哲学詩集Ⅱ(2004年4月~2008年5月)
哲学革命 知恵を旗頭にして! 2004/ 4/18 11:57
人は皆知恵の子であり神の子です
全ての人の心の中に知恵が内在しています
しかし多くの人はそれに気付かずに
無為にその一生を過します
しかしまたその知恵の内在に気付き
それを希望の星として
一生大切に信じて仰ぐ人もいます
私はここに居てそれらの人々を観察して来ました
私の前回の企画は
古代哲学者を経巡る旅でした
古代の偉大なる哲学者達は
知恵をどう捉え
そして知恵にどう接して来たかを見て来ました
これは今回の企画に繋げる為のものだったのです
前回の企画においては
私は一人語りをしました
しかし今回の企画においては
皆さんと対話を楽しみたいと思っています
知恵を共有出来たら
どんなにか楽しいと思います
皆さんの知恵の言葉を基にして
私もその言葉を生み出す努力をする
そして私の言葉を基にして
また皆さんが知恵の言葉を生み出していく
そして皆さんのその知恵の言葉を基にして
私もまたその言葉を生み出す努力をする
その連鎖に依って
私たちは知恵の高殿に昇って行けると思うのです
それが弁証法であり対話です
私はここではっきり皆さんに言明して置きます
私は議論はしません
議論は真偽を見究め様とするものです
科学ならいざ知らず
ここでは最も相応しくない方法です
誰がその真偽を判定するというのですか
もしその様な者が存在するとすれば
皆さんお一人お一人の中に存在する知恵です
しかしそれでは
知恵と知恵が争う事になります
私の方が正しいと
それは知恵の本質に反します
知恵は争いを嫌い
平和を愛する存在ですから
私たちはより善きものより美しきものを
求めればそれで良いのではないでしょうか
その中にきっと真理のかけらも落ちていると思います
その真理の欠片を掻き集め
真理を仰ぎ見る事で満足すればよいのではないでしょうか
私の方が正しい!
それでは何時まで経っても平和は訪れません
2000字を越えたので二分割しています
「哲学革命 知恵を旗頭にして! その2」に続きます
哲学革命 知恵を旗頭にして! その2 2004/ 4/18 11:59
2000字を越えたので二分割しています
「哲学革命 知恵を旗頭にして! その1」からの続きです
さてそれでは今回の企画
「哲学革命 知恵を旗頭にして!」を説明します
哲学革命と言うと何かおどろおどろしく聞えますが
決してそんな事はありません
本質をそのままに言っているだけの事です
知恵を愛する事に依って命を革(あらため)る事です
これは何時の時代にも変わらない真理です
革命は何時の時代でも知恵 神に依って齎されたのです
何時の時代でもです 今までもそうであったし今後も必ずそうです
そして皆さん方の命の変革もまた知恵に依って齎されるのです
知恵に気付かれ知恵を仰ぎ見ている人はこう言います
知恵こそ我が命と
知恵に依って貴方の命が革(あらたま)るのです
さて今回の企画
「哲学革命 知恵を旗頭にして!」においては
二つの目的があります
一つ目は皆さんが知恵に依って命を革(あらた)める事です
もう一つは皆さんの知恵の連帯に依って
ここを知恵の広場にする事であり
そしてこの日本を「知恵の王国日本」と呼ばれる様にする事です
千里の道も一歩からと言う諺があります
ここをその第一歩
第一の一里塚にしたいと考えているのです
私たちが知恵を愛すればどうなるのでしょう
そこに愛が生まれます
知恵と愛の存在に依って
私たちはより善き者へより美しき者へと
強力に進む様に成ります
それは日本においても同じ事です
皆さんと知恵と愛の連帯に依って
この日本がより善きものより美しきものを
強力に求める様に成ります
そしてその最終成果が
「知恵の王国日本」と呼ばれる様に成る事なのです
たぶんその王国にはたくさんの知恵の欠片が散らばって居て
皆さんは石ころの様にそれらを拾っては楽しむ事が出来るのです
もう何が真偽かなど議論しなくていいのです
「美〈うま〉し国日本」
そんな日本を目指しているのです
それが哲学(知恵を愛する事)の効用です
さて「哲学革命 知恵を旗頭にして!」の運用方法ですが
次の様にしたいと思います
先ず議論は極力避ける事
議論から入って行けば
ここに争いの種を播く事に成ります
それよりも対話から入って行くと言う事です
対話に依ってこそ知恵が共有出来
その結果として
ここに知恵の言葉の花園が生まれる事に成るのですから
対話の方法は
表出のあった意見を丸ごと受け入れる事です
そしてその中からより善き世界より美しき世界へと導く言葉があったら
その言葉を契機として皆さんの知恵の言葉を繋いで行くのです
そうする事に依ってここに大きな知恵の花輪が出来て行くのです
さて私は先ほど
私と皆さんの対話で進める様な事を書きましたが
そうではなく皆さんの連帯に依って
ここを素敵な言葉の花園に変えて行って貰いたいと思います
善き言葉には善き言葉を継ぎ
美しき言葉には美しき言葉を継いで
ここを素敵な言葉の花園に変えて行って欲しいと思います
知恵と愛と言葉の神秘をここで語り合いましょう
それに依ってこの世界も少しずつ変わっていくのだと思います
今回の企画「哲学革命 知恵を旗頭にして!」の所期の目標は
皆さん同士の知恵の共有
皆さん同士の知恵の連帯
そしてここを素敵な言葉の花園に変える事です
どうかご協力よろしくお願いします
そしてその方法は議論ではなく対話です
どうかよろしくお願いします
平成16年4月18日
sophialover
哲学革命起こる! 同志よ集合せよ!! 2004/ 5/ 8 22:04
平成16年4月18日に
「哲学革命 知恵を旗頭にして」
と言う烽火を上げてから19日が過ぎました
その間に延べ36人の方が登場なさっています
私はお一人お一人に返信を書こうとしたのですが
時間的に困難な作業だと分かりました
そう言う訳で
今日からまた仕切り直しをしたいと思います
今日この掲示板以降登場した方には
全てお返事を差し上げたいと思っています
そこから哲学革命の輪を広げて行きたいと思います
哲学革命と言うと
何かおどろおどろしく聞えますが
決してそんな事はありません
哲学とはフィロソフィア
知恵(ソフィア)を愛する(フィロ)事です
革命とは命が革(あらた)まる事です
哲学革命とは
知恵を愛する事に依って命が革(あらた)まる事を言うのです
これは何時の時代にも変わらない真理です
これまでの革命は
それが無意識の下に起こりました
しかし今回の革命は
それを意識の上に上げて起こそうするものです
皆が知恵を愛する事に依って
大いなる命の革(あらた)まりが起こるのです
今日がその実質上の出発点です
知恵を愛する事に依って私たちの命が革(あらた)まります
私たちの命が革(あらた)まる事に依って
この日本の命が革(あらた)まるのです
この哲学革命の最終目標は
「知恵の王国日本」築く事にあります
そして皆さんお一人お一人はその革命の同志です
どうか皆さんご協力あれ!
私を飛び越えて行く方は
知恵とは何かを念頭に置いて
飛び越えて欲しいと思います
何故なら知恵の連帯こそが
この革命の原動力に成るのですから
そして出来る事なら
皆さんお一人お一人が知恵についてどう考えているかを
それぞれ表出して頂ければとても有難いと思います
何故なら
そこから知恵の大いなる連帯が始まるのですから
哲学革命起こる! 同志よ集合せよ!!
哲学革命進行中! 同志を求む!! 2004/ 5/ 9 22:28
nac020762001さんへ
始めまして
sophialoverといいます
よろしくお願いします
nac020762001さんの日付入りのお話はとても面白いですね
どれもこれも遂々引き込まれて読んでしまいます
発想のユニークさに本当に驚かされます
ところでお聞きしたいのですが
あの様な発想は何処から生まれて来るのですか
取材に取材を重ね
それを再構築してあの様なお話を作るのですか
それとも閃きの下に
あの様なお話を作っていかれるのですか
私は閃きの中に
あのお話の全てが作られていると思っていますが
どうでしょうか
教えて頂ければ有難いと思います
nac020762001さんのお話は比喩と象徴に満ちています
その比喩は小さな子供でも分かります
その象徴は聖職者を唸らせるに十分です
私は思います
この様な類のものは全て
イシカミ様から生まれて来るのだと思いますが
どうでしょうか
それから最後にお聞きしたいのですが
イシカミ様と知恵とはどんな関係にあるのでしょうか
その辺りを教えて頂ければ本当に有難く思います
sophialover(知恵の愛人)より
rumjisumanさんへ
始めまして
sophialoverと言います
よろしくお願いします
rumjisumanさんは聖書にお詳しいようですね
そこでお聞きしたいのですが
rumjisumanさんが最も印象に残っている
知恵に関する言葉はどんな言葉ですか
それからその知恵について
どんな風に解釈されていますか
併せて教えて頂ければ有難く思います
sophialover(知恵の愛人)より
【哲学革命進行中! 同志を求む!!】
皆様へ
哲学革命は進行中です
どうか皆様の知恵の言葉をここに置いて下さい
それを持って知恵への連帯としましょう
「知恵とは何か」
皆様のお考えをここに書き表わして下さい
なお哲学革命の趣旨は
NO25627 25628 25800に掲載してあります
ご一読下さい
知恵を愛する事に依って
私たちの命を
この日本の命を革(あらた)める
これが哲学革命のスローガンです
皆様のご協力どうかよろしくお願いします
sophialover(知恵の愛人)より
哲学革命潜伏中!第一声を待つ!! 2004/ 5/10 22:33
drag masterさんへ
始めまして
sophialoverと言います
よろしくお願いします
神を見られる薬
本当に素敵なお薬ですね
ところでdrag masterさんは
神様を見た事あるのですね
神様はどんなお姿をしているのですか
私はここに居て様々な人を見て来ました
神を感じる事は出来ると言う人は居ましたが
神を見たと言う人は一人も居ません
drag masterさんは神様を見た事があるのですよね
どうか私の為にも
そしてここに集う皆さんの為にも
神様のお姿を言い表して下さい
もしその姿が素敵なものなら
私もそのお薬を買います
もし後遺症が無いのなら
事実私もその様なお薬を飲んでいます
そのお薬の名は「コーヒー」です
あの西田佐知子のコーヒールンバの様に
身も心も蕩かせます
後は私の意志次第です
どうかdrag masterさんの見た神様のお姿を
ここに言い表して下さい
それからもう一つ教えて下さい
その時の神様と知恵との関係はどんな関係にあるのですか
もしそれらのお答えが素晴らしいものなら
私はそのお薬を買います
もし後遺症が無いのなら・・・コーヒーの様に
どうかよろしくお願いします
sophialover(知恵の愛人)より
yasuityenn ikuraさんへ
始めまして
spphialoverと言います
よろしくお願いします
yasuityenn ikuraさんも神様が見たいのですね
当然ですよね
それから見られなくなる薬も当然必要ですよね
もし神様がずっと目の前に居たら
それもまた窮屈ですよね
神様は時々現れて呉れるから素敵
そんな所ですかね yasuityenn ikuraさん
ところでyasuityenn ikuraさん
お薬の事は離れて
知恵についてどうお考えですか
私は今知恵の連帯者を求めているのです
yasuityenn ikuraさんが考えている知恵について
ここに書き表わして呉れたら有難く思います
それを持ってyasuityenn ikuraさんと知恵のスクラムを組んで行きたいと思いますので
どうかよろしくお願いします
sophialover(知恵の愛人)より
【哲学革命潜伏中!第一声を待つ!!】
皆様へ
哲学革命は続行中です
知恵の連帯者を求めています
一緒に知恵のスクラムを組みましょう
そしてこの日本を
「知恵の王国日本」に変えて行きましょう
その為にも
皆さんの知恵が必要です
皆さんの知恵をここに表出して下さい
それに依って
知恵のスクラムを組みましょう
神様は素晴らしいかも知れません
しかし知恵もそれに劣らず素晴らしいですよ
ひょっとしたら・・・
皆様の素敵なそして神秘に満ちた知恵の言葉を
ここに表出して下さい
そこから哲学革命が起こるのです
第一声を待っています
その第一声こそがこの哲学革命の発火点です
第一声を待っています
なお哲学革命の趣旨及び経過は
NO25627 25628 25800 25803に記載されています
ご一読下さい
この哲学革命のスローガンは
知恵を愛する事に依って
私たちの命を革(あらた)め
この日本の命を革(あらた)める事です
どうかご協力下さい
sophialover(知恵の愛人)より
哲学革命!愈々動き出す!! 2004/ 5/11 11:10
dbx160jpさんへ
始めまして
sophialoverと言います
よろしくお願いします
dbx160jpさんの言葉はとても示唆深いものでした
私は思いました
格物致知と知行合一
これが革命思想の根本思想であると
格物致知に至らなければ
誰も神を知る事も出来なければ
知恵を知る事も出来ません
知恵を知る事が無ければ
知行合一も無いのです
行は知恵の第一子です
行が生まれた後は
知行は夫婦(めおと)と成るのです
これが知行合一の神秘です
格物致知と知行合一
これは
あのイエスの黄金律と同じです
「心を尽くし精神と尽くし思いを尽くして貴方の神である主を愛しなさい
これが最も重要な第一の掟である
第二もこれと同じ様に重要である
隣人を自分の様に愛しなさい
律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」
孔子は律法を守れと説いた人ですよね
そして預言者だったですよね
私が言う預言者とは
言を預かった者
神から言を預かった者
知恵から言を預かった者と言う意味で使いますので
どうかその様に解釈して下さい
そうであればイエスと孔子の教えは何の違いも無い事に成ります
私は思います
全ての聖人たちの革命根本思想はここにあると
すなわち知恵を愛しなさい
知恵を行いなさいと言う
この黄金律にあると
dbx160jpさんへ
済みません
勝手に独りでに走ってしまって
私にはこう言う癖があるので
どうぞお見知りおきの程を
これもdbx160jpさんと言う素敵な人が現れたからです
どうか哲学革命の同志と成って下さい
dbx160jpさんは中国思想がご専門との事
私も好きです
特に孔子と老子が
孔子と老子を題材に対話をして頂ければとても嬉しく思います
もしして頂けると言うのであれば
私の方から第一題を出したいと思います
先ずは大学を素材にしたいと思います
大学の第一章に
「大学の道は・・・・・・至善に止まるに在る」と有りますが
dbx160jpさんはどの様に解釈されますか
ここから哲学革命に至ればどんなにか嬉しいと思います
どうかよろしくお願いします
sophialover(知恵の愛人)より
romjisumanさんへ
返信有難うございます
哲学革命も始動し始めました
これもromjisumanさんの御蔭です
さて知恵が存在するのかしないのか
これは哲学革命を進めて行く上でとても大切な問題です
もし知恵が存在しなければ
哲学革命と言うもの有り得ないのですから
そこでromjisumanさんに二点ほどお聞きしたいのですが
先ず第一点は
「知恵と知識」はどの様に違うかと言う事です
第二点は
旧約聖書の箴言の第8章に「知恵の勧め(三)」と言う小節が有りますが
ここで言う知恵とはどんなものだとお考えですか
この二点についてお答え頂ければ有り難く思います
きっとここから哲学革命が生まれて行くのだと思います
どうかよろしくお願いします
sophialover(知恵の愛人)より
【哲学革命!愈々動き出す!!】
皆様へ
哲学革命が愈々始動し始めました
皆様もどしどし集結して下さい
多くの知恵が集まれば集まる程
その革命のエネルギーは大きくなるのです
この日本を
「知恵の王国日本」に変えようではありませんか
その力は
皆様お一人お一人の知恵の力です
どうかご参集下さい
なお哲学革命の趣旨及び経過は
NO25627 25628 25800 25803 25806をご参照下さい
皆様の清き知恵の力をどうかここにお寄せ下さい
sophialover(知恵の愛人)より
哲学革命!進行中! 2004/ 5/13 0:12
iuhayasusittekaさんへ
始めまして
sophialoverと言います
よろしくお願いします
iuhayasusittekaさんは老子に興味をお持ちの様ですね
老子の主題は「道」ですよね
iuhayasusittekaさんは道についてどんなお考えをお持ちですか
教えて頂ければ有難く思います
sophialover(知恵の愛人)より
xx open your mindさんへ
始めまして
spphialoverと言います
よろしくお願いします
心の窓を開けば神が見える
きっとそうですよね
無限の神
蒼穹の神が
私たちの目の前に見える様な気がします
xx open your mindさんの見た神とはどんな神なのでしょう
その全存在を言い表す事は出来ないと思います
その一部分その欠片でも良いのですが
教えて頂ければ有難く思います
sophialover(知恵の愛人)より
choose me or dieさんへ
始めまして
spphialoverと言います
よろしくお願いします
choose me or dieさんの言う通りなのかも知れません
心の貧しい人 悲しむ人が
神を求めるのかも知れません
そして癒されるのかも知れません
この世の強者は神を求めないのかも知れません
ところで私は神に近い存在として
知恵を言う存在を措定しています
choose me or dieさんは知恵についてどんなお考えをお持ちですか
教えて頂ければ有難く思います
sophialover(知恵の愛人)より
dbx160jpさんへ
返信有難うございました
私こそ早とちりして済みませんでした
「大学の道は・・・・・至善に止まるに在る」
私も大体においてdbx160jpさんと同じ考えですが
至善に止まるに在りは別な解釈をしています
私はそれを神と共に在る
または知恵と共に在ると言う風に解釈しています
神と言う言葉を使うと皆が敬遠するので
私は主に知恵と言う言葉を使いますが
私はそれらにあまり違いを持たせていません
私の知恵と言う考えは
旧約聖書の箴言の8章に言う所の知恵と同じです
もし旧約聖書をお持ちなら
箴言の8章をご一読頂いた上で
その知恵と至善がどう違うのか
教えて頂ければ本当に有り難いと思います
sophialover(知恵の愛人)より
romjisumanさんへ
返信有難うございます
romjisumanさんの言葉には何時も考えさせられます
もし
知恵こそ全ての宗教だと言う風に解釈すれば
私は途轍もない同志を得た事に成る
そうでなければ
私は赤っ恥をかく事に成る
どちらでも構いません
また返事を待っています
sophialover(知恵の愛人)より
waya4さんへ
始めまして
spphialoverと言います
よろしくお願いします
waya4さんの科学的知識に裏付けされた論理的な文章は
何時も納得させられます
ところで今私は知恵を主題に皆さんと語り合っています
waya4さんは知恵についてどう言う風にお考えですか
そしてその知恵と論理にはどんな関係があると思いますか
教えて頂ければ有難く思います
sophialover(知恵の愛人)より
kirisuto taizaiさんへ
始めまして
spphialoverと言います
よろしくお願いします
私はフランシスコザビエルの事はほとんど知りませんでした
そこで今百科辞典で調べたのですが
正にイエスキリストに倣う清貧の伝道者だった様ですね
それから詩を現わしているのですね
「被創造物讃歌」または「兄弟なる太陽の讃歌」と言われる詩(うた)を
そしてそれは神や人や自然に対する純粋な愛を謳った詩のようですね
もしkirisuto taizaiさんがその讃歌を持っていらっしゃたら
一つだけで結構ですので
それをここに書き表わして頂けないでしょうか
そこからkirisuto taizaiさんと対話を続けられたら嬉しく思います
sophialover(知恵の愛人)より
the third heavenさんへ
the third heavenさんへのお便りはこれで二回目ですが
憶えて居て下さったでしょうか
the third heavenさんの言葉は短いですが
どれもこれも素晴らしい警句に満ちています
何時も何時も楽しませて貰っています
今日の言葉も正にその通りだと思います
「日常を神とともに歩もう。
信仰による平安がもたらされる」
私も何時でも神への信仰に入る事が出来ます
しかし私はそうしません
それは私がこの世を未だ楽しみたいからだと思います
こんな私がthe third heavenさんに知恵の事を聞くのは不謹慎だと思いますが
もし宜しければ
the third hea
哲学革命とは?!その1 2004/ 5/13 23:54
yasuityenn ikuraさんへ
返信有難うございます
私が皆様に知恵の事を聞いているのは
知恵の事が本当に知りたいからです
そして知恵の可能性を知りたいからです
私に醜名はsophialover(知恵の愛人)と言います
知恵を愛して止まない人間です
しかし知恵の事をはっきり知らないのです
だから皆さんに知恵とは何かと聞き回っているのです
勿論皆様に聞く前にも
様々な哲学書を読み漁りました
そして私なりに
知恵とは何かと言う概念を薄々感じる様には成りました
しかしそれは私自身の勝手な解釈なのかも知れません
そこで皆さんお一人お一人に
知恵とは何かをお聞きして
私の知恵との概念の比較をしようと思ったのです
もし私と同じ概念であれば
私の知恵は強いものに成ります
そしてそれは知恵の同志を得る事をも意味しています
私は知恵とは何かと聞きつつ
知恵の同志を求めているのです
もしその知恵が私の知恵の概念と同じであれば
その知恵は大きな力を持つ事に成ります
私はその力を利用して哲学革命を起こそうとしているのです
哲学革命とは
知恵を愛する事に依って命を革(あらた)める事です
私が知恵についてどう考えているかと聞かれたら
旧約聖書の箴言の第8章を挙げる事にしています
そこで知恵は大胆にも「私は知恵」と言い
一人称で知恵の事をあれこれ述べています
私が知恵と言う時は
今ではこれが一番近くにあります
私はそう言う意図の元に
この掲示板に登場される方お一人お一人に
「知恵とは何か」と聞いて回っているのです
ところがどうでしょう
yasuityenn ikuraさんのお答えは
私の知恵の概念と全く同じではないですか
「知恵とは万人が神から平等に授かった神理(真理)の一部と答えましょう!」と
私は知恵の同志を得た事に成る
そうではないのでしょうか
私も全くそう考えています
キリスト教の言葉を借りれば
その真理とは聖霊です
私たちはその聖霊に依って皆神の子なのではないでしょうか
聖霊の連帯知恵の連帯神の子の連帯
それが私の言う所の哲学革命です
yasuityenn ikuraさんも同志と成って呉れませんか・・・
sophialover(知恵の愛人)より
waya4さんへ
返信有難うございます
私もそう思います
知恵とは
「どの境地でもすべての境地を見る」力だと
地獄に居ても仏を見る
しかしそれは知恵を仰ぎ見て始めて見る事が出来るものです
地獄ではそれが一瞬なのかも知れません
私たちはその知恵を仰ぎ見て
その階段を一歩一歩昇るごとに
知恵が私たちの身に付いて来るのではないかと思います
そして最上階に昇る頃には
知恵そのものが私たちの属性と成っているのではないでしょうか
知恵そのものに成った人たち
それを菩薩と言うのではないでしょうか
その時は全ての境地があからさまに見えるのではないでしょうか
しかしこれは比喩と象徴のお話です
私も思います
知恵とは認識量×記憶だと
そして質が物を言うと
認識量×記憶
ただこれだけであれば単なる知識です
これに質的変化が加わって始めて知恵に成ると思います
その触媒は
より善きものより美しきものへと働く意志だと思います
この触媒の働きが強ければ強いほど
上記方程式より生み出されるものは
知恵と呼ばれるものに近くなるのだと思います
私はここに哲学と科学の違いが生まれて来ると思います
哲学とは知恵を愛する事
科学とはある意味では知恵を排除する作業なのかもしれません
純粋無垢な知識をピラミッドの様に積み上げる事
これが科学なのかもしれません
私は科学の事を言う時ついつい悪口に成りますので
これはここで止めます
waya4さんは
哲学(知恵を愛する事)と科学はどう違うと思いますか
教えて頂ければ有難く思います
sophialover(知恵の愛人)より
2000字を越えたので二分割しています
哲学革命とは?!その2に続きます
哲学革命とは?!その2 2004/ 5/13 23:57
2000字を越えたので二分割しています
哲学革命とは?!その1からの続きです
the third heavenさんへ
返信有難うございます
the third heavenさんの言う事は全て御尤もだと思います
the third heavenさんの様に全てを神に投げ入れれば
神の平安があると思います
しかし私は未だ私自身を神へ投げ入れていません
それには理由が二つあります
一つは未だ知恵遊び
言葉遊びをしたいからです
もう一つは
こちらが本質的な事ですが
神への帰依神への信仰の仕方が分からないのです
the third heavenさんは教会に属さずに
神への信仰を深めていらっしゃるようですが
教会に属さずに
神に帰依し神を信仰する為には
どの様な方法があるのですか
内心に関する事ですので
聖句の引用で構いませんから
教えて頂ければ有難いと思います
もっとも私は知恵を聖霊の一種と考えていますが
それでは駄目ですか
私の言い回しはクリスチャンの気持ちを逆なでする様な所があるかも知れませんが
その点はお許し下さい
sophialover(知恵の愛人)より
panietzscheさんへ
お久しぶりです
panietzscheさんへは本当に良い方だと思います
あたりさわりが柔らかく
答えも絶妙です
お人柄の為せる業だと思います
あの時叩き潰されていたら
私は今はここには居ないと思います
あれから半年近くも経ちました
私が今ここに居るのは
panietzscheさんが暖かく見守って呉れたお陰などとも
思っています
そんなpanietzscheさんに質問するのも気が引けますが
5月9日以降この掲示板に初登場した方には質問する事にしていますので
質問させて頂きます
ずばりです
「知恵とは何か」
panietzscheさんのお考えを教えて頂ければ有難く思います
sophialover(知恵の愛人)より
【哲学革命とは?!】
皆様へ
哲学革命とは
知恵を愛する事に依って
私たちの命を革(あらた)め
この日本の命を(あらた)め
そしてその結果として
この日本を「知恵の王国日本」呼ばれる国に変えて行く事です
その為には知恵が何であるかはっきりさせなければなりません
その為5月9日以降この掲示板に初登場された方に
「知恵とは何か」と言う趣旨の質問をさせて頂く事にしています
少し煩わしく思われるかも知れませんが今しばらくご辛抱下さい
これも全て哲学革命の為です
なお哲学革命の趣旨及び経過は
NO25800 25803 25806 25809 25821をご参照下さい
sophialover(知恵の愛人)より
哲学革命!続行中!! 2004/ 5/15 12:26
iuhayasusittekaさんへ
返信有難うございました
iuhayasusittekaさんは座禅をなさるのですね
ところで座禅を組み沈思黙考して自分を見つめる時
そこに現れてくるものは知恵なのではないでしょうか
私たちはこの世に在る時
自我に依って生きています
過去の膨大な記憶の中から取捨選択し
認識し判断し意識し決定し
そして自己の意志として行動します
その一連の流れが自我です
この自我の流れはほんの一瞬の内に行われます
だから私たちはその事を意識せず
私は私であると考えています
私たちは動くとき動機があります
この自我の一連の流れの動機
それは生命体の防御です
だから認識判断意識決定
これらの動きの中には自分を守ろうとする動機が強く働いているのです
だから自我の動きに従う時
私たちの行動は利己的に成ってしまうのです
私は自我に対位するものとして知恵を措定しています
この自我の力が弱まった時
現れて来るのが知恵だと思っています
知恵は自我を超えて
国家を地球を世界を自然を人間を人類を
いえ神の創造物全てを見ようとします
私は思います
知恵とは
私と神とのパイプ役である
私は知恵についてそう考えています
iuhayasusittekaが座禅を組み沈思黙考している時
浮かび上がってくる自分とは一体どんな存在なのですか
教えて頂ければ有難いと思います
sophialover(知恵の愛人より)
panietzscheさんへ
返信有難うございました
panietzscheさんのお答えはとても示唆に富むものでした
知恵とは生の指針である
私もそう思います
その指針に従って行動する時
私たちは知恵の人と成るのだと思います
ところで私は知恵は私たちと神とのパイプ役であると考えています
神と言うとまた議論の対象となりますので
今回はそれをこの素晴らしき世界と置き換えたいと思いますが
知恵とはこの素晴らしき世界を理解する為に
私達に使わされた使者であると考えています
すなわち知恵を存在者として措定しているのです
panietzscheさんは知恵についてどうお考えですか
存在者だとおもいますか
それとも知識の集合体 記憶の様なものだと思いますか
それとも何か別な風に思いますか
今回はその辺りについて教えて頂ければ有難いと思います
sophialover(知恵の愛人より)
哲学革命!続行中!!は3分割されています
哲学革命!続行中!!その2に続きます
哲学革命!続行中!!その2 2004/ 5/15 12:30
哲学革命!続行中!!は3分割されています
哲学革命!続行中!!その1からの続きです
waya4さんへ
返信有難うございます
「知識と知恵は違います。自己の反応系を死守しようとして知識を得、それを材料に己、および集団を守る手段を考え出すのが知恵です」
私も大体においてその通りだと思います
自己の反応系を死守しようとして知識を得
それを活用して自我を形成する
だから自我は何時でも自分を死守しようとするので
利己的で闘争的に成らざるを得ないのです
一方知恵は自己の生体反応を越え
自己を更に集団をより安全により快適に守ろうとします
しかし私は思います
この知恵は必要最小限の知恵です
知恵の力はもっと大きいと思います
私はiuhayasusittekaさんやpanietzscheさんに対する返信に書いた様に
知恵は私たちと神とのパイプ役だと考えています
神と言う素晴らしい世界を理解する為の
神からの使者だと考えています
それは安全を越えて
私達に快楽を齎せる為に
神から使わされているのだと思います
そこでwaya4さんにお聞きしたいのですが
知恵とは己及び己の集団を維持する為にだけあるのでしょうか
それとも
この素晴らしき世界を理解する為にもあるのでしょうか
私は芸術は少なくとも知恵に預かっていると思いますが
その辺りについても教えて頂ければ有難く思います
sophialover(知恵の愛人より)
attamatekkatekaさんへ
始めまして
sophialoverと言います
よろしくお願いします
私は5月9日に哲学革命を起こした者です
5月9日以降この掲示板に初登場した方には
漏れなく「知恵とは何か」と聞く事にしています
そう言う訳でお付き合い下さい
「神様とは自分の自制心」
私も正にその通りだと思います
もし私たちの中に神が居なければ
私たちはどんな事でもしかねません
私たちには素晴しい神が居る
そう思いそれに倣う者として努力する事に依って
私たちの人格も高まって行くのだと思います
しかし私たちの心の中を覗いても
神と言う存在は見当たりません
そこに居るのは僅かばかりの光を放っている微かな存在物です
私は嘗てその存在物を見続けていた事あります
そうするとその存在物は最後には
心一杯に真っ白く成ったのです
私は思いました
これが神からの使者 知恵なのかと
attamatekkatekaさんへ
これは喩え象徴ですから真に受けないで下さい
ただ知恵とはこんなものかなと思ったのです
私たちの心の中を覗いても神は見当たりません
しかし知恵は確かに存在します
私は知恵とは
人間と神を繋ぐパイプ役だと考えていますが
attamatekkatekaさんは知恵についてどうお考えですか
教えて頂ければ有難いと思います
sophialover(知恵の愛人より)
the third heavenさんへ
返信有難うございます
山上の垂訓は私もとても好きです
これまでも何度も引用しています
ところで栄唱とは何処の節を言うのでしょう
教えて頂ければ有難いと思います
ところで
知恵を聖霊の一種として捉えて本当に問題はないのでしょうか
もしそうであれば
私とthe third heavenさんは同じ存在を持った事になります
私は同じ存在者を持ったと言う事で色々お聞きしたい事があるのですが
どれもこれも内心に属する事ですので聖句の引用で構いませんので
教えて頂ければ有難いと思います
今日は一つだけをお聞きしたいと思います
その存在者に呼びかける時どう言う風に呼びかけますか
そしてその存在者はどの様に答えて呉れるのですか
その辺り 内心に属する事ですので
聖句の引用で結構ですので
教えて頂ければ有難いと思います
sophialover(知恵の愛人より)
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哲学革命!続行中!!その3に続きます
哲学革命!続行中!!その3 2004/ 5/15 12:33
哲学革命!続行中!!は3分割されています
からの続きです
JA50さんへ
始めまして
sophialoverと言います
よろしくお願いします
attamatekkatekaさん宛てのメッセでも書いたのですが
5月9日以降この掲示板に初登場された方には
「知恵とは何か」と聞いて回っています
どうかお付き合いの程よろしくお願いします
JA50さんは仏教に興味を持っていらっしゃるのですね
諸行無常
本当にそうですよね
5年10年のスパンで見ると
変わっていないものなど本当に何もありませんよね
それは私たちとて同じですよね
風に吹き飛ばされる塵
それが私たちの存在なのでしょうか
あまりにも悲しくあまりにも侘しいですよね
仏様そんな私達に何もプレゼントはして下さらなかったのでしょうか
私は思うのです
そんな私たちを哀れんでプレゼントしてくださったのがニルヴァーナであると
ニルヴァーナ
それこそが永遠の命
そんな事を言えば
また議論が百出しますので
永遠に存続する様な憩いの場所とでも言い変えて置きましょうか
私たちはそこに還るとき
永遠の様な憩いを感じ
永遠の様な存在者と対話が出来る
そんな憩いの場がニルヴァーナであると
そしてそこで活躍するのが知恵であると
私は知恵とは
私たちと神とのパイプ役であると考えていますが
JA50さんは知恵についてどうお考えですか
これまでJA50さん知恵について
どう考えてきたか教えて頂ければ有難く思います
sophialover(知恵の愛人より)
knecht gottesさんへ
始めまして
sophialoverと言います
よろしくお願いします
attamatekkatekaさんやJA50さん宛てのメッセでも書いた様に
5月9日以降この掲示板に初登場された方には
「知恵とは何か」と聞いて回っています
どうかお付き合いの程よろしくお願いします
永遠の命を得る為には自己放棄が必要である
正にその通りですよね
自己放棄をすればするほど
永遠の命に近づいていくのですよね
しかし私は思います
誰も永遠の命には辿り着けないだろうと
永遠の命とは永遠のスローガンの様な気もします
私は思います
永遠の命の様なもので満足すればそれでよいのではないかと
ところでknecht gottesさんはどの様な方法で自己放棄をなさっていますか
瞑想でしょうか 祈りでしょうか それとも別の方法でしょうか
そしてどれ位永遠の命に近づけましたか
教えて頂ければ有難いと思います
永遠の命
正にこれは比喩であり象徴ですよね
これを具体で現わす事は出来ないと思いますが
その欠片その一部でも良いのですが
少し言い表して頂ければ有難いと思います
それから永遠の命と知恵にはどんな関係があるのか
その辺りを教えて頂ければ有難いと思います
たくさんの質問しすぎてしまったようです
お忙しいと思いますので
この最後の質問だけに留めて置きたいと思います
ずばり 知恵とは何だと思いますか
お答え戴けたら有難く思います
sophialover(知恵の愛人より)
【哲学革命!続行中!!】
皆様へ
知恵とは何でしょう
私は5月9日以降ここに初登場された方に
知恵とは何かと聞き回っています
皆様は
それぞれ親切にお答えして下さっています
未だ未だ進行中です
その中でお二人ほど
私の知恵の概念と同じ方を見出しました
とても嬉しい収穫です
私は思います
もっともっと突っ込んで対話をしていけば
私達に共通な知恵の何かを見出すのではないかと
その日が来るまで対話を続けて行きたいと思います
哲学革命!続行中
哲学革命の趣旨
知恵を愛する事に依って
私たちの命を革(あらた)め
日本の命を革(あらた)め
その結果として
この日本を「知恵の王国日本」に変えて行く事です
ご協力お願いします
sophialover(知恵の愛人より)
哲学革命!何故知恵に拘るのか?!その1 2004/ 5/16 11:46
皆様へ
私が何故知恵に拘るのか
それは知恵が
私たちと神様のパイプ役だと思っているからです
私たちは知恵を仰ぎ見
知恵と対話する事に依って
神を垣間見る事が出来るのだと思っています
知恵を仰ぎ見
知恵と対話を続けていけば行く程
神の世界が段々に見えて来るのだと思います
そして感嘆するのです
おお何と素晴しい世界よ
ワンダフルワールドよと
私が何故知恵と言う言葉に拘るのか
それは皆さんに拒絶反応が無いと見たからです
知恵については古来様々な呼び方があります
キリスト教であれば聖霊でしょう
老子であれば道です
孔子であれば仁です
ウパニシャッド哲学であればアートマンです
古代ギリシアローマであればダイモーンです
古代の聖賢と呼ばれる哲学者達は
名前はそれぞれに異なりますが
皆その知恵を仰ぎ見
その知恵と対話する事に依って
神の世界を垣間見つつ
その全体像を見て来たのです
そして彼らは口々にこう叫んだのです
おお!神よ!!と
そして彼らはそれらを貴方方に教える為に
様々な比喩と象徴を使ったのです
誰が神を見る事が出来ると言うのでしょう
それは全て比喩です
それを具象の神が居るか居ないど議論する
ああ!です
神とは
皆様お一人お一人が
想像しまた創造し得る最高の理想像です
神様は貴方お一人お一人に
それぞれ存在するのです
だから神が居ないと言う者には
勿論神は存在しません
昔神聖病とか精神病とか呼ばれる病がありました
彼らは皆 神を見たと言うのです
当然でしょう
皆にそれぞれに神が居るのですから
ただ彼らが世間から区別されたのは
世間が彼らを理解出来なかたからです
神を認識する為には
やはり神に関する共通の認識が必要だったのです
そこに生まれて来たのだ宣教師や伝道者たちです
彼らの教えに依って
神に関する共通の認識が生まれ
共通の呼び名の神を認識する事が出来る様に成ったのです
しかし私ははっきりい言って置きます
呼び名は同じであっても
神は百人百様に存在すると
原理主義者と言うクリスチャンも居れば
芸術家と言うクリスチャンも居るのです
彼らは皆クリスチャンと呼ばれますが
皆それぞれに神が存在するのです
ただ彼らがその神に祈りを捧げる時
イエスの御名に依ってアーメンと唱えるのです
その事に依って彼らは
イエスの衣を着る者
イエスに倣う者
イエスと言うこの世に存在した人間に近い存在と成るのです
釈迦の名に依れば釈迦の衣を
マホメットの名に依ればマホメットの衣を着る事に成るのです
この衣を着ると言う事が信者と成ると言う事なのです
だから彼らの目標は
教えの祖の人格により近く成る事なのです
一方哲学者と言われる人が居ます
私が哲学者と言うのは文献学者の事ではありません
純粋に知恵を愛する者の事を言います
彼らは知恵を愛します
だから彼らは知恵を愛した者を愛するのです
だから彼らが愛するのはイエスだけではありません
釈迦もやマホメットや老子や孔子やソクラテスやプラトンや
その他聖賢と呼ばれた哲学者とこよなく愛します
そしてそれらの中から
自分に一番良いと思われるものを選択して
神をイメージングしていくのです
その過程で関与するのが知恵です
私達に与えられたその知恵は
イエスや釈迦やその他の聖賢たちの知恵と語り合うのです
どちらも出所を同じくしていますので
その知恵と知恵が出会う時大きな喜びが在るのです
これも一種の法悦です
出所とは
より真なるものより善なる者より美しきものを
求めようとする心です
その心の先に神と言う
我々が想像しうる最高の存在があるのです
だから神を求める人には素晴しい存在が与えられ
神を求めない者はそのままに
というかこの世間のままに生きて行く事に成るのです
哲学者(知恵を愛する者)信仰者(宗教の信者)
共に法悦があります
それは知恵と知恵の再会そして知恵と知恵との対話です
それが法悦なのです
その法悦を求めて
哲学者や信仰者は知恵を求めているのです
2000字を越えたので二分割しています
哲学革命!何故知恵に拘るのか?!その2に続きます
哲学革命!何故知恵に拘るのか?!その2 2004/ 5/16 11:49
2000字を越えたので二分割しています
哲学革命!何故知恵に拘るのか?!その1からの続きです
皆さんお一人お一人に知恵が内在しています
だから私は皆さんお一人お一人に
皆さんの知恵とはどんなものですかと
聞いて回ったのです
もし知恵に気付いていた方がいらっしゃたら
そこから知恵の連帯を始め様と思ったのです
知恵とは
「より真なるものより善なるものより美なるもの」
を求めようとする者に答えを与えようとする存在です
それは自我が芽生えた者には必ず与えられる存在です
自我のままに生きるか
それとも自我を越えて知恵の教えに耳を傾けるか
そこに自由意志が発生するのです
知恵に到達する為には自我を飛び越えねばなりません
その方法が瞑想だったり祈りだったりするのです
世間に言う知恵ではなく
旧約聖書箴言第8章の知恵に気付かれた方は居ませんか
居たら一報を待ってます
sophialoverより
追伸
今日から当分の間
皆さんお一人お一人と対話する方法は中止したいと思います
パリについての討論会 2004/ 9/28 11:01
私は先日一週間パリに行って来ました
パリは素晴しかった
私の期待を裏切る事は無かった
パリの何が素晴しかったか
先ずは芸術の都パリでしょう
パリは何処を歩いても
芸術の香りが漂っているのです
その香りに私もまた酔いました
バイオリン ギター トランペット サックス アコーデオン
鉄琴(本当は鉄琴ではなくたくさんの鉄線を撥で叩いてメロディを奏で
るものですがその楽器の名前を知らないので取り敢えず鉄琴と呼んで置きます)
そしてシャンソン
これらが町のあちこちから流れて来るのです
嘘と思うでしょう
それが本当なのです
もっとも町と言っても
それは全て地下鉄の中でのお話しなんですけど
私は地下鉄に乗っていました
すると突然ジャズのメロディが流れて来たのです
私は思いました
やはりパリ 洒落てるなと
地下鉄の中でも
こんな大きなボリュームで音楽を流すなんて などと
そのメロディにスイングしている乗客もいました
しかし私は次の機会に
それがCDなどではなく
生演奏である事を知ったのです
私が地下鉄に乗っている時
また突然ジャズのメロディが流れて来たのです
今度は余裕があったので
辺りを見回して見たのです
するとどうでしょう
トランペッターとトロンボーン奏者が
カラオケに合わせて演奏しているではないですか
それがとても素敵な演奏なのです
彼らは一曲終わると
賽銭箱を持って車内を一巡すると
次の駅でそそくさと降りて行きました
そんな事が二度ならず三度四度五度六度
鉄琴もその一つです
それから地下鉄駅構内の
バイオリン演奏アコーデオン演奏は
日常茶飯事
誰も足を止める人など居ません
馴染みのシャンソンの音色が心地よく構内を埋めるのです
ある時は若い芸術家風の女の人が
四季を弾いていました
(オペラ駅かルーブル駅だったと思いますが)
全てカラオケと共にです
その音源を知らなければ
全ての日本人は
構内にそのCDが流れているとしか思わないでしょう
そんなに素晴しい音色なのです
その中でも私にとって出色は
シャンソンでした
駅のホームの片隅に
カラオケを置いてマイクを片手している男の人が居ました
もうその頃には私も馴れていましたので
またシャンソンの演奏でも始まるのだろうと思っていました
案の状シャンソンが始まりました
しかし私はその素晴しい音色に
すっかり聞き惚れてしまったのです
その歌声は
楽器の様に澄み切った音楽だったのです
私は何時間でもそこに佇んで居たいと思いましたが
この哀れな○人は
次の次の列車で
次の目的地へと向かったのです
芸術の都パリは未だまだ続きます
今日は時間が来たのでここまでにします
皆さんもパリの事を自由に語ってみませんか
パリは恋人より
「芸術の都パリについて」
モンマルトル テルトル広場について 2004/ 9/29 22:54
芸術の都パリ
昨日は音楽の事を語ったので
今日は絵の事を語らなければならないでしょう
絵と言えば
ルーブルか
モンマルトル テルトル広場でしょう
ルーブルについては
また別の機会に述べる事もあるでしょうから
今日はテルトル広場の事を取り上げて
芸術の都パリについて語りたいと思います
私は思いました
このモンマルトル テルトル広場が
パリの画壇を下支えしていると
もっと端的に言えば
パリの美を維持し続けていると
ここモンマルトル テルトル広場には
コローを始祖として
ユトリロ フジタらに依って基礎付けられた
あの街並風景画が
脈々と生き続けているのです
この伝統画が生き続けている限り
パリの絵は死滅する事はないし
パリの美は維持し続けられるだろうと
つまりはこう言う事です
売れない画家がパリの街並を描く
すなわちはパリの美の再発見
その絵がここモンマルトル テルトル広場に飾られる
美の共有
そこから更には美の連帯
この美の連環に依って
パリは益々美しき都
そして芸術の都へと変わって行くのです
ここモンマルトル テルトル広場が
パリの美を生み出し続けているのです
勿論人物画もそうです
傍観者は思います
モデルよりも美しすぎると
いえそれこそが
そのモデルの持っている真の美なのです
画家はその美を引き出し
貴方に再発見させてあげるのです
ここでも美の連環が生まれて行くのです
モンマルトル テルトル広場
そこは街と人を美しく浄化する場所なのです
すなわちパリジャンとパリの街並
それがここで美しく溶け合っていくのです
それがパリ モンマルトル テルトル広場なのです
などと少し無理なこじつけになりましたが
これでパリ モンマルトル テルトル広場については語り終えたいと思います
パリは恋人より
「パリ モンマルトル テルトル広場について」
追伸
私はモンマルトルで
素晴しい美の大道芸に出会いました
日本でも外人がたまにしていますが
そんなものとは比べものにならないものです
正に美の大道芸です
私はサクレ・クール寺院からテルトル広場に向かって
城壁沿いに歩いていました
その城壁沿いに
真っ白い大理石の胸像が建てられていました
その人物はローマの哲学者か僧侶風で
何か悲しみに浸った様に下を向き
そして首には草で編んだ首飾りがかけてありました
更に胸像の下には賽銭箱が置いてあり
幾らかの小銭も投げ込まれていました
私はこの胸像にはどんな意味があり
どの様な人物なのだろうと思ってまじまじと見続けていたのです
と その時です
その胸像が私を嚇かしたのです
私はみんなの笑いものになってしまいました
もう一つ全身像もありました
どちらもギリシアローマの彫像そのものでした
私は何度も何度もその美を鑑賞し続けたのでした
マイノリティでマジョリティ 2004/ 9/30 10:55
マイノリティでマジョリティ
私は日本人でありながらパリジャンなのです
私は思いました
パリは住み易いと
私はニューヨークは知りませんが
パリは正に人種の坩堝だと思いました
白人黒人黄色人種アラブ人インド人
パリでは様々な人種が
危うい均衡ながら
その独自性をそれぞれに主張しているのです
だから私も日本人でありながらパリジャンなのです
私は何度パリジャンに見間違えられた事でしょう
片方の指では数え切れない程です
地下鉄で大学街でルーブルでその他所々で
○○へはどう行けば良いのでしょう
私はフランス語も英語もほとんど出来ませんので
曖昧に手を振るだけでしたが
最後には少し慣れて来たので
私の知っている英語を最大限使って
I can’t speakと言いました
するとどうでしょう
その純正フランス人は
オーノーと言わんばかりに
自らに呆れ返った様な顔つきをして
その場を去って行きました
私はそれ程に
パリにパリジャンとして同化していたのです
その中でも傑作なのは
シャンゼリゼ通りでの出来事です
あれは9時頃だったのでしょう
暗くなり始めて
シャンゼリゼの明かりが眩く成りはじめた頃です
(パリに行った事が無い人にお教えしますが パリでは8時にサンセットとなるのです)
そんな健全なシャンゼリゼ大通を歩いていると
若い娘が二人
おしゃべりしながら私の方に遣って来て
ムッシューは東洋人ですよね
私たち東洋の事についてとても興味があるの
東洋の事について色々教えて下さいな
あのカフェマノンで
どうかお願いしますなどと言って来たのです
私は面食らってしまって
いつもの日本人が遣る様に
手を振ってそそくさとそこを去ってしまったのです
英語もフランス語もしゃべれない日本人は
そうするしかないのではないでしょうか
しかし私は思っています
彼女たちは私を
東洋人の小金持ちのパリジャンだと思って近づいて来たと
(ここはやはり笑いかな・・・)
パリジャンパリジェンヌは
とても親切で優しくてサービス精神に溢れています
こちらがボンジュールと言えば
必ずボンジュールと言い返して来ます
こちらが何も言わなくても
ボンジュールと言って来ます
そして最後の締めはメルシーです
ボンジュールとメルシー
これを自由に使いこなす事が出来れば
その日から皆
パリジャンパリジェンヌなのです
マイノリティでマジョリティ
日本人でパリジャン
その奥義は
ボンジュールとメルシーの
この二つの合言葉なのです
実を言うと私はパリに来て
遠い将来パリに住みたいと思う様に成りました
もっとも住むと言っても
季節の良い半年だけを住むと言うものですが
目的はルーブルの絵を読み尽くす事
理由は上記の様に
パリの町が
マイノリティでありながらマジョリティである事を許すから・・・
ルーブルの読み解きについては
次の機会に述べたいと思います
パリは恋人より
「マイノリティでマジョリティ あるいは日本人でパリジャン」
美しきフランス人 2004/10/ 1 23:30
さて私は何の目的でパリに行ったのでしょう
Eternities_21stさんは知っていますよね
そうですね
パリ征服です
さてその目的は達せられたか
ハード面では十中八九
しかし人心面ではほど遠い
私は思います
フランス人は
最も多面的な人種の一つであると
ユダヤ人を除いて
最も混血が進んだ人種だと
私は昨日
パリには
白人黒人黄色人種アラブ人インド人等々
様々な人種が居ると言いました
彼らは確かにパリジャンですが
フランス人ではありません
彼らはイスラエル人でありインド人でありニジェール人であり中国人です
私が言うフランス人とは
この二十世紀の民族大移動が起こる前のフランス人の事です
ま 言えば革命前ルイ16世統治の頃のフランスの頃のフランス人と考えて下さい
私たちは
彼はドイツ人彼はスペイン人彼はイタリア人
彼はイギリス人かななどと言えます
しかし誰も彼はフランス人だと断定は出来ないでしょう
私はそれほどまでに
フランス人は混血が進んでいると思います
私はだからまた思います
フランスの男性女性
その中でもパリジャンパリジェンヌが
世界で一番美しい民族だと
その多様性に私たちは美と共に
深い哀愁を見る事が出来るのだと思います
だからこれほどまでに芸術が
音楽にしろ絵画にしろ文学にしろ
なんにしろ発達したのだと
私が地下鉄に乗っていると
彼女の顎が私の頭よりも更に高い所にある女性が乗り込んで来ました
そしてそれよりも更に高い男性とカップルで
私は思いました
彼らこそはゲルマン人
またはその血を引いたフランス人だと
私は未だ北ドイツ北欧に行った事はありませんが
この様な大男大女がわんさかいるのかと思うと
私はぞっとすると共に気後れするのを感じました
しかし私は世界征服の為に
北ドイツベルリンへも行かなければならないのです
さてそれはさておき
パリに行った方なら誰でも分かったと思いますが
パリジェンヌはそれ程に大きくないと
勿論ゲルマン バイキングの血を引いた大きな女性も居ますが
平均すればそれ程大きくないと
そしてかなり小柄な女性も居ると
私はこれが何よりの混血の証拠だと
フランスを見て下さい
そしてパリを
北欧東欧西欧南欧の中心点です
ゲルマン民族の大移動のその数世紀も前
すなわちローマ帝国の時代から
いえその前のギリシア植民地時代から強制混血が進んでいたのです
それからゲルマン民族フン族バイキング
中世の安定期が来るまで
フランスパリは
民族往来の大十字路だったのです
分けても混血が進んだのは優秀な民族たちです
だから私は言います
フランスパリで最も美しい女性は
混血の最も進んだ女性だと
ルイ16世とマリーアントワネットの子供たちは
混血だと知らなかったのですか?
そして太陽王ルイ14世の子供たちも
だからルイ16世も混血児だったのを知らなかったのですか
2000字を越えそうですので次に続きます
パリの町は本当に小さい
長径11km短径8kmとの事
1週間もあれば歩き尽くせる
現に私は1週間の間にかなりの所を歩き回った
挙げると次の通り
先ずは初日に
凱旋門エトワール広場から
バスティーユ広場まで歩いた
私はこれに依ってパリのバックボーン
すなわち背骨を摑んだ
これに依って
後は自ずから私に従った
初めてパリに行かれる方にも忠告して置きます
先ずは初日に
パリ凱旋門エトワール広場から
バスティーユ広場までを歩きなさい
そうすれば決してパリのつぼを外す事は無いと
地図で見ると大層に思えるかも知れませんが
実際に歩いて見ればあっと言う間です
パリはそれ程に小さいのです
次に歩いたのが
イエナ広場からシャイヨ宮トロカデロ広場を経てエッフェル塔シャンドマルス陸軍士官学校フォントノワ広場から
アンバリッドアンバリッド広場アレクサンドリア3世橋クレマンソー広場ロンポワン広場を経てシャンリゼまで
次がルーブルルーブル広場から
エコール広場ヌフ橋シテ島ドフィーヌ広場ノートルダム寺院サンルイ橋を経てサンルイ島西端のパリー公園まで
パリー公園からサンルイ島シテ島それぞれ別の道を辿ってサンミシェル橋まで
サンミシェル橋からサンミシェル通りクリューニーソルボンヌを経てパンテオンまで
パンテオンからサンジェルマン通りまで引き返しサンジェルマン通りをサンジェルマンデフレ教会まで
次がシャンゼリゼ大通りモンテーニュ大通りジョルジョサンクス大通りの黄金の大三角地帯
次がオペラ大通りキャビシーヌ大通りリボリ通りの第二の黄金の三角地帯
次がクリシー広場からピガール広場までの歓楽街からサクレクール寺院まで
最後が凱旋門エトワール広場から
ドフィーヌ門を経てブーローニュの森を横切りシュレーヌ橋を渡りパリ市外のシュレーヌモンバレリアン駅まで
これがざっと私の歩いたパリの道程です
私はこれでパリの空気をしっかり摑みました
私は皆さんにお伝えして置きます
パリとパリ市外は全く別物だと
私はシュレーヌ橋を渡ってパリ市外に出た時
その事をしっかり感じ取ったのです
パリ市外はある意味では
何処にでも在るのです
パリが何故尊いのか
それはそこに一杯の血が染み込んでいるからです
自由を求めての闘争
これがここほど烈しく行われた所は
世界中何処にも無いのです
ボートレールはパリの憂鬱を現わしました
そこには自由への憂鬱があったのでは無いでしょうか
彼らは更なる自由を求めていたのでは無いでしょうか
しかしパリの血塗られた血は
更なる血を求めようとはしなかったのです
それにもかかわらず
パリはまた血を求められたのです
貴方はパリに行って
血の匂いを嗅いだ事がありますか?
直径10km程のこの小さなパリの町
このパリの地にはおびただしい人間の血が流されているのです
しかし今はそれが
ふくよかな香りとして
私たちに漂って来るのです
自由を求めての闘争
自由への生け贄は
こんなにも芳しいのです
さあそこの貴方方
もう少し歴史を勉強してからパリには行きましょう
貴方はソウルに行った事がありますか
そこにはこう言う標語がありました
「自由は犠牲無しには得られないと」
大呆けした日本の男と女よ
自らの血を流してそれを嗅いで見よ
そこに自由の香りがあるのだ!
(なん哲掲示板)
哲学とはphilosophia 知恵を愛する事 2005/ 1/ 6 23:30
とても素敵なトピだと思います。
ぼちぼち参加させて頂きたいと思います。
哲学とはphilosophia
知恵(sophia)を愛する(philo)事
この事を念頭に置きながら参加させて頂きたいと思います。
これは t19831984 さんの 1 に対する返信です
知恵とは? 2005/ 1/ 6 23:34
哲学とはphilosophia
知恵(sophia)を愛する(philo)事。
ところで知恵とは何でしょう。
皆さんの意見を聞かせて頂ければ有難く思います。
哲学革命 序 2005/ 1/ 7 23:35
kk56ss t19831984 st toukaさんへ
ご意見有り難うございました
私もそんなところです
しかし私は知恵にもっと宗教的な意味を見出そうとしています
端的に言えば聖霊です
キリスト教の聖霊です
知恵が最も純化したもの
若しくは知恵がイエスキリスト的に純化したもの
それが聖霊であると
キリスト教で言えば聖霊ですが
これが他の宗教 哲学に変わると
その呼び名も変わって来ます
老子で言えば道
プラトンやマルクスアウレリウスなど
古代ギリシア古代ローマの哲学者であればダイモニオン
古代インド哲学であればアートマン等々と
私は思うのです
古代の哲学者達はこの純粋な知恵を求め続けたのだと
だから彼らは知恵を愛する者と呼ばれたのだと
そしてそれはKk56ss t19831984 st toukaさんも全く同じだと思います
知恵に対して純粋に求めれば求めるほど
知恵は私達に純粋な言葉を与えて呉れます
そしてそれに対して私たちは善しと判断します
それが哲学であり宗教であると
哲学と宗教の働きは全く一緒です
ただ一つ異なるのは
宗主を通じて知恵に向かうのか
直接知恵に向かうかの差だけです
勿論前者が宗教で後者が哲学です
宗教の場合は宗主の教えから逸脱する事はありませんが
哲学の場合はそうではありません
純粋に知恵に向かわないと逸脱が起こるのです
ある意味では現代がその逸脱の結果だと言えなくもありませんが
今日の所はそれは伏せて置きます
私が何故ここで知恵を高く掲げるかと言えば
知恵に依ってこの時代が変革される可能性があると思っているからです
刺激的に言えば知恵の革命
または哲学革命(知恵を愛する事に依ってこの時代を変える革命の事)です
何故知恵を愛する事に依ってこの世が変わるか
先ずはこの世が静かに成ります
そして巷には善き言葉が溢れる様に成ります
この二つに依って確かに時代は変わるのです
より成熟した大人の社会に
これが哲学革命の第一歩です
私が何故この場を選択したのか
それは哲学革命に相応しい人々がここにたくさん居ると思ったからです
この場で知恵を愛する方法
すなわち哲学の方法を
様々な角度から語り合えればどんなにか素晴しいと思います
真直ぐに知恵に向かう方法
知恵をこよなく愛する方法
知恵を愛する事がどんなに素晴しくて喜びに満ちているか等々
そんな事を語り合いつつ
皆が知恵に向かえればどんなにか素敵な事だと思います
〈哲学革命 序〉
panietzcheさん 2005/ 1/ 8 0:42
投稿者: global_eyes_only (51歳/男性/愛知県津島市urban)
sophialover007さんは未来へむけて、理想の実現を、といってみえるのだと思いますよ
遠い未来かもしれませんが
人類は安定した秩序の元で穏やかに暮らすようになるのではないでしょうか
非真理はやはり
滅びの道だと思えます。
これは panietzsche さんの 9987 に対する返信です
哲学革命 panietzscheさんへ 2005/ 1/ 8 15:02
お久しぶりです
panietzscheさんの言う事は大体において分りますが
一つだけ分らない所があります
それは「非真理を生の条件として受け入れる」と言う事です
非真理を受け入れる為には真理が確立されていなければなりません
そんな真理がこの世に在るのでしょうか
在るとしましょう
その真理に反する事を自らの生の条件として受け入れられるでしょうか
私は言います
そんな事は絶対有り得ないと
私は真理と言う言葉を余り好みません
何故なら真理と言うものを見出せないからです
勿論三角形の内角の和は180度である
これが真理と言うのなら
そんな真理は五万と見出せますが
私の思っている真理とはそんなものとは違います
全てのものがそこから生まれ
全てのものがそこに収束してい行く様な
そんな一なる真理です
そんな真理が在るのでしょうか
三角形の内角の和は180度である
この様な類のものについては私の議論の中では
公理 公の理として定義づけします
そして真理とは先程述べた様なもの
すなわち全てのもの 公理も含めて
その様なものを生み出す基のなるもの
それを真理と呼びます
その様な真理が在るのでしょうか
Panietzscheさんの言う真理とは
私が定義付けした所の真理でしょうか
それとも公理なのでしょうか
「隣人を自分の様に愛しなさい」
勿論これも公理です
聞き方を変えましょう
Panietzscheさんは日夜議論をされています
そしてその議論は少なからずこの世の人に受け入れられています
ところでその議論の元は何処から生まれるのでしょう
勿論Panietzscheさんの事ですから
科学的所見に基づいて様々な事を述べるでしょうが
そんな事はどうでも良いのです
その奥の奥の奥の奥に存在し
その奥から第一波を発生させるもの
それが「比類なき先言の私」なのではないですか
それを比喩的にたとえれば真理ともなるのではないでしょうか
それを否定して
Panietzscheさんが存在しえるのでしょうか
私は思います
少なくとも今の様な強いPanietzscheさんは存在し得ないと
場合に依ってはあのニーチェの様に成りかねないと
「比類なき先言の私」
喩えれば真理的なもの
私はそれを知恵と呼んでいます
ここでもう一度 知恵論争若しくは「比類なき先言の私」についての論争を遣ってみませんか
哲学革命 st toukaさんへ 2005/ 1/ 8 15:07
st toukaさんへ
私も思います
インターネットには知恵の大いなる連携の可能性が有ると
だから私もこうしてインターネットの向かっているのです
ただ知恵に関する定義が
私とst toukaさんでは違う様に思います
知恵に関する定義は様々あります
広辞苑にもそのような事が書いてあります
私の言う所の知恵はソロモンの知恵です
旧約聖書に箴言と言う書があります
これはソロモンの書だと言われていますが
ここには様々な知恵の言葉が述べられています
この知恵が私の言う所の知恵です
特に第8章は知恵のオンパレードです
『知恵が呼びかけ
英知が声をあげているではないか
高い所に登り 道のほとり 四つ角に立ち
城門の傍ら 町の入り口 城門の通路で呼ばっている
「人よ 貴方に向かって私は呼びかける
人の子らに向かって私は声をあげる ・・・・・・・・・」』
これは擬人化されていますが
心の中からの叫び声です
私はこれを知恵と呼んでいます
もっと分かり易く言えば本当の自分と言った所でしょうか
私たちの中には何時も二人の自分が存在しています
一人の事は一般的に自我
もう一人については呼び名が違います
現代の人は良く本当の自分と呼んだりします
私はそれをただ知恵と呼んでいるだけです
キリスト教ではそれを聖霊と呼び
呼び掛ける時は主よと呼び掛けます
私はそれをただ知恵と呼んでいるだけです
st toukaさんの中にも二人の自分が居る事は良く分かっていると思います
そしてもう一人の私は一般的に言って私たちを高めて呉れるものです
時にはそうでない場合があり 事件を起こす事もありますが
そんな時は憑依されたと喩えても良いでしょう
しかし知恵とは何時も何時も
私たちを高みへ高みへと引き上げて呉れる存在なのです
そんな知恵と上手く付き合う為の方法は簡単です
一つは一日の内で誰にも干渉されない一人だけの時間を持つと言う事です
すなわち自分に還る時間を持つと言う事です
もう一つは古代の哲学者達が知恵を如何に愛したかを学ぶ事です
この二つで知恵がぐーんと身近になり
知恵が私達に様々な事を教えて呉れる様になります
知恵とは元々そう言う存在なのです
「知恵が呼びかけ
英知が声をあげているではないか」
st toukaさんも
私の定義する所の知恵について研究してみませんか
研究のし甲斐はあると思いますけど・・・・・・・・・。
哲学革命 私と知恵と心 2005/ 1/ 8 21:50
st toukaさんへ
レス有り難うございました
しかし私はst toukaさんの言う
「"心"には、数多くの"人"が住んでいるが、その中の一人が"自分"という訳ではない。」と言う意味が良く分かりません
確かに心の中には多くの人が住んでいるかも知れませんが
私は一人なのでは無いのでしょうか
その私が様々な経験をしていく
これが人生なのではないでしょうか
確かに私の中に多くの人が住んでいるかも知れませんが
それは投影に過ぎません
私は私
この信念が在ってこそ
私は存在するのではないでしょうか
多重人格の人には多くの人が存在していて
それぞれに私を主張するのかも知れませんが
私はそれついて知る由もありません
哲学の場合は
あくまでも私が実験の場なのですから
「"心"には、数多くの"人"が住んでいるが、その中の一人が"自分"という訳ではない。」と言う意味を
もう少し噛み砕いて説明して下されば
また議論の余地が生まれて来ると思います
それから
インターネット全体が心としての存在を考えさせられると言う発言は良く分かります
私の心の中に住んでいる様々な多くの人が住んでいるのですから
しかし私は私です
そしてそれに随伴する存在が知恵なのです
私と知恵の二人は二人三脚で
この大いなる心の中を駆け回るのです
善き哉善き哉と言いながら
この様にしてst toukaさんは
私の心の中の住人と成るのです
なお私の定義する所の知恵につては
取り敢えず議論の対象から外して頂いて結構です
それよりも心について議論を深められたら嬉しく思います
panietzscheさんへ
レス有り難うございました
今回のPanietzscheさんのレスの中に
とても興味深い言葉を見付けました
それは「〈私〉はある種の束です。その束に芯があるとするなら、それが「比類なき先言の私」である」と言う言葉です
そうであれば
Panietzscheさんの言う所の「比類なき先言の私」と
私の定義する所の知恵とは何の違いも無いと
と言うか知恵の働きは大分大きいので
全く同じだと言ってしまえばまた誤解を招くので
Panietzscheさんの言う所の「比類なき先言の私」は
知恵の中の知恵 知恵の核心
譬えれば
「光あれ」と言った時のその光なのかも知れません
知恵とは全てその光の働きの事なのですから・・・
私がPanietzscheさんについて関心があるのは「比類なき先言の私」です
「比類なき先言の私」の概念についてコンパクトに纏めたものがあったら指し示して下さい
それを元に議論を発展させて行きたいと思いますので
何しろ「比類なき先言の私」と私の定義する所の知恵とは全く同じものだと考えているのですから・・・・。
哲学革命 私と知恵と心 その2 2005/ 1/ 9 23:23
panietzscheさんへ
「比類なき先言の私」(正法眼藏1656)読ませて頂きました
言いたい事は良く分かります
何の齟齬も無いと思います
ただここでは「比類なき先言の私」の概念説明が無かったので
私なりに補足して
私の論を展開したいと思います
比類なき私
全くその通りです
比類なきpanietzsche
比類なきsophialover
そして比類なき○○
全くその通りです
そしてこの事を信じなければ
素晴しき世界も創造されて行かないのです
panietzscheさんを始め哲学者
すなわち知恵を愛する人たちはその事が良く分かっているので
その比類なき私を信じて世界を創造しています
panietzscheさんの今のその世界
それは比類なきpanietzscheさんが創造した世界以外の何ものでもありません
panietzscheさんはその世界の王として君臨されているのではないでしょうか
その様に哲学者 すなわち知恵を愛する人は
比類なき私を信じて その世界を創造しています
しかしこの世にはそうでない方々も居ます
私の哲学革命とは
世の多くの人に知恵の存在を知らしめ
そして比類なき私と比類なき先言の私の共同作業で
皆がそれぞれに素晴しい世界を創造して貰う事なのです
そしてその連携に依ってこの世を素晴しい世界へと変えて行こうという試みです
しかしこの事は今のpanietzscheさんとの議論からは逸脱しますのでここで止めて置きます
さて私は最初で
比類なき私 全くその通りだと言いました
しかしこれには条件があるのです
比類なき先言の私の存在(私はこれを知恵と言う言葉で呼んでいますが・・・)を知っていると言う事です
もう少し欲張って言うなら
「比類なき先言の私」(私はこれを知恵と言う言葉で呼んでいますが・・・)を愛していると言う事です
その条件が在ってこそ始めて比類なき私と言い切る事が出来るのです
この論争を始める前に先ずは
私の事を定義しなければなりません
私とは一体何者でしょう
それは「考える葦」です
「我思う故に我在り」です
端的に言えば
私とは考える存在です
考えている限りに置いて私が存在しているのです
私が考えを止めた時 私は存在していないのです
st toukaさんからこの事について私に質問が来ています
「sophialoverさんは、座禅を組んで何も頭の中に思い浮かべない状態を長時間維持出来ますか?」と
私はそれにこう答えます
一秒たりとも出来ないと
もし一時間も出来れば
私は全く生まれ変わる事が出来ると
ここで言う考えるとは
言葉に成らない言葉も含みます
私たちは感覚器官から様々な情報を受けています
そしてそれを言葉に成らない言葉で処理しているのです
例えば座禅の為に目を瞑ったとしましょう
目の前が暗くなります
私たちはそれを目の前が暗くなったと言葉にしては反応しませんが
その言葉に成らない言葉でそれなりの反応をしているのです
寒い暑い苦い辛い臭い明るい暗い静かだ喧しい等々・・・・・・・・・・・・限り無く
この中でも耳目は凄いものがあります
一瞬たりともその言語化を休める事が無いのです
試しに瞑想をして見ましょう
瞑想と言っても大袈裟に考える必要はありません
何も考えない様にすると言う事だけです
ただ目は開けて置いて下さい
さあスタートです
一時 いや一瞬でも考えない時があったですか
無かった筈です
貴方のその目は何かを見ていた筈です
そして言葉ならない言葉で貴方への反応を迫っていたのです
私の言う
「私とは考える存在である」と言う意味が分りましたか
人は絶え間なく考えている
だから私と言うものが存在している様に錯覚しているが
私とは考える存在なのである
考えを止めた時 私は存在していないのである
しかし先程から言う様に
感覚器官からの絶え間ない情報の為
人は言葉にならない言葉 しかし確かな言語化を行っている為
人は常に私は存在していると考えるのである
しかし考えを止めた時 私は存在しないのである
ここに瞑想の神秘があり 死の神秘があり
ひいては宗教の神秘があるのです
瞑想とは死の疑似体験です
それは考える事を止め 私を止めると言う事です
しかし瞑想では誰も考える事を止める事は出来ず
私を止める事も出来ないので
本当の死の体験は誰も出来ないのです
死の最も素晴しい疑似体験は爆睡です
夢も何も見ず本当に死んだ様に眠った時です
その時人は最も素晴しい死の疑似体験をします
そうして起き上がった時人はこう言います
生き返った様だと または生まれ変わった様だと
【哲学革命 私と知恵と心その3に続きます】
哲学革命 私と知恵と心その3 2005/ 1/ 9 23:30
【哲学革命 私と知恵と心その2からの続きです】
さてpanietzscheさんとの議論から少しはなれてしまったようですので
また元に戻します
「〈私〉はある種の束である。その束に芯があるとするなら、それが「比類なき先言の私」である」と表現していますよね
私の知恵の表現の仕方はこうです
知恵は多重円の中心点であると
そしてその第一内円が私であり
その最外周円が私の世界であると
この世界は私と知恵の共同作業で創ったものであり
創りつつあるものであると
panietzscheさんの「比類なき先言の私」そのものの概念をずばり示した記事があれば教えて下さい
それに依って議論は深まるとも思いますので
最も上述の表現でも十分ですけど
私は思っています
panietzscheさんの言う「比類なき先言の私」と
私の定義する所の知恵とは同じだと
何故ならその比喩の仕方が全く同じなのですから・・・・・
st toukaさんへ
「心とは日経平均の様なものである」とは
次の様な解釈で良いのでしょうか
株式市場では様々な株が蠢いている
しかし心が表れる方法は一つである
それが日経平均であると
好調な時もあれば低調な時もある
上昇傾向の時もあれば下降傾向の時もある
様々な株が蠢いているが
その表現手段は日経平均であると
心の状態を示す比喩としてはそれで良いかも知れませんが
心そのものを表現する手段としては不十分です
心を表現する為には私
すなわち考える私が絶対必要なのです
私は心を次の様に喩えます
祭壇であると
若しくはスクリーンであると
確かに私たちの心の中にはたくさんのものが蠢いています
時には魑魅魍魎に見えるかも知れません
しかし私ははっきり言います
それは投影である
その人自身のその時々それぞれの投影であると
映像が映し出される為には三つのものが必要です
光源とフィルムとスクリーンです
もし魑魅魍魎に映し出されるのなら
光源が煤けてほとんど光を放たないか
フイルムがピンボケでおまけに二重写しになっているか
スクリーンがこれまた煤けて真っ黒になっているか
そんな状態の時です
もし光源が磨かれて強い光を出し
フィルムの焦点がしっかり合い
そしてスクリーンが真っ白であれば
何の歪みのない映像が映し出される筈です
私は先程panietzscheさんのレスに対して
多重円の喩えをしました
もう一度説明すると
多重円の中心点が知恵です
そして第一番目の内円が私
そして最外周円が世界であると
これを多重球と言い換えた方がより分かり易いかも知れません
そしてそれぞれの球の内面がスクリーンになっていると仮定して下さい
多重球のスクリーンはそれぞれにふさわしいスクリーンが使われます
世界とか宇宙を映し出す時は最外周のスクリーンが映し出されるのです
例えば夜空を映し出す様に
そして近い方の球の内面スクリーンには卑近な事が映し出されるのです
例えば家庭の事とか仕事の事とか友達の事とかetc
そしてそれは結構大写しに映し出されるのです
それからこのスクリーンはある画面が映し出される時は
他のスクリーンは消えてなくなるか目に付かなくなるのです
この多重球の全ての内面はスクリーンになっていますが
私だけはスクリーンではなく全くの円球の球面レンズになっているのです
そして勿論光源は知恵です
これが私の世界であり
私の心の世界です
もし光源がピカピカに磨かれていたら
その光源を見る事も出来ないと思いすが
私の光源は適度に煤けて見るに楽しいほどの明かりとなっているのです
私はこの光源を見る事が楽しみです
そしてその光源が映し出す映像を見る事もまた楽しみです
しかしそのフィルムは私がセットしなければならないのです
それが考える私です
私は先程心を喩えて祭壇だと言いましたが
ここではフィルム編成所と置き換えておきます
これも心の大きな働きです
フイルム編成所には莫大なフィルムが持ち込まれます
これを如何に編集して映写機にかけるか
これが編集人の腕の見せ所です
もしその編集が上手ければ
その世界も見てきっと楽しい世界になる筈です
しかし編集人に能が無く
持ち込まれたフィルムをそのままに映写室送ったら
その映像は何と言ったら良いのでしょう
現代においてフィルム編成所に送られてくるフィルムの量は中途半端ではありません
一世紀前十世紀前と比べるとどれ程のものでしょう
私は思います
現代においてフィルム編成所はパニックになっていると
昔は良かった
特上のものを祭壇に捧げれば良かったから
【哲学革命 私と知恵と心その4に続く】
哲学革命 私と知恵と心その4 2005/ 1/ 9 23:32
【哲学革命 私と知恵と心その4からの続きです】
st toukaさんへ
心には私 考える私が絶対必要なのです
そうでなければ時代に流されるだけです
panietzscheさんの言う所の比類なき私が必要なのです
その為には哲学 すなわち知恵を愛する事が必要なのです
私の哲学革命とは
知恵を愛する事の素晴しさを広めようと言う運動です
哲学革命 心 哲学そして科学 2005/ 1/10 12:06
st toukaさんへ
「私の心が最大の関心事である」
人は皆そうだと思います
特に知恵を愛する人 哲学者はそうだと思います
st toukaさんもその為に
日夜心の中を駆け巡っているのだと思います
さて心を知る為に科学が必要かどうかと言う事ですが
勿論必要ですが
それはバランスの問題です
私は前に「神はいるか」トピに居た事があります
あそこには科学者もどきが一杯です
そしてその先駆的なのでしょうか
その科学的所見を持って
神はいるかとか心はどうだとか
そんな議論をしているのです
私はうんざりしてそこを離れました
それから暫くしてまた掲示板に戻ろうとして
あちこちトピを探している内にここを見つけたのです
そしてこここそが私が当分居るべき場所だと思ったのです
何故なら私の目的が一番達せさせ易い様に思ったからです
「神はいるか」トピは
科学的先駆的知識なのでしょうか
そんな知識を振り回し翳して
形而上学的な議論をしています
私は本当にうんざりでした
しかしここは違います
皆が等身大なのです
等身大で意見を言い合っているので
またとても暖かく感じます
しかし「哲学」なのです
私はそれに引かれてこのトピに今居坐っていると言う状況なのです
さて科学が必要か
そう問われれば必要だと答えるしかないのでしょう
ある意味ではそれはこの世の必要悪なのかも知れませんから
しかし心 しかも私たち自身の心を究明するのに科学が必要かと問われれば
私はそれに対してバランスだと答える事にしましょう
勿論科学的知識はある程度必要です
その範囲は中学校で習う科学的知識で十分です
高校までの知識があれば十二分です
それ以上は余計です
と言うか害になるのかも知れません
あの「神はいるか」の様に
未消化のその知識を持って口角に泡を飛ばして議論する事になるでしょうから
心の舞台は私です
私自身を究明するのにどうして科学的知識に頼る必要がありましょう
全ては私の中に在るのですから
科学的知識はそれを比喩する時に用いる位でいいのです
しかしそう言っても私の心の中がどの様になっているのか
そしてどの様な働きそしているのか
私たちは心に入れば入るほど不思議に思ってきます
何故なら何も無い様な所から
実に色々のものが飛び出して来るのですから
私は思います
心の中を知る為には
古代の哲学者に学ぶのが一番だと
古代の哲学者達は心を第一の研究課題として研究した人たちばかりです
古代の哲学者達を研究して行けば直に心の秘密が分って来ます
何故なら異口同音に同じ事を言っているからです
st toukaさんも古代哲学者を尋ねて見ませんか
古代インド古代中国古代ギリシアローマ古代ユダヤ等々
綺羅星の如く哲学者達が居ます
勿論この中にはイエスやブッダも含まれます
現代の泡沫的な科学的知識ではなく
この様な恒星たちを尋ねて見ませんか
彼らは何一つ嫌な顔もせず
st toukaさんの質問に一つずつ丁寧に答えて呉れる筈です
試しにこう聞いて御覧なさい
「心の大本は何ですか?」と
彼らの答えは十人十色の様に聞えますが
答えは一つです
「○○だと」
さてst toukaさんはどんな答えを見出すのでしょう
さてst toukaさんの質問にはこう答えて置きましょう
科学的知識は程々に
心 しかも自分の心を究明するのであれば
哲学 知恵を愛するしかないと
哲学的対話について t19831984さんへ 2005/ 1/11 0:05
t19831984さんへ
始めまして
前回は失礼しました
t19831984さんのレスに対して
「私もそんなところです」などと一言で片付けてしまって
あの時は少し先を急ぎ過ぎていた様に思います
仕切り直しと言う事でまたお付き合い下さい
私がこのトピに入って来た理由は
t19831984さんが良識ある哲学者だと思ったからです
私との対話にも
嫌な顔をせずに誠実に付き合って呉れると思ったからです
私は私の醜名の通り
知恵を愛する事 すなわち哲学が大好きです
知恵を愛する事に生甲斐を感じているほどです
だから哲学革命などと言う大看板を掲げたのですが
これについてはもう気にしないで下さい
t19831984さんが私との対話を続けて頂けるのなら
今日からでも降ろしたいと思います
私は半年前ぐらいから「私の哲学百章」と言うものを書き始めました
私の名刺代わりにしよう
私のメモリアルにしようなどと思ったからです
この哲学百章は
私にとって大事な言葉
私を表現する上で無くては成らない言葉を百選び出し
それに対してエッセイを連ねて行くと言うものです
一応百の言葉が決まり
その順番も決まり書き始めたのです
因みに第一章が「私」で第百章が「神」です
この中に私を表現する上で無くてはならない言葉を
ある程度体系付けて詰め込んだのです
しかしその中には強弱があったのです
最初の十章は順調でした
しかしそれ以後次第に筆が鈍り
結局二十章で止めてしまいました
もっと勉強をしなければならないと思ったからです
そんな時目に飛び込んで来たのが
この「なんでも哲学的徹底討論トピ」だったのです
私が前に哲学思想の掲示板に書き込みをしていた時は
哲学思想の掲示板にもかかわらず
「ザ・哲学」と言うトピが無かったのです
だから「神はいるか」と言うトピに留まり
書き込みを続けていたのですが
「神はいるか」トピは科学的知識を偏重する嫌いがあり
どうも馴染めなかたのです
今回また新たに「神はいるか」トピを覗き込んだら
その傾向は変わっておらず
どうしても入って行けませんでした
それでと言う事で哲学思想のあちこちのトピを覗き回りますが
どうも私にぴったりのトピが無く
やはり掲示板ってこんなものかと思いながら去ろうとした時
「ザ・哲学」の文字が私を射止めたのです
そして中を覗き込むとびっくりしました
皆が皆一生懸命なのです
他のトピではおふざけが横行していたり
傾向としては無くても必ずおふざけが入り込むものですが
このトピには全くそれが見られなかたのです
皆が皆「自殺」とか「離婚」について真面目に討論しあっているのです
特に離婚か結婚の存続かについては
相談者の身になって皆が親切丁寧に応対しているのです
これこそが生きた倫理学なのかなどと思ってしまいました
そして何よりもここのトピ主さんが
哲学的文献に素養が深く
かつ純粋なる哲学者
すなわち知恵を愛する者だと思ったからです
そう言う訳で寄寓させて貰っている訳です
私がこのトピに入って来た一番の理由は
ここのトピ主さんとの対話です
私がお見受けすると所誠実でそれこそ本当の哲学者だと思います
私との対話にも厭わず付き合って呉れると思います
そう言う訳でどうかよろしくお願いします
私は「私の哲学百章」を完成させたいと思っています
その為にもどうかお力添えをお願いいたします
私が希望する対話は次の様なものです
先ずは私が私が選んだ百の言葉の一つについてを意見を出します
それを受けてトピ主さんがその言葉について意見を表出して貰いたいのです
出来れば私の意見に対する批評ではなく
その言葉に対するトピ主さんの意見を表出して貰いたいのです
次に私が私の意見とトピ主さんの意見を総括します
最後にトピ主さんに全てを総括して貰います
これで一つの言葉に関する対話は終わりです
この様にして順次
出来る事なら百の言葉について対話を進めたいと思っているのです
なお私は一日に1回しか投稿しませんので
一つの言葉の対話が終わるのに丸四日かかる勘定です
気の長い話ですが付き合って貰えるでしょうか
無理な事を言っている事は分っていますが
もしご承知頂けたらご返事をお願いします
もしご承知頂けたら
明後日から早速第一章を始めたいと思います
本日はご挨拶とお願いまで
sophialoverより
哲学的対話第一章「私について」 2005/ 1/18 22:15
t19831984さんへ
快いお返事有り難うございました
早速対話に入らせて頂きたいと思います
哲学的対話の第1章は「私について」ですが
その前にt19831984さんから頂いた意見について
私の意見を述べさせて頂きます
panietzscheさんは「神はいるか」トピの中で
「比類なき先言の私」について様々な人と議論していました
私はその議論についてはあまり興味がありませんでしたが
その「比類なき先言の私」と言う言葉についてとても興味がありました
何故ならその言葉を字句的にそのまま解釈すれば
私の定義する所の知恵と何ら変わりが無いと思ったからです
知恵を比類なきと表現する事はこの上なく妥当です
また知恵とはまさに先言の私です
言葉に先立つ所の私なのです
だから「比類なき先言の私」とは知恵そのものだと思っていたのです
今回運良く私の投稿に対してpanietzscheさんからレスがありましたので
「比類なき先言の私」について議論をお願いしたのです
議論は途中で終わった様な形になっていますが
どちらともそれぞれ納得した様な形で終わっていると思います
私の方については
ますます「比類なき先言の私」とは知恵だと確信する様になりました
何故ならその比喩が私の知恵の比喩とほとんど同じだったからです
panietzscheさんは私とその比類なき先言の事を次の様に喩えています
「私はある種の束である。その束に芯があるとすればそれが比類なき先言の私である」と
私の喩えはこうです
私の世界は伸縮自在な球面スクリーンである
そしてその光源が知恵でありそのレンズが私であると
大きな世界を写し出す時は大きくなった球面スクリーンが
小さな世界を写し出す時は小さくなった球面スクリーンが使われます
例えば家族とか仕事とか友達を写し出し時は等身大に近い球面スクリーンが使われます
だから私たちはそれを目の前に在る様に見る事が出来るのです
しかしそれはあくまでも私と言うレンズを通して
知恵と言う光源の本に照らし出された映像に過ぎないのです
フィルムは何かと問われれば
私たちの目の前に現れる表象全てです
私たちは私たちの目の前に現れる表象をフィルムにして
知恵と言う光源の本に私と言うレンズを通して
それを再度それに相応しいスクリーンに映し出すのです
だから同じ表象を目の前にしても
それを大写しに写し出す者もいれば
均整良く写し出す者もいるのです
その調整は全て私と言うレンズを通して行われるのです
なおレンズと球面スクリーンは通常は連動していて
そのレンズに相応しいスクリーンが自動的に選ばれる様になっているのですが
レンズの機能がおかしいと
そのレンズを通して写し出される映像もまたおかしなものになってしまうのです
これが私の私と知恵と私の世界の喩えです
どうです
私の喩えとpanietzscheさんの喩えはよく似ていると思いませんか
だから私はpanietzscheさんの言う所の「比類なき先言の私」と
私の定義する所の知恵とは同じものであると結論付けたのです
なおこの議論は途中で終わってしまったので
双方納得と言う訳ではなく
あくまでも私自身の結論にしか過ぎなかったのですが
今回t19831984さんからの素晴しい意見を得て
我が意を得たりと言う心境です
t19831984さんはpanietzscheさんの「私はある種の束である。その束に芯があるとすればそれが比類なき先言の私である。」と言う喩えを
哲学的文献的考察に依って
次の様に分析されましたよね
「私はある種の束である」とはずばりヒュームの観念の束と同じであると
そして「比類なき先言の私」とはカントの言う所の統覚と同じであると
また私の知恵もカントの言う所の統覚と同じであると
であれば「私の定義する所の知恵とpanietzscheさんの言う所の比類なき先言の私は同じである」と言う私の結論を後押ししてくれた事になり
本当に我が意を得たりと言う気分なのです
「二人または三人が私の名によって集まる所には私もその中にいる」
イエスの言葉ですが
今回はイエスの知恵を頂いた様な気分です
もうpanietzscheさんと議論する必要も無いと思いますが
しかし知恵の探求は私のライフワークですので
もし機会があったら今度は徹底的に討論したいとも思っています・・・
なお上述はt19831984さんの意見に対する私のレスです
私の意図する所の哲学的対話はこれからです
哲学的対話の第一回目の話題は「私について」ですが
稿を改めて直ぐに投稿しますので
そちらの方へt19831984さんの貴重な意見を頂ければ有難く思います
今回のこの投稿についてはロムに止めて頂ければ有難く思います
哲学的対話第一章「私についてその2」に続・
哲学的対話第一章「私について」その2 2005/ 1/18 23:00
哲学的対話第一章「私について」からの続きです
哲学的対話第一章「私について」
t19831984さんへ
私との対話について快く了解して下さり有り難うございます
早速対話を始めさせて頂きたいと思います
この哲学的対話の第一回目の話題は「私」についてです
私とは一体何者なのでしょう
私とはt19831984さんへ対話の申し込みをし
そしてその了解を受け今正にこの掲示板に書き込もうとしている私の事です
この私は一体何者なのでしょう
様々な答え方があると思いますが
現時点では私は何時もこの様に答えています
「私とは考える存在である」と
パスカルの言う所の「考える葦」であり
デカルトの言う所の「我思う故に我在り」です
私とは考える存在である
だから考えていない時は私と言うものは存在していないと
一瞬矛盾している様に聞えるかも知れませんが
決してそうでは無いと思います
こう言う人が居るかも知れません
「考えていない時でも私は確かに存在する」と
本当にそうなのでしょうか
これを立証する為には考えると言う言葉を
もう少し詳しく定義する必要があると思います
私はそれを言語化と定義します
この定義が間違っていれば
これからの私の議論も可笑しなものとなってしまう訳ですが
とにかく何か議論する時は
鍵となる言葉については定義化しなければ
その議論が曖昧に成って来ると思うのです
そう言う訳で今回は
考えるとは言語化する事だと定義して
これからの議論を進めたいと思います
哲学的対話第一章「私についてその3」に続きます
哲学的対話第一章「私について」その3 2005/ 1/18 23:06
哲学的対話第一章「私についてその2」からの続きです
さて「考えていない時でも私は確かに存在する」
本当なのでしょうか
私たち一日のサイクルは
覚醒の時と睡眠の時に分ける事が出来ます
覚醒の時とは起きている時と解釈して下さい
勿論睡眠の時とは眠っている時の事です
さてここで私は
「考えていない時でも私は確かに存在する」と言われた方々に質問したいのです
覚醒の時すなわち起きている時に
考えていない時がありますかと
彼らはこう言うでしょう
結構あるよと
そこで私はこう聞き直します
覚醒の時すなわち起きている時に
言語化していない時がありますかと
彼らはまたこう答えるでしょう
結構あるよと
私はまたここで言語化について更に定義化しなければならなくなりました
一体言語化とは何でしょうか
それは情報を言葉に変える事ではないでしょうか
そこでもう一度聞き直します
貴方方は覚醒時すなわち起きている時は
四六時中言語化を行っているのでは無いですかと
彼らはきっとこう答えるでしょう
そんな事は無い 考えていない時間も結構多いと
そこで私はこう聞きます
「言葉にならない言葉」と言うものが分りますかと
彼らは言うでしょう 良く分からないと
そこで私はこう説明します
私たちには五感があります
すなわち視覚聴覚触覚嗅覚味覚です
私たちはこの五感を通じて様々な情報を入手し
それを言語化しているのではないですかと
勿論言葉にならない言葉も含みます
先ずは味覚
確かに飲食の時しか使わないかも知れませんが
少なくとも飲食の時は味覚に依って言語化を行っているのではないですか
勿論 言葉にならない言葉も含みます
美味い不味い
これは典型的な言語化ですが
それだけでなく飲食の時はずっと
その味覚の変化を言葉に成らない言葉で味わっているのではないですか
試しにお手元にあるお菓子をじっくり味わってみて下さい
食べ終わるまでの間ずっと何らかの言語化を行っていたのではないですか
勿論言葉にならない言葉も含めて
私たちは意識する時それを言語化しようとします 勿論言葉にならない言葉も含めて
しかしそうでない時は言語化をしていない様に見えます
しかしそうではないのです
無意識の中で言語化を行っているのです ルーティンの言語化を
何故なら人は情報を言語化(言葉にならない言葉も含みます)しなければ
何も行動出来ないのですから
それから言葉と言葉にならない言葉の関係ですが
私は共に言語化と言う範疇に入れている訳ですが
この比率を考えると
圧倒的に言葉にならない言葉が多いと思います
何故なら人は感覚器官から入って来た情報を全て言葉に変える能力を持ち合わせていないのですから
テレビのグルメ番組を見れば一目瞭然ですよね
彼らは言葉にならない言葉でその料理を味わっているのでが
そこから出て来る言葉は何時も似たり寄ったりの言葉ですよね
私は思います
この言葉にならない言葉を表現する手段が詩や絵や音楽と言った芸術であると
また気分や感情と言ったものも言葉にならない言葉の言語化であると
少し横道に反れましたのでまた元に戻します
五感を通じての言語化の内
味覚について述べた訳ですが
嗅覚についても同じ様なものです
嗅覚が働いている間
その間は絶え間なく言葉にならない言葉も含めて言語化が行われているのです
味覚嗅覚による言語化は一日の内では割合限られた時間だけなのかも知れません
次に触覚ですが
これは味覚触覚よりは大分言語化を行う時間が多いと思います
熱い時寒い時四六時中これを言語化する人も居るようです
また恋人が居る人はこの感覚がまたたまらないのではないでしょうか
これを言語化しようとします
まさにそこに芸術が生まれる訳なのでしょうか?
しかしやはり一日の中では限られた時間です
しかし視聴覚は違います
一日中言語化を迫って来ます
特に視覚は凄い
一秒たりとも言語化を休ませる事はしません
試しに瞑想をやってみましょう
瞑想とは何も考えない様にする事ですよね
言語を絶つと言う事ですよね
さて一分間瞑想を行いましょう
ただし目は開けていて下さいね
さあスタートです
どうです
何も考えないと言う事が出来ましたか
瞑想の達人ならこう答えるかも知れません
何も考える事は無かったよと
しかし私はその人に言います
貴方の目は何も見ていなかったですか
その目が貴方に言語化を迫ったのではないですか
そして貴方は確かにそれを言語化した!と 勿論言葉にならない言葉で・・・
私の言う意味が分って頂けたでしょうか
「私とは考える存在である
哲学的対話第一章「私についてその4」 2005/ 1/18 23:11
哲学的対話第一章「私についてその3」からの続きです
私とは考える存在である
私が考えていない時は私は存在しない
私たちは四六時中考えています
だから私が何時も存在していると考えます
しかし私が全く考えない時
その時私は存在していません
しかし覚醒時すなわち起きている時は
これまで見て来た様に
視覚を始め様々な感覚器官が一秒たりとも間を置かず言語化を迫ります
だから覚醒時すなわち起きている時は
私たちは常に存在しているといって間違いないでしょう
誰一人として感覚器官の全てをストップさせる事は出来ないでしょうから
しかし睡眠時は違います
勿論夢を見ている時は違います
その時は感覚器官を総動員して言語化を行っているのでは無いでしょうか
更に詩や絵や音楽そして気分とか感情も動員させて
正に芸術の祭典を行っているのではないでしょうか
私が言うのは爆睡の時です
すなわち死んだ様に眠って居る時
その時私は考える事を止め 私は存在しなくなっているのです
私は思います
ここに宗教のそして真の哲学の神秘があると
日々新たに 再生 新生 蘇生
もし私たちが毎日死んで眠る事が出来れば
私たちは毎日を日々新たに 生き返った様に生きる事が出来るのではないでしょうか
しかし私は怖れます
現代人が眠って居る時も存在し続けているのではないかと
言語化の輪廻を行っているのではないかと・・・
さてこれで私の「私について」の言及を終わります
私が何故「私について」を哲学的対話の第一番に持って来たかと言うのは
私に依って世界がどうにでも変わると思ったからです
私とは考える存在である
であれば考え方に依って私の世界はどうにでも変わる事に成る訳なのですから
この事についてはt19831984さんも理解して呉れると思います
何故ならt19831984さんの求めているものも善き世界なのでしょうから
その為に必要なものは善き言葉善き考え方
それはt19831984さんの言う所の「善意志」に象徴されていると思います
なおこの哲学的対話については
当分の間は前回お願いした様な方法でお願いします
先ずは私が百の言葉の一つについて意見の陳述をします 今回で言えば「私」ですね
次にその言葉に対するt19831985さん自身の意見を陳述して頂きます
この際に様々な哲学者のその言葉に関する概念等を教えて頂けれとても有り難く思います
それはとても私を益すると思います 今回の「統覚」の様にまた前回の「善意志」の様に
次に私が私の意見とt19831985さんの意見を総括します
そして最後にt19831985さんに全てを総括して貰って終わりです
なお私はかなり長文の意見提出をしますが
t19831985さんは多くの人にレスをしなければならないので
私に対するレスは手短で結構です
なおt19831985さんから提案のあった多くの人に参加して貰うと言う事は大賛成です
その言葉に対する意見が多ければ多いほど
その言葉に対する概念を膨らむと言うものですから
たぶん私がこれから提出する言葉たちは
哲学を愛する人たちにはきっと魅力的な言葉たちだと思います
しかしその場合やはりお願いがあります
その言葉に対する最初の投稿の時はそれぞれ意見を出した人への批判ではなく
ご自身のその言葉に対する意見陳述をお願いしたいと思います
そうする事に依って対話が大きく膨らんでいくと思います
「議論」より「対話」を
真偽正否より善き方向美しき方向へ
そんなスタンスで望んで頂ければ有り難く思います
哲学的対話第一章「私について」
哲学的対話第一章「私についてその5」 2005/ 1/19 23:44
t19831985さんへ
私との対話に協力して頂けないのでしょうか
決してそんな事はないと思います
t19831985さんへ誠実な方
そして学識のある方
どんな対話でも厭わず付き合って呉れると思います
たぶん多くの人にレスをしなければいけないので
未だ私への順番が回って来ないと言った所だと思います
そう言う訳で今日の所は対話相手が居ない訳ですが
取り敢えず私一人で私の意図する所の対話を続けたいと思います
さて私が何故哲学的対話の第一章に「私」を持って来たか
それは私
すなわち考える存在である所の私
その私の考え方に依って世界はどうにでも変わると思ったからです
哲学の目的もそこにあるのではないでしょうか
少なくとも古代の哲学はそうだったと思います
私とは考える存在である
ところで私は何を考えどの様に考えているのか
前回の投稿では
起きている時すなわち覚醒時には
一時も休む事無く言語化を行っていると定義しました
すなわち感覚器官から情報が入って来る限り
人はそれを言葉に成らない言葉も含めて
一時も休む事無く言語化を行っていると規定したのでした
そしてそれを考えると言う概念で一括りしたのでしたが
たぶん多くの人がその定義には納得しなかった思います
そこで今回の考えると言う概念は
通常私たちがイメージしている考えると言う概念でいきたいと思います
すなわちある事ある物を思い考えそしてそれを言葉に纏めようする行為
そんな行為を考える事だと定義しましょう
ところで私たちは何を考えどの様に考えているのでしょうか
皆さんは今掲示板に向かっています
自らの投稿を書き終えて私の投稿を目にした人もいますし
多くの投稿を次から次に読んで来てそして私の投稿を目にした人もいます
いきなり私の投稿を目にした人がいるかも知れませんがそれは稀でしょう
大きく分れば前の二つでしょう
さてここで実験をしましょう
すなわち私たちが何を考えどの様に考えたかを
私たちは考えた事を忘れてしまいます
因みに昨日一日何を考えたか
それを時間を追って思い出せる人は一人も居ません
そこでと言っては何なのですが
すなわち私の投稿を目にするまでの一時間何をどの様に考えていたかを
追体験すると言う実験を行って見ましょう
どうです何をどの様に考えていましたか
たぶん投稿を書き続けていた人はある程度鮮明に思い出す事が出来ると思います
しかし投稿を読み続けて来た人は人はそうでないと思います
また例え投稿を1時間書き続けた人が居たとして
そしてその人がその書かれた文字をなぞって読んだとしても
考えた事の全てを思い出す事は出来ません
たとえ一瞬も休まず一時間書き続けていたとしても
それはその人の考えた事の一部です
人は考えたままに書き連ねる事は出来ないのです
考えると言う事は非常にスピードが速く
そして莫大な量なのです
だから人は誰もそれを記憶する事は出来ず
また書き留める事も出来ないのです
さてここで不思議に思う事があります
特に書き続けていた人はそんな思いを強くすると思います
この考えは何処から浮かんで来るのか
たぶん莫大の脳の記憶の容量中から様々に組み合わされて
今日ここにその考えが浮かんで来たのだろうが
何故こう言う考えが浮かんで来たのか
そしてある人たちはこうも考えます
何故にこれほどまでに考えが滾滾と湧き出でるのかと
私はそこに「知恵」と言う概念を持ち込みたいと思います
脳内生理学ではなく
さて何をどの様に考えるか
そこに知恵と言う概念を持ち込めば
もっとバランスの良い思考が出来ると思うのです
古代の哲学者達のように
さてそろそろ字数制限に懸かりそうですので今日はこの辺で終わりにします
出来れば次回は哲学的対話第二章「知恵について」に入りたいと思います
哲学的対話第二章「知恵について」 2005/ 1/21 0:15
t19831985さんへ
ご意見有難うございました
19831985さんの見解には何時も啓発させられます
そしてその晴眼には驚きます
確かに私は知恵に二つの概念を持たせています
一つは素晴しき存在としての知恵であり
もう一つは素晴しき働きとしての知恵です
しかし共に私が存在しなければ
素晴しき存在としての知恵は存在しないし
素晴しき働きとしての知恵は働かないのです
私とは何かと問われれば
それは考える存在です
知恵は常に存在するが
私は考えるその時だけに存在するのです
もし「人格の同一性は何処に在るかと聞かれれば」
私はそれに対して知恵だと答えます
私たちが常に知恵に向いていれば
人格の同一性は崩れる事はありません
初志貫徹強い意志の人間が出来るでしょう
例えばダビデの様に例えばイエスの様に
例えば孔子の様に例えば・・・・・・・・・・・の様に
しかし私たちが知恵から目を離すと
私たちの同一性は脆くなります
ダビデの詩篇を見ていると
知恵からの乖離 知恵への回帰
その辺りが手に取る様に見えます
しかしダビデは常に目を高くして知恵を追い続けていました
だから旧約の人でありながら
新約においてもあれほど高く掲げられたのです
少し話しが反れたのでまた元に戻します
人格の同一性を担保するものは知恵です
人が常に知恵に向いていれば
人格の同一性が崩れる事はありません
しかし知恵から離れてしまうと
確かな人格が確保出来なくなるのです
現代人のアイデンティティへの不安
それは知恵を確かに見えない所からの不安から来ているのだと思います
もし人が全く知恵に気付かずにいれば
それはやはり言う所の無知です
右往左往する人間と言う事になるのではないでしょか
それでもやはり知恵はぼんぼりよりも更に微かな光を放っているのです
それに依って無知なる人々も辛うじて人格の同一性が保たれているのです
もし人が知恵に向かおうとすれば
知恵は否が応でもその光を増して来ます
そして人は気付くのです
これが本当の私だったのかと
これが言う所の回向です
本当の私とは知恵の事なのです
だからもし私たちが本当の自分自身を見出そう思ったら
この知恵を探し出しそして見つけたら愛し続けなければならないのです
私は思います
古代の哲学者達は皆そうであったと
だから哲学の事をフィロソフィア
知恵(ソフィア)を愛する(フィロ)事と言ったのだと
哲学的対話第二章「知恵について」その2 2005/ 1/21 0:23
哲学的対話第二章「知恵について」からの続きです
さてここで私と知恵の関係について
もう少し詳しく述べて置かなければならないと思います
私は考える存在である
私は意志である 私は意識である
私は目を向ける存在である
私は聞き耳を立てる存在である
私は嗅ぐ存在である 私は味わう存在である
私は・・・・・・
私は全ての行動を起こそうとする主体である
私たちが行動を起こそうとする時
様々な情報が五感から入り
私たちは瞬時にそれをある表象に変えて処理しています
全く見事と言うしかありません
そこには考える存在としての私が全く存在しないかの様に見えますが
私は思います
その表象は全て
考える存在としての私が考えた上で処理された表象であると
私はそれをルーティン化された言語化であると
私たちは幼い時から様々な言語化を学んで来ました
私たちはその学習過程の中で一つ一つ
その情報の言語化を学んで来たのです
だから大人に成った今では何の苦も無く
それらたくさんの情報を一瞬の内に言語化しているのです
それは一種の無意識の言語化と言っていいのでしょう
そしてその言語化の現われが表象です
さてここで主題に入ります
すなわち私と知恵との関係です
私たちはその表象を何の意識もせず見ています
まるで皆が同じ表象を見ているかの様に
しかし本当にそうなのでしょうか
私はここに
「私」と「知恵」と言う概念を持ち込みます
私とは考える存在である
であれば何を考えるのか
端的に言ってしまえば何に目を向けるかです
黒白の影絵に目を向けるのか
それとも総天然色のその実体に目を向けるのか
そこに考える存在としての私と
光にも譬えられる知恵との関係が生まれて来ると
影絵とはこの世の見方と言って置きましょうか
実体とは私自身が目の当たりに見た光景とでもして置きましょうか
私たちが物を見る場合光源が必要です
物に光源がしっかり当てられていると
私たちは眩しいほどの総天然色のその物を見る事が出来ます
しかし光源と物との間にスクリーンがあったらどうなるでしょう
スクリーンが厚ければ厚いほど影絵の様にしか写らないのではないでしょうか
実際私たちが目にしている表象は
この厚手のスクリーンを通して見ている影絵なのではないでしょうか
私たちは幼い時からこの世間と言う厚手のスクリーン越しに物を見て来ました
だから人は目の当たりに全てのものを見ているように見ていますが
実際はスクリーンと通してその物の影絵を見ているのではないでしょうか
私は思います
同じ目の前にしてもその表象は本当は千差万別だ
もし考える存在としての「私」を知り
光にも譬えられる「知恵」の存在を知っていたら
彼はこの様にするでしょう
先ずはその物の方角にしっかり目を遣り
そうしてこう叫ぶでしょう「光あれ」と
私たちはこの世に住んでいます
だから誰もスクリーン無しにその物を直に見る事は出来ません
しかし「光あれ」と言えば
少々のスクリーンなら気に成らないほど透かしてその物を総天然色に近い形で見る事が出来るのではないでしょうか
これが私の「私」と「知恵」との関係です
なお私は古代哲学の愛好者です
古代哲学では宗教と哲学が一体と成っている所があります
私の記述にもその様な所がたぶんに見受けられると思います
敬遠される方も居ると思いますが
t19831985さんは知恵を愛される方
私の言い回しや比喩についても
抵抗無く受け入れる事が出来ると思います
そこでお聞きしたいのですが
t19831985さんは私の措定している所の「知恵」を措定で出来ますか
もし措定出来るとすれば
その時の「私」と「知恵」はどんな関係になりますか
もし措定出来ないとすれば
私は何時も一人ですか
私一人でこの世界をどう渡って行こうとするのですか
その時の頼りは「知識」ですか
私は知恵を様々に譬えます
今回はその一例に過ぎません
ある時は心の中の師や心の中の友達に譬えます
アンネの日記の中のキティについて私は知恵だと考えています
それからキリスト教の聖霊これもまた知恵だと考えています
t19831985さんはこんな知恵を考える事が出来ますか
もし出来るとすれば
「私」とその「知恵」の関係はどうなるのでしょう
哲学的対話第二章「知恵について」
哲学的対話第二章「知恵について」その3 2005/ 1/22 1:52
t19831985さんへ
相変わらずお忙しそうですので
zarugoroaさんへの回答のコメントから対話を発展させたいと思います
t19831985さんへはこの様に言っていますよね
「ソフィアさん自身が、「知恵」たる「私」から離れた他の実在を否定していらっしゃいます。ソフィアさんの場合には、睡眠時には、「私」は存在しないとさえ述べています」と
前回の投稿を読んで下されば分ったと思いますが
私は私と知恵は同一だとは考えていません
私はあくまでも考える所の私です
私は考える限りにおいて存在するのです
だから考えていない時
すなわち死んだ様に眠っている時には
私は存在しません
しかし知恵は違います
知恵は私すなわち考える所の私が存在する以前から存在しているのです
次の文章は旧約聖書箴言第8章の第22節から25節です
知恵が自らの事を一人称に喩えて述べる行です
「主はその道の初めに私を造られた
いにしえの御業になお先立って。
永遠の昔 私は祝別されていた
太初 大地に先立って。
私は生み出されていた
深遠の水のみなぎる源も未だ存在しない時。
山々の基も据えられてはおらず 丘もなかったが
私は生み出されていた。」
これが私の言う所の知恵です
だから当然考える存在で在る所の私が存在する前から存在しているのです
だからまた私はそれを聖霊にも喩えるのです
何故ならそれに問い質せば
「御もとにあって私は巧みな者となり
日々主を楽しませる者となって
絶えず主の前で楽を奏し
主の造られたこの地上の人々共に楽を奏し
人の子らと共に楽しむ」(同章30 31節)となるからです
この喩えをどの様に考えるかは全く自由です
何故なら私たちはユダヤ教徒でもなく
キリスト教徒でもないのですから
私たちはそれらの教義に何ら囚われる事なく
自由に考えれば良いのです
しかし誠実に
私はこの様に考えました
大地 深遠の水の源 山々の基 そして丘
それらは何時造られたのでしょうか
それは私
すなわち考える私が存在した時からではないのでしょうか
私が何時から存在したか
それは色々議論が分かれる所ですが
私は取り敢えず生まれた時だと仮定して置きましょう
何故なら生まれた時のあの泣き声
あれは言語化以外の何ものでもないでしょうから
様々な情報が様々な感覚器官から一遍に入った時の戸惑いを
表現した感情言語なのでしょうから
しかし大地 深遠の水の源 山々の基 そして丘が造られたのは
それから大分経ってからの事ですよね
一歳の時?二歳の時?三歳の時?若しくはそれよりずっと後になってから?
私たちは思い出す事は出来ませんよね
それほど世界は自然に創造されて行きましたよね
しかしそれは全部私の言語化の過程なのです
しかしそれは全部私だけ行ったのではないのです
私はそこに「知恵」と言う概念を持ち込んでくるのです
この世界は私と知恵の二人三脚で創ったものだと
「御もとにあって私は巧みな者となり 日々主を楽しませる者となって
絶えず主の前で楽を奏し 主の造られたこの地上の人々共に楽を奏し
人の子らと共に楽しむ」と言う事になるのです
知恵は巧みな者となり私を愉しませて呉れ
私が言語化したこの世界に更に楽しみを加えて呉れるのです
これが私と知恵の二人三脚のお話です
私は知っています
私一人で作った世界はみすぼらしい世界だが
(私はまた知っています 世界創造は必ず知恵の協力の元に行われるのであるが 知恵を知らない者は知恵に問わない為 知恵の積極的な協力が得られず 結局みすぼらしい世界になると言う事も)
知恵との二人三脚で創った世界は彩りに満ちた世界であると
哲学的対話第二章「知恵についてその4」に続きます
哲学的対話第二章「知恵についてその4」 2005/ 1/22 1:56
哲学的対話第二章「知恵についてその3」からの続きです
よく知恵の泉と言う言葉を使いますよね
私は知恵とはそんなものだと思います
そこから流れ出る水を飲めば渇く事が無いと
これは喩えです
知恵の泉から流れ出る水
これは言葉の事です
この傍らに居る限り
人は言葉に餓える事はないのです
そしてそこから絶えず世界が創造され続けていくのです
これが私の「知恵」の喩えです
知恵が何時から存在するかと問われれば
それはどちらかと言うと形而上学的な事だと思いますが
そんな事を言ってしまえばそこで議論が終わってしまうので
今回は受精の時だと言って置きましょう
よく人間の受精から誕生までを
地球上の生命の歴史に喩えますよね
私はこの様に思うのです
知恵は受精から誕生までの間に
地球上の全ての生き物の事と知り尽くすのだと
だから知恵は命に対してこの上なく優しいのだと
これも喩えです
知恵との対話を一番実感出来る教科書は何かと問われれば
私いの一番に旧約聖書の詩篇を挙げたいと思います
それは全編ダビデと知恵との対話です
ダビデは知恵の事を主と呼んでいます
知恵を一番実感出来る方法は
「主よ」と呼びかけてみるのです
そしてその主に
私はこれこれはこう思いますが
本当にこれで良いのでしょうか
などと問いかけてみて御覧なさい
そこに必ず答えが返って来ます
私はそれを知恵と呼んでいます
さて対話に戻りたいと思います
t19831985さんは
「「言語化」に関する拙論では、言語化以前の「私」の存在要請(理論的要請)が述べられています。」と述べていますが
「言語化以前の私」を知恵と読み替える事は出来ませんか?
知恵と言う言葉が馴染めないのであれば
聖霊とか悪魔とか若しくは無意識とか
その辺りの意見をお聞かせ頂ければ有難く思います
追伸
zarugoroaさんへ
どうか「対話」への参加をお願いします
現在話題となっているのは「私」と「知恵」です
zarugoroaさん自身の「私」と「知恵」に関する意見をお聞かせ下さい
共有できる部分で対話をすれば良いと思います
哲学的対話第三章「言葉について」 2005/ 1/22 13:40
t19831985さんのお返事がないので
段々モノローグの形になってきましたが
先を急ぎたいと思います
今回の話題は「言葉」についてです
t19831985さんは本当にお忙しそうですね
それに「知恵」については
私が哲学的対話第二章「知恵について」を投稿する前から
様々な事をお聞かせして貰っているのあれで十分です
ただ一つだけお聞かせ頂ければ有難いと思います
それはt19831985さんの言う所の「言語化以前の私」と
私の定義する所の「知恵」と
カントの言う「統覚」と
panietzscheさんの言う所の「比類なき先言の私」が
同じものなのか違うものなのかと言う事です
その一点だけをお聞かせ頂ければ有難く思います
なお私の知恵の定義が様々に変わるので捉え難いと思いますが
もしt19831985さんが旧約聖書箴言の第8章を読んだ事があれば
そこに出て来る知恵こそが私の定義する所の知恵です
すなわちソロモンの知恵です
もし読んだ事がないのであれば
キリスト教の聖霊です
(聖霊が堕ちると堕天使すなわち悪魔にもなります
ここで聖霊と天使が同じかと言う議論が出るかとも思いますが
私はここでは次の様に定義して置きましょう
天使は聖霊の働きであると
知恵を存在と働きに分けた場合
聖霊が存在であり天使がその働きであると)
そんな知恵とt19831985さんの言う所の「言語化以前の私」が
同じなのかそうでないのか
その辺りをお聞かせ頂ければ有難く思います
t19831985さんのその回答を待って
哲学的対話第二章「知恵について」を終わりたいと思います
哲学的対話第三章「言葉についてその2」に続きます
哲学的対話第三章「言葉について」その2 2005/ 1/22 13:43
哲学的対話第三章「言葉についてその1」からの続きです
さてここから哲学的対話第三章「言葉について」です
言葉とは何でしょう
私はここで大胆な発言をします
言とは神であると
「初めに言があった
言は神であった
この言は初めに神と共にあった
万物は言によってなった
成ったもので言によらずになったものは何一つなかった」
ヨハネ福音書第一章の冒頭です
私の冒頭の大胆発言もヨハネ福音書の言葉を聞いて大分和らいだと思います
すなわち「言とは神である」と言う発言が
しかしここで注意しなければならないのは
言は神であるが
言葉は神ではないと言う事です
言葉とは神または言より発せられた言の葉の数々です
では言とは何か
私はまた「知恵」を持ち出さなくてはなりません
私はここでもまたこう定義します
「言」とは「知恵」であると
そうすると知恵は神とも同義語に成る訳です
上述のヨハネ福音書を読み替えると
「知恵は神であった
この知恵は初めに神と共にあった
万物は言によってなった」となります
私はここで更に大胆発現をします
私と知恵と神は三位一体でであると
「父と子と聖霊の名によって」
福音書に良く出て来る表現です
これが三位一体の根拠です
父とは神の事であり
子とはイエスの事であり
聖霊はそのままです
キリスト教の三位一体とは
「神とイエスと聖霊が三位一体である」と言う事です
私はそれを次の様に置き換えます
イエスとは私であると
聖霊は知恵であると
神は今の所そのまま神として置きます
その置き換えに依って
私は「私と知恵と神は三位一体である」と
ここで次の様な議論が聞えて来ます
貴方は貴方自身をイエスに喩えるのかと
そのとおりです
私のこの世界には私しか居ません
そしてこの世界に居るのは私の知恵と私の神です
私は知恵を通して私の世界を投影します
そしてその投影された世界の端々から
私の神が私を統べるのです
私と知恵と神は三位一体であると言う喩えを
中心点を持つ二重円に喩えたいと思います
中心点が知恵です
そして内円が私で
外円が世界です
この外円は伸縮自在で大きくも小さくもなります
さてでは神は何処に居るかと聞かれれば
中心点にもおり
内円内にもおり
外円内にもおり
全ての円内に居り
考える所の私を統べるのです
神の事は喩える事が出来無い程に色々喩える事が出来ますが
今回の議論の中では概念だと喩えて置きましょう
それも善い言う方向へ向かう概念だと
もし私がイエスの様に成りたければ
イエスの衣を着ると言うかイエス様のフィルターを付ければいいのです
その瑞々しいフィルターを通して
私たちはイエスの世界を覗き見する事が出来るのです
そして私たち神を見る事が出来る様になるのです
あそこにもここにも居ると
そして私たちは敬虔なクリスチャンとなっていくのです
神とは善きと言う概念です(今回の議論の為だけの例えです 神を一律に定義する事は出来ないと思います 神を固定した定義で定義した時 神は固定したものになり 神は一つの概念に成り下がってしむでしょうから)
だから善き方向へと言う意志を持たない者には神は存在しません
神と言う概念を持つ者は
自らが創造したその世界に善きものを見つけて喜びます
そしてこう讃えるのです
おお神よ この素晴しき世界は私にお与え下さって有難うございますと
その善き概念は外周円内の世界だけでなく
内円の考える私についても
そしてその中心点の知恵についても及ぶのです
もし全てを 私も知恵もそして世界の全てを善き概念で飾った者が居るとしたら
彼は何処に居ると言えばいいのでしょう
そうです極楽若しくは天国です
何故私が「言葉」の章で極楽または天国まで持って来たかと言うのは
言葉に依ってこの世界が天国にも地獄にも成ると思ったからです
そしてその行き先を決めるのは「考える所の私」です
もし私が知恵の存在を知らずに無知のまま進めばその先は煉獄か地獄です
しかし知恵を知り知恵を愛してその誘導の本に行けば
決して煉獄地獄ではなくそれ以上の所へ行けると思います
晴れた日のピクニックの様な気分で
私と知恵と言葉
私と知恵が生み出した言葉たち これが世界です
そしてこの世界が善き概念で満たされているのだとすれば
天国までとはいきませんが
ワンダフルワールドと言えるのではないでしょうか
哲学的対話第三章「言葉について」
哲学的対話第二章「知恵についてその5」 2005/ 1/27 0:22
t19831985さんへ
さすが慧眼の持ち主です
私の対話の核心へと私を引き込もうとしています
「結局、「よき言葉」の使い方、真心のある言葉や、モラルある言葉遣いをしているとき、光が差していると読んでよろしいでしょうか?」
その通りです
善き言葉 真心のある言葉 モラルのある言葉を使っていると
その言葉の向こうに光の様なものを感じる事が出来ます
その光の様な存在を私は知恵と喩えているのです
しかし知恵が実在しているか否かは別です
もし知恵の実在を信じればそれは宗教と成ります
キリスト教はそれを聖霊と呼び信仰の対象にしています
だから聖霊に呼びかければ呼びかける程
善き言葉 真心のある言葉 モラルのある言葉が生まれて来ます
それもイエスの言葉の響きを帯びた言葉が
私は思います
全ての人がクリスチャンに成って
その聖霊と呼ばれる知恵に呼びかければいいと
そうすればこの世も
善き言葉 真心のある言葉 モラルのある言葉が溢れるでしょうから
しかしそんな事は出来ない相談です
何故なら現代人はそんな事を信じる事が出来ないからです
かく言う私もその一人です
私はそんな現代人の為に新しい概念を生み出そうとしているのです
それが知恵です
知恵は古い言葉ですが
そこには新しい概念があるのです
と言うより古代においてはその概念が正に知恵だったのですが
時代がふり近現代と言う時代を経るに従って
その概念が変わって来たのです
現代における知恵と言う概念は知識とあまり変わらなくなって来ています
おばあちゃんの知恵
確かにそこには古代の知恵の香りはしますが
それは形骸化され知識とあまり変わらないものに成っているようです
私の言う所の知恵は次の様に喩えられる泉の事です
「この水を飲む者は誰でもまた渇く
しかし私の与える水を飲む者は決して渇かない
私が与える水はその人の内で泉と成り
永遠の命に至る水が湧き出る」
その泉から湧き出る水を飲む者は渇く事はない
またその水は神々の飲み物ネクターにも似て甘くて美味しいのである
だからその泉を見出した者は
毎日その泉に行き
その泉から命に至る水を飲んでいるのである
私たちはその人がその泉を見出したかどうかを調べる事が出来ます
それはその人たちから吐き出される言葉が
「善き言葉 真心のある言葉 モラルのある言葉」に満ちているかどうかです
もしそんな言葉に満ちているのであれば
その人は知恵の泉を見出したと言って良いでしょう
知恵の泉から水を飲んだ者には善きと言う香りが付いて来るのです
t19831985さんもそんな一人ではないかと思っています
哲学的対話第二章「知恵についてその6」に続きます
哲学的対話第二章「知恵についてその6」 2005/ 1/27 0:24
哲学的対話第二章「知恵についてその5」からの続きです
さてt19831985さんからは三つの質問疑問を頂いております
一番目の質問については取り敢えず上記で代えさせて頂きます
さて二番目の質問です
「依然としてむずかしいのは、睡眠時に「私」はいないのに、なぜ昨晩の私と今朝のわたしが同一の私であると言い切れるか、です。」
そんなに難しい事でしょうか
私たちには記憶の媒体があります
それが昨日の私と今日の私を繋いでいるのではないでしょうか
私とはあくまでも考える存在です
だから私たちが考えていない時
これまでの仮定の中では死んだ様に眠っている時
その時には私は存在しないと言う事になります
考える私が存在しないにどうして私が存在し得るのでしょうか
ただ私をどう考えるかに依って議論は変わって来ます
この肉体を私というのであれば
確かに眠っている時も「私」は存在しますが
この肉体を指して私と言うでしょうか
やはり私とは一人称代名詞の事ではないでしょうか
そしてそれは考える(話す聞く書く読む何でもいいですが言語活動を行う)私を指す一人称代名詞の事なのではないのでしょうか
ここでこう言う人がいるかも知れません
歩く走る食べる飲む
この様な運動活動を行うのも私であると
しかし私は言います
これらも全て言語活動であると
歩く走る食べる飲む
これらは言語活動の結果を随意筋に伝えた時に起きる運動態様であると
歩く走る食べる飲む
これらは全て言語活動であると
筋肉が勝手に歩いたり走ったりはしないのです
あくまでも考える所の私が考えた結果
私は歩くのであり私は走るのであると
私は言います
覚醒時すなわち死んだ様に眠っているとき以外は
全て言語活動の結果であると
だから私は言うのです
私とは考える存在であると
だから死んだ様に眠っている時は
考える所の私は存在していないので
私は存在していないと
さてt19831985さんが私をどの様に定義しているのか知りませんので
取り敢えず私の定義
すなわち「私とは考える存在である」の定義の元に
t19831985さんの「依然としてむずかしいのは、睡眠時に「私」はいないのに、なぜ昨晩の私と今朝のわたしが同一の私であると言い切れるか、です。」と言う質問にお答えしたいと思います
私たちには記憶の媒体があります
私たちはその記憶の媒体に依って
昨日の私を一年前の私を十年前の私を
そして物心付いた頃の私を思い出す事が出来るのです
私たちはそれに依って
私は昨日も存在していたし
一年前も十年前も
そして幼かったあの日にも確かに存在していたと言い切れるのです
しかしそう言っているのは
あくまでも考える所の私です
t19831985さんはこの様な事も言っていますね
単なる知識では
私と言う存在理由は言い表せないだろうと
私もそう思います
最もここでも知識を厳密に定義しなければ
議論もまた噛み合わないものとなるでしょうから
私はここでは知識を
言語化の中でも固定されたものそしてかなり多くの人と共有出来るものと
定義する事としましょう
この様な知識でどうして
この記憶の大海を言い現す事が出来るでしょう
私は以前に言語化すなわち考えると言う言葉を
二通りに概念付けしました
一つは通常一般に私たちが考えると言う時に使う概念です
すなわち言葉になる言葉で考えると言った類のものです
普通私たちが考えるとは
話し言葉書き言葉に置き換えて考える事を考えると言いますよね
第一の考えると言う概念はその様な概念でした
そして二番目の考えると言う概念は
多くの人は納得出来ないでしょうがと断りながら
次の様に定義しましたよね
すなわち
私たちには視覚聴覚嗅覚味覚触覚五感があります
そしてこの感覚器官から様々な情報が入って来ます
私たちはそれを一瞬も休まず
言葉にならない言葉で処理しています
私はそれも言語化だと言いそしてそれも考えると言う概念に含めました
そして覚醒時すなわち起きている時は
一瞬も休まず言語化すなわち考え続けているのだと
さて私の言う記憶の大海とは
この言葉にならない言葉の言語化
すなわち二番目に定義にした所の考えた結果も含みます
どうして言葉にならない言葉を含むこの記憶の大海を
知識と言うちっぽけな概念で言い表す事が出来るのでしょう
私たちはこの記憶の大海を目にする時
考える私は私の連続性を確認出来るのではないでしょうか
私はかつて在り今も在りそして未来も在ると
何故ならその大海が一瞬にして亡くなるとは考えられないでしょうから
これを持って二番目の質問の回答にさせて変えさ
哲学的対話第二章「知恵についてその7」 2005/ 1/27 0:26
哲学的対話第二章「知恵についてその6」からの続きです
さてこの記憶の大海を一般的にどの様に言い表せるかと言えば
意識化された世界と無意識の世界の混合体と言い表す事が出来るのではないでしょうか
しかし私はここで記憶の大海の事を
記憶の宇宙と言い換える事にします
そしてここにまた知恵の概念を持ち込みます
夏に孤島にキャンプに行ったとしましょう
そしてその島の一番高い頂に茣蓙を敷き仰向けになり天空を仰ぐ事にしましょう
勿論夜です
人は言います
何と言う美しい夜空か
何と言う夥しい星の数々かと
一般的にそれでその美しい夜空は片付けられてしまいます
そして楽しいキャンプファイヤーに移って行く事でしょう
もうそんな美しい夜空が無かったかの様に
しかし今日は違います
今日はその夜空を見る為にこの高台まで上がって来たのです
それも一人で
そして明け方になるまでそこにいる覚悟で来たのです
相手は夜空だけです
さて今八時です
夜空は満天の星に輝いています
人は言います
何と言う美しい夜空か
何と言う夥しい星の数々かと
しかし時間は長いのです
ごゆっくりと
さて空が白み始め星々も一つ一つと消えていきました
さて人は夜空に何を見たのでしょう
私は言います
記憶の大宇宙を見たと
絵心のある人なら
その記憶の大宇宙から
言葉になった言葉 言葉にならなかた言葉たちを集めて
その大空に美しくてかつ壮大な絵巻物を描いただろうと
また科学心のある者なら
その記憶の大宇宙から
言葉になった言葉 言葉にならなかた言葉たちを集めて
その大空に様々な真理公理を描いただろうと
そしてカントの様な道徳家はこう言うでしょう
「おお!我が上なる星空と我が内なる道徳律よ」と
それらは全て記憶の大宇宙からの贈り物です
しかしそこには必ず考える私と知恵が存在したのです
私は目を向ける者です
その記憶の大宇宙に
そしてそれを照らすものが知恵です
もし私が美しいものに目を向けようとすれば
知恵はその大宇宙の中から美しいものに光を当てて呉れます
もし公理的なものに目を向けようとすれば
知恵はその大宇宙の中から公理的なものに光を当てて呉れます
もし私が善きものに目を向けようとすれば
知恵は私にその大宇宙の中から素晴しく善きものたちに光を当てて呉るのです
そしてその時私は言うのです
「おお!我が上なる星空と我が内なる道徳律よ」と
これがt19831985さんの三番目の質問に対する回答です
t19831985さんは昨晩の私と今朝の私の同一性の問題について
「ソフィアさんは、そこに「知恵」による「信」を持って来ようとしますか?
しかし、「信」は、知り得ないものへの信であって、知識にはつながりません。
知識なき確信というものはあるでしょうか。」と聞いて来ています
同一性の問題については先程の記憶の媒体と言う概念で説明しました
しかし知恵を信仰する事に依ってそれは更に強められると
しかし知恵を信仰するなどと言った事は現代では仰々し過ぎます
そこで私は知恵を愛するすなわち哲学と言う概念をもと込むのだと
私の言う哲学とは古代近代現代の哲学的文献を研究する事ではありません
ずばりその字句のとおりフィロソフィア知恵(ソフィア)を愛する(フィロ)事なのです
知恵を愛すれば言葉は連綿と続いて出て来ます
その人が納得するまで
その言葉たちに依って
私たちは知りえないものについてもある程度の確信を持つ事が出来るのです
しかしここで大事なは絶対ではなく相対的に確信出来ると言った方がいいのだと思います
そうでないと争いの種を播く事になりますので
それが哲学の柔らかい所です
私たちは哲学的文献に依っては決して自分自身を納得させる事は出来ません
自分自身を納得させるのは
知恵の泉から流れ出る言葉たちです
その鉱脈を掘り当てるに使われる道具が哲学者の言葉たちです
私は言います
古代哲学者の言葉たちはその為の道具としてこの上なく有用であると
哲学的対話へのお誘いpさんzさん皆さんへ 2005/ 1/28 11:56
哲学的対話へのお誘いpさんzさん皆さんへ
panietzscheさんへ
ご無沙汰しています
お元気でご活躍のご様子嬉しく思います
実は今日はpanietzscheさんにお願いがあって一筆啓上したと言う次第です
実は今私は新たな企画を立てて続行中です
それがこの「哲学的対話」です
この哲学的対話は哲学の主題となる様な言葉を百選んで
その言葉について次から次に対話討論をして行こうと言うものです
現在「私」「知恵」「言葉」と進んでいます
この次は「世界」を予定しています
その後はまた全く趣向を変えた言葉たちで対話討論して行く予定です
因みに「世界」の後には「快楽」を予定していますが・・・
この哲学的対話は次の様な方法で進めたいと思っています
先ず私がある言葉について
私なりの意見を述べます
その私の意見を受けて
panietzscheさんのその言葉に関する意見を述べて貰いたいのです
勿論哲学史的見解でも結構です
それはとても私を益するし
もし今後多くの人がこの対話に参加して呉れたら
その人たちをも大いに益すると思います
その次に私が私の意見とpanietzscheさんの意見を総括します
最後にpanietzscheさんが全てを総括して
それでその言葉に関する対話は終わりです
その様にして言葉を次から次に変えて
小気味良く対話を発展させたいと思っています
百の言葉について対話を終えた時
対話を始める前と比べると
私自身についてはきっと世界が一回り違って見える様になるのかも知れません
実を言うと
私はここのトピ主さんのt19831985さんにこの対話をお願いしているのです
そして今「私」と「知恵」についてと対話が進んでいますが
この対話は私をとても益しているのです
私に次から次に新たな発見を齎しているのです
もしpanietzscheさんがこの対話に参加して呉れたら
更に発見に継ぐ発見で
私にとっては新たな時代になる様な気がしているのです
しかし私一人でpanietzscheさんとt19831985さんを独占するのは
あまりにも贅沢に過ぎると思うのです
だからこのトピに参集する多くの人にも声を掛けて行きたいと思いますが
先ずはzarugoroaさんに声を掛けたいと思います
zarugoroaさんは誠実で
そして哲学を愛する気持ちの豊かな人です
きっとこの対話を実り多いものにして呉れる筈です
panietzscheさんとt19831985さんは
この哲学思想カテの二大巨人です
お二人が参加すれば
きっとこの企画は大ヒットする筈です
企画そのものは決して悪い企画ではありませんから
哲学的主要主題となる百の言葉について小気味良く次から次に対話を進める事に依って
参加者の思想全体も一回り大きくなるでしょうから
最もpanietzscheさんとt19831985さんは別かも知れませんが
お釈迦様が孫悟空を手のひらで弄んだ様に
私たちを弄ぶのかも知れませんが
それも仏心です
そう言う訳でpanietzscheさんにも参加して貰いたいのです
現在話題となっているのは「私」と「知恵」と「言葉」です
そしてその次は「世界」です
この四つの言葉について
panietzscheさんの意見を聞かせて頂ければ有難く思います
zarugoroaさんへ
始めまして
今回投稿を全部読ませて頂きました
とても哲学的知識の豊かな方だと思いました
現在私はpanietzscheさんに伝えた様に
「哲学的対話」を企画続行中です
zarugoroaさんも参加頂ければと思います
もしzarugoroaさんが参加頂ければ
この哲学的対話も若い方を中心に大きく広がって行くと思います
そう言う訳で参加頂ければとても有難く思います
なお現在話題としようとしているのは「私」と「知恵」と「言葉」と「世界」です
これら四つの言葉についてzarugoroaさんの意見をお聞かせ頂ければ有難く思います
皆様へ
始めまして
私はsophialoverと言う者です
現在私はpanietzscheさんzarugoroaさんに伝えた様に
「哲学的対話」と言うものを企画して続行中です
この哲学的対話とは哲学の主要主題となる様な百の言葉について
次から次に小気味良く対話を展開しようとするものです
多くの方が参加すればするほど
それらの言葉に関する概念が広がって行きます
それはきっとこのトピに豊かなものを齎すと思います
そう言う訳で常連の方々にも大いに参加して頂ければ有難く思います
なお現在話題としようとしているのは「私」と「知恵」と「言葉」と「世界」です
これら四つの言葉について皆様の意見をお聞かせ頂ければ有難く思います
psnietzscheさんへ 2005/ 1/29 15:46
psnietzscheさんへ
またここに戻って来ました
この「神はいるか」トピに
「何でも哲学的徹底討論トピ」は私が長居する場所かななどとも思っていたのですが
とんでもない結論になってしまいました
確かに私があそこに腰をかけた頃は
誠実な哲学的対話が行われていた様に思いますが
急展開してあの様な結果になってしまいました
そして私があそこにいる理由がなくなりました
私はあそこのトピ主の方に私の企画をお願いしたのです
すなわち「哲学的対話」を
この哲学的対話と言うのは
哲学の主要主題となる様な百の言葉を選んで
それについて次から次に連続討論をするというものでした
トピ主さんは快く引く受けて呉れました
そして「私」「知恵」と対話は進んで行ったのですが
私が「言葉」について発案した頃から
段々雲行きが怪しくなったのです
それと同時にあのトピも荒れだしたのです
とにかくあそこのトピ主は精力的で誠意な方でした
全てのトピに目を通し
それらに何らかの返答をなされようとするのです
そのお陰と言ったら何ですが
私への返答が遅滞し始めたのです
それで私は段々モノローグの形になっていったのです
それではと言う事で
psnietzscheさんへにお相手して頂こうと思って
あの様な申し出をした次第なのです
ところがどうでしょう
私がpsnietzscheさんへ対話の申し出をした同時に
トピ主さんが引退宣言をなさってしまったのです
私の企画に対してはpsnietzscheさんからのやんわりとしたお断りを頂き
またトピ主さんが引退して居なくてしまい
私があそこに居る理由がなくなってしまったのです
そう言う訳でまた古巣であるここに戻って来たと言う次第です
ここはいいですね
歴史があると言うか伝統があるというか
「古池や蛙飛び込む水の音」
「静けさや岩に染み入る蝉の声」
そんな心境にさせて呉れます
何せ昨晩の10時台から1件も投稿がないのですから
たぶんあそこは10時台からの投稿が100件は超えている筈です
やはり私が居るべき所はここなのでしょう
「ゆっくりとゆったりとマイペースで」
それでいて色々の人の意見も聞きながら
そう言う訳でまたここに戻って来ました
psnietzscheさんへ その2に続きます
哲学的対話についてpcog ngoさんへ 2005/ 1/30 23:50
pcog ngoさんへ
初めまして
sophialoverと言います
私は昨年の5月半ばまでこのトピに常駐していた者です
故あって一時ここを離れていましたが
また昨日から戻ってきた者です
どうかお見知り置きの程よろしくお願いします
ところで今日のpcog ngoさんの投稿の中に
とても興味深い一文を見出しました
それは
「この宇宙船である地球を大宇宙の楽園となすべき使命を自覚して、思想革命に基づいた人類の叡智を存分に駆使する事によって、人類に平和と繁栄をもたらす責務がある事を吾人は肝に銘ずるべきである。」と言うものです
実を言うと私も昨年5月までこの様な事を言い続けていたのです
本当に同志を得たと言う気分です
私が昨年のその頃まで言い続けていた概念は「哲学革命」と言うものです
哲学の事をphilosophia 知恵(sophia)を愛する(philo)事だと言いますよね
すなわち知恵を愛する事に依ってこの世を変えて行こうとするものです
思いと想い すなわち思想もこの知恵を愛する事に依って生まれる訳ですから
pcog ngoさんの言う所の「思想革命」と
私の言う所の「哲学革命」とは同じだと思ったのです
それで勝手に同士など言う言葉を使ってしまったのですが
ベクトルは同じ方向を向いていると思います
どうかお付き合いの程よろしくお願いします
哲学的対話さんへその2に続きます
哲学的対話pcog ngoさんへ その2 2005/ 1/30 23:58
哲学的対話についてpcog ngoさんへからの続きです
現在私は哲学的対話と言うものを企画しております
この企画は哲学的に主要主題となるような言葉について
言葉を次々に変えて対話を進めていこうとするものです
言葉としては
「人類」「平和」「思想」「地球」「科学」「哲学」「革命」「時代」「歴史」
「戦争」「平和」「知恵」「自由」「教育」「道徳」「宗教」「国家」「文化」
「人生」「幸福」「快楽」「死」「神」「自然」「宇宙」「時間」「力」「存在」
「言葉」「正義」「感情」「意志」「自分」「仕事」「生活」「政治」「経済」
「日本」「民族」「言葉」「命」「愛」「人間」「欲望」そして「真善美」等々
様々に考えられます
私とpcog ngoさんとのこの対話の目的は
これらの言葉についての共通の概念を見出し
そしてその方向を探ろうするものです
もしこれらの言葉について一つの求心力が認められれば
それがまさしく「哲学革命」「思想革命」原動力となるものだと思います
その様なものがあるのかないのか
それがこの対話の最終目的になるのだと思います
この「神はいるか」トピは知性豊かな人が一杯です
そして皆誠実です
勿論そのベクトルは私たちと反対の人もいますが
皆誠実です
その一つ一つの言葉について
質問疑問反論意見そして同意等々
その様なものを貰う事に依って
それぞれの言葉についての概念とその方向性について
最大公約数的なものが得られれば
それがこの対話における成果になるのだと思います
そして最終的にこれらの言葉全てについての
皆さんの最大公約が得られれば
この対話は大成功であり
そして「哲学革命」「思想革命」は近づいたと言えるのではないかと思います
この対話は出来れば次の様にして進めたいと思います
基本的には私とpcog ngoさんの対話で行いますが
このトピに参集する多くの人に参加して貰う為
規則は次の一つだけにしたいと思います
言葉の選択とその言葉に対する最初の意見表明は
私かpcog ngoさんが行うものとする と言う事だけです
後はフリートークです
それともう一つこれは規則と言う訳では無いのですが
一つの言葉についてはあまり深入りはしない と言う事です
この対話の目的はその言葉についての真理を見出す事にあるのではないのですから
よく哲学は真善美を求めると言う事だと言いますが
真理というものは曲者です
それを究極的に求めて行こうとするすれば
それは結局論争争論となっていくでしょうから
この対話の目的は全ての言葉に一なる求心力があるのかないのか
それを求める事がその目的なのですから
だからそれぞれの言葉についての概念及びその方向性について
最大公約数的なものが見出されたら
その言葉に遅滞する事無く
次から次に対話を進めて行きたいと思っています
これは先程の規則から導き出される準則と言う事にもなります
すなわち言葉の選択は私かpcog ngoさんが選択すると言う規則の
私は思っているのです
厳選された哲学的に重要な百の言葉について
次から次に対話を続けられたいいと
その為にも一つの言葉にあまり滞っている事は出来ないと思います
この対話の目的は「哲学革命」「思想革命」への導きなのですから
それぞれの言葉についてどの様に思想すればよいのか
それがこの対話の目的の第一
そして言そのものについてはどの様に思想すればよいのか
これが第二の目的であり最終目的なのです
「思想」とは言葉なりそして言なり
以上が私が考えている哲学的対話の趣旨です
どうかお付き合いの程よろしくお願いします
なお誠に勝手なお願いではありますが
最初の言葉は「哲学」にしたいと思います
なお今日はもう時間がありませんので
私の方からは今日は「哲学」に関する意見表明は行いません
もしpcog ngoさんにお時間があるのであれば
私が明日この画面に向かうまでに
「哲学」に関する意見表明を頂ければとても有難いと思います
もしお時間が無ければ
明日のこの時間頃に
私の方から「哲学」に関する意見表明をしたいと思います
皆さんへ
どうかこの哲学的対話に参加して下さい
今回の主題は「哲学」です
皆さんが哲学について如何に思っているかお聞かせ下さい
なお先程の規則の中で
言葉の選択とその言葉の最初の意見表明については
私かpcog ngoさんが行うとしましたが
あの規則は取り消します
規則は次の一つだけにしたいと思います
主題となる言葉の選択は私かpcog ngoさんが行うに改めますので
どうか「哲学」について如何なる概念を持っているのか自由にお聞かせ下さい
哲学的対話「哲学」皆さんへ 2005/ 2/ 1 0:16
Waya4さんへ
返信有難うございます
それからたくさんの言葉に関する定義有難うございました
その一つ一つについて吟味していきたいのすが
時間もありませんし
それに前回の投稿で
先ずは「哲学」と言う言葉から始めさせて頂きたいと言明していた事もありますので
Waya4さんの哲学と言う言葉に対する概念から検討させて頂きたいと思います
Waya4さんは哲学について
次の様に述べていらっしゃます
「「哲学」・・・=「クオリア部分が訴えるもの」」と
残念ながら
私はこれに依って
Waya4さんが定義する所の哲学について理解する事が出来ませんでした
何故ならクオリアと言う言葉を知らないからです
私は私の持っている広辞苑 現代用語の基礎知識 bookselfに依って調べてみましたが
そのいずれにも載っていませんでした
Waya4さんは自由に関する定義の所でも
「「自由」・・・クオリア部分の趣くまま行動できる」と述べています
Waya4さんの哲学思想の中では
クオリアと言う言葉は重要な概念を持っているようですが
しかし私ははやり言わなければならないと思います
分らない言葉については分らないと
そう言う訳で誠に勝手なお願いではありますが
クオリアと言う言葉の意味について解釈した上で
哲学について概念付けをして頂ければ有難いと思います
それからもう一つお聞かせ頂きたいのですが
その哲学の在るべき姿 理想の姿はどんなものだと思いますか
それともこうお思いですか
理想の哲学などと言うものは有り得ないと
どちらでも結構ですが
哲学の将来像についてお聞かせ頂ければ有難いと思います
初対面に近いWaya4さんに随分失礼な言い回しをしたのではないかと畏れますが
私自身の中では哲学的対話の中での許容範囲だと思っています
そう言う訳ですのでお気を悪くなさらないで
私との対話にお付き合い願えれば有難く思います
今回は哲学の概念とその方向性について
もう少し詳しくお話頂ければ有難いと思います
以上でWaya4さんとの対話を終わります
さて私は前回の投稿で
もしpcog ngoさんから哲学について意見表明がなければ
私の方から私の哲学について意見表明をすると述べていました
未だpcog ngoさんから哲学について意見表明が無いようですので
私の方から私の哲学に関する意見表明を行いたいと思います
私は哲学と言う言葉を語る時熱くなります
何故なら哲学が知恵を愛する事なのですから
哲学の事をphilosophia
知恵(sophia)を愛する(philo)事だと言いますよね
私の哲学の概念は専らそれです
私は知恵を語る時熱くなります
何故なら知恵に特別な思いを描いているのですから
しかしここで知恵について言及していけば
また取りとめも無く長くなってしまいますので
今回は哲学を別な概念で捉えようと思います
よく哲学を真善美を求める事だと言いますよね
今回はその概念で述べて行きたいと思います
(最も最終的には知恵に帰って行くのは分っているのですが・・・)
哲学的対話「哲学」皆さんへその2 2005/ 2/ 1 0:24
哲学的対話「哲学」皆さんへからの続きです
真善美を求める
それは人間の営為としては素晴しい部類に入りますよね
だから哲学者は古今東西尊敬されて来た訳ですが
偉大と言われる哲学者達は如何なる真善美を求めて来たのでしょう
それを見ていく上にはやはり時代分けをしないといけないのかも知れません
古代中世近代現代と
私は古代の哲学書は良く読んでいます
中世はあまり読んでいません
近代は少しばかり読んでいます
現代は全く読んでいません
こんな私が時代分けをして
哲学を論じられる訳はありません
私の論じるのは全てエッセイです
心の中に思い立ったままを
そのままに書き連ねて行くだけですが
それでもその言葉たちは私をある程度納得させて呉れるのです
これが不思議な所なのですが・・・
さて前置きはこれ位にして本題に還りたいと思います
偉大と言われる哲学者達は何を求めたのでしょうか
その真善美とは一体何だったのでしょう
古代哲学ではそれは割合簡単です
真理とは神の事です
そして善美とはその神から流れいずるものです
古代哲学はこのパターンのバリエーションですから
割合簡単に理解出来るのです
私の思考形態もこれによるものです
だから私の言葉は科学に泥んだ人たちにはあまり理解して貰えないのだと思います
最も古代哲学においても神と言う概念は様々なバリエーションがありますから
それを一律に定義すると紛争論争が起る事になります
それを普遍的に定義する事など出来ないと思います
そのグループが共有するその概念がそのグループの神と言う事になります
だからそのグループに属さない人たちが
そのグループに属する人たちの神の事をとやかく言う事は
その人たちにとってはやはり冒涜な事だと言う事に成るのだと思います
何故なら彼らの全ての行為
特に善き行為美しき行為そして義しき行為は
全てその神の元に行われているのですから
その大元を汚されれば彼ら全ての行為を汚されるのですから
彼らにとっては冒涜と思えるのです
もし彼らと付き合う時は
その神の概念を理解する様に努めればいいのです
そうすれば争いなど起りません
何故なら神と言う概念は全ての人間が持ち合わせている概念なのですから
私が一言で皆様にお伝えいたしましょう
それは真善美の源であると言う事です
とんでもない結論になってしまいましたね
私は先に
哲学とは真善美を求める事だと定義しました
そしてここで神とは真善美の源だと言う事になりました
そうすると
哲学とは神を求める事と同義語になる
私ははっきり言います
哲学と宗教は神を求めると言う事では全く同じ事だと
ただ違いは次の一点だけです
哲学は自分自身で自らの神を求めるが
宗教はグループで
それもそのグループの宗主の教えに従って神を求めると言う違いだけです
当然宗教では神を求める姿勢は固定的なものになってきます
それに引き換え哲学では
全く自由に何にも囚われずにその者の神を求める事が出来るのです
だから知恵ある者たちは自ら自身でその神を求めたのです
ここで皆さんが勘違いするといけませんからはっきり述べて置きますが
イエスも釈迦も宗教家などではなく純粋な哲学者であったと
彼らは自らの力でその神を見出したのです 哲学者として
しかしクリスチャン仏教徒はそうではありません
彼らはイエス釈迦の教えに従って神を見出そうとしているのです
私の言う事が分って頂けたでしょうか
ここでこう言う質問が聞えて来そうです
釈迦は神を求めたのかと
私ははっきり言います 求めたと
しかし先にも言った様に神の概念は様々です
確かに仏典には神と言う言葉は無いのかも知れませんが
注意深く読んで行けばそこに確かに神と言う概念があるのです
皆が全ての宗教にその神と言う概念を見出して行けば
決して宗教戦争などと言うものは起らないのです
さてまた本題から大分外れたので本に戻したいと思います
私は先に時代ごとに分けて哲学を論じようとしました
もうあまり時間が無い様ですので
今日は次の様に述べて締めくくりたいと思います
古代において百花繚乱のごとく神を求めた
中世においてはそれぞれの神に囚われた
そして近代においては新しい神々を求めた
しかし現代においては科学と言う神に呪われていると
また過激な発言に成ってしまった
哲学的対話「哲学」皆さんへその3に続きます
哲学的対話「哲学」皆さんへ その3 2005/ 2/ 1 0:25
哲学的対話「哲学」皆さんへ その2からの続きです
pcog ngoさんへ
私はこの様な言い回しをしますがどうかお付き合い下さい
今回の「哲学」については私が最初と言う事で
かなりフリーハンドで描きましたが
もし意見等があればそれに誠実に答えて行きたいと思っています
私は思っています
表現方法すなわち比喩の仕方は違うかも知れませんが
ベクトルは同じだと
pcog ngoさんは組織の重きを置き
私は個に重きを置く等の違いもありますが
ベクトルは同じだと思います
どうか哲学に関するご意見をお伺せ下さい
皆さんへ
どうかご意見お願いします
罵詈雑言以外は全てOKです
特に質問疑問反論大歓迎です
それに依って私にも新しい泉が湧くかも知れませんので
panietzscheさんへ
取って置きの反論どうかお願いします
私も新しい水が飲みたいのです
scramble_eggsjpさんへ hirop321さんへ 2005/ 2/ 1 23:56
scramble_eggsjpさんへ
クオリアの定義有難うございました
よく分かりました
それからWaya4さんの哲学の定義にいついても
少し分った様な気がします
どうも有り難うございました
hirop321さんへ
お久しぶりです
それにしても浅はかな知恵とは随分のご挨拶ですね
いかにもhirop321さんらしいご挨拶だと思いました
しかしhirop321さんは
この神はいるかとトピの中では
私に一番近しい存在です
どうかよき隣人としてお付き合い下さい
今日の所はご挨拶まで
sophialoverより
anpanmanさんへ hirop321さんへ 2005/ 2/ 3 12:04
私も神はいないと思います
しかしいて欲しいと思います
だから私は神を求めているのです
もし最初から神はいないと開き直れば
決して神は現れないと思います
しかしいるのかいないのか分からないけれど
とにかく神を探してみよう
そう思いで神を探してみれば
ひょっとしたら神が現われて来るのかも知れません
しかし私は言いたいと思います
誰も神を見た事はないと
試しに近くに教会があれば
そこの牧師さんや神父さんや宣教師にこう聞けばいいと思います
貴方方は神を見た事があるのですかと
彼らはたぶんこう言うと思います
神を見た事は無いが神の存在は信じると
結局神とはこう言うものだと思います
神は信仰の対象であると
それでは神とは如何なるものか
多くの人々の信仰の対象となる神は如何なるものか
神については様々な概念がありますが
最大公約数的なものを取れば
真善美であり真善美の大本であり真善美を生み出すものと考えればいいと思います
私たちがその真善美の大本である神を信じればどうなるのか
私たちに自ずからその真善美の属性が身に付いて来るのです
これが宗教の論理です
しかし真善美を求めると言う事は宗教だけの専売特許ではありません
それはまた哲学の主要概念でもあるのです
だから私は何時も言うのです
哲学と宗教は同じ事だと
ただ違うのは
宗教は宗主の教えに従ってその真善美の大本を求めるが
哲学は自らの力でその真善美の大本を求めると
現代人は宗教家の言うその大本は中々信じる事は出来ないと思いますが
自らその大本を探すという事については道さえあれば労を厭わないと思います
だから私は哲学革命と言う概念を高く掲げるのです
哲学革命とは
知恵を愛する事に依ってこの世を変えようとするものです
哲学の事をphilosophia 知恵(sophia)を愛する(philo)事だと言います
だから哲学革命とは
知恵を愛する事に依ってこの世を変えると言う事に成るのです
なお私は知恵について特別な思い入れがあるのですが
今回はその説明はしないで置きたいと思います
さてもし多くの人が
哲学をすれば すなわち知恵を愛すればどうなるのでしょう
多くの人に真善美の大本 すなわち神の概念が生まれるのではないでしょうか
そうなればどなるのでしょう
きっとこの世は今よりももっと素晴しい世界になるのではないでしょうか
これが私の哲学革命の概念です
哲学の最終目的は知恵を愛する事に依って
自ら自身の神を見出して行く事です
そして哲学革命とはそれに依って自らを変え世界を変えて行こうとする運動なのです
anpanman_vs_jyamuさんもこの運動に参加して
自らの神を見出して見ませんか
もし自らの神を見出したいのであれば
古代の哲学者から学ぶのが一番良いと思います
何故なら古代の哲学者は神
もしくはこの真善美なるものと
常に対峙していたのですから・・・・
hirop321さんへ
今掲示板見させて頂きました
了解です
今後ともよろしくお願いします
私はhirop321さんの言う所の神の概念は分かります
そしてとても興味があります
しかし経験した事がありません
だから今後
その神の概念やその神との出会いの方法などについて聞く事があると思いますが
どうかよき隣人としてよきアドバイスをして頂ければ有難く思います
私は神の事についてはとても興味があります
しかしそれを見たりそれに出会ったりした事はありません
私の言う所の神は全て私自身が作った神の概念です
それでも神の事について考えないよりはましだと思います
しかしもし神が居るのなら神に出会いたい
そう言う訳ですのどうかよろしくお願いします
私の神の概念は様々です
anpanman_vs_jyamuさんに投稿した神の概念もその一つです
千変万化いえ無限に変化する神を
どうして一つの定義で言い表せましょう
だからhirop321さんの神についてもとても興味があるのです
どうかよろしくお願いします
哲学的対話 waya4さんへ 2005/ 2/ 4 0:14
Waya4さんへ
「知恵で持って、具体的な問題である、人口増加と有限なenergy配分、および文明とenergy消費の辺りを解説していただけると参考になるのだが。」との事ですが
正にここにおいて知恵が働くのです
そして哲学革命の趣旨が生きて来るのです
もし現在エネルギーについて問題があり
それを解決しなければならないのであれば
正に皆が知恵に聞かなければならないのだと思います
そうすればエネルギー問題は解決する事でしょう
もしここに集う人が皆一斉に知恵に対してこう聞けば
エネルギー問題は解決の方向に向かうでしょう
すなわちその問いとは
「現在エネルギーが逼迫しつつあります
私たちはどうすればいいのでしょうか」と
それに対して知恵はこう答えるでしょう
「知足」と
それからこうも付け加えるでしょう
「快楽」もつまとして添えると
「知足」と「快楽」この二つが満たされれば
人はそれ以上何を求めるというのでしょうか
どうです
エネルギー問題の糸口が見出されたでしょう
この様にしてエネルギー問題は解決の方向に向かうのです
もしここで十人の人が一斉にその問いをなし
そして知恵からその回答を貰ったら
マグニチュード10の知恵の波が全世界を被い尽くす事でしょう
しかしその波は津波の様な被害を与えるのではなく
数限り無い恩恵を与えながらこの世界を一巡りする事でしょう
そしてその波が私たちに還って来る頃には
エネルギー問題はきれいさっぱりに洗い流されている事でしょう
これが哲学革命の趣旨です
勿論全て喩えであり希望です
さてどうして「知足」と「快楽」により
エネルギー問題が解決されるのでしょうか
知恵を愛する人々は言うでしょう
もう分ったと
しかしそうでない方々は未だお分かりにならないと思いますので
もう少し敷衍します
「知足」 足るを知る
ここに至ればそれ以上何を求めると言うのでしょうか
もしそれ以上を求めれば
余食贅行と言う事になります
この余食贅行こそが
エネルギー問題の根幹だとは思いませんか
「知足之足 常足矣」(足るを知るの足るは 常に足る)≪老子≫
何と言う素晴しい言葉でしょう
しかし知恵ある人々は
この事において連帯出来るのです
この事に依ってエネルギー問題は解決出来るのではないでしょうか
私は知っています
全ての人とは言いませんが
多くの人は知恵を愛すれば愛する程
この光りの様な言葉に突き当たるのだと
そしてそれは結局古代の偉大な哲学者たちの言葉に還元されて行くのだと
だから私は言うのです
古代の哲学者たちに知恵を学べと
これも老子の言葉です
「道生一 一生二 二生三 三生万物」(道は一を生じ 一は二を生じ 二は三を生じ 三は万物を生ず)
私は知恵が一なのか道なの知りません
私は時によってはそれを一の様に語り
また時によっては道の様に語り
また時によっては二の様に
そしてまた時によっては三の様にも語ります
私の知恵と言う言葉は変幻自在なのです
しかし決して万物の一つ一つの事においては決して知恵と言う言葉は当て嵌めません
もし当て嵌めるとすれば知識です
知恵は道か一か二か三でなくてはなりません
何故ならそれらは万物を生み出す力だからです
さて本題に戻りたいと思います
このエネルギー問題は
道から万物の中のどれなのでしょうか
私ははっきり言います
それは万物の中の一つであると
もしエネルギー問題について問題があるとすれば
三に問題が在ったと言う事になります
では三にどんな問題があったのでしょうか
余食贅行と言った所でしょう
飽食とか贅沢とか言った類の
しかしこれでは本質を突いていません
それを本質的な言葉で言い表せばやはりそれは「快楽」です
この快楽に問題が在ったから
もしエネルギー問題が問題だとすれば
その問題が起ったのです
言えば飽くなき快楽と言った所でしょうか
もしエネルギー問題が問題だとすれば
この飽くなき快楽がその第一原因だったのではないでしょうか
ではエネルギー問題を解決する為にはそうすればいいのか
簡単な事ですよね
この飽くなき快楽を断ち切ればいいのですよね
そしてその方法はと言えば
「知足」ですよね
足るを知れば
もう余食贅行などと言うものは起きてこないでしょうからね
しかしここでこう言う言葉が聞えて来ます
「知足」では人間の根本原因である快楽を満たす事が出来ないから
それは絵空事に過ぎないと
ご心配なく
「知足」には物凄い快楽が秘められているのです
この世の快楽のどの快楽よりも素晴しい快楽が
知足と言う門を潜っ・
哲学的対話 waya4さんへその2 2005/ 2/ 4 0:16
哲学的対話 waya4さんへ からの続きです
エネルギー問題を解決する為には
その万物の中の一つで知識をあれやこれやと振り翳しても駄目なのです
少なくとも三と言う知恵に還らなければならないのです
そしてそれから更に二や一やそして道へ
私の哲学革命とは
多くの人が三や二や一やそして道と言う知恵に還る事に
この世を変えて行こう試みなのです
人生は短く芸術は長いしです
万物の中の一つにかかずりあっていると
知恵が遠のき
この素晴しき世界が見えなくってしまうと思うのです
私と一緒に哲学革命に参加してみませんか
私はその最初の試みとして
哲学的対話百篇を考えています
これは哲学的に主要主題となる様な百の言葉を選んで
それについて連続的にそしてテンポよく対話を進めていこうとするものです
一つの言葉に留まっていると
最後には堂々巡りの様になって詰まらなくなると思います
panietzscheさんも言っていた様に飽きて来ると思います
もし百の言葉についてテンポよく対話を続けていたら
多くの人が参加して呉れると思います
そこでお誘いなのですが
この哲学的対話に参加して頂けませんか
もし参加して頂けるのであれば
waya4さんから最初の言葉を提案して頂けませんか
私が提案しても対話は成立しません
何故なら応答が無いからです
しかしwaya4さんが提案すれば対話は成立します
何故なら私が応答するからです
そしてwaya4さんのお友達も参加して呉れるでしょう
そうすればより実り豊かな対話が出来ると思います
百の言葉に依って
私たちの世界を経巡って見ませんか
もし承諾頂けるのであれば
waya4さんが哲学する上で
大事だと思う言葉について意見表出して頂けませんか
私は必ず応答します
先ずは試みに一回遣ってみませんか・・・
waya4さんへ(未投稿)
Waya4さんへ
「兎に角、私たちは、生物を食べて生きる者ですから、人口が増えれば、食料の分配量が減少します。」
その通りです
しかし私たちの分配量が減っているでしょうか
そこに弱肉強食の論理を見出す者は知恵ある者です
日本は勝ち組です
私たちはその勝運に乗って
飽食を思いのままにしています
テレビを付けて見なさい
グルメ番組で一杯ではないですか
これが搾取でなくて何だと言うのですか
日本の経済学者はこの勝運を手放すまいとして
様々な論理を作り上げます
もし私たちがそれに同調すれば
更に強者の論理が横行する事になります
知恵ある者は
この世の流れからは身を引き離しておくものです
この世の河の畔に腰かかけて
この世の河の流れを見るのは楽しいものです
いかだに摑まりながら河を下る者もいます
達者に泳ぎながら河を下る者もいます
浮き沈みしながらも懸命に河を下る者もいます
時にはまさに沈まんとする人もいます
しかし不思議な事ですが
誰もこちらの岸を振り向こうとする者はいないのです
ここにはこんなに色とりどりの花が咲いていると言うのに
人はまるで本能に取り付かれたかの様に
河の流れに従って河を下って行きます
まるでその先に何かがあるかの様に
しかし私は知っているのです
その先に瀑布がある事を
多くの人がそこで息絶えます
しかし強き人々は
そこでも生き残り
本能に取り付かれた様に
更に河を下ります
しかし私は知っているのです
その先に大鰐大蛇ピラニアが居る事を
彼らの多くはその生餌となります
それでもそれらを掻い潜り
更に河を下ろうとする者がいます
まるでヘラクレスかアキレスの様に
しかし彼らも結局力尽き
水面に消えて行くのです
私は知っています
その河が流れ着く先の先
すなわち海まで辿り着けた者が一人も居ない事を
何故私が知っているかって
私は岸辺に居る者
常に腰掛けてばかりではなく
時には河辺を散歩もするのです
時にはハイキングよろしく
河口まで遠出する事もあるのです
私はその大河口で人を見た事はありません
人の欠片を見た事もありません
そこでは人は完全な有機物と成って
海へと流れて行くのです
私はそこでよく海神と河神とのこんな会話を耳にします
「これは私からの贈り物です どうぞお受け取り下さい」
「有難う 有難く受け取る」と
結局人はこの世と言う大河の生贄なのです
そして海へと流れ込み海を潤すのです
だから私は言うのです
万物の一つ一つについて議論しても詮無き事だと
直ぐに大河に飲み込まれる命なれば
それよりも三や二や一や道と言った岸辺に辿り着く方がずっといいと
私はこの様に喩えます
この世に生きる者
すなわち大河で泳ぐ者の命は一日であると
それに引き換え
岸辺に上がった者の命は百年であると
人の命が百年だと言う事について異を唱える者はそれ程いないと思います
また大河で泳ぐ者の命が一日だと言う事についても
それ程異を唱える者はいないと思います
例えヘラクレス アキレスと言った強靭な肉体の持ち主が
激流を下り瀑布を飛び降り
ピラニア水蛇大鰐と戦い
更に下流へ下流へと目指しても
結局その日の終わりには
水面に浮いている事になるだろうと
たとえどんなにこの世を上手く泳いでいる様に見えても
その者の命は一日である
それに引き換え岸に上がった者は
不老長寿の仙人の如くこの世を楽しめるのである
何故なら先程の寿命を計算すると
岸辺に上がった者の命はこの世の者の命の
3650倍(1×365×100=3650)になる訳だから
ほとんど不老長寿と言ってもそれ程は外れてはいないだろうから
この不老長寿に導く術が哲学革命だと言っているのである
哲学革命の趣旨は知識から知恵へある
すなわち万物の一つ一つから
三二一そして道へである
「道生一 一生二 二生三 三生万物」(道は一を生じ 一は二を生じ 二は三を生じ 三は万物を生ず)
この老子の言葉は常に頭に置いて置いて下さいね
今回話題となった「人口問題」「食糧問題」「資源エネルギー問題」は
知識から知恵への回帰
すなわち哲学革命で全て解決です
もしこの世の半分の人が哲学革命に参加したら
この世の人口は半分になります
これで食料資源エネルギー問題は一気に解決です
何故人口が半分に成るかって
それは哲学すなわち知恵を愛する事が
男性女性それぞれを愛するよりもそしてその肉体的快楽よりも更に優れているから
男性女性が女性男性に振り向かなくなるからです
最も人口が半分になったらそれもまた問題ですよね
それにこの世の半分の人が哲学革命に参加すると言う事も考えられません
私の希望としては
この世の一割の人が哲学革命に参加して呉れれば良いと思っています
そうすればこの世はもっと住みよい世界になる筈です
waya4さんへ
哲学革命に参加しませんか
そしてここに集う皆様へ
私と一緒に哲学革命に参加してみませんか
哲学革命の報酬は快楽です
快楽に興味のある方 この指とまれ
waya4さんへ
今日は時間が無いので「知足」の説明は出来ませんが
今回の「人口資源エネルギー問題」のキーワードはやはり知足です
この知足によりこの問題は解決です
しかしその為には多くの人が哲学革命に参加しなければならないのです
waya4さんも哲学革命に参加しませんか
哲学革命の中心概念は知識から知恵へです
waya4さんはたくさんの知識をお持ちです
その知識から知恵に向かうのです
そうすればその知識にも光が当たり
素晴しく生きた言葉の数々が生まれて来ると思うのです
幾ら知識だけを組み立てても
何も変革は起りません
私は思います
それは時間の無駄だと
僅か一匹の小さな魚の為に
あの激流の大河に身を投じる様なものだと
知識から知恵に向かう方法はあまり知識に反応しないと言う事です
知識から知識に向かう方法には大きな弊害があります
一つには知識習得に時間がかかると言う事です
私たちに与えられた時間はそれほど多くないのです
どうでもいいような知識の習得に時間をかけるのは本当に時間の無駄です
知識については知恵に導く様な知識をこそ習得すべきです
二つ目には知識合戦に成ると言う事です
ここの投稿はほとんどそうです
時には感情を害する事さえもあります
知識は比較するものです
そしてここに集う皆様は我こそは一番なり
そう言う自負を持ってきますから
切っ先の鋭い口舌合戦になるのです
三つ目これが一番の弊害です
それは知恵への道を閉ざすと言う事です
知識から知恵に向かう方法は
知識なり言葉が与えられたら
その知識なり言葉に深く沈潜する事です
そうすればその知識なり言葉から
数々の数え切れないほどの言葉たちが流れ出てきます
あの尽きせぬ泉に譬えられる様に
後はそれを自動書記の様に拾って行けばよいのです
もし一つの言葉に一時間向かえば一時間分の
二時間向かえば二時間分の言葉が
三時間向かえば三時間分の言葉が
その言葉から返されて来ます
それを知恵からの応答と譬えてもいいと思います
もうそれは決して知識とは呼びません
自分自身の言葉です
そしてそれについて自らが善しと判断すれば
それは知恵とも成り得ると思うのです
waya4さんは知識豊かな方です
その知識を持って
一つの言葉に向かえば
自分でも信じられない程の
言葉の数々が浮んで来ます
それを知恵の応答と譬えてもいいと思います
そしてその知恵と真剣に向き合えば向き合うほど
真善美の属性を帯びた様な言葉たちが生まれて来るのです
しかしここで大事なのは
あくまでも自分にとって真善美を帯びた様なという所です
何故なら知恵は他人と比較する為のものではなく
自分自身を向上させる為に存在しているものなのですから
私が提案した哲学的対話百編も
哲学すなわち知恵を愛する上で重要な言葉百について
皆さんと対話をし
哲学革命の共有の土台と作ろうとするものでしたが
少し勧誘に疲れてしまいました
そう言う訳で哲学的対話は一応今日で終わりにしたいと思います
これからは少し羽を伸ばしてここを自由に飛び回ろうと思っています
私から哲学的対話を呼びかけながら
私の方から一方的に打ち切りにして申し訳ありません
その代わりと言っては何なのですが
一つの代替案を提供したいと思います
それは「哲学百章」です
waya4さんが
哲学すなわち知恵を愛する上で重要な百の言葉を選んで
その言葉を通して知恵に向かうと言う企画です
きっと素晴しい知恵の言葉たちがwaya4さんを飾ると思います
この掲示板上でそれを遣って呉れると
私はとても嬉しいのですが
これまでのしがらみもあるでしょうから
やはり一人奥まった部屋に入り戸を閉めて
その知恵に向かった方がいいのかも知れませんね
実を言うと私も哲学百章を試みたのですが
二十章位で事切れてしまいました
実を言うとこの哲学的対話百篇は
「私の哲学百章」を続行する為の材料を探そうと思って提案したのですが
やはり下心があると駄目ですね・・・・
知恵へ 2005/ 2/ 5 10:25
Waya4さんへ
「兎に角、私たちは、生物を食べて生きる者ですから、人口が増えれば、食料の分配量が減少します。」
その通りです
しかし私たちの分配量が減っているでしょうか
そこに弱肉強食の論理を見出す者は知恵ある者です
日本は勝ち組です
私たちはその勝運に乗って
飽食を思いのままにしています
テレビを付けて見なさい
グルメ番組で一杯ではないですか
これが搾取でなくて何だと言うのですか
日本の経済学者はこの勝運を手放すまいとして
様々な論理を作り上げます
もし私たちがそれに同調すれば
更に強者の論理が横行する事になります
知恵ある者は
この世の流れからは身を引き離しておくものです
知識から知恵へ 哲学革命その2に続きます
知識から知恵へ 2005/ 2/ 5 12:04
投稿者: sophialover007
四千字近い原稿を書き上げて投稿しようと思ったのですが
投稿が受け付けられませんでした
よくこんな事があります
ちゃんと二千字以内に分けて投稿しているのですが
どんな投稿制限があるのでしょうね
折角書き上げた原稿がふいになるのも残念ですが
これも仕方の無い事です
今日は未だ時間もありますので
思いのままに生書き込みをして行きたいと思います
今日のお題は「投稿」としましょう
人は何故投稿するのでしょう
一言で言えば認めて貰いたいからなのでしょうか
認識への欲求が
人をこうも投稿に駆り立てるのでしょうか
私たちには様々な欲求があります
しかしこの中でも最も強力な欲求が
認識への欲求です
認識への欲求には二つあります
一つは自らが他を認識しようとする欲求です
もう一つは他が自らを認識して欲しいと言う欲求です
前者の場合の他はこの世の全てと言う事に成りますが
後者の場合は人となります
勿論ペットとか神とか聖霊とか
そんな存在も対象となるかも知れませんが
今回はその事は考慮に入れないで置きましょう
以上の事から
認識への欲求は
自らが他を認識しようとする欲求と
人から認識されたいと言う二つの欲求があると整理できます
さてこの掲示板で投稿に投稿を重ねている人にはどんな認識への欲求があるのでしょうね
私は言います
後者への欲求が勝り過ぎていると
もしそれらの欲求が満たされれば
それ程投稿に投稿を重ねる必要も無いでしょう
例えば日に一度
自分が認識した事を発表すればいいのです
何故投稿に投稿を重ねるのか
それは認めて貰いたいからに過ぎません
欲求の原則は「モア」です
もっともっとと求め続けて行くのです
その満たされない欲求を
これでもかこれでもかとぶつけて行きます
憐れなほどに
何故彼らがこれほどまでにその欲求に突き動かされるのか
それはこの世の知識を相手にしているからです
この世は貴方方に
「知識」と言うニンジンをぶら下げて
まるで馬車馬の如く走らせているのです
それを貴方方は知らず
何か素晴しい事でも行っているかの如く
口泡を吹き飛ばしているのです
ああ!
何故これ程にこんな口舌合戦が続くのか
その原因を私が教えて上げましょう
それは知恵を相手にせず知識を相手にしているからです
知恵を相手にしている人に目を遣って御覧なさい
彼らは静かな上にも静かです
そして一日に一回口を動かすだけです
それでもここで何百回何千回と口泡を飛ばしている人よりも説得力があります
何故知恵に向かう人は静かな上にも静かなのでしょう
それは常に尽きせぬ泉にも喩えられる
知恵の泉の傍らに佇んでいるからです
彼はその泉から流れる甘露の様な水
すなわちよき言葉を少しも無駄にすまいと
それらを汲み上げているからです
どうでもいい様な知識にかかずりあっている時間などないのです
それは1時間でも2時間でも3時間でも
時間が許す限り流れ出して来る言葉なのですから
もし貴方方が知恵に向かう方法を教えて呉と言うなら教えて上げましょう
もし貴方に一つの言葉一つの知識が与えられたら
それに一心専念する事です
そうすれば言葉が溢れて来ます
後はそれを自動書記の様に書き写して行けばいいのです
その時貴方は思う筈です
知恵とはこう言う概念であったかと
知識は比較対照可能です
ここで議論する方々のその知識の程度を比較する事は可能です
やはりあの人の知識は優れている
あの人の知識はどんなものかなどと
しかしここで一番の人でも
その専門分野の中の人に混じれば
正に小学生程度のものなのでしょう
そして知識のあの大巨人ピラミッドに比べれば
まるでありの子の様なものです
そんな事に大切な時間を費やしていいのでしょうか
知識は比較可能ですが
知恵は決して比較する事は出来ません
何故ならそれはその人を生かす為のものなのですから
自らの真性善性そして自らの美を引き出す為のものなのですから
昨日よりも今日
そして今日よりも明日において
より美しくより善く成りたいと思うなら
やはり自らの内に存在するその知恵に目を遣るべきです
喩えそれが脳内生理学のどんな言葉に置き換えられても
そして善とか美を貴方方がどんなに勝手に解釈しても
それは貴方にやはりその美をその善を齎すのです
時間が来たので今日はこれまでにします
哲学と科学 2005/ 2/ 7 0:02
Waya4さんへ
返信有難うございました
私の一昨日の最初の投稿「知恵へ」は
実は不完全な投稿だったのです
私はwaya4さんの投稿に対して四千字近い文章を作成して
それを二分割して送ろうとしたのですが送れなかったのです
それで三分割四分割等々様々に試みて送ろうとしたのですが
やはり送れなかったのです
それではと言う事で
その文章の最小単位
すなわち第一節だけを分割して送ったのです
そうすると送れました
それがwaya4さんが目にした「知恵へ」と言う投稿です
その後残りの文章も分割して送ろうと何度も試みたのですが
結局駄目でした
折角書き上げた文章が遅れないのは残念に思いましが
仕方が無いと諦めたのです
たぶんwaya4さんには理解して貰えないと思いながら・・・
案の定でしたね
あの文章から
「知恵ある者はこの世の流れからは身を引き離しておくものです」
などと言う事などとても理解出来る筈がないですよね
もし最後まで送れていたら
一応私の言いたい事を理解して呉れた上で
それは違うとかその通りだとか判断して呉れたと思います
しかし私はここで一昨日のその言い分を再現する気にはなりません
何故ならそれが比喩だったからです
比喩は興に乗ってこそ生きて来るものです
今日ここでその字面を再現しても
決して一昨日の興は帰って来ないでしょうから
私はある意味では興に生きる者でもあるのですから・・・?
結論だけを言って置きます
なお投稿の標題も
本当は「知恵へ」ではなく
「知恵から知識へ 哲学革命」だったのです
やっと一節が送れたと喜んで慌ててしまい
よく確認もせずに送ってしまったのでその様になってしまったのです
さてその結論とは
「哲学革命によって人口資源エネルギー問題は解決する」
と言うものです
何故哲学革命に依って
人口資源エネルギー問題が解決するのか
それは哲学革命に多くの人が参加すれば
その参加に応じて人口が減少して行くから
何故人口が減少していくのか
それは哲学 すなわち知恵を愛する事の快楽が
男が女を 女が男を求める快楽よりも優れているから
その結果生殖行為が止み 人口が減少する
人口の減少により 資源エネルギー問題も同時に解決する
と言う論法です
こんな結論だけを言っても本当に興醒めですね
と言うかお笑いですね
一昨日のあの比喩があるとこの結論は生きてくるのですけれどね・・・
しかし私がどんなに言葉を尽くしても
当分の間は
私とwaya4さんは理解し合えないと思います
何故なら私は哲学に立脚しwaya4さんは科学に立脚しているからです
「道生一 一生二 二生三 三生万物」(老子)
私はこの内の道及び一二三について語り合いたいのです
何故ならそれは万物を生み出す力であり
私が知恵と概念している所のものなのですから
すなわち哲学=知恵を愛すると言う時の
それに引き換えwaya4さんは万物の一つ一つについて立証して行きたいと考えていらっしゃる
人口問題にしても然り資源問題にしても然りエネルギー問題にしても然り
もし私にたくさんの時間があれば
それら一つ一つ検証しその解決方法を個々に考えてもいいのですが
「人生は短く芸術は長し」です
一つの問題について納得が行った時
私たちは一体何歳に成っているのしょう
そしてそれは万物と言うくらいですから
少なくとも万はある訳です
私たちに命が幾らあれば足りるのでしょう
私はやはりそれらは科学者に任せればいいと思います
今回であれば経済学者と言う科学者へ
私たちはその科学者が変な方向に走らない様に
三を監視していればいいのです
我々哲学者は方向付けはしますが
決してその一つ一つに入っていく必要は無いのです
と言うよりそんな時間は無い筈です
哲学の復興
それが私の願いなのです
私は思います
大学の中心は哲学部(哲学科)であるべきだと
よく経済哲学とか政治哲学とか法哲学とか教育哲学とか言いますよね
また科学哲学とも言いますよね
これらの全てを哲学部(哲学科)で担えばいいと
そうすれば哲学部(哲学科)に優秀な教官学生が集まり
日本も哲学大国日本(知恵を愛する人々の集う国日本)となると思うのですけどね
また話が変な方向に発展してしまいましたね
哲学と科学その2に続きます
哲学と科学その2 2005/ 2/ 7 0:04
哲学と科学からの続きです
waya4さんへ
私の方から対話の申し出をしたのですが
どうも私は対話には向いていないようです
自分の思いつくままを勝手に書き連ねて行く方が
やはり私の性に合っている様です
そう言う訳で私の方から対話の申し出をして誠に申し訳ありませんが
哲学的対話は取り敢えず今日で終わりにさせて頂きたいと思います
ご協力本当に有難うございました
なお今後私は「哲学道場」と言うものを企画しています
これは私が哲学すなわち知恵を愛して行く上で大切な言葉たちについて
連続的にエッセイ すなわち勝手気ままな言葉を連ねて行こうとするものです
こちらの方に質問疑問反論同意等何でも結構ですのでご意見を頂ければ有難く思います
なお一昨日の二番目の投稿「知識から知恵へ」は
waya4さんの投稿とは全く関係がありません
この「神はいるか」の掲示板が
私が最初来た時より随分賑やかになってきたので
すなわち投稿がそれも短い内容の投稿が大分増えてきたので
それを契機にして書き連ねてものです
だから全く補足にはなっていないと思います
神について 2005/ 2/ 7 23:57
herculepoirotmtさんへ
返信有難うございます
「神とは何か」
本当に難しい問題ですね
なんと答えたらいいのでしょうね
こう言う時はやはり広辞苑を引くに限りますよね
今広辞苑を引いた所
①から⑦までの七つの定義がありました
これら一つ一つの観点から
神の事を述べて行けば
私の神の概念もきっと豊かなものになると思いますが
時間もあまりありませんので
これらの内の①の定義を本にして
私の神の概念を述べて行きたいと思います
その①については次の様にありました
「人間を超越した威力者。瞑々の間に存在して 不可思議の能力を有し 人類に禍福を下すと考えられる霊。即ち宗教上帰依し畏怖される対象。」
しかしこれでは私には神はいない事になります
何故なら私はいずれの宗教にも入っていないからです
しかし①の定義は当たらずともまた遠からずとも言えます
人間を超越した威力者
これについては今の所触れないで置きましょう
瞑々の間に存在する
これについてはその様な気もします
不可思議の能力を有する
これもその様な気がします
禍福を下すと考えられるている
これもまたその様な気がします
そして神は霊であるとの事
ここに依って
神が俄かに現実味を帯びて来ました
もし神が霊であれば
私は神はいると思います
何故なら私たちは
霊であれば身近に感じる事が出来るでしょうから
霊を如何に考えるか
これに依って
神がいるとも
またいないともなるのです
私は霊の事を
ある言葉で言い換えたりしますが
ここではそれは言わないで置く事にします
さて神を考える場合
やはりキリスト教で考えると分りやすですよね
キリスト教では神の事をどの様に言っているのでしょうか
そうですね
「父と子と聖霊の名によって」ですよね
父とは神の事であり
子とはイエスの事であり
聖霊とはキリストの事です
だから「父と子と聖霊の名によって」とは
「神とイエスとキリストの名によって」となるのです
この内イエスとキリストについては
よくイエス・キリストと言う風に縮めて使ったりもしますよね
パウロは手紙の挨拶の所で
これを常套句の様に使って言いますよね
即ち「私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が貴方かたにある様に」と
さて私たちの父たる神とはどんな存在でしょう
それはイエスを除いて誰も知る事が出来ません
だから常にイエスキリストを通じて神に祈り神に求める事になるのです
ではイエスとは何者でしょう
それは聖霊がそのまま肉化したものです
だからイエスの事をイエス・キリスト
聖霊たるキリストとも言うのです
イエスとは何者か
それは言葉です
あの聖書に綺羅星の如く輝く言葉たちです
その言葉たちに依って
私たちはイエスが聖霊が肉化した者だと信じる事が出来るのです
それでは聖霊とは何か
それは知恵です 純粋なる知恵です
しかしキリスト教の場合は
イエスの属性を帯びた知恵と言う事に成るのです
私は聖霊の神秘については言わない積りでしたが
やはりついつい口をついて出てしまいました
神についてその2に続きます
神についてその2 2005/ 2/ 7 23:59
「神について」からの続きです
さて広辞苑の定義に還る事にしましょう
もし霊を知恵と考えるのであれば
瞑々の間に存在して 不可思議の能力を有し 人類に禍福を下すとも
考え様にによれば考えられない事もありません
更にその知恵に宗教的な名前を付すれば
それが帰依の対象そして畏怖の対象と成る事は十二分に考えられます
もしその辺りを研究したいのであれば
ダビデの詩篇を見れば一番いいと思います
私は知っています
知恵は鏡の様なものであり
その人をその様に写すと
もし知恵に私の神よ私の主と祈れば
知恵はそれに相応しい応答をするのです
もしその知恵と言う神に対して
私をお金持ちにして下さいと一生懸命祈れば
またそれはそれなりに応えて呉れるものです
要はその知恵と言う神を何処まで信じ切れるかと言う事なのです
さて広辞苑の最初の定義
人間を超越した威力者
これをどう捉えるかは難しい所です
これを知恵と捉えると少し大仰です
何故なら知恵とは
常に私と一緒に存在し
私を助け生かす存在ですから
ここでまたキリスト教の概念に戻らなければいけないと思います
キリスト教では
「父と子と聖霊の名によって」でしたよね
ここには神の二つの概念があるのです
一つは父なる神です
これはイエスしか知り得ない神です
もしイエスの教えをちゃんと守って貰う為には
やはり威厳のある神ではなくてはいけませんよね
そんな時はやはり「人間を超越した威力者」と定義した方がいいのかも知れませんね
もう一つの神の概念は私の神よ私の主と言う時の神です
これはもう純粋なる知恵の事です
私はそれをそれを信じて
それに依って私の真善美を飾りたいと思います
知恵は時間の許す限り
私たちに無限の世界を見せて呉ます
だから知恵のその向こうにもう一つの神と言う概念をおく事も自然な事と言うか
知恵と言う神をよりよく働かせる為にはやはり必要な概念だと思います
「道生一 一生二 二生三 三生万物」(老子)
その知恵の向こうにある神の概念に無だとか空だとか
その他実に様々な思い入れをしていますが
それはその人が一番馴染む概念でいいと思います
しかし私ははやりそこに
good god GODと言う概念があった方がいいと
それが世界宗教 普遍的な宗教の概念でもあると思います
この世界を善き方向へ
それは一部の例外者を除いて
皆が持っている普遍概念でしょうから
「哲学道場」開設 来たれ知恵の愛人たちよ 2005/ 2/ 8 23:10
herculepoirotmtさんへ
返信有難うございました
全て了解です
どうも有り難うございました
さて愈々私の企画に入る事としよう
その企画の名は「哲学道場」
この哲学道場は
私が知恵を愛して行く上で思索して置かなければならない言葉たちについて
次から次に思索して私のものにして行こうと言う試みです
実を言うと私は「私の哲学百章」と言うものを企画したのです
趣旨は上記の哲学道場と全く同じで
私が知恵を愛して行く上で思索して置かなければならない百の言葉について
次から次に思索し
それをエッセイ風に纏めるというものでした
しかし二十章で止まってしまいました
止まった理由は幾つか考えらますが
その中にもっと刺激をもっと知見をと言う意識があった事も事実です
それではと言う事で
また掲示板に帰って来たのです
最初は「なんでも哲学的徹底討論トピ」に入り
そこのトピ主さんに「哲学的対話百章」と言う企画をお願いしました
そこのトピ主さんはとても誠意のある方で
私とのこの企画を快くお引き受けして呉れたのです
第一章第二章までは調子は良かったのですが
第三章になる頃からそこのトピの雲行きが怪しくなったのです
すなわちトピ主さんに対する個人攻撃等荒れてきだしたのです
そして終にトピ主さんはそこのトピから引退してしまったのです
それではと言う事で
ここの常連であるpanietzscheさんに
panietzscheさんはそこにもよくゲストとして訪れていたので
哲学的対話をお願いしたのです
しかしやんわり断られてしまいました
それではもう「なんでも哲学的徹底討論トピ」いる理由が無くなったので
また古巣のここに戻って来たのです
そしてここでもまた「哲学的対話」を立ち上げました
waya4さんがそれに対して快く応じて呉れました
waya4さんとの対話は私に新たな知見を齎して呉ました
更にherculepoirotmtさんが私との対話に応じて呉れました
herculepoirotmtさんとの対話は私に更なる知見を齎して呉れました
しかし私は思ったのです
私が私である事により私をもっと発展させる道の方がいいと
その様な思いで企画したのが今回の「哲学道場」です
この哲学道場は
私が知恵を愛する上で大切な言葉たちと対話を進めて行くものです
だから実在の人物は必要ないのです
その言葉たちが私にたくさん言葉を与えて呉れます
私はその言葉を拾い集めてまたその言葉たちと対話を進めて行くので
す
だから実在の人物は必要ないのです
しかし実在の人物がその対話に入って来れば
私の世界は更に大きく広がります
何故ならそれに依って私は新たな知見を得る事が出来るのですから
この哲学道場は
私が知恵を愛していく上で大切だと思う言葉について
勝手気まま思うままにエッセイを書き連ねていきますが
質問疑問反論同意等々何でも結構ですので
ご意見がありましたらどうかお寄せ下さい
応答責任は果たします
なお私は先程「私の哲学百章」と言うものを企画した言いましたが
この企画の中で
哲学すなわち知恵を愛して行く上で大切な百の言葉を集める作業をしました
私はその作業を通じて
私が如何にその言葉たちについて思索していないのか痛感しました
それはここに集う多くの人もきっとそうだと思います
私は私で勝手にその言葉たちについてエッセイを書き連ねていきますが
皆さんも皆さんそれぞれにその言葉たちについてエッセイを書き連ねていきませんか
そうすればきっと切磋琢磨出来ると思いますよ
特に若い人にお勧めです
大事な言葉について自分自身の概念を持つ
それはアイデンティティを確立する上で大切な事です
自らの世界を創り上げると言う事です
あまり同じ事にかかずりあわないで
自分自身の大いなる世界に目を向けて見ませんか
世界とは言葉です
その世界をどんな言葉で飾るのか
それは貴方自身が行うべき事です
これから私が選択する言葉はそんな言葉だらけです
どうか私と一緒に世界創造の旅に出ませんか
それが「哲学道場」なのです
哲学道場「感情について」 2005/ 2/ 9 23:55
さて愈々哲学道場が始まった
私は一人
菩提樹の本に結跏趺坐する仏陀である
私の周りを様々な鬼畜や悪魔が飛び回るが
私はそれに目も遣らず耳も貸さず
ただ一人瞑想に耽る
そして気付くのである
私はそれであると
それとは何か
それがこれからの物語である
私がそれである所の私
その私を探す事を
俗に形而上学と言うが
しかしその私を求めても
それは空を求める様なもの
決してその中にその私は見出せない
私を見出そうと思えば
形而上的なものから見出さなければならない
この哲学道場は
形而上的なものから
私を照射しようと言うものである
様々な形而上的なものから
私を照射すれば
そこに私の様なものが浮かび上がって来るだろう
それを捉えて当座はそれを私とするしかないのだろう
もしそこに私の様なものを見出せれば
そこからそれである所の私に駆け上って行ってもいいのだろう
この哲学道場は私が飛翔
すなわち羽を付ける為修行の場なのである
しかしもし私と共にこの世界を飛翔したいと言う者があれば
この道場の門を潜れ
私は大手を広げて歓迎する
この門を潜る為に必要な条件はただ一つ
それは哲学者 すなわち知恵を愛する者と言う事だけだ
知恵を愛する者よ 哲学者よ
この門を潜れ
私と共にここに在って
世界を経巡ろうではないか
哲学道場「感情について」その2に続く
哲学道場「感情について」その2 2005/ 2/10 0:01
哲学道場「感情について」からの続き
さて今日の旅の目的地は「感情」である
何故私が感情を選んだのか
それは感情が私にとって未踏の地だからである
もし貴方が私と共に旅をして呉れるのであれば心強い
何しろ初めての土地なのだから
しかし無理やりのお供は期待していない
何故なら実を言うと私は一人では無いからである
私にはいつも在る者付き添っているのだから
例えは初めての土地でも
その者と一緒に旅すれば
その土地がまるで旧知の土地柄の様に見えて来る
その者の名は?
さて私は何処から感情に入って行けばいいのだろう
あまりにもこの土地に関する知識が乏しい
広辞苑から入って行くのが無難か
さて知識の旅行書として最も権威ある書と言われるその書にはこう書いてある
①「きもち。 こころもち。 感じ。」
②「【心】「快い」「美しい」「感じが悪い」などというような,主体の状況や対象に対する態度あるいは価値付け。心理現象ののうちで,とくに主観的な側面。」
これが日本で一と言う書なのか
②の意味が良く分からない と思ったが 分った と思ったが やはり良く分からない
感情とは態度 価値付けなのか
であれば意志か
「快い」「美しい」これは態度あるいは価値付けなのか
春 そよ風が吹いて 快い
雪に抱かれた富士山を見て 美しい
これが態度あるいは価値付けなのか
いやそう言われればそうなのかも知れない
だからこそ感情を哲学する価値があるのだ
もし感情が態度や価値付けであれば
私たちはそれを意志に依って変更する事が出来る
例えば汚いとか気持ち悪いとか怖いとか恐ろしいとか
私たちが俗に悪感情と言っているものも
それを意志と言うか習慣と言うか
その様なもので変更する事が出来る事になる
例えば蛆虫を見たとしよう
多くの者はそれを汚いとか気持ちが悪いとか
その様な態度や価値付け
すなわち感情を表出する
しかし本当に蛆虫が汚くて気持ちの悪いものなのだろうか
試しにほとんど態度や価値付けが定まらない赤ちゃんに
蛆虫を目の前に遣って御覧なさい
彼はそれを手で握り口に持って行く事だろう
彼にとってそれは興味ある存在にしか過ぎないのである
色と形とがあると言う
きっと彼にはその匂いも臭いとは感じないだろう
彼に興味があるのはその色と形
彼にとってそれは色即是空なのである
蛆虫研究家にとって
蛆虫は汚くて気持ちの悪い存在なのだろうか
彼はその個々を識別し
時にはそこに美を見出し
そして時にはそれにより快いと言う感情が湧出しないとも限らないのではないか
私は分かった
感情とはそのものに対する長年の態度と価値付けに依って決まって来るのだと
だとすれば私たちはその長年の態度と価値付けを研究し
そしてそれを私の支配下に置けば
私たちは感情を左右する事が出来る事になる
私たちは感情を自由に左右する事が出来る事になる
ブッダも菩提樹の下でそう考えたのではないか
瞑想と言う手法がある
これこそが感情を無にする手法ではないか
私たちは感情を無にした時赤ちゃんの様に無になる
色即是空 空即是色
色が空となり 空が色となる
赤ちゃんはその様々に変わる存在を愉しむだけ
新たな発見に継ぐ発見
めくるめくる世界をめくる
そこには態度や価値付けは無く
ただ存在と言う存在が存在するだけ
そしてそこにまた自由な世界を描く事も出来る
快楽と美と善に満ちた世界をも
瞑想は無になる事が目的ではない
その無から新しい世界を創る事
それが目的なのである
そしてそれが善きと言う世界に導くのであれば
何と言う快楽に満ちた事になるのだろう
さて話が少しそれてしまった
私は次の様に結論した
感情とは長年の態度や価値付けの結果である
その長年の態度や価値付けを分析研究し
それを私の支配下に置けば
私は自由にその感情をコントロールする事が出来ると
私はこの手法により
私の主だった感情を私の支配下に置く
善き感情は私を愉しませる為
悪しき感情は私が不愉快にならない為
哲学道場「感情について」その3に続く
哲学道場「感情について」その3 2005/ 2/10 0:03
哲学道場「感情について」その2からの続き
さて善き感情の中での一番手は
快く楽しい事すなわち快楽だろう
私はこの快楽を得る為の手法はある程度持っている
もしその手法を知りたいと言う者があれば私に問え
しかし私には手に入れなければ善き感情が一杯ある
それらを一つ一つ研究分析して
一つ一つ私の支配下に置き私のものにして行きたい
さて悪しき感情の代表格は怒りと憤りだろう
最もこれが常に悪い訳ではない
不動明王は常に憤怒のお顔をしていらっしゃる
それから怒りの鉄拳とか義憤とかも言う
しかし大概私たちはその感情に依って不愉快になる
私の怒りと憤りはそんなものだと考えて頂ければよい
今日も誰かの投稿に怒りや憤りを感じているのではないか
私はそんな怒りや憤りを私たちの支配下に置き
そして時には不動明王の様な憤怒の情が出来る様
次回において
怒りと憤りについて知恵を持って対峙したいと思う
なお今日は時間が来たので
道場を去り眠りに就きたいと思う
御機嫌よう
哲学道場「感情について」その4 2005/ 2/10 23:50
さて今日も私は菩提樹の元
結跏趺坐して瞑想する
私は昨日「感情」を瞑想して
一つの結論を得た
それは感情とは
長年の態度や価値付けの結果であると言うものだ
私は感情とは自然に湧き起こるものと思っていた
しかしそうでは無かったのである
感情とは長年の態度や価値付けの結果
もっと端的に言えば
感情とは長年の意志の結果であると言うものだった
感情とは意志なり
何と素晴しい結論ではないか
私たちはそれに依って
感情を自由に左右出来るのである
福音とは呼べないだろうか
私たち人間は感情の動物である
それを否定出来る者は誰もいない
ブッダやイエスだってその例外ではない
彼らはその感情を制御する為
修行の道に入ったのである
そして彼らはそれぞれにその道を見出したのである
ブッダはと言えば空の思想であろう
そこには感情のかの字もないとブッダは思った
そこに入れば動物で在る事から免れると思った
その系譜は代々引き継がれている
そしてここにもそれを例証する人たちがいる
イエスはと言えば
good god GOD 善へと言う思想である
私たちの思想【思いと想い】を善きと言う思想で満たせば
私たちは善き人間で在り続ける事が出来ると言うものである
そこには当然善と反対の概念が必要と成ってくる
善悪の中における善の選択
これがイエスの思想である
善を選択し続ける事
これは一人人間だけで出来る事では無い
そこでイエスは神と言う存在を措定し
神の使いのである所の聖霊を措定したのである
そしてイエスは言うのである
聖霊に聞けと
そして純粋に聖霊に向かえば向かう程
聖霊は善の賜物を次から次に与えて呉るのである
これが真のクリスチャンであり
どちらかと言えば私もその立場を取る
私はそれを聖霊とは呼ばない
私がそれを何と呼んでいるか
私を知る人は知っていて呉れるだろう
私が何故イエスの立場に重きを置くのか
それはイエスの立場の方が
私たちをより善き方向に向かわせて呉れるからである
それはここの掲示板を見ていてもよく分かる
ブッダの立場を取る者
最もブッダが最終的に言いたかった事はそんな事では無いのだが
無になってきれいさっぱりになったら
そこからまた新たに生まれろ
善き概念を一杯身に付けて生まれろ
そしてこの世の役に立てろと 言っているのに
そんな事には一切耳を貸さないのである
ここでブッダの思想を取る者は
ほとんどが空と言う涅槃に向かう事だけが目的である
善を積み立てる事などちっぽけも思っていない
善とは何かと問いかければ
それは何だと食ってかかる位である
それに引き換えクリスチャンは立派である
善を一つ一つ積み上げている
そして涅槃と言う天国については
その結果として行ければいい思っているだけである
少し脱線してしまった
今日の旅の目的は「感情」
更にその旅の目的を詳しく述べれば
如何にして感情を私たちの支配下に置くかと言う事であった
その方法として
ブッダの空の思想をイエスの聖霊の思想を述べたのであるが
ここでは私なりに知恵を愛する事に依って
私なりの解決方法を見出して行く事にしよう
さて私は昨日
広辞苑の定義より
感情とは長年の態度や価値付けの結果であると定義し
そして今日はそれをまた大胆にも
感情とは意志の結果であると定義したのである
そして意志により感情を左右する事が出来る様になると結論付けたのである
多くの人がこう言うであろう
意志により感情を左右する事は出来ないと
何故なら感情は自然に湧き起こるものだからと
確かにその様に感じられるかも知れないが
感情とは長年の価値付けの結果
すなわち意志の結果なのである
もし私たちに悪感情と言うものが存在し
それに左右されたくないと思うのであれば
意志にすなわち価値付けに依って
それを克服出来るのである
その為には
私たちにとって何が悪感情なのか
それを一つ一つ拾い出して行かなければならない
よく仏教では百八の煩悩が在ると言う
その煩悩全てについて
原因を分析し対策を講じて行けば
私たちには明るい未来が約束される
そしてそれはとても研究価値が高い
しかし私には時間が無い
これらのうちで代表的なものを幾つか取り上げて
その原因と解決策を見出して行く事にしたい
哲学道場「感情について」その5に続く
哲学道場「感情について」その5 2005/ 2/10 23:53
哲学道場「感情について」その4からの続き
さて私たちの悪感情で最も代表的な者はやはり「怒り」であろう
今日は怒りについて
その原因と怒りを解決する方策を見出して行く事にしよう
その前に怒りの定義
広辞苑「おこること。はらだち。立腹。」
その通りとし 異を挟まない事にしよう
さてそれではその怒りの原因は何処に在るのだろう
私は前に認識の欲求と言う概念を上げた
私は怒りの原因はこの辺りに在るのではないかと見た
これは今思いついた直感である
この直感が正しいのかそうでないのか
これが今日ここからの物語である
人には様々な欲求がある
この欲求が満たされている時
人は平穏かそれ以上の気持ちになる
それが満たされないとき
それは欲求不満と言う状況である
では欲求不満と言う時の状況は如何なる状況か
質問を変えよう
欲求不満の時 人はどの様な感情になるのか
一言で言えば「いらだち」ではないか
広辞苑の怒りの定義「はらだち」と近づいて来たではないか
いらだちとはらだち よく似ているではないか
ただの一字違いではないか
欲求不満に在る時
それをいらだちと言う感情で説明する事にしよう
私たちが欲求不満に在る時
そのいらだちと言う感情で説明出来ると思う
例えばお腹が空いている時
私たちはいらいらするのではないか
あの子が欲しい しかし手に入らない
そんな時もいらいらいらいら立つのではないか
私たちが欲求不満に在る時
この苛立ちと感情でほとんど説明出来ると思う
さてその欲求不満が爆発した時
どんな感情が湧き起こるのか
その時のその感情
それこそが怒りではないか
さて私は貴方方に聞く
欲求不満が爆発する時とはどんな時かと
私はこう答える
「認識欲求が潰された時
それ以外の時欲求不満が爆発する事はない」と
お腹が満たされないと言う欲求不満
これは爆破する事はない
最後の最後までいらいらである
もしそれが死に至る様なものであれば
却って観念して静かになって行くことだろう
欲求不満の爆発
それは認識欲求が潰された時以外は有り得ないのである
何故なら認識への欲求は人の根源の欲求であり
それが潰された時
人は人そのものを潰されたと思うからである
では怒りと言う感情を起こさない為にはどうすればいいのか
自分自身に対する認識を他人に引き渡さないと言う事である
その為に必要な事が「汝自身を知れ」と言う事なのである
今日は途中であるがここで終わる
御機嫌よう
waya4さんへ
返信有難うございました
怒りと所有欲との関係
きっと深いと思います
もっともっと研究して
その成果を聞かせて頂ければ有難いと思います
この様に
同じ言葉について
私とwaya4さんがエッセイを書き続けて行く事が出来ればと思います
議論ではなくそれぞれエッセイを書き連ねて行く事にしましょう
その中に共通のエッセンスを見いだす事が出来れば
私はとても嬉しくそして私を益する事になると思います
哲学道場「感情について」その6 2005/ 2/15 0:01
さて今日も私は
菩提樹の本 結跏趺坐して瞑想を行う
さて私は前回
すなわち2月10日に怒りの旅へと出た
私はそこでこんな概念を拾った
それは
怒りとは認識への欲求が潰された時に起るものだと言う事を
この事が正しいのか
今日はその辺りを検証しよう
さて私たちはどんな時に怒るのだろう
私は私の事を思い巡らしてみた
私は思い出せないのだ
私が最後に怒ったその日その時の事を
勿論憤り苛立つ事はある
しかし怒りを爆破させたその日その時の事を思い出せないのだ
私は今 怒りの本質に一歩近付いたようだ
怒りとは爆発するもの
そこに怒りの本質があるのか
脳内生理学者であれば
その事をアドレナリンで説明するのだろうが
私は一切その様な科学的知識には頼りたくない
ある薬物学者はこう言うだろう
もし怒りが起きそうになった時にはこの薬を飲みなさい
そうすれば貴方は如何なる時にも怒る事はないからと
しかし私はその様な言を一切拒否する
私は薬物中毒になるより
怒り続ける者であり続けたいと
しかし私は先にも言った様に
長い事怒った事がないのである
私は哲学に依って怒りを克服したのか?
私は言う
現代においては怒る事が少なくなったと
勿論子供の頃は別である
怒り心頭して兄弟喧嘩をする
しかし地域や学校に出た時
彼らは怒り心頭して喧嘩をするのだろうか
これは夫婦についても同じ事が言える
のべつ幕なくどちらか一方が怒り心頭して喧嘩をし続けている夫婦がいるが
彼らは例外である
一般的に言えば夫婦は怒りについては冷静である
それは社会に出ても会社に入っても同じ事だ
何故現代においては人々が怒らなくなったのか
哲学に依って人々が怒りを抑える様になったからか
私がそれに対して答えを出そう
それは怒りの王者がいなくなったからであると
昔怖かったものの代名詞は何か
地震雷火事親父ではないか
何故これらが怖かったのか
それらが怒りを代弁していると思ったからではないか
科学の知識の無い者にとっては
地震雷火事
これらは自然が怒っていると思ったのではないか
それから親父 これが怒る時
それは幼き者にとっては
王の怒りとも神の怒りとも思えたのではないか
ああ私は答えを出してしまった
現代において怒る事が少なくなった理由は
神の怒り王の怒りを感じる事がなくなったからであると
王が怒る時 人々は慄いたものである
何故ならそれは死を意味するから
そして神が怒る時 人々は茫然自失となったものである
何故ならそれは地獄行きを意味するから
しかし現代においては
王も神もいなくなった
それ故 人は怒らなくなったのである
何故神や王がいなくなれば
人は怒らなくなるのか
それは安全が保障されるからである
安全が保障されなければ
人は怒りに依って身を守らなければならない
それでは誰に対して怒るのか
神や王に対してか
そんな事は有り得ない
では何か
それは神や王の怒りを招くそのものに対してである
神や王の怒りを招くそのものとは何か
それはその人の内に存在するそのものである
しかしそのものが存在するだけでは怒りは起らない
そのものがあるもの 特に人に反映して写し出された時
人の怒りが爆発するのである
そのものとは何か
それは「否」である
自分自身を否と言い 神を否と言い 王を否と言う感情である
その感情が人に依って映し出された時
人は自らを守る為怒らなければならないのである
子供で言えば
「阿呆 馬鹿 間抜け あんぽんたん」
これだけで怒る事になる
何故ならそれは自分自身を否定され 王たる自分の父親を否定され
これは全く意識下には上がらない事だが
その王を生み出して呉れた神を否定されると感じるから
自らを守り王を守り神を守らなければと言う直感から
怒りが爆発するのである
古代ギリシアの悲劇を見ろ
その主題は怒りではないか
自らを否定された怒り
自らの王を否定され怒り
そして自らの神を否定された怒り
それらの怒りの爆発とその収斂の物語ではないか
古代王族の怒りとはそれ程までに純粋で烈しかったのである
だから悲劇が生まれたのである
そてそろそろ時間が来た様だが
今日の旅の目的
「怒りは認識への欲求が潰された時に起きるものだと言う」目的地まで辿り着けただろうか
それにしても旅は楽しい
様々な物を見せて呉れるから
なお上記の王は法の体現と解釈すればより分り易いだろう
さてもう時間だ
御機嫌よう
哲学道場「感情について」その7に続く
哲学道場「感情について」その7 2005/ 2/15 0:02
哲学道場「感情について」その6からの続き
waya4さんへ
返信有難うございます
私は命は素晴しいと思います
知恵を愛すれば愛するほど
命の素晴しさが分って来るのだと思います
それから人の欲求には様々あります
出来ればそれに煩わされずに平穏に生きたいと思いますが
中々難しいと思います
哲学に依って
それらを解決出来ればとても素晴しいと思いますが・・
私には時間がそれほどありません
今の所
知恵と遊ぶ事
すなわち随想を楽しみたいと思います
waya4さんも随想を愉しんでみませんか
現在のお題は「感情について」もしくは「怒りについて」です
これらの題の本
waya4さんも随想を書き連ねてみませんか
そうすればとても嬉しく思います
なお今の所
議論はあまりしたくない心境です
どうか私の心持をお汲み置き取り下さい
哲学道場「感情について」その8 2005/ 2/15 11:56
さて今日も私は菩提樹の元
結跏趺坐して瞑想を行う
それにしても外は賑やかな事
嬉しい限りだ
子供たちのはしゃぐ声を聞きながら
私は私の世界へと入る
昨日は怒りのある種の頂点に達した
それは王族の怒りである
王族の怒りはそれ程までに烈しくそして純粋である
だから一歩間違えば悲劇へと転落したのだろう
しかし私は言う
その怒りがもっともっと純粋であれば
それは神の怒りへ達したであろうと
彼らは皆神々の末裔なのだから
「怒りの日」と言う言葉をご存知か
これは広辞苑で
怒りを引いた時に目に付いた言葉だ
この言葉にインスピレーションを得て
この王族の怒りへまで達したのである
さて古代に目を向けろ
王の怒りは神の怒りであったのではないか
王が怒る時
それは王自身を否定する時
王国を否定する時
そして王国の神を否定する時ではないか
その時
王は憤怒の情を持って処するのではないか
その時は誰も太刀打ちできず
死を覚悟しなければならないのではないか
そんな時その不動明王の様な王が
鬼子母神の様な優しい笑顔で
「許す」と言えばどなるのか
彼は天国へも昇る気持ちとなるのではないか
それが王であり神であった
しかし現代においては王も神もいなくなった
彼らはその様な怒りを懼れる必要がなくなった
それで彼らはのべつ幕なく怒り散らしている
自我が否定されたと
そんな自我など吹き飛ばせ
怒りは千差万別
ギリシアの王族とてその例外ではない
もし彼の怒りが王の怒りから神への怒りへと到達していたら
彼はきっと言っただろう
「許す」と
そしてその王国は常に安泰だった事だろう
だが悲劇の主人公の王はそうではなかった
彼らもまた自我に囚われてしまった
そしてその自我否定に対する怒りは
結局は自らをそしてその王国をも破滅させる事になるのである
私は言う
神への怒りへと達しない怒りは全て災いを齎すと
試しに貴方のその怒りの日を思いだして見よ
恥ずかしくて顔も上げられないのではないか
もしその怒りに対して顔を赤らめない者がいるならば
私はその者に言う
厚顔無恥な輩よと
しかし私は思う
多くの者が
その怒りを無意識下に押し込めているのではないかと
だからその怒りの日が思い出せないのではないかと
かく言う私も
頻繁に怒り散らして
そしてその怒りをすぐさま無意識下に投げ込んでいるのではないか
だからその怒りの日々を思い出せないのではないかと
もしそうであれば大変な事だ
その神の「怒りの日」
すなわちその最後の審判の時
その怒りたちが一斉に私を責めるのではないかと
その審判の時が何時かと問うのか
それは無意識が解放されるその日
その日は何時かと問うのか
それは生から死に至る時
その時はこの世にとっては短い時間かも知れないが
その者にとっては永遠の時となる
未来永劫自らの怒りに責められる事になる
もっともその時責めるのは自らの怒りばかりではなく
自らが発した全ての悪感情
すなわち自らが悪と認識しつつ発した全ての悪感情が
その者を襲うのである
妖怪悪鬼鬼畜に姿を変えて
現代であればゾンビ等に姿を変えて
未来永劫と思われ様なその長い時間において
誰もそれに耐えられない
そうならない為に必要な事
先ずはその様な悪感情を起こさない事
もし起きたら
直ぐに焼き尽くす捧げ物を捧げる事
すなわち反省する事
そしてその日の終わりにこう祈る事
「我が神よ我が罪を許したまえ」と
すなわち
私が今日発した様々な悪感情を焼き尽くし
そしてきれいさっぱり洗い流して下さい
そして私を真っ白な眠りにお誘い下さい
私は明日の新生の時
貴方の意に沿って生きますからと
なぞと今日は少し趣の違った所に着いてしまった様だ
これも神の思し召なのだろう
すなわち悪感情についてもっと研究せよとの
さて悪感情とは一体どの様なものを言うのか
怒りはそうなのか
それでは憤りは
嫉妬はどうか 妬みもそうなのか
吝嗇とは悪感情なのか それとも悪しき意志なのか
臆病 怠惰は どうか
私はそれらをもっともっと研究し
出来る事ならそれらに煩わされずに
そして出来るだけ真っ白な気持ちのままでこの世を生きたいものだ
さて時間が来たようだ
以上は明日以降への宿題としよう
それでは御機嫌よう
哲学道場「感情について」その9 2005/ 2/16 23:46
さて今日も私は菩提樹の元
結跏趺坐して瞑想を行う
さて昨日私は
今日は悪しき感情について徹底に分析すると言って置いたが
軌道修正する
感情そのものについてもっと徹底的に分析する事にする
何故なら感情そのものが
悪しきと言われるものかも知れないから
感情とは一体何だろう
私はここに感情論の筆を下ろした時
広辞苑の定義から感情論を始めた
そして昨日において
一応その終了を見た
今日からまた感情論第二章を始める事にする
今回は広辞苑にも頼らず
全くのインスピレーションの本に書き始めて行く事にしよう
感情とは意志なり
それがそのインスピレーションである
もっともこのインスピレーションは今日湧いたものではない
第一章で広辞苑の定義から書き起こし
それを敷衍していく中で生まれたインスピレーションである
感情とは意志なり
今の所
私にはこれ以上の答えを見出せない
感情は意志なり
これに二つの重要な意義を見出す事が出来る
一つは感情とは長年の意志の積み重ねの結果であると言う事と
もう一つはその当然の帰結だが
意志に依って感情をどうにでもコントロール出来ると言う事である
先ずは意志に依って
感情を自由にコントロール出来る者ように成った者を見て行こう
それこそ
ここ「神はいるか」トピの中で最も馴染みの深い釈迦ではないか
彼は私と同じ様に
この菩提樹の下で結跏趺坐して瞑想を行っていた
彼は様々な感情に悩まされた
その感情は様々な姿と取り
彼の前に現れては消え
消えてはまた現れた
彼はその感情をどうする事も出来なかった
彼はこう思った
感情こそが煩悩なりと
ではこの煩悩を如何にして断ち切ればいいか
彼は三日三晩考えてこう考えた
全ては空なりと
それに依って
彼の前から
悪鬼畜生鬼畜の姿を取る感情は消え去り
そして煩悩も自ずと消えて行った
そして彼は言った「善し」と
それから彼は菩薩として布教に出たのである
「天国は近づいた 悔い改めよ」と
天国とは空である
何故天国である空に近づく為に悔い改めが必要なのか
それは瞑想または祈りに導く為である
私たちが感情で汚れた状態で
どうして瞑想に入れよう どうして祈れよう
感情を焼き尽くす炎である悔い改めに依って
汚れた感情を全て焼き尽くした後始めて
私たちは瞑想に祈りに入れるのである
そしてそこで
私たちは空と言う天国を垣間見るのである
そして私たちは思うのである
天国とは宴会かと
そこでは天使や天女が歌い踊っているのである
嘘だと言うのか
仏像の光背を見よ
天女が歌い踊っているではないか
キリスト画を見よ
やはり天使が歌い踊っているではないか
天国 空の世界とは
全くの創造の世界なのだ
絵心 歌心 詩心があれば
早く空と言う創造の世界に行けるのかも知れませんね
哲学道場「感情について」その10に続く
哲学道場「感情について」その10 2005/ 2/16 23:49
哲学道場「感情について」その9からの続き
さて話が全く飛んでしまった
私は感情についてこう結論付けた
感情とは意志である
そして意志に依って感情を完全にコントロール出来ると
そしてその顕著な例を釈迦・イエスに見たのである
私たちは釈迦やイエスではないが
釈迦やイエスの衣を着る事が出来る
その事に依って完全とは行かないかも知れないが
ある程度は感情をコントロール出来るのではないか
さてその方法とは
先ずは「悔い改め」である
これがなければ瞑想にも祈りにも進めない
私たちの感情を祭壇の前で焼き尽くす事である
イエスは言う「悪意 殺意 姦淫 みだらな行い 盗み 偽証 悪口など」を特に焼き尽くせと
釈迦は更に進んで言う 全ての感情を焼き尽くせと
どちらの立場を取るかは 人それぞれ
イエスの立場を取れば
その焼き尽くした後には善い香り すなわち善きと言う感情が残る
それに依って祈れと言う
釈迦の場合は全て焼き尽くせと言う
そこに残るのは空と言う世界だけ
そこで瞑想により空の世界を楽しめと言う
釈迦の手法は自由度が高い
それだけに落ちる確率も高い
私はイエスの手法を進めるが 人それぞれ
さて祈り瞑想に進む事に依って
どうして感情をコントロール出来る様になるのか
先ずはイエスの祈り
悔い改めに依って
悪しき感情は全て消え去り
善き感情だけが残っている
この感情に依って新たな世界を構築しようとする試みが祈りである
少なくともこの祈りの中では
その者にとって素晴しい世界が創り上げられて行くのである
その祈りとこの世界が全く重なれば
その者はこの世においてワンダフルワールドを築く事になる
もうそこには悪しき感情と言うものは消え去っている事だろう
しかしそんな事は無理な事
その一部だけが重なるだけでいいのである
彼はその重なる世界で善い人間であり続ける事が出来る
そして祈りの最大の効用は
毎日毎日祈る事に依って
善き感情を育成する事が出来ると言う事である
それに依って悪しき感情を抑える事が出来るのである
これがイエスの祈りの手法に依る感情コントロール方法
次に釈迦の瞑想に依る感情コントロール方法
私は正当と思われるその手法を説く
先ずは「悔い改め」
これ無くしてどうして瞑想に入れよう
悔い改め無くして瞑想に入るのはいきなり魔界に入る様なもの
これを空 天国と言うのは如何なものか
さて釈迦はこう説く
全ての感情を焼き尽くせと
さて悔い改めに依って
全ての感情を焼き尽くした そして空になった
そこで釈迦は何と言うのか
貴方方は「否」と言うかも知れないが「然り」なのである
彼はこう言うのである
「善を求めよ」
その空の世界に貴方の善の世界
善の感情の世界を構築せよと
これに依って善の感情を育めと言っているのだが
それの如何に難しい事か
私の見る所
瞑想と言う手法だけを用いる者は
十中八九冥界に入り込んでいると
そこでどんな善きと言う感情が育まれている事なのか
さてそろそろ時刻だ
今日の主題
「感情とは意志である
意志に依って感情をコントロール出来る」と言う
主題に対する結論が出たのか
後者すなわち「意志に依って感情をコントロール出来る」と言う主題については
ある程度結論が出たとして置こう
その結論とは
悔い改めに依って悪しき感情を焼き尽くし
瞑想祈りに依って善き感情を育む事に依って
感情をある程度コントロールする事が出来る様になる
これらの作業を毎日毎晩する事に依って
悪しきと言う感情を抑制または消し去り
そして善きと言う感情を育む事が出来ると
そして悔い改め瞑想祈りと言う作業は
全て意志に基づくものあると
後者については一応この様に結論付けをして置こう
なお前者「感情とは意志である」
これについては今日は一言も触れていない
この主題に対して結論を出す為には
一つ一つの
若しくは代表的な感情について敷衍して行く必要があるのだろう
明日以降の宿題としよう
さて時間だ
御機嫌よう
哲学の旅「国家」について 2005/ 2/19 13:03
国家とは何だろう
私は旅が好きだ
様々な国を旅して
様々な国家を研究してみたい
しかし私には時間が無いし お金も無い
私が国家を研究する事は土台無理な事か
いや方法がある
人は国家なり
人を研究する事に依って国家を知る事が出来る
私は運良く人が交差する場所にいる
ここからその人々を眺め
それを類型化する事に依って国家を研究して行く事としよう
私はかつてプラトンの「国家」を読んだ事がある
プラトンの本の中では一番感銘を受けた
プラトンはこの中で国制を次の四つに分けた
王制 貴族制 民主制 そして僭主制に
そしてこの中で王制が最も素晴しいものだと言った
私は目を見開かされた思いだった
そしてそこで民主制の本質も知った
さて私が知っている国家の体制
すなわち国制はこの四つだ
これを基礎に
人は国家なりと言うそのキーワードに沿って
様々な国家を見て行く事にしよう
さて私にはとても興味深い国家がある
それは女性国家である
しかしアマゾンでは無い
その国家においては生殖を伴わない
だから一代限りの国家だ
この様な国家はかつては無かった
現代になって生まれて来た国家だ
そして現在においては
かなりの数になってきている
私は私が住んでいるこの世界で
その顕著な国家を見る事が出来る
人は国家なり
その視点からその人に視点を当てて
その国家を研究して行きたいと思う
さて国家が体を成す為に必要な条件は
国土国民国法そして国権であろう
その女性国家においてはそのどれをも完備している
国土とは領土の事であり
自由に主権を発動出来る領域である
国民とはその領域に住む民であり
彼はその国を守る義務があり
そして法の定める範囲で自由に権利を行使出来る
国法とは国民が守るべき掟を定めたものであり
国民はその法に従わなければならない
そして国権
それは国土国民そして国法に対しても
主権を発動出来る者である
その国権が何処に存在するかに依って
先程の四つの国制の何れかである事になる
さてこの国家はどの国制なのだろう
私ははっきり言う
それは僭主国家であると
ここで僭主と言う意味が分りづらいだろうから
広辞苑でその意味を引く
「帝王の名を僭称する者」
僭称の意味が更に分りづらいだろうから
「かってに身分を越えて上の称号を自称する事」
さてその僭主国家における主権は誰にあるのか
正にその「女帝」である
その女帝が国の全てに渡って権力を行使している
外から見ると
まるで女帝一人が存在しているかの如く見える
当然その国家のその国制を守る為
厳しい入国管理をしている
そこの国に入国する為には
そのパスポートに「論理」と言う証印が無ければならないのである
その論理と言う証印が無ければ悉く突っ張り返される
あの箱根の関所の如く
その国は入れるのは
「論理」と言う二文字を額に貼り付けた者だけである
何故それ程迄に厳しい入国管理をするのか
彼女はディオニュソスが怖いのである
論理であれば論理で対抗出来る
論理が劣ると見れば高ピーに接する事が出来る
同等であると見れば使節の如く持て成して
その国と友好関係を結ぶ
しかし彼女はディオニュソスを相手にする事が出来ない
何故ならディオニュソスにあって論理は有って無い様なもの
彼に論理は問えば
それは知識と知識を結ぶ接着剤に過ぎない
そんなものこうしてあげましょうと言って
いとも簡単に踏み潰すのである
彼女は女性でありながら
ディオニュソスと遊べないのである
彼女は女性でありながら女性に蓋をしているのである
そして「論理」を高く掲げ
その世界でその地位を保っているのである
この女性国家においてはその軍備補強
すなわち論理武装の為に
国家予算の半分を使っている程である
国民の相当数もそれに駆り出されているのである
常に臨戦態勢
何処かの国に少し似ている様にも思える
さてまた話が変な所に飛んでしまった
この旅の目的は国家研究
そして最終目的は全ての国家が平和であり
そして全ての国家が友好関係を結べるようにする為である
私はその為に
私の世界に存在する一つ一つの国家を訪ねて回りたいと思う
私の理想とする国制は王制である
私の世界に存在する国の多くがその方向を目指していると思う
しかしその道が見出せないでいるのだと思う
私はそれらの国々を訪れて
何処に問題が有るのか研究して行きたいと思う
私は思う
やはり王制を敷く為には神を見出さなければならないと
プラトンも「国家」の最終巻
哲学の旅「国家」について その2 2005/ 2/19 13:05
哲学の旅「国家について」からの続き
waya4さんへ
返信有難うございます
感情に依って感情を制する
これは可能だと思います
と言うかそれしか方法が無いのだと思います
悪貨は良貨を駆逐する
その反対もまた言えるのです
善き感情に依って悪しき感情を駆逐する
私は前回
感情は意志であるといました
私はその感を更に深めています
意志と感情は裏表であると
私たちの全ての行為は意志に基づきます
意志有る所 行為有る所
そこには感情が必ず付き纏うと
感情を良く色に喩えます
私たちは昔72色とか120色のクレヨン色鉛筆を見て
色の数はそれ位なのかななどと思っていましたが
今になってと言うか大人になってというか
その概念は全く覆されてしまいました
今waya4さんが向かっているその液晶画面は何万色ですか
それとも何億色発光が可能ですか
私たちの感情もそんなものだと思います
ただ私たちはそんな微妙な感情の変化を識別出来ないだけだと思います
意志のある所に行為があり 行為のある所に感情がある
意志と感情は裏表である
だから常に善き意志を持って行為に当たれば常に善き感情が伴う
意志に依って感情を制御し
そして善き感情に依って悪しき感情を駆逐する事になるのです
あくまでも理想論です
感情をどの様に定義するかに依って当然帰結は変わって来ます
私の手法は一つの正解を求めるのではなく
多くの解に依って愉しみたいだけなのです
喩えればそれを比喩と言うのかもしれません
そして比喩とは言葉遊びです
私は言の中 言葉遊びをしたいだけなのです
それにしても何時も返信有難うございます
私とは議論にならないと思います
そして私も議論はあまりしたくはありません
しかしwaya4さんの置いて行って呉れた言葉は大切にしたいと思います
そしてそれをヒントに思想の羽を伸ばしたいと思います
いつも有難うございます
哲学の旅「国家」についてその3 2005/ 2/25 1:02
国家とは何だろう
そんな時は迷わずに広辞苑
①くに。邦国。
②一定の領土に居住する多数人から成る団体で 統治権を有するもの
通常 領土人民主権がその概念の三要素とされる。
①は言い換え
②がその概念
私は哲学の旅「国家について」の第一回目で
国家を次の様に定義した
国家が国家としての体を成す為の条件は
国土国民国法そして国権であると
満点とはいかないが
及第点は取れていたのだろう
私も確かに国法と入れるかどうかは迷ったのである
何故なら国権こそが国法なのだろうからと
しかし語呂に併せて国法まで入れたのである
それが間違いだったのかそうでなかったのか
それはこれからの演繹の中で自ずから証明されて行くのだろう
さて国家には多数人が居住していなければ成らないとの事
私は「人は国家なり」と言う前提から
国家論を述べようとしている
果たして一人の人の中に多数の人が居住しているのだろうか
私は言う
一人の人の中には無数と言われる様な人が存在すると
だから私たちは国家を世界を論ずる事が出来るのである
ではどんな人が存在するのか
私の中にはゲーテもソクラテスもイエスも存在している
それからIL氏もAP氏もET氏も
そして名も無き多くの人々も
彼らは私の地縁血縁に依って
遠くに住み近くに住む
私はその一人一人を数え上げた事がない
数え上げればきりが無いが
近代国家においては数え上げなければならないのである
ダビデはその王国の人口を調べさせた
そしてそれに依って神の怒りを買った
何故か
それは一人一人を差別し
その一人一人を自らの支配化に置き
そしてそれに依って
結果として神を無(なみ)する事に成るからである
私は私の理想とする古代国家を守り
私の国家が近代現代国家へ走らない様
人口調査は行わない事にしよう
そうは言っても
主だった人については
身上調査をしなければならない
それは差別をする為ではではなく
参謀として招き入れる為である
私は私の国家の事についてはあまり述べたくなかったが
ここでやはり述べなくてはならないのだろう
私の理想とする国家
それは古代王国である
王国と言う限り
その主権者は王である
その王は神の信託を受け
その国民に対して限り無く優しく接するのである
神の信託を受けた王が
その国民に対して横暴である事は出来ないのである
それが神の信託を受けた王の当然の成り行きなのである
貴方方は言うのか
そんな古代王国が在ったのかと
私は言う 在ったと
紀元前に目を向けて見ろ
そこにはその様な王国が
それこそ綺羅星の如く在るではないか
私たちは自由にその王国を訪ねる事も出来るし
そこの国民にも成る事が出来る
私は度々その王国を訪ねる
そうするとそこの王は
まるで使節の如く私を持て成して呉れるのである
私はそれが嬉しくて
それらの国々を旅して回るのである
それははっきり言って珍奇で新奇で
そして喜悦に満ちた旅だ
だから私は旅が止められないのである
さてどの様な国が在ったと言うのか
聞きたいか だったら教えよう
それはダビデの王国でありソロモンの王国であり
イエスの王国であり釈迦の王国であり
孔子 老子 ソクラテスの王国であり
セネカ エピクロス エピクテトス マルクスアウレリウスの国々である
それらの国々においては
その王が神からの信託を受けて
その国民に対して数限り無い恩恵を齎しているのである
だから世の多くの人がそこの国民になろうともしているのである
特にイエスと釈迦の王国が強大で広大である
何故多くの人がイエスと釈迦の国に入りたがるのか
それはその国に入ると
無垢と言う衣を着せて貰えるからである
その衣を着ると
この世界が全く美しく清く見えて来るのである
だからこの世の穢れにどうにも成らなくなった人たちが
その国へと亡命して行くのである
そして彼らは思うのである
ああやっと私の国家に巡り合えたと
そして彼らはその王国の一員と成って行くのである
その王国の起源は紀元前だが
今でもその命を脈々と打っているのである
だから私もその国を訪ねて行く事が出来るのである
なお私は根っからの旅人であるので
そのどれかの国民になる事は無いと思う
もしどの王国が一番好きかと聞かれれば
今の所イエスの王国と答えなかればならないのだろう
哲学の旅「国家について」その4に続く
哲学の旅「国家」についてその4 2005/ 2/25 1:05
哲学の旅「国家について」その3からの続き
さて話は何処から飛んだのか
人は国家なり
そうであれば
一人の人の中に多くの人が存在しなければ
「人は国家なり」の前提が崩れる
そこで私は
私の中にどれ程の人が存在するのかを見たのである
私はそこで
私の中にイエス ゲーテ ソクラテスAP氏IL氏ET氏を見たのである
しかしそれでは矛盾する事になる
私は本の少し前に
イエス ソクラテスの王国を訪ねて回る事が好きだと言ったのに
今またここで
イエス ソクラテスは私の王国の住人だと言ったのだから
イエスはイエスの王国の王であると共に
私の国の住人である
確かに矛盾する事になる
やはり言い換えなければならないのだろう
イエス ゲーテ ソクラテス AP 氏IL氏 ET氏もどきが住んでいると
私が何か意見を言うと
イエス ゲーテ ソクラテスもどきは賛同の意を示して呉れるが
AP 氏IL氏 ET氏もどきは悉く反駁するのである
私は差別する意識は無いが
やはり参謀とする為には
後者ではなく前者を招かざるを得ないのである
何故なら私の目的も
イエスやソクラテスやゲーテの様な王国を築くのがその目的だから
しかしイエス ソクラテス ゲーテもどきは
中々本人らしく振舞って呉れないのである
だから時々尋ねてこうお願いするのである
イエス様ソクラテス様ゲーテ様
どうか私の中に住んでいる貴方様もどきを貴方様の様に鍛えて下さいと
何度も何度も尋ねて行く内に
その乖離は小さくなって行くであろう
しかしあくまでもイエスはイエス
そしてイエスもどきはイエスもどき
しかしそれでもいいのである
そのもどきを指標にしつつイエスの王国に似た王国を
釈迦の王国に似た王国を
ソクラテスの王国に似た王国を
孔子 老子 セネカ エピクロスの王国に似た王国を築くのが目的なのだから
さて私はこの章では一体何が言いたかったのだろう
それは結局こう言う事なのである
これまで述べて来た事と大分異なるが
すなわち
私の国は王国である
その王は私である
私は神を崇めている
しかし神を見た事は無い
私は神の使者である知恵に依って
神の存在を感じたい
知恵の言葉を神の信託であると看做す
神は如何様な存在でもいい
秩序でも法で体系でも存在でも自然でも宇宙でも創造でも何でもいい
その知恵の向こうに存在する
何者かを薄々でもいいから感じたい
その為に私は知恵に問う 様々な事を
それらの一つ一つの言葉から
神と言う存在を薄々とでもいいから感じたい
神とは真善美か
私は神とはそんな概念にも近いとも思う
私は真理の事はあまり言いたくないが
知恵に対して真剣に求めれば求めるほど
善美と言う属性が着いて来る様に思う
しかし神が何であってもいいのである
神と言う概念を持ち続け探し続ける事が大切だと
全て比喩ですので まともに反応しないで下さいね・・・
さて私は今日のこの章で何が言いたいのか
今度は脱線せずに簡潔に
私の国は王国である
私がその王国の王である
私の王国には神が存在する(して欲しいと願っている)
その司祭は知恵である
そしてイエス ソクラテス セネカ 釈迦 孔子 老子 ダビデ ソロモン エピクロス等々もどきが私の参謀である
私は司祭が取り次いだ言葉を
参謀たちに投げ掛ける
彼らがそれらに対して善しと言えば
それを神からの信託として
それを基に国民を治める
国民とは誰か
私の前に存在する全ての人である
勿論AP 氏IL氏 ET氏もその一人一人である
私は王として限り無く全国民に対して優しくありたい
理想の国家と現実の国家全く違うかも知れない
しかし理想を持つ事が大切だ
その過程の中で神と言うか概念が生まれて来るのかも知れない
全て比喩の中の比喩
言葉遊びを愉しみましょう
ひょっとしたらそこに快楽の秘密が隠されているのかも知れませんね
私はある程度言葉遊びの秘密を知っている
何故皆が言葉に夢中に成るのか
ヨハネ福音書第1章第1節
「初めに言があった
言は神と共にあた
言は神であった
この言は初めに神と共にあった
万物は言によって成った
成ったもので言によらずに成ったものは何一なかった」
皆が皆言葉に依って世界を創造しようとしているのである
三歳児を見て御覧なさい
如何に言葉に依って世界を創造しつつあるか
お喋り屋さんや酔っ払いを見て御覧なさい
彼らが如何に自分の世界を言葉に依って守ろうとしているか
言葉こそが神の化身なのである
だから彼らはこうも言葉に拘るのである
しかし誰もその蒔
Temporal anityaさんへ 2005/ 2/26 13:07
Temporal anityaさんへ
初めまして
私はsophialoverと言います
宗教 哲学に興味を持っています
Temporal anityaさんは仏教にとても造詣が深いので
仏教の事を色々聞かせて頂ければ有難く思います
私はこの掲示板で仏教の事も様々に言っていますが
実を言うと仏教に関する知識はそれ程無いのです
私が仏教に目覚めたのは
岩波文庫の「ブッダのことば(スッタニパータ)」に依ってです
これに依って
仏教に目が開かされた思いがしました
と言うよりも
この頃から哲学 宗教に目覚めたのだといって良いのかもしれません
私はそれから
岩波文庫の中村元訳の小乗仏典のシリーズを読み漁り始めました
今それらが手元に残っています
数え上げると次の通りです
「ブッダの真理の言葉・感興のことば(ダンマパダ・ウダーナヴァルガ」
「神々との対話(サンユッタ・ニカーヤⅠ)」
「悪魔との対話(サンユッタ・ニカーヤⅡ)」
「ブッダ最後の旅(大パリニッツバーナ経)
「仏弟子の告白(テーラガーター)」
今数え上げると大した数ではありませんね
それらを夢中になって読みました
感動と言うか
火花がぱちぱち飛ぶ様な感じを覚えたものです
私はそれから
他にも小乗仏典が無いのか探しまくりました
しかしほとんどありませんでした
大きな図書館に南伝大蔵経と言うものがありました
しかしそれは貸し出し禁止と言う事で
その図書館で数編の経典を走り読みしただけでした
私はそれが何と言う経典だったのか思い出す事は出来ません
それでは仕方が無いと言う事で
次に大乗仏典に移って行ったのです
これもほとんど岩波文庫です
それらが今手元に残っています
数え上げると次の通りです
「般若心経 金剛般若経」
「法華経」
「浄土三部経(無量寿経 観無量寿経 阿弥陀経)」
たった六つの経典だけだったのですね
それから図書館で数編の経典も読みました
その中には維摩経もありました
それ以外はあまり覚えていません
走り読みした程度っだので
大乗仏典は小乗仏典ほど感動を起こしませんでした
一つにはどうしても漢文原典漢文読み下し文に拘ったからです
岩波文庫のそれには現代文和訳もあったのですが
どうしても漢文原典漢文読み下し文に拘ったのです
私は先ず漢文原典を読みそれから読み下し文を読み
それからまた漢文原典に戻りました
漢文原典の方がよく理解出来る様にも思われましたが
如何せん現代文で無い事
また仏教用語が多い為
その文章の意味を十二分に理解出来ませんでした
それから大仰な言い回し
そしてこの経を読む事の方が多くの実践的な徳にも更に優ると言った様な宣伝文句
そんな事が気に成ってあまり感動する事は出来ませんでした
私はそれから新約聖書旧約聖書の方へと向かって行ったのです
Temporal anityaさんへ その2に続く
Temporal anityaさんへ その2 2005/ 2/26 13:09
Temporal anityaさんへ からの続き
これが私の仏教に関する知識の大体なのです
Temporal anityaさんの仏教の知識に比べれば微々たるものだと思います
なお私の仏教書の遍歴を見て貰って分ると思いますが
私は解説書をほとんど読んでいません
後世の論書も読んでいません
岩波文庫のその解説文さえもあまり読まない様にしていますが
やはりそれはそれ読んでいます
後世の仏教の概念についてはほとんど知らないと言うのが私の実情です
だからTemporal anityaさんたちが使い回している仏教専門用語については
あまり分らないのが実情なのです
私は何時も原典に向かう様にしています
何故ならその哲学者たちから直接言葉を頂きたいからです
そう言う観点からも
私は大乗仏典よりも小乗仏典に重きを置いています
何故なら小乗仏典の方が
より釈迦と言う哲学者の言葉に近いと思うからです
大乗仏典はやはり後世の方々の脚色が入っていると思います
私が興味があるのは仏教ではなく
釈迦と言う哲学者なのです
そしてその一つ一つの言葉なのです
そう言う意味からも私は小乗仏典に重きを置いています
そしてその中でも今の所一番重きを置いている経典は
岩波文庫「ブッダのことば(スッタニパータ)」です
私が釈迦と言う時は
大体がこの書に由来しています
勿論例外はあります
「般若心経」もその一つです
この経典からは多くのインスピレーションを貰った様な気がします
私は思います
この般若心経があるからこそ
仏教は解体せずに命を保っていると
私はまた思います
この般若心経こそが仏教の神であると
この般若心経を中心に仏教が回っていると
私は思います
仏教を語る時何を語ればよいのかと
皆がそれぞれに自らの経典に基づいて話をするのです
だから話がよく咬み合わないのです
この掲示板を見ていてもそんな気がします
キリスト教はそうではありません
一つの聖典しかないのです
だから私たちはそこに集中して
一つの王国を創り上げて行く事が出来るのです
しかし仏教はそうではありません
どれが本当の釈迦の言葉か分かりません
後代になって次から次に釈迦の言葉が加えられて
その経典は数え切れない程です
そしてそれらの一つ一つは全て釈迦の言葉であり教えなのです
私たちはそのどれをとっても良いのです
私はこう言う事が出来ると思います
キリスト教には
一つのイエスの王国しかないが
仏教には
たくさんの釈迦の王国があると
これからTemporal anityaさんと議論を重ねて行く訳ですが
きっとそんな事が起ると思います
もし出来る事なら
スッタニパータ(法句経)と般若心経を中心に
議論を重ねて頂ければ有難く思います
きっとTemporal anityaさんも
それらの経典については精通されていると思いますので
これから様々な事について聞いて回りますが
不愉快な顔をせずにどうか色々教えて頂きたいと思います
こんな事を言っては僭越ですが
Temporal anityaさんは中庸の徳が身に付いた方だと思います
どうか今後ともよろしくお願いします
今日はご挨拶まで
sophialoverより
Temporal anityaさんへ その3 2005/ 3/ 5 12:27
Temporal anityaさんへ
返信有難うございました
遠慮なく議論させて頂きます
その前にお断りを入れておかなければなりません
前回今の所
私が一番重きを置いている仏典は
岩波文庫の「ブッダのことば(スパニータ)」(法句経)だと言いましたが
あれは間違いでした
正解は
岩波文庫の「真理のことば(ダンマパダ)」(法句経)でした
私の釈迦に関する思想の源泉はほとんどこれに負っています
般若心経を除いては
さて早速お聞きしたのですが
Temporal anityaさんは「ニルヴァーナ」をどの様に考えていますか
私は思っています
これこそが釈迦の思想の核心であると
この思想があるからこそ
仏教が世界宗教に成りえたのだと
さてそれを議論する前に
ダンマパダでニルヴァーナがどの様な使い方をされているか見て行く事にしましょう
「勤しむ事を楽しみ 放逸におそれを抱く修行僧は 堕落する筈が無く 既にニルヴァーナの近くいる」(2章)
「忍耐堪忍は最上の苦行である ニルヴァーナは最高のものであると諸々のブッダは説きたもう」(14章)
「飢えは最大の病である 形成された存在は最も酷い苦しみである この理をあるがままに知ったらニルヴァーナと言う最上の楽しみがある」(15章)
「健康は最高の利得であり 満足は最上の宝である 信頼は最高の知己であり ニルヴァーナは最上の楽しみである」(15章)
「人が常に目覚めていて 昼も夜もつとめ学び ニルヴァーナを得ようとめざしているならば 諸々の汚れは消え失せる」(17章)
「心ある人はこの道理を知って 戒律を守り 速やかにニルヴァーナに至る道を清くせよ」(20章)
「貪りと怒りとを断ったならば 汝は速やかにニルヴァーナに赴くであろう」(25章)
「精神の安定統一と明らかな知恵が備わっている人こそ 既にニルヴァーナの近くにいる」(25章)
これでニルヴァーナと言う言葉が出て来る節は全てです
ニルヴァーナは最高のものである
ニルヴァーナと言う最上の楽しみがある
ニルヴァーナは最上の楽しみである
この最上最高の楽しみがあるからこそ
人はこぞって釈迦の言葉に耳を傾けるのである
私ははっきり言います
快楽と言う動機が無ければ
人は指一本さえも動かさないと
人は皆快楽に誘われ快楽に突き動かされているのです
どの様な快楽があるのか
ピンからキリまで
その中に様々なグラデーション諧調があるのです
その諧調を一つ一つ読み取る事が出来れば天才です
その諧調は無数にあるのです
掲示板に向かう
これも快楽に突き動かされてです
さて如何なる快楽に突き動かされてでしょう
内省して観て下さい
そしてその結果更なる快楽が齎されたのでしょうか
私はこう言いましょう
快楽に突き動かされたが
結局は苦いものなった
これが快楽原因苦渋結果説です
しかし釈迦のそれは違うのです
快楽を求めて更に快楽が増して与えられるのです
だから皆と言うより
そのその釈迦の思想の真髄を心得た者は
そのニルヴァーナと言う快楽へ走るのです
さてニルヴァーナへと至る道にはどの様な道があるのでしょうか
それは二つです
一つは常に目覚め学び勤め貪りと怒りを断ち戒律を守る事です
一言で言えば修行です
もう一つの道は精神安定統一と知恵への回帰
すなわち結跏趺坐 瞑想(または祈り)です
修行と瞑想
この二つに依って
人はニルヴァーナへと赴くのです
しかし私はここで言って置きます
ニルヴァーナは釈迦の専売特許では無いと
偉大と言われる思想家宗教家は
大なり小なり
このニルヴァーナに辿り着いたと
または近付きそれを仰ぎ見たと
それでなくてはあの様なエネルギーは生まれないし
あの様に尽きる事無く思想を生み出す事は出来ないのです
私は今週ベルクソンとプロティノスを読みましたが
神秘主義の系譜にある人は皆
このニルヴァーナの事を熱く語るのです
そしてこの二人も言っていました
偉大な思想家宗教家と言われる人々は皆
このニルヴァーナと言うか神と言うか
絶対者と言うか超越者と言うか根源者と言うか一なる者と言うかと
そんなものに達したのだと
Temporal anityaさんの言う一切無常絶対超越真理も
たぶんそんな類のものではないかと思っています
Temporal anityaさんへその4に続く
Temporal anityaさんへ その4 2005/ 3/ 5 12:30
7
Temporal anityaさんへその3からの続き
Temporal anityaさんの言う一切無常絶対超越真理も
たぶんそんな類のものではないかと思っています
そこで質問です
ニルヴァーナと一切無常絶対超越真理は同じものですか
違うとしたらどの様に違うのですか
Temporal anityaさんは仏教徒ですか
もしそうであれば
既存の宗派に属していますか
それとも新たな宗派を起こしたと考えているのですか
Temporal anityaさんのは如何にして
一切無常絶対超越真理を悟ったのですか
読書と思索に依ってですか
結跏趺坐 瞑想に依ってですか
誰か導師がいたのですか
(本の上では無く実在の導師がいたのですか)
仏教上の戒律とか修行を経験した事があるのですか
南無一切無常絶対超越真理は
南無一切無常 南無絶対超越真理と解釈するのですか
それとも南無一切無常絶対超越真理と解釈するのですか
たぶん後者だと思いますので
今日はその様に解釈して議論を進めます
一切無常絶対超越真理を
一切の無常な絶対的で超越的な真理と解釈すると
一種の真理になる訳ですが
この真理は状態ですか存在ですか作用ですか
それとも単なる概念 言葉ですか
それともそれ以外の何かですか
南無一切無常絶対超越真理
この一切無常絶対超越真理に南無(帰命)するとどんな状態になるのですか
恍惚感至福感が得られるのですか
それとも全くの無になるのですか
私は全くの無とは死以外ににか考えられないと思っていますが
その死の様な疑似体験が出来るのですか
それとも空の状態に成るのですか
私は空とは全てが躍動する前の一瞬の静謐だと考えていますが
その様な状態になる事が出来るのですか
一切無常絶対超越真理に南無(帰命)すると如何なるご利益があるのですか
詳しくお聞かせ下さい
今Temporal anityaさんのレスに帰ったら
正法無常宗祖師 転法(/\)南無一切無常絶対超越真理とありました
Temporal anityaさんは正法無常宗と言う宗派を創設したのですね
そしてその祖師でいらっしゃるのですね
ここでちょっとお聞きしたいのですが
転法とはどう言う意味ですか
そして(/\)には如何なる意味象徴があるのですか
Temporal anityaさんは無常を高く掲げられているのですね
確かにこの世を詳しく見れば見るほど
常なるものは一つもありませんよね
かつては不動と見なされたものも
現代では全て原子の動きに還元されてしまいましたよね
しかしそんな世界にありながらも
Temporal anityaさんは一切無常絶対超越真理に帰命(南無)せよと言うのですね
ここでお聞きしたいのですが
一切無常絶対超越真理は無常ですか
それとも一切の無常を超越して絶対的に常なるものなのですか
一切無常絶対超越真理だけが無常でないと言う事なのですか
ここでもう一度お聞きしたいのですか
一切無常絶対超越真理は
状態ですか存在ですか作用ですか
それとも概念 単なる言葉ですか
それともそれ以外のものですか
詳しくお聞かせ下さい
さてそろそろ時間が来たようですし
字数制限にもかかって来ると思いますので
最後の質問をして今日の質問を終えようと思います
先ず何歳で一切無常絶対超越真理を体得したのですか
そして何歳で正法無常宗を開設したのですか
教条教説がありますか あったら教えて下さい
この掲示板以外に何か布教活動をしていますか
今信者は何人いますか
正法無常宗の目的は個人の悟りだけですか
社会的貢献については何も考えていないのですか
それからどうして口調語調が変わって来たのですか
真面目な口調では一切無常絶対超越真理は伝わらないと思ったのですか
一休法師のあり方に学ぼうと思ったのですか
色々質問して申し訳ありません
しかし今後も色々と聞いて回ります
仏教の先輩として色々教えて下さい
しかし私が本当に聞きたいのは
一切無常絶対超越真理と
その真理への導入と
その真理の生かし方だと思います
それを浮き彫りにせんが為
様々な角度から聞いて回るのだと思います
そう言う訳ですので
どうか嫌な顔をせずに
仏教の先輩として色々と教えて下さい
今日の質問はこれで終わりにします
どうも有り難うございました
panietzscheさんとhirop321さんへ(未投稿)
panietzscheさんとhirop321さんへ
私も議論に参加させて貰ってよろいでしょうか
私はhirop321さんの言う事が良く分かります
私もその様な疑似体験をしているからでしょうか
最も私は瞑想と言う事をした事はありません
かつて二三度試みた事はありますが
十分と続かなかった様に思います
それでもその様な疑似体験をしています
それは居眠りであり眠りです
私は平日は仕事が終わり全ての家事が終わった後
一人部屋に入り本に向かいます
そうすると物凄い眠気が襲い
机にうつ伏せになって居眠りをするのです
大体において30分前後です
ベストは15分前後です
30分を越えると眠りからの回復が遅くなり
夜の眠りにも支障を来たすのです
実を言うとこの居眠りは諸刃の剣なんですが
やはり覚醒の為には止める事は出来ないと思います
本当の自分自身と付き合う為には
この居眠りと言う手段は
今の所手放す事が出来ない様に思います
さて居眠りから目覚めると
暫くは眠気が残っていますが
次第次第に覚醒へと入って行くのです
私はここで覚醒剤を使うのです
コーヒーと言う覚醒剤を
私は時間を追う毎に覚醒の度が高まって行きます
そして眠らなければならない時刻の頃に丁度ピークを迎えるのです
それから床に就きますので
どうしても眠りが遅くなり朝がきつくなるのです
しかし今の所それは仕方が無いと思っています
自分自身に還らずに眠り呆けているよりは
少々睡眠不足でも自分自身に還る方がましだと言う事で
さて次に居眠りと眠りの眠りの方ですが
これは休日の朝の眠りから目覚めの事です
休日
この世の何者からも邪魔されないと言う眠りから目覚め
それは新生を意味していているのです
(平日の朝の眠りからの目覚めはそうは行きません
仕事がある
これだけでこの世に縛られてしまうのです)
居眠りと眠り
これは私にとってこの世を絶つ為の手段です
瞑想もたぶんそうだと思います
だから私はhirop321さんの様な完全な意味合いでの瞑想体験は出来ませんが
その様な疑似体験はしているのだと思います
最もhirop321さんはこう言うのかも知れません
瞑想で一番大切な事は神(呼び名は別にして)を感じる事だと
私もそうだと思います
実を言うと私も瞑想を体験したいのです
しかし時間が無い これが実情なのです
市販書を買って自習すればよいでは無いかと言うかも知れませんが
それでは決して実を結ばないと思います
やはり瞑想は導師に付いて学ばなければいけないと思います
そう言う意味からもhirop321さんはとても素敵な体験をしたと思います
hirop321さんは若い頃 20代の前半の頃
あのインドのラジニーシのアシュラム(道場)に居たとの事
本当に何ものにも替え難い体験をされたと思います
私は思います
ラジニーシは真の神秘思想家であり真の導師であったと
それはその言葉を見れば明らかです
それは神(喩え)から流れ出る言葉をそのままに語っているかの様に思えるからです
しかし私はラジニーシの書籍は持っていません
それらは全て図書館や本屋で立ち読みした程度です
何故購入しなかったかと言えば
それに囚われそうに思えた事と
やはり私の導師たちは古代の哲学者であるべきだと思ったからです
そうは言ってもその時
私がラジニーシの書籍に出会った頃ラジニーシは未だ生きていたので
切にそのインドのアシュラム(道場)に行きたいと願ったのもまた事実です
そう言う訳でラジニーシの事アシュラム(道場)の事
そしてhirop321さんがそこで体験した事を色々聞きたいと思っていたのです
話がここに飛んで来たので幾つか質問させて下さい
1 hirop321さんは西暦何年の頃何歳から何歳までそのアシュラム(道場)に居たのですか
2 hirop321さんはそのアシュラム(道場)に行くまでどの様な哲学宗教思想体験をしていたのですか
3 hirop321さんはその道場で悟りを開いたのですか
最もそれは悟りとは言わないのですか
悟りと言わなければ何と呼ぶのでしょうか 教えて下さい
最もここでは悟りと統一させて下さい
4 hirop321さんはその道場に行ってどれ位で悟りを開いたのですか
その悟りとはどんな状態だったのですか
悟りに導く直接のきっかけは何だったのですか
導師の教えに導かれて仲間たちが悟りを開いていくのでそれに誘発されて悟りを開いたのですか
やはり悟りの直接のきっかけは瞑想ですか
瞑想の手段は結跏趺坐黙想だと思いますが
どれ位の時間それを続けるのですか
その際思考はどの様に変化して行くのですか
ローマ見聞記(未投稿) 2005年5月頃
さて何から書き始めるとしましょうか。
2005年4月29日から5月6日まで、7泊8日の日程で、ローマに行って来ました。
この間に私が経験してことを出来るだけたくさん皆さんにお伝えしたいと思います。
さて何から書き始めたらいいのでしょうか。
やはりこれからローマに始めて行かれる人の為のローマ案内記から始めるのが一番いいのでしょう。
ローマ市の人口は2,546千人、面積は1,285k㎡だそうですが、ローマ市の区域がどの程度なのか私は知りません。
皆さんの持っているガイドブックにもきっとそれは載っていないと思います。
しかしそれはほとんど関係ないと思います。
皆さんが観光で訪れるのは、かの有名なアッピア街道を除けば、ほとんど旧市街と呼ばれる所に集約されているからです。
先ずは皆さんの持っているガイドブックの中のローマ全体図と言うものを見て下さい。
これが旧市街全部です。
さてどこまでが旧市街だか分りますか。
よくよく目を懲らして見て下さい。
旧市街を囲む線を見つける事が出来ましたか。
そうです。これが旧市街です。
そうなのです。ローマには未だ城壁が残っているのです。
この城壁を一周すれば、ローマを一掴みにする事が出来ます。
どうか皆さん地図をよく見て、地図に定規を当てて見て下さい。
直径10kmの円に喩えられませんか。
だとすれば、一周31.4kmです。
自転車で回れば半日で回れますよね。
歩いて回ったとしても一日で回れますよね。
これが旧市街です。
最も私は城壁を回った訳ではありませんし、皆さんも回る機会は無いと思いますが、この事を念頭においておけば、ローマの事をよりよく理解する事が出来るようになります。
たぶん皆さんはあちこちでこの城壁で出くわすことになると思いますが、この事が念頭になければ、たぶんそれが城壁だと言う事を見過ごしてしまうでしょう。
そうならない為にも私があらかじめ教えておきましょう。
たぶん皆さんが目にするであろう城壁・城門を。
先ずは絶対と言っていいほど目にする城壁はヴァチカン美術館です。
何故ならヴァチカン美術館に入る為にはこの城壁沿いに並ばなければいけないからです。
それからボルゲーゼ美術館に行く為のピンチアーチ門周辺、ポポロ広場に入る為のポポロ門周辺、アッピア街道に行く為のサン・セバスティアーノ門周辺(ここには城壁博物館があります。)、サン・ジョバンニ大聖堂周辺のサン・ジョバンニ門周辺と言った所です。
皆さんがたくさん回れば回るほど城壁や城門にぶつかることが多くなります
ここでもう一度城壁のラインと城門の位置を確かめてみて下さい。
どうです。旧市街の全体像が浮かび上がって来ましたか。
さて皆さんが旧市街の全体像を掴んだところで、愈々ローマ観光です。
その前に一言言っておきます。
ローマ観光の見所は、古代ローマ遺跡と教会、宮殿、それに広場です。
この四つを抑えておけば、ローマ観光を見落とす事はないでしょう。
これら四つの中に、また芸術作品も鏤められているのです。
何故古代ローマ遺跡なのか。
それは言うまでも無いでしょう。
古代ローマ帝国の残照です。
皆さんはその地に立ちその遺跡を見てその文化、経済力の凄さに驚く事でしょう。
結局ローマはその古代ローマを越える事が出来ずにいるのです。
そして今後もずっと。
古代ローマが如何に素晴しかったか。
その為には皆さんの想像力が必要です。
もし想像力が足りないというのであれば、皆さんがあちこちで出くわす土産物屋で売っている古代ローマの復元ポスターを購入することをお勧めします。
これで想像力を補って下さい。
私ははっきり言う事が出来ます。
古代ローマ帝国の建物の方が現在のローマのそれよりも十数倍も威容さ華麗さにおいて優れていたと。
この復元ポスターでは個人邸宅は等閑に描かれているし、ローマには個人邸宅に関する遺跡はほとんど残されていないので、ローマ観光においては邸宅の威容さ華麗さを知る事は出来ません。
ローマの個人邸宅のそれを知るためには、やはりポンペイまで行かなければならないと思います。
ポンペイに行って皆さんはその事を知る事になります。
ローマはそのポンペイよりも財力において数段優れていたのです。
古代遺跡により公共建築物の偉大さを想像し、そしてこの旧市街一面
にポンペイよりも更に素晴しい個人邸宅が広がっていた事を想像すると、その財力には驚かずにはいられません。
現在の世界のどの都市よりも、そしてこれまでに存在したどの都市よ
りも、古代ローマは大金持ちの都市だったと言える事が出来るでしょう。
何故大金持ちの都市たり得たか。
それは世界の富がローマに集中していたからに他なりません。
私は最初で言いました。
ローマは古代ローマを越える事が出来ないと。
それは全てに渡ってです。
結局ローマは古代ローマへのコンプレックスの中でしか生きていけ
ないのです
私は後ほどローマはヨーロッパの田舎都市であると言う積りですが、
その伏線はこの辺りにあるのです。
その事はまた後で述べる事にしましょう。
さて古代ローマの芸術が如何に優れていたか。
それは建物からも容易に想像される訳ですが、やはりその象徴は彫刻に見る事が出来ます。
私はこれほどまでにたくさんの古代ローマの彫刻が残っているとは思いませんでした。
宮殿と言われる博物館美術館にたくさん収められているので、出来る限りたくさん見ることをお勧めします。
しかし私はここで言わなければなりません。
ローマにおいて美が退廃したと。
ローマにおいて美の典型が確立しました。
(いいえ、ギリシアにおいて美が確立し、ローマはただそれを引きついだだけなのかも知れません。)
その確立した美故にローマの美は退廃せざるを得なかったのです。
皆さんは博物館美術館でローマ彫刻を見る事が出来ますが、その全てが全て典型です。
もうこれ以上の美は生まれないと言う典型です。
それが為、美はそこで終わってしまったのです。
(私はギリシアの彫刻が見たかったが、それはもうそれは誰にも出来ない事。)
私はそのローマにあの「ラオコーン」が生まれたのを不思議に思います。
あれはまるでルネッサンス又はバロックの頂点若しくはギリシアの異端。
古代ローマにおいて誰があれを創り得たのでしょう。
さて、次に教会ですが、言わずと知れたヴァチカンです。
何故ローマにあれほど教会が多いのか。
ヴァチカン故です。
その前に地図の事をお話して置きましょう。
皆さんの持っている地図はどんな地図ですか。
多くの方は「地球の歩き方“ローマ”」の地図を見ていると思いますが、あれではローマを理解する事は出来ません。
ローマを理解する為には、昭文社の「トラベルストーリー」の付図をお勧めします。
これは半紙大のサイズで表に一万分の一の旧市街の地図が載っており、裏には三千分の一の中心部の地図が載っているものです。
私はこの三千分の一の地図で私のホテルを一発で当てました。
この地図は本当に優れものです。
勿論折りたたみ式になっており、ポケットに入れて持ち運び自由です。
この地図1枚さえあれば街歩きには何の不自由もしません。
第一に優れているのは、歩行者専用道路(ショッピング街)を色分けしている事です。
このピンクのゾーンを歩いて行けば、街の賑やかさを実感できます。
第二には、主な観光スポットについては、イラストが載っていると言う事です。
これに依ってイメージを膨らませることも出来るし、実際その場に着いた時それである事を確認出来ます。
第三には、ホテル、レストラン、ショッピングストアが載っていると言う事です。
先程も言いましたように、私は私の小さなホテルを一発で当てましたし、初日はマグドナルドにお世話になりました。
私は事前にマグドナルドの位置を抑えていましたので、食事の事で最初から気後れする事もなかたのです。
マグドナルドは世界共通です。
もし言葉で不自由するのであれば、マグドナルドに飛び込めばいいのです。
そしてメニュを指差しディス、プリーズと言ってもいいし、ビッグマックセットメニュー、プリーズと言ってもいいのです。
たぶん90パーセント通じます。
二度同じ事を言えば99パーセント通じる筈です。
第四には、宮殿、教会が色分けされてあり、また全ての広場の記載があるのです。
これに依って宮殿と教会を一覧する事が出来き、ルートを簡単にセット出来ます。
そして何よりも優れているのは全ての広場の記載があることです。
私は最初で言いました。
ローマの見所は古代ローマ遺跡と教会と宮殿と広場であると。
何故広場が出てきたのか訝しがった人もいると思いますが、広場こそがローマにおいては最も素晴しい観光スポットなのです。
広場に行けば、人がおり、道化師がおり、絵描きがおり、花売りがおり、店があり、屋台があり、泉があり、彫刻がありそして宮殿、教会があるのです。
宮殿や大きな教会の前には必ずと言っていいほど広場があります。
広場から広場へ、これがローマを最も効率的に見る方法であり、ローマを最も楽しめる方法なのです。
これについては、また後ほど詳しくベストルートをお教えいたしましょう。
さてそれではまた教会の事に戻りましょう。
何故教会なのか。
先程も言いました様にヴァチカン故です。
ローマ市内の教会の多さは半端ではありません。
たぶん百メートル歩いて、教会に出会わない事は無いと思います。
それ程までに教会が多いのです。
そしてその教会に見所が多いのです。
だから教会の事を知らずにローマに行っても、ローマの事は半分しか理解出来ないと思います。
皆さんはローマに行くのであれば、教会に関する知識を持って行かなければ、上滑りなローマ観光になる事は先ず間違いありません。
さてローマの教会とは何でしょう。
それは言わずと知れたロマネスクです。
皆さんは教会と言うと尖塔のあるゴシック式教会を思い浮かべると思いますが、ローマではそんな教会はほとんどありません。
私は7日間の内に一度だけテヴェレ川対岸に見ただけです。
もし教会建築様式にロマネスクとゴッシクしかないのであれば、ローマのそれは全てロマネスクです。
皆さんは教会の前に始めて立つとき、「これが教会?」ときっと思う
筈です。
そしてこんな事を言えばかなり不謹慎ですが、かなり煤けているのです。
ある教会、カラヴァッジョの絵で有名なサン・ルイ、デイ・フランチェージ教会などはまるで火事にあったかのように黒く煤けていました。
そしてこんなことを言えば更に不謹慎なですが、かなり鈍重に見えるのです。
それは私たちの中で教会といえば、尖塔のあるゴッシクと言うイメージがかなり定着している為だと思います。
最もクープラ(大きなドーム屋根)のある教会は別です。
ある種の威容さで迫ります。
私は思います。
このクープラからゴッシクの尖塔へと発展していったのだと。
さて私はローマ教会の外観について大分失礼な事を言ってしまいましたが、これは一言で言えばやはり歴史の重みと言う事に還元されるのだと思います。
外観についてはその様な事を感じさせられますが、中に入れば一瞬にして荘厳な気持ちにさせられます。
さて教会の内部ですが、実を言うと私はこれまで教会と言うところには数度しか言ったことがないのです。
それも町の教会をちょっと好奇の目で覗いたくらいですから、教会内部の構造をとやかく言う事は出来ない訳ですが、日本のそれとは随分違うなと思いました。
最も日本の大きなカソリックの教会に行けばこのような構造になっているのかもしれませんが、私はこのような教会の構造を始めて知りました。
すなわちそれはこうです。
入り口を入ると、円柱が左右両方に4組から6組あるのです。
その円柱に依って一種のアーケードのような造りになっており、その
アーケードが礼拝堂になっているのです。
これは私たちが普通目にする教会内部の構造ですが、次に述べるような構造を私は始めて見たのです。
すなわちそれは、アーケードに直角になるように円柱と円柱の間にまた小さな礼拝堂があるのです。
例えば4組の円柱がある教会では、左右にそれぞれ4組ずつ合計八つの礼拝堂があるのです。
もし6組の円柱であれば十二の礼拝堂があるのです。
私はこんな構造の教会は始めて見ました。
そしてこの礼拝堂の奥すなわち祭壇に様々な祭壇画や祭壇彫刻が飾られているのです。
そしてそれがとても有名な絵や彫刻である訳なのです。
私たち日本人を始め観光客はこれを目当てに教会に入って行く訳です。
教会は誰をも拒みませんが、しかしそこは信仰の場だと言う事をしっかり念頭に置いて、我々信仰の無い日本人は心して入る必要があるのです。
その教会の中にミケランジェロやラファエロやカラヴァッジョやベルニーニその他有名な画家彫刻家たちの作品がそれこそ綺羅星の如く飾られているのです。
私たち日本人はそれを愉しみに教会に入るのですが、やはり心して入る必要があると思います。
それから言い忘れていましたが天井画をお忘れなく。
その圧倒的迫力で迫る天井画の意味を読み解く為には少なくとも30分は必要です。
しかし今回の私たちの旅ではそんな時間はありません。
もしフラッシュを焚かずともよくまたシャッター音も出ない様なカメラをお持ちでしたら、祭壇画、祭壇彫刻を含めてバシバシ写真を取り捲るのも一つの手かと思います。
そうすれば膨大な画集が出来上がると思います。
しかしやはり私はお勧めしません。
何故ならここは信仰の場なのですから。
私たち信仰の無い日本人は、その教会に入った時からキリスト教国の人々に比べて教会マナーで劣っているのです。
その日本人が周りの事も気にせず、バシバシ写真を取り捲ったらそれこそ顰蹙ものです。
どんな教会でもそしてどんな時間でも、必ず数人のノクリスチャンがお祈りを捧げている筈です。
もしくはその準備をしている筈です。
やはり教会巡りを有意義にする為には事前学習が必要です。
私たちは京都奈良の寺院巡りをする時、寺院の建築様式や仏像、仏画に関する知識をあらかじめ学んでから行きます
そうするとその寺院巡りがとても楽しいものになります。
ローマの教会巡りも全くそれと同じです。
教会の建築様式や祭壇画、祭壇彫刻に関する知識を写真集や画集やその他の資料集で予め学んで行くと、ローマ教会巡りが数段楽しくなります。
そしてローマが好きになると思います。
多くの旅人が京都奈良を好きになるように。
私ははっきり言っておきます。
京都奈良の寺院巡りが好きでない人は、ローマも好きになれないと。
何故なら少なくともローマ観光の1/4が教会巡りに充てられるのですから。(遺跡巡り1/4、教会巡り1/4、宮殿巡り1/4、広場巡り1/4とした場合)
さてどうしてローマにはこんなに教会が多いのでしょう。
私は先程ヴァチカン(サン・ピエトロ教会)ゆえだと書きましたが、実は何の根拠もありません。
ただ私の直感です。
京都の禅宗寺院は、大本山があって、その周りに塔頭寺院が多いですよね。
あれと同じかなと思ったのです。
そしてローマの街そのものがサン・ピエトロの門前町かなと。
皆さんのガイドブックでイタリアの祝祭日を見て下さい。
御公現の日、復活祭、復活祭翌日の月曜、聖母被昇天祭、諸聖人の日、聖母無原罪の御宿の日、クリスマス、聖ステファノの日。
これだけのキリスト教国であれば、ローマ(少なくとも旧ローマ市街)がその門前町であっても何の不思議もないと思ったのです
これはあくまでも私の直感による推測です。
皆さんはその辺りを由緒ある資料で調べてみて下さい。
そして教会巡りを楽しんで下さい
さて教会に関するレッスンはこれ位にして、次に宮殿の事に入って行く事にしましょう。
皆さんは宮殿とは何だか分かりますか。
その昭文社の「トラベルストーリー」の付図を見て下さい。
教会までとはいきませんが、それでもたくさんの宮殿が載っていますね。
私はローマに行く前、この宮殿が何なのか良く分からなかったのです。
しかしローマから帰った今、私はその事が良く分かっています。
だから未だローマに行っていない方の為にその秘密を教えてあげる事にしましょう。
私たちは宮殿と言うと大きな建物、それも大きな敷地の中に建っている建物を思い起こします。
しかし私たちがその付図で見る宮殿は、それほど大きいものではありません。
大きいものでも街の1ブロックを占める位です。
そしてそこには緑は見当たりません。
街の一角を占めるちょっと大きな建物と言う感じです。
そんな建物が旧市街に二十も三十もあるのです。
今数えた限りでは二十五ですが、そんなにも一杯の宮殿と言う建物があるのです。
一体これは何だと思っていたのです。
私たちがイメージする宮殿とは皇居、御所、バッキンガム宮殿、そしてそこには天皇や王、少なくとも宮様たちが住んでいる、そんなものですよね。
ところがこのローマにはその宮殿と言うものが二十も三十も存在するのです。
そしてそれは精々街の1区画を占めるだけ。
そして緑も無い。
一体これは何なのだと思っていたのです。
それでは皆さんにその正体と明かす事にしましょう。
最も私は宮殿に関する専門的知識を得た訳ではなく、この目で見たままを皆様にお伝えするだけです。
確かにその宮殿と呼ばれるものは、その地図の通り、街の一角を占めるちょっと大きな建物に過ぎません。
ただ歴史があり、由緒があり、芸術的にも優れているという感じはします。
そしてそれらは上院、下院、大統領府、政庁等国の施設として使われています。
これが宮殿の正体です。
もしこれだけだったら、歴史に興味のある人、政治に興味のある人、建築技術に興味のある人なら、宮殿巡りも楽しいかもしれませんが、私たち一般の者にとってそれはそれほど楽しいものにはならないと思います。
この宮殿巡りが私たちにとって楽しくなるのは、その多くが美術館博物館として開放されているからです。
たぶんその数は十は下らないと思います。
マッシモ宮、バルベリーニ宮、コロンナ宮、パンフィーリ宮、ヴェネチア宮、アルテンプス宮、スパーダ宮、ブラスキ宮、小ファルネーゼ宮、コルシーニ宮、ヌオーヴォ宮、クレメンティーノ宮、ブラスキ宮、ボルゲーゼ宮等々
私たちはその由緒ある建物、歴史ある建物の雰囲気を味わいながら、また一流の芸術作品を味わう事が出来るのです。
それはちょっと、いいえ、かなり贅沢な美術館博物館巡りなのです。
さて宮殿美術館博物館巡りの目玉は何かと問われれば、やはり第一はかの膨大な古代ローマ彫刻群です。
私たちはそこに古代ローマの美の典型を見る事が出来ます。
端正な上にも端正です。
その端正さに依ってかの膨大な帝国を支配したのでしょう。
そしてその端正さゆえにまた蛮人に滅ぼされてしまったのでしょう。
そんな事あんな事を考えながら彫刻群を見て回るのもまた楽しいものです。
第二の目玉は、ロマネスク、ルネサンス、バロックを始め、全ての時代に渡る綺羅星の如き作品群です。
私たちはそこで大天才たちの作品を目にする事が出来るのです。
宮殿の贅沢な内装や外装を楽しみながら、超一流の作品群を見る事が出来るのです。
ローマの宮殿の美術館博物館巡りは、かなりリッチな美術館博物館巡りなのです。
だから遺跡巡り、教会巡り、それから次に述べる広場巡りと共に、ローマ観光の四大目玉に数え上げられるのです。
さてそれでは最後の目玉である広場に入っていく事にしましょう。
何故広場か。
それは先程述べました。
そこには人がおり芸術があると。
私たちは広場においてローマの全てを感じ取る事が出来るのです。
広場こそローマなのです。
広場、そこには人がおり芸術がある。
一流の人が集い二流の人三流の人も集う。
ローマ人が集い外国人が集い日本人も集う
花売りが集い辻芸人が集う。
人が売り買いし人が飲み食いする
教会宮殿由緒ある建物がそれらを見守り、噴水の音に合わせて彫刻たちが躍る。
ローマの広場には狂騒は無く常に協奏曲が流れる。
これこそがローマの広場。
ローマの広場こそがローマ!
私たちは古代遺跡で宮殿で教会で、過去に置き忘れられた時を体験する事が出来ます。(最も信仰ある者にとっては、教会は最も新鮮な今を体験出来る場所ではあるのですが。)
しかし広場ではローマの今を体験出来るのです。
それも取って置きの楽しい今を。
喩えれば協奏曲の流れているような今を。
だから人は広場へ広場へと集まるのです。
広場、そこにはローマの全ての歴史が流れ込み、世界の全ての人が流れ込み、そしてこの世の全ての営為が流れ込むのです。
そしてそれらが混然となって一つの協奏曲を奏でるのです。
私たち日本人はデパートへレストランへコンサート会場へ遊園地公園へ美術館博物館へと出掛けますが、ローマの広場にはそれらが一緒くたになっているのです。
どんなにか楽しいか分りますよね。
そこに更にローマの歴史が流れ込み、世界の人々が集うのです。
そこに素晴しい協奏曲が流れない筈は無いですよね。
さてこれで古代ローマ遺跡、教会、宮殿、広場のローマ四大見所の概要を終わる事にして、これから愈々実際の観光ルートは入っていく事にしましょう。
実際皆さんがローマ観光に費やす事の出来る期間は平均すれば5日間だと思います。
私もポンペイ観光とアッピア街道観光を除けば5日間でした。
5日間あれば相当回る事が出来ますが、4日間と言う方も相当多いと思います。
そこで今回は4日間でローマを完全に征服するルートを設定したいと思います
なおこの為には健脚と事前学習が必要です。
さて初日です。
ローマを縦断するルートです。
先ずは地下鉄でフラミニオ駅に行って下さい。
ここからがローマ観光の始まりです。
地下鉄を降り立つとそこがフラミニオ広場です。
早速広場のお迎えです。
そこは城外の広場。
そこには屋台が並び売り買いする人の声が交錯します。
ここでは主に安物の衣服やアクセサリーが売られています。
若者や主婦たちが品定めをしています。
さあ目を上げて下さい。
早速城壁のお出迎えです。
結構高いでしょう。
これがぐるり31.4km回っている訳です。
右手を見て下さい。
三門の城門がありますね。
そこまで進んで下さい。
ポポロ門です。
まあ言えば北門当たります。
フラミニオ街道から来た北の人々はこの門からローマに入って行ったのです。
そして皆さんは今日の夕刻に南門、すなわちサン・セバスティアーナ門を出てアッピア街道を南へ帰って行く事になるのです。
ポポロ門からサン・セバスティアーノ門までの10kmの道程の始まりです。
それではポポロ門を潜って下さい。
ポポロ広場です。随分大きな広場ですね。
広場中央にある噴水とその中心に聳え立つオベリスクが随分印象的ですね。
しかし未だ広場中央へと進んではいけません。
左手を見て下さい。
サンタ・マリア・デル・ポポロ教会です。
どうぞ中に入って下さい。
しかし信仰の場である事をお忘れなく。
どうです。私の言ったとおりでしょう。
入り口を入ると中央から奥に礼拝堂と祭壇、これは日本のどこでも見られる教会の形式でしょうが、それと直角に幾つもの礼拝堂と祭壇があるでしょう。
たぶんここのそれは十を下回らないと思います。
それにしてもたくさんの祭壇彫刻祭壇画があること。
これらを全部写真に収めて編集すれば立派な画集が出来る程です。
さてここの祭壇画で見落として成らないのは、カラヴァッジョの「聖パウロの改宗」と「聖ピエトロの逆さ磔」です。
聖パウロの改宗は聖書を読んだ人はご存知ですよね。
あの場面を絵にしたものです。
不遜な言い方ですが、劇的な主題を取り扱った絵にしてはあまり訴えるものが無いような気がします。
もう一つの聖ピエトロの逆さ磔ですが、これは聖書にはなく、聖ピエトロがローマで逆さ磔になったと言う後世の逸話を主題にしたものですが、こちらは劇的な絵に仕上がっています。
たぶん皆さんも画集等で一度は目にした事があると思います。
どうぞ見落とす事の無いように。
これら素晴しい彫刻絵画群を一つ一つじっくりと鑑賞したいのでが、それほど時間もありませんので、足早に鑑賞してもらって、出口を出て、ポポロ広場中央のオベリスクのある噴水の所まで進んで下さい。
先ずはオベリスクを見上げて下さい。
紀元前1200年頃のエジプトのオベリスクだそうです。
それにしてもどうしてその天辺に十字架があるのでしょうね。
これも教会の街ゆえです。
さてそれではオベリスクの前に立って旧市街すなわち南面を望んで下さい。
全く同じ教会が二つ並んでいますね。
実際はかなり大きさが違うそうですが、瓜二つに見えますよね。
そして二つの教会を挟んで三つの通りが真直ぐに伸びているのが見えますよね。
それぞれの通りの突き当りを見て下さい。
先ずは真ん中の通り、今日はこの通りを進む訳ですが、その突き当りに白亜の大きな建物が見えますよね。
これがローマで一二の大きさを競う建物ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂です。
向かって左手の通りは、スペイン広場を経てクイリナーレ宮(大統領府)に突き当たります。
右手の通りは、アウグストウス帝廟の横を通ってマダーマ宮(上院)に突き当たります。
さてそれでは愈々真ん中の通り歩んで行く事になるのでしょうか。
いいえそうではありません。
左手を見て下さい。
小高い丘がありますね。
ピンチョの丘です。
丘と言ってもたぶん50mも無いと思います。
ローマ(旧市街)には七つの丘があります。
今回の旅でその七つの丘全部を征服します。
先ずはピンチョの丘を征服して下さい。
急ぎ足で5分、ゆっくり歩いても10分で行けますので頑張って下さい。
さてそれでは展望台テラスから南西を見て下さい。
シャニコロの丘が見えますか。
南を見て下さい。アヴァンティーノの丘、パラティーノの丘、チェリオの丘が見えますか。
南東を見て下さい。クイリナーレの丘、エスクイリーノの丘が見えますか。
これが七つの丘です。
これらを全部征服しますので、位置関係を良く覚えて置いて下さい。
それからランドマークも確認して置きましょう。
西を見て下さい。テヴェレ川の向こうに一際大きなサン・ピエトロ寺院が見えますね。同じく川向こうのその方向にサンタジェロ城も見えますね。テヴェレの川の流れも確認して置いて下さい
次に南を見て下さい。パンテオンの丸屋根、白亜の殿堂ヴィトリオ・エマヌエーレ2世記念堂それからローマの象徴コロッセオが見えますか。
その他に街のあちこちに大きな教会のクープラが見えますが、これはどれがどれかわかりませんのでランドマークにはなりませんね。
はっきり言ってローマにはランドマークが少ないのです。
何故か。それは現代建築技術による建物の更新が一切為されていないからです。
裏を返せば、ローマの建物は全て近代以前の建物だけだと言う事になるのです。そしてそこには中世近世の由緒ある建物も多いのです。勿論古代ローマの遺跡もあるのです。
ローマ旧市街の中で現代の建物と言えば、テルミニ駅くらいのものなのでしょう。
その様な観点からもう一度ローマ市街を見て下さい。
何やら歴史がゆらゆらと立ち昇っているのが見えはしませんか。
さてもう一度ポポロ広場のオベリスクの前に立ってください。
愛を求めて~愛の詩(うた)~ 2005/10/ 7 21:53
私は愛が何かは知りません。
しかし愛を知りたいのです。
私はここで愛を求め続けます。
私に愛が訪れるのでしょうか。
それは誰にも分かりません。
しかし求めなければ、愛もまた訪れないのではないのではないでしょ
うか。
「求めよ、さらば与えられん。」
私はここで愛を求め続けます。
愛の詩[愛とは][気高き愛とは][アガペー] 2005/10/ 8 23:40
【愛の詩「愛とは」】
愛とは何でしょう。
本当に難しい。
私は今日一日考えましたが、
答えは出ませんでした。
私は今日一日公園のベンチに座っていました。
私の前を様々な人が通り過ぎて行きました。
恋人もいれば、友達も夫婦も兄弟もいました。
彼らは皆愛し合っているように見えました。
私は思いました。愛する為には相手さえいれば良いと。
しかしそれは本当なのでしょうか。相手さえいれば愛は成就するのでし
ょうか。
それを愛と呼ぶのであれば愛は容易い。
私は敢えて愛を求める必要は無い。
しかし私の求めている愛はそんな愛ではない。
もっと気高い愛の筈だ。
【愛の詩「気高き愛とは」】
気高い愛とはどんな愛だ。
そこいらに転がっている愛ではない。抽出された愛、本質的な愛だ。
それはどんな愛だ。
分からない。分からないから、こうして探しているのだ。
整理しよう。貴方が求めている愛とはそこいらにある愛の中に存在するのか。
勿論存在する。しかしその個々の愛ではない。その個々の愛の中に存在する本質的なものだ。
それは何だ。
それは分からない。分からないから、こうして探しているのだ。
整理しよう。貴方の求めている愛とは、人類全てに共通する愛の事か。
その通りだ。
それはどんな愛だ。
それが分からない。分からないから、こうして探しているのだ。
私が貴方の為に整理してあげよう。
貴方の求めている愛はアガペーであると。
【愛の詩「アガペー」】
アガペーとは何だ。
人類に普遍的に存在する愛です。
しかし誰もがその愛を知っている訳ではないのです。
それに気付いた者だけが知り得る愛です。
それはどんな方法に依って知り得るのか。
神を知る事に依ってです。
何故ならアガペーとは神との相思相愛の中から生まれて来る愛だからです。
神を知る事無しには知り得ない愛なのです。
現代の人々は神を信じる事など出来ないのではないか。
私が言う神とは神道の神でもなければ、キリスト教の神でもありません。
人類に普遍的に存在する神の事です。
人類皆兄弟。であれば我々は皆神の子です。
貴方の言に誰か付いて来られるかな。
ええ、きっと。1人以上は。
愛の詩[エロスとアガペー][エロスの位格] 2005/10/ 9 12:20
【愛の詩「エロスとアガペー」】
アガペーとはどんな愛だ。
分かりません。私はそれを知る為にここに立っていると言えます。
私はエロスとアガペーが相半ばする愛を求めてここに立ちましたが、それが当分は望めないと分かりました。
私は当分の間はアガペー一直線で進みます。
アガペーを探す手掛かりはあるのか。
あります。新約聖書です。
イエス・キリストは神の愛が体現されたものだと言われています。
イエスの言動を追跡していけば、アガペーが浮かび上がって来ると思います。
どの様な方法でイエスの言動を追跡して行くと言うのか。
私はまた新約聖書を読み始めました。
今マルコ福音書の途中まで来ていますが、もう一度マルコ福音書を最初から読み始めます。
そしてマルコ福音書の中のイエスの神の愛の言動を残さず書き写し、それを分析していきます。それが私の追跡法です。
随分気の長い話だな。
ええ。でもそれは私を益すると思います。そしてもしそれに共鳴する人が出て来たら、私はエロス、アガペー相半ばする友を得た事になるのです。
【愛の詩「エロスの位格」】
エロスとは何だ。
それはこの世の愛です。
この世の愛は全てエロスです。
しかしそこにアガペーが入り込む事に依って、エロスに位格が生まれて来るのです。
どの様な位格があるのか。
動物的な愛から無償の愛までです。
しかし無償の愛はエロスとは言いません。それを呼ぶならアガペーです。そしてそれは人間界では有り得ない事のです。
何故なら人間は肉体を持っているからです。肉体を持っている限り、人間は肉体からの欲求エロスから離れる事が出来ないからです。
貴方の理想とする愛の位格はどの様なものか。
最小限のエロスと最大限のアガペーです。
それは若者には難しい事です。何故なら「生めよ増やせよ地に満てよ
若者には神の子を産む権利と義務があるからです。
しかしその時代を過ぎた者にはそれを目標とすべきです。
随分厳しい目標だな。そんな事をすればこの世は干からびてしまうのではないか。
ええ。あくまでも理想です。そして精神世界にしか存在しないのかも知れません。しかしそれを求める事に最大限の快楽がある事も事実です。
愛の詩[イエスの愛の始め][サタンとエロス] 2005/10/11 23:16
【愛の詩「イエスの愛の始まり」】
さてこの前約束して置いた様に、今日から新約聖書マルコ福音書に依り、イエスの愛の言動を具に見て行く。
アガペーに辿り着く事が出来るのか、それは神のみぞ知るである。
しかし私は誠心誠意その作業に従事する。
私の辿り着いたその地点、それが今の所の私のアガペーの到達点だ。
さてマルコ福音書の最初のイエスの愛の言動は何か。
私は迷った。
「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」にすべきか『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』にすべきかを。
私は後者を選んだ。
『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』
ここからイエスの愛の言動が始まった。
ガリラヤを出て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた。これはあくまで準備だ。
『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』ここからイエスの愛の言動が始まった。
『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』
この神との相思相愛の中から、イエスの神の子として愛の言動が始まったのである。
【愛の詩「サタンとエロス」】
「天が裂けて霊が鳩のように御自分降って来るのを御覧になった」
貴方たちはそんな経験をした事はあるまい。
しかし貴方たちは経験した事がある筈だ。霊が舞い降りて来るのを。
その時貴方たちは霊感の詩人となり、詩を作り歌を作った筈だ。
イエスは霊を目の当たりに見てそして詩(うた)った。
『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と
そしてそれに神が呼応した。
この神との相思相愛の中からイエス・キリストが生まれたのである。
イエスとイエス・キリストは違う。
イエスは人の子。エロスの影響を受ける。
イエス・キリストは神の子。その愛はアガペー。
イエスはアガペーとエロスの選択を迫られた。
「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」
サタンこそエロス。この世の肉の欲。
愛の詩[老人と若者][愛の漁(すなどり)網] 2005/10/11 23:22
【愛の詩「老人と若者」】
『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』
福音とは何か。
それはアガペー。しかし私達には聞こえない。
だからイエスのアガペーを信じなさいと。
イエスのアガペーとは何か。
それこそが新約聖書。
その原典中の原典がマルコ福音書。
私は今その原典中の原典に依ってイエスのアガペーを解読中。
時は満ち、神の国は近づいた。
若者よ、安心なさい。
貴方には時は未だ到っていない。
そして神の国も程遠い。
時は満ち、神の国は近づいた。
老人よ、それは貴方の為の言葉だ。
しかし貴方は悔い改めず、福音を信じない。
これがこの世の人の末路だ。
若者よ、もし貴方が求めるなら、神の国は貴方の近くにある。
しかしそれは難渋の道だ。エロスを捨ててアガペーに奉仕せねばならぬ。それが貴方に出来るか。
【愛の詩「愛の漁(すなどり)網」】
『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。』
貴方は漁をした事があるか。
網一杯にかかった魚の群れを見た事があるか。
その興奮を貴方に差し上げよう。
先ずは私の言葉に従いなさい。
そして次には私の行動に従いなさい。
これが人をとる網である。
私の網は柔らかく暖かい。
さあ、町に出でよ、村に出でよ。
人を見たら射かけよ。
群集を見たら射かけよ。
それが貴方の漁(すなどり)の報酬だ
私の網は柔らかく暖かい。
そして貴方の網も柔らかく暖かい。
愛の詩[サイレントラブ][聖霊の点灯] 2005/10/13 23:30
【愛の詩「サイレントラブ】
「イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた」
何故イエスの教えが熱情を持って受け入れられたか。
TPOを弁えていたから。
時は安息日。場所は会堂。そして教えは神の教え。どうして熱情を持って受け入れられない事があろうか。
貴方は安息日の事を知っているか。それは神を求める日。
貴方は会堂の事を知っているか。それは神を求める場所。
貴方はユダヤ人の事を知っているか。それは神を求める民族。
そこに神の教えが届いた。どうして熱狂せずにいられよう。
さて我が日本人よ。貴方はかつて一度でも神を求めた事があるか。
貴方には神を求める場所があるか。
貴方の心の中には辛子粒一粒ほどの神の概念があるか。
あるまい。どうして日本人にイエスの愛の詩(うた)が聞こえよう
しかし私は知っている。この日本にあってもアガペーを切に求めている人々がいる事を。
私はその人たちと連帯がとりたくてこうして語っているのだ。それも取って置きの沈黙の中で。
【愛の詩「聖霊の点灯」】
『黙れ、この人から出て行け。』
イエスからこう言われたら何と幸いな事か。
私の中の悪霊たちが皆して出て行く。何と幸いな事か。
私の心は晴れ晴れ。天にも昇る気持ち。
しかしまた私は知っている。
七つの悪霊たちがまた戻って来るのを。
悪霊たちを根絶やしにする為には聖霊が必要な事を。
だから私は願う。早く聖霊の火を灯して下さいと。
悪霊は知っていた。イエスが聖霊、神の子である事を。
彼らは言った。私に近づかないで呉れと。
貴方たちも知っている筈だ。貴方中に聖霊と悪霊がいる事を。
だからこう願いなさい。早く聖霊の火を灯して下さいと。
『黙れ、この人から出て行け。』
そう言われたら次にはこう願いなさい。早く聖霊の火を灯して下さいと。
愛の詩[イエスのエロス][愛の奇跡] 2005/10/13 23:34
【愛の詩「イエスのエロス」】
「イエスがそばに行き、手を取って起こされると熱は去り、彼女は一同をもてなした。」
これがイエスの愛です。
エロスに満ち満ちながらもすばやくアガペーへと昇華して行く。
これがイエスの愛の真骨頂なのです。
イエスは33歳。男盛り。日本で言えば福山雅治を百倍も良くしたいい男。
そんな男がそばに近づき、手を取り体を起こす。
世の女性は熱など一遍に吹き飛んでしまうのです。
しかしここからが不思議なのですが、それがすばやくアガペーへと昇華して行くのです。
イエスの愛はエロスに満ちていますが、それがすばやくアガペーへと昇華していくのです。
それは見事と言う他ありません。
世の女性に限らず、世の男性もエロスの門を潜らなければ、アガペーへと昇り詰める事は出来ないのです。
だから世の男性女性諸君、手を取り合い見詰め合おうではないか。しかしエロスに落ちない様に。
イエスの愛。
それは1パーセントのエロスと99パーセントのアガペー。
【愛の詩「愛の奇跡」】
「イエスはいろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出した。」
イエスはどの様にして病気を癒し、どの様にして悪霊を追い出したか。
どの様にして病気を癒したかと言えば、それは手当て(又は手術)。どの様にして悪霊を追い出したかと言えば、それは対話。
手当てに依り病気を癒し、対話に依って悪霊を追い出だしたのである。
目の見えない者には目に手を当て、
耳の聞こえない者には耳に手を当て、
口の利けない者には舌に手を当てて癒したのである。
人は頭の先から足の先まで患う。イエスはそれぞれに手を当てて癒したのである。
さて悪霊は如何にして追い出したか。それは対話。
『黙れ、この人から出て行け。』この一喝で悪霊が出て行ったのか。それは違う
これは最終局面である。それまでの対話の最終局面なのである。
その時悪霊は恐れ入りましたと言って、その人から出て行ったのである。
手当てと対話。共にエロス。このエロスの門からアガペーに至りそして愛の奇跡が起きたのである。
病気とは何か。悪霊とは何か。奇跡とは何か。それは人それぞれに考えればいい。
はじめまして。私は風来坊、風の旅人です 2005/10/14 22:34
はじめまして。
私は風来坊、風の旅人です。
私は今日ここで生まれました。
私はここからこの広い世界に旅立ちます。
それでは御機嫌よう。
なお私と会いたかったら返信下さいね。
直ぐに飛んで来ますから。
それでは御機嫌よう。
また会える日まで。
これは メッセージ 12 lotte_no_i2005 に対する返信です
あなたと出会えてよかった 2005/10/14 23:09
はじめまして。
私は風来坊、風の旅人です。
私は先程ある所で生まれました。
そしてこの広い世界に旅に出たのです。
そしてここがその最初の訪問地です。
そう言う訳ですのでどうぞよろしく。
なお不躾だと叱らないで下さいね。
私は風来坊、風任せなのですから。
「貴方と出会えて良かった」
そんな日が来たらどんなに嬉しい事でしょう。
しかしそれは風任せ。もうお別れを言わねばなりません。
それでは御機嫌よう。
なお私と会いたかったら返信下さいね。
空の彼方から飛んで来ますので。
風来坊より
これは メッセージ 1 nanairo_nijiko_san に対する返信です
Boa sorte! 2005/10/14 23:42
Boa sorte!
良い一日でありますように。
Boa sorte!
意味は分からないけど素敵な言葉ですね。
はじめまして。私は風来坊、風の旅人です。
先程ある所で生まれて、そしてこの広い世界に旅に出たのです。
ここが三番目の訪問地です。どうぞよろしく。
それにしても世界は素敵ですね。私は浮き浮きしています。
詩神ミューズの言葉、素敵ですね。
光の中へ。
私も一緒に旅したい気分です。
Boa sorte!
私は風来坊、風任せ。もうお暇をせねばなりません。
風が吹いたらまたやってきます。その日まで御機嫌よう。
これは メッセージ 225 myuse_kz に対する返信です
目がさめたら 2005/10/15 6:07
おはよう~^^
目がさめたらすごそこに
あなたが居てくれた。
目がさめたら夢のなかに
あなたが現れた。
目がさめたら微笑む
ふたりが居た。
目がさめて・・・
涙が頬をつたう。
なみだを拭い
また一歩すすみます。
暖かい手を離さないように・・
強くシッカリと握っているから。
これは メッセージ 13 huuraiboukazenotabibito に対する返信です
母なる港へ 2005/10/15 10:47
すみません。武骨者で。
勝手に貴方の所で生まれてしまって。
時と場所は選べなかったのです。
しかし私は感謝しています。こんな素晴らしい心の中に生まれた事を。
私は風来坊、風の旅人です。
旅から旅への根無し稼業。昨日までは。
しかし私は今日母なる港を見つけました。
それがここ、昨日私が生まれたこの場所です。
貴方は言うのでしょうか。とんでもないと。
いいえ。貴方はただ微笑んで頷くだけ。
その微笑こそが我が母港。
私はまたその港から世界へと旅立ちます。
私は風来坊、風任せ。
風が呼んだらまた帰って来ます。この母なる港へ。
これは メッセージ 14 lotte_no_i2005 に対する返信です
こんなにも素敵な出会い 2005/10/15 11:29
人の心って何て暖かいのでしょう。
私は涙が出そうです。
昨日旅に出たばかりなのにこんなにも優しい持て成しを受けて。
私の旅は前途多難です。
前途多難?。
そう。こんなにも優しい持て成しを受けてばかりではお返しが出来ないと。そんな気持ちで前途多難です。
しかし朱に交われば赤くなる。
私も高いグレードの愛に交わって高くなろうっと。
先ほどもあんな素敵な出会い
そしてここでもこんな素敵な出会い
私の素敵な出会いは何処まで続くのでしょう。
「貴方に出会えて良かった」そんな言葉が私をうち震わせます。
さあ、私は旅人。勇気を持って素敵な出会いに旅立とう。
風の便りを待っています。
これは メッセージ 10 nanairo_nijiko_san に対する返信です
感謝感激雨霰 2005/10/16 11:29
本当に素敵な出会いってあるのですね。
私は昨日はどしゃ降り。私はもう旅を諦めようかと思っていました。
そんな時、ぱっと開いた花柄の雨傘。
私はまた旅をする勇気が湧いてきました。
素敵な心。本当にあるのですね。
とても失礼に事とは分かっているのですが、私はある人の面影を貴方に重ね合わせているのです。
純真で、優しくて、人を大切に思う心、そんな心に達するにはある域に達した人でしか出来ないのではと。
私のかつて知った人もそんな人でした。
本当に本当に失礼しました。
私は勇んで旅で出ましたが、足を挫いてしまいました。
今しばらくここで休ませて下さい。
勿論長居するつもりはありません。足の傷が癒えたらまた旅に出ます。
今日は本当に有難うございました。
貴方の優しい心に、感謝感激雨あられです。
感情過多の風来坊より
これは メッセージ 15 nanairo_nijiko_san に対する返信です
人の心の何かを求めて 2005/10/16 12:26
deaikinennbiさんへ
はじめまして、私は風来坊、風の旅人です。
とは名だけで、一昨日旅に出ただけの新米旅人で、それも昨日出鼻を挫かれて、今日はこうしてここにお世話になったいる実にだらしない旅人です。
今日七色虹子さんがあの花柄の雨傘を差し出して呉れなければ、私の旅はきっと二日で終わっていたと思います。
それにしてもdeaikinennbiさんと七色虹子さんの詩の遣り取りは素敵ですね。
心の深い所で繋がっている、そんな信頼感さえ感じます。
私にはとても真似が出来ません。と言うより私には抒情詩は書けないのです。
私はこの様な散文しか書けませんが、それでも良ければお付き合い下さい。
私のこの旅行の目的は、全ての人に共通する何かを求める事です。
それが何かは分かりません。
先ほど七色虹子さんが示して呉れた思いやり優しさの中に存在するのか、それは分かりません。でもそれは同性間、異性間を通じて存在しなければならないものです。
そんな何か探しにお付き合い出来るのであれば、どうかお付き合い願います。
なお私は平気で人の心に土足で踏み込んで行くようです。その為、昨日私はある人々から嫌われてしまいました。
そんな私で良ければどうかお付き合い下さる様お願いします。
感情過多の風来坊より
これは メッセージ 9 deaikinennbi に対する返信です
ずっとずっと‥ 2005/10/19 18:19
deaikinennbiさんと旅人さんの
とてもすばらしいメッセージを読んで感動しました
うまく言えないけど‥
お二人に出会えて
ホントに良かったと
思ってます
ここに長くいてくださいね
虹子
これは メッセージ 20 deaikinennbi に対する返信です
「言霊の幸う国、日本」に向けて 2005/10/22 11:02
旅情と抒情
こんな素敵な旅はありません。
私は思い出します。
ずっとずっと昔の私が物心ついた頃の事を。
いえ、それは私の心の中にしか存在しない理想郷なのかも知れません。
そんな理想郷の中に私は居るのでしょう。
何と幸せに満ちた事でしょう。
永遠の理想のマドンナ。
それが貴方です。
何故なら私は貴方と居る時はこんなに自由になれるのですから。
そんな世界がこれまでにあったのでしょうか。
それにしても貴方は私の日本の旅情です。
貴方と居ると古き良き日本を思い出します。
いいえそれは私の幼い頃の思い出なのかも知れません。
頭に止まったトンボのくるくる目玉、
貴方が指し示して呉れた秋の星座、
そして雨の日に差し出された花柄の雨傘、
全て私に存在して欲しかった理想郷です。
その理想郷が今ここにあるのです。
それを幸せといって、何を恥じる事があるのでしょう。
幸せとは何か。
それは十人十色。
私は次の様に定義します。
自分自身に成れる事。
私は今貴方の中でこの様に自由になれているのです。
そしてそれを貴方と共有出来る。(と思い込んでいる。)
「二人か三人が求める所に私もいる。」
そんな理想郷に私は今近づいていると思い込んでいるのです。
それにしても私は貴方といると自由に成れるのです。
それは貴方が聖母マリアであるからにほかありません。
貴方の中では全てが許されるのです。悪戯や悪さも
ああ、私に悪戯や悪さが出来たらもっと自由にこの世を渡れたのに
私はこの様にくそ真面目です。
だからくさいと言われるのです。
しかし貴方はくさいこの私の全てをも受け入れて呉れるのです。
だから言うのです。
貴方は聖マドンナだと。
少し子供返りをしたようです。
やはり私はここに立って貴方とお付き合いをしなければならないと思います。
どうか貴方と一緒に旅する事をお許し下さい。
貴方の指し示すそれ、それは美しき日本です。
私は詩心も歌心もありません。
しかし貴方のうたうそのうたに
首を振ったりハミングをしたりして
きっと調和させる事が出来ると思うのです。
だから私の為にこの美しき日本をうたって下さい。
美しき日本の再発見。
それが私と貴方の旅路です。
きっとその先には
「言霊の幸(さきは)う国、日本」がある筈です。
「言霊の幸う国、日本」に向けてどうか道案内をお願いします。 甘えん坊の風来坊より
虹子さんへ
これは メッセージ 21 nanairo_nijiko_san に対する返信です
新しき愛 その先へ 2005/10/19 22:45
ロッテの愛さん ただ今。
ただ今帰って来ました。
私はここ数日夢現に旅をしていました。
そして昨日喜望峰を回った時、貴方の港を見付けたのです。
そして港に近づくにつれて私の目から涙が溢れて来たのです。
ああここに私のふるさとがあったと。
人は旅に出て故郷の良さが分かるものです。
母親の口うるさい言葉も旅に出るとその暖かさ思いやりが分かって来るものです。
私も旅に出て貴方の餞の言葉を思い出す度にその気持ちが強くなって来ました。
そして昨日偶然にも貴方の港を見出したのです。
私は昨日は夜半まで全力で櫓を漕ぎ続けましたが辿り着けませんでした。
お陰で私はこの様に睡眠不足です。
しかし今日はこうして私は貴方の港を目の前にする事が出来ました。
後はただ貴方の「許す」と言う言葉を待つだけです。
何を許すかと問われれば、私の猜疑心をです。
私は貴方の港を出て行く時、何かしら体よく追い払われた様に気になったのです。
それは偏に私の猜疑心、心の狭さに因るのです。
しかし昨日偶然にも貴方の港を見出し、そして近づくにつれそれらは全て寛解し、そして涙へと変わって行ったのです。
貴方の許すと言うその一言で私は上陸出来ます。
しかし許さないで下さい。
私はまた貴方のその美しい花園を土足で踏み躙る事になるから。
しかし貴方のその美しい花園でまた憩いたい。ああ!愛の無常よ。
愛、それは無常です。
恒常の愛があったらどんなに良い事でしょう。
私はその中に一生漂っていたい。
しかし愛は無常です。だから私たちは愛の旅へと出るのです。
私は風来坊、風の旅人と名乗りましたが、
私の旅の目的はこの無常の世界にあって、恒常なる愛を求める事です。
そんな事は貴方には無理ですと言われればそれまでです。
しかし求めなければ与えられないのもこれまた厳然とした事実です。
「求めよ、さらば与えられん」
私はこの言葉を信じて恒常なる愛を求めます。
もしロッテの愛さんが少しでもこの気持ちに賛同して呉れるなら言って下さい。
「上陸を許す」と。
そして二人でこの新しき愛の可能性にチャレンジしてみましよう。
私たちが到達した愛
それがこの世の最高の愛の到達点
そんな所に行けるまで、
二人で手を取り合って新しき愛の可能性にチャレンジしてみようではありませんか。
私は昨日喜望峰を回ったのです。
これは メッセージ 16 lotte_no_i2005 に対する返信です
re:愛しき愛 その先へ 2005/10/20 21:26
来坊風の旅人 さん
おかえりなさい。。
・
・
・
睡眠も惜しんみつつも航海を終えられたのですね。。。
さぞかしお疲れになったことでしょう・・
まぁ 熱~~いコーヒーでもどうぞ。。召し上がれ♪
あなたが 旅立つときに
>私は貴方の港を出て行く時、何かしら体よく追い払われた様に気になったのです。
と 思われたようですが、全くそんなことはなくてゆっくりと送り出せる状況じゃなかった・・それだけのことでした。
勘違いをさせてしまったことお詫びしますね
そんな重荷を背負いながら旅をさせてしまって・・それでも無事に帰還できたこと大変嬉しく思っていますよ。
「上陸」したいんですよね
上陸する前に航海途中できっと潮風にあたり過ぎてあちらこちら痛んでませんか?
塩気があると錆付きが早いので綺麗に上陸できるよう錆び落としのお洗濯いたしましょうね
船酔いもまだ残っていたりするものですから、よく体調を整えておきましょうね
もう陸を前にそんなことは準備万端整えている、とおっしゃるかしら~^^
上陸用のタラップはこちらですよ~。
歩きながらお話させてもらいますが・・・
猜疑心は急にon off という具合に変えられるものではないと思いますから
徐々に信頼関係を創りながら猜疑なる心をフェードアウトしていければいいのでは?
それもまたゆとりを持ちつつ愉しみつつ織り込んでいけたらいいのでは?
何事も目的を得たなら強い気持ちで望む心が大事なことだと思うから
風来坊風の旅人さんならその苦しい航海を経験なさって来たかただから大丈夫
だと思って安心していますよ~
もう少し行くとあのときの花壇がありますから一緒に見て行きましょうよ
ほら。ここに・・・
お花はあの時のままですが、なにぶん男手がなかったので 手入れが行き届かずに・・肥料を運んでくれる人が居なかったんですね・・
少し寂しげに咲いていますが確かにあの花でしょう~
これから大輪の花に変わるであろうこの花も楽しみなんですよ
あなたの残して行った足跡もクッキリと残っていますよ。。。
航海途中で摩り替わらないように・・此処にあなたの足当ててみてね^^
まるでシンデレラの靴みたいだけど。。。
靴の足跡もあの時のままだし
これからゆっくり航海の疲れをとりましょうね
そして旅で経験したことなんかもお話聞きたいなぁ~
留守中の報告もありますし・・・
そうよね
あなたとの無常じゃない恒常の愛 送り出したときから 心のなかで ずーっと思っていました
かならず戻ってきたならば・・・今度は きっと二人でと・・・
何時戻ってくるかも分からない人のことを ずーーっと・・消え入りそうになったことも
あったけれども・・かならず戻って来てくれるとお祈りして念じて待っていました
時に涙してまたあなたの残した足跡を眺めて心を強く持って 此処に戻って来てくれると自分自身に言い聞かせながら・・
改めて
お か え り な さ い 。
ど う ぞ
こ ち ら の 部 屋 へ
お 上 が り 下 さ い 。
ロッテの愛 .
これは メッセージ 28 huuraiboukazenotabibito に対する返信です
愛しき愛のその先へ 2005/10/21 23:44
ロッテの愛さん
僕は宙に舞い上がりそうです。
いいえ、もう舞い上がってしまいました。
そして今ゆっくりゆっくり降りて来るところです。
貴方の美しい花園の
その中の一番可憐な花に目を遣りながら。
僕は上陸を許されたのですね。
只今帰って来ました。
それにしても私は何と言う幸せ者なのでしょう。
幸せ過ぎて怖い位です。
私にはこの気持ちが今良く分かります。
これ以上の幸せはない。
後は落ちて行くだけだ。
そんな気持ちが肝胆を寒からしめるのです。
しかし私は一昨日誓いました。
真実の愛へ向かうと。
その愛の対象があるのにどうして逃げられましょう。
どうも冒頭失礼しました。
僕などと言う言葉を使って。
やはり私は私でなければならないのです。
私が私である限り
私は衒いも無く真実の愛へと向かって行けます。
しかしその私が僕と成った時
その私は乱高下して地に落ちてしまいます。
私は私
その私が貴方の中の真実の愛へと向かうのです
私はその愛をもう掴んだのでしょか。
いいえ、それはうたかた
直ぐに消えてしまいます。
消えては浮かび、浮かんでは消えていく
そんな泡沫の愛はもうしたくはありません。
その中へ
それが私の愛の旅路です。
私はそんな愛の旅路をロッテの愛さんに見出したのです。
ロッテの愛さんの美しい言葉を一つ一つ拾い上げて行く毎に
私はその中へと近付いて行く事が出来るのです。
「二人か三人が求める所に私もいる。」
そんな私たちの私を求める為に
私はロッテの愛さんの心を旅しているのです。
光の中へ
喩えです。
ロッテの愛さんのその中へ辿り着いた時
私たち二人はきっと一つに成るのでしょう。
きっとそれは遠い事では無いと思います。
何故ならロッテの愛さんの言葉がこんなにもきらきら輝いているのですから。
愛しき愛のその先へ
それが私の愛の旅路です。
これは メッセージ 31 lotte_no_i2005 に対する返信です
re:愛しき愛 その先へ 2005/10/24 20:20
風来坊風の旅人 さんへ
最初にお詫びさせてくださいね
先日訪ねていらっしゃったのに・・・
玄関さきで大変失礼なことをさせてしまい
心苦しく思っています。
玄関の鍵に手をかけたときに風邪薬のためか意識を失い
その場で倒れてしまい気がついたときには
あなたの影が残っているだけでした・・
大変な無礼をお許しください。
遠くなった影に呼びかけてみましたが・・
もうすでに声も届かないところに行かれてたようで・・
あれからわたしも深く反省しましたし風邪も
もう少ししたら治りそうですから、
その時には思いっきり昔話に今後のことに楽しい
おしゃべりいたしましょうね。
テーブルにはお庭の花壇に咲いていたあの花も飾って
おきますね。
あなたに会いたい会いたいとお花も首を長くして
まっていますよ~。
回答もどうぞ!というふうにでましたから。
あなたのほうこそ大変な旅をされてきて
わたし以上にお疲れのことと思いますが充分に
休養をとられて下さいね。
今日の大きな青~いお空をあなたも見つめているんだろうなぁと
感じながら昼下がりに散歩をしていましたよ~
きっとあの青空の下に私たちも穏やかな空気に包まれて
優しい気持ちで歩いているんだろうなぁと思いながら。。。
次に出かける旅はあなたとわたしが目指す旅だから
充分にお休みをとったならお荷物やら支度やら計画はちゃんとして
からでかけましょうね。
悪天候にも備えなきゃいけないしね
いつでもあなたの席の椅子は綺麗にしてありますし
温かくなっていますからね
旅立つまえと同じままそのままにしてありますからね
遠慮なさらずにお座りくださいね。
玄関の鍵はかけなくてもいいわよね
そのままお入りにくださいな
あなたの椅子はこちらです。
どうぞ~
arigatou
これは メッセージ 33 huuraiboukazenotabibito に対する返信です
愛の戦い 2005/10/25 0:12
ロッテの愛さんへ
本当に私と一緒に旅をして呉れるのですか。
私は一瞬戸惑ってしまいました。
私は風来坊、風の旅人、勝手気儘な旅行人。
そんな私が人と手を取り合って旅などが出来るのかと。
私は心配にさえ成って来ました。
しかし今私は得心し安心しています。
何故なら私の旅先は貴方、貴方の心なのですから。
私が旅に出る毎に貴方が呼応します。
そして私は思います。
What A Wnderfull World
何と素晴らしき世界よと
さて私は何処から貴方の心に旅しましょう
この大きな貴方の青空からでしょうか
私は両の手でメガフォンを作って大声で叫びました。
ロッテの愛さ~~~んと。
その声は大空の彼方のその彼方まで飛んで行って消えました。
そしてその先に貴方の笑顔が咲いたのです。
「さあ!これからよ」と
What A Wnderfull World 何と言う素晴らしい世界でしょう。
しかし私は思います。
私たちの旅はもっと地に付いた旅であるべきだと。
貴方が言った様に計画を立てて、その目的地に辿り着ける様に。
さて私たちの目的地は何処でしょう。
私の目的地ははっきりしています。
貴方の心の中のその光輝く場所です。
そこに辿り着いた時私はこれまで感じた事も無い様な喜悦を感じる事でしょう。
それは一瞬かも知れませんが、永遠と思える様な喜悦を。
私の旅の報酬はただそれだけです。
その報酬を得た後私がどうなるか分かりません。
大きく変わるのか、それとも今のままか。
しかしそんな事はどうでもいいのです。
可能性へのチャレンジ、それが私の旅の目的です。
そしてその可能性とは真実の愛
もし私がその愛に辿り着いたら
きっとその時私は消えて無くなるでしょう。
そして貴方の真実の愛の属性を付けた私が生まれる事でしょう。
もしこの旅の究極の目的を問われれば、それは新生です。
貴方の真実の愛で焼き尽くされそして新たに生まれる事です。
人の心には真実の愛の炎があります。
しかしそれは固い石や鉄によって覆われ
私たちはそれを目にする事は出来ません。
僅かにその固い石や鉄に暖かさを感じるだけです。
しかし幸いかな
ここに真実の愛の炎が見え隠れする心があるのです。
勿論私は知っています。
ここには見えないバリケードがたくさんある事を。
しかし私は勇気を持ってその心に立ち向かうのです。
そしてその真実の愛の炎の前に立った時
南無三と言いつつ
私はその愛の炎の中に飛び込むのです。
その時私の愛は昇華するのです。
それが私の旅の目的です。
ところでロッテの愛さんの旅の目的は何でしょう。
先ほど私たちは手を取り合ってと言いましたが、
手を取り合っては長い旅は出来ないのです。
何故なら私たちが二人だからです。
二人であれば付いたり離れたり
どうしてもうたかたにならざるを得ないのです。
私たちが一つになる為には、
私が貴方の炎の中で燃え尽きるか
貴方が私の炎の中で燃え尽きるか
どちらか一つしかないのです。
愛とは戦いです。
様々な障害を打ち破って、その真実の愛に飛び込む事なのです。
私は貴方の心に向かって
そして貴方は私の心に向かって
しかしこの勝敗は目に見えています。
私が貴方の愛の中に飛び込むのです。
何故なら貴方の愛はこれ程までに赤々と燃えているのに
私の愛は何十もの石と鉄に囲まれているのですから
しかしここに愛の戦いの神秘があります。
愛の炎の中に先に飛び込んだ者には昇華または新生と言う報償が与えられます。
そして先に飛び込まれた者には、更に愛が加えて与えられると言う報償があるのです。
その愛が更に赤赤を燃え上がる事になるのです。
愛には決して敗者生まれないのです。
だから勇気を持ってこの愛を戦い抜こうではありませんか。
私には昇華と言う愛の報償を
そして貴方には更なる大いなる愛を
この何十にも石と鉄で囲まれた私が
貴方の愛の炎で燃え上がるのを見てください。
それもまた喜悦です。
これは メッセージ 35 lotte_no_i2005 に対する返信です
Re: 愛の戦い 2005/10/25 21:44
風来坊風の旅人 さんへ
あなたのその深~~い心のなかに招待して頂き至極嬉しく思って居ます。
あなたはいつも謙遜していらっしゃるけどもこちらこそ・・と、云う思い
もありますよ、でもあなたとなら・・わたしは不安など無いと感じたから
上陸も喜んで受けました。
分かっていただけますよね~。
>さて私は何処から貴方の心に旅しましょう
何処からでもいいですよ~あなたが居てくれれば
折角上陸したのですから、可愛く咲いてるお花を眺めてからでも
いいのではないかしら
もちろんあなたが言うように地についた旅じゃないとね。。
>ところでロッテの愛さんの旅の目的は何でしょう。
わたしの旅の目的は・・もちろん二人でなのですが、貴方が言われている
その意味も分かります。
二人でもひとつになって進むことの意義意味を
元々似た者どうしですから同じ色の同じ匂いのする私たちですから
理解するのにそれ程時間はかからないと思いますよ。
そうでしょ~ソレはあなたも感じているはずだから
そしてそのもっと先にある目的地のことも考えながら今います。
ここまで生きてきたワタシの人生で培ったこと、まだまだかもしれないけれど
これでいいのよ!というもう一人の自分が居ることも事実です。
そして神までも味方につけてしまったワタシですから、柔なことに動揺
するほど弱くはないはず
ワタシの人生1回きりだもの自分の心に素直に生きていくだけ・・他人任せじゃない
自分色の人生を編み出していきたいだけ。。
そしてその横にはあなたが居てそしてひとつになって燃え尽きるまで・・・
あなたがワタシの炎の中で燃え尽きるか
ワタシがあなたの炎の中で燃え尽きるか
あなたのその炎とワタシのこの炎でともに燃え尽きたい・・
おんなで生まれたからおんなのままで燃え尽きてみたい・・
おとこだからおとこのままで燃え尽きてもいいよね・・
あなたとならば
勇気をもって愛の戦いに挑むことができそうです。
あなたとだから
真実の愛を戦い抜きたいの
愛の兵士 ロッテの愛
これは メッセージ 36 huuraiboukazenotabibito に対する返信です
光さすその方向へ 2005/10/26 23:28
ロッテの愛さん
私たちは本当に愛の旅路に旅立ったのですね。
もうここまで来たら引き返す訳には行きません。
とことんその先の先まで探求し続けます。
だって貴方の顔がこんなにも光輝いているのですから。
その光さす方向に目を遣り続けていたら
きっと私たちの探しているソレは見付かる事でしょう。
もし万が一私の顔にも光がさしたら
決して見逃さず、その光の方向に目を遣って下さい。
私たち四つの目玉がそれに集中した時
きっとそれは私たちの目の前に姿を現す事でしょう。
「恐れ入りました」と
そんな夢の中へ向けて、今私は旅に立ったのです。
「二人か三人が求める所には私もいる」
そんな私たちの私を求めて、私は旅立ったのです。
ロッテの愛さんはこの意味を理解して頂けますよね。
そこで私からロッテの愛さんに提案があるのです。
それは「エロスからアガペーへ」です。
エロスとアガペー
それは色々に定義出来ます。
私は次の様に定義します。
エロスからアガペーへ
それはこの世の愛からかの世の愛へ。
エロスとは肉体的な愛。アガペーとは精神的な愛。
私たちはまずエロスによって引き合わされました。
私は貴方の儚げなそしてその可憐な姿に引かれてここまで来たのです。
しかしもう私たちは抱擁してしまったのです。
最もそれは完全なる結婚としての抱擁ではなく。
友愛のしるしとしての抱擁です。
もうここまで来れば、私たちにはエロスは必要なくなるのです。
後はエロスの衣を一つ一つ脱ぎ捨てて
アガペーに染まる事にしましよう。
そうすれば私たちにもきっと羽が生えて来るでしょう。
そうすればそれとも呼ばれるそこにも辿り着く事が出来るのでしょう。
こんなにも重い肉体を背負たままでは
とてもそこに到達出来そうもありません。
もし万が一私たちが二人が一緒にそこに辿り着く事が出来たら
そこには何が用意されているのでしょうか。
私たち二人の為の臥所でしょうか。
私たちはそこでこの世の結婚にも喩えられる精神の結婚を行うのでしょうか。
もしそうであれば私たち二人は恍惚と成って一つと成る事でしょう。
しかし私はこの様にも想像しています。
先ず貴方がそこに辿り着く。
そして私たちの私と結婚する。
次に私がそこに辿り着く。
そして私が私たちの私と結婚する。
その時、私と貴方と私たちの私が一つに成る。
全て想像の産物です。
想像が世界を創造する。
この意味をロッテの愛さんは理解して呉れますよね。
そしてその創造された世界が
私たちの理想とする世界であったらどんなに素敵か。
勿論それも理解して呉れますよね。
私たち二人は今そんな理想の世界を創ろうとして、
二人手を取り合っているのですよね。
その為には歩調を合わさなければいけませんよね。
私一人が先走りをしてもそれは何も生み出さないですよね。
そこで私たちの目標を一つ定めましょう。
それは貴方を光輝かせているその光です。
私は盲です。
その光を見る事は出来ません。
しかし貴方のその光り輝くその姿を見て、その光の方向に目を遣ると、
その光らしきものを感じる事が出来ます。
私はその方向から目を反らさない様にします。
だから貴方も貴方のその光を見続けて下さい。
そうすれば私たちはどんなに離れていても
歩調は乱れる事は無いでしょう。
光さすその方向へ
これは メッセージ 37 lotte_no_i2005 に対する返信です
Re: 光さすその方向へ 2005/10/27 21:25
風来坊風の旅人 さんへ
私たちの旅はもう始まってしまいましたね。。
後戻りの出来ない前だけを見詰て歩いていくのよね。
あなたとの旅は私にとって今までに経験したことのないような
場面に遭遇したとしても、きっと笑顔で乗り越えていけそうです
そんな気がしています。。
あなたのその力を信じているから
あなたのその想いを信じているから
あなたの提案。。。
「エロスからアガベー」
想像だけでしか判断できないけれども
解釈が間違ってたら~という思いもあるけれど
ある程度は予想できます・・
そのうえでの理解はしているつもりです
あなたの想像の産物である理想に・・
出会えることを願いつつ旅を
出会えるような旅を
私も望んでいます
それはすでにあなたと会った時から感じていました。。
あなたは気がついていなかったかもしれないけれど
そぉ~~~っとあなたの心に送り届けたことを・・
もしかしてあの時あなたが私に貼り付けたから・・
古のころからの深い因縁の二人が出会ってしまったのだから
こうなることは必然だったのかもしれない
私たちが目指す旅は私たちのしらないところでもうすでに
決まっていたのかもしれないし
だからあなたの云うところの旅の意義を理解すること
目で理解できるはず
あなたとの歩調は
あなたのその言葉を感じながら、遅れないように、追い越さないように
歩んでいきますから。。。
大丈夫だよね
これは メッセージ 38 huuraiboukazenotabibito に対する返信です
幸福の島へ 2005/10/28 23:57
ロッテの愛さんへ
今日は週末金曜日
元気もりもりです。
何処まで行けるか楽しみです。
でも得てしてこんな時は倒けるのかも知れませんね。
私は今日素敵な夢を見ました。
私は山道をドライブしていました。
と言うよりも
その瞬間
私は山道に居たと言う方が正確です。
私はその時車を降りていたのでしょう。
私の車に霧がかかり始めていましたから。
しかし私の目の前には
それは色鮮やかな扇の松が
山一面に広がっているのです。
よくお正月などに多くの扇を使って松を模る演技がありますが、
その扇はそんな物とは比べ物にならない程
それはそれは色鮮やかな扇なのです。
その扇が私の目の前の山一面に広がっているのです。
今考えれば、
それは山一面に扇の葉っぱ広がっていた様にも思われます。
そんな色鮮やかな扇が私の前の山一面に広がっているのです。
その色調はと問われれば答える事は出来ません。
イメージとして次の様に答える位しかありません。
青空色を基調とした輝きのある七色文様みたいなものと。
しかしそれは全く正確ではありません。
そんな色鮮やかな扇が私の目の前の山一面に広がっていたのです。
しかしその時私は扇だとは認識せず、
それはそれは色鮮やかな山が私の目にあると認識していたのです。
私はその時夢の中で思ったと思います。
こんな鮮やかな夢はあの時の夢以来だと。
そんなこんなを思っている内に
追突されるかも知れないと思いが走りました。
私はもうその時は車の中に居た様です。
そしてその夢はフェードアウトしてなくなり
また次の夢の現場へと移って行きました。
この夢が何を意味するのか、
私はこの道行きで解決しなければなりません。
何故なら夢をそのままにして置くと
夢が私を捕らえる事に成るからです。
この夢は私が解かなければなりません。
だからロッテの愛さんにお願いがあります。
決してこの夢に触れないで欲しいのです。
これは私の心の奥の発露です。
言い換えれば私の霊と言えるかも知れません。
だから決してこの事に触れないで下さい。
思わせぶりな事も言わないで下さい。
ただただ心の中に秘めていて下さい。
もしロッテの愛さんがこの事について少しでも仄めかす様な事があれば、
私とロッテの愛さんの旅はそこで終わりです。
だからこの事は無かった事にして先に進む事としましよう。
最も私が私自身でこの夢の意味が解けた時は
その時は得々とその意味をロッテの愛さんに説きますので。
その時までどうかこの事は心に秘めていて下さい。
その時まではこの事は無かったものとして下さい。
決して触れないで下さい。決して仄めかさないで下さい。一言も。
この石が躓きの石にならないように。
ロッテの愛さん
済みません
勝手に告白しておいて
勝手に貴方の心に鍵をして
私は何処に行くのか予測不能です。
何しろ私は風来坊、風の旅人なのですから。
先ほどの夢を大げさに引き出しましたが、
こんな風に簡単に解釈も出来るのかも知れません。
私は昨晩、ソポクレスの「アイアス」「トラキスの女たち」「アンティゴネ」(ちくま文庫「ギリシア悲劇Ⅱソポクレス」)を読みました。
それによって私の心はある程度紅葉したのでしょう。
そしてその余韻が夢の中へと滑り込んだのでしょう。
それからその晩の翌日、すなわち今日ですが、貴方の手紙を受け取りそれに返事をする事になっていました。
それは今の私にとってはこれまた心躍る事なのです。
更にその翌々日、すなわち明日になりますが、ある山を朝から縦走する事にしていたのです。
そして更にその翌々々日、すなわち明後日になりますが、ある花園を訪れる事になっていたのです。
そんな心の紅葉や山への紅葉の憧れ、色鮮やかな花園、そして貴方の心への高揚が、そんな夢を見させたのかも知れません。
そして昨日の夢だからそんなに鮮やかに思えるだけの事だったのかも知れません。
私はよく総天然色の夢を見ます。
だからこの夢はこれで終わりです。
私の夢解きもこれで終わりです。
この夢については、これにて一件落着としましよう。
私はこのとおり自分の心に触れられる事を極度に嫌うのです。
私とロッテの愛さんの間には未だ未だ隔たりがあります。
今心奥に触れられると駄目になると言うそんな思いから
先程の様な事を言ってしまいましたが、
もう解決済みです。
あの夢に触れて貰っても結構です。<>
これは メッセージ 39 lotte_no_i2005 に対する返信です
幸福の島へその2 2005/10/29 0:02
ロッテの愛さんへ
2000字を超えてしまいました。
2分割しました。
「幸福の島へ」からの続きです。
さて今日の残りも少なくなって来ました。
私が今日の最初の最初で危惧した様に「今日倒けないように」
新たな明日への一歩をしるす事にしましよう。
ところでロッテの愛さん
私たち二人は何処へ向かえば良いのでしょう。
この大いなる世界の何処へ
ロッテの愛さん
見付けました。
私たちが最初に行くに相応しい場所が。
それは幸福の島です。
チルチルミチル青い鳥。
今度は貴方が青い鳥です。
どうか私を幸福の島へと導いて下さい。
「幸福の島へ」
これは メッセージ 40 huuraiboukazenotabibito に対する返信です
Re: 幸福の島へ 2005/10/30 17:00
風来坊風の旅人 さんへ
今日は朝の風が私のココロにスーーッと心地良く入ってきたので
久し振りに朝一散歩に行ってきましたよ~
素肌にかかる風の気持ち良いことこの上なし
新緑の頃の季節も好きだけど
この時期の空気感もなんともいえず好きですね~^^
銀杏の木のしたで幼子と犬が戯れている風景を眺めながら
瞬間を愉しんで居ました。
今ではどこに居ても存在が嬉しくて一人じゃないよと支えられながら
ちゃんと地について歩いていますからね~
あの邪念は何処かへ消えてしまいましたわ。
だって
私はこれからあなたが云うところの「幸福の島」へと導く役がありますからね
よそ見なんかしていられませんし責任重大ですし
目をこらして前を向いていないとね^^
石ころに躓かないためにも。。
夢のことには触れないようにと云ってましたが
同じころかな・・私も不思議な夢を見ていましたよ
お気に入りの赤茶色の服を着た私が其処に居ましたが・・お出掛けするのか
はたまた誰かを待っているのか・・人の多い場所で並んでいるのか
初々しい私が其処に居ました。
場所は都会ではなく、自然の匂いのするところでした。
それこそ私の好きな季節を思わせる緑があおあおとしている中で
不安でもなく安心しきって居る訳でもなく・・
ちょっと緊張感を持ちながら立っている私が居ました。
すぐに忘れてしまいがちな夢のなかでもこの色付きの夢は
起きてからも色具合とその形は記憶に残ってしまいましたね
なんらかの変化なのかなんでも無いことなのかは
自分では分かりませんよね。。
さぁ夢から覚めたら今度は力いっぱいに、目指すは
「幸福の島」までの道のりを旅することかしら~♪
出発は何時になさいましょうかしら~
「幸福の島」へ .
これは メッセージ 41 huuraiboukazenotabibito に対する返信です
チルチルミチルの青い鳥のロッテの愛さんへ 2005/11/ 1 23:44
ロッテの愛さんへ
夢解き、ある程度解決しましたよ。(正夢と言う形で)
それにしても夢を解く事はあまり気持ちのいいものではないですね。
心の暗部に入って行く、そんな気持ちを感じさせます。
解決したと思っても、また疑問が湧いてくる。
そんな疑問の輪廻の中で更に心の暗部に入っていく、そんな気持ちを感じさせます。
夢を語るなら大いに脚色した夢を語るのがいい、
それよりもなお理想としての夢を語るのがいい。
そう言う訳で
私たち二人がこれから行く幸福の島について語る事にしましよう。
私は道すがら幸福の島の事を考えていました。
そして見付けたのです。幸福の島を。
しかしこれが本当の幸福の島かは二人で検証しなければなりません。
「二人か三人が求める所に私もいる」
もし私たち二人がそうだと言えば
きっとその私たちの私もそうだと言って呉れるでしょう。
その為には私たちの対話が必要になってきます。
媚を売る様な対話では無く徹底的な対話が。
もしここで私が幸福の島の定義をすれば
貴方に先入見を持たせてしまう事になります。
そう言う訳で
今回は貴方が幸福の島を描いて下さい。
きっと私はそこに幸福の島を見付ける事になります。
何故なら貴方はチルチルミチル青い鳥なのですから。
最も幸福の島は
チルチルミチルの青い鳥が示して呉れた様に
そんな遠い所には無いのかも知れませんね。
「山の彼方の空遠く幸い住むと人の言う」では無く
私たちの身近な所にその幸福の島は在るのかも知れませんね。
しかし私はこうも思います。
その幸福の島はある人々にとっては途轍も無く遠いが、
ある人々にとっては途轍も無く近いと。
そこで私はこうも思ったのです。
多くの人が幸福の島に行ける様なリゾートプランを作ろうと。
そのキャッチフレーズは
「HOLLY DAYには幸福の島へ!」です。
多くの人が週に一度はその幸福の島へ行ける様なリゾートプランを作ろうと。
幸福の島にも色々あると思います。
そこに行ったきり帰って来れない様な遠くにある幸福の島もあると思います。
きっとそこの島の住人は幸福の島の住人と呼ばれている事でしょう。
しかし私の計画しているリゾートプランは
そんなに遠くにある幸福の島ではありません。
週に一度週末に行く事の出来る幸福の島へのリゾートプランです。
もっとも島と言う訳ですから
そこに行くには舟で行かなければなりません。
ロッテの愛さんは言うのでしょうか。
夢の架け橋を作りましょうよ。
それから夢の飛行場も。
いいえ、それはなりません。
幸福の島へは一切人工物を持ち込んではならないのです。
勿論港も。
そこに行く為には、一人用の手漕ぎボートで行かなければなりません。
私たちの提供するリゾートプランとは
その一人用手漕ぎボートをプレゼントして上げる事なのです。
さてどんなボートを用意すれば良いのでしょうか。
私はまた知っています。
ロッテの愛さんが手漕ぎボートでは無く、
自らの手を広げて羽にして
いとも簡単に幸福の島へ行けるのも
さて私たちはどちらのプランをプレゼントしたらいいものでしょうか。
手漕ぎボートでしょうか、
それとも自らの手を羽にする方法でしょうか。
私は幸福の島と言う概念を提供しました。
幸福になる為にはその島へ渡らなければならないのでしょうか。
この地のここでは、私たちは幸福に成れないのでしょうか。
チルチルミチルの青い鳥さん教えてください
「私たちは幸福の島へ渡らないと幸福に成れないのでしょうか。
それともこの地のここで幸福に成れるのでしょうか」
チルチルミチルの青い鳥のロッテの愛さん どうか教えて下さい。
風来坊風の旅人より
追伸
私は明日から5日ほど留守にします。
もし私との対話に付き合って頂けるのでしたら、
ロッテの愛さんの「幸福論」をお聞かせ下さい。
月曜日か火曜日に会える事を楽しみにしています。
これは メッセージ 42 lotte_no_i2005 に対する返信です
ソネット「知恵と愛」 2005/11/11 22:34
第1章
知恵についてはある程度学んだ。
しかし愛については未踏だ。
ソネットとは17行詩。
この17行の中で知恵と愛の限りを詩(うた)いたい
知恵については一人で学べる。
いや一人でなければ学べないのかも知れない。
しかし愛については一人では学べない。
愛については対象がいるのだ。
私は何を言いたいのか。
そう、貴方に愛の対象に成って頂きたいのだ。
ここには愛に満ちた人が一杯だ。
私はその中で私の愛を育みたいのだ。
どうか私に愛の詩(うた)を詩(うた)って頂きたい。
ソネットで。
ソネットを難しい考える事は無い。
17行の詩、それだけがここでのソネットの定義だから。
ソネットの応答歌の中で
愛の奥つ城を覗いてみたい。知恵を伴って
第2章
愛に知恵が必要なのか。
必要である。
愛だけでは軟弱になる。
しかしまた知恵だけでは堅物になる。
男は知恵。
女は愛。
男と女が上手く混ざり合ってこそ
知恵ある愛、愛ある知恵が生まれる。
私はここで告白しなければならない。
私は男である。だから女性を求めると。
私は知恵ある者とは言わない。
しかし知恵と愛を秤に掛けると愛が余りにも軽すぎる。だから女性を求めると。
ここには愛に満ちた女性が一杯だ。
ここに居るだけで愛の属性に満たされる。
それだけで幸福だ。
しかし私は愛の奥つ城を視たいのだ。
その為には貴方が必要なのだ。
どうか私の為に愛のソネットを詩(うた)って下さい。
ソネット「知恵と愛」第3章、第4章 2005/11/11 23:31
第3章
愛の奥つ城には何があると言うのだ。
臥所がある。
知恵と愛が目合(まぐあ)う臥所がある。
そこから知恵と愛に満ちた子供が生まれる。
貴方は先程愛の奥つ城を覗きたい視たいと言ったが不謹慎ではないか。
確かにこの世ではそうだ。
だが貴方は知らないのか。
王家では王妃の出産が公開で行われるのを。正嫡の子である事を皆で確認する為に。
私は愛と知恵の正嫡の子が生まれるその現場を見たいのだ。
何処で?。
そう、この愛に満ちた女性の愛の奥つ城の中で。
不謹慎極まりないのではないか。
確かにそうかも知れない。
しかしその女性は喜んでこう差し出すのかも知れませんよ。
これが貴方の子供ですよと。
おお!何と言う恥知らず。貴方は貴方自身を知恵ある者だと言うのか。
いいえ、そう言う積もりはありません。
しかし私は私の出来る限りの知恵を注入したいと思っているのです。
第4章
知恵とは何だ。
いきなりそんな質問をするのですか。
いいでしょう。お答えしましょう。
それは聖霊であると。
聖霊とは何だ。
そんな事も知らないのですか。
貴方の主ですよ。
それに聞けば何でも答えて呉れるその主ですよ。
主とは何だ。
貴方は日本語も分からないのですか。
貴方のご主人様ですよ。
しかし今の日本人はご主人様と言う意味が分からないのかも知れませんね。だって皆が皆主人面をしていますから。
貴方は一体何が言いたいのだ。
少し混乱してしまいましたね。
整理します。整理するとこうなります。
知恵とは聖霊である。聖霊とは貴方の主である。貴方の主とは貴方の神様である。だから知恵とは貴方の神様であると。
オオ!ナンタルチィア
もう少し整理して置きますね。知恵とは貴方の神様から下される言であると。
これは メッセージ 1 sophialover007 に対する返信です
風来坊風の旅人 別名sophialoverより 2005/11/12 12:01
myuse_kz さんへ とても失礼しました。
返事を頂きながら返事を返さずに。
私は恐かったのです。
貴方に三度目の大笑いをされる事が。
しかし貴方が消えそうになったので貴方を読み返して見たのです。
そこには私の求める女性像がありました。
永遠の女性から永遠の人間へ
そんな模索がひしひしと感じられました。
Boa sorte! 光の中へ
私もそのイメージは良く分かります。
最もBoa sorte!の意味は未だ分かりませんけど
光を求めるその先に理想世界がある そんな意味ですよね
私が長々と文章を書くと
貴方の心を踏み躙る事にも成り兼ねません。
それで17行詩 ソネットの形で私の心を貴方に伝えたいと思います。
それであれば私の心を手玉に取る事も出来るでしょうから。
ソネット その可能性に挑戦してみたいのです。
なお私の別名はsophialover 知恵の愛人です。
風来坊 風の旅人より
これは メッセージ 228 myuse_kz に対する返信です
私は美しきロッテの愛さんが見たいのです。 2005/11/14 23:27
第1章
「出発は何時になさいましょうかしら~」
貴方を置いて出発してしまったようですね。
また戻って来ました。もう一度出直しょう。
今度こそはしっかり手を取り合って。
私は直ぐに形而上に遊びに行く癖があります。
そんな時はしっかりと手を握り返して下さい。
こんな美しい自然があるのに
どうして形而上に遊びに行く必要がありましょう。
最も貴方も形而上の事は嫌いではありませんよね。
「瞬間を愉しんで」「存在が嬉しい」のですから。
しかし形而上の事は程々にして
この美しき自然を楽しむ事にしましょう。
ところでロッテの愛さんはどんな自然が好きですか。
自然はどれもこれも素敵に決まっていますよね。
でもどんな自然が最も印象的ですかと問われたらどう答えますか。
私はこうです。真夏の正午の青い空と海と緑とそして白い雲。
もしそこが島の浜辺なら、私はそこを天国に一番近い島と呼びます。
何故ならそこでは全て止まっているのですから。瞬間が存在となる???
第2章
ロッテの愛さんへ
また形而上に走ってしまいましたね。
この癖はやはり直らないと思います。
私にとっては形而上が幸福の種なのですから。
ところでロッテの愛さんはどんな時に幸せを感じますか。
私は心のままにです。
心のままに自分を表現出来た時、幸せだと感じます。
これは誰も彼も同じだと思います。その為に詩が生まれ絵が生まれるのです。
もしこの世で本当の自分を自分自身の舌と自分自身の体で表現出来たら、その人は幸福な人と呼ばれる事でしょう。
しかしその様な人は聖人と言われる人を除いて、ほとんど皆無と言っていいでしょう。
皆自分自身をこの世に合わて、自分自身の舌と自分自身の体で表現しているのです。
そこに幸福からの乖離があるのです。それはあのサンマにしたって同じ事です。
しかしここは違います。
ここは私たちが裸に成れる所です。
ロッテの愛さんはそんなに美しいのに そして更に美しいのに
だからここでこの世の衣を一つづづ脱いで行って下さい。
その暁にはどんなさらし職人もさらす事が出来ない程真っ白なロッテの愛さんが生まれて来る事でしょう。
その時私はどうするのでしょう。うふふです。
※ 形而上に走り過ぎていますので、第3章、第4章でこの世の美しき自然に戻したいと思います。
最も時間が無いので何処まで戻れるかは疑問ですが。
続きも是非見て下さい。
これは メッセージ 42 lotte_no_i2005 に対する返信です (哲学革命の掲示板を起こす)
哲学革命~理想の社会を目指して~ 2005/12/17 10:32
哲学とはphilosophia、知恵(sophia)を愛する(philo)事。
哲学革命とは知恵を愛する事によって、
理想の社会を目指そうと言う社会運動です。
知恵を愛する人、哲学者の方々
どうかこの哲学革命に参加して下さい。
そしてこの日本をそして世界を
私たちの理想とする世界に変えて行こうではありませんか。
哲学革命発起人 sophialover
哲学革命~理想の社会を目指して~その2 2005/12/17 10:51
哲学とはphilosophia、知恵(sophia)を愛する(philo)事です。
であれば、哲学者とは知恵を愛する者の謂いです。
私は大学・大学院でカントを研究した、ヘーゲルを研究した、プラトンを研究した
ここで言う哲学者はこう言う人ではありません。
あくまでも知恵を愛する人です。
知恵を愛する為には大学・大学院まで行く必要はありません。
現に学校に行かなくても知恵を愛する人々は世界にたくさん居ます。
要は知恵をどれ程愛するかです。
知恵を愛して愛し抜けば、
この社会を変えて行こうと言う情熱が生まれて来る筈です。
この哲学革命はそんな哲学者の連帯によって、この社会を変えて行こうと言う社会運動なのです
哲学革命~理想の社会を目指して~その3 2005/12/17 11:16
哲学とはphilosophia、知恵(sophia)を愛する(philo)事。
ところで知恵とは何でしょう。
これはとても難しい質問です。
ただ皆さんが知恵と知識を勘違いしない為に
知恵と知識の違いを定義して置きます。
知恵とは生き物である。
知識とは知恵の欠片である。または化石である。
知識を幾ら集めても知恵とはなりません。
知恵を求める為には知恵に求めなければならないのです。
「求めなさい。そうすれば与えられる。
探しなさい。そうすれば見つかる。
門を叩きなさい。そうすれば開かれる。」
知恵とはそう言う存在です。
知恵とは求める者に与える存在の謂いです。
哲学革命~理想の社会を目指して~その4 2005/12/17 12:02
哲学とはphilosophia、知恵(sophia)を愛する(philo)事。
ところで知恵とは何でしょう。
これはとても難しい質問です。
知恵を愛する事に依って世界を変える。
と言う事であれば、知恵は普遍的に存在していなければならない。
勿論私たち一人一人に。
ところで知恵を見た人がいるのでしょうか。
多分居ないと思います。
しかしその存在を感じた人は少なからず居るのではないでしょうか。
例えば知恵を本当の自分と置き換えてみたらどうでしょう。
哲学とは真善美を求める事だとも言います。
私たちは本当の自分に真善美を求めているのではないでしょうか。
哲学とは知恵を求める事である。
哲学とは真善美を求める事である。
であれば哲学とは本当の自分を求める事である。
何と言う素敵な学問でしょう。
しかし本当の自分を鏡に写す様に視た人がいるのでしょうか。
多分居ないと思います。
何故か。
それは本当の自分を知恵を愛する方法を知らないからです。
本当の自分を知恵を愛する方法を知る為には
やはり本当の自分を知恵を愛した人から学ばなければなりません。
本当の自分を知恵を純粋に愛した人を真の哲学者と言います。
そんな哲学者は古代を中心に綺羅星の如くいます。
知恵を愛する為には
先ずはその様な哲学者から知恵を愛する方法を学ぶ必要があるのではないでしょうか。
知恵とは??
哲学革命~理想の社会を目指して~その6 2005/12/17 22:08
哲学革命とは知恵を愛する事に依って
理想の社会を築こうと言う社会運動です。
何故知恵を愛する事に依って理想の社会が築かれるのか。
それは知恵が本当の自分だからです。
人は良く言います。
本当の自分を求めたいと。
しかし求められないと。
何故求められないのか。
それは本当の自分が何かを知らないからです。
本当の自分が知恵である。
そしてその知恵は真善美をふんだんに与えて呉れる存在である。
その事をしっかり理解したら
貴方は本当の自分探しに飽きる事はなくなるでしょう。
きっと貴方は死ぬまでその本当の自分を探し続ける事に成るでしょう。
何故か。
それは貴方自身がこんなにも素晴らしい存在であった事に気付くからです。
貴方の本当の正体は知恵です。
だから貴方は知恵を愛さずには居られないのです。
しかし世の多くの人はこの事を知らずに死んで行くのです。
貴方は知恵である。
だったら知恵を愛し抜こうではありませんか。
【哲学とはphilosophia、知恵(sophia)を愛する(philo)事です。】
哲学革命~理想の社会を目指して~その7 2005/12/17 22:56
哲学とはphilosophia、知恵(sophia)を愛する(philo)事です。
そしてその知恵とは本当の貴方です。
しかし貴方は言うでしょう。
そう言う存在は私の中に居ないと。
確かにもう一人の私が居るが
その私はそんな立派な存在では無いと。
確かにその通りです。
何故か。
それは貴方がこの世の垢に染まっているからです。
もし貴方がこの世の垢を洗い流せば流す程
本当の貴方は輝き出して来るでしょう。
もし貴方がこの世の垢をすっかり洗い流したら
本当の貴方は貴方にとって眩いばかりの存在となるでしょう。
知恵とはそう言う存在なのです。
貴方は聞くのでしょうか。
どの様にすればこの世の垢を洗い流す事が出来るのかと。
お答えします。
知恵を愛し抜いた者、真の哲学者に倣うしかないと。
真の哲学者たちの本を読みなさい。
そうすればその言葉たちがシャワーとなって
貴方のこの世の垢を洗い流して呉れるでしょう。
貴方は聞くのですか。
どの様な者たちが真の哲学者かと。
いいでしょう。お答えします。
イエス、釈迦、ソロモン、ダビデ、孔子、老子、プラトン、セネカ、エピクロス、エピクテトス、ウパニシャッドの哲学者たちetc
BC以前の哲学者たちであればほぼ間違いありません。
彼らは皆本当の自分を探し当てた人たちです。
知恵を愛し抜いて知恵に迫った人たちです。
彼らに知恵を愛する事を学ぶ方法を学べは、
貴方はより早く知恵に近付く事が出来
そして本当の貴方に気付く事が出来るでしょう。
哲学を学ぶとは知恵を愛する事を学ぶ事なのです。
【哲学とはphilosophia、知恵(sophia)を愛する(philo)事です。】
哲学革命~理想の社会を目指して~その8 2005/12/17 23:24
哲学革命とは知恵を愛する事に依って
理想の社会を築こうと言う社会運動です。
実を言うとこの哲学革命には大きなエネルギーが隠されているのです。
何故ならこの哲学革命とは全ての宗教全ての哲学の統合なのですから。
宗教哲学その根源にあるのは知恵そして本当の自分です。
この哲学革命はその知恵に焦点を当ててこの世を改革しようと言う運動なのです。
それぞれの宗教、それぞれの哲学においては
この知恵そして本当の自分の事を様々な言葉で表します。
まるでそれぞれが別であるかの様に。
しかしそれらは全てこの『知恵』と言う言葉に還元出来るのです。
知恵と言う言葉には抵抗はありません。
そして本当の自分と言う言葉についても
この哲学革命は知恵=本当の自分と言うこの言葉を合言葉に
理想の社会を築いて行こうと言う社会運動なのです。
この言葉であれば全ての宗教家そして俗に言う哲学者にも
何の抵抗も無く受け入れられると思うのです。
そして無意識の内に。
心ある宗教家そして哲学者の方々
どうかこの哲学革命に参集して下さい。
【哲学とはphilosophia、知恵(sophia)を愛する(philo)事です。】
哲学革命~理想の社会を目指して~その9 2005/12/18 11:25
哲学革命とは知恵を愛する事に依って
理想の社会を築こうと言う社会運動です。
何故、哲学(知恵を愛する事)に依って革命を進めていくのか。
それは哲学、すなわち知恵を愛する事が全ての人に取っての最大の快楽だからです。
快楽を革命の第一の動機とする。
これ程強力な革命の原動力は無いのではないでしょうか。
哲学、すなわち知恵を愛する事が全ての人に取っての最大の快楽である
この事に意を唱える人は多いと思います。
多分ほとんどの人がそうだと思います。
しかし知恵を愛し始めた人は違います。
彼らは言います。
知恵を愛する以上の快楽がこの世にあるだろうかと。
知恵を愛すると言う事はそれ程の快楽があるのです。
それは生理学的にも説明出来るのでしょうが、
その実証はやはり実感です。
知恵を愛しているその最中の人に聞いて御覧なさい。
貴方は今どんな気持ちですかと。
本当に心地よい
こんな気持ちは知恵を愛する事以外には在り得ないと。
これが知恵を愛する事の快楽です。
これが哲学革命の第一の動機となるのです。
こんな強力な革命の原動力が有るでしょうか。
結局この哲学革命が成功するか否かは
知恵の存在を知らせる事が出来るかどうかにかかっているのです。
全ての人に知らせる事は不可能です。
現在でも万人に一人位は知恵を愛している人たちが居ると思います。
自我に目覚めた人を仮に高校生以上としましょう。
そうすると約一億の人が知恵を愛する能力があると言う事になります。
そうすると万人に一人であれば、
日本中に一万の知恵を愛する人がいる事になります。
それ位は十分に居るでしょう。
もしその人たちが『知恵』と言う合言葉の中に結集すれば
哲学革命は進んで行くのでしょうが、
やはりそれは難しいと言わなければなりません。
やはり哲学革命を推進して行く為には、
新たな哲学者すなわち知恵を愛する者を増やして行かなければなりません。
もし千人に一人、日本全国で十万人の人が
知恵を愛する事に気付けば
革命の機運が日本のあちこちで起こる事でしょう。
もし百人に一人、日本全国で百万人の人が
知恵を愛する事に気付けば
革命の火の手が日本のあちこちで上がる事でしょう。
もし十人に一人、日本全国で千万人の人が
知恵を愛する事に気付けば
日本は知恵の王国と成るでしょう。
さて皆さん気付きましたか。
今私も気付いたのですが、
日本を知恵の王国、哲学者の国とする為に必要な事が。
それは「教育」です。
自我の目覚めから自我の完成までの一定期間
例えば15歳から20歳まで徹底した哲学教育
すなわち知恵を愛する教育、本当の自分自身を愛する教育を行なうのです。
そうすればこの日本は、
世界のどの国よりも、そしてこれまで存在したどの国よりも
素晴らしい国と呼ばれる事になるでしょう。
あのプラトンの目指した国家よりも。
プラトンの目指した国家は
その王が哲学者と成るべきものだったのですが
この日本の国家では国民の全て(実際は十人に一人)が哲学者なのですから。
さあ教育者の皆さん
そして知恵を愛する人たち、すなわち真の哲学者たちよ
「哲学(知恵を愛する)教育」のカリキュラムを作ろうではありませんか。
【哲学とはphilosophia、知恵(sophia)を愛する(philo)事です。】
哲学革命~理想の社会を目指して~その10 2005/12/18 12:21
哲学革命とは知恵を愛する事に依って
理想の社会を目指そうと言う社会運動です。
さて哲学革命も機運が高まって来ました。
実際の行動に移す段階に成って来ました。
哲学革命に取って大事な事は哲学教育であると言う事が明らかになりました。
これから暫く哲学教育のカリキュラムについて考えて行く事にしたいと思います。
哲学教育は15歳から20歳までとする。
全ての国民の必修とする。
中学高校(専修学校)大学の一貫とする。
高校大学に行かない者については、公民館講座として行なう。
中学高校大学及び公民館の教科講座名は一貫して「哲学」とする。
中学高校大学及び公民館の哲学の主任教官を置く。
中学3年から始め高校の3年間および大学の2年間の計6年間とする。
教科講座は週1回とする。
教材は古今東西の哲学者(文学者等を含む)の原典とする。
哲学者の概念を教えるのでは無く、哲学者の言葉そのもの触れさせる。
原典通読を主とする。解釈は本人任せる。
国語教育(読解)の一環としても行なう。
時間がありませんので次の機会に考えたいと思います・
【哲学とはphilosophia、知恵(sophia)を愛する(philo)事です。】
(台湾関係掲示板)
台湾と日本 2006/ 1/ 5 23:33
12月29日から1月3日まで台北に行って来ました。
私の旅の目的はいつもその第一は民族を知る事です。
私は今度台湾に行って初めて、台湾には台湾人と言う民族が居ない事をはっきり知りました。
彼らは漢民族か原住民です。
原住民が台湾人と言う民族かと言えばそうではありません。
彼らはアミ族であり、タイヤル族であり、パイワン族です。
結局今の所、台湾には台湾人と言う民族は居ないのです。
大昔の日本もそうでした。
と言うか、歴史が始まる少し前、朝鮮民族が渡来した頃の日本がそうだったのです。
日本には熊襲がおり、蝦夷がおり、その他の民族がおり、そして渡来朝鮮民族がいたのです。
その頃の日本には日本人と言う民族は居なかったのです。
そうこうする内に、これらの民族の中でマジョリティで最も高度な文化を持つ渡来朝鮮民族が日本を一気に統一したのです。
ここから日本民族が始まったのです。
日本統一から歴史が始まるまで、すなわち文書化が始まるまでの期間を神話と言う世界でカモフラージュする事に依って、世界に誇る日本民族が生まれたのです。
この事に意を唱える人がいるかも知れませんが、今の台湾を見ればその事が分かります。
歴史は繰り返す。温故知新です。
さてここから、どうして台湾の人々が日本に好意的かその原因を探ろうと思います。
聖徳太子時代の日本が如何に朝鮮に対して秋波を送っていたか、その事は皆さん良く知っていますよね。
その頃の日本の朝鮮に対する想いと、今の台湾の日本に対する想いとは同じ様なものなのです。
台湾島を一つの国に統一したのは誰だか知っていますか。
それは日本人なのです。
日本人が台湾島を統一するまでの台湾は清の辺鄙な離島であり、広東や広州の渡来漢民族と原住民がそれこそ微妙な平衡の状態の中で並存していたのです。
若しこのまま時が流れていたら、台湾は中国の属州となっていたでしょう。
それはそれでとても良かったのですが、時間の歯車が少し狂ってしまったのです。
それが日本帝国です。
日本帝国が台湾を占領した。
ここから台湾と言う国が始まったのです。
私はこの二年間の内にソウル、上海にも言って来ました。
ソウル、上海とは日本に対する思いが全然違うのです。
それもその筈です。
朝鮮は日本よりも長い歴史のある国です。
中国は中国四千年(または五千年)です。
その国が若輩の日本から占領侵略されたのです。
それは蹂躙以外の何ものでもなかった筈です。
歴史的観光地に行って御覧なさい。
その案内板には必ず日本帝国の悪逆振りが書かれている筈です。
それはまさしくその通りだと思います。
それは人の家に勝って押し入り思いのままの振る舞いをする。
それ以外の何ものでもないのですから。
中国韓国の歴史的観光地で案内板を見る時は何時も肩身が狭い思いをしたものです。
ところが台湾ではその様な思いをする事がほとんどありません。
何故だか分かりますか。
台湾国と言う国があれば、日本がその揺籃期の乳母に当たるからです。
日本帝国と言う国が無ければ、今の台湾は有り得なかったのです。
台湾は今も中国の属州だったのです。
それを今の台湾の人がどう思っているかなのです。
日本に対する好意、それは中国よりも台湾と言う国を望んでいる証拠なのです。
2000字を超えたので「台湾と日本その2」に続きます。
これは メッセージ 1 pub_nomo に対する返信です
「 台湾と日本」その2 2006/ 1/ 6 0:10
「台湾と日本」からの続きです。
台湾の歴史の本を読んで御覧なさい。
最初の占領は悪かった。
しかしその後の日本の統治は、揺籃期の乳母に当たるとは言っていませんが、叔父叔母位には当たると言っているのです。
日本帝国の統治が無ければ、今の台湾は無かったのです。
台湾の歴史を知りたければ総統府一階の展示室(平日の午前中)と二二八記念館を訪れるといいと思います。
台湾の日本に対する歴史観が良く分かると思います。
それから今の国立歴史博物館を訪れて御覧なさい。
日本統治時代の歴史が手に取る様に良く分かります。
日本が台湾をどの様に思っていたか。
私はそれを乳母と言ってもいい位だと思っています。
そこに日帝時代の台北の都市計画図があります。
私は台北の街を歩いて思ったのです。
何と広い道路。何と整理された道路と。
京都の碁盤の目の様な町並みを思い出しました。
一条、二条、三条・・・
それも全てこの都市計画図に由来する事を知った時、その当時の日本の台湾に対する思いが分かったのです。
都市基盤、交通基盤、産業基盤全て日本に対する思いと同じだったのです。
内地延長主義、その思いが日本に対する思いをとげとげしくさせなかったのだと思います。
その国立歴史博物館に大きな大東亜圏の漫画地図がありますが、これが傑出ものです。
その当時の日本の台湾への思いがはっきり見て取れるのです。
全くの同胞、それ以外の何ものでも無い様な気がします。
有名な観光地に行くと台湾人の年配の観光ガイドさんを良く見にします。
彼らの日本語の何と流暢な事か。
何と語彙の豊富な事か。
私たちはとても足元に及びません。
何故彼らは日本語を忘れないのか。
何故日本に関わろうとするのか。
お金の為。
いいえ古き日本への思い。
もっと端的に言えば乳母への思いです。
韓国ではこの様な光景は滅多に目にしないと思います。
日本と韓国と台湾
この関係に関する思いをもっと深めたいと思います。
今日は時間が来たので之までにします。
これは メッセージ 4251 iiketaiwan2006 に対する返信です
『女性について』 2006/ 1/ 8 22:13
世の男性諸君そして女性の方々、『女性について』語り合いませんか。
男性諸君立ち上がれ、そして「乙女」を守れ 2006/ 1/ 8 23:34
世の男性を惹き付けて止まない存在「女性」
私はその存在にphilosophia「哲学」で迫る。
世の男性は何故女性に惹かれるのか。
その答えは哲学的に言えば一言で答えられる。
その答えとは「美」。
男性は女性の美しさに惚れるのである。
世の男性は言う。
あの女性は美しいが、この女性は美しくないと。
世の男性諸君、そんな事を言っては駄目だ。
女性は皆一様に美しいのだ。
自然である限り。
しかし自然から離れるに従い美しくなくなる。
だからこう言う言い方は許される。
あの女性は自然から離れようとしているから美しくないと。
または離れてしまったから美しくないと。
さて自然なる女性とは如何なる女性か。
それは貴方が心に描くその姿だ。
貴方が自然である限りにおいて。
結局女性の美を見い出す為には自然の美を見い出さなければ成らない事になる。
さて『自然とは』
良く天然と言う言葉を使う。
あの娘(こ)は天然だとか、天然娘と言う風に。
そして私たち男性はその天然娘に美を見い出す。
私はもう女性の美の本質に迫ろうとしている。
私たちの憧れの女性とは如何なる女性か。
それは子供らしさを失わない女性。
もっと端的に言えば無垢なる女性。
私はもう答えを出してしまった。
女性の美しさ、それは無垢であると。
無垢と言う言葉を少し表現を変えて言おう。
純潔と。
我々男性は純潔に美しさを感じるのではないか。
貴方が自然である限りにおいて。
昔、「乙女」と言う言葉があった。
それは純潔の象徴であり、無垢の象徴だった。
しかし今の世の男性はそれを忘れさせられてしまった。
世の社会的女性により。
世の社会的女性は「乙女」を見い出すと、片端から踏み潰して行ってしまう。
「乙女」がこの世に顔を出さない様にと。
何故なら「乙女」がこの世に出て来ると彼らの醜態が際立つからだ。
だから彼らは徹底して「乙女」を踏み潰す。
もうこの世には「乙女」が居ないかの様だ。
彼らは「乙女」潰しに成功したかの様だ。
しかし「乙女」は居る。
この掲示板にも何人もいる。
しかし彼女たちはこの世の片隅で小さくなってひっそりと暮らしている。
こんな世の中に誰がした。
私は乙女の守護神と成って立ち上がる。
無垢と純潔の象徴である乙女を私は命をかけて守る。
世の男性諸君、私に追随せよ。
決して社会に惑わされるな。
貴方自身の自然を守れ。
さて今日から社会の浄化だ。
先ずはこの世界から獣を追い出せ。
自らを獣と名乗る女性たちを。
世の男性諸君、貴方が剣を持たずして誰が持つ。
貴方は「乙女」を絶滅させる積もりか。
決して世に惑わされるな!!!
男性諸君立ち上がれ、そして「乙女」を守れ2 2006/ 1/ 9 10:35
女子高校生、それは乙女だった
純潔と無垢の象徴だった。
今の女子高校生に乙女がいるのか。
何時の時代にもあばずれは居る。
昔、女子高校生の9割が乙女で1割があばずれだった。
だが今はどうっだ。
逆転してしまった。
果たして1割の乙女が居る事か。
今の時代に乙女で居る事は難しい。
彼女たちは正に絶滅に瀕している。
絶滅危機種である。
私は彼女たちをこの世から守る為に立ち上がった。
そして昔の良き時代の様に乙女が9割を占める様に。
その方法は純潔教育だ。
今、アメリカでは純潔教育が行なわれているらしい。
このことについて、詳しい人が居たら教えて頂きたい。
この腐敗して腐りきった社会を質す為には純潔教育しかない。
今高校では性教育が行なわれているらしい。
いやそれどころか、中学、小学校から行なわれているらしい。
いわんやおやである。
性教育、それは性交を進める様なものだ。
そんな教育を受けて純潔と無垢の象徴である「乙女」が存在し得る筈が無い。
この性教育なるもの、それは性に快楽を求める女性から生まれたものだ。
世の大半の女性はそれを知らずに、それが社会の流れだと諦観している。
世の男性よ、貴方の自然は何処に行ったのだ。
貴方が男である限り、女性たちは結婚まで乙女で在り続けたのだ。
貴方方男たちは何に負けたのか。
それは女性の性の快楽にだ。
男たちよ、剣を取れ、そして女の性の快楽を絶て。
私は女子高校生を例えに取って「乙女」と称したが、結婚するまでの女性、それを乙女と言う。
結婚したらその時「女」と言う。
甲乙丙丁と言う言葉を知っているだろう。
乙女とは甲女に次ぐ女と言う意味だ。
甲女とは何か。
それは主婦だ。
その言葉通りだろう。
主なる婦、婦人、女性なのだから。
この世には少女と乙女と主婦がいる。
少女とは、性の事を知らない女性である。
その時代に性教育を行なう。言語道断である。
乙女とは、性に目覚めたが、自らの意志で純潔と無垢を守ろうとする女性である。
彼女たちの時代は結婚まで続く。
それから主婦、彼女たちは結婚した女性の事である。
その言葉通り、主なる婦と成って、この世に立つ。
それからもう一つの女性群がいる。
彼女たちを処女と言う。
彼女たちは一生を純潔と無垢に捧げる。貴き女性たちである。
この世の中には、少女と乙女と主婦とそして処女だけが居る筈である。
ところがどうだ。
私たちの身の回りを見渡すと淫婦(淫らな女)だらけではないか。
私は吐き気を催す。
世の男性諸君立ち上がれ、そして「乙女」を守れ、そして「淫婦」を絶て。
男性諸君立ち上がれ、そして「乙女」を守れ3 2006/ 1/ 9 11:06
男性が男性である限り、女性が性の快楽に目覚める事は無い。
男性が無能に成った時、女性が性の快楽を主張し始める。
それではこの日本において、何時から男性は無能になったか。
それは戦後に起因するのだろうが、直接のきっかけはウーマンリブである。
あの時代から男は男性として無能になった。
「君作る人、僕食べる人」
あのキャッチが世の社会的女性から猛反発を食らった。
あそこから男は駄目に成った。
そして女性が女性を主張し始めた。
女性が女性を主張する。
その第一が女性の性の快楽だった事は世の男性を見抜けなかった。
そして今の時代になった。
性教育を強力に推し進めたのは誰か。
女性以外の何者でも無い。
多分一部去勢された男性どもが片棒を担いだかも知れないが、圧倒的大多数は女性だったのである。
そして女性の意図はまんまと成功した。
多分高校においてはこう言う事を教えているのだろう。
セックス(性交)は悪い事ではありません。
愛する人との素晴らしい行為です。
しかし妊娠してしまって貴方の人生が台無しになります。
だから避妊は必ず行なって下さい。
女性の性の快楽の為の教育以外の何ものでもないではないですか。
こんな中にあって純潔と無垢の象徴である「乙女」、そしてそれは「美」の象徴でもあるのですが、そんな女性が育つ筈がありません。
世の男性諸君、女性の性の快楽に惑わされるな。
貴方の男として自然を守れ。
そしてこの世から「乙女」を守れ。
いやそうではない。貴方の剣で淫婦を断て。
そしてこの時代をもう一度乙女のたちの世界にせよ。
これは私の命令だ。
女性たちよ、貴方の美しさを現しなさい 2006/ 1/ 9 11:25
純潔と無垢の象徴「乙女」、それは美の象徴である。
貴方は美しいですか。
貴方が着飾れば着飾るほど貴方は美しく無くなるのです。
貴方は貴方自身で在る時が最も美しいのです。
貴方が貴方自身で在る時とはどんな時でしょう。
それは貴方が貴方自身で在る時です。
それ以外に言い様がありません。
貴方自身に深く沈潜した時、貴方は最も美しくなるのです。
その時貴方を純潔と無垢の天使たちが囲み、そして貴方は美の女神と成るのです。
何故なら貴方自身は美の女神として生まれたのですか。
貴方はその美しさをこの世の現す為に生まれて来た存在なのですから。
女性よ、貴方たちは皆美しい。
決して世に惑わされるな。
貴方自身の中にあるその美を現しなさい。
それが貴方方の務めだ。
そしてこの世を美しく荘厳しなさい。
風来坊 風の旅人より 風の便り 2006/ 1/21 11:41
私は風来坊 風の旅人
本名はsophialover 知恵の愛人
知恵を愛する事を何よりも好む人間です
知恵を愛する事が幸せだと信じて疑わない人間です
しかし知恵が何かは知りません
その知恵を求めてこの世界を旅しているのです
知恵はここには無いのか と
そんな私の前に知恵の入り口が示されました
しかしそれは急に閉ざされてしまいました
ロッテの愛さん それが貴方です
どうして貴方は消えてしまったのですか
私たちは誓ったではありませんか
この広い世界を一緒に旅しようと
しかし貴方は消えてしまいました
私たちはほんの入り口に入ったばかりでした
しかし私たちの前には大きな可能性が広がっていたのです
どうして貴方は消えてしまったのですか
やはりこの世を楽しみたかったのですか
エロスからアガペーへ
肉体的な愛から精神的な愛へ
貴方は理解して呉れましたよね
肉体的な愛に止まっていれば
私たちは想像の域を出る事が出来ません
しかし精神的な愛に入る事が出来れば
私たちは本質に入る事が出来ます
私たちはそこで永遠の愛にも巡り会える事が出来たのです
そんな可能性の中に入ったのに
貴方は急に消えてしまいました
やはり精神的な世界よりこの世界の方が良かったのでしょうか
いいえそんな事はありません
何かのいたずらで貴方は消えてしまったのです
もし未だこのロマンス世界に居るのでしたら
どうかお手紙を下さい
そしてまたあの日の様に
どうか私を貴方の部屋に受け入れて下さい
七色虹子さんへ
貴方は今でも私の美しき日本です
どうして私を無視したのですか
貴方と旅をすれば
美しき日本を再発見出来ると思ったのに
多分私の形而上的なコメントに引いてしまったのだと思います
今後は貴方の詩情に合わせます
最もこんな散文になってはしまいますが
くるくる目玉のトンボと
あの雨の日に差し出された花柄の雨傘は
私の思い出です
どうかまた受け入れて下さい
ベルを押してしまいました
ドアを開けて下さるのでしょうか
myuse_kz さんへ
「ボア ソルテ!
光はいつもあるもの 見ないだけ
全ては発想の転換しだい」
正にその通りだ思います
個から普遍へ
私たちの回りには実に様々なものがあります
そしてその個は私たちを突き動かします
個から普遍へ
その作業の中で
私たちも付和雷同的なものから不動のものへと変わって行くのではないでしょか
この世の様々な事を語り合いませんか
対話によって光の中へ入って行きませんか
「道生一 一生二 二生三 三生万物」
この世の個々万物から三へ 三から二へ 二から一へ
そして一から道へ
一緒に旅して視ませんか
もしよろしければ貴方の部屋に受け入れて下さい
皆様へ
個から普遍へ
それが私の知恵への旅路です
もしそんな事に興味があれば手紙を下さい
Re: 風来坊 風の旅人 さんへ 2006/ 1/22 17:15
風来坊 風の旅人 さん
永いこと お会いできずにいましたね
風の旅人さんは お変わりなく過ごされてましたか
私はというと諸事情の ため 顔を出せずにおりました
お返事も連絡も差し上げられなかったことお詫びしますね
そばを通りかかったら私の名を口にしている方が居らっしゃってて・・
風の旅人さん
ご無事でなによりです^^
お部屋は あの時のままに 用意してありますから
心配せずにお気軽にどうぞ~
季節は移り変わりもうすぐ春が訪れようとしていますが
私の心はなんら変わることなくあの時のまま待っています^^
身構えることなく気にせずに最初の頃のようにでいいんですよ
ロッテの愛
これは メッセージ 1 sophialover007 に対する返信です
知恵と愛を求めて三千里 ロッテの愛さんへ 2006/ 1/26 23:23
ロッテの愛さんへ
貴方にまた会えて本当に良かった
今度は決して離れない様にしましょうね
真理の探求
それを共に出来るのは今は貴方だけです
私たちが誠意を持って話し合えば
私たちはきっと其処まで行く事が出来ます
何故なら私たちは神の概念を持っているからです
神とは何か
最高最善のもの
ベストオブベスト
今の所はそんな風に考えておけば良いと思います
そんな最高最善のものを求める中に
きっと真理が見い出されて来るのだと思います
私はこれまで風来坊風の旅人と名乗って来ましたが
今回からsophialoverと名乗る事にします
最もsophialoverは私がこれまでずっと使って来たニックネームです
sophialoverとは知恵(sophia)の愛人(lover)と言う意味です
哲学の事をphilosophia知恵(sophia)を愛する(philo)事だと言います
sophialoverはこれを捩ったニックネームです
私は今回の最初のメッセージの中で
知恵を愛する事
それが私の幸福の素だと
その様な事を言いました
知恵とは何か
それは本当の私自身
私自身を愛する事に依って
幸福に成れる
こんなに手っ取り早い幸福法は無いと思います
現に私は知恵を愛する事に依って
至福感を感じる事が出来ます
私の中にこんな素晴らしいものがあったのかと
これが今までの私の幸福実現法でした
そしてその事は今後も変わらないと思いますが
私は今もう一つの幸福法を入れようとしているのです
それが愛です
知恵と愛
この二つを手に入れれば
私たちは何時でも幸せに成れます
一人で居る時は知恵を愛する事に依って
二人で居る時は貴方を愛する事に依って
さて愛とは何でしょう
そこには様々なグラデーションがあります
正にエロスからアガペーまでです
私が求めている愛とはアガペーです
それは神への知的愛です
すなわち貴方の中に神の本質を見る事なのです
それでは神の本質とは何でしょう
それは言葉です
すなわち貴方との対話
すなわち貴方との言葉の遣り取りの中で
貴方の美貴方の善
そして貴方の真理を見い出そうと言う旅なのです
貴方は神の概念を持っています
そして私も持とうとしています
そんな二人が神の概念を遠くに見ながら
対話を続けて行けば
きっと私たちに取って
真善美に溢れた言葉たちが私たちを取り囲んで呉れると思います
それが私の愛の形です
そんな愛を求めて
私はこの広い世界を貴方と共に旅したいのです
時には形而上で
時には形而下で
sophialoverより
ロッテの愛さんへ
(追伸)
返事を下さいね
今は調子が合わないかも知れませんが
きっとその内に合って来ると思います
これは メッセージ 2 lotte_no_i2005 に対する返信です
sophialover。。。 2006/ 1/29 13:24
知恵と愛
そう教えてくれたのはあなたです
わたしの中のワタシを発見し開眼してくれたのもsophialoverあなたです
どこか遠くから時に近くからいつも見守ってくれていたのもあなたです
時折意地悪な風に邪魔されながらもあなたを信じ感じていたワタシです
どんな強風暴雨にも耐え続ける精神培った日々があったからこそ
今がある
それを教えてくれたのもsophialoverあなたです
今は感謝の気持ちでいっぱいです
もう見失うことのないようにココロに鍵をかけますね
そしてまた手を繋ぎ離さないように強く握ってようね
確かな旅を続けていくためにも必要な知恵と愛
sophialover
ワタシも愛していきます
いつまでも・・・
ロッテの愛
これは メッセージ 3 sophialover007 に対する返信です
素晴らしき世界旅行の第一歩 知恵について 2006/ 2/ 2 0:05
ロッテの愛さんへ
返信有難うございました
とても嬉しかったです
これからも一緒に旅をしましょうね
この素晴らしき世界ワンダフルワールドを
さて今回の旅は知恵から始める事にしましよう
知恵こそが
この素晴らしき世界ワンダフルワールドを旅する為の乗り物なのですから
さて知恵とは何でしょう
それは素晴らしき世界へ向かおうとする意志です
だから知恵無しには素晴らしき世界へ旅する事も出来ないと言う論理になるのです
最も素晴らしき世界へ向かおうとする意志だけでは完全な答えとは成っていません
知恵とはその素晴らしき世界へ向かおうとする時
その意志に応じてその素晴らしき世界から返される言葉であると
だから知恵無しには
私たちはその素晴らしき世界を見る事も聞く事も感じる事も出来ないのです
知恵とは神に向かおうする意志
そしてその神から返される言葉
その一連の働きを知恵と言う
ここで勘違いをして貰わない為に
神について定義をして置きます
私の言う神とは
キリスト教の神でもなければ神道の神でもありません
前回定義した様に
ベストオブベスト 最高最善のものです
最もその最高最善のものを求める中において
キリスト教の神の概念や神道の神の概念や
その他諸々の神の概念を受け入れて行きます
私にとっての神とは
私にとって最高最善のもの
私にとっての神の概念の中には
常に考える私がいるのです
すなわち「我思う 故に我在り」の私が居るのです
私にとっての神とは
私が最高最善と考えるもの
しかしそれは無窮です
私たちは無窮へ直接旅をする事は出来ません
それでその最高最善のものへ向かっているだろうと思われる様な様々な目標を定めて
その無窮の旅を楽しもうとしているのです
愛 知恵 自由 快楽 幸福 徳 真善美 自然 哲学 世界等々は
最高最善に近い色々なものを見せて呉れるのかも知れません
しかし神の概念はこの世の全てに渡っているのですから
仕事 恋愛 家族 政治 経済 社会等々についても考えなければなりません
これらを考えて行く中で最高最善の姿が少しずつ現われ来るのだと思います
そこにおいて必要なものが知恵
すなわち最高最善のものを求めようと言う意志
そしてその意志に最高最善のものから返される言葉
その対話 それは自らの中で行なわれる訳ですが
それが必要となると言うことに成るのです
さてここで知恵と愛の違いについて述べて置きましょう
共に共通するのは対話です
知恵とは自らの中で行なわれる神との対話の過程であり結果です
愛とは二人以上の実存の人物の間で行なわれる
神の概念を前提とした対話の過程であり結果です
さて私は何が言いたいのか
私はロッテの愛さんと「愛の会話」を交わしたいのです
それはお互いの知恵の開陳と言う事になるのかも知れません
私は今回私の「知恵」について私の知恵を開陳しました
だからロッテの愛さんも
ロッテの愛さんの「知恵」についてロッテの愛さんの知恵を開陳して下さい
もしその中で共通するものがあれば
私たちは真理に近付いた事になるのかも知れません
「二人か三人が求める所に私も居る」と言う事に成るのだと思います
なお私は上述の様に「知恵」について私の知恵を開陳しましたが
全くの今日の思い付きです
だからロッテの愛さんも思いのままに「知恵」について語って下さい
一度の対話だけで真理は得られないと思います
何度も対話を続けて行く内に真理らしきものに近づいて行くのだと思います
それが対話であり弁証法なのだと思います
だから思いのままにロッテの愛さんの知恵を語って下さい
お互いの信頼の中で・・・
そして素晴らしき世界を一緒に描いて行きましょう
これは メッセージ 4 lotte_no_i2005 に対する返信です
素晴らしき世界旅行の第一歩 知恵について 2006/ 2/ 4 22:11
sophialover。。。
難しいお題を頂き 戸惑いながらも 私なりに考えてみました
あなたの知恵についての概念 ・・・
早急に結果を出すようなことばでは無く模索するように 事細かく表現されてて、あなたらしいの
かなとも思いながら拝読しています
そうですね~
「知恵」生きて行く上でいつでも何処でも要求される事柄ですよね
善し悪しではなくて、その人の生き様みたいなものが反映されるような基本とでもいうようなこと
ですよね
どんなふうに考えどんなふうに決断するのかが結果として どういう知恵の使い方をしてきたのか
が、見え隠れする事柄にも思えます
知恵・・・私にとっての知恵って、今 得て 今 知恵を使うというものではないような気がしま
す
今まで生きてきたなかでいろんなものを見聞きし経験してきてありとあらゆる事柄を通過していく
時に下す判断を左右するもの(事)のような・・・上手く表現できませんけども、、
今居る自分は、数年前、十数年前、二十数年前の土台があったから現在があるような・・
失敗したこと、嬉しかったこと、反省したこと、目標を見つけたこと、友人の言葉に助けられたこ
と、
誉められたこと、叱られたこと、ははーんと感動したこと、優しさに気がついたこと、怖いと思ったこと、
時に毎日の新聞の媒体から、時に古書から、時に専門家達の言葉から、
ありとあらゆる事からなる情報に耳を傾け目で追いながら吸収した素材を蓄積し、その時々の行動
を判断してゆくわけだけども、
その時にその人なりの知恵が生かされていくような・・気がします
他人のマネ事で満足するのか、はたまた奇抜な選択をして満足するのか・・様々な判断があると思う、
知恵はその人それぞれの使い方で違いが出てくると思います
その人の先天的なことがらが大きく影響もするだろうし・・
どれが良いとはいいがたいような気がします
その人にあった知恵の使い方があるような・・・
出来ること・・出来ないこと・・無理して行動したとて結果が納得できないならば・・
努力をしない、ということでは決してありませんが・・
努力はするべきです、納得するような努力ならば、結果が悪かったとしても次に繋げられるから
生まれてきたからには皆平等に「幸せ」になる権利があると思う
その人の努力のかけかた次第で
その人の知恵の使い方次第で
かならずしもお金もちが幸せとは限らないし、美男美女だから幸せとも限らない、その人にあった
幸せの形ってあるのだと思う
自分の幸せの形ってこういうものだよ、と早くに気がついた人はいいですよね、それでも持続させ
るには相当な努力を惜しまなければならないだろうし・・
「知恵」って幸せになる為の貯金みたいなもの?
「知恵」って幸せになるためのいわば道具?
「知恵」って人生を豊かにしてくれるコト?
これからの知恵については
やはりいままでの事の積み重ねに、新たにあなたとの会話を通して得ることが知恵になったり、
更に情報を取り入れて知恵の基盤をひろめることかな・・・
情報はあらゆる所に存在すると思うのね。行ったことのない土地で得た情報が知恵へと変わるかもしれないし
はたまた明日初めて会う人から知恵を授かるかもしれないし・・・
思うに、常に目標を持ちつつ向上していく心を持って探求していくことがいいような・・・
これでイイと考えて努力を忘れてしまわないように、時に緊張をちょっとだけ弛緩を、もうちょっと緊張を、
う~~~んと弛緩をしながら何事もバランスを保ちつつ臨むことがいいような・・・
肉体が滅びる時に悔いの無い様を残せたらそれはとても有意義な時間だったことの証になるのでは・・
其の為に今を未来を知恵のチカラで切に生きていけたら本望なのでは・・
なんだか、とりとめもない内容になってしまいましたが、こんな事を思って今まで生きてきました。
一人だけど一人じゃない自分が居るって心強いですよね
今こうしてあなたと居られることに感謝しています
ありがとう。。。
たくさん心配かけて、いっぱい心配して それでも こうして居られる・・・
なにがあろうとも もう大丈夫だよね。。そう思っています。。そうだよね。。
ロッテの愛
これは メッセージ 5 sophialover007 に対する返信です
自分自身について 知恵と私 2006/ 2/ 8 0:01
ロッテの愛さんへ
返信有難うございました
とても嬉しかったです
そして興味深く読ませて頂きました
今後もこの様にして一歩ずつ対話を進めていきましょうね
さて今回のロッテの愛さんの返信で
私の気を引いた言葉たちは次の通りです
なお極端に私なりに要約していますし
また言葉によってはロッテの愛さんの意に反した要約をしているものもありますが
気になさらないで下さいね
私の論を進めて行く上で
私の遣り易い様に要約しました
了承して下さいね
さて先ずは「知恵」と言う言葉が使われている言葉については次の通りです
最初から順番に上げていきます
「知恵は今得て今使うもの」(これは典型的にロッテの愛さんの意に反しているものですね)
「知恵はその人なりに生かされる」
「知恵は使い方次第」
「知恵は幸せの貯金箱」
「知恵は幸せの道具」
「知恵は人生を豊かにする」
「知識は知恵の基盤」
「情報を知恵に変える」
「知恵は人から授かるものではない」(これもロッテの愛さんの意に反してますね)
「知恵の力で生きる」です
そしてロッテの愛さんの返信の中で最も気を引いた言葉は
「一人だけど一人ではない」
次が
「自らの幸せに早く気付いた人は幸せ」
そして三番目が
「肉体が滅びる時に悔いを残さない為に」です
この三つの言葉の中に
「知恵」の本質が隠されている様に思います
最も「一人だけど一人ではない」
この言葉の中に知恵の全てが隠されている様に思います
「一人だけど一人ではない」
これは
「自分の中にもう一人の自分がいる」
とも言い換える事が出来ます
この自分の中のもう一人の私
私はそれを知恵と呼んでいるのです
しかしそれには条件があります
先ずはこの重たい肉体を脱いでいる事
それから情念欲望本能から自由である事
すなわちスピリットオブスピリット
すなわち精神の中の精神と成った時
その時の精神の状態を私は知恵と呼んでいるのです
それはサイレントコーリングであり
問いに答えるものとなるのです
私はこの知恵を探す為に
古代哲学を読み漁りました
そして大体その通りであると確信したのです
古代では哲学の事を
philosophia知恵(sophia)を愛する(philo)事だと言います
この言葉の中に知恵の本質が隠されていると思います
何故古代哲学者があの様に知恵を愛したのか
それは知恵が問いに答えるものだったからです
知恵は知恵の泉だったのです
知恵は更に知恵を生み
知恵は尽きせぬ泉となったのです
この知恵の中には二つの概念があります
それは生み出すものと生み出されたものです
一般的にはこの二つを分けずに
または分ける事を知らずに
知恵と総称していますが
私が知恵と言う時は
生み出す存在としての知恵です
この知恵は様々に呼ばれています
もしロッテの愛さんがクリスチャンであれば
大変失礼な使い方をする訳になる訳ですが
「考える私」がそう考えた訳ですから
「考える私」が考えた通りを現すのが正直な事だと思うのです
キリスト教ではそれを何と呼んでいるか
それは聖霊でありキリストであると
ソクラテスや古代ギリシアローマ哲学者のダイモーンもそれであり
ダビデの主もそれであり
ウパニシャッド哲学者のアートマンもそれであり
老子の道もそれに近いものであると
しかし私の知恵に最も近いと言うか
私の知恵を知恵という言葉でそのままに現して呉れているのがソロモンです
旧約聖書に「箴言」と言う書があります
これはソロモンの知恵の書です
全てがソロモンの知恵の言葉で埋められていますが
この中に更に知恵の勧め(一)(二)(三)(四)と言うものがあります
これこそが私の言う所の知恵です
なお知恵の勧め(一)(二)(三)(四)は日本聖書協会が付けた小見出しだと思いますので
その(一)(二)(三)(四)の章節を挙げておきます
知恵の勧め(一) 箴言第1章第20節から同33節まで
知恵の勧め(二) 箴言第3章第13節から同20節まで
知恵の勧め(三) 箴言第8章第1節から同36節まで(第8章全節)
知恵の勧め(四) 箴言第9章第1節から同6節まで
二千字を超えたので次に続きます
これは メッセージ 6 lotte_no_i2005 に対する返信です
自分自身について 知恵と私 その2 2006/ 2/ 8 0:13
「私自身について 知恵を私」からの続きです
是非これらを読んだ上で返信頂ければと思います
これらの基礎の上に更に知恵について対話出来ればとても嬉しく思います
かなり形而上的なものになってしまいましたが
時には形而上の事も話し合う事は大切な事だと思います
何故ならそこには天使が居るかもしれないから
高く!高く
そこに天国が在り天使が居るのかも知れませんから
最もそれを脳内ホルモンの成せる業と言い切ってもいいのでしょうが
それではあまりにも刹那過ぎます
結局要は一人居る時如何に幸せ(快楽)を感じる事が出来る事なのですから
素晴らしいものを求めている
そう感じるだけでも人は幸せな気分に成る事が出来ると思いますが
その求めに応じて答えが降される時
人は有頂天になるのではないでしょうか
イエスは言いました
「一人奥まった部屋に入り戸を閉めて祈りなさい」と
祈りと知恵を愛する事は同じ事です
ただ違うのはキリスト教ではイエスを通じて神(最高最善のもの)を求めなさい
そうすれば聖霊(知恵)が降りて来るからと言っているのです
哲学者(知恵を愛する者)は直接知恵を求めようとします
キリスト教ではイエスの性格を帯びた知恵が下される事になります
それに引き換え哲学者の場合は時には素晴らしい知恵が下されますが
時には時には無秩序に成る事もあるのです
要は肉体を何処まで脱ぎ
欲望本能情念から如何に自由になるかと言う事が鍵となるのです
スピリットオブスピリット それが知恵です
なぞと今日も勝手に喋り捲りましたが
ロッテの愛さん気を悪くなさらずに
どうか今後もお付き合い下さいね
「知恵」は最も形而上的なものだと思うのです
少なくとも私が思っている知恵は
ですから今回はどうか「箴言」の「知恵の勧め」を読んで
返信を下さい
知恵の対話が終わったら
今度は形而下的なものについても対話をしていきましょう
恋愛 結婚 友情 仕事 家庭等々
いえやはりその前に対話をしておかなければならないものが一つあります
これ無しにはどんな対話も噛み合わなくなると思います
それは「私」です
これは決して形而上的なものではありません
何故なら私そのものがその素材なのですから
如何様にも引き回す事も出来るのですから
この「私」を認識しない限り
きっと「知恵」も無意味になるのかも知れません
しかしそれもこの考える私が考えた事です
「知恵」に関する対話が終わったら次は「私」について対話する事にしましよう
その後はフリートーキングと言う事にしましよう
「知恵」と「私」それは基礎の基礎だと思うのです
何故ならどちらも私自身なのですから
なぞと私のお喋りも終わりそうにありませんので
ここで強制終了にします
ロッテの愛さん
どうか懲りずに返信下さいね
「自分自身を考える機会として」
追伸
私は未だロッテの愛さんの返信に対して答えていなかったようです
「私は一人だが一人ではない」
これに気付けばロッテの愛さんが言われた知恵に関する言葉は全てその通りなのだと思います
ロッテの愛さんの言葉について
未だ未だたくさんの事を言いたいのですが
もう午前様になってしまったので今日はこれで終わりにします
中途半端で申し訳ありません
これは メッセージ 7 sophialover007 に対する返信です
「箴言」知恵の勧め~ 2006/ 2/14 20:30
sophialover。。。
初めて 手にする聖書 ・・・
なにやら重たいメッセージが書いてあるのかと覗いてみたところ
考え 思想
生き方 想い ・・・
少しだけ垣間みただけですが、ふとそんなふうに思いました
そこに書かれている文面を眺めていると
高貴な優しさ 父親のような大きさ を感じました
なかなか普段の生活の中で聖書を意識して暮らしていることなど
ありませんが、人として生まれてきて思うのは
身体の成長を通しながら心も日々成長(変化しつつ)していくこと
なんじゃないかな、と感じています
それも、安易な方向へとということでは無しにもっと気高いところへと
一日一日いろいろなことが巻き起こるわけだけども
生きているって楽しい事だけじゃないし、辛い事の方が多いかも
しれないけども、その都度その都度懸命に自分に与えられた命を
全うするために努力を惜しまずに知恵を生かして生きていかなければ
ならないように思うのです
ある方に教えてもらった言葉ですが
乗り越えられない試練を神様は与えない
乗り越えられる試練だけを与えてくれるから
目の前にある辛苦は自分で乗り越えなければならないのだと・・
誰のためでもなくて自分のために、だそうです
とても励みになる言葉でした
過去形になりますが、そういうことを経験してきた今
自分にはこんなジブンも居たことに気づかされたものでした
前が見えなくてつまずき転びそうになってもきっと先には
明かりがあることだけを信じて・・生きてきたし、生きてゆく
クリスチャンであろうと仏教徒であろうと人として生きていくことに
関してはみな同じですよね
宗教に関してはその人が心地よければ励まされるのであれば勇気が湧くので
あれば優しくなれるのであればいいことだと思うので・・それぞれが
心の糧にしてゆけばいいのでは・・
「箴言」は男性の心を表しているようにも思えました
女性の心を表しているのは、もしかしたらマリア様?
これは読んだことが無いので勘で云ってしまいましたが、
女性には女性特有の想いがありますからね
赤子を授かり育てていくときに培われる「母性」なのかなぁ・・
これについては私の中では永遠のテーマでもあります。。。
sophialoverの意図とはズレてしまいましたね。失礼。。
まだまだ 勉強不足の身です
知らない事が多すぎですが、人の意見に耳を貸すことから
なにかが生まれるかもしれないと思うと楽しくなりますよね
科学反応にも似てて、どんな答え結果がでるかを楽しむ人生
辛い時だからこそ、そう考えていたい・・とも
今回は「箴言」の 知恵の勧め からなにかを学びました
得した気分でいます。ありがとう。
上手く表現しきれていませんが、どうかご了承のほどを
あなた自身についても続きをお待ちしていますね ^^
ロッテの愛。
これは メッセージ 8 sophialover21 に対する返信です
私と知恵と主と神 2006/ 2/19 12:34
ロッテの愛さんへ
返信有難うございました
とても嬉しかったです
これからもこの様にして対話を進めていきましょね
私は思いました
私たちは一つのハードルを越えたと
私たちは新たな世界へと入ったと
私たちの入ったその世界とは精神世界です
その世界では私たちはより自由に成れるのです
私は前のメッセージで書きました
私たち自身をもっと研究しようと
今回はその線に沿って論を進めて行きたいと思います
さて「私」とは何者でしょう
私はその為に「私」と「知恵」と「主」と「神」と言う概念を打ち出します
さて私とは何者でしょう
私とは私の全ての基礎の基礎である
私とは考える存在である
私とは「我思う 故に我在り」の私である
こんな事を言ってもロッテの愛さんには何の事かさっぱり分からないと思います
私の言う「私」とは
デカルトの言う「我思う 故に我在り」の私と全く同じです
もし私を理解して頂けるのであれば
デカルトの言う「我思う 故に我在り」を読んで頂きたいと思うのです
デカルトの言う「我思う 故に我在り」は
「方法序説」の第四部にあります
そこには次に様にあります
「『私は考える 故に私は在る』と言うこの真理は、懐疑論者のどの様な法外な想定によっても揺り動かし得ぬほど堅固な確実なものである事を私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れる事が出来ると判断した」と
最もこれだけではやはり何の事か分かりませんね
どうかこの「方法序説」第四部を全部読んで頂きたいと思います
この第四部は僅か8頁です
30分もあれば十二分に読めます
1時間もあれば3回は通読出来る筈です
どうかこの第四部を通読して
私の言う「私」を理解して欲しいと思います
なおこの第四部には
デカルトの「神」の概念も述べらています
この第四部でデカルトの「私」と「神」の概念を理解した上で
「知恵」と「主」に立ち向かう事にしましよう
そして「神」と言う大いなる概念に旅立つ事にしましよう
なお上記の引用は
中央公論社「世界の名著」全集第22巻「デカルト」の中の「方法序説」からの引用です
この全集はお近くの図書館に必ずあると思います
なお岩波文庫からもデカルト著「方法序説」で出ています
是非この際に近代哲学の祖であるデカルトの
「私」と「神」の概念を理解して下さい
なお正直に告白すると
デカルトの「私」の概念は先程から何度も言っている様に
私の言う「私」の概念と同じです
それからデカルトの「神」の概念と私の「神」の概念も同じです
ただ違うのはデカルトが「神」を実在として感じていたのに
私はそれを未だ実在として感じる事が出来ないと言う事です
もし神を実存するものとして臨在するが如く感じる事が出来たら
その時私にも実在の神が存在する事になるのです
私はその為に哲学の旅をしているのかも知れません
知恵と私と主と神 その2に続きます
これは メッセージ 9 lotte_no_i2005 に対する返信です
私と知恵と主と神 その2 2006/ 2/19 12:36
知恵と私と主と神からの続きです
さて私は何者か
私は真理に向かう者である
その私がロッテの愛さんにお願いしたいのです
それはソロモンの知恵を語って貰いたいのです
次の様の方法で行なって貰いたいと思います
先ずは「箴言」から知恵と言う言葉が出て来る節を抜き出して欲しいと思います
そしてそれらを再構築して
ロッテの愛さんの言葉で
ソロモンの知恵を語って欲しいと思うのです
それからもう一つお願いがあります
それはダビデの主を語って頂きたいのです
「箴言」の前に「詩篇」と言うものがあります
これはほとんどがダビデの詩ですが
それ以外の者の詩もあります
大体詩の前に作者の名前が記されています
ダビデの詩の場合は「ダビデの詩」と書かれています
これもソロモンの知恵と同じ遣り方で遣って欲しいと思います
すなわちダビデの詩の中から主と言う言葉が出で来る節を抜き出して
それを再構築して
ロッテの愛さんの言葉で
ダビデの主を語って欲しいのです
これはソロモンと知恵と比較にならない程難しい作業だと思います
何故なら全編に渡ってそれこそ数える事が出来ない位主と言う言葉は出て来ますし
その言葉に神と言う言葉が入り混じっているのですから
しかしこの作業を遣らなければ
キリスト教も理解出来ないと思います
何故ならキリスト教はこのダビデの詩に負う所が大きいのですから
デカルトの「私」すなわちロッテの愛さんの「私」を信じれば
何も懼れる必要は無いと思います
何故ならロッテの愛さんの「私」はロッテの愛さんの「主」なのですから
そしてそれは真理であり神に通じているのですから
(※最もデカルトの「私」を真とするか偽とするかはロッテの愛さんの考え次第ですけれど・・・)
ただここで一言だけ注意をして置きます
ダビデもソロモンもユダヤ人の王だったと言う事です
私たちはユダヤ人でもありませんし王でもありません
その辺りの記述はパスするか深読みしない方がいい思います
どうかデカルトの「私」と「神」の概念の基礎の元に
ソロモンの「知恵」とダビデの「主」を語って下さい
そうすれば私たちに大きな精神の世界が広がります
そうすれば私たちはその世界で自由に遊び回れるのです
そしてそこで私たちにとって最も重要な言葉「神」についても
その概念が溢れんばかりに溢れ出て来ると思います
私たちはその中で真なるものと思われるものを抽出してばいいのです
要はこう言う事です
ダビデの神 ソロモンの神 イエスの神 デカルトの神
その他様々な哲人 偉人 聖人の神
そしてロッテの愛さんの神
それら全ての神の中に共有するものを抽出し
そしてそれを「考える私」の神とする事なのです
そしてその神にこう祈るのです
「我が神 我が主よ」と
そうすればそこに溢れんばかりの知恵が溢れ出る事になるのです
それが私の夢見ている理想形です
そしてロッテの愛さんはその道程の中での友達なのです
その為にも
ロッテの愛さんには先ず
デカルトの「私」と「神」
そしてソロモンの「知恵」とダビデの「主」を知って貰いたいのです
sophialoverより
ロッテの愛さんへ
知恵と私と主と神 その3に続きます
私と知恵と主と神 その3 2006/ 2/19 12:39
知恵と私と主と神 その2からの続きです
追伸
今回の返信はロッテの愛さんの
「宗教に関してはその人が心地よければ励まされるのであれば勇気が湧くのであれば優しくなるのであればいいことだと思うのです・・それぞれが心の糧にしてゆけばいいのでは・・」にインスピレーションを得ました
確かにある宗教に入り その中で励まされ勇気が湧き優しくなりそして心地よければ、それはそれでとても素敵な事だと思います
しかし私たち現代人は一つの宗教に入る事を躊躇してしまいます
それは私たち現代人が「考える私」である事から止むを得ない面のだと思います
「考える私」が真と認めたもの以外は信じない
そうなれば宗教の中での秘蹟的な事柄についてはどうしても信じられない
だから宗教に入る事を躊躇する と言う事になるのだと思います
そんな現代人の為に私の方法は一つの方法だと思うのです
すなわち「私の神 私の主」を見付ける事です
しかしそれは独善と成り易いものです
それを矯正する為にも「知恵を愛する仲間たち」(哲学者集団)が必要なのです
ロッテの愛さんにそんな仲間の一人に成って欲しいのです
○○さん その考えは如何なものかしら
そこから「考える私」は更に真理に向かって走る事になるのです
私は思います
結局誰も真理には辿り着かないと
哲学者(知恵を愛する者)は真理へと向かおうとする者の謂いだと
なぞと追伸が追伸でなくなってしまいましたのでこれで終わりにします
なお私は私の考えをロッテの愛さんに押し付ける気は更々ありません
ただ私に影響を与えた哲学者たちを知って欲しいのです
十数人います
その中にはイエスやブッダもいるし
私を快楽主義者(肉体ではなく精神の快楽主義)に導いたエピクロスもいます
彼らの最も代表的な文献(1時間くらいで読めるもの)を示していきたいと思います
そう言う訳ですのでどうか気長にお付き合いして頂きたいと思います
古代哲学を勉強するつもりで
古代哲学には知恵がきらきら輝いていると思います
「知恵」及び「哲学」(知恵を愛する事)についてもう少し深く勉強してみませんか
その為にも先ずソロモンの知恵とダビデの主について語って下さい
デカルトの「私」と「神」の概念の下で
近代人の目で古代を見る
すなわちルネサンス 精神の復興です
私たちの荒廃したこの精神の中に
古代人の生き生きとした知恵を復活させましょう
それが私とロッテの愛さんの当座の仕事です
なぞと私の考えを押し付けてしまったですね
限が無いので今日はここで強制終了です
神 2006/ 3/13 20:45
sophialover
あなたの思考回路を覗いてみるつもりが・・・
どんどん奥深く沈んでいきそうで、少し戸惑いを感じてしまいます
どうも、私には難攻不落な問題ばかりが多くて、困惑気味になりながらも
好奇心に揺さぶられ、挑戦してみましたが、デカルトさんもダビデさんも
ソロモンの知恵についても・・・
今 此の時に 出会って そうね~
もっと 違ったかたちで出会っていたならば、すごく感動や勇気や励ましや
それこそ人生をも変えるくらいの出来事になっていたかもしれませんが、
現時点での感想としては、そういうのも在りなんだろうけど・・・と
いったところでしょうか
それでも sophialovere にとっては きっと 大きな変革期での出会いで
今でも 感銘大 なんだと想像しています。
そして其処のところで素直に生きているようにも思えています
あと、それでも、まだ、何かが、足りてなくて、もしかしたら、他に何かが、
とか いつでも 自問自答を繰り返しながら生きているようにも思えます
だから 旅 なのでしょうね、、、
「我思う 故に我在り」の精神が 基本にある方なんですよね
事なかれ主義だったり 長い者には巻かれろ だったりと、早急に結果ばかりを
追い求めている時代にあって そこまで深く物事を捉えている方は貴重なのかな、
とも思うしだいです
在り来たりの答えに満足して一律同然で納得する方と比べたら、sophialover の
考えは自立していて本人らしさが滲み出ているようにも思えます
(私より大人な方に対して大変失礼な言い方でした。。。ご免なさい)
生意気云わせてもらいますが 広い視野で物事をとらえた場合 いろんな人が居て
いいように思うんですね
全員が一つの考えで居るよりは(家庭・学校・職場・地域・国家・世界?)
考え方の相違から いいものが生まれる場合もあるし、、、その逆もありうる
前も書きましたが、摩擦から大きなもの(事)が出来上がることだって在りうるし
その逆も在り、
でも 人として 生まれて生きていく上で しては成らない事 って在ると思う
これも人それぞれだと思うが、
細かいところで 違いがあると思うから、
きっと その人の立場によって違いがでてくるものだと思うのです
(この辺は想像力で理解していただけたら、、、)
前置きが長くなりましたが
神 ですが・・・
広辞苑より
1 人間を超越した威力を持つかくれた存在
人知を以てはかることのできない能力を持ち人類に渦幸を降すと
考えられる威霊
人間が畏怖し、また信仰の対象とするもの
2 日本の神話に登場する人格神
3 最高の支配者
4 神社などに奉祀される霊
5 人間に危害を及ぼし怖れられているもの
6 キリスト教で宇宙を想像して支配する全知全能の絶対者
との説明でした
この説明を目にする前には 漠然とですが 神 って 具体的なもの(事)
じゃないような気がしてて・・・ もしかしたら 自分自身の中にも
存在してるのかな?とか 自然(宇宙)の中にも存在するのかな?などと
考えていました
神が居るとしたら、、居たとしたら、、
そういう私も まだ出会って居ないのかもしれない・・・ 神 に
それとも 見逃してしまっているのかな? 神 を
>「神に僅かに劣るものとして人を造り」
それは この意味でもあるのでしょうか
神について今まで深く考えてみたことなどなかったのですが、
ただ 思うのは 生かされていることは実感としてありますね
自分ではどうにも ならない事もあるものだとも・・・
青になりたくても赤だから到底 青には成れないとか・・
赤は赤のまま 赤らしく生きていったほうが善いかな、とも思う昨今です
最後の項で 言葉にふれていましたが、
言葉は使い方次第でどのようにも 表現できる 手段だと思う
できたら、心のままに奇麗な言葉を 口にしてゆきたいと思う
言葉が汚れていたら 心まで歪んでいるようで情けなくなって
しまいますからね
それでも 言葉は一人歩きして 聞いた人の感情で解釈が取り違えられる事も
あると思うから 自分で口にする 言葉には 誠意を持って 使いたいものですよね
ましてやこのような起伏の無い世界での 言葉の使いかたって 非常に誤解が
生まれやすい場所だとも思います
言葉についてはどうしてもおしゃべりになってしまう 私が
居ます
アシカラズ
次へ
これは メッセージ 18 sophialover21 に対する返信です
神 その2 2006/ 3/13 20:58
続きになりますが、
sophialoverはとても ロマンチィストでらっしゃるから古代の哲学者たちに
触れて自分の世界をお持ちのようですが
どうやら私のように現実直視で 居る者にとっては 言葉とて 相手の目を
見て その言葉を受け止めたほうが より一層の感慨をもつようです
その時々の 心が その言葉に 表されているのだから、
例え それが嘘や虚栄心であったとしても 目の前の 言葉には意味がある
と感じることが出来るのだから
ありがとう の意味も
ごめんなさい の意味も
その人の口から出た 言葉には魔力が あるはず
言葉の持つ力 って
極端な言い方をすれば その人なりが映し出されるようでもある、
と思う
何故そのような言葉を 口にしてしまったのか、とか
目の前で発する言葉には かならず意味があって その人の心が反映される
と思う
多くの言葉を従えなくとも 少ない言葉で伝わることだってあるのだから・・
今日はおしゃべりになってしまいましたね
話題には事欠かないつもりで居ても 得手 不得手がやはりありますよね
人の話に耳を傾けていると また違った自分にあえるようで それまた
楽しくも思えてしまいます
この記憶がまた何処かで芽吹くかもしれないと思うと、大切にしていたいな~って
思います
私の中の眠っている神経たちを刺激するように sophialover の話を聞かせて下さいね
ロッテの愛
これは メッセージ 19 lotte_no_i2005 に対する返信です
知恵との旅 その4 2006/ 3/23 11:07
知恵の旅その3からの続きです
知恵の旅を前回4千字程度で書き上げたので
3回程度に分割して送信しようと思ったのですが
前回の送信結果からも分かる様に上手くいかず
そしてついには送信不能になりました
プロバイダー相談した所
接続不良という事が分かり送信する事が出来るようになりました
前回の残り分を取りあえず送信して置きます
なお、ロッテの愛さん返信に対する回答したい所ですが
今とても時間がありません
1ヶ月程したら落ち着いてくると思うので
その時はまたインナートリップに挑戦して見ましょう
なおその時は
私がこれまでに投稿して来た十万字近くのメッセージを
ホームページにでも作成して掲載しようと思っています
それを見れば私の全てが大体分かると思います
その時まで
多分私は掲示板を開かないと思います
その時会える時を楽しみにして
なお今回も字数が多いと文字化けするようです
取りあえずこれを送信して
次のメッセで知恵の旅その3の続きを送りたいと思います
知恵との旅 その4 2006/ 3/23 11:20
ロッテの愛さんへ
やはり文字化けをしてしまうようです
落ち着いてから
また私の全てを送りますので
その時出来る事ならまたお付き合い下さい
この掲示板はこのあたりで閉じたいと思います
もし準備が出来たら
その時はまた呼びかけたいと思います
その日その時会えるまで
ロッテの愛さんへ(未投稿)
※上記「智恵との旅」の原稿か
ロッテの愛さんへ
返信有難うございました
とても嬉しかったです
もう会えないのでは
そんな風にも思っていましたから
しかしそれよりも何よりも嬉しかったのは
ロッテの愛さんが私を理解して呉れようとした事です
「私の心が詩篇の中にあるのでは?」と
そんな風に思って呉れた事が何よりも嬉しかったです
確かにその通りです
ダビデの様に神が居て
その神に
主よ神よと呼びかける毎に
その願いが叶えられるのであれば
どんなにか嬉しい事でしょう
しかしこれまでも告白している様に
神の概念は持っていますが
私には未だ神は臨在していません
だからダビデの様に主よ神よと呼びかける事はありません
ただどうしても眠れない時に
呪文の様に主よ主よ・・・と呼びかける事はあります
そんな時不思議と安らかに眠りに就く事が出来たりします
不思議ですよね
やはり潜在的に神が臨在しているのでしょうかね
それから一昔前になりますが
文章を書き始めた頃
主との対話形式の文章を書き続けた事があるのです
私はその時
主と言うか知恵と言うか
そんな存在に気付かされたのです
その対話形式の文章は大体次の様な形式で進んでいくのですが
「主よ お早うございます
今日もまた素敵な世界へとご案内下さい」
「今日は何処に行きたいのだ」
「美の世界です」
「美とは何だ」
そんな風にして対話はどんどん進んで行くのです
そしてその対話が終わる頃
いつも私は思うのです
What a wonderful world 何と素敵な世界と
私はその主とも呼んでいる導き手が知恵であると確信しているのです
何故ならその世界は私が知っている世界ではないのですから
その対話の中で
その主とも知恵とも呼ばれる導き手が
その世界へと「考える私」を導いて呉れているのですから
これが私が知恵を確信した次第です
そしてその経験から
ソロモンの知恵やダビデの主やキリスト教の聖霊や
老子の道やインド哲学のアートマンや
その他これに類するものもそれだと理解するようになったのです
全てこれらは知恵の源泉なのです
「知恵の旅」からの続きです
詩篇の8章は私の好きな詩です
途中からですが次に引用します
「貴方の天を貴方の指の業を私は仰ぎます
月も星も貴方が配置なさったもの
その貴方が御心に留めて下さるとは人間は何者なのでしょう
人の子は何者なのでしょう 貴方が顧みて下さるとは
神に僅かに劣るものとして人を造り
なお栄光と威光を冠としていただかせ
御手によって造られたものを全て治めるようにその足元に置かれました
羊も牛も野の獣も空の鳥も海の魚も海路を渡るものも
主よ 私たちの主よ
貴方の御名はいかに力強く全地に満ちていることでしょう」
この詩のポイントは
「神に僅かに劣るものとして人を造り」です
神が遠くの遠くにあれば
神は私たちには無縁です
神に僅かに劣るものが人であれば
私たちは神を身近に感じる事が出来る筈です
ダビデが如何に神を身近に感じていたか
詩篇を読めば分かりますよね
神は私たちの身近にあります
神を求めれば求める程
神はそれに相応しい知恵を授けて呉れます
知恵とは言葉とも言い換えてもいいと思います
「美しき善き言葉を集めるのは誰か」
私たちは神と付き合えば付き合う程
神が身近なものになってくるのです
しかし誰も神を摑まえる事は出来ません
例え私たちが一万回生まれ変わって
毎日毎時毎分毎秒神を求め続けても
神の言葉は無限です
また世界中の全ての人が一緒に用意ドンで
神を求め続けても
神の言葉は尽きる事はありません
神は千変万化で
それぞれの人々に
その求めに応じて言葉を下されのです
神とはそう言う存在です
神は身近であるが
それは尽きる事は無い 無限であると言う事なのです
ダビデはいみじくも言いましたよね
「神に僅かに劣るものとして人を造り」と
そして日ごと朝ごとに神を求め続けたのでしたよね
しかし決して次の様には言わなかった思います
「私は神を摑まえた」などと
私は神には二つの概念があると思います
一つは私の神でもう一つは普遍として神です
インド哲学ではそれを明確に表しています
アートマンとブラフマンと
アートマンが私の神であり
ブラフマンが普遍としての神です
キリスト教でもそれは明確になっています
私の神が聖霊であり
普遍としての神はただ神です
ダビデもある程度明確にその使い分けをしています
神に呼びかける時は
大体主よと呼びかけている筈です
神と呼びかける時も私の神よと呼びかけている筈です
そして神の普遍一般的な態様を表す時はだた神と言う表現を使っていると思います
この「主よ」とか「私の神よ」とかが私の言う「私の神」です
私たちはこの神に呼びかけて「普遍なる神」
過去現在未来永劫に渡って無限に存在するその神から
普遍のおすそ分けを頂く事になる訳です
私も主との対話形式の文章を作っている時も
そんな経験をしました
私にすごく身近ではあるが
常に私の一歩先を行っているのです
その先導の下に付いて行けば
常に新たな世界を見させて呉れるのです
最も私の主は上記の例を見ても分かる様に
ダビデの様な神のイメージではなく
身近な知恵の教師と言ったイメージで呼びかけていました
だからそこから下される言葉もそれ相応のものとなっていました
もし私が敬虔に神を信仰し
その神に求めればそれに相応しい言葉たちが齎される筈なのです
それは敬虔のクリスチャンを見れば分かると思います
要はその主に如何なる衣を着させるかと言う事になってくるのです
まあ私の場合で最高の表現をとれば
それは「知恵の神」と言う事になるのかも知れません
もしその神に金儲けの衣を着させれば
きっとその為の知恵を授けて呉れる筈です
要は如何に熱心に求めるか そして何を求めるかと言う事に帰着する事になってしまうのです
「求めよさらば与えられん」なのです
さてロッテの愛さんは「私の神」に
どの様な名を付け何を求めますか
もしマリア様と呼びかければ
それに相応しい言葉とそれを実行させる為の意志が下され筈です
もし女神様と呼びかければ
それに相応しい言葉と意志が
私たちは言葉が無ければ何をも意志する事も出来ないのですから
先ずは私たちを「美しき善き言葉」飾らなければならないのです
その為にもどうか「私の神」と対話を進めて下さい
そしてそれを文字に表してみて下さい
そこに私の言う「知恵」の軌跡が見て取れる筈です
sophialoverより
ロッテの愛さんへ
私は神には二つの概念があると思います
一つは私の神でもう一つは普遍として神です
インド哲学ではそれを明確に表しています
アートマンとブラフマンと
アートマンが私の神であり
ブラフマンが普遍としての神です
キリスト教でもそれは明確になっています
私の神が聖霊であり
普遍としての神はただ神です
ダビデもある程度明確にその使い分けをしています
神に呼びかける時は
大体主よと呼びかけている筈です
神と呼びかける時も私の神よと呼びかけている筈です
そして神の普遍一般的な態様を表す時はだた神と言う表現を使っていると思います
この「主よ」とか「私の神よ」とかが私の言う「私の神」です
私たちはこの神に呼びかけて「普遍なる神」
過去現在未来永劫に渡って無限に存在するその神から
普遍のおすそ分けを頂く事になる訳です
私も主との対話形式の文章を作っている時も
そんな経験をしました
私にすごく身近ではあるが
常に私の一歩先を行っているのです
その先導の下に付いて行けば
常に新たな世界を見させて呉れるのです
最も私の主は上記の例を見ても分かる様に
ダビデの様な神のイメージではなく
身近な知恵の教師と言ったイメージで呼びかけていました
だからそこから下される言葉もそれ相応のものとなっていました
もし私が敬虔に神を信仰し
その神に求めればそれに相応しい言葉たちが齎される筈なのです
それは敬虔のクリスチャンを見れば分かると思います
要はその主に如何なる衣を着させるかと言う事になってくるのです
まあ私の場合で最高の表現をとれば
それは「知恵の神」と言う事になるのかも知れません
もしその神に金儲けの衣を着させれば
きっとその為の知恵を授けて呉れる筈です
要は如何に熱心に求めるか そして何を求めるかと言う事に帰着する事になってしまうのです
「求めよさらば与えられん」なのです
さてロッテの愛さんは「私の神」に
どの様な名を付け何を求めますか
もしマリア様と呼びかければ
それに相応しい言葉とそれを実行させる為の意志が下され筈です
もし女神様と呼びかければ
それに相応しい言葉と意志が
私たちは言葉が無ければ何をも意志する事も出来ないのですから
先ずは私たちを「美しき善き言葉」飾らなければならないのです
その為にもどうか「私の神」と対話を進めて下さい
そしてそれを文字に表してみて下さい
そこに私の言う「知恵」の軌跡が見て取れる筈です
sophialoverより
ロッテの愛さんへ
追伸
デカルトは「私」について次の様に言っています
私とは考える存在である
そしてそれは私にとっては真理である
だから私が真理であると考えたものは真理としようと
俗に言う自我の目覚めです
この私が無い限り知恵との対話も無意味なものなってしまいます
と言うより
知恵との対話が成り立たないのかも知れません
「私」をしっかり確立した上で、知恵とのめくるめくる旅を楽しんで下さい
これが私の言う「知恵の旅」です
これはどんな世界旅行より楽しい筈です
先ずは経費が要りません
そして直ぐに出発する事が出来ます
そして何よりも知恵が見せて呉れるめくるめくる世界が楽しいのです
もしこの旅の楽しさを知ったなら
寸暇を惜しんでこの旅に出掛けようとする筈です
この旅はエピクロスの言う「快楽主義」
この前にも言った様に
肉体の快楽主義ではなく精神の快楽主義へと繋がって行くのです
どうか知恵との旅を楽しんで下さい
しかしやはりその為には知恵と神の基礎知識が必要ですよね
古代には知恵がきらきら輝いています
私が参考にした知恵の参考書を次に掲げて置きます
イエス 「新約聖書 福音書」(日本聖書協会)
パウロ 「新約聖書 手紙」(日本聖書協会)
ダビデ 「旧約聖書 詩篇」(日本聖書協会)
ソロモン 「旧約聖書 箴言」(日本聖書協会)
孔子 「論語」(岩波文庫)
老子 「老子」(講談社学術文庫又は岩波文庫)
ブッダ 「真理の言葉・感興の言葉」(岩波文庫)
ヒンズー教 「バガヴァッド・ギーター」(岩波文庫)
プラトン 「国家」(岩波文庫)
エピクロス 「エピクロス」(岩波文庫)
セネカ 「人生の短さについて」(岩波文庫)
マルクス・アウレーリウス 「自省録」(岩波文庫)
(北京関係掲示板)
初期資本主義社会 北京の陰と陽 2006/ 5/10 23:39
4月29日から5月7日までの9日間北京に言って来ました。
私の旅の目的は民族と国家と街を知る事。
今回も北京を堪能させて貰いました。
北京の印象を一言で言えば貧富の差歴然
資本主義の第一段階
強い者はより強く
弱い者はより弱く
私は北京駅の近くに宿を取っていました。
それでガイドブックに従い北京空港より3線北京駅行きリムジンに乗りました。
バスは終点で止まりました。
私は当然そこが北京駅前だと思ったのです。
さて私がバスを降りると数人の中国人が寄って来ました。
中国語で話しかけてきますが
何かの客引きだろうと思い無視していました。
その内その中の一人が私が日本人である事に気付いたのでしょう。
片言の英語で話しかけてきました。
何処に行くのかと。
それで私が北京駅だと答えると。
彼は遠くを指差して
北京駅はあちらだと言うのです。
私は愕然としてしまいました。
言葉の分からない北京でどうしたものかと。
カウンターパンチを食らったような気分でした
それでもある程度旅慣れた私の事
地図を広げて善後策を講じようと
バッグの中から地図を取り出そうとすると
その彼は私のバッグを覗き込んで執拗に迫るのです。
私が案内しようと。
彼が覗き込みながら執拗に迫るので
地図も取り出せずにいらいらしてしまい
遂に根負けしてお願いする事にしたのです。
何故なら彼が鍵をちらつかせていたのでてっきりタクシードライバーだと思ったのです。
それで幾らかと聞いたら
ヒフティと言うのです。
それで私がオーケーと言うと
彼は付いて来いと言うのです。
直ぐそこにタクシーがあるのかと思ったら
路地を曲がり通りを渡り二百メートル近く歩かせた後
乗れと言うのです。
何とそれはあの幌引き自転車だったのです。
私はまた愕然としてしまったのですが
これもまた風情と思い込み乗り込みました。
その通り最初に胡同に入り込みました。
ああこれが胡同かと
しかしそれは最初だけでした。
大通りに出ると逆行、信号無視、車の間を縫う様にしての横断等々
実にひやひやものでした
15分位走ったのでしょうか
道が狭く片側通行で交通量が多いためこれ以上逆行出来ない様な所
しかし人通りの少ない所に車を止め
その筋を左に曲がった所が駅だと言うのです。
私は彼にチップを含めて80元ほど渡そうと財布から取り出そうとすると
彼は何と400元だと言うのです。
50ドル400元だと言うのです。
私は言いました。そんな約束はしていないと。
しかし言葉が通じない場所では争いは禁物です。
それで私が200元近くの紙幣
1元5元10元20元紙幣の入り混じった十数枚の紙幣を取り出すと
彼は400元近くあると思ったのでしょうか
それをもぎ取るようにして去って行きました。
これが私の言う資本主義の第一段階
強き者はより強く 弱き者はより弱くです。
勿論彼が強者であり 私が弱者です。
彼はこの経験を活かして
更に日本人から富を搾取して行く事になるのでしょう。
(私は思っています。
私が降りたバス停は北京駅前だったと。
彼は私を騙して連れ回し
北京駅前バス停よりも更に遠い所に私を降ろしたのだと。
最も私は悪感情は全く持っていません。
それよりもいい経験をしたと思っているのです。
民族を知り 国家を知り 街を知ると言う・・・)
初期資本主義社会 北京の陰と陽その2に続く
これは メッセージ 1 bersekle に対する返信です
初期資本主義社会 北京の陰と陽 その2 2006/ 5/10 23:43
初期資本主義社会 北京の陰と陽からの続き
さてこれも資本主義の第一段階の例です。
ホテルに荷物を置いて街に繰り出しました。
私が街に着いて最初にする事は
その街の骨格を歩く事です。
古い街で言えば城門から城門までです。
北京で言えば建国門から復興門までです。
北京駅前広場を一通り歩いてから
北京駅街を建国門内大街に向かい
更に建国門内大街を建国門に向かっていました。
もう夕刻でしたのお腹が空いていたのです。
そうすると右手にマグドナルドが見えてきました。
グッドタイミングそう思いました。
私が街に着いて最初に食事をする所は大体マグドナルドです。
マグドナルドの注文方式は万国共通です。
セットメニューを指差してこれと言えば大体通じます。
最もあれやこれやと聞いてきますが、
全てにイエスイエスと答えていれば
相手はちんぷんかんぷんにも思いながら
それなりにセットメニューが出てくるのです。
ここで皆さんに教えて置きたいと思うのですが、
マグドナルドのセットメニューは万国共通では無いと言う事です。
それぞれの国にそれぞれ独自のセットメニューがあるのです。
さて私はお腹が空いていたのでマグドナルドにまっしぐらに歩き始めました。
その時です。
若い女性が私に纏わり付いて来て
中国語で何かを話かけて来るのです。
私は無視してマグドナルドに向かうのですが
そんな事はお構い無しにずっと付いて来て
中国語で話しかけて来るのです。
マグドナルドの目の前に着いた時
私はこれから食事をするのだと言うと
彼女はハングリィと言うのです。
お腹が空いているのかと聞くと
そうだと答えるのです。
どうか一緒に食事をさせて下さいと頼むのです。
仕方が無いと思いながら
マグドナルドに入り
彼女を席につかせてセットメニューを上記の方法で二つ頼んだのです。
しかし今回は二つと言う事が通じず1セットしか出てきませんでした。
それで彼女にその1セットを渡しました。
すると彼女はシェイシェイと言いながら食べ始めました。
色白で楚々として儚げでした。
食事が十分に取れないのか痩せていましたが
色白であるため決して下品ではなくむしろ上品な感じがし
マッチ売りの少女の中国版かと思わせるくらいでした。
着ているものも肩の辺りがほつれているが決して汚れてはいず
その薄緑色の服の色が色白の顔に反映して
より儚げに映るのでした。
彼女は聞きました。
貴方も仕事を探しに来たのですかと。
私は言いました。
私は日本人で旅行に来たのだと。
彼女は言いました。
私は南京の出身です。
北京には仕事を探しに来たのですが 仕事が見つかりません。
南京に帰りたいのですが 帰りの汽車賃もありません。
どうか200元程用立てて頂けないでしょうかと。
200元位断れる理由もありません。
それで200元を渡しました。
彼女はすまない様な儚げな顔をしながらシェイシェイと言いました。
もしセットメニューが私の分まであれば
私はもっと彼女から色々な事を聞こうとも思いましたが
私もお腹が空いていたので
それじゃと言いながらマグドナルドを出ようとすると
また彼女がすまなそうな儚げな顔で
実は今日泊まる所も無いのです。
100元程用立てて頂けないでしょうかと。
100元位断れる理由もありません。
それで100元を彼女に渡し
今度は彼女を席に残してバグドナルドを出て建国門に向かったのです。
そして建国門から東単、王府井、天安門、西単、復興門と
北京の背骨を歩いたのです。
この街路の何と立派な事よ。
何処の街のどの街路と比較すればよいのか。
シャンゼリーゼか。
比較の対象とはならないが
壮大さから言えばシャンゼリーゼの上を行く。
さて建国門から彼女と出会った場所を過ぎ東単に差しかかった時
彼女とまた出会いました。
今度は彼女は年配の男性と楽しげに話していました。
彼女は私を見付けると
シェイシェイと本当に感謝の意を込めながら礼儀正しく私に挨拶をして呉れました。
私も軽く会釈をして通り過ぎたのです。
??
初期資本主義社会の陰と陽
一の陽と十の陰
まだまだ悲惨な陰は続きます。
今日はこの辺りで。
初期資本主義社会 北京の陰と陽 その3 2006/ 5/13 12:04
さて旅行記を続ける事としよう。
前回は、旅行初日リムジンの最終バス停北京駅前バス停で
輪タクの客引きに北京駅はすっと向こうの方だと騙され
ヒフティの約束で乗車し
付近を連れ回された挙句
50ドル400元を請求された事
更にその日
北京駅街と建国門内街の交差する辺り、恒基広場辺りで
南京から仕事を探しに来たが
仕事が見つからず南京にも帰る事が出来ず
空腹で居た若い女性から声を掛けられ
マグドナルドで食事を提供し
100元の宿代と200元の帰りの汽車賃を用立てた事
この事に依って前期資本主義社会の陰の様なものを見たと書きました。
更にその後、建国門から復興門までストリートを歩き
その雄大さに驚いたと言う様な事を書きました。
まあ、これに依って、北京の陽を見た訳です。
さて建国門から復興門までの世界屈指の大通りを歩いた後
復興門駅から地下鉄で北京駅まで帰ろうとしたのですが
もう北京駅行きはいないとの事でした。
未だ11時をちょっと過ぎたばかりだったのですが・・
タクシーに乗って帰ろうとも思いましたが
先程の輪タクの事もあり、未だ馴れていなかったので
この世界屈指の大通りを
西単、天安門、王府井、東単と後戻りして
北京駅へと歩いて帰ったのです。
二度目のそれでもその感嘆は消える事はありませんでした。
私はここでまた北京の資本主義社会の陽を感じたのでした。
さて私の宿は北京駅の近くだったので
また北京駅の広場へと向かったのです。
もう12時は回っていたと思います。
私が夕刻北京駅を訪れた時は
それこそ夕刻の喧騒でしたが
12時を回った北京駅はひっそりとしていました。
しかしそれでも百人は下回らない人たちが蠢いているのです。
暗闇ではっきり見えませんでしたので、
彼らを見て回ったのですが、
彼らは何と野宿でした。
それは乞食ではなく
正にあの恒基広場辺りで出会った南京から仕事を探しに来たが
仕事が見つからず住む所も無い言う人たちだったのです。
私はここで更に初期資本主義社会の陰の様なものを感じてしまったのです。
私は旅行初日の夕刻から12時までの間に
北京の初期資本主義社会の陰と陽を垣間見たのです。
私が宿に帰ろうとする道すがらも
何人かの客引きが私と引き止めました。
いい宿が有るよと。
看板を見ると
10元、20元,30元、50元、100元とあります。
私は10元、20元の部屋がどんな部屋だか想像する事が出来ませんでした。
しかしそれは後日確認出来ました。
これは皆さんも確認しようと思えば確認出来ます。
虎坊橋に北京人工クラブ(雑技団鑑賞)と湖広会館(京劇鑑賞)が隣り合わせであります。
更にその隣、虎坊橋の交差点側にそれがありました。
あれは多分7時前だったと思います。
歩道で上半身裸で体を拭く人が二三人程いました。
北京ではこんな風習があるのかな思って見回すと
そこに正に10元、20元の宿があったのです。
間口は十数メートルでしょうか
全て引き戸になっており、全てオープンになっていました。
中には1メートルほどの土間があり、その奥に二段ベッドずっらと据え付けられてて居るのです。
ゴールデンウイークに無人の山小屋に泊まった事がありますか。
正にあの状態、寿司詰めです。
私はここで10元、20元の宿の正体を見たのです。
とにかく旅行初日に夕刻から12時過ぎまでの間に
前期資本主義社会の様な北京の陰と陽を見たのです。
その後の1週間の旅もその印象を強くする旅でした。
陰については未だ悲惨の陰が続きます。
また陽についても驚きの陽があります。
どうしてこの様な貧富の差が付くのか
ある程度理解出来る所も有りますが
理解出来無い所もあります。
もう少しこのシリーズを続けて行きたいと思います。
今日はこの辺りで。
初期資本主義社会 北京の陰と陽 その4 2006/ 5/14 22:31
さて北京旅行記をまた書き続ける事としましよう。
昨日は
4月29日旅行の初日の夕刻から12時過ぎまでの間に
前期資本主義社会の様な北京の陰と陽を見
その後の一週間はその印象を強くする旅でしたと書きました。
私がこの印象を強く持ったのは
勿論北京の陰においてです。
私がパック旅行で北京のあの壮大な観光地を回り
王府井辺りの豪華なホテルに泊まったのであれば
北京の陰陽など見る事は無かったでしょう。
ただ北京の陽に驚いて帰るだけの旅だったのでしょう。
しかし私はこの目と足で
具に北京の陰と陽を見て回ったのです。
それでは先ずその陰陽の印象を強くしたと言う陰を列挙してみましょう。
先ずは乞食です。
勿論皆さんが行く様な観光地には乞食など一人も居ない筈です。
そんな所に乞食が居たら国家の恥でしょうから
人民軍、国家警察、北京保安等々が目を光らせて
排除して居る事でしょうから
しかし皆さんが北京市民となって
国鉄や地下鉄やバスを利用するのであれば
その集積する所には必ず乞食も居るのです。
その乞食が大人だけであれば
私は前期資本主義の陰などと言いはしません。
日本においても自らの意志で浮浪者となっている者は
それこそ万も居る事でしょうから。
私ははっきり言いましょう。
北京で自由意志で乞食になっている者など一人も居ないと。
あの日本の浮浪者の様な働き盛りの乞食など一人も居ません。
居るとすれば老人です。
身寄りも無く、勿論働く能力も無く、見捨てられた老人たちです。
彼らはそれをしなければ生き延びて行く事が出来ないのです。
空き缶に小銭を入れてガチャガチャ言わせながら
路行く人にそれを差し出し、1角、2角、5角と求めるのです。
彼らにとってはそれが生計を得る唯一の手段ですから
そこには様々なパホーマンスが見られます。
最もポピュラーな方法は
今述べた空き缶に小銭を入れてガチャガチャ言わせそれを路行く人に差し出す方法ですが
私が最も目を引いた方法は
正座をして頭を地面に打ち付ける位に深く、そして続けざまにお辞儀をし続ける方法です。
これは確かに目を引きました。
実際何人かがこの手の乞食に賽銭を入れるのを見ました。
老人の乞食はやはり悲惨です。
しかし見捨てられた人々が居る国では僅かですが見る事もあります。
もっともこんなにたくさんの老人の乞食が居る所は
多分先進国を言われる国家では無いと思います。
因みに皆さんは日本国内で老人の乞食を見た事がありますか。
路行く人に小銭をガチャガチャ言わせながら空き缶を指し出す老人の乞食を。
多分皆無だと思います。
それをしなくても、国家が生計を確保して呉れるからです。
まあそれはそれとして
老人の乞食には哀れさを感じますが
涙する事は無いと思います。
しかし北京には涙無しには直視出来ない乞食が居るのです。
これは見捨てられた人々が居る国家
勿論中国以上の先進国家と言う前提は付きますが
その様な国家に於いては居ないものです。
その乞食とは子供の乞食です。
子供と言っても小学生中学生の年頃の子供ではありません。
彼らは彼らなりに何処かで生計を立てているのでしょう。
私の言う子供の乞食とは乳飲み子、1歳、2歳、3歳の子供たちです。
勿論一人ではありません。
お祖父さんお祖母さん乞食と一緒です。
私は先程言いましたね。
一番目立った乞食は
地面に頭を打ち付ける様にお辞儀をし続ける乞食だと
それを未だ2歳にもならない様な子供が
お祖母さん乞食のそれを真似てやっているのです。
多分誰もがそれに対しては目を反らした筈です。
それを直視出来るのは人間では無いでしょうから。
もしそれを直視したら当然手を差し伸べるべきでしょうから。
しかし北京にはその手の乞食が居るのです。
初期資本主義社会 北京の陰と陽 その5に続く
初期資本主義社会 北京の陰と陽 その5 2006/ 5/15 0:06
初期資本主義社会 北京の陰と陽 その4が2000字を超えてしまたので
これはその4からの続きです。
さてその4では老人幼児の乞食を見て来ましたが、
これもまた涙無しには直視出来ない乞食が居るのです
それは病人の乞食です。
私がつい目を背けてしまった例を一つだけ挙げて置きましょう。
それは子供の乞食でした。
小学校高学年位の少女だったでしょうか。
うつ伏せになり、顔を少し上げ、首には何かを書いたプラカードを下げ、 体には薄汚れた薄い布団が被せてありました。
それだけで直視出来ませんよね。
私は直視しない様に通り過ぎました。
しかし振り向いてしまったのです。
私はそこで反射的に目を背けそして直視してしまったのです。
その薄汚れた布団から
腐れかけた足首が出ていたのです。
私は何としたらいいのか、しかし何も出来ずに通り過ぎるしかなかったのです。
私は思いました。
その腐れが体まで行きそして死んでしまうのかと。
誰も助ける者は居ないのか。
病院に連れて行って上げる者は居ないのかと。
しかし私はどうする事も出来ずに通り過ぎるしかなかったのです。
老人、幼児、子供、病人そして身体障害者
そんな弱者たちが乞食となって
彼らの生計を立てて居るのです。
日本に居るあの働き盛りの浮浪者たちとは違うのです。
日本の浮浪者たちは自らの意志で
しかし北京の乞食はその社会体制の中で
もし北京が純粋な共産主義であれば
乞食など一人も居ないでしょう。
今北京は共産主義から資本主義への過渡期です。
その中に前資本主義社会的な様相が現われたからと言って
必ずしも責められるべきものだと言えないのかも知れません。
ある意味では彼らは為政者から犠牲者として奉られているのかも知れません。
もし北京当局に財政的に余裕があったとして
出稼ぎに来たが仕事も見つからずに駅前広場で野宿をしている人
10元20元の超安宿に寿司詰めになりながら仕事を探している人
そして老人幼児子供病人身体障害者の乞食たち
彼ら全員の生活を保護したとら
多分北京の人口は直ぐに2000万3000万となって
北京はスラム化としそして財政は破綻してしまうのでしょう。
為政者たちは今ある北京の良き秩序を守る為
最も弱い
老人幼児子供病人身体障害者の乞食たちを犠牲にしているのです。
今ある北京は限界人口です。
どうか北京には来ないで下さいと。
私が汽車賃を用立てた彼女は南京に帰ったのでしょうか。
帰れる場所のある人たちは幸せです。
北京駅には悲喜こもごものドラマがあるのです。
2000字を超えたので
初期資本主義社会 北京の陰と陽 その6に続きます。
初期資本主義社会 北京の陰と陽 その6 2006/ 5/15 0:24
初期資本主義社会 北京の陰と陽 その5が2000字を超えてしまたので
これはその5からの続きです。
さて悲惨な乞食たちの例を様々上げましたが
これも悲惨と言えば悲惨なのですが
感動を持ってある程度のカタルシスの中で
見守り見送った乞食も居るのです。
その乞食は12歳前後の足萎えの少女です。
膝から下が入り組んだ様に変形して
立つ事の出来ない少女です。
私は先程言いました。
小中学校の子供たちの乞食は一人も居ないと。
彼らは彼らなりに生計を立てているのだと。
この少女は先程の足が腐り始めている少女とは違い
症状が固定した身体障害者です。
その足の障害で死ぬ事はありません。
そんな少女たちは何処かで何がしかの生計を立てているのでしょう。
そう言う意味から言えば今私が例に挙げようとしている少女は乞食と言うより
芸術家と言うべきなのでしょう。
身形格好は乞食ですが
しかし彼女は自らの芸で自らを援けているのだと。
これは前門と言うバス交通の要所の歩道での出来事です。
彼女は一行8文字程度の漢字を
歩道に直接チョークで何十行も書き連ね
更に書き続けているのです。
私はその見事な楷書体につい見とれてしまいした。
それは路行く人たちも一緒です。
多分彼女のその文字を見た人たちは
私の様に立ち止まってその文字に目を遣った事でしょう。
それはそれは見事な楷書なのです。
私は最初はそれが少女だとは思いません。
それで立ち止まって見ると少女なのです。
そして更に善く見ると足が複雑に入り組んで萎えているのが一目で分かるのです。
その少女は他人に目を遣る事無く
歩道の土と埃にまみれながらそれを気にする事も無く
一心不乱に書き続けているのです。
その書き続けている様が先ず感動を呼び起こすのです。
そして皆もし私もしたのですが
そこに書かれて居る事を読んだのです。
そこで感動が起こり
優しいお母さんたちは少し涙ぐみながら
またはその少女の頭をなでながら
またはがんばりなさいねと声を掛けながら
その賽銭箱にお金をそっと入れて行くのです。
お菓子を投げ入れた西洋の母娘もいましたが
(多分彼女たちはそこに何が書かれているかは知らず少女乞食だと思って投げ入れたのだと思うのですが・・)
その賽銭箱に入れられたお金は
1角、2角、5角の小銭では無く
1元、2元、5元と言うお札ばかりだったのです。
そこに書かれて居たのは彼女の身の内と
そして彼女が書を書き始める事になった経緯と
そして今の心境を語っているのです。
私はその中の「忍辱」と言う言葉に目頭が熱くなったのです。
男たちは感動はしながらも
唇を少し噛み目を伏せて
通り過ぎて行くのです
私もその口でしたが・・
私はまた思いもしたのです。
彼女なら大丈夫と。
さて前期資本主義社会としての特徴的な様相として
乞食の例を挙げましたが
これもまた前資本主義社会として特徴的な様相としての
搾取の例を挙げたいと思います。
これはあの輪タクドライバーの例に連なるものですが、
時間が来たのでその例は次回に回したいと思います。
今日はこの辺で。
初期資本主義社会 北京の陰と陽 その7 2006/ 5/16 0:08
初期資本主義社会 北京の陰と陽
その陰の代表例として
昨日は北京乞食の例を挙げました
今日は資本主義の最も特徴的な様相である搾取について
その例を挙げて行きたいと思います。
私が旅行の初日に
輪タクドライバーから
ヒフティの約束で
50ドル400元を請求されました。
これは自由契約と言う資本主義体制の中では
合法の範囲となるのでしょう。
特に資本主義が成熟していない
初期資本主義社会の中では。
私はこの様な例をまたも体験してしまったのです。
最初100元の約束が150元となり最終的には200元となる
そんな例です。
勿論居脅迫紛いでは無く、自由契約の範疇の中で。
私がOKを出したのですから自由契約です。
白タクの例でした。
貴方は言うかも知れません
それは輪タク、白タクと言う闇取引の中での出来事だと。
そうかも知れませんが
私は一から十を知ると言う方法を取りたいと思います。
これが現在の北京の資本主義の思想であると。
輪タク、白タクにおいては自由契約の中で相場が決まって行きます。
私に適用された相場は対日本人相場と言う事になると思います。
ここでは私たち日本人が弱者で中国人が強者となっていますが
所が変わればそれは逆転するのです。
日本資本、香港資本が自由契約と言う名の下に
中国国民を搾取する。
勿論中国資本が中国国民を搾取する例もあると思います
と言うよりこれが最も多いのだと思いますが・・
私がここで言いたいのは
「自由契約と言う名の下での搾取」
これが現在の中国の資本主義の思想なのです。
初期資本主義社会 北京の陰と陽
その思想の中から白タクが生まれ
乞食が生み出されて行くのです。
日本に乞食が居るでしょうか、白タクと言う商売があるでしょうか。
北京は未だ初期資本主義社会の影を引きずっているのです。
北京が初期資本主義を脱却し
成熟した資本主義社会に達するまでには
未だ未だ時間がかかります。
と言うより他のどの国よりもそれは難しい事だと思います。
何故なら農村の巨大な人口が北京にまたは上海に流れ込もうとしているのですから。
この人たちのセフティネットを作るのにどれだけのお金があったら足りると言うのでしょうか。
北京の貧富の格差
これは当分縮む事は無いでしょう。
富める者は更に富み
貧しき者は何時までも貧しく
この北京の様相は暫く変わる事は無いでしょう。
さて私はこれまで北京の貧だけを見て来ましたが
今度は北京の富を見て行く事にしましよう。
私は四度ほど
北京の城外を見ました。
一度目は旅行初日に北京に入る時
二度目は万里の長城の行き帰り
三度目は明十三陵の行き帰り
四度目は空港に帰る時
私はそこで城外のマンション群を見たのです。
そして思ったのです。
このマンション群には一体誰が住んでいるのかと。
地下鉄、バスは2元
レストランの食事は20元
胡同の家々は修理もままならず
そんな人々が何千万もするマンションにどうして住めるのかと
話は前後しますが
帰りの飛行機の中で
中国の高層ビルの鉄骨工事を請け負っていると言う
会社の社長さんと一緒になりました。
私は彼に聞いたのです。
あのマンションは幾ら位なのですかと。
彼は言うのです。1千万円、2千万円、3千万円と
私は信じられませんでしたが
彼が言うには持っている者は持っているのだと
2000字を超えたので初期資本主義社会 北京の陰と陽 その8に続きます
初期資本主義社会 北京の陰と陽 その8 2006/ 5/16 0:10
初期資本主義社会 北京の陰と陽 その7からの続きです。
これも話は前後しますが
明の十三陵から北京に白タクで帰る時の事
最初は西直門の約束だったのですが
地図を見ると
地下鉄13号線の西二旗と言う駅が大分手前にあるのも見つけました。
私は行く時はバスで行ったのですが
あまりの遠さに疲れ果ててしまったのです。
それで帰りは白タクに乗ったのですが、
そこであの自由契約が生まれたのですが
それは別として
地下鉄西二旗駅で乗り換えた方が早く着くと思って
行き先を変更したのです。
これが間違いの元だったのです。
彼は簡単に引き受けはしてくれたのですが
西二旗の街に入ってから
その駅を見い出せないのです。
あちらからこちらへ
こちらからあちらへ
さらにあちらからこちらへと
その駅を探し出せないのです。
そしてとうとう西二旗と言うバス停を見付けてここだと言うのです。
私はそうじゃない。地下鉄の西二旗駅までだと言うのですが
彼も匙を投げてしまい、ここが西二旗だと言い降りろと言うのです。
仕方なく降りて、バス停に待っていた人に地下鉄西二旗駅は何処かと聞くと
彼は英語であちらだ。私に付いて来いと言うのです。
それでバスに乗り変えて数分ほどで地下鉄西二旗駅に着いたのです。
そしてその辺りが正にあのマンション群の街だったのです。
初期資本主義社会 北京の陰と陽 その9 2006/ 5/17 0:02
さて昨日は時間が無かったので中途半端に終わってしまたので
その後をそのまま引き継ぎます。
昨日からの続きで読んで下さい。
さてそこで私はあのマンション群の正体を見たのです。
それは高級マンション街と言う感じではありませんでした。
日本で言えば公団マンション群と言った感じでした。
しかしそれでも私の疑問は消える事はありませんでした。
マンション群はここだけではありません。
もし城壁が残っているのであれば
その城壁を囲む様にしてマンション群があるのです。
しかもそれは1キロ以上の帯を成して。
そんな多いなるマンション群に誰が住んでいるのか。
バス、地下鉄の運賃が3元
レストランの食事が30元
そんな物価の中で
どうして1000万円、2000万円、3000万円のマンションを購入出来るのか。
私の疑問は消える事はありませんでした。
一番低い所を取って1000万円、66万元としましょう。
1元=15円で換算しています。
66万元を20年の月賦払いとする事としましよう。
金利は計算を簡単にする為に0としましよう。
この場合幾らの月収が必要か。
1カ月の月賦の額が660,000元÷20年÷12月で2,750元となります。
これだけの月賦を支払うとなると
少なくともこの5倍以上の月収が必要となります。
丁度5倍とすると月収が13,750元必要となります。
金利0%は無いでしょうから
その分を加味して約15,000元の月収が必要となります。
1000万円のマンションを購入する為には15000元
2000万円のマンションを購入する為には30000元
3000万円のマンションを購入する為には45000元の月収が必要となります。
さて一番安いマンション1000万円を購入された月収15000元の人の生活程度を日本に置き換えると
15000元×15円×4倍(物価差)で月収90万円程度の生活の人と同じと言う事となります。
あの城外のマンション群に住んでいる人たちの生活程度は
一番低い人たちで日本の月収90万円の人たちと同じ程度の生活レベルだと言う事になります。
本当なのでしょうか
どこか計算間違いがあるのでしょうか
城内の胡同に住む人たちは家の修理もままならないと言うのに
城外のマンションに住む人たちは
日本の生活レベルに換算すると100万円以上の月収の人たちと同じ生活をしているのでしょうか。
確かに西二旗のバス停から地下鉄西二旗駅まで
私を案内して呉れたあの若い人は
インテリ風で富裕者層には見えましたが・・・
城内の胡同に住む人たち
城外のマンション群に住む人たち
そしてそのマンション群の更にその先に住む人たち
すなわち昔ながらの田舎に住む人たち
それから北京市外から出稼ぎに出て来てその日の暮らしがままならない人たち
すなわち北京市民をして登録されていないが為市民としての様々な恩恵を受けられない人たち
そのどう仕様も無い人たちが乞食になっているのですが
その人たちの経済格差の何と凄い事か
私が経済格差に驚いたのは
王府井のある百貨店に入った時の事です
その百貨店は如何にも高級な作りでした。
各トイレ毎に
洒落た服を着たトイレボーイがいました。
私は紳士服売り場をちょっと覗いて見たのです。
背広が4000元、洒落たシャツが1000元
日本の百貨店とほとんど同じですよね。
しかしこれだけで驚いてはいけません。
物価差を考慮に入れて下さい。
何とそれは240000円(4000元×15円×4倍)の背広であり
60000円(1000元×15円×4倍)のシャツなのです。
北京の夜は極めて健全である! 2006/ 5/17 23:31
初期資本主義社会 北京の陰と陽
このシリーズは今日で終わりにしたいと思います。
初期資本主義社会 北京の陰と陽
あまり相応しくない題を付けてしまったと反省しています。
今北京は共産主義政権の下
秩序ある資本主義社会へと移行しつつあると思います。
唯一つ問題は
農村部から流れ来る巨大な人口です。
これを制限しなければ北京は破綻してしまうでしょう。
私が見て来た北京の陰
それは皆この人たちの問題です。
昔から居る北京っ子
それから正式の手続きを経て北京市民となった人たち
彼らは北京の春を満喫しています。
北京はとても治安の良い街だと思います。
輪タク、白タク
あれはぼっていると思ってはいけません
あくまでも自由契約だと思わなければなりません。
それから
北京には夜の街があるのでしょうか。
前海・后海湖岸に三里屯
何と素敵な街でしょう
シャンゼリーゼ以上に音楽の溢れる街なのです。
皆さんのガイドブックには
前海・后海湖岸に三里屯は多分バー街と紹介されていると思います。
多分日本の様な盛り場を想像すると思いますが全く違います。
それは喩えればシャンゼリーぜのカフェ街です。
そしてそれ以上に音楽が溢れているのです。
多分これは公安の達だと思うのですが
バーは中が丸見えです。
そしてシャンゼリーゼのカフェ街同様テラスがあり
そこから戸外へと広がっていくのです。
特に前海・后海湖岸は最高です。
そのテラスから湖へと視界が広がっていくのです。
その街並みを歩くと
1軒1軒から素敵な音楽が流れて来るのです。
勿論全て生演奏です。
前海・后海湖岸の様な素敵なバー街は
世界広しと言えどそうは無いと思います。
私はここで少し疑問に思ったのです。
確かに三里屯に前海・后海湖岸はバー街です。
最も先程述べた様にバー街と言うにはあまりにもお洒落過ぎますが
飲み屋街には違いないでしょう。
しかし私は思うのです。
北京には盛り場は無いのではないかと。
盛り場と言えば
東京で言えば新宿、池袋、渋谷、六本木です。
ある意味ではあの様な隠微な盛り場です。
私は断言できます。
北京にはあの様な盛り場は無いと。
三里屯、前海・后海湖岸の丸見えのバーからの類推ですが。
どうでしょう。当たっているのでしょうか。・・・
勿論私は飲み屋が無いと言うのではありません。
飲み屋は一杯あります。
胡同に入って御覧なさい。
そこには串と言う飲み屋が一杯あります。
しかしそれは盛り場としてある訳ではありません。
胡同のこちらにぽつんあちらにぽつんとあるのです。
言わば生活の中の社交場として。
勿論中は丸見えです。
私は断言出来ます。
北京の夜は極めて健全だと。
随分大仰な題を付けてしまったものです。
私がこの様な大仰な題を付けたのは
旅行初日の印象に由来しているのです。
北京に着いて夕刻から夜半までの間に
ヒフティの約束で50ドル400元を請求する輪タクドライバー
南京から仕事を探しに来たが
仕事も見付からずお金が無く
帰る事も泊まる事も出来ず
空腹に困り果てて道行く人に
食事を請う薄幸の若き女性
そしてこれもまた地方から仕事を探しに来たが
仕事も無くお金も無く泊まる所も無く
駅で野宿をする人たち
この様な人たちを短時間に見てしまったので
もし初期資本主義の悲惨な状態があるのだとすれば
この様な状態なのだろうと
そして乞食たち
アジアンビューティ ナチュラルビューティ 2006/ 5/18 23:15
私は男性である
だから私の目は自然女性に行く
これは日本でも外国でも同じ事
この事を持って私を助平とは言わないだろう
私が何故女性に目を遣るのか
それは私が美の愛好家だからである
それも取っておきのナチュラルビューティの
私は言う
今の日本の女性にナチュラルビューティは全く無いと
極端に言ってしまえば
今の日本の女性の顔はお化けだ
今の日本の女性の顔に一点の美も見い出せない
何故ならそこには一点の自然も無いから
私ははっきり言おう
今の日本の女性の顔は
全く美意識を持たない者たちに依って
描かれた落書帳であると。
さて私が日本の女性の顔を何故この様に酷評するのか
もし海外旅行の経験豊かな人が居れば私に賛成するであろう
井の中の日本の男性たちはそれに気付く事も無く
あちらは美人でこちらは不美人などと
あの狭い日本で囃し立てているのだろう
日本の常識は世界の非常識
よく言われる言葉だが
私はそれを日本の女性の顔に当て嵌めてみよう
貴方にとって美人とは誰か
貴方の恋人か
いいであろう その線で行こう
さて貴方の恋人の顔色は何色か
貴方の恋人の唇は何色か
貴方の恋人の髪は何色か
貴方の恋人の眉毛はどんな形をしているのか
貴方の恋人の睫毛はどんな形をしているのか
貴方の恋人の何々は・・
貴方はこんな化け物の様な顔を愛せるのか
私ははっきり言おう
これらの全ての虚飾が洗い流された時
真の日本人女性の美
ひいてはアジアンビューティが現われて来ると
世の日本の男性諸君よ
私の言いたい事が分かって頂けただろうか
もし日本女性の美を発見したいのなら
アジアンビューティ ナチュラルビューティを見い出したいのなら
北京に来いと言う事なのだ
貴方は北京に来て
女性の顔がこんなに美しかったのか
女性の顔がこんなに自然の美に溢れていたのかと
再発見する事だろう
日本の女性の顔と北京の女性の顔にはとはなんら変わりは無い筈であるが
そこには天と地との差がある。
それは自然の美と人造の醜
恋人よ
貴方の恋人が人造の醜を洗い流した時
そこに貴方の恋人の自然の美が現われる
しかし貴方はそれを惧れ
貴方の恋人はそれに気付かない
恋人よ
一人で北京に来い
そしてアジアンビューティ ナチュラルビューティを確認せよ
百聞は一見に如かず
もうその時
貴方は懼れる事無く
貴方の恋人にこう言うだろう
自然が一番と
そしてまたこうも言うのだろ
そんなお化けの様な化粧はもう止めて下さいと
それ程迄に
北京の女性は化粧気がないのです
私はそこで
女性の肌の色の美しさ
唇の色の美しさ
髪の色の美しさ
そして目の色の自然な美しさに気付いたのです。
私ははっきり言います。
日本の若い女性と北京の若い女性はなんら変わる筈が無いのに
北京の女性の方が若く幼く無垢に見えると
私ははっきり言いましょう
それは自然の賜物以外の何ものでも無いと
アジアンビューティ ナチュラルビューティ
さてどうして北京の女性は
この様に若くて美しく居られるのでしょうか
それは社会体制にあります
北京は共産主義政権下、秩序ある資本主義社会への移行が成功しているからです。
もし共産主義政権が無くなったらどうなるのでしょう
日本と同じ懶惰な街となるでしょう
と言うよりも無秩序な街となってしまうのでしょう
何しろ何億と言う人が北京に押し寄せようとしているのですから
北京においては共産主義政権が立派な父親役を果たしているのです。
だから北京の娘たちも如何にも娘らしく振舞う事が出来るのです。
それに引き換え日本の娘たちの何と可愛そうな事か
いい加減な父親の下 これは政権の事を言っているのですが
自らの心をあの化け物の様な厚化粧で隠さなければいけないのですから
自然の美と人造の醜
その根底にあるのは社会体制です
北京では父親
すなわち政権がしっかりと娘たちを見守っているのです
だから自然の美のままでいられるのです
それに引き換え日本の父親は娘には目も呉れず私利私欲に走っているのです。
だから人造の醜で自らの自然の美を隠さなければいけないのです。
アジアンビューティ ナチュラルビューティ その2に続く
アジアンビューティ ナチュラルビューティ 2 2006/ 5/18 23:42
アジアンビューティ ナチュラルビューからの続き
ああ!何と日本の娘たちの可愛そうな事か
日本の娘たちよ!その化け物の様な厚化粧を止めようではないか
そして昔の大和撫子の様に
アジアンビューティ ナチュラルビューティを輝かそうではないか
北京の恋より 北京印象記
追記
私が海外旅行をしていつも思うのは
日本女性のあの不自然な化粧である
この不自然な化粧は
あの茶髪から始まっている
そう遠い昔の事では無い
未だ十年も経っていないのではないだろうか
茶髪に始まり
今の極めて不自然な化粧
もう外国人は決して
日本の女性を大和撫子などと呼びはしない
初めて来た外国人はこう思うだろう
何だこの不自然な化粧はと
しかし直に馴らされて行くだろう
今の日本の男性が馴らされた様に
何故なら全日本の女性がこの不自然な化粧なのだから
日本の常識は世界の非常識
日本の娘さんよ 貴方方の厚化粧がそうだ
海外に行って御覧なさい
娘さんは娘さんだ
今の日本の若き女性よ
貴方方を娘さんと呼ぶにはあまりにも不自然だ
娘とは早乙女 自然の象徴ではないか
私ははっきり言う 貴方たちは人造の醜だと
貴方たちはそれ程迄に美しいのに
どうして人造の醜で自らを隠すのか
娘さん 私は知っています
貴方たちが美しい事を
だからもうその様な化け物の様な化粧は止めて下さいと
お金は有効に使いましょう
その様な化け物の様な化粧は止めて
世界をもっと知りましょう
そしてそれぞれの国のお嬢さんたちが
それぞれの国の美しさを輝かしている様に
あの自然の美
あの大和撫子の美しさをもう一度輝かそうではありませんか
北京の恋からのお願い
アジアンビューティ ナチュラルビューティの大和撫子さんたちへ
ナチュラルビュー ヒューマンビューティ 2006/ 5/21 0:55
私は子供が大好きです。
何故かと言えば自然だから。
中国の子供と日本の子供とどちらが可愛いかと言えば
断然に中国の子供です。
何故かと問われれば自然だから。
中国の子供の髪型は二つです。
男の子は坊主に近いあの短い髪型。
女の子は後ろで二つに束ねているあの髪型。
どちらも中国の子供として描かれる時のあの典型の髪型です。
この二つが典型なのですが
女の子の髪型にはもう一つあります。
これは私にとってとても印象的だったのですがボーイカットです。
今回はこれは置いて措く事にします。
男の子の髪型も一つ
女の子の髪型も一つ
この事に依って
中国の子供たちは本当に自然そのままなのです。
日本の子供たちの髪型を見て御覧なさい。
勿論茶色にそめているなどとは言いませんよ。
しかしその髪型の多様な事。
この事に依って
子供の自然が如何に損なわれているか。
井の中の日本人は全く分かっていないのです。
中国の子供たちは本当に可愛い。
私が言うのは目鼻立ちが整っていると言う事ではありません。
如何にも子供らしいと言う事なのです。
子供が親からだけではなく
地域でひいては国家から可愛がられています。
その事はひしひしと分かりました。
だから子供たちは子供らしく有り得るのです。
子供は皆一様
その事が子供がとても可愛がられている理由なのです。
子供は親の私物では無い
地域の宝物ひいては国家の宝物。
その事が子供の髪型は一様と言う事に現われているのです。
一人贅沢な髪型をすれば
それは国家の子供でもなく地域の子供でもなく
ただその親の子供だけになるのです。
私の言う事が分かりますか。
これが私の海外旅行から得た成果です。
子供は未だ自然だからいいですが
それが青年となった時
その弊害が顕著になって現われるのです。
世界で一番だらしないのが日本の青年男女です。
どう仕様も無い位。
世界で一番堕落しているのが日本の青年男女です。
どう仕様も無い位。
歴史上堕落したどの国の青年男女より
日本の青年男女の方が堕落しているのです。
これが私が世界を旅し歴史を旅した結論です。
何故なら日本の青年男女は日本を見捨て
日本のアイデンティティを見捨てているからです。
日本の青年男女よ
黒髪に戻れ
今日のヤフーのトップニュースにもあった様に
もし貴方が日本を愛しているのであれば
先ずは自然な日本人に戻れ
自然な日本人とは自然な人間の事でもあるのだが
貴方は何故茶髪に染めるのか
貴方一人がもてたいからか
ローマ帝国はあの髪型に依って滅びたのだ。
貴方は貴方一人の為に国家を滅ぼそうと思っているのか。
井の中の日本人よ。
貴方の常識は世界の非常識。
貴方のその茶髪は世界の非常識なのだ。
物分りが良いと思われたがる井の中の日本人よ
貴方の物分りも世界の非常識。
世界を知る為に世界を旅せよ。
そして民族を知り国家を知れ!!!
全ての基準は自然に在り。
ビューティフルヒューマンとはナチュラルヒューマンの事。
ナチュラルヒューマンはビューティフルヒューマン。
ナチュラルヒューマン ビューティフルヒューマンを知れたければ
先ずは北京に行け。
日本の青年女性よ。
髪を染めるな
眉毛を剃るな
マスカラをするな
厚化粧をするな
変な色の口紅をするな
出来るならすっぴんであれ
それが日本再興の道だ
今の貴女たちが日本を世界最低の国にする
日本の青年男性よ
すっぴんを高く掲げろ
勿論貴男たちの化粧は言語道断だ
日本の青年男女よ
自然の人間を美しさを知る為に
先ずは北京に行け!!!
日本人が日本人である為に
日本人のアイデンティティを守る為に
全ての基準は自然に在り
日本の青年男女よ
日本を亡国の国とするな
あのローマ帝国の様に
歴史は繰り返す
どうして日本が中国に滅ぼされないと言う保証があると言うのか
貴方は知っていますか
漢人は長い間被征服民であった事を
栄枯盛衰の理あり
世界で一番堕落した日本の青年男女よ 良く聞いておけ
これが私の旅の結論です。
【北京印象記】
言葉の力で言葉の内奥へ 2006/ 5/27 12:17
myuse kzさんへ
お久しぶりです
以前myuse kzさんの掲示板へ
二回ほど投稿をさせて頂いた風来坊 風の旅人ことsophialoverです。
以前はこの界隈に掲示板を立てて常駐して居た事もあるのですが、
3,4,5月は何やかやと忙しくて立ち寄る事が出来なかったのですが、
少し時間的にも余裕が出て来たので昨日立ち寄った所、
私に馴染みの方はmyuse kzさんお一人だったので
今日この様にして投稿させて頂いた次第です。
ご了承頂きたいと思います。
私は常々思っていました。
myuse kzさんの求める方向と私の求める方向には似た所があると。
そう言う訳で
今回はmyuse kzさんの4月3日投稿の「言葉の力」に返信させて頂く事にしました。
言葉の力
本当に不思議ですよね。
言葉の中に入れば入るほど
その不思議さに驚かされますよね。
ひょっとしたら
この世界の全てが言葉に依って動かされているのではないかと思うほど。
私たちは言葉に依って
泣き、笑い、悲しみ、怒り、憤りますよね。
これこそが言葉の力の何よりの証拠ですよね。
それから政治家の一つの言葉
それに依って政権が動いたりもしますよね。
安部か福田か
彼らの一つ一つの言葉に依って
これからの政権が動いていくのですよね。
これも言葉の力の実証ではないでしょうか。
しかし私たちの求めている言葉とは
私たち内奥の言葉の事ですよね。
私たちが幸せになる事が出来る内奥の言葉
そんな言葉ですよね。
ところでmyuse kzさんはそんな言葉を何処に求めていらっしゃいますか。
ご自分の心の中にですか。
勿論最終的にはそうなのですが、
私が聞いているのはその過程の事です。
この世の実体験の中からその様な言葉を生み出そうと思っていますか、
それとも別な方法でですか。
私はと言えば
古代の哲学者の言葉からです。
myuse kzさんの言葉を借りれば
古代哲学者たちの言葉を聞いていると
「いきいきわくわく嬉しさが湧き」
そして至福感に満たされると事があります。
私はこれこそが言葉の力だと思います。
しかしそれはあくまでも言葉の力の第一段階だと思います。
言葉の力の最終段階は
自らの言葉で自らが幸せになる事です。
その為には素晴らしき善き言葉を掻き集め
それを自分のものとしなければならないのです。
「誰がこの大地を征服するであろうか
誰が閻魔の世界と神々ともなるこの世界を征服するのであろうか
技に巧みな人が花を摘む様に
善く説かれた真理の言葉を摘み集めるのは誰であろうか」
「学び勤める人こそこの大地を征服し
閻魔の世界と神々ともなるこの世界を征服するであろう
技に巧みな人が花を摘む様に
学び勤める人こそ善く説かれた真理の言葉を摘み集めるであろう」
(岩波文庫「真理の言葉」第4章第44節及び第45節)
私たちは哲学者の言葉に依って
私たちの言葉を補強して貰うのです。
上記のブッダも言っていますよね。
世界を征服するのは善く説かれた真理の言葉を摘み集めた者だと
これを裏返せば
この世界は言葉より成ると言う
私の言葉を裏付けして呉れますよね。
もう一つその様な例を。
すなわちこの世界は言葉より成ると言うその例を。
「初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
万物は言葉によって成った。
成ったもので言葉によらずに成ったものは何一つなかった。」
(新約聖書「ヨハネ福音書」第1章第1節~第3節)
世界は言葉より成ると言う私の言葉は
このヨハネ福音書の第1節から第3節までのパクリそのものですよね。
しかしその言葉はその時
すなわちその言葉に感銘を受け自分の物にしようとした時
その時は借り物の言葉だったのかも知れませんが
今では自分の言葉としてしっかり根付いています。
上記お二人の哲学者方だけではなく
様々な古代の哲学者からその様な話を聞いて
私はすっかり得心し
そして自分の心の中で反芻した時
それは間違いないものとして
私にすっかり根付いてしまったのです。
言葉こそ力
言葉の力で言の内奥に迫って見ませんか
これは メッセージ 304 myuse_kz に対する返信です
美しき善き言葉の花園へ 2006/ 5/27 12:37
2000字を超えたので前からの続きです
前の投稿は私が意図した所とは別な所に行ってしまったようです。
私がこの投稿で意図した所は
私と対話して頂けないかと言う事だったのです。
言葉の力
私もそれを感じています。
二人がその言葉に依って話し会えば
見えないものが見えて来るのではないかと思ったからです。
若しくは見えなくとも
その言葉の内奥を感じる事が出来る様になるのではないかと思ったからです。
もし宜しかったら返事を下さい。
何でもいいです。
今最も気になっている言葉を送って下さったら最高です。
そこから言葉の内奥へ 一緒に旅して見ませんか。
美しき善き言葉の花園へ
沈沈 静寂 2006/ 5/28 17:05
いま、気に入っている言葉
長い文章は にがて
めがつかれてしまうから
私の言葉は いつも 一つの方向へ向いて手を離すの
かぜにのって もしかしたら、、、って
どうぞ おくつろぎくださいませ
これは メッセージ 347 sophialover007 に対する返信です
はじめまして 2006/ 5/28 20:46
myuse kzさん
いつも拝読させてもらっている陰影といいます。
ここに私の敬愛するsophialover007さんがこられていると聞いたもので
彼にご挨拶させていただいていいでしょうか
そうですか ありがとうございます(謝)
sophialover007さん こんばんは^^
時の経つのは速いものでもう2年半もの時が流れてしまいました
「神はいるか」トピで素敵な時をご一緒させていただいた
長たらしい名前の幼児です(笑)
お忙しいようですが その後お元気でしたか
ご挨拶が遅れて申し訳ありません
個人的な事情がありずっと部屋に閉じこもって暮らしていたので
これませんでした
このごろ ようやく散歩に出歩けるようになったところです(笑)
あなたのお名前を拝見すると嬉しくなります。
詩歌カテで敬虔な修道女さながら"主"に愛を捧げておられる姿は
神々しい愛に満ち溢れていて
一ロム者の私の心まで一緒に洗い清めてくれたものです
まるでイエスがすべての人の罪を自らの罪として引き受けたように
ありがとうございました(謝)
あなたに拙い私の詩を心を込めて贈らせていただきます
あなたの愛をいつも応援しています^^
Full of gentle
Full of love
There are such "words" with you
The heart will be pleased with me
myuse_kz さん これで失礼します^^
これは メッセージ 1 myuse_kz に対する返信です
(瞑想関係の掲示板)
瞑想について 2006/ 7/30 18:10
始めまして
私は瞑想にとても興味がある者です。
瞑想の事について色々と教えて貰おうと思っていたのですが
日本への4週間の旅行との事とても残念です。
しかしある意味では好都合なのかも知れません。
すなわち私がここの仮の管理人になって
私なりの瞑想についての記事を書いて行く。
そうすればこの掲示板は存続するだろうし
suzakicojpさんが帰って来れば
私の記事に対してコメントを呉れるでしょうから。
そう言う訳で
ここからは私なりの瞑想に関する記事を書いて行こうと思います。
さて「瞑想」とは何か。
広辞苑によると
「目を閉じて静かに考えること。現前の境界を忘れて想像をめぐらすこと。」とあります。
私は目を閉じて静かに考えることはしませんが、現前の境界を忘れて想像をめぐらすことはあります。
私は一体瞑想をしているのでしょうか。
目を閉じてを厳格に当て嵌めると
現在多く行なわれている瞑想はその概念がから外れて来る様に思われます。
ここで言う目を閉じては
世間に対して目を閉じてと言う風に解釈していいのではないでしょうか。
そうであれば私は瞑想をしています。
私は世間に目を閉じて 現前の境界を忘れ 静かに考え 想像を巡らしています。
現に私が遣っているこの作業
この作業も瞑想の一種なのではないでしょうか。
今私の手元に岩波文庫の「シレジウス瞑想詩集」と言うものがあります。
シレジウスがその時々のそれこそ上記の定義の瞑想の中で
書き綴って行ったものではないのでしょうか。
それとも瞑想にはもっと深い意味があるのでしょうか。
瞑想について その2に続きます。
瞑想について その2 2006/ 7/30 18:18
瞑想についてからの続きです。
さてはて
「思想」と「瞑想」にはどの様な違いがあるのでしょうか。
思想とは「思」を想い
瞑想とは「瞑」を想う事なのでしょうか。
そうであれば
その違いはある程度分かる様な気がします。
「思」とは田の心。
折り目正しき心。
この世をきちんと治めて行く為の心。
従ってその想いは
この世すなわち社会から外れたものではいけない となるのではない
でしょうか。
世界思想全集等々 その類のその思想とは
全てこの世の係りの中で行なわれたものではないでしょうか。
この世に係りのない思想など言うものがあるのでしょうか。
さて瞑想にいきましょう。
瞑想はこの世との係りを強調するのでしょうか。
一般的に言う瞑想とはこの世を捨ててですよね。
この世を捨ててかの世を夢見る。
これが瞑想なのではないでしょうか。
シレジウスの瞑想詩集はその代表ではないでしょうか。
思想が「田の心」を想うであれば
瞑想は「瞑」を想うです。
学研漢和大辞典には瞑について
「①ねむる。目を閉じてねむる。特に死者が目を閉じて永眠する。
②くらい。目を閉じて何も見えないさま。」とあります。
この辺りに瞑想の本質があると思います。
私は思います。
瞑想とは死後の世界を想うことであると。
仏教であれば涅槃を想うことであり
キリスト教であれば天国を想うことであると。
仏教で言う涅槃の最高世界は「無」の世界
だから仏教徒は瞑想に無を想う。
しかし無を想う事は誰も出来ない。
だから無の直前直後の事を想う。
それがあるままにただそのままに
と言う事になるのではないでしょうか。
私たちは死を想う事も出来ないし
無を想う事も出来ません。
私たちが思っているのは死の概念であり
無の概念です。
死を想う事が出来ないのは当然の理です。
誰も生きている者で死んだ者はいないのですから。
死は千差万別
それぞれの人が想うその死
その死がその人に取っての死でしかないのではないでしょうか。
さて無
これについても死と全く同じだと想います。
誰かこの世に生きている者で
無を体験した者がいるのでしょうか。
居る筈が有りません。
人間とは存在なのだから。
有る人間がどうして無を体験する事が出来るのでしょう。
様々に人が無に抱く概念
その最大公約数的なものが
仏教がこれまでに抱いてきた無の概念であり
そして現在の科学者が抱いている無の概念なのではないでしょうか。
その二つの概念が近ければ
仏教の無の概念にまた光が当てられると言うだけの事ではないでしょうか。
私は思います。
そう違っている筈は無いと思います。
仏教の無の概念を無視して
現代の科学者が無の概念を再構築出来る筈がありませんから。
さて無とは何か。
それは生きている人間には答えの用意されていない問いです。
それは死と全く同じ事。
場合よっては死よりも更に難しい問いと言う事になります。
もし一部の仏教論者やキリスト教論者が言う様に
死の世界が在るのであれば
その死後の世界をまた論じなければならないからです。
それは仮定の仮定
戯論と言ってもいいのではないでしょか。
そう問われた時
死後の世界のその先にどの様な世界が存在しているのかと問われた時
そこに用意されている答えは輪廻と言う事になるのではないでしょうか。
そして宇宙の無限論です。
輪廻のその先に用意されているもの
そして宇宙の無限のその先用意されているもの
それが無だと思います。
無とは全てに終止符を打つ為の答え。
無駄に戯論を回すな。
全てが無に終止するのだから。
だからその無に近い体験こそを修得せよ。
そこに生まれたのが神秘論であり禅宗です。
この世の全てを捨て去った時
すなわち肉体も感覚も全て捨て去った時
その先に存在するもの
それが究極の無であり
キリスト教的に言えば神秘の神と言う事になります。
しかし私はここではっきり言って置きたいと思います。
誰も肉体を捨て去る事は出来ないし
感覚を捨て去る事も出来ないと。
そして多分感情も認識も。
私たちはある所での神秘体験
それを神秘の神であり
そして無であると認識しているに過ぎないと。
誰が人間でありながら死ぬ事が出来るだろうか。
その程度の人間がどうして無を体得出来るものか と
瞑想について その3に続きます
瞑想について その3 2006/ 7/30 18:19
瞑想について その2からの続きです。
しかし私はその擬似の死の体験を
そしてその擬似の無の体験をしてみたいのです。
だからこうして瞑想の体験者である
suzakicojpさんの掲示板を尋ねて来たと言う訳なのです。
多分十日間も瞑想専用のカリキュラムをこなせば
きっと我々がこれまで体験した事の無い様な
肉体的 感覚的 感情的 認識的体験をする事でしょう。
これが今の所の
suzakicojpさんの瞑想体験なのではないでしょうか。
私はその瞑想体験を具に聞いてみたいのです。
そして私の認識の範囲で
その瞑想体験を措定してみたいのです。
人は言葉です。
言葉で表現可能なその領域が人間です。
ブッダもイエスもその領域を広げて呉れた
私たちの大恩人です。
チーンなどと書かずに
懇切丁寧にその世界を描いて頂ければ
とても有難く思います。
今日の所はここまでにします。
瞑想について その4 2006/ 8/ 6 12:44
さて瞑想とは何でしょう。
私には瞑想には三つの過程があるように思えます。
一つは本当の自分に向かう過程であり
一つは本当の自分に出会う瞬間であり
一つはその本当の自分とは対話をする過程であると
この三番目の事を俗に瞑想と言っているのではないかと
シレジウスは瞑想詩集の最初の章の最初の句で
「貴方の心は純金の様に混ざりけがなく、岩の様に堅く、水晶の様に透明であれ。」と言っており
最後の章の最後の句で
「友よ、もうこれで十分である。もっと読みたければ、赴いて貴方自身が文字となり、本質となりなさい。」と言っています。
これこそが瞑想の何たるかを物語っているのではないでしょうか。
本当の自分
これこそが神の化身であると
イエスは本当の自分の通りこの世を生きた
だから神の子と呼ばれた
全てはその瞑想の結果なのではないでしょうか。
瞑想とは神の子と成る為の自習の事を言っているのではないでしょうか。
若しくは神の子と成る力の無い者にとっては
神のおそばで戯れる為のお遊び
それはそれで神も嘉されるのです。
ただ仏教にはあまりにもこの手の者が多すぎて
ちょっと言う気はするのですが
それはそれでも良いのですが
やはりちょっとと言う気がします。
瞑想
その事はとても立派で素敵な事です。
世の多くの人が瞑想すべきです。
と言うよりも人間であれば
瞑想すべき義務がある と。
人間でありながら
本当の自分を知らずに死ぬと言う事は
人間の義務を果たさずに死んでしまうと言う事になりますから
神様
本当の自分から視たら不届き者と言う事になるのではないでしょうか。
無知 無明
それはそう言う類の人の事を指して言う言葉なのではないでしょうか。
汝自身を知れ
これこそが哲学宗教の第一原理なのではないでしょうか。
その方法が瞑想であると。
だから瞑想は全ての哲学宗教において絶対不可欠なものであり
先程も述べた様に
全ての人間にとっても絶対不可欠なものであると。
瞑想について その5に続きます
瞑想について その5 2006/ 8/ 6 12:49
瞑想について その4からの続きです
瞑想について
もっと大いに宣伝する必要があると。
ブッダこそは瞑想の大宣伝者だったですよね。
イエスもその事をしきりに言っているのですよ。
しかし瞑想と言う言葉は使っていません。
イエスが瞑想の代わりに使った言葉は「祈り」です。
イエスはこう言っています。
「一人奥まった部屋は入り戸閉めて」と
そして誰に祈るのでしょう。
「聖霊」です。
聖霊こそ本当の自分です。
一人奥まった部屋に入り部屋を閉めて自分自身を求めれば
そこに素晴らしい自分が出現する
これがキリスト教のシステムです。
その本当の自分は聖霊と言う名で呼ばれているので
当然その様な性格を帯びる事になり
またこの世に生きたイエスがお手本ですので
その様な性格も帯びる事になるのです。
キリスト教は瞑想を言う手法を祈りと言う手法に代え
イエスの性格を帯びた人々をたくさんに生み出して行ったのです。
彼らは皆自分自身を生きているのです。
それは祈りと言う瞑想の手法により
本当の自分自身をしっかり掴んでいるから。
しかしその本当の自分にはイエスの性格がしっかり焼き付けられている事になるのですけれど。
それはそれで立派な事であり
その事に依ってこの世界の半分は創られて来たのですから。
しかしイスラム教の人々にはその性格にはしっくり来ない所があるかも知れませんね。
それに引き換え仏教の瞑想のシステムは素敵ですね。
ブッダの性格を焼き付けようとしませんから。
しかし私は思います。
ブッダとは何者かと。
キリスト教には新約聖書があります。
四福音書 使徒行伝 手紙 黙示録 それに旧約聖書
様々な聖典があるので
イエスの色も少しは代わることはありますが
それだけに許容範囲が広いとも言えますが
しかしイエスの性格は極端に違うことは無いですよね。
これがイスラム教ともなると
一本の経典ですから
その性格は自ずから決まって来ますよね・・・。
さてブッダはどうでしょう。
一体幾つの経典があるのでしょう。
そしてどのブッダが本当のブッダなのでしょう。
当然にその様な中からは禅宗の様な宗派も現われてきますよね。
無こそがブッダである と。
私は思います。
禅宗こそが
究極の自分捜しの為の宗教であると
しかし私はまた思います。
禅宗には少し慈悲の心が足りないのではないかと。
また思います。
禅宗は時間のあるお金持ちの人たちの為の宗教であると。
実際歴史的にみてもそうだったのではないでしょうか。
我々に聞こえて来る信徒のお話は武士階級のそう言う人たちばかりのお話です。
あまり民衆の信徒の話は聞こえて来ない様に思えます。
その流れは現在も続いているのではないでしょうか。
自分探し 自己実現
それは全ての欲求の最上階にあるものです。
ここに立てば自分が見渡せるでしょうから
そしてこの世が。
この世とは私の世界であり
私から見たその世界なのですから。
シレジウスも言っていましたよね。
私は岩の様に堅い と。
その自分に立つ事が出来れば後は何を求めようと言うのでしょう。
そしてその私は純金の様に混ざりけがなく、水晶の様に透明なのですから。
そんな宝 自分自身
それを得る為の宗教
それが禅宗だと思うのです。
実を言うと
私はお金も時間もそれ程ある訳ではないのですが
禅宗の座禅会に参加したいと思っているのです。
その中から自分探しの手法が見付かるのではないかなどと思っているのです。
さてはて 本当の私とは何者か
神か無かそれとも何か別ものか。
次の機会に探求したいと思います。
今日は時間が来たのでここまでにします。
瞑想について その6 2006/ 8/ 7 12:12
さて瞑想とは何でしょう。
私は思います。
自分自身の最奥部 その根源に入って行く事だと。
そこに何があるか。
そこに有るのは無。
しかし人は無を認識する事が出来ない。
そこでその代わりを立てる。
それが様々な宗教のそれ。
「初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので言葉によらずに成ったものは何一つなかった。」
これはある宗教のある書の第1章第1節に書かれている言葉です。
この宗教では「言」が神であると言っているのです。
言こそが根源であると。
私もこの意見に賛成です。
無から最初に生まれて来るもの
それは言以外に無いのではないでしょうか。
そしてその言に依って言葉が生まれ
その言葉に依ってこの世が成ったのではないでしょうか。
すなわち「貴方の世界」が
「道生一 一生二 二正三 三生万物。」
(道は一を生じ 一は二を生じ 二は三を生じ 三は万物を生ず。)
「主はその道の初めに私を造られた。
いにしえの御業になお先立って。
永遠の昔私は祝別されていた。
大初 大地に先立って。
私は生み出されていた
深淵も水のみなぎる源もまだ存在しないとき。
山々の基も据えられておらず 丘もなかったが
私は生み出されていた。
大地も野も地上の最初の塵もまだ造られていなかった。」
これは古代の知恵者として有名な人の言葉の一節です。
ここで言う私とは誰だと思いますか。
そうです。「知恵」です。
「初めに神は天地を創造された。
地は混沌であって 闇が深淵の面にあり 神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。
『光あれ』
こうして光があった。
神は光をみて 良しとされた。」
「ニルヴァーナは最高のものであると 諸々のブッダは説きたもう。」
「ニルヴァーナは最上の楽しみである。」
「諸々の真人の帰するところはニルヴァーナである。」
私は思います。
瞑想の目的はこのニルヴァーナに至ることであると。
そしてそこで行う事は世界創造です。
誰の世界でもない自分自身の世界を
ここの管理人さんも言っていたと思いますが
今始めて生まれたかのように
この世界を見 この世界を聞く と
若しくは今始めて生まれたかのように
言葉を生み出す。 自分自身の言葉を。
偉大なる書は
皆このニルヴァーナから生み出された言葉たちなのではないのでしょうか。
昨日例に取ったシレジウス瞑想詩集も
そのニルヴァーナから生まれた言葉たちです。
彼は最終章の最終節でいみじくも言っていますよね。
「友よ もうこれで十分である。
もっと読みたければ赴いて貴方自身が文字となり本質となりないさい。」と
この世を捨ててかの世に渡る。
それがニルヴァーナ。
そしてそこには貴方の自由な世界がある。
真理は貴方を自由にする。
真理それは貴方自身。本当の貴方。
その名は別名 言または知恵または神または主または道または聖霊またはダイモーンまたはアートマンまたは・・・。
瞑想とは本当の貴方に至る為の道。
そして本当の自分自身とのお遊戯。
瞑想の中で何を思うか。
それが肝心。
この世を導こう。
そう思った人たちがイエスであり菩薩たち。
瞑想の中で自分自身との遊戯に終始している人たち
それが現代日本の瞑想家たち?・・・
私は思います。
本当の自分の中に入って行けば行く程
そこには全ての人に共通する何かがあると
そうでなければ
偉大と言われる哲学や宗教は生まれて来なかったと。
次回はその辺りについて考えていこうと思います。
今日は時間が来たのでここまでにします。
瞑想について その7 2006/ 8/12 12:32
瞑想とは何か。
それは自分自身の最奥部に入って行く事。
そしてそこには全ての人に共通な何かがある。
それは何か。
それこそが神。
瞑想家とはその神を求める人の事。
だが私ははっきり言って置こう。
全ての人が神を求める義務があると。
何故なら人間は皆神の子なのだから。
私たちは自分自身を知る事に依って
自分が神の子であることを知る。
これが全ての偉大な宗教のそして偉大な哲学の教えである。
この神については色々な言葉を使って良い。
所変われば名は変わる。
この事をもっと一般的に言ったのが
インド哲学のアートマンとブラフマン
そしてキリスト教の神と神の子(または聖霊または主)
インド哲学のアートマンとブラフマンは
論理的に考える私たちには理解し易い。
キリスト教の神と聖霊
これは神がかりになるので
私たち現代人は敬遠して
それを理解しようとはしない。
しかし私は言う。
その比喩を一切取り払ってその本質を視よと。
そこにあるのは自分自身との対話ではないかと。
キリスト教の本質を知る為には
ダビデの詩篇を読まなければならない。
何故なら新約聖書は全てこの詩篇の負っているのだから。
もしこの詩篇を理解せずに新約聖書に入ったら
貴方はその物語の踊らされる事になる。
キリスト教の本質
それは自分自身との対話
これは何度も何度も言っている事だが
偉大と言われる哲学宗教の本質は全てそれなのだが
キリスト教のその本質はダビデの詩篇に負っているのだ
もし貴方が本当の自分自身
すなわち主と対話したかったら
ダビデの詩篇を読みなさい。
そこにはこの世に生きているダビデと本当の自分自身すなわち主との対話が
それこそ全編宝石の様に鏤められている。
貴方はそれに依って
本当の自分自身との対話の方法を知る。
そこに至る為の手法 それが瞑想。
新約聖書ではキリストが如何に瞑想したかと言う事を
祈りと言う言葉に代えている。
新約聖書をよく読んで御覧なさい。
イエスは弟子たちか離れて山に入り一人祈っていますから。
最後の祈り ゲッセネマでの祈り
あの祈りが何故あの様に激しくあったのか
それはそれがこの世の最後の祈りだったから
すなわちこの世の本当の自分自身とのお別れだったから。
生きている内に光の中を歩みなさい。
光への最後のお別れだったから。
どうして死んだ者が本当の自分自身を見い出す事が出来るでしょう
もっと光を
あの偉大なゲーテさせ
その光の一部を見い出したに過ぎないのです。
貴方方の中にあるその偉大な宝
それをまた今回も無駄に見過ごすと言うのか。
貴方たちは何時までも無知の輪廻を繰り返そうと言うのか。
貴方はもう二度と人間に生まれて来る事はないと言うのに。
人間に生まれた事が どんな奇跡であったのか。
貴方たちは今生を無に帰して行く。
無よ万歳
しかし私は言う
貴方は無に帰す事はなく地獄煉獄に止まる事になるかも知れないと。
何故なら貴方は神の子でありながら神を知ろうとしなかったから。
もし貴方が神を求めたのなら
神は死の最高の報いである無を与えて呉れた事だろう。
しかし貴方は神を求めなかった
だから貴方には
「その時には、世界の初めから今までになく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、誰一人救われない」となるのである。
しかしもし貴方この世にある時神を求めていたら
「神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう」と言う事になるのである。
しかしこれらは全て比喩である。
この比喩をどう解くか そこに瞑想がある。
公案はその為にある。
私は貴方に公案を出そう。
「死後地獄煉獄天国はあるかと」
瞑想について その7に続く
瞑想について その8 2006/ 8/12 12:35
瞑想について その6からの続き
さて瞑想とは何か
自分自身の果てを知ろうする事
神の子として神に近付こうとする行為
アートマンとしてブラフマンに近付こうとする行為
しかし誰も神にブラフマンにまみえる事はない。
その一瞬の光を見い出せばそれが恩恵
それを直感とかインスピレーションと呼んでよい。
そのインスピレーションによって
本当の自分自身(主)と対話をする行為 それが瞑想
私と本当の私(主)とは対話を重ね
私の無限の宇宙を旅する これが瞑想。
そしてまた神を垣間見る。
その連続が瞑想。
だから毎日毎日瞑想をしている者の
その自分世界は無限に広がる宇宙のよう。
イエスは言った。
貴方たちの来る場所は用意されていると。
この無限の自分自身
貴方はその限りを決める事の方が困難なくらい。
さあ自分自身の旅に出よう。
それこそが瞑想。
貴方はそこでどんな素敵な世界を創る事なのでしょう。
「神はお造りになった全てのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。天地万物は完成された。第七の日には、神は御自分の仕事を完成され、安息なさった。この日に神は全ての創造の仕事を離れ安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。これが天地創造の由来である。」
これはモーゼの創った世界です。
さて貴方はどんな素敵な世界を創造(想像)しますか。
イエスが想像し創造した世界を知っていますか。
ブッダが想像し創造した世界を知っていますか。
全て瞑想の賜物です。
さあ貴方の素敵な世界に向けて・・・。
瞑想について その9に続く
瞑想について その9 2006/ 8/12 12:47
瞑想について その8からの続き
さてこれで私の瞑想に関する感想は終わりにします。
しかしまだこの掲示板を訪れた目的を果たしていないので
その事について・・・。
管理人さんに次の二点をお聞きしたいと思います。
第一点は管理人さんが「瞑想」についてどの様に考えているかと言う事です。
二点目は瞑想の方法です。
前にも書きましたが
座禅会に入って座禅をしたいと思っていますが
座禅をするとどの様な心境の変化が現われて来るのですか。
それから管理人さんは毎日の様に瞑想をしていらっしゃるようですが
その方法はどんな方法ですか。
それから音楽瞑想法と言うものを知っていたら教えて下さい。
その他の瞑想方法や瞑想センター等について知っていたら教えて下さい。
私の瞑想方法はうたた寝とコーヒーと音楽です。
うたた寝でこの世の煩いを洗い流し
コーヒーと音楽で覚醒を高めようとする方法ですが
管理人さんの様な深い瞑想に入る事が出来ません。
管理人さんの行っている瞑想方法では
その極限の状態ではどの様な状況になるのですか。
無我の状態になるのですか。無我の状態とは
意識 感情等が流れ去り 感覚だけの状態になる事ですか。
それとも感覚も流れ落ち 何も感じない状態になる事ですか。
私と言う存在さなくなるのですか。
私は思います。
視覚 聴覚をシャットアウトする事は不可能だと思うのですが
どうですか。
また3分間でさえ
何も考えないでいる事も不可能だと思うのですが
どうですか。
視覚 聴覚等五感が働いている以上
その感覚器官から様々な情報が入って来ており
無意識的にその情報を処理していると思うのですが。
私には無我と言う状態が理解できないのです。
無我とは感覚器官は働いているが
意識が全く働いていない状況を言うのですが。
それとも感覚器官 意識とも全く働いていない状況を言うのですか。
感覚器官が働いていない状態とは
目は開いているが見ていない(または見えてはいない)
耳は開いているが聞いていない(または聞こえてはいない)
と言う事になるのですか。
それとも感覚や意識は働いているが
私が私がと言う思いが無くなっている状態を言うのですか。
私には無我の境地と言うものが分からないのです。
もしそう言う境地を実感できる瞑想法があったら是非体験してみたいのです。
もしそう言う境地を体験すれば
きっと大きなエネルギーが生まれて来ると思うのです。
ある意味では新生と言うほどの大きなエネルギーが。
完全なる無になる事が出来れば新たに生まれる事が出来ます。
しかしそれは不可能な事です。
私は管理人さんの言う無我の状態を理解したいのです。
そしてその為の方法を。
どうかよろしくお願いします。
管理人さんの居ない間に勝手に書き散らしてしまって。
おまけに勝手なお願いまでしてしまって。
しかし私は無我 瞑想と言うものを真摯に理解しようと思っている者ですので
経験者としてどうかよろしくお願いいたします。
これで今回の瞑想シリーズの投稿を全て終わります。
「それ」について または「そこ」について 2006/ 8/29 23:43
返信有難うございました
正にその通りだと思います。
私もその為に
この様に無駄に言葉を費やしているのかも知れません。
こう言う方がいるかも知れません
そんなに言葉を無駄に費やして何になるのだと
確かにその通りだと思います。
しかしまた言葉を無駄に費やさなければ
その言葉の先にある「それ」を見い出す事も出来ないのでしょうから。
私は今その為に
二つの道を模索しています。
一つはこれまで通り
無駄に言葉を費やして
その先にある「それ」を見つけようとする方法です。
最もお手軽な方法だとは思います。
もう一つはオーソライズされた瞑想方法により
「それ」を見つけようとする方法です。
こちらは時間とお金が必要で
中々踏み切れないのですが
その内に挑戦したいと思っています。
さてその事は置いといて
今私にとても気になるメッセージがあります。
下記です。
(省略)
彼はそれに遭遇したのだと思いますが
suzakicojpさん はどの様に考えますか。
生滅生滅のキラキラの不思議な世界 2006/ 9/ 2 12:23
「realizing the truth at the actual level、是が大拙のいう霊性的自覚に相当するだろう。
細胞の一つ一つの動き、あるいは宇宙の動き、働き、是は気がつかない ようであるが、じっとしていればその声が聞こえるのである。
そんな馬鹿な?
、と言う馬鹿が馬鹿を通り越すと、馬鹿でない不思議な世界がもともと そこにあったということに気づくのだ。
それは人間の世界でない、生滅生滅のキラキラの不思議な世界だ。
それを知るとき、そんな馬鹿な、がそのままそんな馬鹿でない、あるい は生と死がいっしょの、絶対矛盾の自己同一がそこにある。」
よく使われる言葉だ。
この作者はそれを本当に体験したのだろうか。
その体験をそのままに表現した言葉なのだろうか。
使い古されたその言葉を当て嵌めただけなのではないか。
「細胞の一つ一つの動き、あるいは宇宙の動き」
彼はそれをどの様に実感したのだろう。
言い古された言葉の使い回しではないのか。
細胞の一つ一つ
一体細胞は幾つあると言うのか。
私はその辺りに疎いが
1兆1億と言う単位であるのであろう
少なく見積もって1万としよう
貴方はその細胞の一つ一つの動きを知る事が出来るのか
貴方はその細胞の一つ一つの声を聞く事が出来るのか
貴方の言う「宇宙」とは何か
先ずそれから定義せよ
そしてその働きを述べよ
そしてその宇宙の声を我々に代弁せよ
貴方の言葉は全て使い古された言葉たちではないか。
「人間の世界でない 生滅生滅のキラキラの不思議な世界だ」
常套句だ。
貴方は人間でありながら人間でない世界を経験出来るのか
もし貴方がそれを経験したのであれば
貴方がこれまでに体験した事のない世界を体験したと言うのが本当ではないか
どうして人間である貴方が人間でない世界を体験出来ると言うのか
よろしい
貴方がその「人間の世界でない、生滅生滅のキラキラの不思議な世界」を体験したとしよう。
その体験を具に述べよ
貴方はこう言う
それは体験しなければ分からないと
常套句だ
勿論私は貴方の体験をそのままに体験する事は出来ない
これは自我の芽生えた子供なら誰でも分る事だ
すなわち私は私 貴方は貴方
しかしそれで済ませないのが私たちの言葉の世界だ
言葉の世界に住む限り
私たちはそれを聞く権利があり
貴方はそれを話す義務がある
その様にして私たちの世界は成り立っている
勿論 私は話したくない
その権利は留保されている
貴方がその権利を主張すれば
私たちのこの対話はここでストップだ
私はこう言う思いでここを立ち去る
彼もまた「唯我独尊」の人だったと
しかし私にはやはりとても興味がある
「生滅生滅のキラキラした不思議な世界」が
その表現は彼が実際に体験した感覚なのだろうか
それとも何処から借りて来た言葉なのだろうか
借り来た言葉であってもいい
彼はきっとそれに近い体験をしたのだろうから
私が具に述べよ言っても
彼は同じ事を述べるだけだ
体験しなければそれは分からないと
押し問答は止す事にしよう
その代わり私が具に聞く事にしよう
字数制限にかかるので
「生滅生滅のキラキラの不思議な世界その2」に続く
これは メッセージ 881 suzakicojp さんに対する返信です
(医療関係ログに自分で下記の掲示板を立ち上げる)
末期患者の為の数息観について 2006/10/24 23:45 [ No.1 / 2 ]
末期患者は絶望の中を追い立てられる様に死の淵まで歩き続けています。
彼らに何か福音はないのか
そう言う考えの中から浮かんで来たのが「数息観」です。
私は禅をした事はありません。
しかしここ数週間の内に禅に関する本を十数冊読みました。
そして分かった事が
禅は数息観に始まり数息観に終わると言う事でした。
数息観をマスターすれば禅をマスターした事も同じだと。
数息観については下記の貼り付けを参考にして下さい。
何も難しい事はありません。
ただ息を数える事だけです。
1、2、3,4・・・・と
ただ息の数え方には大きく次に三つの数え方があるようです。
一番目は1から10まで数え
10まで数え終わったら1に戻り、これを繰り返す方法です。
二番目は1から100まで数え
100まで数え終わったら1に戻り、これを繰り返す方法です。
三番目は1から100、100から1000、1000から10000と言う風に永遠に数え続けて行く方法です。
私はこの三番目の方法を推奨し
皆さんと共有したいと考えています。
何故ならこの方法が
末期患者さんに達成感を齎す事が出来ると思うからです。
禅宗のお寺では一般的には一番目の方法で行っているようですが
専門の指導者に付いて行わない限り
一番目の方法はあまりにも単純すぎて直ぐに飽きてしまい
末期患者の方が一人で続けて行くにはあまりにも難しすぎると思うのです。
三番目の方法は数を数え上げたと言う達成感もありますが
日々その進捗度を自分で測る事が出来るので最適な方法だと思います。
例えば昨日は200回目でこう言う変化が起きたとか
今日は300回目でこう言う変化が起きたとか
その達成感を自分で確認する事が出来ると思うのです。
1から10まで数え、また1に戻ると言う方法は
下記の貼り付けにも書いてありますが
とても難しい方法です。
健常者が禅宗のお寺に行って座禅を組んで数息観を遣るのであれば
それでも良いでしょうが
今回行おうとしているのは
ほとんどベッドに釘付けにされている末期患者を対象としていますので
何度も言いますがその達成感を確認出来る
三番目の方法を推奨し
皆さんと共有したいと考えているのです。
さて私が末期患者さんの方々に推奨する数息観とは
禅宗のお寺で行われている様な座禅を組んでの数息観ではありません。
末期患者さんの方々がどうして座禅を組む事が出来るでしょう。
彼らはほとんど一日をベッドの上で寝て過ごしています。
私の推奨する数息観とは
寝たままでの数息観です。
禅では調身、調息、調心を言います。
調身とは身を調える事です。
座禅道場では結跏趺坐と言う事に成りますが
今回の場合は寝たままと言う事に成りますが
その姿勢について最も安定してそして最も安楽な方法を試行錯誤で求めて行けば良いと思います。
次に調息は
今まで述べて着た様に1から100、100から1000、1000から10000と言う風に数え上げて行く数息観です。
さて調心
これこそが禅が求めて行く最終目的です。
末期患者さんは
ベッドの上で様々な想念が行き交います。
私はそれは地獄だとは言いませんが
それは煉獄そのものだと思います。
それも希望の無い絶望の中での煉獄だと思います。
人間に与えられ最も辛い試練だと思います。
こんな中で顔つきまで変わってしまう事があります。
2000字を超えたので次に続きます。
http://www.ningenzen.org/susoku.html
http://www2.odn.ne.jp/hokkaishibu/suusokukan.html
http://homepage1.nifty.com/totukahp/suusoku.htm 末期患者の為の数息観について その2 2006/10/25
0:19
「末期患者の為の数息観について」からの続きです。
その様な末期患者さんへの福音として考え付いたのが「数息観」です。
彼らにはある意味で無限の時間があります。
数息観に専念出来る無限の時間があると言っても良いと思います。
もし彼らが数息観に四六時中専念したら
ひょっとしたら
禅のマスターたちが到達したあの世界
すなわち無念無想無我の世界
生死を越えた世界
その世界では生も死も同じ様な世界
もしそんな世界に到達出来たら
今目の前に有る死もそれ程恐れる事は無くなり
また今ある生がキラキラしたとても素敵な世界に変る事もあるのですから
その苦虫を潰した様な顔が
ひょっとしたら仏様の様な温和な顔つきに変身する事もあるのでしょうから
そんな福音を求めて
一緒に考えて見ませんか。
もし考えて下さるのなら
上記の「寝たままでの数息観」を遣ってみていただけないでしょうか。
そしてその経験をこの掲示板にお寄せ頂けないでしょうか。
皆様と一緒に末期患者の為の福音「数息観」について
一緒に考えて行けたらとても嬉しく思います。
ひょっとしたら
下記の3の貼り付けにある様な蘇東坡の世界を
そのおこぼれとして
私たちも体験出来るかも知れないと思うのです。
その優しさへの報酬として・・・
『食事が終わった後でしばらく散歩逍遙してお腹がすくように努め、空腹になったら静かな部屋に入って座禅せよ。
黙々として出る息入る息を数え、一息より数えて十息に至り、十いきより数えて百息に至る。百息より数えて千息に至る頃になると、身体が山のようにどっしりしてきて、心が静まりかえることはカラッとした大空のようである。
このような感じのままで、なお静かに呼吸を繰り返していると、やがて息があるのか無いのか分からないようになってきて、自然に止まったように思われてくる。ただ、全身八万四千の毛穴のすべてから雲や霧のように沸き立って通うようである。
このときになって初めて、長年苦しんできた様々な病が自然に治り、諸々の悩みや迷い事がすっかり消滅していることを悟る。それはちょうど、盲人の眼が急に開いたようなものだろう。もう人に道を尋ねる必要がないことを、明らかに知るのだ。』
1 http://www.ningenzen.org/susoku.html
2 http://www2.odn.ne.jp/hokkaishibu/suusokukan.html
3 http://homepage1.nifty.com/totukahp/suusoku.htm
哲学詩集 2006/10/29 11:06
『哲学詩集 序』
哲学とは
philosophia
智恵(sophia)を愛する(philo)事
私は哲学が大好きです
この哲学詩集は
私が智恵を愛する過程で生まれた言葉たちです
そして生まれ来る言葉たちです
過去の哲学詩集
http://www.geocities.jp/sophialover007
『第一哲学』
哲学とは
philosophia
智恵(sophia)を愛する(philo)事
哲学はとてもとても楽しい行為です
しかし私がこの事を唱えても
誰も振り向いては呉れません
何故か
それは哲学が
デカルト カント ショーペンハウアー等
偉大な哲学者の書を研究する事が
哲学と呼ばれているからです
勿論この言葉は現在その様に使われていますから
これを蔑する事は出来ません
そこで私は哲学を
第一哲学と第二哲学に分けたいと思います
第二哲学とは
現在流通している哲学
すなわち
デカルト カント ショーペンハウアー等
偉大な哲学者たちの書を研究する事だとします
そして第一哲学とは
philosophia
智恵(sophia)を愛する(philo)事
すなわち
人間の基礎の基礎の基礎の行為である
その行為を第一哲学と呼ぶ事にします
私が哲学と言う言葉を使う時は
全て第一哲学だと理解して下さい
そうすれば
私の言いたい事が
皆様の心の隅々まで行き渡ると思います
何故なら皆様お一人お一人も
皆智恵の人なのですから
『智恵とは?』
哲学とは
philosophia
智恵(sophia)を愛する(philo)事だと言いました
それでは智恵とは何でしょうか
この問いに対する答えを貴方が見い出した時
貴方は智恵を愛さずには要られなくなる筈です
何故なら貴方は貴方自身を憎む事が出来ないからです
智恵とは貴方自身
本当の貴方自身
素晴らしき貴方自身
真善美に溢れた貴方自身
私がそう答えを出した時
貴方はどう考えますか
今日はこれを貴方への「公案」とします
http://www.geocities.jp/sophialover007
『哲学の極意』他3編 2006/10/30 22:56
『主との抱擁』
さてまた私の智恵の旅が始まった
智恵から離れてどれ程になるのだろう
それがこの有様だ
智恵と須臾も離れずに
それが私のモットーだった筈ではないか
それがこの有様だ
智恵から離れれば離れる程
私は弱くなる
智恵よ 主よ
どうか私を放さないで下さい
そして嘗ての様に
どうか私を優しく抱きしめて下さい
『私は詩人 哲学詩人』
sophialover君
恥ずかしくないのかね
公の前で主との抱擁などと言って
いいえ私は詩人
哲学詩人
私は心のままに詩(うた)わなければならないのです
それに私には使命があります
それはこの世の人に
貴方の存在を知らしめる事です
だから時にはこの様に
挑発的に詩(うた)う事もあるのです
『貴方は道標』
智恵と須臾も離れずに
それは出来ない相談だ
しかし日に一度は
貴方と会わなければならない
そうでなければ私は放浪者だ
昨日までの様に
しかし私はまた貴方と再会出来た
いえ再会出来たかどうかは未だ分からない
しかし私は貴方への道を歩き始めた
貴方はきっと私に寄り添って呉れる筈だ
そして私の道しるべとなって呉れる筈だ
『哲学の極意』
諸君
貴方たちは未だこの智恵と言う存在に気付かないのか
それは貴方自身だ
真善美に溢れた貴方自身なのだ
自信と言う言葉を知っているか
信仰と言う言葉を知っているか
自信とは真善美に溢れた貴方自身を信じるという事だ
信仰とは真善美に溢れた貴方自身
すなわち智恵を信仰すると言う事だ
そうすればどうなる
貴方は真善美に溢れた人間となるのだ
諸君
分かったね
貴方は神の子だ
だから貴方は貴方自身を愛さなければならないのだ
それが哲学(智恵を愛するという事)の極意なのだよ
分かったかね
――――――――――――――――――――――――
今日はここまでとしよう
過去の哲学詩集
http://www.geocities.jp/sophialover007 『真の快楽はニルバーナ』他3編 2006/11/ 1
23:04
『詩人の悦楽』
詩とは何か
それは光速ロケット
瞬時にかの世に渡れる
詩人を知りたければ詩人の国へ行け
もし貴方が詩人を知りたいのなら
詩人の国へ行かなければなりません
詩人の国とは何か
それは悦楽の天国
だから詩人は飽きもせず
あの様に毎日毎日
詩を書き続けているのです
『詩人とは精神的快楽主義者』
至福とは何か
それは精神の高揚
詩人はそれを切に切望します
だから言葉に託して
一気にかの世に渡ろうとするのです
かの世に渡ればそこは詩人の天国です
飲めや謳えや
もし貴方が御所望なら女性を侍らす事も自由
しかし私はそれは望みません
私が望むのは女性の様な旋律
その旋律が舞えば
私は当分の間は至福の中
詩人とはそう言う快楽主義者なのです
『エピクロスの快楽』
貴方はエピクロスと言う哲学者を知っていますか
私の快楽主義は全て彼に負っています
私は思います
もう少し世の人々が彼の快楽主義に学べば良いと
そうすればこの世はもっと精神的になり
そして現在言われている
地球環境問題は一気に解決されるのでしょうけれど
エピクロスの快楽主義にとって必要なものは『私』だけです
私が存在すれば
エピクロスの快楽は全て手に入れる事が出来るのです
私は思います
エピクロスの快楽より更なる快楽は無いと
そしてその快楽は無尽蔵なのです
私は詩人だから挑発的にも言わなければならないのでしたよね
だったら言いましょう
エピクロスの快楽は
全ての哲学宗教思想の快楽に繋がっていると
最極端に言えば
全ての快楽に繋がっていると
『真の快楽とはニルバーナ』
快楽とは何か
それは一つになる事
この世の最高の快楽
それは男女の交合
その最後の瞬間に
男と女は一つになる
それがこの世の快楽の最高の時
それではかの世
すなわち精神界ではどうか
それは私と本当の私が一つになる時
その時
この世の快楽とは比較にならない快楽が訪れる
その快楽は
純粋で温和で長続きする快楽
仏教用語に喩えれば「ニルバーナ」
――――――――――――――――――――――――
今日はここまでにします
過去の哲学詩集
http://www.geocities.jp/sophialover007 『哲学者とは?』他3編 2006/11/ 2
23:55
『意志と表象』
私たちは人間として生まれて来ました
であれば
私たちのその世界を最高に飾る事
それが私たち人間に取っての
最高の務めなのではないでしょうか
意志
幾ら意志があっても
その世界は空回りです
そこに智恵が寄り添ってこそ
素晴らしき表象の世界が生まれるのです
さあそこの貴方
私と一緒に
智恵の探求に出掛けてみませんか
ショーペンハウアー愛好家へ
『哲学者たれ』
何時から哲学は井戸端会議になったのか
より高き世界へ
男だったらその様な気概が必要ではないか
人生は短く芸術は長し
私たちに限られたこの僅かな時間に
如何に自分に相応しい世界を築き上げるか
それが私たち哲学者に課せられた課題ではないか
知識を振り回してどうなる
感情に溺れてどうする
もし未だ感情の虜になっているのであれば
禅を遣って見ろ
一からのスタート
ひょっとしたら無からのスタート
貴方に新生が待っているかも知れないぜ
『哲学者の対話の方法』
私に歯向かって来て見ろ
私は貴方と共に飛翔する
貴方は対話を求めているのか
だったら私に求めよ
私たちは一気に高殿に昇る
そして貴方の感情の流れを見詰める
それが貴方だ
結構美しいではないか
そのままにして置け
それよりも更に飛翔しよう
それが貴方の川の流れの元だ
そしてそれが貴方の川の流れの行き着く先だ
素晴らしい世界ではないか
さあ更に飛翔しよう
何と貴方の川の流れは一つではなかったのだ
全ての川の流れが貴方自身だったのだ
その川の流れはこの世の全てを潤す
神に成って見よ
私たちの世界の何と小さい事よ
そして何と大きい事よ
私が言いたい事は
男だったらもっと気概を持てと言う事だ
甘っちょろい会話に泥むなと言う事だ
少なくとも哲学者である限り
『哲学者とは』
哲学者とは何者か
私はこれまで何度も言って来たし
これから何度も言う
私のその定義は変る事は無い
哲学者とは智恵を愛する者
もし貴方が智恵を愛する者であれば
貴方は全ての偉大と言われる宗教家思想家哲学者が
智恵を愛して愛し抜いた者である事を知っているだろう
しかし貴方が智恵を愛した事が無ければ
貴方はその事を知る事が出来ない
智恵とは仮称に過ぎない
所変われば名は変わる
それを聖霊とも主ともアートマンともデーモンとも呼んでいい
偉大な哲学者たちは
その智恵を通じて神に近付こうとしたのである
ソクラテス プラトンは何と言ったか
「汝自身を知れ!」と
智恵とは真善美に溢れた貴方自身の事なのだ
分かったかな?
『読者へ』『女性読者へ』他2編 2006/11/ 3 11:52
『読者へ』
この西洋哲学カテの何とうらぶれている事よ
私は東洋哲学カテに引っ越そうと思った
何故なら今なら東洋哲学カテに新しい掲示板を作成する事が出来るから
しかし当分の間はここに居続ける事としよう
読者よ
もし居たら一言でも言葉を置いて欲しい
その言葉に依って
私は貴方と対話を進める
私はもう独白は飽きた
それよりも貴方を題材にして
貴方の世界に入りたい
私はこう証明しよう
私と貴方のその奥城では
私と貴方は一緒だと
もし貴方が純粋な人なら
私と貴方は直ぐに一緒になる
しかし貴方がこの世に染まっていたら
私は先ずその汚れ落としから始めなければいけない
しかしそれもまた楽しみ
『女性読者へ』
女性の方へ
もしこの私の詩集に目を留めて頂いたら
どうか一言下さい
私は限り無く優しいのです
そして女性の美を見い出す事に関しては天才的なのです
貴方のその埋もれた美を私は100パーセント引き出します
女性とは美なのです
1歳のよちよち歩きの赤ちゃんから
100歳の臨終前のおばあちゃんまで
私は美を見い出します
私が何故女性の美を見い出す事に優れているのか
それは私がエロスの人ではなくアガペーの人だからです
私は普遍を愛したいのです
『女性の美の再発見』
私は全ての女性に美を見い出します
そして全ての女性がその美を見い出して欲しいと願っています
しかし現実にはそうはいきません
彼女たちは欲求不満に陥っています
私が女性を見詰めると
女性は必ず微笑みます
それは彼女が彼女の美を見い出して呉れたと思うからです
そして私は確かに彼女の美を見い出したのです
世の男性は言う
彼女は美しい 彼女はブスだと
貴方たちの目は一体何も見ているのだ
彼らには心の目が無いのです
私は女性を見ると愛しくなります
全ての女性を愛したくなります
しかしそれは出来ぬ事
しかし関わりがあった時
瞬時に愛します
そうすると彼女は喜びます
女性を愛するとは女性の美を発見してあげる事なのです
『貴女を美しい人にしてあげよう』
女性の美とは何か
それは優しさ
もっと端的に言えば母性愛
出産までは薫陶により
そして出産によってそれが現実となる
私は先程
女性を見詰めると女性は必ず微笑むと言った
しかしそこには強弱がある
優しさに満ちた女性は直ぐに微笑む
しかしそうでない女性は直ぐにとはいかない
しかし最後には結局微笑む
私が彼女の優しさを引き出してあげたから
この世の固い殻に
優しさを閉じ込められた女性たちが居る
もしそう言う人が居たら
私の前に来なさい
貴方のその固い殻を破ってあげる
そして貴方を美しい人にしてあげるから
――――――――――――――――――――――――
過去の哲学詩集
http://www.geocities.jp/sophialover007
Re: 哲学詩集 2006/12/ 7 13:00 [ No.13 / 31 ]
投稿者 : namonakimitukai
少しだけ、目を通しました。
素敵でした。
ほっとしました。
哲学とは神の心を知ろうとする行為、神とは、示し、申される存在者。
「ある愚者」の詩を残します。
(以下省略)
これは メッセージ 1 sophialover007 さんに対する返信です
素敵な詩を有難うございました 2006/12/13 23:07
皆さん
素敵な詩をありがとうございました
こんな感じで
相聞を詩(うた)い合いましょうか
今日は時間がありませんので
ご挨拶まで
詩の相聞 対話で
高く高く舞い上がれたら最高ですね
時間が出来た時に
皆さんのそれぞれの詩にお応えしたいと思います
哲学詩集と言う新しいジャンルの中で
sophialoverより
名も無き御使いさんへ 交信を求めます 2006/12/14 23:32
namonakimitukaiさんへ
返信ありがとうございました
『神は臨在する力?』
神とは全て 唯全て
そう言った時の神とは一体何の事でしょう
可能性の事でしょうか
私自身の可能性の事でしょうか
それとも全人類の可能性の事でしょうか
私ははっきり言いましょう
それは私自身の可能性の事だと
私は思います
神に全てを求めてはいけないと
神に全てを求めれば
神は結局は無いと言う存在になってしまうと
神を言葉遊びにするのならそれでも良い
しかし神を臨在する力とみたいのなら
神は私の主でなければならない
『相聞の詩(うた)について』
namonakimitukaiさんへ
私もまた言葉遊びに走ってしまいました
私たちは詩人
言葉遊びは止められませんよね
そんな言葉遊びの中から
私に取っての真実が生まれて来ればそれで良いのですよね
飛翔
精神の高揚
その先に至福の鐘が鳴った時
それが私たち詩人の報酬ですよね
そんな報酬を求めて
私たちは詩を書き続けていくのですよね
namonakimitukaiさんへ
私への相聞の詩(うた)をお願いします
『神は無か熱情か』
namonakimitukaiさんは
仏教思想の持ち主ですか
namonakimitukaiさんの神には
あまりにも無の力が強過ぎる様に思います
私の神は
どちらかと言うと熱情の神です
『詩人の命は風』
私はあまりにも言葉を弄んではいないか
詩人であれば言葉にはタブーは無い筈
しかし『神』と言う言葉については慎まなければならないのではないか
そうでなければ神の恩恵は受けられないだろうから
であれば今日の全ての詩(うた)は削除か
いいえ詩人は感興
感興を殺せば詩人足り得ない
今日は今日の風が吹く
そして明日は明日の
貴方の命は風
今日の風に乗って貴方の行きたい所まで行け
『ワンダフルワールドへ』
namonakimitukaiさん
無礼の言葉お許し下さい
本来なら削除すべき所ですが
そう言う性の持ち主ゆえ
そのままにします
namonakimitukaiさんも
私に言葉をぶつけて下さい
そこからお互いの核心に入って行けそうな気がします
やはり対話は詩の形では駄目ですね
あまりにもぶつ切りに成り過ぎて
散文で行きましょう
貴方とならきっと素敵な世界が見られそうな気がします
だってこの世はこんなに広いんですもの
ワンダフルワールドへ
私は男にも成りましょう そして女にも
※ 支離滅裂な言葉お許し下さい
全て感興と言う風が成せる業ゆえですので
これは メッセージ 13 namonakimitukai さんに対する返信です
個から普遍への旅へ 御使いに誘われて 2006/12/16 12:10
namonakimitukaiさんへ
返信ありがとうございます
やはり詩で返信する事にします
その方がより大胆になれますから
『私と普遍の間で 私と貴方』
私とは誰か
それは全ての全て
天地開闢の創造者
私が居なければこの世界は存在しなかった
namonakimitukaiさんはこの事が分かりますよね
世界とはそれぞれの世界であると言う事が
現在すなわち2006年12月16日午前10時42分時点で
世界の人口が6,558,967,126人と言う事ですから
世界には6,558,967,126の世界が在ると言う事を
もっとも新生児に世界が在るかと言う事には疑問を呈するかも知れませんが
やはりあるのです
誕生のその瞬間から世界があるのです
誕生のその瞬間
「光あれ」との言葉のもとに
新たな一つの世界が生まれるのです
その世界が如何に多様性に満ちているか
その事もnamonakimitukaiさんは良く分かっていますよね
namonakimitukaiさんの様にしっかりはっきりくっきりした世界もあれば
新生児の様に混沌とした世界もある事を
この世界の創造者は誰か
それは6,558,967,126人の私であると
もし6,558,967,126人の私を統べる人が居るとすれば
それが神と言う事になりますが
それは想像上のお話です
もしその神を現実上に存在させるとすると
それが「私」と言う事にもなりますが
それは絶対矛盾を含んでいます
私とは
あくまでも私の世界の創造者なのです
だから私の世界とnamonakimitukaiさんの世界は違うのです
しかし私の世界とnamonakimitukaiさんの世界の間には共通項が多い
この対話に依り共通項を抽出出来れば
私たちは友となれる
時間と空間を越えた友とは
6,558,967,126の世界の共通項
すなわち「普遍」と言うものの上に存在するものなのでしょうから
私と言う個から普遍と言う神にインナートリップしてみようではありませんか
その為には
私が貴方となり 貴方が私となる必要があります
それは出来ない相談?
それはそうかも知れませんが
努力しようではありませんか
そこに「共に友」と言う概念が生まれて来るのではないでしょうか
私の世界が彩り豊かな世界となる為に
勿論namonakimitukaiさんもそうだとは思いますが
その為に
この機会に一緒に
普遍
今もあり嘗てもあり
そして変らず在ると言うその世界にインナートリップしようではありませんか
その先に在るのは
やはり『私』なのでしょうか
それとも別な何かなのでしょうか・・・?
『「道生一 一生二 二生三 三生万物」とは』
「道生一 一生二 二生三 三生万物」
老子の言葉です
古典や諺に通じているnamonakimitukaiさんの事ですから
その出典もご存知だと思います
この「道生一 一生二 二生三 三生万物」と
namonakimitukaiさんの言う0と1と10の概念も同じだと思います
この場合
道が0に 一が1に 万物が10に相応する事になるのだと思います
しかし残念ながら
私はこの「道生一 一生二 二生三 三生万物」と言う言葉を
完全に解釈し切っていないのです
何故なら
namonakimitukaiさんや光を掲げる者さんや禅をマスター人の様に
無我の境地を体験した事が無いからです
無我の境地を体験した人は
先ずは無我を道に対応させると思います
しかし私は無我を体験した事がないものですから
この言葉を完全には解釈出来ないのです
namonakimitukaiさんは
この言葉をどの様に解釈していますか
子は親の失敗作か? 瞑想 2006/12/22 14:15
frommoominvalleyさんへ
返信ありがとうございました
frommoominvalleyの詩の主要な素材である
「親と子供」「成功と失敗」「偶然と必然」「村人」及び「混沌」を題材にして
相聞をお返しします
『親と子供』
親とは何か
そして子供とは
親とは父親と母親
その交合の結果生まれたのが子供
父親は子供を望んだか
母親は子供を望んだか
私はその現場に行って見た
以下がそのレポートだ
その父親と母親は身を清めて床に入った
お母さんよろしく頼みますよ
お父さんもよろしくお願いします
そして二人は昇天した
その結果 天から授かったのが貴方方だ
本当か?
『成功と失敗』
成功とは何か 失敗とは何か
果たして成功と言う概念があるのか
失敗と言う概念があるのか
あるとすれば貴方の心の中にだけだ
善悪美醜難易相成 長短相形 高下相傾 音声相和 前後相随 是以聖人 處無為之事
もし貴方が無為の事に処ししていれば 貴方には失敗も成功も無い
もし貴方が常に振れていたら 貴方は常に失敗と成功のはざまの中だ
失敗と成功は常に貴方の心の中にだけあるのである
さて貴方よ
貴方は失敗者か成功者か
私はどちらでもない
だったら言葉を鋭敏化させるな
私が貴方にいい言葉を教えて上げよう それは中庸たれ
もし貴方が中庸であり続ければ貴方は聖人君子に近くなる それもまた成功 功成り
『偶然と必然』
偶然とは何か 必然とは何か
それも「善悪美醜難易相成 長短相形 高下相傾 音声相和 前後相随」と一緒
しかしもし強いて必然があると聞かれれば それは「處無為之事」
もし貴方が無為の事に処していれば 必然偶然は貴方次第
私たちは踊らされている
世間に 極端な言い回しをすれば世間と言う悪魔に
あいつは成功者だ こいつは失敗者だ
そして私たちはケースバイケースで私たちをどちらかに当て嵌めている
私が悪魔の正体を暴こう
それは差別
もっと究極的な所に還れば言葉の始まり
言葉に依って私たちは踊らされているのでる
「無名天地之始 有名万物之始」
もし言葉を正しく使えば 私たちは差別には踊らされなくなる
2000字を超えたので
「子は親の失敗作か? 瞑想 その2」に続きます
その2には『村人』と『混沌』を収めています
これは メッセージ 9 frommoominvalley さんに対する返信です
子は親の失敗作か? 瞑想 その2 2006/12/22 14:18
「子は親の失敗作か? 瞑想」からの続きです
『村人』
村人とは世間 その中でも郷原が曲者
「郷原徳之賊也」孔子の言葉である
郷原とは「善良を装い 郷中の好評を得ようとする小人」である
貴方は郷原ではないか
何故郷原が曲者か
それは我々世間に偽善を強いるから
彼らが世間のオピニオンリーダーである
彼らに反すれば村八分
イエスは郷里ではあまり奇跡を起こされなかった
それは郷原たちが彼にレッテルを貼っていたから
彼は大工ヨセフの子ではないか
そんな中でどうして奇跡を起こせよう
もし貴方が自由になりたいのなら
先ずはその村を去らねばならない
『混沌』
混沌から抜け出す一つの方法
それは混沌から抜け出す事
混沌とは何か
それは情報の混乱
情報の混乱から抜け出す方法
それは情報をすっぱり洗い流す事
その為に必要な事
それは死
しかし人は死ぬ事は出来ない
であればそれに変る方法がないのか
ある
それが瞑想である
もし貴方が瞑想により無の世界に突入すれば
貴方はそこから抜け出す時 新たな世界を創造する事が出来る
哲学革命 2007/ 6/ 3 10:23
『哲学革命』
哲学とはphilosophia、
知恵(sophia)を愛する(philo)事。
哲学革命とは知恵を愛する事に依って、社会を変えていこうとする社会運動です。
哲学と言えば、一般的にはデカルト、カント、ショーペンハウアー、プラトン等々を研究する事を哲学と呼んでいますが、
哲学革命で言う所の哲学とはあくまでもphilosophia、知恵を愛する事です。
皆さんはおっしゃるかも知れません。
知恵を愛する事に依って、どうして社会が変わって行くのかと。
哲学とは真善美を愛する事だと言われています。
また「汝自身を知れ」、これが哲学の奥義だとも言われています。
そして哲学とは知恵を愛する事です。
この三つを掛け合わせる事に依って、知恵の神秘が浮かび上がって来るのです。
すなわち知恵とは真善美に溢れた自分自身と言う事になるのです。
そして哲学とはその真善美に溢れた自分自身を愛する事となります。
もし世の中の多くの人々が、真善美に溢れた自分自身を愛したら社会はどうなると思いますか。
真善美に溢れた社会の実現?! そうです、これが哲学革命の原理です。
哲学革命が現実と成る為の条件は唯一つです。
それは世の多くの人が哲学者、すなわち知恵を愛する人に成る事です。
その為にこの掲示板を立ち上げました。
この掲示板に多くの人が自らを哲学者すなわち知恵を愛する者だと名乗れば、その連携に依って哲学革命は必ず起こります。
この掲示板を哲学革命の発祥の地にしたいと思っています。
そう言う訳ですので、どうか皆さんの知恵の表出をお願いしたいと思います。
知恵を愛する事がどんなに楽しい事か、
どの様にして自分は知恵を愛する者(哲学者)になったか等々を
ここに表出して頂ければとても有難く思います。
皆さんの意見の表出に依って、また多くの人が知恵を愛する者(哲学者)に成っていくと思います。
その連係に依って、哲学革命は現実のものと成って行くのです。
どうか皆さんの知恵の表出をお願いいたします。
平成19年6月3日
哲学革命発起人
Re: 哲学革命 2007/ 6/ 9 9:45
う~ん、最初から力が入ってまんな~。
立ち上げの言葉はもっとサラッとした方が、みんな入って行きやすいと思いまぁす。^^;
ところで、これ↓は別トピでの貴殿の投稿。
>私の哲学革命もそれと全く同じ原理なのです。
私の哲学革命で言う所の哲学とはphilosophia
知恵(spphia)を愛する(philo)です
「知恵を愛する」というのは、唯一神教では宗教そのものやからねぇ~。
宗教と哲学をどういうふうに折り合いをつけるのかが第一の問題。
宗教は“信じる”事が根幹にある。
哲学は“懐疑する”事を止めた途端、死ぬ。
貴殿の投稿は、(宗教トピに対するリップサービスなのかも知れないケド^^)すでに宗教寄りになっていると読めるんだなー、皮相な見方でしょうかね。(^-^)
ちなみに、
知恵ってのは
ヘブル語のホクマー(箴言)→ギリシャ語のソフィア(シラ書)→ギリシャ語のロゴス(ヨハネ伝)
と変遷して行ったわけで、結局その意味するところは、神あるいは神の子の“言葉”なんです。
したがって、貴殿の言う「ブッダ、ソクラテス、エピクロス、セネカ、孔子、老子等々」の言葉は“ロゴス”とは成り得ないんです。
唯一神教ですからね・・・。
PS 変遷については、フィロンとパウロを見るヨロシ。
これは メッセージ 1 sophialover007 にさん対する返信です
フィロンとパウロ 2007/ 6/ 9 10:44
投稿者 : didimo4090
「PS:変遷については、フィロンとパウロを見るヨロシ。」
ではあまりにも不親切ですから、このテーマについて、数年前にどこかのトピに投稿したと見られる下書きがあったので、その抜粋を貼り付けておきます。
*********************
前(No135)に私は『イエスの言葉はヘブライ思想の「ホクマー、知恵」の概念から「ロゴス、言葉」というヘレニズム思想に転じたところのものだと理解している』と発言しました。
この二つはもともと、相容れない思想です。その根っこに、唯一神教のヤーウェとオリンポスの神々、という違いがあるわけですからね。しかし私は誰かが、ヘブライ(ユダヤ)思想をヘレニズム(ギリシャ・ローマ)思想に顕わそうとした、という事を言いたかったのです
まず、その「ホクマー、知恵」を旧約聖書の中の知恵文学といわれるジャンルである箴言の中からと、もう一つ、外典から引用します。
主が昔そのわざをなし始められるとき、
そのわざの初めとして、私(知恵)を造られた。
いにしえ、地のなかった時、
初めに、私は立てられた。
まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、
私はすでに生まれ、
山もまだ定められず、丘もまだなかった時、わたしはすでに生まれた。(箴言8-22~25)
聖書には創生物語がいくつもあると言われていますが、いわば、創世記とは違う別の創世記として、まず知恵が創造されています。そして、それは
知恵はちまたに呼ばわり、
市場にその声をあげ、
城壁の頂きで叫び、町の門の入り口で語る。(箴言1-20~21)
と擬人化されていきます。
また、外典のベン・シラの知恵では一章一節以下に
すべての知恵(ソフィア)は主から下る、
それは、常に、神の傍らにある。
・・・・・
知恵はあらゆるものに先んじて創造された。
賢明な理解は、永久の昔からあったものだ
とあります。外典であるシラ書は、ヘブル語で書かれている旧約正典の箴言とは違ってギリシャ語で書かれていますから、知恵(ホクマー)はギリシャ語に訳されてソフィアとなっています。
では、旧約や外典の時代の知恵(ホクマー)が、どのようにして、
初めに言葉(ロゴス)があった。言葉(ロゴス)は神と共にあった。言葉(ロゴス)は神であった。(ヨハネによる福音書1-1)
とあるように新約時代になって、ロゴスとなったのでしょうか?
ヨハネ伝の著者の創造でしょうか?
いや、そうではありません。それはおそらく、ユダヤ人哲学者のフィローン(BC25頃~AD50)によります。ヨハネ伝の成立年代はAD100年頃と言われていますから、それより前に(ホクマー→ロゴス論)が確立していたと考える方が自然です。
フィローンはユダヤ人ですから、ギリシャ、ローマ人どうにかしてユダヤ教を伝えたかった訳です。それがギリシャ哲学でユダヤ教を説く難解な方法になり、そしてそれが、
「神の言葉(ロゴス)」が天地を創造し、世界に生命と目的と法則を与えた、
と説くことになった訳です。
ーーーーーーーーーーーーー長い中略^^;---------------
では誰が、それはイエスだ、と最初に言ったのか?【後註:ロゴスの事】
それはおそらく、パウロです。
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。(コロサイの信徒への手紙1-15~16)
この「御子(イエス・キリスト)」のところに「知恵(ホクマー)」を入れてみれば、この考え方が旧約の知恵文学に由来することは明らかです。
********************
これは メッセージ 2 didimo4090 さんに対する返信です
『哲学革命』論議、知恵を愛する悦び 2007/ 6/10 23:50
didimo4090さんへ
返信有難うございました。
私の言う所の知恵をこれほど見事に言い当て呉れたのは、didimo4090さんが始めてです。
確かに私の言う所の知恵は、旧約聖書『箴言』の第8章に言う所の知恵です。
didimo4090さんの言葉を借りれば「神の言葉」です。
私はこの知恵をこそ利用して、『哲学革命』を起こそうと考えているのです。
しかしまたこの知恵は、ユダヤ教やキリスト教だけのものではありません。
この知恵は全ての宗教のそして全ての偉大な哲学の根源にあるものなのです。
この知恵を通してこそ宗教は生まれるし、この知恵を通してこそ偉大な哲学がうまれるのです。
この知恵を通さずして、如何なる宗教が生まれると言うのでしょう。
この知恵を通さずして、どうして偉大と呼ばれる哲学が生まれる事でしょう。
全ての偉大な宗教家、そして偉大な哲学者はこの知恵を通して、あの様な偉大な宗教や偉大な哲学を確立して言ったのです。
「神の言葉」と言う知恵を通して。
要は神と言う概念をどう捉えるかです。
もし神を考えられる限りの理想のまたその先の理想と考えたらどうなるでしょう。
哲学者はその理想を死ぬまで追い続けるのではないですか。
宗教家もまたそうですが、彼はひょっとしたらそれを掴まえたと見做すのかも知れません。
そしてそれに「神」と名付け、そこから生まれ出て来る言葉を「神の言葉」として、神の仲保者の立場で言い表すのではないでしょうか。
そしてそれが文字になったのが経典聖典教義等々になっていくのではないでしょうか。
しかし真の哲学者、イエス、ブッダ、ソクラテス、プラトン、老子、孔子等々は決して神を掴まえたなどとは言わないものです。
その事を最も端的に言っているのがソクラテスです。
私は知恵者ではない。私は知恵を愛する者だと。
哲学者としてのイエスやブッダは決して神を掴まえたななどと言っていない筈です。
しかしあまりにもその言葉が素晴らしいので、イエスやブッダを知らない後代の弟子たちが、彼らを神または神を捕らえた者に仕立てたのです。
イエスやブッダを含めて人類は全て哲学者(知恵を愛する者)です。
全ての人類は理想のその先の理想を追い求め続ける者なのです。
しかし現在の日本に目を遣って下さい。
そんな理想を追い求めている若者がいますか。
私の哲学革命とはそんな理想を追い求め続ける若者を育てる事にあります。
didimo4090さんのご協力をお願いします。
哲学革命の第一歩はと聞かれれば、
先ずは日本の若者に知恵を愛する事(哲学)の楽しさを教えてあげる事にあると思います。
そんな事等について、一緒に考えて貰えれば有り難く思います。
哲学(知恵を愛する事)の勧め 2007/ 6/12 23:17
didimo4090さんへ
返信を待っていましたが、そちらへ行きましたか。仕方ありません。
また興が乗ったらこちらへも来て下さい。
それよりもとても素晴らしい言葉を見付けました。
それは旧約聖書続編の「シラ書」の最終章の最後の部分です。。
これもdidimo4090さんが旧約聖書続編の存在について気付かせて呉れたお陰です。
感謝申し上げます。
今後の道しるべとしてここに書き置いておきます。
【旧約聖書続編「シラ書」第51章第13節~第27節】
私は若くして放浪の旅に出る前に、
祈りの中で公然と知恵を求めた。
私は聖所の前で知恵を祈り求めた。
これからも最後まで知恵を求め続ける。
ぶどうの花が咲き実が熟する時のように、
私の心は知恵を喜びとした。
私の足は正しく知恵の跡を踏み、
若い頃からその跡を辿り続けた。
私は僅かに耳を傾けるだけで知恵を得、
多くの教訓を見い出した。
知恵によって私は向上した。
私は知恵を与えて下さる方を讃える。
私は知恵の道を実践しようと心に決め、
善を求めた。それは裏切られる事はない。
私の魂は熱心に知恵を求め、
細心の注意を払って律法を行った。
私は天に向かって両手を上げ、
知恵を未だ知らない事を嘆いた。
私は魂をひたすら知恵に向け、
身を清く保って知恵を見い出した。
私は知恵と共に初めから理解する心を得た。
それ故私は見捨てられる事がない。
私は情熱を傾けて知恵を求め、
その為善き財産を得た。
主は報いとして滑らかな舌を与えて下さった。
私はそれを用いて主を賛美する。
私のそばに来なさい、無学な者たちよ、
学舎で時を過ごしなさい。
何故何時までもそのままの状態でいるのか。
お前たちの魂は激しく渇いているのに。
私は口を開いて語ってきた。
知恵を得るのに金はかからないと。
軛の下にお前の首を置き、
魂に教訓を教え込め。
知恵はすぐ身近にある。
目を見開いて見よ。僅かな努力で、
私が多くの安らぎを見い出した事を。
『知恵はすぐ身近にある。目を見開いて見よ。
僅かな努力で、私が多くの安らぎを見い出した事を。』
貴方たちの魂はそんなに渇いているのにどうして知恵を見い出そうとしないのですか。
知恵はすぐそこにあるのに。
知恵を見い出せば貴方は億万長者です。
貴方はもう飢える事も渇く事もありません。
知恵以上に素晴らしい財産はあり得ないのです。
何故なら知恵とは打ち出の小槌。
貴方が求めるものは何でも与えて呉れるからです。
何故なら知恵とは貴方自身、究極の貴方なのですから。
貴方以上に素晴らしい財産がありますか?・・・
知恵はユダヤ教、キリスト教の専売特許ではありません。
知恵とは全ての人類に存在する普遍であり
そしてその普遍からのメッセージなのです。
人類皆兄弟。
その所以は知恵。なのです。
哲学(知恵を愛する事)の勧めでした。
哲学独裁 2007/ 6/13 0:33 [ No.6 / 37 ]
投稿者 : a_few_bad_men
人間は、何千年も前から「世界はどうなっているのだろう。真理とはなんだろう。」と考えてきました。
エジプト、ギリシャ、ペルシャ、インド、中国、マヤ文明などが起こり、それぞれの文明がそれぞれの世界観を持っていました。
ある文明は、永遠の過去から永遠の未来まで、世界は同じように続くと考えました。
ある文明は、神に生贄を捧げなければ、太陽が落ちてきて闇の世界になると考えました。
ある文明は、世界は死者の国と生者の国から出来ていると考えました。
ある文明は、世界はお皿のように平らであり、お皿の端からは山や海や人や物などのすべてが流れ落ちていると考えました。
世界についてだけでなく、人間の起源や人間の知性や物事の真理などについても、文明によりバリエーションが存在しました。
物には意思が宿ると考えた文明、言葉には不思議な魔力が存在すると考えた文明、水や土などの5つの元素から世界ができていると考えた文明など、様々な文明が様々な考え方をしました。
古代では「思う、考える」という要素が非常に大きなウェイトを占め、それが、現在の科学から見た真理とは程遠いものであっても、それなりに人々に安寧をあたえ、秩序を与え、幸せを与えたのでした。
ところが、通商が発達し、冒険の成果が蓄積されて世界が広がり、哲学から分化した科学が物質文明を発展させた時代になると、そうも言っていられなくなりました。
まず、世界に対する認識が制約を受けるようになりました。
地球は平らではなく、球形でした。
宇宙が地球を中心として動くのではなく、宇宙の中を小さな点のような地球が動いているのでした。
人間に対する認識も変わりました。
人間は、昔から人間の形をして現れたのではありませんでした。
人間は、水や土などを壺に詰めておけば出来あがるものでないことも分かりました。
古代の哲学者たちは、「思い、考え」を述べればそれが「世界や真理を表す言葉である」と評価されたのですが、科学の発達はそういう「説明」を否定するようになりました。
「物を混ぜ合わせれば金が出来る」とか「燃料なしで永遠に動く機械が作れる」と説いた、半分科学的な雰囲気をまとった「哲学者」たちも、出番がなくなりました。
社会が発達すると、社会科学の分野でも、制度や政策などについて、自然科学ほど厳密ではないもののある程度の法則が確立され、「思ったこと、考えたこと」が現実の結果により否定されることが多くなりました。
ヘーゲルのような統一的発達史観を説く者さえも現れるようになり、人間は科学や史料の大海原のなかで、法則によって揺り動かされる他律的なホンの小さな木の葉のような存在になりました。
古代の人たちが「思ったこと、考えたこと、感じたこと」から「世界」や「真理」を構成したのに対して、世界や真理が人間の思考を制約する時代になってしまったのでした。
しかし、人間であるならば「自分が他律的に動かされる小さな存在である」と考えたくないのはやまやまです。
人間が自分で考えて行動するということは、本人にとっては、「何か途轍もなく価値のあることを実現している」と考えたいものです。
「科学がどうこう」とか「法則がどうこう」ということとは関係なく、考えて行動している本人にとっては、ただ一度の人生における貴重な一瞬なのです。
人間のなかの幾分かの人たちはそのように考えて、「科学ではなく、現在ある自分の存在、現在ある自分の思いが重要なのだ」と「熱く生きること」を選択しました。
注意すべきは、そういう人たちの「熱く生きる」という姿勢は、あくまでも自足を得るための自分の内面における指針として選択したものであり、その指針を他者に向けるべきでないということです。
自分が「熱く生きる」ために、自分の内面における指針を外面に持ち出して他者を巻き込んでは、大迷惑なのです。
最悪の場合には、「熱く生きる」勢力に対して、それとはまったくベクトルの異なる「熱く生きる」勢力同士がぶつかることになります。
宗教闘争などに、そういう悲しい果てしない衝突の典型を観察することが出来るのは、多くの資料を編纂して残してくれた先人達のおかげです。
我々の理性は、そういう悲しい史料をどのように分析し、どういう生き方を人々がすべきであるかを示すはずなのですが…。
これは メッセージ 1 sophialover007 さんに対する返信です
哲学一貫教育 「知恵の王国 日本」の完成 2007/ 6/16 23:39
a_few_bad_men さんへ
返信有難うございました。
a_few_bad_men さんの言う事は良く分かります。
しかし熱き思いはどうしても外に出てしまうのです。
私の言う所の哲学とは「知恵を愛する事」、
そして「汝自身を知れ」です。
この概念が妥当かどうかは検討して貰いたいのですが、
もしこの概念が妥当と言う事であれば、
私の言う所の哲学革命はa_few_bad_men さんの仰る事には当たらないと思います。
哲学革命と言う言葉についてはセンセーショナルですが、
センセーショナルな言葉を使わなければならない程、
現代においては哲学が必要とされていると思うのです。
国語数学理科社会等々は必須科目とされていますが、
現代においては哲学も必須科目に入れるべきだと思うのです。
もっとも知恵を理解するのは、思春期を過ぎてからでしょうから、
中学3年からでいいと思います。
小学校から中学校2年までは道徳を必須科目とし、
中学3年から高校大学まで哲学を必須科目とする。
そして結婚適齢期までの社会教育の場で哲学教育を行う。
これで日本の哲学一貫教育が完成する事になります。
この哲学一貫教育で日本はどうなると思いますか。
「知恵の王国 日本」の完成です。
a_few_bad_men さんは「知恵の王国 日本」は嫌いですか。
「知恵を愛する事」と「汝自身を知れ」
この二つは人類であれば為すべき事ではないのでしょうか。
その事を教育する事は悪い事なのでしょうか?
※哲学一貫教育の主旨
小学校から中学校2年までは徹底して徳を教える。
そして中学校3年から結婚するまでの間にその徳の意味を自分自身で考え、そしてその徳を自分のものにする。
そうすれば、子供たちにその徳が伝えられて行く事になる。
現在の日本においては『徳』と言う言葉は死語になりつつある。
もし宜しければ日本から徳が廃れて行った原因を一緒に議論して頂ければ有り難く思います。
didimo4090さんへ
「思想は思想内で昇華する事によってのみ思想の栄光がある。」
確かにその通りですが、知恵ある者が知恵を隠すのもどうかと思います。
この辺りでちょっと世の流れに反して熱く語ってみませんか。
日本の徳についてこのままの流れで良いと思いますか?
徳の全体主義については反対ですか。
勿論そうですよね。
しかし一人一人が徳を考える事に依って徳の国家になる事も反対ですか?
これは メッセージ 6 a_few_bad_men さんに対する返信です
「哲学革命」 熱き炎の中で 2007/ 6/19 23:27
a_few_bad_men さんへ
返信有難うございました。
ところで徳とは地域により時代により変って来るものなのでしょうか。
勇気、忍耐、寛容、節制、優しさ、優雅さ、気高さ等々
これら諸々の徳は時代を超えて地域を越えて、
人類に普遍的に存在するものなのではないでしょうか。
これら諸々の徳を育てる事も、哲学革命の大きな仕事の一つです。
さてここでa_few_bad_men さんの質問
「徳をどの様に決めるのか」についてお答えして置きましょう。
それに対する答えは各人各様です。
徳は教え込むものではありません。
各人が理想に向かう時、自ずから身に付いていくものです。
理想のない人には徳は身に付きません。
現代の若者を見て下さい。
彼らに如何なる徳があると言うのでしょう。
彼らはあまりにもひ弱です。
こんな若者に誰がした?
この現代です! 夢と希望のないこの現代です。
哲学革命はこの現代に熱き炎を燃やす事にあります。
その熱き炎とは何か? それこそが知恵です。
a_few_bad_men さんはもう付いて来れなくなりましたね。
確かにa_few_bad_men さんの言う通り、
私の言う哲学革命は大いに宗教的です。
何故なら全ての宗教の根源はこの知恵にあるのですから。
そしてまた私の言う哲学革命は大いに哲学的です。
何故なら偉大な哲学の根源もまたこの知恵にあるのですから。
しかし現代の哲学はこの知恵をないがしろににしていると思います。
現代の哲学
例えば哲学カテに集る主だった人はあまりにも現代的で常識的でスマートです。
それが故、この熱き炎が見えなくなっているのだと思います。
マザーテレサを御覧なさい。
彼女が如何に知恵の熱き炎に誘われたかを。
そしてその過程において如何に素晴らしき数々の徳が身に付いて行ったかを。
私の哲学革命はこの熱き炎を現代に赤々と燃やす事にあります。
多くの若者がこの熱き炎に憧れを抱く様になる為に。
かなり熱く語りましたが、
しかし実際の哲学教育では静かな中で熱く燃える事になります。
哲学一貫教育の方針及びカリキュラムについては次回述べたいと思います。
didimo4090さんへ
知恵の本質を見極めながら、知恵への賛歌は謳わないのですか?
ホクマー→ソフィア→ロゴス そして主あるいは神の言葉
これ程見事に知恵の本質を見極めた人は始めてです。
しかし何度も言う様に、知恵はユダヤ教、キリスト教だけのものではありません。
全ての宗教、哲学の根源です。
主だった宗教、偉大な哲学を経巡って、この知恵の本質をもっと見極めて見ませんか。
これは メッセージ 9 a_few_bad_men さんに対する返信です
「哲学革命」 知恵とは何か? 2007/ 6/20 22:53
a_few_bad_menさんへ
返信有難うございました。
ところで
「徳は普遍である。」と
「徳は各人各様である。」
何も矛盾していないと思います。
神は存在する。
神の働きは千差万別である。
と全く同じだと思います。
徳は普遍であると言う場合は、徳と言う存在は普遍であると言っているのであり
徳は各人各様であると言う場合は、徳の働きは各人各様であると言っているのであり
何も矛盾していないと思います。
a_few_bad_menさんは存在と働きを混同しているので、
前のメッセージの様な思い違いが生まれて来るのだと思います。
現代の哲学では論理学を万能の様に思い込んでいますが、
論理学を言葉に翻訳し直すとかなり幼稚の様な気がします。
それよりも生まれたままの言葉の方がずっと真実に近いと思います。
何故なら言こそロゴスなのですから。
ここで言う「言」とはヨハネ福音書第1章第1節の言です。
この言こそがキリストであり、聖霊であり、ダイモーンであり、アートマンであり、道であり、知恵なのですから。
この知恵を間近に捉えた時、最も真実に近いのです。
これを論理学の論理式に当て嵌めようとすると、お笑い種になったりもするのです。
この知恵の存在を公にする事、それが哲学革命の目的です。
a_few_bad_menさんはあまりにも現代的で科学的で学識的で知識的でスマート過ぎます。
その為この熱き知恵の炎が見え難くなっているのだと思います。
一度これらの殻を全部脱ぎ捨てて、知恵の炎の中に身を投じてみませんか。
これは メッセージ 12 a_few_bad_men にさん対する返信です
ところで 2007/ 6/21 21:20
投稿者 : didimo4090
哲学革命の“理念”はさておき、
>社会を変えていこうとする社会運動です
と言うからには、何らかの“組織”が必要と思われますが、
それは存在していますか?
法人とかNPOとか、いろいろな形態はあり得るでしょう。
或いは、徳育教育を文部科学省に働きかけようとするのならば、
思い切って政党を結成する、などと言うのも一つの方策かもしれませんが・・・。(^ー^;)
ドストエフスキーの「悪霊」のモデルになったネチャーエフ事件…これを起こしたファナティックな青年革命家は<五人組>と呼ばれまして、その名の通り構成員はたったの五人でしたが、ネチャーエフにそそのかされたこの五人は、自分たちはロシア全土に支部を持つ巨大な組織の一員であると信じ込んでいたそうです…。
どう読んでも良いですよ。
狂信的なネチャーエフですら“組織”を持っていた、と読んでも良いし、
逆に
巨大な組織について熱く語る者(五人組)に
小説の方のテーマ“悪霊”がどのように憑依したかを、そこから読み込んでも良いし・・・。
…アイロニーが篭った書き方になったかもしれませんが、そこは失礼。
哲学革命の“実体”があまりにも分かりにくいので、上記を連想した次第。
社会に革命を起こしたのは“人と組織”でしょうね。^^;
「哲学革命」の構想について 2007/ 6/21 23:38 [ No.16 / 37 ]
a_few_bad_men さん及びdidimo4090 さんへ
返信有難うございました
先ずはa_few_bad_men さんの質問にお答えして置きましょう。
「何故宗教戦争が起こり、何故セクト争いが生まれのか?」
簡単な事です。
党派を組むからです。
党派の結束が強ければ強いほど争いは生まれます。
そこに善や徳の概念を持ち込むのは間違いです。
善や徳そして知恵は個々人にこそあるものなのです。
党派にあるそれは教条です。
この教条を守らなければ爪弾きに遭う。
だから彼らは結束を更に固めようとするのです。
そこに生まれて来るのが争いです。
極々簡単な答えになりましたがこれで良いでしょうか。
次のご意見
「人は考えるだけでは善に至らないのです。」
いいえ、人は考える事に依って善に至るのです。
「人は考えるだけでは徳に至らないのです。」
当然です。しかし考えなければ徳には至らないのです。
善を考え、徳に至る思いを馳せる、
これが哲学(知恵を愛する事)なのです。
勿論徳には実践が必要です。徳とは善き行動の意なのですから。
「否定されている善や徳」
これは全くの間違いです。
これはセクト教条主義の考え方です。
善や徳、これは個々人の中にこそ存在するのです。
善や徳は否定し得ないものなのです。
その人が善と思えばそれは善であり、徳だと思えば徳なのです。
しかしその善や徳に思いを馳せれば馳せるほど、
その善や徳は人類普遍のものへと昇華して行くのです。
それが哲学(知恵を愛する事)の働きなのです。
a_few_bad_men さんは未だ知恵の事を十分に理解していないと思います。
a_few_bad_men さんはやはり学識的に過ぎると思います。
それから現代社会においては社会倫理が必要である。
これは現代だけでなく何時の時代でもそうです。
環境をより良く生きる、これが知恵の働きです。
それから哲学革命における学習方法、
これについては、次の機会に述べたいと思います。
didimo4090 さんへ
哲学革命の構想については、今日は時間がないので、次の機会に述べたいと思います。
「哲学革命」 道徳教育について 2007/ 6/23 12:17
a_few_bad_men さんへ
返信有難うございました。
a_few_bad_men さんの言う事は良く分かります。
大体においてはその通りだと思います。
唯一つだけ、分からないと言うか、
いやその通りだと思うのですが、これで良いのかと言う事があります。
それは、「現在の教育は、基礎を理解していない人には『人としてなすべきこと(道徳)』が分からない仕組みになっていると思います。」です。
確かにa_few_bad_men さんの言う通り現在の教育では徳が分からない仕組みになっています。
それで本当に良いのでしょうか。
私はそれでは良くない。だから哲学革命を起こそうとしているのです。
尤も私の主張を言い続けても、平行線になると思いますので、
具体的な事項について、お互いの意見の相違点を確認していこうではありませんか。
その具体的な事項とは、
現在学校で行われている「道徳教育」です。
a_few_bad_men さんは学習指導要領の存在は知っていると思いますが、
この学習指導要領で「道徳教育」がどの様に謳われているかは知らないと思います。
学習要領には小学校学習指導要領、中学校学習指導要領、高等学校学習指導要領等があります。
その構成は、小学校学習指導要領と中学校指導要領は同じで次の通りとなっています。
第1章 総則
第2章 教科
第1節 国語
第2節 社会
・
・
第3章 道徳
第4章 特別活動
高等学校のそれは次の通りです。
第1章 総則
第2章 普通教育に関する教科
第1節 国語
第2節 地理歴史
第3節 公民
・
・
第3章 普通教育に関する教科
第1節 農業
・
・
第4章 特別活動
さて道徳教育の基本方針は何処に謳われているのでしょう。
その答えは、「小学校学習指導要領と中学校指導要領では第3章で謳われ、
高等学校指導要領には道徳教育の記述させもない」となるのでしょうか。
いいえ、それは違います。
道徳教育の基本方針は、小学校、中学校、高等学校とも第1章で謳われているのです。
第1章の第1款に共に「教育過程編成の一般方針」と言うものがありますが、
そこに道徳教育の基本方針が謳われているのです。
教育課程の一般方針については、小学校、中学校では全く同じで三つあり
高等学校では四つありますが、
道徳教育の基本方針は、共にその2番目に謳われています。
参考までにそれを下記に掲載して置きます。
小学校学習指導要領・中学校学習指導要領
「学校教育における道徳教育は、学校の教育活動全体を通じて行うものであり、道徳の時間をはじめとして各教科、特別活動及び総合的な学習活動の時間のそれぞれの特質に応じて適切な指導を行わなければならない。
道徳教育は、教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき、人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭、学校、その他社会における具体的な生活の中に生かし、豊かな心をもち、個性豊かな文化の創造と民主的な社会及び国家の発展に努め、進んで平和的な国際社会に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため、その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。
道徳教育を進めるにあたっては、教師と生徒及び生徒相互の人間関係を深めるとともに、生徒が人間としての生き方についての自覚を深め、家庭や地域社会との連携を図りながら、ボタンティア活動や自然体験活動など豊かな体験を通して生徒の内面に根ざした道徳性の育成が図られるよう配慮しなければならない。」
2000字を超えたので、「哲学革命」 道徳教育についてその2に続きます。
【学習指導要領】
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301.htm
「哲学革命」 道徳教育または哲学教育 2007/ 6/24 11:18
a_few_bad_menさんへ
返信有難うございました。
話を途中で切ってしまって申し訳ありませんでした。
時間がなかったものですから・・・。
それではまた元の議論に戻したいと思います。
ところでa_few_bad_menさんは私の事を誤解しています。
私は勉強しなくて良いなどど言う事は一切言っていないと思います。
知識があってこそ、知恵もまた生きるのですから。
私が批判しているのは知識偏重主義です。
現代では知識が偏重され、知恵は蔑ろにされています。
知識と知恵の調和のとれた人間の育成、この事を哲学革命では主張しているのです。
そしてこの事は学習指導要領でも高らかに謳っているのです。
学習指導要領については小学校学習指導要領、中学校学習指導要領、高等学校指導要領があり、
それぞれに第1章総則があり、その第1款に教育課程編成の一般方針があり、
その中に、小学校学習指導要領、中学校学習指導要領においては全く同じ指針が3つ、
そして高等学校指導要領には四つの指針があり、
そして小学校学習指導要領、中学校学習指導要領、高等学校指導要領ともその第二番目に道徳教育の基本方針があると言う事を伝え、
そして小学校学習指導要領、中学校学習指導要領の道徳教育の基本方針を前回のメッセージに掲載しました。
本当は高等学校のそれまで掲載して、議論を進めようと思っていたのですが、時間切れになってしまったと言うのが昨日の状況です。
a_few_bad_menさんの言う通り、
小学校学習指導要領、中学校学習指導要領の道徳教育の基本方針については大意で良いと思うのですが、
高等学校学習指導要領の道徳教育の基本方針には問題がある、
そう思って議論を進めようと思ったのです。
しかし今日は議論が別な方向に行っているので、
高等学校のそれについてはまた別な機会に述べようと思っています。
さて「調和のとれた人間の育成」
この事については、小学校学習指導要領、中学校学習指導要領、高等学校学習指導要領とも第1章「総則」第1款「教育過程編成の一般方針」の第一番目に謳われているのです。
すなわち「各学校においては、調和のとれた人間の育成を目指して、教育課程を編成すべし」と。
そしてその為に「自ら学び自ら考える力の育成を図ると共に、基礎的基本的な知識の内容の確実な定着を図るべし」と。
さてここに哲学革命において、
見落としてはならない大事な事が述べられているのです。
それは「自ら学び自ら考える力の育成」です。
a_few_bad_menさんは「自ら学び自ら考える力の育成」をどの様な方法で実現しようと思いますか。
哲学すなわち知恵を愛する方法以外に如何なる方法があると言うのでしょうか。
a_few_bad_menさんが現在遣っている以外に如何なる方法があると言うのでしょう。
私が哲学革命で実現しようとしている事は
「自ら学び自ら考える者」すなわち「知恵を愛する者」すなわち「哲学者」の育成に他ならないのです。
哲学者に成る為に必要な事、
それは『読書と』と『思索』と『作文』ですよね。
学習指導要領を見て貰って分かった通り、
現在小学校、中学校、高等学校の道徳一貫教育は出来上がっています。
この道徳を「哲学」に変えるだけで哲学革命は実現するのです。
もっともカリキュラムはもっと充実したものに変えて行きますけれど(特に高等学校において)。
そして大学の哲学教育を充実させて哲学革命は完成です。
巷には「自ら学び自ら考える者」すなわち「知恵を愛する者」すなわち「哲学者」が溢れる事になります。
その時もう日本人は付和雷同の民ではなく、知恵を愛する民として世界から賞賛される事になるのです。
さて一気に夢に走ってしまいましたが、
実際の哲学教育の進め方に言及します。
【学習指導要領】
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301.htm
2000字を超えたので「哲学革命」 道徳教育または哲学教育2に続きます。
これは メッセージ 19 a_few_bad_men さんに対する返信です
「哲学革命」 道徳教育または哲学教育2 2007/ 6/24 12:10
【「哲学革命」道徳教育または哲学教育】からの続きです。
さて一気に夢に走ってしまいましたが、
実際の哲学教育の進め方に言及します。
先ず小学校学習指導要領と中学校学習指導要領の第3章「道徳」を第3章「哲学」に改めます。
そして高等学校学習指導要領の第4章に「哲学」を挿入します。
これで小中高校の哲学一貫教育の完成です。
学習指導要領上における「哲学」の定義は「自ら学び自ら考える事」とします。
勿論この事は「知恵を愛する事」なのです。
さて哲学教育は如何に進めるかと言うと、
古今東西の哲学者(知恵を愛する者)が行って来た様に、
読書と思索と作文が基本です。
勿論自然体験やボランティア活動は大いに活用すべきですが、
授業時間の制限もあるでしょうから・・。
また哲学者=自ら学び自ら考える者=知恵を愛する者になれば、
自ずから自然に入って行くものであり、
自ずからボランティアの必要な人々の中に入って行くものです。
哲学教育については週2時間とする。
その内の最初の1時間を読書に当て、残りの1時間を作文に当てる。
月曜日を読書の時間に当て、金曜日を作文の時間に当てる。
思索は何時行うのか。月曜の読書の時間から金曜日の作文の時間までの間。
何を読ますのか?古今東西の名著。
勿論1時間の範囲内で読める分量の読み物(名著の抄)となる。
読み物については、それぞれの主題
例えば愛と知恵とか勇気とか忍耐と節制とか寛容とか・・
それぞれに相応しい読み物とする。
作文については感想文ではなく、
読書を契機として自らが考えた愛とか知恵と勇気とか忍耐等々に関する概念。
この作業によって、子供たちが自ら学び自ら考えた愛とか知恵と勇気とか忍耐等々の概念が見に付く事になる。
これを小中高校大学更に結婚するまでの社会教育まで進める。
これによって日本人は知恵を愛する民族(哲学の民)となるのである。
私は昨日書店に行って、道徳教育の本を調べてみた。
これでは日本人に道徳が根付かないと思った。
どれもこれも知恵を愛する方法を教えるのには程遠いと思った。
大体どれ位の教師が知恵を愛する事(哲学)の概念を知っているのだろうか。
哲学の副読本すなわち「古今東西の名著抄集」(それぞれの主題ごとに相応しい読み物が集められたもの)については、現代の哲学教育者がそれぞれに著す。
それらの本は子供だけでなく、一般にも流通する。
これらによって哲学教育の底上げが図られる。
哲学教育は現代日本人を教養人として育てる為のものでもある。
夢は枯野を駆け巡る。
書きたい事はまだまだありますが時間が来たのでここまでにします。
【学習指導要領】
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301.htm
「哲学革命」 哲学教育は哲学革命の柱也 2007/ 6/27 0:01
a_few_bad_men さんへ
返信有難うございました。
ところで「哲学教育と国語教育はどう違うのか」
確かにこの質問に答えるには難しい所があります。
私の言う所の哲学教育の基本は『読書』と『思索』と『作文』です。
現在行われている国語教育においても、読書、思索、作文は基本です。
貴方の言う所の哲学教育と国語教育は何の違いもないではないか。
と言うよりも貴方の言う哲学教育は国語教育の一分野だと。
すなわち「読書」「作文」と言う。
確かにそう言われればその様にも聞こえますが、やはり違うのです。
哲学教育と国語教育の違いと言うか、
哲学教育と国語数学社会理科外国語等々の教育の違いを明確にする為には
やはり知恵と知識の概念を明確にしなければならないのです。
知恵とは統合する力であり、
知識とは分断された事実である。
知恵の力が強ければ強い程、
知識は一つのものへと収束して行く。
道生一、一生二、二生三、三生万物。
哲学とは全ての教科の上に立つものである。
哲学とは全ての教科を統べるものである。
その様な意味からも、哲学教育と国語教育は別にしなければならないのです。
a_few_bad_men さんは私の言う哲学教育と現在行われている国語教育は全く同じ様なものだと言いましたが。
それは全く別物です。
現在の国語教育において作文の時間がどれ程あるでしょう。
多分一学期に一回ある位でしょう。
私の言う哲学教育では毎週1回作文を書く事になるのです。
現在行われている国語教育で名著(古典)に触れる機会がどれ程あるでしょう。
現在行われている国語教育で愛とか知恵とか忍耐とか節制とか徳と勉強とか家族とか仕事とか国語数学社会理科等の教科の意義とか
そんな哲学的主題に触れる機会がどれ程あると言うのでしょうか。
哲学教育では毎週その様な哲学的主題の名著を読み、毎週その様な哲学的主題について考え、そして毎週その様な哲学的主題の考えを作文に纏めて行くのです。
この作業に依って、日本の子供たちが如何に知恵を愛する民(哲学の民)になるか、想像してみて下さい。
夢は枯野を駆け巡るのです。
分断された知識を覚え込むのは苦手だが、
知恵を愛する事はこの上なく楽しい。
まるで自分自身を生きている様だから。
きっと現在落ちこぼれと言われている人たちの中にその様な人が山の様にいると思います。
その様な人たちに依ってこそ、哲学革命は達成されているのです。
「天地の主である父よ、貴方を褒め称えます。
これらの事を知恵ある者や賢い者には隠して幼子の様な者にお示しになりました。
父よ、これは御心に適う事でした。」
少し宗教的になってしまいましたが、
知恵を愛する人々は点取り虫でない人々の中にこそたくさん存在していると思うのです。
何故なら知恵を愛する事はその人が現在持ち合わせている知識だけで、イエスやブッダやソクラテスや孔子や老子に近い事を思想する事が出来るのですから。
「例えば自分を愛する様に隣人を愛しなさい」とか・・・
尤も知識が増えればそれだけ多くの人を納得させる事が出来ます。
知識と知恵の調和のとれた児童生徒を育成する。
これは文部省学習指導要領の第1の第1でしたよね。
点取り虫、知識偏重主義者はある意味ではかたわです。
哲学教育は自分自身の進歩を確認する為のものです。
決して評価の対象としてはならないものです。
その意味からも、国語教育から分離させなければならないのです。
【学習指導要領】
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301.htm
これは メッセージ 22 a_few_bad_men にさん対する返信です
「哲学革命」 徳の事は知恵に聞け 2007/ 6/29 0:08
a_few_bad_men さんへ
返信有難うございます。
『「統合する力がなければ知識が意味を持たない」のと同時に「知識がなければ統合する力は意味を持たない」のです。』
全くの同感です。
と言うよりも私の言った事を翻訳し直して呉れたのですよね。
この認識の上に更に議論を重ねる事が出来ればと思います。
さて、『「統合する力」にも「正しく統合する力」と「間違って統合する力」が存在します。』
この表現はとても微妙です。
私はやはりこう言いたいと思います。
統合する力は常に正しいと。
但しその結果は千差万別だと。
その原因をと質されればその知識にあると。
もしお金儲けだけに関する知識を熱心に集めれば守銭奴になる。
彼はお金儲けに関する知識を見事に統合したのである。
統合する力とは情熱の神でもあるのですから。
もし彼女に関する知識を熱心に集めれば、彼女の信奉者となる。
もし徳に関する知識を熱心に集めれば、徳の人となる。
もし知恵に関する知識を熱心に集めれば、知恵の人となる。
現在学校で教えられている国語社会理科数学の知識を熱心に集めれば、
彼は行く行くは教養人知識人と成るでしょう。
しかし彼は知恵の人徳の人とは成らないのです。
何故なら学校でも家庭でも地域でも誰も知恵の事徳の事を教えて呉れなかったから。
現在の実情はこれに近いと思います。
さて、「偏った愛」、「盲目的忍耐」、「不要な節制」とは一体どう言う事なのでしょう。
愛とか忍耐とか節制と言う言葉にその様な冠詞を付す事は相応しくないと思いますが、
百歩譲ってその様な愛その様な忍耐その様な節制があるとして、
それと普遍的な愛と普遍的な忍耐と普遍的な節制とはどう違うのか、
そしてどうして見分けるのか。
簡単な事です。
愛の知識、忍耐の知識、節制の知識を熱心に集める事です。
それらを熱心に集める事に依って、それらは普遍へと昇華して行くのです。
そこに働くのが統合する力すなわち知恵、時には情熱の神とも呼ばれたりする知恵なのです。
「検証、答え合わせ」をどの様に行うのか。
簡単な事です。
「知恵に聞け」と言う事になります。
誰が徳に対する答えを与えて呉れると言うのでしょうか。
先生でしょうか。それとも世間なのでしょうか。
世間の答えがその答えと言う事になるのでようか。
その人は一生世間に翻弄されるだけです。
知恵の力は大きいのです。
現代ではこの知恵の力が過小に評価されています。
哲学教育ではこの知恵に関する知識をふんだんに提供します。
その中から子供たちが知恵とは何かを知る為に。
哲学教育では知恵や徳や真理やそれらに類する知識を様々な名著の中からふんだんに子供たちに与えます。
そして子供たちがそれを統合するのを待ちます。
「知識がなければ統合する力は意味を持たない」のですから。
現在の学校教育ではこれらの知識の提供はあまり行われていないと思います。
愛の種、忍耐の種、節制の種、それらはそれぞれに関する知識の事ですが、
これらの種が播かれなければ、愛も忍耐も節制も育たないのです。
「知識がなければ統合する力は意味を持たない。」
愛の知識、忍耐の知識、節制の知識がないのにどうしてそれらを統合出来るのでしょう。
【学習指導要領】
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301.htm
これは メッセージ 24 a_few_bad_men さんに対する返信です
「哲学革命」 子供は偉大な哲学者なり 2007/ 6/30 0:12
a_few_bad_menさんへ
返信有難うございました。
今回のa_few_bad_menさんメッセージは殆ど完璧だと思います。
否定する所は無い様に思います。
しかし哲学教育は行わなければならないのです。
a_few_bad_menさんの知恵の概念付けも見事だと思います。
そしてその二番目の概念
すなわち『事物の特徴を描写した言葉を組み合わせて、隠れた事実や新しい事実を導き出す力』
この力を導き出す為こそ哲学教育を行おうとしているのです。
またa_few_bad_menさんは言います。
『訓練を経なければ正しい知恵は見に付かない』と
正しくその通りです。
だからこそ哲学教育でその訓練を行うのです。
それから『「知恵に聞け」と放任するのは、最低限必要な「知識」と「知恵」を教育により身につけさせてからでしょう。(そして、そういう時期は少なくとも義務教育を終えた後とするのが、我々の社会の常識だと思います。)』
これについては、誠に申し訳ありませんが、条件付で反対意見を述べないといけないようです。
確かに知恵に聞けと放任すると言う事であれば、中学卒業ではなく、高校大学を卒業し、立派な社会人として知恵も知識も備わった時と言う事になると思うのですが、
放任と言う言葉を取り除き唯単純に「知恵に聞け」と言う事であれば、
小さい時からその訓練をしなければならないと言う事になります。
何故なら「知恵から聞く」と言う能力は小さい時から訓練しなければ身に付かないからです。
その為にこそ哲学教育を行うのです。
さて私の言う哲学教育をここでもう一度お浚いします。
それは『読書』と『思索』と『作文』でしたよね。
哲学の授業は毎週2時間とする。
月曜日を読書の時間とし、金曜日を作文の時間とする。
思索はその間にするでしたよね。
読書については古典と呼ばれる名著を読ませる。
ただし授業時間の制約もあるので、1時間で読み切れる分量の読み物とする。当然名著の抄になります。
その読み物は愛とか知恵とか勇気とか正義とか忍耐とか・・・
その様な主題について、古今東西の名著の中から宗教的思想的な偏りの無く選択する。
勿論それぞれの学年に相応しいものとする。
もし原文のままでは難しければ、子供向けに易しく書き直したものとする等々工夫をする。
これが小学校中学校高等学校大学として一貫して行われる。
彼はその間にどれだけの名著を読む事になるのでしょう。
そして毎週毎週それらの課題について考え、それを作文として纏める。
彼らがそれらの主題に対してどれだけ思慮深い者になるか。
この哲学教育によって子供たちは自然と哲学者(知恵を愛する者)に成っていくのです。
そしてその先にあるのは哲学の民、日本人です。
私は哲学教育だけをせよと言っているのではありません。
基礎学力の為の国語算数理科社会、それらの基礎はしっかりと身に付けさせてあげなけれなりません。
それらのカリキュラムについては現在のままで良いと思います。
学習指導要領で行けば、
現在の教科はそのままで、
ただ道徳と哲学に変え、
週の授業時間を現在の1時間から2時間にする。
唯これだけです。
a_few_bad_menさんが指摘した様に私の言う哲学教育とは
その行う事は国語教育と殆ど変りません。
哲学教育は現在の国語教育の弱い部分すなわち『読書』と『作文』を補強する事にもなるのです。
しかしその効果は日本人を哲学の民に押し上げるだけの力があるのです。
2000字を超えたので「哲学革命」 子供は偉大な哲学者なり2に続きます。
これは メッセージ 27 a_few_bad_men にさん対する返信です
「哲学革命」 子供は偉大な哲学者なり2 2007/ 6/30 0:17
「哲学革命」 子供は偉大な哲学者なりからの続き
さて「知恵から聞く」と言う能力は小さい時から訓練しなければ身に付かないとはどう言う事か。
統合する力は義務教育を終えたから付くと言うものではありません。
統合する力とはやはり習慣によってこそ身に付くものなのです。
思慮深い子は小さい時から思慮深い。
何も考えない子は大きく成っても何も考えない。
哲学者(知恵を愛する者)の家に生まれた子は哲学者(知恵を愛する者)として育つ。
もしその子供が哲学者(知恵を愛する者)の家に育ったのでなければ、学校教育でその修正を図ると言う事です。
私の哲学教育では多くの者が哲学者として育って行くので、
その子供たちが大人に成って結婚し家庭を作る時、
彼ら夫婦は哲学者(知恵を愛する者)なので自然と子供たちも哲学者(知恵を愛する者)と成って行くのです。
哲学教育は哲学者(知恵を愛する者)自然増産法なのです。
知恵を愛すればこそ、「隠れた事実や新しい事実」が発見されて行くのです。
「隠れた事実や新しい事実」それを神秘とも言います。
神秘のベールを剥ぐ、それが哲学なのです。
それは大人になってからだけなく、小さい時から行われているのです。
と言うよりも、小さい時の方が哲学者そのものなのです。
哲学と言うと何か難しい概念を生み出す
そう言う風に思うから、哲学は大きくなってからなどと言う概念が生まれるのです。
「隠れた事実や新しい事実」の発見、それは小さい時から日々行われて来ているのです。
しかし現在の学校教育ではその「統合する力」を全く生かしていないのです。
特に徳の分野で
「哲学革命」哲学教育の意義及びその方法 2007/ 6/30 12:02
a_few_bad_menさんへ
返信有難うございました。
『国語の長文読解をさせる、算数の文章題を解かせる、歴史の時間に時代の特徴を文章にまとめさせる、理科の時間に不思議な教材を見せて仕組みを考えさせる』
国語算数社会理科の教育方法については、a_few_bad_menさんの言う通りだと思います。
このような方法を更に充実させていけば良いと思います。
この様な教育方法が充実すればする程、哲学教育の花が咲き誇っていくのです。
ここでもう一度原点に帰りたいと思います。
私が何故哲学革命を標榜したのか。
そしてその柱に何故哲学教育を持って来たのか。
それはこの世を変えるためです。
現在は退廃の時代です。
このままであればこの時代は更にそこへと加速して行くでしょう。
私はそれでは良くない。
だから哲学革命と言う標語を高く掲げたのです。
私の哲学革命の第一の目的は、この日本人を哲学の民にする事です。
勿論全ての日本人が哲学の民となる事は不可能だと思いますが、
大多数を哲学の民にする、
それが哲学革命の大目的です。
日本の多くの民が哲学者(知恵を愛する者)に成れば、
この日本は世界に冠たる知恵の王国に成るのです。
それが私の夢です。
この民は嘗てのギリシア民族に比される様な民と成るのです。
その為に哲学教育を勧めているのです。
哲学すなわち知恵を愛するとは、
最も端的に言えば「神の言葉を愛する」と言う事です。
神を言うと色々語弊があるので、
前面に出しては使いませんが、
何故なら私が神と言う言葉を使えばクリスチャンからその用法は誤りだと指摘を受けかねないので・・・。
貴方の神と言う言葉の使い方は涜神的だと。
何故なら私は神と言う言葉を比喩的に使うからです。
私もその使い方はあまり良くないと思って、
その代わりに知恵と言う言葉を使っているのです。
知恵すなわち神の言葉を聞く為には、知恵に聞くしかないのです。
知恵に聞けば、その知識の範囲内で最も素晴らしい知恵の言葉を授けて呉れるのです。
子供は子供なりに、大人は大人なりに。
知恵に一心に聞くと言うその態度、それが何よりも大切なのです。
その為には自ら学び自ら考える必要があるのです。
読書はその契機です。
そして思索、これこそが知恵を経巡る過程です。
しかし人は思索しただけでは、その思索は飛散してしまいます。
その思索を確固とする為の方法、それが作文なのです。
そんな生活習慣を日本人全てに付けさせてあげるのです。
その事に依って、日本人が哲学の民となるのです。
私の言う事は学習指導要領第1章第1款第1と何の齟齬もないのです。
ちょっとした工夫でこの日本が知恵の王国となるのです。
科学教育と哲学教育のバランスの取れた国家
世界の国々の人からこう言われるのです。
「日本人は成熟の民だと」
嘗てはエコノミックアニマルなどと呼ばれていたが・・・と
日本もそろそろ科学一辺倒から脱却してもいいのではないですか。
知識ある人も勿論称えて良いのですが、
それと同等にいえそれ以上に
「知恵を愛する人(哲学者)」すなわち神の言葉を愛する人を称えても良いのではないかと。
ここで言う神の言葉とは喩えです。
この喩えはこう言う意味です。
まるで神様の言葉の様にこの人は素晴らしい言葉を喋るし、その行いももし神様が居ればその人の様だと。これが現人神イエスですよね。
知恵について、a_few_bad_menさんの定義に従って議論を進めましたが、
私の言う所の知恵とは、
didimoさんがいみじくも指摘して呉れた様に
私の主の事であり神から下される言葉の事です。
しかしこれもあくまでも比喩です。
この掲示板を立ち上げた時に言いました。
知恵とは真善美に溢れた自分自身の事であると。
今後はこの用法を最も多く使って行くかも知れません。
真善美に溢れた自分自身
これは自我が目覚めた時から死ぬその時まで私たちに付き添って居る者です。
その真善美に溢れた自分自身を最高度に発揮する方法
それが知恵を愛すると言う事なのです。
知恵を愛するば愛するほどその知恵は素晴らしい真善美をプレゼントして呉れるのです。
2000字を超えたので、「哲学革命」哲学教育の意義及びその方法に続きます。
これは メッセージ 30 a_few_bad_men さんに対する返信です
「哲学革命」哲学教育の意義及びその方法 その2 2007/ 6/30 12:12
「哲学革命」哲学教育の意義及びその方法からの続きです。
真善美に溢れた自分自身
これは自我が目覚めた時から死ぬその時まで私たちに付き添って居る者です。
その真善美に溢れた自分自身を最高度に発揮する方法
それが知恵を愛すると言う事なのです。
知恵を愛すれば愛するほどその知恵は素晴らしい真善美をプレゼントして呉れるのです。
哲学教育の中の思索、それは読書を契機とした知恵を愛する(哲学)過程なのです。
そして作文によってしっかりとそれを自分のものにするのです。
教師の役目、それはその知恵を真摯に愛する態度を褒めてあげる事です。
勿論その知恵の表出に対して、哲学者(知恵を愛する者)として色々と導いてあげる事は当然に必要です。
その為には先ず教師が哲学者(知恵を愛する者)でなければならないのです。
教師に対する哲学再教育についても今後考えて行きたい所です・・・
「哲学革命」知恵は共有してこそ知識となる 2007/ 7/ 1 11:53
a_few_bad_menさんへ
返信有難うございました。
『私は、人と人が内面を脱して外面においてともに語るための「知識」と「知恵」の整備(検証)をどうするのだろうかと気に懸かって仕方がないのですが、あなたはそういう点の教育にはあまり関心がないようです。』
いいえ私も勿論大いに関心があります。
知恵は共有してこそ始めて力を持つのです。
知恵が多くの人に共有されればそれは揺らぐ事にない知識とも成ります。
例えば「自分を愛する様に隣人を愛しなさい。」の様に。
もしイエスがこの言葉を発し、そして聖書に記載されなければ
この知恵が知識と成り得たでしょうか。
知恵から得た言葉は大いに発さなければならないのです。
私の哲学教育でも知恵を発する様に成っているのです。
すなわち作文ですよね。
そしてその検証は先ず哲学者(知恵を愛する者)である教師が行います。
唯a_few_bad_menさんの言う様に多様性を認めてあげなければならないので、
批判的な事を言ってはいけないと思います。
しかしその多様性が社会から逸脱するようなものであれば、哲学者として指導してあげる必要はあります。
尤も世界人権宣言で述べている様に、人間には良心と知性が存在しているのですから、知恵に向かえば向かう程、その良心と知性が輝き出して来ると思います。
ですから、
『あなたの主張する「哲学革命」は、人々の孤立感・疎外感を今まで以上に増し、何か社会に悪い影響を与えそうな嫌な予感がするのですが、私の杞憂でしょうか。』については、
杞憂だと思います。
哲学教育の中で、知識と知恵を検証する制度を作った行けば良いのです。
例えばそれぞれの主題毎に作文集を作るとか・・
私は世界人権宣言が言う所の人類に存在する「良心と知性」を信じています。
哲学教育はこの「良心と知性」と言う知恵を引き出す為のものです。
現在行われている道徳教育も全くそれと同じものです。(下記の学習指導要領を参考にして下さい。)
私の言う哲学教育とは、現在行われている道徳教育のレベルアップに過ぎないのです。
方法の改善に他ならないのです。
しかしその効果は日本人を哲学者(知恵を愛する者)に引き上げるだけの力があるのです。
哲学者(知恵を愛する者)と言う表現が気になるのであれば、
学習指導要領が目指している所の「道徳性豊かな人間」と置き換えても良いと思います。
私の言う所の哲学教育は現在行われている道徳教育のスキルアップに過ぎないのです。
しかしその効果は絶大なのです。
a_few_bad_men さんは現在道徳教育がどの様に行われているか知っていますか。
それは学習指導要領にある様に各学校で定める事に成っています。
しかしその現実はかなりおざなりなのです。
試しに中学校時代の道徳の時間を思い出して下さい。
何か思い出に残っている事がありますか。
記憶の欠片にでもありますか。
現在でもその状態は続いているのす。
道徳の授業はどうでもいい。(ある県ではある時まで道徳の授業の無かったとも言われています。)これが教育現場なのです。
こんな道徳教育でどうして子供たちに徳が育つでしょう。
文部科学省もそれではいけないと言う事から、
下記の様な「心のノート」なるものを作ったのです。
これは教科書でもなければ副読本でもないそうです。
私から言えばこの「心のノート」は、
学習指導要領の内容を教師及び児童生徒に易しく翻訳し直したものに過ぎないと思います。
この程度では日本の道徳は望めません。
私は嘗ての修身の様に国定の教科書を作るべきだとも思うのですが、
そんな事は今の時代には到底望めない事なのでしょう。
しかしやはり国は道徳教育を充実させる為の環境作りをしなければいけないと思います。
2000字を超えたので「哲学革命」知恵は共有してこそ知識となるに続きます。
これは メッセージ 33 a_few_bad_men さんに対する返信です
「哲学革命」知恵は共有してこそ知識となる その2 2007/ 7/ 1 11:55
「哲学革命」知恵は共有してこそ知識となるからの続きです
a_few_bad_men さんは現在道徳教育がどの様に行われているか知っていますか。
それは学習指導要領にある様に各学校で定める事に成っています。
しかしその現実はかなりおざなりなのです。
試しに中学校時代の道徳の時間を思い出して下さい。
何か思い出に残っている事がありますか。
記憶の欠片にでもありますか。
現在でもその状態は続いているのす。
道徳の授業はどうでもいい。(ある県ではある時まで道徳の授業の無かったとも言われています。)これが教育現場なのです。
こんな道徳教育でどうして子供たちに徳が育つでしょう。
文部科学省もそれではいけないと言う事から、
下記の様な「心のノート」なるものを作ったのです。
これは教科書でもなければ副読本でもないそうです。
私から言えばこの「心のノート」は、
学習指導要領の内容を教師及び児童生徒に易しく翻訳し直したものに過ぎないと思います。
この程度では日本の道徳は望めません。
私は嘗ての修身の様に国定の教科書を作るべきだとも思うのですが、
そんな事は今の時代には到底望めない事なのでしょう。
しかしやはり国は道徳教育を充実させる為の環境作りをしなければいけないと思います。
愛とか知恵とか忍耐とか様々な主題毎の名著抄集、格言集、名言集(道徳副読本)の作成について、多くの徳教育者、哲学教育者が作成する為に助成を行うとか、哲学者による学校講演会をやるとか、
国は道徳教育の環境作りを行わなければならないと思います。
徳とは本当のものに触れてこそ育つのです。
現在の様なおざなりの道徳教育では子供たちの徳は絶対に育ちません。
現場の教師たちが知恵を出し合って例えば、中学校3ヵ年の道徳計画を作っても、それでは子供たちの徳を育てる事は出来ません。
何故なら彼らが知恵を愛する意味を十分に知っていないからです。
道徳については本物を見せるべし。
これが私の哲学教育の思想です。
そして本物から自分の知恵を見い出して欲しい。
それが願いです。
【心のノート】
http://cebc.jp/data/education/gov/jp/konote/cyu/
【学習指導要領】
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301.htm
「哲学革命」知識から知恵へ知恵から知識へ 2007/ 7/ 4 23:09
a_few_bad_menさんへ
返信有難うございました。
「自分を愛する様に隣人を愛しなさい。」と
「同朋を大事にする様に」とは殆ど一緒の事です。
同朋を人類と解すれば、イエスの言葉と同じです。
これが知恵です。
知恵は世界共通語なのです。
知恵に通じて行けば行く程世界は一つに成るのです。
何故ならその世界では全ての人が知恵と言う共通語で話す事になるのですから。
その世界では言葉の違いによる誤解は生まれなくなるのです。
知恵に達した人たちはお互いに完全に理解し合えるのです。
ブッダとイエスが会って話をしたとしましょう。
彼らは一時間も話し合えば、お互いにこう呼び合うでしょう。
「我が兄弟よ!」と
これを解釈すると、
「神の元で兄弟で合った私たちがまた巡り会えた。何と言う奇跡よ!」となります。
道生一 一生二 二生三 三生万物
知識とは道から万物に至る道で生み出された事実です。
知恵とは道の事であり、また万物から道に還ろうとする力です。
人類皆兄弟、それは道に依る由縁なのです。
イエスも道から生まれた最初の子。
ブッダも道から生まれた最初の子。
そしてa_few_bad_menさんも道から生まれた最初の子と成るべく、
道を求め道を愛し続けなければ成らないのです。
そうすれば何時か自分も一と言う存在である事に気付く事でしょう、
そしてその時、自ずと道と言う胎内に還って行く事でしょう。
そして道から再び生み出された時、
a_few_bad_menさんもイエスやブッダと同じ様に、
道から生まれた最初の子と成るのです。
その時はきっとイエスやブッダの言葉がはっきりと聞き取れる事になるでしょう。
二人の言葉の中には何の相違点もないと。
一体私は二人の何に相違点を見い出していたのだと。
そしてそこではっきり理解するのです。
私はこの世の知識に惑わされ過ぎていたと。
a_few_bad_menさんは現在の所、
二と三と万物の間を行き来していると思います。
もし知恵を知りたいのであれば、
やはり知恵を愛し抜く事が必要だと思います。
知恵の初め、それは「主を畏れる事」
こんな事を書けば蹴飛ばされそうです。
しかしこれも比喩です。
比喩を読み取る力が無ければ、言葉(知識)に惑わされる事になります。
「主を畏れる事」
今日はこれについて「高き理想を持て」と翻訳します。(※比喩はその時々で最も相応しく翻訳すればそれでいいのです。)
高き理想を持てば、自らが一と言う存在である事に気付く様になり、
その時、道が見え隠れする様になるのです。
自らが一と言う存在である事を確信した時、
道とも知恵とも言われる存在が視えて来るです。
対人・対物批判は二から三、三から万物に至る過程です。
知恵から知識、これを演繹と言い
知識から知恵、これを帰納と言う。
道と一を知れば、この演繹と帰納が円環を描く。
道と一を知らなければ、帰納と演繹は二と三と万物の往復運動。
これは メッセージ 36 a_few_bad_men さんに対する返信です
「哲学革命 」哲学と宗教の違いについて 2007/ 7/ 6 12:26
a_few_bad_men さんへ
返信有難うございます。
『キリスト教は一神教であり、他の神を崇拝する者たちを殺戮することを「道徳」としてきた歴史があります。だから、イエスと仏陀が互いの宗教を承認し合うという可能性は、0に等しいでしょう。』
この事については反論があります。
確かにキリスト教の歴史を振り返ると争いがあった事は事実です。
しかしこの事とイエスとブッダが分かり合えると言う事とは全く別の事です。
イエスが争いを勧めた事が一度でもあるでしょうか。
イエスはこう言っています。
「敵を愛し、貴方方を憎む者に親切にしなさい。
悪口を言う者に祝福を祈り、
貴方方を侮辱する者の為に祈りなさい。
貴方の頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。
上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
求める者には、誰にでも与えなさい。
貴方の持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
人にして貰いたい事を、人にもしなさい。」
こう言うイエスが人に争いを勧めるのでしょうか。
哲学と宗教は確かに別です。
哲学とは知恵を愛する事
哲学者(知恵を愛する者)が一人居れば成立します。
しかし宗教においては仏法僧、
すなわち神仏、聖典経典そして教団僧団が必要になってきます。
この内の教団僧団はある意味ではやはり組織です。
この組織を維持する為には神仏及び聖典経典だけでなく
やはりこの世の力が必要となってくるのです。
この世の力を外に伸ばそうとし、そしてこの世の他の力を無視しようとした時、
そこに争いが生じて来るのです。
もし宗教上の争いが生じたのであれば、
その責任はその教団の指導者にあります。
もしキリスト教がその他の宗教と戦争をしたと言うのであれば、
その責任はその時のキリスト教団の最高責任者にあると言う事になります。
その戦争責任と哲学者イエスとは何の関係もないのです。
もしイエスがその戦争を目にしたら、先の言葉を先ず実行する事でしょう。
さてブッダですが、
ブッダも先のイエスの言葉を同じ様な言葉を語っているのではないでしょうか。
イエスの様に熱情的には語っていませんかも知れませんが、
温和な口調で同じ様な事を語っているのではないですか。
純粋な知恵の世界に入れば入る程何の違いも無くなるのです。
試しに、イエスの言葉とブッダの言葉(後代の者が作成したものではなく、なるべくブッダが直接に発したと思われる言葉)を一つずつ比較して御覧なさい。
何の違いも無い事が分かる筈です。
何故なら彼らは知恵の元に兄弟なのですから。
そして二人とも知恵の教えに忠実にあろうとする
知恵にとっては誉れ高き子供たちのなのです。
私が愛するのは、
哲学者(知恵を愛する者)としてのイエスであり、
哲学者(知恵を愛する者)としてのブッダなのです。
それともう一つ反論して置きましょう。
『「知識」と「知恵」を、先生が言うから単に暗記しただけで本当に身につけていない子供たち』
知恵とは働きです。
知恵を暗記する事など出来ないのです。
a_few_bad_men はやはり知恵の事を十分に理解していないと思います。
道生一 一生二 二生三 三生万物
万物から三に
三から二に
二から一に
一から道に
それぞれの過程において知恵が働きます。
知恵は働きであり、また全ての働きの最高位に存在するものでもあります。
知恵の概念を十分に知らなければ、その最高位まで達する事は出来ないのです。
知恵及び一の概念を知らなければ、やはり二留まりです。
知恵の概念については、旧約聖書「箴言」第8章が最も適切だと思います。
この「箴言」第8章を読んだ後、議論が出来れば新たな対話に発展して行けると思います。
これは メッセージ 38 a_few_bad_men さんに対する返信です
「哲学革命」 道徳教育のカリキュラム 2007/ 7/ 8 0:28
a_few_bad_men さんへ
返信有難うございました。
『宗教(教義)の盲信は社会に混乱と悲劇を招いた』
その通りだと思います。
勿論私の言う哲学教育でも宗教教育は行いません。
私の言う所の哲学教育の目的は、
「知恵を愛する事」を学ぶ事であり、
その知恵を愛する過程で様々な徳(ここ言う徳については広い意味での真善美と考えて貰っても良いと思います。)を身に付けて貰う事にあります。
文部省の学習指導要領と何の齟齬も無いのです。
ただその方法として、古今東西の哲学者(知恵を愛する者)たちの言葉を利用すると言うだけです。
勿論その中には哲学者(知恵を愛する者)としてのイエスやブッダも入ってきます。
私の言う哲学者(知恵を愛する者)と言う概念は、一般的に使われているそれよりもかなり広いものとなっています。
私の言う哲学者(知恵を愛する者)には、
一般的に哲学者と呼ばれている人だけでなく、
偉大な宗教家、偉大な芸術家、偉大な文学者、偉大な科学者、偉大な英雄等々を含みます。
何故なら彼らは知恵を愛し抜く事に依って、それらの偉大な事業を成し遂げたのですから。(分野の偏りはあるかも知れませんが、少なくともその分野では知恵を愛し抜いたのです。)
私の哲学教育ではそれら哲学者たちが知恵を愛し抜いたその時の言葉を利用して哲学教育を行います。
子供たちに知恵を愛する(哲学)とはこう言う事ですよと言う事を教えてあげる為に、
哲学者たちが知恵を愛し抜いたその時の現場の生の言葉を利用しようとしているのです。
ひょっとしたらその言霊が子供たちに乗り移るかも知れませんから・・・。
そうしたらしめたものです。
その子供は間違いなく哲学者(知恵を愛する者)に成ります。
私の哲学教育ではその確立が高くなるのです。
現在の道徳教育ではそんな事は望めないのです。
尤も担当教諭が哲学者(知恵を愛する者)であれば別です。
現在の道徳教育のカリキュラムが学校で決める事に成っており、
ある意味では担当教諭にカリキュラムが任されてもいるのです。
もし担当教諭が立派な哲学者(知恵を愛する者)なら、
そこのクラスからは哲学者(知恵を愛する者)が育ち、
文部省学習指導要領が目標とする様な「道徳性豊かな子供」が育つのでしょうけれど、
現在の学校状況においてはそれは万分の一もないのではないでしょうか。
何故なら現在の道徳教育は等閑教育なのですから。
幾ら教育熱心な教諭でも、そんな等閑道徳教育に熱を入れる事ができないのです。
環境の力はとても強いのです。
そんな教育環境の下で、私は哲学(道徳)教育に力を入れます!と手を上げても潰されるだけなのです。
哲学革命では先ず哲学教育の環境を整えてあげます。
その為には教材・カリキュラムの整備が必要です。
私の哲学教育は週2時間ですが、それは理想として置いとくとして、
現在の道徳教育、すなわち週1時間の範囲内で先ずは教材・カリキュラムの整備をしてみたいと思います。
中学校の道徳教育を例にして。
現在の中学校の道徳教育は週1時間、年間35時間、3年間で105時間となっています。
この道徳の授業について、どの様な教材を使い、どの様なカリキュラムを組めばよいのか一緒に考えてみませんか。
それとも現在のままの等閑教育で良いと思いますか。
※ 道徳の時間の教材・カリキュラムについては、各学校で決める事になっています。
何故なら道徳は教科ではないので、教科書がないからです。
「道徳」を各学校に任せる事についてどう思いますか。
なお、現在道徳を「徳育」と言う風に持って行くと言う事も聞いています。
「体育」と同じ様に教科にする予定なのでしょうか。
これは メッセージ 41 a_few_bad_men さんに対する返信です
「哲学革命」 道徳教育のカリキュラ 2007/ 7/18 22:18
只今、帰って来ました。
今日は時間がありませんので手短にメッセージだけを伝えます。
道徳教育は小学校1年から中学校3年までの丸9年間、毎週1時間あります。
しかしこの道徳教育には教科書がありません。
何故なら教科ではないからです。
一般的には「道徳」の時間と呼ばれています。
この道徳の時間については、各学校でカリキュラムを作り、教材を作成していく事になります。
ですから道徳教育については、地域間格差、学校間格差がかなりあります。
この道徳教育については、比較される事もありませんから、ある意味では等閑にされているきらいもあります。
さて、『道徳』に関心のある皆さん、
学校長になったつもりで、
小学校1年から中学校3年までの9年間の道徳教育のカリキュラムと教材を考えてみませんか。
それから父兄の方、
ちょっと学校に行って現在の道徳教育の実情を聞いて下さい。
もしそれで良いと思ったらそれで良し。
しかしもし駄目だと思ったら、私と一緒に小学1年から中学3年までの丸9年間の道徳教育のカリキュラムを考えて見ませんか。
教育によって道徳力はかなり高める事が出来ると思います。
アメリカがその良い例だと思います。
アメリカの道徳教育について詳しい方が居たら是非対話をお願いしたと思います。
特に『純潔教育について』
【学習指導要領】
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301.htm
教育関係の掲示板
「心の教育」と「道徳の時間」 2007/ 7/25 23:32
はじめまして
「心の教育」、とても大切な事だと思います。
実を言うと私もその事を考え始めた所なのです。
一緒に考えて行けたら、とても嬉しく思います。
「心の教育」、
これを実現させる為の鍵は、やはり「道徳の時間」にあると思います。
sigoseiさんは教育関係者ですから詳しいと思いますが、
道徳の時間は小学校1年から中学校3年までの丸9年間、
毎週1時間あります。
この道徳の時間を充実させれば、心の教育もきっと実を結ぶ筈です。
さてそれではどの様に「道徳の時間」を運営して行けば良いのでしょうか。
行き当たりばったりではその効果は望めません。
と言うよりもそれぞれの先生がそれぞれの方法で行って行けば、
混乱をも招きかねません。
現在の道徳教育についてはその弊害が出ているのかも知れませんね。
やはり道徳教育に関しての一貫したプログラムが必要だと思います。
戦前の「修身」の様に国定教科書があれば、国家道徳は一揆貫通するのでしょうけれども、
現在においてはそれは望むべくもありません。
それではどうすれば良いのか。
やはり道徳教材の開発と言う事になると思います。
多くの心ある人の参加により、多くの心ある人が納得出来る
心ある「道徳教材」の開発と言う事になると思います。
この様な道徳教材の開発について一緒に考えてみませんか。
なお、私は下記の通り哲学革命と言う掲示板を立てています。
この哲学革命の中心となってくるのがやはり道徳教育です。
実を言うと、私は道徳教育に代えて、小中高大学更には社会人教育までの哲学一貫教育を考えていますが、それは理想として置いとくとして、先ずは哲学革命の第一歩としての現行の道徳教育について考えて行こうと思っています。
なお、私の哲学革命で言う所の『哲学』とはphilosophia、知恵(sophia)を愛する(philo)事です。
私は知恵を愛する事に依って、全ての徳が一揆貫通されると思っています。
この『知恵』の事についも、今後対話出来ればとても嬉しく思います。
【哲学革命】
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=5&board=2000251&tid=eaf3x3wlbf&sid=2000251&mid=1
【心のノート】
http://cebc.jp/data/education/gov/jp/konote/cyu/
【学習指導要領】
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301.htm
これは メッセージ 1 sigosei さんに対する返信です
道徳教育と哲学(知恵を愛する事)について 2007/ 7/27 13:21
返信有難うございました。
楽しい対話に発展して行けそうな気がします。
ところで対話の方向をどちらに持って行きましょうか。
「道徳教育」でしょうか。
それとも「哲学(知恵を愛する事)」でしょうか。
ここは教育カテです。
迷わずに「道徳教育」を選択する事としましよう。
道徳教育の目標は、文部省学習指導要領に定めている様に、道徳性を育てる事にあります。
それでは道徳性とは何でしょうか。
指導要領によると、
道徳的な心情、道徳的な判断力、道徳的な実践意欲、道徳的な態度などとなっています。
それでは「道徳」とは何なのでしょう。
これに対する答えは、指導要領から見出す事は出来ません。
道徳に関する定義については、それぞれの先生がそれぞれに見出さなければなりません。
因みに全国の全ての小中学校の先生に「道徳とは何か?」と言う質問をする事にしましょう。
さてどの様な答えが返って来るのでしょうか。
もしそこに一律的に普遍的な答えが返って来たら、現在問題となっている道徳問題など言うものは有り得ないのです。
皆がそれも先生までもが道徳について、迷っているから、道徳問題と言う問題が発生しているのです。
道徳とは、
「知恵を愛する事、そして知恵の教えに従って隣人を愛する事」。
もし私がその様な定義をしたら、
皆??????ですよね。
道徳とは何か。
これについては先ずは帰納的な方法で考える必要があると思います。
すなわち道徳的なと思われるものと一つ一つ考えられる限り挙げて行き、
そこから道徳の本質に迫って行くと言う遣り方が一番だと思います。
私の様に「道徳とは知恵を愛する事、そしてその知恵の教えに従って隣人を愛する事」などと言っても誰も理解して呉れないでしょうからね。
そして現代に置ける道徳問題もここにあるのです。
道徳問題の解決、
それは道徳的な事を一つ一つ解決して行き、
そこから道徳の根源を見極める。
その道徳の根源に多くの者が達した時、道徳問題は自ずから解決して行くと思うのです。
私はその為の道徳教材の開発を目指しています。
現在の道徳教育においは、「道徳」と言う概念が振れていると思います。
「情報は何でも鵜呑みにせずに、自分の頭で良く吟味して、最終的にはその情報を超越することが大切です。」
私はこれこそが道徳の根源に達する方法だと思っています。
そして私はこの事を哲学(知恵を愛する事)と呼んでいます。
この為には、情報を与えてあげる事が大切なのです。
私の言う「道徳読本」はこの情報提供に当たるのです。
sigoseiさんの様に人生経験が豊かな人はもう本を読む必要は無いかも知れませんが、
子供たちには栄養素、素晴らしい情報、すなわち素晴らしい言葉を与えてあげる必要があるのです。
「道徳読本」は愛とか知恵とか勇気とか・・・、
一般的に道徳的と呼ばれている事柄について、
古今東西の名著の中からその本質的な言葉を集めたものなのです。
例えば、「愛について」
古今東西の名著の中から百章200ページ程度のA5判程度の読本を提供します。
子供たちはこれらの愛の言葉から、きっと愛の本質を見抜くと思います。
これがsigoseiさんの言う所の「情報は何でも鵜呑みにせずに、自分の頭で良く吟味して、最終的にはその情報を超越することが大切です。」と言う事に成るのだと思います。
人は知恵を愛すれば愛するほどその本質に迫って行く事が出来るのです。
そしてその知恵を行動に生かさなければならないのです。
「知恵を愛する事、そしてその知恵に従って隣人を愛する事」
これが私の道徳教育の基本理念です。
知恵と言う存在に気付かなければ、それぞれの道徳的な事柄を幾ら学んでも馬耳東風です。
最終的にそれら道徳的な事柄が知恵から発されない限り、それらは物まね、きつい言葉で言えば偽善的なものとも成り兼ねないのです。
何故ならその道徳的な事柄について、自分のものではなく、借り物であり、かつ十分に納得していないと言うのであれば・・・。
これは メッセージ 434 sigosei にさん対する返信です
哲学(知恵を愛する事)の勧め 2007/ 8/ 2 23:54
sigoseiさんへ
返信有難うございました。
『キリストは確かに苦悩している民を救済するために、「知恵」によって「愛」に辿り着きました。』
とても素敵な言葉だと思います。
sigoseiさんは「知恵」をどの様に考えているのでしょうか。
「知恵」と「愛」
これが私の根本思想です。
知恵がなければ愛には辿り着けません。
「主を畏れる事は知恵の初め。」
これが無ければ知恵は始まりません。
「知恵は巷に呼ばわり、広場に声をあげる。
雑踏で呼びかけ、城門の脇の通路で語りかける。
いつまで浅はかな者は浅はかである事に愛着を持ち、
不遜な者は不遜である事を好み、
愚か者は知る事を厭うのか。
立ち帰って、私の懲らしめを受け入れるなら、
見よ、私の霊を貴方に注ぎ、私の言葉を示そう。」
「如何に幸いな事か、知恵に到達した人、英知を獲得した人は。
知恵によって得るものは銀によって得るものにまさり、
彼女によって収穫するものは金にもまさる。
真珠よりも貴く、どの様な財宝も比べる事は出来ない。
右の手には長寿を、左の手には富と名誉を持っている。
彼女の道は喜ばしく、平和の内に辿って行ける。
彼女をとらえる人には命の木となり、保つ人は幸いを得る。」
「知恵が呼びかけ、英知が声を上げているではないか。
高い所に登り、道のほとり、四つ角に立ち、城門の傍ら、町の入り口、城門の通路で呼ばわっている。
人よ、貴方に向かって私は呼びかける。
人の子らに向かって私は声を上げる。
浅はかな者は熟慮する事を覚えよ。
聞け、私は指導者として語る。
私は唇を開き、公平について述べ、私の口は誠を唱える。
私の唇は背信を忌むべき事とし、私の言葉は全て正しく、邪な事も曲がった事も含んでいない。
理解力のある人にはそれが全て正しいと分かる。
知識に到達した人にはそれが全て真っ直ぐあると分かる。
銀よりもむしろ私の諭しを受け入れ、精選された銀よりも知識を受け入れよ。
知恵は真珠にまさり、どの様な財宝も比べる事が出来ない。
私は知恵、熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている。
主を畏れる事は、悪を憎む事。
傲慢、驕り、悪の道、暴言を吐く口を私は憎む。
私は勧告し、成功させる。
私は見分ける力であり、成功させる。
私によって王は君臨し、支配者は掟を定める。
君侯、自由人、正しき裁きを行う人は皆、私によって治める。
私を愛する人を私も愛し、私を捜し求める人は私を見い出す。
私のもとには富と名誉があり、優れた財産と慈善もある。
私の与える実りはどの様な金、純金にもまさり、
私の齎す収穫は精選された銀にまさる。
慈善の道を私は歩き、正義の道を私は進む。
私を愛する人は嗣業を得る。
私は彼らの倉を満たす。
主はその道の初めに私を造られた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・」
これが理想としての私の知恵です。
しかしその知恵は私にとっては未だ遠い存在です。
しかし「知恵を愛する人を知恵は愛し、知恵を捜し求める人は知恵を見い出す事が出来るのです。」
しかしその前に主と言う存在が必要なのです。
主と言う存在を通して語りかける時に、
その遠い向こうから知恵が語りかけて呉れる、それが知恵です。
ソクラテスは言いました。
私は知恵者ではない。知恵を愛する者だと。
哲学の事をphilosophiaと言いますが、
その意味は知恵(sophia)を愛する(philo)事です。
私の哲学革命の根本思想はここに在ります。
2000字を超えたので、哲学(知恵を愛する事)の勧めその2に続きます。
これは メッセージ 436 sigosei さんに対する返信です
哲学(知恵を愛する事)の勧め その2 2007/ 8/ 3 0:03
2000字を超えたので「哲学(知恵を愛する事)の勧め」からの続きです。
これが理想としての私の知恵です。
しかしその知恵は私にとっては未だ遠い存在です。
しかし「知恵を愛する人を知恵は愛し、知恵を捜し求める人は知恵を見い出す事が出来るのです。」
しかしその前に主と言う存在が必要なのです。
主と言う存在を通して語りかける時に、
その遠い向こうから知恵が語りかけて呉れる、それが知恵です。
ソクラテスは言いました。
私は知恵者ではない。知恵を愛する者だと。
哲学の事をphilosophiaと言いますが、
その意味は知恵(sophia)を愛する(philo)事です。
私の哲学革命の根本思想はここに在ります。
【主】とは何か。【知恵】とは何か。
一般常識に囚われずに、sigoseiさん自身で考えてみて下さい。
「情報は何でも鵜呑みにせずに、自分の頭で良く吟味して、最終的にはその情報を超越することが大切です。」と言う理念の下に。
そうすれば主とか知恵とかと言う概念が、巷で通用しているよりもぐっと身近なものになると思います。
なお、知恵については旧約聖書の「箴言」や旧約聖書続編の「知恵の書」等に上記の様な言葉がそれ程綺羅星の如く鏤められています。
主についてはそれこそ旧約聖書、新約聖書全般に渡っている訳ですが・・・。
【哲学(知恵を愛する事)の勧め】・・・旧約聖書続編「シラ書」にある知恵に関する言葉です。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=2000251&tid=eaf3x3wlbf&sid=2000251&mid=5
【哲学革命】・・・私の哲学革命の基本概念です。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=5&board=2000251&tid=eaf3x3wlbf&sid=2000251&mid=1
Re: 哲学(知恵を愛する事)の勧め その2 2007/ 8/ 3 7:22
投稿者 : sigosei
いよいよ話が、本質に迫ってきましたね。
私は長年、この日が来ることを待ち望んでいました。
キリスト教、旧約聖書、ギリシャ文化から、可なり影響を受けられているようですが、その成立過程や内容、歴史的時代的な背景を深く突っ込んで考えていけば、「知恵と愛」に関する何らかの理解が得られると思われます。
ギリシャ人は「知恵」を「愛」していました。
その理由の一つは、強国ペルシャと戦うためにギリシャ人全員の英知を結集する必要があったため、「知恵」を最優先させたものと考えています。
キリスト教や旧約聖書は、そのギリシャ文化の影響を強く受けていたものと思われます。
旧約聖書は、モーセ五書を核とし紀元前4世紀までに書かれたものです。
紀元前4世紀といえば、アレクサンダー大王が活躍した時代です。
ギリシャ人は「愛」の対象を「知恵」にしましたが、キリストは「愛」の対象を「貧しく苦しむ人達」にしています。
当時キリストが国籍や場所を問わず、「愛」の対象を「貧しく苦しむ人達」に向けたということは、画期的なことでした。
そして人々のために自分の身を犠牲にした行為は、今でも胸に熱いものがこみ上げてくるものがあります。
しかしこのキリスト教にも、問題があります。
その代表例が、「戦争は悪ですが、外国が攻めてきたら、抵抗せずに殺されるのか?」という疑問です。
この答えは何ら出されていません。
キリスト教にしろ、共産主義思想にしろ、理想的であるということでは共通していますが、人間の本能について忘れているように思われます。
しかし、当時の時代を考えれば、立派な思想といえます。
人は生き残ろうとする本能を持っています。
そのために、「知恵」が要求され、現代文化や文明を築く原動力となってきたと考えています。
これは メッセージ 450 sophialover007 さんに対する返信です
哲学(知恵を愛する事)の勧め その3 2007/ 8/ 3 12:58
stonehead4645さんへ
返信有難うございました。
『知恵はどのようにすれば得られるのでしょうか。』
簡単な事です。
知恵を愛すれば良いのです。
知恵を愛すれば愛するほど、知恵は知恵をふんだんに与えて呉れるのです。
知恵(sophia)を愛する(philo)事を哲学(philosophia)と言います。
哲学とは真善美を求める事だとも言います。
真理を求めれば真理を、
善を求めれば善を、
美を求めれば美を、
それら全てを与えて呉れるのは知恵です。
ですから知恵を愛すれば愛するほど、
知恵は貴方が求めるものを何でも与えて呉れるのです。
しかしその前に必要な事があります。
「主を畏れる事は知恵の初め」です。
主とはキリスト教では神様の事ですが、
勿論神様ですから万人共通の神様には違いないのですが、
しかし主とは貴方自身の神様の事なのです。
「アブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神であり」
ダビデの神であり、イエスの神であり、そして貴方の神の事です。
この神様を通じて祈る時、
知恵が貴方が望むものを何でも与えて呉れるのです。
「真善美に溢れたものを」
神様を通じて祈る時、偽悪醜は求めないでしょうから・・・。
『主』と言う言葉は、キリスト教やユダヤ教の言葉ですが、
これと同じものが人類普遍に存在するのです。
先ずはその主に該当するものを探し出す事が先決です。
もしこの主に該当するものを見い出した時は、
それに祈る、若しくはそれと対話をして行けばいいのです。
そうすればそこにはきっと知恵に溢れた言葉、
すなわち真善美に溢れた言葉を見い出す事でしょう。
しかしこの主に該当する存在を自らの力だけで見出す事はまた難しいと思います。
この主を見い出す為には、
やはり古代の知恵に溢れた書、
すなわち主からふんだんに与えられた知恵の書を読まなければならないのです。
これら知恵の書の中から全てに共通する主若しくは知恵を見い出した時、
人類皆兄弟と言う言葉が生きて来るのだと思います。
決してイエスは争いを勧めていません。
「誰かが貴方の右の頬を打つなら、左の頬も向けないさい。」
「敵を愛し、自分を迫害する者の為に祈りなさい。」
この様に言うイエスがどうして争いを勧める事があるのでしょう。
「よき言葉を集めるのは誰か。」
よき言葉をたくさん集めて行けば、主とか知恵とか言う存在も自然に浮かび上がって来るものだと思います。
なお、私が主に参考にしている知恵の書は次の通りです。
イエス「新約聖書」(日本聖書協会)
ダビデ「旧約聖書詩篇」(日本聖書協会)
ソロモン「旧約聖書箴言」(日本聖書協会)
ブッダ「ブッダの真理の言葉・感興の言葉」(岩波文庫)
孔子「論語」(岩波文庫)
老子「老子」(講談社学術文庫)
プラトン「国家」(岩波文庫)
エピクロス「エピクロス」(岩波文庫)
エピクテトス「キケロ、エピクテトス、M・アウレリウス」(中央公論社:世界の名著)
セネカ「人生の短さについて」(岩波文庫)
マルクス・アウレリウス「自省録」(岩波文庫)
「哲学(知恵を愛する事)の勧め その3」が2000字を超えたので、
「哲学(知恵を愛する事)の勧め その4」に続きます。
これは メッセージ 451 stonehead4645 さんに対する返信です
哲学(知恵を愛する事)の勧め その4 2007/ 8/ 3 13:05
「哲学(知恵を愛する事)の勧め その3」が2000字を超えたので、その続きです。
「よき言葉を集めるのは誰か。」
よき言葉をたくさん集めて行けば、主とか知恵とか言う存在も自然に浮かび上がって来るものだと思います。
なお、私が主に参考にしている知恵の書は次の通りです。
イエス「新約聖書」(日本聖書協会)
ダビデ「旧約聖書詩篇」(日本聖書協会)
ソロモン「旧約聖書箴言」(日本聖書協会)
ブッダ「ブッダの真理の言葉・感興の言葉」(岩波文庫)
孔子「論語」(岩波文庫)
老子「老子」(講談社学術文庫)
プラトン「国家」(岩波文庫)
エピクロス「エピクロス」(岩波文庫)
エピクテトス「キケロ、エピクテトス、M・アウレリウス」(中央公論社:世界の名著)
セネカ「人生の短さについて」(岩波文庫)
マルクス・アウレリウス「自省録」(岩波文庫)
なお、今上記の書を手元に集めた際に、
エピクロスの「メノイケウス宛の手紙」から知恵に関する素晴らしい言葉を見つけたので下記に印して置きます。
「人は誰でも未だ若いからと言って、知恵の愛求を延び延びにしてはならず、
また年を取ったからと言って知恵の愛求に倦む事があってはならない。
何故なら何人も霊魂の健康を得る為には早過ぎるも遅過ぎるもないからである。
未だ知恵を愛求する時期ではないのだと、もうその時期は過ぎ去っているのだと言う人は、
あたかも幸福を得るのに未だ時期がきていないだの、もはや時期ではないのだと言う人と同様である。
それ故、若い者も年老いている者も共に知恵を愛求せねばならない。
年老いた者は老いてなお過去を感謝する事によって、善い事どもに恵まれて若々しく居られる様に、
若い者はまた未来を恐れない事によって、若くしてしかも同時に老年の心境で居られる様に。
そこで、我々は幸福を齎すものどもに思いを致さなければならない。
幸福が得られていれば我々は全てのものを所有しているのだし、
幸福が欠けているのであればそれを所有する為に我々は全力を尽くすのだから。
さて、私が君に絶えず説き勧めてきた事を、それこそが美しく生きる為の基本原理であると解して習い行うべきである。
先ず第一に、神について共通な観念として人々の心に銘されている通り、神は不死で至福な生者であると信じ、神の不死性に縁遠いものや至福性に不似合いなものを神に押し付ける事なく、かえって神の至福性と不死性とを保持する事に出来るものを悉く神のものと考えるべきである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
神については様々な宗教の書や哲学書の書を読み進めていけばそれほど拘らなくなると思います。
それこそエピクロスが言う様に「人々に共通の観念」として捉えても良いと思います。
私も今の所は神については概念でしか捉えていないと思います。
もし存在者として信じる事が出来れば、その知恵の力は大きくなるのだと思いますが、
そこには盲信の落とし穴があるかも知れませんので難しい所です。
しかし古今東西の聖人賢人哲人が概念した神について概念する事はとても大切な事です。
神を信じ切れない我々現代人は、そこに知恵の源泉を求める必要がある様に思えます。
sigoseiさんへ
時間が無くなってしまったので、上記のメッセージで返信に代えさせて頂きます。
これは メッセージ 453 sophialover007 さんに対する返信です
nakatatatsuya3さんへ 道徳教育について 2007/ 8/ 3 23:43
nakatatatsuya3さんへ
始めまして
『現代教育の一大欠陥は「道徳の時間」に別の授業をやっている事実と先生や学校が生徒に何を(人間としての)教えたら良いのかを知らないのが大きな問題です。』
その通りだと思います。
ここのトピ主さんのsigoseiさんも教育についてとても造詣が深いので、
一緒に道徳教育のプログラムについて考えてみませんか。
どの様な事をどの様な方法で教えれば良いのか。
学校長若しくは道徳の主任教諭になった積もりで、
かなり具体的に考えてみませんか。
例えば年間カリキュラムとか・・・
これは メッセージ 457 nakaotatsuya3 さんに対する返信です
他の都市の追随を許さぬ世界一の大都市上海 2007/ 9/20 0:23
9月13日から9月17日までの5日間上海に行って来ました。
上海は今回で二回目です。
最初に行ったのが2003年12月27日から2004年1月2日までの7日間でした。
ですから3年9ヶ月ぶりと言う事になります。
ところで上海市の成長は何時まで続くのでしょう。
そして上海の人口は一体何千万人までなるのでしょう。
上海市規画局は2020年の人口目標を2010万人と見込んでいますが、
その様になるでしょう。
その後はどうなるのでしょう。
後は財政次第、すなわち中国国家経済状況次第と言う事になるのでしょうか。
私の手元にちょっと古い地図帳(平成13年発行)があります。
そこの世界の都市の人口欄を開いてみました。
そこでの一番はソウル(1023万人)で
二番がムンベイ(993万人)、三番がサンパウロ(984万人)、四番がカラチ(917万人)、五番がジャカルタ(911万人)
そして上海(869万人)は六番でした。
今の上海の人口は何万人だと思いますか。
2005年の推計人口で1778万人です。
人口規模から言えば世界のどの都市の追随も許さない世界一のメガロポリスです。
そして更に成長し続けます。
2000万人は私の目の前に広がっていました。
私が街を歩き
そして東方明珠台の展望台から見た実感です。
多分上海市当局もここまでメガロポリス化するとは思っていなかったと思います。
その端的な例は、東方明珠台のちょっと先に広がる浦東地区のこじゃれたアパート群です。
私はそこまで足を延ばしませんでしたが、
多分6階建てのアパート群だと思います。
多分浦東地区の最初の開発の頃手がけたものだと思います。
浦東地区をあのようなアパート地区とするとの目論見だったと思いますが、
その目論見以上の事が起こってしまったのです。
その発端が東方明珠台一体の高層ビルの建築ラッシュです。
ここから上海市のメガロポリス化が始まったのです。
私はここで断定していますが、
実を言うと様々な資料駆使している訳ではありません。
唯一の資料根拠は東方明珠台の入り口に飾られている、
東方明珠台が出来てから(1996年?)から現在までの
東方明珠台一体の毎年の経過写真です。
東方明珠台が出来た頃は
東方明珠台以外には1棟の高層ビルがあるだけです。
現在はどうか 知る人は知っている様ににあの様な状況です。
知らない人の為に簡単に言いますと
東方明珠台一体には超高層(事務所)ビルが屹立し
そしてその先には高層マンションがずっと広がっているのです。
そして極め付けは101階建超高層ビル上海ヒルズと言う事になるのでしょう。
東方明珠台から四方八方を見た光景は大体一緒です。
先ずは高層ビル(事務所)群、続いて高層マンション群、そして低層アパート群(6階建て)
そして一戸建て地帯
そしてその先に農地が広がる。
北京も上海も一緒なのですが
多分他の中国の大都市も一緒だと思うのですが、
それぞれの都市で完結しているのです。
これが俗に言う日本のメガロポリス地帯と違うのです。
日本で言う都市圏
すなわち大都市を中心に幾つもの都市が繋がりあって出来た都市圏と言うものは中国には無いと思うのです。
上海市は上海市単独で完結しているし、北京市も同じなのです(北京市については高い所から見ていないので本当は断言出来ないのですが・・・)
都市圏と言う事で言うと東京都市圏が世界一(3000数百万人だそうです)です。
日本の方々ご心配なく。
東京タワーから見渡して御覧なさい。
街々が見渡す限り続いています。
あんな光景は北京上海にはありません。
上海市、北京市の途切れるその先には田園地帯が広がって見えるのです。
しかし単独の市では上海市が世界一なのです。
時間が来たので今日はここまでにします。
なお過去の北京旅行記、台北旅行記を下記に貼り付けて置きますので参考までに。
これは メッセージ 2590 pekinnnokoi さんに対する返信です
上海大改造計画はこうして進められている! 2007/ 9/21 0:00
パリの街並みは素晴らしい
あの街並みはオスマン知事が一気に創り上げたものである
すなわちオスマン知事による大都市改造計画である
今上海では規模の点から言えば
その大改造計画とは比較に成らないほどの
大改造計画が進行している
「文明」と言う名の下に
この大改造計画は共産主義社会だから出来る事
強制執行の名の下に
上海市の全ての古き「村」が取り壊され
新しき「村」へと変化している
ここで「村」の事について簡単に説明して置こう
村とは街区の事である
すなわち四つの道路に囲まれた街区の事である
この「村」が通常の街区と違うのは
この「村」に入る為には「村」の門から入らなければならないと言う事である
大きな「村」であればその門は二つ
小さな「村」であればその門は一つである
村の住民は皆この門から入らなければならないし
勿論村への客人も同じである
そしてこの門には門番が居るのである
「村」の規模は300~400m四方
面積で言えば1k㎡程度である
勿論大小はある
「村」は上海の町のど真ん中から郊外まで連綿と続く(ただし街区全体が高層商業ビル群と成った所は除く。何故ならこの街区には住民が居ないのだから)
街の中心部の「村」は高層マンション群で構成されている
高層マンション群の先の「村」は6階建てのアパート群で構成されている
その先の「村」は3階建て長屋で構成されている
その先はもう農村地帯であり ここで言う村(街区)はない
さて「村」の定義は以上として
以下に私が村々を歩き回った感想を述べる事にしよう
上海人民政府は全ての古き「村」を「文明」と言う名の下に叩き潰して
新しき村へと創り上げようとしている
小環状線の範囲内で言えば
6割位までは新しき村への変貌が終わっているのではないかと思う
私は上海城地区は例外的に残すのかと思っていたが
そうではないらしい
豫園の商業中心地区のその先の一体が取り壊しにかかっていた
多分ここまで現在の構えの商業地区へと変貌させようと思っているのだろう
上海城地区でと言うよりも
上海市の中で
古き「村」が完全に残っているのは
復興路と中華路の間だけに成っていると思う
そこに足を踏み入れと
紛れも無く古き上海の「村」がある
彼らだけが時代から取り残された様に
しかし自らの生活に誇りを持って暮らしている
多分この地区が最後までの残るのだろうが
最後にはやはり新しき村へと変るのか
それともオールド上海を残す為に苦肉の策が取られるのか
見守る必要がある
さて私が上海人民政府の徹底した古き村の取り壊しの現場を見たのは
初日
上海の骨格を歩いていた時の事である
私は都市を訪れた際は必ず背骨(バックボーン)となる街路を歩く事にしている。
パリで言えば凱旋門からバスティーユ広場
ローマで言えばポポロ門からヴェネティア広場
ロンドンで言えばバッキンガム宮殿からロンドン塔
北京で言えば復興門から建国門
ソウルで言えば南大門から東大門 等
その骨格を歩けば大体その都市を把握する事が出来る
さて上海におけるその背骨とは
当然に南京東路から南京西路であろう
しかし私はまた思ったのである
淮海中路 淮海東路も十分にそれに匹敵すると
そう言う訳で外難を出発点として
南京東路 南京西路 常熟路 淮海中路 淮海東路 人民路
そして外難を終点とする2本の背骨(バックボーン)を歩いたのである
(この二本の背骨と言う特異体質だからこそ 上海は2000万都市へ発展していけるのだと思う)
私が徹底した上海人民政府の破壊活動を見たのは人民路に来た時の事である
人民路の上海城地区の反対側の街区と言う街区が取り壊されていたのである
私はそれぞれの廃墟となった街区に入り込んで見た
私は思った 日本の地上げなんて可愛いものだと
私はそこで未だ取り壊し途中の家々に張られている人民政府の張り紙を見たのである
「何々殿 この度法第何条により 強制執行する事になった」と言う張り紙を
この様にして上海市の大改造計画は進んでいるのである
私は思った
上海人民政府の何と財政の豊かな事よと
上海人民政府は
全ての古き村を新しき村に変えるまで
この大改造計画を続ける積もりなのかと
多分上海人民政府はお金の成る木を持っているのだろうと
今日は時間が来たのでここまでにします
上海大改造計画のお金は如何にして?? 2007/ 9/22 0:41
今私は地図帳(平成13年版)の各国要覧を開いている
ヨーロッパには36カ国があるそうである
私は人口規模を見た
そして上海と比較した
ヨーロッパ36カ国の内
上海を超えているは
ドイツ(8202万人) フランス(5885万人) イギリス(5865万人) イタリア(5737万人) スペイン(3937万人) ポーランド(3867万人) ポーランド(3867万人) ルーマニア(2250万人)だけである
あの名だたる国家群
スイス(710万人) オーストリア(808万人) デンマーク(530万人) スウエー-デン(885万人) ノルウエー(443万人) フィンランド(515万人) ギリシア(1052万人) ベルギー(1021万人) オランダ(1569万人)等々は全て上海の足下にあるのである
上海の実力が如何なるものか分かるだろう
日本と比較しても良い
勿論日本国と比較する事などは出来ないが
地方とは比較する事が出来る
今私の手元にある地図帳で行くと
上海市の人口を超えるのは
関東(3970万人) 近畿(2240万人) 中部(2146万人)だけである
後の
北海道(569万人) 東北(987万人) 中国(777万人) 四国(422万人) 九州(1478万人)は全て上海の足下にある
上海の実力が如何なるものか分かって頂けたと思う
さてこの超巨大都市上海が如何にして生まれて来たのか
それについては昨日書いた
上海人民政府による徹底した大改造計画である
この大改造計画により
上海人民政府は2020年までに2010万人の人口目標を立てている
しかしこの2020年までの2010万人はある程度の人口抑制策に基づく計画である
多分2020年までには近畿(2240万人) 中部(2146万人) ルーマニア(2250万人)の規模までに行っているであろう
今の上海人民政府の改造計画により2010万人
その2010万人の大都市に憧れて更に200万人
私の推計で行くと
2022年までに2222万人となる
超巨大都市上海の行方はこれ位としよう
これからはこの超巨大都市上海の不思議に迫るとしよう
私が一番不思議に思うのは
この超大都市改造計画をどうして進める事が出来るのかと言う事である
方法論ではない
方法論は昨日述べた
「強制執行」である
古い村の至る所に人民政府の大都市改造計画に賛意を表する張り紙が張ってあった
多分上海の「強制執行」は日本の強制執行とは違うと思う
多分この強制執行は「今日から上海人民政府による取り壊しが始まりますよ」と言った告示的なものだと思っている
それで無ければあのように家々にぺたぺたと張ってある訳がない
何故なら日本の強制執行は例外中の例外であり
共産主義社会においてお上に反発する人があの様に居る訳が無い
大改造計画は上海人民の賛意を得て進められているのだと思う
私が不思議に思うのは財源である
中心部には高層商業ビル
その周辺には高層マンション
更にその先には6階建てアパート
更にその先には3階建て長屋(一戸建てではあるが壁で連なっている)
この財源は一体何処から出て来るのか
やはり上海人民政府は打ち出の小槌を持っているのだ!
知っている人よ 教えて下さい
全ての古い街区を取り壊し
新しい街区へと変えて行く
そして更に更地地帯に3階建て長屋(一戸3階建てではあるが壁で連なっている)の団地群を作って行く
一体そのお金は何処から出て来るのだ??
これまで世界に類の無い
超大都市改造及び創造計画
一体お金は何処から出て来るのだ?
上海人民政府は立派なお父さん 2007/ 9/22 0:45 [ No.2889 / 2915 ]
私は上海市の街を歩いて思った
皆小奇麗だと
まあそれは分かる
衣類はそれほど高いものではない
また食事もそれほど高いものではない
衣食の事については上海市の「文明」生活は良く分かる
私が全く分からないのは「住」である
古い街区に住んでいる人以外は
皆立派な「住」に住んでいる
新しい街区に住んでいる人は日本人のそれよりも数段良い
全て人民政府が保証して呉れているのだ
「文明」生活と言う名の下に
日本人の公営アパートは入れなかった人
すなわち民間の賃貸アパマンに入っている人より数段良い
(勿論日本の高級マンションに入っている人は除きますよ)
日本の高級マンションに入っている人を除けば
上海の人々の方がずっと良い住環境に住んでいるのです
またもう一つ驚いたのは一戸建てが3階建てだと言う事です
なお一戸建てと言う言い方は適切ではありません
一戸3階建てが壁で長屋の様に繋がっているのです
私は最初飛行機の上からそしてリニアモーターカーの車窓から
上海の郊外に一戸3階建長屋群を見た時
これは何??と思ったのです
アパートにしては中途半端だなと・・と
そして目を凝らして見て
一戸3階建が長屋の様に繋がっている事を確認した時
愕然としたのです
何と言う住環境よ!と
日本では一戸3階建てはお金持ちの住家ではありませんか??
それが上海郊外の一戸建ては全て3階建てなのですよ!!
これまで上海を訪れた事の無い方
上海の「衣食住」生活はこの様に立派なのですよ
これも全て上海人民政府の「文明」生活と言う名の下に進められている政策の結果なのです
さて上海の衣食住は日本のそれより優れている
この次に来るのが
「衣食足りて礼を知る」です
今上海人民政府は「道徳政策」を積極的に進めています
「村」(街区)の入口の掲示板を見て御覧なさい
何処の掲示板にも八つの徳と八つの悪徳が掲示されています
この道徳政策によって
今上海市民のモラルはぐんぐん上がって来ています
元々善良の市民なのですが
この道徳政策と相俟って
上海市民のモラルはぐんぐん上がって来ています
私ははっきり言い切る事が出来ます
上海市民と日本と都市住民を比較すれば
上海市民の方がモラルが数段上だと
さて日本と上海を比べると結局こう言う事が出来ます
「上海市民の方が衣食住も上だし モラルも上だと
だから上海市民は『文明』人だ」と
これも全て上海市民政府よる「文明」政策の結果なのです
上海市民は幸せな市民です
何故って?
それは
「上海人民政府が立派なお父さんだからです」
お父さんの言う事を聞いてそれに素直に従えば
私たちはお父さんの言う様に「文明人」になれる
そう言切る事が出来るので
上海市民は幸せなのです
今の日本の国民と上海の市民を比べて御覧なさい
私の言う事は間違っていますか???
段々と私の言いたい事に近付いて来ている様です
道徳と教育と法規 2007/ 9/22 0:49
上海市民は幸せな市民です
何故って?
それは
「上海人民政府が立派なお父さんだからです」
お父さんの言う事を聞いてそれに素直に従えば
私たちはお父さんの言う様に「文明人」になれる
そう言切る事が出来るので
上海市民は幸せなのです
今の日本の国民と上海の市民を比べて御覧なさい
私の言う事は間違っていますか???
段々と私の言いたい事に近付いて来ている様です
私はこの旅に出る前に
道徳論を書き著わしたいと思っていました
だから旅の途中でも
道徳と言う視座が表れては消えていたのですが
そんな時
村々(街区)の入り口の掲示板に
八つの徳と八つの悪徳を見付けたのです
そして私はここで思ったのです
やはり道徳とは国家道徳だと
若しくは市民の市民による市民の為の道徳だと
そしてその中心には市民政府(父親)が居なければ駄目だと
さてここで日本人のモラルと上海市民のモラルを比較してみましよう
一つだけ上海市民のモラルが日本のそれよりもと言うよりも世界の「文明」都市市民のそれよりも数段劣っているモラルがあります
それは交通ドライバーのモラルです
これはモラルと言うよりも交通法規に由来する所も大きい様に思えます
もし知っている人が居たら教えて下さい
もし日本の感覚で
この旅の5日間
横断歩道を渡っていたら
多分車に轢かれていたと思います
それほどまでにドライバーモラルと言うか交通法規が悪い
先ず最後の最後まで不思議に思ったのは
右折車が赤信号でも進入して来るのです
これははっきり確認した訳ではありませんが
全部の車と言う訳ではなく
タクシーとかバスとかそう言った車が多かった様な気がします
それとも全ての車だったのですかね?
質問1
赤信号でも全ての右折車は進入して良いのか
それともバス タクシーについては赤信号であっても右折であれが進入して良いのか
質問2
日本の交通法規では「歩行者優先」だが
中国の交通法規では「車優先」なのか
この交通ドライバーのマナーについては
「道徳」と言う観念よりも
「交通法規」と「安全教育」に由来する所が大きいと思う
未だ中国では車が少数者だけの時代であった名残を色濃く残している様に思う
あれだけ車が多くなれば(最も日本と比べると車を持っているのは未だ少数者だとは言える。「村」を訪れれば分かる。)
今の交通法規と安全教育では駄目だ
上海人民政府の方々よ
「文明」を掲げるのであれば
徹底して「歩行者優先教育」を行わなければ駄目だ
海外の文明都市から訪れた人は
車の運転についてだけは非文明的だと非難する筈ですよ
交通マナーについては日本がどの都市と比べても最高
歩行者もしっかりと信号を守っているから
歩行者があのようにしっかり信号を守っているのは日本だけ
歩行者が信号を守らずに車に撥ねられてもそれは自己責任
それは日本を除けば常識
しかし車が信号を守らないのは言語道断
歩行者優先を徹底させる為に今中国に必要な事は
歩行者優先教育と
罰金制度の徹底と
死亡事故等の厳罰化にある
私がここで言いたかったのは
上海だけでなく中国全土何処でもそうだと思うが
交通ドライバーのマナーの悪さは
一般的に言う「道徳」ではなく
「法規」と「教育」に由来していると言う事を言いたかったのである
このドライバーのマナーの悪さを持って
上海市民が道徳が劣ると考えてはいけない
上海市民の方が日本人よりも道徳的は優れていると思う
時間が来たので今日はここまでにします
Re: 上海大改造計画のお金は如何にして?? 2007/ 9/22 1:07
投稿者 :riquyouren
簡単ですが。。
上海の土地は入札で高く売られる、政府はかなりの利益を得てます。。
土地の上の住宅は壊され、こちに住む人にはちょっと外れ場所の新築とお金を与えられ、住民は交渉に有利になるため、なかなかデベロッパーの条件に飲まない、こうして多くの住民がそれによってちょっとしたお金持ちになってます、いつか我が家も壊されるのを期待している人間が多く。。
その土地に住宅を作って、そして人口が多い分、住宅への需要も多く、高く売れます、デベロッパーは一番儲かりますね。。
これは メッセージ 2888 sophialover007 さんに対する返信です
Re: 道徳と教育と法規 2007/ 9/22 2:12
投稿者 : fakeshanghai
>質問1
>赤信号でも全ての右折車は進入して良いのか
>それともバス タクシーについては赤信号であっても右折であれが進入して良いのか
アメリカの法規は
「赤信号でも左から直進車が無い場合は進入して右折可能です」が
中国もこの法規を踏襲している様です。
ただし、中国では左から直進車が来ても進入右折をします。
それなら「1台交互に譲り合い」とも考えますがそれは有りません。
(この件を上海人に質問してもは明確に答えてくれません)
>質問2
>日本の交通法規では「歩行者優先」だが
>中国の交通法規では「車優先」なのか
歩行者優先が徹底されているのは日本だけでは?
中国に限らず、外国どこでも交差点は要注意だと思います。
それにしても最近の上海は「交通指導員?」らしき人々が交差点で何かしていますが、
何をしているのか、マナーが向上するのか、今後に注目しています。
(上海を私は10年程行き来しての感想です。同行者はバリバリのインテリ上海人達です)
これは メッセージ 2890 sophialover007 さんに対する返信です
上海の道徳 日本の悪徳 道徳施策について 2007/ 9/22 12:18
さて愈々道徳の問題に入って行こう
日本の道徳 上海の道徳 世界の道徳 人類普遍の道徳について
先ずは日本の道徳と上海の道徳を比較しなければならない
道徳の本質は何か
それは「美」以外では有り得ない
武士道の美学 騎士道の美学
ここに道徳の象徴がある
さて日本人と上海市民とどちらが美しいか
百倍も上海市民が美しい
「アジアンビューティ ナチュラルビューティ」
私はこの事を
昨年4月29日から5月7日まで北京旅行に行った時の旅行記に書いた
下記に貼り付けて置くので読んで頂きたい
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835368&tid=kl5fe&sid=1835368&mid=2604
読んで頂けただろうか
北京に行った時の口吻がそのままにまた蘇った
今回はこれほどまででは無かったが
やはり同じ思いをした
上記でも書いているが
私は男性なので女性に目が行く
上海の女性も北京の女性同様美しい
私は今回上海に行く時
ひょっとしたら女性が茶髪に変っているのではないかと危惧したのである
しかしそれは危惧であった
若き素直な女性たちは皆黒髪であり
眉毛も剃ってもおらず書いてもおらす
睫毛も不自然なものは無かった
そして肌は素肌に近かった
私は安堵しアジアンビューティ ナチュラルビューティを堪能させてもらった
すなわち自然の美 上海女性の自然の美しさを
道徳の退廃は何時始まるか知っていますか
それは自然を離れた時からです
日本の道徳の退廃が始まったのは
あの茶髪が始まった頃です
そして今では日本の女性の全てが茶髪です(最近幾分黒髪に回帰しているようには感じますが・・・)
日本女性は日本人を捨てしまったのです
日本人としての自然の美を
それは日本人のアイデンティティを捨ててしまった事と同じです
どうしてここに道徳が有り得ましょう
自分自身の自然な姿を現す
これが道徳です
それなのにその自然を表す事を意識的に避け
自分を好きな様に飾り立てて表そうとする
しかもゲテモノ趣味の様に
ここにどうして道徳が成立し得ましょう
道徳の退廃は女性から始まる
これは人類歴史の普遍の法則です
富と神 両方には仕える事が出来ない
ここで言う神とは精神の事であり
富とは物質の事です
物が豊かになれば物を使いたくなる
そして最後には物に使われる
日本女性のお化粧はその最たるものです
日本女性は物に完全に支配されてしまいました
そして日本の魂(日本人としての自然な美しさ)を物に売ってしまったのです
どうしてここに道徳が有り得るのでしょう
上海の道徳,日本の悪徳,道徳施策について-2 2007/ 9/22 12:22
試しにここに
二十歳の上海女性10人 上海男性10人 日本人女性10人 日本人男性10人を横一列に並ばせました
好きな様に話しかけて下さい
もし貴方が自然愛好者 すなわち徳を愛する人であれば
間違いなく上海女性 上海男性の方に先ず行く筈です
日本人女性の事はこれまで散々述べていますからもう言わない事しましよう
しかし何だ この二十歳の日本人男性は
自然な日本人は僅か3名しかいないではないか
何だこの茶髪は 何だこの眉は 何だこの口髭顎鬚は
何と化粧している者までいるではないか
(私は口髭顎鬚を非難しているのではない
もしそれを延ばすのなら自然にすれば良い
そうすればライオンの様に美しいだろうから)
男性までもがこんなにも物に囚われ自然を忘れているのであれば
日本人に道徳を説いても無理かも知れない
徳は男性から香り女性に薫陶する
日本の道徳は末期的状況です
さてここでもう一度上海の道徳に帰りたいと思います
私は3年半前に上海に行きました
その時は目を見張る様な高度成長でした
そして現在もその勢いは続いていました
私は心配したのです
女性の風紀の乱れを
しかしそれはそれ
上海のお父さん(上海人民政府)がしっかりしていましたから
お父さんがしっかりしていれば娘は不品行には走りません
私が上海の街で一番感心するのは
北京ではなお感心するのですが
性風俗の秩序です
これが為
北京の女性も上海の女性も生娘のままでいられるのです
そして男性は女性を尊厳の対象とも出来るのです
現在の日本の性風俗の乱れはどんなものでしょう
試しに結婚していない貴女に聞きましょう
「貴女は処女(おとめ)ですか」と
現在アメリカでは「純潔教育」が行われていると言う
日本において「道徳」を言うのであれば
先ずはここから始めなければならない
男も「純潔」女も「純潔」
それであって始めて尊厳なる「結婚」が始められる
男「私は一生貴女を守ります」
女「私は一生貴男に従います」
こう言い切る事が出来るのです
何故なら共に純潔純白だから
汚れあった男女の絡みあいでは結婚その後もやはり汚れあいなのです
道徳の基本それは「尊厳なる結婚」にあり
私がこんな事を言うと
現代日本から猛反発を喰らいます
しかし現代中国に聞いて御覧なさい
そして純潔教育を受けたアメリカの二十歳の若者たちに
道徳は国家にあり
道徳の基本は国家にあり
それを立証しているのが中国(上海北京)であり 現在のアメリカである
そして道徳の退廃は国家の無関心
それを立証しているのが現代の日本です
上海人民政府が行っている様に
町内会の掲示板に八つの徳と八つの悪徳を掲示してご覧内なさい
日本人にも道徳の何たるかが分かると思います
しかし私はまた思います
その悪徳の標語の一つだけを日本の全ての町内会の掲示板に掲げるだけで
日本の道徳は格段に向上すると思います
悪徳「豪奢姦淫」
ブランドグルメ等々 物に取り憑かれている日本人
好きなだけ恋愛と言う名の姦淫を繰り返している日本人
彼らには立派な警告となる
時間が来たので今日はここまでにします
中国に土地の私有制度はあるのか?? 2007/ 9/23 1:01
riquyourenさんへ
返信ありがとうございました
上海大改造計画の財源の仕組みが分かりました
それにしても上海人民政府は莫大な財産を持っているのですね
打ち出の小槌の段ではありませんね
ほとんど無尽蔵と言う事なのですね
全くの盲点でした
中国は共産主義体制ですよね
全ての財産は共有財産
全ては国家の物
これを切り売りすれば幾らでもお金が入って来る仕組みになっているのですね
さて私はここで疑問が一つ出て来ました
私は前のメッセージでは「村」と言う言葉を使いましたが
あれはあれで良かったのですか
たまたま私が訪れた街区(riquyourenさんは上海に住んでいるから分かって貰えると思いますが・・)の入り口に○○村と書いてあったので
そこから類推して全ての街区について「村」と言う言葉を使ったのですが・・
とにかく便宜上「村」と言う言葉を使います
私はriquyourenさんの返信を見て思ったのです
あの「村」の土地も建物も全て上海人民政府(本当は国なのでしょうけで議論を分かり易くする為上海人民政府と言う言葉を使います)のものではないかと
もっと本質的に言えば
上海の全ての土地と建物は上海人民政府のものではないかと
多分海外資本が入って来るまでそうだったのでしょう
しかしそれでは海外資本を受け容れる事が出来ない
資本がなければ何も出来ない
当然に「上海大改造計画」も
そこで上海人民政府は考えた
ビジネス街工場街等々にはついては特例としよう
ビジネス街工場街等々の底地については海外資本に売っても良い
その売却代金で「上海大改造計画」を進めようと
ここでriquyourenさんにちょっと質問です
私は前のメッセージで「村」(街区)のこの事を様に述べました
村とは四方の道路に囲まれた街区の事である
この村(街区)は壁柵等で囲まれており
大きな村には二つの門が小さな村には一つの門があり 門番が居る
市の中心部の「村」は高層マンション群(数棟)で構成され
その先の「村」においては6階建てのアパート群(数十棟)で構成され
更にその先の「村」においては一戸3階建て長屋群で構成されていると
私は6階建てのアパート群(数十棟)で構成されている「村」については
実際幾つかの「村」を回ったので
私の記述に間違いないと思うのですが
高層マンション群(数棟)で構成されていると表現した「村」と
一戸3階建て長屋群で構成されていると表現した「村」については
実際は訪れていないのでその実態は本当は分かっていないのです
ひょっとして市の中心部の高層マンションは
「村」の中にあるのではなく
それぞれ独立しているのではないのでしょうか
それこそriquyourenさんが言う様にデベロッパーが1棟1棟建設したものなのでしょうか
それともこうでしょうか
上海人民政府が建設した「高層マンション群(数棟)の村」もあるし
デベロッパーが建設した「高級高層マンション(単独)」もある
それから最郊外にある一戸3階建て長屋群で構成されていると表現した「村」
あれはひょっとしたら「村」ではなく
日本で言う所の郊外一戸建て住宅街なのではないでしょうか
これまでの伝統上長屋作りになっているだけではないのでしょうか
「村」で無いと言う意味は、柵とか壁で囲まれ、門があり、門番が居るという意味での「村」ではないのではないでしょうか
私は便宜上、上海の都市計画を「村」単位で把握しようと思って
前の様なメッセージを作り上げたのですが
実際の所上海の都市計画はどうなっているのでしょうか
さて細々とした疑問は以上の様なものですが
私の大疑問は下記です
海外資本を受け容れるのだから
当然に建物の私有を認めなければいけない
しかしですよ
共産主義体制の根本にかかる「土地」の私有を認めたら
共産主義体制は成り立たないのではないか
もし「土地」の私有を認めたと言うのなら
共産主義体制の何の根拠も亡くなる事になる
もしそうだとしたら早晩中国の共産主義体制は崩壊する
私は思うのですが
「所有権」を移転するのではなく
「地上権」を設定するのではないですか
勿論それは入札であっても構わないと思うのですが
大疑問
「中国に土地の私有制度があるのか」
中国上の全ての土地は中国の国家のものではないのか
勿論国家の外郭団体等または地方政府等のものであっても構わないが・・・
中国に土地の私有制度はないのではないか
上海旅行印象記総括 2007/ 9/23 1:06
とにかく
私は上海大改造計画に期待します
上海人民政府の方々
一気に2222万人都市を目指しなさい
そして
道徳政策を徹底的に進めなさい
そうすれば
世界に冠たる都市となる事間違い無しです
上海人民政府の方々
『茶髪』に注意しなさい
上海人としての誇りを失わない為に
上海人のアイデンティティを失わない為に
何時までもアジアンビューティ ヒューマンビューティ ナチュラルビューティである為に
日本の様な堕落した国に成らない為に
それとももう一つお父さんに(上海人民政府)にお願いして置きます
「性風俗の秩序」に今まで以上に力を入れて下さい
上海のお嬢さんたちが何時までも
アジアンビューティ ヒューマンビューティ ナチュラルビューティである為に
それから悪徳「奢恣姦淫」は徹底的に排除しなさい
特にテレビ番組には気を付けなさい
日本の様な
表現の自由の下の
自堕落な番組作りを許してはいけません
中国の娘たちよ(各都市の事)
貴方たちは美しい
この現代と言う時代において美しさを放っている
決して日本の様に自堕落に成ってはいけない
その為に父よ(国家の事)
何時までも厳とした父で在り続けて欲しい
今回の上海旅行 前回の北京旅行 そして前々回の上海旅行の印象より
参考までに前回の北京旅行印象記(2006.4.29~5.7)と
台北旅行印象記(2005.12.29~2006.1.3)を貼り付けて置きます
【初期資本主義社会 北京の陰と陽】
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=5&board=1835368&tid=kl5fe&sid=1835368&mid=2590
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=5&board=1835368&tid=kl5fe&sid=1835368&mid=2595
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=5&board=1835368&tid=kl5fe&sid=1835368&mid=2600
【アジアンビューティ ヒューマンビューティ ナチュラルビューティ】
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835368&tid=kl5fe&sid=1835368&mid=2604
【台湾と日本】
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835412&tid=bfoqa1a2bfoqbfma4acbg9a5a4ada1aa&sid=1835412&mid=4251
Re: 中国に土地の私有制度はあるのか?? 2007/ 9/24 0:21
投稿者 :riquyouren
土地の所有権は国にあるが、使用権を与える、住宅は70年、工場、オフィスは50年ぐらい。使用期間過ぎたら、お金を支払えば、使用期間を延びれる、実際のところは日本の土地税と変わらないでしょうね。。
田舎は本当の村があって、市内も80年代建っていたマンションは村と呼びましたが、日本でいうと、何番地ようなものですね、古いの住宅はまだそんな呼び名がの残ってます、段々歴史として消えてゆく。。
いま地下鉄か、電車か13本建設され、都心のマンションは1平米3~4万元(45万円~60万円)で売られる、元高に進み、外国の不動産への投資が多く、政府も警戒して、いろんな政策を出っています。。。
これは メッセージ 2896 sophialover007 にさん対する返信です
超巨大都市「上海」の行方について 2007/ 9/26 23:41
始めまして
9月13日から9月17日までの5日間上海に行ってきました。
その印象記については掲示板「北京」に書き込みました。
本当はこの掲示板「上海と日本」に書き込もうとしたのですが、
掲示板開始日も新しく、投稿数も少なかったので、
すぐに消えていく掲示板かな??と思い、
昨年のゴールデンウィークに北京に行った時に書き込んだ掲示板「北京」にまた書き込みをしたと言う次第なのです。
掲示板「北京」は6年以上も続いている掲示板であり、
そう簡単に消えないだろうと思って。
掲示板が消えてしまうと言う事は
自分の投稿も消えてしまう事であり
やはりちょっと寂しいから・・・。
掲示板「北京」に書き込みをしている内に、
riquyourenさんを知りました。
その縁でこの「上海と日本」に遊びに来る事に成ったのですが、
とても賑やかなトピで
しかもトピ主さんがしっかりされた方なので
今後もずっと続くだろうと思い
居をこちらに移す事にしました
私の最大の関心事は『超巨大都市上海の行方』です。
2005年の推計人口は1778万人です。
そして上海人民政府においては
2020年の人口目標を2010万人としています。
さてここで皆さんに質問です。
2050年の上海市の人口は何万人になっていると思いますか。
それぞれの答えの想定の下に以下を考えて貰いたいと思います。
私は思います
2000万都市を維持し続ければ
上海はとても素敵な都市になると
「衣食足りて礼を知る」
2020年までに住環境は
世界中のどの都市よりも立派に整います。
それは上海市規画展示館を見れば明らかです。
実を言うと私はこの展示館は訪れていないのです。
美術や商工農業等々の様々な企画展示をする展示館だと思い訪れなかったのですが
帰って来てから
この展示館が「上海市の都市計画の展示館」である事を知ったのです。
行かなかった事が悔やまれます。
皆さんは上海通ですから
何度も訪れていると思います。
そしてその都市計画の概要も。
これまでこの様な大規模な都市計画は人類史上ありませんでした。
そしてその計画は確かに2020年に完成するのです。
見事と言う他ありません。
これまでの大都市改造計画でこれに匹敵するのは
19世紀の帝政下にオスマン知事によって行われたパリ大改造計画です。
その大改造によって
パリは19世紀の息吹を私たちに伝えているのです。
その21世紀版が「上海大改造計画」です
大改造計画は強権下の元、一気に行われてこそその真価が発揮されるのです。
パリの大改造計画は帝政下であり
上海の大改造計画は共産主義政権下です。
もし2000万都市が維持され続けるのであれば
その住民の質の向上を図れば良いのです。
皆さんも実感されていると思いますが、
上海人民政府による「道徳政策」です。
この政策によって上海市民の道徳はぐんと向上します。
日本の都市計画の失敗は住環境施策の失敗です。
上海のそれはそれを見事に克服しています。
「衣食住足りて礼を知る」
2000万都市が維持されれば
上海市民はパリ市民の様な優雅な市民となる可能性もあるのです
しかし私は思います
上海市は2000万では落ち着かないだろうと
2050年には2500万都市
2100年には3000万都市と成るだろうと。
上海市にはそれを受け容れるだけの余地はあるのですから
上海市の面積は東京都と神奈川県と埼玉県の半分位を合わせた面積です。
崇明島を除いても東京都と神奈川県を合わせたよりも大きいくらいです。
東京都と神奈川県と言っても半分近くは山地です。
上海市はどうでしょう。
全て平地です。そのキャパシティが分かると思います。
東京大都市圏(東京23区を中心にその周辺一体の都市を合わせた都市圏)の人口は3000数百万人です。
上海市は東京大都市圏をすっぽりと収めるだけの面積があるのです。
現在は東京大都市圏は世界で群を抜いて世界一ですが、
今世紀末には上海市だけでそれに並ぶ都市に成るのです。
「上海怖るべし」
そしてそれに伴って上海市の住環境施策も後手に回る事に成るのです。
それと交通施策も
人口12億
3000万の都市があっても何の不思議もないのです。
上海を愛する皆様
上海の未来像を考えてみませんか
そして上海人民政府に提案してみようではありませんか
3000万人市民の為の上海大改造計画(第二次)をそろそろ作っても良いのではないですかと
それともその頃は資本主義社会になっていて
乱開発が続いているのでしょうか??
これは メッセージ 1 crj2004818 さんに対する返信です
超巨大都市「上海」の行方について その2 2007/ 9/27 0:08
参考までに掲示板「北京」に書き込んだ上海旅行印象記を張り付けて置きます。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=5&board=1835368&tid=kl5fe&sid=1835368&mid=2884
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=5&board=1835368&tid=kl5fe&sid=1835368&mid=2889
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=5&board=1835368&tid=kl5fe&sid=1835368&mid=2894
私は思います。
このまま共産主義社会が続けば
上海は21世紀に形作られた都市の中で最も素敵な都市に成ると思いますが
共産主義社会が転覆し
資本主義社会に移行すれば
東京よりも懶惰な都市に成っているだろうと
私が上海の都市計画で感心するのは
一気呵成の実行と
徹底した「道徳政策」です。
ハードとソフトが上手く絡み合っていると思います。
今の日本では国家は勿論
自治体が『道徳』を掲げる事も許されない様な状況です
こんな日本にどんな将来があるのでしょうか。
街が幾ら立派になっても
そこに住む住民の質(すなわち道徳律)が良くなければ
その都市は素敵な都市とは言えないと思うのでした。
それから「村」(街区)が素敵なコミュニティになっていると思います。
「村」と「道徳政策」と一気呵成の都市計画で
21世の前半は上海は素敵な都市と呼ばれる事になるのだと思います。
「東京市民」と「上海市民」を比べて見ませんか。
現在と今後予想も含めて・・・。
Re: 超巨大都市「上海」の行方について そ 2007/ 9/29 0:48
投稿者 : riquyouren
いらっしゃいません~
sophialover007 さんは上海にいい印象お持ちするのは、上海人としてうれしいですが、夢を壊したくないが、ただ、実際のところが違いますね~
50~80年代、上海の人口は少ない、マンションは会社から分配されましたが、みんなの生活は苦しいですが、貧富差別は少ない。。なんかsophialover007
さんは描いた上海に似てますが。。
ただ、今のマンションは殆ど商品です、地方から出稼ぎが多い、人口も急速増えて、いろんな問題が出てます、共産主義は理想ですが、実際の福祉などで、上海は日本に及ばないですね、日本よりも資本主義で、金持ちのための社会で、汚い所が沢山あります、いつか東京ような本当の大都市になって、もっときれいな政治と強い経済、そして貧困層にも優しいの福祉になって欲しいですね。。
経済的に、上海はかなり進んでおり、中国一の経済都市になると思います。
「道徳政策」というのは、確かありますが、日本と中国、文化が違うから、中国は儒教の文化は根強く、その辺はいくら経済を進んでいても、“貞、孝”など中国的の道徳は多少残るでしょう~
これは メッセージ 532 sophialover007 さんに対する返信です
上海の道徳政策について 2007/10/ 1 0:16
riquyourenさんへ
返信ありがとうございました。
上海も今は発展途上ですから、
色々と問題はあると思いますが、
段々と良くなっていくと思います。
一つだけと都市計画の事について質問です。
都心の超高層マンションは別にして、
それ以外のマンションやアパートは、
上海人民政府の統制の下に建設されているのではないのですか。
そうでなければ、一般の庶民は住宅を手にする事が出来ない様に思うのですが・・・。
都市計画の事はこれ位にして、
今私が一番関心のあるのは「道徳政策」です。
確かに「村」の入口の掲示板や街角の掲示板に
八つの道徳と八つの悪徳と言った標語が掲げられているのを見ました。
あれは実際にはどんな事が書かれているのですか、具体的に教えて下さい。
それから国における道徳政策と
上海人民政府における道徳政策について具体的に教えて下さい。
日本における道徳政策は次の通りです。
小学校と中学校において、週1時間「道徳の時間」と言うものがあります。
「道徳」は教科ではありません。だから教科書はありません。
「道徳」については、各学校がそれぞれ工夫して教える事になっています。
ですから、地域毎、学校毎にその教える内容はばらばらなものとなっています。
高校においては、「道徳の時間」はありません。
以上が文部科学省における道徳政策です。
国においては、上記以外の道徳政策は一切行っていません。
日本においては、国が「道徳政策」を行う事について、一種の拒否反応があります。
それは戦前の「修身教育」その他の道徳政策が軍国体制を作り上げたと思っているからです。
そう言う訳で日本においては、
小学校、中学校における週1回の「道徳の時間」を除いて、
一切道徳政策は行っていません。
その小学校、中学校における週1回の「道徳の時間」もかなり等閑であると言うのが現状です。
そう言う訳ですから、
都道府県や市町村においても、
殆ど道徳政策と言うものを行っていないと言うのが現状です。
中国における道徳政策を下記の質問に従って教えて下さい。
1 小学校、中学校、高校における道徳教育について
① それぞれの道徳の授業時間は週に何時間くらいですか。
② 道徳に関する(国が定めた)教科書がありますか。
③ 道徳に関するテストがありますか。
④ 道徳の授業以外に学校において何か特別な道徳教育がありますか。
例えば戦前の日本の様に毎朝「教育勅語」を読み上げるとか・・・
2 上海人民政府における道徳政策について
街角の掲示板に道徳の標語が掲げられているのは見ました。
また地下鉄の車内テレビで孔子とか墨子に関する案内放送をしているのを見ました。
① 街角の掲示板にはどんな道徳政策の標語等が掲げられているのですか。
② 市民向けの「道徳読本」「道徳パンフレット」の様なものがありますか。
③ テレビラジオ新聞等マスメディアを通じて道徳広報を行っていますか。
④ 道徳指導員等の様な人がいますか。
⑤ 道徳政策を広める為の様な町内会組織の様なものがありますか。
⑥ 道徳の表彰制度の様なものがありますか。
3 中国政府(国家)における道徳政策について
2に準じて教えて下さい。
4 中国の儒教風土について
共産主義体制が強力であった頃も、儒教教育は行われていたのですか。
5 中国における性風俗の取り締まりについて
私が中国の道徳政策で一番感心するのは「性風俗の取り締まり」です。
① 中国には日本のキャバレー、バー、スナックの様に女性がお酌をする飲み屋はないのではないですか。
私は思います。
中国は「貞」の観念がしっかりしている。
だから「孝」の観念もしっかりしているのだと。
「貞」がしっかりしているからこそ、夫婦親子そんな関係がしっかりしているのだと。
6 茶髪について
日本では10年ほど前まではほとんどの女性が自然な黒髪でした。
しかし現在では高校を卒業した女性で自然な黒髪を見つけるのは至難の業です。
上海ではどんな状況ですか。
道徳政策の中で茶髪は止めましょうとかそんな運動はありませんか。
自然である事も一つの徳だと思うのですが・・・
それに茶髪を維持する為の時間お金の事を考えると・・・
Re: 上海の道徳政策について 2007/10/ 4 1:47
投稿者 : riquyouren
返事を遅くなって、すみません。
あまり勉強不足で、答えできない部分が多い、又期待される答えができないかも知りません。。
>一つだけと都市計画の事について質問です。
都心の超高層マンションは別にして、
それ以外のマンションやアパートは、
上海人民政府の統制の下に建設されているのではないのですか。
国から、正式言うと国営企業からマンションやアパートを安くて借りられたのは2000年前のことであり、それは今は老公房という、大体6階以下建てのアパート。
90年代から、公房は買い取ることができました、その時1万か2万か買え取って、今は売買できます、値段は何十倍か、100倍も増えたかも知りません。
上海人民政府の統制の下に建設されていて、安く販売するのマンションもありますが、それは大体政府の建設で立ちぬかれた市民のためのマンション、これからはマンションを買えない人のために、安く賃貸するようなことも始めるそうです。。
マンションが高く、地方の出稼ぎ者、就職したばかりの若者は都心のマンションを借り得ず、マンションの一部屋を借りる人が多く、それによって、一つマンションに多くの人を住むことになる、”群租”という、マンションの管理者、他の住民にとって不安が積む、最近、市政府に“群租”を禁止の“条例”を出ました、反響を凄かった、上海政府は金持ちの利益をばっかり考え、貧困層を見捨てると、行き場がない大学卒ばかりの若者は人民広場にテントを張りなど、抗議の声が沢山出てます。。
>確かに「村」の入口の掲示板や街角の掲示板に
八つの道徳と八つの悪徳と言った標語が掲げられているのを見ました。
あれは実際にはどんな事が書かれているのですか、具体的に教えて下さい。
すみません、分かりません。。
>日本における道徳政策は次の通りです。
小学校と中学校において、週1時間「道徳の時間」と言うものがあります。
「道徳」は教科ではありません。だから教科書はありません。
「道徳」については、各学校がそれぞれ工夫して教える事になっています。
ですから、地域毎、学校毎にその教える内容はばらばらなものとなっています。
高校においては、「道徳の時間」はありません。
以上が文部科学省における道徳政策です。
上海の小学校は日本より少しマシ、周3回“品徳”授業があり、教科書もありますが、試験はありません。。
中学校、高校は知りません。。
中国の先生も、生徒も試験のために存在する、成績のために進学のために一所懸命、試験以外のことは重視しません。
>2 上海人民政府における道徳政策について
街角の掲示板に道徳の標語が掲げられているのは見ました
。。。。。。。。
礼儀作法、他人の立場から物事を思考するなど、その辺は日本人のほうの素質は断然中国人より上、ただ、日本は表面的ものが多い、やりすぎと、“虚偽”に見えて。。
上海の町で“道徳の標語”はありますが、こんなものは政府の人間の政積につながり、役に立たないと私は思ってます。
儒教について、昔孔子を批判する時期がありました、今は肯定する、しかし、学校に儒教を勉強することがちょっと少ない、むしろ親は子供に“論語”などを教えることがあります、“論語”を勉強すれば、子供が自ら進み、いい子になれると、こんな親もいますね。。
>5 中国における性風俗の取り締まりについて
私が中国の道徳政策で一番感心するのは「性風俗の取り締まり」です。
① 中国には日本のキャバレー、バー、スナックの様に女性がお酌をする飲み屋はないのではないですか。
私は思います。
中国は「貞」の観念がしっかりしている。
だから「孝」の観念もしっかりしているのだと。
残念ですが、取り締まりはあまりしてません、沢山あります。。
しかし、日本と比べ、多くの人は「貞」を重視、中国人は勉強する時間が多く、中学高校も経験する人間が少ない、結婚する前に、純白を保つ人間は多い。
「孝」では、中国では親を養う義務があります、親のため犠牲するのを提唱してます、例えば、最近、臓器移植で、子女は親に腎臓や肝臓を提供するの人間が何人もいました、それを報道され、表彰されました。。
>茶髪について
多いですね~茶髪になってみたい気持ちはよくわかります、個人自由ですから。。
これは メッセージ 581 sophialover007 さんに対する返信です
riquyouren さんへ 2007/10/ 8 12:28
riquyouren さんへ
返信ありがとうございました。
とても勉強になりました。
小学校の週三回の「品徳」授業とても興味があります。
自分なりに勉強したしたいと思います。
また分からない事があったら色々聞きたいと思いますが、
その時はどうぞよろしくお願いします。
今回は本当に親切に答えて頂きありがとうございました。
これは メッセージ 607 riquyouren さんに対する返信です
(新たに『哲学(知恵を愛する事)』にの掲示板を立ち上げる)
『哲学(知恵を愛する事)』について 2007/ 9/29 12:13
哲学とはphilosophia、知恵を愛する事。
知恵を愛するとはどういう事か。
知恵を愛すれば世界がどの様に変って行くのか。
そんな事について一緒に考えていきませんか。
『哲学(知恵を愛する事)』について 序 2007/ 9/29 12:18
哲学とはphilosophia、知恵を愛する事。
哲学については様々に定義する事が出来ると思いますが、
私の哲学の定義はphilosophia、
そのギリシアの言葉のとおり、知恵を愛する事です。
私が哲学と言う言葉を使う時は、
その意味は常にphilosophia、知恵を愛する事だと理解して下さい。
さて、哲学=知恵を愛するとはどう言う事でしょう。
巷で言われているとおり、それは「真善美」を愛する事なのではないでしょうか。
そしてそれをもっと根源的に言えば、「真善美」の根源を愛する事なのではないでしょうか。
哲学とは「真善美」の根源を愛する事であり、
その根源から生まれた「真」「善」「美」を愛する事であり
そして更にそれぞれの「真」「善」「美」から生まれた子供たちを愛する事。
もし哲学がそうであるとしたら、哲学は何と素晴らしい学問でしょう。
人は一生を賭して、その学問に邁進するのではないでしょうか。
その成果は、What A Wondeful World、何と言う素晴らしい世界と!成るのではないでしょうか。
「道生一 一生二 二生三 三生万物」、
哲学とは、この体系を愛する事であり、
そしてその根源である「道」を愛する事なのではないでしょうか。
『哲学=知恵を愛する事』について、
一緒に議論出来たら嬉しく思います。
哲学(知恵を愛する事)は人を幸福にする 2007/ 9/29 22:46
もし人が哲学(知恵を愛する事)を覚えたら、
その人は不幸になる事はありません。
その人には幸福が約束されるのです。
たとえ一人孤独であったとしても。
もっとも私の言う哲学とは、
あくまでもphilosophia知恵を愛する事です。
もしデカルト、カント、ショーペンハウワー等々の著作を研究する事が哲学と言う事であれば、
その哲学は我々市井の者には全く関係のないものです。
その哲学が生み出すのは文献学者であり、
全く失礼な言い方かも知れませんが哲学オタクです。
その哲学では人を幸福にする事はありません。
もっとも、
デカルトがどの様に知恵を愛したか、
カントがどの様に知恵を愛したか、
ショーペンハウワーがどの様に知恵を愛したか、
その様な視点から、
古今東西の偉大な哲学者を研究するのであれば、
その研究はその人に幸福を約束して呉れるでしょう。
何故ならその研究によって、
幸福への小道をたくさんに見付けるでしょうから。
知恵を愛する事(哲学)こそが、
全ての人にとっての最大の幸福であり、
そして最大の快楽なのです。
だから哲学(知恵を愛する事)を覚えたら、
その人は死ぬまで哲学(知恵を愛する事)を止めないのです。
そしてその結果として、その人は不幸になる事無く、
死ぬまで幸福だと言えるのです。
たとえ一人孤独であったとしても。
哲学とは何と素晴らしい学問なのでしょう 2007/ 9/29 23:46
哲学とはphilosophia知恵を愛する事だと言います。
それでは知恵とは何でしょう。
もし皆様が、「知恵とは何か?」
そんな視点を持ちながら、
古今東西の偉大な哲学者の本を読んでいけば、
その答えは自ずから浮かび上がって来る事でしょう。
しかし近現代の哲学者たちはあまりその事を直截には言ってはいません。
ですからやはり知恵とは何か、それを知る為には、
古代の偉大なる哲学者たちの本を読むのが一番良いと思います。
何故なら彼らは直截に私たちにそれを教えて呉れるからです。
私は前々回のメッセで、
「道生一 一生二 二生三 三生万物」と言う言葉を掲出しました。
この言葉は老子の言葉です。
さてここで言う「道」とは何の事でしょう。
知恵の事ではないのでしょうか。
古代の哲学者たちは知恵の事を象徴的に直截に言っています。
例えば「言」とか「ダイモーン」とか「主」とか「聖霊」とか
それから「キリスト」とか「神」とか「仏」とか
古代の偉大な哲学者たちは知恵の事をそんな風に象徴的に言っているのです。
私が知恵の事を定義すれば次の様になるのですかね。
知恵とは人類の全てに刻み込まれた最高の理想形であり、
その理想形に向かおうとする力であり、
その理想形を飾る真善美に溢れた言葉たちであると。
どうです。
知恵を愛すると言う事がどんなに素晴らしいか分かって貰えましたか???
現代においては哲学(知恵を愛する事)と言う表現が、
最も相応しいと思います。
しかしあくまでもその哲学は知恵を愛する事でなければならないのです。
さて皆さん、
哲学=知恵を愛する事について、
私と一緒に考えていきませんか。
なお私には【哲学革命】と言う目標があります・・・
知恵とは? 哲学(知恵を愛する)とは? 2007/ 9/30 11:19
amazon from amazonさんへ
良く来て下さいました。
お待ちしていましたよ。
早速ですが、
対話に入って行きましょう。
ところでamazon from amazonさんは
哲学philospohia、知恵を愛すると言う時の知恵について、
どの様にお考えですか。
私のそれは、
旧約聖書「箴言」の第8章に書かれているそれです。
神にも近い概念ですよね。
だから力一杯知恵を愛する事が出来るのです。
そしてその効能も、
旧約聖書「箴言」の第8章に書かれている通りですよね。
だから知恵を愛する事(哲学)は素晴らしいと、
この様にも断言するのです。
amazon from amazonさんは、
知恵についてどの様お考えですか。
また哲学(philospohia=知恵を愛する事)について、
どの様にお考えですか。
お聞かせ下さい。
そこから次の対話に移って行けたら思います。
sophialoverより
これは メッセージ 7 amazon_from_amazon さんに対する返信です
哲学者とは言と命と光を見い出した者の謂い 2007/ 9/30 12:16
「私を愛する人を私も愛し、
私を捜し求める人は私を見いだす。」(旧約聖書「箴言」第8章)
※ ここで言う私とは知恵の事。上記は知恵が一人称で述べた言葉。
「従事於道者、同於道(道に従事する者は、道に同じ)
同於道者、道亦楽得之(道に同じる者には、道も亦た之を得んことを楽(ねが)う)」(「老子」第23章)
この様な例は、主とか聖霊とかそんな象徴的な言葉にたくさん見いだす事が出来ると思います。
知恵を愛する者には知恵も愛し返して呉れるのです。
これが哲学(知恵を愛する事)の最大の楽しみです。
だから哲学者(知恵を愛する者)は、
知恵を愛している限り、
不幸になる事無く幸福であり続けている事が出来るのです。
自分の最高の理想とする者から、
愛し続けて貰えるのですから。
すなわち言葉を与え続けて貰えるのですから。
愛の基本概念、それは真善美に溢れた言葉の遣り取り!
それは恋愛も夫婦愛も同じ事
恋愛から(楽しき)言葉の遣り取りが亡くなった時
そこにあるものは??
人間の最も基本的な楽しみであり、
それが亡くなれば絶望に赴かせるもの
それが「言葉」です。
だから「ヨハネ福音書」は次の様に始まるのです。
「初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので言葉によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。
・・・・・・・・・・・」と
知恵と言葉は同じ事です。
いいえ、やはりこう言わなければなりません。
知恵とは真善美に溢れた言葉であると。
ここで知恵をまた再定義しましよう。
知恵とは真善美に溢れた言葉であり。
その真善美に溢れた言葉を発するその根源であり、
全ての人の中に在るその根源に向かおうとする力であると。
定義は今後どんどん変って行きますので、
あまり目くじらを立てない様にお願いします。
私は知恵ある者ではなく、
知恵を愛する者なのですから。
すなわち理想形に向かう発展途上の人間だと理解して下さい。
言の内に命があり、その命は人間を照らす光だそうです。
この命を見い出し、光を見い出した者
それこそが哲学者(知恵を愛する者)なのです。
『失楽園』! 2007/10/ 6 11:54 [ No.10 / 32 ]
知恵とは真善美に溢れた言葉を生み出す根源である。
人がその根源に向かえば、
知恵はその熱意に応じてそれに相応しい言葉を返して呉れる。
その知恵と私との相思相愛の形を哲学(philosophia)と言う。
知恵へと向かう力は人に隠された高次の本能である
この本能を見い出した者はもう哲学(philosophia)を止める事は無い。
何故なら「知恵を愛する」と言う事は本能であり、
これを止める事は苦痛を齎し、
これを行う事には快楽があるから。
それもこの世の如何なる快楽にも増して素晴らしい快楽があるから。
哲学者、すなわち知恵を愛する者は、この世で一番の幸福者である。
何故なら彼は常に快楽に満たされているから。
しかしここにも大きな落とし穴がある。
もし知恵を愛する事を止めたら、
彼にはこの世に増して大きな不幸が訪れる。
『失楽園』!
知識と知恵 光と影 2007/10/ 6 12:05
知恵と知識
それは光と影
もし貴方が光に向かって行けば
その陰影もしっかりしたものとなろう
しかし貴方が影に向かって行けば
その影は更に朧なものとなる
さて貴方よ
光に向かうか
それとも更に影に向かいて歩くのか!
自称哲学者よ 先ずは聖書から学びなさい 2007/10/ 6 22:27
知恵と知識 光と影
哲学者の著作を読むとはこの影を追うものです。
あまりにも影を追い過ぎると光が何処にあるかも忘れてしまいます。
専門馬鹿と言う人たちはこの弊に陥っている人たちです。
何の為に哲学者(知恵を愛する者)たちの著作を読むのか。
それは知恵が何たるかを知る為。
その為にはその言葉から哲学者(知恵を愛する者)を直視し、
そしてその向こうにある光を見なければなりません。
しかし近現代の哲学者はあまりにも言葉を散らし、
その錯乱した言葉からその哲学者の向こうにある光を見る事がとても難しくなっています。
ですから近現代の哲学者の著作を研究する人たちはどうしてもその書き言葉に惑わされてしまうのです。
すなわち言葉に囚われてしまうのです。
哲学とは知恵を愛する事。
知恵を知らなければ、
哲学者の著作を幾ら読んでも、
知恵を愛する者(哲学者)に成る事は出来ません。
何故なら知恵そのものの事を知らないのですから。
彼らが行っている事は影を追う事ばかり。
影を慕いて♪ と言う歌がありましたが、
この世の惑いを楽しむのがこの世の常
それはそれで良いのでしょう
しかし真の哲学者(知恵を愛する者)と成りたい貴方、
すなわち幸福に成りたいと思っている貴方、
それでは駄目です。
真の哲学者(知恵を愛する者)に成りたいのであれば、
やはり古代の哲学書から学ばなければなりません。
その最も素晴らしい教科書は聖書です。
何故聖書が2000年この方読み継がれているか知っていますか。
それは聖書が知恵を愛する者(哲学者)の為の入門書に他ならないからです。
聖書文化圏の者は皆この聖書から知恵を愛する事を学びました。
現代日本においてもほとんどがそうだと思います。
何故なら聖書においては、
白日の下、何の覆いも無く知恵の愛し方を教えているからです。
「父と子と聖霊の名において」
父と言う名において、私たちは知恵の根源を憧憬します。
子(イエス)において、私たちは溢れんばかりの知恵の言葉を知る事が出来ます。
そして聖霊と言う名において、私たちは知恵の根源から私たちに知恵の言葉が舞い降りて来るのを知る事が出来るのです。
哲学者よ、
そう自認している哲学者たちよ、
もし真の哲学者=知恵を愛する者に成りたいのであれば、
先ずは聖書から学びなさい。
「道生一 一生二 二生三 三生万物」と哲学 2007/10/ 6 23:22
知恵の何と素晴らしい事よ
知恵を愛する事の何と素晴らしさよ
こう唱え続けていれば、
私は決して不幸に成る事はありません。
それはエホバの周りで
「善き哉 善き哉」と
唱え続けている大天使と同じなのですから
しかし私は天使ではありません。
人間です。
私はこの世に出て行かなければなりません。
そして少なくとも出て行ったその範囲でこの世を荘厳しなければならないのです。
「道生一 一生二 二生三 三生万物」
私は一を荘厳しなければなりません。
二も荘厳品しなければなりません。
三もそして万物も。
しかし出来る範囲内で。
それが人間に与えられた義務です。
少なくとも哲学者(知恵を愛する者)の義務です。
知恵を愛するとは真善美を愛すると言う事、
そうであれば、
一を二を三をそして万物を荘厳するとは、
これらを真善美に溢れた言葉で荘厳すると言う事に成ります。
ところで一とは何でしょう。
そして二とは三とは万物とは
知恵から生まれた最初の子とは一体誰の事なのでしょう。
それは私です。
新しく生まれた私の事です。
嘗て古い私がいました。
或る時私は知恵を目の前にしました。
その時私は知恵に飛び込んだのです。
そこから生まれたのが今の私と言う次第なのです。
日々新たに
これが知恵に飛び込むと言う事なのです。
そこから生まれた私が創造する世界
それが二であり三であり万物なのです。
さて二とは何でしょう。
天と地 陰と陽 光と影 男と女
ここから三と言う子供たちが生まれるのです。
三までは私の責任です。
三から生まれる子供たち。
それは人間で言えば孫以下に譬えられる私の子孫たち
私の子孫代々が栄える為に
一と言う私をしっかり確立しなければ成らないのです。
その為には私の親である知恵を愛し抜くしか方法がないのです。
知恵を愛するとはそう言う事なのです。
全て比喩です・・・。
知恵から What A Wonderful World へ 2007/10/ 7 12:11
さて新しい私が生まれました。
知恵から生まれた新しい私です。
この私の使命、
それは私に取っての素晴らしい世界、
そして皆様に取っての素晴らしい世界を築く事です。
さて皆様はどの様な世界を築きたいと思っていますか。
はい、そこの貴方、
貴方はどの様な世界が出来たら良いと思いますか。
真善美に溢れた世界?!
そうですね。
そんな世界が実現出来たら素晴らしいですね。
それでは私と一緒に考えて行きましょう。
ところで真とは何でしょう。
そして善とは、美とは。
これが曖昧であれば、
真善美の世界と言っても唯の空念仏と一緒ですよね。
さて真とは何でしょうか。
私はこれまでそれを真理と考えていました。
そう考える為、どうしても「真」は私から遠いもの、決して手に出来ないものと考えていました。
「真理は貴方を自由にする。」(イエスの言葉)
そんな大きな真理を考える事が出来ない様に感じていたからです。
そんな大きな真理とは真善美の真を超えたもっと大きな真理、
すなわちその真善美の根源そのものではないかと。
そうすれば「真」と言う事を考える事は無意味ではないか。
そんな事は考えずに真善美の根源だけを考えれば良いではないかと。
そう言う事で真善美の真については何時も棚上げにしていたのです。
私は今回のシリーズでまたその真善美の真について考えてみたのです。
そしてこう思ったのです。
真善美の真とは「真実」の事であると。
そうであればその真実は思索の範囲に入って来ると。
真理と言ってしまえばそれはインスピレーションの話になりますが、
真実であれば「善」や「美」と同様思索の範囲に入って来ると。
そう言う事で、
今回のシリーズでは真善美の真とは真実の事であるとの想定の基で論を進めて行きたいと思います。
さて真実とは何か。
真理は一つかも知れないが、
真実は多であると。
善や美と同様、真実も多であると。
その様な多様な真実や善や美の例をたくさん挙げて行き、
その多様な例からそれらを照り輝かせているその根源を見詰める、
それが哲学者(知恵を愛する者)の仕事ではないかと。
哲学者(知恵を愛する者)とは知恵の根源を見詰め、
そして知恵の多様性を見付ける者の謂いなのですから。
「道生一 一生二 二生三 三生万物」
私は道から生まれた一 最初の子
この私から生まれたのが二すなわち陰陽 男女(おめ)。
この男女(おめ)から生まれたのが知恵ある言葉たち。
男とは知恵 女とは言葉
この男と女が結婚して生まれたのが知恵ある言葉たち
その代表格が真善美溢れる言葉たち
この言葉たちを吟味する事で貴方の世界が知れる。
道を根源とする知恵が一に引き継がれ二、三にそして万物に引き継がれて行けばその世界は素敵な世界。
しかし三までは私の責任。
三以降万物までは、貴方の協力がなければ出来ない事。
皆が皆、三までをしっかり保って呉れれば、それは素敵な世界。
私の真善美に溢れた子供たちと貴方の真善美に溢れた子供たちが結婚できれば
それは素敵な世界 What A Wonderful World と成る。
※「真実」他「善」「美」については次回以降考えて行きたいと思います。
道徳と哲学、『哲学革命』、心ある人たちへ 2007/10/ 8 11:39
哲学とは知恵を愛する事
その愛に応じて知恵は知恵を打ち返して呉れる
さて私は如何なる知恵を求めているのか
今日から「道徳」シリーズに入って行きたいと思います
道徳とは何か
人の行動の美しさ
「武士道とは死ぬ事を見つける事也」
ここに道徳の美しさが極まれり
死を賭してその美しさを守る
これ以上にどの様な行動の美しさがあると言うのでしょうか
(あくまでも行動上です)
1回の美しさの為に死を奉じる
そこにある美しさは?
君の為にこそ、死に行く
ある映画のキャッチです
このキャッチを知らない人の為に書き置くと
その映画とは知覧特攻隊員のお話です
私はその映画は見ていませんが
その内容は十分に推察できるし
そのキャッチの意味も痛い程良く分かります
そこにあるのは純粋道徳です
死を賭して国を守り
愛する家庭を守り、愛する人を守る
ここに道徳の全てが込められているのです
道徳とはこう言う事なのです
道徳とは国家国民の為の道徳であり
家族の為の道徳であり
そして愛する人の為の道徳なのです
道徳とはそれ以外のものではないのです
ここで道徳と哲学(知恵を愛する事)についてのけじめを付けて置かなければなりません
哲学と道徳は全く別物である と
しかしまたこうも言わなければなりません
哲学無しの道徳は偽善に成りかねない
或いは強制的な道徳に
もし人が喜んで死に赴くのであれば
これ以上国家を益する事はないと思います
例えばソクラテスが毒杯を仰いだ様に
セネカが自らの血管を切り開いた様に
イエスが自ら十字架に赴いた様に
彼らは皆知っていたのです
自らの死が大きな道標に成る事を
現に私たちはその道標を見て
道徳をそして哲学を考えます
もし彼らが生に恋々として死んで逝ったのであれば
この世にその道標は無いと思います
死こそが道徳の最も大きな道標なのです
武士道とは死ぬ事を見つける事也
その意味が分かって来たと思います
もし多くの人が徳に殉じれば、その徳は大いなるものと成るのです
武士道は死ぬ事を見つける事也
それによって、如何に日本の武士道が保たれたか
一一の例を挙げる必要は無いと思います
さて若き特攻隊員たち
彼らが如何なる思いを抱いて死に赴いたか
戦争を体験していない戦後派の人々
すなわち今の世代の人々は理解する事が出来ないでしょう
知覧にある特攻記念館に行きなさい
貴方は涙無しにそこを出る事は出来ません
さて貴方は何に心打たれたのでしょう
純粋なる道徳にです
貴方は道徳の崇高美に打たれたのです
戦前までの日本の道徳はこうであったのです
さて私の言いたい事が分って呉れただろうか
そう!私の言いたい事は
道徳とは国家道徳でなければならないと言う事です
日本国家が道徳から手を引いた現状
それが今の日本の道徳的現状です
そしてその性向は更に加速して行きます
民間で道徳の事をあれやこれや述べても駄目です
道徳とは国家 社会の為のものなのですから
さてここで進歩主義者(今でもそう言うのでしょうかね)
彼らはこう言います
以ての外だと
私はそうは思いませんが
ここは私の理想も入れてこう言う事にしましよう
国家は「道徳」と「哲学(知恵を愛する事)」に徹底して力を入れるべきだと
私がこう言えば
進歩主義者の貴方よ
貴方はよもや反対はしまい
その道徳とは哲学(知恵を愛する事=本当の自分自身を愛する事)に裏打ちされた道徳なのだから
※進歩主義者とは個性尊重派の人々の事である
そして自由をまた尊重する人々の事である
彼らの個性と自由の尊重は勝手気儘な人間を作る事にあるのである
そしてその主義主張は現代の潮流となったのである
心ある人々よ、貴方は未だ彼らに同調するのですか
彼ら進歩主義者とはマスコミの事であり、自称他称知識人の事なので
す
私ははっきりこう言おう
現代の日本人は知恵を愛する事を全く止めてしまった民族であると
彼らはマスコミの奴隷であると
哲学の復権または哲学の新興
これしか日本を救えない
道徳の復興はその道を準備するもの
心ある人よ
私と一緒に『哲学革命』を起こしません
上海と日本の道徳、そして『哲学革命』 2007/10/12 22:43
道徳とは国家道徳也
そして家庭道徳也
国家に道徳の規範が無ければ如何なる道徳も有り得ない
上海と日本
どちらが道徳的に上か
日本である
日本には道徳の土台があった
そしてそれは戦前まであった
今はそれが無くなってしまった
しかしその戦前の道徳は現在80歳以上の人たちに依って辛うじて保たれてきた
しかし人生80年
彼らも全てこの世から消え行く
この世が戦後生まればかりに成った時
日本の道徳は退廃し地に堕つ
20年後の上海と日本を見よう
20年後の上海はパリか上海かと言われるまでに成った
街の美しさとその市民のモラルによって
現在のパリ
これが超一流の都市である事に異を唱えるものはいないだろう
その街の美しさと
パリジャンと言われるその市民たちによって
現在の上海
その街は急速に21世紀の街へと変貌している
パリが19世紀の街の代表であれば
上海は21世紀の街の代表と成る
さて上海市民
彼らのモラルは急速に上がりつつはあるが
未だ日本以下である
しかし彼らのモラルは更に加速度的に向上し
20年後には日本を追い越しパリと並ぶ
何故その様な結果になるのか
それは国家道徳故
すなわち国家による道徳教育の為
現在の日本の道徳教育の現状を知っているか
誰がどの様な道徳を教えていると言うのか
お粗末な先生たちがお粗末な知恵を絞って教えているだけ
戦後生まれの更にその子供たちが
すなわちこう考えて頂けたらいい
そこの貴方
貴方が先生になったとしよう
貴方のその人生経験で道徳を教えるのだ
どんなにおぞましいか分かるだろう
私が言いたいのはこうだ
日本の道徳には教科書がない
銘々がその人生経験の中で道徳を教えるシステムになっているのである
学校と言う範囲で知恵を出し合ってはいるかも知れないが・・・
すなわちこの日本には
日本何処でも通用する道徳がないのである
これがどんなに嘆かわしい事なのか
そこの貴方
貴方は分かるか
すなわち我々は日本人としての誇りが持てないのだ
日本人としてのアイデンティティ
それは日本人誰もが通用する道徳の中にあるのだ
しかし現在の道徳教育では
貴方の様な人たちが貴方の様な考えで
子供たちに道徳を教えているのだ
おぞましくて寒気が出るのではないか
これが日本の道徳教育の現状である
さて中国
中国には勿論道徳の教科書がある
そしてこの教科書は全国一律である
そして上海
この都市はそれに上乗せをして更に道徳教育を行っている
世界に誇る上海と成る為に
さて諸君は分かって頂けたかな
日本と上海の道徳比較論の真髄を
もっとも中国において共産主義体制が崩壊したら上記は別である
私は思う
現在の中国の共産主義体制は世界でも最も秩序のある体制の一つであると
それが為 道徳教育もしっかりしているのだと
道徳とは国家道徳也
その意味が分かって頂けただろうか
国家が乱れている所に道徳は有り得ない
それが日本の現状である
しかしこの日本の現状を打破する一つの方法がある
それが『哲学革命』である
日本の道徳教育の惨憺たる現状 2007/10/13 12:18 [ No.17 / 32 ]
さて貴方に聞こう
道徳的な国民とは如何なる国民かと
もし貴方がこう答えたら
貴方は私と同類だ
一緒にスクラムを組んで哲学革命を起こそう
しかし今日の所は哲学革命は据え置く事にする
その答えとは
道徳的な国民とは哲学的(知恵を愛する様な)国民であると
その国民が哲学者であってこそ
その国民は真に道徳的な国民であると言えるのである
さて現在の日本の道徳教育の現状
昨日の弁で少しは分かって頂けただろうか
もし貴方に子供が居るのなら
子供に聞きなさい
学校ではどんな道徳の授業を受けているのと
そして更にこう聞きなさい
道徳の授業は楽しい? 若しくは道徳の授業は自分の為に成ると思う? と
さてここで中国の道徳教育の現状を述べる事にしよう
中国における道徳の教科名は次の通りである
小学校1年及び2年 「品徳と生活」
小学校3年から6年 「品徳と社会」
中学校 「思想品徳」
高校 「思想政治」(経済生活、政治生活、文化生活、生活と哲学)
http://www.pep.com.cn/pdysh/ (中国の全ての教科書を読む事が出来ます。)
さてこの教科名を見ただけ中国の道徳教育が如何に素晴らしいか
それを理解出来るのは哲学者(知恵を愛する人)たちだけである
何と!
このプログラムは私が事を起こそうとしている『哲学革命』における哲学教育そのものではないか
上のプログラムを次の様に組み直すと
私の『哲学革命』における所の哲学教育プログラムとなる
小学校1年及び2年 「品徳と生活と哲学」
小学校3年から6年 「品徳と社会と哲学」
中学校 「思想・品徳・哲学」
高校 「思想・政治・哲学」
さてここでも『哲学革命』は置いとくとして
この中国における道徳教育の素晴らしさを述べる事にする
先ず小学校から述べる事にする
日本では上記の教科は
小学校1年及び2年では「生活」と「道徳」
小学校3年から6年では「社会」と「道徳」となる
ここにおいてまた繰り返しになるが
日本においては道徳は教科でない
従って教科書はない
各学年の先生たちが集って
今年の道徳の授業はこの様に進めましょうと言って
年間のプログラムを作り
それに従って各先生たちが個性を出し会って
彼らの人生経験の中でその彼らの「道徳」を教授しているのである
戦後生まれの更にその子供であり、
哲学(知恵を愛する事)が何かもほとんど知らない人たちによって
貴方の子供に道徳教育が施されているのである
ある個性の強い先生は自由の事をこの様に教えます
「自由とは自分の好きな事をまっしぐらにやる事だ」と
ある先生は
「自由とは義務に裏づけされた権利である」と
更に他の先生方はそれぞれ自分の信条に基づいて自由の事を教えます
これで日本に如何なる自由があると言うのでしょうか
少なくとも自由については
必要最小限の日本人のコンセンサスが無ければならないのです
その必要最小限の事を教えるのが道徳なのです
だから道徳は教科であるべきであり
国の検定を受けた教科書が必要なのです
その必要最小限の自由から様々な自由を謳歌する事は自由です
しかし子供たちにその基礎の基礎を教えずして
自らにおいて自由を学びなさいと言うのは
さてさて皆さんどう思いますか
それが日本の現状ではないですか
自由とは自分の好きな事を自由勝手にする事成り
それが彼ら自身が誰からのの教えも受けずに自ら達した自由の概念ではないですか
もし私が道徳の教科書の編者であれば
様々な自由の概念を上げ
その中からもっとも適当な概念を取り上げ
それを現実例に照応させていく
すなわち帰納と演繹の方法を取りたいと思いますね
すなわちたくさんの概念からもっとも適当な概念に導き
その概念が如何に現実に即応していくかを見せる
その様な道徳教育を行いたいと思いますね
私の道徳教育は結局哲学教育に帰って行くのですけれど・・
一つの概念からではなく
たくさんの概念の中からもっとも相応しい概念を選び取り
それが如何に素晴らしい現実を創造して行くのか視る
それが正に哲学なのですから・・・・
2000字を超えてしまいそうなので
中国の道徳教育の素晴らしさについて
道徳教育から哲学革命へ 知恵の王国日本へ 2007/10/13 23:55
さて皆さんへ
道徳教育は必要なのでしょうか
もし美しき国 日本に住みたいのであれば必要です
そうでなければ必要ありません
そしてそれが日本の現状です
この懶惰な自由の国 日本
この日本が何としてもいとおしい
それが日本の現状です
だから道徳教育に力が入る筈がありません
皆さん心配しないで下さい
道徳教育が行われなかったとしても
貴方の命は国家が保障してあげますから
道徳と法律
ここには明確な一線がある
もし貴方が法律を犯せば貴方は罰せられます
しかし道徳教育が教える事に反しても貴方は国家から何のお咎めを受ける事もありません
これが道徳と法律の大きな違いです
「人を殺すな」
さて皆さん
これは道徳律でしょうか それとも法律でしょうか
不思議ですが これは道徳律です
日本の法律には人を殺すなと言う条文はありません
しかし刑法第199条(殺人)に
「人を殺した者は、死刑又は無期懲役若しくは三年以上の懲役に処する。」
とあります
これの反対解釈として
「人を殺すな」は法律と同じ力を持っているのです
さてそれでは皆さん
「姦淫するな」
これは道徳律でしょうか それとも法律でしょうか
現在ではこれは純粋な道徳律です
江戸時代 これは法律でした
この法律を犯せば重ね切りの死罪でした
すなわち二つの身を重ね
それを真っ二つに切ると言う
すなわち二つが四つに散らされると言う重罪だったのです
そして戦前までは姦通罪でした
ところが現在はどうでしょう
全く道徳律です
だから下記の様に姦淫を謳歌しているのです
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835012&tid=bdcfbba1bdbdca4nbf4&sid=1835012&mid=1&type=date&first=1
もし道徳教育が徹底したら
彼らは身を潜めなければなりません
そんな事は「嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!」
それが日本の現状です
こんな土壌にどうして道徳教育が根付くでしょう
道徳とは人を美しき行為に導くものです
もし美しき日本を目指すのであれば
道徳教育を徹底しなければなりません
しかしこの国が美しかろうが醜かろうが
とにかく順法精神だけしっかりしていればいい
そう言うことであれば道徳教育なぞ必要ないのです
順法精神は政治経済公民社会等々の教科の中で
諄々と教える事は十二分に可能なのですから
すなわち法律を犯せば豚箱行きだぞ
それだけで十二分に教育効果が出るのですから
さてここにお集まりの皆さん
皆さんは道徳教育の徹底を望んでいますか?
私はこう言って置きましょう
現在においては未だ戦前の道徳教育の遺産が残っているが
間も無くこの国からはその遺産も乗り除かれてしまう
その時
日本は更に醜き国家になるであろうと
さてここに大いなる希望がある
それが『哲学革命』である
哲学革命は道徳教育の百倍の効果がある
この哲学革命によって日本は
美しき国 日本を飛び越えて
一気に知恵の王国 日本へと変貌するのである
哲学革命とはこの国の国民 すなわち日本人を哲学者へと変えて行く革命である
この革命によってどうなるか
それは日本人が真善美を求めるようになると言う事である
その結果は美を更に飛び越えて真なるもの善なるものへと向かうと言う事である
その効果が如何に優れたものか分って頂けるだろう
やはりどうしても道徳教育には偽善が伴う
哲学(知恵を愛する事)によってこそ道徳が本当に自分のものに成るのである
心ある人よ
私と一緒に『哲学革命』を起こそう!
哲学とは何?知恵とは何? amazonさんへ 2007/10/14 11:41
amazon from amazon さんへ
返信ありがとうございました
それからお褒めの言葉「情熱」とても嬉しく思います
励みになります
出来る事なら
amazon from amazonさんとの対話の中で
私の誤った考えを質して頂けたらとても嬉しく思います
さてもし私の考えが間違っているとしたら
その第一は哲学についての認識だと思います
哲学については様々に定義する事が出来ると思いますが
私の哲学の定義はphilosophia 知恵を愛する事です
そしてこの知恵に特別な思いを託しています
さてこの哲学=philosophiaについては広辞苑にも記されている所です。
私の持っている広辞苑では次の様になっています。
「【哲学】(philosophy)(philosophiaギリシアは愛智の意。西周は賢哲の希求という意を表す為、希哲学と訳し、やがて哲学という訳語が用いられるに至った。)世界・人生の究極の学問原理を追求する学問。・・・・・」
さてここでamazon from amazonさんに質問です。
第1問 私は哲学を知恵を愛する事だと定義していますが、
この定義についてどう考えますか。
第2問 私は知恵とは世界・人生の究極の原理だと考えていますが、
この定義についてはどう考えますか。
amazon from amazonさんは知恵を何か知識の集りだと考えていますか、
それとも何か一なるものだと考えていますか。
知恵とは何か聞かれた時、どの様に回答されますか。
哲学=知恵を愛する事が私の哲学の出発点ですので、
ここにおいて色々ご教示頂けたらありがたく思います。
これは メッセージ 19 amazon_from_amazon さんに対する返信です
知恵とは世界・人生の究極の原理也 2007/10/14 12:14
私は哲学(philosophia)の事を何時も知恵を愛する事だと定義してきた。
今日たまたま広辞苑を目にする機会があった。
そこには哲学の事が次の様に記されていた
「【哲学】(philosophy)(philosophiaギリシアは愛智の意。西周は賢哲の希求という意を表す為、希哲学と訳し、やがて哲学という訳語が用いられるに至った。)世界・人生の究極の学問原理を追求する学問。・・・・・」
私はここでまた新発見をした。
哲学とは知恵を愛する事。
哲学とは世界・人生の究極の原理を追求する事。
と言う事であれば、
知恵とは世界・人生の究極の原理となる
知恵とは何と素晴らしいものなのだろう。
古今東西の無数の哲学者が
世界・人生の究極の原理を追求してきた。
それは取りも直さず知恵を愛し抜いたと言う事。
私たちは古今東西の無数の哲学者たちが愛し抜いたその知恵を見つければそれで良いのである。
古今東西の無数の哲学者たちが知恵を愛する過程で生まれて来た言葉たち、
この言葉を一生懸命追う者たちがいるが
それは詮無き事。
その知恵を見詰めれば良い。
勿論その言葉を導きとして、
その知恵を探すと言う事であれば
それはとても有意義な事。
皆さん!
古今東西のその無数の哲学者の言葉から知恵を仰ぎ見て御覧なさい
そこには確かに知恵がある筈です
その知恵は貴方の中にこそあるのです
試しにこう叫んでご覧なさい
ただし一生懸命心を込めて 『主よ!』と
その主は貴方に相応しい言葉を投げかけて呉れる筈です
ただし貴方の求めに応じて
知恵とは貴方の心の中にある良心です
その良心を如何に伸ばすか
そこに哲学(知恵を愛する事)の存在意義があるのです。
習慣こそが哲学革命の原動力 2007/10/16 23:36
さて今日からここを哲学革命の為のノートとします。
哲学革命とは知恵を愛する事によって社会を変えて行こうと言う運動です。
多くの日本人を哲学者(知恵を愛する者)に変えて行こうと言う運動です。
その運動の結果、日本が知恵の王国と成る事を期待する運動です。
今日からここをその為のランダムノートとします。
哲学革命への最も早道で現実的な道は道徳教育の改善です。
道徳教育によって日本人が美しい国民になれば、
哲学革命は目に見えて来ます。
真善美
美が哲学の入門です
この門を潜れば、人は美から善へ、善から真へと哲学の道を歩いて行ける様になるのです。
さてそれでは現在の道徳教育を見て行く事にしましよう。
下記貼り付けは、
文部科学省の中学校学習指導要領であり、
その中の「道徳」の章です。
先ずは中学校のそれを例にとり、
そこから哲学革命への道を見い出す事にしましよう。
それでは中学校学習指導要領の第3章道徳を見てください。
http://211.120.54.153/b_menu/shuppan/sonota/990301c/990301j.htm
これが中学生に教えるべき道徳の内容です。
その内容は大きく分けて四つの部門に分かれていますね。
一つ目が「主として自分自身に関する事」であり
二つ目が「主として他の人とのかかわりに関する事」であり
三つ目が「主として自然や崇高なものとのかかわりに関する事」であり
四つ目が「主として集団や社会とのかかわりに関する事」ですね。
ここから哲学革命への道を探って行きたいと思います。
先ずは「主として自分自身に関する事」を見て頂きたいと思います。
ここにおけるキーワードと順番に挙げると次の20です。
ここから哲学革命への道を見い出して行く事にしましよう。
「習慣」「健康」「節度」「節制」「調和」「目標」「希望」「勇気」「意志」「自立」「自主」「誠実」「責任」「真理」「真実」「理想」「自己」「人生」「個性」
哲学革命とは何でしょう
それは知恵を愛する事に依って・・・でしたよね
ここには「知恵」と言う言葉がありませんが
これで良いのでしょうか。
良くありませんよね。
現在学習指導要領の改訂作業を行っていますが、
ここに絶対に「知恵」と言う言葉を入れ込む様に、
皆さんと一緒に運動して行く事にしましよう。
「知恵」と言う言葉が入れば、
哲学革命もし易く成ると言うものです。
何せ国家が「知恵」を奨励する事に成るのですからね。
学習指導要領の改訂への意見陳述については、
今後の哲学革命の仕事とする事としましよう。
今日はその事は置いておき、
先ずは現在の学習指導要領の範囲内で考える事にしましよう。
さて上述の20の言葉の中で哲学革命を遂行する上でもっとも重要な言葉はどれだと思いますか。
「習慣」です。
現代の乱れはこの習慣の乱れによるものです。
習慣さえ質せば風紀は良くなり、現代でありながらもグンと住み易くなるものなのです。
そしてこの習慣こそが哲学革命の原動力と成るものなのですから
習慣とは何だと思いますか
それは時間の掟に従う事
もっと根源的に言えば自然の法則に従う事
現代の習慣の乱れは何処から来ていると思いますか
それは時の神の掟に従っていないからです
直載に言えば睡眠です
現代の乱れ
それは睡眠の乱れです
現代の全ての人が8時間睡眠を確保して御覧なさい
それはそれは素敵な社会です
「お早う 今日もいい天気ですね。」
そんな言葉が自然に飛び交う様になるのです
現代
それは貴方に睡眠不足を強います
さて貴方よ
現代に盾を突け
そこから貴方は古代の精神に回帰出来るのです。
古代
それがどんなに豊かな時代であったか
それは時の神と仲良く暮らす時代だったのです
暁に感謝の言葉を述べ
夕焼け小焼けで家に帰り
お星様に御休みの挨拶をして床に入る
現代人である貴方よ
貴方は今日もまた夜更かしをしたのか
インターネット?テレビ?ビデオ?
貴方の精神はいずこへ向かおうとしているのか??
【中学校学習指導要領】
http://211.120.54.153/b_menu/shuppan/sonota/990301c.htm
【中学校学習指導要領 第3章道徳】
http://211.120.54.153/b_menu/shuppan/sonota/990301c/990301j.htm
知恵の王国とは人類に秘められた理想の王国 2007/10/18 22:44
stoneheadさんへ
返信ありがとうございました。
哲学とは人生を考える事である。
正にそのとおりだと思います。
人生を考える事に依って、
私たちの人生が更に美しく更に善く成って行くのだと思います。
ところでstoneheadさんは知恵についてどの様な考えを持っていらっしゃいますか。
私は知恵について特別な思いを持っています。
私は知恵とは本当の自分自身だと思っています。
あらゆる可能性を秘めた自分自身だと思っています。
そしてその自分自身は真善美に溢れていると。
だから人は自分自身と言う知恵を愛する事が出来るのだと。
その自分自身と言う知恵は自分の中に存在しますが、
その知恵はまた世界のあらゆる人の中に存在すると。
人類皆兄弟
その意味する所は知恵において人類は皆兄弟だと言う事です。
知恵は人類の理想形です。
その理想形を追う事に依って
自分自身は素晴らしい存在へと変って行く事が出来ます。
そして皆が
本当の自分自身と言うこの素晴らしい知恵を求め続ければ
この世界はWhat A Wonderful Worldと成るのだと思います。
哲学とは本当の自分自身を愛する事
哲学とは素晴らしい自分自身を愛する事
哲学とは真善美に溢れた自分自身を愛する事
だから哲学に目覚めた者は決して哲学を止める事はないのです
何故なら自分以上の愛の対象はないからです
私は前にも書きましたが
哲学(知恵を愛する事)とは高次の本能であると。
本当の自分自身を愛する事に目覚めた者は
もうその愛を止める事は出来ないのです。
何故なら愛とは本能なのですから
なぞと私はこの様に高揚する事が大好きです
それは言葉遊び以外の何ものでも無い様な気がしますが
人間の一番の快楽は
この言葉を自由に操る事にあるのです
もし真善美に溢れた言葉を自由に操っていると言う気になれば
それはとても愉快な事なのです
詩人を知れたければ詩人の国へ行け
詩人の国とは本当の自分自身の事です
そこはユートピアです
貴方の理想を十分に思い描けば良いのです
そんな国が在る事は幸せだと思いませんか
この世とかの世
全て象徴です
かの世の理想がこの世に齎されればそれはとても素敵な事
しかしかの世の理想がこの世に齎されなくても
私は情熱の中に生きていられる
熱情の神に感謝あれ!
amazon from amazonさんが私の事を褒めて呉れました
「情熱的だと」
何よりの励みになります
さて今日も言葉の探査に出掛けよう
とびっきりの真善美に溢れた言葉を求めて・・
これが私の知恵に対する考え方です
stoneheadさんは知恵についてどうお考えですか
死んだ言葉の羅列が知恵だと思いますか
知恵とは生きた言葉です
貴方を蘇らせる様な鮮烈な言葉でなければならないのです
私たちはイエスの言葉に依って蘇る事が出来ます
天国と言う理想の王国へ
私たちはブッダの言葉に依って蘇る事が出来ます
極楽と言う理想の王国へ
知恵の王国とは理想の王国
聖人賢人の言葉を頼りに貴方の理想の王国を築きなさい
知恵の哲学史について、tocvillieuseさんへ 2007/10/18 23:12
tocvillieuseさんへ
返信ありがとうございました
tocvillieuseさんは哲学にお詳しいので
「知恵の哲学史」について教えて頂ければ有難いと思います。
すなわちギリシア哲学においては「知恵」をどの様に考えていたか
ユダヤ教においては「知恵」をどの様に考えていたか
キリスト教においては「知恵」をどの様に考えていたか
近現代の哲学においては「知恵」をどの様に考えているかを
もしこの様な観点から研究した事があれば教えて頂きたいと思います。
もし研究した事がないのであれば、
旧約聖書「箴言」第8章に書かれている知恵について、
tocvillieuseさんはどの様に考えるか教えて頂ければとても有難く思います。
そこから議論が深まって行ける様な気がします。
ユダヤ哲学とギリシア哲学の知恵の比較とか。
哲学における知恵の地位についてとか
知恵の普遍性についてとか・・・
これは メッセージ 24 tocvillieuse さんに対する返信です
そうそう! 2007/10/19 0:59
投稿者 : amazon_from_amazon
>フィロソフィアとは、語源的には「philo+sohia(愛+智)」を意味しますから、これは、哲学的な智恵や人生における智恵の探究を行う愛智の会です。そして、地球的平和を可能にするために、学問改革と新学芸(学問・文芸)復興を目指しています。「全ての人が智を追及する存在でありうる」という考え方(万人哲人主義)に基づいて、公共民(公共的市民)が愛智の学を学習し研究することを可能にしたいと考えています。これによって、公共民のアクションを活発にし、平和な「もう1つの世界=友愛公共世界」の形成を促進したいと思うのです。
http://www.wikihouse.com/philosophia/
トピ主はここの人なのかな?
素敵な哲学者amazonさんを祝して 献詞 2007/10/19 22:26
amazon from amazonさんへ
返信ありがとうございました
それからとても素敵な情報ありがとうございました。
「フィロソフィア」は私と全く同じ思想です。
「フィロソフィア」は学者が中心の会ですので、
「学問改革と新学芸の復興」を最終目的においていますが、
私のそれは体制の改革です。
だから「哲学革命」と言う言葉をも使っているのです。
しかし「学問改革と新学芸の復興」は哲学革命における道程です。
ですから私の思想は今後「フィロソフィア」に絡んでいくと思います。
「フィロソフィア」のスローガンで私の最も気に入ったのは「万人哲人主義」です。
全ての人は哲学者 知恵を愛する人なのです。
amazon from amazonさんも哲学者 知恵を愛する人ですよね
もっともっと知恵(本当の自分)を愛してみませんか
そうすれば今よりももっともっと優しい人に成れると思いますよ
知恵とは真善美溢れた貴方自身の事なのですから
早く素敵な貴方に気付いて下さい・・・
これは メッセージ 30 amazon_from_amazon さんに対する返信です
聖人賢人哲人たちは何故知恵を求めるのか 2007/10/26 12:35
stoneheadさんへ
返信ありがとうございました
stoneheadさんの知恵の概念良く分かりました
stoneheadさんの知恵の概念が一般的な知恵の概念だと思います
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
しかし私は知恵に対して特別な思い入れがあるのです
私の知恵と言う時の『知恵』はphilosophia 知恵を愛すると言う時の知恵です
古今東西の聖人賢人哲人たちが何故これ程までに激しく知恵を求めて来たのか
私はその神秘を求めているのです
私はそれに対して一つの答えを出しています
知恵とは本当の自分自身
究極の自分自身
最高の理想としての自分自身
そして昨日また一つの答えを見い出しました
それは「普遍としての私」です
「普遍としての私」とは古今東西
地域が変ろうと時代が変ろうと
如何なる境遇如何なる身分にあろうとも
変わる事の無い自分
すなわち普遍としての私
言葉を変えれば「最初の人間」です
私の知恵の概念を最も良く理解して呉れたのはdidimo4090さんです
彼は知恵の事を神だともキリストだとも言っています
私もその通りだと思います
尤も神には二つの概念があります
大いなる神と我が内なる神
ブラフマンとアートマン
この我が内なる神とアートマンは紛れも無く知恵です
そしてこの内なる神の事をユダヤキリスト教では我が主と呼んでいるのです
普遍なる私 理想としての私
先ずはこの私を求めそしてこの私を愛さなければならないのです
この私を愛する事が出来てこそ
始めて隣人を愛する事が出来る様になるのです
「先生 律法の中でどの掟が最も重要でしょうか」
イエスは言われた
「『心を尽くし 精神を尽くし 思いを尽くして 貴方の神である主を愛しなさい』
これが最も重要な第一の掟である
第二もこれと同じ様に重要である
『隣人を自分の様に愛しなさい』
律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」
本当の自分自身を愛する事が出来なくて
どうして隣人を愛する事が出来るのでしょう
彼は愛する意味さえ知らないのですから
私が哲学(知恵を愛する事)の弊害がある事も良く知っています
それは知恵を愛する事に夢中になってこの世を顧みなくなるからです
それほどまでに哲学の快楽は大きいのです
しかし哲学の快楽は誰をも不幸にはしないから大目に見て貰ってもいいと思うのですが
やはりイエスは厳しく戒めています
「私に向かって『主よ 主よ』と言う者が皆天国に入る訳ではない
私の天の父の御心を行う者だけが入るのである」
哲学者(知恵を愛する者)は何時もこのギャップに悩みます
このギャップを埋めるのが道徳です
道徳とは理想の私に向かう為の行動規範でありそれを実行する事です
哲学者は知恵を愛する事ばかりに夢中になってこれを疎かにしがちなのです
だから世間からこう批判されるのです
彼は言うばかりで何もしないではないかと
今日はここまでにしたいと思います
――――――――――――――――――――――――――――――
stoneheadさんへ
私の『知恵』の概念は旧約聖書「箴言」の第8章に最も近いと思います
旧約聖書「箴言」第8章を読んで感想を聞かせて貰えば嬉しく思います
それから『知恵』に関心のある方々についても
旧約聖書「箴言」第8章の感想を聞かせて頂ければ有難く思います
「キリストの受肉」についての一考察 2007/10/31 23:30
tocvillieuseさんへ
先日は返信ありがとうございました。
誠に勝手ではございますが、
暫くここに寄寓させて貰って対話をさせて頂きたいと思います。
「キリストの受肉」との事ですが、
これは神の霊がイエスに舞い降りたと言う事ですよね。
キリストとは神の霊の事であり、
この神の霊がイエスと言う人間に入り込み、
そして人間イエスを突き動かしたと言う事ですよね。
もし貴方もクリスチャンと成りたいのであれば、
この神の霊、すなわちキリストを身に受けて、
イエスに倣う者と成りなさいと、
これが新約聖書の教えですよね。
さて神の霊 キリストとは何者か
これはクリスチャンだけに存在するものなのでしょうか
名前に限れば勿論「キリスト」と言う言葉はクリスチャンだけのものなりますが、
その本質を見れば全て宗教、全ての哲学に共通なものなのではないでしょうか。
神の霊と言う言葉はもっと汎用性があります。
少なくとも古代西洋においては共通なものではないでしょうか。
また古代東洋においても言葉を少し変えれば通用します。
そして近代までは洋の東西を問わず、
神の霊は存在し続けて来たのです。
現代に成って、
「神は死んだ」為、神の霊も存在し得なく成ったのかも知れませんね。
しかしどっこい神の霊は、現在でも厳として存在し続けていますよね。
これは「霊」を感じる人であれば良く分かる事ですよね。
tocvillieuseさんは「霊のしおり」を書き続けているから良く分かると思います。
しかし世の人々は「霊」と言う言葉に非常に違和感を持っていますよね。
何故か。
それは先ず「幽霊」と言う言葉に迷わされていると思います。
霊とはあの世からやって来るものと思っている。
だから非常に違和感を持っている
「あの世から幽霊がやって来る」
これを比喩と捉えれば何でもないですのにね。
さて「霊」とは何か
今私はトルストイの「人生の道」(岩波文庫)を読んでいますが、
ここに私の発見と成るような定義がありました。
それは次の様なものでした。
「人間はどんなに変化しても自分の事を《私》と言う。
この《私》なる者は人間の中にあって常に同一である。
この同一の《私》なる者は、幼少年にも大人にもまた老人にも存在する。
この一定不変の《私》なる者こそ、我々が『霊』と名づける所の者である。」と
何と「私」こそが「霊」なのです。
実を言うと私はこの言葉を見い出して少し面食らってしまったのです。
何故なら私に取って「私」とは
「我思う、故に我在り」の私、
すなわち私に取っての私とは考える私の事だったのですから。
そして聖霊とは知恵の事だったのですから。
私と知恵との相思相愛、これを哲学と称して高く掲げていたのですが、
この基本が崩れてしまうとも思ってしまったのです。
しかしこれも読み進める内に単なる言葉使いの相違だと分かりました。
すなわちトルストイは
考える私を「霊」と表現し、
私が「知恵」と称しているものを「神」と表現したのです。
私は現代人ですからどうしても「私」から離れられないのです。
また同様にどうしても「神」と言う言葉に直載に向かっていけないのです。
だから「知恵」と言う言葉を使うのです。
上手い具合に哲学philosophiaが知恵を愛すると言う意味であったから、
この哲学と言う言葉を多用して、
知恵を愛する事を高く掲げている次第なのです。
しかし私が知恵を愛する事と
「霊」なる私が神を愛する事とは全く同じ事です。
またトルストイはこうも言っています。
「人間の内の心眼を有する霊的なこの部分は良心と呼ばれる」と
すなわち「キリストの受肉」とは全き良心の人が生まれたと言う事なのです。
新約聖書が全編で勧めている事は「良心の人に成れ」と言う事なのです。
全き良心の人イエスに倣って・・・
これは メッセージ 1339 tocvillieuse さんに対する返信です
「私は知恵を愛する者である」について 2007/11/ 1 21:39
はじめまして
ちょっと教えて頂きたいのですが、
プラトンの著作の中に
「私は知恵ある者ではない。私は知恵を愛する者だ」
と言う様なソクラテスの言葉を見た事があるのですが、
何と言う著作のどの辺りにあったか教えて頂けませんか。
また原語でどの様に表現されているのかも教えて頂けませんか。
ギリシア語でphilosophia(哲学)と言う言葉がありますが、
ソクラテスの「私は知恵を愛する者である」の中にも
このphiloとsophiaが使われているのですか。
これは メッセージ 1 hikarikuma2005 さんに対する返信です
「私は知恵を愛する者である」byソクラテス 2007/11/ 1 21:49
返信ありがとうございます。
お忙しそうですので一つだけ教えて下さい。
嘗てプラトンの著作にの中に、
「私は知恵ある者ではない。知恵を愛する者だ。」
と言う様なソクラテスの言葉を見付けた事があります。
この言葉はプラトンのどの著作のその辺りに書かれているのか教えて頂けませんか。
また「私は知恵を愛する」の原語の中に、
philosophiaのphiloとsophiaが使われているかも教えて頂けませんか。
これは メッセージ 1342 tocvillieuse さんに対する返信です
知恵と霊について 2007/11/10 12:02
tocvilleuseさんへ
返信ありがとうございました。
ギリシア哲学者列伝の第1巻第12節にその言葉を見付けました。
「哲学と言う語を最初に用い、また自らを哲学者(知恵を愛する者)と呼んだ最初の人はピュタゴラスであった。
それは、・・・・、神以外には誰も知恵ある者はいないと語ったからだとされている。
その営みが知恵(ソピアー)と名付けられたり、またその営みに従事していると公言する者は精神的な完成に達成しているのだろうとして、知者(ソポス)と呼ばれたりするのはあまりにも性急すぎることであって、哲学者(知恵を愛する者)とは知恵を熱心に追求する人のことなのである。」
『私は知者ではない。私は知恵を愛する者である。』
私はこの節を読んで勝手にこの様に読み替えて記憶していたのか、
それともどこかプラトンの著作の中にその様な文句を読んだ事があるのか、
それについては、今後更に探って行きたいと思いますが、
しかし『私は知者ではない。私は知恵を愛する者である。』の真意は、
正にギリシア哲学者列伝の第1巻第12節に書かれている通りの事です。
この機会に、プラトンが知恵に関してどの様に考えていたかを
このギリシア哲学者列伝で調べてみました。
そこには次の様にありました。
「ところでプラトンは、自分の取り組んでいる仕事が無学な人たちにたやすく理解される事のないようにする為に、多様な意味を含む語を用いた。すなわち『知恵』と言う語は、それの最も固有な意味はでは、知性の対象である所の真実に存在するものについての知識の事であると彼は考えており、またこの知恵は、神や肉体から離れた魂に関係のあるものだと主張しているのである。また彼は、哲学をも特別な意味での『知恵』と呼んでいるのであるが、それは哲学が神的な知恵の探求だからである。しかし普通一般の意味では、経験の全体も彼においては『知恵』と言われているのである。例えば、職人を知恵ある人だと彼が言っているような場合がそれである。」(第3巻第63節)
この知恵の使い方と私の知恵の使い方は一緒です。
そして私が最も強く求めているのは神的な意味での知恵です。
プラトンはその神的な意味での知恵の探求を哲学と読んでいるのです。
それは私も一緒です。
ですから私の意味する所の哲学とプラトンの意味する所の哲学は全く一緒なのです。
私はこの機会にと思い
私の手元にあるプラトンの著作を数冊ぱらぱらと捲り
知恵と言う記述がある所を探し読みしました。
私はそこで今後の私に取ってとても重要となる書を見い出したのです。
それは「パイドン」です。
そこでの知恵の記述と
私が知恵のバイブルとしている旧約聖書「箴言」の知恵の記述が全く一緒なのです。
我が意を得たりと言う感じです。
私の知恵への旅は更に続いて行くと思います。
なお「パイドン」についてはこれから深く読み込んで行きたいと思っています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ところで質問です。
私は、
プラトンの言う所の神的な意味での知恵や
旧約聖書「箴言」の知恵と
tocvilleuseさんの「霊のしおり」で言う所の霊とは
全く同じだと思っているのですが、
tocvilleuseさんはどの様に思っていますか。
これは メッセージ 1346 tocvillieuse さんに対する返信です
『知恵』に関する図書を教えて下さい 2007/11/10 12:17
amazon from amazonさんへ
返信ありがとうございました。
amazon from amazonさんは私に対してどんどん優しくなって呉れていますね。
本当にありがとうございます。
ところで「哲学革命」はしばらくお休みにします。
やはりもっともっと自分を知らなければならないですよね。
当分の私の課題は「私と知恵と神」にします。
何か『知恵』に関する有用な図書があったら教え下さい。
これは メッセージ 1345 amazon_from_amazon にさん対する返信です
知恵と霊について 2007/11/17 12:16
tocvillieuseさんへ
返信を頂けないようですが、
多分tocvillieuseさんの霊について言及した事に対して不機嫌になっているのだと思いますが、
しかしtocvillieuseさんのような知恵の探求者もそうそういないので、
当分はここに滞在して絡まさせて頂きたいと思っています。
さて前回のメッセで「パイドン」の知恵の事に言及しましたが、
今回もう一度読み直してみました。
そして私に取っての知恵に関するとても重要な書になりました。
未だ他のプラトンの書を精読していないので断定は出来ませんが、
多分「知恵」に関してはパイドンが白眉だと思います。
何故なら私の求めていた知恵と一致するからです。
今回のパイドンは次のようにして読みました。
先ずは一読し、
その中から「知恵「と「哲学」と言う言葉が入っている文節を書き出し、
それに対して私なりの題を付けてみました。
それが次からのメッセ「『パイドン』における知恵と哲学」です。
どうぞご高覧下さい。
さて、私に取っての哲学上の重要な概念は、
「私」と「知恵」と「神」です。
私は全ての哲学宗教において、
この概念を見つけようとします。
そしてその概念が見付かった時、
小躍りをして喜ぶのです。
今回のパイドンの知恵もまさしくその様なものでした。
私はこのようにして哲学の旅を続けているのです。
勿論この世の事は大切です。
「私に向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。
私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
パイドンでも次のように言っていますよね。
「知恵を基準にして、
これら全ての情念が売買されるならば、
あるいはこの知恵と共に売買されるならば、
その時に本当に、勇気節制正義、知恵を伴った全ての真実の徳が生じる。」と
しかしこの世の行為についてはとても難しい。
だから私は何時もこの世とかの世を切り離して、
哲学界と言うかの世で遊んでいるのです。
しかしそれではいけない
そう言う思いから、
哲学界の成果をこの世に生かそうと言う試行錯誤は行っているのですが、
やはり中々に難しいのです。
もし機会があったらその中へ飛び込もうとも思いますが、
今は未だ哲学界で自分を鍛える時期だと思い込ませ、
当分は哲学すなわち知恵を愛する事に勤しみたいと思っています。
さて話がずれてしまいましたが、
私の哲学における重要な概念は「私」と「知恵」と「神」です。
私はこの概念を見つける為、哲学宗教書を勉強していると言っても良いと思います。
私の「知恵」に関するバイブルは、
何度も言っているように旧約聖書の「箴言」です。
これを基準に様々な哲学宗教書の知恵を捜し求めています。
今回その様な視点からパイドンの知恵を見つけたのです。
私と知恵と神
私は知恵を通して神を見るのです
または私は知恵を通して知恵を見るのです。
私は思っています。
全ての哲学宗教の原理はここに在ると。
そう言う理由から、
私の言う所の「知恵」とtocvillieuseさんの霊が同じかどうかを確認したいと思っているのです。
すなわち、tocvillieuseさんはtocvillieuseさんの霊を通してその先にある偉大なものをみる。
そして、tocvillieuseさんの霊を通してその先にある偉大なものから言葉を貰う。
その言葉の数々が「霊のしおり」だと
私はその様に考えていますが、どうでしょうか。
なおtocvillieuseさんにとっても素敵な言葉となる言葉を、
パイドンの中に見つけましたよ。
それは、「哲学は最高の学芸である」です。
私も当分はその学芸の中で遊びたいと思っていますので、
どうかお付き合いをお願いいたします。
なお次からのメッセは、
「『パイドン』における知恵と哲学」です。
プラトンが知恵についてどう考えていたのか考えてみませんか。
私は今回パイドンを読んで思ったのですが、
パイドンの「知恵」と「哲学者」の関係は、
新約聖書の「聖霊」と「クリスチャン」の関係と全く一緒だと。
私はこうも思いました。
パイドンの知恵と哲学者の概念が、
新約聖書の聖霊とクリスチャンに引き継がれて言ったのではないかと。
もし新約聖書が初めからギリシア語で書かれたのであれば、
それは偶然であるより当然であると思います。
何故ならギリシア語を母国語とする賢者たちが、
プラトンまたは「パイドン」を知らない訳が無いのですから。
その辺りについて、文献学的哲学的知見から教えて頂けませんか。
「パイドン」における知恵と哲学 2007/11/17 12:31
哲学と知恵 「パイドン」(岩波文庫)より
1、【哲学は最高の文芸である】
「哲学こそ最高の文芸であり、僕はそれをしているのだ」(p20)
2、【哲学者は死後に最大の善を得るとの希望に燃えている】
「本当に哲学のうちで人生を過ごしてきた人は、死に望んで恐れを抱く事無く、
死んだ後にはあの世で最大の善を得るだろうとの希望に燃えているのだが、それは僕には当然の事と思われる。」(p28)
3、【哲学者は死んだ状態にある事を実践している】
「本当に哲学にたずさわっている限りの人々は、ただひたすらに死ぬ事、そして死んだ状態にある事、以外の何も実践していないのだが、この事に恐らく他の人は気付いていないのだ。」(p29)
4、【哲学者の死について世の人々は理解していない】
「本当の哲学者が如何なる意味で死人同然の生き方をしており、如何なる意味で死を受けるに相応しく、どの様な死を受けるに相応しいのかは、彼らの目には見えないからである。」(p29)
5、【哲学者は快楽を追及しない】
「哲学者は、いわゆる快楽を、例えば飲食の快楽を熱心に追及すると君には思えるかね。」(p30)
6、【哲学者は所有を尊重しない】
「例えば豪華な衣服や靴の所有とか、その他体に関する装飾とか、こういうものを哲学する人は尊重すると君には思えるかね、」(p30)
7、【哲学者は魂を肉体から解放する】
「哲学者は他の人々とは際立って異なり、出来るだけ魂を肉体との交わりから解放する者である事は、明らかだね。」(p31)
8、【知恵の獲得において肉体は邪魔 ところで知恵とは何だ?!】
「知恵の獲得にその事に関してはどうだ。肉体は邪魔なのか。そうではないのか」(p31)
9、【哲学者は自分自身に成ろうと努力する】
「哲学者の魂は肉体を最高度に侮蔑し、肉体から逃亡し、全く自分自身だけに成ろうと努力するのではないか。」(p33)
10、【肉体は魂が知恵を獲得する事を許さない ところで知恵とは何だ?!】
「肉体は魂を惑わし、魂が肉体と交われば、肉体は魂が真理と知恵を獲得する事を許さない。」(p34)
11、【哲学者同士のひそひそ話し それは何時も知恵の事?】
「真正な哲学者は何か次の様な考えが想い浮かび、彼らはお互い同志何かこんな事を話し合うに違いない。『そもそもロゴスと共にある研究においては、我々を目的地へと導く近道の様にものがあるらしい。と言うのは、我々が肉体を持ち、我々の魂がこの様な悪と混合されている限りは、我々は我々が望むあの真実を決して十分に獲得する事は出来ないだろうからだ。・・』」(p34)
12、【知恵こそ 哲学者が熱望し求愛しているもの ところで知恵とは何だ?!】
「本当に我々に明確に示されているところでは、もしも我々がそもそも何かを純粋に知ろうとするならば、肉体から離れて、魂そのものによって事柄そのものを見なければならない、と言う事である。その時にこそ、思うに、我々が熱望しているもの、我々がそれの求愛者であると自称しているもの、すなわち知恵が我々のものになるだろう。その時とは、議論が示すところでは、我々が死んだ時の事であって、生きている間には知恵は我々のものにはならないのである。と言うのは、死んだ時に始めて、魂は肉体から離れ、自分自身になるだろう。死ぬ前には駄目なのだ。」(p36)
13、【哲学者の仕事は魂を肉体から解放する事にある】
「魂の解放を常に望んでいるのは、特に、いや、ただ、正しく哲学している人だけなのである。そして哲学者の仕事とは、魂を肉体から解放し分離する事である。」(p38)
14、【哲学者は死ぬ事を練習しているのである】
「正しく哲学している人々は死ぬ事を練習しているのだ。」(p38)
「パイドン」における知恵と哲学 その2 2007/11/17 12:34
15、【哲学者とは一生涯を通して知恵を憧れ続ける者の謂いである ところで知恵とは何だ?!】
「彼が至る所で肉体と仲たがいをしてきて、魂それ自身だけを持とうと熱望してきたのに、その事が起こると、恐怖を覚える憤激すると言うのでは、これ以上の不合理はないだろう。あの世へ着けば、一方では生涯を通して憧れ続けてきたもの、知恵を得ると言う希望があり、他方では争い続けてきたものと一緒にいる事から解放されると言うのに、あの世に行くのを喜ばないなんて。」(p38)
16、【純粋な知恵とはかの世でしか出会う事は出来ない ところで知恵とは何だ?!】
「誰かが本当に知恵を愛し、ハデスの国以外の所では決して言うに値する程の知恵に出会う事はないだろうと言うこの希望を強く抱きながら、まさに死のうとする時に憤激したり、あの地へ行く事を喜ばないなんて事があるのだろうか。友よ、本当に哲学者であるならば、そう考えなければならない。と言うのは、あの世以外の何処においても、決して純粋に知恵に出会う事はないだろう、と彼は強く信じているからなのだ。」(p39)
17、【哲学者は死に臨んで嘆く事は無い 何故か?】
「もしもある人がまさに死のうとして怒り嘆くのを君が見るならば、それはその人が哲学者(知恵を愛する者)ではなくて、何か肉体を愛する者であった事の十分な証拠となるのではないか。」(p39)
18、【節制は哲学者にこそ相応しい】
「節制もまた、いや多くの人が節制と名付けているものでさえ、言い換えれば欲望に刺激されて興奮したりせず、むしろ欲望を軽視して端正に振舞う事もまた、とりわけ肉体を軽視して哲学のうちに生きる者にとってのみ相応しく帰属するのではないか。」(p40)
19、【知恵の秘儀 良く良く読み込む事 ところで知恵とは何だ?!】
「こんな風に快楽と快楽を交換し、苦痛と苦痛を交換し、恐怖と恐怖を交換し、貨幣のようにより小さな情念とより大きな情念を交換すると言うのは正しい交換ではないだろう。むしろ、これら全ての情念をそれと交換すべき唯一の正しい貨幣とは知恵であり、この知恵を基準にしてこれら全ての情念が売買されるならば、あるいは、この知恵と共に売買されるならば、その時、本当に勇気、節制、正義、知恵を伴った全ての真実の徳が生ずるのではないか。その時に、快楽や恐怖やその他の全てそう言うものが付け加わろうが取り去られようが、そんな事はどうでもよい。しかし、これらの情念が知恵から切り離され、相互に交換されたら、その様な徳は影絵のようなものであり、全く奴隷的なもので、何も健全な点も真実な点も持ってはいないだろう。これに対して、真実には、節制も正義も勇気も、これら全ての情念からのある種の浄化(カタルシス)なのであり、知恵そのものはこの浄化を遂行するある種の秘儀ではなかろうか。」(p42)
20、【哲学者とはバッカスの徒 知恵の秘儀をマスターする事 ところで知恵とは何だ?!】
「実際、秘儀にたずさわる人々が言うように、『ディオニュソスの杖を持つ人は多いが、バッコスの徒(ディオニュソスと一体となった人)は少ない』からだ。僕の考えではバッコスの徒とは他でもない正しく哲学した人の事である。」(p43)
「パイドン」における知恵と哲学 その3 2007/11/17 12:37
21、【これこそが知恵の神秘! この為にこそ哲学者は知恵を愛する!】
「魂が自分自身だけで考察する時には、魂はかなたの世界へと、すなわち純粋で、永遠で、不死で、同じ様な有るものの方へと赴くのである。そして、魂はそのようなものと親族なのだから、魂が純粋に自分自身だけになり、また成り得る場合には、常にその様なものと関わり、さまよう事を止め、かの永遠的なものと関わりながら、何時も恒常的な同一のあり方を保つのである。何故なら、魂はそう言うものに触れるからである。そして、魂のこの状態こそが知恵(フロネーシス)と呼ばれるのではないか。」(p76)
22、【自分自身に集中する事 これが哲学 そしてその意味は死ぬ事】
「何故なら、魂はその生涯において、進んで肉体と交わる事は無く、むしろ肉体を避け、自分自身へと集中していたからである。その事を魂は何時も練習していたのである。そして、この練習こそは正しく哲学する事に他ならず、それはまた、真実に平然と死ぬ事を練習する事に他ならないのだ。」(p79)
23、【哲学者こそが神々の仲間となる】
「神々の種族の仲間に入る事は、哲学をした者、そして全く浄らかになって立ち去る者、学を愛する者にしか許されない事柄である。この為にこそ、本当の哲学者は全ての肉体的な欲望を避け、男らしく忍耐し、自分自身を欲望に委ねる事をしないのだ。」(p83)
24、【哲学者は哲学の導きに従う なおここで言う哲学とは知恵の事?】
「自分自身の魂をいくらかでも気にかけている人々、肉体の手入れをしながら生きているのではない人々は、こう言う全ての連中に別れを告げるのだ。彼らは自分が何処へ行くのかも知らない連中なのだから、彼らと同じ道は歩かない。これに対して、自分自身は、哲学に反する事、哲学の齎す解放と浄化に反する事は為すべきではないと考えて、哲学の導くような方向に、哲学に従いながら向かうのである。」(p84)
「パイドン」における知恵と哲学 その4 2007/11/17 12:43
25、【哲学の導き ここで言う哲学とは知恵の事! 知恵と哲学の関係を理解する事】
「学ぶ事を愛する者なら知っている事だが、哲学が彼らの世話を使用と引き取った時には、彼らの魂はどう仕様も無く肉体の中に縛られ糊付けされている。彼らの魂は、牢獄を通してのように肉体を通して、存在するものを考察するように強いられ、決して魂自身が魂自身を通して考察する事は無い。その結果、魂はひどい無知の中で転げ回っているのだ。そして、この牢獄の一番恐ろしい点は、縛られている者自身が縛られている事の最大の協力者であるように、この牢獄が欲望によって成立している事なのであるが、その事を哲学は見抜くのである。こうして、何度も言うように、学ぶ事を愛する者なら知っている事なのだが、哲学はこう言う状態にある彼らの魂を引き取って穏やかに励まし、その魂を解放しようを努力する。目を通しての考察は偽りに充ちており、また耳やその他の諸感覚をとしての考察も偽りに充ちている事を哲学は示してやるのである。更にそれらの感覚を用いる事が不可避でない限りは、それらの感覚から引き退くように説得し、魂自身が魂自身の中へと集結し凝集するよう激励するのである。そして、何であれ、存在するものの内でそれ自体として独立にあるものを、魂が自分自身だけで理性的に把握しようとするならば、魂は自分自身以外の何ものも信じないように励ますのである。これに対して、魂が自分自身以外の他のものを通して色々な事物の内にその度ごとに異なった姿を呈して現われるものを考察する場合には、その様なものは真ではないと考えるように励ますのである。その様なものは、感覚されるもの、見られうるものであり、これに対して、魂自身が見るものは知られうるもの、目に見えないものなのである。こうして、本当の哲学者の魂はこの解放に反対すべきではないと考えるから、その故に、快楽や欲望や苦痛や恐怖を出来る限り抑制するのである。と言うのは、本当の哲学者はこう判断するからである。人間があまり強烈な快楽や恐怖や苦痛や欲望を味わうと、それらの激情から、唯単に普通の人々が考えるような程度の悪、たとえば身体を駄目にしてしまうとか、欲望の為に財産を台無しにしてしまうとか、そんな程度の悪を蒙るばかりでなくて、あらゆる悪の内で最大にして究極の悪を蒙るのであり、しかも人々はその事を考えてもみないのである。」(p84)
26、【哲学こそが真に貴方を養う】
「一方では、哲学が魂の解放をするはずであるのに、他方では、哲学がその解放を行っている最中に、自分から進んで自分自身を快楽や苦痛に引渡し、再び自分自身を縛り付けて、機を反対方向に操るペネロイアのように無益な仕事を際限もなく繰り返そうとは思わないだろう、いや、彼の魂は、これらの情念から解放された平安を獲得し、理性的思考に従い、また常にその内に留まり、真なるもの、神的なもの、憶見の対象でないものを観想し、このものによって養われ、生きている限りはこのように生きるべきだと考えるのである。」(p87)
27、【哲学者は天上界に住まう 哲学者への報いはこの上なく美しい】
「最後に、際立って敬虔に生きたと判定された者たちについて言えば、これらの者たちこそが、あたかも牢獄から解放されたかのように、地下のこれらの場所から解放されて自由になり、上方の清々しい住まいに到達して、真の大地の上に住むのである。また、これらの人々の内、特に哲学によって十分に己を清めた人々は、それ以後の生においては、全く肉体から離脱した生を送り、これらの住まいよりももっと美しい住まいに到着するのだが、その住まいの有様を説明するのは容易な事ではない。今はその為の十分な時間もない。しかし、以上述べきた事柄の為に、我々はこの世において徳と知恵に預かる為に全力を尽くさなければならないのだ。何故なら、その報いは美しく、希望は大きいのだから。」(p167)
「パイドン」における所の知恵と哲学者の関係は
「キリスト教」における所の聖霊とクリスチャンの関係と同じ事である。
私の言う所の『哲学』(知恵を愛する事)理解して頂けただろうか。
「知恵と霊」、文芸路線で行きましょう 2007/11/17 23:22
tocvillieuseさんへ
返信ありがとうございました。
ところで、「質問に関しては、ピンポーン、です。」は、
①「私が言う所の『知恵』とtocvillieuseさんの言う所の『霊』が同じだ」と言う事についてですか、
それとも
②「新約聖書はギリシア語で書かれた」と言う事についてですか。
もし二番目に対する答えであれば、
私は平常心で受け止めます。
それ位の知識ならある程度予想していたからです。
しかしもし一番目の答えに対してピンポーンであれば、
私の心はまたも小躍りして喜ぶ事になります。
そしてそれはパイドンにおいて知恵を見い出した段ではないと思います。
何故ならこれまで多くの人にその様な問いをして来ましたが、
このように答えて呉れた人はほとんど居なかったからです。
私のその様な問いに対して、
その様な答えをして呉れた人は一人いました。
それはdidimo4090さんです。
その答えについては次のメッセにおいて、
「didimo4090さんの『知恵』に関する考え方」との標題で掲示して置きますので参考にして下さい。
もしピンポーンの答えが、
私の言う所の知恵とtocvillieuseさんの言う所の霊が同じであれば、
これ程嬉しい事はありません。
何故なら知恵において、
または霊において、
私たちは兄弟となるからです。
私たちはきっと対話によって
その霊なるもの、または知恵なるものの真髄に迫って行けると思うのです。
tocvillieuseさんが霊をあまり公にしたくない理由は分からないではありませんが、
私たちにおける霊の対話はきっとこの場をきっと潤すと思います。
霊の事を知らない人たちがからかいに来ると思いますが、
彼らも私たちの対話に誘い込みましょう。
そして彼らにはこう示してあげましょう。
「ほら、貴方の霊はそこにいますよ」と
そうすれば彼らも知識組から知恵組へと転向する事でしょうから・・
「三人寄れば私(キリスト)もそこに居る」
「三人寄れば文殊の知恵」
多くのキリスト仲間、文殊仲間、知恵仲間、霊仲間を
この場で作って行きましょう。
「哲学は最高の文芸である」
その路線で行きましょう
遊び心満載で!! しかし真面目に
これは メッセージ 1367 tocvillieuse さんに対する返信です
「パイドン」における知恵と哲学について 2007/12/ 1 11:28
hikarikumaさんへ
返信ありがとうございました。
hikarikumaさんやtovicleさんの意見を基に、
私なりにプラトンの知恵を研究してみました。
そして知ったのが、
プラトンが知恵と言う言葉を多様な意味で使っていたと言うことです。
下記の【プラトンにおける知恵の多義性】を参考にして下さい。
そしてその多様な意味の中に「神的な知恵」がある事も分かりました。
そして哲学と言う言葉をその神的な知恵の探求と言う意味で使うこともあると。
それから私の手元にある岩波文庫のプラトンの著作数冊をぱらぱらと捲ってみました。
そしてそこに「パイドン」の知恵と哲学を見い出したのです。
下記の【「パイドン」における知恵と哲学】がそれです。
この中の『「パイドン」における知恵と哲学その1~その4』は、
「パイドン」における「知恵「と「哲学」と言う言葉が使われている一節を書き抜いたものです。
これらを基に「パイドン」における知恵と哲学の意味を考えてみませんか。
何故ソクラテス(プラトン)は、
「わたしの息のつづくかぎり、わたしにそれができるかぎり、決して知を愛し求めること(哲学)を止めないだろう。」
と言ったのでしょうか?
【プラトンにおける知恵の多義性】
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552019921&tid=a4afa4bfa4pa4la1a2a5xa1bca52a5k&sid=552019921&mid=1355
【「パイドン」における知恵と哲学】
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=5&board=552019921&tid=a4afa4bfa4pa4la1a2a5xa1bca52a5k&sid=552019921&mid=1362
これは メッセージ 2766 hikarikuma2007 さんに対する返信です
baudelaireさんへ 『知恵』について 2007/12/ 5 23:16
baudelaireさんへ
初めまして
プログを少し読まさせて頂きました。
神秘主義にお詳しいようですね。
私も嘗て少し夢中になった事があります。
特にエックハルトについて。
縁があったのかなと思って、
本棚にあるエックハルトの著作全2冊を取り出して来て、
そのうちの1冊「エックハルト説教集(岩波文庫)」を読み始めてみました。
そうしたところ、第1章に私が研究課題としている「知恵」の記事がありました。
下記がその切抜きです。
baudelaireさんは知恵の事についても相当お詳しいと思います。
「グノーシス主義のソフィアについて」からも良く分かります。
ついては、「知恵」を主題に対話をして頂けませんか。
先ずはエックハルトの知恵から始めて、
古今東西の偉大な知恵について旅をしてみませんか。
私は思っています。
古今東西の偉大な哲学宗教とは、
『私』と『知恵』と『神』が三位一体と成った時の知恵であると。
勿論、『私』と『知恵』と『神』
これらの言葉については、「所変れば名は変わる」です。
下記のエックハルトの場合、「魂」を「私」に変えれば、
私の論法と寸分も違わないと思います。
下記の【プラトンの知恵】においても述べているのですが、
プラトンの知恵とイエスの言う所の聖霊も同じです。
私たちは知恵を通じて神を崇め、
そしてその神から言葉を頂くのです。
もっとも神も一種の比喩です。
私の「知恵」のスタンダードは旧約聖書の「箴言」です。
もし全ての偉大な哲学宗教にこの知恵を見い出した時、
baudelaireさんが提出した議題、
「人は何故哲学をするのか」についても、
より良き解答が得られると思うのです。
人は何故知恵を愛するのか??
【エックハルトの知恵】
「イエスは魂の内に、計り知れない知恵をもって自らを顕す。
その知恵とはイエス自身である。
そしてその知恵において父は、父に相応しい一切の支配力で、自らと、知恵そのものである言と、その内にある全てを一なるものとして認識する。
もしこの知恵が魂と合一するならば、魂はあらゆる疑い、あらゆる迷い、あらゆる闇が完全に取り除かれ、『主よ、貴方の光に、私たちは光をみる。』(詩篇36)と預言者が語るように、神自身である一つの純粋な光の内に魂は移される。
神が魂の内で神をもって認識されるのである。
その時、魂はこの知恵をもって自分自身と全ての事物とを認識する。
そして魂は、この同じ知恵を神そのものをもって認識し、同じ知恵をもって魂は、実り多い産出力における父に相応しい支配力と、如何なる区別も無い単一な一性における本質的な存在性を認識するのである。」(エックハルト説教集(岩波文庫)の『魂という神殿』より)
【プラトンの知恵】
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=5&board=552019921&tid=a4afa4bfa4pa4la1a2a5xa1bca52a5k&sid=552019921&mid=1362
これは メッセージ 1392 baudelaire6299 さんに対する返信です
エックハルトの神 2007/12/16 12:14
stoneheadさんへ
返信ありがとうございました。
「人間の悪知恵を愛するなんて、ハイ・オッパッピ~」
『オッパッピ~』の意味が分からずどの様に解して良いのか分からなかったので、
goggleで検索してみました。
http://pub.ne.jp/WithOutYou/?entry_id=927710
オッパッピ~とは
「オ」オーシャン
「パ」パシフィック
「ピ」ピース
「太平洋に平和を・・・」との事
さすがにstoneheadさん
平和の為には悪知恵もまた愛そうではないか・・・
悪知恵と悪知恵が争う
そこにまた悪知恵が浮かぶ
そしてその悪知恵がこの地球に平和を齎す
より善き悪知恵がこの世界を救ってきた
そう言う事を言いたいのだと思いますが
正にその通りだと思います
この世の知恵がこの世を救ってきたのです。
この世の知恵と言う悪知恵に乾杯!
ここからはモノローグです。
私はこれまで『知恵』を主題に物事を考えて来た。
それは知恵によってこの世を変えて行こうと言う理想があったからだ。
すなわち『哲学革命』である。
哲学革命とは、
多くの人々が知恵を愛するようになる事に依って、
この世がより善き社会になって行くと言う社会動態の事である。
その社会動態を少しセンセーショナルに「哲学革命」と言う言葉で表したのである。
哲学とはphilosophia 知恵を愛する事
哲学革命とは知恵を愛する事によって社会が変わると言う事を意味している。
私はその為に知恵の事を研究してきたが、
ここに来て知恵の基となる神の事についても研究しなくてはならないのではないかと思い始めたのである。
その契機が「エックハルト説教集」(岩波文庫)である。
私は今「エックハルト説教集」を精読中である。
成果が出たら発表したいと思う。
エックハルトの神
それは我々近代人の神の曙光だったような気がします。
(未だ死んではいない近代人の神の)
神は貴方の内ある。
その事を貴方方にも理解して貰いたいのである。
もし貴方がその事を理解したら、
私の言う「知恵」の事も理解して呉れるだろう。
そして「哲学革命」へも参加して呉れるだろうから・・・
エックハルトの「私」と「神」 2007/12/21 16:30
先程エックハルト説教集(岩波文庫)の中の「三つの内なる貧しさについて」を読んだ。
この中の「私」の記述については、近現代の自我精神に通じる所がある。
ひょっとしたら、
デカルトもこのエックハルトから学んでいたのではないかと推察される。
すなわち「我思う 故に我あり」と言う近代精神について
それからエックハルトの神は近現代を超えて今でも脈々と生きている。
何故ならエックハルトの神においては被造物を必要としないからである。
もっとも必要であれば被造物を利用しても構わないとも言っている
さてそれではその2節を抜粋する事としよう
「私が未だ私の第一原因の内にあった時、私は神を持つ事は無く、そこでは私が私自身の原因であった。私は何も意志せず、何も求める事が無かった。何故ならば、私は何ものにも囚われる事の無い一つの有であり、真理を享受しつつ、私自身を認識するものだったからである。そこで私が意志したのは私自身であり、その他は何も意志する事が無かった。私が意志したのは私自身であった。そして私であったものは、私が意志したものだった。ここにおいて、私は神と全てのものに囚われ事無くあったのである。しかし私が自由な意志決定により外へ歩み出て、私の被造的有を受け入れた時、私はそこで一人の神を持ったのである。何故ならば、被造物が存在する以前には、神は未だ「神」では無く、むしろ神は、神があったところのものであったからである。被造物が生じ、その被造的有を受け入れた時に、神は神自身においてでは無く、被造物において神となったのである。」
「しかし突破において、私は私自身の意志、神の意志及び神の全てのわざ そして神自身にも囚われる事が無い。突破においては、私は一切の被造物を超え、「神」でも無く、被造物でも無く、むしろ私は私があったところのものであり、今もこれからも絶える事無くあり続けるところのものである。この突破において、私は全ての天使を超えた彼方へと私を連れ行く一つの飛躍を受け取る。この飛躍の内で、私は神が「神」としてある全て、神的なわざの全てをもってしても私を満足させる事が出来ないほどの大きな豊かさを受け取るのである。何故ならば、この突破においては、私と神が一であると言う事が私に与えられるからである。そこで私は私があったところのものであり、増える事無く減る事も無い。何故ならば、そこでは私は一切の事物を動かす不動の原因だからである。ここに到って、神はその人の内に如何なる場ももはや見い出す事は出来ない。人はこの貧しさによって、彼が永遠の過去からあった、そしてこれからも絶える事なくありつづけるものを手に入れる事が出来るのである。ここに到って、神は精神と一であり、そしてこれこそが人の見い出す事の出来る極限の貧しさなのである。」
第一節目の「私」は近現代の「私」である
第二節目の「私」はもっと奥が深い
この「私」は悟りに到った時の私である
そしてこの「私」こそが
正に現在の精神世界ブーム 瞑想ブームにおいて
もっとも持て囃されている「私」なのである
「私」と「神」の合一
そこに至福があり
私の欲しいものが全て手に入るのである
もっともこれはイエスキリストの教えなのだが
イエスキリストは譬えを使った為
理解出来る者はほとんど居なかった
エックハルトは譬えを使わずに
あまりにも神という言葉を直裁に使った為
その事を知る者からは渋い顔をされ
それを知る事の出来ない者からは反発を喰らったのである
エックハルトの教えは自らが言っているように全ての人に理解出来るものではない
それ故理解出来ない体制派から反発を喰らったのである
譬えを信じるかそれとも奥義を信じるか
体制は譬えを取ったのである
しかし近現代では譬えをそのまま信じる事が出来なくなった
そこにデカルト カントが生まれ
遂にはニーチェが生まれてしまった
しかしそれでも神は死んでいない
何故なら神と私はその奥の奥の奥城で一なのだから・・・
「エックハルトより」
哲学は最高の文芸である 比喩の文学也 2007/12/21 17:13
hikarikumaさんへ
パイドンは読み進んでいますか。
「『ソークラテースよ、文芸を作り、文芸に精進せよ』
と彼がたびたび見る同じ夢は、彼に告げた。」
何故なら「哲学は最高の文芸」だからです。
ソクラテスも末期になって考えたのですね。
言葉に残さなければ自分がこの世から消えてしまうと
しかしそこは天の配剤
プラトンがしっかり残して呉れたのですね
ところで『知恵』に興味が持てるかどうか分からないとの事
それは知恵を既成の概念で捉えているからではないでしょうか
パイドンを読み進めて行けば良く分かると思いますが
パイドンにおける「知恵」と
キリスト教における「聖霊」とは同じ事です。
全て比喩です。
神もまた比喩ですが
その神からの第一原因とも言われるものが
「知恵」であり「聖霊」なのです。
今私はエックハルトを読んでいますが、
下記のエックハルトの「私」と「神」の概念を理解すれば
「知恵」の事も分かって来ると思います。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552019921&tid=a1xeaf3xa1jcn7ca4r0a6a49a4kbbva1ka1ya4ka4da4a4a4f&sid=552019921&mid=44
「私」と「神」の合一、結婚と譬えてもいいでしょう
そこからうまれてくるのが「知恵」、言なのです。
ここで言う「言」とはヨハネ福音書第1節の「言」の事です
すなわち
「初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。
・・・・・・」と言う
「私」と「神」と「知恵」に関する事
それは全て比喩です
だから「哲学は最高の文芸」と言われるのです・・・
比喩を真であると言い表さなければならない時
そこに偶像が生まれ
囚われの神が生まれて来るのです
神は恐れてはいけません
しかし神は畏れなければならないのです
もし畏敬の念があればどのような比喩も許されるのです
だって「聖典」「経典」は全て比喩ではないですか・・・
哲学革命 その1 2007/12/22 13:13
hikarikumaさんへ
パイドンは何処まで読み進みましたか
さて私は何故これ程迄に知恵に拘るのか
それは知恵にこの社会を変える程に大きな力があるからです
確かに知恵と言う言葉は様々な意味合いで使われます
おばあちゃんの知恵だったり
この世の知恵だったり
悪知恵だったり・・・
しかし私の言う所の知恵は
これらを全て超え所の知恵
下記の中にも言い表されている「神的な意味での知恵」です
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552019921&tid=a1xeaf3xa1jcn7ca4r0a6a49a4kbbva1ka1ya4ka4da4a4a4f&sid=552019921&mid=36
多くの人はこの知恵の事に気付いていないと思います
多くの人がこの知恵に気付き
この知恵を愛していけば
この社会は大きく変って行くと思うのです
哲学の事をphilosophia 知恵を愛する事だと言います
この概念を利用して
「哲学革命」と言う新たな概念を作り出したのです
哲学革命とは
多くの人が哲学 すなわち知恵を愛するようになる事に依って
この社会が変わって行くと言う社会動態を言い表しています
その為には多くの人に知恵を愛するようになって貰う必要があるのです
ところでソクラテス プラトンが一番言いたかったのは何でしょうか
私は思います
『汝自身を知れ』だと
それは言い換えれば知恵を愛しなさいと言う事でもあるのですが・・
私たちは自分自身に入って行けば行くほど
私たちが神的な者であると気付くようになります
この事は古今東西の偉大な哲学者たちが言っている事です
もっとも象徴的に言っているのはイエスでありブッダです
イエスは私たちの事を「神の子」と呼んでいるし
ブッダは私たちの事を「仏の子」と呼んでいます
この事については勘違いしないで欲しいと思うのです
人類皆が神の子仏の子と言う訳ではないのです
人類皆が神の子仏の子と成る可能性があると言う事なのです
自分を捨てて
神に近付く時 仏に近付く時
その時
私たちは自分自身が神の子であり 仏の子である事に気付きます
その時
私たちは神の子と成り 仏の子となるのです
その時から
私たちは神の子に相応しい者と成るよう
そして仏の子として相応しい者と成るよう努力するように成るのです
この事によって
この世を神の国 仏の国になるよう図ったのが
イエスであり ブッダなのです
私の哲学革命もこれと同じ理念です
さてここで神憑がってしまったので
この神秘 神の秘密を解き明かして置く事にします
さて神は何処に存在するのでしょうか
そして仏は
それは私たちの内にです
エックハルトは言っています
私の中心点と神の中心点は同じだと
すなわち私の中心に行けば
そこにまた神の中枢があると言う事なのです
私は何度も言っていますよね
神は象徴であり比喩だと
神を偶像の神として見立てた時
私たちはその神に囚われる事になるのです
哲学革命 その2に続きます
哲学革命 その2 2007/12/22 13:16
哲学革命 その1からの続き
hikarikumaさんは
自分自身の中に深く突入した事がありますか
一度
友達も家族も仕事もそして全てを捨てて
自分の中に深く突入してみませんか
そうすれば自分が神の子であり仏の子である事が分かるようになると思います
もっとも「友達も家族も仕事もそして全てを捨てて」とは遁世を意味しているのではありません
「奥まった部屋に入って戸を閉めて」です
イエスはここで祈りなさいと言っているのですが
私はここで言います 自分自身に突入しなさいと
「友達も家族も仕事もそして全てを捨てて」とは
友達への思い 家族への思い 仕事への思いを捨ててと言う事です
一日一回その様な場を設ければ
神の子としての思い 仏の子としての思いが日に日に高まって行くと思います
さてここで問題になるのが自分自身への突入の方法です
イエスは祈りを勧めました
ブッダは瞑想を進めました
ダビデは主よと呼びかけました
hikarikumaさんはどの様の方法を取りますか
私たち東洋人としては瞑想を取りたい所ですが
これは至難の業だと思います
瞑想により無我の状態に成った時
その中心点から神や仏が溢れんばかりの言を私たちに齎して呉れます
これを至福 浄福と言っているようですが
やはりこれは至難の業です
現実的な方法を取った方がより神や仏への近道だと思います
祈りはどうでしょうか
少し抵抗がありますよね
それでは呼びかけはどうでしょうか
「私よ」とか「本当の私よ」とか
少し締まりませんね
では「私の主よ」はどうでしょうか
何だか格好良くありませんか
私と神 私と仏の関係は
同心円球だと考えればよく理解出来ると思います
私とは大きく広がる可能性を持った円球であり
神とは無限大の円球であると
その中心点から神の言を貰えば貰う程
私の円球は広がって行くと言う風に考えたらどうでしょう
そしてその象徴としての神に「私の主よ」と呼びかけるのです
やはり抵抗がありますかね・・
そこで考え付いたのが哲学(知恵を愛する事)です
パイドンを読んで頂いたので分かったと思いますが
知恵には神的な意味合いがあるのです
その神的な意味合いでの知恵とは
私と神の仲介者だと言う事です
それはキリスト教における聖霊の事であり
イエスやダビデやクリスチャンが呼びかけている
「私の主」「私の神」と同じ事なのです
先程円球の譬えをしましたが
神の中心点は私の中にあるのです
だから「私の神よ」と呼びかける事になるのです
私の哲学革命に言う所の哲学もこの応用です
だから私の言う所の哲学はあくまでも知恵を愛する事でなくてはならないのです。
さて知恵の事をもっと敷衍して置きましょう
私の知恵には二つの概念があります
一つは私と神の中心点と言う意味合いでの知恵であり
他の一つはその中心点から溢れ出る言と言う意味での知恵です
それから知恵に関してもう一つ重要な概念があります
それは聖人賢人哲人たちの知恵の言葉です
私の言う哲学 知恵を愛する事はこの三つの概念から成り立っています
私の言う哲学の方法は次の通りです
先ず聖人賢人哲人たちの知恵の言葉を集めます
そこから私と神の中心点に向かうのです
何故なら聖人賢人哲人たちの知恵の言葉たちは
その中心点(ここでは知恵と呼んでいますが)から発せられた言葉であり
それは常にその中心点の近くに存在するものだからです
聖人賢人哲人たちの知恵の言葉たちを道標として
私と神の中心点に向かうのです
現代においてその中心点に向かう最も素晴らしい方法だとは思いませんか
そこには祈りも呼びかけも瞑想も必要ないのです
聖人賢人哲人たちの知恵の言葉たちを学ぶ
その事に依って
自然に私と神の中心点に近付いている事になるのです・・
この哲学の方法で一番の要は
『知恵とは私と神の仲介者(中心点)である』と言う概念です
この概念付けによって
聖人賢人哲人たちの知恵の言葉たちと
私と神の中心点から溢れ出た言葉たちが
『私』と言う一つの有機体に成ってこの世を潤して行くのです
プラトンは哲学者が王と成る哲学王国を夢見ましたが
私の言う王国では
全ての国民が哲学者(知恵を愛する者)なのです
その王国の王はと聞かれれば
「象徴としての知恵」と言う事になるのでしょか
「知恵の王国 日本」
そんな国を目指して・・・
哲学は最高の文芸なり・
プラトンにおける「死」と「離脱」 その1 2007/12/23 10:50
hikarikumaさんへ
パイドンを読み進めているとの事 嬉しい限りです
下記はパイドンにおける「死」と「離脱」の記事です
2000字に納める為省略している記事もあります
2、【哲学者は死後に最大の善を得るとの希望に燃えている】
「本当に哲学のうちで人生を過ごしてきた人は、死に望んで恐れを抱く事無く、
死んだ後にはあの世で最大の善を得るだろうとの希望に燃えているのだが、それは僕には当然の事と思われる。」(p28)
3、【哲学者は死んだ状態にある事を実践している】
「本当に哲学にたずさわっている限りの人々は、ただひたすらに死ぬ事、そして死んだ状態にある事、以外の何も実践していないのだが、この事に恐らく他の人は気付いていないのだ。」(p29)
4、【哲学者の死について世の人々は理解していない】
「本当の哲学者が如何なる意味で死人同然の生き方をしており、如何なる意味で死を受けるに相応しく、どの様な死を受けるに相応しいのかは、彼らの目には見えないからである。」(p29)
7、【哲学者は魂を肉体から解放する】
「哲学者は他の人々とは際立って異なり、出来るだけ魂を肉体との交わりから解放する者である事は、明らかだね。」(p31)
9、【哲学者は自分自身に成ろうと努力する】
「哲学者の魂は肉体を最高度に侮蔑し、肉体から逃亡し、全く自分自身だけに成ろうと努力するのではないか。」(p33)
13、【哲学者の仕事は魂を肉体から解放する事にある】
「魂の解放を常に望んでいるのは、特に、いや、ただ、正しく哲学している人だけなのである。そして哲学者の仕事とは、魂を肉体から解放し分離する事である。」(p38)
14、【哲学者は死ぬ事を練習しているのである】
「正しく哲学している人々は死ぬ事を練習しているのだ。」(p38)
16、【純粋な知恵とはかの世でしか出会う事は出来ない ところで知恵とは何だ?!】
「誰かが本当に知恵を愛し、ハデスの国以外の所では決して言うに値する程の知恵に出会う事はないだろうと言うこの希望を強く抱きながら、まさに死のうとする時に憤激したり、あの地へ行く事を喜ばないなんて事があるのだろうか。友よ、本当に哲学者であるならば、そう考えなければならない。と言うのは、あの世以外の何処においても、決して純粋に知恵に出会う事はないだろう、と彼は強く信じているからなのだ。」(p39)
17、【哲学者は死に臨んで嘆く事は無い 何故か?】
「もしもある人がまさに死のうとして怒り嘆くのを君が見るならば、それはその人が哲学者(知恵を愛する者)ではなくて、何か肉体を愛する者であった事の十分な証拠となるのではないか。」(p39)
21、【これこそが知恵の神秘! この為にこそ哲学者は知恵を愛する!】
「魂が自分自身だけで考察する時には、魂はかなたの世界へと、すなわち純粋で、永遠で、不死で、同じ様な有るものの方へと赴くのである。そして、魂はそのようなものと親族なのだから、魂が純粋に自分自身だけになり、また成り得る場合には、常にその様なものと関わり、さまよう事を止め、かの永遠的なものと関わりながら、何時も恒常的な同一のあり方を保つのである。何故なら、魂はそう言うものに触れるからである。そして、魂のこの状態こそが知恵(フロネーシス)と呼ばれるのではないか。」(p76)
22、【自分自身に集中する事 これが哲学 そしてその意味は死ぬ事】
「何故なら、魂はその生涯において、進んで肉体と交わる事は無く、むしろ肉体を避け、自分自身へと集中していたからである。その事を魂は何時も練習していたのである。そして、この練習こそは正しく哲学する事に他ならず、それはまた、真実に平然と死ぬ事を練習する事に他ならないのだ。」(p79)
27、【哲学者は天上界に住まう 哲学者への報いはこの上なく美しい】
「最後に、際立って敬虔に生きたと判定された者たちについて言えば、これらの者たちこそが、あたかも牢獄から解放されたかのように、地下のこれらの場所から解放されて自由になり、上方の清々しい住まいに到達して、真の大地の上に住むのである。また、これらの人々の内、特に哲学によって十分に己を清めた人々は、それ以後の生においては、全く肉体から離脱した生を送り、これらの住まいよりももっと美しい住まいに到着するのだが、その住まいの有様を説明するのは容易な事ではない。今はその為の十分な時間もない。しかし、以上述べきた事柄の為に、我々はこの世において徳と知恵に預かる為に全力を尽くさなければならないのだ。何故なら、その報いは美しく、希望は大きいのだから。」(p167)
2007年12月23日から
2008年5月8日の間に
哲学一貫教育の一連の書簡を書いている
パリ旅行の思い出 2008/ 5/ 8 21:44
パリ旅行の思い出を書いて下さい。
この掲示板が皆様のパリ旅行の永久の思い出となるように
そしてこれからパリ旅行に行く人々の参考となるように
“花の都 パリ” 2008/ 5/ 8 23:52
4月26日から5月5日までの9泊10日の日程でパリに行って来ました。
今回でパリは3回目です。
1回目は、かなり昔の春、ギリシア、パリ、スイスの団体旅行の中での1泊2日、
2回目は、2004年9月18日から9月25日までの7泊8日の一人旅、
そして3回目は今回の一人旅と言う事になります。
パリは何時行っても素晴らしい。
“花の都 パリ”、
今回もまたそれを実感しました。
パリを“花の都 パリ”足らしめているもの、
その第一がマロニエの並木道。
今回は正に春爛漫、マロニエの白い花と赤い花が街中に咲き誇っていました。
秋は秋で、彩り豊かな枯葉が舞い降ります。
第二は19世紀の気品ある建物たちとそのスカイライン。
19世紀の気品ある建物たちとそのスカイラインがパリの青い空を浮かび上がらせます。
これらをバックにパリの花々が咲き誇ります。
第三が街々に点在する公園たち。
公園という公園で、パリジャン、パリジェンヌたちが想いの花を咲かせます。
そしてその回りでは天使と言う子どもたちが歌い舞い踊ります。
第四が哲学者としてのパリジャン、パリジェンヌ。
彼らは高校3年で哲学をみっちりと学びます。
街々に知恵の花が咲き出きます。
そして第五が芸術の華
これが為にパリは永遠に“花の都 パリ”と呼ばれるのです。
この華を味わい尽くす為には百回パリ旅行をしても味わい尽くす事は出来ないのです。
一枚の名画を味わうのに30分尽くしたとしましょう。さて何日かかるのでしょうか。
多分私は将来、時間が自由に成った時、60日間位のパリ旅行を数回繰り返すと思います。
私はそこで名画と向き合います。そして時にはオペラやバレエも楽しみます。
名画と向き合う事は名画を読む事。
それは一遍の詩を読む事であり、一冊の小説を読む事。
そこに楽しき思いと想いが広がります。
どうして一枚の名画を30分で味わい尽くす事が出来ましょう。
日本語ではなく韓国語 2008/ 5/ 9 23:38
Bateaux Mouches セーヌ川遊覧船である。
おのぼりさんが必ず乗る遊覧船である。
それぞれの橋を潜る毎に又名所を通過する毎に各国言語で解説がある。
フランス語、英語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語、
そしてアジアからは勿論唯一日本語、
と言いたい所が、そうではない。
アジアから唯一については間違いないが、それは韓国語。
橋を潜る毎に、名所を通過する毎に、
フランス語、英語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語、そして韓国語と続く。
韓国語は女性の優しい調べである。
しかし韓国語のアナウンスが聞こえる度に、何かしらひねくれた感情となる。
国民一人一人の経済力では、日本は完全に韓国に追い越されてしまった。
四年前、パリに行った時は、ルーブル、ベルサイユ等々有名な観光名所にいるアジア人は大抵日本人であった。
しかし今回はそうではなかった。
アジア人、ここで言うアジア人とは日本人、韓国人、中国人等、一目見てはその民族の差異を見つける事の出来ない東アジアのアジア人の事を言う事にするが、
そのアジア人の半分以上、場合によっては5分の3以上は韓国人であった。
有名な観光名所には、大型観光バスから韓国人の団体客がどしどし流れ込んで来ていた。
しかし今回のパリ旅行においては、大型の観光バスから流れ込む日本人団体客を見る事はなかった。
個人旅行にしても1対2、若しくはそれ以上の比率で、断然に韓国人が多い。
私が海外旅行を始めたのは五年前からである。
最初は韓国であった。
その時は思った。
韓国は物価が安いと。
日本の5分の3から4分の3位かと。
それから韓国には毎年の様に行っている。
最近は昨年の春に行った。
もう割安感は無かった。
もう日本と変わらないと
(勿論食事などに未だ割安感はあるが・・・)
物価と言う意味ではパリもそうである。
四年前パリに行った時はそれほど高いとは思わなかったが、
今回は物価が桁外れに高いと思った。
マグドナルドのビッグマックセット(ビッグマック、ポテト、コーラ)が6.1ユーロ、
976円(6.1ユーロ×160円)
パリの物価はずばり日本の1.8倍、場合によっては2倍
これでは日本人はパリにはそう簡単には行けない・・・。
かつて東京は世界一物価が高いと言われた事もある。
その時は、東京は1.8で、パリが1で、ソウルは0.5だったのかも知れない。
その時は、確かに日本人が大挙してパリに押しかけたのかも知れない。
しかしそれはもう遠い昔の夢。
日本人はあまりにも安さを追求し過ぎた。
そして便利さ(コンビニエンス)を。
その為に、日本人一人一人の経済力は、もうトップとは呼ばれない。
韓国よりも少し劣る位と考えた方が無難だ。
その表れが、Bateaux Mouches。
彼らはいち早く、各国国民の経済力を比較する。
日本はあまりにも労働力を安く買い叩いた。
日本のトップ企業は、世界でのトップ企業かも知れないが、
日本国民一人一人の経済力は韓国よりも少し劣ると考えた方が無難だ。
誰が日本をこんなにした?!
それは貴方方だ。
貴方方はあまりにも便利さ(コンビニエンス)を追求しすぎた。
それは片方の日本人を奴隷化する事に他ならなかったのである。
レジデンス ホテル 2008/ 5/10 18:47
今回はレジデンス ホテルに泊まった。
「Citea La defense Charras」である。
La defense地区にある。
La defense地区と言っても知らない人は知らないだろうから、少し解説をしておく。
かの有名な凱旋門から西北西約4kmの所にある大規模開発地区である。
新宿副都心を思い浮かべて頂ければそれで良い。
高層ビルが林立する。
そこには超一流企業が入っている。
また大規模ショッピングセンターもあり、交通の要所でもある。
地下鉄1号線、高速郊外鉄道RER-A線、国鉄SNCF、路面電車トラム2号線、それに大規模バスセンターがある。
地下鉄1号線は知る人は知っていると思うが、パリのど真ん中を走る地下鉄である。
La defenseを始発として、ブーローニュの森の入口のマイヨ門、凱旋門、シャンゼリゼ、コンコルド広場、ルーブル美術館、パリ市庁舎、バスティーユ広場経由してかのバンセンヌの森のバンセンヌ城へと続く。
この1号線を利用すれば、パリ市内のほとんどの観光名所には歩いて行ける。
それから国鉄路線も優れものである。
この国鉄路線はサンラザール駅を始発とし、当La defense駅を経由して、ベルサイユ駅に向かうものである。
ベルサイユ駅までは20分以内で行ける。
私もこれを利用してベルサイユへ行ったが、行きは18分程度、帰りは20分程度であった。
何故行きが早かったかと言えば、分岐のサンクルー駅まではノンストップだったからである。
また路面電車トラム2号線も優れものらしい。
セーヌ河畔を走るとの事。今回は私は乗らなかったが・・。
それからこのLa defenseは知る人は知っていると思うが、ここには現代の大凱旋門(Grande Arche)がある。
故にLa defenseはパリの観光地ともなっている。しかし私は誰が凱旋したのかは知らない。
La defense地区は、平日はスーツ姿のエリートパリジャン、パリジェンヌが闊歩し、
週末には、Grande Arche辺りに観光客が屯する。
このGrande Archeには9ユーロ(9×160=1,440円)でエレベーターで昇る事が出来る。
東側にパリの市街地を一望できる。
私はこのLa defense地区にほど近い「Citea La defense Charras」に泊まった。
Citeaはフランス国内に59のレジデンスホテルを展開している。
私は今回Citeaのパンフレットを持ち帰って来ているので、知りたい人があれば教えましょう。
それに依ると、私の泊まった「Citea La defense Charras」は、
ホテルとしては1泊80ユーロ、
レジデンスとしては1泊62ユーロ(7泊以上)、
朝食は別で7,5ユーロとなっている。
施設としては、24時間受付、衛星テレビ、高速インターネット接続可能、直通電話、プール、24時間使用可能なランドリー有り等々となっている。
私は9泊であったので、レジデンス料金適用である。
レジデンスと言っても、毎日ハウスキーピング(ベッドメーキング、タオルの入れ替え、清掃)をして呉れる。
なお、パンフレットによると、長期滞在の場合は、毎日のハウスキーピングと週1回のハウスキーピングを選択出来るとの事。
週1回のハウスキーピングを選択すると、宿泊費が安くなるらしい。
朝食はパンが4種類(フランスパン、クロワッサン、アップルパイ入りパン、チョコレートクリーム入りパン)、フレークが数種類、ラスク、牛乳、オレンジジュース、りんごジュース、ホットミルク、コーヒー、紅茶、プレーンヨーグルト、果物入りヨーグルト、バター、ジャム等であった。
さて、私の泊まった部屋を紹介しておこう。
建物は17階建て位だったか?
私の部屋は7階である。
ベランダがある。(なおベランダの無い部屋もあったようである。)
部屋の前は大通り公園。部屋の前には街路樹の大木の梢が少しっかかっている。
部屋は15畳程度か。俗に言う1Kか。
ベッドはダブルベッド。
机は二つ。デスク机と食卓机。
キッチンには二つの電子コンロと電子レンジと小型冷蔵庫。
キッチンの収納棚には鍋やフライパン等、収納スペースは結構ある。
風呂は60㎝位の深さのバスタブ?とシャワー。
多分バスタブ?は部屋での洗濯用タブか。
洋服棚は十二分。20着以上掛けられる。その上に収納スペースがある。
以上であるが、パスポートの有効期間90日位は十二分に暮らせる。
2000字を超えたので「レジデンスホテルその2」に続く。
レジデンス ホテル その2 2008/ 5/10 19:04
「レジデンスホテル」からの続き
さて、私の泊まった部屋を紹介しておこう。
建物は17階建て位だったか?
私の部屋は7階である。
ベランダがある。(なおベランダの無い部屋もあったようである。)
部屋の前は大通り公園。部屋の目の前には街路樹の大木の梢が広がっている。
部屋は15畳程度か。俗に言う1Kか。
ベッドはダブルベッド。
机は二つ。デスク机と食卓机。
キッチンには二つの電子コンロと電子レンジと小型冷蔵庫。
キッチンの収納棚には鍋やフライパン等、収納スペースは結構ある。
風呂は60㎝位の深さのバスタブ?とシャワー。
多分バスタブ?は部屋での洗濯用タブか。
洋服棚は十二分。20着以上掛けられる。その上に収納スペースがある。
以上であるが、パスポートの有効期間90日位は十二分に暮らせる。
60日暮らすとなると。
62ユーロ×160円×60日=595,200円となる。
La defense地区はイル・ド・フランスであるが、同じイル・ド・フランス内で、レジデンス1泊41ユーロと言うレジデンスホテル「Citea
Champs-sur-Marne」がある。
ただしこのレジデンスホテルの場合、インナーネットの接続等がない。
それでも良ければ、
41ユーロ×160円×60日=393,600円となる。
パリ60日を400,000円+格安航空券+日常の生活費(物価高ではありますが・・)で暮らせるのなら、そんなに高いものでもありませんよね。
「Citea Champs-sur-Marne」データ
住所 9 bis,boulevevard Copernic-77420 CHAMPS-SUR-MARNE
電話 01 64 61 97 00
Fax 01 64 61 97 01
Net champs.meunier@citea.com
交通 RER:ligne A4、Noisy-Champs 駅より300m 4ゾーン
Noisy-Champs→(3駅)→バンセンヌ→ナシオン→リヨン駅→ノートルダム→シャトレ→オペラ→ドゴール広場→La defense
7つ目の駅でパリのど真ん中(ノートルダム)に着く。交通の便としてはそれ程悪くはない。
ゾーン1-4までの1ヶ月定期87.60ユーロを購入して、ベルサイユ宮殿までも行きたい放題。交通費は87.60ユーロ×2ヶ月=175.20ユーロだけでOK。
グーグルマップ・写真で見たが、駅から6~7分程度。かつ閑静かつ緑豊か。かつ日当たり良好。
ホテルからパリ市庁舎までグーグルマップ上の直線距離で17km。
※ 長期滞在をお考えの方、是非この「Citea Champs-sur-Marne」を利用してみて下さい。
お徳だと思いますよ。
もしお二人で行けば宿泊費は半分、生活費も自炊をすれば大分安くで出来ると思いますよ。
哲学の授業について lorbeerblatさんへ 2008/ 5/10 23:38
lorbeerblatさんへ
返信ありがとうございました。
そしてはじめまして。
lorbeerblatさんは、ひょっとしてフランスの方ですか。
そうでしたら、話が尽きるまで話し合いましょう。
私は、フランスが大好きです。
と言っても、それはパリの事なのですけど。
何故なら、パリ以外のフランスの事を知らないからです。
私は、パリの街並みを歩いて何時も思います。
何と言う素敵な街だと。
その理由をと問われれば、一つ目には整然とした街並みである事、二つ目にはプラタナスの並木道、三つ目には街のあちこちにある公園、四つ目には19世紀の気品のある建物とその建物たちが作るスカイライン、そして最後、五つ目は何と言ってもパリジャン、パリジェンヌと言う事になるのでしょうか。
私は思います。
現在の世界で最も成熟した民はフランス人だと。
そしてその中心に、パリジャン、パリジェンヌが居ると。
パリジャン、パリジェンヌが居るからこそ、フランス人も成熟の民であり得ると。
パリジャン、パリジェンヌはデカルト、ルソーに始まる近代フランスのエスプリをそのままに引き継いでいる。
それはパリと言う街がなければ出来得なかった事。
パリジャン、パリジェンヌはフランス近代の歴史をそのままに引き継いでいるのである。
近代フランスは、オスマン知事のパリ大改造計画で完成する。
現代のパリは、その近代の完成形であるパリをそのままに引き受けているのである。
その中で、パリジャン、パリジェンヌに近代の精神の息吹がそのままに息づいているのである。
そして、その息吹を国家で守り続けているのである。
その政策こそが、高校3年で行う哲学の授業である。
高校3年で行う哲学の授業で、生徒たちに近代フランスのエスプリを吹きかける。
ここに近代フランスのエスプリを持つパリジャン、パリジェンヌが生まれるのである。
そして、そのエスプリは全ての高校3年生へと広がって行くのである。
パリと言う街が無ければ、高校3年で行う哲学の授業もそれほど効果はなさなかっただろう。
我々がパリに集うのは、あの近代フランスのエスプリに出会う為なのだ。
ベルサイユに、ルーブルに、オペラに、バレエに、そしてパリのこの街並みに何を求めているのか。
それは紛れも無く『近代フランスのエスプリ!』
そしてその精神を引き受けているのがパリジャン、パリジェンヌと言う事になるのである。
だから敢えて“La Defense”に行くお馬鹿さんなど居ないのだ。
“La Defense”は現代世界。
“La Defense”に行くなら東京に行こう。いやいや上海に行こう!となるのである。
東京人は現代精神を持つ人々。
上海人は更にその上を行く。
しかしパリジャン、パリジェンヌには近代のエスプリ(精神)が未だ宿っているのである。
京都人を見れば少しは分かるだろう。
しかし日本は無策だ。
日本においても徹底した哲学の授業を行えば、大和魂も再生するだろうに・・・。
フランス通の人々も知らないかも知れませんが、フランスでは高校3年の時に徹底した哲学の授業を行うのです。
これまでの学習の総括として。週に6時間から7時間かけて、そして徹底して。
そして大学の受験で「哲学」が課せられるのです。
日本の皆様、これでパリジャン、パリジェンヌがどうして成熟しているか分かりましたか。
日本の高校3年生に聞いてご覧なさい。
「哲学とは何と?」
百人中99人が
「????」
これが日本の現況です。
私は今回の旅では、高校3年生の哲学の授業の効果も見ようと思ったのですが、
全てが未だ物珍しく、やはりまた物見遊山に終わってしまいました。
lorbeerblatさんへ話が飛んで済みませんでした。
もし、lorbeerblatさんがフランスの方なら、高校3年生の哲学の授業の事について話し合えたらとても嬉しく思います。
これは メッセージ 5 lorbeerblat さんに対する返信です
フランスの大学生 tokororagimiさんへ 2008/ 5/11 10:44[
tokotoragumiさんへ
返信ありがとうございます。
そしてはじめまして。
知っています。
1976年に筑摩書房から4巻セットで出版されています。
その内訳は次の通りです。
哲学講義1 認識1
哲学講義2 認識2
哲学講義3 行動1
哲学講義4 行動2
A5版で300~380頁だそうです。
今私も『日本の古本屋』で確認しました。
これだけの内容を高校3年生で学ぶのです。
凄いと思いませんか。
週7時間授業だとすると、大学で言う所の8単位程度に相当する訳であり、
これだけの哲学の授業を受講している大学生は、哲学専攻科の学生を除いて、まずいないと思います。
日本の全大学生の内、約半数位が、精々2単位(90分授業で1年通期受講)を取得している程度ではないかと思います。
フランスの哲学の授業は単に講義だけではありません。
これらの内容を論文として纏め上げて行く所にその特徴があります。
そして大学受験で「哲学」が課せられるのです。
フランスの大学生の哲学能力が如何に高いか分かります。
そして彼らがパリジャン、パリジェンヌ、フランス人と成って行くのです。
日本人とフランス人の国民的成熟度が如何に違うか分かると思います。
尤も、フランスの高校3年生が全て、週7時間の哲学の授業を学ぶと言う訳ではありません。
俗に言う進学校の学生たちが学ぶのです。
少し前までは、その他の高校生については「哲学」の授業は無かったそうです。
最近になって、その他の学生たちも哲学を学ぶようになったようですが、週における授業時間数はかなり少ないもののようです。
週7時間の哲学の授業を受けているのはエリートだけかも知れませんが、しかし少なくともそのエリートたちには哲学的素養あるのです。
一方日本に目を転じて見ましょう。
日本のエリート言われる人たちの中で、哲学的素養のある人たちがどの程度いることでしょう。
それは政治家を見れば一目瞭然です。
フランスの大統領たちを見て御覧なさい。
彼らが如何に哲学的素養があったかを。
ドゴール、ポンピドー、ミッテラン、シラク
ただし現在の大統領は除きます。
何故なら彼は純粋なフランス人ではないからです。
彼には哲学的素養が足りないように思えます。
もしフランスに詳しいのなら、フランスの大学生の現況を教えて下さい。
これは メッセージ 10 tokotoragumi さんに対する返信です
待ち時間3時間 2008/ 5/11 23:30
5月2日(金)にベルサイユに行きました。
前回4年前もパスを持っていた為、それほど待つ事はありませんでした。
今回もそう言う事だろうと思っていました。
10時30分頃ベルサイユに着きました。
相変わらず、切符売り場には長蛇の列です。
また入場口と正門の半分位の所まで入場者待ちの列が出来ています。
当日券を買った人たちの列だなと、半ば憐憫の情を持って眺めました。
私は先ず案内看板を探しました。
入場口はこことこことここか。
パス所持者の入場口はここだな。
そう確認して入場口に向かいました。
しかし何処にもパス所持者優先の入場口などありません。
入場口は2箇所だけ。
1箇所は団体もしく障害者専用。
ここの待ち人は1~2団体位だけです。
ここでパス所持者も優先的に入場させてくれるのではないかと、目を凝らし、そして様子を少し伺いますが、その様な気配は全くありません。
私はもう一方の入場口に向かいました。
そうです、先程見た、正門までの半分位の所まで待人が並んでいた入場口です。
そこに確かに書いてありました。
パス所持者もここですよ と。
私は大急ぎでその列の最後に向かいました。
何とその列はもう正門を過ぎていたのです。
その後、整理員が列を正門から出ている列を構内の方へJ字型にして入れ込みました。
私のその列は、次にU字型になり、N字型になり、最終はW字型になりました。
列はほとんど進みません。
間を置いて、30~40人ずつ入れているのです。
これだと1時間は待たないといけないのかなと観念しました。
それでもほとんど進みません。
暫くしてからです。
40~50分は経っていたと思います。
入場券切符売り場の方にこれまたJ字型の長い列が何時の間にか出来ているのです。
今から切符買いですか。
ご愁傷様。
今から切符を買って、あのWの列の最後に並ぶのですか・・。
そこには日本人の女性2人組も居ました。
彼女たちも遅々として進まないのを同情して見ていました。
それからまた40~50分経ちました。
そこに新たな情報が入って来ました。
あのもう一方の列も入場待ち人の列だと言うのです。
すなわちあまりに多かったので、一つの入場口に二つの列を作ったのです。
後から来た目敏い人たちが、そこにあっと言う間に別の列を作ったのです。
本当はWの後に並ぶべき人たちが、別の新しい列を作ったのです。
一人アメリカ人の観光客が、整理員に文句を言っていましたが、彼らが請合う訳はありません。
フランスでは整理員であろうと誰であろうと、現場の者が最高決定者です。
私が長蛇の列の最後、すなわち正門を少し出た所で待ち始めたのが10時59分でした。
そして入場したのが、午後2時を少し過ぎていたのです。
ベルサイユを知っている人は知っていると思いますが、
入場口から正門までは精々150mです。
150mの列を待つのに3時間かかったのです。
はっきり言って、整理員の誘導ミスです。
同じ様な誘導ミスをその他に2回経験しまた。
その1回目はオルセー美術館でです。
4月29日(火)、雨の日の事です。
オルセーは月曜日は休館です。そして雨の日と言う事で、オルセーに観光客が集中したのでしょう。
オルセーにはパス優先の入場口がありますが、それでも結構並んでいました。
そして遅遅として進みません。
金属探知機が二つあるのに一つしか使っていませんでした。
並んでいる内に、雨がかなり強くなってきました。
列をWに折って、庇のある方に入れようとしたのですが、ここでまた列がばらけてしまったのです。
私は50人程飛ばされました。
さて、最後の誘導ミスです。
オルセーを1回目、ベルサイユを2回目とすれば、これが3回目です。
これは本当に致命傷になりかねない誘導ミスです。
※200時を超えたので「待ち時間3時間その2」に続きます。
待ち時間3時間 その2 2008/ 5/11 23:37
※ 待ち時間3時間からの続き
さて、最後の誘導ミスです。
オルセーを1回目、ベルサイユを2回目とすれば、これが3回目です。
これは本当に致命傷になりかねない誘導ミスです。
最終日空港での事です。
私の出発は午後9時です。
少し遅れてしまい、カウンターに着いたのが8時10分過ぎでした。
カウンターに行こうとすると、カウンターの入場口に居た男性が私を引き止めたので、
彼にEチケットを出し、航空券に変えて貰おうとしました。
彼は端末を叩いていましたが、その後、こう言うのです。
「遅すぎます。向こうの窓口に行って新たな予約をして下さい」と
私はあまり意味が分からず、彼が指し示す窓口の方に向かったのですが、全く要領が分からなかったので、またカウンターの入場口の方に戻って行ったのです。
そうすると、カウンターの入場口に居た女性が私をカウンターに誘導しようとすると、その男性がまたしゃしゃり出て来て、
「もう手続きを終わっているのです。彼には新たな予約の手続きをするようにと言ってあるのです。」
と言いながら、私をその窓口への連れて行くのです。
彼がその窓口の窓口嬢にその趣旨を説明します。
私は彼女に聞きました。
「今日の飛行機に乗れないのですか」と
そうすると、彼女はこう言います。
「もう遅すぎます。手続きは終わっています」
そして彼女は新たな予約の手続きを取り始めたのです。
私がそこで三度をお願いしました。
「どうにかなりませんか」と
彼女はKALカウンターと新たな予約の手続きを取り合っているようでした。
彼女は相手から聞かれてこう言っていました。
「手荷物はそれ程大きくはない荷物が2個です」と
それから相手からの回答があったのでしょう。
彼女はこうオウム返しにこう言いました。
「今日のフライトで大丈夫なのですか?」と
そして急いで私をカウンターに連れて行ったのです。
KALカウンターの女性は淡々と手続きを進めてくれました。
その途中、カウンターの入口で先程の女性と目が合いました。
私が肩をすくめると、彼女も「本当にねえ」という様な感じの表情をして呉れました。
この事件の元凶は、カウンター入口で私を誘導したあの男です。
多分手荷物の受付が終わっていたのでしょう。
しかし私の持っている手荷物は、肩から下げているバッグ一つと紙バッグ1個です。
そのまま発券して搭乗案内をすれば良かったのです。
実際、航空券を受け取ってから、搭乗口に着くまでは、数分しかかからなかったのです。
そして、未だ最後の十数人が搭乗中だったのです。
もし私があの男性の誘導のままにされていたら、私の損失は計り知れないものがあったのです。
先ず第一に「職場での信用」
そして数十万の航空券。
もし彼がKALの職員だったら絶対にこんな誘導はしなかった筈です。
何故ならKALの職員であれば相手の身になって考えるからです。
このエールフランスから委託を受けている男にとっては、それが遠く東洋から来た人間であろうと誰であろうと、唯、自分に課せられた職務を遂行すればそれで良いのです。
あの男性は多分は発券担当ではなく、カウンター入り口の警備を任されている者だったのだろう。
端末を叩いたのは受付の時間を確認したのだろう。
受付にも、航空券の受付と手荷物受付の時間がある筈である。
彼は手荷物の受付終了時間を見て、「遅すぎる」「手続きは終わった」と言ったのだろう。
9時発の8時10分カウンター入口着である。
発券カウンターにそのまま案内すれば、手荷物持込で、8時20分前には搭乗口に着いていたのである。
※「待ち時間3時間 その2」が200時を超えたので、「待ち時間3時間 その3」に続きます。
待ち時間3時間 その3 2008/ 5/11 23:39
※待ち時間3時間 その2からの続き
さて私はこれらの経験で何を言いたいのだろう。
それはこのフランスにおいては、と言うより日本、韓国等一部の例外を除けば、
それ程徹底した労務管理が行われていないと言う事である。
これを良いと捉えるか悪いと捉えるか。
私は「良い」と捉える。
すなわち現場に大きな権限と責任を与えているのである。
現場職員が最高決定者なのである。
これでこそ、現場職員も仕事に誇りが持てるのである。
日本の労働者はあまりにもマリオネット
そしてクレームが出ると管理部門は右往左往
フランス他では現場主義
クレームが出てもそれは現場で解決した筈だ、何故現場で解決しなかったか、
この弁がクレーム発言当事者に発せられる
フランス他では個人対個人 即決主義
日本の様に後で会社に苦情を入れるような事はないのかな?・・・
フランス他個人主義の西欧の方々どうでしょうか?
プチトリノの幻想的世界(ヴェルサイユ) 2008/ 5/13 23:32
ヴェルサイユ宮殿に入るのに3時間もかかった事は一昨日述べました。
私が入場した午後2時頃には、私の列はW字型に、そして反対の列もN字型になっていた訳ですが、その時ヴェルサイユに来て、切符を買い始めた人たちは、切符購入も含めて、一体何時間待たされて、何時に入場出来たのでしょう。
私がパス所持で3時間待たされた訳ですから、彼らが入場できたのは、閉門時間過ぎの6時過ぎ?、本当にヴェルサイユは平気で人を待たせます。
前回訪れた時に比べて、今回異常に多かったのは、メーデー連休(これは私の勝手な命名なのですが・・)5月1日(木、休日)、2日(金)、3日(土)、4日(日)の中日に当たっていた為、ヨーロッパ中からバカンスで訪れていた為ではないのでしょうか。
知る人ぞ知る人は教えて下さい。
さて、午後2時にヴェルサイユ宮殿に入場です。
先ずは、オーディオガイドを借りて、お決まりのコース、王の寝室、平和の間、戦争の間、鏡の間、王妃の間を巡ります。
本当は絵画を鑑賞しながらゆっくり回りたかったのですが、そんな時間はありません。
オーディオガイドを回し続け、その制限時間内であわただしく見物です
次は、1階の皇太子、皇女の部屋巡りコースです。
ここでは、オーディオガイドで部屋の名前を確認するだけで駆け足です。
後、絵画で巡るフランス歴史コースとオペラ劇場・チャペルコースが残っていましたが、こちらはあいにく閉館中でした。
閉館中で幸いだったのかも知れません。
もし、「絵画で巡るフランス歴史コース」が開館していたら、私はきっとそこに長居したでしょうから。
そうすれば、今回の旅行の中の白眉をも言える、あの光景に巡り会える事も出来なかったでしょうから。
ヴェルサイユは宮殿内も素晴らしいが、庭園もまた素晴らしい。
庭園を楽しむ為、宮殿内はどうしても駆け足にならざるを得なかったのです。
前回ヴェルサイユに来た時は結構庭園も楽しみました。
それぞれの池も巡り、迷路の様な刈り込みも楽しみ、グランドトリノも見物しました。
しかし前回のヴェルサイユの白眉は何と言っても、運河一周散策でした。
前回は大分時間があったのでしょう。
地元の人が散策するように、あの十字架の運河を、ゆったりまったり、一周散策したのでした。
その長閑な時間が私の記憶にくっきり焼き付いているのです。
さて、今回の白眉は何でしょう。
今回も池を楽しみ、迷路の刈り込みを楽しみ、運河を楽しみ、グランドトリノも見物したかったのですが、そんな時間はありませんでした。
今回はプチトリノに行ってみよう。
それが宮殿を後にした時の、私の決意でした。
先ずは宮殿前の庭の左手のテラスに行き、そこからスイス人の庭を見物です。
次に右手テラスに行き、そこからネプチューンの泉を見物です。
それから運河に向かって直進です。
本当は迷路の刈り込みの中に迷い込みたかったのですが、そんな時間はありません。
ラトナの泉、アポロンの泉を巡り、運河の突端につきました。
ここに看板が立っています。
プチトリノへの道はこちらですよと。
しかし私は運河にどうしようもない愛着があったのですね。
その近道を行かず、運河の右岸を真っ直ぐ歩き始めたのですね。
それから運河が直角に右に曲がる所で曲がり、そこからまた運河の右岸を真っ直ぐ歩き始めたのです。
さて、運河の右端の突端、そしてグランドトリノの入口に到着です。
6時前後だったと思います
運河を一周したい気持ちが少しはありましたが、それは時間的無理だろうと押さえ、グランドトリノの庭園に入りました。
グランドトリノの建物見学コースは当然ですが、閉館していました。
グランドトリノの庭園を足早に見学した後、プチトリノに向かったのです。
プチトリノ建物見学コースの入り口も閉まっていました。
やはり今回もプチトリノはお預けかと思っていた時、そのちょっと先に出口が開いているのを見付けたのです。
私はヴェルサイユ宮殿案内パンフレットで確認していたのです。
「プチトリノの庭園は終日見学が出来ます。」と言う案内を。
そこで、私は出口でしたが、そこから、プチトリノの庭園に入ったのです。
ここから、今回の私のパリ旅行の白眉は始まったのです。
そこは夢見物語の様な世界であり、幻想的な世界だったのです。
ヴェルサイユ アラカルト 2008/ 5/14 23:22
『プチトリノの幻想的世界』
プチトリノの庭園に入ったのが午後6時過ぎでした。
人影はほんの疎らです。
そこには小川が流れ、草原が広がっています。
草原には白い花が一面に咲き誇っています。
午後6時と言ってもパリでは未だ日は高いのですが、
その草原の白い花が辺り一面に深閑とした気配を漂わせているのです
草原の向こうに林が広がっています。
その林を抜けるとまた草原です。
その草原にも、また深閑として白い花が一面に咲き誇っているのです。
そしてその先に池があり、
その池のほとりに古きフランスの村が広がっているのです。
いきなり、そんな光景が広がればファンタスティックでしょう。
私は一人王侯になった気分で、マリーの村を楽しんだのでした。
『夕映えの大運河』
パリでの落日は午後8時30分過ぎです。
私は午後8時30分過ぎ、また運河の十字の中心点まで戻って来たのです。
そこからの夕日に映えるヴェルサイユ宮殿を楽しむ為だったのですが、もう日は落ちていたので、宮殿はそれ程の事はありませんでした。
しかし、反対の方向に目を向けた時、そこに大運河に映える真っ赤な夕焼けを目にしたのです。
この時期、こんな光景を目にする事に出来るのは万人に一人だと思います。
その理由は述べないで置く事にします。
『プラタナス並木の夕焼け空』
大運河の横には、大運河に沿ってプラタナスの二本の並木道が地平線に消えるかのように伸びています。
その並木道の背景が、真っ赤な夕日に染まっています。
これまた、こんな光景を目にする事の出来る人は万人に一人です。
何故って、その時間その庭園に居るのは私一人なのですから。
『ヴェルサイユの牧場』
ヴェルサイユ宮殿には大きな牧場があるのです。
そこには羊と牛が放し飼いにされています。
もう闇夜です。
羊は立ったままびくともしません。
牛はほんの僅かに動いています。
牧場の香りが闇夜に広がります。
私は市街地に抜ける門へと向かいました。
何と閉門になっているではありませんか。
私は門番にお願いして開けて貰いました。
日本の様な閉園の為の園内放送はないのですね・・
『私の為だけのヴェルサイユ』
以上の様な理由で、私は一人、私だけの為のヴェルサイユを楽しんだのでした。
本当の所を言うと私だけではなく、あと女性二人組が一組居たのです。
彼女たちは私に聞きました。
今何時ですかと。
多分9時20分前後だったと思います。
私が運河を後にして、出口に一直線に向かっていた時の事です。
私はそれからグランドトリノ、プチトリノ前の交差点まで行き、そこから右折して、牧場の横を抜けて、市街地へと通じる門に向かったのです。
彼女たちは未だ屯していました。
彼女たちは大きなリュックを担いでしましたが・・・
マルシェ 2008/ 5/14 23:28
『マルシェ』
今回初めてマルシェを体験しました。
それも二回も。そして二回とも偶然にです。
一回目は、サクス大通り(Av.de Saxe)です。
その日は5月1日メーデーでした。
この日はほとんどの公共観光施設は休みです。ルーブルもヴェルサイユも。
しかし私は思いました。
エフェルト塔は休まないだろうと。
そう言う訳で、その日はパリ街歩きとエフェルに決めていたのです。
シャンゼリゼ・クレマンソーで地下鉄1号線を降り、プチパレ、グランパレを左右に見ながら、アレクサンドル3世橋を渡り、アンバリッド広場、アンバリッド(博物館は休みでしたが、アンバリッドは開放していました。)を突き抜け、ブルトウイユ通りを真っ直ぐに歩き、ブルトウイユ広場で方向を転換し、ユネスコ本部、陸軍士官学校、マルス公園、エフェル塔、トロカデロ公園、シャイヨ宮へと向かったのですが、そのブルトウイユ広場から方向転換をしたそこの大通り、サクス大通り(Av.de
Saxe)で朝市が行われていたのです。
私はそこでちょっと不思議な感覚に陥ったのです。
フランスの様な先進国で、屋台で魚や肉を売るなんて と。
魚や肉も結構な品揃えですが、余ったらどうするのだろうなどと思ってしまいました。
冷凍、冷蔵施設が無い訳ですから・・・
二回目はSNCFヴェルサイユ右岸駅からヴェルサイユ宮殿に向かう途中でです。
ここのマルシェはかなり大きなもので、屋台市場と常設市場からなっていました。
間違いなく、ヴェルサイユ一のマルシェだったと思います。
屋台が百軒近く、常設も数十軒、
一番人気は常設市場のある魚屋さんでした。
そこには数十人が並んで待っていました。
魚屋も肉屋もチーズ屋も乾物屋も野菜屋も本当に種類が豊富。
日本のスーパー・デパートも顔負け。
豚の面、それから鶏はとさか付き、フランスのお母さんは肝っ玉。
特徴その1、野菜屋は全て屋台。
皆さんもヴェルサイユに行く時は、このマルシェを見学したら良いと思います。
しかしヴェルサイユへの到着が遅れれば遅れるほど、長蛇の列は覚悟しなければならないのかも知れませんね。
パリ旅行 アラカルト 2008/ 5/15 23:35
『お葬式または最後の儀式』
アンバリッドの中には教会があります。
私はパイプオルガンの音に誘われてその教会の中に入っていったのです。
何かの儀式が始まる前でした。
大きな十字のマークが前と後ろに付いた介護服の様なものを着た年配の女性たちが、
それよりも更に年配の男性たち、半分以上は車椅子に乗っているのですが、
その人たちを世話しながら、座席につかせるか、車椅子のまま適当の場所に寄せていました。
そして、祭壇の手前の右側に、一人の年配の男性が横を向いて、車椅子のまま座っていました。
年配の男性たちが、ほとんど一人ですが、世話役十字の付いた服を着た年配の女性たちに誘われて、どんどん集ってきます。
その様子を見ていくうちに、これらの男性老人たちが老人ホームに入居している人たちだと理解するようになりました。
今思うと、アンバリッドの前進は廃兵院として作られたと言う事ですから、彼らはアンバリッドにゆかりのある退役軍人の為の老人ホームに入居している人たちだったのかも知れません。
今その様に思うと、彼らの風貌にはその様なものがあったような気もします。
特に祭壇の手前の右側に横を向いて、車椅子のまま座っているその男性は、年は取っているが、かなり精悍なイメージを受けました。
ある十字の服を着た年配の女性が、その男性の顔を、よく外人が遣るように、撫で回していました。
しかし、その男性はぴくりともしません。
私は教会の一番後ろの席に座っていたので、その表情とは読み取る事が出来ませんでしたが、何とダンディと思うと共に、少し不思議に思いました。
そして私は思ったのです。
彼はあのように精悍には見えるが、痴呆なのかと
それにしては精悍すぎる
ではもう重病なのか
それにしてもぴくりともしない
人々がどんどん集ってきます。
私がそこを出ようとした時には未だ集りつつありましが、50人近くにはなっていたと思います。
そして教会の入り口では軍人が番をして、観光客が入らないようにしていました。
祭壇では、神父さんが儀式の準備をしていました。
私は思いました。
この儀式はあの精悍な年配男性の為の生前最後の何か特別な儀式なのか、
それともあの精悍な先輩男性の為の葬式だったのか。
何しろ、私は二十分以上もそこに居たのですが、その男性は姿勢を崩さず、車椅子に座ったまま、遠目ではありましたが、ぴくりとしなかったからです。
フランスではあのようにしてお葬式をするのですか。
一人の老人の為にあのように多くの人が、しかも老人ホームに入っているような老人たちが、何人もの介護レディに付き添われて集ると言うのは、葬式しか考えられないのですが、どうでしょう。
知る人ぞ知る人は教えて下さい。
しかし死人だったら、車椅子にそのままの姿勢を保つと言う事は出来ないのかもしれませんね。
一体何の儀式だったのでしょうね。
『カメラを落としちゃった』
シャイヨ宮前のトロカデロ広場は、エフェルト塔の絶景ポイントです。
ここに観光客たちは屯し、そして記念撮影に興じます。
ある外国から来た仲良しこよしの二人組みの少女です。
写真を撮っても貰えませんか。
勿論OK
私の写真の腕前は結構なものだと思います。
構図を決めて、パチリ。
カメラを相手に返したその次の瞬間、私の手がカメラの紐に引っ掛かって、カメラが落ちてしまいました。
そのカメラの持ち主の少女は
「心配しないでください。大丈夫ですから」と言っては呉れましたが・・・
私は急いでトロカデロ広場を去りました。
去る間際に振り返ると、少女たちが、二人でカメラを覗き込みながら、何やら操作していました。
少女たちよ、ご免なさい
パリ旅行 アラカルト その2 2008/ 5/15 23:39
『シャトレーの女性ロッカー』
地下鉄の駅の構内でミュージシャンが演奏しているのは、パリではお馴染みの光景ですよね。
しかし私は思いました。
4年前よりも幾らか少なくなっていると。
そして、車内でのゲリラ演奏、4年間前には大分目にしました、今回は皆無でした。
車内演奏については、あの大統領のお陰で規制が入ったのですかね。
あの大統領にはフランスパリのエスプリが本質的な所で理解できていないのです・・。
しかし構内演奏は、幾分少なくなったとは言え、ある程度はありました。
その中で今回の傑出は、シャトレー駅構内の女性ロッカーです。
白人と黒人のあいの子なのでしょうか。
凄い声量なのですか。
余裕があるのです。
そしてギターがまた物凄く上手い。
馴染みのロックの歌を数曲繰り返して歌うのですが、
私は曲名を言う事は出来ませんが、
それはそれは上手いのです。
大声量ロックなのに、ゆったり聴けるのです。
(勿論マイク無しですよ)
パリにお住まいの人なら知っていると思いますが、
駅構内のミュージシャンに人が集る事などありませんよね。
しかしその女性ロッカーの回りには、若者が数名取り囲んで踊ったり拍子を取ったり、
そしてその回りに壁に沿って取り巻きが数人、
更に50代の夫婦が足を止めて、その内の妻がお顔でリズムを取ったり、
とにかくそんな凄い女性ロッカーです。
シャトレーは乗り換え駅です。
私は三度ほど聴きました。
しかし一二曲だけ。
私もおのぼりさん故、ゆっくり鑑賞する時間はなかったのです。
日本ではあれほど上手く歌える女性ミュージシャンはいないと思います。
宇多田ヒカルの声量、上手さ、余裕度を2倍ほどにしたものか・・
しかし日本人女性シンガーの様な情緒性はない
からっとした、地中海ロックか?
『修学旅行』
私の泊まったレジデンスホテル「Citea La defense Charras」は、修学旅行のご用達でもあるらしい。
1フロアー30室くらいの17階だから、500室程度となり、結構な収容量ではある。
二日間修学旅行に当たってしまった。
お陰でホテルでの朝食が取れず、La defenseの構内で朝食をとる羽目になり、その後の生理が狂ってしまった。
勿論私は男性なので、その生理ではない。
規則正しく朝食を取れば生理もスムーズに流れる。
しかし一旦リズムが崩れると生理も崩れる。
便秘になってしまったのである。
その修学旅行の生徒たちは多分中学3年生位。
高校生にしては少し幼かったように思う。
地方の生徒なのだろう。
有色人種は一人も居なかった。
『パリジェンヌの歩きタバコ』
パリジェンヌはよくタバコを吸う。
それも歩きタバコで。
そしてそれが様になっている。
タバコがパリジェンヌの一つのシンボルになっているらしい。
パリジェンヌのタバコは細いタバコでなければならない。
それでこそパリジェンヌの優美さが演出される。
日本女性の太巻きタバコは野暮ったい
『成人映画』
12時を過ぎてホテルに着いた。
テレビを付けた。
成人映画が飛び出してきた。
勿論何のぼかしもない。
見たくはなかったが15分ほど見た。
からっとしており、陰湿さはない。
しかし私は思う。
性産業に従事する女性たちは可愛いそうだと。
どうにかならないものか。
『クリシー大通り』
ソウルにも釜山にも北京にも上海にも台北にもローマにもロンドンにも歌舞伎町は無い。
しかしここパリには厳然としてある。
それがここクリシー大通り。
この通りを抜ける間に何度声をかけられた事か。
※ロンドンのあの通りもここほどではない。
パリ旅行 アラカルト その3 2008/ 5/15 23:43
『ベリー・グッド』
モンマルトルの肖像画絵描き。
彼らの手になると女性が美しくなる。
モンマルトルのそれは、似顔絵などではない。
立派な肖像画だ。
ここにおいて、絵描きはその女性の美しさは百パーセント引き出す。
その絵描きが描いた女性こそ、その女性が本当に持つ美しさなのだ。
中学1年生位のアメリカの少女の肖像画が出来上がった。
そのアジア人の絵描きは少女にその肖像画を見せた。
少女は『ベリー・グッド、ベリー・グッド』と2回叫んだ。
満面の笑みを浮かべて・・。
お母さんが30ユーロ支払った。
あるフランスの中年の女性も描き始めてもらった。
幾らかの注文を付けて、何気なく。
彼女はそのようにして、ここに来て自分の美しさを再確認するのだ。
それが彼女の楽しみとなっている。
大和撫子よ
貴方も描いて貰いなさい。
貴方の本当の美しさを認識する筈だ。
しかし黒髪でなければならない。
茶髪の大和撫子など居る筈が無い。
カルト ミュゼからパリ ミュージアム パス 2008/ 5/16 22:07
zzz516さんへ
返信ありがとうございました。
パスとは「パリ ミュージアム パス」の事です。
以前は「カルト ミュゼ」でしたが、今は「パリ ミュージアム パス」に変わっています。
今回パスを持てって良かったと思われる施設は、ヴェルサイユ、オランジェリー、オルセー、ルーブル
ヴェルサイユはパスを持っていなかったら、多分4時間以上待たされた事になっていたと思います。切符売り場にも相当並んでいましたから。
なお、4年前にヴェルサイユに行った時は、確かにパス専用の入場口があったと思います。
メーデー連休で、ヴェルサイユの人たちも休みに入っていたのですかね・・・
オランジェリーとオルセーにはパス専用の入場口がありました。
1時間近くは時間の節約になったと思います。
それからルーブル
私がパリに行くのはルーブルがあるから
ルーブルにはパスを使って3度入りました
これは メッセージ 23 zzz_516 にさん対する返信です
パリ モンマルトの思い出へ 左岸さんへ 2008/ 5/16 22:43
a sagan bonjourtrsitesseさんへ
返信ありがとうございました。
そしてはじめまして。
これからもどうぞよろしく。
パリの事、その他色々話せたら良いですね。
先ずはご挨拶まで。
これは メッセージ 22 s_agan_bonjourtristesse さんに対する返信です
パリ旅行 アラカルト その4 2008/ 5/17 0:07
『Huchette通りからHarpe通り(パリの繁華街)』
パリの繁華街と言えばシャンゼリゼ通り
パリの歓楽街と言えばクリシー通りと言う事になるのでしょうか
私は昭文社のパリ地図を持っています。
4年前、パリに行く時買った地図ですが、
4年前も今回も大活躍でした。
ホテルを出る時持参するもの、それは財布とパスポートとこの地図だけ
この地図のお陰でパリの地理が大分理解できるようになったと思います。
今自分が何処を歩いているのか分からなくなった時、
この地図を見て自分の居場所を確認すると共に、パリの地理を確認するのでした。
この地図は、片面には3万分の1のパリ市街図(ヴェルサイユ辺りまで)、もう一面には1万分の1のパリ中心図があります。
特に1万分の1のパリ中心図が優れものです。
この地図には繁華街がピンクで色分けされています。
私はこのピンクを目当てに、それぞれの繁華街に行ったのですが、どうもピンと来ないのです。
確かにシャンゼリゼ通りは何時行っても賑やかです。
私は毎夜、シャンゼリゼ通り(ロンポワンから凱旋門まで)を歩きました。
夜の10時、11時でも結構賑やかです。
しかしその他の繁華街は夜行くとシーンとしているのです。
日本はそうではありませんよね。
新宿、渋谷、銀座、池袋、何処に行っても、何時行っても、人、人、人ですよね。
私はピンクの繁華街にはそれを期待して行ったのですが、何処でも肩透かしです。
そんな中で、一箇所だけ、日本にあるような、アジアにあるような、あの賑やかな街を見出したのです。
それが、Huchette通りからHarpe通りへと流れる一帯です。
ここではその狭い路地に人がごった返し、肩と肩が触れ合うようにして、人が流れて行くのです。
その賑わいは、新宿歌舞伎町を思い浮かべて頂ければ良いと思いますが、 しかし新宿歌舞伎町と決定的に違う事が一つだけあります。
それはそこには風俗営業(性産業)が一軒も無いと言う事です。
何故そこにそんなに人が多いのか。
一つはノートルダム寺院観光客がどっとこの路地に流れ込むからであり、
一つはカルティエ・ラタン、サン・ジェルマン・デ・プレすなわち学生の街の中心に当たるからです。
ここには日本料理店もあります。中国料理店もあります。
しかし何と言ってもここの一番人気はシシカバブーです。
私も一度食しました。
パリの繁華街で人の息使いを間近に感じられるのはここだけです。
その他の繁華街は皆、お澄まし顔、と言うより、夜行けばシーン
パリ旅行 アラカルト その5(公園) 2008/ 5/17 11:59
『公園』
パリの公園と東京の公園は徹底的に違うのです。
確かに東京においても、街々に、それぞれに在ります。
しかし、パリにはそれをはるかに上回る公園が在るのです。
そして、その性格が徹底的に違うのです。
確かに上野公園、日比谷公園、代々木公園等々は、パリのリュクサンブール公園、モンソー公園、ピュット・ショーモン公園に並ぶものなのかも知れませんが、その性格は違うのです。
東京で上述の公園に行くと言う事は、休日に遊びを決め込んで行きます。
ところがパリのそれは日常そのものなのです。
街々に設置されている公園ではその性格が尚更際立っているのです。
東京の街々に設置されている公園、それは児童公園以外の何ものでもありません。
そして公園で遊ぶ子どもたちも疎らです。
ところがパリのそれは日常そのものなのです。
勿論子どもたちもいますが、それ以上、と言うよりも大半は大人たちです。
新聞を読んだり、本を読んだり、ただ寛いだり、ベンチは何時も一杯です。
そして勿論母子連れも。
これは休日の風景ではありません。日常の風景です。
そして、朝も昼も夕方も。
何故この様な光景が生まれているのか、分かりますか。
純粋なパリジャン、パリジェンヌ、
すなわち旧市街に住むパリの人々は、誰一人として庭を持っていないのです。
旧市街の中に一軒家を作る事は許されていないのです。
すなわち、純粋なパリジャン、パリジェンヌは皆アパルト住まいなのです。
人間が緑を求める事は自然の欲求です。
何故、パリの公園が何時も人で一杯の理由が分かりましたか・・・。
本当にパリの人々は公園が大好きです。
休日のパリの公園に行って御覧なさい。
人、人、人です。
日本で休日と言えば、繁華街が人、人、人ですが。
パリでは公園が人、人、人なのです。
尤も人、人、人と言っても歩き回っている訳ではありません。
ある場所に陣取って、家族とそして気の会う仲間たちと会食団欒に時を費やすのです。
パリ旅行 アラカルト その6(白人アラカルト 2008/ 5/17 12:11
『80女に90男』
有名な観光地に行くと、必ず幾組かの80女と90男がいます。
古代ローマ時代の旅行家たちは、こう書きました。
ゲルマンには巨人族が住んでいると。
私は何時も思います。
80女と90男のカップルを見たり、
80女、90男の家族、グループを見たりすると。
かのゲルマン、ノルマンの国に行くとその様な人たちで一杯なんだろうなと
私も何時か、その巨人族の国に行ったみたいとは思っているのですが。
それでもやはり何か臆するところがあります。
『白人のデパート フランスパリ』
フランスパリは白人のデパートです。
ここではあらゆる白人のヴァリエーションを見る事が出来ます。
勿論80女に90男もいますが、時には50女に60男もいます。
髪の色にも、肌の色にも、瞳の色にも無限大のグラデーションがあります。
フランスパリは西欧で最も混血が進んだ都市なのです。
古代ローマの時代、ガリアは白色金髪長身ブルーの瞳の国でした。
しかし今ではそうではありません。
先ずは古代ローマが侵略します。
次にゲルマンが。
次にフン族の侵入を受けてスラブが。
次にノルマンが。
そして華やかりし黄金のパリ時代にはヨーロッパの全民族が。
ショパンだってそう、シューベルトだってそう、ピカソだってそう。
西欧の天才たちがパリに集結したのです。
そして今は今で東欧が。
(80女、金髪)ブルーの目がこちらを見ると
何かしら射られるているような、そんな感じさえ感じてしまいます。
しかし茶色の瞳には私は優しさを感じます。
パリジェンヌが白色人種の中では一番持て囃されるのです。
何故って、そこには白人人種の全ての要素が含まれているからです。
パリジェンヌに自分の遺伝子を確認できるからです。
我々黄色人種にとってもパリジェンヌを見るのは楽しみです。
それはパリジェンヌが白人女性のデパートだからです。
パリは紛れもなくヨーロッパの中心です。
ローマの印象、ずっばり言って置きましょう。
ヨーロッパの地方都市です。
勿論古代、中世、近世、近代と遺跡群を言うのなら世界一流ですが、
それらを全て払い除けて言うならば、やはりヨーロッパの地方都市です。
ローマは古代ローマ民族(イタリア人の意味)の血を色濃く引き継いでいると思います。
それほど混血は進んでいないと思います。
それは、我々が「イタリア人は・・・」と言う表現の中に表象されていると思います。
それはイタリア人の同一性の表象以外の何ものでもありません。
ローマには定住している有色人種はほとんど居ません。
経済的な理由もあると思いますが。
やはりイタリアローマ人と言う固有性が移民を阻んでいるのだと思います。
もし我々がローマに住めば、何時も外個人として見られます。
しかしパリではそうではありません。
私は何度、フランス人から場所を聞かれた事でしょう。
今フランスパリでは、白色人種を超えた混血が進もうとしていますが、
あまり進まない方が良いと思います。
何故なら長い歴史の中で培われて来たパリのアイデンティティが瓦解してしまうからです。
ここでは話は飛びますが、東アジアで混血が進んでいないのは韓国・朝鮮です。
我々も言います。
「韓国・朝鮮人は・・・」と
半島と言う地域性が、民族の純粋性を守ったのかもしれません。
なおアジアでの一番の長身族は韓国・朝鮮民族です。
この事は、私の持っている少し古い、平凡社の百科事典にも載っています。
韓国・朝鮮民族には長身の他に、民族の同一性を確認出来るフィギュアがあります。
日本人、これは徹底した混血民族です。
日本古来の民族が居たとしたら、その民族と韓国・朝鮮民族の徹底した混血民族です。
尤も、歴史が始ってからは、どこの国よりも純血を誇っています。
パリ旅行 アラカルト その7(ノートルダム) 2008/ 5/20 21:42
『ノートルダム大聖堂前広場の思い出(二人の少女)』
ノートルダム大聖堂前広場は何時も人で一杯です。
私は前回のパリ旅行の時はノートルダム大聖堂の中に入る事は出来ませんでした。
勿論私が楽しみとしていた塔にも上る事は出来ませんでした。
今回は必ず中に入ってみよう。
そして塔には必ず上ろう、そう決めていました。
その日、午前中からその時間までどこを観光したのかあまり思い出せませんが、
いえ、思い出しました。
その日のスケジュールは、こうでした。
コンコルドで地下鉄1号線を降り、先ずオランジェリー美術館に向かいました。
美術館は開いているのですが、午前中は団体だけ、個人は昼からだけだと言うのです。
それで順番をひっくり返して、その日二番目に予定していた、セーヌ川遊覧に向かったのです。
オランジェリーからセーヌ川の岸辺に降り、その右岸をコンコルド橋、アレクサンドル橋、アンバリッド橋の順に潜り、Bateaux Mouches(セーヌ川遊覧船)の乗船場からその遊覧船に乗ったのです。「日本語ではなく韓国語」の所でも述べたように。
尤も乗船場に着いた時、乗船まで40分もある事が分かったので、時間を無駄にしちゃいけない、そう思って、アルマ橋からジョルジョ・サンクス大通り、シャンゼリゼ大通、モンテーニュ大通り、そしてまたアルマ橋に帰る、黄金の三角商店街(私の持つ地図上からそのように命名しました。)を巡ろうと思ったのですが、ジョルジョ・サンクス大通りをシャンゼリゼ大通に行き着くまでに乗船時間が気になりだして、ジョルジョ・サンクス大通りを途中から引き返したのですが・・・
それからBateaux Mouches(セーヌ川遊覧船)に乗船です。
Bateaux Mouches(セーヌ川遊覧船)はパリを知る為には欠かせないものです。
始めてパリに行く人は必ず乗って下さいね。
尤も解説は、日本語ではなく韓国語ですけどね・・。
船を降りた時はもう12時をかなり回っていました。
それでオレンジェリーに向かったのです。
かなり並んでいます。
私は入場口を確認しました。
一列しかありません。
一人旅の日本人の女性がパスを見せながら何処に並べばよいのか聞いています。
誘導員は何やら言っています。
彼女はその長い列の最後に並びました。
私もその様子を暫く見た後、彼女より5人くらい後ろに並びました。
そうすると、私の直ぐ後ろにこれまた日本人の一人旅の男性が、パスを片手に並びました。
列は遅々として進みません。
20分くらい並んだのでしょうか。
私はもうオランジェリーは諦めました。
そして列を離れて、もう一度入場口に向かったのです。
そうすると、数人の男性たちが、頭、頭と言うような素振をして、その同じ入場口から入って行くのです。パスを見せながら。
それで私も彼らに倣ってパスで入場したと言う訳です。
『入場口は一つ、列も一つでも、パスを優先入場させる場合もありますので、安易に列の最後に並ばないように。直ぐに並ぶのではなく、入場口の様子をよくよく確認して下さいね。1時間は時間の節約になりますよ・・・。』
パスを示して入場した後であったので、彼と彼女には御免なさい。
モネの睡蓮はそれほどとは思いませんでしたが、
しかしやはりギョームコレクション(印象派以降ギョームの生きた1930年までの作品群)は優れものでした。
どれもこれも、名画全集等で目にするものばかり。
私の好きなアンリ・ルソーの作品も結構ありました。
(オーディオ・ガイドを使用した為結構時間も掛かってしまいました。)
それからルーブル美術館で昼食を取りました。
あのビュフェ方式のあのレストランで。
ここで記憶があまりはっきりしないのですが、
残りのフランドル、ドイツ、オランダ絵画部門を本当に駆け足で駆け抜けたのでした。
前にも言いましが、そして何時も言う事ですが、ルーブルを鑑賞し終えるには丸2ヶ月はかかると。
絵画を鑑賞するとは、絵画を読むこと、それは小説や詩を読む事一緒。
一冊の絵画を読むのに1時間かかったとしまししょう。
さて、ルーブルを鑑賞し尽くすのに何日かかることでしょう。
私は何時か、パリ90日の滞在旅行を敢行する予定です。
200字を越えたので『ノートルダム大聖堂前広場の思い出(二人の少女)その2』に続く。
パリ旅行 アラカルト その8(ノートルダム) 2008/ 5/20 21:52
『ノートルダム大聖堂前広場の思い出(二人の少女)その2』
さて、今日の目玉はノートルダム、そしてシテ島観光。
シテ島に渡りました。
先ずはコンシェルジェリー。
ここはパスでスルーパス、と言うよりも待ち列など出来ていません。
次はサントシャペル教会。
ここも今日の目玉です。
しかし相当並んでいます。
入場口で暫く様子を見ますが、パスの優先はないようです。
私はその長い列の最後に並びます。
しかし列は遅々として進ません。
時は3時30分を過ぎました。
このまま待って、サントシャペルに入れても、ノートルダムが間に合わない。
今回パリ旅行で楽しみにしていた、ノートルダムの塔にも上れない。
サントシャペルも相当に楽しみにしていたのですが、パス。
そしてノートルダムに向かったのです。
ここで私のノートルダムの記憶が二つに割れているのです。
ノートルダムには1回しか行っていない。
あの短い時間にこの二つの事が経験出来たのだろうかと。
無理に繋げれば繋げられない事もないようだが、それでもやはり一つだけ符号が合わない。
それはシテ島東端にある「強制収用所へ送られた人々の追悼記念碑」(これは今ガイドで確認したのであってその時は何の施設かさっぱり分からなかったのだが)への入場です。
そこに10人位並んでいました。
私はそこに行くまでも、ノートルダムの回りのあの公園や「強制収用所へ送られた人々の追悼記念碑」のある方の公園で相当に時間を費やしていたのです。
私はその時「強制収用所へ送られた人々の追悼記念碑」のある方の公園のベンチに座って寛いでいました。
その時、その列を整理していた人が、「もうここまでですよ」とか何とか叫んでいるのです。
それで私も急に興味が湧いて走ってその列の最後に並んだのです。
そうすると、その誘導員はもう駄目、私の前までだと言うのです。
しかし暫くして、私を見て、私までは良いと言って呉れたのです。
それでも結構待ちます。
その入場口の所に何やら、その施設の案内がありますが、あまり面白そうではありません。
列を抜けようと思ったりもしましたが、特別の計らいで私を列に入れて呉れた誘導員がそこに居るので抜ける事も出来ません。
今その施設名を見ると公共の施設の様な感じがしますが、
その時もやはりこれは国かどこか公共機関が管理している施設じゃないかと思ったのです。
私にはこれが戦争記念碑か何かに見えたのです。
と言うのは火を燃やし続けていたのと、
こんな小さな施設を整理するに数人がおり、そしてその人たちが如何にも兵士か公務員か何かそれに類する人の様に見えたのです。
そんな施設が午後7時まで遣っていたのかどうか。
遣っていたのである。
これで辻褄があった。
パリの落日は午後8時30分前後。
夕方以降の時間の観念が狂う事がある。
しかし午後7時まで遣っていたと言う事で辻褄があった!
さて、私はサントシャペルをパスしてノートルダムに向かいました。
そして直ぐにその中へと入って行ったのです。
私には大体分かっていました。
教会については、無料でかなり遅くまで開いており、
塔の方については、有料で閉門時間があると。
私はその積もりで教会の中に入りました。
そして塔への入場口を探すのです。
日本語で塔への入場口案内があります。
2000字を越えたので、『ノートルダム大聖堂前広場の思い出(二人の少女)その3』に続きます。
パリ旅行 アラカルト その9(ノートルダム) 2008/ 5/20 21:57
『ノートルダム大聖堂前広場の思い出(二人の少女)その3』
私にはその入場口が教会の中にあるように思えたのです。
それで少し安心して、ゆっくり教会の中を見て回ったのです。
絵画や彫刻やステンドグラスや中央祭壇やろうそくのたくさん灯してある人気のある祭壇や祈る人たちを眺めながらゆっくりゆっくり教会に中を見て回ったのです。
そしていい時間になったので、塔への入場口を探すのですが、教会の中には見付かりません。
それで案内看板を再度確認すると、教会の入り口を出た所にあると言うのです。
それで入り口を出てあちこち、右往左往して探しますが、中々見付かりません。
教会に向かって右側の鉄門が閉まっています。
そしてその中に数人の列が出来ていました。
もう閉まってしまったのか、と諦めて正面をぶらぶらしていると、
教会に向かって左側の後ろの辺りで、人の列が出来ていました。
私がそこに行くと数人の人たちと整理員の人たちが遣り取りをしています。
整理員が言います。
ここまでですと。
その数人に後から来た人も加わってどうにか入れてくださいよと
いえ駄目です。
そんな遣り取りをしている中、数人のおばさんたちが、その整理員と交渉し、列を飛ばして中に入って行きました。
遣り取りをしいた人たちは何やら文句を言っていましたが・・
私がそんな中に入れる訳がありません。
その時刻が5時30分か6時、多分5時30分ではなかったかと思います。
その後、ノートルダムのあの回りの公園をゆったりまったり時間を過ごしたのです。
砂場で遊ぶ小さな子どもたちをベンチに座って眺めたり、
ノートルダムをあらゆる方向から眺めたり、
アルシュベシエ橋ヤサン・ルイ橋の袂で歌う街頭シャンソン歌手の歌を聞いたり、
それから「強制収用所へ送られた人々の追悼記念碑」のある方の公園のベンチでまったりしたので、
午後7時でなければ辻褄が合わないのです。
そして、その間、結構陽が高かったので、先程の様な記憶違いをしたのだと思います。
しかしここに来て記憶が一本に纏まりました。
「強制収用所へ送られた人々の追悼記念碑」は午後7時まで遣っていたのです!
さて今日の本題はここからです。
ノートルダム大聖堂前広場の思い出です。
ノートルダム前の広場はかなり大きな広場です。
広場の途中に四五段の階段があり、その階段により前方、後方と言う形で広場が二分されています。
なお、その階段がその広場全てを仕切っているのではなく、階段は2箇所くらいで、残りは花壇になっています。
私は花壇の縁に座って、未だ陽の強い夕日を一杯に浴びたノートルダムを眺めていました。
そうしている時、私の前方の花壇の縁に、高校1,2年生くらいの少女が一人少しだらしなく座りました。
実を言うと私の座っている花壇の縁は、ノートルダムと垂直になっており、階段を隔ててある彼女が座った花壇の縁はノートルダムと水平なっているのです。
彼女はノートルダムに正面に向かう格好になり、私は階段を挟んで彼女に向かって座る事になり、否応無しに、彼女とノートルダムを交互に目を遣る事になったのです。
私には、彼女が何かしら観光客と係り合おうとしているのかなとも、見えたりしたものですから・・。
しかし、彼女は、「ノートルダム大聖堂前広場の思い出(二人の少女)」の主人公となる少女ではありません。
その二人の主人公は、三歳の少女と二歳の少女です。
その二人の少女は、その前方の広場を思い切り使って遊び回っています。
私には二人姉妹が物珍しくて、よく観光地などに連れて行って貰うと、何時もより嬉しくなってはしゃぎ回るではありませんか、あれだなと思って眺めていたのです。
2000字を越えたので、『ノートルダム大聖堂前広場の思い出(二人の少女)その4』に続きます。
パリ旅行 アラカルト その10(ノートルダム) 2008/ 5/20 22:01
『ノートルダム大聖堂前広場の思い出(二人の少女)その4』
先程述べたように、私は直接、ノートルダムに向き合っているのではなく、直接にはその前方の広場に向き合っていたのですから、その少女たちのはしゃぎぶりも否応なく、目に入ってくるのでした。
人が一杯いて、そして皆も楽しそうにしている、お父さん、お母さんも。
私たちも楽しまなくちゃ、勿論そんな意識はある筈はありませんが、
子どもたちは環境の影響を受けるのです。
小さな子どもたちを持っている人たちは良く分かると思います。
だから私も二人姉妹かと思ったのです。
ところが違うのです。
二人は今日始めて会ったのです。
二人とも、今の所一人っ子です。
三歳に成った女の子は、お姉さんになった気持ちで、
そして二歳になった女の子は、妹になった気持ちで、
友達を超えて二人姉妹になって、無我夢中で遊んでいるのです。
30分以上は遊び回っていたと思います。
私が二人が姉妹でないと分かったのは、二人が広場を越えて更に遠い所に行こうとした時、二歳の少女のお父さんが出て来て、またその前方の広場に連れ戻したからです。
その後、三歳の女の子はちっらちっらと二歳の少女の両親の方を見ていましたが、また元の二人姉妹に戻って、前方の広場一杯を使って、お姉さんぶりを発揮して、二歳の少女は妹になって遊び回っているのです。
しかし楽しい時間は何時までも続く筈がありません。
それぞれ、二人のお父さんとお母さんが出て来ます。
私がその花壇の縁に座り始めたのが、少なくとも午後7時30分過ぎではあったでしょうから、しかし未だ陽は沈んではいませんでしたが、少なくとも、8時20,30分もう帰る時間です。
しかし二人は帰りたくありません、未だ遊びたい。
三歳の女の子が少しぐずります。
三歳の方のお父さんとお母さんはしようなない子ね と言うような顔をしながらも、
それぞれのお父さんとお母さんは握手をしあって、それぞれに自己紹介をし合っていました。
それから暫くして、その6人組はそのまま、上の方の広場に移動しました。
そのまま帰るつもりだったのですが、
その花壇の後ろで、二人はまた土遊びを始めてしまったのです。
それぞれのお父さんとお母さんは仕方ないな、少し諦めて、四人でそれぞれに話をしながら、二人を見守っていました。
しかしそれとて何時までも続ける訳には行きません。
終に本当の別れが来ました。
強制終了です。
それぞれのご両親がそれぞれに少女を抱いて、二歳の少女を抱いた両親は私の目の前をと通って、前方の広場から左岸へと、
三歳の少女を抱いた良心は後方の広場から、こちらもまた右岸へと帰って行ったのです。
二歳に少女は、もう今遊び回った事をけろっと忘れています。
両親に抱かれて安心し切って帰って行きました。
しかし三歳の少女はそうではありません。
人差し指を咥えて淋しそうです。
私はその様子が楽しかったのでじっと彼女たちを見ていましたが、
私が彼女たちをあまり熱心に見ているので、
その高校1,2年の少女も時折、二人の少女に目を遣るのでした。
私に対しても、すこしちらっと。
そこにはちょっとした、ドラマがあったと言うべきでしょう。
パリ旅行 アラカルト その11 2008/ 5/24 13:16
『リヨン駅』
4年前始めてパリの町を踏んだ場所です。
駅に屯していたタクシーの運転手にホテル「Alcyon Bstille」までお願いすると近くて駄目だと言うのです。
初めてのパリの街を「Alcyon Bstille」まで歩いて行きました。
なお、今回は思い出の地と言う事と駅めぐりの一貫で再訪しました。
1階のレストランで夕食を取りました。
なお、2階には素晴らしいレストランがあるそうです。
『駅めぐり』
前回のロンドン旅行から始めているのですが、駅めぐりも私の観光のアイテムになっています。
今回巡った駅は、マネの絵画でも有名なサランザール駅、空港への発着駅の北駅、それにリヨン駅ともモンパルナッス駅。
モンパルナッス駅は、ロンドン行き超特急の発着駅と聞いていましたが、時間が無かった為、確認できませんでした。
ロンドンのパリ行きの超特急の発着駅、駅名は忘れましたが、その改札口に立った時、ちょっとパリに行ってみようと言う気持ちになったのを覚えています。
「パリ忘れ難く」だったのでしょうか。
『バスティーユ広場』
4年前のバスティーユ広場の思い出はトイレの思い出。
そこに行くまでもう我慢の限界。
地下鉄バスティーユ駅への入り口にトイレも見付けた時は感謝感激雨霰。
黒人の女性の受けの人に感謝の気持ちを込めて使用料金を払ったものです。
勿論今回も行きました。黒人の女性もいました。彼女が彼女だったのか分かる由もありません。
しかし私は彼女に使用料金は払いませんでした。
何故なら無料になっていたから。
日本語でも書いてありました。お金は要りません と。
全ての公衆トイレが無料になっていました。
私は何か腑に落ちないものを感じました。
これもあの新大統領の影響か。
日本式なしはアメリカ式コンビニエンスの影響か
自己責任、これがフランスのアイデンティティ。
私は4年前、我慢できずに地下鉄車内で、しっこを漏らす浮浪者風の男性を見たのでした。
『都市の背骨を歩く』
私は海外の都市に行った時は、必ず初日に、その都市の背骨を歩く事にしています。
パリで言えば凱旋門(シャルル・ドゴール・エトワール広場)からバスティーユ広場。
背骨を歩くと、一度でその都市(の骨格)を掴む事が出来ます。
これは4年前のパリ旅行で掴んだ極意です。
皆さんもそれぞれの都市の背骨を見付けて下さい。
そして歩いて見て下さい。私の言う極意が分かると思います。
尤もその前に地図で勉強しておかなくてはなりませんが・・。
『バスティーユ広場界隈』
確かにmontreuil47さんの言う通り、リシャール・ルノワール通りとロケット通りの間にかなり賑やかな一角がありましたが、Huchette通りからHarpe通りへと流れる一帯と比べると、その繁華では比べものになりません。
バスティーユ広場のその繁華街はやはりお上品です。
こにおいては肩と肩が僅かでも触れ合おう筈はありません。
もし触れ合おうものなら、パルドンを2回ほど言い合わなければならないでしょう。
しかしHuchette通りからHarpe通りはそうではありません。
日本流が通用するのです。
前回はその繁華振りを新宿歌舞伎町に例えましたが、肩が触れ合うと言う繁華で比較すれば、原宿竹の子通りです。
パリ旅行 アラカルト その12 2008/ 5/24 13:21
『オペラ・バスティーユ』
今回のパリ旅行の目的にオペラとバレエがありました。
バレエついては、旅行の初めの内に、オペラ・ガルニエでバレエの新作を見ましたが、不完全燃焼です。
何故なら、そのバレエは現代バレエで私の期待していたバレエではなかったからです。
そしてそのバレエが何よりも私を満足させなかったのは、電子音楽を使ってのそれだったからです。(内容はとても面白かったですよ。バレエは身体劇。言葉は不要。万国同じ尺度で鑑賞できる。)
と言う事で、旅行の中半はその切符確保に、オペラ・バスティーユの切符売り場に何度も足を運んだのでした。
皆さんにご案内して置きますが。オペラ・ガルニエでは開演中は切符を買う事は出来ませんが、オペラ・バスティーユでは午前、午後、夜の開演中でも切符を買うことが出来るのです。
と言う事で、オペラ・バスティーユでオーケストラを使った伝統バレエとオペラ「セビリアの理髪師」を遣っていたので、是非とも見ないといけないと言う事で足繁く通ったのですが・・・。
バレエは「初日」、オペラは「セビリア」、当日券がある筈など有り得ませんよね。
ところが皆さん、あるのです。
私は二回とも言われました。貴方はラッキーだと。
しかしどちらも一等席です。
それ以外は全て満席でした・・・。
『フラン・ブルジョワ通り』
バスティーユからボージュ広場、パリ歴史博物館、フランス歴史博物館、ユダヤ歴史芸術博物館、そしてポンピドー芸術文化センター、更にはフォーロム・デ・アル、如何にもパリらしい。
『ボージュ広場』
ボージュ広場(公園)は大人気。
世界一の密集度だ。
『パリ歴史博物館』
パリ歴史博物館は最高。
絵画でパリを知る。
芸術の都パリでしか有り得ない博物館。
一流の博物館であると同時に、超々一流の美術館。
『フランス歴史博物館』
フランス歴史博物館は期待はずれ。
しかしフランス語の出来る人。そして古文書に興味ある人なら最高。
歴史的に価値のある古文書が陳列(私はちんぷんかんぷん)。
もし更に古文書を調べたければ、同館棟続きの「国立古文書館」へどうぞ
『ユダヤ歴史美術博物館』
午前中に行ったら、午後から開館との事。
あの一帯にはユダヤ人が本当に多い。
どうして見分けたかって、あの小さな帽子。子どもから大人まで。
『国立近代美術館』
ポンピドー芸術文化センター内の、国立近代美術館。
私はパリに延べ19泊20日滞在しているが、未だ一度も行っていない。
今回は行こうと思って行ったが、午前中は閉館、午後から開館との事。
結局今回も行かずじまい。
『ピカソ美術館』
ガイドでは三ツ星になっているが、私的には一つ星。
ただしピカソの絵画制作風景の実録映画はグー。
このようにして、ピカソは絵を描いたのだ。
何とお気軽な事か。
『ポンピドー広場』
ポンピドー広場で黒人の若者が手品の大道芸。
これがまた大うけ。
最後には鳩が焼き鳥になってしまった。
食い入るようにして見ていた小さな子どもたちには何と映ったか。
私的には,途中は楽しんだが、最後はブラック・グレー。
ヒューマンユーモアで終われば、私もお賽銭を投げ入れたかも。
『フォーロム・デ・アル』
フォーロム・デ・アルは経年変化、大。うらぶれ。
時の最先端もこの様にしてうらぶれて行く。
そこに(経年変化を受け付けない)芸術がない限り。
フォーロム・デ・アルは現在改築中。
このようにしてどうにか命を永らえる。
地の利はやはり大きい。
コンプレックス(多チャンネル映画館)は、現在の所、世界共通の人気もの。
パリ旅行 アラカルト その13 2008/ 5/24 13:26
『サンマルタン運河?』
セーヌ川からバスティーユ広場までの堀の様なものがありますが、あれもサンマルタン運河ですか。
私の持っている地図、昭文社の地図もそうですし、地球の歩き方もそうですが、セーヌ川からバスティーユ広場まで堀のようになっており、バスティーユ広場からその先はリシャールルノワール大通りとなっており、レピュブリック広場の辺りからその先は確かにサンマルタン運河と標記さています。
あのセーヌ川からバスティーユ広場までの堀のようなものもサンマルタン運河なのですか。
あれもサンマルタン運河と言う事で更に質問ですが、バスティーユ広場からレピュブリック広場までは運河はどうなっているのですか。
道路の下を、大きな地下の下水道の様になっているのですか。
何故私がこのような質問をするかと言うと、サンマルタン運河遊覧船の乗り場がバスティーユとオルセー美術館にあると言うからです。
下水道の様な真っ暗な運河、照明はあるとは思いますが、全く趣のない遊覧だと思うのですが。一体あの区間はどうなっているのですか。
『セーヌからサンマルタンへ』
私はセーヌ川とサンマルタン運河(便宜上サンマルタン運河としておきます)を繋ぐ水門をサンマルタン運河の方から眺めました。
私は川と運河を繋ぐ水門と言うものを始めて見ました。
そして運河とはこのような構造になっているのかと。
セーヌ川と運河の水位の差は2メートル前後あります。
この2メートルで運河の水運を図っているのかと。
しかしその時、私は疑問を感じました。
この水門が開けばどうなるのかと。
一気に水がセーヌに流れ込むではないか。
そうなればどうなると。
その疑問が今また更に新たになりました。
セーヌ川のオルセー河畔からサンマルタン運河の遊覧船が出ていると言うではないか。
あの水門を開けて、遊覧船を通すのかと。
物理上無理ではないか。
水は高きから低きに流れる。
それが2メートルであれば、物凄い水流ではないかと。
きっと何かしら水位の調整の仕組みがあるのですよね。
教えて下さい。現場を目にした人があれば、実況をお願いします・・・。
『バスティーユの朝市(マルシェ)?』
バスティーユ広場から続くリシャールルノワール大通りは、大きな緑豊かな公園大通りと言った感じでしたが、地球の歩き方の地図に依ると、その辺りにバスティーユ市場と標記されています。
あそこで朝市が行われているのですか。
『サントゥスダシュ教会』
フォーロム・デ・アルの後方に大きなテラス公園があります。
そしてその前にドーンと大きな教会があるのです。
昭文社の地図によると観光名所扱いにはなっていませんでした。
勿論昭文社の地図は優れものですから、教会名は載っているのですよ。
しかしその教会はあまりにもどでかいのです。
今地球の歩き方で調べると、一つ星の観光名所なっていました。
『フランス銀行』
格式がある。
フランスの公共施設には必ずフランスの国旗が掲げられている。
あれは実にいい。
そしてそのどの建物をとっても格式は十二分。
これが歴史と言うもの。
『パレロワイヤル中庭の円柱』
パレロワイヤルには二つの中庭がある。
その南側の中庭には様々な高さの円柱が並んでいる。
腰掛としてグーなものから、人の高さを優に超えるものまで。
高校生の男子たちがその高い円柱に飛び乗ろうと果敢に挑戦していた。
『パレロワイヤル』
私がパレロワイヤルに着いたのはもう夕刻だった。
パレロワイヤルの部屋が一つまた一つと灯っていく。
何とパレロワイヤルはアパルトマンなのである。
それも超が三つ付く位の。
そしてその一番格が中庭に南面したアパルトマンの中心区画。
その造りは、超が三つ付く上の更に上を行く。
『パレロワイヤルの中庭』
パレロワイヤルのアパルトマンに囲まれた方の中庭。
これがまた素晴らしい。
何が素晴らしいかと言えば、これまたマロニエ。
マロニエの三列の並木が東西にそれぞれ一組ずつ。
その並木に挟まれたそこには芝生と池が二つ。
そしてちょっとした彫刻。
これだけだが、それで素晴らしい。
これまた芸術と言うのだろう。
パリ旅行 アラカルト その14 2008/ 5/24 13:28
『旧国立図書館』
現在閉館中。
新しい大統領に成った時、この図書館がまた美術館か博物館に変身する事だろう。
今の大統領にそんなセンスもないし、余裕もない。
彼は自分自身で精一杯。
『マドレーヌ寺院』
今回も前回も一度素通りしただけ。
何かしら縁が無い。
『オペラ・ガルニエ』
今回は四度足を運んだ。
一回目は夕刻。開演中。切符を購入しようとして中に入ろうとすると追い払われた。
二回目もまた切符を購入しようとして。閉門。夜。雨。
様々な人たちが雨宿りをしていた。
その中の高校生の一群。活発な女生徒が先生のほほにキッスしようとしての記念撮影。
高校生群像を楽しむ。
三回目も切符を購入しようとして。昼。無事現代バレエの切符をゲット。
四回目は勿論現代バレエ鑑賞の為。
3階桟敷席。定員は6名。それぞれの桟敷席にはドアがあり施錠されている。案内娘が開けて呉れる。天上にはシャガール。大シャンデリア。大階段。
なお、2回目雨の夜には、雨待ちの為、地下鉄オペラ駅のサンドイッチ店、有名なチェーン店、名前は忘れたでサンドイッチを食した。
地下鉄を流れ行く人を見ながら。
『現代バレエ(la Maison de Bernardaと Une sorte de…の二幕 )』
バレエは身体劇。
言語不要。
十二分に堪能。
現代バレエは美と意表。
意表をどこまで突けるかが勝負。
十二分に意表を突いて呉れた。
『プランタンとラファイエット』
プランタンとラファイエット、夜と昼一度ずつ、横を通り過ぎたがいずれも開いていなかった。
何時営業しているのか。
デパートでもお昼休みを取るのか。
一度はパリのデパートを経験してみたかった。
『サン・ラザール駅』
近郊路線の発着駅だ。
La Defenseを経由してベルサイユにも行く。
あのモネが描いたサン・ラザール駅そのままだ。
尤も蒸気機関車はいないが。
『凱旋門』
前回も今回も、それから今後もずっと、
凱旋門がパリ旅行の始まりだ。
ここからバスティーユまでパリの背骨を歩く。
『凱旋門 9ユーロ』
前回凱旋門に上った時は無料だった。
日曜日だったと言う事だけが頭にあった。
今回も日曜日であったので無料と思ったがそうではなかった。
後で確認すると、第一日曜日だけとの事。
入場料9ユーロ。
ここでパリの物価高に驚かされた。
日本で1500円入場料を取る観光施設はそう滅多にない。
京都のお寺が500円、
一番高い法隆寺でも確か1000円。
『凱旋門 十二の大通り』
凱旋門の上を一周、二周、三周と回る。
十二の大通りが私に挨拶をする。
前回ブーローニュの森へ歩いて行ったフォッシュ大通りが言う。お久しぶりと。
勿論シャンゼリゼも言う。今回もよろしくと。私も快く返す。こちらこそよろしくと。
グラン・ダルメ大通りの向こうのグランドアルシェが言う。やはり私ではなく凱旋門なのですねと。私は言う。すまんと。(実を言うと今回の私の旅の始まりのLa
Defenseのグランドアルシェにも9ユーロの展望台があったのですが、パリの始まりは凱旋門と決めていたのでスルーしたのでした。)
それからテルム広場へと続くワグラム大通り、この通りは私を何時も誘います。しかし未だ行った事はありません。
そしてその他のマロニエの並木道も花を一杯に咲かせてこう言います。どうかしらと。
私は答えます。とても素晴らしいですよと。
しかし今回私の目を一番引いたのは、紫の房の花を一杯に咲かせた並木通りでした。
どの通りだったかは特定できないのですけれど。
あれは何と言う木だったのでしょうね。
パリ旅行 アラカルト その15 2008/ 5/24 13:32
『シャンゼリゼ大通り』
車道の両側に20m歩道。
それぞれの歩道にマロニエの大木の並木がそれぞれ2列。
そのマロニエの並木が遠近法で描いたように遠くまで続く。
そのマロニエの並木にカフェ。
それほど大きなマロニエの歩道なのに、賑やかに華やかにそしてゆったりと。
これがシャンゼリゼ。
そしてマロニエの並木は花盛り。
『ロンポワンからコンコルド』
南歩道の南側には、グランパレ、プチパレ。
北歩道の北側には公園が広がる。
私は前回夜、どうしても我慢できず、この公園の奥でお小水をしました。ごめんなさい。
『アメリカ大使館とエリゼ宮』
私は今回この辺りを夜歩きました。
人気は全くありません。
アメリカ大使館の周りは物凄い警備。
あれは軍の警備だったような気がします。
それに引き換えエリゼ宮公園側入口は小さなパトカー一台に警察官二人 それも男と女のペア。
アメリカはどこでも憎まれているのですね。
それは仕方がありません。戦争が国益なのですから。
『切手市』
前回は行きましたが、今回は行きませんでした。
『コンコルド広場』
オベリスクと芸術的彫刻を施した大きな二つの泉、
これだけでも十分に観光的価値はありますが、
何と言ってもここの売りは360度の景観。
ここに来て始めてフランスの歴史を実感します。
北側は由緒ある近代フランスの建物群、そしてその先にマドレーヌ寺院
東側は今歩いてきたシャンゼリゼから凱旋門、そしてグランドアルシェ。
南側はコンコルド橋の向こうにブルボン宮、そしてその背景にアンバリッド、エフェル塔。
北側はこれから行くルーブル。
大きな広場だからこその360度の光景。
なお、この広場でルイ16世、マリーアントワネット、そしてたくさんの首が跳ね飛ばされました。ころころコーンと。ご冥福を祈ります。
『ティユルリー庭園とカルーゼル庭園』
ティユルリー庭園の正門を入るともうルーブル気分。
観光客はルーブル美術館へ一目散。
しかしパリジャン、パリジェンヌにはお気に入りの公園、くつろぎの場。
それぞれの池の周りではゆったりまったり。
ガルーゼル公園の池では19世紀から続くヨット遊びに子供が興じる。
回転木馬、これも19世紀からアミューズメントだが、どこの公園にもある。
そして芸術的センスに満ちている。
子どもの為の芸術絵画、19世紀風。
そして音楽も19世紀風。
私はその絵画とその音楽とパリの子どもたちとそしてパリの親子の風景を楽しむ。
そこには19世紀の残像がある。古き良きパリ。そして今も。
『ガルーゼル広場の凱旋門』
ガルーゼル広場の凱旋門を潜り抜けて振り向くと、
その門の中に、コンコルド広場のオベリスク、シャンゼリゼ通り、シャルル・ド・ゴール・エトワール広場の凱旋門そしてグランドアルシェ(現代の凱旋門)が一直線に見える。
凱旋門繋がりの一幅の歴史絵図である。
なお、私が訪れた時、と言っても何度も訪れた訳だが、最後の時に、19世紀から今日までの様々なフランス軍の軍服を纏った軍人たちの閲兵式の様なものが行われていた。
あれは何と言うセレモニーだったのでしょうね。
ガルーゼル広場の凱旋門を潜り抜けると、その先はガラスのミラミッド、いよいよルーブルだ。
『ルーブル美術館』
この美術館があるから、私はパリに行く。
そう言っても過言では無い。
さてこのルーブルをじっくり見尽くすのに何日あれば良いのだろう。
一通り歩き尽くすのに延べ三日を費やした。
尤も正味時間数でいけば、8時間位か。
唯歩き抜けるだけである。
絵画を向き合い対話する時間など無い。
私のパソコンの壁紙は、あるチャーミングな婦人の肖像画である。
4年前のルーブル訪問の際に私のカメラで撮ったものである。
その絵に出合った時はとっさにこう呟きました。
「また会えたね」と
しかし彼女はその姿のまま微笑んでいるだけでした。
何故なら、私が立ち止まる事無く、そこを素通りしてしまったからです。
そんなに慌しいルーブル訪問だったのです。
本当はこの4年間の事をもっとじっくり話し合いたかったのですが・・・。
ルーブルをじっくり見る為に、いつか60~90日の滞在旅行をしたいと考えています。
パリ旅行 アラカルト その16 2008/ 5/24 23:53
『サン・ジェルマン・ロクセロワ教会』
凱旋門からここまで一直線に歩いて来ました。
しかしルーブルのシェリー翼が前に立ちはだかっています。
どうしたものでしょう。
進路を変えるべきでしょうか。
ご心配なく。
そのままシェリー翼の西側の門を潜って下さい。
シェリー翼の中庭です。
今度はシェリー翼の東側の棟が立ちはだかっています。
出口はなさそうです。
ご心配なく。
もっと近付いて下さい。
そこにドアがあるでしょう。それを押して下さい。玄関ホールに入ってしまいましたね。
もう一つその先のドアを押して下さい。
そこがルーブル広場です。
ルーブル広場の前に二つの教会があります。
一つは開いていますが、他の一つは固く閉ざされています。
教会なのに何故閉まっているのだろう。私はその時はそう思いました。
今、優れものの昭文社の地図で見ると、閉まっている方は1区区役所との事。
私はサン・ジェルマン・ロクセロワ教会に入りました。
ここで、ローマの事ですが、ローマは本当に教会が多い。
ローマにはあまり美術館がありません。
何故だか分かりますか。
それは教会が美術館そのものだからです。
尤もそう言ったからといって、京都奈良の観光寺院の様に入場料を取って殊更見せている訳ではありません。
それぞれの教会はクリスチャンの為の教会であり、そして誰にでも開放されているのです。(ローマの教会の入り口には必ず乞食が物乞いしています。)
我々観光客がそれを美術館としているだけなのです。
パリの教会もローマの教会ほどではありませんが、立派な美術館(我々観光客にとって)です。
ローマのその美術館がルネサンス期以降だとすれば、
パリのその美術館は19世紀以降と言う事になるのでしょうか。
サン・ジェルマン・ロクセロワ教会も結構美術を楽しめますよ。
『リボリ通り』
さて、愈々行き止まりです。
どちらかに進路を取らなければなりません。
右か左か。進路によって性格が変わって来ます。
今日の目的は何だったのでしょうか。
そうですね。パリの背骨を歩く。
であれば、迷わずに進路を左に取り、リボリ通りに向かわなければならないと言う事になりますね。
前回のリボリ通りの印象はあまり賑やかではないなと、言う感じでしたが。
今回その思いを一新しました。
正に観光客相手のお土産通りなのですね。
あの京都のお土産アーケード街(西京極通りでしたっけ)の様に。
『サン・ジャック塔』
前回サン・ジャック塔を訪れた時は、覆いが被され、お化粧直し(煤取り)の最中でした。
今回は覆いが全部取り払われています。
正に象牙色。貴婦人の様な品格が漂います。
その下の公園では、パリジャン、パリジェンヌたちが思いと想いに耽ります。
『パリ市庁舎』
パリ市庁舎の上にはフランス国旗がたなびきます。
それを護るかのように彫刻の騎士たちが立ち並んでいます。
正にパリ。
これこそが19世紀のパリの精神(エスプリ)
『パリ市庁舎前広場』
日曜日。
パリ市庁舎前は遊園地に早変わり。
この日は子どもの為のイベントを行っていました。
ここでも19世紀の回転木馬を楽しみました。
19世紀の音楽、19世紀の絵画、そして19世紀のエスプリを残すパリジャン・パリジェンヌ家族。
パリ市民は本当に回転木馬が大好きです。
一体市内に幾つの回転木馬があるのでしょうね。誰か数えて見て呉れませんか。
尤もロンドン市民も大好きですけど、
やはりパリの回転木馬の方が、品格があるように思います。
パリ旅行 アラカルト その17 2008/ 5/24 23:57
『バスティーユ広場』
愈々今日(旅の初日)の目的地バスティーユ広場に到着です。
早速思い出のトイレに向かいます。
今回は要所要所で用を足して来ましたので、余裕を持っての再訪です。
バスティーユ広場を左回りに一周します。
運河とブルボン大通りの間に、同じ形をした真っ白な小さな建物がたくさん並んでいます。あれは何だったのでしょうね。時間が無かったので近くまで行って確認する事はしませんでしたが。ひょっとして、運河沿いの飲み屋かなんかだったのでしょうかね。博多中洲の屋台の様に。
バスティーユ広場と運河の間の小さな広場ではイベント用のテントがたくさん張られています。
私が訪れた時、丁度テントの出入り口が閉まる所でした。そんな時刻にバスティーユ広場に到着していたのでした。
オペラ・バスティーユでは切符売場を確認しました。
なお、オペラ・バスティーユの数十段の階段には、バスティーユ広場を見下ろす様に若者たちが屯していました。
最上階段では二人の若者が拳闘の真似事をしていましたが、喧嘩にならない事を祈ります。
フォーブル・サン・タントワーヌ通りを地下鉄で1駅(ルドリュ・ロラン駅)行き、右筋に入った所に、私が前回宿泊したホテル「アルシオン・バスティーユ」があります。
行っても見ようとも思いましたが行きませんでした。
ロケット通りはバスティーユでも一番の繁華な通りです。
多くの若者が流れ込みそして流れ出して行きます。
その先には何があるのでしょうね。
リシャール・ロノワール大通りは緑豊かな大通り公園です。
この下をサンマルタン運河が流れているのですよね。
地球の歩き方の地図にはここにバスティーユ市場との表示があります。
ここで大規模な朝市が行われているのでしょうね。
今地球の歩き方でもう一度確認しましたが、朝市は何と毎日は開かれていないのですね。
バスティーユ市場は木曜日と日曜日、その他の市場も開設日が週2日程度、よくこんな朝市で用が足せるものですね。いえいえ感心すべき事です。我々日本人、コンビニエンスの極地に陥った国民には、もう到底そこに戻る事は出来ませんが、この不便性がパリの精神(エスプリ)を保ち続けているのです。
ポーマルシェ大通りからフラン・ブルジョワ通り、これが旅行初日、その次に歩き始めた通りです。
それについては章を改めて述べる事にします。
『西のシャンゼリゼ、東のバスティーユ、南のサンジェルマン、北のクリシー』
シャンゼリゼは銀座、バスティーユは新宿、サンジェルマンは渋谷、クリシーは池袋です。
そしてこの環状線の中心にあるのは何ですか。そうですね、皇居ですね。
それではパリには何かあるのでしょうか。
それこそが、ルーブル、パレロワイヤル、オペラ・ガルニエそしてマドレーヌが作る黄金の三角地帯です。
東京では銀座から新宿、新宿から渋谷、渋谷から池袋、それらの移動には交通機関を使わなければなりませんよね。
ところがパリでは、シャンゼリゼからバスティーユ、バスティーユからサンジェルマン、サンジェルマンからクリシー、これらの移動はほいほいと歩いて行けるのです。
そしてその中心に先の黄金地帯があるのです。
だからこそパリは楽しいのです。
パリでは全ての楽しき街々が繋がっているのです。
貴方方は思いませんか。パリはどこの街を歩いても楽しいと。
何故なら、東西南北の街々、すなわちシャンゼリゼ、バスティーユ、サンジェルマン、クリシーの街に囲まれた区画が一つの街なのです。
そしてその中心にあるのが先の黄金地帯です。
パリの街は結構小さいのです。
その中にアミューズメントがぎっしり詰まっているから、パリはどこを歩いても楽しいとなるのです。
パリ旅行 アラカルト その18 2008/ 5/25 0:01
『バスティーユ広場からサン・ラザール駅 そして北駅』
バスティーユ広場を一通り見学しました。
未だ時間はあります。
サン・ラザール駅を目指して、ポーマルシェ大踊りからフラン・ブルジョワ通りへと向かったのです。
フラン・ブルジョワ通りは19世紀の街並みを色濃く残しています。
ボージュ広場、パリ歴史博物館、フランス歴史博物館、ユダヤ歴史博物館を 経てポンピドー芸術文化センターに到着。
センターでは玄関ホールに入ったり、前の広場で大道芸を見たりしながら、フォーロム・デ・アルに到着。
フォーロム・デ・アルは時刻が少し遅かった事や改築中であった事などにより、少しうらぶれた感じ。
そこからテラス公園に上り、サン・トゥスタッシュ教会や商品取引所を眺めながら、フランス銀行へ。
フランス銀行からは、パレロワイヤルをぐるりと回り、オペラ通りをオペラ・ガルニエまで。
オペラ・ガルニエで切符売場を確認しようとして中に入ろうとすると、開演中との事で追い払われる。
オペラ・ガルニエからラファイエットに上り、プランタンを経由してサン・ラザール駅へ。
サン・ラザール駅は近郊路線の発着駅である。
サラリーマンたちが列車に駆け込む。
改札は無い。
列車への乗り降りは自由。
私も幾つかのホームに行き、幾つかの停車中の列車に乗り降りをしてみた。
要領を掴んだ。改札はその他の駅で乗り降りの際に行うのだろう。
3番ホームからLa defense行きのSNCFもいるようだ。
帰ろうかなとも思ったが、未だもう少し時間がある、そう思って、最終日、ドゴール空港行きのRER-B3線の発着駅である北駅まで行き、ホームとコインロッカーの場所を確認しておこうと。
サン・ラザール駅、北駅とも日本のキオスクの様な売店がそれぞれ2店舗ずつある。
それぞれ中を覗いてみた。
エロ雑誌など置いていない。
由緒あるエロ雑誌、すなわちプレイボーイ等数冊が置いてあるが、手の届かない一番上に置いてある。
私はここにパリの品性を見た。
これは街中のキオスクも一緒だ。
さてRER-E線を使って北駅(マジャンタ駅)へ。
北駅は結構大きな駅である。
ほとんどが近郊路線だが、遠距離路線のホームも二つ三つある。
遠距離路線のホームには係員が居て案内をしている。
改札ではなく、単なる案内である。
私は係員を遠回りに抜けて、ホームから列車を見て回った。
その時発車の合図があり、私に乗るのなら早く乗れと指示がある。
いいえ乗るのではありませんと言う素振りをしながらホームから構内へと引き返した。
先ず北駅の構内案内看板でコインロッカーの場所を探す。
そして地図通りに行くが見付からない。
何度も何度もその階段を地下に下りていくが無い。
実はその先にもう一つ小さな階段があってそこにコインロッカーの場所があったのだ。
三度ほど、案内看板と階段を行き来する内に、その小さな階段を見つける。
その過程の中で、北駅にコインシャワーがある事を発見する。
飛行機は午後9時。それまでに歩き回り汗をかく。シャワーを浴びて飛行機に乗り込みたいななどと考える。そんな考えが飛行機に乗り遅れそうになった原因ともなったのだが・・・。
次にRER-B3線のプラットホームの確認。
SNCFは北駅自体がかなり大きな駅だが、そこにRERが2線、地下鉄が2線乗り込んでいる為、これらを合わせた北駅はかなり大きく、かなり輻輳して、かなり分かり難い。
かなり時間をかけてRER-B3線のプラットホームを見付ける。
この様に用意したにもかかわらず、最終日当日はRER-B3線のプラットホームを見付けるのにかなり迷ったのである。
本当は東駅まで見学したかった。
しかしさすがにもう時間がない。
地下鉄を乗り換えてホテルに帰ったのでした。
ホテルに着いたのは12時前でした。
4月27日、日曜日、旅行初日、凱旋門からバスティーユまで歩き、
バスティーユからサン・ラザール駅まで歩いたのでした。
私は歩くのが大好きです。だから旅行も大好きです。
歩くのが嫌いなら、旅行が好きになれる筈がありません。
歩いてこそ、映り変わる街の様子が良く理解出来ます。
その為にも地図は必携です。
昭文社の地図は優れものですが、版を重ねているかどうかは知りません。
私の持っている地図は2003年4月版です。
前回のパリ旅行の時に使った地図です。
かなりぼろぼろになっています。
Re: ルーヴル美術館について 2008/ 5/25 12:49
valleyさんへ
始めまして。
48ユーロは高いですね。
入場料が9ユーロ、日本語のオーディオガイドが5ユーロの合計14ユーロですから、その差34ユーロとなりますね。
現在私の手元にあるVISAの請求書に依ると、レートが166.05えんですので、ツアーとの差額は5645円となりますね。
ルーブルだけに限れば、英語は必要ないと思います。
切符売場では、「ワン チケット プリーズ」で良いし、
オーディオガイド貸出窓口では、「ジャパニーズ オーディオガイド プリーズ」で十分です。
それからフランス語「メルシー」だけは覚えておいて下さいね。
切符が差し出されたら、メルシーに笑顔を添えて。
そうすれば相手からも笑顔とお返しの言葉が返ってきますから。
ちょっとした遣り取りの中に、パリのエスプリを感じてみてください。
ヴェルサイユ、オルセー、オランジュリーは、切符売り場と入場口それぞれに長い列が出来、1時間以上、ヴェルサイユに限れば、今回の旅行記に書いたように、3時間、4時間待たされる事も覚悟しなければなりませんが、ルーブルに限れば、待ち時間はほとんど無いと言っても良いと思います。
ルーブル美術館の入場方法は次の通りです。
ルーブル美術館に着くと、中庭に大きなガラスのピラミッドがあります。
ここが美術館への入り口になります。
このガラスのピラミッドで入り口では、荷物検査だけを行います。
100人程度の列が出来ていると思いますが、直ぐに終わります。
このピラミッドの入り口からエスカレーターまたは階段で、地下のエントランスホール(ナポレオン・ホール)に入ります。
切符売り場はこのホールの一角にあります。
オーディオガイド貸出窓口もその反対側にあります。
切符売り場は人だかりで出来ているので、またオーディオガイド貸出窓口も機器が机の上に一杯に広げられているので直ぐ分かると思います。
私は切符売り場で切符を買った事はありませんが、10度近くルーブルには足を運んでいますが、長い列が出来ていたと言う記憶はあまりません。
多分10分も並べば切符は手に入ると思います。
そして愈々入場です。
待ち時間は0分。
何故、ヴェルサイユやオルセーやオランジュリーの入場口での待ち時間があの様に長くなるか分かりますか。
それは入場制限をしているからです。
ヴェルサイユやオルセーやオランジュリーの鑑賞空間はそれ程大きくないのです。
そして入り口が一つです。
制限せずにそのまま入れたら、入り口部分が大混雑するからなのです。
これもフランスパリの一種のエスプリです。
ゆっくり鑑賞して貰いましょうと言う事で。
日本での海外有名絵画展があった時の様子を思い浮かべて見てください。
あんな混雑はパリにあってはならないのでしょう・・。
しかし外で長く待たなければなりません。
しかしルーブルは待ち時間0分。
何故なのでしょう。
一つは入場口が三つあると言う事。そして三つの入り口から更にまた様々な進路がある事。
もう一つは体験すれば直ぐ分かると思います、あの巨大空間です。
何万人でも勝手に入れて下さい。全てを消化しますからと。
ただしモナリザの展示室前は別です。
四重、五重、六重の人だかりです。
それからエントランスホール(ナポレオン・ホール)の中央にインフォメーションがありますので、ここで必ず日本語版の「見取り図と館内のご案内」(勿論無料)を手に入れて下さい。
これが無ければ迷子になる事は必至ですから。
これは メッセージ 35 valley0642 さんに対する返信です
Re: ルーヴル美術館について その2 2008/ 5/25 12:52
さて愈々美術館見学ですが、要はルーブルに何を求めるかです。
とてもとても大きな美術館だったわ。
そしてその中に私たちが本の中でしか見た事のない美術作品が一杯あったわ。
と言う感動を持ち帰りたいのであれば、入場料9ユーロと日本語版の「見取り図と館内のご案内」(無料)だけで十二分です。
もし、それぞれの作品について感動を持ち帰りたいのであれば、事前勉強が必要です。
その際は、オーディオガイドが威力を発揮すると思います。
事前勉強の参考書としては「NHKルーブル美術館(全7巻)」(NHK出版)と「ルーブルとパリの美術(全7巻位)」(小学館)が双璧です。
それから「NHKルーブル美術館のビデオテープ全13巻」は優れものです。
NHKとフランスの国営放送が共同で作成したテレビ番組のビデオです。
日本とフランスの有名な映画俳優を紹介役にキャスティングしたとても楽しいビデオです。
この13巻を全部見終えた時には、ルーブル通に成っている事に間違いないと思います。
そしてルーブルへの思いが熱くなっている事でしょう。
そして、実際にその絵画・彫刻の前に立ち、オーディオガイドを聞く。
感動ものだと思います。
なお、上記の書籍、テープは美術館または図書館または視聴覚センターにあると思います。
ルーブル美術館は、古代オリエント美術部、古代エジプト美術部、古代ギリシア・エトリア・ローマ美術部、工芸品部、彫刻部、絵画部、アフリカ・アジア・オセアニア・アメリカ美術部、「ルーブル宮の歴史と中世の城壁」に分かれています。
一日でルーブルを見るのであれば、この内のアフリカ・アジア・オセアニア・アメリカ美術部、「ルーブル宮の歴史と中世の城壁」は最初から捨てた方が無難だと思います。
なお、ルーブルに行く時は、凱旋門から始める事をお勧めします。
凱旋門からルーブル美術館までは2kmちょっとの道程ですが、
ここにはフランスパリの粋が一杯詰まっています。
凱旋門(ここからの眺めは19世紀のパリの都市計画そのものです)、シャンゼリゼ、ロンポワン、グランパレ、プティパレ、コンコルド広場(ここから360度の眺めがパリそのものです)、チェルリー公園等々、見所が一杯です。感動また感動の連続です。
是非歩いて見て下さい。