
異邦人でさえ同じことをしているではないか」
本当の隣人愛とは この小さき者の為に
「飢えていたときに食べさせ
のどが渇いていたときに飲ませ
旅をしていたときに宿を貸し
裸のときに着せ
病気のときに見舞い
牢にいたときに訪ねる」事であり
「敵を愛し 自分を迫害する者のために祈る」事です
こんな崇高な愛を誰が実現出来ましょう
出来るとしたら
神の子としての自覚 仏の子としての自覚を持つ者のみです
法句経にはこれら隣人愛の事が綺羅星の如く鏤められています
また自己を律する方法
すなわち怒り 汚れ 愚かさ 欲を消し去り 道を修め道に立つ方法
また生と老いと死の根源
更には正義真理世界人間知恵心そして自分の根源
そしてニルヴァーナ等
私たちが人生で突き当たる全てのものが網羅されています
それもリズミカルの美しい四行詩で
人生に興味がある人は早速に手に入れるべきです
貴方の人生に転機が訪れるかもしれませんよ?
仏教徒として 法句経より その6 2004/ 2/13 22:52
皆さんは自分の事を知っていますか
自分を知る者は神の霊を知る者です
神の霊を知る者は神を知る者です
法句経の第十二章に「自己」と言う章が有ります
そこには自己に関する美しい詩(うた)の数々が収められています
スペースも有りませんので三編だけをここに掲げて置きます
「自己こそ自分の主である
他人がどうして主であろうか
自己を良く整えたなら
得難き主を得る」
「自ら悪を為すならば自ら汚れ
自ら悪を為さないならば自ら浄まる
清いも清くないも各自の事である
人は他人を浄める事はできない」
「例え他人にとって如何に大事でも
他人の目的の為に自分の勤めを捨てては成らぬ
自分の目的を熟知して
自分の務めに専念せよ」
皆さんは他人の目的の為に
自分を放棄していませんか
「自己こそ自分の主である」
これこそが全ての宗教の
そして心ある哲学の基礎の基礎です
これを知らなければ皆闇の中です
何故自己こそが自分の主なのか
それは自己の中にこそ
神の霊が存在するからです
自分の目的を熟知して
自分の務めに専念する者は
何時しかその中に神の霊を見つけます
神の霊を見つけた者は後は
神の子として神への道を歩むしか道がなくなるのです
強制されてではなく 自らの楽しみの中で
皆さんは皆さんの中に神の霊を見つけましたか
未だ だったら私に付いて来なさい
私と一緒に勉強しましょう
まずはマタイ福音書で
次は今勉強している法句経で
それから私が示すこれからの教科書の中で
その目的は皆さんの頭の中を
美しき善き言葉で一杯にする事です
すなわち皆さんの頭の中を
美しき善き言葉の花園に変える事なのです
「あなたたちは悪い人間であるのにどうして良いことが言えようか
人の口からは心にあふれていることが出て来るのである
善い人は良いものを入れた倉から良いものを取り出し
悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」
もし皆さんの頭の中が
美しき善き言葉の花園に変わると
聖霊がその蜜も求めて遊びに来ます
その聖霊と戯れ遊んでいるある時
私たちは神を垣間見る事に成るのです
その強烈な美しさに魅せられて
私たちは毎日毎晩
「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」
「私の神である主」すなわち聖霊を通じて
神よ神よと呼びかけるのです 声無き声で
それが天国への階段なのです
私が何故快楽すなわち天国の事を強調するかと言うと
皆さんに「知足」(足るを知る)を知って貰いたいからです
足るを知る
すなわち自分自身に満足する様になる時
もう自分の満足の為に
自然を人間を破壊略奪しようと言う気分が無くなります
それどころかその天国で勝ち得た言葉を
この世で実行したいと言う気分にも成ります
もしその言葉が実行されれば
そこに一つのユートピアが生まれる事に成るのです
全てのユートピアはまずは自分から始まるのです
自分の中に神の霊を見つける事
そこから全てのユートピアが始まるのです
どうか自分探しの為に
善き言葉を経巡って下さい
私もその目的の為にここに立っているのです
エピクロスの徒として「手紙」より 2004/ 2/14 11:02
法句経が緒に付いたばかりなのに
私は次へと進まなければなりません
ここの時の流れが
思った以上に速く動いているからです
私がここに立っているのは
皆さんと美しき善き言葉を共有する為です
私がこれから訪ねて行く
美しき善き言葉の数々を紹介して置きます
皆さんがそれを予習して置けば
私たちはその言葉をより良く共有する事が出来る様に成るでしょうから
私がこれから訪ねて行こうとする言葉たちは次の通りです
一 エピクロス「メノイケウス宛ての手紙」(岩波文庫エピクロスより)
二 エピクテトス「語録」(中央公論社世界の名著第13巻より)
三 セネカ「人生の短さについて」(岩波文庫)
四 マルクス・アウレリウス「自省録」(岩波文庫)
五 ソロモン「箴言」(日本聖書協会旧約聖書より)
六 ダビデ「詩編」(日本聖書協会旧約聖書より)
七 孔子「論語」(岩波文庫)
八 老子「老子」(講談社文庫または岩波文庫)
九 ソクラテスプラトンについては断然「国家」(岩波文庫)なのですが
何しろ分厚すぎますので
今回は「饗宴」(岩波文庫)か「ソクラテスの弁明」(岩波文庫)を使いたいと思っています
以上の言葉たちは短いものは十分
長いものでも一日あれば読み切る事が出来ます
本当に言葉の精と言われるに相応しい言葉たちです
どうかこの機会に一括購入する事をお勧めします
さて今日は時間もありませんので
エピクロスの「メノイケウスの手紙」に入って行きたいと思います
昨晩メッセを書き上げてから一回
そして今朝も一回読み切りました 約十分で
この「メノイケウスの手紙」こそが
私の快楽主義の原点です
皆さんはエピクロスの快楽主義を
「一部の人が我々の主張に無知であったり
賛同しなかったりあるいは誤解している」のではないでしょうか
エピクロスの快楽主義とは
「肉体において苦しみのない事と
霊魂において乱されない事に他ならない」です
肉体において苦しみが無く 霊魂において乱されない時
私たちは始めて天国に渡る事が出来るのです
そこで私たちはソフィア(知恵)と自由に遊び回る事が出来るのです
メノイケウス宛ての手紙は本当にすっきりすっきりしています
私はこの書を読む度に私の気持ちがすっきりと変わって行くのを憶えます
私の思想を最も要約した書はどれかと問われれば
この「メノイケウスの手紙」だと言うのかもしれません
それ程にこの手紙は私にしっくりと馴染んだものなのです
この手紙の中では
「神」「哲学(知恵を愛する事)」「快楽」「思慮」
「自己充足(私が昨日述べた知足)」その他
良く生きる為の方法が
本当に簡潔に更々と書かれているのです
私はこの書を読む度にきりっとした気分に成ります
だから私はエピクロスの徒なのです
エピクロスの徒として「手紙」より その2 2004/ 2/15日 10:51
私は恐れます
ここが荒野に成ってしまったのではないかと
何時からここは荒野に成ってしまったのでしょうか
あの良識ある人が去ってからでしょうか
ここには良識ある人の足場が無くなってしまったのでしょうか
しかしそれもひと時の宿命でしょう
私は私の道を歩み続けます
さて皆さんは
エピクロスの「メノイケウス宛ての手紙」を読みましたか
本当に素晴らしい文章でしょう
これを読めば誰でも
哲学者への道を踏み出そうと言う気になるものです
また既に哲学への道に踏み出している者は
更にまた哲学への誓いを新たにすると言うものです
全文本当に素晴らしい文章です
ここに全てを掲げたいのですが
スペースの関係も有りますので
その触りだけをここに掲げて置きます
「人は誰でも未だ若いからと言って知恵の愛求(哲学)を延び延びにしてはならず
また年取ったからと言って知恵の愛求(哲学)に倦む事があってはならない
何故なら何人も霊魂の健康を得る為に早過ぎるも遅過ぎるも無いからである
また知恵の愛求(哲学)する時期ではないのだのもうその時期は過ぎているだの言う人は
あたかも幸福を得るのに未だ時期が来ていないのだのもはやその時期ではないだのと言う人と同様である
それ故若い者も年老いている者も共に知恵を愛求(哲学)せねばならない
年老いた者は老いてもなお過去を感謝する事によって善い事どもに恵まれて若々しく居られる様に
若い者はまた未来を恐れない事によって若くてしかも同時に老年の心境に居られる様に」
などと本当に格調高い文章が続きます
名訳を伴って本当に誰の心をも打ちます
特に知恵を愛求(哲学)しようとする者の心を
ここに集う方の中には若い方も多いと思います
「若い者はまた未来を恐れない事によって若くてしかも同時に老年の心境に居られる様に」
こんな素晴らしい心境に成れるのです
若い方でその心境が良く分からないと言う方も居るかも知れませんが
そんな方はこの言葉を中年以上の人に指し示して聞いて御覧なさい
彼らは貴方にこう言う筈です
その通りだよと
そして知恵ある中年はまたこうも言うでしょう
是非「メノイケウスの手紙」を読んで
貴方の哲学への道標としなさいと
もし哲学(知恵の愛求)への道を歩き始めようとする若い人が居たら
私は彼にこうアドバイスします
絶対に近現代の哲学から入ってはならないと
BC以前及び紀元前後の哲学から入りなさいと
何故なら近現代の哲学はそれらの亜流に過ぎないのですから
全ての知恵の源泉はそれら古代哲学にあるのです
古代哲学で知恵の源泉を学ぶ時
私たちはこの世の姿が良く見えて来る様に成ります
もし貴方が若くしてその知恵の源泉を学べたら
貴方は「若くしてしかも同時に老年の心境で居られる様に」成るのです
私はもう一つアドバイスして置きます
その知恵の源泉を学ぶ時
一人の哲学者だけから学ぼうとしては駄目だと言う事です
なるべくたくさんの哲学者から学ぶ必要があります
貴方はたくさんの哲学者を経巡る時
彼らが異口同音知恵の源泉を述べているのに気付く筈です
その時貴方は知恵の泉のすぐ側まで来ていると言えるのです
「さて私が君に絶えず説き勧めて来た事をそれこそ美しく生きる為の計本原理であると理解して習い行うべきである
まず第一に神についての共通な観念として人々の心に銘されている通り神は不死で至福なものであると信じ
神の不死性に縁遠いものや至福性に不似合いなものを神に押し付ける事無く
却って神の至福性と不死性とを保持する事の出来るものをことごとく神のものと考うべきである」・・・
哲学者が神について語る時
私たちは知恵の泉のすぐ近くまで来て居るのです
後は
「目のある者は見なさい 耳のある者聞きなさい」
と言うしか無くなるのです
エピクロスの徒として「手紙」より その3 2004/ 2/16 22:09
「彼は我を罵った
彼は我を害した 彼は我に打ち勝った
彼は我から強奪したと言う思いを抱く人には
怨みは遂に止む事がない」(法句経3節)
「怨みに報いるに怨みを以ってしたならば
遂に怨みの止む事は無い
怨みを捨ててこそ止む
これは永遠の真理である」(法句経6節)
私は法句経を卒業したのに
また法句経に戻らなければいけないのか
いえ私は私の道を行く
さて自己充足または知足について
「次に自己充足を我々は大きな善だと考える
とは言えそれはどんな場合でも僅かな物だけで満足する為にではな
く
むしろ多くの物を所有していない場合に僅かな物だけで満足する為にである
つまり贅沢を最も必要としない人こそが最も快く贅沢を楽しむと言う事
また自然的な物はどれも容易に獲得し得るが無駄な物は獲得し難いと言う事を本当に確信し
僅かな物で満足する為になのである」
さて私たちはどれ程の物が有れば満足するのだろう
因みに私は貴方方に聞きたい
貴方方は今の生活に満足かと
おお 何と言う結果か
それでこそエピクロスの徒だ
私の言葉に付いて来なさい
貴方方のその言葉は中々言えるものではない
衣については
春夏秋冬それぞれ三着有ればいい
洗濯をしつつ清潔である為に
食については
一汁一菜プラスあと一二品
健康を維持出来ればそれでいい
住については
祈る為の「奥まった部屋」が有ればいい
後は善き本と心楽しき音楽と
物見遊山出来る僅かばかりの金が有ればいい
おお それでこそエピクロスの徒だ
私にはテレビなど要らない
それは物欲を醸し出させる為だけの物
いえそれよりも何よりも悪いのは
それが時間泥棒だから
貴方には広大無辺な世界が在る
貴方には平静に成れる素地が有る
「肉体において苦しみの無い事と霊魂において乱されない事」
貴方こそがエピクロス快楽主義の体現者だ
「ところでこれら全ての始原であり最大の善は思慮である」
「思慮からこそ残りの徳の全ては由来しているのであり
かつ思慮は
思慮深く美しく正しく生きる事無しには快く生きる事も出来ず
快く生きる事無しには思慮深く美しく正しく生きる事も出来ないと
教える」
ここにエピクロスの快楽主義の原点があります
さあ皆さん
心清く心正しく心美しく生きて 快楽に成りましょう
「あなたの富のあるところにあなたの心もある」
セネカを友として 「人生の短さ」より 2004/ 2/17 22:43
セネカはBC4年生まれAD65年没
イエスと全く同時代を生きた人です
私は思っています
セネカは人の子としてイエスを生きた人だと
イエスは神の子であり人の子でした
セネカはそのイエスから神の子を引いた存在だと
人の子としての道
それはイエスもセネカも違いません
異口同音に同じ事を言っているだけです
イエスとセネカの違い
それはイエスが我々に
神の子の秘密を教えて呉れたと言う事だけです
しかしその違いは大きい
もし貴方が新約聖書を卒業して
人の子として踏み出そうと思ったら
セネカを読みなさい
セネカの書としては「道徳論集」と「道徳書簡集」があります
貴方はその書を読む時
これはイエスの人の子としての教えと全く同じではないかと
そう感じるでしょう
貴方はセネカに依って
イエスをもっと良く知る様に成るのです
今回は道徳論集の中の一遍
「人生の短さについて」を例に取り上げて行きたいと思います
貴方方は人生は長いと思いますか
それとも短いと思いますか
「芸術は長く人生は短し」
これが賢者たちの言葉です
私はある時まで自分の人生時間なんて考えもしませんでした
そんな私が哲学書を読み始めこの書に出くわした時
私はカウンターパンチを受けたが如く
人生の短さを痛感しました
それから私は時間を節約する様に成りました
時間の守銭奴の如く
それでも私に残された時間はそうは多くはありません
それでも私はセネカの言うあの大いなる時間を目指して
今日もこうして哲学(知恵を愛する)の道を歩み続けているのです
「もし広い心を持って人間的な弱点の隘路を出て行きたいならば
そこには自由に過す事の出来るたくさんの時間がある
我々はソクラテスと論じ合う事も出来
カルネアデスと懐疑を共にする事も出来
エピクロスと共に安らぎを得る事も出来
ストア派の人々と共に人間性を打ち破る事も出来
またそれをキュニコス派の人々と共に乗り越える事も出来る」
「かの聖なる見識を築いて呉れた最も優れた人たちは我々の為に生まれたのであり
我々の為に人生を用意して呉れた人々で在る事を知るであろう
他人の労苦のお陰で我々は闇の中から光の中へ掘り出された最も美しいものへと運ばれる
我々は如何なる時代からも締め出される事無くあらゆる時代に入れて貰える」
「これらの学匠は誰一人君に死ぬ事を強制しないが
誰も皆死ぬ事を教えて呉れるだろう
誰一人として君の年月を使い減らす事は無く
それどころか却って自分たちの年月を君に付け加えて呉れるだろう」
「彼らのもとに赴いて子分と成った者には
何たる幸福が
そしてまた何と美しい老後が待っている事か」
さあ皆さん
幸福の為にそして美しい老後の為に
今日から哲学(知恵を愛する事)を始めましょう
知恵を愛する為に必要な事
それは古代の哲学を学ぶと言う事なのです
古代の哲学には知恵が一杯に輝いているのです
貴方方もこれまでの引用を見て分かったでしょう
その一つ一つの言葉がどんなに光輝き美しいか
古代の哲学は全編がその美しき善き言葉で輝いているのです
何故なら二千年と言う時の練磨の中で
無駄なものは一切削ぎ落とされているからです
決して現代の哲学から入ってはいけません
一冊読んで辛うじて一つの言葉を拾う様では
「芸術は長く人生は短い」のです
全編光の古代哲学から入りなさい
エピクテトスと友として 「要録」より 2004/ 2/18 22:44
私は教科書として
エピクテトスの「語録」を上げましたが
勘違いでした
エピクテトスの「要録」でした
語録は少し長過ぎます
要録は三十分で読み切る事が出来ます
私は昨日メッセを書いてから一回
そして今日もここに来る前に一回読みました
それから中央公論社の世界の名著「キケロ エピクテトス M・アウレリウス」を
その出典として掲げましたが
ヒルティ「幸福論」第一巻(岩波文庫)の中の「エピクテトス」を推薦します
それはヒルティ自らが訳したものであり
格調高く我々の胸を打ちます
私は思い出したのです
私が最初の古代哲学に接したのが
このヒルティの中のエピクテトスであった事を
ヒルティはそれを「提要」と訳しています
エピクテトスの生没ははっきりしていませんが
おおよそAD50年位生まれのAD130年位没だと言われています
それはイエスが亡くなりセネカが亡くなった直後の世代です
セネカの事は少しは知っていたかも知れませんが
イエスの事はほとんど知らなかったと思います
それでもその人の子としての教えは
イエスやセネカのそれと全く同じなのです
イエスが良く使っていた言葉で
私のお気に入りの言葉でもある
「それは貴方の言った事だ」
「それが私と何の関わりがあるのか」
そんな言葉をエピクテトスは上手く使っています
「世には我々の力の及ぶものと及ばないものがある
我々の力の及ぶものは判断努力欲望嫌悪など我々の意志の所産の一切である
我々の力の及ばないものは我々の肉体財産名誉官職など我々の所為でない一切のものである
我々の力の及ぶものはその性質上自由であり禁止される事もなく妨害される事もない が
我々の力の及ばないものは無力で隷属的で妨害され易く他人の力の中にあるものである」
これがエピクテトスの基本原理です
この基本原理を元に様々な論が展開されていくのです
さて貴方方に聞きます
この基本原理は真か偽か
貴方方は言うでしょう
それは真でも偽でも無い
一つの考え方だと
そしてこう言う人もいる筈です
そんな教えなど私に何の足しにもならない
却って私の人生行路を邪魔するだけのものだと
私は鉄の様な肉体を持ち
多くの財産名誉官職を手に入れる
いいでしょう
貴方は恵まれた人だ
その道を走りなさい と
さて彼以外の貴方方に聞きます
彼の行く先を見たかと
ある人が言いました
確かに彼は鉄の様な肉体を持ち多くの財産名誉官職を手に入れました
おお何と恵まれた人か
貴方もその様に成りたいか? はい!
ではその道を行きなさい
ある人はこう言いました
確かに若い内は野心に燃えていましたが
今は酒浸りの日々です
その落差に驚いていますと
貴方はどの様な人生を歩みたいのか
どちらも程ほどに中庸の道です
恵まれた人だ
その道を走りなさい
しかし貴方も人生の浮沈は避けられない
それが貴方の人生だ 頑張りなさい と
私は断然前者です
健康な肉体させあれば
財産名誉官職は全て投げ捨てます
私は私の自由になるものの中から
私の宝を掘り出します
私は一生哲学者(知恵を愛する者)であり続けたいと思います
おお! それでこそ私の友だ!
これがエピクテトスです
エピクロスは人生途上で奴隷にされ それが元で跛と成っています
その後解放奴隷と成り 多くの子弟を教育しています
その為エピクロスの言葉にはその影響が色濃く出ています が
だからこそエピクロスの言葉は私たちの胸を打つのです
たぶん私たちはエピクロスから忍耐と自制を一番強く学ぶのだと思います
忍耐と自制のその先に
その先はイエスから学ぶのが良いと思います
M・アウレリウスを友として「自省録」より 2004/ 2/19 10:57
マルクス・アウレリウスはローマ皇帝だった人です
AD121年生まれのAD180年没です
イエス セネカを第一世代
エピクテトスを第二世代とすれば
イエス セネカから数えて第三世代です
マルクス・アウレリウスはエピクテトスの事は良く知っています
師と仰ぐ位
勿論セネカも知っていたでしょう
因みにセネカはローマ帝国の宰相に成った人でもあり
あの暴君ネロの幼き頃の家庭教師でもあった人です
さてイエスを知っていたのでしょうか
それは謎です
セネカ エピクテトスの教えは
イエスの人の子として教えと全く同じだった訳ですが
マルクス・アウレリウスのそれは
イエスの人の子としての教えと共に
イエスの神の子としての教えも含まれているのです
驚くほど同じ位に
もし彼がイエスを知っていたら
彼は隠れキリシタンだったと言う事に成ります
自らの力でその思想に辿り着いたのなら
彼もまた神の子だったのかも知れません
さてマルクス・アウレリウスの「自省録」は
岩波文庫で約二百頁です
そこ三十分で読むと言う訳にはいきません
それで今回はある一つの文字に着目して読みました
それは「ダイモーン」と言う言葉です
そのダイモーンと言う言葉が出て来る節を順に書き出したいと思います
「自己の内なるダイモーンの前に出てこれに真実に仕えさえすれば善い」
「その奉仕と言うのは激情や無定見や人間どもから来るものに対する不満などに汚されぬ様に
自己のダイモーンを純粋に守る事にある」
「君の内の座に占めているダイモーンより善いものはない」
「他のあらゆるものはダイモーンよりも小さく価値がない」
「ダイモーンは個人的な衝動を全て自分の支配化に置き諸々の思念を検討し
ソクラテスの言った様に
感覚的な誘惑を逃れて神々の支配下に身を置き人類の為に尽くすものである」
「自分自身の理性とダイモーンとその徳に帰依する事を何よりもまず選び取った者は
悲劇の真似事をせず泣き声を出さず荒野(孤独)をも群衆をも必要としないだろう」
「自分のダイモーンを今すぐにもお返ししなくてはいけないかの様に潔く保つならば・・・」
「自分の胸の中に座を占めているダイモーンを汚したり多くの想念でこれを混乱させたりせずにこれを清澄に保ち・・・」
「私は私の考え一つでダイモーンに背く様な事は一切行わずに居られる」
「神々と共に生きる者とは神々に対して常に自分の満足している魂を示し
ダイモーンの意のままに何でも行おう者である」
「ダイモーンとはゼウス自身の一部であってゼウスが各人に主人として指導者として与えたものである」
「幸福とは善きダイモーンの事であり善き指導理性の事である」
「自分の内を見よ 内にこそ善の泉がある
この泉は君が絶えず掘り下げさえすれば絶えず湧き出るであろう」
さて皆さん
ダイモーンとは何か分かりましたか
クリスチャンの方ならもう分かったと思います
それはイエスの言う所の聖霊に他ならないのです
マルクス・アウレリウスは
聖霊を通じて神を仰ぎ見ていたのです
だから彼はあれ程までに敬虔だったのです
私は知りません
彼ほど敬虔な言葉を発し続けた古代ギリシアローマの哲学者を
そしてそれよりも何よりも驚くのは彼がローマ皇帝だったと言う事です
皇帝で有りながら敬虔であり続ける法
それを知りたければ
やはり「自省録」を読むしか無いのだと思います
しかしやはり私は思います
古代哲学を知る為にはイエスを知らなければならないと
イエスはスタンダードとして あの時に立っているのです
ソクラテスプラトンの徒として「饗宴」より 2004/ 2/20 23:13
私たちは愛を学ぶ時
マタイ福音書から学ばなければならないのでしょうか
それともプラトンの「饗宴」からでしょうか
もし貴方が可笑しく楽しく学びたいなら
断然饗宴からです
私は超特急で饗宴を読み終わりました
大体一時間三十分位で
またあの時の感興が戻って来ました
それから「愛とは善きものの永久の所有にむけられたもの」
その真意もまた私に戻って来ました
愛とは「偉大なダイモーン(神霊)なのです」
「全てダイモーン(神霊)的な者は神的な者と滅ぶべき者の中間にあるのです」
「神は人間と直接交わる様な事はありません
神々と人間との間の交通と対話は全てこのダイモーン(神霊)を通じて行われるのです」
さてこのダイモーン(神霊)とは何でしょう
そうですね 昨日のマルクス・アウレリウスの所で勉強しましたね
そうです イエスの言う所の聖霊です
私たちは聖霊を通じて神々を見る事に成るのです
「愛の道の極致に近づく時 突如として一種驚嘆すべき性質の美を観る」
「それは常住に在るもの 生ずる事も無く 滅する事も無く 増える事も無く 減ずる事も無い・・・・・・美」
「独立自存しつつ永久に独特無二の姿を保てる美」
「あの美を観始めたら彼はほとんど最後の目的に手が届いたと言って良い」
「かの最高美を目指して絶えず高く昇り行く事・・・」
「美そのものを観るに至ってこそ人生に生き甲斐がある」
「一度でもそれを観たならば貴方はもう黄金や綺羅の類どもを・・・」
「幸いにも美そのものを極めて明瞭に純粋に混ぜ物無しに
また人間の肉や色やその他幾多の死滅すべき無価値なるものなどに汚されぬままに観る事が出来たとしたならば・・・」
「彼がそれに眼を向け相応しい器官を以ってそれを観またそれと共に生きる時・・・」
「美を観るべき器官を以って美を見る人は 真の徳を生む事に成功する」
「真の徳を生み これを育て上げた者は神の友となる」
聖霊により愛の道の極致に近づいた時
私たちは突如として驚嘆すべき美を目にするのです
私たちはその美と遊び戯れ
そしてその美から真の徳を生み出し
そしてそれを育て上げた時
私たちは神の子と成るのです
どうです イエスの教えと全然違わないでしょう
だから私は言うのです
「心を尽くし精神を尽くし思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい
これが最も重要な第一の掟である
第二もこれと同じように重要である
隣人を自分のように愛しなさい
律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」
これこそが全ての宗教のそして善き哲学の黄金律であると
皆さんはそれでも未だ
神を愛する事が出来ないのですか?
貴方の主である 聖霊(神霊 精神 ダイモーン)を
古代哲学の旅 中休み 2004/ 2/21 11:17
どうです 皆さん
古代哲学の旅は楽しいでしょう
今日はちょっと一休みして
これまで歩いて来た道を振り返り
これから歩いて行く道を眺めて見ましょう
まず最初は
マタイ福音書(日本聖書協会「聖書」より)でしたね
その次が
法句経(岩波文庫「ブッダの真理のことば・感興のことば」より)でしたね
それから
エピクロスのメノイケウス宛ての手紙(岩波文庫「エピクロス」より)
セネカの人生の短さについて(岩波文庫「人生の短さについて」より)
エピクテトスの要録(中央公論社世界の名著「キケロ エピクテトス マルクス・アウレリウス」または岩波文庫「ヒルティ幸福論第一巻のエピクテトス」より)
マルクス・アウレリウスの自省録(岩波文庫「自省録」より)
ソクラテスプラトンの饗宴「岩波文庫「饗宴」より」 の順でしたね
何か得る所が有りましたか
もし貴方が何か一つの事を得たならば きっと貴方は
「聡明な人は瞬きの間賢者に仕えても直ちに真理を知る
舌が汁の味を直ちに知る様に」 と言う人なのだと思います
しかし私ははっきり断言します ここには
「愚かな者は生涯賢者に仕えても真理を知る事が無い
匙が汁の味を知る事が出来ない様に」 と言う人は一人も居ないと
何故なら皆その賢者の言葉に向かおうとしているから
すなわち自らを愚者と認めているから
「愚者が自らを愚と考えれば賢者である」
ここはそう言う人の集まりの場だから
さてこれからの旅の行く先を示して置きます
孔子の論語(岩波文庫「論語」より)
老子の老子(講談社文庫「老子」より)
ソロモンの箴言(日本聖書協会「聖書」より)
ダビデの詩編(日本聖書協会「聖書」より)です
順番はどうなるか分かりません
その時の興に任せてです
さてこれまでの旅
七賢人七冊の本ですが
もし貴方がその気に成れば
今日明日で読めます
大体の分量と読破時間の目安を示して置きましょう
イエスの「マタイ福音書」 二段組で60頁 約4時間
釈迦の「法句経」 文庫版で60頁 約2時間
エピクロスの「メノイケウス宛ての手紙」文庫版で10頁 約0.5時間
セネカの「人生の短さについて」 文庫版で50頁 約1.5時間
エピクテトスの「要録」 二段組で25頁 約1時間
マルクス・アウレリウスの「自省録」 文庫版で205頁 約6時間
ソクラテスプラトンの「饗宴」 文庫版で110頁 約3時間
合計 520頁 約18時間
少々きついかも知れませんが
出来ない分量ではないと思います
もし貴方がこれを週末で読み切れば
貴方は来週から哲学者(知恵を愛する者)です
何故ならその言葉たちが貴方を離さないでしょうから
最後に皆さんにお伝えして置きます
古代哲学が難しいともし考えているなら
それはとんでもない事です
高校を卒業した者なら
誰でも彼でもすらすら簡単に読む事が出来ます
しかしその真意を読み切る事は一生かけても
二生かけても三生かけても読み切る事は出来ないのです
「人生は短く芸術は長し」
貴方は未だ時間を無為に過す積りですか
貴方の幸福の為に
貴方の老後の為に
貴方が美しくある為に
そして貴方の快楽の為に
今日から哲学(知恵を愛する)への道を踏み出しましょう
まずは七賢人七冊の本の旅へ
孔子の徒として 「論語」より 2004/ 2/27 0:58
さて今日から古代中国の旅の始まりです
孔子と老子と経巡ります
皆さんは
孔子は人の子としての教えを教え
老子は神の子としての教えを教えたと思っていませんか
決してそうではありません
孔子は人の子としての教えと共に神の子としての教えを説いたのであり
老子は神の子としての教えと共に人の子としての教えを説いたのです
今回のシリーズはそれを解き解す事にあります
しかし私はそれを解き解す前に
ここでこう断言して置きます
二千年の歳月を経て
現在でも輝き続ける古代哲学には
人の子としての教えと共に
必ず神の子としての教えが含まれていると
そうでなければ二千年の歳月を生き延びる事は出来ないのです
人間が二千年生きる事が出来るでしょうか?
さて人の子として教え
すなわち道徳教育だけを推進したと思われている孔子
彼は単なる道徳先生だったのでしょうか
孔子はこう言っています
「予一以貫之」 予(われ)一を以って之を貫くと
この一を読み解く事が
孔子 論語を 読み解く事に他ならないのです
孔子は弟子との対話でこう言っているのです
私は多くの事を学んで知る者と成ったと思っているのか
そうではないのですか 違う
私は一を以ってここに至ったのだと
さて一とは何でしょう
「三人よれば文殊の知恵」
イエスの言葉「二人または三人が私の名によって集まる所には私もいる」
孔子にも同じ様な言葉があります
「我三人行 必得我師」 我ら三人行えば 必ず我らが師を得る
我々は神(主)によって生き
我々が集う所には聖霊も宿る
そんな事を彷彿と予感させませんか
さて孔子の思想の中で中心となるのは
何と言っても「仁」ですよね
孔子の言う仁とは一体何なのか
孔子の言葉に沿って考えて見ましょう
さて仁とは存在なのでしょうか
働きなのでしょうか
それとも状態なのでしょうか
そのいずれでもあります
山のあなたの空遠く 幸い住むと人の言う・・・
仁も遙か彼方にあるのでしょうか
いえ仁もすぐ貴方の側に在るのです
「仁遠乎哉 我欲仁 斯仁至乎」
(仁遠からんや 我仁を欲すれば 斯〈ここ〉に仁至る)
さて仁はどんな性格のものでありどんな力があるのでしょう
「克己復禮為仁 一日克己復禮 天下帰仁焉」
克己して禮に復した時 仁と為るのです
もし貴方が一日克己復禮して仁と為るならば
天下の全てが仁に帰すのです
凄いでしょう仁の力は
仁にはこう言う力もあるのです
「有能一日用其力於仁乎乎 我未見力不足者」
もし貴方が仁おいて一日其の力を用いれば
貴方には出来無い事は何も無いのです
仁にはそんな凄い力があるのです
だから古来君子たちは
「仁以為己任」
仁を己の仕事として来たのです
そしてどん苦難にあってもどんな結末を迎えても
彼らはこう言うのです
「求仁而得仁 何怨乎」
私は仁を求めて仁を得ました 何を怨む事が有りましょう
「欲仁而得仁 焉貪」
私は仁を欲して仁を得ました どうして貪る事など考えたでしょう
さて仁にある人はどう言う状態に為るのでしょう
「苟志於仁乎 無悪也」
仁に志せば悪が無く成るのです
何と言う効用でしょう
「好仁者無以尚之」
仁を好む者については之より尚なる事はないのです
ほとんどパーフェクトですね
「里仁為美」
仁に里(お)れば美しくも成るのです
だから仁に当たっては師に譲る事も無いのです
「当仁不譲於師」
何故なら仁は己自身の中に見出さなければならないもので
他人はその仁を見せてあげる事も
身に付けさせてあげる事も出来ないのです
「為仁由己 而由人乎哉」
その仁を身に付ける為にはやはり
「入大廟 毎事問」
大廟に入って 事毎に問わなければならないのです
私たちの場合であれば
「奥まった部屋に入り戸を閉めて」
主よ主よと祈らなければならないのです
しかし孔子はそんな事は言いませんでした
それは人に事(つかえ)ることが出来ないのに
どうして神に事(つかえ)ることが出来ようか
そう考えたからです
「未能事人 焉能事鬼」
孔子は仁に至る道をこう教えました
「博学而篤志 切問而近思 仁在其中矣」
博く学び志を篤し 切に問い近くを思いなさい
そうすればそこに仁が浮かび上がって来るでしょうと
すなわち孔子は
ソフィア(知恵)による聖霊(仁)への道を説いたのです
ソクラテスプラトンの様に
「朝聞道 夕死可乎」(朝に道を聞けば 夕べに死すとも可なり)
その道は仁への道で無ければ 何への道だったのでしょう
「予一以貫之」 予(われ)一を以って
孔子の徒として 「論語」より その2 2004/ 2/28 11:05
「予一以貫之」 予(われ)一を以って之を貫く
そてこの一は仁だったのでしょうか
それとも別のものだったのでしょうか
それは皆さんへの宿題とします
そう言う風にして前回は終わったのですが
途中で切れてしまったようです
仁とは 一とは
皆さんもう一度考えて見て下さい
さて今日は仁を卒業して
「学ぶ」と言う事と「知る」と言う事について考えて見ましょう
孔子はこれらの事について
意味深い言葉をたくさん残しています
それらを追って見ましょう
まずは論語の第一巻第一章第一節の最初の言葉
「学而時習之 不亦説乎」 学びて時に習う また説(たのし)からずや
この言葉を理解する者は
私を理解するものであり
孔子を理解するものであり
イエスを理解するものです
この言葉は宗教のそして全て善き哲学の黄金律なのです
あのイエスの黄金律と同じなのです
「心を尽くし精神を尽くし思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい
これが最も重要な第一の掟である
第二もこれと同じように重要である
隣人を自分のように愛しなさい
律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」 と
さて学ぶとは一体何を学ぶのでしょうか
この世の全てをでしょうか
孔子はこう言っています
「予為多学而識之者? 対曰然 非? 曰非 予一以貫之」
私は多くの事を学んで識る者と為ったと思っているのか?
そう思っています! 違うのですか? 違う!
私は一を以って之を貫く
さて一とは何でしょう
またスタートに還ってしまったようですね
孔子はこう言っています
「吾十有五而志乎学」
私は十五にして学に志した
三十にして立ち
四十にして惑わない様になり
五十にして天命を知り
六十にして耳が順ずる様になり
七十にして心の欲する所に従って行動しても矩を越える事はなくなった
さて孔子の言う学とは何でしょう
学校に入って勉強する事でしょうか
もしそうなら
皆が三十にして「立」ち
四十にして「不惑」と成り
五十にして「知天命」の者と成り
六十にして「耳順」と成るのでしょう
さてここに集う皆さんに聞きます
貴方の周りにこの様な人が居ますか
居たら手を上げて下さい
どうです 一人も居ないでしょう
私ははっきり言います
未だほとんどの人が学に志していないと
そんな人は七十に成っても立つ事も出来ないでしょう
ましてや不惑をや
(ここに集う人たちは違います 何故なら彼らは智を目指しているのですから)
「生而知之者上也
学而知之者次也
困而学之 又其次也
困而不学 民斯為下矣」
生まれながらに之を知る者は 上の者です
学んで之を知る者は 次の者です
困難に陥って之を学んだ者は その次の者です
困難に陥っても学ば無い様な者は 人々はこの者を下と見做すでしょう
ここに集う若い人は二番目の者でしょう
ここに集う中年の人はたぶん三番目の者でしょう
しかし私はここではっきり言って置きます
ここには一番目の人も四番目の人も居ないと
ここに集う者は皆学者だと
だから皆さん「学者」である事に誇りを持って下さい
さて私たちは何を学ぶのでしょう
二番目の人は学んで之を知る者となりました
三番目の人は之を学んだだけです
未だ知る者とは成っていないのです
ここで便宜上二番目の人を知者
三番目の人を学者として置きましょう
その方が今後の議論の助けになります
知者と言う言葉がよく出で来る様になると思いますので
さて孔子は自らを何と言っているのでしょうか
私たちから見れば当然一番目の人ですよね
しかし彼はこう言っているのです
「我非生而知之者 好古敏以求之者也」
私は生まれながらに之を知る者ではありません
古を好み之を求める事に敏であっただけですと
それは「吾十有五而志乎学」とも符号するのです
孔子は自らを二番目の者であると宣言しました
だから私たちも希望が持てるのです
しかし私はここで宣告しなければなりません
今から学を志そうと言う中年の人については
「従心所欲 不踰矩」
心の欲する所に従って行動しても矩を踰(こ)える事はなくなった
と言う境遇までは成れないのです
何故なら行動がそう成る為には習い性と成る必要があるからです
でも希望の言葉も残して置きます
「知天命」までは至れると
私はここでこう整理して置きましょう
若者よ「従心所欲 不踰矩」に向かって貴方の一生を捧げなさいと
そして中年よ「知天命」を老後への楽しみとしなさいと
「知」と「学」に関する孔子の言葉は未だ未だたくさんあります
それにあの「学・
孔子の徒として 「論語」より その4 2004/ 3/ 2 19:49
論語の第一巻第一章第一節の最初の言葉
「学而時習之 不亦説乎」 学びて時に習う また説(たのし)からずや
この言葉を理解する者は
私を理解するものであり
孔子を理解するものであり
イエスを理解するものです
この言葉は
全ての宗教のそして全て善き哲学の黄金律である所の
あのイエスの言葉
「心を尽くし精神を尽くし思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい
これが最も重要な第一の掟である
第二もこれと同じように重要である
隣人を自分のように愛しなさい
律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」
と全く同じなのです
今日はその辺りを解き解して見ましょう
「学而時習之 不亦説乎」
この言葉を理解する為にはやはり
まず「学」と「習」の意味を理解しなければなりませんよね
一体学ぶとはどう言う事なのでしょう
そして習うとは
孔子と弟子の間にこう言う遣り取りがありましたよね
私は多くの事を学んで「之を知る者」と成ったと思っているのか
はいその様に思っています 違うのですか 違う
私は一を以って之を貫いているのだと
また孔子はこうも言っていましたよね
私は生まれながらに「之を知る者」では無い
古を好み「之を求める」のに敏であっただけだと
またこう言う言葉もありましたよね
生まれながらに「之を知る者」は上
学んで「之を知る者は」次
困った末に「之を学ぶ者」はその次と
孔子の徒として 「論語」より その5 2004/ 3/ 2 21:27
孔子の徒として 「論語」より その4
からの続き
どうもパソコンの調子が悪い様です
これはその4からの続きです
その4(NO24999)から続けて読まないと理解出来ないので
必ずその4から続けて読んで下さい
孔子の一生はこうだったのです
これを学び 之を求め 之を知り
そして之に依って一生を貫いたと
これが孔子の一生だったのです
さて之とは一体何だったのでしょう
私は言います
之こそは知恵だったと
知恵以外の何が考えられるでしょう
イエスはそれを聖霊と言い
ソクラテス プラトン マルクス・アウレリウス他古代のギリシアローマ哲学はそれをダイモーン(神霊)と言い
孔子はそれを仁と言った
それを学びそれを求めそれを知り
そしてそれに依って一生を貫く
それは知恵以外の何が考えられるでしょうか
しかし知恵は見る事も聞く事も触れる事も出来ません
だから私たちは知恵の言葉に依って
知恵を見 知恵を聞き 知恵に触れるしかないのです
それが学ぶと言う事なのです 先人の言葉に
さて孔子は学ぶと言う事についてどう言っているのでしょう
順を追って見て行きましょう
まずは先ほどの言葉
「好古敏以求之也」
古を好み之(知恵の言葉)を求めるのに敏であったと
また孔子のこう言う有名な言葉もありますよ
「温故知新 可以為師乎」
温故知新 以って師と為すべきと
孔子も私の言う様に
古代哲学者から学んでいたのです
またこんな言葉もあります
セネカも同じ様な事を言っていましたよね
「以文会友 以文輔仁」
先人偉人の知恵の言葉に依って先人偉人を友とする事が出来
先人偉人の知恵の言葉に依って自らの仁(知恵)を育てる事が出来る と
本当に孔子は知恵を学ぶ事が好きだったのです
「十室之邑必有忠信丘者焉 不如丘之好学也」
十戸ほどの小さな村でも私の様に忠信の者は居るでしょう
しかし私ほど学ぶ事(知恵を学ぶ)が好きな者はいないでしょうと
孔子には一人の師と言う者は居ませんでした
多くの先人偉人賢人哲人から学んだのです
「夫子焉不学 而亦何常師之有」
私も孔子のこの学び方を推奨します
もしイエスからだけ学べばイエスに囚われるでしょうし
釈迦からだけ学べばまた釈迦に囚われてしまうでしょうから
多くの先人偉人賢人哲人から学び
そして彼から彼ら共通の源である一を学べば
貴方はクリスチャンにも仏教徒にも
そして多くの先人偉人賢人哲人たちの愛弟子にも成る事が出来るのです
それは今私が求めている道です
だから孔子の学び方を推奨します
孔子は実際どの様にして学んだか
「多聞撰其善者而従之 多見而識之」
多くを聞いてその善き事を撰びそしてその知恵の言葉に従い
多くも見そしてその知恵の言葉を識る様に成ったのです
だから私は勧告するのです
早く古代哲学の旅を始めなさいと
孔子の「知」と「学」の旅は未だ続きます
孔子の徒として 「論語」より その6に続きます
孔子の徒として 「論語」より その6 2004/ 3/ 2 22:54
これは
孔子の徒として 「論語」より その5からの続きです
その5を読まないと理解出来ないので
その5から読んで下さい
さて哲学者〈知恵を愛する者)
すなわち好学の志はどの様な人を言うのでしょう
「食無求飽 居無求安 敏於事而慎言 就有道而正焉 可謂好学也己矣」
衣食住は程ほどに 事に敏く言葉を慎み 善き道に就き自らを正す
そう言う人を好学(知恵を愛する)の人と言うのです
まっ 贅沢飽食の中には好学の人は居ないと言っていいでしょう
「飯粗食飲水 曲肱而枕之 楽亦在其中矣」
粗食を喰らい水を飲み 肱を曲げて枕とす その中にまた楽しみが
る
そう言う心境に成れる人が居たら
その人はきっと好学の志(哲学者)なのだと思います
さて学べばどうなるのでしょう
「学即不固」
学べば頑固者には成らないのです
融通無碍の人と成るのです
もし学ばなければ 学ぶ事が好きでなければ 知恵を愛さなければ
「好仁不好学 其幣也愚
好知不好学 其幣也蕩
好信不好学 其幣也賊
好直不好学 其幣也絞
好勇不好学 其幣也乱
好剛不好学 其幣也狂」
たとえ仁知信直勇剛と言う評判を一時は得ても
結局は愚蕩賊絞狂と言う幣に陥ってしまうのです
人は死まで学び続けなければならないのです
そうして始めて仁知信直勇剛と言う徳を守り続けて行く事が出来るのです
しかし学ぶだけでは駄目です
先人の知恵の言葉を学び
それを自分の物にしなければなりません
言葉を食べて新たな物を生み出さなければ
決してその言葉は自分の物とは成りません(温故知新)
その新たな物を生み出す行為が
思い想う事即ち思想なのです
孔子はその事をこう言っています
「学而不思則罔 思而不学則殆」
学びて思わざればすなわち罔(くら)し
思いて学ばざればすなわち殆(あやう)し と
しかし私はこう断言しなければいけない
ここに集う者は皆が皆後者だと
その知識は浅薄すぎる
それを長刀の様に振り回すのだから危なかっしい
だから私は口を酸っぱくして言うのである
古代哲学に知恵を学びなさいと
そうすれば貴方方は死ぬまで善きものを生み出し続けて行くだろうと
孔子も自らを反省してこう言っています
「吾嘗終日不食 終夜不寝 以思 無益 不如学也」
私はかつて終日食べず 終夜寝ず 以って思いを巡らしたが 無益であった
それよりも(知恵者の言葉を学びそれにより知恵を)学ぶ事に越した事はないと
さてこの辺りで学を整理して置きましょう
学とは「哲学」(フィロ(愛する)ソフィア〈知恵〉)
すなわち知恵を愛する事に他ならないのです
イエスはそれを聖霊と言い
ソクラテスはそれをダイモーン(神霊)と言った
そして孔子はそれを仁と言った
孔子の場合
学者 知者 仁者を整理するとこうなります
仁(知恵)を学ぶ者を学者と言い
仁(知恵)を知る者を知者と言い
仁(知恵)を体現する者を仁者と言います
参考までに知者仁者の態様を示すと次のようになります
「仁者安仁 知者利仁」
「知者楽水 仁者楽山 知者動 仁者静 知者楽 仁者寿」
「知者不惑 仁者不憂 勇者不懼」
なお知と仁どちらが先かと言う疑問も出るかと思いますが
それに対する答えは出ています
「未知 焉得仁」
未だ知ならず いずくんぞ仁を得んと
未だ孔子の「学」と「習」の旅は続きます
孔子の徒として 「論語」より その7に続きます
孔子の徒として 「論語」より その7 2004/ 3/ 3 0:09
これは
孔子の徒として 「論語」より その6
からの続きです
その6を読まないと理解出来ないので
その6から読んで下さい
「未知 焉得仁」
未だ知ならず いずくんぞ仁を得ん
知恵の人には成り得ても
仁者に成るのは極めて難しいのです
孔子の弟子や先人偉人を挙げて
この人は仁の人ですかと問うけれど
ほとんどの場合孔子はそうではないと答えています
孔子が仁者として挙げたのは
管中と殷の三仁だけです
それだけ仁者
仁(知恵 聖霊 神霊 ダイモーン)の体現者
すなわち神の子と成るのは難しいのです
ここでもう一度
イエスのあの黄金律と
「学而時習之 不亦説乎」とを比較整理して置きましょう
まず学ぶとは哲学
すなわち知恵を愛する事でしたよね
知恵とは聖霊
すなわち「あなたの神である主」の事でしたよね
そうすると
あの黄金律の第一法則 すなわち
「心を尽くし 精神を尽くし 思いを尽くして あなたの神である主を愛しなさい」と
「学」すなわち「哲学」すなわち「知恵を愛する事」とは全く同じだと言う事に成りますよね
これで一応
「学」とあの黄金律の第一法則とが同じであると言う説明は終わりにしたいと思います
次に第二法則ですが
勘の言い皆さんですからもう分かったと思いますが
「習」こそが第二法則であると
それはどんな論理に成っているのでしょう
それは習い性と成ると言う事です
知恵を体現する為に必要な事
それは習い性と成る事なのです
知恵の素晴らしき言葉の数々
これを体現する為には
習い性と成るしか無いのです
孔子はこう言っています
「性相近也 習相遠也」と
性というものは生まれながらには相近いものである
しかし習い性とする事に依って天と地ほども差が開くのである
ある者は仁者(神の子)と成り
ある者は愚者と成る
また悪く習えば地獄の使者とも成る
曾子はこう言っています
「伝不習乎」
習わざるを伝えんや
習い性と成っていないもの
自分のものと成っていないものを伝えたのではないか
言葉だけの教師と成っているのではないかと
毎日三回も我が身を振り返っていたのです
さてもう一度
「習」とイエスのあの黄金律の第二法則とを比較整理して置きましょう
さて習うとは習い性とする事に依って知恵(仁)を体現する事です
知恵の体現とは隣人愛に始まり全ての徳を言います
だから習うとは習い性とする事に依って
知恵の体現である全ての徳を実行する事にあるのです
勿論その中には「隣人を自分のように愛しなさい」と言う徳も第一番目に入っているのです
少し無理なこじつけになったかもしれませんが
私の言いたい事は分かって呉れたと思います
私が言いたい事
私の思想の第一原則
それは知恵を愛しなさい
そして知恵を実行しなさい です
皆さんも知恵に目覚めて見ませんか
その為に必要な事
それはやはり古代哲学を経巡る事です
私が紹介した11賢人11冊の本もその入り口にはなるかとも思いますが
やはり「神の思召のままに」
と言う事になるのでしょうか
孔子の徒として 「論語」より その8 2004/ 3/ 8 22:48
さてこれで孔子の旅も終わりです
もっと早く終わる積りだったのに手間取ってしまいました
特にこの最後の章は
私は君子と言う言葉を拾い上げて
これが貴方方に当て嵌まりますかどうですかと言う
テストを作ろうとしたのです
その為に君子と言う言葉が出て来る一節を
まず原文で順番に抜き出して行きました
それから読み下し風私訳を付けて行きました
ここで終わっていれば割合スムーズに行ったのでしょうが
私はむらむらとそれらにコメントを付け始めて行ったのです
それが為文章題だけで一万一千字を越えてしまいました
たぶんこのテストは七 八分割しなければいけない思いますが
よろしくお付き合い願います
さて孔子の主題は何と言っても仁です
私は仁についてこう整理しました
仁を学ぶ者を学者
仁を知る者を知者
仁を体現する者を仁者と
この整理の他に孔子はこう言う整理の仕方もしています
すなわち聖人 君子 小人です
聖人とは仁を100パーセント学び仁を100パーセント知り仁を100パーセント体現する出来る者の事です
すなわち伝説上の人物です または言の中の人物です
これに引き替え君子と小人はこの世に存在する人物たちです
私はこの様に解釈しています
この世に存在する人物は君子か小人だと
だから私はこの君子テストを思い付いたのです
貴方方は君子か小人かと
テストの仕組みはこうです
論語に出て来る君子と言う言葉を順番に並べていますので
自分が該当するか否かを○×で付けて行って下さい
その際には原文だけを読んで下さい
原文だけで分からない場合は私訳を参考にして下さい
それでも分からない場合は岩波文庫の「論語」の訳と読み下し文と注と解説を参考にして下さい
決してコメントを参考にしないで下さい
このコメントは貴方方をある場所に連れて行く為の企みに過ぎませんから
このテストにおいては二つの事が分かります
先ずは貴方が君子か小人か
もし君子だったらその君子度はどれ位かと
一番目については私が判断します
貴方は君子か小人かと
二番目については貴方自身で判断するしかありません
しかし模範解答があります
全ての全てに○が付いたら貴方は聖人です
しかしその様な事は在りません
次にかなりの頻度で○が付いたと言うなら
孔子が仁者と言った所の君子であると
それ以外は貴方自身でしか判断するしかありません
さてテストの始まりです
貴方が良き君子である事を期待して!
質問題については次のページから始まります
請うご期待
孔子の徒として 「論語」より その9 2004/ 3/ 8 23:10
【君子テスト質問題 1~10】
これは25046からの続きです
この君子テストの解答方法については25046を参照して下さい
なお解答方法を簡単に言えば
下記の漢文原文は孔子の君子に関する言葉ですが
これが貴方に当て嵌まるか否かを○×で記入すると言うものです
1 「人不知而不慍 不亦君子乎」 人に知られずとも慍(うら)も事が無い 君子だね どうして君子が人に知られる事を望むでしょう 右の手のすることを左手に知らせてはいけない そう言う君子がどうして人に知られる事を望むでしょう
2 「君子務本 本立而道生 孝弟也者 其為仁之本興」 君子は本を務める 本立ちて道が生まれる 孝弟こそが 仁の本である 孝弟とは上には孝下には弟 すなわち愛の事です 愛こそが仁の本なのです 愛こそが仁に依って生み出された第一子なのです 愛と仁 愛と知恵 愛と聖霊 この関係を良く覚えといて下さい
3 「君子不重則不威」 君子重かざれば すなわち威ならず 君子がほいほいしといて 誰がその言葉を聞くでしょう 威があるからこそみんな静かに聞くのです 権威ある者の様に語ったと
4 「君子食無求飽 居無求安」 君子は食に飽を求めず 居に安を求めず 一簟の食 一瓢の飲 陋巷に在り 人はその憂いに堪えず 回や其の楽しみを改めず 粗食を喰らい水を飲み 肱を曲げて之を枕とす 其の中にまた楽しみも在り たとえ貧しさの中に在っても君子は楽しんでいるのです 何故なら仁(知恵)といつも一緒だから しかし貧しさを求めていると思っていはいけません 衣食住についてはこう考えなさい 「何よりもまず 神の国と神の義を求めなさい そうすればこれらのものはみな加えて与えられる」と
5 「君子不器」 君子は器ならず 君子はこの世の働きである 貴方方を輝かせなさい 「あなたがたは地の塩である」 「あなたがたは世の光である」 この世の為に働きなさい たとえそれがどんな世の中で在っても それが貴方の使命です
6 「君子先行其言 而後従之」 君子は先ず其の言を行い しかる後其の言に従う 不言実行の事ですね そこに賞賛の言葉も付き従うのです
7 「君子周而不比 小人比而不周」 君子は周(あまねく)して比(較)せず 小人は比して周せず 君子はいつも大きな世界からこの世をあまねく見ているのです この地球を周遊する日月の様に ところが小人はいつも隣人と比較しあっているのです 俺の方が上だと
8 「君子去仁 悪乎成名」 君子から仁が去れば どうして名を成せよう 君子から仁が去れば君子と言えようか 言えない 一旦君子の誉れを頂いたとしても彼から仁が去れば彼は唯の小人 と言うよりも七つの悪霊が戻って来ない事を願うだけだ
9 「君子無終食之間違仁 造次必於是 顛沛必於是」 君子は食事の間も仁に違う事はない 造次の時も 顛沛の時も 仁に違う事はない 仁こそが君子の本 さて仁とは それは知恵であり聖霊 食事の時の造次の時の顛沛の時の君子の顔を見て御覧なさい 知恵の光に輝いているではないですか
10 「君子之於天下也 無適也 無莫也 義之興比」 君子の天下におけるや 適も無く 莫も無い 義に比(した)しむだけである 「義に飢え渇く人々は幸いである その人たちは満たされる」 「義のために迫害される人々は幸いである 天の国はその人たちのものである」 「何よりも神の国と神の義を求めなさい」 これが君子の信条です
この君子テストは未だ続きます
孔子の徒として 「論語」より その10 2004/ 3/ 8 23:17
【君子テスト質問題 11~19】
これは25048からの続きです
この君子テストの解答方法については25046を参照して下さい
なお解答方法を簡単に言えば
下記の漢文原文は孔子の君子に関する言葉ですが
これが貴方に当て嵌まるか否かを○×で記入すると言うものです
11 「君子懐徳 小人懐土 君子懐刑 小人懐恵」 君子は徳を懐い 小人は土を懐う 君子は刑を懐い 小人は恵を懐う 君子は徳を願い 徳の十字架に付けられる事を願う 小人は利を思い益を思う
12 「君子喩於義 小人喩於利」 君子は義に喩(さと)く 小人は利に喩い さて義とは何でしょう 神の義とは 我々が求めるべき義とは 神の前に義(ただしい)事とは 皆さんへの宿題とします
13 「君子欲訥於言 而敏於行」 君子は言には訥を 行いには敏を欲する これも不言実行の事を言っているのですよね あのイエスの黄金律を思い出して下さい 第一の掟は貴方の神である主を愛する事でしたよね それも奥まった部屋で一人戸を閉めてでしたよね それから第二の掟は隣人を自分のように愛しなさいだったですよね どちらも口に出す言葉には関係なかったですよね そしてイエスも戒められていましたよね 施しや祈りの所で ラッパを吹くなと 黙々と習い性と成しなさい
14 「有君子之道四焉 其行己也恭 其事上也敬 其養民恵 其使民也義」 君子の道は四 つ 己の行いには恭 上に事(つかえ)るには敬 民を養うには恵 民を使うには義 恭 敬 恵 義は君子の道です そしてこの大本は仁(知恵)です 仁(知恵)を愛する事に依ってこれらの道は自ずから見えて来るのです 後はそれを踏み行えば良いのです 習い踏み行って自分の物とする事 それが道なのです
15 「君子周急不継富」 君子は急(困った者)には周(あまねく)するも富(者)に継ぐ事は無い 君子はお日様やお月様の様なものです 困った者がいれば直ぐに光の手を差し伸べるのです でも富んだ者には無関心です もし富んだ者が私にも光をと言ったらこう言うのです 「もし完全に成りたいのなら 行って持ち物を売り払い 貧しい人に施しなさい そうすれば天に富を積むことになる それからわたしに従いなさい」と
16 「女成君子儒 無成小人儒」 女(なんじ)君子の儒(学者)と成れ 小人の儒と成るなかれ 学者には二種類あります それは哲学者と科学者です 科学者は細分された一部分を担当する学者です すなわち小人の為の学者です だから私は言うのです 科学者と成るな 哲学者と成れと 哲学者は何を学ぶのか そうですね 知恵であり仁であり聖霊でありデーモンですよね そしてこれらを通してこの大いなる世界を学ぶ事でしたよね
17 「君子可逝也 不可陥也 可欺也 不可罔也」 君子は逝かせる事は出来るが 陥れる事は出来ない 君子は欺く事は出来るが 罔(くらま)せる事は出来ない 「誰かが貴方の右の頬を打つなら左の頬も向けなさい 貴方を訴えて下着を取ろうとする者には上着も取らせなさい 誰かが1ミリオン行くように強いるなら一緒に2ミリオン行きなさい」 全ては貴方の望むままにです 何故なら私は貴方を愛しているから
18 「君子博学於文 約之以禮 亦可以弗畔矣夫」 君子が文(言葉)を博く学んで 之(この言葉)を約するに禮を以ってしたら 弗畔(そむからず=心の欲する所に従って矩〈のり〉を踰えず)と言う事もまた可能となろう 弗畔(そむからず)とは何に畔かないのか それは心の法則 すなわち義です 義に畔かない様にと禮があるのです 二つを合わせて良く禮義と言いますが 義の為に禮が有るのであって 禮の為に義が在るのではないのです 文(知恵の言葉)を博く学んでこれを約して以って禮とする 禮とは貴方自身の律法に他ならないのです
19 「聖人吾不得而見之矣 得見君子者 斯可曰如斯而已乎」 聖人に見(ま)えると言う事は出来ないが 君子に見える事は出来る それで可とすべきである 聖人に見えると言う事は我々にとってはほぼ不可能な事です イエスや釈迦や孔子に見える事の出来た者は幸いです しかし彼らは最初から聖人だったのでしょうか 二千年の歳月が彼らを聖人に変えたのではないでしょうか 彼らは皆ただの君子それも飛びっきりの君子 すなわち知恵を愛し知恵を実行する事に倦むことが無かっただけの君子だっただけではないのでしょうか それが歳月と共に次第に聖人に成って行ったのではないでしょうか だったら私は現代に君子を求めます 若者諸君 君たちがそれだ 私は貴方に期待する
この君子テストは未だ続きます
孔子の徒として 「論語」より その11 2004/ 3/ 8 23:25
【君子テスト質問題 20~26】
これは25049からの続きです
この君子テストの解答方法については25046を参照して下さい
なお解答方法を簡単に言えば
下記の漢文原文は孔子の君子に関する言葉ですが
これが貴方に当て嵌まるか否かを○×で記入すると言うものです
20 「君子不党」 君子は党せず 皆さんは宗教の事を悪く言う それは党したが為の弊害を言っているのであって イエスや釈迦や孔子やその他一連の君子を悪く言う事はないでしょう 君子とはそんな者なのです 「見よ わたしの選んだ僕 わたしの心に適った愛する者・・・・彼は争わず叫ばずその声を聞く者は大通りにはいない」 君子は大声では叫ばないものです 私に付いて来なさいなどと 声無き声を聞き分ける者だけが彼に付いて行くのである
21 「躬行君子 則吾未之有得也」 君子を躬に行う 未だ私はそこに至っていいない 君子は初心者から完成者までその幅は広いのです ここで孔子が言う君子とは完成された君子の事を言っています 孔子はいつも謙遜の徳に満ちているのです だから私達が挙げて上げなければ成らないのです 彼こそ君子の中の君子だったと
22 「若聖興仁 則吾豈敢」 聖と仁のごとき 吾あにあえてせんや ここでもう一度聖と仁を整理して置きましょう 私は先に学者知者仁者と言う分け方をしました 学者とは仁(知恵)を学ぶ者 知者とは仁(知恵)を知る者 仁者とは仁(知恵)を体現する者と ここで言う聖者とはこれらを100パーセント完成した人です だからそう言う人は伝説上の中 すなわち言葉の中にしか存在しないのです 仁者もやはり仁を学び仁を知り仁を体現する様に成った人の事ですがそれには幅があります しかし孔子はそれをかなり高い精度で実現出来る様に成った人だけを仁者と呼んでいます だからあれ程までに厳選したのです 孔子の弟子や先人を挙げて彼らは仁者ですかと聞くけれど孔子はほとんどの場合そうでは無いと言いました 孔子が仁者と答えたのは管中と殷の三仁だけです だから孔子はこう言ったのです 聖や仁吾あにあえてせんや 私はただ彼らの教えを教え 彼らの行いに倣っただけすと これも孔子一流の謙遜です だから私たちが挙げて上げなければ成らないのです 彼こそが仁者の中の仁者であったと そして二千数百年の歳月の中で彼もまた聖者と成ったと
23 「君子坦蕩蕩 小人長戚戚」 君子は坦にして蕩蕩 小人は長にして戚戚 私はここに集う人を見ていると何か戚戚とした感じを受けます 勿論蕩蕩した人も居ますけど 何故なのでしょう 「見よ わたしの選んだ僕 わたしの心に適った愛する者・・・・彼は争わず叫ばずその声を聞く者は大通りにはいない」 やはり君子は争わず叫ばない者なのではないでしょうか
24 「君子篤於親 則民興於仁」 君子親に篤ければ すなわち民に仁がおこる 仁すなわち知恵は親から子へと伝わって行くものです だから親に篤ければ 当然人々の間に仁が広がって行きます これは当然の理です だから孔子は三年の喪を強く訴えたのです しかしもし貴方たちが親から知恵(仁)を授けられなかったと言うのであれば 貴方方は貴方の知恵の親を探さなればなりません それはイエスであっても釈迦であっても孔子であてもその他の聖人偉人賢人哲人であっても構いません いいえ私はこう言いましょう 彼ら全てを貴方の知恵の親としなさい そして何遍も生まれ変わりなさいと そうすれば貴方方も知恵ある親としてその知恵を子に引き継ぐ事が出来るでしょう そうすれば自ずと貴方の子は貴方の為に三年の喪を遣り遂げて呉れるでしょう 何故なら貴方を思い出す度に知恵が次から次に溢れて来るのですから
25 「君子之徳風也 小人之徳草也 草上之風必偃」 君子の徳は風 小人の徳は草 草の上の風は必ず(草を)偃す もう11賢人11冊の本を読みましたか 貴方を徳の方へと靡かせるでしょう えっ 未だ読んでいない? 貴方方は何時まで学ぶのを遅らせる気か
26 「君子以文会友 以文輔仁」 君子は文を以って友と会い 文を以って仁を輔(たすけ)る これは前にも言った事ですよね 先人の知恵(仁)の言葉に依ってその先人を友とし 先人の知恵(仁)の言葉に依って自らの知恵(仁)を育て上げる 古代哲学を学ばなければ貴方の知恵(仁)は決して育たないのです 温故知新以って師とすべき これは何時の時代でも変わらない格言なのです 皮相な現代の(論理)哲学者を友とする無かれ
この君子テストは未だ続きます
孔子の徒として 「論語」より その12 2004/ 3/ 8 23:31
【君子テスト質問題 20~26】
これは25050からの続きです
この君子テストの解答方法については25046を参照して下さい
なお解答方法を簡単に言えば
下記の漢文原文は孔子の君子に関する言葉ですが
これが貴方に当て嵌まるか否かを○×で記入すると言うものです
27 「君子名之必可言也 言之必可行也」 君子之に名づければ必ず言う 之を言えば必ず行う 私は思います 現在は名が混乱していると それが為この世がこんなにも混乱していると ここに集う人の会話を聞いて御覧なさい 私には彼らが異言で語っているとしか思えません 彼らは勝手な言葉を捏造して彼らだけの世界を捏造しているのです この世の言葉も未だ十分に知らないの亦新たな言葉を捏造する これでは世界は治まりません もう一度あのシンプルで輝きに満ちた古代哲学に還ってみませんか 彼らが名づけた名を言い そしてそれを実行して見ませんか 例えば知恵とか聖霊とかダイモーンとか貴方の神である主とか そんな素敵な言葉を言い それを実行してみませんか もう勝手な言葉を作りそれを弄ぶのは止めにしなさい
28 「君子於其言 無所苟而已矣」 君子は其の言においては苟(かりそめ)にする事は無い 君子は言葉を大事にします 何故ならそれは仁(知恵)から預かった言葉だからです すなわち預言だからです 仁(知恵)と共に在る者はその事が良く分かっています だから言葉をかりそめにする事はないのです それに引き替え小人は別です 彼らは唾棄する様に言葉を吐き散らしています でもそれは仕方の無い事かもしれません 何故なら彼らは仁(知恵)を知らないのですから 知恵なき者の言葉はなんと騒々しい事か
29 「君子和而不同 小人同而不和」 君子は和して同ぜす 小人は同して和せず 和を以って尊しと為す 「平和を実現する人々は幸いせある その人たちは神の子と呼ばれる」 君子はこの世に平和を齎す為に使わされたのである どうしてその君子が不和を齎すであろう 何故君子が和を 小人が不和を齎すか その秘密を教えて置こう それは君子が知恵に基づき行動し 小人が知識も基づいて行動しているからである 知恵は統合を齎し 知識は分別(差別)を齎すからである
30 「君子易事而難説也 小人難事而易説也」 君子は事(つか)え易く説(よろこば)せ難し 小人は事え難く説ばせ易し 「あなたがたの中でいちばん偉くなりたい者は皆に仕える者になり いちばん上になりたい者は皆の僕になりなさい」 君子は仕える為にこの世に使わされたのである 喜びは神からの賜物 どうして人から褒められる必要があろう
31 「君子泰而不驕 小人驕而不泰」 君子は泰にして不驕 小人は驕にして不泰 君子が何故泰然としているのか それはこの世を相手にせず知恵だけを相手にしているからです 君子の報酬は知恵からの報酬 それだけなのです 「そうすれば隠れたことを見ておられる父があなたに報いてくださる」 君子はこの信念に基づいて生きているのです
32 「君子而不仁者有矣夫 未有小人仁者也」 君子にして不仁なる者はいない また小人にして仁なる者もいない 君子とは 仁(知恵)を学び 仁(知恵)を知り 仁(知恵)を体現する者の事 しかしその幅は広い 仁を学び始めた者も君子 彼は世間から見ればとても仁(知恵)の人には見えない しかし彼は君子であり仁の人なのである それに引き換え小人 彼は仁(知恵)の存在すら知らないのだから どうして仁の人に成り得よう
33 「君子思不出其位」 君子の思いは其の位を出ず ここで言う位とは貴方が辿り着いた仁(知恵)の段階の事です 仁(知恵)は無窮です そしてステップがあります そのステップ以上の事は思う事は出来ないのです これは当然の理です しかし学び続けていたら 時々にそのステップが上がって行くのです それが君子にとっての何よりの励みであり楽しみと成っているのです
34 「君子恥其言之過其行也」 君子は其の言が其の行いより過ぎている事を恥じる 言行一致 不言実行 これが君子の信念です 仁(知恵)を学び仁(知恵)を知る事 これはあの黄金律の第一の法則です すなわち貴方の神である主を愛しなさいです そして仁(知恵)を体現する事 これが黄金律の第二法則です すなわち隣人を自分の様に愛しなさいと 君子は頭でっかちに成る事を恥じるのです ただ主よ主よ言うだけの者には成りたくないのです
この君子テストは未だ続きます
孔子の徒として 「論語」より その13 2004/ 3/ 8 23:37
【君子テスト質問題 35~42】
これは25051からの続きです
この君子テストの解答方法については25046を参照して下さい
なお解答方法を簡単に言えば
下記の漢文原文は孔子の君子に関する言葉ですが
これが貴方に当て嵌まるか否かを○×で記入すると言うものです
35 「子路問君子 子曰 修己以敬 曰如斯而己乎 曰修己以安人 曰如斯而己乎 曰修己以安百姓 堯舜其猶病諸」 子路君子を問う 子曰く 己を修めて(神を)敬う事だ それだけですか 己を修めて隣人を愛する事だ それだけですか 己を修めて人類を愛する事だ 之は堯舜の様な聖人でも悩んだ事だ これもあの黄金律と同じですね 己を修めて神を敬う これが第一法則 そして己を修めて隣人を愛し己を修めて人類を愛す これが第二法則ですよね 聖人偉人賢人哲人の言葉の中にこの黄金律を見つけ出す事はとても楽しい事ですよ 貴方もその視点で賢人たちの言葉を読み解して御覧なさい
36 「君子義以為質 禮以行之 遜以出之 信以成之」 君子は義を以って質と為し 禮を以って義を行い 遜を以って義に出で 信を以って義を成す 君子とは義に飢え渇く人の事であり 義の為に迫害されても恐れない人の事であり そして何よりも神の義を切に求める人の事です 彼はその義を自らの本質となし禮 遜 信その他あらゆる徳を以って義を行おうとするのです
37 「君子病無能焉 不病人之不己知也」 君子は自らの無能を病(や)む 人が自分を知らないからと言って病(や)む事は無い 無能とは未だ仁(知恵)を体現出来ない事の謂いです 仁(知恵)を学び 仁(知恵)を知る様には ある程度経験を積んだ君子なら出来る様に成ります しかしこの仁(知恵)を体現すると言う事はとても難しいのです 先ず時間が必要です 習い性と成る必要があります 次にこれが一番難しくしている理由かも知れません 得てして学者(仁を学ぶ者)知者(仁を知る者)がその徳を身に付ける事が難しい徳を必要とするからです その徳とは勇気です 仁を体現する為には大いなる勇気が必要となるのです ヘラクレスやアキレスの様な だから君子はいつもこの事で病むのです 貴方もそうではありませんか 不病人之不己知也 これについてはもう説明の必要は有りませんよね
38 「君子求諸己 小人求諸人」 君子は己に諸々を求め 小人は人に諸々を求める 「古之学者為己 今之学者為人」 古の学者は己の為に為し 今の学者は人の為に為す これほど哲学と科学の本質を上手く言い当てたものは無い 哲学は君子の為の学問 科学は小人の為の学問 之に異を唱える者は私の前に出なさい
39 「君子矜而不争 群而不党」 君子は矜ではあるが争わず 群れはするが党せず 君子は不争 不党 平和の使者がどうして争おう 君子は常に仁(知恵)のみを仰ぎ見そして仁(知恵)からの報酬を何よりも楽しみとする その様な者がどうしてこの世と組しよう
40 「君子不以言挙人 不以人廃言」 君子は言葉を以って人を挙げる事はしない また人を以って言葉を廃する事もしない 君子は仁(知恵)を以って仁(知恵)を見る 仁と仁が響き合う時そこには何の差別も無くなる 言葉も必要なくなる 身分も地位も名誉も イエスの言葉「二人または三人が私の名によって集まる所には私もいる」 仁が響き合う世界 それは素敵な音楽の世界 私もそんな所で陶酔に浸りたい 誰か仁の人は居らぬのか
41 「君子謀道 不謀食 君子憂道 不憂貧」 君子は道を謀るも 食を謀らず 君子は道を憂うも 貧を憂わず 「だから何を食べようか 何を飲もうか 何を着ようかと言って思い悩むな それはみな異邦人が切に求めているものだ あなたがたの天の父はこれらのものがあなたがたに必要なことをご存じである 何よりもまず神の国と神の義を求めなさい そうすればこれらのものはみな加えて与えられる」
42 「君子不可小知 而可大受也 小人不可大受 而可小知也」 君子はこの世の些細な事は余り知る事は無い しかしこの世の大いなるものすなわち仁(知恵)を大いに受ける 小人はこの世の些細な事に偉く詳しいがこの世で一番大事なものすなわち仁(知恵)についてはほとんど知る事が無い いや出来ないのだ 彼らは見るには見るが見ず 聞くには聞くが聞かないからである
この君子テストは未だ続きます
孔子の徒として 「論語」より その14 2004/ 3/ 8 23:42
【君子テスト質問題 43~50】
これは25053からの続きです
この君子テストの解答方法については25046を参照して下さい
なお解答方法を簡単に言えば
下記の漢文原文は孔子の君子に関する言葉ですが
これが貴方に当て嵌まるか否かを○×で記入すると言うものです
43 「侍於君子有三愆 言未及之而言 謂之躁 言及之而不言 謂之隠 未見顔色而言 謂之瞽」 君子に侍(はべる)に三つの愆がある 言が未だ之(知恵)に及んでいないの言う これを躁と謂う 言が之に及んでいるのに言わない これを隠と謂う 顔色を見ずに言う これを瞽と謂う これは君子と楽しく対話する為のコツである 先程言った様に君子との対話は響き合う音楽である そこにはあうんの呼吸が必要なのである 「二人または三人が私の名によって集まる所には私もいる」 そんな世界が皆様にも早く来ます様に
44 「君子有三戒 少之時 血気未定 戒之在色 及其壮也 血気方剛 戒之在闘 及其老也 血気既衰 戒之在得」 君子には三つの戒めがある 若い時は未だ血気が定まらない 之を戒めるには色 其の壮年なるに及べば 血気方に剛 之を戒めるに闘争心 其の老に及べば 血気既に衰える 之を戒めるには得 老人に成ってから何かを得ようとしても無駄 後の祭です さあ今日から知恵を始めましょう 知恵こそが貴方の一生を通しての友達なのです 老後は知恵と余生を楽しみましょう
45 「君子三畏 畏天命 畏大人 畏聖人之言 小人不知天命而不畏也 狎大人 侮聖人之言」 君子には三つの畏れがある 天命を畏れ 大人を畏れ 聖人の言を畏れる しかし小人は天命を知らない為これを畏れる事も無く 大人に狎れ 聖人の言を侮る 貴方は天命を知っていますか 知らない まっそうでしょう それでは聖人の言葉を侮ってはいませんか 何が悪い? はっきり言って貴方は小人だ!
46 「君子有九思 視思明 聴思聡 色思温 貌思恭 言思忠 事思敬 疑思問 怨思難 見得思義」 君子には九つの思いがある 視には明を 聴には聡を 色(かおいろ)には温を 貌(すがた)には恭を 言には忠を 事(つかえる)には敬を 疑には問を 怨には難を思い そして 何かを得た時それが義(ただしい)事かと思う さて貴方には幾つの思いがありましたか 多分九つ全部だったと思います だから貴方は君子なのです 今日からはその思いの様に生きなさい しかし思う事と行う事のギャップが山ほどに大きい このギャップを埋めることが君子としての貴方の後生
47 「君子之遠其子也」 君子其の子を遠ざく 貴方方は子供べったりになっていませんか 三歳まではそうあるべきでしょう しかし三歳を過ぎたら徐々に遠ざけなければなりません そして十五に成ったら 知恵への旅へと旅立たせなければならないのです 孔子もイエスもほぼ十五で知恵への旅へと旅立ったのです
48 「君子学道則愛人 小人学道則易使也」 君子道を学べば人を愛し 小人道を学べば使い易し 貴方方は君子ですよね だから道を学んで人を愛して下さい 道とは何か それは孔子の人の子としての教えの全てです 貴方方はそんなにたくさんは学べないと言うかも知れません しかし貴方の知恵と共にその言葉たちを訪ねて御覧なさい どれもこれも直ぐに手の届くものばかりです
49 「君子之居喪 食旨不甘 聞楽不楽 居処不安 故不為也」 君子の喪に居するや 旨きを食べるも甘からず 楽を聞くも楽からず 処に居るも安からず 故に為さず この言葉は現代では全く通用しないのかも知れません 親が死んだら三年の喪(実質二年足掛け三年)に服さなければならないと言うのです しかし私は思います ここに君子の親子の知恵の遣り取りがあると 親も君子 子も君子 その親の知恵を引く受けるのにやはり二年は必要なのでしょう 現代人の喪は七日です 如何に知恵の遣り取りが無い事か
50 「君子之仕也 行其義也 道之不行也 已知之矣」 君子が仕えるのは 其の義を行う事にある 道の行われていない事は すでに知っている そうなんです 君子がこの世に仕えるのは義を行う為なのです この世に道が無くなったのは知っています それでも君子は義を行おうとするのです それが君子であり 哲学者の所以なのです
この君子テストは未だ続きます
孔子の徒として 「論語」より その15 2004/ 3/ 9 0:00
【君子テスト質問題 51~58】
これは25055からの続きです
51 「君子有三変 望之儼然 即之也温 聞其声厲」 君子は三変する 之を望めば儼然 之に即すれば温かい しかし其の声を聞くとまた厲然となる 貴方の声を聞いて厲然となる人がいますか 貴方は温かなだけの人ではありませんか 勿論その様な人はこの世に大切です その様な人をエロスの人と言います しかし君子と成る為にエロスと共にアガペーが必要なのです
52 「君子信而後労其民 未信則以為厲己 信而後諌 未信則以為謗己也」 君子信じて後その民を労(いたわ)る 未だ信じる事が出来なければ己を厲と為す 君子信じて後諌める 未だ信じる事ができなければ己を謗と為す 君子は信仰に至ってこそ始めて 人々を労わる事も出来れば諌める事も出来るのです 未だ信仰に至らない場合はどんな事をしても それは厲となり謗となるのです 信仰 それは仁(知恵)へ信仰の事です 貴方が仁(知恵)への確固たる信仰を抱く事が出来れば貴方の周りに居る人々もその微かな仁(知恵)を信じる事が出来ます そこから仁(知恵〉の響き合い すなわち素敵な世界が始まるのです
53 「君子之道 孰先伝焉 孰後倦焉」 君子の道 いずれかを先にして伝えん いずれかを後にして倦まん 君子には先も後も無いのです 始めのものが後になり後のものが始めになる 先ずは身近なものから始めるべきなのです 千里の道も一歩から ただし常に知恵と共に歩まなければならないのです 近思録の近思 近くを思う その中にまた仁(知恵)も生まれて来るのです
54 「君子之道 焉可誣也」 君子の道を どうして誣(し)いる事ができましょう 君子への道 それは貴方が知恵に気付かなければ始まらないのです 知恵 それを見付けそれを愛する事 それが哲学者(君子)の道なのです それは貴方自身以外誰も強いる事が出来ないのです
55 「有始有卒者 其唯聖人乎」 始め有り卒(おわ)り有るは 其れは唯聖人のみ アルファでありオメガで在るのは神 であれば始めであり終わりである所の聖人もまた神と言う事に成るのではないか だから孔子は「若聖興仁 則吾豈敢」 聖(神)と仁(聖霊)のごときにどうして私が成れましょう 私はその言葉をこの世に繋ぐだけですと 孔子は自らを使徒の立場に置きました しかし私ははっきり言います 彼もまた神の子であった 神の教えを 聖霊の教えを自らに体現したのです 彼も三位一体の神秘の中に入ったのです しかし彼は決してそれを公にする事は無かったのです 後は後世がそれを判断するしかないのです 二千数百年の歳月を経て貴方の為に蘇った孔子 それは貴方にとって一体何者ですか 彼もまた貴方にとっての神の御使い
56 「君子之過也 如日月之蝕焉 過也人皆見之 更也人皆仰之」 君子の過ちは日月の蝕の如し 過てば人皆之を見 更(あらため)れば人皆之を仰ぐ 今貴方方の周りに君子と呼ばれる人がいますか 残念ながら私の周りには居ません 早く君子を仰ぎ見たいものです そこの若者よ 貴方に賭ける 君子と成る為には理想では十五 遅くとも十八までには知恵への道を歩み始めなければならないのです 習い性と成る その為には年月も必要ですし 若いと言う事も必要なのです
57 「君子恵而不費 労而不怨 欲而不貪 泰而不驕 威而不猛」 君子恵して費えず 労して怨みず 欲して貪らず 泰にして驕らず 威にして猛からず この内 欲して貪らずの意味がよく分からないと思います これにはこう言う言葉が続くのです 仁を欲して仁を得たり どうして貪る事があろうと すなわち君子と言う者は仁しか欲しないのです しかし仁を欲しこれを求めれば残りの全てのものは与えられるのです 恵 労 泰 威と言う徳もそうですが全ての全てが仁をすなわち知恵を求める事に依って得られるのです 「何よりもまず 神の国と神の義を求めなさい そうすればこれらのものはみな加えて与えられる」と言う事なのです だから先ずは仁を知恵を神の義を求めなさい
58 「不知命 無以為君子」 命を知らざれば 君子と成る事は無い 貴方はもう貴方の天命を知りましたか 天命を知る為に必要な事 それは知恵を愛すると言う事だけです 知恵を愛する過程の中で天命が下されるのです 後はその天命に従って生きるだけです それに依って貴方は君子に成るのです
私が言いたい事は唯一つ 知恵を愛しなさい そしてそれを実行しなさい だけです
さて貴方の君子度はどうだったですか
それと一番目の問いにお答えして置きましょう
もし貴方が一つでも○があれば君子です
貴方は君子への道を歩き始めた者です
君子への道は無窮です
毎日毎日をその一歩としなさい
老子の徒として 「老子」より その1 2004/ 3/13 13:12
さて今日から老子の旅です
老子は何と言っても道です
老子は道の事を何と言っているのでしょう
老子の言葉に沿って見て行きましょう
先ずは「老子」の第一章
これは第一章全文です
老子の言葉に入る前に
「老子」と言う本について説明して置きましょう
未だ第一章を載せてはいませんが
これ位の節の長さの文章が僅かに八十二章有るだけです
どれ位の文字数なるのか計算した事はありませんが
因みに今第一章の文字数を数えたら六十一文字でした
単純に六十一文字が八十二章であったとすると
全部で僅かに5,902文字です
貴方はどれ位で読み切る事が出来ますか
もし私が中国人であれば物の数分でしょう
そうでしょう
しかしその僅か六千文字前後の文章が
二千数百年を経た今でも
私たちの眼前で光り輝いているのです
その一つ一つの言葉が如何に尊いか分かるでしょう
さて前置きはそれ位にして
その第一章全文を見て見ましょう
「道可道 非常道 名可名 非常名 無名天地之始 有名万物之母 故常無欲以観其妙 常有欲以観其徼 此両者同出而異名 同謂之玄 玄之又玄 衆妙之門」
(道の道とすべきは 常の道にあらず 名の名とすべきは 常の名にあらず 無名は天地の始め 有名は万物の母 故に常に無欲を以って其の妙を観 有欲を以って其の徼を観る この両者同じより出て名を異にする これを玄と謂う 玄のまた玄 衆妙の門)
貴方方はこれが何を言っているか分かりますか
ちんぷんかんぷん!?
であれば私がずばり言いましょう
これは哲学と科学の違いをずばり言っているのだと
そう言っても何の事か未ださっぱり分からないと思いますので
少し講釈しましょう
道とは無名です 故に無欲に依ってその妙を観る
これが哲学です
公案の様ですが良く考えなさい
名とは有名です 故に有欲に依ってその徼を観る
これが科学です
対比だから少しは分かるでしょう
この二つは同じ所から出ているが名を異にする
これを玄と言う 玄のまた玄 衆妙の門
ここに集う大分は科学者です
彼らは徼を飛ばし合い
唾を飛ばし合っているのです
しかしここにも僅かばかりの哲学者が居ます
彼らは常に妙を見ています
善き哉善き哉と
彼らは出所を同じにしながらこんなにも違うのです
だからこの世はこんなにも面白いのです
皆さんはどちらが幸せだと思いますか
徼を観る事ですか それとも妙を見る事ですか
断然後者ですよね
だから我々哲学者が必要なのです
知恵を愛する者と言う存在が
我々が知恵を道を高く掲げなければ
誰もがその存在に気付かないのですから
さて道とはどんな存在なのでしょう
第一章で分かった事はこんな事でしたよね
道とは無名である
無名であるので天地の始めである
道は無名であるので無欲である
その無欲で物を見るとその妙を観る
これこそが玄 玄のまた玄
道こそがワンダーワールドの入り口であると
第一章で分かる事は
道は無名で無欲で
天地に先立って存在し
それに依って天国(衆妙の世界)に渡れると
イエスの言った聖霊に酷似しているとは思いませんか
* 今回の老子の旅の主題は「道」です
六分割されていますので続けて読んで下さい
次に続く
老子の徒として 「老子」より その2 2004/ 3/13 13:14
これはNO25168からの続きです
さてとやかく言うよりも
老子の言葉を追って見ましょう
次は第四章です
道の用について述べたものです
「道沖而用之或不盈 渕兮似万物之宗 挫其鋭 解其粉 和其光 同其塵 湛兮似或存 吾不知誰之子 象帝之先」
(道は沖にしてこれを用えどもつねに盈〈み〉たず 渕として万物の宗に似たり 其の鋭を挫き 其の粉を解き 其の光に和し 其の塵に同じる 湛としてつねに存するに似たり 吾れ誰の子か知らず 帝の先に象〈に〉たり)
どうです
聖霊そのものではありませんか
渕として万物の宗に似たり
すなわち万物の宗主であると
道も宗主 聖霊も宗主
「貴方の神である主」を愛しなさい
主こそが全てに渡っての宗主
そうではないのですか?・・・
道の用をもう少し見て視ましょう
道は沖にして淵
いくら用いても決して尽きる事は無い
其の鋭を挫き 其の粉を解き 其の光に和し 其の塵に同じる
愛の思想そのものでないですか
さてここに宗主である旨の決定的言葉が出て着ました
私は道が誰の子か知らない
強いて言えばそれは帝の子
すなわち神の子であると
道=神の子であり聖霊であり「貴方の神である主」であると
さて次の言葉に走りましょう
今度は第二十一章です
「孔徳之容 惟道是従 道之為物 惟恍惟惚 惚兮恍兮 其中有象 惚兮恍兮 其中有物 窈兮冥兮 其中有精 其精甚真 其中有信 自古及今 其名不去 以閲衆甫 吾何以知衆甫之状哉 以此」
(孔徳の容 ただ道に従う 道のものたる ただ恍ただ惚 惚たり恍たり 其の中に象有り 惚たり恍たり 其の中に物有り 窈たり冥たり 其の中に精有り 其の精甚だ真 其の中に信有り 古より今に及ぶまで 其の名は去らず 吾何を以って衆甫の状を知るや ここを以ってなり)
これこそが道の真骨頂です
ほとんどの人がこれに溺れてしまいます
そして老子の人としての道が見えなくなるのです
この言葉は注意しなければなりません
この言葉につまずかない様に
さてその言葉とは
道のものたる ただ恍ただ惚 惚たり恍たり 其の中に象有り 惚たり恍たり
これこそが道への仁への聖霊へのダイモーンへのそして知恵への信仰の報酬です
しかしここで立ち止まってはいけないのです
それから更に先へと進まなければないのです
其の中に精有り 其の精甚だ真 其の中に信有り 古より今に及ぶまで 其の名は去らず 吾何を以って衆甫の状を知るや ここを以ってなり
私たちは道すなわち知恵の言葉に依って
衆甫すなわち古今の優れた哲学者を知る様に成るのです
そこまで辿りついたら
その哲学者たちから一杯の知恵の言葉を貰い
それを自分の物にしなければないのです
しかし哲学者はここで終わってもいけないのです
孔徳の容 ただ道に従う
ここまで来て本当の哲学者に成れるのです
老子は真の哲学者の事を聖人と呼んでいます
時間があったら稿を改めて聖人の事も述べて行きたいと思いますが
孔子の君子の時と同じ位一杯出て来ますので
今どうしようかと迷っている所です
今はとりあえず道を直走りましょう
* 今回の老子の旅の主題は「道」です
六分割されていますので続けて読んで下さい
次に続く
老子の徒として 「老子」より その3 2004/ 3/13 13:18
これはNO25169からの続きです
さて今度は二十五章です
ここでは道のいわれを説きます
「有物混成 先天地生 寂兮寥兮 独立不改 周行而不殆 可以為天下母 吾不知其名 字之曰道」
(有物混成 天地に先だちて生ず 寂たり寥たり 独立して改まらず 周行して殆〈や〉まず 以って天下の母と為すべし 吾其の名を知らず これに字して道と曰う)
さてどうです
旧約聖書創世記第一章第一節を思い出しませんか
道は天地に先立って生まれたのです
有物混成 寂たり寥たり
すなわち地は混沌であって闇が深淵の面にあったのです
その混沌の中 天地に先立って生まれ 独立不改 周行而不殆
すなわち神の霊が水の面を動いていたのである
そしてその時神は言われた光あれと
だから以って天下の母と成すべき存在なのです
道とは神であり神の霊なのです
その存在に何と名付け様も無いので
これに字(あざな)して道と言っているだけなのである
それを聖霊と呼んでもいいしダイモーンと呼んでもいいし
知恵と呼んでもいいのですよ と
さて次に行きます
ではその道を自分のものにする為にはどうすればいいのでしょう
簡単な事です
道(知恵)を信仰すれば善いのです
第二十三章です
この言葉を良く味わいなさい
「従事於道 同於道 徳者同於徳 失者同於失 同於道者 道亦楽得之 同於徳者 徳亦楽得之 同於失者 失亦楽得之 信不足焉 有不信焉」
(道に従事すれば道に同じ 徳なる者は徳に同じ 失なる者は失に同ず 道に同ぜんとする者には 道もまたこれを得んと楽〈ねが〉い 徳に同ぜんとする者には徳もまたこれを得んと楽〈ねが〉い 失に同ぜんとする者には失もまたこれを得んと〈ねが〉う 信たら足らざれば 信ぜられる有り)
道と同じ様に成りたいと思う者は
道に同じ様と勤めますよね
それでいいのです
それが一生懸命であればあるほど
道もまたその者を得ようと願うのです
求めよ さらば与えられん
その信仰が一途な者には
神はその分身である
聖霊さえも与えようとするのです
全ては信仰です
信仰が足りなければ やはりそれは不信です
一途な信仰が大切なのです
貴方は何を信仰していますか
もし無かったら一番手っ取り早い「知恵」を信仰しなさい
さて次に続きます
今度は三十二章三十七章四十一章四十八章です
ここで断りを入れて置きますが
第一章は全文でしたがそれ以外は全文とは限りません
ここに挙げているのは全部断片です
老子の真意を知りたければ
やはり講談社文庫の「老子」を購読して下さい
「道常無名 樸雖小 天下莫能臣也 侯王若能守之 万物将自賓 天地相合 以降甘露 民莫之令而自均」
(道の常は無名 樸は小といえども 天下によく臣となるはなし 侯王もしよくこれを守れば 万物将に自ら賓す 天地相合し 以って甘露を降らす これに令することなくして民自ら均〈ひとしく)なる
「道常無為 而無不為 侯王若能守之 万物将自化」
(道は無為にして為さらずは無し 侯王もしこれをよく守れば 万物自ずから化する)
「道隠無名 夫唯道善貸且成」
(道は隠にして無名なるも ただ道のみ善く貸し且つ成す)
「為学日益 為道日損 損之又損 以至於無為 無為而無不為」
(学を為せば日〈ひび〉に益し 道を為せば日〈ひび〉に損〈へ〉る これを損らしてまた損らせば 以って無為に至る 無為にして為さざるは無し)
ここで言いたいのは
道は無為無名であると言う事です
しかし無為無名であっても為さない事は何も無いと言う事です
不思議ですね 道の力は
何故道にはそんな力が秘められているのでしょう
この神秘には後からたぶん解答が出てくると思います
それは聖人の意味を良く理解すれば
その事が分かる様に成ると思います
聖人と道が同じ文節の中に出て来るのはあまりありませんが
私が道に関して拾い上げたものの中に一つありましたので
それを参考までに
これは最終章(八十一章)の最終節に当たる部分です
「聖人不積 既以為人 己愈有 既以与人 己愈多 天之道 利而不害 聖人之道 為而不争」
(聖人は積まず 以って既〈ことごと〉く人の為にするも 己愈々有す 以って既(ことごと)く人の与えるも 己愈々多し 天の道は利して害せず 聖人の道は為して争わず)
「貴方方の内で一番偉い人は仕える者と成りなさい」
「何よりも先ず神の国と神の義を求めなさい そうすればこれらのものは皆加えて与えられる」
ここいらにその神秘が隠されているのだと思います
老子は聖人を述べる時は徳と絡めて述べています
徳の実行の中に「道は
老子の徒として 「老子」より その4 2004/ 3/13 13:20
これはNO25170からの続きです
さて次に走ります
これは道を前にした時の
哲学者と科学者の反応の違いです
よくよく覚えて置いて下さい
この掲示板で意見の表出があった時
その者が哲学者か科学者かを見極める為にも
これは四十一章です
「上士聞道 勤而行之 中士聞道 若存若亡 下士聞道 大笑之 不笑 不足以為道 故建言有之 明道若昧 進道若退 夷道若」
(上士道を聞けば勤めてこれを行う 中士道を聞けば存〈あ〉るがごとし亡〈な〉きがごとし 下士道を聞けば大いに笑う 笑わざれば以って道たるに足らざる 故に建言あり 明るき道は昧きがごとし 進む道は退くがごとし 夷〈たいら〉なる道はらいなるごとし)
私は驚きます
この掲示板に道の表出があった時
みんなが大笑いするのを
ここに集う人はみんな下士の人なのでしょうか
ここに集まる人はみんな科学者なのでしょうか
もっともこの言葉はやはり活きているのです
「見よ 私の選んだ僕 私の心に適った愛する者・・・彼は争わず叫ばずその声を聞く者は大通りにはいない」
上士の人は道を聞いたらただ黙々勤め励むだけなのです
こんな所に出て来て大声で叫んだりはしない者なのです
道の意見を表出して笑われた方々にはこの言葉をプレゼントして置きます
「義の為に迫害される人は幸いである
天の国はその人たちのものである
私の為に罵られ迫害され身に覚えの無い事であらゆる悪口浴びせられる時
貴方方は幸いである
喜びなさい 大いに喜びなさい 天には大きな報いがある
貴方方より前の預言者たちも同じように迫害されたのである」と
ここに集う人の大半は中士の人々です
たまに上士の方もいます
そして下士の方もいます
大笑いする人たちはこの方々です
私にはどうも下品すぎて堪えられないのですが
中士以上の方々はどう思われますか・・・?
ちょっと私見が出すぎたので次に行きます
これは十六章です
道への至る道です
瞑想の事を述べています
「致虚極 守静篤 万物並作 吾以観其復 夫物芸芸 各復帰其根 帰根曰静 是謂復命 復命曰常 知常曰明 不知常 妄作凶 知常容 容及公 公及王 王及天 天及道 道及久 没身不殆」
(虚に致ること極まり 静を守ること篤ければ 万物並び作〈おこ〉るも 吾以って以って其の復を観る それ物は芸芸〈うんうん〉たるも 各々其の根に復帰する 根に帰るを静と曰う 是を復命と謂う 復命を常と曰う 常を知るを明と曰う 常を知らざれば 妄にして凶を作〈な〉す 常を知れば容 容であれば公 公であれば王 王であれば天 天であれば道 道であれば久しい 身を没するまで殆〈あやう〉からず
虚心坦懐にして 静かに静かにしていると
全てのものが全ての大本である一に帰って行くのが分かるのです
これを復命と言います
全ての命の源で在る所の道へと還るのです
その状態は 常であり 明であり 容であり(容であるとは全てのものを差別無く受け容れると言う意味です) 公であり 王であり 天であり
そして当然道そのものである訳です
私たちが道に至る為には瞑想しか無いのです
瞑想とは無に成る事
すなわち老子の言う所の無為無事無欲無名・・・です
私たちは無に成って始めて新たな世界を創造出来るのです
そこで貴方は公であり王であり天そのものであり
そして道そのものに成るのです
ある人が言いました
それはまさに創造論ではないかと
まさにその通りです
創造こそが人に与えられた最大の幸福なのです
天地創造は人に与えられた最大限の幸福です
だから大いなる人々は皆
大いなる世界を創造しようとしたのです
そしてそれの実現へその一生を捧げたのです
それはどんな世界かって?
それは貴方自身が決めれば良いのです
* 今回の老子の旅の主題は「道」です
六分割されていますので続けて読んで下さい
次に続く
老子の徒として 「老子」より その5 2004/ 3/13 13:23
これはNO25171からの続きです
さてまた科学者へ付け入る隙を与えたので
次に走ります
今度は道がどの様にして世界を創造するかと言う事と
その創造された世界について聖人がどの様に対処するかと言う事です
聖人の世界創造理論と聖人の処世術です
「道生之 徳畜之 物形之 勢成之 是以万物 莫不尊道而貴徳 道之尊 徳之貴 夫莫之命 而常自然 故道生之 徳畜之 長之 育之 亭之 養之 覆之 生而不有 為而不恃 長而不宰 是謂玄徳」
(道はこれを生み 徳がこれを畜〈やしな〉う 物はこれを形づくり 勢はこれを成す ここを以って万物は道を尊び徳を貴ばざるはなし 道の尊く徳の貴きはこれに命ずることなくして常に自ずから然りとなる 故に道がこれを生み 徳がこれを畜 これを長じさせ これを育み これを亭らせ これを養い これを覆う 生じて有せず 為して恃まず 長じて宰せず これを玄の徳と謂う)
ここで言っているのは
あのイエスの黄金律です
すなわち「貴方の神である主」を愛しなさい
そして隣人を自分の愛さなさいと言う
あの黄金律と何の違いも無いのです
ここで大切な言葉は
道がこれを生み 徳がこれを畜〈やしな〉う と言う言葉だけです
後は自然にそう成り
そしてそう成らざるを得ないのです
さて道がこれを生み 徳がこれを畜〈やしな〉うとはどう言う意味なのでしょう
この内 道がこれを生むと言う事については
前節第四十一章で勉強しましたよね
道は無 無為無事無欲無名だから全てのものを生み出す事が出来る
その為には自らも瞑想に依って無と成らなければいけないと
ここまで準備が出来たら後は求めれば良いのです
「私の神である主」よ
私にも貴方と同じく素敵な世界を下さいと
そうすれば
神は貴方に必要な全て与えて下さるのです
そしてその頭が徳と言う存在なのです
たとえ道(神)がその世界創造の為に必要なものを与えて下さっても
貴方がそれを徳に依って育てなければ
その世界は空想の産物でしか在り得ないのです
だからイエスは強く戒められたのです
「わたしに向かって主よ主よと言う者が皆天の国に入れる訳ではない
わたしの天の父の御心を行う者だけが入れるのである」と
御心を行うとは 道から与えられたものを徳により育む事に他ならないのです
そしてその第一の徳が隣人愛に他ならないのです
さて聖人は道に依り世界を創造し そしてそれを徳に依り育てます
この完成された世界を聖人はどの様に扱うのでしょう
生じて有せず 為して恃まず 長じて宰せず
当然ですよね
この素敵な世界を創造したのは
貴方方の為に創造したのですから
世の人々はこれを玄徳と謂いますが
我々にしては当たり前の事をしただけなのです と
聖人はいつもそう言うのです
さてまた古代哲学の効用について述べたい思います
先ほどもこんな言葉を紹介しましたよね
これは勿論道の事を言った言葉だったのですけで
自古及今 其名不去 以閲衆甫 吾何以知衆甫之状哉 以此
(古より今に及ぶまで その名去らず 以って衆甫を閲(す)ぶ 吾何を以って衆甫の状を知るか これ(道)を以ってなり)
古より今に及ぶまで
道は去ることなく現存しています
多くの優れた哲学者達はこの道に見え
そしてこの道を主として生きて来ました
それは私も同じ事です
だから私もこの道に依って
全ての優れた哲学者の事を知る事が出来るのです と
それと同じ言葉です
何故私が同じ主旨の言葉を再出させるのか
それは私が口を酸っぱくして言っているからです
古代哲学に学べと
孔子も言っていましたよね
温故知新 以って師と成すべしと
それとも同じ事です
「執古之道 以御今之有 能知古始 是謂道紀」
(古の道を執り 以って今の有を御す よく古始を知る 是を道紀を謂う)
貴方たちの様に現代の哲学に被れていると
決して道の事を知る事は出来ないと思います
今の哲学に未だ道が息づいているのだろうか
古より今に及ぶと言うのだから
たぶん息づいているのであろうが
それを見付けるのは難しい
それよりも古代哲学に還りなさい
そこには道が聖霊がダイモーンが仁が
そして一杯の知恵が輝いているから
* 今回の老子の旅の主題は「道」です
六分割されていますので続けて読んで下さい
次に続く
老子の徒として 「老子」より その6 2004/ 3/13 13:24
これはNO25172からの続きです
さて次に行きましょう
「徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入るだろう」
「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
悪人正機説
勿論老子にもその言葉はありますよ
「道者万物之奥 善人之宝 不善人之所保 美言可以市尊 行可以加人 人之不善 何棄之有・・・・・古之所以貴此道何 不曰以求得 有罪以免邪 故為天下貴」
(道は万物の奥 善人の宝 不善人の保ずる所 美言は以って尊をうけ 行は以って人に加わる 人の不善 何ぞこれを棄つることあらん・・・・古のこの道を貴っとぶ所以は何 之を求めて得れば 罪有るも免れるとは曰ざらんや 故に天下に貴きと為す
道は万物の第一 それは善人の宝とする所
これについては異存はありませんが
道はまた不善人の安んじる所でもあるのです
それが故 昔から道は尊ばれているのです
すなわち道を得れば全ての罪が許されると
イエスも何度も言っていますよね
私が来たのは罪びとを救う為だと
その言葉と何の齟齬があるでしょう
さて道に関する言葉は未だ有りますが
次の言葉をもって道の旅は終わる事にします
私がよく引用する言葉でもあります
「道生一 一生二 二生三 三生万物」
(道は一を生じ 一は二を生じ 二は三を生じ 三は万物を生ず)
さて道とは何でしょう
そして一とは二とは三とは
そして万物とは
貴方自身で答えて見てください
きっと貴方の世界観が浮かび上がって来ると思います
これで老子「道の旅」は終わりです
老子の徒として 「老子」より その7 2004/ 3/14 23:12
前回孔子シリーズで君子テストをしましたよね
そう言う訳で
今回も聖人テストをする事にしました
孔子が理想として描いた姿は君子でした
老子のそれは聖人です
今回も「老子」の中から
聖人と言う言葉が出て来る文節を順番に拾い出しました
一部順番を入れ替えている所が有ります
それは「是以聖人」で始まらない節については
後に回したと言う事だけです
これについては後で説明します
今回のシリーズは「聖人テスト」です
6割されていますので続けて読んで下さい
次に続きます
老子の徒として 「老子」より その8 2004/ 3/14 23:17
これはNO23195からの続きです
問題に入る前に一通りその言葉を見て行きましょう
御覧の様に全部で二十三節です
未だ聖人と言う言葉だ出て来る文節は有りましたが
一部は省いています
これらの文節を見て気付いて事が二つありました
一つは「是以聖人」で続く文節がとても多いと言う事です
ここに挙げた二十三節中に二十節(1から20まで)までが
お分かりの様に「是以聖人」で始まっているのです
「是以聖人」で始まる章の構成は
前半で薀蓄のある事を言って
後半で「是以聖人」で始まるのです
すなわち○○は××である だから聖人は△△である
と言う構造に成っているのです
この構造を良く理解して置いて下さい
何故なら今回の問題は
この構造を利用しての出題になっているのですから
今回のシリーズは「聖人テスト」です
6分割されていますので続けて読んで下さい
次に続きます
老子の徒として 「老子」より その9 2004/ 3/14 23:26
もう一つこれらの文節を読んで気付いた事は
「不」と「無」の文字がやたらに多いと言う事です
順番に重複も含めて挙げると
「不」については次のとおり
不言 不辞 不有 不恃 不去 不成目
不自是 不自伐 不自矜 不争 不離 不燿
不為大 不欲 不貴 不学 不敢為 不重 不害 不厭 不争 不病 不自見 不自貴 不恃 不処 不欲 不責 不積
「無」については次のとおりとなっています
無為 無私 無棄 無難 無為 無敗 無執 無失 無為 無事 無欲 無常
これも解答の際参考になると思いますので気に留めて置いて下さい
存在とは? 2004/ 3/15 23:30
「存在を論議するものではありません。
感得するものです。
そこのところを、よく、よく、考えてみられることです。」
その通りだと思います
私たちが地球滅亡の日まで
死んだら生まれ死んだら生まれと言う風に
何度も何度も生まれ変わったとしても
その事を知り尽くす事は出来ません
そんな事を議論する者は自分が神に成れると思っている大馬鹿か
本当の大馬鹿です
私は思います
ここに集い
その事を議論する者は
皆後者だと
彼らは自分が何を議論しているかを知らずに議論しているのです
ソクラテスや釈迦や
その他偉大なる哲人たちがいみじくも言った
「無知なる者」です
すなわち神を知らない者です
神と言うその概念を前にした時
知恵在るものはそんな事など議論しないものです
ただその存在から下される甘いネクターを
ただただ味わうだけです
もしそれを分かち合いたいと思ったら
それを行為に移すか
謳い上げるしかないのです
彼らを愛の人と言い
知恵の人と言うのです
知恵の人は詩人で無くては成らないのです
そこいらのおじさんおばさんが集まって議論する様なものではないのです 存在は
貴方方は存在を何と心得ているのですか
それはアルファでありオメガ
始めであり終わりであるもの
それをどう議論しようと言うのか
世界中の全ての人がその一生をかけてそれを議論し
その世界中の人々が地球滅亡のその日まで
その事を議論したって
その存在は窮め尽くす事が出来ないものです
それをああだこうだと言う者は
余程の大馬鹿か
不敬なる者である
なぞと
もしそれを的確に表現できる者が居るとしたら
それは詩人
それは比喩以外では説明出来ないものだから
なぞと言ったら
みんな黙りこくってしまったのでしょうか
uu3842jpさんが言う様に
「存在を論議するものではありません。
感得するものです。
そこのところを、よく、よく、考えてみられることです。」
と言う事になるのかも知れません
でもそれでは存在を知らない者は
永遠の無知に葬られてしまう事に成りますよね
だから私が口を酸っぱくして言っているのです
古代哲学に
その「存在」を学びなさいと
古代哲学にはその存在が
比喩で一杯鏤められています
そんな比喩を読み解く事が
存在を知り存在を感得する為の第一歩となるのです
なぞと
実は私のシリーズが
たぶん投稿制限だと思うのですがで
送信出来なくなったので
今日はここで遊ばさせてもらいました
もし投稿制限について詳しい方がいましたらどうか教えて下さい
例えばに同じ者に対して(実を言うと私は私にしか返信していないので・・・)
一度に連続して5000字以上投稿した場合とか
一度に続けて5メッセ以上投稿した場合には
一定期間投稿制限がかかるとか
私の場合これまでにも何度か
「受け付けられませんでした」とか
「利用規約を読んで下さい」と言うメッセージが出て送信出来ない事が多いのです
昨日は試行錯誤であんな投稿になってしまいました
もし詳しい方がいらっしゃたらどうか教えて下さい
私は未だ皆さんと議論に入る時期には来ていないのです
今私が続けているこのシリーズを終了させてから
皆さんとの対話に入って行きたいと思っているのです
uu3842jpさんにはその時はどうかよろしくお願いします
今度はuu3842jpさんの様な敬虔な人たちと対話を重ねて行きたいと思っています
その時まで今しばらく私のシリーズを続けて行きたいと思っています
これは uu3842jp さんの 25206 に対する返信です
神と言う概念について 2004/ 3/16 22:36
「神様という概念は,
ある・いると考えるといろいろ人間にとって都合のいいもの
だと考えてみました。なら逆にいえば,
神様という概念は,あってもなくても人間にとってなんら影響がない概念
とも言えます。もう少し言えば,
ある個人Aにとっては,神様という概念を考える事に「意味」があるが,違う個人Bにとっては,Aがどう考えようと何ら影響のない概念
こう考えてみると,以外にほんしつてきであったりして・
ということです。」
まさにその通りです
だからこの世に二つの世界が生まれるのです
有神派と無神派が
有神派の人は言います
彼らは未だあんな事を遣っているのかと
そして有神派の人々も言います
彼らは未だあんな事を言っているのかと
同じ様な事を言っていますが
そこには大きな隔たりが在るのです
何故なら有神派の人たちは初めから有神派だった訳では無いのです
彼らも初めは無神派だったのです
それがある事をきっかけに
有神派へと転向して行ったのです
勿論生まれたその時から
神の子であり知恵の子であり仏の子であると言う人たちもいます
しかし少なくとも私の身の回りではその様な人はいませんので
今回の議論の中では除外して置きます
さてこの違いがどんなに大きいか
もう分かりますよね
無神派の人たちは
生まれた時から今日の今日まで無神派ですが
有神派の人たちはかつては無神派であったが
今は有神派であると言う事です
この違いがどんなに大きいか
やはり
神と言う概念を実感した者しか分からないと思います
神が居ようと居まいと
その人の人生は変わりません
もしその人の寿命が80歳だとしたら
どちらも80歳まで生きそして死んで逝くのでしょう
無神派の人は豚の様にこの世を転げ回り這いずり回って生きて行くのでしょう
有神派の人たちは羽の生えた天使の様にこの世を飛び回って生きて行くのでしょう
しかしどちらも80歳まで生きそして死んで逝くと言う事には変わりは無いのです
しかしここからが大きな違いがあるのです
肉体の死から純粋な死までの間に
永遠と言う様な世界を体験するのです
それはこの世にとっては短い時間かも知れませんが
その者にとっては永遠と言う程に長い時間なのです
その間に
貴方は貴方の全ての総決算を迫られるのです
もし貴方が純粋な豚として生きそして死んだのだったら
貴方はそれ程苦も無く
純粋な死へと向かうでしょう
しかし人間には純粋な豚など一人も居ないのです
この世にとっては短い時間かも知れないが
その者にとっては永遠とも思われるその時間において
それから問われるのです
私は何度も貴方に呼びかけた
しかし貴方はその度毎に応えなかった
だからその罰がこれだ と言って
貴方はそこに閉じ込められてしまうのです
貴方はそこで永遠とも思われるその時間
暗闇の豚に悩まし続けられる事になるのです
永遠にディフォルメし続けるその暗闇の豚に
さてもう一方の人たちについては
貴方は私の事を良く聞いた
だからここで遊びなさいと
彼はこれまでも人生を楽しく過したが
彼はその七の七十倍ほども楽しく過し
そして永遠とも言える時間そこで楽しんで
光の中へと消えて行くのです
貴方の幸福の素はそれしかないのです
だからそれの呼びかけには敏感に反応しなけれいけないのです
そうすれば貴方の人生には楽しさが保障され
そしてその総決算の時も
貴方は楽しく過して行けるのです
死こそが貴方にとって総決算の時なのです
なぞと今日は変な方向に走ってしまった
これも言葉の為せる業
そのままにここに置いてに置く事としよう なぞと
実は私が言った事はこんな事では無く
有神派の人は無神派の人に比べてその世界が大きい
だから幸福に成る素地も大きいと言う様な事を言いたっかたのです
そろそろ字数制限にかかるので今日はここまでとします
今日もまた私のシリーズが送れなかった
貴方方に是非読ませたい老子の聖人テストなんですけど・・・
これは herculepoirotmt さんの 25210 に対する返信です
今日は今日の風が吹く 2004/ 3/17 0:45
panietzscheさんへ
私はここでは神とは言わずに
それと言い そこと言っています
私はその時々興に乗っていろんな使い分けをするので
あまり一律に見ないで欲しいと思います
私がここで言ったそれと言ったのは無意識の事であり
勿論そこと言ったのも無意識の事です
私たちは毎晩寝ます
そして夢を見ます
楽しい夢や恐ろしい夢を
その夢は意識から無意識への働きかけの賜物であり
意識の検閲が無くなった時
無意識として現れて来るものです
私たちは死の間際において
それが大々的に出て来ると言いたかったのです
私たちは今死を巡って論争しています
心臓の停止が死だとか
脳死が死だとか
しかしそれは法律上
または便宜上名付けられたものに過ぎません
本当は焼却されて全く灰になるまで
人は何らかの意識があるのかもしれません
それは誰も分からない事です
私はこうも思うのです
確かに意識は脳の血流や神経の伝達が無いと働かないかも知れませんが
無意識というものはそれらが無くなっても
やはり活動し続けているかも知れないと
通夜や葬式は
その人が生きている様に執り行われますよね
それもその一つの現われでは無いかと
いえこんな事はどうでも良いのです
私が言いたいのは
その死
それが何時であっても構わないのですが
その瞬間に人生最後の夢を見ると
その夢は決して覚める事が無い永遠の夢として
私たちは無意識から力を貰っています
それは panietzscheさんも否定しないと思います
そこに働きかければ働きかけるほど
私たちはその能力を発揮できます
芸術家や詩人を見ればその事が明らかです
彼らはその無意識を時には神と呼んで崇めます
彼らがそれを崇めれば崇めるほど
彼にはたくさんのインスピレーションが起こり
その芸術活動を駆り立てるのです
私たちがその無意識に働きかけないと
その人たちは暗愚です
古代の哲学者達は
その人たちは神を知らない者
すなわち無知なる者と呼びました
そして時にはそれが一番の罪だとも言いいましたよね
何故だと思いますか
それは最後のその夢の時
永遠の暗愚の夢
すなわち混沌としの暗愚
すなわち様々にディフォルメされた無意識の暗闇を見る事に成るからなのです
それには誰も堪えられない
だから無意識を神と讃え
その無意識と友達に成って置きなさいと勧めたのである
無意識は様々に変化します
この世の物は全て無意識から産物です
私たちはその無意識に働きかける事に依って
善人にも悪人にも成ります
善人とどんな者か
悪人とはどんな者かなどと言う議論はしない事にしましょう
すなわち心が清く
それを実行出来る人
そんな人をとり合えず善人として置きましょう
そんな事はいろんな表現がある訳ですから
心が清く成る方法
それは無意識へ何度も何度も働きかけて出来る事なのです
その為にも神と言う概念が必要なのです
私はここに居て
有神派無神派の人を見ていて
やはり無神派の人にはその念が足りないと思うのです
時には不敬と思われる人も居ます
貴方は無記と言う立場を取っているから
それはそれで良いのだと思いますが・・・
私が言いたいのは
不敬の言葉を吐くな
人を傷つける様な言葉を吐くなと言う事です
それらの言葉が積もり積もって
その最後の永遠の夢の時
一斉に襲って来ると言う事を言いたかったのです
一方その無意識の中で善き言葉を育み
善き行為に専念する者は
その無意識と友達の様に毎日付き合っているから
その時無意識が現れても懼れる事無く
旧知の友の様にして永遠と言う無に還って行く
その姿はまさに光に溶け込む様だと
これも全て比喩ですよ
私は一つの可能性を示唆しただけなのです
人生最後に覚めない永遠の夢を見る
ある者は天国の夢であり
ある者は地獄の夢を
それは我々この世に生きている者にとっては短い時間かも知れないが
その者にとっては永遠に覚めない夢の様に感じるかもと
私はその時々の興に任せて言葉を並べるだけですから
あまり真剣に反応しないで下さいね
明日は明日の風が吹く
私は風に乗せて言葉を並べるだけ
これは panietzsche さんの 25217 に対する返信です
老子の徒として 「老子」より その10 2004/ 3/17 22:27
さて私は未だ議論すべきではないのに
議論に入ってしまったようです
これも私のシリーズが送れなっかた為です
私は皆さんの為に聖人テストを用意しました
大体8000文字です
それをコピーして送ろうとしたのですが
送れませんでした
ここ三日ほど
それでついつい皆さんと議論に入ってしまった訳ですが
やはり私の当初の計画を遂行しようと思います
その計画はこんなものです
先ずは私が愛して止まない古代哲学者を経巡ると言う事
これは前座です
この古代哲学の旅が終わった後
私が心に秘めている計画を実行しようとするものです
やはりその計画については
この古代哲学の旅が終わってから発表する事にしましよう
この古代哲学の旅は
私が愛して止まない古代哲学者を訪ねて回る旅ですが
私はその哲学者として
次の11人をあげました
イエスに釈迦にエピクロスにエピクテトスにセネカにマルクスアウレリウスにソクラテスプラトンに孔子に老子にダビデにソロモンです
この内孔子までは終わり
今老子の途中だったのです
この聖人テストを送信できれば
後はダビデ ソロモンを残すだけだったのですが
ここで足踏み状態になってしまったのです
そこで私は決心したのです
ここを越えないと先には進めない
であればこの8000字を直接このシートに入力しようと
そうすればたぶん送れるだろうから
これ以降はその涙ぐましい努力の跡です
さて私は孔子の時君子テストを作成しましたが
今回は聖人テストを作成しました
孔子の時の理想の人間像は君子でしたが
老子のそれは聖人なのです
だから聖人テストと銘打ちました
この聖人テストにおいても
君子テストの時と同じ様に
まず聖人と言う言葉が出て来る一節を拾い上げました
それが次の23節です
私はこの23節を見て二つの事に気付いたのです
一つは「是以聖人」はと言う構造の文がとても多いいと言う事です
23節中何と21節です
「是以聖人」はと言う文章の構造は
○○は××である だから聖人は△△である
と言う構造に成る訳ですが
私はこれをヒントに今回の聖人テストを作ったのです
ですからこの構造については念頭に入れて置いて下さい
もう一つ気付いてのは
「不」と「無」の文字がやたらに多いと言う事です
因みに「不」については全部で36回
「無」についても全部で12回出て来ます
これも解答の際には参考になると思いますので念頭に入れて置いて下さい
さてこれからが聖人テストの問題です
次の1から23までの内1から21までは
○○は××である だから聖人は△△であると言う構造になっています
22と23は純粋に聖人とは△△であると言う構造になっています
解答方法はこうです
まず1から21までのそれぞれについて○○は××であると措定します
次に1から21までのそれぞれ措定した内容と22及び23を参考にして
聖人とは□□であると言う最終的な定義をするのです
かなり難しい問題ですがチャレンジして見て下さい
なお文章題には原文の他に読み下し文を付けていますので参考にして下さい
コメントは分かる人は参考にして下さい
そうでない人は読み下し文をじっくり読み込んだ上で解答して下さい
この読み下し文は講談社文庫の「老子」をほとんどそのまま引用していますので
安心してそのまま読んで下さい
なおこの問題に対する理想の解答方法は「老子」を読んでから解答する事なんですけどね
読み下し文だけであればものの三十分で読み切る事が出来るんですけどね・・・
それでは始めて下さい
文章題は次に続きます
なおこの「聖人テスト」は5分割位されるので続けて読んで下さい
次に続きます
老子の徒として 「老子」より その11 2004/ 3/18 0:04
これは「聖人テスト」です
NO25237からの続きですので
NO25237から続けて読んで下さい そうでないとさっぱり分からないと思いますので
1 是以「聖人 処無為之事 行不言之教 万物作焉而不辞 生而不有 為而不恃 功成不居 夫唯弗居 是以不去」
(聖人 無為の事に処し 不言の教えを行う 万物作して辞せず 生じて有せず 為して恃まず 功成りて居らず それただ居らず 是を以って去らず)
ここで大切なのは
無為の事に処し 不言の教えを行う事だけです
後は万物が自然に生まれいずるのです
どうしてその物について
それは私の者で有るなどと主張する事があるでしょう
それは全て皆さんの為に作ったものですから
私はそれを眺めて楽しむだけです
2 是以「聖人 後其身而身先 外其身而身存 非以無私邪 故能成其私」
(聖人 其の身を後にして身は先んず 其の身を外にして身は存す 無私を以ってにあらずや 故によく其の私を成す)
何度も言う様に
私は貴方方の為にしているのです
何故なら貴方方こそが私のワンダーランドの一員だから
私は私の世界の為にしているのですけど
世間の人から見ればそれが無私とも見えるのです
3 是以「聖人 為腹不為目 故去彼取此」
(聖人 腹を為して目を為さず 故に彼を去り此を取る)
不成目(目を為さず)
これを為すための一番良い方法を教えて上げましょう
それはテレビを見ないと言う事です
貴方方はテレビにより
抱えきれない程の欲望を背負い込んでいます
そして今日はこれ明日はあれと
この世をさ迷い歩いているのです
だからただ貴方の生活を腹を満たすだけにしなさい
そして後は全て道に委ねなさい
そうすればかのワンダーランドが貴方の物と成る
4 是以「聖人 抱一為天下式 不見自故明 不自是故彰 不自伐而故長 夫唯不争 故天下莫能与之争」
(聖人 一を抱きて天下の式と為る 自らを見ず故に明らかなり 自らを是とせず故に彰かなり 自ら伐らず故に長じる それただ
争わず 故に天下にこれと争うなし)
一を抱きて天下の式と為る
これについては説明要ら無いでしょう
何故ならその一からこの世界が生まれて来たのですから
全ては私が創造したもの
それなのに
どうしてそれを見せびらかせたり
誇ったりする必要が有りましょう
全ては私が創ったもの
貴方方お一人お一人も
だから私には争いが無い
5 是以「聖人 終日行 不離輜重 雖有栄観 燕処超然」
(聖人 終日行けども 輜重を離れず 栄観ありといえども 燕処して超然たり)
私はどんな時でも十字架を離す事はありません
徳と言う十字架を
これは道から与えられたもの
これ無しでは私には如何なる栄冠も無い
それに引き替えこの世の栄冠など
私には何の関わり合いも無い
6 是以「聖人 常善救人 故無棄人 常善救物 故無棄物」
(聖人 常に人を救う 故に棄人無し 常に物を救う 故に棄物無)
棄人棄物
これがこれほど激しく行われた時代があったでしょうか
リストラの嵐
利益の為に人がどんどん切られて行きます
一方飽食と過剰消費
その為に塵の山が処理し切れない程
全ては欲望の精
だから聖人は無欲を高く掲げるのです
7 是以「聖人 去甚 去奢 去泰」
(聖人 甚だしきを去り 奢を去り 泰を去る)
無欲が一番
それが出来ないのだったら中庸の道を行きなさい
8 是以「聖人 不行而知 不見而名 不為而成」
(聖人 行かずして知り 見ずして名付け 為さずして成す)
行かずして知り 見ずして名付け 為さずして成す
不思議ですね聖人と言う人は
聖人には何故この様な力があるのでしょうか
それは道と共にあるからです
「道」のシリーズで勉強しましたよね
道に依って衆甫の状を知る
道に依って優れた哲学者の状況とその根源を知る
聖人は道に依って全てがお見通しなのです
だから行かずして知り 見ずして名付け 為さずして成す事が出来るのです
これは「聖人テスト」シリーズです
5分割されていますので続けて読んで下さい
次に続きます
なおこの続きは明日以降と成りますのでご了承下さい
老子の徒として 「老子」より12 2004/ 3/22 23:09
さて私は皆さんに聖人テストを送り続けると約束しました
すなわち老子の聖人に関する色々な言葉を皆さんに紹介しようと
しかしそれは受け付けて貰えませんでした
たぶん一度拒絶した言葉はもう受け付けない様に成っているのでしょう
そう言う訳で老子の聖人に関する素敵な言葉の数々を送る事は諦めて
その代わり老子の聖人に関するそして道に関する最も象徴的な言葉「無為而無不為」について
私の所感を述べてこの老子の旅を終えようと思います
老子の旅は手間取ってしまいました
これも縁なのでしょう
さて「無為而無不為」
この通りの言葉は「老子」では三回出て来ます
最初に出てくるのは37章です
「道常無為而無不為」
(道の常なるは無為にして為さざるは無し)です
次に出て来るのは38章です
「上徳無為而無不為」
(上徳は無為にして為さざるは無し)です
そして最後に出てくるのが48章です
これについては少し引用が長くなります
「無為而無不為」だけではその意味が分からないでしょうから
それはこうです
「為学日益 為道日損 損之又損 以至於無為 無為而無不為」
(学を為せば日々に益〈ま〉し 道を為せば日々に損〈へ〉る これを損らしまた損らして 以って無為に至る 無為にして為さざる無し」と
これで「道」と「聖人」と「無為而無不為」が繋がりましたね
道は常に「無為而無不為」であり
聖人も「無為而無不為」であり
道を為せば「無為而無不為」に至ると
聖人とは道を為す者ですから
この三つの言葉については何の齟齬もありませんよね
さて「無為而無不為」とはどう言う意味なのでしょう
何も為さなくても為さないものは無いと言う意味なのでしょうか
決してそう言う意味ではありません
これはその言葉通りに受けなければなりません
無為すなわち有為で無ければ
為ざるは無しと言う事です
それでは無為とはどう言うことでしょう
無為を為し 無事を事とし 無味を味わい
無為の事に処し 不言の教えを行い
そして道を為す事なのでしょうか
そんな事を言っても何の事かさっぱり分かりませんよね
7章にヒントになる言葉があります
これを引用して見ましょう
「聖人 其の身を後にして其の身先んず 其の身を外して其の身存する 其れ無私を以って非ずや 故によく其の私を成す」
そうなのです
無私こそが無為に繋がる重要なヒントなのです
これに似た様な言葉として81章
「聖人積まず ことごとく人の為にするも己愈々有し ことごとく人に与えるも己愈々多し」
もう少し言葉を見て行きましょう
「候王 自らを孤 寡 不穀と謂う これ賎を以って本と為すに非ずや 非なるか」(39章)
「人の悪(にく)む所は孤 寡 不穀なるも 王侯これを以って称す」(42章)
「国の垢を受ける これを社稷の主と謂う 国の不祥を受ける これを天下の王と為す」(78条)
「民の上たらんと欲すれば必ず言を以ってこれに下り 民の先たらんと欲すれば必ず身を以ってこれに後る」(68章)
「貴方方の中で一番偉くなりたい者は皆に仕える者になりなさい 一番上になりたい者は皆の僕になりなさい」(イエスの言葉)
そうなのです
無私こそが無為の真骨頂なのです
イエスはこの世の王と成りましたよね
少なくとも西欧世界に於いては
何故彼が王となったのか
それは彼が一番下と成り
この世の垢をこの世の不祥を一手に引き受けたからではないでしょうか
すなわち自らを犠牲にして
この世の罪を一身に引き受けたからではないのでしょうか
無為無私こそが
あの黄金律の第二法則なのです
「隣人を自分のように愛しなさい」
しかしそれもこれも全て
私のワンダーランドの為なのです
これで老子の旅を終わります
聖人テスト(未投稿)
さて私は一昨日聖人テストを作り上げ送信しようとしてのですが
パソコンの不調かそれとも何か送信制限があるのか
うまく送れませんでした
そう言う訳で今日もう一回チャレンジしようと思います
一昨日は途切れ途切れでしたので何の事かさっぱり分からなかったと思います
一昨日送信した内容を振り返るとこうです
私は孔子の時の君子テストと同じ様に
今回もまた聖人テストを作成した
孔子が理想とした人間像は君子であったが
老子のそれは聖人であった
だから聖人テストと銘打った
私は聖人と言う言葉が出て来る文節を拾い出した
他にも未だあったが最終的には次の23節を掲げた
私はそれらを読んで二つの事に気付いた
一つは「是以聖人」は始まる文節がとても多い言う事であった
23節中21節がそうであった
「是以聖人」と言う文章の構造は
○○は××である だから聖人は△△であると言う構造であるが
私はこの構造を利用して今回のテストを作った
だからその事を念頭に入れて置いて欲しいと言う事
もう一つはやたらに「不」と「無」と言う字が多いと言う事
因みに「不」については次の通りであり
不言 不辞 不有 不恃 不去 不成目 不見自 不自是 不自伐 不自矜 不争 不離 不行 不見 不為 不割 不劌 不肆 不燿 不為大 不欲 不貴 不学 不敢為 不重 不害 不厭 不争 不病 不自見 不自貴 不恃 不処 不欲 不責 不積
「無」については次の通りであると
無為 無私 無棄 無難 無為 無敗 無執 無失 無為 無事 無欲 無常
これらも解答の際に参考に成るかもしれないので念頭に入れて欲しいと言う事
一昨日送信した内容は大まかに言えばこの様な内容だったのです
そしてここからが本来のテストの始まりだったのです
そう言う訳で次からが用意して置いたテストの問題です
さて聖人テストの問題です
1から23までの内1から21までは
○○は××である だから聖人は△△であると言う構造に成っています
22と23は純粋に聖人とは△△であると言う構造に成っています
解答方法はこうです
まず1から21までそれぞれについて○○は××であるを措定します
次に1から21までのその措定した内容と22及び23を参考にして
聖人とは□□であると言う最終的な定義をするのです
かなり難しい問題ですがチャレンジして見て下さい
なお文章題には原文の他に読み下し文を付けているので参考にして下さい
コメントについては分かる人は参考にして下さい
そうでない人は文献学者の様に
読み下し文(これは講談社文庫の「老子」の読み下し文とほぼそのまま引用していますので)を
じっくり読み込んだ上で解答してください
なお理想の解答方法は「老子」を読んでから解答する事なのですが・・・
読み下し文だけであれば始めての人でものの三十分で読み切る事が出来るのですが・・・
それでは始めて下さい
1 是以「聖人 処無為之事 行不言之教 万物作焉而不辞 生而不有 為而不恃 功成而弗居 夫唯弗居 是以不去」
(聖人 無為の事に処し 不言の教えを行い 万物作して辞せず 生じて有せず 為して恃まず 功成りて居らず それただ居らず 是を以って去らず)
ここで大切なのは
無為の事に処し 不言の教えを行うだけです
後は万物が自然に生まれいずるのです
どうしてその物について
それは私の物で有るなどと主張する事がありましょう
それは皆さんの為に作ったものですから
私はそれを眺めて楽しむだけです
2 是以「聖人 後其身而身先 外其身而身存 非以無私邪 故能成其私」
(聖人 其の身を後にして身は先んず 其の身を外にして身は存す 無私を以ってにあらずや 故によく其の私を為す)
何度も言う様に
私は貴方方の為にしているのです
何故なら貴方方こそが私のワンダーワールドの一員だから
私は私の世界の為にしているのですけど
世間の人から見ればそれが無私とも見えるのです
3 是以「聖人 為腹不成目 故去彼取此」
(聖人 腹を為して目を為さず 故に彼を去り此を取る)
不成目(目を成さず)
これを成す為の一番良い方法を教えましょう
それはテレビを見ないと言う事です
貴方方はテレビにより
抱え切れない程の欲望を背負い込んでいます
そして今日はこれ明日はあれと
この世をさ迷い歩いているのです
貴方の生活についてはただ腹を満たすだけにしなさい
後は全て道に委ねなさい
そうすればかのワンダーワールドが貴方の物となる
今回のシリーズは「聖人テスト」です
4分割されていますので続けて読んで下さい
次に続きます
これはNOからの続きです
4 是以「聖人 抱一為天下式 不見自故明 不自是故彰 不自伐故有功 不自矜故長 夫唯不争 故天下莫能与之争」
(聖人 一を抱きて 天下の式となる 自ら見ず故に明らかなり 自ら是とせず故に彰かなり 自ら伐らず故に功有り 自ら矜らず故に長じる それただ争わず 故に天下これと争うなし)
一を抱きて天下の式となる
これについてはもう説明は要りませんよね
何故なら一なる道からこの天下も生まれて来たのですから
その世界は私が創ったものです
どうしてそれを見せびらかしたり
誇ったりする必要がありましょう
全ては私が創ったもの
貴方方がお一人お一人も
例え貴方が善人と言われていようと悪人と言われていいようと
だから私の世界には争いは無い
5 是以「聖人 終日行 不離輜重 雖有栄観 燕処超然」
(聖人 終日行けども 輜重を離れず 栄観ありといえども 燕処して超然たり)
私はどんな時でも十字架を離す事はありません
徳と言う十字架を
これは道から与えられたもの
これなしで私にはどんな栄冠も無いのです
それに引き替えこの世の栄冠など
私には何の関わりも無い
6 是以「聖人 常善救人 故無棄人 常善救物 故無棄物」
(聖人 常に善く人を救う 故に棄人無し 常に善く物を救う 故に棄物無し)
棄人棄物
これがこれ程激しく行われた時代があったのでしょうか
リストラの大嵐
利益の為にどんどん切り捨てて行きます
一方飽食と過剰消費
この為に塵が処理し切れない程
全ては欲望の精
だから聖人は無欲を高く掲げるのです
7 是以「聖人 去甚 去奢 去泰」
(聖人 甚だしきを去り 奢を去り 泰を去る)
無欲が一番
それが出来ないのだったら中庸の道を行きなさい
8 是以「聖人 不行而知 不見而名 不為而成」
(聖人 行かずして知り 見ずして名づけ 為さずして成す)
行かずして知り 見ずして名づけ 為さずして成す
不思議ですね聖人と言う人は
聖人には何故この様な力があるのでしょうか
それは道と共にあるからです
「道」のシリーズで勉強しましたよね
道に依って衆甫の状を知る
道に依って優れた哲学者の状況とその根源を知ると
聖人は道に依って全てがお見通しなのです
だから行かずして知り 見ずして名づけ 為さずして成す事が出来るのです
9 是以「聖人 方而不割 廉而不劌 直而不肆 光而不燿」
(聖人 方なるも割かず 廉なるも劌なわず 直なるも肆ならず 光あるも耀かせず)
方廉直光
これは聖人であれば当然の事です
何故なら彼らは常に道と共にあるのですから
その聖人がどうして
割劌肆燿などしましょう
貴方方も早く道を学び
方廉直光の光を浴びなさい
10 是以「聖人 不為大 故能成其大」
(聖人 大を為さず 故によく其の大を為す)
千里の道も一歩から
これは全ての聖人賢人偉人哲人が述べている事です
全ての徳の第一歩なのです
近くを思いなさい その中に仁がある 孔子
隣人を愛しなさい イエス
そこから全ての徳が始まるのです
さて貴方に身近な事は何ですか
詩を書く事?
だったら善き言葉を並べなさい
それが貴方の第一歩だ
11 是以「聖人 猶難之 故終無難矣」
(聖人 猶これを難とす 故に終に難無し)
聖人は何を難とするのでしょう
対句で考えればすぐ分かりますよね
そうです易です
これは10の言葉とも呼応します
小さな事 易き事については
人々は往々にして軽んずるのです
その為大なる事も勿論出来ませんが
その為に難を被る事もまた多いのです
12 是以「聖人 無為故無敗 無執故無失」
(聖人 無為故に無敗 無執故に無失)
無為故に無敗 無執故に無失
これは当然の事ですよね
何も為して無いのだから敗れる事も無い
何も執って無いのだから失う物も無い
さて本当に聖人は何も為さず何も執っていないのでしょうか
いえ実は一つだけあるのです
為すとか執るとか言うと少し概念が違うかも知れませんが
聖人は常に道と共に在るのです
道と共に在る
これに依って無為にして為し 無執にして執るのです
これは道の神秘です
13 是以「聖人 欲不欲 不貴難得之貨 学不学 復衆人之所過 以輔万物之自然 而不敢為」
(聖人 不欲を欲し 得難きの貨を貴ばず 不学を学ぶ 衆人の過ぎたる所を復し 以って万物の自然を輔ける しかし敢ては為さず)
不欲を欲し 不学を学ぶ
含蓄のある言葉ですね
聖人を欲しているのです そして学んでいるのです
不欲を欲し 不学を学んでいるのです
これは貴方方への公案としましょうか・・・
いえ答えを出して置きましょう
そこいらの科学者もどきに
不学を学ぶとは貴方方に向けて発せられた言葉なのですよ
科学者もどきから哲学者へ転向しなさいと
科学は真の科学者に任せて
貴方方は哲学者と成りなさい
不欲を欲し 不学を学ぶ
これこそがまさに哲学者の道なのです
14 是以「聖人 処上而民不重 処前而民不害 是以天下楽推而不厭 以其不争 故天下莫能与之争」
(聖人 上に処るも重からず 前に処るも害とせず ここを以って天下楽しみ推して厭わず 以って其れ争わず 故に天下によくこれと争うなし)
聖人はどうして人の上にいても重く感じられず
前にいても人の気分を損なわないのでしょう
それは
「貴方方の中で一番偉くなりたい者は皆に仕える者になりなさい
一番上になりたい者は皆の僕になりなさい」
この言葉が体の髄まで染み込んでいるからです
「見よ私の選んだ僕 私の心に適った愛する者 この僕に私の霊を授ける・・・
彼は争わず 叫ばす その声を聞く者は大通りにはいない
正義を勝利に導くまで 彼は傷ついた葦を折らず くすぶる灯心を消さない」
15 是以「聖人 被褐懐玉」
(聖人 褐を被て玉を懐く)
孔子にも同じ様な言葉がありましたよね
粗食を喰らい 水を飲み 肱を曲げて枕とする その中に楽しみあり 君子だねなぞと
聖人はぼろは着てても心は錦なのです
そのワンダーランドを夢見
そしてそれを実現しようとする者たちが
聖人であり 君子であり 神の子であり 哲学者たちなのです
16 是以「聖人不病 以其病病 是以不病」
(聖人 病まず 其の病を以って病とす 是を以って病まず)
一番の病は何だと思いますか
それは無知です
道を知らず 仁を知らず 聖霊を知らず ダイモーンを知らず
知恵を知らない事です
何故聖人は病まないか知っていますか
それは無知の知を知っているからです
この言葉も全ての聖人賢人偉人哲人の言葉の中に出て来ますので
ここにお集まりの方は周知ですよね
17 是以「聖人 自知不自見 自愛不自貴 故去彼取此」
(聖人 自ら知りて自らを見せず 自らを愛して自らを貴ばず 故に彼を去てて此を取る)
自らを知り 自らを愛する
この言葉も含蓄のある言葉です
この言葉の本当の意味を知らずに
この言葉を振り翳すと
我利我利亡者に成る危険性があります
自らを知るとは自らの中に在る道を知ると言う事であり
自らを愛するとは自らの中に在る道を愛すると言う事なのです
これはイエスのあの黄金律の第一の掟と同じです
すなわち貴方の神である主を愛しなさいと 同じであると
もし貴方が心を尽くし思いを尽くし精神を尽くして道を愛して御覧なさい
貴方はこの世を捨ててあの世に憧れる様に成る筈です
18 是以「聖人 為而不恃 功成而不処 其不欲見賢」
(聖人 為して恃まず 功成りて処らず 其の賢を見せるを欲せず)
前節はイエスのあの黄金律の第一の法則でしたが
これは第二の法則です
すなわち隣人を自分の様に愛しなさい です
私たちは第一の掟に依って
ワンダーランドを創り上げました
後はその実現に向けて一歩一歩歩いて行くだけです
私は自分を愛するように隣人を愛しているのです
どうしてその隣人に恃む必要がありましょう
どうしてその隣人に賢いと思われる必要がありましょう
その隣人は私のワンダーランドの一員にしか過ぎないのです
しかし大切な一員です
19 是以「聖人云 受国之垢 是謂社稷主 受国不祥 是為天下王」
(聖人云う 国の垢を受ける これを社稷の主と謂う 国の不祥を受ける これを天下の王と為す)
「貴方方の中で一番偉くなりたい者は皆に仕える者になりなさい
一番上になりたい者は皆の僕になりなさい」
イエスはこの世の王と成りましたよね
少なくとも西欧世界おいては
何故彼がこの世の王と成ったか
それは
この世の垢を自ら引き受け
この世の不祥を自ら引き受けた事に依るのではないですか
この世の罪をその一身に引き受けたからではないのですか
20 是以「聖人 執左契 而不責於人」
(聖人 左契を執るも 人を責めず)
左契 掟は何よりも大事です
しかし掟に反したからと言って
聖人は責める事はしません
戒め諭しそして赦すのです
「私が求めるのは憐れみであっていけにえではない」
「七回どころか七の七十倍まで赦しなさい」
* 最初からここまでの聖人に関する言葉は
全て「是以聖人」(是を以って聖人は)で始まっています 参考までに
21 故「聖人云 我無為而民自化 我好静而民自正 我無事而民自富 我無欲而民自樸」
(聖人云う 我無為にして民自ら化す 我静を好みて民自ら正す 我無事にして民自ら富む 我無欲にして民自ら樸なり)
ここでは聖人の真骨頂を述べています
聖人は無為無事無欲そして静かを好む
それでありながら聖人の周りの人々は
自ずから正しく成り自ずから樸と成ると
私も聖人のお側に侍りたいものです
何故そうなるか分かりますか
道が以心伝心で貴方に伝わって行くからです
22 「聖人不積 既以為人 己愈有 既以与人 己愈多」
(聖人積まず 既(ことごと)く人の為に為すも 己愈々有し 既(ことごと)く人に与えるも 己愈々多くなる)
これは「老子」の最終章最終節です
これも聖人の真骨頂を述べています
ことごとく人の為にし ことごとく人に与えるも
聖人は更にまして与えられる
何故だか分かりますか
それは
全てを自分のワンダーランドの為に積んでいるからです
「富は天に積みなさい」
「貴方の富のあるところに貴方の心もある」
23 「聖人無常心 以百姓心為心 善者吾善之 不善者吾亦善之 徳善 信者吾信之 不信者吾亦信之 徳信 聖人在天下 歙歙為天下渾其心 百姓皆注其耳目 聖人皆孩之」〈49章全文〉
(聖人は常の心無く 百姓の心を以って心と為す 善なる者は吾これを善しとし 不善なる者もまたこれを善しとする 善の徳 信なる者は吾これを信とし 不信なる者もまたこれを信とする 信の徳 聖人の天下に在るや 歙歙として天下の為に其の心を渾とする 百姓皆其の耳目を注ぐも 聖人皆これを孩〈赤ちゃん〉とす)
これで聖人に関する言葉は終わりです
未だ幾らかありましたが端折りました
何故これを最後に持って来たかと言うと
章全文が聖人に関する記述だったからです
その他のものはこれまで見て来て分かったと思いますが
「是以聖人」(是を以って聖人は・・・)と言う形式をとっています
すなわち前文に薀蓄に在る言葉を置いといて
だから聖人はこれこれであると 述べて来た訳ですが
この章は最初から聖人はで始まります
そしてこの章の中に聖人と言う言葉が三つも入っているのです
老子の聖人像を一覧したいのであればこれを見ればよいと思います
さて聖人には常の心は無いのです
百姓 すなわち貴方方の心をその心としているのです
貴方方を得る為に貴方方に成るのです
善の人も不善の人も 信者も不信者も
彼にとっては皆可愛い孩〈赤ちゃん〉なのです
その赤ちゃんの為にいつもその心を歙歙と渾としているのです
その赤ちゃんが立派な哲学者に育つようにと
貴方方もたくさんの聖人の言葉を食べて
立派な哲学者と成って下さい
それが聖人哲人賢人偉人たちへの恩返しです
そしてこう感謝しなさい
私は前には本当に知恵に関しては赤ちゃんでしたが
貴方方のお陰でどうにか哲学者としての道に就く事が出来ましたと
あの頃の自分の科学者として姿が恥ずかしいと
さて出題に対する解答です
これは全ての聖人偉人賢人哲人に共通する定義です
勿論イエスも釈迦も老子も孔子もソクラテスプラトンもセネカもエピクロスもエピクテトスもマルクス・アウレリウスもそれからこれから出て来るダビデもソロモンも
答え「聖人は常に知恵を愛し知恵を行う」です
老子の場合は知恵を道に入れ替えて下さい
これで「聖人テスト」は終わりです
ダビデを師として 「詩編」より 2004/ 3/23 22:25
さて今日からダビデ「詩編」の始まりです
詩編には全部で150章の詩があります
1章が大体600字前後でしょうか
それが150章あるのですから
全部で大体9000字位でしょうか
「老子」の十倍以上です
「老子」の時の様に
ものの三十分で読む訳には行きませんが
半日もあれば読み切る事が出来るでしょう
私は昨晩老子を書き終えてから
詩編を最初から読み始めました
そして先程までに75章まで読み終えました
時間にすれば大体2時間弱と言った所でしょうか
「詩編」はそれ位のボリュームです
私がこれまで紹介した本と同じ様に
読む気に成れば直ぐに読み切る事が出来る本なのです
読む気がある人は読みなさい
さてダビデとはどんな人だったのでしょう
この詩編を読めば
それは明々白々です
ダビデは正に信仰の人です
彼ほどの信仰の人は見出せません
彼が居たからこそ
いえ彼の詩編があったからこそ
ユダヤ教はあれ程輝き
そしてキリスト教は
この世にあれ程光輝いたのです
「詩編」が無ければユダヤ教はつまらないものだし
そしてキリスト教は誕生していなかったでしょう
詩編こそがキリスト教の生みの親だったのです
さて貴方方は信仰が如何なるものか知っていますか
もし知らなければ詩編を読みなさい
これが信仰です
これから引いてもいけません
これに足してもいけません
これこそが正に信仰です
ザ・信仰なのです
信仰の対象は勿論神です
いえ神と言う概念です
貴方方がその概念を良く知る様に成る時
貴方方は信仰者と成らざるを得ないのです
神はアルファでありオメガである
そして貴方自身の神である
この事をよくよく理解した時
貴方方は信仰者と成らざるを得ないのです
貴方自身の神を通じて
アルファでありオメガである神を見る
その時貴方は信仰者と成らざるを得ないのです
それは無窮で永遠の旅
その神から
「お前は私の子
今日私はお前を生んだ
求めよ 私は国々をお前の嗣業とし
地の果てまでお前の領土とする」(2章)
そう言われた時
その神以外の誰に依り頼むと言うのでしょうか
ここに少し長いですが
詩編第1章の全文を載せて
有神論者無神論者の鏡としたいと思います
「いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを夜も昼も口ずさむ人
その人は流れのほとりに植えられた木
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない
その人のすることはすべて繁栄をもたらす
神に逆らう者はそうではない
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある人は神に従う人の集いに堪えない
神に従う人の道を主は知っていてくださる
神に逆らう者の道は滅びに至る」
ダビデを師として 「詩編」より その2 2004/ 3/24 23:07
さて私は今回詩編を読んで気付いた事があります
前にも気付いた事だったのですが
今回改めて気付き直しました
それは詩編の全部がダビデの詩ではないと言う事です
ソロモンの詩もあれば
神の人モーセの詩もあれば
貧しい人の詩もあれば
アサフとかコラの子といった人たちの詩もあれば
無銘の詩もあると言う事です
この内ダビデの詩と銘打った詩は六十数編あります
今回はこのダビデの詩だけを見て行きたいと思います
さて私たちはダビデの詩編に何を見るのでしょうか
私は前回のメッセで
ダビデこそが信仰の人 ザ・信仰だと言いました
であれば私たちはその詩(うた)に
信仰を読み取らなけらばいけないと言う事になります
さて信仰とは何でしょう
それは自らを神に捧げ
神から下される報酬を受け取る事です
ただそれだけの事です
しかし皆さんはそれが分からないと言う
だから今回はその辺りに注目して読み解して行きたいと思います
これまではある程度言葉を貯めて
それを再構成して皆さんにお伝えして来ましたが
今度は読むままに
その感興を皆さんと共有したいと思います
ダビデの詩と銘打つ詩は3章から始まります
「主よ
それでも貴方は私の盾私の栄え
私の頭を高くあげて下さる方
主に向かって声を上げれば
聖なる山から答えて下さいます」
神に帰依している人は良く分かりますが
そうでない人は何の事かさっぱりわかりません
聖なる山から答えて下さる
詩人たちはその報酬を首を長くして待っているのです
「横たわる時も自らの心と語り
そして沈黙に入れ」(4章)
この心根が無ければ神を知る事は出来ません
そしてその報酬は
「平和の内に身を横たえ私は眠ります
主よ 貴方だけが確かに私をここに住まわせてくれるのです」(同じく4章)
「私は深い慈しみを頂いて貴方の家に入り聖なる宮にひれ伏して貴方を畏れ敬います」(5章)
これが自らを捧げると言う事です
そしてその報酬は
「貴方を避け所とする者は皆喜び祝いとこしえに喜び歌います」(5章)
自ずから喜びの歌が沸き起こる
こうでなくちゃ本物の信仰では有りません
「死の国へ行けば誰も貴方の名を唱えず
陰府に入れば誰も貴方に感謝を捧げません」(6章)
信仰の報酬は現世です
天国の再現も現世です
しかし後者についてはイエスキリストを待つより仕方が無かったのです
さてダビデがどれだけ義(ただ)しい人だったか
「主よ 裁きを行って下さい
お前は正しい 咎める所はないと」(7章)
神とは「心とはらわたを調べる方」(7章)
その方にこれだけの事を要求するのだから
ダビデが如何に義(ただ)しい人か分かると言うものです
だからこそダビデの全ての詩(うた)が生きてくるのです
さて私の好きな一遍です
「貴方の天を貴方の指の業を私は仰ぎます
月も星も貴方が配置なさったもの
その貴方が御心に留めて下さるとは
人間は何ものなのでしょう
人の子は何ものなのでしょう
貴方が顧みて下さるとは
神に僅かに劣るものとして人を造り
なお栄光と威光を冠としていただかせ
御手によって造られたもの全てを治めるようにその足元に置かれました
羊も牛も野の獣も空の鳥海の魚海路を渡るものも」(8章)
神に僅かに劣るものとして造られた
ここが大切なのですよ
これに依って人の子は神の子とも成ったのです
しかしそれもイエスキリストを待つより仕方が無かったのです
明日以降に続きます
ダビデを師として 「詩編」より その3 2004/ 3/26 23:54
さて今日もダビデの詩編の続きです
一昨日は8章まででしたから
今日は9章からです
さて私たちはダビデの詩編に何を見るのだったでしょうか
そうですね
信仰だったですね
ダビデこそがまさに信仰の人 ザ・信仰だった訳ですからね
そして信仰とは
自らを神に捧げ そして神から下される報酬を受け取る事
ただそれだけの事
しかし皆さんはその事が分らないから
ダビデの詩編に沿ってその事を見て行こうと
そう言う事だったですよね
そう言う訳で
今回のシリーズはその線に沿って行きたいと思います
さて9章です
「乏しい人は永遠に忘れられることはなく
貧しい人の希望は決して失われない」(9章)
これが神のスタンスです
「心の貧しい人々は幸いである
天の国はその人たちのものである」
「義に餓え渇く人々は幸いである
その人たちは満たされる」
貧しいからこそ満たされるのです
しかし驕る者は違います
「人間が思い上がるのを許さない」(9章)のです
「主よ
貴方は貧しい人に耳を傾け その願いを聞き 彼らの心を確かにし
みなしごと虐げられている人のために裁きをして下さいます」(10章)
これも9章と同じスタンスです
神は心貧しき人の為にこそいるのです
貴方方傲慢な人には神は縁が無いのです
「主は聖なる宮にいます
主は天に御座を置かれる
御目は人の子らを見渡し
その瞼は人の子らを調べる」(11章)
神は貴方方の髪の毛一本一本を調べ上げているのです
その神にどう申し開きするつもりか
だから聖人君子は一人を慎むのです
「主に逆らう者は勝手に振舞います
人の子らの中に 卑しむべき事が持て囃されるこの時」(12章)
私は思います
今がその時だと
不真面目な者が持て囃され
真面目な者は貶められます
それはこの掲示板だけを見ても明らかです
「貴方の慈しみに依り頼みます
私の心は御救いに喜び踊り
主に向かって歌います
主は私に報いて下さったと」(13章)
これこそが報い報酬です
その報いを正しく評価出来るのは詩人だけです
だから私は貴方方に言うのです
論理に論理を繋ぐな
飛躍の中に神を見ろと
もしダビデが詩人で無ければ
彼は一体何者だっただろう
それは一介の王に過ぎない
彼はその時代と共に朽ちていただろう
彼が3000年の歳月を経てもな私たちの眼前に輝くのは
彼が詩人だったからです
彼はその報酬を最も的確に表現した者だったのです
これも私の好きな一節です
「主は天から人の子らを見渡し探される
目覚めた人神を求める人はいないかと
誰も彼も背き去った
皆ともに汚れている
善を行う者はいない 一人もいない」(14章)
善を行う者はいない 一人もいない
本当に一人もいないのでしょうか
私には分からない
それでも私は
目覚めた人神を求める人を探して
この様にここを歩き回っているのです
「主よ どの様な人が貴方の幕屋に宿り
聖なる山に住む事が出来るのでしょう
それは完全な道を歩き正しい事を行う人
心には真実の言葉があり舌には中傷を持たない人
共に災いを齎さず親しい人を嘲らない人
主を畏れる人を尊び悪事をしないと誓いを守る人
金を貸しても利息を取らず賄賂を受けても無実の人を陥れたりしない人」(15章)
これこそが善を行う者です
この様な者は本当に一人もいないでしょう
でも私のその似姿を求めて
今日もまたここを歩き回っているのです
誰か善き人は居らぬのか
「主に申します
貴方は私の主
貴方の他に私の幸いはありません」(16章)
「主は私に与えられた分 私の杯
主は私の運命を支える方」(16章)
「私は主を讃えます
主は私の思いを励まし
私の心を夜毎諭して下さいます
私は絶えず主と相対しています
主は右にいまし
私は揺らぐ事はありません
私の心は喜び魂は踊ります
体は安心して憩います」(16章)
「貴方の慈しみに生きる者には墓穴を見せず
命の道を教えて下さいます
私は御顔を仰いで満ち足り喜び祝い
右の御手から永遠の喜びを頂ます」(16章)
この16章の言葉の断片を理解出来る人は
私の友達です
是非友達に成りたい
私の受けている報酬はこの内の二つ三つです
もし
絶えず主と相対し
ダビデを師として 「詩編」より その4 2004/ 3/27 11:27
さて前回も途中で切れてしまったようですね
しかしこの続きは継がない事にしましょう
今日は今日の風が吹く ですからね
さて昨日は16章まででしたから
今日は17章からですね
さて皆さん今回はどう言う旅だったのでしょうか
そうですね
信仰の旅ですね
信仰の人ダビデ
そのダビデの詩編に依って信仰を見て行く旅でしたね
「貴方は私の心を調べ夜なお尋ね火をもって私を試されますが
汚れた思いは何一つ御覧にならないでしょう
私の口は人の習いに従う事無く貴方の唇の言葉を守ります
暴力の道を避けて貴方の道を辿り一歩一歩揺らぐ事無く進みます」(17章)
どうです
これこそが信仰の人です
これほど神に帰依した人がいるでしょうか
これほどの信仰告白を言える者がいるでしょうか
汚れた思いは何一つ御覧にならないでしょうと
貴方方の心を見て御覧なさい
何か清い事が一つでもありますか
まさかこう言うのではないでしょうね
私の心は全て汚れたものばかりだと
私は貴方にはっきり言います
天国はまさに貴方の為にあるのです
「心の貧しい人々は幸いである
天の国はその人たちのものである」
「貴方は慈しみに生きる人に貴方は慈しみを示し
無垢な人には無垢に
清い人には清く振舞い
心の曲がった者には背を向けられる
貴方は貧しい民を救い上げ
高く見る目を引き下ろされる」(18章)
もう一度山上の垂訓を思い出して下さい
心の貧しい人々に
悲しむ人々に
柔和な人々に
義に餓え渇く人々に
憐れみ深い人々に
心の清い人々に
平和を実現する人々に
義の為に迫害される人々に
神の子イエスはどんな約束をしましたか
その原型はここにあるのです
「天は神の栄光を物語り大空は御手の業を示す
昼は昼に語り伝え夜は夜に知識を送る
話す事も語る事も無くその声は聞えなくても
その響きは全地にその言葉は世界の果てに向かう」(19章)
これがアルファでありオメガである神の事です
「主の律法は完全で魂を生き返らせ
主の定めは真実で無知な人に知恵を与える
主の命令は真直ぐで心に喜びを与え
主の戒めは清らかで目に光を与える
主への畏れは清くいつまでも続き
主の裁きはまことで悉く正しい」(19章)
これが貴方方の神である主の事です
分かる人は分かりなさい
そうでない人は闇の中で蠢いて居なさい
「今私は知った
主は油注がれた方に勝利を授け
聖なる天から彼に答えて
右の御手による救いの力を示される事を」(20章)
これがイエスキリストの事です
「貴方方の目は見ているから幸いだ
貴方方の耳は聞いているから幸いだ
はっきり言って置く 多くの預言者や正しい人たちは
貴方方が見ているものを見たかったが見る事ができず
貴方方が聞いているものを聞きたかったが聞けなかったのである」
この力がこの世に現れる為にはイエスキリストを待たなければならなかったのです
そしてクリスチャンたる貴方方はその末裔です
だから貴方方はその光をこの世に輝かせなければならないのです
「貴方方は世の光である 山の上にある町は隠れる事が出来ない」
「御力を示される主を崇めよ
力ある業を讃えて
我らは賛美の歌を謳う」(21章)
詩人こそがその御業をよく讃えるのです
勿論この詩編もそうですが
この次取り上げる箴言も詩人の手に依るものだし
新約聖書の全ても詩人の手になるものです
詩人以外の者が幾ら神の事を書いても
それは論文以下以外のものでしかないのです
「私は虫けら とても人とは思えない
人間の屑 民の恥
私を見る人は私を嘲笑い 唇を突き出して頭を振る」(22章)
たとえこの様な状況に陥ろうと
神に帰依する者 信仰者は
最後にはこう言うのです
「私の魂は必ず命を得る」(22章)と
ダビデの信仰者としての真骨頂は
何時如何なる時
たとえ苦境の中に在ろうとも
神から離れる事が無かった事なのです
それ故信仰第一の者として
常に崇められているのです
ダビデも人間ですから罪を犯す事はありました
でも直ぐに神に戻りその罪を告白し
そしてまた神からの報酬を受け取る様に成ったのです
それ故我々信仰者の目標とも成っているのです
次に続きます
ダビデを師として 「詩編」より その5 2004/ 3/27 12:18
さて信仰の旅を続けましょう
信仰の旅とは
ダビデの詩編により
信仰そのものを見て行こうとする旅です
信仰とは自らを神に捧げ
そして神から下される報酬を受け取る事です
私はこの内の後者に力を入れてこの旅を続けています
何故ならそんな素晴らしい報酬が得られるのなら
神へ帰依し
信仰者への道へ進もうとする者も現れるかも知れないと思ったからです
さて前回は22章まででしたから
今日は23章からです
「主は羊飼い 私には何も欠ける事が無い
主は私を青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくれる」(23章)
どうです
こんな素晴らしい報酬があるのです
神に帰依しませんか
そして信仰者への道を歩み始めませんか
神へ帰依する事
とても簡単な事です
貴方自身の中へ入って行く事です
そこには貴方の神である主が居ますから
後はその主に問いなさい
その主が貴方を導いて呉れる筈ですから
ただその中で大事な事は
アルファでありオメガである神を常に思い描く事です
「地とそこに満ちるもの
世界とそこに住む者は主のもの
主は大海の上に地の基を置き
潮の流れの上に世界を築かれた」(24章)
これがアルファでありオメガである神の事です
常にこの地球を世界を宇宙を想いなさい
そしてその主宰者たる神を
そうすれば貴方の神である主が生きて来ます
アルファでありオメガである神を想い
貴方の神である主を思う事
これが信仰の基本ですが
もう一つ大事な事があります
それは道の実行です
すなわち神の子として人の子を生きる事です
それが次の節です
「どの様な人が主の山に上り聖所に立つ事が出来るのか
それは潔白な手と清い心を持つ人
空しいものに魂を奪われる事無く欺くものによって誓う事をしない人」〈24章〉
その様な人に成って始めて
「主はその様な人を祝福し救いの神は恵みをお与えになるのです」
ちょっと厳しいですかね
まっ 余り難しく考えずに
アルファでありオメガである神を想い
私たちの神である主を思う事にしましょう
そうすれば道の実行もすこしずつ伴って来るでしょうから
道の実行これはとても難しい事です
それよりも先ずは神の概念を知りなさい
それは必ず貴方に幸せを齎します
今日はここまでにします
次は次の機会に
ダビデを師として 「詩編」より その6 2004/ 3/28 11:13
さて今日も信仰の旅が続きます
信仰の旅とは何でしょう
そうですね
ダビデの詩編に依って信仰の真髄を見て行く事でしたね
昨日は24章まででしたから
今日は25章からです
「主よ 貴方の道を私に示し
貴方に従う道を教えて下さい
貴方のまことに私を導いて下さい
貴方は私を救って下さる神
絶える事無く貴方に望みを置いています」(25章)
これが神を信じ神を仰ぐと言う信仰の基本です
さて神の道とは一体どんな道なのでしょう
そしてそれに従う方法とは
全てそれは神が教えて呉れるのです
貴方の神である主が
だから貴方は絶えず神に祈り求めなければならないのです
それが信仰です
「主よ 貴方の裁きを望みます
私は完全な道を歩いて来ました
主に信頼してよろめいた事はありません
主よ 私を調べ試み
はらわたと心を火をもって試して見てください」(26章)
これほど完全な信仰告白を言える者がいるでしょうか
もしこの字面通りであれば誰もいません
勿論ダビデも
信仰には赦すと言う行為があるのです
罪を告白し神から赦されたら
それは罪には数え上げられないのです
ダビデも上記の信仰告白もその罪を除いた上での告白です
だから皆さんにも告げます
私は罪多き人間だから
とても神など信仰出来ません と言う事が無い様に
イエスも言っているではないですか
七の七十倍許すと
「主は私の光 私の救い
私は誰を恐れよう
主は私の命の砦
私は誰の前に慄く事があろう」(27章)
「私は信じます
命あるものの地で主の恵みを見る事を」(27章)
私たちはともすれば
信仰を死後の天国に行く為の方法と考えていますが
そうではないのです
信仰とは
命あるものの地で主の恵みを見る事に
その願いがあるのです
だから皆さんも怖れず信仰の道に入って下さい
信仰とは
貴方の神である主に
貴方を投げ出し その救いを求める事です
「主は私の力 私の盾
私の心は主に依り頼みます
主の助けを得て私の心は喜び踊ります
歌を捧げて感謝いたします」(28章)
そう私が何度も言う様に
神への感謝を捧げる為には詩人に成らなくてはいけないのです
論理に論理を継ぐ事を止めなさい
今すぐに貴方の心の内を謳いなさい
そうすれば神とは如何なる概念か貴方にも分かると思います
「神の子らよ 主に帰せよ
栄光と力を主に帰せよ」(29章)
「どうか主が民に力をお与えになる様に
主が民を祝福して平和をお与えになる様に」(29章)
これがダビデの王の王たる所以です
普通の信仰者は自らの願いだけで精一杯です
しかしダビデの信仰は
国の民の願いも受け入れるのです
もう一度イエスのあの黄金律を思い出して下さい
第一法則が貴方の神である主を愛しなさいでしたよね
そして第二法則が
隣人を自分の様に愛しなさい
イエスのそれは全世界に及びましたが
ダビデのそれは国だけに限りました
それでも十分に大きな愛です
その愛があったからこそあの普遍愛が生まれたのです
「主よ 私は貴方を呼びます
主に憐れみを乞います
私が死んで墓に下る事に何の益がありましょう
塵が貴方に感謝を捧げ貴方のまことをを知らせるでしょうか」(30章)
「貴方は私の嘆きを踊りに変え
粗布を脱がせ喜びを帯として下さいました
私の魂が貴方をほめ歌い
沈黙する事が無い様にして下さいました」(30章)
もうこれで三度言う事になりますが
信仰の報酬は現世です
だから直ぐに信仰の道に入りなさい
早く入ればそれだけ長く
信仰が強ければそれだけ強く
信仰の報酬を受ける事になるのです
信仰の報酬ですか
それは喜びです
そして祝い踊るのです
分かるかな?
「慈しみを抱いて私は喜びます
貴方は私の苦しみを御覧になり
私の魂の悩みを知って下さいました」(31章)
貴方方の友で貴方の魂の悩みのその真髄を誰が知って呉れるでしょう
それは貴方の神である主 彼以外に誰が居ると言うのでしょう
「主の慈しみに生きる人は全て主を愛せよ
主は信仰ある人を守る」(31章)
主に依り頼めば主はきっと守って下さる
人事を尽くして天命を待て そして後は
「雄雄しくあれ 心を強くせよ」(31章)となるのです
ダビデを師として 「詩編」より その7 2004/ 3/28 12:10
さて信仰の旅は続きます
信仰の旅とは一体どんな旅でしょう
そうですね
ダビデの詩編に依って信仰の真髄を見て行く旅ですね
前回は31章まででしたから
今回は32章からです
これは私の好きな詩〈うた〉です
「いかに幸いな事でしょう
背きを赦され罪を覆っていただいた者は
いかに幸いな事でしょう
主に咎を数えられず心に欺きの無い人は」(32章)
「私は罪を貴方に示し
咎を隠しませんでした
私は言いました
主に私の背きを告白しよう と
その時貴方は私の罪と過ちを赦して下さいました」(32章)
これは前回にも言った事ですよね
貴方の事は貴方の神である主は全て知っているのです
その主に隠し事をしてどうなるのでしょう
貴方は貴方自身を生きて行けないのではないですか
貴方の罪と過ちを貴方の神である主に告白しなさい
そして貴方自身の気が晴れたら
その時は貴方の神である主に供物を捧げなさい
一番喜ぶのは歌と踊りです
貴方の神である主は 元々快楽をその旨としているので・・・
「主に従う人よ 主によって喜び歌え
主を賛美する事は正しい人に相応しい
琴を奏でて主に感謝を捧げ
十弦の琴でほめ歌を謳え
新しい歌を主に向かって謳い
美しい調べと共に喜びの叫びを上げよ」(33章)
もうこの事は何度も何度も言っていますよね
詩人に成れと
謳い人と成れと
詩〈うた〉う事とは韻律を整える事ではない
貴方の心のままに
貴方の心の喜びを謳う事だ
もし喜びがあれば誰にでも出来る事
もし貴方の心に喜びが無いのであれば
たぶん信仰に入っていない人はそうでしょう
だから私は言うのです
早く信仰の道に入りなさい
そこには歌えや踊れやの世界が待っていると
「子らよ 私に聞き従え
主を畏れる事を教えよう
喜びをもって生き
長生きをして幸いを見ようと望む者は
舌から悪を 唇から偽りの言葉を遠ざけ
悪を避け 善を行い 平和を尋ね求め追い求めよ」(34章)
主を畏れる事が何か難しい事の様に考えている人がいるかも知れませんが
簡単な事です
悪を避け 善を行い 平和を求め続ける事です
それともう一つ悪口は吐かない事
ここに居る方で悪口を撒き散らしている人が居ますので
その様な人は注意して下さい
皆さんは悪を避け善を行おうとしている人ばかりだと思います
後はそれを意識下に上げる事です
これは善か悪かと
これが主を畏れると言う事なのです
そして皆さんの周りが平和であれと願う事だけなのです
これが主を畏れると言う事なのです
なお偽りの言葉を唇から避ける
これについてはここに集う人は皆真理を求めている人ばかりですから
問題外として置きましょう
今日はここまでにして置きましょう
ダビデを師として 「詩編」より その9 2004/ 3/28 23:33
さても少し時間がありますので
もう少し信仰の旅を続けましょう
前回は39章まででしたから
今回は40章からです
「私の神 主よ
貴方は不思議な業を成し遂げられます
貴方に並ぶものはありません
私たちに対する数知れない計らいを私は語り伝えます
貴方は生け贄も穀物の供え物も望ます
焼き尽くす供え物も罪の代償の供え物も求めず
ただ私の耳を開いて下さいました」(40章)
そうです
耳を開いて下さる
これが信仰者への報酬です
神は貴方方の耳を開き
そこに知恵の息吹を吹き込んで呉れるのです
それによって知恵者とも成るのです
信仰者で無ければ知恵者とは成れないのです
これは真実です
何故なら知恵者とは
神の言葉を語る者の謂いですから
「いかに幸いな事でしょう
弱い者に思いやりのある人は
災いの降りかかる時
主はその人を逃れさせて呉れます」(41章)
「憐れみ深い人たちは幸いである
その人たちは憐れみを受ける」(山上の垂訓)
私は今回詩編を読んで改めて気付きました
新約聖書が如何に詩編に基づいているかを
もし新約聖書を勉強する積りなら
詩編も抱き合わせで勉強する必要があると思います
それから私が次に予定しているソロモンの箴言も
もっとも箴言はキリスト教よりも
ギリシア哲学に近いものがあります
その事はその時に触れたいと思います
さて3章から41章までは
ダビデの詩と銘打ってありますが
42章から50章までは
コラの子の詩とかアサフの詩とか銘打ってあるので飛ばします
次は51章です
「貴方は秘儀では無くまことを望み
秘術を排して知恵を悟らせて下さいます
ヒソプの枝で私の罪を払って下さい
私が清く成る様に私を洗って下さい
雪よりも白く成る様に」(51章)
「神よ私の内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けて下さい
御前から私を退けず
貴方の聖なる霊を取り上げないで下さい
御救いの喜びを再び私に味あわせ
自由の霊によって支えて下さい」(51章)
「もしいけにえが貴方に喜ばれ
焼き尽くす捧げ物が御旨に適うのなら
私はそれを捧げます
しかし神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊
打ち砕かれ悔いる心を
神よ貴方は侮られません」(51章)
これも罪に苛まされている時の詩です
素敵な表現が一杯ありますよね
先ずは神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊
これは新約聖書にも出て来るから知っている人は知っていますよね
それから秘術を排して知恵を悟らせて呉れるとか
ヒソプの枝で私の罪を払って下さいとか
私の内に清い心を創造し新しく確かな霊を授けて下さいとか
自由の霊によって私を支えてくださいとか・・・
本当にダビデは自由闊達に言葉を生み出して行っていますよね
これも神を喜ばせる為
そしてその出典は神
ダビデは神と共に生きた人 信仰第一の者
「御名に望みをおきます
貴方の慈しみ生きる人に対して恵み深い
貴方の御名に」(52章)
御名は何と言うのでしょう
神でしょうか
主でしょうか
それとも別な呼び名でしょうか
名はどうでもいいのです
所変われば名も変わる
例えて挙げましょう
「貴方の神である主」
これが多くの人を神に導きやすい
その他として
「聖霊」「ダイモーン」「道」「仁」「アートマン」
それから「知恵ソフィア」
アテネでもミネルバでもいい
次のシリーズ箴言では
その辺りを総括したいと思っています
「神を知らぬ者は言う
神などいないと
人々は腐敗している
忌むべき行いをする
善を行う者はいない」(53章)
神を知らない者は神を知らないのだから
神はいないとしか言うより仕方がありませんよね
その帰結は不敬 これも当然の事
当然の事を当然の様に言っても
無神論者は噛み付いて来る
それもまた当然の帰結
今日はここまでにしたいと思います
ダビデを師として 「詩編」より その10 2004/ 3/29 23:25
さて今日も信仰の旅が続きます
ところで信仰の旅とは一体どんな旅でしょう
そうですね
ダビデの詩編に依って信仰の真髄を見て行く旅の事ですね
さて昨日は53章まででしたから
今日は54章からです
「神よ 御名によって私を救い
力強い御業によって私を裁いて下さい」(54章)
さて御名とは何でしょうそして御業とは
御名に依って救い
御業に依って裁くのです
貴方の名を唱える事により救いがあり
その結果の業が貴方を裁くのです
貴方が御名を唱えれば唱えるほど
貴方は素敵な業にまみえるのです
南無妙法蓮華経でも南無阿弥陀仏でも
神よ私の主よでも言いのです
純粋に無垢にそれに依り頼む時
貴方に救いが訪れるのです
後は果報を待ちなさい
きっと素敵な業が訪れますから
それが宗教の神秘です
「私は悩みの中にあってうろたえています
私は不安です
敵が声をあげ神に逆らう者が迫ります
彼らは私に災いを降りかからせようとして憤って襲いかかります
胸の中で心は悶え私は死の恐怖に襲われています
恐れとわななきが湧き起こり戦慄が私を覆い
私は言います
鳩の翼が私にあれば飛び去って宿を求め
はるかに遠く離れて荒れ野で夜を過す事が出来るのに
烈しい風と嵐を避け急いで身を隠す事が出来るのに」(55章)
私たちは詩によって実物大のダビデを見る事が出来るのです
これが詩の詩たる所以です
もし歴史書だけだったら
ダビデは唯の英雄だけとしか記述されません
私たちはダビデの自らの言葉に依ってダビデを本当に知る事が出来るのです
それ故私たちはダビデを真の信仰者として崇め真似ようと努めるのです
「貴方の重荷を主に委ねよ
主は貴方を支えて下さる
主は従う者を支え
とこしえに動揺しない様に計って下さる」(55章)
たとえ取り乱しそうになっても直ぐに主へと帰る
これが信仰者ダビデとして真骨頂です
「神の御言葉を賛美します
神に依り頼めば恐れはありません
肉に過ぎない者が私に何をなし得ましょう」(56章)
私は思います
ダビデもまた迫害の一生だったのだなと
だからあれ程イエスと酷似しているのだなと
ダビデは国の民の為に
そしてイエスは全人類の為に
自らを神に捧げた人生だったのだなと
だからこそあれほど迫害を受けたのです
ソクラテスにもそう言う一面がありましたよね
そして孔子にも・・・
「私は心を確かにします
神よ私は心を確かにして
貴方に賛美の歌をうたいます
目覚めよ私の誉れよ
目覚めよ竪琴よ琴よ
私は曙を呼び覚まそう」(57章)
これも迫害の時の詩です
「火を吐く人の子らの中に伏し」(57章)て居る時の詩です
そんな時でも竪琴を取り讃美歌を歌おうとするのです
目覚めよ私の誉れよ とは
目覚めよ私の詩心よ と言う意味です
この事はもう何度も言っていますよね
詩人たれと
詩人で無くしてどの様にして神を賛美しようというのか
神に関する論文を神殿に奉納するつもりか 論理学者たちよ
「神に逆らう者は母の胎にある時から汚らわしく
欺いて語る者は母の腹にある時から迷いに陥っている」(58章)
こんな言葉を突きつけられるとみんなたじろいでしまいますよね
無神論者は努めてこんな言葉は見ない様にしますよね
神を信じる者も一瞬たじろいで自らを振り返って見るものですよね
私は神に逆らってはいないか 欺いて語る事はないかと
しかしどちらの皆さんも心配するには及びません
どちらの方にも素敵なと特効薬が用意されているのです
「蝮らの子よ
差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか
悔い改めにふさわしい未を結べ」
そして
「聖霊と火で貴方たちに洗礼をお授けになる」
その時を待ちましょう
そうすれば貴方は生まれ変わる事が出来る
無垢なる者として
それから信仰への道を歩み始めましょう
無垢なる者として
ダビデを師として 「詩編」より その11 2004/ 3/29 23:28
さて今日は未だ時間がありますので
もう少し信仰の旅を続けましょう
前回は58章まででしたから
今回は59章からです
「口をもって犯す過ち 唇の言葉 傲慢な罠に
自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に
彼らが捕らえられます様に」(59章)
口は災いの元
だから人を揶揄非難中傷する事は止めましょう
私はここに居てそう言う傾向のある人を見受けます
そう言う人たちにはそっと勧告します
名指しをして議論する時は
相手の目を見てからお話しましようと
いきなり批判の矢を飛ばすのは
夜陰に紛れて放つ矢と同じ事です
いきなり矢を放たれた者は檄してこう祈るかもしれませんよ
「御怒りによって彼らを絶やし
絶やして一人も残さない様にして下さい」(59章)と
祈りの力は思った以上に強いものです
「包囲された町に誰が私を導いて呉れるのか
エドムに誰が私を先導して呉れるのか」(60章)
私は一人でその町に入ろうとしているのか
いいえ神々の友達とです
その為に今私はここをこうしてさ迷っているのです
誰か私の友は居ないかと
「神よ 私の叫びを聞き私の祈りに耳を傾けて下さい
心が挫ける時地の果てから貴方を呼びます
高く聳える岩山の上に私を導いて下さい
貴方は常に私の避け所 敵に対する力強い塔と成って下さいます
貴方の幕屋に私はとこしえに宿り
貴方の翼を避け所として隠れます」(61章)
貴方の神である主は
岩山であり塔であり幕屋であり翼
こんなに素敵な主〈あるじ〉主〈しゅ〉は居ないのではないですか
高い岩山から人を見下ろし
高い塔から人を見る
そして幕屋に宿り翼を床とする
こんな優雅な人生は無いのではないですか
これは現代の軟弱なダビデです
ソロモンにそんな風がありました
その事は箴言で述べます
ダビデは愛の戦いにその一生を捧げたのです
だからイエスへと通じて行くのです
「私の魂は沈黙してただ神に向かう
神に私の救いはある
神こそ私の岩私の救い私の砦
私は決して動揺しない」(62章)
信仰の象徴は「岩」「救い」「砦」
これに依って何事にも動じない不動の人間が出来上がるのである
何を信仰するか
守銭奴を見て見なさい
その金銭信仰を
彼は金の為なら不動の人間だ
守銭奴にとって金は岩であり救いであり砦
「一つの事を神は語り 二つの事を私は聞いた
力は神のものであり 慈しみは私の主よ貴方のものであると」(62章)
ここに神の神秘があります
力は神のものであり
慈しみは私の主よ貴方のものである
この神の二つの概念
この二つの概念をしっかり押さえれば
貴方はもう不動の信仰者だ
信仰に限れば
もう迷う事は無い筈だ
神の無益な論争は止めよ
ただ貴方の神である主を愛しなさい
そして力の概念である神を想いなさい
「神よ 貴方は私の神
私は貴方を探し求め私の魂は貴方を渇き求めます
貴方を待って私の体は乾ききった大地の様に衰え
水の無い地の様に渇き果てています
今私は聖所で貴方を仰ぎ望み貴方の力と栄えを見ています
貴方の慈しみは命にもまさる恵み私の唇は貴方を誉め讃えます
命ある限り貴方を讃え手を高く上げ御名に依って祈ります
私の魂は満ち足りました
乳と髄の持て成しを受けた様に
私の唇は喜びの詩をうたい私の口は賛美の声を上げます」(63章)
銘に 讃歌 ダビデの詩 ダビデが荒れ野にいたとき とあります
これもイエスが荒野に居た時と同じ様な心境でしょう
荒野での修行
それは一人居に耐える事
その中に神が生まれ出〈いず〉る
「貴方が祈る時は奥まった自分の部屋に入って・・・」
どの宗教どの哲学も一人居を勧めます
何故ならそこにしか神は生まれ得ないからです
40日の荒野での修行
イエスはそこでどんな神を見たのでしょう・・・
今日はここまでにしたいと思います
ダビデを師として 「詩編」より その12 2004/ 3/31 23:04
さて信仰の旅を続けます
ところで信仰の旅とはどんな旅でしょう
そうですね
ダビデの詩編に依って信仰の真髄を見て行く旅でしたね
前回は63章まででしたから
今日は64章からです
「彼らは舌を鋭い剣とし
毒を含も言葉を矢をとしてつがえ
隠れた所から無垢な人を射ようとして構え
突然射かけても恐れもしません」(64章)
「神は彼らに矢を射かけ
突然彼らは討たれるでしょう
自分の舌がつまずきのもとになり
見る人は皆頭を振って侮るでしょう」(64章)
因果応報
言葉の災いは我々には目敏いものです
論を張っていると思っている貴方
貴方は大丈夫ですか?
「いかに幸いな事でしょう
貴方に選ばれ近づけられ
貴方の庭に宿る人は
恵みの溢れる貴方の家聖なる神殿に依って
私たちが満ち足ります様に」(65章)
聖なる神殿は何処にあると思いますか
山の貴方の空遠く・・・
そんな空遠くにあるのでしょうか
そんな所には在りません
貴方の心にこそ
神の家聖なる神殿は在るのです
耳ある人は聞きなさい
「神よ 貴方は我らを試みられた
銀を火で練る様に我らを試された
貴方は我らを網に追い込み我らの腰に枷を嵌め
人が我らを我らを駆り立てる事を許された
我らは火の中水の中を通ったが
貴方は我らを導き出して豊かな所に置かれた」(66章)
神は優れた者をこそ試されるのです
もし今貴方がその火中にあっても恐れてはならない
貴方は金であり銀
その火が貴方の純度を増す
火に練られて練られよ
信仰を忘れずに
そうすれば貴方も豊かな所に置かれる
渦中こそが貴方を鍛える
67章はダビデの銘が無いので飛ばします
次は68章です
「神は聖なる宮に居ます
みなしごの父と成り
やもめの訴えを取り上げて下さいます
神は孤独な人に身を寄せる家を与え
捕われ人を導き出して清い所に住まわせて下さる」(68章)
孤独な人よ
もし居たら
ここに身を寄せなさい
聖なる神 貴方の神である主に
そうすれば貴方にも家が与えられる
どの家庭にまして素晴らしい家庭が
貴方はその素晴らしい家庭で
伴侶と共に歌い伴侶と共に踊る
そしてその家庭には
素晴らしい子供たちが絶える事無く生まれ来る
「貴方の神殿に対する熱情が私を食い尽くしているので
貴方を嘲る者の嘲りが私の上に降りかかっています
私が断食して泣けばそうするからと言って嘲られ
粗布を衣とすればそれも私への嘲りの歌になります
町の門に座る人は私を非難し
強い酒に酔う者は私の事を歌います」(69章)
信仰者はいつも迫害を受けます
それは王とて例外ではありません
ましてこの世の民やおや です
この掲示板を見て御覧なさい
正に信仰者の迫害の場ではないですか
信仰者よ
豚に真珠は遣らない方がいいですよ
さもないと牙を剥き出しにして向かって来ますよ
「神よ 私は貧しく身を屈めています
速やかに私を訪れて下さい
貴方は私の助け私の逃れ場
主よ遅れないで下さい」(70章)
信仰者は何故
「命を狙われ」「災いに遭わせ様と望まれ」「はやし立てられる」(70章)のでしょうか
それは神殿への熱情の為です
彼はたとえ人々が分かって呉れなくても
聞こうとする気が無くても
神の事を説こうとします
神を信じ切る事が出来ない人にはそれが耐えられないのです
彼の心の中にある神へのかすかな信仰がそれを苛立たせるのです
その為信仰者はいつも迫害の中です
そして殉教して行くのです
迫害されなければ本当の信仰者ではありません
今この場で迫害されている方々にこの言葉を贈ります
「私の為に罵られ迫害され
身に覚えの無い事であらゆる悪口を浴びせられる時
貴方方は幸いである
喜びなさい
大いに喜びなさい
天には大きな報いがある
貴方たちより前の預言者たちも同じ様に迫害されたのである」
「私が老いて白髪に成っても
神よどうか棄て去らないで下さい
御腕の業を力強い御業を
来るべき世代に語り伝えさせて下さい」(71章)
どうです
ダビデの祈りは見事に叶えられたではないですか
三千年の歳月を経て
見事に私たちに伝えられたではないですか
今迫害されている方々も
その事を語り伝える事を止めないで下さい
ダビデを師として 「詩編」より その12 2004/ 4/ 1 23:32
さて信仰の旅を続けましょう
信仰の旅とは一体どんな旅でしょう
そうですね
ダビデの詩編に依って信仰の真髄を見て行く旅の事でしたね
前回は71章まででしたから
今日は72章からですね とは行かないのです
72章は銘にソロモンの詩編とあります
73章から83章はまではアサフの詩
84章85章にはコラの子の詩との銘があります
次にダビデの詩との銘が出て来るのは86章です
今日はその86章から見て行きます
「主よ 貴方の道をお教え下さい
私は貴方のまことの中を歩みます
御名を畏れ敬う事が出来る様に
一筋の心を私にお与え下さい」(86章)
一筋の心
私の心には貴方へと向かう一筋の道がある
私はただその道を歩むだけ
私はたとえどんな闇夜でも迷う事は無い
その道は私を照らし出し
その先にはいつも貴方の光があるから
そんな一筋の道を私にもお与え下さい
さて87章から100章までは
様々な人の詩 銘無き詩の数々です
次にダビデの詩が出て来るのは101章です
「慈しみと裁きを私は歌い
主よ 貴方に向かってほめ歌います
完全な道について解き明かします」(101章)
慈しみと裁き
これをダビデはいつも神に帰します
何故慈しみと裁きは神のものなのでしょう
もう一度
イエスのあの黄金律を思い出して下さい
貴方の神である主を愛しなさい これが第一法則
隣人を自分の様に愛しなさい これが第二法則
この中に
神の慈しみと裁きの法が隠されているのではないでしょうか
神を愛するとは 裁きを愛する事なのではないでしょうか
隣人を愛するとは 慈しみを愛する事なのではないでしょうか
イエスのあの黄金律
あれこそが何時の時代にも変わらない完全な道なのではないでしょうか
次のダビデの詩は103章です
「人の生涯は草の様
野の花の様に咲く
風がその上に吹けば消え失せ
生えていた所を知る者も無くなる」(103章)
人の存在は塵の様
その塵の様な存在に
神は心を留めて下さる
神に依り頼め そうすれば
「長らえる限り良いものに満ち足らせ
鷲の様な若さを新たにして呉れる」(103章)
塵の様な存在が鷲の様な存在へと昇華する
それが神の力
諸君
神に依り頼もうではないか
そして生きている限り若鷲の様に若々しくあろうではないか
老いても尚
2000字を越えたので2分割します
ダビデを師として 「詩編」より その13 2004/ 4/ 1 23:37
ダビデを師として 「詩編」より その12が2000字を越えたので2分割しています
その12からの続きです
104章から108章までは無銘の詩です
次にダビデの銘が出て来るのは109章です
「私は貧しく乏しいのです」(109章)
「主は乏しい人の右に立ち
死に定める裁きから救って下さいます」(109章)
「心の貧しい者は幸いである
天の国はその人たちの者である」
と言うイエスの言葉もありますが
ここでもう一度老子の言葉に帰って見ましょう
老子の言葉にこう言う言葉がありましたね
「侯王自謂孤寡不穀 此非賎為本邪」
(侯王自らを謂孤寡不穀と謂う 此れ賎を本と為すに非ずや)
「人之所悪 唯孤寡不穀 而王公以為称」
(人の悪〈にく〉む所 ただ孤寡不穀 而して王公以って称と為す)
孤独や貧乏
これは人の嫌う所です
しかし王はそれを自らの基準とするのです
何故なら王はそれらを引き上げる為に存在するのです
勿論ダビデもそうだったですが
古代の伝説の王たちは皆その為に存在しました
何故でしょう
それは私たちの心に植えられた神の言葉だからです
それを実行できる者の事を我々は王侯と称して讃えるのです
すなわち隣人を自分の様に愛しなさい
この言葉が心にはっきりと刻み込まれ
この言葉をはっきりと実行した人
彼らが王と呼ばれる人たちだったのです
イエスは我々の王だったのではないですか
「わが主に賜った主の言葉
私の右の座に就くがよい
私は貴方の敵を貴方の足台にしよう」(110章)
「主は貴方の力ある杖をシオンから伸ばされる」(110章)
「主は誓い思い返される事は無い
私の言葉に従って貴方はとこしえの祭司
メルキゼデク(私の正しい王)」(110章)
新約聖書を勉強した人には馴染みの言葉ですよね
これはダビデが自らの事を言ったのでしょうか
それともこれから現れる王の事を言ったのでしょうか
「聖なる方の輝きを帯びて貴方の力が現われ
曙の胎から若さの露が貴方に降る時」(110章)
これこそ予言の書
いえ期待の書です
誰でも神の概念を知った時
現人神が現れて欲しいと願うものです
ダビデも神に生かされ神を生きた人です
しかし彼は神の子とは成り得なかった
彼はそれを将来のインマヌエルと呼ばれる方
すなわちイエスに託したのです
ダビデもイエスの生みの親の一人なのです
イエスはたくさんの人の期待に依って生まれた
神の子なのです
そこから紀元が変わったのです
今日はここまでにしましょう
ダビデを師として 「詩編」より その14 2004/ 4/ 2 23:49
さて信仰の旅を続けましょう
ところで信仰の旅とは一体どんな旅なのでしょう
そうですね
ダビデの詩編に依って信仰の真髄を見て行こうする旅の事でしたね
前回は110章まででしたから
今日は111章からですね とは行かないのです
111章からは無銘の詩や
都に上る詩と言った銘の詩が続くのです
次にダビデの詩が出て来るのは122章です
銘に 都に上る詩 ダビデの詩とあります
「主の家に行こう と人々が言った時私は嬉しかった」(122章)
「私は言おう 私の兄弟 友の為に
貴方の内に平和がある様に
私は願おう 私たちの神 主の家の為に
貴方に幸いがある様に」(122章)
私も祈ろう
ここに集う人々に平和がある様に
ここに集う人々に幸いがある様にと
何故ならこここそが神の家
貴方方が上るべき都
貴方方が憩う場所
私はその為にここに立っているのです
神に親〈ちか〉しい人々よ 来たれと
123章はただの都に上る詩です
124章が 都に上る詩 ダビデの詩です
「主が私たちの味方でなかったら
主が私たちの味方でなかったら
私たちに逆らう者が立った時
その時私たちは生きながら敵意の炎に飲み込まれていただろう
その時大水が私たちを押し流し激流が私たちを越えていただろう
その時私たちを越えていただろう驕り高ぶる大水が」(124章)
主が私たちの味方でなかったら
この言葉をここで二回も繰り返していますよね
そうですそれほどにも主の力は強いのです
そうでなければ敵意の炎に飲みこまれ
驕り高ぶる激流が私たちを押し流し
驕り高ぶる激流が私たちを越えて行くのです
信仰者の迫害を見て御覧なさい
彼らに主の翼砦の塔が無ければとても耐える事など来ません
それはこの掲示板で迫害されている人たちも同じです
信仰者はいつも迫害し続けられているのです
「律法学者とファリサイ派の人々よ貴方たち偽善者は不幸だ
預言者の墓を立てたり正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ
そしてもし先祖の時代に生きていても預言者の血を流す側にはつかなかったであろうなどと言う
こうして自分が預言者を殺した者たちの子孫である事を自ら証明している
先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ
蛇よ蝮の子らよ
どうして貴方は地獄の罰を免れる事が出来ようか
だから私は預言者知者学者を貴方に遣わすが
貴方たちはその中のある者を殺し十字架に付け
ある者を会堂で鞭打ち町から町へと追い回して迫害する
こうして正しい人アベルの血から
貴方たちが聖所を祭壇の間で殺したバラキの子ゼガルヤの血に至るまで
地上で流された正しい人の血は全て貴方たちに降りかかって来る
はっきり言っておく
これらの事の結果は全て今の時代の者に降りかかって来る」
もし貴方に子が居るのなら
もう迫害は止めなさい
その血が貴方方の子に降りかからない様に
もし一人居だったら
更に続けなさい
そしてその血を一人で浴びなさい
次にダビデの詩が出て来るのは131章です
131章については全文をここに掲載します
「主よ 私の心は驕っていません
私の目は高くを見ていません
大き過ぎる事私の及ばぬ驚くべき事を私は追い求めません
私は魂を沈黙させます
私は魂を幼子の様に母の胸にいる幼子の様にします
イスラエルよ 主を待ち望め
今もそしてとこしえに」(131章)
とても意義深い事が三つ並んでいますね
大き過ぎる事私の及ばぬ驚くべき事を私は追い求めません
千里の道も一歩から
これは全ての聖人君子に共通する事ですよね
ダビデが最初から王国を求めたと思いますか
彼はただ隣人を愛し続けただけです
その結果が王国になったと言うだけです
それは当然の帰結です
何故なら
王とは隣人を死ぬまで愛し続ける者の謂いなのですから
貴方にも王国が生まれるのですよ
愛し続けていたら
その王国の名は愛と言う名の王国
私は魂を沈黙させます
魂に好き勝手な事を言わせて御覧なさい
それは無神以外の何ものでも無い
魂を沈黙の中に漂わせる
その中に神への畏敬が生まれ
神の魂が生まれ出〈いず〉る
イスラエルよ 神と共に歩もうとする人々よ
今日も明日も明後日もそして死を迎えるその時まで
主を待ち望もうではありませんか
主は時々に現れて貴方を幸せにして呉れるから
次にダビデの詩が出て来るのは133章です
この詩の銘も 都に上る詩 ダビデの詩です
「見よ 兄弟が共に座っている
何と言う恵み 何と言う喜び」
ダビデを師として 「詩編」より その15 2004/ 4/ 3 12:17
さて信仰の旅を続けましょう
ところで信仰の旅とは一体どんな旅なのでしょう
そうですね
ダビデの詩編に依って信仰の真髄を見て行こうとする旅の事でしたね
前回が133章まででしたから
今日は134章からですね とは行かないのです
次にダビデの詩と銘打った詩が出て来るのは138章です
「呼び求める私に答え
貴方は魂に力を与え
解き放って下さいました」(138章)
「主よ 貴方の慈しみがとこしえにあります様に
御手の業をどうか離さないで下さい」(138章)
どの様な御業がダビデに下されたのでしょう
それは歴史の書を見れば明らかです
何故神はダビデにそれほどの御業を下されたのでしょう
それは偏にダビデのその信仰故です
貴方方も神を信仰して御覧なさい
貴方方の神であるその主を
そうすれば貴方にも無限の可能性がある
貴方方は自らに依って
そして社会に依ってその可能性に蓋がされているのである
この139章は素晴らしい詩です
可能な限り掲載しましょう
「主よ 貴方は私を究め 私を知って居られる
座るのも立つのも知り
遠くから私の計らいを悟って居られる
歩くのも伏すのも見分け
私の道に悉く通じて居られる
私の舌が未だ一言も語らぬ先に
主よ 貴方は全てを知って居られる
前からも後ろからも私を囲み
御手を私の上に置いて下さる
その驚くべき知識は私を越え
あまりにも高くて到達出来ない」(139章)
「何処に行けば貴方の霊から離れる事が出来るでしょう
何処に上れば御顔を避ける事が出来るでしょう
天に上ろうとも貴方はそこに居まし
陰府に身を横たえようとも 見よ貴方はそこに居ます
曙の翼を駆って海の彼方に行き着こうとも貴方はそこに居まし
御手をもって私を導き 右の御手をもって私をとらえて下さる」(139章)
「私は言う
闇の中でも主は私を見て居られる
夜も光が私を照らし出す
闇の貴方に比ぶれば闇とは言えない
夜も昼も共に光を放ち
闇も光も変わる所が無い」(139章)
「貴方の御計らいは私にとって如何に貴い事か
神よ 如何にそれは数多い事か
数えようとしても砂の粒より多く
その果てを極めたと思っても
私はなお貴方の中に居る」(139章)
そして次の句が結句です
「神よ 私を究め私の心を知って下さい
私を試し悩みを知って下さい
御覧下さい 私の内に迷いの道があるかどうかを
どうか私をとこしえの道に導いて下さい」(139章)
これで貴方方も
貴方方の神
貴方方の神である主の概念が分かったと思います
そうでない者は余程の愚か者か
聞く耳を持たない者です
私にはその様な者は何の関わりも無い者です
しかし私は言って置きます
貴方方がそれを知ろうが知るまいが
貴方方の神である主は
貴方方の前に後ろに右に左にそして上に下に居り
貴方の事を全て見て居るのです
その最後の時
貴方方は貴方の神であるその主にどう申し開きする積りですか
一生を賭してその事を考え続ける積りですか
それよりもあっさりその主へ帰依したらどうですか
2000字を越えたので2分割します
次に続きます
ダビデを師として 「詩編」より その16 2004/ 4/ 3 12:25
2000字を越えたので2分割してあります
これはNO25511からの続きです
NO25511から続けて読んで下さい
「私は知っています
主は必ず貧しい人の訴えを取り上げ
乏しい人の為に裁きをして下さると」(140章)
これは常しえに変わる事の無い神の真理です
神は貧しい人の為に居るのです
貴方方傲慢な者には何の関わりも無いものなのです
心を低くして
心貧しき者心乏しき者として神の御前に出て御覧なさい
貴方には溢れんばかりの贈り物が神から下される
しかし驕り高ぶる者はそれが出来ない
蛇よ蝮の子らよ
「主よ 私は貴方を呼びます
速やかに私に向かい 貴方を呼ぶ声に耳を傾けて下さい
私の祈りを御前に立ち昇る香りとし
高く上げた手夕べの供え物としてお受け下さい」(141章)
これが祈り ザ・祈りです
祈りを立ち昇る香りとし
高く上げた手を供え物とする
これなら何時如何なる場所でも祈る事が出来るでしょう
祈りを立ち昇る香りとする
これは如何なる宗教如何なる哲学においても変わらぬ真理です
高く手を上げて
これは所変われば品変わるです
仏教では数珠を鳴らすのでしょうし
キリスト教では胸の前で手を合わせるのではないでしょうか
その方法はどうでもいいのです
供え物とは
貴方自身を神に捧げると言う行為ですから
貴方自身に最も相応しい行為でいいのです
私は瞑想を勧めましょう
瞑想とは貴方自身を捧げる事でしょうし
そこには自ずから祈りと言う香りも立ち昇る事でしょうから
「声を上げ主に向かって叫び
声を上げ主に向かって憐れみを求めよう
御前に私の悩みを注ぎ出し
御前に苦しみを訴えよう
私の霊が萎え果てて居る時
私がどの様な道に行こうとするのか
貴方はご存知です
その道を行けばそこには罠が仕掛けられています」(142章)
霊が萎え果てて居る時 私たちがどの様な道に行くのか
皆さんは良くご存知ですよね
そこから脱出しようと皆さんそれぞれに工夫していますよね
皆さんのそれは上手くいっていますか
上手くいっている人はそれでいいでしょう
しかし上手くいっていないと言う人
貴方の為にこそ神は居るのです
神は悩める者の神なのです
悩まない内は神は必要ないのです
稚〈いとけな〉い子供たちを見て御覧なさい
彼らに神が必要でしょうか
すなわち貴方の神である主が
「私の霊は萎え果て心は胸の中で挫けます
私はいにしえの日々を思い起こし
貴方の為さった事を一つ一つ思い返し
御手の業を思い巡らします
貴方に向かって両手を広げ
渇いた大地の様な私の魂を貴方に向けます
主よ 早く答えて下さい
私の霊は絶え入りそうです
御顔を私に隠さないで下さい
私はさながら墓穴に下る者です
朝にはどうか聞かせて下さい 貴方の慈しみについて
貴方に私は依り頼みます」(143章)
ダビデの打ちひしがれた魂の詩です
私たちはこれに依って等身大のダビデを見る事が出来ますよね
さてこの後ダビデはどうなったのか?
もうご存知ですよね
三千年を経た今でも尚
命を長らえているのです
その言葉に依って
詩人万歳
「私の支え私の砦私の砦の塔私の逃れ場私の盾避け所」(144章)
「主よ 人間とは何ものなのでしょう
貴方がこれに親しまれるとは
人の子は何ものなのでしょう
貴方が思い遣ってくださるとは」(144章)
「神よ 貴方に向かって新しい歌をうたい
十弦の琴をもってほめ歌をうたいます」(144章)
「如何に幸いな事か この様な民は
如何に幸いな事か 主を神といだく民は」(144章)
主とは一体何ものなのでしょう
私たちにこれほど守って下さり
私たちにこれほどの恵みを下さるとは
主に親〈ちか〉しい人々は良く知っています
そうでない人々はちんぷんかんぷんです
貴方の神である主
これ以外に如何なる支え砦砦の塔逃れ場盾避け所があると言うのでしょう
これ以外に如何なるものが私たちにふんだんに恵みを与えて下さると言うのか
ダビデを師として 「詩編」より その17 2004/ 4/ 3 23:24
さて信仰の旅を続けましょう
ところで信仰の旅とは一体どんな旅でしょう
そうですね
ダビデの詩編に依って信仰の真髄を見て行こうする旅の事でしたね
前回は144章まででしかたら
今回は145章からです
「主は倒れようとする人を一人一人支え
うずくまっている人を起こして下さいます
者皆が貴方に目を注いで待ち望むと
貴方は時に応じて食べ物を下さいます
全て命あるものに向かって御手を開き
望みを満足させて下さいます」(145章)
「主の道は悉く正しく
御業は慈しみを示しています
主を呼ぶ人全て近くに居まし
まことをもって呼ぶ人全てに近くに居まし
主を畏れる人々の望みを叶え
叫びを聞いて救って下さいます」(145章)
貴方の神である主は愛の神なのです
貴方はその神に相応しい様に自らを振舞っていますか
その振る舞いが貴方の神への捧げ物です
貴方の捧げ物が清ければ清いほど
貴方の神は貴方に愛を授けて呉れるのです
貴方と貴方の神はギブアンドテイクなのです
何故なら貴方の神である主は 貴方自身なのですから
ダビデを見なさい
イエスを見なさい
孔子を見なさい
ソクラテスを見なさい
彼らが如何に愛に身を捧げたか
彼らはその愛に依って
彼らの神は立派な神と成りました
神 貴方の神である主は貴方自身が創るのです
全て善きものを神に帰する時
その神もまた完全な神と成ります
神が居ないと初めから宣言する者は
その努力を初めから放棄する者です
そんな者を神は始めから忌み嫌うのです
そんな者に神が生まれ出〈いず〉る事は決してありません
神 貴方の神である主は
貴方が生み出し育てて行くものなのです
神には二つの概念がある
貴方の神である主と
アルファでありオメガである神と
アートマンとブラフマンと
この二つの概念を知らないと
神に関する議論は不毛です
神 貴方の神である主
それは貴方を善き者として育て上げて行く為の存在ではないですか
だから神を敬い全て善き事を神に帰して行かなければならないのです
貴方の神である主
アートマン 聖霊 神霊 ダイモーン 仁 道 etc
それらは貴方が育てていくのです
貴方がそれらに全て善きものを帰して行く時
その存在もまた善きものに変わって行くのです
それに連れて貴方もまた善き存在と成って行くのです
貴方と貴方の神である主は表裏一体の存在なのです
私はこう言って置きましょう
貴方の神である主は貴方の一歩先を行く存在だと
ダビデも言っていたではないですか
「神に僅かに劣るものとして人を造った」と
だからダビデはあれ程主と親しく付き合えたのです
天の更に彼方に神を置いても
それは我々には何の関係もないものに成ります
上の詩でも言っているではないですか
「主を呼ぶ人全て近くに居ます」と
その主を友達とするか恋人とするか
師とするか神とするか
それは二の次です
先ずはその存在に気付く事から始まるのです
真の抒情詩人はそれを恋人に見立てたりしますので
ソロモンの雅歌はその典型でしょうし
シェークスピアのソネットやゲーテの愛の詩もその類でしょう
名はどうでもいいのです
所変われば名も変わるですから
私はその存在を知って貰わんが為に
こんなに言葉を費やしているのです
この次の箴言ではその辺りを総括しようと思っています
さて「ダビデを師として 詩編より」副題「信仰の旅」はこれで終わります
信仰の真髄が分かりましたか
自らを神に捧げ神から下される報酬を受け取ると言う意味が
次のシリーズは「ソロモンを師として 箴言より」です
この箴言には私の言いたい事が一杯詰まっています
今から楽しみです
ソロモンを師として 「箴言」より その1 2004/ 4/ 4 12:02
今日からソロモンの箴言シリーズです
このシリーズで
聖人賢人哲学者を巡る旅は終わりです
箴言に入る前に
これまでに訪ねた聖人賢人哲学者を整理して置きましょう
訪ねた順に整理すると次のとおりでしたよね
1 イエス「マタイ福音書」(日本聖書協会「聖書」より)
2 釈迦「法句経」(岩波文庫「ブッダの真理の言葉・感興の言葉」より)
3 エピクロス「メノイケウス宛ての手紙」(岩波文庫「エピクロス」より)
4 エピクテトス「要録」(中央公論者「世界の名著キケロ・エピクテトス・マルクスアウレリウス」より)
5 セネカ「人生の短さについて」(岩波文庫「人生の短さについて」より)
6 マルクス・アウレリウス「自省録」(岩波文庫「自省録」より)
7 ソクラテスプラトン「饗宴」(岩波文庫「饗宴」より)
8 孔子「論語」(岩波文庫「論語」より)
9 老子「老子」(講談社文庫「老子」より)
10 ダビデ「詩編」(日本聖書協会「聖書」より)
すなわち代表的書物に依って
その聖人賢人哲学者を訪ねて行くと言う旅でしたよね
そしてその最後11番目が
11 ソロモン「箴言」(日本聖書協会「聖書」より)と成る訳です
なおこれまでの旅をもう一度お浚いしたいと言う方は
このメッセの一番下にある
「これはsophialover007○○○○に対する返信です」
の○○○○の番号を押し続けて下さい
私は私sophialover007にしか返信していませんので
それを辿って行けば
この旅の全容が分かると思います
私がこの旅で何が言いたかったのか
この箴言に入る前に理解して頂ければ
本当に有り難いと思います
さて私が何故ソロモンの「箴言」を最後に選んだか
それには深い訳があります
それはソロモンが知恵の人であり
「箴言」が知恵の書であり
そこに私の言いたい事がずばり書いてあるからです
因みに私の醜名は
sophialover(知恵の愛人)です
知恵を愛して止まない人間ですが
この箴言では
その知恵をずばり言い当てているのです
私はこれほどその知恵の事をすばり言い当てたのは見た事がありません
だから私はこれを最後に持って来たのです
この知恵の事を言いたくて
私はこれまでたくさんの言葉を費やして来たのかも知れません
前回のシリーズでは信仰を取り上げましたが
もし貴方が何を信仰しているのですかと聞かれたら
今の所知恵と答えるしかないのだと思います
「知恵とは?」
その事をこのシリーズで取り上げたいと思っています
さて前置きはこの位にして
早速箴言に入って行きたいと思います
箴言は全部で31章です
二段組で44ページです
二三時間で読み切る事が出来ます
私がこれまで紹介した本と同じ様に
気軽に読み切る事が出来ます
どうか直ぐに手に取って頂きたいと思います
なお30章はアグルの言葉
31章はレムエルの言葉をありますので
今回のシリーズは29章までを対象としたいと思います
2000字を越えたので2分割してあります
「ソロモンを師として 箴言より その2」を続けて読んで下さい
ソロモンを師として 「箴言」より その2 2004/ 4/ 4 12:06
2000字を越えたので2分割してあります
これは「ソロモンを師として 箴言より その1」からの続きです
続けて読んで下さい
さて第1章です
ここに序と言うものがあります
先ずはこれから始めたいと思います
「イスラエルの王 ダビデの子 ソロモンの箴言
これは知恵と諭しをわきまえ 分別ある言葉を理解する為
諭しを受け入れて 正義と裁きと公平に目覚める為
未熟な者に熟慮を教え 若者に知識と慎重さを与える為
これに聞き従えば賢人もなお説得力を加え 聡明な人も指導力を増すであろう
また格言寓話賢人らの言葉と謎を理解する為
主を畏れる事は知恵の始め
無知な者は知恵も諭しも侮る」(1章)
素晴らしい言葉の数々です
先ずはこれは知識と諭しをわきまえる為
この箴言は知恵と諭しをわきまえる為にあるのです
知恵とは?諭しとは?
この事を念頭に入れて読み進めて頂きたいと思います
なおこのシリーズでは諭しについては触れませんのでご了解を
格言寓話賢人の言葉と謎を理解する為
謎を理解する為
イエスも言っていましたよね
私の言葉に躓かない者は幸いだと
比喩を比喩のまま読み取る者は大馬鹿です
彼は却って迷いの中に入ってしまいます
それよりもそこに入らなかった方が幸せです
比喩を読み取る事 これが知恵の力です
さてこれは私に強烈な印象を与えた言葉です
主を畏れる事は知恵の始め
正にその通りだと思います
神を畏れずしてどうして知恵が生まれましょう
知恵とは神の言葉の謂いなのですから
これが知恵の神秘ではありません
知恵の神秘へのイントロダクションに過ぎません
私は皆さんに予告して置きましょう
箴言には「知恵の勧め」と言う小節が4つあります
これこそが皆さんにお伝えした事なのです
特に知恵の勧め(三)は
私が信仰している知恵の事を
そのままずばりと言っています
私はこの事をお伝えしたくて
ここまでこうして言葉に言葉を継いで来たのかも知れません
その(三)に行くまでも
知恵の言葉の数々がありますのでどうぞ楽しんで下さい
さて早速「知恵の勧め(一)」です
第1章の中に在ります
全文掲載します
「知恵は巷に呼ばわり
広場に声を上げ
雑踏の街角で呼びかけ
城門の通路で語りかける
『いつまで
浅はかな者は浅はかである事に愛着を持ち
不遜な者は不遜である事を好み
愚か者は知る事を厭うのか
立ち返って私の懲らしめを受け入れるなら
見よ 私の霊を貴方たちに注ぎ
私の言葉を示そう
しかし私が呼びかけても拒み
手を伸べても意に介せず
私の勧めを悉く等閑にし
懲らしめを受け入れないなら
貴方たちが災いに遭う時 私は笑い
恐怖に襲われる時 嘲笑うであろう
恐怖が嵐の様に襲い
災いが旋毛つむじ風の様に起こり
苦難と苦悩が貴方たちを襲う時』
その時になって
彼らが私を呼んでも私は答えず
捜し求めても
私を見出す事は出来ない
彼らは知る事を厭い
主を畏れる事を選ばず
私の勧めにも従わず
懲らしめを全て蔑ろにした
だから自分たちが結んだ実を食べ
自分たちの意見に飽き足りるがよい
浅はかな者は座して死に至り
愚か者は無為の内に滅びる
私に聞き従う人は確かな住まいを得
災難を恐れる事無く平穏に暮らす」(1章)
皆さんには知恵の声が聞えないのですか
昨日も今日も
そして千年一日の如く
貴方方に呼びかけているではないですか
貴方方は今日もまた
その声を拒み意に介せず等閑にするのですか
もしその声が巷で広場で街路で通路で聞えないのなら
一人部屋に入って戸を閉めて耳を澄まして御覧なさい
ほら聞えるでしょう
善き人に成りなさいと
これが知恵の巷に呼ばわる声である
「我が子よ
私の言葉を受け入れ戒めを大切にし
知恵に耳を傾け英知に心を向けるなら
分別に呼びかけ英知に向かって声を上げるなら
銀を求める様にそれを尋ね宝物を求める様にそれを探すなら
貴方は主を畏れる事を悟り
神を知る事に達するであろう
知恵を授けるのは主
主の口は知識と英知を与える」(2章)
知恵に耳を傾けて英知に心を向けて御覧なさい
貴方に理解出来ないものは何も無い
そこに神が臨在しているのだから
ソロモンを師として 「箴言」より その3 2004/ 4/ 4 23:27
さてソロモンの箴言シリーズを続けます
前回は2章まででしたから
今回は3章からです
前回も途中で切れてしまった様ですが
継がない事にします
今日は今日の風が吹く でしょうから
さてこの3章に
「知恵の勧め(二)」があります
全文掲載します
「いかに幸いな事か
知恵に到達した人英知を獲得した人は
知恵に依って得るものは銀に依って得るものに優り
彼女に依って収穫するものは金に優る
真珠より貴くどの様な財宝も比べる事は出来ない
右の手には長寿を左の手には富と名誉を持っている
彼女の道は喜ばしく平和の内に辿って行く事が出来る
彼女をとらえる人にとっては命の木と成り保つ人は幸いを得る
主の知恵に依って地の基は据えられ
主の英知に依って天は設けられた
主の知識に依って深淵は分かたれ
雲は滴って露を置く」(3章)
知恵と英知は良く対に成って使われます
前回も対に成った使われ方がありましたよね
知恵に耳を傾け英知に心を向けるならと言う
この後も何度か対に成った使われ方が出て来ます
対に成って使われる場合はほとんど同じ様な意味合いで使われていますが
厳密に言うと違いがあります
知恵が先に在りその後に英知が生まれると言う事です
例えば
「家は知恵に依って築かれ英知に依って固く立つ」(24章)
と言う言葉がありますが
知恵に依って築かれた後英知に依って固く立つのです
また
「英知ある人は知恵を楽しむ」(10章)
と言う言葉もありますが
知恵が先に在るからこそ英知は楽しむ事が出来るのです
上の知恵の勧め(二)についても同じ事です
知恵に到達したからこそ英知を手にする事が出来たのであり
知恵に依って地の基が築かれたからこそ英知はその上に天を設けられたのです
知恵と英知の関係については
知恵が先に存在しその後英知が生まれて来ると言う風に理解して置けばよいと思います
なお対に成って使われている場合は
あまり厳密の使い分けをしない方が良いと思います
その方がスムーズに読んで行けると思います
2000字を越えたので2分割しています
「ソロモンを師として 箴言より その4」に続きます
次に知恵の真髄が書いてありますので
必ず続けて読んで下さいね
ソロモンを師として 「箴言」より その4 2004/ 4/ 4 23:35
2000字を越えたので2分割しています
「ソロモンを師として 箴言より その3」からの続きです
その3にソロモンの「知恵の勧め(二)」を全文掲載していますので
必ず読んで下さい
そうでないとここに書いてある内容も良く分からないと思いますので
さてこの「知恵の勧め(二)」においては
とても意味深い言葉の使われ方がしてあるのです
それは知恵の事を彼女と呼んでいるのです
この一言で知恵がどう言う存在か良く分かると思います
知恵と共にある人は
その通りと言うしかないですよね
もっとも知恵を彼女と呼ぶか
師と呼ぶか主と呼ぶか友と呼ぶか
それは異なって来るかも知れませんが
知恵が存在である
その事については
知恵と共にある人は全く異存が無いと思います
そうでない人はやはりちんぷんかんぷんなのでしょうか
知恵は金よりも優り真珠よりも貴く
どの様な財産も比べる事は出来ない
全くその通りですよね
何故なら知恵とは
それらを生み出す打出の小槌なのですから
いえ彼女と言う訳ですから
それらを生み出す胎と言った法が良いのでしょうか
いえいえそれは不遜な使い方です
こう言ったらいいのでしょうか
善い子を生み出す為の私の伴侶だと
いえそれもやはり不敬です
まっ その様なイメージのものなのでしょうか・・・
彼女を捉える人には
彼女が命の木と成り
彼女を保つ人には
彼女が幸福の木と成る
彼女は命の本であり幸福の本である
彼女こそが私の命彼女こそが私の幸せ
立派な恋愛詩が出来るのではないですか
彼女の内には喜びがある
貴方が彼女と居る時どんな喜びがありますか
しかしこの喜びはそんな段ではありません
それの七の七十倍ほどの喜びです
何故なら彼女は裏切らないし
死ぬまで貴方と一緒です
そしてその喜びは
人間最高の快楽と同じものなのです
彼女との快楽は一時的なものかも知れませんが
知恵との快楽は一生涯続くのです
ちょっと快楽主義者の面が強く出たので
これはここで引きます
彼女の道は平和に辿って行ける
どこに行くのでしょうか
快楽の園です
いえ別な表現を使います
命と幸せのある場所です
それは何処に在るのでしょうか
それはその辿って行く道の中にこそ在るのです
だから彼女と共に在る時
すなわち知恵と共に在る時
常に幸せで命に常に満ちているのです
これが知恵の効用です
どうです
貴方も彼女を求めてみませんか
その辺りのお嬢様と違って
貴方が真剣に求めれば
必ず手を差し出して呉れますよ
それから愛の詩を謳って見ませんか
私は前にも言いましたよね
真の抒情詩人は
知恵を恋人に譬えると
貴方も彼女(知恵)を手に入れたら
彼女を恋人に譬えて詩って御覧なさい
それは人の心を打つ筈です
何故ならそれは個別の愛では無く普遍の愛なのですから
なお男性は知恵を女性に譬える場合が多いです
ギリシア哲学はその典型です
アテネ女神でありミネルバ女神でありsophiaです
女性の場合は男性の師に譬える場合が多いです
例えばマグダリアのマリアとか
所変われば名も変わるです
「主」と言う呼び方が一番無難に思います
「貴方の神である主」となれば敬虔が増します
「神」と呼べば最も敬虔ですが
神には二つの概念があり
この辺りを上手く整理しないと混乱する事になります
ここに集っている方はあまり宗教色を出したくない人ばかりですから
わたしと同じく知恵と呼んだら如何でしょうか
本当はこの議論は「知恵の勧め(三)」の時する積りでしたが
少し出過ぎた様です
未だ先がありますので今日はここまでにします
ソロモンを師として 「箴言」より その5 2004/ 4/ 5 22:53
さて今日もまた
ソロモンの箴言シリーズを続けます
昨日が3章まででしたから
今日は4章からです
「私の口が言い聞かせる事を 忘れるな離れるな
知恵を獲得せよ 分別を獲得せよ
知恵を捨てるな 彼女は貴方を見守って呉れる
分別を愛せよ 彼女は貴方を守って呉れる
知恵の始めとして 知恵を獲得せよ
これまで得たもの全てに代えても 分別を獲得せよ
知恵を懐に抱け 彼女は貴方を高めて呉れる
分別を抱きしめよ 彼女は貴方に名誉を与えて呉れる
貴方の頭に優雅な冠を戴かせ 栄冠と成って貴方を飾る」(4章)
ここでも知恵の事を彼女と呼んでいますよね
なおここでは知恵と分別が同じ様な取り扱いをされていますよね
前にも知恵と英知が同じ様な取り扱いをされた事がありましたよね
それと同じであまり違いに囚われない方が良いと思います
特に今回はほとんど同じ意味だと捉えて下さい
詩的表現の為 知恵をわざと分別と言う表現に代えたと
この詩を直訳するとこうなります
知恵を獲得せよ 知恵を捨てるな 知恵を愛せよ 知恵を懐に抱け 知恵を抱きしめよ と
そして知恵を獲得せよ と言う言葉が
この詩の中に四回も出て来るのです
知恵を獲得せよ 知恵を獲得せよ
知恵の始めとして 知恵を獲得せよ
これまで得たもの全てに代えても 知恵を獲得せよ と
ほんとに知恵のオンパレードでしょう
やはりソロモンも詩人だったから
知恵と言う言葉を遂々分別と言う言葉に代えてしまったのです
この詩〈うた〉は本当は知恵の為の知恵の讃歌なのです
その知恵を手に入れ
それを愛し続けるとどの様な効用があるのでしょう
彼女は貴方を見守り守り貴方を高め
貴方に名誉を与え貴方の頭に冠を戴かせ
そして貴方の栄光と成って下さるのです
何と素晴らしき彼女かな
この世に彼女ほど素晴らしい女性が居るのでしょうか
居たら手を上げなさい
なお男性の詩だから彼女を呼んだだけで
女性であれば別な呼び方でもいいのです
その場合ニュアンスが少し変わって来るかも知れませんが・・・
さてここにも意味深い言葉使いが出てきます
知恵の始めとして知恵を獲得せよ
一体どう言う事なのでしょう
はっきり言います
初めに知恵ありき なのです
これは「知恵の勧め(三)」を読めばはっきりする事ですが
そうなのです
全てのものに先行して知恵があるのです
だから知恵の始めに先ず知恵を獲得しなければならないのです
ではどう遣って
それは知恵の言葉に依ってです
その為
私はこの古代哲学の旅を続けているのです
貴方方と一緒に
貴方方はもう知恵を見つけ出しましたか
私は未だです
私はその知恵を見い出す為
この無窮の旅を続けているのです
しかし私は言いましたよね
その道にもまた快楽があると
だから私は飽きる事無く
こうしてこの道を歩み続けているのです
さて知恵とは一体何なのでしょう
それは「知恵の勧め(三)」で明らかになるでしょう
もう一つ意味深い言葉使いがあります
彼女は栄光と成って貴方を飾る
とても意味深い言葉なのですよ
三位一体に近い神秘があるのですよ
すなわち知恵が貴方に成って栄光と成ると言う意味なのです
すなわち知恵と貴方が一心同体に成ると言う意味なのですよ
キリスト教を勉強している人は少し閃きませんでしたか
これもまた「知恵の勧め(三)」で明らかに成る事でしょう
とにかく彼女が如何に栄光に満ちた存在か分かったと思います
ギリシア哲学やソロモンはそれを彼女と呼びましたが
ダビデやイエスはそれを決して彼女などとは呼びませんでした
彼らの呼び名は主私の主または私の神よです
今回もまた出過ぎてしまったようです
これを続けると2000字を越えてしまいますので
一応ここで切ります
ソロモンを師として 「箴言」より その6 2004/ 4/ 5 22:59
さてソロモンの箴言シリーズを続けます
前回は4章でしたが
今回も4章です
次の一節は前回の一節に続いてあるものです
ですので前回をもう一度お浚いして下さい
「我が子よ 聞け 私の言う事を受け入れよ
そうすれば命の年月は増す
私は貴方に知恵の道を教え 真直ぐな道に貴方を導いた
歩いても貴方の足取りはたじろがず 走っても躓く事は無い」(4章)
知恵の道は真直ぐな道
たじろぐ事も無ければ躓く事も無い
知恵の道とは高速道路の様に真直ぐな道なのでしょうか
ちょっとオーバーな表現ですね
大道とか大通りと言った表現がより似つかわしいでのしょうか
いえそれよりもよりぴったりな表現があります
それは王道です
貴方が歩く道には常に赤絨毯が敷き詰められているのです
確かイエスもそんな道をたどってエルサレム神の都知恵の王宮へと向かいましたよね
「大勢の群集が自分の服を道に敷き他の人々は木の枝を切って道に敷いた」
知恵への道はそんな王宮への道のりなのです
次に5章に行きます
「我が子よ
私の知恵の耳を傾け
私の英知に耳を向けよ
そうすれば貴方は唇に慎みを守り
知識を保つ事が出来る」(5章)
箴言には知恵英知分別知識と言う言葉が同じ様な使われ方をして
何度も出て来ます
これまでも何度か出て来ています
それらをもう一度ここに引き出して
その微妙な違いを見て行く事にしましょう
最初に出て来たのはそれこそ第1章第2節からでしたよね
「これは知恵と諭しを弁え 分別ある言葉を理解する為
正義と裁きと公平に目覚める為
未熟な若者に熟慮を教え若者に知識と慎重さを与える為」(1章)
以下に上記の二つ以上の言葉が絡み合って出て来る分だけを引き出して見ます
「知恵に耳を傾け 英知に心を向けるなら
分別に呼びかけ 英知に向かって声を上げるなら」(2章)
「知恵が貴方の心を訪れ 知識が魂の喜びと成り
慎重さが貴方を保ち 英知が守って呉れるので」(2章)
「いかに幸いな事か 知恵に到達し英知を獲得した人は」(3章)
「主の知恵の依って地の基は据えられ
主の英知に依って天は設けられた
主の知識によって深淵は分かたれ」(3章)
「知恵を獲得せよ 分別を獲得せよ
知恵を捨てるな 彼女は貴方を見守って呉れる
分別を愛せよ 彼女は貴方を守って呉れる」(4章)
「知恵を懐に抱け 彼女は貴方を高めて呉れる
分別を抱きしめよ 彼女は貴方の頭に名誉を与えて呉れる」(4章)
そして上記の5章の言葉となるのです
5章まででもこんなに四つの言葉が絡み合っているのです
皆さんはその違いが分別出来ましたか
前後の文節が無いから分かりませんよね
私はこう整理して置きましょう
知恵
これは何にも先立って存在するものですから
これが始め
「道から一が生まれ
一から二が生まれ
二から三が生まれ
三から万物が生まれた」
と言う老子の言葉がありましたが
私はそれに倣ってこう整理しましょう
すなわち知恵が道
英知が一
分別が二
そして知識が三と
知識からこの世界が出来上がった
それは紛れも無い事実ですよね・・・
この世界を知る為には知識が必要
しかし貴方方が知識だけであれば根無し草
知恵と英知と分別が備わって始めて貴方の世界が存在する
知識だけを議論する貴方方には本当の世界は存在しない
貴方が見ている世界は誰それが言った世界に過ぎない
本当の世界を見よ
その為に必要な事
それは知恵を知る事
今日はここまでにします
ソロモンを師として 「箴言」より その7 2004/ 4/ 6 23:11
さてソロモンの箴言シリーズを今日もまた続けます
昨日は5章でしたが
今日もまた5章です
次の言葉には知恵と言う言葉は出て来ませんが
気に入ったので置いておきます
「貴方自身の井戸から水を汲み
貴方自身の泉から湧く水を飲め
その源は溢れ出て
広場に幾筋もの流れが出来るであろう」(5章)
分かる人は分かりなさい
さて次は6章です
これも素敵な言葉の数々ですが
知恵と言う言葉が出て来ないので
スルーしましょう
さて次は7章です
「知恵に『貴方は私の姉妹』と言い
分別に『私の友』と呼びかけよ」(7章)
『貴方は私の姉妹』
これは日本聖書協会の方々が少し遠慮したのだと思います
やはりこれは
『貴方は私の女〈ひと〉』
と表現すべきです
何故なら彼女とは常に部屋を共にし
ある親密な行為がそこで行われるからです
何かを生み出す行為
それが生殖と呼ばれるのなら
そこでその様な行為が営まれているのですから
だからそれは姉妹ではなく私の女〈ひと〉でなければならないのです
私が彼女に依って子を生むのか
彼女が私に依って子を生むのか
とにかく私たちはそう言う間柄なのです
だから私の人〈ひと〉でなければならないのです
私は前にも言いましたよね
そこには人間最高の快楽があると
神は生殖に快楽を与えました
それは生めよ増やせよ地に満てよ
その為にこそ人間に快楽を与えたのです
しかし勘違いしないで下さいよ
それは我々罪人を生み出す為に与えられたのではないのです
神の子を生み出す為に与えられたのです
その為に必要な事は知恵との結婚
しかしこの世の誰も彼もこの世の快楽に溺れてしまったのです
だからこの世に生まれてくる子供たちは皆
この世の快楽に溺れる事を運命づけられた子供たちばかりなのです
誰か知恵に目覚めた者は居ないのか
神の子を生める胎の者は居ないのか
2000字を越えたので二分割しています
「ソロモンを師として 箴言より その8」に続きます
ソロモンを師として 「箴言」より その8 2004/ 4/ 6 23:20
2000字を越えたので二分割しています
「ソロモンを師として 箴言より その7」からの続きです
さて愈々8章です
この章こそが「知恵の勧め(三)」なのです
この章全体が「知恵の勧め(三)」です
私はこの事が言いたくて
この様にたくさんの言葉を継いで来たのかも知れません
さて次がその「知恵の勧め(三)」の全文です
とは行かない事にしましょう
やはりこれは最後の最後に持って来る事としましょう
そう言う訳で8章をスルーして9章に行きます
9章には「知恵の勧め(四)」があります
この詩は象徴的な詩です
どれ程理解できるのか分かりませんが
試して見る事にしましょう
以下に全文を掲げます
「知恵は家を建て七本の柱を刻んで立てた
獣を屠り酒を調合し食卓を整え
はしためを町の高い所に遣わせて呼びかけさせた
『浅はかな者は誰でも立ち寄るか良い』
意志の弱い者にはこう言った
『私のパンを食べ
私の調合した酒を飲むが良い
浅はかさを捨て知恵を得る為に
分別の道を進む為に』(9章)
ヨハネの黙示録にも似ているし
イエスの聖体拝受の詩にも似ている
イエスの聖体拝受の詩
「一同が賛美している時イエスは
パンを取り賛美の祈りを唱えてそれを裂き弟子たちに与えながら
『取って食べなさい
これは私の体である』
また杯を取り感謝の祈りを唱え彼らに渡して言われた
『皆この杯から飲みなさい
これは罪が赦される様に多くの人の為に流される私の血契約の血である』」
さてこれらも参考にしつつ読み解いて行く事にしよう
先ず知恵は家を建てた
これは明らかな事である
知恵が知恵の書を現わし知恵の為の教会を建てたと言う事である
次の言葉が私には一番難しい
七本の柱を刻んで立てたと言う事が
私は西洋に住んでいないから
柱の意味が今ひとつ良く分からない
その家の周りに何かを祈念する柱が7本立っているのか
それとも7本の柱に依ってその家が建っているのか
その辺りが良く分からないのである
常識的に言えば後者だが
言葉どおりに捉えれば前者である
私たちは言葉に依ってここに立っているので
言葉どおり捉える事にする
さてその家教えの家の周りに
7本の柱が立っている
そしてそこにはその家の入る為の必要7か条が記されているのである
その七か条全部を了解して始めてその家へと入って行けるのである
さてどんな事が書かれているのか
それは浅はかな者でも
意志の弱い者でも
抵抗無く了解出来るもの
やはりその場に行かなければ理解出来ないのだろう
私が先ずはそこに行って見る事にしよう
おお何と素晴らしい教会
そして何と芳しい香りか
早く入りたい
何々第一の柱?!
貴方は何故ここに来たのか
貴方の僕が高台でみんなに呼び回っていたから来たのです
よろしい 入りなさい
何々第二の柱?!
何故貴方はここに来たのか
貴方の僕が呼び回っていたからです
浅はかな者は来なさいと
貴方は浅はかな者か
そうです
よろしい 入りなさい
何々第三の柱
何故貴方はここに来たのか
貴方の僕が呼び回っていたからです
意志の弱い者は来なさいと
貴方は意志の弱い者か
そうです
よろしい 入りなさい
何々第四の柱
何故貴方はここに来たのか
貴方の僕が呼び回っていたからです
私のパンを食べ私の調合した酒を飲むが良いと
貴方は本当に私のパンを食べ酒を飲みたいと思っているのか
当然です
よろしい 入りなさい
何々第五の柱
何故貴方はここに来たのか
もう貴方の門番の方に全てお答えしました
もう何も答える事は何もありません
そうか
それでは私が質問しよう
貴方は知恵を得たいか分別を得たいか
勿論得たいです!
よろしい 入りなさい
そしてあの方の知恵と分別を頂きなさい
貴方は5番目の試験で漸く合格だ
優れた者は一番目の試験で合格する者いるが稀だ
だが私たち貴方方に告げよう
ここに来た者は誰でも
7番目までの試験までには合格する事になっている事を
だから浅はかな者意志の弱い者は遠慮せずにここに来なさい
そして知恵と分別に預かりなさい
我々七本の柱がその案内役である
七
七の七十倍
それは貴方を試す為のもの
ソロモンを師として 「箴言」より その9 2004/ 4/ 7 23:28
さて今日もまたソロモンの箴言シリーズを続けます
昨日は9章でしたが
今日もまた9章です
「不遜な者を諭しても侮られるだけだ
神に逆らう者を戒めても自分が傷を負うだけだ
不遜な者を叱るな彼は貴方を憎むだろう
知恵ある人を叱れ彼は貴方を愛するだろう
知恵ある人に与えれば彼は知恵を増す
神に従う人に知恵を与えれば彼は説得力を増す
主を畏れる事は知恵の始め
聖なる方を知る事は分別の始め
私に依って貴方の命の日々もその年月も増す
貴方に知恵があるならそれは貴方のもの
不遜であるならその咎は独りで追うのだ」(9章)
素晴らしい言葉の数々です
さて不遜な者に言う
神に逆らう者に言う
これを読め
そして貴方たちの命と引き替えにしろ
不遜な者神に逆らう者にはこれだけで十分であろう
これが貴方たちへの餞別だ
さて知恵ある人
神に従う人
主を畏れる人
聖なる方を知る人にこの詩〈うた〉を捧げます
貴方の知恵は更に増し
貴方の説得力は更に増し
貴方の命の年月も更に増し
貴方の生涯最後の日まで
貴方に喜びが絶える事は無いだろう
知恵ある人神に従う人主を畏れる人聖なる方を知る人に栄光あれ!
アーメン
さて次は10章に行きます
10章からはソロモンの格言集です
本当に素敵な言葉の数々です
一言一言にコメントを付して
自分の物にして行きたいのですが
時間もありませんし
この箴言シリーズの目的は
ずばり知恵です
知恵の真髄を見て行く事にこそ
その目的があるのです
そう言う訳で知恵に纏わる言葉だけを拾い上げて
それを総括して行きたいと思います
なお前にも言いました様に
知恵の他に英知分別知識と言った言葉も同じ様な意味合いで使われています
そう言う訳で知恵英知分別知識と言った言葉が出て来る文節を
10章から29章まで拾い上げて行きたいと思います
それからまた知恵の勧め(一)(二)(三)(四)を除く
1章から9章までについても同じ様に拾って行きたいと思います
なお知恵の勧め(一)(二)(四)については
既に全文掲出していますのでお浚いして置いて下さい
これから拾い上げて行く知恵の言葉と
それから知恵の勧め(一)(二)(四)を皆さんが独学で学び終えた後
あの神秘の言葉「知恵の勧め(三)」を見て行く事にしましょう
請うご期待あれ です
なおこのまま知恵の言葉を拾い上げる作業を続け行けば
途中で2000字を越える事になりますのでここでこれは打ち切り
次のメッセで知恵の言葉の数々を見て行く事にしましょう
2分割されていますので
「ソロモンを師として 箴言より その10」に続けて読んで下さい
と続けたのですが
知恵の言葉を拾い上げるのには
思った以上に時間がかかる様です
今やっと半分とちょっと拾い上げた所です
知恵の言葉の表出は明日以降になりそうです
そう言う訳で
今日はここまでにしたいと思います
ソロモンを師として 「箴言」より その10 2004/ 4/ 9 0:02
さて今日もソロモンの箴言シリーズを続けます
昨日と今日で
ソロモンの知恵英知分別知識に関する言葉を拾上げました
なお前回も言いました様に
今回拾った言葉は
知恵の勧め(一)(二)(三)(四)以外の言葉から拾上げました
知恵の勧め(一)(二)(四)については既に全文掲出していますので
そちらで味わって頂きたいと思います
また「知恵の勧め(三)」については
最後の最後で皆さんに披露したいと思っていますので
今暫くお待ち頂きたいと思っています
今回以下に掲出し知恵の言葉の数々は
次の様な基準で拾い上げています
順番は先ずは10章から29章まで拾い上げ
その後に1章から9章まで拾い上げています
これまで読んで下さった方々は分かると思いますが
1章から9章までは既にある程度言葉を拾い上げ
それらに幾らかのコメントを付けて見て来ているのです
そう言う訳で10章から始まっています
それからもう一つの拾い上げ基準は
知恵 英知 分別 知識と言う言葉が含まれている文節を拾い上げています
本当は知恵だけで良かったのですが
英知分別知識も微妙に絡み合って知恵を盛り上げているので
敢てそこまで広げて拾い上げています
それからその拾い上げた言葉を
《知恵に関する言葉》
《英知に関する言葉》
《分別に関する言葉》
《知識に関する言葉》
と四分類しています
以上が知恵の言葉に関する拾い上げ基準です
後は皆さんご自由にご鑑賞下さい と
言い放ってもいいのですが
それでは十分に鑑賞出来ないと思いますので
少し解説を付けて置きたいと思います
先ずは知恵と英知と分別と知識の違い
これについては前にも述べましたよね
老子の
道は一を生み
一は二を生み
二は三を生み
三は万物を生んだと
と言うあの老子の言葉に倣って
知恵は道であり
英知は一であり
分別は二であり
知識は三であると
大体のイメージとしてはそれで良いと思いますが
またそれほど厳密でも無いと思います
この中で確定しているのは
知恵が道であり
知識が三であると言う事位です
英知と分別はその時々に依って少しずつ振れている様です
ここで皆さんに読み込んで貰いたいのは
知恵とは何か 知識とは何か と言う事です
この事をしっかり読み込めば
皆さんの今の議論も少しは静かに成ると思います
さてそれでは皆さんご自由にご観覧あれ と言い放ちたいのですが
もう少しコメントを付けさせて頂きたいと思います
それは《知恵に関する言葉》についてです
知恵に関する言葉の中で
知恵ある人と言う言葉使いがありますが
これは知恵と共に在る人と言う事です
知恵とその人は見た目は同一存在の様に見えますが
そこには知恵とその人と言う二つの存在があると言う事です
この事を良く理解していないと
巷で使われている知恵ある人と勘違いする事になるのでくれぐれもご注意を
さて知恵ある人と対に成って出て来る言葉が愚か者です
本当に良く出てきます
気持ちが良い位に
そして愚か者の性質は無知高慢不遜です
私はその言葉が出てくる度にほくそ笑みます
ああまたあの人たちの事を言っているのかと
私は思います
神の事は分からない 神の事は述べたくない
そう言う人たちはある意味で敬虔です
しかし神が居ないと断定する者たちはやはり不敬です
そう言う人たちの末路は
やはり無知蒙昧そして高慢不遜と成るのではないでしょうか
彼のその行動を誰が留めて呉れると言うのでしょうか
《知恵に関する言葉》では
知恵と言う言葉と知恵ある人と言う言葉を上手く見究めて下さい
知恵ある人とは知恵と共にある人と言う意味ですので
知恵とは如何なる存在か
その事を念頭に読んで行けば
知恵と言う存在の事が良く分かる様になると思います
2000字を越えたので次に続きます
ソロモンを師として 「箴言」より その11 2004/ 4/ 9 0:04
「ソロモンを師として 箴言より その10」の続きです
さて次に《知識に関する言葉》についても一言言って置きましょう
ここで言う知識とは
神に関する知識 神の言葉 知恵の言葉と言う意味です
勿論巷に呼ばわる言葉もそうですが
一番我々にはっきりとその姿を見せるのは
聖書であり
そして私たちがこれまで学んで来た古代哲学者達の言葉です
勿論貴方が知恵に到達していれば
貴方から発せられる言葉もまたその様に言われるのです
知恵が言葉と体現したもの それを知識と言うのです
その観点で知識に関する言葉を学んで御覧なさい
貴方の知恵ある言葉に依ってこの世は創られるのです
「三より万物が生まれる」のです
知恵が英知を生み
英知が分別を生み
分別が知識を生み
知識がこのワンダフルワールドを創り上げて行くのです
それではもう2000字を越えそうですので
今度こそご堪能あれ
知恵の言葉の数々を!
なお知恵の言葉の数々は次のメッセから始まります
「ソロモンを師として 箴言より その11」に続きます
ソロモンを師として 「箴言」より その12 2004/ 4/ 9 0:07
「ソロモンを師として 箴言より その11」からの続きです
ソロモンの知恵の言葉の数々です
ご堪能あれ
なお「ソロモンの知恵の数々」は三分割されています
これはその1です
《知恵にかんする言葉》
「知恵ある子は父の喜び 愚かな子は母の嘆き」(10章)
「知恵ある心は戒めを受け入れ 無知な唇は滅びに落とされる」(10章)
「知恵ある人は知識を隠す 無知な者には破滅が近い」(10章)
「愚か者は悪だくみをし 英知ある者は知恵を楽しむ」(10章)
「高慢には軽蔑が伴い 謙遜には知恵が伴う」(11章)
「神に従う人の結ぶ実は命の木と成る 知恵ある人は多くの魂をとらえる」(11章)
「無知な者は自分の道を正しいと見なす 知恵ある人は勧めに聞き従う」(12章)
「軽率な一言が剣の様に刺す事もある 知恵ある人の舌は癒す」(12章)
「子は父の諭しに依って知恵を得る 不遜な者は叱責に聞き従わない」(13章)
「高慢に振舞えば争いになるばかりだ 勧めを受け入れる人は知恵を得る(13章)
「知恵ある者と共に歩けば知恵を得 愚か者と交われば災いに遭う」(13章)
「知恵ある女は家庭を築く 無知な女は自分の手でそれを壊す」(14章)
「無知な者の口には傲慢な杖 知恵ある人の唇は自分を守る」(14章)
「不遜であれば知恵を求めても得られない 聡明であれば知識は容易に得られる」(14章)
「思慮深い人は自分の知恵に依って道を見分ける 愚か者の無知は欺く」(14章)
「知恵ある人は畏れに依って悪を避け 愚か者は高慢で自信を持つ」(14章)
「知恵ある人の冠はその富 愚か者の冠はその無知」(14章)
「聡明な心は知恵に憩っているが 愚か者の中では自らを示す」(14章)
「知恵ある人の舌は知識を明らかにし 愚か者の口は無知を注ぎだす」(15章)
「知恵ある人の唇は知識を振りまく 愚か者の心は定まらない」(15章)
「不遜な者は懲らしめられる事を嫌い 知恵ある人の元に行こうとしない」(15章)
「知恵ある子は父を喜ばせ 愚か者は母を侮る」(15章)
「命を与える懲らしめに聞き従う耳は 知恵ある人の中に宿る」(15章)
「主を畏れる事は諭しと知恵 名誉に先立つのは謙遜」(15章)
「知恵を得る事は金にも優り 分別を得る事は銀よりも望ましい」(16章)
「心に知恵のある人は聡明な人と呼ばれる 優しく語る唇は説得力を増す」(16章)
「知恵ある心は口の言葉を成功させ その唇に説得力を加える」(16章)
「ソロモンを師として 箴言より その13」に続きます
ソロモンを師として 「箴言」より その13 2004/ 4/ 9 0:11
「ソロモンを師として 箴言より その12」からの続きです
ソロモンの知恵の言葉の数々です
ご堪能あれ
なお「ソロモンの知恵の数々」は三分割されています
これはその2です
「愚か者が代金を手にしているのは何の為か 知恵を買おうにも心が無いではないか」(17章)
「分別のある人は顔を知恵に向け 愚か者は目を地の果てに向ける」(17章)
「無知な者も黙っていれば知恵があると思われ 唇を閉じれば聡明だと言われる」(17章)
「人の口の言葉は深い水 知恵の源から大河の様に流れる」(18章)
「聡明な心は知識を獲得する 知恵ある耳は知識を追求する」(18章)
「勧めに従い諭しを受け入れよ 将来知恵を得る事が出来る様に」(19章)
「不遜な者を打てば浅はかな者は熟慮を見分ける 聡明な人を懲らしめれば知恵を見分ける」(19章)
「酒は不遜強い酒は騒ぎ 酔う者が知恵を得る事は無い」(20章)
「不遜な者を罰すれば浅はかな者は知恵を得る 知恵ある人を目覚めさせれば彼は知識を得る」(21章)
「知恵ある人の住まいには望ましい宝と香油がある 愚か者はそれを飲み尽くす」(21章)
「知恵ある人はたった一人で勇志たちの町に上り その頼みとする砦を落とす事が出来る」(21章)
「どの様な知恵もどの様な英知も勧めも 主の御前には無に等しい」(21章)
「我が子よ貴方の心が知恵を得れば 私の心は喜び祝う」(23章)
「我が子よ聞き従って知恵を得よ 貴方の心がまっすぐに進む様に」(23章)
「真理を得よ 知恵も諭しも分別も手放すな」(23章)
「神に従う人父は大いに喜び 知恵ある人の親はその子に依って楽しみを得る」(23章)
「家は知恵に依って築かれ 英知に依って固く立つ」(24章)
「知恵ある男は勇敢に振舞い 知識ある男は力を発揮する」(24章)
「無知な者には知恵は高尚過ぎる 城門で口を開くべきではない」(24章)
「我が子よ蜜を食べてみよそれは美味だ滴る蜜は口に甘い
その様に魂にとって知恵は美味だと知れ
それを見出すなら確かに未来はある
貴方の希望が断たれる事は無い」(24章)
「我が子よ知恵を得て私の心を楽しませよ そうすれば私を嘲る者に言葉を返す事が出来る」(27章)
「自分に依り頼むは愚か者だ 知恵に依って進む人は救われる」(28章)
「知恵を愛する人は父を喜ばせる 遊女を友とする者は財産を失う」(29章)
「不遜な者らが町に騒動を起こす 知恵ある人々は怒りを静める」(29章)
「知恵ある人が無知な者と裁きの座で対すると 無知な者は怒り嘲笑い静まる事が無い」(29章)
「愚か者は自分の感情を曝け出す 知恵ある人はそれを制し静める」(29章)
「イスラエルの王ダビデの子ソロモンの箴言
これは知恵と諭しを弁え 分別ある言葉を理解する為」(1章)
「主を畏れる事は知恵の始め 無知な者は知恵も諭しも侮る」(1章)
「知恵に耳を傾け 英知に心を向けるなら
分別に呼びかけ 英知に向かって声を上げるなら
銀を求める様にそれを訪ね 宝物を求める様にそれを探すなら
貴方は主を畏れる事を知り 神を知る事に到達するだろう
知恵を授けるのは主 主の口は知識と英知を与える」(2章)
「知恵が貴方の心を訪ね 知識が魂の喜びとなり
慎重さが貴方を保ち 英知が守って呉れる」(2章)
「知恵ある者は名誉を嗣業として受け 愚か者は軽蔑を受ける」(3章)
「知恵を獲得せよ 分別を獲得せよ
知恵を捨てるな 彼女は貴方を見守って呉れる
分別を愛せよ 彼女は貴方を守って呉れる
知恵の始めとして 知恵を獲得せよ
これまでに得たもの全てに代えても 分別を獲得せよ
知恵を懐に抱け 彼女は貴方を高めて呉れる
分別を抱きしめよ 彼女は貴方に名誉を与えて呉れる」(4章)
「私は貴方に知恵の道を教え 真直ぐな道に貴方を導いた
歩いても貴方の足取りはたじろがず 走っても躓く事は無いだろう」(4章)
「我が子よ私の知恵に耳を傾け 私の英知に耳を傾けよ
そうすれば貴方は唇に慎みを守り 知識を保つ事が出来る」(5章)
「知恵に『貴方は私の姉妹』と言い 分別に『私の友』と呼びかけよ」(7章)
「不遜な者を叱るな彼は貴方を憎むだろう 知恵ある人を叱れば彼は貴方を愛するだろう」(9章)
「知恵ある人に与えれば彼は知恵を増す 神に従う人に知恵与えれば彼は説得力を増す」(9章)
「主を畏れる事は知恵の始め 聖なる方を知る事は分別の始め」(9章)
「貴方に知恵があるならそれは貴方のものだ 不遜であるならその咎は独りで追うのだ」(9章)
「ソロモンを師として 箴言より その14」に続きます
ソロモンを師として 「箴言」より その14 2004/ 4/ 9 0:13
「ソロモンを師として 箴言より その13」からの続きです
ソロモンの知恵の言葉の数々です
ご堪能あれ
なお「ソロモンの知恵の数々」は三分割されています
これはその3です
《英知に関する言葉》
「心無い者は友人を侮る 英知ある人は沈黙を守る」(11章)
「忍耐に依って英知は加わる 短気な者は益々無知になる」(14章)
「意志の弱い者は無知が喜びとなり 英知ある人は歩みを正す」(15章)
「口数を制する人は知識を弁えた人 冷静な人には英知がある」(17章)
「愚か者は英知を喜ばず 自分の心を曝け出す事を喜ぶ」(18章)
「心を得た人は自分の魂を愛する 英知を守る人は幸いを見出す」(19章)
「思い計らいは人の心の中の深い水 英知ある人はそれを汲み出す」(20章)
《分別に関する言葉》
「反乱の時には国に首領と成る者が多く出る 分別と知識のある人一人に依って安定は続く」(28章)
「教えを守るのは分別のある子 放蕩者と交わる者はその父を辱める」(28章)
「金持ちは自分を賢いと思い込む 弱くても分別ある者は彼を見抜く」(28章)
《知識に関する言葉》
「神を無視する者は口先で友人を破滅に落とす 神に従う人は知識に依って救い出される」(11章)
「諭しを愛する人は知識を愛する 懲らしめを憎む者は愚かだ」(12章)
「思慮深い人は知識を隠す 愚かな心はその無知を言い触らす」(12章)
「思慮深い人は皆知識に基づいて振舞う 愚かな者は無知を曝け出す」(12章)
「愚か者は無知を嗣業とし 熟慮ある人はその知識を冠とする」(14章)
「愚か者の前から立ち去るがよい 彼に知識ある唇を認める事は出来ない」(14章)
「聡明な心は知識を求め 愚か者の口は無知を友とする」(15章)
「我が子よ諭しに聞き従う事を止めるなら 知識の言葉から忽ち迷い出るであろう」(19章
「知識が無ければ欲しても不毛だ あまり足を急がせると過ちを犯す」(19章)
「金もあり珠玉も多い しかし貴いのは知識ある唇」(20章)
「主の目は知識を守り 欺きの言葉を滅ぼす」(22章)
「貴方の心を諭しの言葉に 耳を知識の言葉に傾けよ」(23章)
「知識は部屋を満たし 貴く喜ばしい財産となる」(24章)
どうです
ご堪能出来ましたか
まだまだ足りない?
そう言う方には取って置きの言葉が用意されていますので
ご期待下さい
予告
それは「知恵の勧め(三)」
今日はここまでにしたいと思います
ソロモンを師として 「箴言」より その15 2004/ 4/12 23:00
ソロモンの箴言シリーズは未だ続きます
どうでしたか知恵の言葉の数々は
三日三晩空いてしまったので
もう忘れてしまいしたか
もう一度読み返して御覧なさい
貴方方はその言葉に依って意気上がりましたか
それとも意気消沈しましたか
私はどちらの方々も愛します
前者は既に到達した人
若しくはそれは垣間見た人です
彼らはそれらに向かって更に邁進する事でしょう
後者の人々は打ちひしがれた人々です
彼らは心貧しき人々です
自らを愚か者と認めた者たちです
彼らには目標が出来た
知恵と言う目標が
彼らがその目標に向かって進めば
彼らも何時しか知恵を得る事でしょう
そして彼らも何時しか幸いな人と呼ばれる事でしょう
どちらでもなかった人々
貴方方は未だ当分の間
無知蒙昧の闇の中で蠢くしかない様ですね
知恵に目を向けよ
貴方の頭上であんなにも輝いているではないか
貴方の目の前でその後ろで右に左に
知恵は貴方の為に輝いているではないか
どうして貴方にはそれが見えない
目明きの目の見えない人たちよ
さて愈々「知恵の勧め(三)」です
やはりその前に皆さんに質問を出して置きましょう
知恵とは何かと
もうその事が分かった人は
私と一緒にこれから「知恵の勧め(三)」を見て行く事にしましょう
そうでない方はやはりもう一度復習して下さい
この箴言シリーズにソロモンの知恵の言葉が全て収録されています
それは大きく分けて二つです
一つは知恵の勧め(一)(二)(四)です
これは全文掲出しています
もう一つは鏤められた知恵の言葉の数々です
これらは前4回のメッセの中に集約されています
と言うよりも
この箴言シリーズ すなわち
「ソロモンを師として 箴言より」のその1からその13までを通読して下さい
そうすれば貴方方はソロモンの言う所の知恵が分かるでしょう
分かりたくないと言う貴方方
貴方方こそ真に知恵を求めている人です
早速「箴言」そのものを読みなさい
それは貴方方の肥やしと成る
貴方方はそれを土壌として
貴方方の内に大きな木を生やす事に成るだろう
食べても尽きない命の実の成る木を
知恵と知識
もう一度ここで総括しなさい
それでは愈々「知恵の勧め(三)」を見て行く事にしましょうか
いえ未だ2000字には少し余裕がありそうですので
もう少し前語りを語る事としましょう
主はその道の初めに私を造られた
いにしえの御業になお先立って
永遠の昔私は祝別されていた
大初 大地に先立って
私は生み出されていた
深淵も水のみなぎる源も未だ存在しない時
私は生み出されていた
山々の基も未だ据えられておらず丘も無かった時
これは知恵の言葉です
ここで言う私とは知恵が自らを自称しているのです
皆さん
知恵の勧め(三)を読む前に
知恵に関する必要最小限のこの知識だけは身に付けて置いて下さい
そうでなければ貴方は絶対に知恵を知る事は出来ません
知恵は存在です
そして貴方方に呼びかけるのです
知恵が呼びかけ英知が声を上げているではないか
高い所に登り
道のほとり四つ角に立ち
城門の傍ら町の入り口城門の通路で呼ばわっている
人よ と
貴方方にはその声が聞えないのか
耳の開いた耳の聞えない人たちよ
貴方たちは聞くには聞くが決して理解せず
見るには見るが決して認めない
この民の心は鈍り耳は遠くなり目は閉じてしまった
こうして彼らは目で見る事無く耳で聞く事無く心で理解せず悔い改めない
私は彼らを癒さない
イエスがこの言葉を貴方方に対して言わない様に
その目でしっかり見なさい
その耳でしっかり聞きなさい
そしてその心でしっかり感じなさい
貴方の目の前に居る知恵と言うその存在を
さて愈々「知恵の勧め(三)」を見る事にしましょうか
いえ未だ2000字に余裕がありそうです
そう言う訳でもう少し前語りを語る事にします
私を愛する人を私も愛し
私を捜し求める人は私を見い出す
これは老子にも同じ様な言葉がありましたよね
道に同じる者には道もまたこれを得ん事を願うと
これが知恵に関する究極の信仰です
愛し求める
これが如何なる時代如何なる場所においても
変わる事に無い真理ではないですか
これを信仰を呼ぶのです
貴方は何を信仰しますか
金銭ですか
そんな人はここに集う人々の
ソロモンを師として 「箴言」より その16 2004/ 4/12 23:25
「ソロモンと師として 箴言より その15」からの続きです
私を愛する人を私も愛し
私を捜し求める人は私を見い出す
これは老子にも同じ様な言葉がありましたよね
道に同じる者には道もまたこれを得ん事を願うと
これが知恵に関する究極の信仰です
愛し求める
これが如何なる時代如何なる場所においても
変わる事の無い真理ではないですか
これを信仰を呼ぶのです
貴方は何を信仰しますか
金銭ですか
そんな人はここに集う人々の中には一人もいません
しかし知識信仰科学信仰の方は幾らか見受けられるようです
知識と知恵
どちらが素晴らしいか未だ理解できていないのですかね・・・
さて愈々知恵の神秘の言葉「知恵の勧め(三)」の全文です
しっかり読み込んで知恵とは何か理解して頂ければ有難いと思います
何故なら知恵こそが次のシリーズのキーワードなのですから・・・
知恵の勧め(三)
知恵が呼びかけ
英知が声を上げているではないか
高い所に登り道のほとり四つ角に立ち
城門の傍ら町の入り口城門の通路で呼ばわっている
人よ
貴方たちに向かって私は呼びかける
人の子らに向かって私は声を上げる
浅はかな者は熟慮する事を覚え
愚か者は反省する事を覚えよ
聞け私は指導者として語る
私は唇を開き公平について述べ
私の口はまことを唱える
私の唇は背信を忌むべき事とし
私の口の言葉は全て正しく
邪な事も曲がった事も含んでいない
理解力ある人にはそれが全て正しいと分かる
知識に到達した人にはそれが全て真直ぐであると分かる
銀よりもむしろ私の諭しを受け入れよ
精選された金よりも知識を受け入れよ
知恵は真珠に優り
どの様な財宝も比べる事は出来ない
私は知恵 熟慮と住まい
知識と慎重さを備えている
主を畏れる事は悪を憎む事
傲慢の道悪の道暴言を吐く口を私は憎む
私は勧告し成功させる
私は見分ける力であり威力を持つ
私に依って王は君臨し
指導者は正しい掟を定める
君侯自由人正しい裁きを行う人は皆
私に依って治める
私を愛する人を私も愛し
私を捜し求める人は私を見出す
私の元には富と名誉があり
優れた財産と慈善もある
私の与える実りはどの様な金純金にも優り
私の齎す収穫は精選された銀にも優る
慈善の道を私は歩き
正義の道を私は進む
私を愛する人は嗣業を得る
私は彼らの倉を満たす
主はその道の初めに私を造られた
いにしえの御業になお先立って 永遠の昔私は祝別されていた
大初 大地に先立って 私は生み出されていた
深淵の水も水のみなぎる源も未だ存在しない時
山々の基も据えられておらず丘も無かったが
私は生み出されていた
大地も野も地上の最初の塵も未だ造られていなかったが
私はそこにいた
主が天をその位置に備え深淵の面に輪を描いて境界とされた時
主が上から雲に力を持たせ深淵の源に勢いを与えられた時
この原始の海に境界を定め水が岸を越えない様に大地の基を定められた時
御もとにあって私は巧みな者と成り
日々主を楽しませる者と成って
絶えず主の御前で楽を奏し
主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し
人の子らと共に楽しむ
さて人の子らよ 私に聞き従え
私の道を守る事はいかに幸いな事か
諭しに聞き従って知恵を得よ
等閑にしてはいけない
私に聞き従う者私の扉を窺い戸口の柱を見守る者はいかに幸いな事か
私を見い出す者は命を見い出し
主に喜び迎えて頂くことが出来る
私を見失う者は魂を損なう
私を憎む者は死を愛する者
ソロモンを師として 「箴言」より その17 2004/ 4/13 23:28
今日もソロモンの箴言シリーズは続きます
さて皆さん
「知恵の勧め(三)」は如何でしたか
もう感興が薄れてしまった
いけませんね そんな事では
もう一度読み直しなさい
そして今一度
私と一緒にその感興を共にしましょう
さて皆さんは知恵の正体が分かりましたか
これほどはっきりと
知恵が自らの事を語った事はないのではないですか
知恵が自らの正体を明らかにし
自ら一人称で貴方たちに語りかけましたよね
貴方たちはその言葉の一つ一つをちゃんと聞きましたよね
私はもう貴方たちに言わせません
私は知恵の事など知らないなどと
もし貴方たちが
私は知恵の事など知らないと言ったら
貴方方は嘘つきだ
そう呼ばれて
それに甘んじるのなら
それはそれで良いでしょう
元々貴方方はそう言う人ですから
つまり嘘つきと言う
私は敢てその様な人たちとは語りません
しかし貴方がこう言うのなら猶予を与えましょう
私には理解できなかった と
そう言う人たちにはこう勧告します
もし理解したくないのならここに来るな と
もし理解したいのなら
私の示唆に従ってもう一度
「知恵の勧め(三)」を読み直しなさい と
もっと理解したいなら
「箴言」そのものを読め
もっともっと理解したのなら
「聖書」を読め
もっともっともっと理解したいなら
私と同じく古代哲学遍歴の旅を続けよと
さてもう一度「知恵の勧め(三)」を読まれる方に
サジェスチョンを与える事にしましょう
知恵の勧め(三)では
知恵が自らの事を私と言っていますよね
私と言う言葉がなんと33回も出てくるのです
私は何々である
私は何々をする
こんな簡単な日本語が分からない人がいるでしょうか
分からないと言う人たちはこう言う人たちです
見るには見るが見ない
聞くには聞くが聞かない人たちです
彼は一生悟る事が無いのです
だからイエスも呆れてこう言い放ってしまうのです
私は貴方を癒さないと
皆さん愚か者にならない為にも
この知恵の勧め(三)を自分の物にする事としましょう
さて私は固いものを食べる事が出来ない幼子の様に
噛み砕いて貴方方に食べさせる事にしましょう
すなわち私〈知恵〉が言った事をここに全て挙げる事にしましょう
「人よ 貴方に向かって 私は呼びかける」
「人の子らに向かって 私は声を上げる」
「聞け 私は指導者として語る」
「私は唇を開き 公平について述べる」
「私の口はまことを唱える」
「私の唇は背信を忌むべき事とする」
「私の口の言葉は全て正しく 邪な事も曲がった事も含んでいない」
「銀よりもむしろ 私の諭しを受け入れよ」
「私は知恵 熟慮と住まい 知識と慎重さを備えている」
「暴言を吐く口を 私は憎む」
「私は勧告し成功させる」
「私は見分ける力であり威力を持つ」
「私に依って王は君臨し 支配者は正しい掟を定める」
「君侯自由人正しい裁きをする人は皆 私に依って治める」
「私を愛する人を 私は愛する」
「私を捜し求める人は 私を見い出す」
「私のもとには富と名誉があり優れた財産と慈善がある」
「私の与える実りはどの様な金純金にも優る」
「私の齎す収穫は精選された銀に優る」
「慈善の道を 私は歩く」
「正義の道を 私は進む」
「私は愛する人は嗣業を得る」
「私は彼らの倉を満たす」
「主はその道に初めに 私を造られた いにしえの御業になお先立って」
「永遠の昔 私は祝別されていた 大初 大地に先立って」
「私は生み出されていた 深淵も水の漲る源も未だ存在しない時」
「私は生み出されていた 山々の基も未だ据えられておらず丘も無かったが」
「私はそこにいた 主が天をその位置に備え深淵の面に輪を描いてその境界とされた時」
「さて人の子らよ 私に聞き従え」
「私の道を守る者はいかに幸いな事か」
「私に聞き従う者日々私の扉を窺い戸口の柱を見守る者はいかに幸いな事か」
「私を見い出す者は命を見い出し主に喜び迎えて頂く事が出来る」
「私を見失う者は魂を損なう」
「私を憎む者は死を愛する者」
「御もとにあって 私は巧みな者と成り
日々主を楽しませる者と成って
絶えず主の御前で楽を奏し
主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し
人の子らと共に楽しむ」
さて皆さん
もう知恵の事分かりましたよね
知恵がこれほど大サービスをする事は滅多に無い事ですよ
この際にしっかり知恵をマスターして置きなさい
まさか未だ分からないと言う人は居ませんよね
もし居たら「箴言」を100回読みなさい
読書百遍意自ずか通じる で
ソロモンを師として 「箴言」より その18 2004/ 4/13 23:38
「ソロモンを師として 箴言より その17」からの続きです
「知恵の勧め(三)」の続きです
「知恵が呼びかけ 英知が声を上げているではないか」
私は皆さんにお聞きしたいのですが
本当に知恵の呼びかけを聞いた事がないのですか
まさかそんな事はありませんよね
皆さん正直に手を上げて下さい
私は知恵の呼びかけなど聞いた事が無いと言う方は
良かった
皆さん聞いた事があるのですね
今後はその呼びかけにもっともっと耳を澄ませて下さいね
そうすれば貴方はもっともっと善き人に成ります
貴方が善き人に成れば成るほど
この世界もまた善き世界
すなわちワンダフルワールドへと変わって行くのです
知恵の実は言葉です
どうか貴方の知恵の生果をここに掲げて下さい
そしてみんなで楽しみましょう
貴方のその甘い知恵の実は
更に私たちにたくさんの知恵の実を齎して呉れるのです
そこに善き世界の輪廻が続くのです
どうか貴方の一言で
極楽の世界へのきっかけを作って下さい
そして貴方の言葉でその世界を回し続けて下さい
知恵ある人々へ
さてもう少し「知恵の勧め(三)」を見て行く事にしましょう
私はここで自分が言った事に矛盾を感じてしまったのです
私は皆さんに所変われば名も変わると 言って
聖霊 神霊 ダイモーン 道 仁 貴方の神である主
そして知恵も皆同じものであると言い続けて来ましたが
この知恵の勧め(三)には次の様な言い回しがあるのです
もっともこの言い回しはここだけではなく
聖書のあちこちでこの様な言い回しがあるのですが・・・
「主はその道の初めに私を作られた」
「永遠の昔私は祝別されていた」
「私は生み出されていた 未だ○○も存在しない時」
「私はそこにいた 主が天の位置を備え○○した時」
「御もとにあって 私は巧みな者と成となり
日々主を楽しませる者と成って
絶えず主の御前で楽を奏し
主の造られたこの地上の人々共に楽を奏し」
ここでは全て主と知恵が対に成っています
主が知恵ならそう言う表現は有り得ない筈です
しかし有り得るのです
それが三位一体の神秘なのです
三位一体とは神と聖霊とイエスが同じだと言う事です
であれば主と知恵と貴方も三位一体であると言う事なのです
三位一体の捉え方は色々あります
神と聖霊とイエスが三重の同心円だと言う捉え方もありますが
神は無限の円でありイエスと聖霊がその中にある二重の同心円だと言う捉え方もあります
新約聖書にはその様に書いてあり私もその様に思います
イエスこそは聖霊がそのまま人と成ったものだと
主と知恵と貴方
ここで言う主とは 神聖霊イエスの三位一体の中の神の事であり
知恵とは聖霊の事であり
貴方とはそこに居る貴方の事です
神聖霊イエスの三位一体のイメージは
無限の神の円の中に
その神の無限の円の中心点を中心点とする聖霊とイエスを同心円とする二重円が存在する と言うイメージです
主と知恵と貴方の三位一体のイメージは
無限の神の円の中に
その神の円の中心点を中心点とする知恵の同心円が存在し
その知恵の円の中心点そ中心点とする貴方の同心円が存在する
と言うイメージです
知恵の円は無限の神の円に限り無く近づくと共に
貴方のちっぽけな円にも近づいて呉れるのです
しかし貴方の円のちっぽけさよ
貴方の円をイエスの円に近づける事
それが貴方の義務
知恵は伸縮自在融通無碍
知恵に依り頼みなさい
それ依って貴方はその無限とも言われる神を感じる事が出来る
私の言う知恵の意味が分かりましたか
言葉に囚われない事
これが何よりも大切
「私に躓かない者は幸いである」
宗教宗派の争いが何故起こるか知っていますか
皆言葉に躓いているのである
だから私は貴方方に勧めるのです
最も宗教色の無い「知恵」を信仰の旗頭にしなさいと
ギリシアがアテネを信仰していた様に
我々現代人は知恵を信仰する事にしようではないか
知恵は全ての哲学の基ですが
全ての宗教にも風の様に入っていけるのです
誰も知恵と争う者は居ません
何故なら知恵も神と同じ様に
全てを善しとする存在なのですから
ただし諭し戒める事はあります
それは貴方方を愛しているが為です
この素晴らしき世界の一員に
貴方が早く成れる様にと
早く神と知恵と貴方の同心円の中心点を見付けて下さい
そこからこの素晴らしき世界が始まるのです
その円の中心点はどこに在るかって
それは貴方の心の中です
貴方の心の中をずっと見続けて御覧なさい
ほらその奥底に微かに光っているでしょう
それがそれで
知恵の旅 総括 2004/ 4/15 23:03
さて前回でソロモンの箴言シリーズは終わりです
そして古代哲学の旅も終わりです が
次の企画に行く前に
この哲学の旅を総括して置きましょう
皆さんこの旅の目的は何だったと思いますか
それはずばり知恵 知恵の讃歌です
私はここで知恵を高く掲げ
皆さんと一緒に知恵を楽しみたいと思ったのです
皆さん知恵を楽しんで頂けましたか?
全然!
そう言う皆さんの為に次の企画が用意されているのです
標題だけを掲げて置きましょう
それは「哲学革命 知恵を旗頭に!」です
具体的内容については追々説明して行きますが
その為にも
今回の古代哲学の旅を総括して置かなければ成らないのです
今回の哲学の旅
これは言い換えれば知恵の旅です
この知恵の旅について総括して置きましょう
先ずは旅の軌跡を辿る事にしましょう
それは次のとおりでしたよね
1 イエス「マタイ福音書」(日本聖書教会「聖書」より)
2 釈迦「法句経」(岩波文庫「真理のことば・感興のことば」より)
3 エピクロス「メノイケウス宛ての手紙」(岩波文庫「エピクロス」より)
4 エピクテトス「要録」(中央公論社「世界の名著キケロ・エピクテトス・マルクスアウレリウス」より)
5 セネカ「人生の短さについて」(岩波文庫「人生の短さについて」より)
6 マルクス・アウレリウス「自省録」(岩波文庫「自省録」より)
7 ソクラテスプラトン「饗宴」(岩波文庫「饗宴」より)
8 孔子「論語」(岩波文庫「論語」より)
9 老子「老子」(講談社文庫「老子」より)
10 ダビデ「詩編」(日本聖書教会「聖書」より)
11 ソロモン「箴言」(日本聖書教会「聖書」より)
皆さんはもう全部読んで頂けましたか
短いものは10分
長いものでも半日もあれば読み切る事が出来ます
土日を丸々使えば1週間で読み切る事が出来ます
どうか今日から読み始めて下さい
そうすればきっと1週間後には
知恵者としてここに立つ事に成ると思います
何故ならば知恵が貴方を放さないだろうから
知恵は貴方方にこれでもかこれでもかと
ご馳走を下さる筈です
貴方は貪欲な程に次から次へと
それらを胃の中に投げ込みますが
貴方の胃は決して満る事無く
次から次へとそれらを消化して行くのです
そして1週間後に思うのです
私は変わったのかな と
そう貴方はもう知恵の実を食べてしまったのです
貴方はもう引き返す事が出来なくなってしまうのです
貴方は知恵の実を食べてしまうと
知恵の下僕とならなけばならなくなるのです
貴方が知恵の実と食べてこの世に居残ろうとすると
あのアダムとイブの様に知恵から迫害を受ける様に成ります
知恵の実を食べたからには
その園に残って知恵の下僕とならなければいけないのです
そう1週間後には貴方は知恵の下僕と成って
ここに立つ事になるのです
だからこの1週間を使ってこれら知恵の書を読みきりなさい
貴方が知恵と共に在る者に成る為に
知恵と貴方の関係
それは主と僕
だから皆主よ主よと呼ぶのす
もし未だ貴方が僕に成りたくないと言うのなら
別な名で呼んでもいいでしょう
例えば師とか若しくは友とか彼女とか
その場合でも貴方の一歩先を行く
友であり彼女でなくてはいけない
何故なら知恵とは
貴方を常にリードし導く存在なのだから
やはり私は思う
友や彼女では駄目だと
貴方方は何時しかその友をその彼女を
貴方の下に持って来るだろうから
やはり知恵の呼び名は師以上ではなくてはならないだろう
因みに巷で呼ばれている知恵の呼び名をここに示して置こう
もっとポピュラーなものが主
それらか聖霊 神霊 ダイモーン 仁 道
もっともこれらは概念的なものであり
呼びかけの名としては
やはり主よとか私の神よとか父よとか我が師よとか貴方ととかなるのでしょう
まあ 呼びかけの名は貴方が抵抗無く呼べる名を考えればよいでしょう
例えば私の至高なるお方よ とか
もし貴方が知恵の事をそう呼べば
知恵はその名に相応しい存在として貴方に現れる事に成る
私ですか それは秘密です
しかし私は知恵を知恵そのままに捉え様とする傾向にあると思います
だから私の醜名はsophialover知恵の愛人です
さて脱線してしまったようです
今日のメッセの目的は知恵の旅の総括です
そして次の企画へと導く道標とする為です
2000字を越えたので二分割しています
「知恵の旅の総括 その2」に続きます
知恵の旅 総括 その2 2004/ 4/15 23:06
2000字を越えたので二分割しています
「知恵の旅の総括 その1」からの続きです
さて脱線してしまったようです
今日のメッセの目的は知恵の旅の総括です
そして次の企画へと導く道標とする為です
さて私たちは先ずイエスの「マタイ福音書」から何を学んだのでしょうか
それは「父と子と聖霊」の名に依ってと言う事でしたよね
父とは何の事でしょう
それは貴方方一般的に考えている神の事です
全宇宙の主宰者としての神です
それには様々な比喩が当てられますが
存在とか実存と言う比喩が最もぴったりでしょう
かつて在り今も在りそして未来にも在る
人間が捉えられる全ての存在の事です
さて子とは勿論イエスの事ですが
貴方自身の事でもあるのです
これは次の聖霊との関係で捉えなければいけません
三位一体の神秘の特筆すべき事は
聖霊がイエスと言う人の姿を取ったと言う事なのです
ここで言う聖霊とは知恵の事です
知恵が人と成った これがイエスの神秘です
私たちは知恵を通してこの実存を知る訳ですが
ここにまた三位一体の神秘があるのです
知恵とは実存の言葉
それを比喩的に言えば
神からの言葉と成るのです
聖霊すなわち知恵がそのまま人と成れば
それは全て実存
比喩から言えば神からの言葉と成るのです
だからイエスの言葉は知恵〈実存〉の言葉であり
神からの言葉なのです
さてイエスの「マタイ福音書」から学んだもう一つの重要な事は
あの黄金律ですよね すなわち
「『心を尽くし精神を尽くし思いを尽くして貴方の神である主を愛しなさい』
これが最も重要な第一の掟である
第二もこれと同じ様に重要である
『隣人を自分の様に愛しなさい』
律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」
そうこれこそが全ての宗教そして全ての善き哲学の黄金律なのです
この掟に従っている限り
貴方は神の子であり人の子なのです
人の子として隣人を自分の様に愛する
それは神の子だから出来るのです
分かるかな
神の事を精神の限りを尽くして愛し尽くし神の子となる
そうすればそこに自然と人の子として道が出来て来るのです
分かるから
分かる人は分かりなさい
さてここで長居をしてはいけないのです
何故ならここは総括の場だから
総括が長々していては総括に成らないでしょうから
さて次に見たのが
釈迦の「法句経」でしたよね
法句経は難しかった
何故なら「父と子と聖霊」を見付ける事が出来なかったからです
勿論子は釈迦なのでしょうが
父と聖霊
すなわちか実存と知恵を見出し得なかったのです
しかしそれはやはり知恵です
その謎を見事に解き明かして呉れたのです
それはニルヴァーナです
ここに三位一体の神秘があったのです
ニルヴァーナ
それは私と知恵と実存が
その区別無く溶け合った状態なのです
イエスの言う所の天国
それはニルヴァーナです
私と知恵と実存がその区別無く溶け合った状態の事です
イエスはそこへの道を
主に依り頼め聖霊に依り頼め知恵に依り頼めと唱えたのですが
釈迦はそう言う事は言いませんでした
その代わり法句経の釈迦は厳しい戒律と修行を置いたのです
すなわちあの黄金律の第二の掟を先に持って来たのです
愛の修行の途上に知恵が芽生えると説いたのです
それは真実です
しかしそれを実現出来るのはほんの限られた人です
法句経の釈迦の教えはエリート集団すなわち僧団の為の教えです
あの教えだけで知恵に到達する事は出来ませんが
知恵への憧れを掻き立てて呉れるものです
マタイの福音書と併せて読むべき書でしょう
あの第二の掟を貴方方は良く知る事が出来る様に成る筈ですから
さてエピクロスまで行きましょうか
行きましょう
エピクロスからは快楽主義を学びましたよね
快楽とは何か
未だ分かっていない人はあの書を読みましょう
快楽が全ての生物体の動機付けである
貴方は反論しますか
しかし貴方の快楽はこの世の汚れに染まっている
本当の快楽
至上最高の快楽
それはニルヴァーナ 天国
釈迦もイエスもそれを死後の世界には置いていないでしょう
もし貴方方が知恵と共に在れば
貴方はそこまで行かないまでも
それを垣間見る事が出来る
または疑似体験する事が出来る
そうでない者はちんぷんかんぷん
だからこの1週間だけ騙されたと思って
あの11冊の知恵の書を読んで御覧なさい
今日はここまでにします
知恵の旅 総括 その3 2004/ 4/17 12:19
さて「知恵の旅 総括」を続けましょう
私たちはイエスに始まってソロモンまで
その知恵を経巡って来ましたよね
それを順番通りに挙げると次の通りでしたしたよね
イエス「マタイ福音書」
釈迦「発句経」
エピクロス「メノイケウス宛ての手紙」
エピクテトス「要録」
セネカ「人生の短さについて」
マルクス・アウレリウス「自省録」
ソクラテスプラトン「饗宴」
孔子「論語」
老子「老子」
ダビデ「詩編」
ソロモン「箴言」
その内イエスと釈迦とエピクテトスについては
知恵の旅 総括の その1その2で既に総括しましたよね
イエスからは「父と子と聖霊」の神秘とあの黄金律を
釈迦からはニルヴァーナの神秘を
エピクロスからはエピクロスの快楽主義の神秘を学んだと言う事を総括しましたよね
今日はエピクテトス以降を総括したいと思います
まずはエピクテトスとセネカとマルクス・アウレリウス
彼らはストア派と呼ばれている人であり
時には禁欲主義者と呼ばれたりもします
ストア派の名の由来は知りませんが
禁欲主義者の名は
この世の者が彼らを目して名付けた名の事であり
彼らは自らをちっともそんなには思っていません
彼らは十二分に満足しています
言葉を変えれば
彼らは快楽を十二分に堪能しているのです
彼らを象徴する言葉は自然です
自ずから然り
そうなのです
彼らは自然が欲するままに自然に生き様としているのです
自然に生きて行く為に
どうして松坂牛が必要でしょう
どうして大トロが必要でしょう
極端な事を言えば
パンと水と僅かな添え物あればそれでいいのですが
それではあまりに極端です
日本に限って言えば
日本国憲法が保障する必要最小限の文化的食事でよいのです
それで十二分です
それを越えてしまえば
人間の欲は限り無く広がって行くのです
その象徴が
今我が国に瀰漫しているグルメです
このグルメの為に如何に自然が破壊されているのでしょう
ストア派の人々
いえその名は知らずともストア派的に生きている人々にとって
今のグルメブームは忌々しく映っているかも知れません
しかし真のストア派の人々はそれもまた自然なりと言うのかも知れません
ストア派の人々は大いなる自然と内なる自然と言う言い方をします
これは所変われば名も変わるのあの言葉通りの事です
父と聖霊 神とダイモーン 実存と知恵
それと同じ類です
もうこの事については説明する必要は無いでしょう
私たち人間は自然です
その自然なる人間が生きて行く為に必要な自然は如何程の物なのでしょう
もう一度振り返る必要があるのではないでしょうか
この流れも自然だと言えばそうかも知れませんが
飢えを満たす為の一切れのパンを求めている人がいるかと思えば
究極の極上メロンパンを目指す人もいる
これを自然だと言うのでしょうか
勿論自然だと言えば自然に成りますが・・・
ストア派の根本思想は知足 足るを知るです
私たちが必要な物は全て手の届く所に在るのです
勿論幸福も快楽も
私たちはその圏内に在れば
何にも煩わせられる事無く平穏無事に生きて行けるのです
勿論快楽と幸福の内に
しかし圏内以外の物に手を出そうとした時
この世の桎梏に囚われてしまうのです
貴方はその手かせ足かせで身動き出来なくなってしまうのです
ストア派の人々はその様に説きます
そしてそれは真実です
私は貴方に聞きます
今圏外に在る物で欲しい物はなんですか
それと貴方の幸福と快楽を計りに掛けなさい
もし幸福と快楽が大切だと言うのなら
それを諦めなさい
しかし貴方がこう言うのなら別です
全て圏外に在る物ばかりだと
貴方にはこう言うしかありません
この世の桎梏に繋がれ
一生をこの世の奴隷として生きなさいと
それが貴方の自然だと
さてエピクテトス セネカ マルクス・アウレリウスの三人は
ストア派と目される人々です
この内エピクテトスはかつて奴隷で在った人です
だから禁欲主義が身に付いたのだと言えばそれまでですが
セネカはローマ帝国の宰相まで勤めた人であり
マルクス・アウレリウスに至ってはローマ皇帝に成った人です
その彼らが「知足」を言うのです
中流の貴方方
そろそろ「知足」を知るべき時期に来ているのではないですか!
さてエピクテトス セネカ マルクス・アウレリウスからは
「知足」を学んだと言う事でこの三人の旅を総括する事にしましょう
勿論その背景には
大いなる自然と内なる自然
すなわち神と聖霊 実存と知恵が在る事をお忘れ無き様に
2000字を越えたので二分割しています
知恵の旅 総括 その4 2004/ 4/17 12:22
2000字を越えたので二分割しています
「知恵の旅 総括 その3」からの続きです
さて次にソクラテスプラトンに行きましょう
ここでは「饗宴」を教科書に使いましたよね
私たちはここで何を学んだのでしょうか
そうですね
愛ですね 愛の神秘を学びましたよね
プラトンは愛をダイモーンだと言いましたよね
それは愛は聖霊であり
愛は知恵だと言う事に成ります
そうです
愛と知恵は一卵性双子なのです
アポロンとアルテミスなのです
アポロンが楽を奏し
アルテミスが踊り歌い語るのです
箴言の「知恵の勧め(三)」を覚えていますか
「御もとにあって 私は巧みな者と成り
日々主を楽しませる者と成って
絶えず主の前で楽を奏し
主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し
人の子らと共に楽しむ」
これは知恵の言葉です
そうです アポロンの言葉です
アポロンが楽を奏し
アルテミスが踊り歌い語るのです
アルテミスとは
詩〈うた〉の中では人の子らの事であり
貴方自身に換言すれば
この世の貴方の事です
貴方の中には二つの存在が在る
すなわち知恵と
貴方が貴方と感じている貴方
すなわちこの世に生きている貴方
知恵が楽を奏し
貴方が踊り歌い語るのです
それが愛です
愛が聖霊だと言う意味
それは知恵に依って生み出された子
知恵の子 神の子だから
やはり愛も聖霊だと言う意味なのです
知恵と愛にはこんな神秘があります
二人は一卵性双子であるが
また同時に愛は知恵の子であると言う神秘が
知恵が愛を生んだ後は
知恵と愛は兄妹の様に
仲良く人間と言う存在
すなわち貴方方を助け合うのだと言う神秘が
貴方は知恵であり愛である
貴方は人の子であり神の子である
早くその自覚を持ちなさい
さて私たちはソクラテスプラトンから何を学んだのでしょうか
プラトンは言い切る事をしませんから
後は私たちが言葉を補わなくてはならないのです
プラトンは愛はダイモーンだと言いました
しかし彼はダイモーンは唯一の存在だとは言いませんでした
愛と言うダイモーンの外に
別な名のダイモーンが居る言う風にも解釈出来る言葉使いがあります
しかしどちらも明言していません
ダイモーンは唯一の存在なのかそれともたくさんのダイモーンが存在するのか
「饗宴」を読んだだけでは分かりません
しかし皆さんご安心下さい
私は今の疑問が湧きだしてから
もう一度「ソクラテスの弁明」を流し読みしてみました
そしてダイモーンは唯一の存在であるとの記述がありました
ダイモーンは聖霊であり知恵である
このラインは全然崩れませんでしたので・・・
ソクラテスは「神と聖霊と私」と言う思想をギリシアに持ち込んだ為
死刑に処されたのです
イエスがユダヤに持ち込んだ思想と同じですよね
知恵はいつも迫害に遭うのです
何故ならこの世でなくかの世を説くから
この世に満足している人にとって
これほど危険な思想は無いでしょうから・・・
ダイモーン(聖霊)とは知恵と愛である
ここには私たちがイエスから学んだ
あの二つの事が含まれています
すなわち「父と子と聖霊」とあの黄金律が
すなわち私たちはこう言う事が出来ます
イエスとソクラテスプラトンの根本思想は何ら変わらないと
ソクラテスプラトンはそれをそのまま哲学として置き
イエスはそれを人を実際に導く為の宗教に仕立てたと
御伽噺と比喩に依って
さて私たちはソクラテスプラトンから何を学んだのでしょか
それはソクラテスプラトンとイエスの根本思想は全く同じであると言う事を学んだのです
ソクラテスプラトンの旅はそう言う事と言う事で総括したいと思います
知恵の旅 総括 その5 2004/ 4/18 0:11
さて知恵の旅を総括しましょう
ところで知恵の旅とはどんな旅の事でしょう
そうですね
私たちがこれまで見て来た
イエスからソロモンまでの旅の事ですよね
もう一度それを順番に整理すると次の通りでしたよね
1 イエス「マタイ福音書」
2 釈迦「発句経」
3 エピクロス「メノイケウス宛ての手紙」
4 エピクテトス「要録」
5 セネカ「人生の短さについて」
6 マルクス・アウレリウス「自省録」
7 ソクラテスプラトン「饗宴」
8 孔子「論語」
9 老子「論語」
10 ダビデ「詩編」
11 ソロモン「箴言」
この内1から7までは
「知恵の旅 総括」のその1からその4までで既に総括しましたよね
概要を言うと次の通りでしたよね
イエスからは「父と子と聖霊」と黄金律の神秘を
釈迦からはニルヴァーナの神秘を
エピクロスからは快楽主義の神秘を
エピクテトス セネカ マルクス・アウレリウスの三人のストア派からは
知足と自然の神秘を
ソクラテスプラトンからは愛と知恵とダイモーンとイエスの共通性の神秘を
それぞれ学び
またそれぞれに共通しているものが知恵であると言う事を総括しましたよね
そう言う訳で今日は孔子老子から総括して行きたいと思います
孔子老子は皆さんもご存知の様に
同時代に生きた中国の二大天才ですよね
孔子は仁を説き
老子は道を説いた
共に知恵の事です
重点の置き方が少し違っただけです
孔子は仁に依り人の子として生きる道を主に勧め
老子は道に依り神の子として生きる道を主に進めた
二人とも大天才ですので
当然神の子としての道も人の子としての道も説いているのですが
重点の置き方に温度差があったのです
現代の日本の若者は断然老子に憧れます
何故なら神よ神よと唱えて居ればいいのですから
一方孔子はたくさんの道徳律を置きました
これをこなすことは大変な事です
でも日本の侍たちは武士道としてこれらは立派に果たしたのです
韓国には未だその風が残っています
私は思います
もう一度日本に儒教の風が吹けばいいのにと
それは遂戦前まで残っていたのですから
いえこれは私の主観ですから ここまでにします
老子と孔子は
イエスと釈迦に譬えられます
ここで言う釈迦とは発句経の釈迦の事です
すなわち知恵の前にたくさんの戒律と修行を置いた釈迦の事です
釈迦は一人ですがブッダはたくさんいます
仏教を学ぶ場合そこらを見究める事が大切です
釈迦は純粋な哲学者です
ブッダはそれらを宗教として広める為の比喩としての人物です
千とも万とも言われるその仏教典の主人公です
しかしその根底にあるのは釈迦の知恵です
私が愛するのは釈迦の知恵です
だからなるべくその原典に近いものを拾い読む様にしています
余計な事が長くなってしまったようです
元に戻りましょう
老子と孔子はイエスと釈迦に譬えられる
勿論釈迦とは知恵の前に戒律と修行を置いた釈迦の事ですので 念の為
ここでまた余計な事に成るかも知れませんが
当初の釈迦の哲学の教えだけでは民衆を引っ張って行けないので
後にブッダに神としての要素を語らさせ始めたのです・・・
また余計な事を語ってしまったようですね
元に戻って
老子と孔子はイエスと釈迦に譬えられる
貴方は老子とイエス 孔子と釈迦
どちらを選びますか
断然老子とイエス
私ははっきり言います それでは駄目です
共に学ばなければ成らないのです
それが中庸の道と言うのです
神よ神よとだけ唱えていては駄目なのです
「私に向かって主よ主よと言う者が皆天の国に入れる訳ではない
私の天の父の御心を行う者だけが入るのである」
「『心を尽くし精神を尽くし思いを尽くして貴方の神である主を愛しなさい』
これが最も重要な第一の掟である
第二もこれと同じ様に重要である
『隣人を自分の様に愛しなさい』
律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」
(※最近読まれた方へ 二番目の詩がイエスの黄金律です)
現代の日本において
第一の掟を守ろうとする者は少なからず居る
しかし第二の掟となるとその数はぐっと少なくなる
だから私は勧めるのです
孔子と釈迦の道徳律に学びなさいと
私はこうも言いたいのです
先ずは孔子と釈迦の道徳律から学びなさいと
そうすればこの軟弱な日本も少しは益しに成ると
4000字を越えているので三分割しています
「知恵の旅 総括 その6に続きます
知恵の旅 総括 その6 2004/ 4/18 0:14
4000字を越えているので三分割しています
「知恵の旅 総括 その5からの続きです
さてさて私は脱線しているようです
ここは孔子と老子の旅を総括する場です
私たちは孔子と老子から何を学んだのでしょう
そうですね孔子からは仁と言う知恵を
老子からは道と言う知恵を学んだのですね
孔子は人の子としての道を強く勧め
老子は神の子としての道を強く勧めた
だから私たちは二人を共に学び
人の子として神の子として
その中庸の道を進まなければならないと言う事を学んだのですね
そう言う事で孔子と老子の旅の総括を終わりたいと思います
やはりここでも主題は知恵でしたね
何故も無い
全ては知恵から始まるのですから
また箴言の「知恵の勧め(三)」をここに持って来ますか
もう必要ない
有難うございます
もう貴方は私の良き理解者だ
さて愈々最後です
ダビデとソロモンの旅を振り返って見ましょう
私たちはダビデとソロモンから何を学んだのでしょうか
ダビデからは信仰を
ソロモンからはそのものずばり知恵を学んだのですよね
ところでダビデは何を信仰していたのでしょうか
そうですね 私の神 主ですね
呼びかけるときはほとんど主よです
たまに神よとか私の神よとか呼びかけていますが
ほとんどの場合は主よです
さて主よと呼びかける時
その時のダビデの心境はどんな心境だったのでしょう
その主を何処に視ていたのでしょう
山のあなたの空遠く
もしくは宇宙の涯に向かって
主よと呼びかけていたのでしょうか
そうではありません
貴方と同じ
その心に向かって主よ主よと呼びかけていたのです
そしてその返答も
貴方のその心に還って来ていたのです
だからダビデはあれ程頻繁に
神に呼びかけていたのです
それは義務からだと思いますか
いえそれは快楽からです
私は言いましたよね
快楽こそが全ての生物体の動機付けであると
快楽以外に人をそれほど突き動かすものはないのです
貴方たちが何故恋人に向かうのか
それは快楽の為ではないか
勘違いしないで欲しい
快楽は一つでは無い事を
快楽にも色々な段階がある事を
そう念を押して置かないと
貴方たちがまた変な方向に走るから
恋
それは少年から老いらくの恋まで
そしてそのステップ毎に様々な快楽が用意されている
はっきり言って日本の女性は恋ボケしている
そして世の男性はそれに踊らされている
恋とは真摯なもの
ある意味では一回限りのもの
それを女性は快楽の為に利用している
それは男性よ
貴方方が真の快楽に目覚めていないからだ
真の快楽は知恵への信仰
ダビデの様に
そしてソロモンの様に
知恵は貴方の中に在る
だから貴方が呼びかければ直ぐにも答える
貴方が知恵を信仰すればするほど
知恵は貴方にたくさんの宝をプレゼントして呉れる
この世の快楽をつまにして
男性が真の快楽
すなわち知恵への信仰に目覚めれば女性を変わる
もし日本の男性の分の1が真の快楽
すなわち知恵への信仰に目覚めれば
この日本は大いに変わる
それが私の言う所の
「哲学革命 知恵を旗頭にして!」である
私の革命はじわじわと行く
そして何時しか皆それに熱中する
何故も無い
その革命の動機付けが「快楽」だからだ
快楽の味を覚えた者は
その最後までそれに没頭する
私は聞いた事がある
・・・・・・・・・・・・・・と言う事を
その快楽はそれにもまして凄い快楽
だから人はその快楽に溺れる事になる
その革命の暁に日本はどうなうなるのか
この日本に極楽が
すなわち西方浄土が生まれるのか
私はそれほど楽観はしていない
しかし私は思う
この日本に「知恵の王国」が生まれるかもしれないと
そして後世の人々はこう言うのです
古代ギリシアの並び称される「知恵の王国日本」と
空想は枯野を駆け巡る
とても楽しいものです
またもや脱線してしまったようです
4000字を越えているので三分割しています
「知恵の旅 総括 その7に続きます
知恵の旅 総括 その7 2004/ 4/18 0:16
4000字を越えているので三分割しています
「知恵の旅 総括 その6からの続きです
ここでの目的は
ダビデとソロモンの旅の総括なのです
さて私たちはダビデとソロモンから何を学んだのでしょうか
そうですね
ダビデからは知恵の信仰を
そしてソロモンからはずばり知恵そのものを学んだのでしたよね
あの「知恵の勧め(三)」を教科書にして
私は最後の最後に箴言の「知恵の勧め(三)」を持って来ました
その意図はこれに依って知恵を確信して貰いたかったからです
もう皆さんは知恵を確信出来ましたか
もし確信出来たなら
これを持って
お一人で古代哲学者を経巡って御覧なさい
皆さんが異口同音に知恵を讃えているのが分かりますから
そして知恵の同盟者となって
またここに戻って来てください
革命の同志として
ここに哲学革命を起こしましょう
なお哲学と言う言葉について
知恵を理解している人はもう分かっていると思いますが
そうでない人も居ると思いますので
ここで哲学と言う言葉を改めて説明して置きます
哲学とは
フィロソフィア
知恵〈ソフィア〉を愛する〈フィロ〉と言う意味です
そして哲学者とは知恵を愛する者と言う意味です
私が哲学と言う言葉を使う時はこれ以外の意味は無いと考えてください
そうすれば自ずから「哲学革命 知恵を旗頭にして!」と言う意味も分かると思います
この企画の趣旨は
知恵を愛する事に依ってこの世界を変えて行こうと言う事です
当たり前の事ですよね
これまでの歴史も知恵の歴史であったし
様々な革命も知恵を旗頭にして行われたものでしたよね
しかしそれは無意識の内に行われました
しかし今回の革命の特徴は
「知恵」を旗頭にしていると言う事です
皆が皆そこに意識的に働きかけたらどうなるのか
大いなる実験です
私は今その同志を募っているのです
私はここに居て
その同志と成れる様な人を何人か見出しています
その人たちと手を取り合って
ここをその大いなる実験の場としたいと考えているのです
私の哲学革命の手法は議論ではなく対話です
対話により知恵をこの場に表出させ
そして対話に依りそれを大きなものへ
より確固なものへと変えて行く事にあるのです
この哲学革命の当座の根本思想を
箴言の「知恵の勧め(三)」に取りたいと思います
「知恵が呼びかけ 英知が声を上げているではないか
高い所に登り 道のほとり 四つ角に立ち
城門の傍ら 町の入り口 城門の通路で呼ばわっている
『人よ
貴方に向かって私は呼びかける
人の子らに向かって私は声を上げる
・ ・・・・・・・・・・・・・・』」
どうか知恵に耳を傾けて下さい
そしてその言葉をここに表出して下さい
その言葉が多ければ多いほど
ここはワンダーランドに変わって行くのです
貴方が知恵から授かったその言葉
その言葉がここをワンダーランドに変えて行くのです
私たちもその素敵な言葉に和して楽しみたいと思います
shophialoverさんへ 2004/ 4/29 3:32
投稿者: x00streat (男性/大阪府)
遅ればせながら、読ませて頂きました。
じっくり読みましたが、真理に届いてる人の文は誰の文でも本当に誤りのない言葉がつづられていて、感心するばかりです。
(以下省略)
これは sophialover007 さんの 25628 に対する返信です
「一」が「仁」であるとの孔子解釈について 2004/ 3/ 6 4:40
投稿者: mlc13696
shophialoverさん、一連の論語講義たいへん勉強になります。
一をもって貫くの一を仁とされる解釈、まことに至当であり、これほど見事な孔子解釈にははじめてあいました。また、いろいろ勉強にもなり、ありがとうございました。
一については、ぼくもいろいろ考えていますが、仁という説はそのなかで、最高のものの一つでありました。
また、お話お聞かせ下さい。
これは sophialover007 さんの 24964 に対する返信です