「哲学フォーラムと哲学一貫教育」目次
1 哲学フォーラムと哲学一貫教育(国立大学教育学部哲学教育担当教官殿宛)・・・ 1
2 哲学一貫教育提唱文(文部科学省初等中等教育局長殿宛)・・・・・・・・・・ 29
3 哲学一貫教育提唱文(文部科学省生涯学習政策局長殿宛)・・・・・・・・・・ 55
4 哲学一貫教育提唱文(内閣官房長官殿宛)・・・・・・・・・・・・・・・・・ 65
5 哲学一貫教育提唱文(文部科学省初等中等教育局教育課程課長殿宛)・・・・・ 77
6 哲学一貫教育提唱文(文部科学省初等中等教育局教育課程課学校教育官
兼道徳教育長調査官殿宛)・・・・・・・・・・・・・ 105
7 哲学一貫教育提唱文(東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官殿宛)・・・・・ 117
8 哲学詩集『百章』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 133
9 私の哲学百章 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 193
10 冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付状
① 国立大学教育学部 哲学教育担当教官殿宛・・・・・・・・・・・・・・・ 337
② 東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官殿宛 ・・・・・・・・・・・・・・ 342
③ 文部科学省初等中等教育局 初等中等教育企画課長殿宛・・・・・・・・・ 346
文部科学省初等中等教育局 教育課程課長殿宛
④ 文部科学省生涯学習政策局 政策課長殿宛・・・・・・・・・・・・・・・ 350
文部科学省生涯学習政策局 社会教育課長殿宛
⑤ 文部科学省高等教育局 高等教育企画課殿宛長・・・・・・・・・・・・・ 354
⑥ 内閣官房 教育再生懇談会担当室長殿宛・・・・・・・・・・・・・・・・ 359
⑦ (社)全国公民館連合会長殿宛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・363
⑧ 北海道大学教育学部 教育哲学担当教官殿宛・・・・・・・・・・・・・・ 367
東北大学教育学部教 育哲学担当教官殿宛
東京大学教育学部 教育哲学担当教官殿宛
名古屋大学教育学部 教育哲学担当教官殿宛
京都大学教育学部 教育哲学担当教官殿宛
大阪大学教育学部教 育哲学担当教官殿宛
九州大学教育学部 教育哲学担当教官殿宛
⑨ 北海道大学文学部 哲学担当教官殿宛・・・・・・・・・・・・・・・・・ 370
東北大学文学部 哲学担当教官殿宛
東京大学文学部 哲学担当教官殿宛
名古屋大学文学部 哲学担当教官殿宛
京都大学文学部 哲学担当教官殿宛
大阪大学文学部 哲学担当教官殿宛
九州大学文学部 哲学担当教官殿宛
⑩ 朝日新聞東京本社編集局 教育担当部長殿宛・・・・・・・・・・・・・・ 374
毎日新聞東京本社編集局 教育担当部長殿宛
読売新聞東京本社編集局 教育担当部長殿宛
産経新聞東京本社編集局 教育担当部長殿宛
日本経済新聞編集局 教育担当部長殿宛
⑪ 日本放送協会放送総局報道局 教育担当部長殿宛・・・・・・・・・・・・ 379
日本テレビ放送網報道局 教育担当部長殿宛
東京放送報道本部 教育担当部長殿宛
フジテレビ報道局 教育担当部殿宛長
テレビ朝日報道局 教育担当部長殿宛
⑫ 岩波書店編集局「教育・哲学書」担当編集長殿宛・・・・・・・・・・・・・ 381
講談社編集局「教育・哲学書」担当編集長殿宛
小学館編集局「教育・哲学書」担当編集長殿宛
新潮社編集局「教育・哲学書」担当編集長殿宛
文芸春秋編集局「教育・哲学書」担当編集長殿宛
角川書店編集局「教育・哲学書」担当編集長殿宛
集英社編集局「教育・哲学書」担当編集長殿宛
中央公論新社編集局「教育・哲学書」担当編集長殿宛
NHK出版編集局「教育・哲学書」担当編集長殿宛
⑬ 冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付先名簿・・・・・・・・・・・386
⑭ 各都道府県教育委員会 小中高校教育担当課長殿宛 ・・・・・・・・・・・390
各都道府県教育委員会 社会教育担当課長殿宛
⑮ 各大学哲学担当教官殿宛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・404
⑯ 各新聞社編集局 教育担当部長殿宛 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・409
各放送社報道局 教育担当部長殿宛
11 あとがき(または追伸) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・417
12 哲学一貫教育提唱先一覧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・423
本文
哲学フォーラムと哲学一貫教育
(国立大学教育学部哲学教育担当教官殿宛)
国立大学教育学部哲学教育担当教官 殿
私は哲学に非常に関心を持っている者です。
そして哲学によって、日本が素晴らしい国家に成ると考えている者です。
私はその為に、『哲学一貫教育』を提唱しています。
『哲学一貫教育』とは、日本国民の一生涯に渡って、哲学の機会を提供する事により、日本国民が哲学的に成熟する事を目指すものです。
私は平成20年2月から4月にかけて、哲学一貫教育に関係のありそうな国の機関等にその提唱文を送っています。
それらについては、別途「哲学一貫教育提唱文」として掲載していますので、時間がありましたら、後ほどご覧頂きたいと思います。
この哲学一貫教育は、四つの柱から成っています。
一つ目は、『小中高校哲学一貫教育』です。
二つ目は、小中高哲学一貫教育を基礎とした『一生涯に渡る哲学一貫教育』です。
三つ目は、『大学教育学部における徹底した哲学教育』です。
四つ目は、あらゆる教育機関、学習機関等に設置する『哲学対話室』です。
これらの内容については、「哲学一貫教育提唱文」の中に詳しく記載していますので、後ほどご覧頂きたいと思いますが、ここではその概要を簡単にご説明したいと思います。
先ずは一番目の『小中高校哲学一貫教育』ですが、これについては、文字通り、小学校、中学校、高校に渡って、哲学教育を一貫して行うと言うものです。
方法としては、小学校、中学校においては、現在の道徳を廃止し、哲学とし、授業時間を週2時間とします。
高校については、倫理を廃止し、哲学としかつ必修とし、授業時間を週2時間とします。
これにより、小中高校週2時間の哲学一貫教育を完成させます。
哲学一貫教育においては、『哲学読本』と『哲学ノート』と言う二つの教材を使用します。
『哲学読本』とは、各学年に相応しい哲学テーマを30程度選択し、それぞれの哲学テーマについて、古今東西の名作の中の名文中の名文を、3編から5編程度集めたものです。
『哲学ノート』とは、哲学読本の読書を契機として、それぞれの哲学テーマについて、児童生徒が思索した結果を、作文として纏める為のノートです。
授業の進め方としては、月曜日の1限目に哲学読本を黙読します。
すなわち、月曜日の1限目に、一つの哲学テーマに関して、古今東西の名作の中の名文中の名文を、3編から5編程度読む事になります。
金曜日の最後の授業、例えば6限目に、哲学読本を契機に、児童生徒がその哲学テーマについて、月曜日から金曜日までに思索した結果を、哲学ノートに作文として纏める事になります。
これを小学校から高校まで一貫して行います。
小学校低学年は読書能力、作文能力が十分でないので、特別の配慮は必要ですが、単純に計算すると、小中高校の12年間の間に、360の哲学テーマ(1学年30哲学テーマ×12年間=360哲学テーマ)について名文中の名文を読み、360の哲学テーマについて作文を書く事になります。
これにより、児童生徒の哲学能力は、世界に類例が無いと言う程、育成される事になります
次に2番目の柱の『一生涯に渡る哲学一貫教育』ですが、これは小中高校哲学一貫教育の基礎の上に、一生涯に渡って哲学の機会を提供すると言うものです。
先ず大学ですが、大学においても哲学を必修とし、1年から4年まで、毎週1授業時間、受講するものとします。
1年から2年までは教養哲学とし、小中高校哲学一貫教育で学んだ事を集大成します。
3年から4年までは専門哲学とし、それぞれの専攻する学問を哲学するものとします。
次に社会教育分野ですが、全ての図書館、公民館等に哲学講座を設けるものとします。
また、「哲学読本大全(全100巻)」を全ての図書館、公民館等に配備するものとします。
「哲学読本大全(全100巻)」とは、主要な哲学テーマを500程度選択し、それぞれの哲学テーマについて、古今東西の名作の中の名文中の名文を、100編程度集めたものです。
次に家庭教育分野ですが、結婚出産等に際して、「親子哲学読本」等を配布し、親子哲学対話の機運を醸成するものとします。
次に3番目の柱の『大学教育学部における哲学教育の徹底』ですが、哲学一貫教育の成否は偏に教師にかかっています。
大学の教育学部で徹底した哲学教育を行い、哲学的に優れた教師を養成します。
具体的には、哲学を必修とし、1年から4年まで、毎年通年で週3授業時間、受講するものとします。単位的には48単位となります。
哲学の授業内容及び単位は次の通りとなります。
①西洋思想史・・・4単位(代表的西洋思想家の500編の名文中の名文から学ぶ)
②東洋思想史・・・4単位(代表的東洋思想家の500編の名文中の名文から学ぶ)
③日本思想史・・・4単位(代表的日本思想家の500編の名文中の名文から学ぶ)
④宗教・・・・・・4単位(代表的宗教の聖典の500編の名文中の名文から学ぶ)
⑤道徳・・・・・・4単位(代表的な徳に関する500編の名文中の名文から学ぶ)
⑥哲学各論・・・・16単位(哲学各論に関する2000編の名文中の名文,各論40編程度)
「人生論」、「人間論」、「 自由論」、「平等論」、「平和論」、「幸福論」、「感情論」、「精神論」、「肉体論」、「生命論」、「死生論」、「男女論」、「青少年論」、「友情論」、「恋愛論」、「結婚論」、「家族論」、「生活論」、「習慣論」、「道徳論」、「国家論」、「社会論」、「宗教論」、「民族論」、「民俗論」、「時代論」、「革命論」、「戦争論」、「法律論」、「政治論」、「経済論」、「産業論」、「職業論」、「教育論」、「学問論」、「文化論」、「文学論」、「芸術論」、「文明論」、「科学論」、「時間論」、「自然観」、「歴史観」、「地球観」、「世界観」、「宇宙観」、「読書作文論」、「愛」論、「知恵」論、「言葉」論、「自分」論、「神」論 等々
⑦古代哲学講読・・4単位(古代哲学の古典中の古典10冊を学ぶ)
⑧教科哲学・・・・4単位(中学校の9教科を哲学する)
⑨哲学対話・・・・2単位(哲学対話の技術を学ぶ)
⑩哲学作文・・・・2単位(哲学作文の技術を学ぶ)
⑪哲学対話録作成・授業外(在学中に100の哲学対話を行いその対話録を作成する)
⑫哲学作文集作成・授業外(在学中に100の哲学テーマについての作文を作成する)
授業内容の詳細については、文部科学省所長中等教育局教育課程課長及び東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官殿宛の「哲学一貫教育提唱文」をご覧頂きたいと思います。
なお、文学部の哲学専門教育と教育学部の哲学教育は根本的に違います。
文学部の哲学専門教育は、デカルト、カント、ヘーゲル等の研究家を育成する事にありますが、教育学部の哲学教育は言葉のプロを育成する事にあります。
すなわち、全ての哲学テーマについて、即座に回答を出せるような教師を育成する事にあります。
教育学部の哲学教育の目標はソクラテスです。
ソクラテスの様に、児童生徒の言葉を巧みに引き出せる教師を育成する事にあります。
その為に、文学部の哲学専門教育の様に限られた哲学者から学ぶのではなく、聖人賢人哲人文学者芸術家英雄等々、あらゆる偉人のあらゆる言葉から学ぶ事になります。
その為に、古今東西の名作の中の名文中の名文から学ぶ必要があるのです。
そして、これは小中高校哲学一貫教育とリンクする事にもなるのです。
また、教育学部の哲学教育では、哲学対話の技術、哲学作文の技術も学びます。
言葉を自由に操り、子供たちを哲学の世界に導く為にはとても大切な技術です。
また、教育学部の哲学教育では、教科哲学と言う特別なプログラムもあります。
これは、子供たちにそれぞれの教科の意義、単元の意義を学ばせる為のものとなります。
次に4番目の柱の『哲学対話室』ですが、これは小学校、中学校、高校、大学、図書館、公民館、その他様々な教育・学習機関に哲学対話室も設けると言うものです。
哲学対話室とは、その名の通り、哲学的な対話を行う部屋の事です。
数人が一同に会して対話出来る程度の規模の部屋を想定しています。
この哲学対話室で、世代を超えた哲学的対話が行われる事になります。
小学校、中学校、高校に設置される哲学対話室については、児童生徒が利用しやすい午後3時から午後5時まで開設するものとします。
図書館、公民館等に設置される哲学対話室については、児童生徒及び一般市民が利用しやすい午後5時から閉館時間まで開設するものとします。
大学、その他の教育・学習機関に設置される哲学対話室については、その開館時間の範囲内で、児童生徒及び一般市民が利用しやすい時間帯に開設するものとします。
哲学対話室の開設時間には、必ず哲学ボランティア“ソクラテス”が一人以上常駐するものとします。
また、曜日毎に異なる哲学ボランティア“ソクラテス”が常駐するものとします。
この哲学対話室において、児童生徒、一般市民、教育・学習機関関係者等々が世代を超えて哲学的対話を行う事になります。
特に、小学校、中学校、高校に設置される哲学対話室には、多くの哲学ボランティア“ソクラテス”が積極的に入って行き、児童生徒と哲学対話を行う事を奨励するものとします。
以上が哲学一貫教育の概要ですが、この哲学一貫教育の中心となるのは、何と言っても小中高校哲学一貫教育です。
私はその為に、文部科学省等の関係機関に哲学一貫教育を提唱して来ました。
しかし学習指導要領は最近改正されたばかりです。
この学習指導要領を更に改正して、小中高校哲学一貫教育を実施するまでには、かなりの時間が必要となります。
そこで、私はもっと手っ取り早く、日本を素晴らしい国家に導く為の方策を考えました。
それが、『哲学フォーラム』です。
『哲学フォーラム』とは、先程述べました「哲学対話室」を更に充実させ、その「哲学対話室」の連携により、日本をより素晴らしい国家へと導こうとするものです。
そして、その中心的役割を担うのが、大学の教育学部と言う事になります。
以下に、「哲学フォーラム実施要領」と言う形でその概要を示したいと思います。
哲学フォーラム実施要領
1 趣旨
哲学フォーラムとは、小学校、中学校、高校、大学、図書館、公民館、その他の教育・学習機関等に設置される「哲学対話室」及びその連携により、日本国土に哲学的機運の醸成を図ろうとするものである。
哲学対話室とは、哲学的な対話が行なわれる部屋の事である。部屋の規模は、数人程度が一同に会して対話出来る程度のものとする。
哲学対話室は専用である必要はない。兼用で良い。会議室、研修室等の一時使用で良い。
小学校、中学校、高校、大学(教育学部)に設置される哲学対話室については、月曜日から金曜日までの午後3時から午後5時まで開設するものとする。
図書館、公民館等に設置される哲学対話室については、月曜日から金曜日までは午後5時から午後8時(閉館時間が午後8時以前の場合は閉館時間)まで、土日については午後2時から午後5時まで開設するものとする。
2 哲学対話室の運営
哲学対話室は、哲学ボランティア“ソクラテス”により運営するものとする。
哲学対話室の開設時間には、必ず1人以上の哲学ボランティア“ソクラテス”が常駐するものとする。また、曜日毎に、異なる哲学ボランティア“ソクラテス”が常駐するものとする。
哲学対話室は、10人以上の哲学ボランティア“ソクラテス”により運営するものとする。内、1人を代表とする。
3 哲学ボランティア“ソクラテス”について
哲学ボランティア“ソクラテス”については、如何なる資格も必要としない。
それぞれの哲学対話室の代表に、登録届けを提出する事により、それぞれの哲学対話室の哲学ボランティア“ソクラテス”となる。
なお、登録届けの際に、哲学に関する考え方を纏めた作文(A4版10頁以上)を必ず提出するものとする。この作文については、哲学対話室に備え付け、哲学対話室の利用者の閲覧に供するものとする。
4 小中高校の哲学対話室について
①小中高校の哲学対話室の開設者は校長とする。
②小中高校の哲学対話室の代表について,学校内の教師とするか、学校外の哲学ボランティアとするかは校長の判断とする。
③学校内の教師が、哲学対話室の“ソクラテス”と成る時は、ボランティアとして扱うのではなく、課外授業(クラブ等の扱いと同じ)として扱い、勤務時間に入れる。ただし、午後5時を過ぎた場合は、ボランティア扱いとする。
④多くの学校内の教師が、哲学対話室の“ソクラテス”となる事を期待する。
⑤小中高校の哲学対話室は、原則として月曜日から金曜日までの、午後3時から午後5時まで開設するものとする。
⑥大規模校においては、哲学対話室を複数設置するものとする。
⑦哲学対話室の開設時間には、必ず1人以上の“ソクラテス”が常駐するものとする。
⑧哲学対話室の開設時間には、「哲学対話室」の看板等を掲げ、その下に「誰でも自由に勝手に時間に囚われず入って下さい」の旨の表示をするものとする。哲学対話室は常にオープンにしておくものとする。
⑨哲学対話室における対話方法は、1対1でも良いし、プラトンの饗宴にあるように、哲学テーマを決めての複数人による対話でも良い。
⑩哲学対話室においては、曜日毎に異なる“ソクラテス”が常駐するものとする。
⑪多くの学校外の哲学ボランティア“ソクラテス”が小中高校の哲学対話室に入って来る事を奨励する。
⑫哲学ボランティア“ソクラテス”は、哲学(智恵を愛する事)に関心のある者であれば誰でも良い。父親、母親、PTA会長、商店主、工場長、会社員、工員、教員、農業経営者、老人クラブ会員、青年クラブ会員、大学生等々。ただし、「哲学に関する考え方を纏めた作文(A4版10頁以上)」は必ず提出して貰うものとする。また、同作文は児童生徒向けに書いた作文とする。
⑭哲学ボランティア“ソクラテス”の作成した作文については、ファイルにして、哲学対話室に保存し、児童生徒の閲覧に供するものとする。児童生徒はこの作文を参考に、対話をする相手を決める事になる。“ソクラテス”の日割り表を作成するものとする。
⑮校長は、哲学ボランティア“ソクラテス”が作成した作文については、必ず目を通すものとする。また、適宜、哲学ボランティア“ソクラテス”と対話を行い、その適性を判断するものとする。もし、不適性と判断した場合は、当該学校の哲学ボランティアの登録を抹消する事が出来るものとする。
⑯哲学対話室には、児童生徒は、自由に、勝手に、時間に囚われず、許可を受ける事無く入る事が出来るものとする。ただし、対話中の時は静粛を保ち、対話の進行を邪魔する事無く、また対話に入る時は節度を持って対話に入るものとする。哲学対話室は常にオープンをモットーとする。フォーラム(広場)の趣旨を最大限尊重するものとする。
⑰哲学対話室において、児童生徒は多くの哲学的素養のある大人と哲学対話を重ねる事になる。これにより、児童生徒は哲学的に成熟して行く。哲学対話室は、哲学(智恵を愛する事)を通じての児童生徒と大人の架け橋になる。
⑱哲学対話室において、哲学テーマを提示すると言う意味合いで、週1回程度の割合で、哲学講義を行っても良いものとする。なお、哲学テーマについては、児童生徒に身近なものを選ぶものとする。例えば、友情、勉強、学校、勇気、いじめ、差別、道徳等々。なお教材とし、「哲学読本大全(全100巻)」を積極的に活用するものとする。
⑲一つの哲学対話室については、10以上の“ソクラテス”により運営するものとする。その為にも、哲学ボランティア“ソクラテス”を積極的に活用するものとする。
⑳哲学対話室は、児童生徒が多くの大人を知る機会となる。ここで一生涯の師と成る様な人と巡り会えば幸いである。
○21哲学対話室は、課外授業扱いととする。なお、哲学ボランティア“ソクラテス”は、嘗てギリシアに実在したソクラテスと同様、無報酬とする。
○22哲学対話室については、全ての小中高校に設置するものとする。
○23哲学対話室の名称は、「哲学対話室」「哲学フォーラム」「哲学の部屋」「哲学広場」「対話室」「広場」「フォーラム」「お話広場」「大人と子供の対話室」等々何でも良い。校長の判断によるものとする。ただし、哲学対話室は、児童生徒と哲学的素養のある大人が哲学的テーマについて、哲学的対話を行う場所であると言う枠組みは壊さないものとする。哲学的テーマとは、「勇気」「智恵」「徳」「勉強」「友情」「学校」「家庭」「環境」「自然」「自殺」「いじめ」「差別」等々、児童生徒にとって、身近な哲学テーマとする。
○24哲学対話室には、「哲学読本大全(全100巻)」を備えるものとする。「哲学読本大全(全100巻)」とは、主要な500の哲学テーマについて、それぞれのテーマ毎に、古今東西の名作の中の名文中の名文を100編集めたものである。この「哲学読本大全(全100巻)」が、児童生徒の哲学のきっかけと成り、また解決の導きとなる。例えば「勇気」と言う哲学テーマについて、古今東西の名作の中の名文中の名文を100編も読めば、児童生徒においても「勇気」の概念が理解できるようになる。そこから、児童生徒は自らにおいて、自らの「勇気」の概念を確立させていく。その過程において、哲学的素養のある大人との哲学的対話がとても重要となるのである。名文の1編の分量は4000字程度とする。なお、「哲学読本大全(全100巻)」の作成方法については、後述する。
5 図書館、公民館等に設置する哲学対話室について
①図書館、公民館等に設置する哲学対話室の開設者は、哲学ボランティア“ソクラテス”の代表とする。
②哲学ボランティア“ソクラテス”の代表は,10人以上の哲学ボランティア“ソクラテス”を集め、それぞれのボランティアの登録届けと「哲学に関する考え方を纏めた作文(A4版10頁以上)」添付して、哲学対話室開設届けを図書館、公民館等の施設長に提出するものとする。これにより、哲学対話室が開設されるものとする。
③図書館、公民館等に設置される哲学対話室の開設時間は、平日は、午後5時から午後8時(閉館時間がそれより早い場合は閉館時間)までとする、土日は、午後2時から午後5時までとする。
④それぞれの哲学対話室の哲学ボランティア“ソクラテス”に成りたい者は、それぞれの哲学対話室の代表に、登録届けと「哲学に関する考え方を纏めた作文(A4版10頁以上)」を提出するものとする。
⑤哲学ボランティア“ソクラテス”の作成した「哲学に関する考え方を纏めた作文(A4版10頁以上)」は、哲学対話室に備え付け、哲学対話室の利用者の閲覧に供するものとする。
⑥哲学対話室の開設時間においては、「哲学対話室」の看板を掲げ、その下に「誰でも自由に勝手に時間に囚われずに入って下さい」の旨の表示を行うものとする。
⑦哲学対話室には、一般市民は、自由に、勝手に、時間に囚われず、許可を受ける事無く入る事が出来るものとする。ただし、対話中の時は静粛を保ち、対話の進行を邪魔する事無く、また対話に入る時は節度を持って対話に入るものとする。哲学対話室は常にオープンをモットーとする。フォーラム(広場)の趣旨を最大限尊重するものとする。
⑧哲学対話室は、少数の哲学ボランティア“ソクラテス”で運営しないようにするものとする。なるべく、多くの哲学ボランティア“ソクラテス”の参加を得て、運営する者とする。
⑨その他については、小中高校に設置する哲学対話室に準じるものとする。
⑩哲学対話室に、「哲学読本大全(全100巻)」を備えるものとする。
⑪哲学対話室の開設者については、図書館長、公民館長等の施設長若しくはその施設の職員が成っても良いものとする。その場合は、勤務扱いとする。
⑫図書館長、公民館長等は、哲学講座(週1回の通年講座)を開設するものとする。
⑬哲学ボランティア“ソクラテス”が開設する哲学対話室と図書館長、公民館長等が開設する哲学講座が両輪と成って、哲学的風土が日本に広がって行く事になる。
⑭図書館、公民館等に設置される哲学対話室の名称については、「哲学対話室」「哲学フォーラム」「哲学広場」「哲学の部屋」等必ず,“哲学”の名称を付するものとする。
6 大学の教育学部に設置される哲学対話室(哲学フォーラム)について
①大学の教育学部に設置される哲学対話室については、『哲学フォーラム』と称するものとする。また、哲学フォーラムの後に、大学名を付すものとする。例『哲学フォーラム宮崎』、『哲学フォーラム岩手』、『哲学フォーラム東京学芸』等
②『哲学フォーラム○○』の開設者は、10名以上の教官で構成する哲学フォーラム委員会とする。委員の構成については、哲学分野、教育学部分野、人文科学分野、自然科学分野、芸術分野の各分野からそれぞれ2名以上とする。委員の内、1名を代表とする。代表については、哲学担当教官とする。
④『哲学フォーラム○○』においては、次の事を行う。
ア、小学校、中学校、高校及び図書館、公民館等に設置される哲学対話室との連携。
イ、全国の哲学フォーラムとの連携
ウ、「小中高校哲学一貫教育」の研究
エ、小中高校哲学一貫教育を基礎とした「一生涯にわたる哲学一貫教育」の研究
オ、「教育学部の徹底した哲学教育」の研究(哲学的に優れた教師の育成の研究)
カ、哲学ボランティア“ソクラテス”の育成に関する研究
キ、様々な分野における哲学教育の研究
ク、哲学的風土づくりの研究
ケ、教育学部内の教師と学生との哲学対話の場の提供
コ、教育学部の教師・学生と他の学部の教師・学生との哲学対話の場の提供
サ、教育学部の教師・学生と小中高校の児童生徒及び一般市民との哲学対話の場の提供
⑤『哲学フォーラム○○』の事務局は、哲学フォーラム委員会の代表(哲学担当教官)の研究室とする。
⑥教育学部内の教師と学生の哲学対話、教育学部の教師・学生と他の学部の教師・学生と哲学対話、教育学部の教師・学生と小中高校の児童生徒及び一般市民との哲学対話等々を行う場所として、『哲学フォーラム○○』付属の哲学対話室を設置するものとする。なお当該哲学対話室については、哲学フォーラム委員会の代表(哲学担当教官)の研究室ではなく、大学図書館の小会議室を使用するものとする。開設日は、月曜から金曜の午後3時から午後5時までとする。小学校、中学校、高校、図書館、公民館等に設置される哲学対話室と同様、哲学ボランティア“ソクラテス”を積極的に活用するものとする。教育学部の教師・院生・学生、他の学部の教師・院生・学生、学外の者等なるべく多くの者に哲学ボランティア“ソクラテス”に成って貰い、なるべく多くの哲学対話室を設置するものとする。当該哲学対話室で経験を踏んだ者が、小学校、中学校、高校、図書館、公民館等の哲学対話室の哲学ボランティア“ソクラテス”として育って行く事となる。
7 全国組織としての『哲学フォーラム日本』
①『哲学フォーラム日本』は、小学校、中学校、高校、図書館、公民館等に設置される哲学対話室及び大学教育学部に設置される哲学フォーラムの連携組織とする。
②『哲学フォーラム日本』の直接の構成員は,大学教育学部に設置される哲学フォーラムとする。
③『哲学フォーラム日本』においては、次の事を行う。
ア、小学校、中学校、高校、図書館、公民館等に設置される哲学対話室及び大学教育学部に設置される哲学フォーラムとの連携
イ、機関紙『哲学フォーラム日本』の刊行
ウ、『哲学読本大全(全100巻)』の刊行
エ、『小中高校哲学一貫教育』の研究と文部科学省への提言
オ、小中高校哲学一貫教育を基礎とした『一生涯にわたる哲学一貫教育』の研究と文部科学省への提言
カ、「教育学部の徹底した哲学教育」の研究(哲学的に優れた教師の育成の研究)と文部科学省への提言
キ、哲学ボランティア“ソクラテス”の育成に関する研究
ク、様々な分野における哲学教育の研究
ケ、哲学的風土づくりの研究
④『哲学フォーラム日本』の事務局は、当分の間、哲学教育の体制の整っている大学に設置されている哲学フォーラム内に置くものとする。
以上が、哲学フォーラムの概要ですが、かなり盛りだくさんであり、全てを一気に実現させる事はとはかなり難しいと思います。
そこで、教育学部の哲学担当の先生方に一つだけお願いがあるのです。
それが、『哲学読本大全(全100巻)』の作成です。
この『哲学読本大全(全100巻)』が完成すれば、上記の『哲学フォーラム』を含めた『哲学一貫教育』が一気にそしてひとりでに進行して行く事になります。
何故なら、この『哲学読本大全(全100巻)』こそが、『哲学一貫教育』の基礎の基礎であり、バイブルとなるからです。
この『哲学読本大全(全100巻)』が完成すれば、日本の教育現場はひとりでに、『哲学一貫教育』へと向かう事になります。
それは『教育革命』と言って良い程の大改革となるのです。
それでは、『哲学読本大全(全100巻)』の作成方法について、「『哲学読本大全(全100巻)』作成要領と言う形で述べて行きたいと思います。
なお、作成要領に入る前に、一つだけ大事な事を言って置きます。
それは、この『哲学読本大全(全100巻)』は、全ての国民向けだと言う事です。
決して、哲学の専門家向けのものでは無いと言う事です。
そして、この『哲学読本大全(全100巻)』は、小学校高学年でも読めるものとなるのです。(聖書の様に、全ての漢字にルビを付すると事とします。)
『哲学読本大全(全100巻)』作成要領
1 趣旨
『哲学読本大全(全100巻)』とは、主要な哲学テーマについて、古今東西の名著の中の名文中の名文を集めたものとする。
哲学テーマの数については、500とする。
1つの哲学テーマについて、古今東西の名著の中の名文中の名文を100編集める。
名著とは、哲学書・思想書だけでなく、聖典・経典、文学書(詩、小説、物語、戯曲、随筆、評論、日記、記録、手記)、歴史書、科学書等、全ての名著を対象とする。
1編の名文の文字数は、4000字以内とする。
2 本の体裁
①A4版、縦書き、4段組とする。
②1巻の頁数は、1200頁程度とする。
③1頁の文字数は、2200文字程度とする。
④最も安価の印刷製本方法によるものとする。(並本、平とじ等)
3 本の内容
①主要な哲学テーマ500について、それぞれに古今東西の名著の中の名文中の名文を100編集める。
②1編の名文の文字数は,4000字以内とする。
③1編の名文は、見開きの2頁に収めるものとする。
④1編の名文の見出しは、著書名とする。
例、「饗宴より」「新約聖書“マタイ福音書”より」「社会契約論より」「エミールより」「方法序説より」「論語より」「老子より」「道徳書簡集“人生の短さについて”より」「純粋理性批判より」「法華経より」「ファウストより」「神曲より」「草枕より」等。
⑤哲学テーマが異なれば、同じ見出しが付く事となる。また、同じ哲学テーマの中で、同じ著書から2編以上掲出する時は、「饗宴より~その2~」等とする。見出しに著書名が多く掲出されればされるほど、名著としてのイメージが読者に焼き付く事となる。
⑥見出しの後には、名文をそのまま掲載するものとする。名文の文字数は4000字以内とする。なお、古文、漢文については、現代語訳を掲載するものとする。文字数に余裕があれば、古文、漢文と現代語訳を併記しても良い。
⑦名文の後に、著書及び著者の簡単な解説を掲載するものとする。文字数にして、200字前後とする。
⑧『哲学読本大全(全100巻)』は、100巻、500章、50,000節とする。
100巻とは、100冊の意味である。
500章とは、500哲学テーマの意味である。
50,000節とは、50,000の名文(古今東西の名著の中の名文中の名文)の意味である。
⑨1巻(冊)に、5哲学テーマ、500名文を収める。1哲学テーマについて、100名文を収めるので、5哲学テーマ×100名文=500名文=1巻となる。
⑩1名文については、見開き2頁に収める。(1名文については、4000文字以内とする)
⑪哲学テーマについては、日本国民にとって必要な哲学テーマを選定する。なお、その際、中学生、高校生を特に考慮に入れて選定するものとする。
⑫哲学テーマについては、夢、希望、理想、正義、勇気、智恵、愛、友情、地球、自然、環境、生命,勉強、学問、芸術、社会、経済、国家,法、真善美、精神、感情、自分等々、「自分に関する事」「人間関係に関する事」「社会に関する事」「自然に関する事」等、全ての分野を対象とするものとする。
⑬漢字については、日本聖書協会発行の聖書のように、全てにルビを付するものとする。これにより、小学校高学年からでも読む事が出来るようになり、『哲学読本大全(全100巻)』は、文字通り、全ての国民向けの読本となる。
⑭『哲学読本大全(全100巻)』については、全ての、公立図書館、大学図書館、小中高校図書室、公民館図書室に備えるものとする。
4 本の作成方法
①全国の教育学部のなるべく多くの哲学担当教官の参加を得て、「哲学読本大全(全100巻)作成委員会」を設置する。(俗称100名委員会。)
②「哲学読本大全(全100巻)作成委員会」の事務局は、哲学教育体制が整っており、かつ学生・院生・卒業生・一般市民等の哲学ボランティアの参加の得やすい大学に設置するものとする。
③「哲学読本大全(全100巻)作成委員会」の事務局は、作成委員会の委員に対して、哲学テーマを募集する。
④各委員は、それぞれ500の哲学テーマを選定し、メールで事務局に送信するものとする。
⑤事務局は、各委員より提出された哲学テーマを基に、哲学テーマ一覧表を作成し、各委員にメール送信し、諮り(投票等)、500の哲学テーマを決定するものとする。
⑥事務局は、委員に対して、500の哲学テーマ毎に、古今東西の名著の中の名文中の名文を募集するものとする。
⑦各委員は、それぞれの哲学テーマに相応しい古今東西の名著の中の名文中の名文の写しをスキャナーで読み込み、事務局に対してメールで送信するものとする。各委員は、1つの哲学テーマについて1編以上、全部で500編以上の古今東西の名著の中の名文中の名文の写し(スキャナーで読み込んだ写し)を送信するものとする。
⑧事務局は、送信された古今東西の名著の中の名文中の名文(以下名文と呼ぶ)を、哲学テーマ毎にそのままの形(スキャナーで読み込んだ写しのままの形)で編集し、「哲学読本大全(全100巻)資料集」としてファイルを作成し、各委員に送信するものとする。
⑨各委員は、送信された「哲学読本大全(全100巻)資料集」を基に、「哲学読本大全(全100巻)」のあり方について、それぞれ検討するものとする。
⑩事務局は、次に、全ての大学の教育学部の教師及び教育学部付属学校の教師を対象に、上記⑥と同じ要領で、500の哲学テーマに関して古今東西の名著の中の名文中の名文を募集するものとする。
⑪各教師は、上記⑦と同じ要領で、それぞれの哲学テーマに相応しい古今東西の名著の中の名文中の名文の写しをスキャナーで読み込み、事務局に対してメールで送信するものとする。
⑫事務局は、各教師から送信された名文と⑧で作成した「哲学読本大全(全100巻)資料集」を、それぞれの哲学テーマ毎に、そのままの形(スキャナーで読み込んだ写しのままの形)で編集し直し、「哲学読本大全(全100巻)資料集その2」としてファイルを作成し、各教師及び各委員に送信するものとする。
⑬各委員は、送信された「哲学読本大全(全100巻)資料集その2」を基に、「哲学読本大全(全100巻)」のあり方について、再度それぞれ検討するものとする。
⑭事務局は、次に、全国の全ての小中高校の教師(父兄を含めても良い)を対象に、上記⑥と同じ要領で、500の哲学テーマに関して古今東西の名著の中の名文中の名文を募集するものとする。
⑮各教師は、上記⑦と同じ要領で、それぞれの哲学テーマに相応しい古今東西の名著の中の名文中の名文の写しをスキャナーで読み込み、事務局に対してメールで送信するものとする。
⑯事務局は、各教師から送信された名文と⑫で作成した「哲学読本大全(全100巻)資料集その2」をそれぞれの哲学テーマ毎に、そのままの形(スキャナーで読み込んだ写しのままの形)で編集し直し、「哲学読本大全(全100巻)資料集その3」としてファイルを作成し、各委員に送信するものとする。
⑰各委員は、送信された「哲学読本大全(全100巻)資料集その3」を基に、「哲学読本大全(全100巻)」のあり方について、再度それぞれ検討するものとする。
⑱事務局は、次に、全国民を対象に、上記⑥と同じ要領で、500の哲学テーマに関して古今東西の名著の中の名文中の名文を募集するものとする。
⑲各国民は、上記⑦と同じ要領で、それぞれの哲学テーマに相応しい古今東西の名著の中の名文中の名文の写しをスキャナーで読み込み、事務局に対してメールで送信するものとする。
⑳事務局は、各国民から送信された名文と⑯で作成した「哲学読本大全(全100巻)資料集その3」をそれぞれの哲学テーマ毎に、そのままの形(スキャナーで読み込んだ写しのままの形)で編集し直し、「哲学読本大全(全100巻)資料集その4」としてファイルを作成し、各委員に送信するものとする。
○21各委員は、送信された「哲学読本大全(全100巻)資料集その4」を基に、「哲学読本大全(全100巻)」のあり方について、再度それぞれ検討するものとする。
○22事務局は、「哲学読本大全(全100巻)資料集その4」をそのままの形で、ウェブ上に公開し、全国民を対象に「哲学読本大全(全100巻)」に掲載して欲しい名文の投票を行う。
○23事務局は、「哲学読本大全(全100巻)資料集その4」を投票順位毎に編集し直し、「哲学読本大全(全100巻)資料集その5」を作成し、各委員に送信するものとする。
○24各委員は、「哲学読本大全(全100巻)資料集その5」を基に、それぞれの哲学テーマ毎に、それぞれの名文の中から100の名文を選び、その結果を事務局に送信するものとする。
○25事務局は、「哲学読本大全(全100巻)資料集その5」と⑳の集計結果を基に、哲学テーマ毎に、100の名文を決定し、「哲学読本大全(全100巻)素案」を作成し、各委員に送信し、各委員に諮り、哲学読本大全(全100巻)に掲載する50,000の名文(500哲学テーマ×100名文=50,000名文)を決定するものとする。なお、それぞれの哲学テーマに掲載される名文の順番は、各委員及び全国民からの投票の多かった順とする。
○26事務局は、50,000の名文それぞれについての著者と著書の簡単な解説文(200文字程度)の作成を、専門分野に応じて、各委員並びに教育学部の教師に依頼するものとする。
○27事務局は、「哲学読本大全(全100巻)素案」をテキスト形式に変換し、全ての漢字にルビを付し、50,000の名文に関する著者及び著書の解説、並びに巻頭言や奥書等を加え、最終的な印刷製本の形にした上で、各委員に送信し、諮り、「哲学読本大全(全100巻)」の最終原稿を決定するものとする。
○28事務局は、「哲学読本大全(全100巻)」については、ウェブ公開用原稿とオンデマンド印刷用原稿の2種類のファイルを作成するものとする。
○29ウェブ公開用原稿は、ウェブ上で見易い形式に整えたものとする。
○30オンデマン印刷用原稿については、その原稿を利用すれば、誰でも、同じ「哲学読本大全(全100巻)」が作成できるものとする。印刷製本仕様まで指示するものとする。
○31事務局は、「哲学読本大全(全100巻)」の作成については、最大限、哲学ボランティアを活用するものとする。哲学ボランティアは無報酬とする。哲学ボランティアについては、学内、学外から哲学を愛する者を広く募集するものとする。
○32「哲学読本大全(全100巻)」については、オンデマンド印刷製本を行い(業者に発注)、全国の公立図書館及び大学図書館に無償で配布するものとする。
○33「哲学読本大全(全100巻)」については、ウェブ公開用とオンデマンド印刷製本用の2種類のファイルを作成し、共にウェブ上で公開する。ウェブ公開用の「哲学読本大全(全100巻)」は誰でも自由に閲覧できるようにするものとする。オンデマンド印刷製本用については、これを利用し、誰でも自由に「哲学読本大全(全100巻)」を印刷製本できるものとする。
○34小学校、中学校、高校及び公民館においては、オンデマンド印刷製本用のファイルを利用して、それぞれにおいて、「哲学読本大全(全100巻)」の印刷製本を行い、それぞれの図書室に備えるものとする。印刷製本については、業者に外注に出しても良いし、学校等で行っても良い。教育の一環として学校等で行えば、教育的効果がより高くなる。
なお、哲学に関心のある者は誰でも、自由にオンデマンド印刷製本用のファイルを利用して「哲学読本大全(全100巻)」の印刷製本を行っても良いものとする。
○35以上により、全国の全ての、公立図書館、大学図書館、小中高校及び公民館の図書室、並びに哲学に関心のある者の書棚に「哲学読本大全(全100巻)」が備わる事になり、『哲学一貫教育』の素地が整う事になる。
○36「哲学読本大全(全100巻)」は、文部科学省の委託事業または補助事業として行う。
○37「哲学読本大全(全100巻)」の作成は、上記のように哲学読本大全(全100巻)作成委員会によって行っても良いが、日本教育大学協会が文部科学省からの直接の補助事業または委託事業として受け、協会内に「哲学読本大全(全100巻)作成部会」を設置して、行っても良い。その方が、哲学教育振興がより図られる事になる。
○38日本教育大学協会の作成部会が、「哲学読本大全(全100巻)」を作成し、その指導の下に、全国の全ての小中高校の図書室並びに大学図書館、公立図書館、公民館図書室等に「哲学読本大全(全100巻)」が備えつけられるようになれば、全国的に哲学的機運が高まり、それに伴い哲学教育への関心が高まり、日本教育大学協会の中に『哲学教育部会』が設置される事となる。この『哲学教育部会』を中心に、「小中高校哲学一貫教育」、「一生涯にわたる哲学一環教育」、「大学教育学部における徹底した哲学教育(哲学的に優れた教師の育成方法)」「哲学フォーラム」「哲学的風土づくり」等の研究が行われ、『哲学一貫教育』が加速度的に進行する事となる。
5 本の作成財源について
①文部科学省の委託事業もしくは補助事業で行う。実費(印刷製本費、配送費、通信費、事務用品等)については全て国庫負担とし、労働の対価については、全て無報酬(ボランティア)とする。ただし、委託事業で実施する場合は、国の基準により報酬を受ける事が出来るものとする
②万が一、文部科学省の委託事業もしくは補助事業で行う事が出来ない場合は、哲学に関心のある者等の寄付により行う。財源負担の考え方は①に同じ。
③公立図書館及び大学図書館に対して、「哲学読本大全(全100巻)」を無償交付するのではなく、それらの図書館においても、上記4の○28にあるように、それぞれの図書館においてオンデマンド印刷製本を行うのであれば、今回の「哲学読本大全(全100巻)」の作成については、労働の対価は全て無報酬(ボランティア)とするので、それほど経費はかからず、哲学に関心のある者等の寄付等で十分に行える。
6 著作権及び出版権について
①「哲学読本大全(全100巻)」作成に入る前に、出版社団体等に対して、『哲学教育』の為に利用するのであり、収益事業は全く行わず、ほとんどを無報酬(ボランティア)で行う旨を説明し、著作権料及び出版権料は無償としてもらう。
②それぞれの名文の末尾には必ず、その名文を複写した図書名と出版社名記載するものとする。これにより、その図書の購入の便宜を図る。名文はその出版物(著書)のほんの一部(4000字以内)であり、「本の紹介」に準じたものとして扱ってもらう。
③生存者の名文は、「哲学読本大全(全100巻)」は掲載しないものとする。
④「哲学読本大全(全100巻)」については、廃刊になっている図書の中の名文も利用する。
以上が、「哲学読本大全(全100巻)」の作成方法です。
「哲学読本大全(全100巻)」作成の一番良い方法は、上記の実施要領の最後の所で述べましたように、日本教育大学協会が文部科学省から委託や補助を受けて作成する方法だと思うのですが、現在の所、協会内に「哲学教育部会」が無い以上、現実的にはかなり難しいと思います。
現在において、一番妥当な方法は、「哲学読本大全作成委員会」方式だと思います。
つきましては、どうか教育学部の哲学担当の先生方で、先ずは「哲学読本大全作成委員会」を組織して頂きたいと思います。
そして、哲学教育の充実した大学において、事務局の労を取って頂きたいと思います。
この「哲学読本大全」については、大いなる可能性があるのです。
この書簡を書き始める時は、その可能性に気付いていませんでしたが、書き続けている内に、その可能性に気付いて来たのです。
現在の所の目的は、「哲学読本大全(全100巻)」のウェブ閲覧用のファイルとオンデマンド印刷製本用のファイルの作成とこの2種類のファイルのウェブ上での公開と、「哲学読本大全(全100巻)」(オンデマンドで業者に最も安価の方法で印刷製本させたもの)の公立図書館、大学図書館への無償交付です。
この内の、公立図書館、大学図書館への無償配布にかなりの経費がかかります。
「哲学読本大全(全100巻)」の1セットの印刷製本・配送費が100,00円だとします。
そして、公立図書館、大学図書館の数が合わせて5,000だとします。
そうすると、100,00円×5,000図書館=5億円となり、これを委託金・補助金や寄付金で賄おうと思っているのですが、はっきり言って無理です。
と言う事で、今回の「哲学読本大全(全100巻)」作成事業から、公立図書館、大学図書館への無償配布は削除するものとします。
その代わり、全ての公立図書館、大学図書館及び全ての小学校、中学校、高校、公民館等の図書室において、それぞれにおいて、「オンデマンド印刷製本用のファイル」を利用して、「哲学読本大全(全100巻)」を印刷製本して、備えるものとします。
哲学読本大全作成委員会では、各図書館、各図書室において、「哲学読本大全(全100巻)」を印刷製本し、備え付けるよう、依頼啓発運動を行うものとします。
この方針変換を行う事により、「哲学読本大全(全100巻)」作成事業には大いなる可能性が出て来るのです。
「哲学読本大全(全100巻)」に収められる、古今東西の名著の中の名文中の名文の数は、50,000(500哲学テーマ×100名文=50,000名文)ですが、この「哲学読本大全(全100巻)」を作成する段階で集められる名文の数は、50,000の何倍にもなるのです。
ここで、もう一度「哲学読本大全(全100巻)」の作成方法をお浚いして置きます。
先ずは、哲学読本大全作成委員会の委員の先生方から、それぞれの哲学テーマについて1編以上、全部で500編提出して貰う事になっています。
哲学読本大全作成委員会については、教育学部の哲学担当先生方になるべく多く参加して頂くものとしています。
委員の数が100名だとすると、この段階で既に50,000の名文(500哲学テーマ×1名文×100人=50,000名文)が集る事になります。
次に、教育学部及び教育学部付属学校の教師の方々を対象に、名文の募集を行います。
ここでは、全ての教師に500哲学テーマごとにそれぞれ1編以上、全部で500編の名文は求めない事にしますが、なるべく多くの名文を提出して頂くよう依頼するものとします。
例えば、ここで1,000人の教師から、それぞれ100の名文の提出があったとします。
そうすると、ここで100,000の名文(100名文×1,000人=100,000名文)が集る事になります。
ここまでの段階で既に、150,000の名文(50,000名文+100,000名文=150,000名文)が集る事になります。
次に、全国の全ての小中高校の教師(父兄を含めても良い、場合によっては児童生徒を含めても良い)を対象に、名文の募集を行います。
例えば、ここで10,000人の教師から、それぞれ10の名文の提出があったとします。
そうすると、ここで100,000の名文(10名文×10,000人=100,000名文)が集る事になります。
ここまでの段階で、250,000の名文(50,000名文+100,000名文+100,000名文=250,000名文)が集る事になります。
次に、国民を対象に、名文の募集を行います。
例えば、ここで10,000人の国民から、それぞれ10の名文の提出があったとします。
そうすると、ここで100,000の名文(10名文×10,000人=100,000名文)が集る事になります。
ここで最終段階と成りますが、ここまでに350,000の名文(50,000名文+100,000名文+100,000名文+100,000名文=350,000名文)が集る事になります。
「哲学読本大全(全100巻)」では、この内の50,000名文だけを使用する事になりますが、後の300,000名文は捨てて良いのでしょうか。
決して捨ててはなりません。
これこそが国民の英知です。
これを活用しなくてはなりません。
募集を大々的に行えば、もっともっと名文が集るかも知れません。
この英知を活用してこそ、日本にも哲学的土壌が生まれて来る事になるのです。
それでは、どの様に利用するのか。
それが、ウェブ閲覧用のファイルの作成とオンデマンド印刷製本用のファイルの作成と、この2つのファイルのウェブ上での公開です。
先ずは、各委員、大学教育学部関係教師、全国小中高校教師、及び各国民が、それぞれにスキャナーで読み込み、そしてメールで送信して頂いた名文の写しを、全てテキスト形式に変換します。
そして、それを500の哲学テーマ毎に整理して、ウェブ閲覧用のファイルとオンデマンド印刷製本用のファイルを作成し、この2つのファイルをウェブ上で公開します。
例えば、350,000の名文が集っていたとすれれば、単純計算をすると、1つの哲学テーマに700の名文がある事なります。
例えば、知恵と言う哲学テーマについて、700の名文がある事になります。
そして、それぞれは、国民一人一人が名文として認めたものです。
その700の名文を読めば、日本人における知恵の概念を理解する事が出来ます。
後は、それらを抽象していけば、日本人おける知恵とそして世界における知恵の普遍的概念に近付いて行く事が出来る事になります。
何故なら、その名文は古今東西の名著の中の名文中の名文なのですから。
しかし、上記の様な作業は、閑暇があり、哲学的思考に慣れた人でなければ、中々出来ない事です。
そこで次に行う事が、その350,000名文を編集し直して、哲学読本の別版を作成する事です。
勿論、別版と言っても、ウェブ閲覧用のファイルとオンデマンド印刷製本用のファイルの作成とその2つのファイルのウェブ上での公開版の事です。
哲学読本の別版としては、次の様なものが考えられます。
これにより、哲学読本がより国民にとって、より身近なものとなります。
なお、公立図書館及び大学図書館においては、別版についても、必ず印刷製本し、哲学読本大全(全100巻)と共に、同じ書架に保管し、『哲学読本コーナー』を設置するものとする。
これにより、『哲学読本シリーズ』は社会的に認知される事になり、ここを基として、『哲学一貫教育』が始まる事になるのです。
なお、この哲学読本シリーズの成否は、偏に哲学ボランティアにかかっています。
「哲学読本大全作成委員会」事務局の下に、「哲学読本大全作成グループ」を設置し、多くの哲学ボランティアに登録して頂くものとします。
そして、この哲学ボランティアの方々に実際の作業(資料集の作成や原文とテキスト形式に変換した本文との読み合わせ等)を行って貰うものとします。
哲学(知恵を愛する事)を愛する人であれば、決して労は厭わないと思います。
事務局のある大学の、教師、学生、院生、卒業生、他の大学の教師、学生、院生、そして一般市民等、なるべく多くの哲学ボランティアを集める事により、この『哲学読本シリーズ』はひとりでに完成して行く事になるのです。
そして、この「哲学読本大全作成グループ」及び「哲学読本大全作成委員会」が「哲学フォーラム日本」へと発展して行き、日本の哲学一貫教育の礎となるのです。
「小学生の為の哲学読本」
「中学生の為の哲学読本」
「高校生の為の哲学読本」
「大学生の為の哲学読本」
「青年の為の哲学読本」
「女性の為の哲学読本」
「社会人の為の哲学読本」
「高齢者の為の哲学読本」
「哲学読本(西洋思想編)」
「哲学読本(東洋思想編)」
「哲学読本(日本思想編)」
「哲学読本(聖典・経典編)」
「哲学読本(道徳編)」
「哲学読本(宗教編)」
「哲学読本(社会編)」
「哲学読本(自然編)」
「哲学読本(人間編)」
「哲学読本(科学編)」
「哲学読本(教育編)」
「哲学読本(幸福論)」
「哲学読本(平和論)」
「哲学読本(自由論)」
「哲学読本(平等論)」
「哲学読本(戦争論)」
「哲学読本(芸術論)」
「哲学読本(国家論)」
「哲学読本(家族論)」
「哲学読本(結婚論)」
「哲学読本(自殺論)」
「哲学読本(いじめ論)」
「哲学読本(差別論)」
「哲学読本(友情論)」等々必要に応じて作成
以上が哲学読本大全の作成要領です。
以上長々と述べて参りましたが、この書簡で述べた事を整理すると、先ずは『哲学一貫教育』の概要の述べ、次に『哲学フォーラム』の概要を述べ、次に『哲学読本大全』の概要を述べた事になります。
最後に、今後のスケジュールを述べて、この書簡の結論としたいと思います。
①『哲学読本大全』の作業過程において、有識者の中に『哲学一貫教育』に関する関心が高まり、『哲学読本大全』作業母体と中心として、『哲学フォーラム日本』が生まれる。
②『哲学フォーラム日本』の活動により、小学校、中学校、高校、大学教育学部、図書館、公民館等に『哲学対話室』が設置される事になり、日本国中に哲学対話の輪が広がり、日本国中に哲学的機運が醸成されるようになる。
③これらを受けて、文部科学省を中心に『小中高校哲学一貫教育』、『一生涯に渡る哲学一貫教育』、『大学教育学部における徹底した哲学教育(哲学的に優れた教師の育成)』が組織的行われる事になる。
④これにより、日本は哲学的に成熟した国家となり、嘗てのギリシアと並び称されるような国家となる。
⑤これにより、日本人は『哲学の民』と呼ばれる事になり、諸外国から一目を置かれるようになる。
これが『哲学一貫教育』の最終目標です。
すなわち、哲学一貫教育とは、哲学による国づくりの事なのです。
以上でこの稿を締めたいと思うのですが、最後に一言だけ、教育学部の哲学担当の先生方に言って置きたいと思います。
それについては、本文の中でも言っておりますが、文学部の哲学専門教育と教育学部の哲学教育は根本的に違うと言う事です。
文学部の哲学専門教育(特に旧帝大の哲学科等)は、カント、ヘーゲル、プラトン等々の研究家を育成する事にありますが、教育学部の哲学教育は“ソクラテス”を育成する事にあります。
すなわち、『知恵の産婆役』を育成する事にあります。
その為、文学部の哲学専門教育の様に限られた哲学者から学ぶのではなく、古今東西のあらゆる偉大な人々から言葉を学ばなければならないのです。
文学部の哲学専門教育の様に数人の哲学者からだけではなく、数十人、数百人の賢人の言葉から学ばなければならないのです。
その為にも、『哲学読本大全』が必要なのです。
学校の先生は多くの言葉を知っていなければなりません。
そして、その言葉の本質をも知っていなければならないのです。
ソクラテスは,若い内に諸方を旅し、多くの賢人の言葉に触れ、そしてそれぞれの言葉の本質を考え抜きました。
教育学部の学生にもその様な機会が恵まれれば良いのでしょうが、現今下では中々難しい事です。
『哲学読本大全』がその肩代わりをするのです。
学生は、『哲学読本大全』の中で多くの賢人の言葉に巡り会います。
もしその言葉が片鱗に触れたら、学生はその原典へと向かうでしょう。
そして、そこでその賢人と語り合う事でしょう。
『哲学読本大全』は、その世界の入り口を示して上げる為のものです。
学生が、例えは知恵について、100の名文を読む。
そしてその内の一つにインスピレーションを感じる。
そこからその賢人の中に入って行く。
『哲学読本大全』は問題解決の糸口である。
例えばいじめの問題で悩む。
いじめに関する100の名文を読む。
いじめの本質が分かって来る。
そしてある賢人の中に入って行く。
彼はもういじめに悩む事は無く,新たな世界へと向かう事になる。
教育学部の学生は、4年間の間に、多くの言葉に触れ、多くの賢人に巡り会い、そして多く言葉の本質を抽出していかなければなりません。
その為にも、徹底した哲学教育(48単位)が必要なのです。
小中高校教育は全人教育です。
教師そのものが知恵でなくてはならないのです。
現代の日本の荒廃、それは学校の教師に哲学的素養(知恵)が無い事によります。
日本を再生する為には、教育学部における徹底した哲学教育が必要なのです。
そして、徹底した哲学教育により、日本は世界に優れた国家になるのです。
『日本の再生は、教育学部の哲学教育にあり!!!』
これを標語に、哲学教育について考えて頂きたいと思います。
最後に“哲学”の定義をして置きましょう。
哲学とは、philosophia、知恵(sophia)愛する(philo)事。
これは『汝自身を知れ』と同じ事。
教育学部の哲学教育は、全てソクラテスに通じているのです。
『汝自身を知れ』
その為に、ソクラテスは『知恵の産婆役』に徹したのです。
教育学部の学生、将来学校の教師となる者は、“ソクラテス”でなければならないのです。
子供の中に眠る無限の可能性、すなわち“知恵”を引き出す者ではなくてはならないのです。
“知恵とは何か”
これを最後に置いて、この稿を締めたいと思います。
敬具
平成20年11月 日
哲学哲男
追伸
「哲学一貫教育提唱文」を別途掲載して置きます。
「哲学一貫教育提唱文」は、最初は平成20年2月3日日付で文部科学省初等中等教育局長殿宛に、2回目は平成20年2月10日日付で文部科学省生涯学習政策局長殿宛に、3回目は平成20年2月17日日付で内閣官房長官宛に、4回目は平成20年3月9日日付で文部科学省初等中等教育局教育課程課長殿宛に、5回目は平成20年3月18日日付で文部科学省初等中等教育局教育課程課学校教育官兼道徳教育調査官殿宛に、6回目は平成20年4月7日日付で東京学芸大学哲学倫理分野教官殿宛に送っています。
それから、「哲学詩集『百章』」も併せて掲載して置きます。
これは、大学教育学部における徹底した哲学教育のカリキュラムの所で述べた『哲学作文集作成(在学中に100の哲学テーマについての作文を作成する)』の悪例です。
この「哲学詩集『百章』」は、1つの哲学テーマについて、僅か14行に纏めています。
短い時間の中で、取り敢えず100章を纏めてみようと言う趣向から、この様な悪例となっています。
『哲学作文集作成(在学中に100の哲学テーマについての作文を作成する)』については、それぞれの哲学テーマについて、「哲学読本」を読み、哲学読本から啓発を受けて「原典」を読み、更に哲学的素養のある人々と対話し、また自分自身と対話した結果を纏めたものでなくてはなりません。
それは、1つの哲学テーマについて、何十行、何百行にも及ぶものとなる筈です。
それでこそ、その哲学テーマが自分のもの成っていきます。
学生にはその為の時間が十分にあるのです。
別添の「哲学詩集『百章』」はただのひらめきです。最も悪い例の叩き台として使用して下さい。
もし上記の様な「100の哲学テーマに関する作文集」を卒業までに完成していたら、その学生は十分に“ソクラテス”として資格があると思います。
「100の哲学テーマに関する作文集」の提出を教員採用条件としたら、日本は一気に哲学国家へと向かう事になります。
何故なら、学校の先生全てが“ソクラテス”なのですから・・・。
彼は児童生徒に向かってこう言うでしょう。
『汝自身を知れ』と
そしてまたこう言うでしょう。
「もし自分自身が生まれそうになったら私に言いなさい。私が産婆役に成ってあげるから。」と
学校中に哲学対話の輪が広がります。
“いじめとは何か”
いじめの本質が分かったら、そのいじめっ子は更にいじめを続けるのでしょうか。
哲学対話とは徹底的に自分自身を知る事。
その為には産婆役の“ソクラテス”が必要なのです。
※「私の哲学百章」も掲載して置きます。
この「私の哲学百章」は、私にとって大事な百の哲学テーマについて、思いの丈を述べようとしたものですが、30章で断章となっています。
時間が無ければ中々思う様に行きません。
大学生には時間が一杯あります。
若い力で一気に書き上げれば、その後の哲学人生に大きな力と成ります。
悪例として、活用して下さい。
別稿「小中高校に設置する哲学対話室について」
私は前稿、すなわち大学の教育学部の哲学の先生方に出す書簡文を書き終えた後、暫くそのままにして置きました。
そして、今回それを形あるものしようと思った時、小中高校に設置する哲学対話室について、新たな可能性を見い出したのです。
それは、この哲学対話室が、いわゆる落ちこぼれと言われる児童生徒たちを救う最も有効な方法だと気付いたのです。
しかし、前稿で述べたような方法ではその効果が全く出ないので、ここに新たな仕組みを提案する事にしました。
前稿で述べた哲学対話室ついては、どちらかと言うと哲学的に優秀な児童生徒を育成する為のものでした。
その仕組みは、プラトンの「饗宴」と同じです。
すなわち、ソクラテス(哲学的素養に優れた哲学ボランティア)を中心に、様々な哲学テーマについて、数人でまたは一対一で、対話(弁証)を重ねると言う方法です。
これにより、この哲学対話に参加する児童生徒の哲学能力は素晴らしいものに成って行く事は確かです。
しかし、この哲学対話に参加する児童生徒は、元々哲学的素養のある児童生徒たちです。
この哲学対話室には、いわゆる落ちこぼれと言われる児童生徒たちは参加する事はありません。
何故ならあまりにもハードルが高いからです。
私はここで思ったのです。
いわゆる落ちこぼれと言われる児童生徒たちは何に落ちこぼれているのかと。
そして分かったのです。
彼らが「ことば」に落ちこぼれている事が。
哲学とは何でしょう。
それはphilosophia、知恵を愛する事。
それでは知恵を愛するとはどう言う事でしょう。
それは「ことば」を愛する事。
そうです。
彼らは、「ことば」を愛する事に落ちこぼれているのです。
原因が分かれば解決は簡単です。
彼らに「ことば」を愛する術を教えて上げれば良いのです。
その方法が哲学対話室と言う事になります。
しかし前稿で述べた哲学対話室では、哲学的に優秀な生徒とあまりにも格差があり、一緒に遣って行く事は出来ません。
ここに新たな仕組みが必要となるのです。
その仕組みが、二つの哲学対話室です。
一つは、前稿で述べた哲学対話室です。
この哲学対話室では、勿論一対一の対話も行なわれますが、通常は数人が一緒に対話する事を想定しています。
この哲学対話室の基本はフォーラム、すなわち広場です。
すなわち誰でも自由に勝手にです。
この様な中に、「ことば」を愛する術を知らない者は入って行く事は出来ません。
彼らの為にもう一つ特別な哲学対話室を作って上げなければならないのです。
その哲学対話室が一対一専用の哲学対話室です。
「ことば」を愛する事に落ちこぼれている者は、どの様に「ことば」を愛して良いのか分かりません。
先ずは、この一対一専用の哲学対話室において、哲学ボランティア‘ソクラテス’が今の彼の「ことば」を全て聴いて上げなければなりません。
彼は‘ソクラテス’誘導の下に「ことば」を語り続けている内に、段々にその「ことば」が発せられる源泉の様なものに気付いて来ます。
そして、今の「ことば」を全部語り終えた時に、その源泉から次々に新たな「ことば」が生まれて来る事に気付いて来ます。
ここまで来れば、「ことば」を愛する方法、知恵を愛する方法が分かって来ます。
すなわち哲学の何たるかを知るようになるのです。
ここまで来ればもう立派な哲学者(知恵を愛する者、「ことば」を愛する者)と成るのです。
‘ソクラテス’は産婆役に徹しなければなりません。
*彼らが次々に「ことば」を生み出すように。そして最後には真善美に溢れた「ことば」を生み出すように。
一対一専用の哲学対話室は、哲学者(知恵を愛する者、「ことば」を愛する者)育成の為の予備校となるのです。
ここで「ことば」を愛する術を知った者は、自ら「饗宴」、すなわち通常の哲学対話室に飛び込む事となるのです。
「饗宴」すなわち通常の哲学対話室におけるソクラテス(哲学ボランティア)はある程度哲学素養があれば良いのですが、一対一専用の哲学対話室における‘ソクラテス’は、知恵を愛する事、「ことば」を愛する事に優れた者でなくてはなりません。
以上が「小中高校に設置する哲学対話室」に関する新たな発想でした。
※「ことば」を愛する事に落ちこぼれていた児童生徒が、「ことば」を愛するように成った時、その児童生徒の学力は目覚しく伸びる事に成ります。
何故なら、「ことば」は全てを愛するようになるからです。
「ことば」を愛するとは「知恵」を愛する事。知恵を愛するとは哲学。
哲学は根源へと向かい、その根源から世界を再構築する。
別稿「哲学フォーラム(哲学対話室)の意義」
哲学とはphilosophia、知恵を愛する事。
それは真善美に溢れたことばを愛する事。
これは全ての人の心の中にある欲求です。
しかし今の日本においてはこの事が等閑にされています。
それは何故か。
それは日本があまりにも軽佻浮薄の時代に泥んで来たからです。
真面目な事を話す事はうざい事。
これが日本の風潮です。
こんな時代にどうして、真善美に溢れたことばを発する事が出来るでしょう。
しかしそれでも多くの人々が真善美に溢れたことばに渇望しているのです。
しかし世に向かってそのことばを発する事は出来ない。
この事は、何時の時代でも程度の差こそあれ同じではありますが、日本はあまりにも酷い。
この世とかの世。
この世とは私たちが住んでいるこの現実世界、かの世とは私たちが思い描く理想世界。
この世とかの世と繋ぐのもまた哲学の役目です。
すなわちかの世のことばをこの世のことばに翻訳し直す事です。
その為にも哲学対話が必要なのです。
一人では独善に成りがちです。
二人で、三人でまたはもっと多くの人数でそれぞれの理想を語り合う。
そこに共通のものも見い出す。
それがその人の当座の普遍となります。
その当座の普遍をこの世のことばに翻訳し直す、これも哲学の仕事です。
その為にも哲学対話が必要となるのです。
哲学フォーラム(哲学対話室)は、この世とかけ離れた別世界です。
それでこそ、哲学フォーラム(哲学対話室)の意義があるのです。
ここで彼らは理想の世界を語り合います。
そしてその結果を、僅かかも知れませんが、この世に持ち帰るのです。
勿論その為には、その世界に合わせて翻訳し直さなければなりませんが・・・
哲学フォーラム(哲学対話室)は、何ら恥じる事無く、真善美に溢れた言葉を語り合う場なのです。
哲学フォーラム(哲学対話室)が増えれば増える程、日本は軽佻浮薄の時代から脱却していく事でしょう。
哲学フォーラム(哲学対話室)が日本中に展開されたその暁には、日本人の体質も変わっていると思います。
その時、日本人は『哲学の民』と呼ばれる事に成るのです・・・・?
別稿「日本の全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する方法について」
哲学フォーラム(哲学対話室)を始める為には、お金は必要ありません。
哲学に関心のある者が10名ほど集って『哲学フォーラム』と言うサークルを作り、公民館にサークル活動届けを出し、小会議室を週1回借りる事が出来れば、それで哲学フォーラム(哲学対話室)を開始する事が出来ます。
もし日本の全ての公民館に『哲学フォーラム』が出来たらどうでしょう。
私たちは旅をしながら、哲学フォーラムでその町の哲学者たちと対話を交わす事が出来ます。
何と素敵な事でしょう。
日本を旅する楽しさが100倍にもなるのではないでしょうか。
全国の全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)がある!!そんな素敵な日本!!
しかしこの事は決して自然発生的に生まれる事はありません。
誰かが音頭を取らなければなりません。
誰が音頭を取るのでしょう。
勿論、各都道府県にある、国立大学教育学部の哲学の先生方であるべきです。
と言う事で、日本の全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する為の方法をこれからお示ししたいと思います。
『日本の全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する方法について』
1 趣旨
哲学フォーラム(哲学対話室)は、全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館に設置
する事を目指しています。
しかし、小学校、中学校、高校については、学校教育法上の制約もあり、直ぐに設置す
る事は中々難しい状況にあります。
しかし、公民館においては、有志が集れば直ぐにでも設置する事が出来ます。
ここでは、日本の全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する為の方法を
お示ししたいと思います。
2 実施主体
各都道府県に設置されている国立大学の教育学部の哲学教室が中心になって実施するも
のとします。
各国立大学教育学部の哲学教室の先生を中心に、学生、院生、卒業生(小中高校の教師、
社会教育、教育行政で活躍されている方々等)、哲学に興味にある方々で哲学フォーラム都
道府県を組織するものとします。
【例:哲学フォーラム宮崎】
3 全ての公民館に哲学フォーラムを設置する為の方法
① 先ず、大学のある都市(一般的には県庁所在地)の中央公民館1箇所に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置します。設置日時は毎週土曜の午後2時から午後5時までの3時間とします。哲学フォーラム都道府県の会員の中の県庁所在地に住む十数名で『哲学フォーラム○○市中央公民館』を設置し、○○市中央公民館にサークル届けを提出するものとします。このサークルの中に、大学教育学部の哲学教室の先生も名を連ねるものとします。ここで2年間試行を行い、哲学フォーラム(哲学対話室)に関するノウハウを取得するものとします。
【例:哲学フォーラム宮崎市中央公民館】
② 次に大学のある都市より車で1時間内で行ける、その都道府県の大きな地方都市3箇所を選び、その都市の中央公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置するものとします。設置日時は毎週土曜の午後2時から午後5時までの3時間とします。哲学フォーラム都道府県のその都市の近くに住む会員の中の十数名で『哲学フォーラム□□市中央公民館』を設置し、□□市中央公民館にサークル届出を提出するものとします。このサークルの中に哲学教室の院生(または有力会員)も名を連ねるものとします。ここで2年間試行を行い、更に哲学フォーラム(哲学対話室)に関するノウハウを取得するものとします。
【例:哲学フォーラム都城市中央公民館、哲学フォーラム延岡市中央公民館, 哲学フォーラム日南市中央公民館】
③ ①②を通じて、すなわち県庁所在地の哲学フォーラム活動及び地方都市の哲学フォーラム活動を通じて、哲学フォーラム都道府県の会員を増やすものとします。会員にについては、小中高校の教師、社会教育や教育行政の関係者になるべく多くなって貰うものとします。
【例:哲学フォーラム宮崎の例で言えば100名以上に会員を増やすものとします。】
④ ①②を通じて得られたノウハウ、すなわち県庁所在地の哲学フォーラム活動及び地方都市のフォーラム活動で得られたノウハウを、都道府県哲学フォーラムの会員に伝授するものとします。また、学校教育関係者、社会教育関係者、教育行政関係者、一般県民等を対象に、哲学フォーラムに関する講演会・研修会等を県内市町村の各中央公民館で開催するものとします。当該講演・研修・広報活動を通じて、哲学フォーラムを社会的に認知して貰おうものとします。なお、当該講演・研修・広報活動は2年間試行するものとします。
【例:哲学フォーラム宮崎の例で言えば1,200人以上を対象に研修会等を行うものとします(毎月1回×12月×2年間×50人=1,200人、述べ24公民館)】
⑤ 以上①から④までが各都道府県に設置されている国立大学教育学部哲学教室が中心と成って行う試行内容となります。6ヵ年計画で行う事となります。
1年~2年目:県庁所在地中央公民館での哲学フォーラム活動
(1公民館:毎週1回×年50週×2年間)
3年~4年目:3地方都市中央公民での哲学フォーラム活動
(3公民館:毎週1回×年50週×2年間)
5年~6年目:各市町村中央公民館での哲学フォーラムに関する研修会
(24公民館:毎月1回×年12月×2年間)
※1 実際の活動は哲学フォーラム都道府県の有力会員に任すものとします。哲学教室の先生は、有力会員等の情報及び現場視察等に基づき、哲学フォーラムに関する研究論文を纏めるものとします。
※2 それぞれの試行後は、大学教育学部の哲学教室は手を引き、それぞれの哲学フォーラムの自主運営に任すものとします。
⑥ ①から⑤のモデル事業を呼び水として、各市町村の公民館に哲学フォーラムが設置されて行く事になります。なお、当初は各市町村の中央公民館に設置する事を目標とし,最終的には全ての公民館に設置する事を目標とする事とします。
【例:宮崎県には約40の市町村があり、約90の公民館があります。当初の目標が40哲学フォーラムであり,最終の目標が90哲学フォーラムとなります】
⑦ 哲学フォーラムの理想形は毎日開設されている事ですが、当面は毎週土曜日の午後2時から5時までの3時間とします。すなわち、土曜日のその時間にその土地の公民館に行けば、その土地の哲学者と対話する事が出来る様な仕組みを組み立てるものとします。これにより、日本を旅する事が楽しみとなるのです。今日はどんな哲学者と会えるかな?
⑧ 哲学フォーラム(哲学対話室)は、その名の示すとおり、哲学に関する広場(対話室)です。そこでは誰彼と無く自由に哲学について対話をする場所です。その趣旨を最大限尊重するものとしますが、当面は次の様に運営するものとします。
ア そこの公民館の哲学フォーラムの会員がソクラテスになるものとします。
イ ソクラテスは哲学フォーラムが開設している時は常に3名以上常駐するものとします。
ウ 一般市民は、自由に、勝手に、許可無く哲学フォーラムに入室出来るものとし、そこにいるソクラテスや一般市民と自由に哲学的対話が行えるものとします。
エ 哲学フォーラム(哲学対話室)は簡単でいいですので。二つに仕切るものとします。一つの哲学対話室ではソクラテスと一般市民が一対一で対話を行えるようにして置きます。もう一つの哲学対話室では数人が一緒に対話を行なえるようにして置きます。
オ 数人で哲学対話を行う哲学対話室では、先ずソクラテス等が基調演説を行い、その演説に基づき対話を重ねて行くものとします。
カ 一対一の哲学対話室では全く自由にその時々のそれぞれの哲学テーマについて対話を進めていくものとします。
ク 哲学フォーラム開設時間中には、数人による哲学対話が1組、一対一の哲学対話が2組以上同時進行で行えるような体制とするものとします。なお、多くの一対一の哲学対話が行われるようになればなるだけ、その哲学フォーラムの魅力が増す事になります。その哲学フォーラムに行けば、自分に関心のある事について対話が出来るからです。その為には、なるべく多くのソクラテスが常駐している事が必要となります。
コ ソクラテス(その哲学フォーラムの会員)は、哲学に関する自らの考えを纏めた作文を(A4版,10頁以上)を作成するものとします。哲学フォーラムではそれぞれの作文を作文集として纏め、哲学フォーラムに備え付け、一般市民の閲覧に供するものとします。一般市民はその作文集を見て、対話の相手を決める事になります。
⑨ 哲学フォーラム都道府県は、全ての各公民館に哲学フォーラムが設置されるよう
の支援するものとします。
⑩ 哲学フォーラム都道府県では、全ての公民館の哲学フォーラムの情報(各哲学フォーラムの開設時間、ソクラテスの氏名及び作文等)を集約し、一般県民に提供するものとします。
⑪ 哲学フォーラム都道府県では、各公民館に設置されている哲学フォーラムの交流会等を行うものとします。
⑫ 哲学フォーラム都道府県では、哲学的対話の機運の醸成を図る為、簡単な『哲学読本』を作成するものとします。また講演会等を実施するものとします。
⑬ 全ての公民館に哲学フォーラムが設置された暁には、哲学フォーラム都道府県は、小中高校への哲学フォーラムの設置を試行するものとします。なお、小中高校への哲学フォーラムの設置は、哲学フォーラム都道府県と都道府県教育委員会が協力して行うものとします。
⑭ 全ての公民館に哲学フォーラムが設置された暁には、哲学フォーラム都道府県の全国的連携組織として『哲学フォーラム日本』を組織するものとします。
⑮ 『哲学フォーラム日本』では次の事を行う事とします。
ア 公民館等に設置されている哲学フォーラム関する情報の国民への提供
イ 哲学フォーラムの在り方の研究
ウ 機関紙「哲学フォーラム日本」の刊行
エ 『哲学読本大全(全100巻)』の作成
オ 哲学一貫教育の研究
カ 哲学的風土づくりの研究
⑯ 全国の全ての公民館に設置される哲学フォーラムについては、毎週土曜日の午後2時から午後5時までは必ず開設するものとします。それ以外の日時の開設は、各フォーラムがそれぞれ実情に応じて決めるものとします。
⑰ 全国の国立大学の教育学部に設置される哲学フォーラム都道府県(大学図書館の小会議室を利用する)についても、毎週土曜日の午後2時から午後5時まで必ず開設するものとします。
4 日本の全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)が設置される事による効果
① 全ての国民に哲学への関心が高まる。
② 哲学フォーラム巡りが、一つの社会的な運動となる。
③ 哲学フォーラム巡りで、日本各地に哲学的友(知己)を作る事が出来る。
④ 哲学フォーラム巡りにおいて、若者が一生の師を見付ける事が出来る。
⑤ 哲学フォーラム巡りにおいて、若者は多くの哲学者(知恵を愛する者)を知る。
⑥ 哲学フォーラム巡りが、若者にとってのイニシエーション(通過儀礼)となる。
⑤ 哲学フォーラムに、優秀な哲学者(ソクラテス)が集る事になる。
⑥ 哲学フォーラムから、優秀な哲学者(プラトン)が生まれる事になる。
⑦ 哲学フォーラムが、若者の哲学的素養を育てる事になる。
⑧ 哲学フォーラムが、響き合い、哲学的風土が生まれる。
⑨ 哲学フォーラムが、若者の知恵比べの場となる。
⑩ 哲学フォーラムにおいて、世代を超えた対話が行われる事になる。
⑪ 哲学フォーラムにおいて、老人より若者への知恵の伝達が行われる。
⑫ 哲学フォーラムにおいて、以心伝心、口伝、秘伝が行われる。
⑬ 哲学フォーラムにおける一対一の対話により、多くの悩みが解決される。
⑭ 哲学フォーラムにおける一対一の対話により、哲学、すなわち知恵を愛する事の楽しみが国民に広がり、日本は哲学国家への道を歩む事となる。これが哲学フォーラムの最終目標となる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
哲学一貫教育提唱文
平成20年2月3日付け
文部科学省初等中等教育局長殿宛
拝啓 初等中等教育局長 殿
私は現在の日本を憂えている者の一人です。
しかしまた教育によって日本が素晴しい国家になると信じている者の一人でもあります。
私はその為に哲学一貫教育を提唱します。
哲学一貫教育とは、日本国民に対して、一生涯を通じて哲学の機会を提供する事により、日本国民が哲学的に成熟した国民をなる事を目指すものです。
なお、哲学一貫教育における哲学とはphilosophia、知恵を愛する事、真善美を愛する事と解して頂ければ良いと思います。
そして、この哲学一貫教育の中心と成るのが、小中高校哲学一貫教育です。
その具体的実施方法については、下記1の「小中高校哲学一貫教育について」に詳述してありますのでご一読して頂きたいと思います。
現在の教育に不足しているのは知恵の教育です。
知恵と知識が相俟って、素晴しい人間が育っていきます。
しかし、現在の教育はあまりにも知識に偏重し過ぎています。
小中高校哲学一貫教育は、小学校、中学校、高校に渡って哲学教育を一貫して実施する事により、知恵と知識のバランスの取れた児童生徒を育成する事にあります。
小中高校哲学一貫教育の目標は、自ら学び、自ら考える児童生徒の育成です。
すなわち、自らにおいて真善美等を学び、自らにおいて真善美等を考え、そして自らにおいて真善美等を自らのものにしていこうとする児童生徒を育成する事にあります。
その為の方法として、哲学一貫教育においては、読書と思索と作文と対話を実施していきます。
具体的には下記1の「小中高校哲学一貫教育について」をご覧頂きたいと思うのですがが、概要を述べると次の通りです。
小中学校においては、現在の道徳を廃止し、哲学とし、週2時間とします。
高校においては、現在の倫理を廃止し、哲学としかつ必修とし、週2時間とします。
これによって、小中高校の週2時間の哲学一貫教育を完成させます。
小中高校一貫教育においては、読書、思索、作文、対話を対象としますが、授業においては、この内の読書、思索、作文のみを対象とします。
対話については、課外において実施されるものとします。(詳細については下記1の「小中高校哲学一貫教育について」をご覧下さい。)
哲学の授業は週2時間としますが、この内の最初の時間を読書に充て、最後の時間を作文に充てます。
思索については、読書の時間及び作文の時間において当然に行われます。また、読書の時間と作文の時間の間においても、意識的、無意識的に思索が行われる事になります。
読書の時間においては、『哲学読本』を読む事になります。
『哲学読本』とは各学年ごとに作成するもので、各学年に相応しい哲学テーマを30ほど選択し、その哲学テーマに関する名文中の名文を古今東西の名著の中から3編程度掲載したものです。なお、名著については、哲学書だけでなく、広く文学書等(小説、随想、評論、詩等)も対象とします。
読書の時間には、それぞれのテーマに関する名文中の名文を3編程度読む事になります。
作文の時間には、読書の時間に読んだ名文中の名文を契機として、その哲学テーマに関する自由作文を『哲学ノート』に書く事になります。
なお、作文は読書感想文ではなく、その哲学テーマに関する自由な発想の作文を尊重する事とします。線画等の併用も認める事にします。
これを小中高校一貫して実施していきます。
これが小中高校哲学一貫教育の概要です。
何だ、それは単に『読書』と『作文』だけではないかと仰るかも知れませんが、確かにその通りです。
しかし、読書量と作文量が違います。
小中高校で360の哲学テーマ(30テーマ×〔6年+3年+3年〕=360テーマ)について、名文中の名文を読み、そしてその360の哲学テーマについて作文を書く事になるのです。
これにより、児童生徒が如何に哲学的に成熟するかお分かりになると思います。
なお、哲学テーマ例については、下記2の「分野別哲学テーマ例」をご覧頂きたいと思います。
児童生徒の中には、これらの素晴しいものが確かに存在しているのです。
しかし、ほとんどは眠ったままです。
哲学一貫教育においては、先ずこれらを児童生徒に気付かせてあげます。
そして、気付いた後は、児童生徒が自らにおいてこれらを育てあげていきます。
気付かせてあげる方法が哲学読本(読書)であり、自らにおいて育て上げる方法が哲学ノート(作文)なのです。
これら素晴しいものの存在に気付いた児童生徒は、自らにおいてそれを考え、自らにおいてそれを学び、自らにおいてそれを自分のものにしようとします。
人間にはその様な本性があるのです。
その本性こそが哲学、すなわち知恵を愛すると言う行為なのです。
哲学一貫教育は、その本性を目覚ます為の方法であり、その本性を育てる為の方法なのです。
哲学一貫教育の成否は、偏に『哲学読本』にかかっています。
何故なら哲学読本によって、児童生徒の中に眠る素晴しい存在を気付かせる事にあるからです。
名文中の名文と言うものには、人を目覚まさせる力があります。
その様な言葉の力で児童生徒の中に眠っている素晴しい存在を引き出してあげるのです。
ですから『哲学読本』は、哲学者、文学者、芸術家、科学者等々、更には国民の英知を結集して作成する必要があるのです。
素晴しい言葉に触れれば、児童生徒は独りでに啓発されていくものなのです。
現在の道徳教育の弊害は、あまりにも現場の教師に求め過ぎている事にあります。
道徳(哲学)的素養の無い教師に、道徳(哲学)を求めても土台無理なのです。
教師が熱心になればなるほど、自らの価値観を児童生徒に押し付ける事にもなります。
これまで世界は、偉人、賢人、哲人、聖人、英雄、文豪、天才科学者等々を輩出してきました。
これらの人々の『言葉』に触れれば、子供たちは独りでに啓発されていくものなのです。
哲学教育は、『言葉』による教育です。
それも取って置きの素晴しい言葉による教育なのです。
「善く説かれた真理の言葉を摘み集めるのは誰か。」
勿論児童生徒であるべきですが、児童生徒には未だその能力が十分ではありません。
その為に世の大人たちが結集して、素晴しい言葉の範例を示してあげる必要があるのです。
その為に『哲学読本』は、哲学者、文学者、芸術家、科学者等々だけでなく、国民全ての英知を結集して作成する必要があるのです。
キリスト教国家においては、聖書によって子供たちを育て上げます。
イスラム教国家においては、コーランによって子供たちを育て上げます。
日本においては、『哲学読本』よって子供たちを育て上げるのです。
しかし、『哲学読本』は1冊ではありません。
それぞれの教科書会社がそれぞれに出版します。また、一般の出版会社がそれぞれに競って出版する事も期待します。
これら全ての『哲学読本』がハーモニーを成して、日本の子供たちを育て上げていくのです。
『哲学読本』には、イエスの言葉もあって良いし、ブッダの言葉もあって良いし、マホメットの言葉もあって良いし、孔子、老子の言葉もあって良いし、レーニン、マルクス、毛沢東の言葉もあって良いし、聖徳太子、空海の言葉があっての良いのです。
また、ソクラテス、プラトン、デカルト、カント、ショーペンハウワー、ルソー等々
イソップ、ホメロス、ダンテ、シェークスピア、ゲーテ、夏目漱石等々
カエサル、ナポレオン、徳川家康、西郷隆盛等々
レオナルドダビンチ、ピカソ、ベートーベン、モーツアルト等々
ガリレオ、ニュートン、エジソン、アインシュタイン等々の言葉もあるべきです。
これらの言葉がハーモニーを成して児童生徒を育成していくのです。
『哲学読本』は、主義、主張、イデオロギーを教える為の道具ではありません。
『哲学読本』は、児童生徒にとっての“考えるヒント”なのです。
『哲学読本』を契機に、児童生徒が如何なる世界観、価値観を育てていくかは全て児童生徒に任せるべき事です。
『哲学読本』の言葉の採択基準は、知識ではなく知恵です。
知識は他の教科教育でその正しい知識を教えて行く事になります。
『哲学読本』では、それぞれの各分野の偉人、先人たちが、如何に「知恵を愛した」(哲学した)かを学ぶ事になります。
偉人たちが偉人である由縁は、彼らが知恵を愛しぬいた(徹底的に哲学した)所以によるのでしょうから・・・。
小中高校哲学一貫教育の最終目標は、児童生徒が哲学する(知恵を愛する、真善美を愛する)事を学び、そして自らが哲学する(知恵を愛する、真善美を愛する)ようになる事です。
もし高校卒業までに、哲学(知恵を愛する事、真善美を愛する事)の習慣が付けば、その人は死ぬまで哲学する事を止めないでしょう。
もし全ての国民に哲学の習慣が付けばどうなるのでしょう。
そうです。「哲学の民、日本人」の誕生です。
ここまで来れば御伽噺ですが、『小中高校哲学一貫教育』にはその様な明るい未来があるのです。
どうか、ご一考をお願いいたします。
なお、小学校低学年における哲学教育の在り方、高校における哲学教育の在り方、哲学教育における担任教師の負担軽減の在り方、哲学一貫教育の具体的な方法及び効果等について、下記1の「小中高校哲学一貫について」で詳述していますので、ご一読頂きたいと思います。
色々と長々と述べてきましたが、教育により日本を成熟した社会に導きたいのであれば、小中高校哲学一貫教育しかないと思います。
どうか、ご一考をお願いします。
なお、現在教育課程を研究されている、初等中等教育企画課長、同教育制度改革室長及び教育課程課長並びに同教育課程企画室長にも、同文を回覧、回送して頂ければ有り難く思います。
敬具
平成20年2月3日
哲学哲男
追伸
日本国民の一生涯に渡る哲学一貫教育についても、下記3の「一生涯に渡る哲学一貫教育について」で記述しています。
この哲学一貫教育は、小中高校哲学一貫教育を土台として、更に大学教育、社会教育、家庭教育等における哲学教育と一貫性をもたせたものです。
この哲学一貫教育の目標とする所は、正に『哲学の民、日本人』の育成です。
こちらについても、どうかご一読をお願いいたします。
参考資料
下記1「小中高校哲学一貫教育について」
下記2「分野別哲学テーマ例」
下記3「一生涯に渡る哲学一貫教育について」
下記1
【小中高校哲学一貫教育について】
1 趣旨
小学校、中学校、高校において哲学教育を一貫して行う。
2 方法
小学校、中学校においては、現在の道徳を廃止し、哲学とし、授業時間を週2時間とする。
高校においては、現在の倫理を廃止し、哲学としかつ必修とし、授業時間を週2時間とする。
これにより、小中高校における週2時間の哲学一貫教育を実施する。
3 哲学教育の基本的な考え方
哲学教育における哲学とはphilosophia、知恵(sophia)を愛する(philo)事、真善美を求める事とする。
4 哲学教育における目標
自らにおいて真善美等を学び求め、自らにおいて真善美等を自らのものとし、自らにおいて真善美等を実践しようとする児童生徒を育成する。
5 哲学教育における哲学テーマ
現在の小学校・中学校学習指導要領の道徳のテーマと同じく、①自分に関する事、②他人との関係に関する事、③社会に関する事、④自然に関する事の四分野とし、それぞれの分野ごとに更に哲学テーマを設定する。(各分野における哲学テーマ例は下記2の「分野別哲学テーマ例」を参照の事。)
なお、各学年ごとにそれぞれに相応しい哲学テーマを設定する事とし、テーマ数は、各学年ごとに4分野合わせて30程度とする。
6 哲学読本
各学年ごとに1冊作成する。
各学年ごとに設定した30程度の哲学テーマそれぞれ1つごとに、そのテーマに関する3編程度の読み物を掲載する。(授業1時間で読める程度の分量とする。)
なお、読み物は、名著の中から名文中の名文を選択する。
また、読み物は哲学書からだけでなく、広く文学書等(小説、随想、評論、、詩、科学論文等)からも広く採択する。
哲学読本は、黙読が原則であるので、振り仮名を付ける。
※何故読み物は名著の中の名文中の名文でなければならないのか。それはその言葉がその児童生徒が死ぬまで古くならないからであり、その言葉がその児童生徒が死ぬまで魔力を持ち続けるからであり、また児童生徒がその言葉に魅力を感じた時、何時でも原著に向かえるからである。名文中の名文とは時の練磨を経ており何時でも新しい。児童生徒が大人になっても常に新しく在り続ける。すなわちその言葉がその人の中で生き続けるのである。
7 哲学ノート
各学年ごとに1冊作成する。
各哲学テーマについて、児童生徒が書く為の作文ノートとする。(児童生徒は小中高の成長の軌跡を自らにおいて確認できる。)
8 授業の進め方
授業時間は週2時間とする。
週の最初の時間を読書に、週の最後の時間を作文に充てる。
読書の時間には、哲学読本に掲載されている1つの哲学テーマに関する3編程度の読み物を読む。黙読とする。
作文の時間には、そのテーマについての自由作文を哲学ノートに書く。なお、作文は読み物に関する感想文ではなく、読み物を契機にした自由作文とする。
9 哲学教育における読書、思索、作文、対話のあり方
読書については週1時間、作文についても週1時間充てる。
思索については読書の時間及び作文の時間に当然に行われる。また読書時間と作文時間の間にも意識的、無意識的に行われる。
対話については課外に行われる事を期待する。
なお、哲学的素養のある教師が哲学サークルを作り、そこで哲学的対話が行われる事を奨励する。哲学的素養のある教師の下に多くの哲学サークルが生まれる事を期待する。(本来の意味での師弟教育、自らが選択した尊敬する教師の下での師弟教育が行われる事を期待する。アカデミア的な雰囲気が生まれる事を期待する。)
10 哲学教育における評価
哲学教育においては、評価は行わない。作文についても、評価しない。
なお、哲学は教科ではなく、現在の道徳と同じ様にただ単に『哲学』とする。
11 哲学教育における小中学校担任教師の負担の軽減
哲学教育が小中学校の担任教師の負担とならないよう、担任教師の役割は作文が書かれているか否かの確認程度とする。(勿論作文の内容を読み込んで、生徒理解を深める事は大いに結構な事だが、毎週30名の作文を読む事には時間的な制約があると思われる。哲学の本質は自ら学び、自ら考える事にある。)
哲学的対話は、哲学的素養のある教師の下での哲学サークルに期待する。
12 哲学の授業における静謐の確保
哲学の授業の本質は、自ら学び、自ら考え、自らを確認する事にあるので、授業時間中は静謐を保つ事とする。
静謐の中で自分自身を深く考える機会とする。
13 高校における哲学教育
高校における哲学読本については、哲学者、思想家、科学者等の読み物を体系的に整理したものとする。なお、その場合でも解説書ではなく、哲学者、思想家等の原著の一節を切り出したものとする。
なお、高校における哲学教育については、哲学専任教師が担当する。
14 小学校低学年における哲学教育
小学校低学年においては作文能力が十分でないので、作文の時間は設けず、全て読書の時間とする。
読書の時間においては、教師の読み聞かせと児童の発表で構成する。(割合は読み聞かせ3に対して発表1程度とする。読み聞かせであれば、少々高度な内容であっても理解できる。静かに聞く能力を育てる。耳学問の大切さを知らせる。哲学読本は作成する。)
小学校低学年の読書の時間において、哲学の基礎的な問題を網羅する事とする。小学校低学年の読書の時間において、哲学的素養、哲学的素地を身に付けさせる。また、身近な自然についても哲学させる。
嘗ては古老や大人が子供たちに話を聞かせたが、教師がその役割を担うものとする。教師は朗読能力を高めるものとする。教師は現代の語り部となる。
15 哲学教育と他の教科教育等との役割分担
哲学教育において知恵を学び、教科教育において知識を学ぶ。
哲学において、教科(国語、数学、理科、社会等々)を総括し、統合する。
哲学において、教科の知識を生きた知恵に変える。
16 現代における哲学教育の必要性
現代は知識偏重の社会であり、応用能力が低くなってきている。
哲学教育により知恵を学ぶ事により、知恵と知識が共鳴する社会が生まれる。
17 哲学の本質
哲学(知恵を愛する事、真善美を求める事)により、自分が素晴しい存在である事に気付き、それに伴い回りの人間もまた素晴らしい存在である事に気付き、それに伴い社会の大切さを理解するようになる。
また、哲学により自然の美しさ、素晴しさを知る。
哲学教育は、現在道徳教育が目標としている事を実現させる唯一の道である。
18 現在の道徳教育の問題点
現在の道徳教育はあまりにも現場の教師に負担を求めすぎている。
現在の教師の道徳的能力はかなり低い。
その教師が幾ら道徳教育に力を入れても、道徳的能力は高まる事無く、更に低いほうへと落ちて行く。現在の道徳教育はこの悪循環を繰り返している。
子供たちは、素晴しい教材があれば、自ら啓発されていくものである。
19 今回の哲学教育における成否のポイント・・それは哲学読本
今回の哲学教育が成功するか否かは全て哲学読本にかかっている。
哲学読本は、考えるヒントであり、産婆役である。
哲学読本は、児童生徒の中に眠っている素晴しい存在を引き出す為のものである。
児童生徒の中に眠っている素晴しい存在とは、勇気であり、忍耐であり、節制であり、美であり、善であり・・・下記2の「分野別哲学テーマ例」に掲げている全てである。
20 哲学読本の作成方法
哲学読本については、哲学者、文学者、芸術家、科学者等々の英知を結集して作成する必要がある。
また、国民の英知も結集する必要がある。(児童生徒に読ませたい名文を広く国民から募集する等。)
哲学読本の成否は、古今東西の名著の中からそれぞれの哲学テーマに関する名文中の名文を如何に集めるかにかかっている。哲学読本の成否が哲学教育の成否にかかっている。何故なら、哲学読本は児童生徒の中に眠っている素晴しい存在(勇気、忍耐、節制・・・)を生み出す為の産婆役だから・・・。
哲学読本は、全ての教科書会社がそれぞれに出版するものとする。
また、一般の出版会社が大人、子供それぞれの向けの哲学読本を出版する事を期待する。
21 哲学的対話
嘗ては古老や大人たちとの対話の中から、子供たちの中に眠る素晴しい存在が引き出されていた。
しかし現在はその機能が失われてしまった。
今回の哲学一貫教育においては、学校内に哲学的素養のある教師を中心にその様な哲学的対話の場(サークル)が生まれる事を期待する。
また、地域においても、哲学的素養のある人を中心にその様な場が出来る事を期待する。
哲学(真善美等を愛する事)は、対話によって完成していく。
哲学の授業で学んだ事を、対話で確認し、自分のものにしていく。
その為の様々な哲学サークルが生まれていく事を奨励する。
22 一生涯に渡る哲学一貫教育との連携
小中高校哲学一貫教育を土台として、小学校、中学校、高校、大学、社会教育、家庭教育等における哲学一貫教育を完成させる。
小中高校哲学一貫教育と大学、社会教育、家庭教育における哲学教育との連携を図る。
具体的には、大学や地域の哲学的素養のある人々が小中高校に入ってきて、児童生徒と哲学的対話が行われる事を期待する。
また、家庭内においても哲学的対話が行われる機運を醸成する。
哲学的対話は担任の教師ではなく、哲学的素養のある教師や哲学的素養のある地域の人々に期待する。なお、哲学一貫教育が成熟してくれば、全ての教師の哲学的素養は高まっていく。(哲学的素養の無い教師は採用されなくなる。採用試験においては哲学に関する筆記及び口実試験を課する。)
なお、小学校、中学校、高校、大学、社会教育、家庭教育等を通じての一生涯にわたる哲学一貫教育の実施要領については、下記3の「一生涯に渡る哲学一貫教育について」を参照の事。
23 大学教育学部における哲学教育コースの設置
現在の教育学部における哲学の位置付けは、社会科コース及び教育学コースの一部である。
哲学一貫教育を充実させる為、全ての教育学部に『哲学教育コース』を設置する。
24 自殺と哲学一貫教育
哲学一貫教育において、自分自身が如何に素晴しい存在であるかに気付く。
この事により、自殺は激減する。
25 差別、いじめと哲学一貫教育
哲学一貫教育において、自分自身が如何に素晴しい存在であるか気付く。それにより他人もまた如何に素晴しい存在であるかに気付く。
この事により、差別、いじめは激減する。
26 性教育と純潔教育と哲学一貫教育
哲学一貫教育において、自分自身が如何に素晴しい存在であるか、また他人も如何に素晴しい存在であるかに気付く事により、自ら純潔を守るようになる。
この事により、現在の過激な性教育(コンドーム及びピル教育=性交教育)は必要なくなる。
27 公衆道徳と哲学一貫教育
哲学一貫教育により、自分自身の素晴らしさ、他人の素晴しさを知る事により、社会の大切さを知るようになる。
この事により、公衆道徳意識が高まる。
28 環境保護と哲学一貫教育
哲学一貫教育により、自分自身の素晴らしさ、他人の素晴しさ、社会の大切さ、自然の大切さ、美しさを知るようになる。
この事により、環境保護意識が高まる。
29 教育基本法と哲学一貫教育
哲学一貫教育は、教育基本法の精神に基づくものである。
哲学一貫教育において、教育そのものを哲学する。
30 芸術文化振興基本法と哲学一貫教育
哲学一貫教育は、芸術文化振興基本法の精神に基づくものである。
哲学一貫教育において、芸術と文化を哲学する。
31 文字・活字文振興法と哲学一貫教育
哲学一貫教育は、文字・活字文振興法の精神に基づくものである。
哲学の授業時における360回(35回×(6年+3年+3年))の読書と360回(35回×(6年+3年+3年))の作文、これにより文字・活字文化は飛躍的に発展する。
32 子どもの読書活動の推進に関する法律と哲学一貫教育
哲学一貫教育は、子どもの読書活動の推進に関する法律の精神に基づくものである。
哲学一貫教育における読書は真の読書家を育てる。
読書は、消費財の消費ではなく、生産財の生産であるべき。良書は無限の富である知恵を人の心の中に育てる。
33 国民の祝日に関する法律と哲学一貫教育
哲学一貫教育において、法に定める国民の祝日を哲学する。これにより社会に対する理解が深まる。
34 法律と哲学一貫教育
哲学一貫教育においては、全ての法律を哲学する事ができる。
男女共同参画社会基本法、高齢者化社会対策基本法、少子化社会対策基本法、障害者基本法、消費者基本法、土地基本法、海洋基本法、エネルギー政策基本法、原子力基本法、環境基本法、科学技術基本法、食料・農業・農村基本法、森林・林業基本法、水産基本法、災害対策基本法、交通安全対策基本法、食品安全基本法、自殺対策基本法、ガン対策基本法、教育基本法、文化芸術振興基本法、食育基本法等、各種基本法の前文、目的、目標、理念等を哲学する事により、法の求めている精神を理解する事ができ、社会に対する理解が深まる。
35 憲法と哲学一貫教育
憲法には、自由、平等、平和、戦争、人権、権利、義務、健康、文化、教育、勤労等々哲学の対象となるものが多く存在している。
憲法を哲学する事により、法の本質を知るようになり、遵法精神が高まる。
36 教養と哲学一貫教育
哲学一貫教育により、360の哲学的テーマに関する古今東西の名著を読み、またその360の哲学的テーマ関する作文を書く事になる。これにより、日本人の教養のレベルは現在と比較にならないほど高くなる。哲学一貫教育は日本人の教養のレベルの底上げを図るものである。
37 国際交流と哲学一貫教育
哲学一貫教育により、日本人の教養、道徳レベルは高まり、草根の国際交流においても恥じる事はなくなる。
38 国際評価と哲学一貫教育
海外より日本人は『哲学の民』と評される事になる。
古代ギリシアの民と比較されるほどになる。
39 真善美と哲学一貫教育
哲学一貫教育により、日本に真善美が溢れる事になる。これが哲学一貫教育の最終理想である。
40 道徳と哲学一貫教育
哲学一貫教育において、徳(勇気、忍耐、節制、寛容等々)と呼ばれているものを全て哲学する。
これにより、徳の概念を知り、自らを徳に導く。
41 自分と言う存在と哲学一貫教育
哲学一貫教育により、自分が如何に素晴しい存在であるかを知る。
ここから全てが始まる。
自分自身が素晴しい存在であるとは、下記2の分野別哲学テーマ例に記載されてある全てが自分自身の中に素晴しい形で存在していると言う事に気付く事にある。その気付きから、それを引き出し、それを自分のものにしようとする。ここから哲学が始まる。この気付きが無ければ全ての哲学一貫教育は徒労である。この気付きについては、教師は決して教える事はできない。この気付きは児童生徒が自らにおいて気付かなければならない。この気付きを触発させるのが、古今東西の名著の中の名文中の名文である。言霊が言霊に触れて始めて、気付きが起こる。
なお、気付きは、小学1年生、中学1年生、高校1年生それぞれで良い。
おぼろげなるものからよりはっきりしたものへ、ここに小中高校哲学一貫教育の意義もある。
42 社会と哲学一貫教育
哲学一貫教育により、自分自身が素晴しい存在である事に気付けば気付くほど、他人もまた同様に素晴らしい存在である事に気付くようになり、その結果、自分と他人との関係集団(家族、学校、国家等々)、すなわち社会もまた大切な存在である事に気付くようになる。更にその社会を取り巻く環境、そして自然もまた大切な存在である事に気付くようになる。
43 自然と哲学一貫教育
哲学一貫教育により、自然の美しさ、素晴しさ、そして自然の妙を知ようになる。
特に小学校低学年においてそれらを気付かせる機会を多く持つものとする。
例、季節、春、夏、秋、冬、朝、昼、夜、天気、晴れ、雨、曇り、雪、動物、犬、猫、牛、植物、草、花、木、森、海、山、川、太陽、月、星、体、目、口、鼻、耳、手、足、頭、土、砂、石、水、金等々
何故なら、自分の中に存在する素晴しいものと自然は相似しているからである。
児童生徒は素晴しい自然の具象の中に、自分自身の中に存在するそれと相似のものを予感する。
44 哲学読本の作成方法
各教科書会社において、名著を1000冊選ぶ。そしてこの名著の中から名文中の名文を数千編選び、これを更に精選し、学年別、分野別、各哲学テーマ別に配して、各学年ごとの哲学読本を作成する。
なお、小中高校を通じての哲学読本に掲載される名文中の名文は約1000編となる((30時間・テーマ×(6年+3年+3年))×3編=1080編≒1000編)
これにより、児童生徒は独りでに訓化されていく。(教師が幾らごちゃごちゃ言っても馬耳東風。知恵は自らでしか学べない。)
45 何故一つの哲学テーマに名文を3編掲載するのか
それは児童生徒に自らにおいて普遍を学んで貰う為である。
例えば、慈愛について、イエスの慈愛の言葉、ブッダの慈愛の言葉、マホメットの慈愛の言葉を掲載する。
この三つの言葉から三人に共通する普遍の慈愛を学んで貰うのである。
全ての哲学テーマについて、この様な方法で普遍を学んで貰う。
哲学一貫教育においては一切のイデオロギーから離れる。児童生徒が自らにおいて価値を学び、自らにおいて価値を確認し、自らにおいて価値を確立していく。アイデンティティの確立。
46 古今東西名著文庫及び哲学読本文庫
哲学読本に掲載した名著原典については、必ず学校図書館に供えるものとする。
また、全ての教科書会社が出版した哲学読本も、必ず学校図書館に供えるものとする。
47 哲学と教科の役割分担
教科の役割は正確な知識の伝授。その評価は知識の量(正確な記憶の量)であるべき。その評価はまたテストであるべき。
哲学はそれらの知識の意義を考え、それら知識を統合し、そしてその知識を自らの生活の中に生かしていく事にある。
現在の教育改革のもどかしさは、教科教育に哲学を求めている事にある。
この役割分担を明確にすれば、効率的に知恵と知識のバランスのある児童生徒が育てていく事ができる。
哲学一貫教育においては、教科を哲学し、教科の単元を哲学し、必要な場合に単元の中の言葉や公式をも哲学する。
これにより、教科は数段面白くなり、児童生徒は積極的に教科を学ぶようになる。
これにより、児童生徒の学力は飛躍的に上がる。世界に飛び抜けての学力国家となる。
そしてその知識は全てぴちぴちと生きているのである。
「哲学の民、日本人」の誕生である。
※哲学は教科とはぜず、現在の道徳と同じく「哲学」とする。なお、『哲学読本』は教科書に準じるものとする。(勿論無償とする。)
48 国語と哲学一貫教育
哲学一貫教育における哲学の授業とは、読書と思索と作文である。
これは国語教育と全く同じ事である。
国語教育の中にこの哲学を組み込んでも良さそうだが、しかしそれでは哲学の機能は全く埋没し効果は0である。
国語教育は他の教科教育と同じくその本質は教える事にある。
しかし哲学教育の本質は、自らにおいて真善美等を学び求め、自らにおいて真善美等を自らのものにし、自らにおいて真善美等を実践しようとする児童生徒を育成する事にある。その契機が読書であり、その発展が思索であり、その確認が作文である。(確立、確定は対話である。)哲学は決して教える事はできない。
49 現在の道徳教育の問題点
現在の道徳教育の第一の問題点は、道徳を教えようとする事にある。
第二の問題点は、その教える事が何であるかはっきりしていない事にある。教材が無い。
第三の問題点は、教えるべき道徳を教師に求めている事にある。
現在の教師の道徳能力は低い。この教師に道徳を求めても土台無理である。もし教師に道徳教育を強く求めれば、教師は混乱し、その結果として児童生徒も混乱する。現在道徳教育の様に、当らず障らずと言う遣り方は現場の知恵である。
50 徳育と道徳教育と哲学一貫教育
教育再生会議で徳育と言う概念が打ち出された。
その概念については明確でないが、次のように規定するとする。
徳育は、教科であり、教科書がある。(そしてテストもある。)
もし徳育がその様な概念であれば、日本の道徳は現在に比べて比較にならない程よくなる。
教師は、何の迷いも無くその徳を徹底的に教え、児童生徒は何の迷いも無くその徳を徹底的に覚え込む。
これにより、日本の道徳は現在に比べて比較にならないほど良くなる。
一種の教条主義者を育てる事であり、一種のイデオロギー教育だが、その教条、そのイデオロギーはとても良いものであり、私は大賛成である。
しかし、哲学一貫教育における所の『哲学の民、日本人』を育てる事はできない。
善良な教条主義者を育てるか、それとも「哲学の民、日本人」を育てるか、確かに判断に迷う。徳育は哲学一貫教育の道ならしにはなる。徳育を5年間試行し、その後哲学一貫教育に持って行くと言う方法も確かにある。
51 総合学習と哲学一貫教育
総合学習は正に哲学教育の体験、体感の場である。
哲学教育の授業、すなわち読書、思索、作文において、自分自身の素晴しさ、周りの人々の素晴しさ、社会の素晴しさ、自然の素晴しさを概念的に知る。
総合学習においては、これら素晴らしきものを体験、体感する。すなわち人々との対話であり、社会との対話であり、自然との対話である。
具他的には、身近な自然、海、山、川、森、田、畑、公園、公民館、他の小中高校、幼稚園、大学、役場、職場、老人クラブ、婦人会、福祉施設等々考えられる限りの自然、社会に飛び込み、それぞれとの哲学的対話を進める。学校を離れる。
なお、総合学習の時間は月2回程度とし、午後の時間全てを大胆に充てる。(場合によっては昼食の時間も含める。授業時間は1回当たり4授業時間(コマ)とする。)
52 哲学的対話サークル
哲学的素養のある教師が哲学対話サークルを設置する事を奨励する。
また哲学的素養のある地域の人(父兄だけでなく会社、役場、教育機関、公民館等々勤務する人々を含む)が、学校内に哲学対話サークルを設置する事を奨励する。多くのソクラテスが学校入って来る事を期待する。アカデミア的な雰囲気が学校内に醸成される事を期待する。
具体的には、図書室等に隣接して、哲学対話室を学校の規模に応じて1から5程度設置し、哲学的素養のある教師や地域の哲学的素養のある人々が、日替わりで児童生徒との哲学的対話に応じる。
児童生徒は自らの知識を総動員して、自らの尊敬する哲学的素養のある人々に向かう。ある意味では知恵の総力戦である。
哲学対話サークルに通う事が、児童生徒のある意味でのステータスシンボルになる。
哲学対話サークルに通う児童生徒が、学級会活動、児童生徒会活動を牽引するようになり、学校に哲学的雰囲気が醸成される。
彼らが卒業して、世の指導者となり、日本は哲学的国家としての道を進む事となる。
なお、「一生涯にわたる哲学一貫教育」(下記3の要領を参照の事)において、大学、公民館、図書館等においても、それぞれ哲学的対話サークルが設置される事になるが、児童生徒が学校を超えてこれらの哲学的対話サークルと交流する事を奨励する。
様々な哲学的対話サークルにおいて、哲学的対話交流を深める事に依って、真に哲学的に優秀な児童生徒が育成される。彼らが大学等で更に哲学を深め、世に出て指導者となる。これにより、日本は哲学的国家への道を進む事になる。
53 『哲学の民、日本人』、『哲学国家、日本』の誕生
哲学一貫教育により、「哲学の民、日本人」が誕生する事になる。
また、「哲学の民、日本人」の中の真の哲学者が世を指導する事になり、「哲学国家、日本」が誕生する事になる。
54 読書、思索、作文、対話、行為と哲学一貫教育
哲学教育の授業において、読書と思索と作文が行われる。
対話については、哲学的対話サークルにおいて行われる。
行為は自らが行う。誰も行為を強制する事はできない。
読書において真善美等が想起され、思索において真善美等が深められ、作文において真善美等が確認され、対話において真善美等が確定確立され、行為によって真善美等が実践される。
55 哲学の意義と哲学国家日本
哲学とはphilosophia、知恵を愛する事、真善美等を愛する事。
哲学国家日本とは真善美等の溢れる国家となる。
しかし真善美は一つではない。
日本国の真があり、日本国の善があり、日本国の美がある訳ではない。
真善美は国民一人一人にそれぞれある。
哲学国家日本とは、国民一人一人の真善美等がハーモニーをなす国家の事である。
しかし、それら国民一人一人の真善美は一つのものに集約される傾向にある。
それが日本人である所以であり、また人間でもある所以である。
その一つとは知恵と言って良いのかも知れない。
56 哲学一貫教育の究極の基礎、それは『汝自身を知れ』
哲学とはphilosophia、知恵を愛する事。
知恵とは何か。それは究極の意味での本当の自分自身。
その本当の自分自身を突き詰めて行くと、人類の普遍の様なものに突き当たる。
そこから、猛烈な知識欲が湧き上がる。
そこから、人間の素晴しさ、社会の大切さ、自然の素晴しさ、大切さを知るようになる。
そこから、隣人愛、兼愛、慈愛、仁、惻隠、人類皆兄弟等々と言った思想が生まれて来る事になる。
そこから、真善美等々と言った諸々の思想が生まれて来る事になる。
知恵とは何か。それは本当の自分自身。そこは無限の宝の宝庫。知恵の泉。打ち出の小槌。
哲学一貫教育の基礎、それは『汝自身を知れ』にある。
57 結論
哲学一貫教育の素晴しさを縷々述べてきましたが、未だ述べたりません。
と言うよりも、哲学一貫教育の素晴しさにはきりが無いのです。
哲学一貫教育は現代の全ての問題を綺麗さっぱりと解決して呉れる魔法のです。
自殺、いじめ、差別、不登校、無気力、学力低下、道徳低下、性の乱れ等々、現代の全ての問題を哲学一貫教育は綺麗さっぱり解決して呉れるのです。
その魔法の秘密は『汝自身を知れ』にあります。
どうか皆さんも汝自身を知って下さい。
そうすれば『哲学一貫教育』以外如何なる方法も無い事に気付く筈です。
どうか哲学一貫教育を推進して下さい。
下記2
【分野別哲学テーマ例】
分野 字 哲学テーマ
参考 小
低 小
高 中学 高校
自分 私 私 自分、自己、自我、私、僕、俺 ○ ○ ○ ○
自分 感 感覚 五感、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、見る、聞く ○ ○ ○ ○
自分 感 感情 愛情、友情、喜怒哀楽、優しさ ○ ○ ○ ○
自分 感 感動 ○
自分 思 思想 思い想う事、人はいつも思想している ○ ○ ○ ○
自分 思 思索 ○
自分 知 知恵 ○
自分 知 知識 ○
自分 意 意識 ○
自分 志 志 ○
自分 心 心 ○ ○ ○ ○
自分 精 精神 ○
自分 理 理性 ○
自分 論 論理 ○
自分 喜 喜怒哀楽 喜び、怒り、哀しみ、楽しみ ○
自分 意 意志 意志により精神・肉体が統一される ○ ○ ○ ○
自分 勇 勇気 ○
自分 忍 忍耐 ○
自分 節 節制 ○
自分 質 質素 質素、簡素 ○
自分 節 節約 節約、倹約 ○
自分 清 清潔 ○
自分 整 整理 整理整頓 ○
自分 元 元気 ○
自分 情 情熱 ○
自分 正 正直 正直、素直、率直 ○
自分 高 高潔 高潔、高尚 ○
自分 清 清廉 清廉潔白 ○
自分 廉 廉恥 廉恥、羞恥、 ○
自分 良 良心 ○
自分 冷 冷静 ○
自分 平 平常心 ○
自分 自 自制心 ○
自分 慎 慎重 ○
自分 丁 丁寧 ○
自分 忠 忠実 ○
自分 誠 誠実 ○
自分 堅 堅実 ○
自分 篤 篤実 篤実、篤行、篤志、篤学 ○
自分 分 分別 ○
自分 克 克己 ○
自分 決 決意 決意、決心、決断 ○
自分 信 信念 ○
自分 正 正義 ○
自分 中 中庸 ○
自分 柔 柔和 柔和、温和 ○
自分 敬 敬虔 ○
自分 信 信仰 ○
自分 祈 祈り 祈念、祈願 ○
自分 夢 夢 ○
自分 希 希望 ○
自分 理 理想 ○
自分 努 努力 ○
自分 練 練習 練習、訓練、練達、修練、練成 ○
自分 習 習慣 ○
自分 経 経験 ○
自分 積 積極性 ○
自分 学 学習 ○
自分 向 向上心 ○
自分 反 反省 ○
自分 探 探究 探究、研究 ○
自分 表 表現 ○
自分 創 創造 ○
自分 自 自分 ○
自分 自 自由 自由、自主、 ○
自分 自 自信 ○
自分 真 真 ○
自分 善 善 ○
自分 美 美 ○
自分 力 力 ○
自分 孤 孤独 ○
自分 畏 畏敬 ○
自分 言 言葉 ○ ○ ○ ○
自分 価 価値 価値論 ○
自分 人 人生 人生観 ○
自分 世 世界 世界観 ○ ○ ○ ○
自分 幸 幸福 幸福論 ○ ○ ○ ○
自分 読 読書 思想の契機 ○
自分 作 作文 思想の完成 ○
自分 勉 勉強 知識、知恵の統一 ○ ○ ○ ○
自分 哲 哲学 philosophia=知恵を愛する事。真善美等の探究 ○ ○ ○ ○
関係 学 学校 学校、小学校、中学校、高校 ○ ○ ○ ○
関係 人 人間 人間、人 ○ ○ ○ ○
関係 人 人類 ○
関係 家 家族 家、家族、家庭 ○ ○ ○ ○
関係 父 父母 父、母、親 ○
関係 兄 兄弟姉妹 兄、弟、姉、妹 ○
関係 伯 伯父・伯母 伯父、伯母、従兄弟 ○
関係 祖 祖父母 ○
関係 祖 祖先 ○
関係 子 子孫 ○
関係 子 子供 子供の日に寄せて ○
関係 誕 誕生 ○
関係 親 親族 ○
関係 大 大人 ○
関係 友 友 友、友達、友情、友愛、親友 ○ ○ ○ ○
関係 先 先生 ○
関係 先 先輩・後輩 ○
関係 男 男性 ○
関係 女 女性 ○
関係 老 老人 高齢者 ○
関係 青 青年 青年、青春 ○
関係 少 少年 少年・少女 ○
関係 偉 偉人 偉人、賢人、哲人、聖人、英雄 ○ ○ ○ ○
関係 愛 愛 ○ ○ ○ ○
関係 慈 慈悲 慈悲、慈愛 ○
関係 仁 仁 仁愛、仁徳、 ○
関係 博 博愛 ○
関係 道 道徳 倫理、人倫 ○ ○ ○ ○
関係 倫 倫理 ○
関係 礼 礼儀 礼儀、行儀 ○
関係 儀 儀式 儀式、儀礼 ○
関係 行 行為・行動 行い ○ ○ ○ ○
関係 親 親切 ○
関係 寛 寛容 ○
関係 従 従順 ○
関係 謙 謙虚 謙遜、謙虚、謙譲 ○
関係 献 献身 ○
関係 孝 孝行 ○
関係 奉 奉仕 ○
関係 協 協力 協同、協調 ○
関係 共 共感 共感、共鳴、共存共栄、共同、調和 ○
関係 切 切磋琢磨 ○
関係 尊 尊敬 尊敬、敬愛 ○
関係 尊 尊厳 尊厳、威厳 ○
関係 恩 恩 報恩 ○
関係 感 感謝 ○
関係 敬 敬老 敬老の日に寄せて ○
関係 勤 勤労 勤労感謝の日に寄せて ○
関係 品 品格 品格、品性、品位、品行 ○
関係 信 信用 信用、信頼 ○
関係 公 公平 ○
関係 公 公正 ○
関係 公 公共心 公徳、公衆道徳 ○ ○ ○ ○
関係 平 平等 ○
関係 秩 秩序 ○
関係 常 常識 日常、常識 ○
関係 冠 冠婚葬祭 慶弔 ○
関係 交 交際 ○
関係 挨 挨拶 ○
関係 対 対話 対話、会話 ○ ○ ○ ○
関係 会 会議 会議、協議、論議、討議 ○
関係 議 議論 議論、弁論、言論 ○
関係 意 意見 ○
関係 説 説明 説明、説得 ○
関係 集 集団 集団、集い ○
関係 約 約束 約束、契約、誓約 ○ ○ ○ ○
関係 義 義務 ○
関係 責 責任 ○
関係 権 権利 ○
関係 自 自立 自立、独立、立志、立身 ○
関係 旅 旅 ○
社会 社 社会 ○ ○ ○ ○
社会 生 生活 ○ ○ ○ ○
社会 衣 衣食住 衣服、食事、住居 ○ ○ ○ ○
社会 仕 仕事 ○
社会 職 職業 ○
社会 労 労働 ○
社会 産 産業 農業、林業、水産業、商業、工業 ○ ○ ○ ○
社会 国 国家 建国記念日 ○ ○ ○ ○
社会 文 文化 文化の日 ○ ○ ○ ○
社会 文 文明 ○
社会 平 平和 ○ ○ ○ ○
社会 伝 伝統 ○ ○ ○ ○
社会 環 環境 ○ ○ ○ ○
社会 地 地球 ○ ○ ○ ○
社会 地 地域 ○
社会 郷 郷土 ○ ○ ○ ○
社会 資 資源 ○
社会 土 土地 ○
社会 生 生産 ○
社会 道 道具 ○
社会 町 町・村 ○
社会 祭 祭 ○
社会 祝 祝日 それぞれの国民の祝日の意義を哲学する ○
社会 公 公園 ○
社会 図 図書館 ○
社会 博 博物館 ○
社会 道 道 道、道路 ○
社会 港 港 ○
社会 都 都市 都市、都会 ○
社会 安 安全 安全、安心、保安 ○
社会 福 福祉 社会福祉、援護、介護、看護、保護 ○
社会 制 制度 社会制度 ○
社会 体 体制 社会体制 ○
社会 集 集団 ○
社会 組 組織 ○
社会 国 国民 ○
社会 民 民衆 民衆 ○
社会 情 情報 新聞、テレビ、マスコミ、インターネット ○
社会 世 世界 現代世界、古代世界、世界情勢 ○ ○ ○ ○
社会 国 国際 国際化、国際交流 ○
社会 言 言語 ○
社会 民 民族 ○
社会 宗 宗教 ○
社会 法 法 法、決まり ○ ○ ○ ○
社会 憲 憲法 憲法記念日 ○ ○ ○ ○
社会 法 法律 ○
社会 政 政治 ○
社会 経 経済 ○
社会 地 地理 ○
社会 歴 歴史 ○
社会 教 教育 ○
社会 文 文学 ○
社会 科 科学 ○ ○ ○ ○
社会 芸 芸術 ○ ○ ○ ○
社会 学 学問 ○ ○ ○ ○
社会 国 国語 言(ことば) 教科を哲学する ○
社会 数 数学 数 〃 ○
社会 理 理科 理(ことわり) 〃 ○
社会 社 社会 社(やしろ) 〃 ○
社会 美 美術 美 〃 ○
社会 音 音楽 〃 ○
社会 技 技術 技(わざ) 〃 ○
社会 体 体育 体(からだ) 〃 ○
社会 時 時間 ○ ○ ○ ○
社会 時 時代 ○
社会 現 現代 ○
社会 古 古代 古代哲学者たちの素晴しさを知る ○
自然 自 自然 ○ ○ ○ ○
自然 季 季節 ○ ○ ○ ○
自然 春 春 春分の日に寄せて ○
自然 夏 夏 夏至に寄せて ○
自然 秋 秋 秋分の日に寄せて ○
自然 冬 冬 冬至の日に寄せて ○
自然 天 天気 天気、天候 ○ ○ ○ ○
自然 雨 雨 ○
自然 晴 晴れ ○
自然 曇 曇り ○
自然 風 風 ○
自然 天 天文 天文、宇宙 ○ ○ ○ ○
自然 太 太陽 ○
自然 星 星 ○
自然 月 月 ○
自然 空 空 ○
自然 朝 朝 ○
自然 昼 昼 ○
自然 夜 夜 ○
自然 気 気候 ○
自然 風 風土 風土、風俗 ○
自然 災 災害 天災、自然災害、地震、台風、大雨 ○
自然 生 生物 ○
自然 生 生命 ○
自然 動 動物 ○ ○ ○ ○
自然 犬 犬 ○
自然 猫 猫 ○
自然 牛 牛 ○
自然 鳥 鳥 ○
自然 虫 虫 ○
自然 魚 魚 ○
自然 植 植物 ○ ○ ○ ○
自然 花 花 ○
自然 草 草 ○
自然 木 木 緑の日に寄せて ○
自然 森 森 ○
自然 大 大地 ○ ○ ○ ○
自然 土 土 ○
自然 水 水 ○
自然 火 火 ○
自然 海 海 海の日に寄せて ○
自然 山 山 ○
自然 川 川 ○
自然 田 田・畑 ○
自然 色 色 ○
自然 体 体 体、身体、肉体 ○ ○ ○ ○
自然 目 目 ○
自然 耳 耳 ○
自然 口 口 ○
自然 鼻 鼻 ○
自然 手 手 ○
自然 足 足 ○
自然 呼 呼吸 ○
自然 心 心臓 ○
自然 脳 脳 ○
自然 命 命 ○ ○ ○ ○
自然 健 健康 ○ ○ ○ ○
※1 分野は、小学校・中学校学習指導要領「道徳」に定める4分野と同じである。
「自分」は自分自身に関する事、「関係」は他人との関係に関する事、「社会」は社会に関する事、「自然」は自然に関する事である。
※2 「小低」とは小学校低学年の事、「小高」とは小学校高学年の事である。
「小低」「小高」「中学」「高校」の○印は学ぶべきステージの単なるイメージである。
※3 「知恵」と「愛」については、毎学年において取り上げるものとする
※4 上記の哲学テーマは全て児童生徒の中に存在しているものである。哲学一貫教育ではこれらを教える事ではなく、これらが素晴しい形で自らの中に存在している事を気付かせる事にある。これらの存在を気付かせてあげる方法が名文中の名文と言う事になる。言霊が言霊に触れて、これらが自らの中に素晴らしい形で存在している事に気付いていくのである。
下記3
【一生涯に渡る哲学一貫教育について】
1 趣旨
日本国民の一生涯に渡って哲学の機会を提供する事により、日本国民が哲学的に成熟した国民になる事を目指す。
なお、哲学一貫教育における哲学とはphilosophia、知恵(sophia)を愛する(philo)事、真善美を愛する事と解する。
2 方法
① 小学校、中学校、高校
・小中学校の道徳を廃止し、哲学とし、週2時間とする。
高校の倫理を廃止し、哲学としかつ必修とし、週2時間とする。
これにより、週2時間の小中高校哲学一貫教育を完成させる。
哲学の授業においては、読書、思索、作文を対象とする。週の最初の時間に読書を、週の最後の時間に作文を行う。思索はそれぞれの時間に行われる。
なお、小中高校哲学一貫教育の詳細については、上記1の「小中高校哲学一貫教育について」を参照の事。
・小学校、中学校、高校に哲学対話室を設置する。哲学的対話室においては、学校内の教師、児童生徒だけでなく、大学や地域の哲学的素養のある人が入り込み、哲学的対話が行われる事を奨励する。多くのソクラテスが小中高校に入って来る事を期待する。
② 大学
・哲学を必修とする。
・講義は週1回とし、1年から4年まで通年で受講するものとする。
・1年から2年までは教養哲学とする。小学校、中学校、高校で学んできた哲学を完成させる。なお2年次の最終学期には、自らの哲学体系を纏め、評価を受けるものとする。
・3年から4年までは専門哲学とする。それぞれの学部、例えば「経済」「経営」「法律」「社会」「教育」「工学」「医学」「理学」「文学」「体育」等、そのものについての様々な文献を研究し、それぞれに関する自らの哲学を確立する。自らの経済哲学、経営哲学、法哲学、医療哲学、等々を完成させる。
・大学における哲学においては、「哲学―専門哲学―専門知識」に関する知恵・知識の有機的な体系を完成させる事を目的とする。(専門馬鹿にならず、哲学的素養のある科学者を育てる事を目的とする。)
・大学内に哲学対話室を設置する。哲学的対話室においては、大学内の教師、学生だけでなく、他の大学の教師や学生、地域の人々、更には小中学校の教師、児童生徒が入り込み、様々な哲学的対話が行われる事を奨励する。
④ 社会教育
・公民館、図書館に哲学講座を開設する。
・図書館の哲学関係図書の充実を図る。
・成人の日に際して、古今東西の名文中の名文を集めた哲学読本(一生涯を通じての座右の書となるよう読本とする。広辞苑サイズ)を財団等を通じて配布する。
・公民館及び図書館に哲学対話室を設置する。哲学対話室においては、地域の人々だけでなく、小学校、中学校、高校、大学の教師や児童、生徒、学生が入り込み、多くの哲学的対話が行われる事を奨励する。
⑤ 家庭教育
・結婚に際して、結婚、家族、人生等に関する名文中の名文を集めた哲学読本を財団等を通じて配布する。
・家庭内における哲学的対話が図れるような機運を醸成する。
・学校の哲学一貫教育と連携し、親子の哲学的対話の図れるよう機運を醸成する。親子で一緒に哲学読本を読み、親子で一緒に哲学テーマについて語るような機運
を醸成する
・第一子出産に際して、幼児読み聞かせ用の哲学読本を財団等を通じて配布する。読み聞かせ運動を展開する。
⑥ 哲学的対話(哲学対話室)
・小学校、中学校、高校、大学、公民館、図書館等に哲学対話室を設置する。
これらの対話室では、小学校、中学校、高校、大学の教師、児童、生徒、学生、地域の人々が垣根を越えて哲学的対話が行われることを奨励する。
特に、大学や地域の哲学的素養のある人が、小中高校に入り込み、学校内の対話室において児童生徒と哲学的対話が行われることを奨励する。多くのソクラテスが小中高校に入って来る事を期待する。
・様々な場において多くの哲学的対話が行われる事により、日本全土に哲学的な雰囲気が醸成される。
3 哲学一貫教育の役割分担
哲学一貫教育は、読書、思索、作文、対話、行為によって完結する。
この内の、読書、思索、作文については、小学校、中学校、高校の哲学の授業において徹底底的に行われる。また大学において更に深められる。学校卒業後は、それぞれのステージの生涯学習で行われる。なお、公民館講座、図書館講座等において、その様な機会を提供する。また。成人式、結婚、出産等に際して、それぞれのステージに相応しい哲学読本を財団等を通じて配布する。
対話については、様々な場に設置される哲学対話室において行われる。
行為については、自らの意志において行う。
※日本はかつて「言霊の幸ふ国」(広辞苑)と呼ばれていました。哲学一貫教育では再度その様な国創り(真善美に溢れた国創り)を目指します。哲学一貫教育とは言霊による国創りの事なのかも知れません。
万葉集「言霊の幸ふ国と語り継ぎ言ひ継がひけり」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
哲学一貫教育提唱文
平成20年2月10日
文部科学省生涯学習政策局長殿宛
拝啓 生涯学習政策局長 殿
現在、教育振興基本計画の策定に向けて、広く意見を募集しているとの事、私も意見を述べさせて頂きます。
教育振興基本計画の関係資料を一通り見させて頂きましたが、一つだけ大切な概念が抜けているようです。
その概念とは哲学です。
なお、ここで言う哲学とはphilosophia、知恵(sophia)を愛する(philo)事、真善美等を愛する事と解して頂きたいと思います。
もし、この概念が教育振興基本計画の中心に据えられれば、これから策定される如何なる計画も生き生きをしたものとなり、この日本を素晴らしい国家に導いて呉れる事になると思います。
何故なら、哲学こそが教育の本質なのですから・・・。
なお、私はこの哲学を中心概念に据えた、哲学一貫教育と言うものを提唱しています。
哲学一貫教育とは、日本国民の一生涯に渡って、哲学の機会を提供する事により、日本国民が哲学的に成熟した国民になる事を目指ざすものです。
具体的には、小学校、中学校、高校、大学、社会教育、家庭教育、生涯学習等、様々な教育学習の場において、哲学の機会を提供する事により、日本国民が哲学的に成熟した国民になる事を目指すものです。
そしてその中心となるのが、小中高校哲学一貫教育です。
小中高校哲学一貫教育の具体的実施方法については、下記1の「小中高校哲学一貫教育について」に詳述していますので、ご覧頂きたいと思いますが、概要を示すと次の通りです。
①小学校、中学校においては、現在の道徳を廃止し、哲学とし、授業時間は週2時間とする。
高校においては、現在の倫理を廃止し、哲学としかつ必修とし、授業時間は週2時間とする。
これにより、週2時間の小中高校哲学一貫教育を完成させる。
②哲学教育の対象は、読書、思索、作文、対話とするが、この内、授業においては読書、思索、作文のみを対象とし、対話については、課外(様々な場に設けられる哲学的対話サークル等)で行われるものとする。
③授業時間は週2時間とし、週の最初の時間に読書を行い、週の最後の時間に作文を行う。なお、思索は、読書の時間及び作文の時間に当然に行われる。また、読書の時間と作文の時間の間にも、思索が意識的、無意識的行われる事になる。
④哲学教育の対象分野は、現在の小学校、中学校学習指導要領「道徳編」に定めるものと同じく、「自分自身に関する事」「他人との関係に関する事」「社会に関する事」「自然に関する事」の4分野とし、その4分野の下に、更に様々な哲学テーマを設定する(哲学テーマ例については、下記2の「分野別哲学テーマ例」を参照して下さい)。
なお、各学年ごとに、それぞれの学年ごとに相応しい哲学テーマを4分野合わせて30程度設定する。
⑤読書の時間には『哲学読本』を読む。作文の時間には『哲学読本』を契機にした自由作文を『哲学ノート』に書く。
⑥『哲学読本』と『哲学ノート』は各学年ごとに作成する。
『哲学読本』とは、各学年ごとに設定された30程度の哲学テーマについて、それぞれのテーマに相応しい名文中の名文を古今東西の名著の中から3編程度集めて掲載したものである。
読書の時間にはそれぞれの哲学テーマについて、名文中の名文を3編程度読む事になる。
『哲学ノート』は『哲学読本』を契機とした、それぞれの哲学テーマに関する自由作文を書く為のノートである。なお、作文は読書感想文ではなく、あくまでも自由作文とする。線画の併用も認める。
以上が小中高校哲学一貫教育の概要です。
何だ、それは唯、読書と作文だけではないかと仰るかも知れませんが、確かにその通りです
しかし、読書量と作文量が違います。
小中高校の12年間に360の哲学テーマ(1学年30テーマ×(6年+3年+3年)=360テーマ)について、名文中の名文を読み、そしてその360の哲学テーマについて、作文を書く事になるのです。
これにより、児童生徒が如何に哲学的に成熟するかお分かりになると思います。
小中高校哲学一貫教育の目標は、自ら学び、自ら考える児童生徒の育成にあります。
すなわち、自らにおいて真善美等を学び、自らにおいて真善美等を考え、そして自らにおいて真善美を自らのものにして実践していこうとする児童生徒を育成する事にあります。
そしてその方法が読書と思索を作文と言う事になります。
読書において真善美等に気付き、思索においてそれら真善美等を深め、作文においてそれら真善美等を確認し、対話においてそれら真善美等を確立し、そして最後に自らの意志においてそれら真善美等を実行して行く事になります。
この内の、読書、思索、作文は哲学の授業で行われ、対話については課外で行われ、そして行為は自らの意志によって行なわれる事なります(これら一連の流れについては、下記1の「小中高校哲学一貫教育について」を参照して下さい。なお、総合学習は、哲学の授業において自ら確認した真善美等の体験体感の場となります)。
小中高校哲学一貫教育において、最も大切なものは『哲学読本』です。
何故なら、『哲学読本』によって、児童生徒の中に眠る真善美等を気付かせてあげる事にあるからです。
なお、児童生徒の中に眠る真善美等とは、下記2の「分野別哲学テーマ例」に記載されている哲学テーマの全てです。
これらが児童生徒の中に素晴らしい形で存在しています。この素晴らしいものを素晴らしい形のままで引き出してあげるのが『哲学読本』と言う事になります。
ですから、『哲学読本』は、哲学者、文学者、芸術家、科学者等々、そして国民の英知を結集して作成する必要があるのです。
キリスト教国家においては、『聖書』によって子供を育て上げます。
イスラム教国家においては、『コーラン』によって子供を育て上げます。
日本においては、『哲学読本』によって子供を育て上げるのです。
しかし、『哲学読本』は1冊ではありません。
それぞれの教科書会社がそれぞれに出版します。
また一般の出版会社も競ってそれぞれに出版します。
これらの『哲学読本』がハーモニーをなして、日本の子供たちを育てあげて行くのです。
『哲学読本』には、イエスの言葉もあって良いし、ブッダの言葉もあって良いし、マホメットの言葉もあって良いし、孔子、老子の言葉もあって良いし、マルクス、レーニン、毛沢東の言葉もあって良いし、聖徳太子、空海の言葉もあって良いのです。
また、ソクラテス、プラトン、デカルト、カント、ショーペンハウワー、ルソー等々
イソップ、ホメロス、ダンテ、シェークスピア、ゲーテ、夏目漱石等々
カエサル、ナポレオン、徳川家康、西郷隆盛等々
レオナルドダビンチ、ピカソ、ベートーベン、モーツアルト等々
ガリレオ、ニュートン、エジソン、アインシュタイン、野口英世等々の言葉もあるべきです。
これらの言葉がハーモニーを成して児童生徒を育成していくのです。
『哲学読本』は、主義、主張、イデオロギーを教える為の道具ではありません。
『哲学読本』は、児童生徒にとっての“考えるヒント”なのです。
『哲学読本』を契機に、児童生徒が如何なる世界観、価値観を育てていくかは全て児童生徒に任せるべき事です。
『哲学読本』における名文の採択基準は、知識ではなく知恵です。
知識は他の教科教育でその正しい知識を教えて行く事になります。
『哲学読本』では、それぞれの各分野の偉人、先人たちが、如何に「知恵を愛した」(哲学した)かを学ぶ事になります。
偉人たちが偉人である由縁は、彼らが知恵を愛しぬいた(徹底的に哲学した)所以によるのでしょうから・・・。
小中高校哲学一貫教育の最終目標は、児童生徒が哲学する(知恵を愛する、真善美等を愛する)事を学び、そして自らが哲学する(知恵を愛する、真善美等を愛する)ようになる事です。
もし高校卒業までに、哲学(知恵を愛する事、真善美等を愛する事)の習慣が付けば、その人は死ぬまで哲学する事を止めないでしょう。
もし全ての国民に哲学の習慣が付けばどうなるのでしょう。
そうです。「哲学の民、日本人」の誕生です。
ここまで来れば御伽噺ですが、『小中高校哲学一貫教育』にはその様な明るい未来があるのです。
なお、小学校低学年における哲学教育の在り方、高校における哲学教育の在り方、哲学教育における担任教師の負担軽減の在り方、哲学一貫教育の具体的な方法及び効果等について、下記1の「小中高校哲学一貫について」で詳述していますので、ご覧頂きたいと思います。
以上が『小中高校哲学一貫教育』に関する概要です。
次に、この小中高校哲学一貫教育を土台とした、日本国民の一生涯にわたる哲学一貫教育の事を述べたいと思います。
この一貫教育については、下記3の「一生涯にわたる哲学一貫教育について」に詳述してありますのでご覧頂きたいと思いますが、概要を述べると次の通りです
①小学校・・・小中高校哲学一貫教育
②中学校・・・小中高校哲学一貫教育
③高校・・・・小中高校哲学一貫教育
④大学
・哲学を必修とし、週1回の講義とし、1年から4年まで毎学年通年で実施する。
・1年から2年までは教養哲学とし、小中高校で学んできたものを更に深化させ完成させる。なお、2年の最終学期には自らの哲学体系を纏め評価を受ける。
・3年から4年までは専門哲学とする。自らが学ぶ学問の哲学を完成させる。
法哲学、教育哲学、経営哲学、医療哲学等々、自らが学び、そして自らの仕事の基礎となる学問についての哲学を完成させる。
・大学における哲学教育の目標は、「哲学―専門哲学―専門知識」の有機的な体系を完成させる事を目的とする(専門馬鹿ではなく、真に教養ある知識人を育てる事を目的とする)。
・教育学部においては、哲学の講義を週2回とし、1年から4年まで通年で受けるものとし、卒業時には自らの哲学体系(「自分に関する事」「他人との関係に関する事」「社会に関する事」「自然に関する事」の4分野合わせて100以上の哲学テーマについて自らの哲学所信を体系的整理したもの)を冊子に纏めて提出するものとする。この冊子については全て、10年間(または半永久的に)教育学部において公開し、後進の参考図書とする。各自が如何に哲学したか(真善美等を愛したか)を共有する。哲学が学生のステータスシンボルとなる。より良き冊子は後進によって読み継がれる事になる。教育学部を卒業した者は社会的に哲学的素養がある者と見做されるようになる。教育学部において哲学教育を徹底する事により、教師の社会的評価が高まる事になる。教育学部を卒業したものは、全ての哲学テーマについて、即座に自らの哲学所信を言えるようにならなければいけない。教育学部を卒業した者は本当の意味で先生と呼ばれる事になる。教育学部の学生は、積極的に小中高校の哲学対話室に入り、児童生徒と哲学対話を行うものとする。
⑤社会教育
・図書館、公民館等において、哲学講座を開設する。
・成人式に際して、座右の書となるようなあらゆる名文中の名文を掲載した『哲学読本』(机上版広辞苑サイズ、多くの哲学者、文学者、芸術家、科学者、更には国民の英知を結集して作成したもの)を財団等を通じて配布する。
⑥家庭教育
・結婚に際して、結婚、家族、教育、人生等に関する名文中の名文を集めた『哲学読本』を財団等を通じて配布する。
・第一子出産に際して、読み聞かせ用の『哲学読本』を財団等を通じて配布する。
⑦哲学対話室の設置
・小学校、中学校、高校、大学、図書館、公民館等々に哲学対話室を設置する。
・垣根を越えた哲学対話が行われる事を奨励する。特に哲学的素養のある者が、小中高校に入って来て、小中高校の哲学対話室で、児童生徒と哲学対話が行われる事を奨励する。多くのソクラテスが小中高校は入って来る事を期待する。
・垣根を越えた哲学対話が行なわれる事により、日本に哲学的風土が生まれる事になる。ここから哲学的に成熟した国民としての日本人が生まれる事になる。
⑧哲学一貫教育の役割分担
・哲学一貫教育は、読書、思索、作文、対話、行為によって完結する。
・この内の、「読書、思索、作文」については、小学校、中学校、高校の哲学の授業において徹底底的に行われる。また大学やそれぞれのステージにおいて「読書、思索、作文」が更に深められる。公民館講座、図書館講座等においても、「読書、思索、作文」の機会を提供する。また。成人式、結婚、出産等に際して、それぞれのステージに相応しい哲学読本を財団等を通じて配布することにより「読書、思索、作文」の機会を提供する。
・「対話」については、様々な場に設置される哲学対話室において行われる。
・「行為」については、「読書、思索、作文、対話」により自らの哲学信条が確立されるに伴い、自らの意志において行われようになる。
⑨哲学一貫教育における「哲学」の意義
・哲学一貫教育における所の「哲学」とはphilosophia、知恵を愛する事、真善美を愛する事。それは言葉を愛する事でもあり、究極的には本当の自分自身を愛する事である。『汝自身を知れ』、これが哲学一貫教育の基礎の基礎である。
・自分自身が素晴らしい存在である事を知れば知るほど、回りの人々もまた素晴らしい存在である事を知るようになり、その結果として、自分と回りの人々の関係集団(家族、学校、地域、国家)、すなわち社会も大切な存在である事気付くようになる。また自分自身を深く知れば知るほど、人は自然の相似であり、その根源が自然にある事を知るようになり、自然の素晴らしさ、自然の美しさ、自然の妙を知る事になる。これらを知るとは、また自分の素晴らしさ、自分の美しさ、自分自身の自然の妙を知る事になる。
・知恵を愛する、真善美等を愛すると言う行為、すなわち哲学は人間の本性である。哲学一貫教育においては、先ずこれらの本性に気付かせて上げる。そしてこれらの本性に気付いた者は、自らにおいてその本性を育てて行く事になる。哲学一貫教育はその様な機会を継続的に提供する事にある(その様な本性があっても、機会がなければ気付かないし、継続的な機会がなければ育たない)。
・哲学とは真善美等を愛する事、哲学風土が出来上がるとは真善美等を愛する風土が出来上がる事。この様な社会が如何に素晴らしい社会がお分かりになると思います。
・嘗て古代ギリシア人は哲学の民と呼ばれていました。この哲学一貫教育により、今度は日本人が哲学の民と呼ばれる事になるのです。
・嘗て日本は「言霊の幸う国」と呼ばれていました。哲学一貫教育はその様な国創りを目指しているのです。
万葉集「言霊の幸ふ国と語り継ぎ言ひ継がひけり」(広辞苑)
以上が、小中高校一貫教育を土台とした、日本国民の一生涯に渡る哲学一貫教育の概要です
哲学一貫教育について、ご理解頂けたでしょうか。
哲学philosophia、知恵を愛すると言う行為、真善美等を愛すると言う行為は、教育にお
いてとても大切な概念です。と言うよりも、哲学こそが教育の本質です。
どうか教育振興基本計画に、この哲学と言う概念を中心に据えて頂きたいと思います。
そして、その中に哲学一貫教育を組み込んで頂きたいと思います。
教育振興基本計画の参考資料を見させて頂きましたが、総花です。
はっきり言って哲学がありません。
もし上記の意味での哲学と言う概念を中心に据えれば、その全ての総花に光が当たり、光り輝く事でしょう。
そしてそれら総花は、その光に向かおうとするでしょう。
その光こそ哲学、知恵を愛する、真善美を愛すると言う行為になるのです。
哲学と言う概念が計画の中心に据えられれば、全ての施策が素晴らしいものになります。
何故なら、個々の施策を実行する時、そこには必ず哲学、すなわち知恵を愛すると言う行為、真善美等を愛すると言う行為が入ってくるからです。
その全ての行為は哲学を帯びる事になります。すなわち真善美等と言う属性を纏う事になります。
その結果は真善美溢れる日本となるのかも知れません。
現在哲学と言うと、プラトンやカントやヘーゲルの文献を研究する事が哲学と呼ばれていますが、哲学一貫教育で言う所の『哲学』とは、あくまでもphilosophia、知恵を愛する事、真善美等を愛する事です。
もしこの意味での哲学と言う言葉の使い方が宜しくないと言うのであれば、「知恵を愛する為の学問」とか「真善美等を愛する為の学問」としても良いのですが、やはり少し間が抜けています。
哲学と言う言葉を使った方が国民の受けも良いと思います。
「哲学の民、日本人」と言う方が格好良いと思います。
「哲学=philosophia=知恵を愛する事=真善美等を愛する事」と言う概念について、教育再生会議や中央教育審議会において検討して頂きたいと思います。
もし、哲学がその様な概念で国民の間に広がっていけば、国民は何の臆する事も無く哲学に向かって行くと思います。
現在は、哲学を勉強するなどと言うと、何の役にも立たない学問を遣って何になるのかとか、何を偉ぶっているのだと言うのが相場です。
「哲学=philosophia=知恵を愛する事=真善美等を愛する事」は決してそんな事ではありません。人間の本性です。
現在哲学は悪習に染まっています。
真の意味での哲学を解放して上げる事が、教育再生会議や中央教育審議会の役割だと思います。
現在の大学の哲学科の教授は哲学者ではありません。
彼らはプラトン研究家であり、ヘーゲル研究家であり、カント研究家です。
真の哲学者とは、イエス、ブッダ、マホメット、ソクラテス、プラトン、デカルト、カント、ショーペンハウワー、孔子、老子、レーニン、マルクス、毛沢東、イソップ、ホメロス、ダンテ、ゲーテ、シェークスピア、カエサル、ナポレオン、レオナルドダビンチ、ピカソ、ベートーベン、モーツアルト、ガリレオ、ニュートン、エジソン、アインシュタイン、聖徳太子、空海、親鸞、徳川家康、西郷隆盛、夏目漱石等々の言葉が自分の中にあり、それらを完全に咀嚼して、自分のものとし、「自分自身関する事」「他人との関係に関する事」「社会に関する事」「自然に関する事」等の様々な哲学テーマについて自分自身の意見をはっきり言える者であり、そしてそれらを実践できる者です。
哲学一貫教育ではその様な哲学者の育成を目指しているのです。
どうか、教育再生会議や中央教育審議会においても、その様な観点からご審議頂きたいと思います。
どうか「哲学=philosophia=知恵を愛する事=真善美等を愛する事」と言う概念を教育振興基本計画の中心に据えて頂きたいと思います。そして哲学一貫教育をその中に組みこんで頂きたいと思います。
なお、私が哲学教育と言う言葉だけを連呼するので、教科教育を等閑にしていると思われるかも知れませんが、決してそうではありません。
教科教育は徹底しなければなりません。
教科教育が徹底してこそ、哲学教育も生きてくるのです。
知恵と知識のバランスの取れた日本人の育成、これが哲学一貫教育の目標です。
知恵と知識のバランスの取れた日本人とは、教養人としての日本人であり、中庸の民としての日本人の事であり、哲学の民としての日本人の事です。
最後に孔子の次の言葉を置いておきます。
「學而不思則罔、思而不學則殆」(巻第一、為政第二、第十五節)
敬具
平成20年2月10日
哲学哲男
追伸
現在教育改革を推進している生涯学習政策局政策課長様にも同文を回覧、回送して頂ければ有り難く思います。
また、上記書簡文では哲学一貫教育の事を十分に言い足りていないので、是非下記の参考資料をご一読して頂きたいと思います。
参考資料
下記1「小中高校哲学一貫教育について」
下記2「分野別哲学テーマ例」
下記3「一生涯にわたる哲学一貫教育について」
※上記3つの参考資料については、初等中等教育局長殿宛の「哲学一貫教育提唱文」に記載している参考資料をご覧下さい。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
哲学一貫教育提唱文
平成20年2月17日付け
内閣官房長官殿宛
拝啓 内閣官房長官 殿
平成20年1月31日に教育再生会議の最終報告「社会総がかりで教育再生を」が出されました。
この中で、「国民一人ひとりがあらゆる場を通じて、教育再生に参画することをお願いしたい」とあります。
私も国民の一人として、意見を述べさせて頂きたいと思います。
先ず、最終報告ですが、あまりにも総花的過ぎます。
教育の全ての分野を改革していこうと意気込みは分かるのですが、これでは実効性は上がりません。
それに改革すべき事はそんなにたくさんはありません。
改革すべき事は唯一つです。
その一つとは、哲学教育の導入です。
もっと正確に言えば、『哲学一貫教育』の導入です
これにより、日本は素晴らしい国家となります。
これにより、教育再生会議の最終報告で提案された全ての問題は一挙に解決します。
なお、『哲学一貫教育』における哲学とはphilosophia、知恵(sophia)を愛する(philo)事、真善美等を求める事と解して下さい。
『哲学一貫教育』を徹底すればする程、日本は真善美に溢れた国家となるのです。
教育の最終目標、それは全ての国民が知恵を愛し、真善美等を求めるようになる事です。
すなわち全ての国民が哲学するようになる事です。
『哲学一貫教育』ではその様な教育を徹底します。
その結果はどうなるのでしょう。
「哲学の民、日本人」の誕生です。
その結果、日本は知恵と真善美に溢れた国家となるのではないでしょうか。
こう仰るかも知れません。
哲学などと言う難しい事は教育には導入できないと。
それは、哲学をデカルトやカントやショウペンハウワー(いわゆる「でかんしょ」)等の文献を研究する事考えているからではないでしょうか。
もうここまでに何度も言っていますが、そしてこれからも何度も言いますが、『哲学一貫教育』で言う所の哲学とはphilosophia、知恵を愛する事、真善美等を求める事です。
これは自我の芽生えた幼児から、正に死ぬ直前のご老人まで全ての人間が行っている行為ではないでしょうか。
哲学とは人間に宿る本性なのです。
しかし現在の日本においては、この本性があまりにも等閑にされています。
その結果日本においては、この本性が眠りこけてしまっているのです。
『哲学一貫教育』では、この本性を目覚まして上げます。
一旦目覚めた後の日本人には目覚しいものがあります。
何故なら日本は「言霊の幸う国と語り継ぎ言ひ継がひけり」(万葉集)と言われる国なのですから。
『哲学一貫教育』とは言霊により言霊を揺さぶる教育なのです。
『哲学一貫教育』とは言葉の力(言霊)による教育です。
ここでこう聞いて頂ければとても有難いです。
『哲学一貫教育』とは言葉の力による教育だとは分かった。
しかし具体的にはどの様にするのかねと。
有難うございます。
『哲学一貫教育』は、とてもとても簡単なのです。
二言で言えば、「読書」と「作文」、
四言で言えば、「読書」と「思索」と「作文」と「対話」、
五言で言えば、「読書」と「思索」と「作文」と「対話」と「行為(行動、実行、体験等々)」と言う事になります。
どうです、とても簡単でしょう。
この内、『哲学一貫教育』の中心となる小中高校哲学一貫教育では、「読書」と「作文」を徹底的に行います。
徹底的に真善美に溢れた言葉を読み、徹底的に真善美に溢れた言葉を書くのです。
これにより、日本人が如何に真善美に溢れた国民になるかはお分かりになると思います。
勿論、「思索」は読書と作文の時間に行われます。
読書と作文を徹底すればするほど、真善美に溢れた言葉が自らの内から湧き出てくるのです。
それから「対話」については、『哲学一貫教育』においては特別な装置を設定します。
その装置とは「哲学対話室」です。
小学校、中学校、高校、大学、図書館、公民館等々、様々な教育・学習機関に「哲学対話室」を設置します。
哲学対話室では、小学生、中学生、高校生、大学生そして一般人(父兄、企業家、芸術家、思想家、哲学者、文学者、科学者等々)が垣根を越えて哲学対話を行う事になります。
これにより日本に哲学的風土が生まれる事になります。
すなわち真善美等を愛する風土が生れて来る事になるのです。
最後に「行為」ですが、これは本人の自由意志を待つしかありません。
しかし真善美溢れる風土の中では、真善美溢れる行為もとても容易くなるのです。
これが『哲学一貫教育』の全貌です。
どうです、簡単でしょう。
そして日本は素晴らしい国家になったでしょう。
たったこれだけの事で!
なお、哲学一貫教育の成否を握るのは、大学教育学部における哲学教育です。
教育学部における哲学教育を徹底し、教育学部を卒業した者が、哲学のマスターと言われるほどになれば、哲学一貫教育は成功したようなものです。
ここで言う哲学のマスターとは様々な哲学者の文献を研究し尽くした者と言う意味ではありません。
様々な哲学テーマ(知恵、勇気、忍耐、寛容、節制、愛、人生、命、自然、社会等々)について研究し尽くし、それらに関する自らの哲学体系を確立した者と言う意味です。真善美のマスターの事です。
この様な者が教壇に立てばどうなるのでしょう。そう薫陶です。教師の真善美が児童生徒に香っていくのです。
さてそれでは、ここから『哲学一貫教育』の具体的内容について述べて行きたいと思います。
哲学一貫教育とは、日本国の一生涯にわたって哲学の機会を提供する事により、日本国民が哲学的成熟した国民と成る事を目指すものです。
哲学一貫教育には二つの概念があります。
一つは「小中高校哲学一貫教育」であり、他の一つは小中高校哲学一貫教育を土台にした「日本国民の一生涯にわたる哲学一貫教育」です。
それぞれについて、その概要を簡単に述べていきたいと思います。
なお、その詳細については、下記1の「小中高校哲学一貫教育について」及び下記2の「分野別哲学テーマ例」並びに「一生涯にわたる哲学一貫教育」に詳述してありますので、後ほどゆっくりご覧頂きたいと思います。
哲学一貫教育に関する一切の疑問、疑念が解決されると思います。
なお、ここで念を押して置かなければならないと思いますが、決して教科教育を等閑にしているのではありません。
教科教育を徹底する為にも哲学教育を徹底しなければいけないと説いているのです。
知恵と知識のバランスの取れた日本人の育成、中庸の民としての日本人、教養の民としての日本人、哲学の民としての日本人、その育成こそが『哲学一貫教育』の目標です。
現在の知識偏重の教育は片輪の人間しか育てる事が出来ないのです。
・・・(以下は別の機会に書いたものですので、一部重複等があると思いますが、ご了承下さい。)・・・
哲学一貫教育とは、日本国民の一生涯に渡って、哲学の機会を提供する事により、日本国民が哲学的に成熟した国民になる事を目指ざすものです。
具体的には、小学校、中学校、高校、大学、社会教育、家庭教育、生涯学習等、様々な教育学習の場において、哲学の機会を提供する事により、日本国民が哲学的に成熟した国民になる事を目指すものです。
そしてその中心となるのが、小中高校哲学一貫教育です。
小中高校哲学一貫教育の具体的実施方法については、下記1の「小中高校哲学一貫教育について」に詳述していますので、ご覧頂きたいと思いますが、概要を示すと次の通りです。
①小学校、中学校においては、現在の道徳を廃止し、哲学とし、授業時間は週2時間とする。
高校においては、現在の倫理を廃止し、哲学としかつ必修とし、授業時間は週2時間とする。
これにより、週2時間の小中高校哲学一貫教育を完成させる。
②哲学教育の対象は、読書、思索、作文、対話とするが、この内、授業においては読書、思索、作文のみを対象とし、対話については、課外(様々な場に設けられる哲学的対話サークル等)で行われるものとする。
③授業時間は週2時間とし、週の最初の時間に読書を行い、週の最後の時間に作文を行う。なお、思索は、読書の時間及び作文の時間に当然に行われる。また、読書の時間と作文の時間の間にも、思索が意識的、無意識的行われる事になる。
④哲学教育の対象分野は、現在の小学校、中学校学習指導要領「道徳編」に定めるものと同じく、「自分自身に関する事」「他人との関係に関する事」「社会に関する事」「自然に関する事」の4分野とし、その4分野の下に、更に様々な哲学テーマを設定する(哲学テーマ例については、下記2の「分野別哲学テーマ例」を参照して下さい)。
なお、各学年ごとに、それぞれの学年ごとに相応しい哲学テーマを4分野合わせて30程度設定する。
⑤読書の時間には『哲学読本』を読む。作文の時間には『哲学読本』を契機にした自由作文を『哲学ノート』に書く。
⑥『哲学読本』と『哲学ノート』は各学年ごとに作成する。
『哲学読本』とは、各学年ごとに設定された30程度の哲学テーマについて、それぞれのテーマに相応しい名文中の名文を古今東西の名著の中から3編程度集めて掲載したものである。
読書の時間にはそれぞれの哲学テーマについて、名文中の名文を3編程度読む事になる。
『哲学ノート』は『哲学読本』を契機とした、それぞれの哲学テーマに関する自由作文を書く為のノートである。なお、作文は読書感想文ではなく、あくまでも自由作文とする。線画の併用も認める。
以上が小中高校哲学一貫教育の概要です。
何だ、それは唯、読書と作文だけではないかと仰るかも知れませんが、確かにその通りです
しかし、読書量と作文量が違います。
小中高校の12年間に360の哲学テーマ(1学年30テーマ×(6年+3年+3年)=360テーマ)について、名文中の名文を読み、そしてその360の哲学テーマについて、作文を書く事になるのです。
これにより、児童生徒が如何に哲学的に成熟するかお分かりになると思います。
小中高校哲学一貫教育の目標は、自ら学び、自ら考える児童生徒の育成にあります。
すなわち、自らにおいて真善美等を学び、自らにおいて真善美等を考え、そして自らにおいて真善美を自らのものにして実践していこうとする児童生徒を育成する事にあります。
そしてその方法が読書と思索を作文と言う事になります。
読書において真善美等に気付き、思索においてそれら真善美等を深め、作文においてそれら真善美等を確認し、対話においてそれら真善美等を確立し、そして最後に自らの意志においてそれら真善美等を実行して行く事になります。
この内の、読書、思索、作文は哲学の授業で行われ、対話については課外で行われ、そして行為は自らの意志によって行なわれる事なります(これら一連の流れについては、下記1の「小中高校哲学一貫教育について」を参照して下さい。なお、総合学習は、哲学の授業において自ら確認した真善美等の体験体感の場となります)。
小中高校哲学一貫教育において、最も大切なものは『哲学読本』です。
何故なら、『哲学読本』によって、児童生徒の中に眠る真善美等を気付かせてあげる事にあるからです。
なお、児童生徒の中に眠る真善美等とは、下記2の「分野別哲学テーマ例」に記載されている哲学テーマの全てです。
これらが児童生徒の中に素晴らしい形で存在しています。この素晴らしいものを素晴らしい形のままで引き出してあげるのが『哲学読本』と言う事になります。
ですから、『哲学読本』は、哲学者、文学者、芸術家、科学者等々、そして国民の英知を結集して作成する必要があるのです。
キリスト教国家においては、『聖書』によって子供を育て上げます。
イスラム教国家においては、『コーラン』によって子供を育て上げます。
日本においては、『哲学読本』によって子供を育て上げるのです。
しかし、『哲学読本』は1冊ではありません。
それぞれの教科書会社がそれぞれに出版します。
また一般の出版会社も競ってそれぞれに出版します。
これらの『哲学読本』がハーモニーをなして、日本の子供たちを育てあげて行くのです。
『哲学読本』には、イエスの言葉もあって良いし、ブッダの言葉もあって良いし、マホメットの言葉もあって良いし、孔子、老子の言葉もあって良いし、マルクス、レーニン、毛沢東の言葉もあって良いし、聖徳太子、空海の言葉もあって良いのです。
また、ソクラテス、プラトン、デカルト、カント、ショーペンハウワー、ルソー等々
イソップ、ホメロス、ダンテ、シェークスピア、ゲーテ、夏目漱石等々
カエサル、ナポレオン、徳川家康、西郷隆盛等々
レオナルドダビンチ、ピカソ、ベートーベン、モーツアルト等々
ガリレオ、ニュートン、エジソン、アインシュタイン、野口英世等々の言葉もあるべきです。
これらの言葉がハーモニーを成して児童生徒を育成していくのです。
『哲学読本』は、主義、主張、イデオロギーを教える為の道具ではありません。
『哲学読本』は、児童生徒にとっての“考えるヒント”なのです。
『哲学読本』を契機に、児童生徒が如何なる世界観、価値観を育てていくかは全て児童生徒に任せるべき事です。
『哲学読本』における名文の採択基準は、知識ではなく知恵です。
知識は他の教科教育でその正しい知識を教えて行く事になります。
『哲学読本』では、それぞれの各分野の偉人、先人たちが、如何に「知恵を愛した」(哲学した)かを学ぶ事になります。
偉人たちが偉人である由縁は、彼らが知恵を愛しぬいた(徹底的に哲学した)所以によるのでしょうから・・・。
小中高校哲学一貫教育の最終目標は、児童生徒が哲学する(知恵を愛する、真善美等を愛する)事を学び、そして自らが哲学する(知恵を愛する、真善美等を愛する)ようになる事です。
もし高校卒業までに、哲学(知恵を愛する事、真善美等を愛する事)の習慣が付けば、その人は死ぬまで哲学する事を止めないでしょう。
もし全ての国民に哲学の習慣が付けばどうなるのでしょう。
そうです。「哲学の民、日本人」の誕生です。
ここまで来れば御伽噺ですが、『小中高校哲学一貫教育』にはその様な明るい未来があるのです。
なお、小学校低学年における哲学教育の在り方、高校における哲学教育の在り方、哲学教育における担任教師の負担軽減の在り方、哲学一貫教育の具体的な方法及び効果等について、下記1の「小中高校哲学一貫について」で詳述していますので、ご覧頂きたいと思います。
以上が『小中高校哲学一貫教育』に関する概要です。
次に、この小中高校哲学一貫教育を土台とした、日本国民の一生涯にわたる哲学一貫教育の事を述べたいと思います。
この一貫教育については、下記3の「一生涯にわたる哲学一貫教育について」に詳述してありますのでご覧頂きたいと思いますが、概要を述べると次の通りです
①小学校・・・小中高校哲学一貫教育
②中学校・・・小中高校哲学一貫教育
③高校・・・・小中高校哲学一貫教育
④大学
・哲学を必修とし、週1回の講義とし、1年から4年まで毎学年通年で受講するものとする。
・1年から2年までは教養哲学とし、小中高校で学んできたものを更に深化させ完成させる。なお、2年の最終学期には自らの哲学体系を纏め評価を受ける。
・3年から4年までは専門哲学とする。自らが学ぶ学問の哲学を完成させる。
法哲学、経済哲学、医療哲学、経営哲学等々、自らが学び、そして自らの仕事の基礎となる学問についての哲学を完成させる。
・大学における哲学教育の目標は、「哲学―専門哲学―専門知識」の有機的な体系を完成させる事を目的とする(専門馬鹿ではなく、真に教養ある知識人を育てる事を目的とする)。
・教育学部においては、哲学の講義を週2回以上とし、1年から4年まで通年で受けるものとし、卒業時には自らの哲学体系(100以上の哲学テーマ<知恵、勇気、愛、忍耐、寛容、節制、人生、自然、命、社会、環境等々>についての自らの哲学所信を体系的に整理したもの)を冊子に纏めて提出するものとする。この冊子については全て、10年間教育学部において公開し、後進の参考図書とする。各自が如何に哲学したか(真善美等を愛したか)を共有する。より良き冊子は後進によって読み継がれる事になる。哲学が教育部学生の一種のステータスシンボルとなる。教育学部を卒業した者は社会的に哲学的素養がある者と見做されるようになる位になるまで哲学教育を徹底する。教育学部において哲学教育を徹底する事により、教師の道徳能力が高まり、教師の社会的評価が高まる事になる。教育学部を卒業したものは、全ての哲学テーマについて、即座に自らの哲学所信を言えるようにならなければいけない。教育学部を卒業した者は本当の意味で先生と呼ばれる事になる。教育学部の学生及び卒業生は、積極的に小中高校の哲学対話室に入り、児童生徒と哲学対話を行うものとする。卒業時に哲学の口頭試問を課する。また教員採用時にも哲学の口頭試問を課する。教育学部の学生は、小中高校の全ての教科及び教科の単元を哲学し、教科及び教科の単元の本質を理解するものとする。教育学部における哲学教育の徹底が小中高校一貫教育の成否の鍵となる。教育学部に「哲学教育コース」を設置する。
⑤社会教育
・図書館、公民館等において、哲学講座を開設する。
・成人式に際して、座右の書となるようなあらゆる名文中の名文を掲載した『哲学読本』(机上版広辞苑サイズ、多くの哲学者、文学者、芸術家、科学者、更には国民の英知を結集して作成したもの)を財団等を通じて配布する。
⑥家庭教育
・結婚に際して、結婚、家族、教育、人生等に関する名文中の名文を集めた『哲学読本』を財団等を通じて配布する。
・第一子出産に際して、読み聞かせ用の『哲学読本』を財団等を通じて配布する。
⑦哲学対話室の設置
・小学校、中学校、高校、大学、図書館、公民館等々に哲学対話室を設置する。
・小学生、中学生、高校生、大学生、社会人、一般人の垣根を越えた哲学対話が行われる事を奨励する。特に哲学的素養のある者が、小中高校に入って来て、小中高校の哲学対話室で、児童生徒と哲学対話が行われる事を奨励する。多くのソクラテスが小中高校は入って来る事を期待する。
・垣根を越えた哲学対話が行なわれる事により、日本に哲学的風土が生まれる事になる。ここから哲学的に成熟した国民としての日本人が生まれる事になる。
⑧哲学一貫教育の役割分担
・哲学一貫教育は、読書、思索、作文、対話、行為によって完結する。
・この内の、「読書、思索、作文」については、小学校、中学校、高校の哲学の授業において徹底底的に行う。また大学やそれぞれのステージにおいて「読書、思索、作文」が更に深められる。公民館講座、図書館講座等においても、「読書、思索、作文」の機会を提供する。また。成人式、結婚、出産等に際して、それぞれのステージに相応しい哲学読本を財団等を通じて配布することにより「読書、思索、作文」の機会を提供する。
・「対話」については、様々な場に設置される哲学対話室において行われる。
・「行為」については、「読書、思索、作文、対話」により自らの哲学信条が確立されるに伴い、自らの意志において行われようになる。
⑨哲学一貫教育における「哲学」の意義
・哲学一貫教育における所の「哲学」とはphilosophia、知恵を愛する事、真善美を愛する事。それは言葉を愛する事でもあり、究極的には本当の自分自身を愛する事である。『汝自身を知れ』、これが哲学一貫教育の基礎の基礎である。
・自分自身が素晴らしい存在である事を知れば知るほど、回りの人々もまた素晴らしい存在である事を知るようになり、その結果として、自分と回りの人々の関係集団(家族、学校、地域、国家)、すなわち社会も大切な存在である事気付くようになる。また自分自身を深く知れば知るほど、人は自然の相似であり、その根源が自然にある事を知るようになり、自然の素晴らしさ、自然の美しさ、自然の妙を知る事になる。
・知恵を愛する、真善美等を愛すると言う行為、すなわち哲学は人間の本性である。哲学一貫教育においては、先ずこれらの本性に気付かせて上げる。そしてこれらの本性に気付いた者は、自らにおいてその本性を育てて行く事になる。哲学一貫教育はその様な機会を継続的に提供する事にある(その様な本性があっても、機会がなければ気付かないし、継続的な機会がなければ育たない)。
・哲学とは真善美等を愛する事、哲学風土が出来上がるとは真善美等を愛する風土が出来上がる事。この様な社会が如何に素晴らしい社会がお分かりになると思います。
・嘗て古代ギリシア人は哲学の民と呼ばれていました。この哲学一貫教育により、今度は日本人が哲学の民と呼ばれる事になるのです。
・嘗て日本は「言霊の幸う国」と呼ばれていました。哲学一貫教育はその様な国創りを目指しているのです。
万葉集「言霊の幸ふ国と語り継ぎ言ひ継がひけり」(広辞苑)
以上が、小中高校一貫教育を土台とした、日本国民の一生涯にわたる哲学一貫教育の概要です
哲学一貫教育について、ご理解頂けたでしょうか。
哲学philosophia、知恵を愛すると言う行為、真善美等を愛すると言う行為は、教育にお
いてとても大切な概念です。と言うよりも、哲学こそが教育の本質です。
現在、教育振興基本計画を策定中との事ですが、どうかこの哲学と言う概念を中心に据えて頂きたいと思います。
そして、その中に哲学一貫教育を組み込んで頂きたいと思います。
教育振興基本計画の参考資料を見させて頂きましたが、総花です。
はっきり言って哲学がありません。
もし上記の意味での哲学と言う概念を中心に据えれば、その全ての総花に光が当たり、光り輝く事でしょう。
そしてそれら総花は、その光に向かおうとするでしょう。
その光こそ哲学、知恵を愛する、真善美を愛すると言う行為になるのです。
哲学と言う概念が計画の中心に据えられれば、全ての施策が素晴らしいものになります。
何故なら、個々の施策を実行する時、そこには必ず哲学、すなわち知恵を愛すると言う行為、真善美等を愛すると言う行為が入ってくるからです。
その全ての行為は哲学を帯びる事になります。すなわち真善美等と言う属性を纏う事になります。
その結果は真善美溢れる日本となるのです。
現在哲学と言うと、プラトンやカントやヘーゲルの文献を研究する事が哲学と呼ばれていますが、哲学一貫教育で言う所の『哲学』とは、あくまでもphilosophia、知恵を愛する事、真善美等を愛する事です。
もしこの意味での哲学と言う言葉の使い方が宜しくないと言うのであれば、「知恵を愛する為の学問」とか「真善美等を愛する為の学問」としても良いのですが、やはり少し間が抜けています。
哲学と言う言葉を使った方が国民の受けも良いと思います。
「哲学の民、日本人」と言う方が格好良いと思います。
「哲学=philosophia=知恵を愛する事=真善美等を愛する事」と言う概念について、教育再生会議や中央教育審議会において検討して頂きたいと思います。
もし、哲学がその様な概念で国民の間に広がっていけば、国民は何の臆する事も無く哲学に向かって行くと思います。
現在は、哲学を勉強するなどと言うと、何の役にも立たない学問を遣って何になるのかとか、何を偉ぶっているのだと言うのが相場です。
「哲学=philosophia=知恵を愛する事=真善美等を愛する事」は決してそんな事ではありません。人間の本性です。
現在哲学は悪習に染まっています。
真の意味での哲学を解放して上げる事が、教育再生会議や中央教育審議会の役割だと思います。
現在の大学の哲学科の教授は哲学者ではありません。
彼らはプラトン研究家であり、ヘーゲル研究家であり、カント研究家です。
真の哲学者とは、イエス、ブッダ、マホメット、ソクラテス、プラトン、デカルト、カント、ショーペンハウワー、孔子、老子、レーニン、マルクス、毛沢東、イソップ、ホメロス、ダンテ、ゲーテ、シェークスピア、カエサル、ナポレオン、レオナルドダビンチ、ピカソ、ベートーベン、モーツアルト、ガリレオ、ニュートン、エジソン、アインシュタイン、聖徳太子、空海、親鸞、徳川家康、西郷隆盛、夏目漱石等々の言葉が自分の中にあり、それらを完全に咀嚼して、自分のものとし、様々な哲学テーマについて自分自身の意見をはっきり即座に言える者の事であり、そしてそれらを実践できる者の事です。
哲学一貫教育ではその様な哲学者の育成を目指しているのです。
どうか、教育再生会議や中央教育審議会においても、その様な観点からご審議頂きたいと思います。
どうか「哲学=philosophia=知恵を愛する事=真善美等を愛する事」と言う概念を教育振興基本計画の中心に据えて頂きたいと思います。そして哲学一貫教育をその中に組みこんで頂きたいと思います。
なお、私が哲学教育と言う言葉だけを連呼するので、教科教育を等閑にしていると思われるかも知れませんが、決してそうではありません。
教科教育は徹底しなければなりません。
教科教育が徹底してこそ、哲学教育も生きてくるのです。
知恵と知識のバランスの取れた日本人の育成、これが哲学一貫教育の目標です。
知恵と知識のバランスの取れた日本人とは、教養人としての日本人であり、中庸の民としての日本人の事であり、哲学の民としての日本人の事です。
最後に孔子の次の言葉を置いておきます。
「學而不思則罔、思而不學則殆」(巻第一、為政第二、第十五節)
敬具
平成20年2月17日
哲学哲男
追伸
教育再生会議担当室長様にも同文を回覧、回送して頂ければ有り難く思います。
また、上記書簡文では哲学一貫教育の事を十分に言い足りていないので、是非下記の参考資料をご一読して頂きたいと思います。
参考資料
下記1「小中高校哲学一貫教育について」
下記2「分野別哲学テーマ例」
下記3「一生涯にわたる哲学一貫教育について」
※上記3つの参考資料については、初等中等教育局長殿宛の「哲学一貫教育提唱文」に記載している参考資料をご覧下さい。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
哲学一貫教育提唱文
平成20年3月9日付け
文部科学省初等中等教育局教育課程課長殿宛
拝啓 初等中等教育局教育課程課長 殿
現在、小学校学習指導要領及中学校学習指導要領に関して意見の公募を行なっているとの事、私も国民の一人として意見を述べさせて頂きます。
今回の学習指導要領の改訂で目指している事は、学力の向上であり、道徳教育の充実であり、言語教育の充実だと思います。
この内の学力の向上については、授業時間数の増加の割合に応じて、その効果は出て来ると思います。
もし現在の学力水準が世界10位であるのであれば、その授業時間数の増加割合に応じて、世界の8位か9位くらいにはなると思います。
しかし、道徳教育と言語教育の充実については、何も望めないと思います。
何故なら、現在の学習指導要領と何ら変りが無いからです。
道徳教育の充実と言語教育の充実の為に必要な事、それは良き教材と徹底した反復です。
しかし、今回の学習指導要領では良き教材は望めません。
何故なら教材の作成を現場に任せているからです。
良き教材は国民の英知を結集して作成しなければなりません。
良き教材であれば、児童生徒はひとりでに啓発されていくものなのです。
また、今回の学習指導要領では徹底した反復も望めません。
何故なら、道徳の授業時間数はそのままだし、言語教育を充実させる為の時間も特別に確保していないからです。
なお、主要教科において、言語教育の充実を図ろうとしているようですが、その効果はありません。もし主要教科において言語教育の徹底を図ろうとすれば、現場は混乱し、今回の一番の目的である学力の向上も覚束無くなります。「二兎負う者は一兎も得ず」です。何故なら、現在の各教科の教師にそれだけの言語能力がないからです。
それではどの様な方法があるのか。
『哲学一貫教育』です。
これにより、日本の学力水準は世界に飛び抜けて一位となり、日本人の道徳性及び言語能力は世界に羨望されるほどのものとなるのです・・・。
『哲学一貫教育』、
それは日本国民に哲学の機会を提供する事により、日本国民が哲学的に成熟した国民になる事を目指すものです。
この哲学一貫教育には二つの概念があります。
一つは「小中高校哲学一貫教育」であり、他の一つは小中高校哲学一貫教育を土台とした、「一生涯にわたる哲学一貫教育」です。
これらについては、下記1の「小中高校哲学一貫教育について」及び下記3の「一生涯にわたる哲学一貫教育」に詳述していますのでご覧頂きたいと思いますが、現在問題としているのは小学校及び中学校の学習指導要領ですので、ここでは、「小中高校哲学一貫教育」に限ってその概要を簡単に説明していきたいと思います。
なお、哲学一貫教育における哲学とはphilosophia、知恵(sophia)を愛する(philo)事、真善美等を求める事と解して下さい。
この概念が哲学一貫教育を貫く概念となります。
それでは、「小中高校哲学一貫教育」について、箇条書きでその概要を説明していきます。
① 小学校、中学校の「道徳」を廃止し、「哲学」とし、授業時間を週2時間とする。
高校の「倫理」を廃止し、「哲学」としかつ必修とし、授業時間を週2時間とする。
これにより、授業時間週2時間の小中高校哲学一貫教育を完成させる。
② 哲学一貫教育の対象は、「読書」と「思索」と「作文」と「対話」とし、この内、「読書」と「思索」と「作文」を授業の対象とし、「対話」は課外で行われるものとする。
③ 週の最初の時間に「読書」を行い、週の最後の時間に「作文」を行う。
なお、「思索」はそれぞれの時間に当然に行われる。
④ 読書用として『哲学読本』を、作文用として『哲学ノート』を学年ごと作成する。
⑤ 学年ごとに、それぞれの学年に相応しい哲学テーマ(知恵、勇気、忍耐、節制、寛容、愛、友達、勉強、人生、仕事、社会、環境、自然等々、哲学テーマ例については下記2の「分野別哲学テーマ例」を参照の事)を30程度選択する。
⑥ 『哲学読本』は、一つの哲学テーマについて、古今東西の名著の中の名文中の名文を3編程度掲載したものとする。
読書の時間には、一つの哲学テーマに関する古今東西の名文中の名文を3編程度読む事になる。
⑦ 『哲学ノート』は、哲学読本の読書を契機とした、その哲学テーマに関する作文を書く為のノートとする。なお、作文は読書感想文ではなく、そのテーマに関する自由作文とする。
⑧ 学校図書館に隣接して、学校の規模に応じて、『哲学対話室』を1から5設置する。
哲学対話室おいては、児童生徒が哲学的素養のある教師や学校外の哲学的素養のある大人と哲学対話を行なう。
児童生徒は自らの知恵の総力を上げて教師や大人に向かう事になる。
また、哲学対話室においては、学級、学年を超えた児童生徒間の哲学対話も行なわれる。
⑨ 哲学の授業において、教科や教科の単元や必要な場合には教科の単元の中の言葉や公式も哲学する。
哲学教育と教科教育のすみ分けを行なう。
教科教育においては徹底して正確な知識の伝授を行う。
哲学教育おいて知恵(道徳、言語)を学ぶ。
哲学教育と教科教育の両輪により、知恵と知識のバランスの取れた児童生徒を育成する。
⑩ 総合学習や特別活動は、哲学の授業で自らが学んだ概念の実験体験体感の場となる。この事は特別に位置づけをしなくても当然にそうなる。何故なら、哲学とは自らと自らの関係に関する全ての事を学ぶ事だからである。
⑪ 哲学一貫教育の目的は、自ら学び、自ら考え、自らにおいて真善美等を自らのものしようとする児童生徒を育成する事にある。
以上が「小中高校哲学一貫教育」の概要です。
どうです。
道徳性と言語能力に優れ、学習意欲の高い児童生徒が育成されたでしょう・・。
小中高校12年間において、360(1年30テーマ×(6年+3年+3年)=360)の哲学テーマについて、古今東西の名著の中の名文中の名文を読み、そして360の哲学テーマについて作文を書く事になるのです。
これにより、児童生徒の言語能力が如何に向上するか、敢えて言う必要は無いと思いま
す。
そしてその哲学テーマとは全て道徳性に絡むものです。
これにより、児童生徒の道徳性が向上する事についても、敢えて言う必要は無いと思い
ます。
そしてまた哲学の授業では、教科や教科の単元や教科の単元の中の言葉や公式も哲学します。
これにより、教科の知識は生きたものになり、児童生徒の学習意欲は高まる事になります。
更にまた哲学対話室においては、児童生徒は自らが尊敬する哲学的素養のある教師や大人たちと哲学対話を行ないます。
これにより、児童生徒は本当の意味での道徳性と言語能力を身に付ける事になります。
本当の意味での道徳性と言語能力を身に付けた児童生徒には猛烈な学習意欲が湧いてきます。
ここにおいて、本当の意味での、知恵と知識に優れた児童生徒が育成される事になるのです。
どうです。
小中高校哲学一貫教育により、道徳性と言語能力に優れ、学習意欲の高い児童生徒が育成されたでしょう・・・。
哲学一貫教育を徹底すればするほど、道徳性と言語能力に優れ、学習意欲の高い児童生徒が育成されていく事になりますが、教科教育(知識の伝授)も徹底しなければなりません。
哲学一貫教育と教科教育のバランスが必要なのです。
上記の哲学一貫教育は、道徳または倫理の時間を1時間増やし、哲学と言う概念を取り入れるだけです。
それだけでこんなに素晴らしい効果が出るのです。
国家の大計は教育にあり。
学習指導要領の大計は定まったなどと言わず、国家の大計の為に、是非この哲学一貫教育の概念を導入して頂きたいと思います。
哲学一貫教育の素晴らしさは分かった。
しかし時間的にどうしても無理だと仰るのなら、新しい学習指導要領の運用の中で、哲学一貫教育を導入して頂きたいと思います。
その為の方法をこれから述べて参りたいと思います。
哲学一貫教育はとても簡単な教育方法です。
それは「読書」と「思索」と「作文」と「対話」だけです。
この内、哲学の授業で対象とするのは、読書と思索と作文です。
しかも思索は、読書と作文に付随して行なわれますので、哲学の授業で直接対象とするのは読書と作文だけと言う事になります。
毎週、読書の時間を1時間、作文の時間を1時間確保して頂ければ、哲学一貫教育は実質的に完成するのです。
小学校、中学校においては、道徳の時間が1時間確保されていますので、後1時間確保すれば良いだけの話です。
後1時間の確保については二つの方法があります。
一つは、国語の時間の1時間を「読書、作文」の時間に充てる方法です。
他の一つは、総合学習の1時間を「読書、作文」に充てる方法です。
どちらでも良いと思いますが、後者の方がより柔軟に行なえると思います。
方法は次の通り行なえば良いと思います。
総合学習の時間は週2時間ですが、これを月8時間と捉えます。
そしてこの内の毎週1時間計4時間を「読書、作文」の時間に充て、残りの4時間を「体験学習」の時間に充てます。
体験学習は、午後の全ての時間を使って実施するものとします。
すなわち体験学習を月1回実施する事になります。
なお、体験学習は学校を出て、身近な自然や社会と接する機会とすべきだと思います。
体験学習は午後の全てを使って3時間ですので、残りの1時間については体験学習の予習や復習に使えば良いと思います。
以上で、小学校、中学校においては、週2時間の「読書」と「作文」の時間が確保された事とします。
後、高校ですが、高校についてはこれから学習指導要領を作成する事になっているようですので、週2時間の「読書」と「作文」の時間を確保して頂く事としましよう。
これにより、小中高校一貫して週2時間の「読書」と「作文」の時間が確保された事になります。
すなわち、小中高校哲学一貫教育の素地が整った事になります。
なお、ここまで来て分かったと思いますが、哲学一貫教育とは徹底した言語教育の事なのです。
そしてその対象が哲学テーマなのです。
なお、哲学一貫教育で言う所の哲学テーマとは、下記の2の「哲学テーマ例」を見て頂ければ分かると思いますが、それは学習指導要領の「道徳」で定める所の道徳テーマと全く一緒なのです。
哲学一貫教育とは、徹底した言語教育の事であり、徹底した道徳教育の事なのです。
これにより、今回の学習指導要領改訂で目的とした、言語教育と道徳教育の充実が如何に図れるか、敢えて言う必要はないと思います。
どうか、新しい学習指導要領の下、哲学一貫教育の充実を図って頂きたいと思います。
さて、小中高校哲学一貫教育の素地、すなわち週2時間の読書と作文の時間が確保できましたので、今度はこれの実際の運用について述べていきたいと思います。
なお、哲学一貫教育に充てる為の週2時間は、小中高校とも道徳の時間が1時間で、総合学習の時間が1時間と言う想定で話を進めていく事にします。
哲学一貫教育の授業で行われるのは、「読書」と「作文」だけです。
この内、読書については「哲学読本」を読むだけの事であり、作文については哲学読本の読書を契機にした、その哲学テーマに関する自由作文を「哲学ノート」に書くだけの事です。
哲学一貫教育の授業方法はとても簡単なのです。
週の最初の時間を読書の時間に充て、週の最後の時間を作文の時間に充てるだけで、哲学一貫教育は自動的に完成するのです。
今回の運用の中では、道徳の時間を読書の時間に充て、総合学習の時間を作文の時間に充てる事にします。
すなわち、週の最初の時間を「道徳」の時間とし、「哲学読本」を読む
週の最後の時間を「総合学習」の時間とし、「哲学ノート」に哲学テーマに関する自由作文を書く。
これで、新しい学習指導要領の下での哲学一貫教育の完成です。
もっと具体的に目に見える形で整理すると次の様になります。
月曜日の第一限目を「道徳」の時間とし、「哲学読本」を読む。
金曜日の第六限目を「総合学習」の時間とし、「哲学ノート」に作文を書く。
これで、新しい学習指導要領の下、哲学一貫教育の枠組みが出来上がった事になります。
何故週の最初と最後の時間に哲学の授業を持って来るのか。
それは哲学の授業を自省の時間とする為です。
学校が始まる時、自らを省み、学校が終わる時、自らを省みる為です。
なお哲学の授業の意義はこれから山ほど述べると思います。
さてここで一つ問題がありますよね。
「哲学読本」と言う言葉であり、「哲学ノート」と言う言葉です。
ここでは知恵を働かす事としましよう。
学習指導要領には、哲学と言う言葉はありません。
しかし道徳と言う言葉があります。
先程も述べた事ですが、哲学一貫教育で言う所の哲学と学習指導要領で言う所の道徳とはそのテーマに関しては何の違いも無いのです。
ですから、「道徳読本」と「道徳ノート」とする事としましよう。
「哲学読本」と「哲学ノート」と、「道徳読本」と「道徳のノート」には何の違いもありません。
名を捨て実と取る事としましよう。
「道徳読本」と「道徳ノート」の完成です。
この二つによって、新しい学習指導用要領の下、哲学一貫教育を実質的に進めて行こうではありませんか。
しかここでこう言う人々が出て来ると思います。
道徳の時間に「道徳読本」を読むのは分かるが、何故総合学習の時間に「道徳ノート」に作文を書くのかと。
それはある意味ご尤もです。
それではどうしましよう。
ここも知恵の働かせ所です。
道徳と言う言葉が引っかかるのですから、道徳と言う言葉を抜けば良いのです。
すなわち、「道徳ノート」ではなく、「作文ノート」とすれば良いのです。
そうすれば対外的にはとやかく言われる事はありません。
さてこれで新しい学習指導要領の下での、実際の哲学一貫教育の運用が定まりました。
すなわち、月曜日の第一限目を「道徳」の時間とし、「道徳読本」を読む。
金曜日の第六限目を「総合学習」の時間とし、「作文ノート」に道徳読本の読書を契機とした、哲学テーマに関する自由作文を書く。
これで、新しい学習指導要領の下での哲学一貫教育の完成です。
さて、哲学一貫教育に関する物理的条件が整ったので、愈々その内容に入って行きたいと思います。
なお、内容に入る前に一言述べて置きたいと思います。
何故道徳教育が人気がないのか。
それは道徳と言う言葉の為です。
道徳を哲学と変えて御覧なさい。
現場の教師の目の色が変ります。
国民の目の色も変わります。
その結果として、児童生徒の目の色も変わります。
その結果、日本国民は哲学の民となるのです。
哲学とは「汝自身を知れ」、本当の自分自身を知る事です。
哲学教育も道徳教育も目指す所は一緒でも、その情熱に天と地ほどの差が付くのです。
哲学教育では自らが学んだ事を実践します。
道徳教育では教えられた事を実践します。
そこには天と地ほどの差が付くのです。
しかしここで繰言を言っても仕方がありません。
新しい学習指導要領の下、哲学一貫教育の趣旨が徹底するよう、お互い頑張りましょう。
さて、哲学一貫教育ですが、この中で一番大切なものは、『哲学読本』(道徳読本)です。
何故なら、この『哲学読本』(道徳読本)によって、児童生徒を育てていくからです。
キリスト教国家においては、聖書によって子供を育てます。
イスラム教国家においては、コーランよって子供を育てます。
日本においては、『哲学読本』(道徳読本)によって子供を育てるのです。
しかし『哲学読本』(道徳読本)は1冊ではありません。
それぞれの教科書会社がそれぞれに出版します。
また一般の出版会社も競って出版します。
これらの『哲学読本』(道徳読本)がハーモニーをなして、日本の子供たちを育てていくのです。
『哲学読本』(道徳読本)は、学年ごとに作成します。
各学年に相応しい哲学テーマ(勇気、知恵、愛、忍耐、寛容、節制、勉強、友達、学校、仕事、自然、環境等々、哲学テーマ例については下記2の「分野別哲学テーマ例」を参照の事)を30程度選択し、それぞれの哲学テーマに関して古今東西の名著の中の名文中の名文を3編程度掲載します。
何故、名文中の名文でなければいけないのか。
それは、名文中の名文と言うものは、時の練磨を経ており、一切の無駄が剥ぎ落とされ、そこに言霊が漂っているからです、
哲学一貫教育は、この言霊により、児童生徒の言霊を揺さぶる事から始めるのです。
何故、一つ哲学テーマに関して、名文中の名文を3編掲載するのか。
それは普遍を学んで貰う為です。
例えば慈愛について、イエスの慈愛の名文、ブッダの慈愛の名文、マホメットの慈愛の名文を3編掲載します。
ここから普遍の慈愛について学んで貰うのです。
この様な方法で、全ての哲学テーマに関して普遍を学んで貰うのです。
『哲学読本』(道徳読本)はイデオロギーを教える為の道具ではありません。
児童生徒が自らにおいて価値を見出し、自らにおいて価値を確立させていく為の道具なのです。
児童生徒が自らのアイデンティティを確立させていく為の道具なのです。
ですから、様々な分野から様々な言葉を与えて上げなければならないのです。
その為にも、国民の英知を結集して作成しなければならないのです。
『哲学読本』(道徳読本)は様々な分野の名著の中の名文中の名文を集めたものです。
哲学の分野もあれば、文学の分野もあれば、芸術の分野もあれば、科学の分野もあります。
世界はこれまで、たくさんの偉人、賢人、哲人、聖人、英雄、天才芸術家、天才科学者等々を生み出してきました。
彼らの言葉により、児童生徒の心を掴み、その言霊を揺さぶる事から始めるのです。
例を挙げれば、
イエス、ブッダ、マホメット、孔子、老子、聖徳太子、空海、親鸞等々
ソクラテス、プラトン、エピクロス、エピクテトス、セネカ、キケロ等々
デカルト、ルソー、ロック、カント、ショウペンハウワー、西田幾多郎等々
イソップ、ホメロス、ダンテ、シェークスピア、ゲーテ、夏目漱石等々
レオナルドダビンチ、モーツアルト、ベートーベン、ピカソ、世阿弥等々
ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、エジソン、湯川秀樹等々
カエサル、アレクサンダー、ナポレオン、徳川家康、西郷隆盛等々
ナイチンゲール、シュバイツアー、マザーテレサ、野口英世等々
切がありません。
彼らは決して逃げる事はありません。
『哲学読本』(道徳読本)により言霊を揺さぶられた児童生徒は、その名著原典に向かい彼らと対話します。
そしてその対話が終わった時、児童生徒の中に彼らの言霊が宿る事になるのです。
また原典に向かわずとも、一つのテーマに関して名文中の名文を3編読む時、児童生徒の言霊が揺さぶられ、その思考回路が物凄い勢いで回転し、新たなインスピレーションが生まれるかも知れません。
また例えインスピレーションが起こらずとも、名文中の名文を3編も読めば、児童生徒に何らかの変化が起こります。それが名文中の名文、すなわち言霊の由縁なのです。
さて、以上『哲学読本』(道徳読本)の素晴らしさをご理解して頂けたと思いますが、『哲学読本』(道徳読本)をどの様にして作成するか。
ここが哲学一貫教育の成否の分かれ目となります。
例え、『哲学読本』(道徳読本)が如何に高尚であろうとも、財源が無ければそれは日の目を見る事は出来ないのです。
そうです。
『哲学読本』(道徳読本)を無償にする事です。
それでこそ、教科書会社は力を入れて、素晴らしい『哲学読本』(道徳読本)を創っていくと言うものなのです。
現在日本は、道徳退廃国家への道を一途に進んでいます。
道徳教育の充実、これこそが現在の政治上の第一課題です。
『哲学読本』(道徳読本)を無償にする事について誰も反対する人などいません。
法律改正については知恵を出し合って下さい。
なお道徳は教科ではありませんので、検定を受ける必要はありませんが、やはり何らかの審査を受ける必要はあるのでしょう。
国民の英知と言われる哲学者、文学者、芸術家、科学者等々で構成する「『哲学読本』(道徳読本)審査委員会等」で審査して貰っても良いでしょう。
また縦覧に付す形で、国民全てに審査して貰っても良いのではないでしょうか。
『哲学読本』(道徳読本)とは古今東西の名著の中の名文中の名文を集めたものです。
誰がその内容に反対するのでしょう。
さて、素晴らしい『哲学読本』(道徳読本)が出来上がりました。
後はこれの教室での実際の運用です。
これまで何度も言っていますが、週の最初の時間に読書を行い、週の最後の時間に作文を行う事になっています。
ですから、週の最初の読書の時間にこの『哲学読本』(道徳読本)を読む事になります。
さてここからが大切です。
教師は授業の開始と終了の合図以外は何も言葉を発しないものとします。
教師は児童生徒が読書と思索に専念出来るよう、静謐を保つ事とします。
児童生徒からの発言も許さない事にします。
この1時間は学級が静謐に包まれる事になります。
読書は黙読とします。
『哲学読本』(道徳読本)には、一つの哲学テーマに関して、古今東西の名著の中の名文中の名文が3編掲載されています。
また、それぞれの3編の後には簡単な書誌と著者のプロフィールも載せてあります。
『哲学読本』(道徳読本)には全てルビが付されています。
児童生徒はそれぞれの言霊に触れながら、思索を深めます。
児童生徒が如何なる思索を行うか、それに関して教師は一切関与してはなりません。
それが哲学の哲学たる所以です。
しかし善き言霊に導かれた思索は、良き方向へと必ず向かうものです。
これが哲学一貫教育における所の基本理念なのです。
さて無事、週の最初の読書の時間が終わりました。
感想は如何ですか。
教えたい、教えたい、教えたい・・と言う気持ちは山々分かりますが、週に1回はこの静謐の時間が必要なのです。
しかし、この1時間に児童生徒は、名文を学び、そしてその著者を学び、そしてその書誌まで学んでいるのです。
多分この内容を教師が授業と言う形で教えるとしたら、半日はかかると思います。
哲学の目的は知識を受け容れる事ではありません。
自らにおいて自らを思索する事です。
名文中の名文はその契機に過ぎないのです。
しかし名文中の名文には言霊が宿っているので、児童生徒はその言霊に激しく揺さぶられる事になるのです。
一つの哲学テーマについて、聖人、偉人、賢人、哲人たちがあちらと思えばまたこちら、こちらと思えばまたあちらと引き回します。
児童生徒の頭脳はフル回転せざるを得ないのです。
ここにインスピレーションの湧く根拠があるのです。
その名文中の名文は記憶する必要はありません。
その場限りで良いのです。
その名文中の名文は単に契機に過ぎないのですから。
しかしもしその名文が児童生徒にインスピレーションを起こさせたら、その名文は児童生徒の記憶から決して消える事はないのです。
何故なら、その児童生徒は繰り返し、繰り返し、その言葉に帰って行くでしょうから。
もしそんな言葉が児童生徒の中で一杯になったらどうなるのでしょう。
彼らはより聖人偉人賢人哲人たちに近付いていく事になるのではないでしょうか。
例えそうではなくても、彼らの中でその言霊が輝き続けるのです。
それが言霊の由縁です。
哲学一貫教育とはこの言霊を利用する教育なのです。
皆さんを刺激しようと思って言霊と言う言葉を繰り返し使っていますが、言霊とは人の心を力強く揺り動かす言葉と言った程度のものです。
しかし、一旦人の心を強く揺り動かした言葉は、人の心の中に鎮座する傾向があるのです。
その様な傾向のある言葉を譬えて言霊と称しています。
ここでは言霊を次のように定義して置く事にしましよう。
「人の心を強く揺り動かし、人の心に鎮座する傾向のある言葉」と
そして哲学一貫教育では、この言霊を利用すると。
人は言葉により動く動物です。
であれば、言霊により教育する方法が一番手っ取り早いのです。
もしその言霊が住み着けばどうなるのでしょう。
その人はその言霊により動くのではないでしょうか。
現在の国語の本にはそんな言霊はほとんどありません。
市販の道徳読本も似たようなものです。
市販の道徳読本の言葉は一過性において、人の心を動かす事はあるかも知れませんが、その授業限りです。
その原典を見つけようと思っても何処にもありません。
一夜の夢物語も見たような感じしか残りません。
しかし「哲学読本」(道徳読本)はそうではありません。
児童生徒は何時でも原典に向かう事が出来、そしてその原典の中でまた新たな言霊に触れるのです。
言霊には権威が必要です。
何処の誰が書いたか分からないような文章については、人は注意を向けません。
しかしこれこれの文章は、世界で最も著名な人が書いた文章なのですよ。
これだけで、児童生徒はその文章に集中するのです。
貴方方もそうではありませんか・・・。
何処の馬の骨が書いたか知らないようなこの文章は見る価値が無い。
そう言って、即座に雑件書類の中に入り、一年先は廃棄処分となる。
しかしもし、この文章に○○先生と言う署名があれば、その文章は永久保存ともなる。
哲学一貫教育では人間のそうした性向をも利用するのです。
これはちょっと話題からそれますが、最近高校の「現代文」を読んでみました。
そこには言霊はほとんどないばかりか(宮沢賢治の銀河鉄道の夜には言霊を揺さぶられましたが・・)、その文章を追えば追うほど憂鬱になります。
そこにはあるのは現代人の鬱屈した精神です。
「現代文」では、その現代人の鬱屈した精神を追えと言っているのです。
現代人だからそう言う事に成るのでしょうが、しかし学習指導要領で言う所の道徳に関しては一切育てる事は出来ません。
ですから、国語と道徳はきっぱり切り離す必要があります。
道徳においては言霊のシャワーを浴びせます。
国語においては国語の技術を身に付けさせる。
その第一番はやはり漢字の読み書きだと思います。
これは徹底する。その他色々な技術があるのでしょうから、そちらに特化すると言う事になるのでしょうか。
しかし私はやはり思います。
国語においても名著の中の名文中の名文をなるべくたくさん採用した方が良いと。
そうであれば、道徳と国語が相乗作用を起こして、更に一層早く、哲学国家への歩みを速めると。
すみません。
今ここで新たな着想が浮かびました。
それは、国語教育中でも言語教育と道徳教育を行なうと言う事です。
すなわち、すなわち国語教育の中でも哲学一貫教育を行うと言う事です。
その方法はこれまで述べてきた哲学一貫教育と全く一緒です。
すなわち、週の前半の1時間を読書に充て、週の後半の1時間を読書に充てます。
そして、読書の時間には名著の中の名文中の名文を読み、作文の時間にはその名文中の名文を契機とした作文を書きます。
勿論、国語教育の中で行なうので、哲学とか道徳とか言う言葉は使わない事にしますが、その実際は全く哲学一貫教育と一緒です。
すなわち、名文中の名文により、児童生徒の言霊を揺さぶる事から始めるのです。
具体的な運用としては、例えば国語の時間が週6時間であれば、その内の週2時間を哲学一貫教育、すなわち読書と作文の時間に充て、残りの4時間を通常の国語教育に充てるものとします。
哲学(道徳)教育の中での読書の時間には、一つの哲学テーマに関する名著の中の名文中の名文を3編程度読みますが、国語教育の中での読書の時間には一つの哲学テーマに関する名著の中の名文中の名文を1編読む事にします。
哲学(道徳)教育の中での読書は言霊を激しく揺さぶる事を主眼としますが、国語教育の読書においても勿論言霊を揺さぶる事が第一目的ではありますが、読解力の養成についても力点を置く事します。
その為長編の1編とする事とします。
読書は勿論黙読です。その為、ルビを付します。また簡単な著者の略歴や著書の書誌も付します。
国語教育の中での読書の方法は、哲学(道徳)一貫教育の中での読書の方法を全く一緒です。
相違点は、哲学(道徳)教育の中での読書においては一つの哲学テーマに関して3編程度読むのに対し、国語教育の読書においては一つの哲学テーマに関して1編だけを読むと言う事だけです。
そして、国語教育における読書の時間における教師の役割も、哲学(道徳)教育の中での読書の時間における教師の役割と全く同じです。
すなわち、授業の開始及び終了の合図と、その1時間、教室の静謐を保つ事だけです。
その静謐の1時間の中において、児童生徒は名文中の名文、すなわち言霊に激しく揺さぶられ、自らを深く省みる事になるのです。
次に、国語教育における作文のあり方ですが、未だ哲学(道徳)教育における作文のあり方について述べていなかったので、ここで一緒に述べたいと思います。
国語教育における所の作文の時間のあり方と哲学(道徳)教育における所の作文の時間のあり方は全く一緒です。
相違点と言えば、哲学(道徳)教育の授業の中で作成される作文においては、名文を契機とした自由な発想の作文が生まれる傾向があるのに対し、国語教育の授業の中で作成される作文においては、名文を契機とした著者との対話文、すなわち読書感想文が生まれる傾向にあると言う事くらいです。
何故なら、哲学(道徳)教育の読書の時間には一つの哲学テーマに関して名文を3編読むのに対し、国語教育の読書の時間には一つの哲学テーマに関して1編を読み込むからです。
しかし、両者の相違点を強調する事は全く必要ありません。
哲学(道徳)教育における作文においても、国語教育の作文の時間においても、何を書いて良いのです。
作文は自分を確認する為の道具に過ぎないのですから・・・。
哲学(道徳)教育及び国語教育における作文の時間における教師の役割は、哲学(道徳)教育及び国語教育における読書の時間における教師の役割と全く同じです。
すなわち、授業の開始及び終了の合図と、その1時間、静謐を保つ事だけです。
この静謐の1時間の間に、児童生徒は言霊を契機として、自らを省み、そしてそれを文字として記録するのです。
この文字に記録すると言う事が児童生徒の成長にとってとても大切なのです。
言霊によって、児童生徒の言霊は激しく揺さぶられます。
しかしそれはある意味でほんの一時的な事です。
哲学(道徳)の授業が終わる頃には綺麗さっぱり忘れています。
それはそれでも良いのですが、児童生徒の持続的な哲学的成長を望むのであれば、その言霊を文字として記録して置く必要があるのです。
哲学とは自らのとの対話、すなわち自らを相手とした弁証です。
その為には、自らの思想がその前に無ければいけないのです。
しかし人間の記憶力はほんの微々たるものです。
特に自らの思想については。
自らの思想に関する記憶力がほんの微々たるものであること、それは貴方を実験材料にして実証する事ができます。
さて、昨日、1時間前、そして10分前に何を思想したか、思い出してください。
人間の思想に関する記憶力とはその程度のものなのです。
思想とは、思い想う事。
人は一瞬も休まず思想し続けているのです。
人は思想を記憶する事など出来ないのです。
貴方はここでこう言うかも知れませんね。
一日前の事も、一時間前の事も、一分前の事も思い出したくないと。
そうですね、何を思想するかがとても大切ですね。
哲学一貫教育では、名著の中の名文中の名文、すなわち言霊を契機として、すばらしい思想が展開されます。
それは貴方が一日前、一時間前、一分前に思想した事とは大違いですよね。
それは記録に残すべき大いなる思想ですよね。
しかしその児童生徒も一時間後にはその思想が綺麗に飛散霧消しているのです。
偉大なる哲学者とは如何なる人の事か。
それは自らの思想の文字を基に弁証した人の事です。
少し話が反れてしまいましたので、また国語教育に中における作文及び哲学(道徳)教育の中における作文のあり方に戻りたいと思います。
教師は、作文を読み込む必要はありません。
勿論、作文の内容を読み込んで、児童生徒を理解する事は大いに結構ですが、毎週30もの作文を、もし国語教育の中でも作文を行なうと言う事であれば、毎週60(30×2=60)もの作文を読む事は、物理的も時間的にも無理でしょうから。
哲学の本質は自ら学び、自ら考える事にあるのです。
尤も何も書いていない児童生徒に対しては、何でも良いから書くように指導する事は大切です。
また、書き方が分からないと言う児童生徒には、個別に作文指導を行なう事も大切です。
作文指導において、起承転結の4行文の指導はとても有効だと思います。
1行ごとに改行し、4行で起承転結の文を完成させる方法です。
4行の起承転結文が完了したら、1行空白を明けて、次の4行の起承転結文に移っていくと言う方法です。
現在私が遣っているこの方法です。
人の思考回路は起承転結の4行で完結します。
その思考回路のままに作文を書くと言う技術を覚えれば、作文がとても楽になり、楽しみとなります。
作文がどうしても書けないと言う児童生徒にはこの方法は有効だと思います。
パソコン時代の新しい作文の技法として研究してみてください。(尤もソネットと同じです。(4行×3)+2行=14行)
さて、壮大な哲学一貫教育が出来上がってしまいました。
当初提唱した哲学一貫教育は、週2時間の哲学一貫教育だったのですが、途中から新たな発想が入って来て、週4時間の哲学一貫教育になってしまいました。
当初の哲学一貫教育は、読書の時間が1時間と作文の時間が1時間の、合計2時間の哲学一貫教育だったのですが、最終的には読書の時間が2時間と作文の時間が2時間の、合計4時間の哲学一貫教育になってしまいました。
この壮大な哲学一貫教育における所の、授業時間の内訳とその内容を整理すると次のようになります。
① 「道徳」の週1時間を読書の時間とし、「道徳読本(名文中の名文)」を読む。
② 「総合学習」の週1時間を作文の時間とし、「総合学習作文ノート」に作文を書く。
③ 「国語」の内、週1時間を読書の時間とし、「国語教科書(の中の名文中の名文)」
を読む。
④ 「国語」の内、週1時間を作文の時間とし、「国語作文ノート」に作文を書く。
①②が当初の哲学一貫教育であり、③④が国語教育の中の哲学一貫教育です。
ここには哲学と言う文字は出てきませんが、①②③④の一連で徹底した壮大な哲学一貫教育になるのです。
この壮大な哲学一貫教育により、日本の児童生徒の哲学的能力は何処まで伸びる事になるのか。
小中高校の12年間に720(1学年30テーマ×2×(6年+3年+3年)=720)の哲学テーマについて名文中の名文を読み、720の哲学テーマについて作文を書く事になるのです。
これにより、日本の児童生徒の哲学的能力は何処まで伸びる事になるのでしょう。
ここで皆さんに大事な事を言って置きます。
哲学的能力とは、言語力の事であり、道徳性の事であり、学力の事なのです。
哲学的能力が伸びるとは、言語力が伸びると言う事であり、道徳性が伸びると言う事であり、学力が伸びると言う事です。
今回の学習指導要領の改訂の目的は何でしたか。
言語教育の充実であり、道徳教育の充実であり、学力の向上だったのではないですか。
であれば、何よりも先に『小中高校哲学一貫教育』を行なうべきではないですか・・・。
既に学習指導要領案が固まっていますので、直ぐに『小中高校哲学一貫教育』を導入する事は出来ないと思いますが、上記の様な運用試行を行なった上、5年後を目処に正式な『小中高校哲学一貫教育』を導入して頂きたいと思います。
なお、授業時間週4時間の正式な『小中高校哲学一貫教育』の概要を次に示して置きたいと思います。
① 小学校、中学校の「道徳」を廃止し、「哲学」とし、授業時間を週4時間とする。
高校の「倫理」を廃止し、「哲学」としかつ必修とし、授業時間を週4時間とする。
これにより、授業時間週4時間の小中高校哲学一貫教育を完成させる。
② 週の2時間を読書の時間とし、「哲学読本」を読む。
週の2時間を作文の時間とし、哲学読本を契機とした、哲学テーマに関する自由作文を「哲学ノート」に書く。
③ 授業時間の調整は次の方法で行なう。
小学校、中学校においては、「道徳」の1時間と「総合学習」の1時間と「国語」の2時間の合計4時間を哲学に回す。
高校においては、「倫理」の1時間と「総合学習」の1時間と「国語」の2時間の合計4時間を哲学に回す。
(なお、国語と現代文は統合し、国語一本にした方が良いと思います。敢えて現代文を学ぶ必要は無いと思います。)
その他については、これまで述べてきた哲学一貫教育と同じとします。
なお、授業時間の時間割は次のようでは如何でしょうか。
月曜第1限目「哲学(読書)」
火曜第6限目「哲学(作文)」
木曜第1限目「哲学(読書)」
金曜第6限目「哲学(作文)」
児童生徒を哲学漬にして上げるのです。
ここで皆さんに念を押して置きたいと思うのですが、哲学教育の対象とする固有の分野があると言う訳ではないのです。
哲学教育の対象とするのは、自分自身に関する事、人間に関する事、社会に関する事、自然に関する事となりますが、これは言い換えると「国語」「社会」「数学」「理科」「美術」「音楽」「保健・体育」「技術・家庭」「外国語」「道徳」等々と言う事になります。
哲学教育と教科教育の対象とする分野は全く一緒なのです。
ただ教育方法が違うだけです。
教科教育においては、その分野の正確な知識を伝授する事が最大の目的です。
哲学教育においては、その分野に関する知恵を学ぶ事が最大の目的なのです。
そして知恵を学ぶ方法が、聖人、賢人、哲人、偉人、天才たちの言葉から学ぶと言う事なのです。
すなわち彼らの言葉の相似を自らの中に見出す事、これが知恵を学ぶと言う事なのです。
哲学とは自分自身を学ぶ事。
「汝自身を知れ」
自らの中にある素晴らしい世界、これを天才たちの言葉により見出しそして確立して行く事、これが哲学なのです。
哲学教育とは言語教育以外の何ものでもないのです。
ですから「読書」と「作文」を徹底しなければならないのです。
勿論一人で。そして静謐の中で。
哲学一貫教育における静謐の保持の意味を理解して頂けたでしょうか。
哲学(philosophia=知恵を愛する事)は決して教える事など出来ないのです。
何故なら哲学とは自ら学び自ら考える事なのですから・・・。
哲学は、「読書」「思索」「作文」「対話」そして「実践」で完結していきます。
この内の「読書」「思索」「作文」については、以上で取り敢えず説明した事にします。
次に「対話」ですが、これが無ければ真の哲学者(知恵を愛する者)は育っていきません。
「読書」により真善美に溢れた言葉を与え続ければ、「思索」「作文」もその方向には向うのですが、やはり独り善がりは免れません。
「対話」により、その独り善がりを是正し、改善し、新たな真善美を確立して行ってこそ、真の哲学者(真善美を愛する者)が育って行くのです。
ですから、対話の相手は、哲学的に素養にある者でなければならないのです。
プラトンにソクラテスが居たように、
曾子に孔子が居たように、
十羅漢にブッダが居たように、
十二使徒にイエスが居たように。
哲学対話の為に、哲学一貫教育では特別な装置を設置します。
その装置とは『哲学対話室』です。
『哲学対話室』は学校図書館に隣接して、学校の規模に応じて1から5設置します。
『哲学対話室』は午後3時から午後5時まで開室する事とします。
哲学対話室には、哲学的素養のある大人が日替わりで常駐します。
児童生徒は、この哲学的素養のある大人に、自らの知恵の総力を挙げて臨みます。
ここに知恵の火花が散る事になります。
児童生徒は、この哲学対話室において哲学修行をする事になります。
そして、自らの尊敬する師を見付けて行く事になるのです。
なお、「一生涯にわたる哲学一貫教育」の所で述べているのですが、哲学対話室は小学校、中学校、高校だけでなく、大学、図書館、公民館等様々な教育・学習機関に設置します。
児童生徒が自らの学校だけでなく、他の小中高校や大学、図書館、公民館等々で哲学対話を行なう事を奨励します。
すなわち、小学生、中学生、高校生、大学生、一般人が入り乱れて哲学対話があらゆる場で行われる事になるのです。
これにより、日本に哲学的風土が形成されて行く事になるのです。
哲学一貫教育が完成した暁には、全ての国民が哲学的に成熟していきます。
あらゆる場で哲学的会話が交わされるようになります。
その様な中で、真に哲学的に優れた者が生まれ育って行く事になります。
彼らが日本をリードし、そして日本は哲学者(真善美を愛する者)たちが統率する哲学(真善美を愛する)国家となるのです。
これで哲学一貫教育の完成です。
哲学一貫教育は目的を果たした事になるのです。
以上の様に「対話」がとても大切です。
ですので、小中高校に設置する「哲学対話室」の運営は細心の注意を払わなければならないのです。
勿論哲学的素養のある教師が、哲学対話室において、児童生徒と哲学対話を行なう事になりますが、それだけでは十分ではありません。
外部の血を大幅に導入しなければなりません。
それでこそ学校も活性化します。
それでこそ児童生徒も自らの尊敬する師を見付ける事が出来るのです。
『週1回2時間の哲学ボランティア(ソクラテスを求む)』、これの大々的なキャンペーンを張ります。
哲学的に優秀な大人が入って来てこそ、学校にも哲学風土が生まれると言うものなのです。
以上で、「対話」に関する説明を終わりたいと思います。
最後に「実践」ですが、これは本人の意志に関する事であり、誰も強制する事は出来ません。
しかし哲学一貫教育により、哲学的に成熟していけば、その実践もより容易になります。
また、「一生涯にわたる哲学一貫教育」(下記3を参照の事)が充実していけば、日本国が哲学的風土(真善美を愛する風土)に包まれますので、その実践はより容易になるのです。
なお、「特別活動」や「総合学習」は、哲学一貫教育で学んだ事の実践の場となります。
その事は特別に位置付けをしなくてもそうなるのです。
何故なら、哲学とは自らの事と自らに関係する全ての事を学ぶ事なのですから・・・。
なお、「総合学習」は学校を出て、身近な自然や社会に触れる機会とすべきです。
何故なら、今回の学習指導要領で定める学校内で行なう「総合学習」については、全て「哲学一貫教育」で引き受けるからです。
以上で、哲学一貫教育における所の、「読書」と「思索」と「作文」と「対話」と「実践」に関する説明を終わりたいと思います。
小中高校哲学一貫教育が成功する鍵は三つあります。
一つ目は、勿論、小中高校での正式な哲学一貫教育の導入です。
二つ目は、「一生涯にわたる哲学一貫教育」です。これについては、下記3の「一生涯にわたる哲学一貫教育について」に詳述しているので後ほどご覧頂きたいと思います。
三つ目が、大学教育学部における徹底した哲学教育です。
教育は教師によって行なわれます。
現在の教育の退廃、それは教師に哲学的素養が無いからです。
教育改革、それは大学教育学部における徹底した哲学教育から始まるのです。
その方法をこれからお示ししたいと思います。
なお、教育学部のおける哲学教育の目的は、ヘーゲル研究家やカント研究家を育てる事ではありません。
小中高校哲学一貫教育を充実させる為です。
その為にも、その教育方法は小中高校哲学一貫教育に準じたもので無ければならない事になります。
教育学部における哲学教育の方法、それもやはり「言霊」による教育となります。
教育学部の学生も言霊で徹底的に揺さぶります。
そこから自らの世界に入って貰います。
哲学とはphilosophia、知恵を愛する事、真善美を追求する事。
哲学とは「汝自身を知れ」、自らを深く追求する事。
哲学とは自らの中に真善美に溢れた世界を築く事。
教育学部の哲学教育ではその様な材料をふんだんに提供します。
哲学的素養のある者とは、知恵を愛する者、自らを深く知ろうとする者、この素敵な世界を愛する者。
教育学部の哲学教育ではその為のカリキュラムをふんだんに提供します。
さて、それではその哲学教育の内容をお示ししたいと思います。
先ず初めにお断りして置きますが、びっくりしないで下さいね。その授業時間の多さに。
しかし、この哲学教育を完全に実施すれば、世界に類例の無い教育学部の学生が養成されます。
その結果として、当然ですが、世界に類例の無い教師たちが誕生して行く事になるのです。
ここでもう一度念を押しておかなければならないと思いますが、哲学教育だけを徹底しなさいと言っているのではありません。
哲学教育と教科(専門)教育を両立させて、徹底しなさいと言っているのです。
哲学教育と教科(専門)教育が両輪で回転してこそ、知恵と知識に優れた学生が育成される事になるのですから・・・。
なお、教科(専門)教育については、これまでの教授法で良いと思います。
それでは、教育学部における哲学教育の内容を説明していきます。
先ず、哲学を必修とします。
哲学の授業については、週3回とし、1年から4年まで通年で受講するものとします。
哲学の総単位数は48単位(4単位×週3回×4年間=48単位)とします。
なお、単位については、90分授業、全期、28授業時間を4単位と想定しています。
半期、14授業時間は2単位となります。
授業内容は以下の通りです。
1 西洋思想史・・・4単位、28授業時間(名文中の名文500編)
2 東洋思想史・・・4単位、28授業時間(名文中の名文500編)
3 日本思想史・・・4単位、28授業時間(名文中の名文500編)
4 宗教・・・・・・4単位、28授業時間(名文中の名文500編)
5 道徳・・・・・・4単位、28授業時間(名文中の名文500編)
6 古代古典講読・・4単位、28授業時間(古典中の古典10冊)
7 教科哲学・・・・4単位、28授業時間(中学校の9教科を哲学する)
8 哲学対話・・・・2単位、14授業時間(対話の技法を学ぶ)
9 哲学作文・・・・2単位、14授業時間(作文の技法を学ぶ)
10 哲学各論・・・ 16単位、112授業時間(名文中の名文2000編、各論40編程度)
①人生論、②人間論、③ 自由論、④平等論、⑤平和論、⑥幸福論、⑦感情論、⑧精神論、⑨肉体論、⑩生命論、⑪死生論、⑫男女論、⑬青少年論、⑭友情論、⑮恋愛論、⑯結婚論、⑰家族論、⑱生活論、⑲習慣論、⑳道徳論、○21国家論、○22社会論、○23宗教論、○24民族論、○25民俗論、○26時代論、○27革命論、○28戦争論、○29法律論、○30政治論、○31経済論、○32産業論、○33職業論、○34教育論、○35学問論、○36文化論、○37文学論、○38芸術論、○39 文明論、○40科学論、○41時間論、○42自然観、○43歴史観、○44地球観、○45世界観、○46宇宙観、○47読書作文論、○48「愛」論、○49「知恵」論、○50「言葉」論、○51「自分」論、○52「神」論 他
11 哲学対話録作成・・・授業外
12 哲学随想録作成・・・授業外
それでは、それぞれの授業内容について簡単に説明していきたいと思います。
その前に共通的な事柄を一つだけ述べて置きます。
それは、全ての授業は基本的には名著の中の名文中の名文から学ぶと言う事です。
文献哲学者の概念を学ぶのではなく、原典のその言葉から学ぶと言う事です。
思想史もそうだし、宗教、道徳もそうだし、哲学各論もそうです。
それぞれの科目においては、4単位、28授業時間で、約500の名著の中の名文中の名文を学ぶ事になります。
その為に、「西洋思想史読本」「東洋思想史読本」「日本思想史読本」「宗教読本」「道徳読本」「哲学各論読本1~4」を作成する事になります。
これら読本については、それぞれA4判、横書き、2段組、約600ページとします。
1つの名文については、1ページに収まる範囲内の文章量とします。
この1ページの中で、その名文の簡単な書誌や著者の紹介等も行う事とします。
これら読本については、全国の大学教育学部が共同し、英知を結集して作成するものとします。
これら一連の読本については、数種類の一連の読本が発行される事を奨励します。(例えば全国の大学が幾つかのグループに分かれて作成するとか・・。)
これらの読本の作成については、文部科学省の補助事業により行うものとします。
学生への販売価格は出来るだけ安価に抑えるものとします。
一般に流通する事を大いに奨励します。
著作権の調整が必要な場合は、文部科学省において調整するものとします。
なお、如何に名著の中の名文中の名文と雖も、生存者の著作は掲載しないものとします。
これについては、小中高校の『哲学読本』も同様とします。
前置きが長くなってしまいましたが、それぞれの科目について、箇条書きで簡単に説明していきます。
1 西洋思想史
・西洋の代表的な思想家28人程度を取り上げ、彼らの名著の中の名文中の名文から、その思想を学びます。
・哲学読本は全部で500編ですので、一人の思想家については、約20編程度(約20頁)の名文中の名文から、その思想を学ぶ事になります。
・一人の思想家について、様々な角度の名文中の名文から、その思想家を学ぶ事になります。
・1授業時間で一人の思想家を学ぶ事にします。
・授業の進め方としては、学生は授業前にそれら名文を読み込んでおくものとします。教師は、それら名文とは関わり無く、その思想家に関する文献学的概念(様々な学説や時代背景等)を講義するものとします。学生はそれら名文とそれら文献学的知識を契機として、その思想家を深く思想するものとします。なお、出来ることなら、その思想を思想録として記録しておく事を勧めるものとします(任意)。また出来ることなら、代表的原典を読む事を勧めるものとします(任意)。
・代表的思想家としては、プラトン、アリストテレス、エピクロス、エピクテトス、セネカ、キケロ、マルクスアウレリウス、アウグスティヌス、ルター、デカルト、パスカル、ロック、スピノザ、モンテスキュー、ルソー、カント、ヘーゲル、ショウペンハウワー、キルケゴール、マルクス、ニーチェ、イソップ、ホメロス、ダンテ、レオナルドダビンチ、シェークスピア、ゲーテ、ニュートン等々が考えられます。
2 東洋思想史
・東洋の代表的な思想家28人程度を取り上げ、彼らの名著の中の名文中の名文から、その思想を学びます。
・その他については、西洋思想史と同じとします。
・代表的思想家としては、孔子、老子、墨子、孟子、荘子、孫子、荀子、韓非子、朱子、王陽明、孫文、毛沢東、ブッダ、龍樹、世親、ダゴール、ガンジー、ヒンズー経典、ユダヤ経典、バラモン経典、ゾロアスター経典、書経等々が考えられます。
3 日本思想史
・日本の代表的な思想家28人程度を取り上げ、彼らの名著の中の名文中の名文から、その思想を学びます。
・その他については、西洋思想史と同じとします。
・代表的思想家としては、聖徳太子、空海、最澄、法然、親鸞、道元、日蓮、林羅山、中江藤樹、山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠、賀茂真淵、本井宣長、二宮尊徳、福沢諭吉、内村鑑三、吉野作蔵、西田幾多郎、和辻哲郎、西行、世阿弥、松尾芭蕉、夏目漱石、柳田国男、古事記、日本書紀、風土記、万葉集等々が考えられます。
4 宗教
・キリスト教(聖書)、仏教(経典)、イスラム教(コーラン)、神道(神典)の中の名文中の名文から、その宗教を学びます。
・宗教読本500編の割り当ては、キリスト教(聖書)200編、仏教(経典)200編、イスラム教(コーラン)50編、神道(神典)50編程度とします。
・授業時間の割り当てについては、キリスト教(聖書)10授業時間、仏教(経典)10授業時間、イスラム教(コーラン)4授業時間、神道(神典)4授業時間程度とします。
・授業の進め方としては、学生は授業前にそれら名文を読み込んでおくものとします。教師は、それら名文とは関わり無く、その宗教に関する文献学的概念(教説、歴史、宗派等)を講義するものとします。学生はそれら名文とそれら文献学的知識を契機として、その宗教に対する思想を深めていくものとします。なお、出来ることなら、その思想を思想録として記録しておく事を勧めるものとします(任意)。また、出来るなら、原典を読む事を勧めるものとします(任意)。
5 道徳
・代表的な28の徳について、古今東西の名著の中の名文中の名文から、その徳を学びます。
・道徳読本は全部で500編ですので、一つの徳について、約20編程度(約20頁)の名文中の名文から、その徳を学ぶ事になります。
・一つの徳について、様々な角度の名文中の名文から、その徳を学ぶ事になります。
・1授業時間で一つの徳を学ぶ事にします。
・授業の進め方としては、学生は授業前にそれら名文を読み込んでおくものとします。教師は、それら名文とは関わり無く、その徳に関する文献学的概念(様々な学説や時代背景等)や自らの考えを講義するものとします。学生はそれら名文とそれら文献学的知識や教師の考え方を契機として、その徳に対する思想を深めていくものとします。なお、出来ることなら、その思想を思想録として記録しておくことと勧めるものとします(任意)。また、出来るなら、代表的原典を読む事を勧めるものとします(任意)。
・代表的な徳としては、勇気、忍耐、節制、寛容、正義、中庸、慈愛、高潔、廉恥、礼儀、誠実、良心、奉仕、孝行、自信、平常心、自制心、向上心、反省、克己、分別、優しさ等々が考えられます。
6 古代古典講読
・古代は人間の青年期に当たります。古代の古典には、児童生徒を訓導する為の素晴らしいものが一杯あります。古代古典講読では、その中でもザ古典と呼ばれる12冊を講読する事とします。なお、短い授業の中で講読しなければなりませんので、比較的短い古典を対象とします。
・代表的古典12冊については次の通りとします。
『論語』(孔子)、『老子』(老子)、『真理の言葉(発句経)』(ブッダ)、『マタイの福音書』(イエス)、『ソクラテスの弁明』(プラトン)、『箴言』(ソロモン)、『詩篇』(ダビデ)、『手紙』(エピクロス)、『語録』(エピクテトス)、『道徳書簡より1編』(セネカ)、『自省録』(マルクスアウレリウス)、『憲法十七か条』(聖徳太子)
・1冊の古典講読について、2ないし3授業時間を充てるものとします。
・授業の進め方としては、学生は事前にその古典を読み込んでおくものとします。教師はその古典の中の代表的な部分を講義するものとします。学生はそれら古典と教師の講義内容を契機して、その古典に対する思想を深めていくものとします。なお、出来ることなら、その思想を思想録として記録しておくことと勧めるものとします(任意)。
7 教科哲学
・中学校の9教科(国語、社会、数学、理科、音楽、美術、保健体育、技術家庭、英語)について哲学します。
・それぞれ9教科の中の重要な単元等についても哲学します。
・それぞれの教科における哲学内容を例示すると次の通りです。
・国語・・・・国語とは、読むは、書くとは、話すとは、聞くとは、文法とは、文字とは、言葉とは、詩とは、小説とは、文学とは・・・
・社会・・・・社会とは、地理とは、日本とは、世界とは、資源とは、人口とは、町とは、村とは、都市とは、産業とは、国際とは、歴史とは、古代とは、中世とは、近代とは、現代とは、戦争とは、文明とは、政治とは、経済とは、生活とは、福祉とは、憲法とは・・・
・数学・・・・数学とは、数とは、式とは、方程式とは、関数とは、確率とは、三角形とは、四角形とは、円とは、相似とは、比例とは・・・
・理科・・・・理科とは、化学とは、物質とは、気体とは、液体とは、分子とは、原子とは、酸化とは、還元とは、物理とは、運動とは、エネルギーとは、仕事とは、力とは、熱とは、光とは、電気とは、生物とは、植物とは、動物とは、細胞とは、血液とは、消化とは、呼吸とは、地学とは、地球とは、天体とは、宇宙とは、太陽とは、気象とは、天候とは・・・
・音楽・・・・音楽とは、メロディーとは、リズムとは、ハーモニーとは・・・
・美術・・・・美術とは、絵画とは、彫刻とは、工芸とは、デザインとは、美とは・
・保健体育・・保健とは、健康とは、疾病とは、体育とは、スポーツとは・・・
・技術家庭・・技術とは、木材とは、金属とは、電気とは、機械とは、栽培とは、情報とは、家庭とは、食物とは、衣服とは、住居とは・・・
・英語・・・・英語とは、言語とは、文法とは、コミュニケーションとは、外国人とは、国際理解とは・・・
・各教科への割り当て授業時間は各3時間とします。
・授業の進め方としては、学生は事前に中学校の各教科の教科書を読み込んでおくものとします。教師は教科書に関わり無く、自らの教科に関する哲学、それぞれの単元に関する哲学を講義していくものとます。学生は教科書の内容、教師の講義の内容、それからそれぞれの教科、単元についてこれまで学んできたものを総括して、自らの教科哲学、単元哲学を確立していくものとします。それらについては、思想録に記録しておくことを勧めるものとします(任意)。
・それぞれの教科哲学については、それぞれの教科の担当教師が担当するものとします。すなわち、教科哲学については、9人のそれぞれの教科担当教師が担当する事となります。
・教科哲学は、その教科、その単元の知識を学ぶ事ではありません。それぞれの教科、単元が自らの世界においてどの様な位置を占めているかを学ぶ事です。どの教科、どの単元も自らと切り離されないほど、密接に繋がっている事を理解する事にあります。
8 哲学対話
・「対話」について、古今東西の名著の中の名文中の名文100編からその概念を学びます。
・「対話の技法」について、古今東西の名著の中の名文中の名文100編からその技法を学びます。
・残りの時間は、全て哲学対話の実習とします。
・「哲学対話録」を各自それぞれ作成するものとします。
9 哲学作文
・「作文」について、古今東西の名著の中の名文中の名文100編からその概念を学びます。
・「作文の技法」について、古今東西の名著の中の名文中の名文100編からその技法を学びます。
・残りの時間は、全て哲学作文の実習とします。
・「哲学十章」(自らにとって最も大切な10の哲学テーマに関する随想集。2000字×10章程度)を作成するものとします
10 哲学各論
・哲学のそれぞれの各論について、古今東西の名著の中の名文中の名文から、それぞれの哲学各論を学びます。
・各論に対する授業時間の割り当ては各2授業時間、名文の割り当ては各40編程度とします。
・授業の進め方としては、学生は事前に名文を読み込んでおくものとします。教師は名文に関わり無く、その各論に関する文献学的知識や自らの自説を講義するものとします。学生は名文や教師の講義の内容等を参考にしながら、それぞれの各論に関する思想を深めるものとします。その際、その思想を思想録に記録しておくことを勧めるものとします(任意)。
・哲学各論は、教育学部の全ての教師の応援を得て実施するものとします。
・哲学各論の目的は、それぞれの各論に関する知識を学ぶ事にはありません。それぞれの各論が切り離せない程に自らと深く関係している事を学ぶ事にあります。これら各論を有機的に統合してこそ、本当の意味での哲学が完成する事になります。
11 哲学対話録作成(授業外)
・卒業までに、50回以上の哲学対話を行い、その対話録(1対話について、A4、1頁程度)を作成するものとします。
・卒業時に哲学担当教師に哲学対話録を提出し、確認印を受けるものとします。(教師は内容を読み込む必要はありません。50回以上哲学対話を行った事の確認だけを行えば良い事とします。
・小中高校の哲学対話室で小中高校生と哲学対話を行なう事を積極的に奨励するものとします。
・哲学対話録については、教師採用時に、採用担当官から求められたら提示するものとします。
12 哲学随想録「哲学百章」作成(授業外)
・卒業時に、自らにおいて大切な100の哲学テーマに関する随想録「哲学百章」を冊子(A4版、本文100頁以上)に纏めて、哲学担当教師に提出するものとします。(哲学担当教師は内容を読み込む必要はありません。提出された事の確認だけを行えば良いものとします。)
・教育学部の一角に「哲学百章コーナー」を設置し、全ての哲学百章を10年間公開するものとします。(評判の高かった哲学百章については、廃棄処分年次に30年保存の決定を行う事とします。)
・哲学百章が教育学部(教師、在学生、卒業生、小中高校の児童生徒)の共有財産となります。
・哲学百章が教育学部の哲学的風土、哲学的伝統、哲学的歴史を形作って行く事になります。
以上が、教育学部における哲学教育の内容です。
膨大なようですが、教育学部の学生が学ぶべきものです。
なお、最近は教育学部の学生でも最初から教師を志向しない者もいるようですので、そ
の様な者にまで、上記の哲学教育を徹底する必要な無いと思います。
上記の哲学教育はあくまでも、教師になる為のものです。
すなわち、教師=全人教育の当人=哲学的素養のあるべき人の為の教育ですので、上記
哲学教育については、教師の免許を取る為の必修科目とする事としましよう。
上記の哲学教育を徹底すれば、言語能力に優れ、道徳性が高く、かつ学習意欲の高い教
師が生まれて来る事については、間違いありませんので・・・。
さて、非常に長くなってしまいましたが、今回の学習指導要領に対して私が言いたい事
を纏めると以下のゴッチクの通りです。
もし一言で言えば次の通りとなります。
『小中高校の学習指導要領の中に小中高校哲学一貫教育を導入して頂きたい。もし正式
に導入できないのであれば、運用の中で実施して頂きたい。小中高校哲学一貫教育とは小学校1年から高校3年までの12年間の哲学テーマに関する徹底した読書と作文教育の事である。この教育により、日本の児童生徒の言語能力及び道徳性は世界に優れたものとなる。』
小学校、中学校、高等学校の学習指導要領の中に、『小中高校哲学一貫教育』を導入して頂
きたい。
『小中高校哲学一貫教育』とは、週2時間の哲学の授業を小学校1年から高等学校3年ま
での計12年間継続して行うものである。
哲学教育の内容は、読書と作文と対話とする。
この内、読書と作文を授業の対象とし、対話は課外において行われるものとする。
週の最初の時間を読書の時間とし、週の最後の時間を作文の時間とする。
読書の時間には「哲学読本」を読み、作文の時間には哲学読本の読書を契機とした自由作
文を「哲学ノート」に書く。
なお、「哲学読本」は一つの哲学テーマに関して、古今東西の名著の中の名文中の名文を3
編程度掲載したものである。
哲学一貫教育は、「哲学読本」の名文中の名文により、児童生徒の言霊を震わし、その言霊
の記録を「哲学ノート」に記入する事により、児童生徒の言語能力と道徳性と学習意欲を高めて行く事にある。
対話については、課外において、学校図書館に隣接して設置される「哲学対話室」において行われる。
哲学対話室において、児童生徒は自らの知恵の総力を挙げて、哲学的素養のある大人に向かう事になる。
これにより、本当の意味で、言語能力、道徳性、学習意欲に優れた児童生徒が育成される事になる。
言語能力と道徳性と学習意欲を高める為には、『小中高校哲学一貫教育』しかない。
哲学一貫教育とは、徹底した読書と作文の反復の事である。
そしてそのテーマが哲学(道徳)であると言う事である。
哲学一貫教育とは、徹底した言語教育の事であり、徹底した道徳教育の事である。
なお、『小中高校哲学一貫教育』を完成させる為には、大学教育学部において、徹底して哲学教育を行い、哲学的素養のある教師を育てていかなければならない。
最後に、小中高校哲学一貫教育の基本理念ともなるべき孔子の言葉を置いて、意見の陳述を終えたいと思います。
「學而不思則罔、思而不學則殆」(論語、巻第一、為政第二、第十五節)
敬具
平成20年3月9日
哲学哲男
追伸
以下は、「小中高校哲学一貫教育について」及び「一生涯にわたる哲学一貫教育について」の実施要領並びに「分野別哲学テーマ例」です。
併せてご覧頂きたいと思います。
なお、小学校低学年においては、読書能力、作文能力が十分でないので、特別なカリキュラムを組んでいます。下記1をご参照下さい。
参考資料
下記1「小中高校哲学一貫教育について」
下記2「分野別哲学テーマ例」
下記3「一生涯にわたる哲学一貫教育について」
※上記3つの参考資料については、初等中等教育局長殿宛の「哲学一貫教育提唱文」に記載している参考資料をご覧下さい。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
哲学一貫教育提唱文
平成20年3月18日付け
文部科学省初等中等教育局教育課程
学校教育官兼道徳教育調査官殿宛
拝啓 学校教育官兼道徳教育調査官 殿
日夜、道徳教育の調査研究に邁進されていらっしゃる事と存じます。
御同慶の至りです。
私も最近道徳教育に関心を持ち、その調査研究を進めている者です。
そんな中、新たな道徳教育方法を開発しました。
その方法とは、『哲学一貫教育』です。
哲学一貫教育とは、日本国民に哲学の機会を提供する事により、日本国民が哲学的に成熟した国民になる事を目指して行う教育の事です。
この哲学一貫教育には二つの概念があります。
一つは『小中高校哲学一貫教育』であり、他の一つはこの小中高校哲学一貫教育を土台とした、日本国民の『一生涯にわたる哲学一貫教育』です。
私は最近、この『哲学一貫教育』をことある毎に提唱しています。
最初は、平成20年2月3日付けで、初等中等教育局長殿宛に提唱しています。
何故、初等中等教育局長殿宛かと言うと、『小中高校哲学一貫教育』が初等中等教育局の所管だからです。
2回目は、平成20年2月10日付けで、生涯学習政策局長殿宛に提唱しています。
何故、生涯学習政策局長殿宛かと言うと、『一生涯にわたる哲学一貫教育』が生涯学習政策局の所管だからです。
なお、この時は、教育振興基本計画の策定に関して広く意見を募集しているとの事であったので、それに合わせて提唱しています。
3回目は、平成20年2月17日付けで、内閣官房長官殿宛に提唱しています。
何故、内閣官房長官殿宛かと言うと、『哲学一貫教育』こそが、教育再生の切り札だからです。
なお、この時は、教育再生会議の最終報告「社会総がかりで教育再生を」が提出されたので、それに関する意見と言う事で提唱しています。
4回目は、平成20年3月9日付けで、初等中等教育局教育課程課長殿宛に提唱しています。
何故、初等中等教育局教育課程課殿長宛かと言うと、『小中高校哲学一貫教育』が小中高校の学習指導用要領の中に組み込まれるべきものであり、同課が学習指導要領の策定を担当しているからです。
なお、この時は、学習指導要領案に対する意見公募を行なっていたので、それに合わせて行っています。
そして、5回目が、●●学校教育官兼道徳教育調査官殿、貴方様と言う事になります。
何故、貴方様かと言うと、貴方様が『小中高校哲学一貫教育』の採否を握る最終パーソンだからです。
1回目から4回目までの提唱は組織宛に行っています。
多分、1回目の提唱文は初等中等教育企画課教育制度改革室の、2回目の提唱文は生涯学習政策局政策課の、3回目の提唱文は教育再生会議担当室の、4回目の提唱文は教育課程企画室の雑件ファイルの中に紛れ込んでいていると思います。
しかし、今回の提唱文は、●●●●様、貴方様に提唱いたします。
何故、貴方様かと言えば、貴方様が学校教育官兼道徳教育調査官であると共に、日本国における道徳教育の最終決定者だからです。
貴方様の『イエス』または『然り』が無ければ、『小中高校哲学一貫教育』は日の目を見る事が無いからです。
逆を言えば、貴方様の心を動かす事が出来れば、『小中高校哲学一貫教育』が日の目を見る可能性が出て来る訳です。
そう言う訳ですので、貴方様の心を動かすよう一生懸命説いてまいりたいと思いますので、どうかよろしくお願いいたします。
さて、『哲学一貫教育』とは何か、『小中高校哲学一貫教育』とは何か、『一生涯にわたる哲学一貫教育』とは何か。
これらについては、「平成20年3月9日付初等中等教育局教育課程課長様宛の提唱文」(別添)に詳しく書いてありますので、そちらをご覧頂きたいと思います。
二三十分で読み切る事が出来ると思いますのでどうかよろしくお願いいたします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、読んで頂けたでしょうか。
なお、今回話題とする『小中学校哲学一貫教育』については、その概要を簡単にお示しておきたいと思います。
① 小学校及び中学校の道徳を廃止し、哲学とし、授業時間を週2時間とする。
高校の倫理を廃止し、哲学としかつ必修とし、授業時間を週2時間とする。
これにより、授業時間週2時間の『小中高校哲学一貫教育』を完成させる。
② 哲学一貫教育の対象は、「読書」と「思索」と「作文」と「対話」とする。
この内、「読書」と「作文」を授業の対象とし、「対話」については課外で行われるものとする。
なお、「思索」については、それぞれの時間に当然に主役として行われる。
③ 週の最初の時間を「読書」の時間とし、週の最後の時間を「作文」の時間とする。
④ 「読書」の時間には「哲学読本」を読むものとし、「作文」の時間には哲学読本の読書を契機とした自由作文を「哲学ノート」に書くものとする。
なお、「哲学読本」とは古今東西の名著の中の名文中の名文を、哲学テーマごとに集めたものである。
読書の時間には、一つの哲学テーマに関して、3編から5編程度の名文中の名文を読むものとする。
⑤ 学校図書館に隣接して、「哲学対話室」を学校の規模に応じて1から5程度設置する。
「哲学対話室」は午後3時から午後5時まで開室するものとする。
「哲学対話室」には哲学的に素養のある者が日替わりで常駐するものとする。
児童生徒は、哲学対話室において、自らの知恵の総力を挙げて、哲学的素養にある者と哲学的対話を行う事となる。
なお、哲学的に素養のある者とは、教師だけでなく学校内外の哲学的素養のある者の事である。
学校外の哲学的に素養のある者が、「哲学対話室」において児童生徒と哲学的対話を行なう事を社会的に奨励する。(哲学ボランティア「ソクラテス」を積極的に活用する。)
⑥ 小中高校哲学一貫教育を充実させる為、大学教育学部において哲学教育を徹底する。
※ 哲学一貫教育で言う所の『哲学』とはphilosophia、知恵(sophia)を愛する(philo)事。それは真善美を愛し追求する事であり、本当の自分自身を愛し追求する事である。これが哲学一貫教育の基本概念となる。
さて、哲学一貫教育とは何か
「知恵を愛する為の教育である。」
「真善美を愛し、真善美を追求する為の教育である。」
「本当の自分自身を愛し、本当の自分自身を追及する為の教育である。」
「言霊による教育である。」
「徹底した言語教育であり、徹底した道徳教育であり、学習意欲を高める為の教育である。」
「教科教育を総括する為の総合教育である。」
「全ての教育を総括する為の教育である。」
「教養人を育てる為の教育である。」
「徳を知る為の教育である。」
「自分自身の素晴らしさ、人間の素晴らしさ、社会の素晴らしさ、自然の素晴らしさを知る為の教育である。」
「自殺を無くし、いじめを無くする為の教育である。」
「不登校を無くする為の教育である。」
「自信を付けさせる為の教育である。」
「生きがいを身に付けさせる為の教育である。」
「一人一人の人格を大切にする為の教育である。」
「学校を生き生きする為の教育である。」
「国家、地域、家庭、社会、伝統、歴史、文化、法、環境、自然等々を大切に思う児童生徒を育成する為の教育である。」
「自ら学び、自ら考え、自らにおいて素晴らしきものを自らのものにしようとする児童生徒を育成する為の教育である。」
「自らの中に素晴らしき世界を構築する為の教育である。」
「原型を知る為の教育である。普遍を知る為の教育である。」
「素晴らしきものの相似を自らの中に知る為の教育である。」
「自らの中に素晴らしき世界(what a wonderful world)が存在する事を知る為の教育である。」
「『汝自身を知れ』、これを知る為の教育である。」
「『學而不思則罔、思而不學則殆』(論語、巻第一、為政第二、第十五節)を基本理念とする教育である。すなわち知恵と知識を両立させる為の教育である。」
等々、切がありません。
百頁に渡ってその素晴らしさを延々と述べる事も出来ると思います。
何故なら哲学教育こそが、『ザ教育』なのですから。
現在の教育の退廃、それはこの哲学教育の概念が全く無いからです。
全ての教育の中心に哲学教育が無ければならないのです。
哲学教育が中心にあってこそ、全ての教科教育が、そして全ての全てが生きてくるのです。
哲学教育とは、自ら学び、自ら考える児童生徒を育成する教育です。
学習指導要領でそれらの事を幾ら唱えても、その実践が無ければその様な児童生徒は育ちません。
哲学一貫教育とはその為の徹底した実践教育の事なのです。
なお、ここで道徳教育と哲学教育の根本的な違いを述べておきます。
道徳教育の主眼は教える事にあります。
「勇気とはこう言う事です。貴方方もこれに学びなさい。」
これではその勇気は決して自分のものにはなりません。
哲学教育の主眼は自ら学ぶ事にあります。
勇気に関して古今東西のたくさんの名文中の名文を学びます。
これらの名文の中から、児童生徒は自らにおいて勇気と言う概念を創り上げて行きます。
この勇気と言う概念はその児童生徒の中から決して消える事はありません。
何故なら、その概念は自らが創り上げたものだからです。
借り物ではなく、自分固有のものだからです
その為にもたくさんの名文を与えてあげなければいけないのです。
例えば、勇気に関する百の名文を与えてあげたとしましよう。
その児童生徒は、より普遍に近い勇気の概念を身に付けて行く事になります。
『哲学読本』が大切な理由が分かったと思います。
キリスト教国家においては、「聖書」によって子供を育てます。
イスラム教国家においては、「コーラン」によって子供を育てます。
日本においては、『哲学読本』によって子供を育てるのです。
ですから『哲学読本』は国民の英知を結集して作成しなければならないのです。
ここで●●学校教育官兼道徳教育調査官殿にお願いがあります。
それは『哲学読本』を作成して頂きたいと言う事です。
勿論、ここで言う『哲学読本』とは、実際に学校で使う為のもの(教材)ではありません。
その為の準備資料的なものと考えて頂ければ良いと思います。
勿論、●●学校教育官兼道徳教育調査官殿はお忙しい身ですので、自らにおいて作成する事などは出来ないと思います。
哲学教育の財団か、道徳教育の財団か、もしくは日本教育大学協会等に委託して作成すれば良いと思います。
この『哲学読本』が出来上がれば、哲学一貫教育はほぼ完成したと言っても良いと思います。
さて、作成方法ですが、学年別にとなると膨大な作業となり、またそれぞれの精神的発達段階に応じてとなるととても煩雑になり、そこ1年で簡単に出来る作業ではないと思います。
ここはアバウトに行きたいと思います。
対象を中学生から高校生までの1本とする事としましよう。
ルビが付されていれば、小学校高学年以上であれば、大概の文章は理解できるものです。
以下に作業手順を示していきます。
① 『哲学読本』を4つの分野に分ける。
4つの分野とは、学習指導要領「道徳」の章に定める4つの分野とする。
すなわち、「自分自身に関する事」「人間に関する事」「社会に関する事」「自然に関する事」の4分野である。
② それぞれの分野ごとに100の哲学テーマを設定する。
哲学テーマ例については、別記「哲学テーマ例」を参照の事。
③ それぞれの哲学テーマに関して、古今東西の名著の中の名文中の名文を100編、集める。
④ 古今東西の名著の中の名文中の名文の文章数は、全部で40,000編(4分野×100哲学テーマ×100編=40,000編)となる。
⑤ 名文1編の文章量は、その1編において起承転結がはっきりと分かり、その1編において大意がはっきり分かる程度の文章量とする。(1,000字から4,000字程度か?)
なお、今回の『哲学読本』については、A4版、3段組、1頁に1編を収めるものする。すなわち、40,000頁、40,000編となる。
⑥ 古今東西の名著の中の名文中の名文の選択は、各分野の専門家に依頼するものとする。
なお、可能ならば、日本教育大学協会に『哲学読本』の作成の全てを委託する方法がベストです。
何故なら、現在の日本の教育を再生する為には、教育学部において哲学教育を徹底する必要があるからです。
すなわち、哲学的素養のある教師を育てる必要があるからです。哲学対話室での児童生徒との哲学的対話(真善美を話し合う為の対話)に耐え得る教師は、多分全教師の1割も居ないと思われます。小中高校教育は全人教育的要素が強いのにその様な現況では教育の充実など決して望めないと思います。
この『哲学読本』の作成が、日本の大学教育学部の哲学教育の充実の契機となると思います。
日本教育大学協会における作成方法としては次のようにすれば良いと思います。
同協会には、「国語」「社会」「数学」「理科」「音楽」「美術」「家庭」等々18部門あり、それぞれの部門の専門家が揃っています。
また、同協会の会員の大学においては、全て教育学部付属学校を有しています。
先ずは、同協会の会員の教育学部の教師及び同教育学部付属学校の教師の全てに、中学生及び高校生に読ませたい古今東西の名著の中の名文中の名文を、一人当たり10編から100編程度、その本の写しを提出して貰うのです。(また、国民からも広く募集するものとします。)
そして、それを基に、1哲学テーマに関して、名文中の名文を100編選択し、これをスキャナーで読み込み、コンピューターでテキスト化処理し、それぞれの名文1編をA4版、3段組、1頁に収めれば、コンピューター上(CD上)での『哲学読本』(4分野×100哲学テーマ×100編=40,000編)は完成する事となります。
1年もあれば十二分に出来ますし、経費的にもそれ程かからないと思います。
なお、著作権の調整が必要であれば、●●学校教育官兼道徳教育調査官殿に調整してもらうものとします。
また、『哲学読本』の作成について、日本教育大学協会への補助事業が可能ならば、委託事業より補助事業の方がよりベターだと思います。
何故なら、日本教育大学協会が補助を受けて、自らの意志で『哲学読本』を作成したとなると、『道徳教育』から『哲学教育』への転換がより容易になるからです。
大学教育学部においては、今正に、教育学部全体を挙げて、哲学教育を徹底しなければならない時に来ているのです。
そして、中心となるべきものが『哲学読本』です。
本当は自らの財源で作成すべきものなのでしょうが、それは中々出来ない事だと思います。補助事業を呼び水として、日本教育大学協会に、哲学教育充実の機運を高めてあげる事としましよう。
日本教育大学協会に哲学教育充実に機運が高まれば、『小中高校哲学一貫教育』は、●●学校教育官兼道徳教育調査官殿が舵を取らなくても、独りでに完成に向かっていくと思います。
⑦ 『哲学読本』はインターネット上で公開する。また、都道府県立図書館等に対しては、オンデマンド印刷により印刷製本(冊子印刷程度)し各1部配布する。
『哲学読本』はA4版、1000頁、全40巻程度(40,000頁÷1,000頁=40巻)となり、図書館においてもかなり目立つ存在となる。
また、各市町村立図書館及び学校図書館において、各自がそれぞれの費用負担でオンデマンド印刷製本する事を許諾するものとする。
(出来れば、国民においても)
以上で『哲学読本』の完成です。
この『哲学読本』の完成により、『小中高校哲学一貫教育』のレールが自然と敷かれます。
先ずは、世間がこう言います。
「道徳教育ではなく、哲学教育を!!」と
日本教育大学協会もこう言います。
「道徳教育ではなく、哲学教育を!!」と
そしてマスコミが最後にこう言います。
「小中高校哲学一貫教育の早期実現を!!」と
ここで●●学校教育官兼道徳教育調査官殿がこう言います。
「分かりました。早期に学習指導要領を改訂して、『小中高校哲学一貫教育』の導入をはかります」と。
これで『小中高校哲学一貫教育』の完成です。
●●学校教育官兼道徳教育調査官殿の名前は日本教育史上燦然と輝く事になります。
嘗てのギリシアと並び称されて、現在の日本は「哲学国家」と呼ばれていますが、その礎を築いたのはあの●●●●先生なのですよ。
●●●●先生は『哲学一貫教育』と言う教育手法を完成させ、その実現に一生を費やしたのです・・。
と学校の校舎の前に立つ、「●●●●先生の銅像」を指差して、先生が子供たちにそう言うのです。
勿論、日本史の教科書にも、百科事典にも、そして広辞苑にも●●学校教育官兼道徳教育調査官殿の名前が掲載される事となるのです。
そしてこうも言われるのです。
「日本を堕落国家から救った恩人である。」とも。
名誉ある仕事だとは思いませんか。
夢物語はこれ位にしますが、上記の『哲学読本』が完成すれば、『小中高校哲学一貫教育』の実現は決して夢物語ではありません。
折角この部署に来たのですから、この名誉ある仕事の為にどうか頑張って下さい。
そして、今後もこの仕事を続けて欲しいと思います。
もし、「週2時間の小中高校哲学一貫教育」が実現したら、次は「週4時間の小中高校哲学一貫教育」です。
これが実現すれば、日本は劇的に変ります。
その時は、●●学校教育官兼道徳教育調査官殿のお名前は、少なくとも、日本教育史上しっかりと刻み付けられます。
「氏が世界で始めて、小中高校哲学一貫教育を導入した。その成果は広く認められ、現在では道徳教育に変り、哲学一貫教育が世界の主流となっている。この哲学一貫教育により日本は劇的に変った。この教育により、哲学的に成熟した国民、すなわち知恵と知識共に優れた国民が育成される事となり、日本は哲学的に優れた国家と呼ばれるようになった。世界各国も日本に倣い、現在ではほとんどの国家が哲学一貫教育を導入している。」と。
さて、最後に「哲学教育」と「道徳教育」の違いを整理して置きます。
これについては先程も少し述べましたが、『小中高校哲学一貫教育』の導入に当たってとても大切な事ですので、重複しますがもう一度述べたいと思います。
「哲学教育」の主眼は自ら学ぶ事にある。
「道徳教育」の主眼は教える事にある。
「勇気とはこう言うものですよ。だからこれに学びなさい。」
これが現在の道徳教育です。
しかし、この勇気に関する考えは決して身に付く事はありません。
何故なら、自分のものでないから。
多分、授業が終わった頃には綺麗さっぱり忘れている筈です。
「哲学教育」ではどの様な方法を取るのか。
先ずは、読書の時間に、教材の『哲学読本』に掲載されている、勇気に関する古今東西の名著の中の名文中の名文を3編から5編程度読みます。
この読書を契機に、自らにおいて勇気に関する思索を深めます。
(また、自宅学習等において、今回作成する『哲学読本』等から勇気に関する古今東西の名著の中の名文中の名文をたくさん読み込み、勇気に関する思索を更に深めます。)
作文の時間に、読書や思索から得た、勇気に関する自らの考えを『哲学ノート』に纏めていきます。
これにより、その勇気に関する考えは、その児童生徒から決して消えて行く事はありません。
児童生徒は、その『哲学ノート』の記録を基に、更に勇気に関する思索を深め、それをまた『哲学ノート』に纏めていきます。
これらを繰り返して、勇気に関する思索を深めて行く事になります。
『哲学ノート』を媒体として、自らとの対話、自らのとの弁証を深めて行く事になるのです。
この作業を覚えた者は、死ぬまでこの作業を止める事がなくなります。
嘗ての全ての哲学者(知恵を愛する者、真善美を愛し追求する者、本当の自分自身を愛し追及する者)と同じ様に。
また、これらの成果を基に、哲学対話室において哲学的素養のある者(ソクラテス)と哲学対話を深める事により、自らの勇気に関する考えを深めたり、修正したりしていき、その勇気に関する考えを更に深化させていきます。
勿論、勇気だけでなく、忍耐や節制や寛容や愛や良心や意志や自由や自信や人生や家族や友情や学校や勉強や仕事や、それから国家や伝統や文化や環境やそして自然の事など、自分と自分に関係する全ての事を、授業時間の許す限り、この様な方法で哲学していきます。
さて、この様な「哲学教育」により、日本の児童生徒の哲学的能力は何処まで伸びるのでしょうか・・・?
現在の「道徳教育」と比較して見て下さい・・・!
これで今回の「哲学一貫教育に関する提唱」は終わる事にしたいと思いますが、今回の提唱は「平成20年3月9日付け初等中等教育局教育課程課長殿宛の提唱文」を読んで頂いている事を前提に書いています。
その提唱文の中には、目の覚める様な徹底した教育学部の哲学教育の事も述べています。
小中高校の教育は全人教育です。
教師が哲学者(知恵を愛する者、真善美を愛し追及する者、本当の自分を愛し追及する者)でなくして、どうして教育が出来るのでしょう。
現在の教育の退廃、それは教師が哲学者で無い事がその最大の原因です。
●●学校教育官兼道徳教育調査官殿にお願いしたい事は、先程来述べています『哲学読本』の完成と教育学部の哲学教育の徹底と、そして小中高校学習指導要領の中への『小中高校哲学一貫教育』の組み込みです。
どうかこれらの仕事を完遂させて、後世に名を残して下さい。
最後に、小中高校哲学一貫教育の基本理念ともなるべき孔子の言葉を置いて、今回の提唱を終えたいと思います。
「學而不思則罔、思而不學則殆」(論語、巻第一、為政第二、第十五節)
敬具
平成20年3月18日
哲学哲男
哲学一貫教育提唱文
平成20年4月7日付け
東京学芸大学哲学・倫理分野教官殿宛
拝啓 東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官 殿
私は哲学教育に非常に関心を持っている者です。
何故なら、哲学教育により、日本が素晴らしい国家に成って行くからです。
哲学とはphilosophia、知恵(sophia)を愛する(philo)事。
それは真善美を愛し、追求する事。
それは本当の自分を愛し、追求する事。
もし日本の全ての人が哲学的に成熟したらどうなるのでしょう。
日本は劇的に変るのではないでしょうか。
私はその為の教育プログラムを開発しました。
それが『哲学一貫教育』です。
哲学一貫教育とは、日本国民の一生涯に渡って哲学の機会を提供する事により、日本国民が哲学的に成熟して行く事を目ざして行う教育の事です。
そして、その中心となるのが『小中高校哲学一貫教育』です。
小中高校哲学一貫教育とは、文字通り、小学校、中学校、高校に渡って、哲学教育を一貫して行う教育の事です。
具体的には、小学校、中学校については、現在の道徳を廃止し、哲学とし、授業時間を週2時間とします。
高校については、現在の倫理を廃止し、哲学としかつ必修とし、授業時間を週2時間とします。
これにより、授業時間週2時間の小中高校哲学一貫教育を完成させます。
授業については、週の最初の時間(月曜日の1限目)に『哲学読本』を読み、週の最後の時間(例えば金曜日の6限目)に哲学読本の読書を契機とした自由作文を『哲学ノート』に書く事になります。
哲学読本とは、それぞれの学年に相応しい哲学テーマについて、古今東西の名著の中の名文中の名文を集めたものです。
具体的には各学年ごとに30の哲学テーマ(1週間で1哲学テーマとします)を設定し、それぞれのテーマについて、古今東西の名文中の名文を3編から5編程度集めたものです。
授業の進め方は次のようになります。
月曜日の1限目に、ある哲学テーマ(例えば勇気)について、『哲学読本』の中の古今東西の名文中の名文を3編から5編程度黙読します。
児童生徒は、この時間にその哲学テーマ(例えば勇気)について、様々に考えます。
また、金曜日の6限目までに、意識的、無意識的にその哲学テーマ(例えば勇気)について考えるかも知れません。
また、本などで、その哲学テーマ(例えば勇気)について、調べるかも知れません。
また、友達や両親やソクラテスと、その哲学テーマ(例えば勇気)について、語り合うかも知れません。
金曜日の6限目に、その哲学テーマ(例えば勇気)について更に考え、そしてその考えを『哲学ノート』に作文として纏めていきます。
これで、哲学の1週間の授業サイクルが終わりです。
また、小中高校哲学一貫教育においては、学校図書館に隣接して、学校の規模に応じて、1から5の哲学対話室を設置します。
哲学対話室は、午後の3時から5時まで開室するものとします。
哲学対話室には、哲学的素養のある教師や哲学ボランティア(ソクラテス)が常駐するものとします。
哲学対話室において、児童生徒は哲学的素養のある大人と知恵の火花を散らす事になります。
以上が小中学校哲学一貫教育です。
小中高校哲学一貫教育の基本は、読書と作文と対話と思索です。
この内の、読書と作文を授業で行い、対話は課外で行われます。
思索については、いずれの場合においても必然に行われる事となります。
小中高校哲学一貫教育はとても簡単な教育方法です。
しかしその効果は絶大なものがあります。
もし、自ら学び、自ら考える児童生徒を育成する事が教育の目標なら、この小中高校哲学一貫教育より、効果のある教育方法は無いと思います。
何故なら、哲学とはphilosophia知恵を愛する事、それは正に自らを学び自らを考える事なのですから。
小中高校哲学一貫教育はとても簡単な教育方法ですが、これが成功する為には二つの条件が必要です。
一つは優れた哲学読本であり、一つは教育学部における徹底した哲学教育です。
何故、優れた哲学読本が必要かと言えば、哲学読本により児童生徒の魂を揺さぶる事から、哲学教育が始まるからです。
何故、教育学部における徹底した哲学教育が必要かと言えば、哲学的に成熟した教師の下でこそ、児童生徒の哲学的能力(知恵を愛する能力、真善美を愛する能力)も伸びていくからです。
ここで、先生を含めて、東京学芸大学「哲学・倫理学分野」の6名の先生方にお願いしたい事があります。
それは、東京学芸大学において小中高校哲学一貫教育を試行して頂きたいと言う事です。
現在の所、小中高校哲学一貫教育を試行する能力があるのは、東京学芸大学だけだと思います。
もし、東京学芸大学の試行が成功すれば、その試行は全国の大学の教育学部に広がって行くと思います。
全国の大学の教育学部での試行が成功すれば、本格的な小中高校哲学一貫教育の実施については、それ程時間を要しないと思います。
当面行う試行の内容は、①中学生の為の哲学読本の作成と、②東京学芸大学付属中学校1年及び2年生を対象とした哲学教育の試行と、③教育学部における徹底した哲学教育の試行です。
下記に試案を示して置きますので、これを叩き台として下さい。
教育を再生すると言うのであれば、小中高校哲学一貫教育しか無いと思います。
そして、そのスタートは東京学芸大学以外に無いと思います。
どうか日本の明るい未来の為にご検討下さるようお願い申し上げます。
敬具
平成20年3月30日
哲学哲男
追伸
私はこれまで国の関係機関に次のとおり哲学一貫教育を提唱しています。
これらを同封して置きますので、ご参考にして下さい。
なお、現在の私の考え方を最も詳しく纏めたものは、4番目のものです。
今回の書簡では、「一生涯に渡る哲学一貫教育」の事については述べていませんが、これについても4番目の提唱の中に記載してあります。
①平成20年2月3日付け初等中等教育局長殿あて
②平成20年2月10日付け生涯学習政策局長殿あて
③平成20年2月17日付け内閣官房長官殿あて
④平成20年3月9日付け初等中等教育局教育課程課長殿あて
⑤平成20年3月18日付け●●学校教育官兼道徳教育調査官殿あて
記
中学生の為の哲学読本の作成について
1 趣旨
東京学芸大学付属中学校の1年及び2年生を対象とした哲学教育試行の為、「中学生の為の哲学読本」を作成する。
なお、当該事業については、文部科学省の補助を受けて行うものとする。
2 作成主体
「哲学・倫理学分野」の6名の教師を主体とする「中学生の為の哲学読本作成検討委員会」とする。
3 作成方法
① 中学生に学ばせたい60の哲学テーマを選定する。
② 東京学芸大学の全ての教師及び同大学付属学校の全ての教師を対象に、選定した60の哲学テーマに関する、中学生に読ませたい古今東西の名著の中の名文中の名文の本の写しを、一人当たり10編から100編、提出して貰う。
一名文の文章量は、4000字以内とする。
一名文の文章量は、その一文の中で起承転結がしっかりしており、その一文だけで大意がはっきり分かる程度の分量とする。
なお、名著とは、哲学書だけでなく、文学書(小説、物語、随筆、評論、詩、戯曲)他、全ての名著に及ぶものとする。その哲学テーマに関して書かれてある、名文を切り取る。
③ 提出のあった名文をスキャナーでパソコンに読み込み、テキスト化処理し、それぞれの哲学テーマごとに、それぞれの名文を、A4、横書き、3段組、1頁に整理し収める。
これで「中学生の為の哲学読本資料集」の完成である。
この資料集については、可能であればウェブ上で公開する。
なお、この「中学生の為の哲学読本資料集」については、試行の対象となる学級においては、オンデマンド印刷を行い、数冊備え付けるものとする。
④ 「中学生の為の哲学読本資料集」を基に、60の哲学テーマそれぞれごとに、古今東西の名文中の名文を5編程度(1授業時間で黙読し熟考できる程度の分量とする)選定し、全ての本文にルビを付し、またそれぞれの名文ごとに簡単な書誌を作成し、更に巻頭言等を付して『中学生の為の哲学読本』を完成させる。
⑤ 哲学テーマ例としては、勇気、忍耐、節制、寛容、親切、協力、礼儀、自由、平等、平和、良心、道徳、義務、習慣、努力、勉強、仕事、人生、幸福、友情、家族、青年、大人、男女、人間、国家、郷土、伝統、文化、生活、法、社会、情報、科学、現代、時間、世界、自然、季節、天候、風土、地球、生物、生命、環境、愛、知恵、真善美、言葉、力、意志、自分等々が考えられる。中学生は中学生なりに自分の世界を見詰める必要がある。
東京学芸大学付属中学校1年及び2年生を対象とした哲学教育の試行について
1 趣旨
小中高校哲学一貫教育の実現を目指し、東京学芸大学付属中学校1年生及び2年生を対象に、哲学教育を試行する。
当面は直属の付属中学校1校で実施するものとする。
なお、当該事業については、文部科学省の補助を受けて行うものとする。
2 実施主体
「哲学・倫理学分野」の6名の教師を主体とする「中学1年生及び2年生を対象とした哲学教育実施検討評価委員会」とする。
3 試行の内容
① 哲学読本について
ア 別記の「中学生の為の哲学読本の作成について」により、作成した哲学読本を使用する。
イ 哲学読本については、中学校1年及び2年を通じて、同じ読本を使用するものとする。
ウ 哲学テーマは、中学校1年及び2年を通じて、全部で60とする。学年ごとの哲学テーマ数は各30とする。
エ 一つの哲学テーマに関して、古今東西の名文中の名文を5編程度掲載する。
オ 1授業時間に、一つの哲学テーマに関する古今東西の名文中の名文を5編程度黙読する事となる。
② 哲学ノートについて
ア 哲学読本の読書等の契機とした、哲学テーマに関する自由作文を書く為のノートとする。
イ 哲学ノートについては、中学校1年及び2年を通じて、同じノートを使用する。
ウ 1授業時間に、一つの哲学テーマに関する自由作文を、哲学ノートに書く事 になる。
エ 中学校1年及び2年を通じて、全部で60の哲学テーマに関する自由作文を、哲学ノートに書く事になる。
オ エの哲学テーマとは別に、中学校1年の最初の授業時と、中学2年の最後の授業時に、「道徳について」のテーマで、哲学ノートに自由作文を書かせる。
これにより、各自の言語能力、道徳性の発達の度合いを測定する。
③ 哲学の授業の進め方について
ア 月曜日の1限目に哲学読本を読み、金曜日の6限目に哲学読本の読書等を契機とした自由作文を哲学ノートに書く。
イ 授業時間における教師の役割は、授業の開始と終了の合図、及び授業時間の静謐の確保とする。
ウ 授業時間においては、生徒の発言も許さないものとする。
エ 哲学の授業時間(月曜日の1限目と金曜日の6限目)には、学校が静謐に包まれる事になる。
オ 生徒は、静謐の中で、読書及び作文を契機として、自分自身を学び、自分自身を考える。
カ 優秀な生徒たちは、哲学読本の読書を契機として、その哲学テーマ(例えば勇気)について、授業時間以外にも自分自身で考え、友達や両親やソクラテス(哲学ボランティア等)と語り合い、更には哲学読本資料集【一つの哲学テーマ(例えば勇気)について100編以上の古今東西の名文中の名文を集めた資料集】を読み、それらに基づき、その哲学テーマ(例えば勇気)について、自由作文を哲学ノートに書く事になる。これにより、毎週毎週、世界に類例のない優秀な作文群が創出される事になる。これにより、学校の中に哲学的風土(知恵を愛し、求める風土)が生まれる事になる。
キ 哲学については、道徳、総合学習と同じく、生徒の評価は行わない。
ク 教師は、作文を読み込む必要なない。作文を書いているか否かだけの確認で良い。勿論、全ての作文を読み込んで、生徒を理解する事が大いに結構な事だが、毎週30もの作文を読む事は物理的に難しい。哲学の授業の本質は自らを学び自らを考える事にある。なお、評価の所に述べているが、中学校2年の最終時に、生徒の道徳性及び言語能力の発達の度合いを測定する事になる。
コ 哲学の授業における教師の役割は、生徒が自らを学び、自らを考える態度を育成させる事にある。その為には、哲学の授業の時間(月曜日の1限目と金曜日の6限目)に静謐を保つだけで良い。静謐が保たれれば、そして読書及び作文に打ち込めば、自らを学び、自らを考えない訳にはいかない。
④ 哲学読本資料集
ア 別記の「中学生の為の哲学読本の作成について」により作成した哲学読本資料集については、試行を行う学級にはオンデマンド印刷により、数冊備えるものとする。予算的な制約があるのであれば、少なくとも1冊は必ず備えるものとする。
イ この哲学読本資料集が、試行を行う学芸大学付属中学校を、世界に類例のない、哲学的に優れた学校に育てる事となる。
ウ 哲学読本資料集は、60の哲学テーマのそれぞれ一つのテーマごとに、多分100以上の古今東西の名文中の名文が集る事になる。もし、大学の教師及び付属学校の教師それぞれ一人当たり、60の哲学テーマそれぞれごとに、古今東西の名文中の名文を1編提出させたら、一つの哲学テーマに関して、その教師の数だけの古今東西の名文中の名文が集る事になるのである。哲学読本資料集についてはその様な方向で作成するものとする。すなわち、全ての大学及び付属学校の教師にそれぞれの哲学テーマに関して1編以上を提出して貰う。
エ 哲学読本資料集は世界の英知である共に、東京学芸大学の英知でもある。生徒はその名文の真意を確かめたい時は、その名文を選んだ教師に直接に問う事もできる。
オ 哲学読本は、その学校の生徒の哲学的能力の底上げを図るものであり、哲学読本資料集は真に優秀な生徒を育成する為のものである。
⑤ 哲学対話室について
ア 学校図書館に隣接して、または空教室等を利用して、5つの哲学対話室を設置する。
イ 哲学対話室は、午後3時から5時まで開室するものとする。
ウ 哲学対話室には、哲学ボランティア(ソクラテス)が常駐するものとする。
エ 哲学ボランティア(ソクラテス)としては、学芸大学の教師、学院生、学生、付属学校の教師、父兄その他哲学教育に関心のある者なら誰でも良い。
オ この哲学対話室で、生徒と大人の知恵比べが展開される事になる。
カ この哲学対話室で、真に優秀な生徒が育成される事になる。
キ この哲学対話室で、生徒は尊敬する大人を見出す事になる。
ケ この哲学対話室で、「知恵とは何か」、「自分自身を知れとはどういう意味か」等々をおぼろげながら知る事になる。
コ この哲学対和室こそが、正に全人教育の場となる。
サ この哲学対話室から、プラトンが生まれる事になる。
シ この哲学対話室が、日本のアカデミア発祥の地となる。
ス この哲学対話室が、・・・・・。切がありません。
ソ 哲学対話室が哲学一貫教育の完成の場となる。
タ なお、「一生涯に渡る哲学一貫教育」においては、小学校、中学校、高校、大学、図書館、公民館等々、様々な教育学習機関に哲学対話室を設置する事になっています。この哲学対話室で、大人と子供が世代を超えて、知恵の火花を散らす事になります。ここから、日本に哲学的風土(知恵を愛し、真善美を追求し、本当の自分自身を追及する風土、「汝自身を知れ」を知る風土)が生まれる事になります。
⑥ 哲学の授業時間の創出方法について
ア 道徳の授業時間と総合学習の授業時間の一部を回して、週2時間の哲学の授業とする。
イ 「哲学」の文言を使う事が、法令上許されないのなら、現行の「道徳」と「総合学習」の文言をそのまま使用して、上記の哲学教育を実施する。「哲学読本」と「哲学ノート」については、「道徳読本」と「作文ノート」としても良い。
道徳の時間に「道徳読本」を読み、総合学習の時間に「作文ノート」に作文を書く。
⑦ 哲学教育の評価について
ア 試行を行う学校では、中学校1年の最初の授業時と、中学校2年の最後の授業時に「道徳について」をテーマとした自由作文を書かせる。
これにより、試行を行った学校の生徒の、言語能力及び道徳性の発達の度合いを測定する。
イ 試行を行わない学校においては、中学2年の最後の道徳の時間に、「道徳について」をテーマとした自由作文を書かせる。
これにより、試行を行った学校と試行を行わなかった学校の生徒の、言語能力及び道徳性の発達の度合いを測定する。
⑧ 教育学部哲学教育との連携について
小中高校哲学一貫教育を充実させる為に、教育学部において、徹底した哲学教育を行う。
教育学部における徹底した哲学教育の試行について
1 趣旨
現在の教育を改革する為に必要な事は、哲学的能力(知恵を愛する能力、真善美を愛し求める能力、本当の自分を愛し求める能力、「汝自身を知れ」を知る能力)に優れた教師を育成する事にある。
その為には、教育学部において徹底した哲学教育を行う必要がある。
当該事業においては、教育学部における徹底した哲学教育を試行し、全国の大学教育学部の先導的事例とする。
なお、当該事業については、文部科学省の補助を受けて行うものとする。
2 実施主体
「哲学・倫理学分野」の6名の教師を主体とする「教育学部における徹底した哲学教実施検討評価委員会」とする。
3 試行の内容
① 「哲学」の授業については、週3回とし、1年から4年まで通年で実施する。
② 「哲学」の単位は、48単位(4単位×週3回×4年間=48単位)とする。
なお、4単位は、90分授業、全期、28授業時間、2単位は、90分授業、半期、14授業時間を想定している。
③ 「哲学」の48単位については、教員養成コースにおいては必修とする。
④ 「哲学」の授業内容については、次の通りとする。
ア 西洋思想史・・・4単位、28授業時間(名文中の名文500編から学ぶ)
イ 東洋思想史・・・4単位、28授業時間(名文中の名文500編から学ぶ)
ウ 日本思想史・・・4単位、28授業時間(名文中の名文500編から学ぶ)
エ 宗教・・・・・・4単位、28授業時間(名文中の名文500編から学ぶ)
オ 道徳・・・・・・4単位、28授業時間(名文中の名文500編から学ぶ)
カ 古代古典講読・・4単位、28授業時間(古典中の古典10冊を学ぶ)
キ 教科哲学・・・・4単位、28授業時間(中学校の9教科を哲学する)
ク 哲学対話・・・・2単位、14授業時間(対話の技法を学ぶ)
ケ 哲学作文・・・・2単位、14授業時間(作文の技法を学ぶ)
コ 哲学各論・・・16単位、112授業時間(名文中の名文2000編から学ぶ)
①人生論、②人間論、③ 自由論、④平等論、⑤平和論、⑥幸福論、⑦感情論、⑧精神論、⑨肉体論、⑩生命論、⑪死生論、⑫男女論、⑬青少年論、⑭友情論、⑮恋愛論、⑯結婚論、⑰家族論、⑱生活論、⑲習慣論、⑳道徳論、○21国家論、○22社会論、○23宗教論、○24民族論、○25民俗論、○26時代論、○27革命論、○28戦争論、○29法律論、○30政治論、○31経済論、○32産業論、○33職業論、○34教育論、○35学問論、○36文化論、○37文学論、○38芸術論、○39 文明論、○40科学論、○41時間論、○42自然観、○43歴史観、○44地球観、○45世界観、○46宇宙観、○47読書作文論、○48「愛」論、○49「知恵」論、○50「言葉」論、○51「自分」論、○52「神」論 等々
サ 哲学対話録作成・・授業外(卒業までに百回の哲学対話を行う)
シ 哲学随想集作成・・授業外(卒業時に哲学百章を作成する)
⑤ 「西洋思想史」「東洋思想史」「日本思想史」「宗教」「道徳」「哲学各論」については、それぞれ読本を作成する。読本については、大学の全ての教師及び付属学校の全て教師の協力を得て作成するものとする。
⑥ 当該哲学教育は、デカルトやカント、ヘーゲル等を専門的に研究する事ではなく、教師としての哲学的能力(知恵を愛する能力、真善美を愛し追求する能力、本当の自分自身を愛し追及する能力、「汝自身を知れ」を知る能力)を育成する事を主眼として実施する。
⑦ 当該哲学教育は、小中高校哲学教育を充実させる為の教育であり、その主眼も古今東西の名著の中の名文中の名文から学ぶ事とする。
※ それぞれの授業内容は下記の通りです。
なお、下記は初等中等教育局教育課程課長殿宛てへの書簡文の写しですので、齟齬するところもあると思いますが、咀嚼して読んで下さるようお願いします。
それでは、それぞれの授業内容について簡単に説明していきたいと思います。
その前に共通的な事柄を一つだけ述べて置きます。
それは、全ての授業は基本的には名著の中の名文中の名文から学ぶと言う事です。
文献哲学者の概念を学ぶのではなく、原典のその言葉から学ぶと言う事です。
思想史もそうだし、宗教、道徳もそうだし、哲学各論もそうです。
それぞれの科目においては、4単位、28授業時間で、約500の名著の中の名文中の名文を学ぶ事になります。
その為に、「西洋思想史読本」「東洋思想史読本」「日本思想史読本」「宗教読本」「道徳読本」「哲学各論読本1~4」を作成する事になります。
これら読本については、それぞれA4判、横書き、2~3段組、約600ページとします。
1つの名文については、1ページに収まる範囲内の文章量とします。
この1ページの中で、その名文の簡単な書誌や著者の紹介等も行う事とします。
これら読本については、全国の大学教育学部が共同し、英知を結集して作成するものとします。
これら一連の読本については、数種類の一連の読本が発行される事を奨励します。(例えば全国の大学が幾つかのグループに分かれて作成するとか・・。)
これらの読本の作成については、文部科学省の補助事業により行うものとします。
学生への販売価格は出来るだけ安価に抑えるものとします。
一般に流通する事を大いに奨励します。
著作権の調整が必要な場合は、文部科学省において調整するものとします。
なお、如何に名著の中の名文中の名文と雖も、生存者の著作は掲載しないものとします。
これについては、小中高校の『哲学読本』も同様とします。
前置きが長くなってしまいましたが、それぞれの科目について、箇条書きで簡単に説明していきます。
1 西洋思想史
・西洋の代表的な思想家28人程度を取り上げ、彼らの名著の中の名文中の名文から、その思想を学びます。
・哲学読本は全部で500編ですので、一人の思想家については、約20編程度(約20頁)の名文中の名文から、その思想を学ぶ事になります。
・一人の思想家について、様々な角度の名文中の名文から、その思想家を学ぶ事になります。
・1授業時間で一人の思想家を学ぶ事にします。
・授業の進め方としては、学生は授業前にそれら名文を読み込んでおくものとします。教師は、それら名文とは関わり無く、その思想家に関する文献学的概念(様々な学説や時代背景等)を講義するものとします。学生はそれら名文とそれら文献学的知識を契機として、その思想家を深く思想するものとします。なお、出来ることなら、その思想を思想録として記録しておく事を勧めるものとします(任意)。また出来ることなら、代表的原典を読む事を勧めるものとします(任意)。
・代表的思想家としては、プラトン、アリストテレス、エピクロス、エピクテトス、セネカ、キケロ、マルクスアウレリウス、アウグスティヌス、ルター、デカルト、パスカル、ロック、スピノザ、モンテスキュー、ルソー、カント、ヘーゲル、ショウペンハウワー、キルケゴール、マルクス、ニーチェ、イソップ、ホメロス、ダンテ、レオナルドダビンチ、シェークスピア、ゲーテ、ニュートン等々が考えられます。
2 東洋思想史
・東洋の代表的な思想家28人程度を取り上げ、彼らの名著の中の名文中の名文から、その思想を学びます。
・その他については、西洋思想史と同じとします。
・代表的思想家としては、孔子、老子、墨子、孟子、荘子、孫子、荀子、韓非子、朱子、王陽明、孫文、毛沢東、ブッダ、龍樹、世親、ダゴール、ガンジー、ヒンズー経典、ユダヤ経典、バラモン経典、ゾロアスター経典、書経等々が考えられます。
3 日本思想史
・日本の代表的な思想家28人程度を取り上げ、彼らの名著の中の名文中の名文から、その思想を学びます。
・その他については、西洋思想史と同じとします。
・代表的思想家としては、聖徳太子、空海、最澄、法然、親鸞、道元、日蓮、林羅山、中江藤樹、山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠、賀茂真淵、本井宣長、二宮尊徳、福沢諭吉、内村鑑三、吉野作蔵、西田幾多郎、和辻哲郎、西行、世阿弥、松尾芭蕉、夏目漱石、柳田国男、古事記、日本書紀、風土記、万葉集等々が考えられます。
4 宗教
・キリスト教(聖書)、仏教(経典)、イスラム教(コーラン)、神道(神典)の中の名文中の名文から、その宗教を学びます。
・宗教読本500編の割り当ては、キリスト教(聖書)200編、仏教(経典)200編、イスラム教(コーラン)50編、神道(神典)50編程度とします。
・授業時間の割り当てについては、キリスト教(聖書)10授業時間、仏教(経典)10授業時間、イスラム教(コーラン)4授業時間、神道(神典)4授業時間程度とします。
・授業の進め方としては、学生は授業前にそれら名文を読み込んでおくものとします。教師は、それら名文とは関わり無く、その宗教に関する文献学的概念(教説、歴史、宗派等)を講義するものとします。学生はそれら名文とそれら文献学的知識を契機として、その宗教に対する思想を深めていくものとします。なお、出来ることなら、その思想を思想録として記録しておく事を勧めるものとします(任意)。また、出来るなら、原典を読む事を勧めるものとします(任意)。
5 道徳
・代表的な28の徳について、古今東西の名著の中の名文中の名文から、その徳を学びます。
・道徳読本は全部で500編ですので、一つの徳について、約20編程度(約20頁)の名文中の名文から、その徳を学ぶ事になります。
・一つの徳について、様々な角度の名文中の名文から、その徳を学ぶ事になります。
・1授業時間で一つの徳を学ぶ事にします。
・授業の進め方としては、学生は授業前にそれら名文を読み込んでおくものとします。教師は、それら名文とは関わり無く、その徳に関する文献学的概念(様々な学説や時代背景等)や自らの考えを講義するものとします。学生はそれら名文とそれら文献学的知識や教師の考え方を契機として、その徳に対する思想を深めていくものとします。なお、出来ることなら、その思想を思想録として記録しておくことと勧めるものとします(任意)。また、出来るなら、代表的原典を読む事を勧めるものとします(任意)。
・代表的な徳としては、勇気、忍耐、節制、寛容、正義、中庸、慈愛、高潔、廉恥、礼儀、誠実、良心、奉仕、孝行、自信、平常心、自制心、向上心、反省、克己、分別、優しさ等々が考えられます。
6 古代古典講読
・古代は人間の青年期に当たります。古代の古典には、児童生徒を訓導する為の素晴らしいものが一杯あります。古代古典講読では、その中でもザ古典と呼ばれる12冊を講読する事とします。なお、短い授業の中で講読しなければなりませんので、比較的短い古典を対象とします。
・代表的古典12冊については次の通りとします。
『論語』(孔子)、『老子』(老子)、『真理の言葉(発句経)』(ブッダ)、『マタイの福音書』(イエス)、『ソクラテスの弁明』(プラトン)、『箴言』(ソロモン)、『詩篇』(ダビデ)、『手紙』(エピクロス)、『語録』(エピクテトス)、『道徳書簡より1編』(セネカ)、『自省録』(マルクスアウレリウス)、『憲法十七か条』(聖徳太子)
・1冊の古典講読について、2ないし3授業時間を充てるものとします。
・授業の進め方としては、学生は事前にその古典を読み込んでおくものとします。教師はその古典の中の代表的な部分を講義するものとします。学生はそれら古典と教師の講義内容を契機して、その古典に対する思想を深めていくものとします。なお、出来ることなら、その思想を思想録として記録しておくことと勧めるものとします(任意)。
7 教科哲学
・中学校の9教科(国語、社会、数学、理科、音楽、美術、保健体育、技術家庭、英語)について哲学します。
・それぞれ9教科の中の重要な単元等についても哲学します。
・それぞれの教科における哲学内容を例示すると次の通りです。
・国語・・・・国語とは、読むは、書くとは、話すとは、聞くとは、文法とは、文字とは、言葉とは、詩とは、小説とは、文学とは・・・
・社会・・・・社会とは、地理とは、日本とは、世界とは、資源とは、人口とは、町とは、村とは、都市とは、産業とは、国際とは、歴史とは、古代とは、中世とは、近代とは、現代とは、戦争とは、文明とは、政治とは、経済とは、生活とは、福祉とは、憲法とは・・・
・数学・・・・数学とは、数とは、式とは、方程式とは、関数とは、確率とは、三角形とは、四角形とは、円とは、相似とは、比例とは・・・
・理科・・・・理科とは、化学とは、物質とは、気体とは、液体とは、分子とは、原子とは、酸化とは、還元とは、物理とは、運動とは、エネルギーとは、仕事とは、力とは、熱とは、光とは、電気とは、生物とは、植物とは、動物とは、細胞とは、血液とは、消化とは、呼吸とは、地学とは、地球とは、天体とは、宇宙とは、太陽とは、気象とは、天候とは・・・
・音楽・・・・音楽とは、メロディーとは、リズムとは、ハーモニーとは・・・
・美術・・・・美術とは、絵画とは、彫刻とは、工芸とは、デザインとは、美とは・
・保健体育・・保健とは、健康とは、疾病とは、体育とは、スポーツとは・・・
・技術家庭・・技術とは、木材とは、金属とは、電気とは、機械とは、栽培とは、情報とは、家庭とは、食物とは、衣服とは、住居とは・・・
・英語・・・・英語とは、言語とは、文法とは、コミュニケーションとは、外国人とは、国際理解とは・・・
・各教科への割り当て授業時間は各3時間とします。
・授業の進め方としては、学生は事前に中学校の各教科の教科書を読み込んでおくものとします。教師は教科書に関わり無く、自らの教科に関する哲学、それぞれの単元に関する哲学を講義していくものとます。学生は教科書の内容、教師の講義の内容、それからそれぞれの教科、単元についてこれまで学んできたものを総括して、自らの教科哲学、単元哲学を確立していくものとします。それらについては、思想録に記録しておくことを勧めるものとします(任意)。
・それぞれの教科哲学については、それぞれの教科の担当教師が担当するものとします。すなわち、教科哲学については、9人のそれぞれの教科担当教師が担当する事となります。
・教科哲学は、その教科、その単元の知識を学ぶ事ではありません。それぞれの教科、単元が自らの世界においてどの様な位置を占めているかを学ぶ事です。どの教科、どの単元も自らと切り離されないほど、密接に繋がっている事を理解する事にあります。
8 哲学対話
・「対話」について、古今東西の名著の中の名文中の名文100編からその概念を学びます。
・「対話の技法」について、古今東西の名著の中の名文中の名文100編からその技法を学びます。
・残りの時間は、全て哲学対話の実習とします。
・「哲学対話録」を各自それぞれ作成するものとします。
9 哲学作文
・「作文」について、古今東西の名著の中の名文中の名文100編からその概念を学びます。
・「作文の技法」について、古今東西の名著の中の名文中の名文100編からその技法を学びます。
・残りの時間は、全て哲学作文の実習とします。
・「哲学十章」(自らにとって最も大切な10の哲学テーマに関する随想集。2000字×10章程度)を作成するものとします
10 哲学各論
・哲学のそれぞれの各論について、古今東西の名著の中の名文中の名文から、それぞれの哲学各論を学びます。
・各論に対する授業時間の割り当ては各2授業時間、名文の割り当ては各40編程度とします。
・授業の進め方としては、学生は事前に名文を読み込んでおくものとします。教師は名文に関わり無く、その各論に関する文献学的知識や自らの哲学を講義するものとします。学生は名文や教師の講義の内容等を参考にしながら、それぞれの各論に関する思想を深めるものとします。その際、その思想を思想録に記録しておくことを勧めるものとします(任意)。
・哲学各論は、教育学部の全ての教師の応援を得て実施するものとします。
・哲学各論の目的は、それぞれの各論に関する知識を学ぶ事にはありません。それぞれの各論が切り離せない程に自らと深く関係している事を学ぶ事にあります。これら各論を有機的に統合してこそ、本当の意味での哲学が完成する事になります。
11 哲学対話録作成(授業外)
・卒業までに、50回以上の哲学対話を行い、その対話録(1対話について、A4、1頁程度)を作成するものとします。
・卒業時に哲学担当教師に哲学対話録を提出し、確認印を受けるものとします。(教師は内容を読み込む必要はありません。50回以上哲学対話を行った事の確認だけを行えば良い事とします。
・小中高校の哲学対話室で小中高校生と哲学対話を行なう事を積極的に奨励するものとします。
・哲学対話録については、教師採用時に、採用担当官から求められたら提示するものとします。
12 哲学随想録「哲学百章」作成(授業外)
・卒業時に、自らにおいて大切な100の哲学テーマに関する随想録「哲学百章」を冊子(A4版、本文100頁以上)に纏めて、哲学担当教師に提出するものとします。(哲学担当教師は内容を読み込む必要はありません。提出された事の確認だけを行えば良いものとします。)
・教育学部の一角に「哲学百章コーナー」を設置し、全ての哲学百章を10年間公開するものとします。(評判の高かった哲学百章については、廃棄処分年次に30年保存の決定を行う事とします。)
・哲学百章が教育学部(教師、在学生、卒業生、小中高校の児童生徒)の共有財産となります。
・哲学百章が教育学部の哲学的風土、哲学的伝統、哲学的歴史を形作って行く事になります。
以上が、教育学部における哲学教育の内容です。
膨大なようですが、教育学部の学生が学ぶべきものです。
なお、最近は教育学部の学生でも最初から教師を志向しない者もいるようですので、そ
の様な者にまで、上記の哲学教育を徹底する必要な無いと思います。
上記の哲学教育はあくまでも、教師になる為のものです。
すなわち、教師=全人教育の当人=哲学的素養のあるべき人の為の教育ですので、上記
哲学教育については、教師の免許を取る為の必修科目とする事としましよう。
上記の哲学教育を徹底すれば、言語能力に優れ、道徳性が高く、かつ学習意欲の高い教
師が生まれて来る事については、間違いありませんので・・・。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
哲学詩集『百章』
~私と神との間で、私と知恵と言葉たち~
哲学哲男 著
哲学詩集『百章』目次
第1章 『私』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・139
第2章 『知恵』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・139
第3章 『言葉』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・140
第4章 『哲学』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・140
第5章 『真理』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・141
第6章 『善』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・141
第7章 『美』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・142
第8章 『自由』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・142
第9章 『快楽』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・143
第10章 『幸福』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・143
第11章 『精神』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・144
第12章 『思想』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・144
第13章 『意志』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・145
第14章 『性』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・145
第15章 『気』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・146
第16章 『心』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・146
第17章 『経験』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・147
第18章 『観念』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・147
第19章 『感覚』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・148
第20章 『知識』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・148
第21章 『記憶』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・149
第22章 『論理』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・149
第23章 『数』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・150
第24章 『物』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・150
第25章 『科学』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・151
第26章 『大学』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・151
第27章 『瞑想』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・152
第28章 『死』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・152
第29章 『無』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・153
第30章 『悟り』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・153
第31章 『天国』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・154
第32章 『理想』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・154
第33章 『革命』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・155
第34章 『祈り』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・155
第35章 『信仰』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・156
第36章 『平和』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・156
第37章 『正義』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・157
第38章 『芸術』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・157
第39章 『詩』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・158
第40章 『音楽』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・158
第41章 『絵画』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・159
第42章 『読書』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・159
第43章 『思索』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・160
第44章 『作文』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・160
第45章 『旅』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・161
第46章 『覚醒』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・161
第47章 『創造』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・162
第48章 『人間』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・162
第49章 『自我』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・163
第50章 『肉体』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・163
第51章 『欲望』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・164
第52章 『差別』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・164
第53章 『争い』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・165
第54章 『苦悩』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・165
第55章 『感情』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・166
第56章 『世間』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・166
第57章 『人生』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・167
第58章 『行為』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・167
第59章 『徳』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・168
第60章 『勇気』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・168
第61章 『忍耐』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・169
第62章 『中庸』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・169
第63章 『愛』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・170
第64章 『家族』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・170
第65章 『夫婦』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・171
第66章 『子供』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・171
第67章 『教育』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・172
第68章 『環境』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・172
第69章 『生活』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・173
第70章 『習慣』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・173
第71章 『勉強』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・174
第72章 『仕事』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・174
第73章 『恋愛』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・175
第74章 『友』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・175
第75章 『家庭』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・176
第76章 『現代』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・176
第77章 『情報』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・177
第78章 『大衆』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・177
第79章 『都会』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・178
第80章 『政治』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・178
第81章 『経済』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・179
第82章 『法律』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・179
第83章 『社会』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・180
第84章 『体制』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・180
第85章 『国家』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・181
第86章 『日本』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・181
第87章 『風土』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・182
第88章 『民族』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・182
第89章 『言語』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・183
第90章 『宗教』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・183
第91章 『歴史』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・184
第92章 『文化』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・184
第93章 『地球』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・185
第94章 『自然』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・185
第95章 『宇宙』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・186
第96章 『世界』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・186
第97章 『法』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・187
第98章 『時間』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・187
第99章 『普遍』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・188
第100章 『神』について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・188
あとがきに代えて『哲学革命』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・189
第1章 『私』について
私とは何者か
私とは私
私とは私の全て
私とは私の創造主
「我思う 故に我あり」
これが私の『私』に関する定義である
私が考えている時に私は存在する
私が考えていない時には私は存在しない
世の人は言う
私は常に存在していると
彼らは私の事を深く考えた事がないのである
死んだ様に眠っている私に考える私が存在するかと
私は一人か
いいえ 私には常に付き添う者がいる 彼の名は知恵
第2章 『知恵』について
知恵とは何者か
私の随伴者
私は私と知恵との共同作業で私の世界を創造する
私のこの世界は私と知恵の共同作業の賜物
世の人は言う
知恵と言う存在者は私の中にはいないと
彼らは知恵の事を知らないかまたは見ようとしない
もし知恵の存在を知ったら・・・
もっとも知恵の存在を知っていようといまいと
知恵は貴方方の中に存在している
貴方方のその世界は貴方方と知恵との共同作業で生まれたもの
しかし貴方方が知恵の存在に目を遣った時そこに眩いばかりの世界が現出する
知恵とは何か
知りたければ私に付いて来なさい 懇切丁寧に教えて上げよう
第3章 『言葉』について
言葉とは何か
私と知恵の婚姻に因って生まれた子供たち
この子供たちに依って私の世界が創り上げられる
貴方の世界は美しき善き世界か
美しき善き子供たちを生むのは誰か
私であり真善美に溢れた知恵と言う胎
さあ諸君もう分かったか 私と知恵の結婚の秘密が
そして私と知恵と言葉の三位一体の神秘が
さあ諸君何をぐずぐずしている
早く知恵を愛しなさい
そうすれば知恵は貴方の為に美しき善き子供たちを、そして時には真理に満ちた子供を生み出して呉れるだろう
その子供たちによって貴方の世界が創られていく
私と知恵と言葉の三位一体の神秘
この神秘を解き明かすのが哲学
第4章 『哲学』について
哲学とはphilosophia
知恵(sophia)を愛する(philo)事
知恵とは何か
知っていたら言いなさい
もし私が知恵とは真善美に溢れた本当の貴方自身だと言ったら
貴方は信じるか
もし私が知恵とは貴方の主であり貴方の霊であり貴方の神であると言ったら
貴方は信じるか
もし私が知恵とは真善美と言う存在であり真善美と言う力であり真善美と言う働きであると言ったら
貴方は信じるか
もし私が知恵とは究極の貴方だと言ったら
貴方は信じるか
人は何故 知恵を愛するのか
知恵が真善美に溢れた究極の私だからなのではないか 「汝自身を知れ」
第5章 『真理』について
哲学には真善美と言う三つの法門がある
最初の法門が美であり 次の法門が善であり そして最後の法門が真理である
この最後の法門を潜った時 人は自由になる
「真理は貴方を自由にする」
「真理とは何か」
ピラトは聞いたがイエスは答えなかった
真理とは知恵を愛し抜いたその先に現われる法門である
ピラトには未だその準備が出来ていなかった
真理とは一か多か
もし真理が一つであれば求める価値はある
しかし真理が多であれば 誰も真理は得られない
「道生一 一生二 二生三 三生万物」この辺りに真理のヒントがある筈
とにかく知恵を愛し抜きなさい
そうすればその先に真理の法門が現われて来る筈
第6章 『善』について
善とは哲学の第二法門
善とはgood God
善とは神に由来するもの
だから神を求めない者には善は無縁
貴方方は言うのか
神とは宗教人の為のもの
我々宗教と無縁の者には善もまた無縁なのかと
貴方方は未だそんな事を言うのか 神とは宗教人の為のものだけと思っているのか
しかし貴方方がそう言い張るのであれば仕方がない 私もまたこう言うしかない
貴方方には善は無縁だと
貴方方のその善は何に由来するのか
貴方自身に由来するのか 私ははっきり言っておこう それは偽善だと
善とはgood God神に由来するもの だから神を求めない者には善もまた無縁
善もまた秩序あるその世界の先にしか生まれて来ないものかも知れない
第7章 『美』について
美は哲学の最初の法門
この法門を潜らなければ人は哲学へと入って行けない
ところで美とは何か
それはずばり自然 自ずから然りと言う自然
人は自然に美を学ばなければならない
しかし不思議な事だが
自然に美を学べば善も自ずと付いて来る
善と美は一卵性双生児
美しき人は善き人であり 善き人は美しき人である
この事に異を唱えるのか
貴方方は未だ十分に美を学んでいない もっと美を究めなさい
どうです 美しき人は善き人であり 善き人は美しき人でしょう
美と善は哲学の同門
自ずから然りと言う自然に美を学びなさい そうすれば善も自ずから然りとなる
第8章 『自由』について
自由とは自らに由るを由とする
そう言い切る為に必要な事は自信 すなわち自らを信じる事
自らを信じる為に必要な事は哲学 すなわち知恵を愛する事
何故知恵を愛すれば自信が付くのか
哲学とは知恵を愛する事
それは真善美に溢れた自分自身を愛する事
それは私の主であり私の霊であり私の神を愛する事
そんな私を愛すればどうして自信が付かない事があろう
「真理は貴方を自由にする」
「汝自身を知れ」
真理と自由とはそんな関係か
しかし真理は私に取っては未だ闇の中
これからも一生懸命 知恵を愛する事にしよう
そうすればその先に真理が現れ 私を真の自由に導いて呉れる事だろう
第9章 『快楽』について
私は快楽主義者である
私はエピクロスの徒である
快楽以上に私を動かす何ものがあろう
私は精神快楽主義者
快楽には二つの種類がある
一つは肉体の快楽であり 他の一つは精神の快楽
肉体の最高の快楽は男女の交合のその瞬間
精神の最高の快楽は私と知恵との交合のその時
前者の快楽は強烈でほんの一瞬 また欲望が疼く
しかし後者の快楽は温和で永続するが如く
私が知恵を離さない限り 私たちは目眩めく世界を旅する
別れの時私たちは再会を約束する 知恵は決して裏切らない
さて貴方たちの快楽とは如何なる快楽か
教えて欲しい
第10章 『幸福』について
幸福とは何か
そこには様々なグラデーションがある
私はこう聞こう 貴方にとって至福の時とは如何なる時かと
そこには一つの答えがある
やはりあの宣伝文句の様に珈琲を飲んでいる時か
それとも酒を呑んでいる時か それとも恋人と一緒の時か それとも温泉に入っている時か それとも・・・
至福の時の態様に拠って精神の態様が分かる
哲学の時すなわち知恵を愛する時が至福の時と言う者はいないのか
幸福と言う言葉を突き付けられた時 多くの人が思うのが家庭の幸福
そうそれこそ幸福の原型
幸せな者にとっての天国の原型は幼き頃の幸福な家庭の様子
そこには必ず哲学者 すなわち知恵を愛する父と母が居た
貴方の家庭は幸福か
もし幸福な家庭を築きたければ 父よ母よ哲学者(知恵を愛する者)たれ
第11章 『精神』について
精神とは何か それは精なる神
さて八百万の神々の中で精なる神とは如何なる神か
諸君はもう分かって呉れたと思う
知恵と言う名の神である事を
しかしこれでは現在通用している精神と言う概念とかけ離れてしまう
そこで私は精神界と言う概念を持ち込む
精神界とは私と知恵の遊び場 私と知恵の踊り場
私が知恵を愛する場所 すなわち哲学界であると
私たちが精神界に居る限り 私たちは不幸になる事はない
しかし精神界を離れると 忽ち私たちは肉の欲に絡まれてしまう
私たち人間とは精神と肉体の婚姻の結果生まれた子供
精神を純粋に保つ方法を形而上学また純粋哲学と言い 精神と肉体の良好な関係を保つ方法を倫理学と言う
私たち人間は神の子であると共に肉の子
だから神を愛すると共に肉の人でもある隣人をも愛さなければならないのである
第12章 『思想』について
思想とは思い想う事
人は一瞬も休まず思想し続けている 死んだ様に眠っている時を除いて
私がこの事を唱えると 多くの人は必ず異を唱える
彼らは思想すなわち思い想う事を深く考えた事がないのである
「我思う 故に我あり」
私が思想している時私は存在し 私が思想していない時私は存在しない
貴方の一日を振り返ってみなさい 思想していない時があるかと
感覚と言う言葉がある 感覚とは言葉に成らない言葉で思想する事である
五感が貴方に迫る
貴方は物凄い勢いで言葉に成らない言葉で思想し続けている
試しに貴方の一分を切り取って見なさい
貴方の五感 すなわち貴方の目が耳が鼻が舌が肌が貴方に如何に思想を強要しているか しかし貴方はそれを解き解す事は出来ない
思想とは思い想う事
要は何を思想し何を思想しないかと言う事 そこに意志が働く
第13章 『意志』について
意志とはこの世に打って出る私
この意志に依って私が生きる
意志とは思想界の祭主
この意志に依って私が香り輝く
私たち人間は精神と肉体の子
私たちは一瞬も休まず思想し続けている
そしてその大半は肉の欲から来ている
何故なら肉から絶えず生きよと言う命令が下されているから
精神は肉を基礎として生きている
肉が存続し続けなければ精神は生きていけない
だから肉の欲は満たして上げなければならない
しかしそこには自ずから限度と言うものかがある
意志の強い人と言う人がいる
彼らは肉を良犬良馬の如く飼い馴らしている
第14章 『性』について
性とは心に生まれるもの
男性女性知性感性品性個性悟性仏性神性天性 これらは生まれつきのものか
私ははっきり言おう
これらは思想の結果である もっと端的に言えば意志の結果であると
私は言った 人は死んだ様に眠っている時以外は一瞬も休まず思想し続けていると
であればこれらの全ての性もまた全て思想の結果ではないかと
私は言った 感覚と言う思想も含めて思想界の祭主が意志であると
であればこれらの全ての性もまた全て意志の結果ではないかと
あの人は男らしい
全て思想の結果であり 意志の結果なのではないのか
貴方は言うのか 男性とは雄の生殖器の備わっている人間だと
狼の中で育てられ そして今でも狼として生きているその人間を貴方は男性と呼ぶのか
性とは心の中に生まれたもの それらは全て思想の結果であり意志の結果である
神性 仏性 悟性 天性もまた思想の結果であり意志の結果である
第15章 『気』について
気とは祭壇に漂う煙
意志は思想界の祭主
この意志が祭壇で思想を焼べる時に漂う煙が気
この気を一緒に吸うと元気にも陽気にも陰気にもなる
あの人は殺気立っている
この人は祭壇で如何なる思想を焼べているのか
怒りか憎しみか殺意か
これらの思想は不完全燃焼のまま悪臭を漂わす
気功と言う言葉がある
気に依って功を成そうと言うものである
祭壇に真善美に溢れた思想を焼べて
自らを隣人をそして世界をその気で包もうと言うものである
私はその気が自らを超え隣人を超え更に地域国家世界を超えて天気と成った人を知っている
その人の名はイエスでありブッダ
第16章 『心』について
心とは精神と肉体の葛藤の場
そこは思想が渦巻く修羅の場
その思想を祭壇に捧げるのが私と言う祭主
私がその思想を完全に焼き尽くす事が出来ればそこには香気が漂う
私と知恵と精神と心と思想と肉体が同心円を描けば完成された人間
聖人と呼んで良いだろう
精神一到何事か成さざらん
全ては思いのまま
もし私と知恵と精神と心と思想と肉体がモザイク模様を描けば
それは散々に分裂した私
私は誰 私は何を成せば良いの
精神分裂病と言う病が現代を覆おうとしている
私と知恵と精神と心と思想と肉体が同心円を描く為に必要な事
それは私と知恵の臥所である精神を大切にする事 そうすれば心も思想
も肉体も自ずとそれに相応しい同心円を描く
第17章 『経験』について
経験と観念は思想の両輪
経験だけでは科学の子に成り下がってしまう
観念だけでは空虚な観念論者と成ってしまう
「学びて思わざれば則ち罔(くら)し 思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし」
経験と観念で思想の大輪を咲かせたのは誰か プラトン
彼が如何に学んだか そして如何に世界を旅した事か
それは聖人賢人哲人たちは皆同じ事
イエスにしてもブッダにしても孔子にしても同じ事 経験は観念の母
究極の観念とは何か
それは世界を思想する事であり 神を思想する事
経験なしに世界を思想する事も出来ないし 神を思想する事も出来ない
経験は観念の母
経験とは五感で学ぶ事
早い内に知恵を学びそして世界を旅する事 そうすれば偉大な観念論者にも成れる
第18章 『観念』について
私は典型的な観念論者である
観念で世界を描こうとしている 観念で神に近づこうとしている
私は思うばかりで学ばない殆(あや)うき者か
きっとそうだ だが観念は楽しい だから観念論者は決して絶える事は無い
私は思う
もっともっと勉強をしていたら もっともっと旅行をしていたらと
そうすれば私の観念はもっと世に通用していただろうにと
しかしそれは後の祭り それでも私は観念論者を止めない
究極の観念論者とは如何なる論者か
それは神を論じる者であり 世界を論じる者
私のこの詩集は何の為に作成しているのか
それは神を論じる為であり 世界を論じる為
結局観念論者とは哲学者 知恵を愛する者に他ならない
大いなる哲学者と成る為には大いなる経験が必要 学ぶに遅すぎる事はない
第19章 『感覚』について
感覚とは思想 すなわち思い想う事
私がこの事を唱えると多くの者は必ず異を唱える
私は一分で貴方を承服させよう
さあ一分間 目を開けたまま何もせず何も考えずに居なさい
さあどうです
感覚器官が貴方に思想を迫って来たでしょう 特に視聴覚器官が
しかし貴方はそれを言葉にする事は出来なかった
しかし貴方はそれを言葉に成らない言葉で思想していた
感覚器官は思想の賜物です
貴方が生まれて来た時から感覚器官は貴方に思想を迫って来た
そして貴方は一瞬も休まず思想し続けて来た
その思想の賜物が貴方の感覚器官です
感覚器官は貴方の事を何でも知っています
だから貴方を迷わすのです 感覚を断つ事は可能か
第20章 『知識』について
知識とは何か
それは知恵の欠片
だから知識を幾ら集めても知恵ある者とは成らない
知恵ある者と成る為にはやはり知恵を愛さなければならい
哲学とは学問の王道 学問の起源
科学はこの哲学を起源として生まれた
科学とは知恵の欠片たちを拾い集めたもの
それらがあまりにも多くなったので科々(しなじな)の学が出来上がってしまった
始めに神学が生まれた その次に医学と法学が その次に・・・
現在科々の学はどれ程あると言うのか
東京大学には千以上の研究室があると言う
しかし科々の学はそんなものではあるまい そして更に増殖中
知識は何処まで増え続けて行くのか それは人類滅亡のその時まで
嘗ての知識は知恵の欠片たちだったが 現代の知識は知識が知識を限りなく生むと言う癌になってしまった
第21章 『記憶』について
記憶の大海があるから
私が私でいられる
もし記憶がなければ
私は誰???
その記憶の大海は貴方の思想の大海
貴方が生まれて来てからと言うよりも貴方のその受精の瞬間からの思想の全て
勿論感覚と言う思想も含む
だから貴方は貴方で居られる
受精から誕生までのその感覚は混沌
だから私たちに神話が生まれる
誕生のその瞬間に「光あれ」と言う神話が
そこに私が居て知恵が居た
もし貴方の記憶の彼方に幸福な子供時代があるのなら
貴方は優しさに包まれた天国を描く事も出来る 勿論それも記憶の賜物
第22章 『論理』について
論理とは文法
AはBである 主語述語
これで全てである
論理を飾りたいならこれに修飾語を付け加えればよい
論理は生来 文法も生来 言葉もまた生来
言葉を自然に語れば論理も文法も自ずと生れ来る
この論理を分析しようとするのが論理学
そしてこの論理学を得意とするのが科学の子供たち
記号論理学なるものがあると言う
論理を数学に置き換えようとするものである
正に科学の子供たちのお遊びではないか
彼らがその数学で如何なる論理を述べようとしているのか きっと私たちは笑い出してしまう
しかし数にはマッジクがある そのマジックで現代の科学が生まれた
私たち哲学者は知恵をそのマジックから守らなければならない
第23章 『数』について
数には魔法がある
いやその様に思われて来た
ピタゴラスは数の神秘を説いた
誰もそれを解く事が出来なかった
そして現代になり数が現代を覆った
数は現代の主となった
誰も彼に太刀打ち出来ないかの様だ
数は現代に君臨し続ける
私たちは数の魔法を解く事が出来ない
何故ならその言語があまりにも不可解だから
しかしその言語を解き明かした時
私たちはその魔法を笑い出してしまう
私たち哲学者が行うべき事
それは数の魔法を白日に晒し出す事 そして一緒に笑い出す事だ
第24章 『物』について
物とは原子に換算されるもの
この世界には物と心がある
物は自然の中に存在し 心は人間の中に存在する
この二つによって世界が描かれてきた
物と心が調和している時はとても素敵な世界だった
この素敵な時代を今でも憧れる人たちがいる
彼らを芸術家と言う
彼らは今でも物と心の調和を理想に活動し続けている
しかし現実世界に目を遣ると
物が屹立している
この立役者が数
そして数を主と奉る 数学物理学化学生物学等々の科学のお歴々
物に寄せて思いを陳ぶる歌 物心 物の哀れ 日本にもそう言う時代があった
しかし現代ではその心までをも原子に換算しようとしている
第25章 『科学』について
科学は数に依って勝利した
勿論原子も数の子
原子に依って物を説明し尽くそうとしている
そして心までをも
哲学者よ 知恵を愛するものよ それで本当に良いのか
心までをも科学に数に明け渡して良いのか
科学は数に依って心を封印しようとしている
心が封印された暁に 哲学者よ知恵を愛する者よ 貴方は知恵に何と申し開きをする積りか
天使と悪魔と言う言葉がある
天使を知恵に喩え 悪魔を数に喩えたなら 哲学者よ貴方ならどう思う
数が科学と言う手法を使いこの世界を席巻しようとしている
正に現在が悪魔と天使の戦いの場なのではないのか
哲学者よ 知恵を愛する者よ 貴方たちの使命は
この科学の世に知恵を開放して上げる事なのだよ
第26章 『大学』について
大学とは何か
大いに学ぶ所
何を学ぶのか
知恵を
大学を科々(しなじな)の学の場としてはならない
哲学担当教授よ 貴方こそが教授の中の教授
大学を総括せよ そして科学を采配せよ
決して科学者に堕してはならない
学生よ
貴方たちは大学に何を学びに来たのか
知恵ではないか
科学の子供たちよ 先ずは知恵を学べ その上で科学に知恵を生かせ
大学とは知恵を大いに学ぶ場
大学が正常に機能したら この日本だって知恵の王国に成る事もまた可能
第27章 『瞑想』について
瞑想とは無を想う事
人が無に成る事が出来れば如何に幸せな事か
そこには何の悩みも無い
それを喩えれば涅槃か死
有余涅槃 無余涅槃と言う言葉がある
無余涅槃とは完全なる死 そこには肉体も精神も何の痕跡も残さない
有余涅槃とは命だけを残し その他の全てを滅却する事
瞑想とは有余涅槃に至る道 完全なる死の疑似体験
もし完全なる死を体験出来ればそこには大きなエネルギーが生まれる
すなわち新生と言うエネルギーが 無限の可能性が
「日々新たに」
瞑想とは日々死に日々生まれる為の方法
多くの聖人賢人が日々瞑想に励んだが
未だ誰も完全なる死を体験した者はいない しかし擬似死だけで十二分
第28章 『死』について
死とは何か
心臓死か 脳死か 細胞死か それとも精神死か
死を如何に考えるかに依って死生観が変る
人は何故通夜を営むのか
私は人間の細胞がどの様にして死んでいくのか知らない
土葬に付した場合 細胞はどの様な順序で死んでいくのか
ひょっとしたら脳細胞が最後に死ぬのではないか
そうであれば四十九日の意味も分かる
脳細胞が死ぬ時まで 私と知恵は随伴する
そして最後のその瞬間に人生の全てを総括して昇天する
その最終期限が四十九日
その最終期限までに人生を総括出来なければ怨霊としてこの世に残る事になる
現在は火葬 三日目までには昇天しなければ成らない事になっている 果たして皆昇天出来ているのか
最も素晴らしい死とは心臓死と共にこの世の全てを善しと総括して昇天する事 死生観の一考察
第29章 『無』について
無とは何か
私たちはそれを全く想像する事が出来ない
強いて想像するとすれば死後の世界が完全なる無の世界であるとすればその世界
しかし私たちは死ぬ事が出来ないから 完全なる無については想像する事は出来ない
私たち人間とは考える存在である
だから私たちは常に存在している
私たちが考えていない時 私は存在していないのだから 無の可能性がある
しかし私たちは常に考えているので 私たちは無を想像する事が出来ない
結局私たちが無を考える時 死を考えなければいけない
死後ももし私たちが考えなければいけないのであれば そこには地獄煉獄天国が生まれて来る
私たちは死後はもう考えたくない
そこに無の発想が生まれ 無余涅槃と言う思想が生まれて来る
結局 死と無は同根
私たちは瞑想により無を思い 完全なる死を希求する (そして新生を)
第30章 『悟り』について
悟りとは何か
それは人間の生と死を知り尽くす事
その為に必要な事が哲学と瞑想
哲学で生を知り尽くし 瞑想で死を知り尽くす
哲学とは私が知恵を愛する事
その過程で世界が創造される
瞑想とは私を殺す事
そこに無限の世界が広がる
もし私が完全に死ぬ事が出来ればそこに大いなる可能性が広がる
すなわち新生と言う可能性が
それを悟りとも言う
悟りとは古い人間を殺し 新しい人間を生み出す事
瞑想で古い人間を殺し 哲学で新しい人間を生み出す
瞑想哲学どちらも大切だが より素敵な世界創造の為には哲学の方がより大事
第31章 『天国』について
天国とはかの世の理想世界
かの世には二つの概念がある
一つは精神世界 他の一つは死後世界
精神世界の天国創造は哲学の仕事 死後世界の天国については宗教の専管
この世に生きながら天国に住む
何と楽しい事ではないか
それを可能にするのが哲学
哲学によって貴方の中に精神の王国 天国が創造される
もし貴方が死後の世界に天国を望むのであれば宗教に入らねばならない
何故なら私たちは死ぬ事が出来ないから
死後の世界から帰還したと言う人たちが創造したその宗教に入らねばならない
しかし貴方はその天国を心から信じる事が出来ない 何故なら貴方は現代の子 科学の子だから
哲学とはこの世に天国を打ち立てる事 何と素晴らしい事ではないか
それは現代の子科学の子でも可能だ ただし知恵を愛する必要がある
第32章 『理想』について
私は始めて知った
理想主義なるものがある事を
私は典型的な理想主義者である
私はこの世に理想の王国を打ち立てようとしている
私が打ち立てようとしている理想の王国とは
知恵の王国
先ずは手始めに日本を知恵の王国に仕立てる
そして行く行くは世界の全ての国々を知恵の王国に仕立てる
プラトンは哲人王国の理想を描いた
彼の理想とする王国は哲学者がその国の王と成る事であった
しかし私の知恵の王国はそんなものではない
人民も哲学者 為政者も哲学者 そしてその国には知恵の光が止む事がない
世界中に知恵の王国が築かれる為に必要な事
それは人類がホモサピエンスではなくホモソフィアに成る事 それこそが革命の中の革命
第33章 『革命』について
革命とは命が革(あらた)まる事
これまでも世界各地で様々な革命が起きたが
その中で最も大きな革命とは何か
それはイエスの革命
イエスの革命でどの様に命が革まったのか
それは知恵を愛せよとに命が革まったのである
これまではごく限られた人のものであった知恵を多くの人に開放したのである
そしてイエスは叫び続けたのである「知恵を愛せよ」と
イエスの叫びは多くの人に受け入れられた
そして社会は変った
しかし世界は完全に変わる事はなかった
やはりユダヤの神を拭い去る事は出来なかった
私の訴える革命 哲学革命もイエスの革命と全く同じである
しかし私はユダヤの神を比喩に使う事はなく直裁に訴える 知恵を愛せよ普遍を愛せよと
第34章 『祈り』について
私は祈ろう この世に知恵の王国が築き上げられますようにと
祈りこそが最も強烈な意志ではないか
私は私の祭壇に知恵の王国実現の為の様々な思想を焼べる事にしよう
その思想の香りが私を越え隣人を越え地域国家を超え世界を包みますようにと
祈りとは思想を集結させるもの
そこには強い意志が必要
例えば知恵の王国が実現しますようにとか
その意志があればばらばらな思想が一つに集結する
祈りとは私と知恵と精神と心とそして思想を一つに集結させる為のもの
そこには綺麗な同心円が描かれる
精神一到何事か成さざらん
祈りとは思想を一つに集結させる為のもの
私は祈る事にしよう この世に知恵の王国が築かれますようにと
さて貴方は何を祈りますか 何か祈る事がありますか
第35章 『信仰』について
信仰とは信じ仰ぐ事
何を信じ
何を仰ぐのか
勿論神だろう
さて神とは何だろ
そこには二つの概念がある
私の神と大いなる神
アートマンとブラフマン
私たちはどちらの神に祈るのか
アートマンにかそれともブラフマンにか
勿論アートマンにである
何故ならアートマンこそがブラフマンの仲介者だから
勘の良い人なら分かって呉れたと思う アートマンの正体を
イエスやダビデは如何に祈ったか 私の主よ私の神よと その意味も分かって呉れたと思う
第36章 『平和』について
私は神社仏閣の祭壇の前で人が祈るのを見ていた
何と祈るのかを
そこで一番多かったのが平和である
家庭が平和でありますように 世界国家が平和でありますようにと
イエスの弟子たちの挨拶はこうであった
「平和がありますように」と
山上の垂訓の一節
「平和を実現する人々は幸いである その人たちは神の子と呼ばれる」
私たちは何故平和を希求するのか
それは私たちが神の子であるから
私たちが平和を心から願っている時 そこに何が臨在しているのか
それは紛れもなく神の霊であり 私の言葉に直せば知恵
「平和がありますように」
それは知恵から知恵へ その知恵の連携の中に平和が生まれ来る
第37章 『正義』について
正義とは正しくて義(ただ)しい事
この世にそんな正義があるのか
イラクの正義とアメリカの正義は同じか
同じであれば争いなど生まれないだろう
正義とは争いの手段か
戦争とは正義同士の戦いか
そして勝ったほうが真の正義となる
勝てば官軍負ければ賊軍「力は正義なり」
選挙戦
私の方が正しくて義しいのです
この世の全ての争いは正義の争いではないか
正義にはもううんざり そう思わないで下さい
正義とは知恵が正しくて義しいと認証した事
そしてその正義は連携する だから平和の中には必ず正義が存在するのです
第38章 『芸術』について
芸術とは何か
それは精神を描く事
「芸術は長く 人生は短し」
私たちの精神はこれ程までに広大なのに それを描く為の時間の何と短い事か
芸術の為の芸術 芸術至上主義
芸術はそれ程までに尊いのか
当然である
この世の珠玉は全て芸術で出来上がっている
聖書 聖典 仏典 経典 そして珠玉なる哲学書の数々
これらは全て芸術である
精神を写し取ったもの
至高なる精神をその言葉のままに写し取ったものである
芸術には様々な表現手段があるが
やはり芸術の中の芸術と言えば精神をそのままに表現する芸術 詩と言う事になろう
第39章 『詩』について
詩とは何か それは言葉のままに 精神のままにである
哲学とは知恵を愛する事
最も素晴らしい詩とはその瞬間を写し取ったもの
だから最も素晴らしい詩とは哲学詩と言う事になろう
ダビデの詩篇を知っているか
あれこそが正に哲学詩
ダビデが知恵を愛した瞬間の数々
だからこそダビデの詩篇が新約聖書の精神となった
聖書 聖典 仏典 経典
これらの数々が哲学詩である事に異議を唱える者はもういないだろう
珠玉なる哲学書
もしその哲学書の全文が貴方の精神を踊らし続ければそれは間違いなく精神の書 すなわち哲学詩である
哲学詩 これこそが詩の中の詩 芸術の中の芸術 芸術の王
抒情詩 これは感情のままに 他の芸術と並列になる 哲学詩こそが芸術の王 他の芸術は哲学詩の従僕となる
第40章 『音楽』について
音楽とは精神の芳香
私たちが知恵を愛する時 そこに楽しき音の音(ね)が漂う
仏像彫刻のその光背には何が描かれているか
ミューズの神々ではないか
貴方は純粋に知恵を愛した事があるか
そこには楽しき音の音が広がっているではないか
ダビデが如何にそれを竪琴に合わして歌った事か
旧約聖書のダビデの詩篇を見よ
音楽とは哲学詩の従僕
その意味が分かって頂けただろうか
とびっきりの音楽を楽しみたいのなら知恵を愛しなさい
そこには音にも表現出来ない素晴らしい音の音が広がっているから
もし純粋な精神作業の中で創られた音楽があるのならそれは必ず貴方を酔わす
ダビデの歌の様に オルフェの歌の様に そして孔子が肉の味を三ヶ月も忘れたと言う韶の音楽の様に
第41章 『絵画』について
絵画とは具象
最も素晴らしき絵画とは自然に似せて創られたもの
人間も自然
だから最も素晴らしき肖像画とは自然に似せて創られた人間となる
美は哲学の最初の法門
私たちは最初に自然に美を学んだ
美を体得した時 そこに詩が生まれた
そして次に絵を描きたくなった
絵は瞬間芸術
その一枚の絵の中に全てを閉じ込めなければならない
だから最も素晴らしき絵とは自然をその中に閉じ込めたものとなる
絵画は無声詩と言われる
私たちは自然に似せて創られた絵画を見る時
そこに画家の知恵を愛した過程を見る事が出来る だから絵画を無声詩とも呼ぶ
第42章 『読書』について
読書と思索と作文
この三つによって精神的人間は作られる
この中で最初に行うべき事が読書
読書によって精神が涵養され耕される ここから精神的人間が作られていく
何を読むかが大切
もし精神的人間に成りたいのであれば精神の書を読む必要がある すなわち哲学書を
哲学書とは聖人賢人哲人たちが知恵を愛した過程の書
私たちはその過程を学ぶ事に依って 私たち自身の知恵を愛する方法を学ぶ
何を読むかが大切
もし精神的人間に成りたいのであれば古代の哲学書を読む必要がある
何故ならそこに知恵が綺羅星の如く輝いているから
私たちは古代の哲学書を読む事に依って知恵とは何かを確信する
私たちは知恵をイエスにブッダにソクラテスに孔子に老子に学びたいのではないのか
知恵と知識を混同してはならない
第43章 『思索』について
古代の哲学書を読む事に依って思索が深まる
そして思索の何たるかを知る
思索とは思いの糸を手繰り寄せる事 一種の釣り
古代の哲学書を読むとどうしても思索の糸を手繰り寄せたくなる
思索とは宝探し
精神の深海に眠る宝を探す事
私たちは古代の哲学書を読む事に依って 私たちの精神の深海に知恵と言う宝がある事を知る
思索とはその宝捜し
宝探しには二つの方法がある
一つは読書であり 他の一つが作文
読書とは聖人賢人哲人たちをガイドに知恵探しの旅を楽しむ事 私たちは旅の途中知恵を発見したと思うが家に帰り着くとその知恵が消えている事に気付く
作文とはその知恵を保存する方法 その為にはもう一度自分一人で宝探しの旅に出掛けなければならない
読書と思索と作文 この三つによって哲学的人間となる
読書に思索は付随するが 作文の為には思索をフル活用しなければならない
第44章 『作文』について
読書と思索と作文
これが哲学的人間に成る為の三種の神器
読書と思索 これによって哲学的人間としての素養は高まる
そして作文によってその素養が確定する
人は絶え間なく思想し続けている
そしてその思想は際限が無い
この際限ない思想の内の大切な思想を確定させる方法が作文である
作文によって大切な思想すなわち精神が永続性を持つようになる
イエスは何故現代まで生き延びているのか そして何故指導者としてあの様に高く聳え立っているのか
ブッダは 孔子は 老子は ソクラテスは
全ては作文の為である
作文によってイエスは現代まで生き延び そして指導者として活躍し続けている
よく著作は子供に喩えられるがどうして子供であろう 私自身である
作文によって私は永遠の命を得る
第45章 『旅』について
偉大な哲学者と成る為には
読書思索作文は大切である
しかしこれにも増して大切なものが旅である
旅に依って読書思索作文は完成する
古代の偉大な哲学者と言う人たちが如何に旅をしたか
イエス ブッダ 孔子 ソクラテス プラトン等々
読書作文思索によって垣間見た知恵が旅によって自らの知恵へと変貌していく
もしブッダが旅の途中で老人病人死人を見なければ 彼には四苦八苦と言う概念は生まれなかった
旅は五感の書
旅により自然を知り人を知る
可愛い子には旅をさせろ
若者よ貴方が偉大な哲学者になりたいのなら 知恵が何たるかを知り抜いたら旅に出なさい
私は修行として千日世界徒歩旅行を勧める
ブッダが勧めそして自らも行った行脚である 世界を肌で知る事に依って貴方に偉大な哲学者と成る素地が出来る その素地の上に更に知恵を愛しなさい
第46章 『覚醒』について
覚醒とは目覚め
哲学的な用法から言えば迷いからの目覚め
人は何故覚醒剤を使うのか
迷いから目覚めたいからではないのか
実を言うと私も覚醒剤を使用している
昔のアラブの偉いお坊さんが使っていた覚醒剤である
こんな場で公表していいのか 警察が取締りには来ないだろうか
その名は珈琲
本当の覚醒は瞑想によって起きるのだろう
しかしその方法を確立していないので次善の策を講じている
先ずは机の上に顔を伏せてうたた寝をする この世に死ぬと言う事である そしてその目覚めの後覚醒剤を飲む
迷いから覚めた様な気分になる
本当の覚醒は瞑想によって起きるのだろう
しかしそれまでは覚醒剤に代行させる事としよう
第47章 『創造』について
覚醒と創造
それは瞑想と哲学と同じ事
瞑想によってこの世に死に 新たな世に生まれる
そして哲学によって新世界を創造する これが覚醒と創造 瞑想と哲学
東洋は瞑想 西洋は哲学
東洋は死んでは生まれたが 新たな世界を創造する事が出来なかった
西洋は新世界を創造したように見えたが それはやはり旧世界だった
東洋は死んでばかり 西洋は死ぬ事が出来なかった 新たな哲学は瞑想の上に成り立つ
創造とは想像
私たちはどの様な世界を望んでいるのか
無限に発展する世界か
私たちはその無限分の1を享受する為に存在するのか 何と空しい事か
人よ 目覚めよ その為にこの世に死ね
そして真に私たちに必要な世界を創造しようではないか
第48章 『人間』について
人間とは肉体と精神の子
だから私たちは人の子とも神の子とも呼ばれる
人間とは人間(じんかん)
私たちは肉体を伴って始めて人間と呼ばれる
精神でいる時 人は何の束縛も無く自由である
しかし肉の衣を着せられるや否や肉の束縛を受けるようになる
ここに二つの人種が生まれる
精神を愛し続けようとする人種と肉と仲良くやって行こうと言う人種と
前者には常に精なる神 精神が寄り添う
彼らを哲学者 すなわち知恵を愛する人と呼ぶ
後者からは次第に精神が離れて行き 終いには精神の存在を忘れてしまう
彼らをこの世の人と呼ぶ
人間としての理想 それは精神と肉体の調和
ギリシア彫刻を見よ そこには完成された人間像がある そしてそこには常にギリシアの哲学者たちが寄り添っている
第49章 『自我』について
自我とはエゴ
この世の私を生かそうとする私
肉体の声に聞き耳を立てようとする私
精神の声を押し殺そうとする私
自我に因ってこの世の私は生きている
自我が無ければ私は一日たりとも生きていけない
自我は生命維持装置
そして自我と科学は密約を結んだ それが現代
自我が叫ぶ
私を楽にして呉れと
それに科学が応答する
唯々諾々 と
現代は自我の時代
私たちは何処まで楽になれば気が済むと言うのか それは無限だから科学も無限
第50章 『肉体』について
肉体の悪魔と言う映画があった
肉体は本当に悪魔なのか
そんな事は絶対に無い
肉体とは肉の体 肉の塊
ではどうして肉体の悪魔と言う概念が生まれのか
それはまるで自我が肉体であるかの様に語るから
自我は完全なる肉体の代弁者
自我とは人間に宿った肉体の守護者
自我は決して知恵を愛する事はない
何故なら知恵を愛すれば肉の命が疎かになるから
自我とは考える私 そして知恵を愛するのも私
この二人の私が私の中で葛藤する そんな時自我を悪魔に喩えたりする人もいる
肉体を駿馬の様に扱えたら最高
そんな人は英雄ともなる しかしそこには常に知恵を愛する私と自我との絶えざる戦いがある
第51章 『欲望』について
欲望とは何か
肉の欲 肉が欲する事か
決してそんな事ではない 肉は欲する事などない
欲望とは自我
肉体は命
命が命を維持する為には命が必要となる
命は命を欲する
その声を代弁するのが自我 そしてその態様が欲望
自我は絶えず欲望し続ける
単なる肉体の代弁者だけであるだけなら自我は可愛かった
しかし自我は自ら欲望する様になり肉体をその様に飼い馴らしてしまった
そこから無限の欲望が生まれた そして科学がそれに応じた
食べたい 肉体の素直な声である
自我はそれに修飾語を増やし続けた 美味しいものを食べたい 極め付けの美味を食べたい等々 それに科学が呼応した 現代は自我の時代 欲望の時代
第52章 『差別』について
平等
それは自由と共に革命の旗頭であった
人は何故差別するのか
そして革命によって差別は無くなったか 否
人間が人間である限り差別は無くならない
何故なら人間は肉体と精神の子供だから
そこには絶えず自我が付き纏うから
自我は欲望し差別し続ける
自我は命の代弁者
命は命を欲する
命を得る為に他の命を食べる必要がある
この命は食べて宜しい それが自我の命令 その態様が差別
もし自我だけの世界だったらどうなると思う
弱肉強食 徹底した差別の世界 現代もまたそれに近いのではないか
第53章 『争い』について
何故争いが起こるのか
それは人に自我があるから
争いの系譜はこうである
自我は欲望を旗頭に差別する そしてそこに争いが生まれる 単純な系譜である
戦争と言う言葉がある
それは争いと戦い
戦いと言葉には高貴な意味合いもある 軍神マルス 正義の戦い 勇気ある戦い fight等々
しかしそれは取って付けた言葉 戦争とは常に巨大な自我と自我との争い
争いは個人だけでなく集団でも起こる
何故か それは自我が連携するから
自我は欲望を基礎として連携する
そこには必ず争いが生まれる 自我だけの社会は常に争いだけの世界
争いを止める方法 それは自我を必要最小限に止める事
その為に必要な事 それが哲学 知恵を愛する事 そして知恵の王国を築く事
第54章 『苦悩』について
苦悩の系譜は争いの系譜と同じ事
少し詳しく述べると次に様になる
人間とは精神と肉体の子
精神の守護神として知恵が寄り添い 肉体の守護神として自我が寄り添う
精神と肉体がその正しい関係 すなわち主従関係を正しく守っていれば
争いや苦悩などと言ったものは生まれては来ない
その関係が崩れる事に依って争いや苦悩が生まれる
すなわち自我が独り立ちする事に依ってこの世の苦悩が生まれる
自我は欲望を主張する
しかしこの世の物は限られる そこに差別が生まれる
俺食う人 お前食われる人 そこに争いが生じる
争いに勝ち続ければ苦悩は生じない しかしそんな事はあり得ない これが苦悩の系譜
苦悩の無い世界 平穏無事な世界が生まれる為に必要かつ十分な条件とは何か
貴方への宿題とします 前章参照の事
第55章 『感情』について
感覚と感情はどの様に違うのか
どちらも思想と言う事では同じだがその歴史に違いがある
感覚は貴方の受精の時から貴方と一緒だが
感情は貴方に自我が生まれた時からである
それは生命の歴史と人類の歴史に比す事が出来る
感覚は長年の歴史の中でオーソライズされており その権威を疑う事をしない
それに引き換え感情の歴史はあまりにも短いので何時も右往左往
感覚は無意識の思想であり 感情は意識上の思想
感情について快不快起源説がある それに倣うと
快い感情とは知恵を愛している時の感情の事となり
不快な感情とは自我に囚われている時の感情の事となる
自我はもっともっと 自我と共にある時その感情は満たされる事はない
恋とは自我に囚われている時の代表的状態
男は女をもっともっと食おうとし 女は男をもっともと食おうとするが どちらも食われない そして時に知恵が訪れる だから人は恋を止められない もし知恵の訪れがなければ誰も恋などしない
第56章 『世間』について
世間と言う世界は狭い
世間に知られずに居る事は出来ない
だから世間並みに世間体を気にしながら世間を渡らなければならない
そして渡る世間は鬼ばかり 世間苦に悩まされる
世間は牢獄
この牢獄から自由に成る為にはこの牢獄から脱出しなければならない
ブッダは出世を説いた イエスは神の国を説いた
私は知恵の王国を説こう
この中では私の知恵の王国が最もお気軽だ
この世に居ながらかの世の住人にも成る事が出来る それはこうである
この世に居る時はこの世の住人となり それ以外の時はかの世(知恵の王国)の住人となる
どうです お気軽でしょう
私たちの苦悩は世間に囚われている事から起こる
世間をきっぱり切り離せば そこには自由な世界すなわち哲学界が広がっている
第57章 『人生』について
人生を如何に生くべきか
人間は精神と肉体の子
であれば精神を最高度に発揮し肉体を最高度に発揮する事 それが人の生きる最高の道なのではないか
かのギリシア哲学の様に そしてかのギリシア彫刻の様に
精神を最高度に発揮し 肉体を最高度に発揮する為には一つの条件が必要である
それは精神と肉体が主従関係を結ぶ事
肉体は常に精神に付き従う その代わり精神は肉体を労わると言う
これによってかのギリシア彫刻の様な人間が生まれる
ギリシアにヘラクレスと言う英雄が居た
彼こそが精神と肉体を最高度に発揮した人間である
だから彼は人間でありながら神として祭られた
人は神の子であると共に人の子 だから肉体も鍛えなければならない
健全なる肉体に健全なる精神が宿る
肉体を精神の奉仕者とする為の学問 それが倫理学である
第58章 『行為』について
行為に依って精神が発現される
「主よ主よと言う者が皆 天の国に入る訳ではない
天の父の御心を行う者だけが入るのである」
私たちは行為に依って人の子と共に神の子と成る
マザーテレサと言う人物が居た
彼女は死後間も無く聖人に列せられた
数々の奇跡を行ったと言う理由で
その奇跡とは隣人を愛したと言う行為
この事例に依って隣人を愛する行為が如何に難しいかが分かる
奇跡と言う位に
神を愛する事はある程度易しい
しかし神を愛する様に人は愛する事はこの上なく難しい
心を尽くし精神を尽くし思いを尽くして貴方の神である主を愛する事 そして隣人を自分の様に愛する事
この行為によって人は聖人になる
第59章 『徳』について
倫理学とは徳を学ぶ事
徳とは何か
知恵を愛する様に人を愛する事
それの何と難しい事か
哲学には三つの部門がある
一つは形而上学または純粋哲学 知恵(神)を学ぶ
二つ目は論理学 自然を学ぶ
三つ目が倫理学 人間を学ぶ もっと端的に言えば人間を愛する方法を学ぶ
この三つの中でもっと難しいのが倫理学
何故なら倫理学を完全にマスターする為には形而上学と論理学をマスターした上で「徳」と言う実習科目をマスターしなければならないから
それの何と難しい事か
貴方の肉体の悪魔 自我を完全に貴方の配下に治めなければならないのだから
聖人と言う人たちがいる
彼らは哲学三部門をマスターした上に「徳」と言う実習科目を完全にマスターした人たちの事である
第60章 『勇気』について
徳にはどれ程の種類があるのか
煩悩が百八あるのだから徳の数もそれ程あるのだろう
しかし今回はそれを数え上げる事はしない
今回はその中から勇気を取り上げる
勇気こそが全ての徳の中で最も高貴な徳である
勇気こそが徳の中の徳 徳の王
勇気によって全ての徳が全うされる
勇気に全ての徳が従う
勇気とは何か
一言で言えば 知恵を行為に移す事
それの何と難しい事か その為には自らの自我を打ち負かすと共に相手の自我も組み伏せねばならない それはまるでヘラクレスの戦いの様
イエスはそれを何と自然に遣ってのけた事だろう
勇気の為に必要な事 それは祈り
イエスであれば神の王国が実現します様にであり 私の場合であれば知恵の王国が実現します様にとなる
第61章 『忍耐』について
忍耐とは勇気に従う第一の従者
忍耐とは勇気の道筋を整えるもの
忍耐によって勇気が力を発揮する
忍耐は勇気の為に全ての徳を束ねる
勇気によって知恵が行為となる
勇気が無ければ知恵は実現しない
勇気こそが徳の中の徳 徳の王
そして忍耐はその徳を統べる
忍耐は全ての徳の教育係り
忍耐によって徳が力を得る
忍耐によって節制が力を得 忍耐によって寛容が力を得 忍耐によって諸々の徳が力を得る
忍耐は全ての徳の教育係り
最も素晴らしい徳は勇気 何故なら勇気によって知恵が行為となるから
そして忍耐は勇気に従う第一の勇者 忍耐は勇気の道筋を整えるもの 忍耐とは荒れ野の叫ぶ者の声「主の道を整え その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ者の声
第62章 『中庸』について
中庸の徳と言うものがある
これこそがこの世を渡って行く為の最高の徳である
この世とかの世の真ん中を 肉体と精神の真ん中を
裁判官の様な徳である
右にも左にも振れない
この徳の道を真っ直ぐに歩めば何処に行く
自分の目指すその目標に
中庸の徳こそが自己実現の最も近道
私の様に知恵を愛せよ哲学に励めよと言えば煙たがれるし
また科学一辺倒でも同じ様な事
哲学とも言わず科学とも言わず唯我が道を行く
傍目には聖人君子の様に写る
中庸は調和の徳
この徳に依って人は最高級の哲学者と成る
第63章 『愛』について
愛こそが全てを覆う
愛こそが快楽の原点
愛無しには如何なる快楽も生まれない
愛の無い世界は苦痛の世界
愛とは快楽に向かおうとする志向
この世は愛に満ちている
要は如何なる愛に向かうかと言う事である
愛はアガペーからエロスまで
アガペーとは精神的愛 エロスとは肉体的愛
人を愛する 勿論そこにもアガペーがありエロスがある
エロスに立脚すれば一人の人しか愛する事しか出来ない
しかしアガペーに立脚すれば全人類をも愛する事が出来る
先ずはエロスから始め そしてアガペーで完成させる
これが愛の道
第64章 『家族』について
家族とは何か
そこは愛の実践の場
エロスに始まりアガペーで完成する
しかし愛の家族がこの世にどれ程在ると言うのか
家族の始まりは何処にあるのか
勿論結婚にある そこはエロスの場
結婚にエロスが無ければどうして家族が生まれよう
子供が生まれて始めて家族が成立する
もし父と母が哲学者 すなわち知恵を愛する人であれば
そこには天国の概念が生まれる
その家族に生まれた子供は天国を憧憬する
そしてその子供たちが父となり母となり天国が承継されていく
愛の家族の実現の為に必要な事 それは夫婦となるべき人が哲学の子である事
愛の家族の実現 そこからこの世の天国 知恵の王国の第一歩が始まる
第65章 『結婚』について
結婚 そこには神秘がある
精神と肉体の結婚によって人間が生まれた
私と知恵の結婚によって言葉が生まれ世界が生まれた
それでは哲学者の男と哲学者の女との結婚で何が生まれるのか 愛の家族
私たちは何の為に結婚するのか
欲望の為にか 経済の為にか 家事の為にか そして肉体と精神の安定の為にか
そうこれら為にするのがこの世の結婚
そしてこれらの結婚によりこの世が再生産されて行く
貴方は結婚に何を望むか 愛の家族!
であれば先ずは哲学すなわち知恵を愛する事を学びなさい
そして知恵を愛する事を学んだら知恵を愛する人と結婚しなさい
私は保証する そこに愛の家族が生まれる事を
愛の家族の中から 人の子であると共に神(知恵)の子である子が生まれる
その子は貴方方両親の誉れであると共に知恵の王国実現の道先案内人となる
第66章 『子供』について
さて貴方方は結婚によって晴れて夫婦になった
貴方方の成すべき事は何か
そう人の子であると共に神の子である子を生み育てる事
であれば私がエロスを差し上げよう その快楽により先ずは精神の快楽の子を生みなさい
子供はこの世の宝
この子供たちによって新しい世界が創造される
もし貴方方が新しい世界 この世の天国とも呼ばれる知恵の王国を見たいのであれば 善き子供たちをこそ生みなさい
善き子とは誰の子か それは神の子であり 知恵の子 その為には先ず貴方方が哲学者とならなければならない
この世の宝である子供たち
この子供たちにどんな教育を施そうか
神(知恵)の子となる為以外の如何なる教育があろう
哲学者たる大人たちよ 哲学一貫教育を実現させようではないか
子供たちによって新しい世界が創造される
哲学者たる大人たちよ 知恵の子を生み 知恵の子を育てる為に一生懸命になろうではないか
第67章 『教育』について
教育とは何か
平凡社百科事典によるとeducationの語源educatio(抽き出す)にあると言う
何を抽き出すのか
知恵以外の何があると言うのか
これまでの教育の間違い
それは知識を与えるとの思い込み
この思い込みによって如何なる弊害が生じたか
それは知恵の黙殺であり知識の増長
現代を見なさい
知識万能の時代ではないか
知識こそがこの世の力 知識はこの世の万能手形
皆が知識へ知識へと靡く
私が唱える教育とは哲学一貫教育
この教育によって日本が知恵の王国となる
第68章 『環境』について
自然環境 社会環境 生活環境 家庭環境 教育環境 職場環境等々
私たちは環境によって作られる
今私たちに求められているのは如何なる環境を作るかと言う事
もしこれらの環境が虹の様な同心円で描かれたら貴方はどう思う
私は先に私と知恵と精神と心と思想と肉体の同心円の事を説いた
もしこれらが綺麗な同心円を描けばそれは聖人と一緒だと
精神一到何事かなさざらんと
環境もこれと全く同じ事
全ての環境の中心に私がいる
そしてその私に知恵が寄り添い 精神界を形成し
その精神界を中心に家庭 生活 社会環境等々が形成され それらを全部包んで自然環境が形成され そしてそれらを全部包んで世界と言う環境が形成される
私と知恵が素晴らしい精神界を創り上げれば その他の環境も自ずから素晴らしいものとなり その結果として素晴らしい世界が創造される事になる
What a wonderful world 何と素敵な世界 それは私と知恵によって創られる世界
だから私は言うのである 素敵な世界を創り上げたいのなら 哲学一貫教育が必要であると
第69章 『生活』について
生活とは生き活きと生きる事
その為に必要な事は何か
快楽
何故なら快楽こそが全ての生きとし活ける者の活力源だから
私たち人間は精神と肉体の子
精神も快楽を求め 肉体も快楽を求める
精神の快楽も無限 肉体の快楽も無限
さて私たちはそれを如何に按分すべきか
理想の生活人
彼は精神の快楽の為に全ての肉の行為を従事させている
そしてその肉の行為によって隣人を楽しいませている
理想の生活人 彼は知恵を愛する者であると同時に知恵を愛するように隣人を愛する者
全ての哲学の黄金律 知恵を愛しなさい そして知恵を愛する様に隣人を愛しなさい
これが当然に生活の黄金律ともなる 何故ならそこにこそ精神的快楽の源泉があるから 人は快楽によって行為する
第70章 『習慣』について
習慣とは習い慣らう事
何に習い何に慣らうのか 最初は父母に
もし父母が哲学者すなわち知恵を愛する人であれば 彼は生まれた時から 知恵を愛する事を習い 知恵を愛する事に慣らう事になる
彼は生まれた時から知恵を愛する事が習慣となる 何と素晴らしき事か
私たちは今哲学一貫教育を実現させようとしている
これから父母と成る人よ すなわち全ての若者よ どうか哲学者と成って下さい
私がこれから哲学者と成る為の方法を伝授します
哲学者と成る為の方法 これも全て習慣です
先ずは一週間の時間割を決めて下さい
起床就寝出社帰宅その他諸々の生活時間を決め込んで下さい
そしての残りの時間を哲学すなわち知恵を愛する時間に充てるのです
そうすれば貴方は必ず哲学者になります 知恵を愛さずにはおれなくなります
若者よ 貴方が哲学者に成った時
そこからこの日本が哲学の王国(知恵を愛する国)へと変っていくのです
第71章 『勉強』について
勉強とは勉めて強いる事
何を勉めて強いるのか 肉体を
何の為に 精神の為に
勉強とは精神の為に肉体を勉めて強いる事
一般的に勉強と言えば学校時代の学習の事を言う
それでいい
要は何を学習させるかである
学習の第一目標 それは精神の為に肉体を勉めて強いる事を学ばせる事 ヘラクレスの様に成る為に イエスの様に成る為に
しかし子供たちはこの世の事を知らない
国語数学理科社会音楽美術技術家庭体育道徳等々
先ずはこれらの学問によってこの世の事を教えてあげる
そしてこれらの基礎の上に精神を飛翔させてあげる
「学びて思わざれば則ち罔し 思いて学ばされば則ち殆し」
子供時代に勉めて強いてこの世の事を学ばせる そしてこの基礎の上に大いなる哲学者と成って貰う これが勉強の意義
第72章 『仕事』について
仕事とは仕え事
何に仕えるのか
先ずは神(知恵)にそして隣人に
仕事によってこの世は素晴らしい世界に成る筈であった
ところが現実はそうはならなかった
何故か
それは私たちが知恵ではなくて自我に仕える事になったから
その為に仕事は増えた 無限大に
私たちの欲望は止まる事はない
その欲望の数だけ仕事が増えて行く
仕事の為の仕事
科学がそれに加担した
私たちはここらで自らの仕事の事を考えて良いのではないか
果たして私の仕事は必要かと もしそう思ったのなら知恵に仕えなさい きっとそこに貴方の仕事がある
第73章 『恋愛』について
恋愛とは男女の愛
これは普遍の愛であり亡くなる事は無い
恋愛によってこの世が創造ざれていった
生めよ 増やせよ 地に満てよと言いつつ
しかし私は現在の日本の恋愛を断罪する
もしそこに生殖を伴った行為があったとしたらそれは結婚しなければならない
もし生殖を伴う行為を行いながらその生殖を防ぐ手立てを講じつつ恋愛を続けているのであれば 私はその恋愛を見下げ蔑む
何故ならそれは肉体の快楽以外の何ものでも無いから
私は決して恋愛を否定しているのではない
むしろ推奨する 恋愛によって人は天国へも昇る事が出来る
かのダンテ神曲を見よ
しかしそれはプラトニック(純愛)である限り
恋愛に生殖を持ち込んではならない 私はそれを断罪する
現在の日本はあまりにも女性の純潔を見下げている
第74章 『友』について
真の友とは如何なる友か
それはアガペーに基づく友
それは時空をも超える
私たちはイエスを ブッダを ソクラテスを 孔子を友とする事が出来る
現実的な友とは如何なる友か
それはエロスに基づく友
遊び仲間 飲み仲間 仲良しこよし カラオケ仲間
肉がなければ成立しない
エロスからアガペーへ
これが友の成長段階
子供の時は皆エロスの友 肉の交わりにより成立する
しかし大人になるにつれて肉を落とし精神への交わりへと昇華していく
私の理想とする世界 知恵の王国では皆がアガペーに基づいて交わっている
それは哲学革命後の世界 友よそんな世界は嫌かね
第75章 『家庭』について
家庭生活
家庭は生活の場である
そこには社会の全ての営みがある
家庭は国家の縮図
もし家庭が天国の様であれば その国家も天国のよう
家庭が天国の様に成る為に必要な事 それは知恵
私と知恵により精神界が形成され それを核に私と言う人間が生まれる
そしてその私を核に家庭が生まれる
家庭の構成要因
それは父と母と子
彼らは皆 知恵の子
知恵は連携する どうです 知恵の王国が出来上がったでしょう
さあ哲学者の皆さん
先ずは貴方の家庭を知恵の王国の見本としてこの世に差し出して下さい
第76章 『現代』について
現代とは何か
それは今私が生きている時代
現代は何時の時代にもあったか
私はそれに対してはノーと言いたい
こんな時代は嘗てはなかった
しかし今後はある
そしてその現代に未来はない
私たちがその現代に泳ぎ疲れた時 人類も消滅する
地球は後何億年も存在するのだろうが
人類消滅の時はそれ程先の事ではない
この現代が続く間に 多分人類は消滅する
私たち現代人が人類消滅の時を視る
現代とは何か それは欲望と自我の時代 そして際限の無い科学の時代
もし人類存続を夢見るのであれば ホモサピエンスからホモソフィアに成る必要がある
第77章 『情報』について
情報とは情の報
情報は私たちの感情を掻き立てる
新聞がテレビが雑誌が新刊書がインターネットが
休む事無く私たちの感情を掻き立てる (ストップ ザ 情報)
現代は情報の時代 科学の時代 欲望の時代
この三つが黄金のトライアングルを描く
情報を遮断しない限り
私たちはこの魔の三角から抜け出る事は出来ない (ストップ ザ 情報)
試みに情報を一切遮断して御覧なさい
そこには大いなる世界が広がる
イエスは私たちに何と忠告した「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めて」と
何故ならそこに大いなる世界が現出するから
情報に追われ続ける限り 私たちは知恵に回帰する事は出来ない
情報の遮断 そこに哲学者への道があり 知恵の王国実現の鍵がある
第78章 『大衆』について
大衆とはマス
情報により作られた人間の大集団
情報が右を向けと言えば右を向き 左を向けと言えば左を向く
もし大衆に成りたくないのであれば 情報を遮断する必要がある
哲学者と大衆
哲学者とは知恵を愛する人
大衆とは情報を愛する人々
大衆は情報無しには生きていけない
哲学者も大衆も連携する
哲学者は知恵により連携し 大衆は情報により連携する
哲学者は常に同じ方向を目指す すなわち知恵の王国を
大衆は情報の赴くままに右往左往 彼らは戦場へも赴く
哲学者よ 貴方は哲学者に成りたいですか それとも大衆に成りたいのですか
哲学者よ この辺りで一度哲学者同士連携してもいいのではないですか
第79章 『都会』について
花の都 東京 ♪
人は都会へ都会へと靡く
何故か
それは都会が快楽の都だから
都会は招く 欲望で欲望を
人は欲望に魅せられ
そして欲望から抜け出せなくなる
人は欲望に塗れながら都会をさ迷う
都会は欲望の街
こんな街から抜け出せる者がどれ程いる事だろう
田舎は天国 都会は地獄 ♪
こんな歌を歌いながら都会から抜け出せる者がどれ程いる事だろう
現代日本においては津々浦々まで欲望の街になってしまった
こんな欲望の街において自然人であり続ける事が出来るだろうか 都会人対自然人
第80章 『政治』について
政治は権力の行使
この権力を如何に行使するかによって政体が決まる
もし一人の人が自分の為に権力を行使すれば独裁政治
この権力を民衆が行使すると言うのであれば民主主義
現代においては民主主義がもっと素晴らしい政体である と誰もが言う
この政体に異を唱えればそれこそ総すかんを食う
しかし果たして民主主義がもっと素晴らしい政体なのだろうか
もっともっと素晴らしい政体があるのではなかろうか
貴方は聞くのか それがどんな政体かと
それでは答えよう
哲学者の哲学者による哲学者の為の政治 すなわち哲人政治であると
哲人政治とは知恵を愛する事によって知恵が花開く世界の事 それはイエスの唱えた神の王国と同じ事
民主主義政治のその先にあるのは 衆愚政治 自我と欲望の世界
哲人政治のその先にあるのはこの世のユートピア 知恵の王国
第81章 『経済』について
経済とは「経国済民」「経世済民」
弱きを助け強きを挫く
経済こそが真の政治
果たして現在の日本経済はその機能を果たしているのか
経済とは所得再分配
現在の日本経済の所得再分配法則は強きを助け弱きを挫く 弱肉強食の法則
強き者は更に強く 弱き者は更に弱く
生活保護も当てにさせないぞ
何時から日本はこんな経済になったのか
嘗ては皆中流と言う時代があったと言うのに
弱肉強食 徹底した競争原理の導入
これらを成したのは昭和生まれの哲学なき政治家たち そしてその傾向は更に続
く
弱きを助け強きを挫く「経世済民」 真の経済を望むのなら
哲学者よ 貴方たちが政治家に成る必要がある 哲人政治事始
第82章 『社会』について
社会とは社(やしろ)の会
社こそが社会の原点
現在の日本に社があると言うのか
社とは「神を祝い祭る斎場」(広辞苑)
現在の日本社会は都会社会 欲望社会
現在の日本には社が亡くなってしまった
現在の日本において社の代わりをなしているのが欲望と自我 それに科学が加担している
現在の日本社会において欲望は止む事は無く増大し続ける
言霊の幸ふ国
それは嘗ての日本の呼称であった
嘗ての日本においては社を中心に言霊が幸ほっていた
言霊の幸ふ国日本と知恵の王国日本は同じ事 温故知新 故きを温めて新しきを知る
哲学者よ 今こそが哲学革命の時
哲学者よ 私と一緒に事を起こそうではないか 知恵の王国の実現に向けて
第83章 『法律』について
法律とは「国会の両議院が可決して成立する法の一形式」広辞苑
果たしてこの日本にその法律が幾つあるのか 1800弱
もしそれらの全条文を見たいのなら 「電子政府の総合窓口」の法令検索を見なさい
貴方はその法律を全部読むのに丸一年かかるでしょう 一日に5つの法律を読むとして
法律は何の為にあるのでしょう
国民の為でしょうか
私たちはその法律の一つもろくに知りません
しかしこう言われます「法律を知らなかったでは済まされないと」
一体法律とは何の為にあるのでしょう
私がずばりお答えしましょう
それは官僚の為にあると
法律とは官僚機構を維持するため手段 お墨付きであると
もし貴方が究極の知恵の王国の住人に成ったのであれば
その住人に必要な法律の条文はこれだけです「知恵を愛しなさい そして知恵を愛するように人を愛しなさい」
第84章 『体制』について
体制とは「社会組織の様式 社会を一個の有機体に見立てて言う」広辞苑
嘗て共産主義体制と言う体制があった
それは理想の体制の様に思われた
しかし脆くも崩れ去ってしまった
現在のこの世界の体制は資本主義体制
それは拝金主義 欲望社会
欲望の為なら何でも許される社会
大量殺人も許される 資本主義となってからの戦争を見よ
資本主義体制は自我に基づく社会
欲望を基礎とし 差別を基礎とし 争いを基礎とする
アメリカを見よ
もし貴方が争いの無い社会を望むのであれば哲学主義体制を望まねばならぬ
自我と知恵の争い
資本主義社会体制の後に来るのは哲学主義社会体制 それは知恵の王国の事
第85章 『国家』について
国家とは何か
それは世界を分割する方法
世界地図を見て御覧なさい
そこには綺麗に色分けされた国家がある
国家はどの様にして成立したのか
それは自然と風土と民族言語宗教文化歴史等々の絡み合いの中で成立してきた
最も自然な形で成立した国家が最も安定した国家となる
日本はそう意味では最も安定した国家の一つである
日本はまた先進国家でもあると言われる
先進国家でもありまた最も安定した国家に住む我々日本人はこの日本国国家に満足しているのか
何かが足りない? 私が教えてあげよう それが大和魂であると
やはり第二次世界大戦の断絶は大きかった 初めての敗北により日本は大和魂を失くしてしまった
大和魂 それは国家を愛する魂 その魂の基礎は家庭にある そして私自身に
知恵への回帰 そこから新しい大和魂が生まれる 知恵の王国日本に向けての一考察
第86章 『日本』について
言霊の幸ふ国 日本
嘗ての日本には言霊が飛び交っていた
現在の日本に飛び交っているのは情報と言う知識
知識と知恵 この差はあまりにも大きすぎる
言霊の幸ふ国日本と知恵の王国日本は同じ事
私はこの日本を知恵の王国とする為に哲学革命を起こす
哲学革命とは知恵を愛する事に依ってこの世の命を革(あらた)める事 この世の命が知恵へと向かう
イエスがかの地で革命を起こした様に 私は今この日本でその革命を起こす
日本にはそう言う素地がある
「言霊の幸ふ国 日本」
それが何時の時代だったかは知らない
しかしその言葉を信じてこの日本に哲学革命を起こす 知恵の王国実現に向けて
さあ心ある哲学者よ 先ずは私と一緒に行動しなさい 貴方方の子孫の為に
哲学者よ 知恵の王国を思い描きなさい それが貴方の知恵の王国日本だ!
第87章 『風土』について
風土とは風と土
風によって風俗が生まれ
土によって土俗が生まれ
そして風土により民族が生まれた
風土は民族の養い親
砂漠には砂漠の民を養い育て この日本では日本民族を養い育てた
日本の風の何と彩り豊かな事か 温風微風薫風冷風涼風寒風北風南風東風西風秋風春風順風松風等々
そして日本の土の何と豊穣な事か
貴方方の祖先はこの風土に養い育てられた
しかし貴方方は違う
貴方方は欲望の街都会に生まれた都会子
貴方方都会子には風も土も縁が亡くなった 何故なら土が無ければ彩り豊かな風は吹かないから
貴方方は風土に見捨てられ そして自然を捨てた
この日本民族にどんな将来があるのか このまま更に欲望の街を突き進むのか
第88章 『民族』について
民族と言語と宗教
それは同じ数だけあった
アマゾンの未開地域を見よ
そこには民族の数だけ 言語と宗教がある
嘗ての日本もそうであった
しかしここに朝鮮民族が渡来して一気に日本を統一した
そして歴史の書により日本民族が生まれた
誰も歴史の書 すなわち文字が生まれる以前の日本の事を知る事が出来ない アマゾンの未開部族が百年前の事を知る事が出来ない様に
最も歴史の古い民族とは ユダヤ
彼らは数千年も歴史を遡る事が出来る 神と人間の起源まで
ユダヤ民族は散々に散らされた
それでも彼らは歴史を継続する その固有の言語と宗教で
さて貴方に聞こう この日本に日本民族と言うものが存在するのかと
多くの者がこう答えるだろう 私は日本人だが日本民族ではない と 何故なら日本民族と答える為に必要な事が言霊 大和魂だから
第89章 『言語』について
言語とは言(ことば)を語る
言とは「言は神と共にあった 言は神であった この言は初めに神と共にあった 万物は言によって成った」と言う言である
この言を語る為に言語が生まれた
言語の起源を突き詰めれば神に至る 神を語る為に言語が生まれた
貴方はバベルの塔の神話を知っているか
嘗ては世界中皆同じ言葉を使っていた
彼らはその言葉を使って協力し 天まで届く塔を建てようとした
それが届きそうに成ったので 神も恐れをなして言葉を混乱(バベル)させた
言葉の力は凄い
もし世界中同じ言葉を使っていたら 人は秩序の塔によって天まで届き得た
しかし神はそれをお望みに成らなかった
何故か
その混乱した言語により民族が生まれ宗教が生まれた
そしてその民族によりその宗教により争いが生まれている 神は何をお望みになったのか
第90章 『宗教』について
宗教とは宗(みたまや)の教え
嘗て人は社(やしろ)に集り 御霊屋で教えを受けていた
そこには言霊が咲き誇っていた
「言霊の幸(さきはう)国 日本」とはそう言う時代の事
しかしバベルの塔の崩壊の頃から 言語が乱れ民族が乱れ宗教が乱れた
神は憐れんで 神からの使者を二回に分けて送った
一回目は紀元前5世紀の頃 その頃の使者はブッダ ゾロアスター 孔子 老子 ソクラテスたち 彼らは地を均した
そして二回目がイエス・キリスト 彼によって宗教が再統一される筈であった
しかし現況はご覧のとおり
彼はやはりユダヤの神を引き摺ってしまった
そして今ここに新たな宗教が開かれようとしている
その宗教のその先にあるのが知恵の王国
その宗教はこう説く
「自らの社に集い 自らの御霊屋で 知恵から直接教えを受けなさい」と そしてその知恵の連携により知恵の王国を築き上げなさいと
第91章 『文化』について
文化とは文(ふみ)に化し 文(あや)に化す
何を文(ふみ)に化し 何を文(あや)に化すのか
勿論思想を 思いと想いを
私たちは文化によってその時代のその地域の精神を読み取る事が出来る
さて現代日本は如何なる事を思い想っているのか
先ずは文(ふみ)の代表 文学を見てみよう 何と言う貧困なる精神よ
次に文(あや)の代表 美術を見てみよう これまた貧困なる精神よ
現代日本は何を思想しようとしているのか 物欲か自我か欲望か
現代日本人は自然を忘れてしまった
それが故の貧困である
何を文(ふみ)に化し 何を文(あや)に化すのか
知恵をと高らかに言い切る者は一人もいないのか
哲学者よ これからは貴方の時代だ
貴方の知恵を文(ふみ)に化し 文(あや)に化しなさい 哲学者こそがその時代その地域その民族のメルクマールである 哲学者よ これからが貴方の時代だ
第92章 『歴史』について
歴史は文(ふみ)に始まる
日本の歴史は古事記に始まった
日本の歴史は皇統記
その歴史の何と連綿としている事よ
天皇はメルクマール 目印
私たちは天皇を繋ぐ事に依って日本の歴史を読み取る事が出来る
試しに昭和天皇を呼び出してご覧なさい
そこには郷愁の昭和がある そして明治天皇には凛とした明治が
学校で学ぶ歴史を見てご覧なさい
そこでは天皇が黒く塗り潰されている
私たちは断絶の日本史しか読み取る事が出来ない
もし大和魂を復活させたいのなら 先ずは初代天皇から今上天皇までの元号を覚えさせる必要がある 何故ならそこに彩り豊かな日本があるから
言霊の幸ふ国 日本 その言霊は天皇により引き継がれている
先ずは元号に学びなさい そこに日本の精神が込められている
第93章 『地球』について
我が故国地球 この地球を如何に見よう
私は一万年の旅から今帰って来る所である
何と言う地球の青と白と緑のコントラストよ
そこにはもう嘗て現代と言っていた頃の文明は無い
人類は滅亡したのか
私は目を凝らした
そこはまるで天国の様 そしてそこに確かに人類が居た
私は彼らに聞いた 貴方たちは誰ですかと 彼らは答えた 私たちはホモソフィアですと
私は聞いた
嘗ての現代と言う時代に居たホモサピエンスはどうなったのですかと
彼らは自我と欲望の果てに消滅してしまいました この地球を食い潰した果てに
しかしホモサピエンスの中で哲学者と言う人たちだけが生き残りました 私たちはその子孫ですと
おお 何と素晴らしき一万年後の地球よ
確かにそこに人類が居た しかしそこはホモソフィアの世界だった イエスが夢見た世界であり 私が夢見た世界だった
第94章 『自然』について
自然とは自ずから然り 無為自然 東洋の思想だった
西洋は自然を屈服させようとした 科学の世界
西洋が東洋を圧倒した
そしてこの世界は科学の世界と成った 現代と言う時代の様相
科学は止む事が無かった
科学は自然を食い尽くしていった
自然が有限とも知らずに
科学は崖っぷちに立った 食い物が亡くなったと
そして自然とホモサピエンスは消滅して行った
これがホモサピエンスの成れの果て
科学は自然を食い尽くそうとしたが結局自然に食い潰されてしまった
ホモサピエンスの因果応報の成れの果て
そして立派な自然が残った
その自然を楽園に無為自然の哲学者たちがホモソフィアの世界を再生した 言霊の幸ふ世界を
第95章 『宇宙』について
宇宙とは有限か無限か
その概念の中に神の概念が入ってくる
科学者たちは有限だと言う そして様々な理論を打ち立てようとする
その理論の何と笑うべき事か 一万年後の世界から来た私に取って
私たちは笑う
紀元前の科学者たちの宇宙観を
現在の科学者たちのしている事も同じ事
私たちは決して神に成る事は出来ない
宇宙に始まりがあり終わりがあるのか
私たちはそれをどうやって想像しようと言うのか
ビッグバンか お笑い草ではないか
宇宙を考える時 哲学者は敬虔に成らざるを得ない
敬虔な哲学者カントも「我が上なる星空」を見てこう思ったのだろう
宇宙の果ての果てと言うものがあるのだろうか そして宇宙の始まりと言うものがあったのだろうか 確かにロマンを掻き立てる しかし現秩序で満足すべきではないか と
第96章 『世界』について
世界と宇宙
その境界を定めなければ世界論が宇宙論となってしまう
世界とは私たちが立脚しているこの世界
現実的に言えばこの地球と言う存在であり この地球上に起こる全ての事となる
私は第1章から順次この世界を眺めて来たが
この世界は私に取って満足すべき世界だったのだろうか
それに対する答え
私のこの世界は現在生成中 そして私によって如何なる世界にもなる事が可能と それが私の感想
この世界は私の誕生の時から生まれた
私の誕生と共に知恵が寄り添って呉れた
私は知恵の事を知らなかったが知恵は私に常に寄り添って呉れた
私はある時知恵を知った そこから私と知恵の二人三脚の世界の再創造が始まった そしてそこには常に言葉が従った
世界とは私と知恵の二人三脚で生み出す言葉の世界
もしその言葉の世界が真善美に溢れた世界なら理想世界と言う事になる
第97章 『法』について
法とは秩序
この世のものの全ての秩序
その秩序の根源をと問われれば神と言う事になる
神以外に如何なるものがこの世の全ての秩序を保つと言うのか
勘違いしないで欲しい
ここで言う法とは秩序の事であって 法律の事ではない
宇宙にも法則があると言うのであれば その法も含む
しかし私はここで言って置こう 人間の分際で宇宙の法など考えるなと
法によって私たちは行動し考えている
この法を根源に近い所で捉えれば 私たちは自由になる
「真理は貴方を自由にする」
法と真理は同じ事なのか
「道生一 一生二 二生三 三生万物」ここに法の根源がありそう
道が神で 一が法か それとも道が神でありかつ法なのか だとすれば一は何か そして二は 三は
第98章 『時間』について
貴方はカーラと言うインドの神を知っているか
この神はこの世のものを全て残らず飲み尽す
この世のものはこの神から逃れる事は出来ない
この神の正体は時間 であれば時間こそがこの世の法か
確かに時間はこの世のもの全てを統べている
もし時間が無ければこの世のものは何一つ存在し得ない
例えば現在の地球宇宙がそのままの空間であるとしよう
しかしそこに時間が無ければ現在の地球宇宙は存在し得ない
カーラは全てのものを飲み干すと共にこの世のものを生み出しているのか
であればカーラこそがこの世の法か
宇宙と言う空間も時間が存在したから存在しえたのではないか
では聞こう カーラは何時カーラを生み出したのか
全てのものの根源に還る時
私たちは神と言う概念に突き当たる 神とは何か 第100章で答えたいと思う
第99章 『普遍』について
この世に遍く存在するもの
それは時間と言う法なのではないか
時間が無ければこの世のものは何一つ存在し得ない
だが聞こう かの世にも時間が存在するのか
かの世に時間が存在するか否か
これによって普遍の概念も 法の概念も変ってくる
時間はこの世の支配者かも知れないが
かの世に時間の支配が及ばないのであれば 新たな支配者の概念が生まれて来る
この世にもかの世にも遍く存在し法王としての権限を保つもの
そんな支配者が居るとしたら誰か
人間はこの世もかの世も含めてそんな偉大なる指導者を思い描いてきた
そして嘗ても在り今も在り今後も在ると言う存在として 神と言う概念を育ててきた
しかし現代においてはこの神と言う概念を捨てようとしている
かの世はあるのか 結局はかの世を如何に思想するかによって神の概念が変ってくる
第100章 『神』について
「我思う 故に我あり」
私とは考える存在である
私が居てこの世界がありそして宇宙もある
私が居なければ ひょっとしたら神は存在しないのではないか
これが現代の考え方である
そして私の考え方でもある
しかし私は神に憧れている
私が考える存在としてこの世に生まれた以上 私を含めこの世の全てを統べる何者かが存在するのではないか
私は私の及ぶ限り考えた
そしてその考えの先にその者が存在した
ダビデやイエスが主よ我が神よと呼びかけたその存在である
ソロモンはそのもの事を知恵とも呼んだ
私たちは知恵を通じて総宇を知る
知恵こそが私の神であり その神を通じてこの世かの世の全ての秩序(法)を知ろうとする そしてその思想の及ぶ限りの先に立って理想の世界を眺めた時にそこに存在する法の体系が神と言う存在なのか知れない
だから結局神とは考える存在の私が生み出すものなのかも知れない と
あとがきに代えて『哲学革命』
哲学とはphilosophia 知恵(Sophia)を愛する(philo)事
哲学革命とは知恵を愛する事に依ってこの世界を変えていこうとする革命です
知恵とは何か
そこには様々な意味合いがあります
一般的に言えば知恵袋とかおばあちゃんの知恵と言った所でしょう
これはまた生活の知恵と置き換えられる事も出来るでしょう
私の言う知恵は勿論これらの事も含みますが
もっと大きな概念があります
私の言う知恵を最も端的に現しているのがソロモンの知恵です
ソロモンの知恵は旧約聖書「箴言」に鏤められていますが
最も端的に言い表しているのが箴言の第8章です
知恵が呼びかけ 英知が声を上げているではないか
高い所に登り 道のほとり 四つ角に立ち
城門の傍ら 町の入り口 城門の通路で呼ばわっている
人よ 貴方に向かって私は呼びかける 人の子らに向かって私は声を上げる
浅はかな者は熟慮する事を覚え 愚かな者は反省す事を覚えよ
聞け 私は指導者として語る 私は唇を開き 公平について述べ
私の口は誠を唱える 私の唇は背信を忌むべき事とし
私の口の言葉は全て正しく よこしまな事も曲がった事も含んでいない
・・・・・・・・
私は知恵 熟慮と共に住まい 知識と慎重さを備えている
主を畏れる事は悪を憎む事 傲慢 驕り 悪の道 暴言を吐く口を私は憎む
私は勧告し 成功させる 私は見分ける力であり 威力を持つ
私によって王は君臨し 支配者は正しい掟を定める
・・・・・・・・・
主はその道の初めに私を造られた いにしえの御業になお先立って
永遠の昔 私は祝別されていた 大初 大地に先立って
私は生み出されていた 深淵も水のみなぎる源も未だ存在しない時
・・・・・・・・・
さて 子らよ 私に聞き従え 私の道を守る者はいかに幸いな事か
諭しに聞き従って知恵を得よ なおざりにしてはならない
私に聞き従う者は日々私の扉をうかがい 戸口の柱を見る者はいかに幸いな事か
私を見い出す者は命を見い出し 主に喜び迎えて頂く事が出来る
・・・・・・・・・
この知恵は何処に存在していると思いますか
貴方の中にこそです
しかし私たちはそれに気付きません
何故なら誰もそんな事を教えて呉れないからです
哲学革命の第一歩はこの知恵を教える事から始めます
「汝自身を知れ」
哲学の第一歩です
自分自身を知らずにどうして世界を知る事が出来ましょう
個性を伸ばす教育と言いながら
「汝自身を知れ」と言うこの尊い教えを教える事はほとんどありません
何故なら教師自身がこの意味を本当に知らないからです
「汝自身を知れ」
この為に必要な事が 哲学 すなわち知恵を愛する事なのです
知恵とは何か
これこそが本当の私自身です
真善美に溢れた私自身なのです
私たちが知恵を愛すれば愛する程 この知恵は輝きだします
この知恵を至上のものと考えた時 この知恵は神にも変わります
知恵を如何に考えるかは個人の判断にもなりますが
少なくとも知恵を愛する事がなければ
巷に言う『本当の自分』を知る事は出来ないのです
巷では本当の自分を知りなさいと決まり文句の様に唱えていますが
その唱えている本人は実の所 本当の自分自身を知らないのです
もう一度箴言の第8章の抜書きを読み直して下さい
知恵は第三者の様に語っていますよね
これが知恵の知恵たる所以なのです
私自身の中で語りながら第三者の立場は決して崩さないのです
だから私たちは知恵と語りながらより高い世界を目指して行けるのです
良く良心の声とか言いますよね
それが知恵です
ソロモンはそれを知恵と呼んでいますが
ダビデやイエスは私の主とか私の神とか呼んでいます
「私」のと付く場合は知恵の事と解して下さい
大いなる神に呼び掛ける時に
知恵以外に如何なる仲保者が居ると言うのでしょう
この知恵を第三者としてしっかり把握する事
それが哲学です
この知恵を神の段階まで引き上げた時
その人は宗始者ともなる事が出来ます
そう言う意味での知恵の事を知らなければ知恵を知る事は出来ません
知恵は私の中で第三者の様に語りますが
初めからいきなり語るのではありません
知恵は私たちの中に存在しています
しかしそれは育てて上げなければ
知恵は決して第三者の様に語る事はないのです
知恵もやはり栄養を必要としているのです
それが読書です
知恵の魂を呼び出す様な読書をして上げなければならないのです
俗に言う呼び水です
知恵は知恵に呼応するのです
イエス ブッダ ソロモン ダビデ 孔子 老子 ソクラテス プラトン エピクロス セネカ等々の本を読んで御覧なさい
それこそ知恵と知恵が呼応し合って バチバチと火花が散ります
その段階に成って始めて貴方の知恵が目覚めるのです
貴方の中に知恵は存在していますが
多分今の貴方の中では休眠状態でしょう
先ずは紀元前の偉大な哲学者たちの本を読んで御覧なさい
貴方の知恵は確かに目覚めます
哲学革命のスタートはそこからです
では哲学革命のゴールは何処でしょう
第一段階のゴールはこの日本を知恵の王国とする事です
そして最終ゴールはこの地球全体が知恵の王国と成る事です
勿論夢物語です
それでは現実的なゴールは?
哲学革命の結社の設立です
そして同人誌『哲学革命』の創刊です
私の言う哲学者 それは知恵を愛する者の事ですが
この日本にも相当居ると思います
しかし彼らは身を潜める様にこの日本に住んでいます
私は百章でも書きましたが
これからは哲学者の時代です
哲学者が連携すれば この日本も変るのです
そう言う意味でのこの結社の設立とこの同人誌の創刊は哲学革命の第一歩となるのです
知恵には無限のグラデーション(階調)があります
たまに聞こえる良心の声から
それこそ顔と顔を見合わせて語り合う様な知恵まで
知恵は全ての人間に存在する良心の声 第三者の声です
現在ではこの知恵と言う存在は全く黙殺されています
この結社 この同人誌ではそれを高らかに謳うのです
その目的は日本中の人に『知恵』と言う概念を先ず認めて貰い
そしてこの『知恵』を経験して貰うのです
そうすれば日本は必ず変ります
知恵が連携し呼応しあう社会
何と言う素晴らしい世界でしょう
その一歩として同人誌を成功させたいものです
下記が同人誌『哲学革命』発刊要領です
同人誌『哲学革命』の発行について
1 趣旨
知恵は全ての人間に存在する良心の声 第三者の声です
現在ではこの知恵は完全に黙殺されています
この同人誌『哲学革命』ではこの知恵に関するあらゆる投稿 記事を受け付けて知恵に関する総合雑誌とし 知恵を広く日本国民に容認させる事を目的とします
なおここで言う哲学とは知恵を愛する事の謂いです
カント研究とかヘーゲル研究とかはそれが『知恵』に関するものでない限り受け付けません
レベルは『知恵』の概念が分かる子供以上としますが
中心層は中学校高学年 高校生 大学生及び結婚前までの青年層とします
何故なら結婚までに『知恵』が何かをはっきり知って貰いたいからです
すなわち結婚によって「知恵の子」を生み育てて貰わんが為です
なお雑誌名『哲学革命』が刺激的過ぎると言うのであれば
『哲学(知恵を愛する事)』等にしても構わないと思います
哲学革命とは穏やかな社会改革です。
現代はあまりにも科学一辺倒です
哲学と科学の程好いバランス社会 そんな社会を目指しての哲学革命なのです
2 発行方法
月刊
書店販売を原則とするが 国会図書館 都道府県立図書館 大学図書館には寄贈とする
3 発行元
哲学革命の会 なおこの名称が刺激的過ぎると言うのであれば
哲学(知恵を愛する)会等何でもいいです
以上が同人誌『哲学革命』の発刊要領です
もし上記の趣旨に賛同して頂けたら 商業ベースでも何でもいいので是非発刊して欲しい
ものです
知恵の連携 これによって社会は必ず変ります
その為には「私は知恵を愛しています」「私はこの様に知恵を愛しています」と言う事を高らかに謳う場が必要なのです
その第一歩が同人誌『哲学革命』なのです
哲学詩集『百章』のあとがきに代えて『哲学革命』
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
私の哲学百章
哲学哲男 著
哲学百章目次
はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 199
第1章 私について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・206
第2章 知恵について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・210
第3章 言葉について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・213
第4章 哲学について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・217
第5章 愛について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・220
第6章 自由について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・225
第7章 快楽について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・229
第8章 真理について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・233
第9章 善について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・237
第10章 美について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・240
第11章 学問について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・245
第12章 読書について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・250
第13章 哲人について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・254
第14章 対話について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・260
第15章 知識について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・264
第16章 思想について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・270
第17章 作文について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・275
第18章 人生について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・280
第19章 幸福について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・287
第20章 平和について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・291
第21章 正義について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・296
第22章 信仰について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・299
第23章 祈りについて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・304
第24章 天国について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・308
第25章 死について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・315
第26章 無について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・320
第27章 瞑想について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・324
第28章 新生について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・329
第29章 道について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・333
第30章 自己について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・337
はじめに
哲学とはフィロソフィア
知恵(ソフィア)を愛する(フィロ)する事です
人であれば誰でも踏み行うべき事です
しかし誰も自らを哲学者
すなわち知恵を愛する者だとは言いません
何故でしょう
それは哲学と言う意味が
別な意味で流通しているからに他なりません
哲学と言うと
何か難しい本を研究する
それが一般的な常識です
しかし哲学とはそう言うものではありません
哲学とは知恵を愛する事
それ以外の何ものでもないのです
私は俗に言う哲学者
すなわち文献学者ではありません
しかし私は自らを哲学者
すなわち知恵を愛する者と
声高らかに叫びます
何故か
それはこの本を読んで下さった方々を
哲学者へと誘うのが私の役目だと思っているからです
哲学
この素晴しき学びの門を開くのが
私の役目だと思っているのです
さてこの著書名は
「私の哲学百章」です
私のと言う所が味噌です
ソクラテス プラトン アリストテレス
デカルト カント ショーペンハウアー
その様な昔の哲学者を学ぶ事が
哲学を学ぶ事だと思っているかも知れませんが
哲学を学ぶとは決してそんな事ではありません
哲学を学ぶとは
先程から言っている様に
知恵を愛する事を学ぶ事なのです
もっと端的に言えば
自分自身を愛する事を学ぶ事に他ならないのです
「汝自身を知れ」
ソクラテスの有名な言葉です
ここに哲学の全てが集約されるのです
貴方自身
そこに全ての知恵の源泉があるのです
貴方が貴方自身を愛さなければ
貴方はその知恵の泉を知る事も無いのです
哲学の始め
それは貴方自身を愛する事です
その方法は知恵を愛する事なのです
禅問答の様に思えますが
その内に分かって来ると思います
さてこの著書名は
私の哲学百章です
何故私のなのか
それは哲学が
百人居れば百様 千人居れば千様 万人居れば万様だからです
だから私のなのです
もし哲学に一律を求めれば
それは集団性を求める事に成ります
それは結局党派を生み
党利党略に走る事に成ります
それは哲学にとって
最も好ましくない事なのです
だから哲学は何時でも
私のなのです
さてこの哲学百章は
私が知恵を愛する過程で生まれ出て来る百章です
百章に関する大まかなアウトラインは出来ています
それは百の言葉と
百の言葉の大まかなスケッチと
百の言葉の大まかなストーリーです
後の詳細は
全て知恵を愛する過程で生まれ出て来るものなのです
百の言葉はこの様にして生まれて来ました
私にとって大切な言葉は何か
私を表現する上で無くてはならない言葉は何か
そんな観点で
言葉を思い付くままに書き出して行ったのです
その時その言葉に関する簡単なスケッチを添えました
一応百の言葉が出尽くした時
私はそれを並び替えて見ました
すなわち一番下に私を置き
一番上に神を置いて並び替えて見たのです
そうするとそこに一定の秩序が見出され
そこに大まかなストーリーが見えて来たのです
この百の言葉の中には
五つの結節と成る言葉があります
それは私と人間と国家と世界と神です
後の言葉は
それぞれの間に存在する事に成ります
また精神と言う言葉がキーワードにも成っています
百の言葉のストーリーを大まかに示すと次のとおりと成ります
私と知恵と言葉は三位一体である
この三者を結び合わせるのが哲学である
人は哲学
すなわち知恵を愛する事に依って
愛を知り自由を知り快楽を知る
人は哲学への快楽により
哲学の三門
すなわち真善美を潜る事に成る
人は真理は手強い事を知る
しかし善と美は
この世に溢れんばかりに満ちている事を知る
人はこの善と美を更に求めんとして
学びの門
すなわち学問を潜る事に成る
学問は師に付いて学ぶ事が一番良い方法だとは思うが
師が見付からない
そこで人は読書に依って学びの門を潜る事に成る
人は読書に依って古代の哲人たちを知る
そしてその哲人たちこそが
最も自らに相応しい師である事を知る様に成る
人は哲人との対話
また自分自身との対話に依って
知識を得る
この知識を本に
人は思想する事に成る
そして人はその思想を
文に作る
すなわち作文する事を覚える
この作文の技術に依って
人の思想は飛躍的に発展する
人はその技術を基に
人生を幸福をそして平和を思想する
人はその過程で正義の概念に気付く
人はこの概念から
信仰や祈りの真の意味を知ろうとする
また天国の概念を知ろうとする
人はまた無や死を考え
無に至る道は瞑想であり
瞑想の先には新生が在る事を
また新生の暁には道が生まれ
その道を歩む事に依って
真の自己が
そして強い意志が生まれる事を知る
強い意志を持つ自己が確立した時
人は徳を伴って
この世に撃って出る事に成る
しかし人は精神に未だ未開の分野がたくさんある事を知る
そこで人は世に撃って出る前に
精神の遍歴を始める事に成る
人は先ず心を訪れる事に成る
人は心こそが精神の練武場である事を知る様に成る
またそこで気や性についての考察を深める事に成る
なおここで言う性とは
英語で言う所のネイチャーであり
天性感性知性理性男性女性等々
様々な性の生まれる基礎と成る性の事を言う
人は次に観念の世界を訪れる事に成る
人は観念こそが精神の独壇場である事を知る
そこで人は存在や力や物や数や論理について考察を進める
また価値についても考察を進め
この世が最も価値を置く
富と地位と名誉の真の意味を知る事に成る
人はまた創造の源である芸術についても考究を進め
詩と絵と音楽の神秘に迫る
また芸術の源でもある遊びの心にも深く迫る
以上の様な精神の遍歴を経た後で
人は愈々覚醒に入り悟りを得て
精神を完成させる事に成る
精神の完成に依って
人は始めて完全なる人間と成るが
その前に人は肉体の衣を着なければ成らないのである
精神はこの肉体を着る事に依って即座に
欲望と苦悩を知る事に成る
苦悩は感覚に基づくのではなく
それは全て感情に基づくものなのである
人はその感情を徹底的に解明し
それを克服するものは忍耐であり
そして習慣である事を知る様に成る
人は忍耐と習慣を学び
それを習い性とする事に依って
始めて完成された人間としてこの世に出る事に成るのである
人は人間に成ると
即座に行動に着手する事に成る
それは理想を完成し
理想を仕事とする為である
しかし人はそこで世間の壁にぶつかる事になる
その壁を打ち破るのが勇気である
だが勇気だけでは世間の壁を打ち破れない事を知る
人はそこに礼が必要である事を知る
人は勇気と礼を持って
また友と家族の支援を受けて
この世の様々な世間の壁を打ち破って行く事に成る
人はそこで様々な経験をし
愈々完成された人間に近づく事に成る
人はそこで更に視野を広げる事に成る
そこには政治 経済 社会等々様々な体制がある事に気づく
また様々な情報が飛び交い
様々な生活がある事を知る
人はそこで理想の国家を想う様に成る
そしてその理想の国家を実現させる為に必要なものが
道徳であり宗教であり教育である事を知る様に成る
人はまた理想の国家と引き比べて
現在の日本を憂う
そこには革命が必要である事を思うに至るが
未だ革命を起こすまでには至らない
人は国家を知り日本を知った後で
世界へと旅に出る事に成る
人はそこで民族 言語 風土 文化等を知る事に成る
人はそれらの成果を基に
更に地球について科学について歴史に付いて考究を進め
普遍への確信を深め
現代と言う時代を憂え
遂に革命へと突入する事に成る
人は気付くのである
革命後の新世界も
革命前の旧世界も
全て世界というものは
因果に依って齎されたものであり
それらを統べるのは法であり
また人間は常に命に命ぜられて動いているだけある事を
そしてそれらを体現するものが
自然であり宇宙であり時間である事を
そして人は最後に気付くのである
これらを全て統べているのが神であると
人はそこで神について様々な考察をする事に成る
これが大まかなストーリーです
ここに百の言葉が順番に並べられています
なお百の言葉が何かは
目次を見て頂ければ有難いと思います
さて最初にも言いました様に
この著書の目的は
皆様に哲学の素晴しさ
すなわち知恵を愛する事の素晴しさを知って貰う為なのです
その為にお願いがあります
それは私と一緒に
皆様も皆様の哲学百章を作って頂きたいと言う事です
哲学百章の作り方は簡単です
先ずは皆様が大切だと思っている言葉を
思うままに書き出して行きます
そして百に成ったら
それをあれこれと並び替えて見るのです
そうするとそこにある程度の秩序と
ストーリーが見えて来ます
そこまで来たら
その秩序なりストーリーを序として書き出して行くのです
後は百の言葉について
その時々に浮かぶ思想をそのままに書いて行けば良いのです
そして最後にあとがきで締めれば
それで哲学百章が完成と言う事に成る訳です
すなわち私がこれから進め様としている作業を
皆様も一緒に進めて行って欲しいと思っているのです
皆様はその作業の中で
哲学
すなわち知恵を愛する事が
如何に素晴しいかを知る様に成ると思います
「汝自身を知れ」
何故ならそこに
尽きせぬ知恵の泉があるからなのです
この辺りで私の序を締めくくりたいと思います
第1章 私について
私とは何か
それは全ての基礎の基礎
そこから全てが生み出されて行く
では私とは何か
それは考える存在
「我思う 故に 我あり」
デカルトの言葉である
私は思う
これ程私と言うものを的確に表現したものは無いと
私が思う だから私は存在する
私が思わなければ私は存在しない
共に真実である
しかしこの事を人は良く理解していない
私は私
私はどんな時でも存在する
そう主張される方が居るかもしれないが
それは間違いである
思っている限りにおいて
私は存在するのである
思いを止めた時
私は存在しないのである
しかし人は常に思い続けているので
私が常に存在していると思い込んでいるのである
完全に熟睡している時の状態を考えて見なさい
そこに私が存在しているだろうか
そこに存在するのは完全に熟睡している肉体だけである
私とは考える存在なのである
さてその私は何を思い何を考えるのだろうか
それこそ千差万別である
それに依って様々な人が生まれて来るのである
その思考に依って
凡人も生まれ聖人も生まれて来るのである
何を思考するか
それが私にとっては大切な事なのである
私こそが全ての基礎の基礎
私から全てが生まれる
まさにその通りなのである
この世界は私から生まれ出たものなのである
神でさえも
私が存在しなければ
世界もそして神でさえも存在し得ないのである
すなわち考えると言う私が存在しなければ・・・
それではその私はどの様に思考するのか
その思考形式を考えて見よう
先ずは反応
様々な感覚器官から情報が入って来る
人はそれを得て危ないと判断する
これが第一の思考形式である
これは人間だけでなく動物も行う
だからここでは動物的思考形式と呼んでもいい
しかしやはり私が思考するのである
次に欲求
喉が渇いた お腹が空いた
人は飲みたいと思い 食べたいと思う
第二の思考形式である
動物もここまで思考するのかもしれない
しかしやはり私が思考するのである
第一と第二の思考形式は
全ての人間が例外なく同じ内容を思考する
さてここから人間に差異が生じてくる
すなわち欲望である
喉が渇いた 飲みたい
お腹が空いた 食べたい
ここまでは全ての人間が同じ様に思考する
しかし次の思考
何を飲もうか 何を食べようか
ここから様々な思考が生まれて来るのである
そしてこの思考は止む事が無いのである
人間の思考の大半は
この欲望と言う思考で占められていると思われる程である
そしてそれは私がしっかり思考しているのである
人間の思考形式の中で
欲望より更に大きな割合を占めているものがある
それは認識である
人の思考の大半は認識だと言ってよい
欲望はその思考が強烈であるので
思考の大半を占めている様にも思われるが
その時間的長さから言えば
圧倒的に認識なのである
すなわちAはBである
人間は絶え間なくこの認識と言う思考を行っているのである
ただ何を認識するかに依って天と地ほどの差が付く
やはりこれも私が思考しているのでる
さてこの一番目から四番目までの思考は全ての人間が思考する
一番目と二番目の思考は
全ての人間が同じ様に思考する
三番目と四番目の思考内容は本当に千差万別である
これに依って人間に差異が生まれる
しかし一番目から四番目までの思考形式は
全ての人間が生まれながらにして持っているものなのである
しかしこれから挙げる二つの思考形式については
全ての人間が生まれながらにして持っている訳ではない
選ばれた人間だけが持っているのである
それは信仰と祈り
信仰とはあるものを信じると言う思考形式であり
祈りとはあるものに願いを掛けると言う思考形式である
この二つに思考形式を持っているか否かに依って
天と地の差が付くのである
何故なら天国とは
信仰と祈りに依ってこの世に実現されるものであるから
だからこの信仰と祈りは
全ての人間である所の私が思考する訳では無いのである
さてここで一番目から六番目までの思考形式を整理し
次の様に総括しよう
すなわち一番目から四番目までの思考形式に依って
私の世界が創り上げられ
五番目から六番目の思考形式に依って
私の世界に更に神の世界が付加されると
私は考える存在である
そしてその思考に依って世界が創り上げられて行く
私の言う意味が分かって頂けただろうか
私は考える存在である
しかし私は一人では無い
私一人で考え続ければドグマに陥る
その私の考えを引き上げて呉れるのが知恵である
第二章ではその知恵について考える
第2章 知恵について
知恵とは何か
難しい質問である
しかし私には答えの用意がある
それは聖霊 アートマン ダイモニオン等々と同義語であると
聖霊とはキリスト教の言葉で
イエスの代わりに神から使わされる霊の事である
アートマンとはインド哲学の言葉で
聖霊とほぼ同義語である
ダイモニオンとはギリシアローマ哲学の言葉で
特にソクラテスやプラトンが使った言葉であるが
その意味はやはり聖霊とほぼ同義語である
私は知恵とはそれらと同義語だと考えているのである
だから私は哲学
すなわち知恵を愛する事を高く掲げるのである
私が何故知恵を聖霊と同じ様に考える様に成ったかと言えば
それ以外に例え様が無いと思ったからである
アートマンにしてダイモニオンにしても同じである
私の思想の舞台は私である
私が思想を進め 知恵と対話をするその過程を省みる時
キリスト教の場合であれば聖霊
インド哲学の場合であればアートマン
ギリシアローマ哲学場合であればダイモニオン以外に
知恵を例え様が無いと思ったからである
それともう一つは旧約聖書箴言のからの引用である
箴言には知恵に関する言葉がたくさん出て来る
それらの中には
知恵と聖霊が同義語だと思わせる言葉もたくさんで来る
例えば次の様な言葉である
「主はその道の初めに私を造られた
いにしえの御業になお先立って
永遠の昔 私は祝別されていた
太初 大地に先立って・・・・」
これは知恵が自分の事を一人称で述べる件であるが
ここで言う私とは聖霊以外の何ものでもない
私は自らの経験と
箴言のこれらの引用から
知恵と聖霊は同義語だと考える様に成ったのである
そして知恵と聖霊 アートマン ダイモニオン等々とを
同義語扱いする事は何かと便利が良いのである
何故なら私が哲学
すなわち知恵を愛する事を勧める時
それは全ての宗教哲学を勧めるのと同じ事に成るからである
私は今の時点では確信している
全ての哲学宗教の第一原則は
知恵を愛する事にあるのだと
さて私は第1章で
私とは考える存在であると言った
そしてその私は一人で考えるのでは無く
知恵と共に考えるのだと言った
私は一人で考える事が出来るだろうか
私は第一章では
一人で考えればドグマに陥ると書いた
しかしあの言は取り消す
人は一人では三歩も進めぬと
それは一人で闇の中を歩く様なものだ
人は常に知恵と共に歩む
人が思考する時
そこには知恵が常に寄り添い
そしてその行く道を照らして呉れているのだ
しかし人は知恵と言う存在を知らないから
一人で歩いていると思い込んでいるのである
人が一人で居る時
それは真っ暗闇に一人で居る様なものである
知恵はそれを哀れんで
常に寄り添っているのである
しかし人は知恵と言う存在を知らない
もし人が知恵の存在に気づけば
人はそれに対して
我が主よ 我が師よと叫ぶ事だろう
そしてもし人がキリスト教の中に居れば
イエスキリストの言葉をふんだんに与えられる事だろう
他の宗教に中に居れば
その宗主の教えの言葉を
知恵とはそう言う存在なのである
もし人が知恵と言う存在に気付かずに
知恵に対して金持ちにして下さいと願うなら
知恵はその人に金持ちへの道を示す事だろう
もし人が知恵と言う存在を知り
その知恵に対して世界征服の道を示せと言えば
知恵はその者に対してその道を示す事だろう
しかしその時は聖霊等の名では無く
悪霊等の名で呼ばれる事に成る
しかしそれでもやはり知恵なのである
知恵とは人が思考する時のその先の光であり
その先の道案内人である
しかし人は知恵と言う存在を知らないので
何時も右往左往しているのである
もし人が知恵と言う存在を知り
知恵に対して
真理の道を善の道を美の道を指し示してくださいと願うなら
知恵はその者にふんだんに
真善美の果実を下す事だろう
それが哲学
すなわち知恵を愛すると言う事なのである
知恵の存在を知った者には二つの道がある
一つの道は知恵を愛する道
もう一つの道は知恵を利用する道
この二つの道は太古の昔から交差し続けている
前者の道は聖人へと向かう道であり
後者の道は支配者へと向かう道である
そして世の大半の者は知恵の存在を知る事無く
この二つの道をただ右往左往しているだけなのである
私の言う知恵と言う意味が分って頂けただろうか
それでも未だ
私は私一人で考え続けているのだと言う人が居たら
私はその人にこの様な実験をお勧めする
すなわちこの様に問うのである
「主よ 私は本当に私一人で考え続けているのでしょうか」と
それに対する答えが知恵と言う存在である
第3章 言葉について
言葉とは何か
私は序章の所でそのヒントを出している
すなわち
私と知恵と言葉は三位一体であると
ここに私の秘密があり
知恵の秘密があり
言葉の秘密がある
またこう言い換える事も出来る
私が知恵を愛する事に依って言葉が生まれる
言葉は私と知恵の子供たちであると
言葉に関する有名な言葉が
ヨハネ福音書の第一章第一節にある
「初めに言があった
言は神と共にあった
言は神であった
この言は初めに神と共にあった
万物は言によって成った
成ったもので言葉によらずに成ったものは何一つなかった」
このヨハネ福音書の言葉と
「私と知恵と言葉は三位一体である」と言う言葉は
全く同じ事を言っているのである
言葉とは言の事であり
知恵とは神の事であり
そして私とはこのヨハネ福音書の言葉を考えた私の事である
ここで言う私とは普遍的に存在する私と言う事になる
さてヨハネ福音書の言葉の中の
「万物は言によって成った
成ったもので言葉によらずに成ったものは何一つなかった」
これこそが言葉の神秘である
すなわちこの世界は全て言葉に依って成ったと言う事である
そしてその生みの親は私と知恵と言う事に成るのである
私が存在しなければ世界は存在しない
また知恵が存在しなければ世界は存在しない
言葉が無ければ世界は存在しない
私と知恵と言葉
この三者が何時も三位一体と成って
この世界を創り上げて行くのである
言葉とは何か
それはこの世界の正体
この世界を暴けば
それは全て言葉
要は私たちが何を考えるかにある
私とは考える存在
知恵とはその私に寄り添う存在
そして言葉はその私と知恵から生まれて行く
私が知恵を如何に愛しているか
それに依って生まれて来る世界が変わって来る
「求めなさい そうすれば与えられる
探しなさい そうすれば見つけかる
門を叩きなさい そうすれば開かれる
誰でも
求める者は受け
探す者は見つけ
門を叩く者は開かれる」
私たちは何を求め 何を探し
如何なる門を叩くのか
クリスチャンであればそれは神の王国だろう
そしてそれは与えられるだろう
現世主義者であれば
現世での成功の世界だろう
そしてそれも与えられるだろう
そしてそれは全て言葉の世界である
そしてその生みの親は
私とその私に寄り添う知恵である
私と知恵と言葉は三位一体
その意味が理解して頂けただろうか
こう言う人が居るかも知れない
貴方はこの世界は言葉で出来ていると言うが
私の世界は物ばかりだと
私の前には机とパソコンとコーヒーカップがあり
私の周りを本と本棚と壁と窓と天井が囲っているが
それらは全て物だ
言葉など一つも無いと
その様に言う人は言葉の意味を理解していない
机もパソコンもコーヒーカップもその他の物も全て言葉である
人は机が欲しいと思った
そこに板が生まれ机が生まれた
その歴史は敢て述べないが
全て言葉に依って成ったのである
物が緻密に成れば成る程
多くの言葉を要する
パソコンはその典型だろう
パソコンを言い表すのにどれ位の言葉が必要なのか分らないが
それは全て言葉に依って成っているのである
そのパソコンの一つ一つの部品も
それは全て言葉の結晶である
物とは言葉が結晶したものである
言葉が結晶し物と成る為に一つの条件が必要と成る
それは自然の似姿である
人は自然の似姿に真似て
言葉を物として結晶させるのである
もしその典型を見たいと言うなら
芸術の現場に入るのがいいだろう
ミケランジェロがダビデを作成している現場に入って見なさい
その自然の似姿に真似て
言葉を物に結晶させて行く過程が具に見て取れるだろう
物とは言葉が結晶して成ったものである
私は今 物に偏ってこの世界を見てきたが
この世界は物に依らない世界の方が多い
例えば政治の世界を見て見なさい
それはほとんどが物を介せず
言葉そのものに依って成っていると言ってよい
政治家同士の言葉の遣り取り
そしてそれの成文化
それが政治である
勿論それらは物に変って行くが
それらは言葉の遣り取りの結果に過ぎない
政治の本質は政治家同士の言葉の遣り取りなのである
私たちの日常の世界を見て見なさい
それもほとんどが言葉の遣り取りではないか
物はその結果かまたは添え物に過ぎないのではないか
最もその物も言葉の結果
言葉の果実なのである
この世界は言葉に依って成っている
その意味理解して頂けただろうか
そしてその言葉は私と知恵から生まれたものなのである
この世界は言葉に依って成っている
そしてその言葉は私と知恵が生み出したものである
これが私と知恵と言葉の三位一体の秘密
世界創造の秘密なのである
どんな言葉でこの世界を飾るのか
それが大切な事なのである
第4章 哲学について
哲学とはフィロソフィア
知恵(ソフィア)を愛する(フィロ)事
私がこの著書を通じて一番言いたい事である
知恵を愛する事に依ってこの世界は変わる
それがこの著書を通じて私の言いたい事である
何故知恵を愛すればこの世界が変わるのか
それは先ず自分自身が変わるからである
人は知恵を愛する事に依って知るのである
自分自身が如何に素晴しい存在であるかを
そして人は自分自身が如何に素晴しい存在であるかを知る事に依って
更にこの世界が如何に素晴しい存在であるかを知る様に成るのである
そこから人は知恵への旅に出るのである
知恵
この素晴しい存在を知った者は
もうそれ以外のものは欲しくならなくのである
知恵以外は何も要らない
知恵こそが私の全て
人はそうまで言い切って
知恵を愛する様に成るのである
何故知恵を愛するのか
それはそこに幸福があり快楽があるからである
快楽こそが全ての人の行動の動機
知恵はそれをふんだんに与えて呉れるから
人は知恵を愛するのである
知恵を愛する為には何の動機付けも要らないのである
何故なら知恵を愛する事 その事が快楽だからである
人は自然にその快楽に向く様に成るのである
知恵を愛する事の快楽
その快楽は美しく平穏で
そして長続きする快楽なのである
この世の快楽とは異質の快楽なのである
この快楽を手に入れた者は
もうこの世の快楽はどうでもいいと思う程に成る快楽なのである
その快楽を手に入れる方法
それは知恵を愛する事
それでは知恵を愛する様に成るにはどうすれば良いのか
それは先人に習うしかないのである
すなわち知恵を愛した人々から学ぶしかないのである
知恵を愛する者を哲学者と言う
古今東西哲学者はたくさん居る
しかし真に哲学 すなわち知恵を愛する方法を知りたいのなら
古代の哲学者から学ばなければ成らない
何故なら古代には純粋に知恵が存在していたからである
古代には綺羅星の如く真の哲学者が居る
誰から学んでも良いが
もし二人挙げろと言うならば
イエスとブッダを挙げて置こう
この二人から知恵をそしてその知恵を学ぶ方法を学べば
先ずは間違いない
イエスが如何に知恵を愛したか
ブッダが如何に知恵を愛したか
そして二人が如何に幸福と快楽に包まれていたか
それを学べば直に哲学
すなわち知恵を愛する方法も分って来るだろう
少し禅問答の様に成ったので
現実に戻る事にする
何故知恵を愛する事に依って世界が変わるのか
それは世界の本質を見る様に成るからである
世界の本質を見た者は現実世界とのギャップを見る
そしてそのギャップを埋め様と努力するのである
そこに世界を変える力が生まれて来るのである
その変える力を革命と呼ぶ事も出来る
イエスの革命を見よ
ブッダの革命を見よ
しかしそこに行き着くまでには
知恵との長い二人旅が必要となるのである
人は知恵と二人でこの世界を旅し続ける事に成る
人はそれを旅行記として纏め
着実にこの世界の知識を増やして行くのである
そして理想と現実のギャップをしっかり見定める事が出来る様に成った時
人はこの世に打って出る事に成るのである
しかしその時は誰も知らない
しかしそれまでの知恵との二人旅
これが何よりも楽しいのである
だから人は知恵を愛する事
すなわち哲学を止められないのである
哲学 すなわち知恵を愛する事の楽しさは
知恵を愛した者にしか分らない
だから知恵を知らない者は
早く知恵を知る様に成るべきである
よく知恵の泉と言う
それ程 知恵は滾々と湧き出て
そして甘露水の様に甘いのである
知恵の泉を持つ者は幸いである
その人は渇く事は無い
知恵に依って人は生きる
知恵を知らない者は生きていないのかもしれない
知恵を早く知る様に成る事が大切である
さて私は序章の所で
私と知恵と言葉は三位一体である
そしてその三者を結び合わせるのが哲学だと言ったが
その意味が分って頂けただろうか
私が知恵を愛する
その行為が哲学である
そしてその行為に依って言葉が生まれ
世界が創造されて行く
「私と知恵と言葉は三位一体である
そしてその三者を結び合させるのが哲学である」とは
そう言う意味なのである
哲学
知恵を愛する事の大切さが分って頂けただろうか
素晴しい世界を創造するのは哲学に依ってである
そして素晴しい世界を創造するのは私なのである
素晴しい世界と素晴しい私を認識させて呉れる行為
それが哲学なのである
哲学万歳
第5章 愛について
愛とはアガペーからエロスまで
愛とは善しと認める事
もしこの世が愛に満ちていたら
この世はどんなに素晴しい事か
私はAさんを愛している
これはエロス
AさんもBさんもCさんもそして人類皆を愛している
これがアガペー
エロスは個別的な愛
アガペーは普遍的な愛
エロスは肉体的欲求に基づく愛
アガペーは精神的欲求に基づく愛
もし人が素晴しき世界を望むのなら
アガペーを望まなければならない
何故ならエロスは絶えず躓き傷づくからである
その肉体の様に
それに引き換え精神は
その大親である神を常に望もうとするから
その世界は安泰なのである
エロスは差別的な社会を生み
アガペーは平等な社会を生む
エロスの為に如何に争うが繰り返されている事か
エロスの本質を知れば
人はエロスの中に飛び込めない
エロスに飛び込む者は火に飛び込む夏の虫
焼かれて焦がれて始めて昇華する
しかしそうは言っても
人はエロス抜きには先に進む事が出来ない
何故なら人は肉の衣を着ているから
肉の衣を着ている限り
人はエロスを求め続ける事に成る
先ずは五感が訴える
私に快楽を与えよと
そこにエロスが生まれる
目が耳が鼻が舌がそして肌が求める
私に快感を与えよと
そこにエロスが生まれる
目が言う 善しと
耳が言う 善しと
鼻が言う 善しと
舌が言う 善しと
肌が言う 善しと
そこにエロスが完成する
しかしそれは束の間の愛
エロスは気まぐれ
常に新しき愛を求め続ける
エロスの中に居る限り
人は右往左往
そしてそこには何時も
差別と争いの種がある
貴方の前に二人だけの女性が居たとしよう
そして貴方にエロスが入ったとしよう
そうすると
貴方はその内の一人だけを善しと認める
それはそれで善い事だが
その反動として
貴方はもう一人の女性に対して
善しとは別な反動的な感情を持つ事に成る
それがエロスの本質である
これが言う所の差別の種である
貴方が貴方とは別な男性と女性の三人だけの世界に住んでいたとしよう
貴方と貴方とは別な男性に同時にエロスが入ったとしよう
その時はどうなる
言わずもがなである
これが言う所の争いの種である
この世界はエロスに依り成り立っている
そしてその本質は差別と争いである
私がそう言い切った時
それに同意して呉れる人がどれ位いる事だろうか
人はそれほどエロスに夢見ているのである
仕方が無い
私も貴方方の夢にお付き合いする事にしよう
私は言った
愛とはアガペーからエロスまでだと
その無限的な階段を上り下りする事にしよう
さて愛にはどれ程の種類があるのか
恋愛 夫婦愛 親子愛 兄弟愛 師弟愛 友愛 人類愛etc
そして哲学
私が哲学と言う言葉を持ち出した時
私を良く理解する人は
私の言いたい事を理解して呉れたと思うが
そうでない人はそうでないと思うので
少し説明する事にしよう
恋愛 夫婦愛 親子愛 兄弟愛 師弟愛 友愛 人類愛 そして哲学
これがほぼエロスからアガペーへの階段である
人は哲学
すなわち知恵を愛する様に成って始めて
普遍的な愛を知る事が出来る様に成るのである
何故なら知恵にこそ全ての愛が詰まっているからなのである
何時までも恋愛に留まっている者は
動物とそれ程違いが無いのである
何故なら恋愛とは
五感の欲求と生殖的欲求に基づくもの以外のものでないからである
もし結婚と言う制度が無ければ
エロスの世界は弱肉強食の世界である
強き者が五感の欲求と生殖の欲求を独占して
ハーレムを形成する事に成る
それ以外の男性は
極端な言い方をすれば
生殖的機能を強制的に剥奪される事にもなる
もしエロスが本当に全くの自由競争の世界だったら
その様な世界に成るのである
しかし結婚と言う制度の中で
世の大半の男性はエロスをある程度確保出来
世の女性もそれに伴ってある程度のエロスを確保出来ているのである
純粋なエロスとはそれ程にも烈しいのである
パリスの恋を見ろ
パリスの略奪愛を
そしてトロイアは滅んだ
現代は結婚制度を悪用して
恋愛を遊び物にしている
こう言う人たちが居るかもしれない
私たちの恋愛はそんなものとは違いますと
いいでしょう
私はその様な人たちを讃える
彼らは直に結婚し
お互いの性を尊重しつつ愛し合い
そして子と生み
お互い愛した様に子を愛し
そしてその子供たちも
親が愛した様に
子供たち同志も愛し合う事だろう
夫婦愛 親子愛 兄弟愛
これがアガペーへの愛の基礎である
恋愛の中で
肉体的欲求を越えた者たちだけが
アガペーへの階段を昇って行ける
恋愛の中にアガペーを垣間見た者だけが
次の段階へと進んで行けるのである
恋愛の中にアガペーを見出せなかった者は
たとえ結婚して家族を作っても
そこにあるのはエロスだけである
彼らは動物的愛のままにその一生を送る事に成る
恋愛の中にアガペーを見出す方法
それは知恵を愛すると言う事である
その為に必要な事が師を持つと言う事である
結婚までに師を持ち
師弟愛を育んだ者には
たとえエロスと言う恋愛の中に在っても
そこにアガペーを垣間見る事が出来るのである
そこから理想の結婚
そして理想の夫婦愛 親子愛 兄弟愛が育まれていくのである
人は師の中に
知恵への愛を見出す事が出来る
勿論師は現実に存在する師が一番良い訳だが
その様に行かない場合も多い
その様な場合
本の中に師を見出しても構わない
その師と師弟愛を結び
その師から知恵への愛を学べば良い
そうすれば恋愛の中に在っても
アガペーを見出し理想の結婚へと駆け上がって行ける
しかしここで師とこの様な遣り取りがあるかも知れない
弟子「夫婦の間柄がそんなものなら 妻を迎えない方がましです」
師「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく恵まれた者だけである 結婚出来ない様に生まれついた者 人から結婚出来ない様にされた者もいるが 天の国の為に結婚しない者もいる これを受け入れる事の出来る人は受け入れなさい」なぞと
この様な遣り取りの中から
いきなり知恵への愛に向かう者が居るかも知れない
しかし私は言う
現代において純粋な知恵を見出す事は難しい
いきなりそこに向かって
純粋な知恵を見出す事が出来なければ
これまた空しい
だから私は言う
やはり階段を一つずつ昇って行く方が良いと
その方が彩り豊かなアガペーに達する事が出来ると
さてこの様な愛を経た後
人は友愛へと向かう
ここで言うと友とは
知恵を共にする友の事である
これらの友は知恵への愛を誓い合い
切磋琢磨して更に高い段階へと向かう
そしてある時
二人は純粋とも言える知恵を見出す事に成る
その時二人は固く抱き合って喜ぶ事に成る
ここまでがエロスの段階である
そして最高のエロスの段階なのである
これ以降
人はただアガペーへと向かう
アガペーとは知恵を愛する事
哲学に他ならないのである
哲学
すなわち知恵を愛する事が
この世の最高の愛なのである
キリスト教は最もこの事を強く言う
イエスと言う知恵を愛しなさい
聖霊と言う知恵を愛しなさい
神と言う知恵を愛しなさいと
第6章 自由について
自由とは快楽の一歩手前
自由を経験しなければ
誰も真の快楽へは達する事が出来ない
自由とは何か
自ら由
私が私のままである事
それが自由
何にも囚われない私
それが自由と言う状態
私たちが如何に囚われの身か
その事を自覚した者だけが
自由に至る事が出来る
しかし人はその事を自覚していない
尾崎豊の歌に卒業と言う歌がある
その卒業の意味する所は
体制からの卒業
しかし体制から如何に卒業しても
人は自由に成れない
人は却って縛り付けられる
そして体制へと戻ろうとする
人は何が自分を縛っているかを知らないのである
人を縛っているもの
それは私
この世の私である
この世の私が
私をこの世にしっかり縛っているのである
身動き出来ない程に
この世のこの縛りを解く方法
その方法は一つしかない
それはこの世の私を殺す事
この世の私が死んで
私は真に自由に成る
エロスからアガペーへ
エロスの全てを断ち切り
アガペーへと渡った時
人は真に自由と成る
そしてそこには天国とも言う境地が待っている
人はかの世に渡らなければ自由に成れないのである
私と知恵と言葉は三位一体である
ここに私の秘密があり
自由の秘密がある
私は考える存在である
私は知恵である
私は言葉である
この事が理解出来れば
自由の秘密が解き明かされる
ヨハネ福音書のあの有名な言葉にまた戻る事にしよう
第1章第1節
「初めに言があった
言は神と共にあった
言は神であった
この言は初めに神と共にあった
万物は言によって成った
成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった」
ここに私の秘密と自由の秘密がある
すなわち私が言葉であり
私が世界であると言う事である
ここに自由の秘密もありまた快楽の秘密もある
私が生み出す言葉
それが世界である
そしてその言葉その世界が
真善美に溢れていたら
私はどんなに快楽に満たされる事か
そしてその時の私は如何に自由な事か
これが私と言葉と世界と自由と快楽の秘密である
自由とは 自ら由
自分自身に成り切る事である
自分自身に成り切る方法
それが哲学
知恵を愛すると言う事なのである
知恵を愛すれば愛するほど
自分自身の中に深く入って行く事が分る
自分自身に深く入って行けば行くほど
自分か如何に優れた存在か分る
その時人は真に自由に成るのである
何も要らない
自分さえいればいい
いいえ自分の中に存在するこの知恵さえいれば
他は何も要らない
これが自由の究極点なのである
何故ならここに居れば
何にも不自由する事無く
そして幸福と快楽がふんだんに与えられるからである
真の自由
それは貴方の中にこそある
そしてその正体は
知恵を愛すると言うその一点にあるのである
自由の意味を理解して頂けただろうか
体制に刃向かっても
そこには自由など無いのである
却ってこの世に束縛されるだけである
いきがっているアンちゃんたちを見よ
彼らが自由だろうか
彼らこそ正にこの世の奴隷ではないか
自由とは自分の中にこそある
その事を理解した者だけが真に自由なのである
革命
それは自由を求めての闘争である
イギリス革命 フランス革命 アメリカ革命等々
全てそうである
だがその歴史の中に
真の自由を見出せる者がどれ程いることか
歴史上の中で最も大きな革命の一つは
イエスの革命である
この革命に依って
真の自由が如何に多くの人に齎されたか
それを知る人が
真に自由を知る人である
イエスに依って
これまで秘儀中の秘儀であった知恵が
多くの人に齎される様に成ったのである
そこから人は自由を手に入れる事が出来る様に成ったのである
自由
それを見出した者とそうでない者には大きな差がある
その差は自分に満足するか否かである
自分に満足しない者は
常にこの世に不平を言う
それはこの世に対して物を言っている様に見えるが
実は
それは自分自身に対して唾を吐き
自分自身を小突き回している事に他ならないのである
なんと言う惨めな事か
人は早く自由を手に入れなければならない
その為の方法は哲学以外には無いのである
すなわち
知恵を愛すると言う事以外如何なる方法も無いのである
自由の獲得術 それは哲学
第7章 快楽ついて
快楽と言うと眉をひそめる人が居る
彼らは肉体の快楽を想像するからである
しかし私の言う快楽とは精神の快楽である
エピクロスの言う所の快楽である
この快楽無しに人は知恵への旅に入る事は無い
すなわち哲学に入り込む事は無い
快楽とは全ての動機の第一である
如何に立派な事でも
この快楽と言う動機が無ければ
人は指一本さえ動かそうとはしないのである
快楽は全ての動機の第一なのである
人の全ての行動を見れば分る
その動機の第一が快楽である事を
この快楽無しに物事は一歩も先に進まないのである
それでは身近な行動を例に取って考えて見よう
先ずは最も身近な行為である食事について考えて見よう
そこの第一にあるのは快楽なのではないか
こう言う人が居るかも知れない
もう食事は飽き飽きだ
食べたくないのだが食べなければ死んでしまうのでただ食べているだけだと
飽食の典型だ
しかし私は彼の化けの皮をいとも簡単に剥ぐ
三食だけ強制的に食べさせないのである
彼は食べたいと願う様に成る
そこにあるのは快楽への欲求である
空腹と言う苦痛に耐えかねて
食べると言う快楽へ走ろうとするのである
食べると言う行為は
空腹と言う苦痛を和らげる為の快楽の一手段なのである
人は三度三度慣例的に食べているから意識はしていないが
食事すなわち食べると言う行為は
空腹と言う苦痛を和らげる為の快楽の一手段に過ぎないのである
しかし人は飽食に呆けて
更なる快楽を求め様としている
これが現代日本の悪弊である
武士は食わねど高楊枝
一汁一菜
ここに食事の真の快楽があるのかも知れない
次に仕事に行くと言う行為を例に取って見よう
そこに快楽などがあるのかと訝しがる人がいるかも知れないが
確かにそこに快楽があるのである
だから人は仕事に行くのである
ではどう言う快楽か
こう言う人がいるかも知れない
私は本当に仕事に行きたくない
しかし仕事に行かなければ給料が貰えないから仕方なく行っているのだ
そこに快楽など無いと
しかしその人が仕事に行く限りそこには快楽があるのである
ではどの様な快楽か
確かにこの快楽を突き詰める事は難しい
しかしそこには確かに快楽があるのである
それは認知への快楽である
そしてこの世の大半はこの認知への快楽から成っているのである
この認知への快楽は哲学への快楽に似ているが
本質的に違う
哲学への快楽は快楽一本道であるが
認知への快楽は苦楽相半ばしているのである
と言うよりそこには
僅かな快楽と多くの苦痛が横たわっていると言った方がいいのかも知れない
だから多くの人は仕事に行く時苦痛を感じるのである
しかし人が仕事に行く限り
そこには認知への快楽が存在しているのである
認知への快楽とは
認め知る快楽であり
認められ知られる快楽である
前者の快楽が強い者は
仕事もそして人生もそれほど苦痛では無い
何故ならその快楽は自分である程度コントロール出来るからである
しかし後者の快楽の強い者は
仕事においても人生においても苦痛を強いられる
何故ならその快楽は自分ではコントロールする事が出来ず
全てをこの世に負っているからである
この快楽が心一杯に広がった者は
遂には仕事に行けなくなり人生を儚み
そして時には自らの生を絶つ事もある
認知への快楽は両刃の剣である
だから苦楽が相半ばしているのである
と言うより僅かな快楽と多くの苦痛がそこに横たわっているのである
認めよう知ろうする快楽の強い者は
この世において勝ち組と成る
認められ様知られ様とする快楽の強い者は
この世において常に負け組みと成る
何故なら認めよう知ろうとする快楽の強い者は
自ら道を切り開いて行こうとするが
認められ様知られ様とする快楽の強い者は
常に誰かから道を切り開いて貰わなければならない
しかしこの世にそんな御人好しは一人も居ない
だから彼は何時も負け組みと成るのである
この世は認知への快楽に満ちている
そして人は常に認知の剣を振り翳して戦っているのである
この世の支配者は認知なのである
だから人は認知への快楽へと靡くのである
勝率がたとえ一分一厘でも勝ち目が残っている限り
人は認知への戦い認知への快楽へと走るのである
人が毎日仕事に行く理由
それはそこに認知への快楽が横たわっているからである
認知への快楽が無くなれば
人は仕事へ行けなくなる
そして時には自らの生を絶つ事にも成るのである
何故なら認知こそがこの世に支配者であり
彼は支配者から見放されたと思うからである
認知 これこそがこの世の快楽の王なのである
認知と似て非なるものがある
それが知恵である
認知がこの世の王であれば
知恵はかの世の王である
認知への快楽が強い者はこの世で成功する
知恵への快楽が強い者は天国を得る
天国かこの世の成功か
それは二者択一である
同時に二つを手に入れる事は出来ないのである
さてここにおいてこの様な声が聞えて来た
貴方の言う快楽論はよく分からないと
いいでしょう
そう言う肉の人の為に
これから肉体の快楽と精神の快楽の徹底的な違いを教えてあげる事にしましょう
貴方が精神的快楽を求める様に成る為に
さて肉体の快楽の頂点は何であろう
多くの人が言うだろう
交合の快楽だと
そしてそれは正しい
何故ならそれは肉体上において
最も高貴な行為だからである
その行為に依って人が生まれるのである
そんな高貴な行為に
神は最高の快楽をプレゼントしたのである
生めよ増せよ地に満てよ と言いながら
そこに在るのは愛である
そして究極のエロスである
だからその行為に最高の快楽が在るのもまた当然である
しかしそれは肉の範囲の事である
その肉を越えた所に究極の愛があり究極の快楽がある
それは知恵への愛であり知恵との交合である
その快楽はこの世の最高の快楽よりも
更に数段素晴しいのである
譬えれば天国の様な快楽と言うのだろう
その快楽を獲る為の方法が
哲学
すなわち知恵を愛すると言う事なのである
その交合から生まれるのは言葉であり世界であり
それを譬えれば天国と言い換えてもいいのである
しかしそれは知恵を愛した者にしか分らない
だから私は言うのである
肉の人よ そろそろ精神に目を向けたらどうかと
そこにはこの世の恋人が黒ずんで見える程の恋人が居るのだから
光り輝くマノンが居るのだから
さあ手を取り合って昇ろう
この世成らぬエクスタシーを得る為に
第8章 真理について
真善美は哲学の三門である
そして真理は最後の門である
この門を潜った者は何の憂いも無く自由闊達に成る
しかしこの門を潜った者がどれ程居る事か
善と美の門は割合簡単に潜れる
その門を潜った者は思う
この世界は何と美しさに満ちている事か
何と善き事に満ちているのかと
そして彼は真理の門を潜ろうとするのである
しかしどうしても潜れないのである
彼には如何にしても真理の世界が見えて来ないのである
ピラトは聞いた
真理とは何かと
しかしイエスは答えなかった
真理とはそんなものなのかも知れない
斯く言う私も真理とは何か知らないのである
私は真理の門の前に立つ時 何時も考えるのである
真理とは一か多かと
もし真理が一つであれば
その門を潜る価値がある
しかし多であれば 私は潜りたくない
何故なら私にはそれ程時間がある訳では無いから
しかし私は思っている
真理とは一つである
でなければそれは真理とは呼べないだろうから
そう言う訳で今日もまた真理の門を潜る事にする
さて真理とは何か
それは知恵である
いいでしょう
その線に沿って話を進めていく事にしましょう
真理とは知恵である
知恵とは真理である
もしこの定義が成立するのであれば
私は何時も真理を愛している事に成る
何と喜ばしい事か
しかし世の人は言う
それは真実とは程遠いと
一体真理とは何か
全ての人に共通する真の理(ことわり)
それは知恵しかないのではないか
知恵以外に全ての人に共通する如何なる理があると言うのか
知恵こそが
全ての人に共通して存在する真の理
そう言い切って何の間違いがあろう
真理とは知恵である 知恵とは真理である
そう言い切った時
世の人は何か府に落ちない顔をする
それは真理と言う意味を正確に理解していないからである
世の人は真理と公理の意味を取り違えているのである
三角形の内角の和は180度である
これは公理である
もしこれを真理だと言ってしまえば
真理はたくさん存在する事になる
それでは真理は一つであると言う定義に反する事に成る
公理は真理から生まれた これは真実である
公理と真理と真実
この意味を正確に使い分ければ
真理の意味がより明らかに成る
公理とは真理の果実である
公理とは真理を真に愛する事に依って生まれた真の果実
公理は真実
それは真理を愛する事に依って生まれた
真理とは何時も変わらず知恵
真理は知恵の別名に過ぎないと
そうであれば
哲学が真善美を求めると言う事であり
その最高の形態が知恵を求め知恵を愛する事だと言う定義に何ら反する事は無い
真理とは知恵
だから真理は常に哲学の三門の最高で最後の門なのである
この門を潜った者は天国の門を潜ったと同じ事なのである
現在では公理は科学の専売特許の様に思われている
しかしそうでは無い
昔は公理は哲学の専売特許であった
今は幾らか科学に譲り渡したが
それでも公理の本家本元は哲学なのである
「隣人を自分の様に愛しなさい」
これが公理でないと誰が言えるのか
「心を尽くし精神を尽くし思いを尽くして貴方の神である主を愛しなさい」
これが公理でないと言えるのか
こう言う人がいるかも知れない
この世に神などいない
どうして居ない者を愛せるのかと
貴方は思い違いをしている
もう一度読み直して見なさい
『貴方の神である主』を愛しなさいと言っているのだ
貴方の神である主とは
貴方の中に存在する知恵の事ではないか
知恵を愛さずして一体誰を愛すると言うのか
貴方自身を愛さずして一体誰を愛すると言うのか
隣人をと言うのか
その前に貴方自身 貴方自身に存在する知恵を愛さなければ
貴方は決して隣人を愛する事は出来ない
その公理はこう言っているのである
先ずは知恵を愛しなさい
そしてその知恵を愛した様に隣人を愛しなさいと
知恵を愛した事に無い者がどうして隣人を愛せようか
真理から生み出された公理は一杯ある
愛についても公理が一杯ある
それらを集めて
そして自らもその知恵に問い
公理を生み出して行く
これが哲学の作業である
愛だけでなく幸福についても人生についても
徳についても一杯の公理があり
そして新たな公理が待っている
それらを掻き集め生み出して行く事
それが哲学
すなわち真理を愛し知恵を愛すると言う事に他ならない
真理とは知恵である
ピラトはイエスに聞いた
真理とは何かと
もしピラトに聞く気持ちがあったら
イエスはこう答えた事だろう
真理とは神と言う知恵であり
聖霊と言う知恵であり
そして私と言う知恵であると
第9章 善について
哲学とは真善美を求める事
善はその第二門である
美の法門を潜り抜けた者でなければ
善を知る事は出来ない
何故なら善には何時も美が寄り添っているからである
美しくなければ善ではないのである
善とは善き事 good
good god God
善とは全て神に由来する事なのである
神と言う概念を持つ者の行う行為は善を帯びる
そうでない者はそうでない
何故なら善とは神に由来する行為だからである
善とは神に由来する人の行為を形容する時に使う言葉なのである
自ら善いと思って行為をしてもそれは善とは呼ばない
もし呼ぶとすれば偽善である
何故なら善とは全て神に由来するものでなければならないからである
こう言う人が居るかも知れない
もしそうであれば
善と言う言葉は宗教人だけの言葉であり
この世の者には何の縁もない言葉では無いかと
しかしそれはこの世の用法と異なると
私はその人に言いたい
本当に貴方には神は存在しないのか
神と言う概念を持ち合わせていないのかと
神は宗教人にだけ存在するのであろうか
決してそうでは無い
全ての人に存在するのである
ただ多くの人がそれを認めたがらないだけである
もし心を尽くし精神を尽くし思いを尽くして神を視れば
確かにそこに神が存在する
そこから善が生まれ出て来るのである
それ以外は全て偽善である
神とは何か
それは神と言う概念
神と言う概念が如何なる概念かと問われれば
それは今日の所は善を生み出す大本
もし心を尽くし精神を尽くし思いを尽くして
善を生み出す大本を見詰めれば
そこには確かにその大本が存在する
その大本が何かと問われれば
それは知恵
神とは善を生み出す知恵の事に他ならない
もし神に別の概念を付与すれば
知恵はその神の名の下に
その概念を絶え間なく生み出す事だろう
知恵と神は同じ事
一般的な宗教においては
神は人の行為を統べるもの
だから善は全て神に由来する事に成る
たとえ宗教人でなくとも
その概念は一般的に通用している
だから神と言う概念を常に持つ者の行為は
常に善を帯びる事に成るのである
すなわち善を生み出す大本を内に持っている者は
善を次から次に生み出す事が出来るのである
そうでない者はそうでない
彼はこれは善い事だろうかそうでないのだろうかと
一々逡巡するのである
そしてそれらは全て偽善へと流れて行くのである
何故なら肉の者が判断するのは全て肉に依って判断するからである
肉を超えた所の存在
すなわち知恵とか神に依って判断する者は
常に肉を超えて判断する事が出来るので
確信を持って善を生み出す事が出来るのである
good god God
善は全て神(または神と言う概念)に由来する
真善美は哲学の三法門である
人は先ず美の法門を潜り
次に善の法門を潜り
最後に真理の法門を潜る
真理の法門を潜った者は真に自由と成る
「真理は貴方を自由にする」
真理には善美が伴い
善には美が伴う
醜い善と言うものがあるだろうか
善は皆美しいのではないか
何故善が美しいのか
それは美の洗礼を受けているからである
善と美は一卵性双子
美がある所に善がある
何故か
人は美を見て善しというからである
美の訓練が出来た者には善が生まれ易い
美の法門を潜り抜けた者に善が生まれる
美を知らない者に善は生まれない
醜い者には善は生まれないのである
美の洗礼を受けた者が
神を求める時
そこに善が生まれるのである
ただ善だけを求めても善は与えられないのである
真善美が一体と成った時
始めて善が生まれるのである
だから善を求め様とするなら
先ず哲学を求めなければならないのである
哲学
すなわち知恵を愛する時
すなわち神と言う名を愛する時
その時
真善美が溢れんばかりに流れ出すのである
特に
善はgood god God
神に由来するものだから
哲学を愛しぬかなければならないのである
第10章 美について
真善美は哲学の三法門である
そして美がその第一門である
美の法門を潜った者だけが
善の法門真理の法門へと駆け上がって行く事が出来るのである
美しさへの憧れが善への憧れ真理への憧れへと変わって行くの
である
美の法門を潜る為に必要な事は何か
芸術の門を叩く事か
それは第二である
第一 それは自然
自然の門が開かれた時
美が限り無くその人に流れ込んで来るのである
自然を真に知らない者は美を知る事は出来ない
そして善も真理も
何故ならそれらは全て自然の似姿に過ぎないのだから
人は自然に依って先ず美を知る
その美を知る事に依って
人は善から真理へと駆け昇って行くのである
自然に美を見出す事の出来ない者はその先に進む事は出来ない
何故自然が美しいのか
それは自ずから然りだからである
それは無為の美 無垢の美
花を一心に眺めた事があるだろうか
もし一心に眺めた事がある者なら
その美しさに驚かないで居られようか
それはまるで小さな太陽
その輝きに目が眩む様
そんな美しさを見出した事は無いのですか
一心に自然の一つ一つを見て見なさい
それが如何に素晴しいか
それが如何に輝きに満ちているか
もしその事を理解すれば
この世が如何に素晴しいかを理解出来る筈である
「野の花がどのように育つのか注意して見なさい
働きもせず紡ぎもしない
しかし言っておく
栄華を極めたソロモンでさえ この花一つほどにも着飾って
いなかった」
もし自然にこれだけの事を読み取る事が出来たとすれば
自然から真善美全てを学んだ事に成る
しかし哲学の初心者にそこまでは求めない
先ずは自然から美を学びなさい
何故なら
自然で美しくないものは一つも無いからである
自然に醜いものは何一つ無く全て美しいからである
ミミズは汚い 蛆虫は気持ちが悪い
最初からこう決め込んでいる人たちが居る
そう言う人たちはミミズを蛆虫を一心に見た事が無いからであ
る
一心にそれらを見て御覧なさい
それらが如何に素晴しく 如何に美に満ちている事か
私は美的センスが無く そこに美を見出せません
いいでしょう しかしもっと見詰めなさい 何か見えましたか
見えました 命の美しさが 無垢なる生命の美しさが 一生懸命の命の美しさが
いいでしょう もっと見詰めなさい 何か見えました
見えました 見えました
ミミズや蛆虫がこんなに素晴しく美しい存在だとは今の今まで思ってもみませんでした
人は常に色眼鏡で見ている
色眼鏡を取った時 そこに美が存在している
色眼鏡を取る方法
それは一心に成る事
一心にそのものに成り切る事
その時そこに美しさが自然に浮かび上がって来る
自然は美しさに満ち満ちている
先ずは自然で美しさを学ぶ事
自然において美しさを学ぶ技術が習得出来たら
そのフィールドワークを人間界に移す事に成る
人間も元々自然だから
そこには美しさが一杯にある
しかし社会と言う仕組みの中で少し歪んでいる
その歪を少し補正にしてあげて人間を見詰めるのである
そうすると
そこにはあの自然界で見た様な美しさが人間界にも満ち満ちている事が分かる様に成る
人間の美しさとは何か
それは行為の美しさ
だから人間の美しさは善いと言う事に成る
美と善は一卵性双子
二人は常に寄り添っている
その意味が理解出来ただろうか
美が人間に宿る時
その時美は善とも成るのである
人間界においては美しき人は善き人
人間界においては美しいだけの人は居ず
善いだけの人も居ない
人間界においては美しき人は善き人であり
善き人は美しき人なのである
その事に異を唱える者が居るだろうか
こう言う人が居るかも知れない
善き人は美しき人かも知れないが
美しき人は必ずしも善き人では無いと
貴方は自然で如何なる美を学んだのか
全てが全て美しかったのでは無いか
貴方は未だ色眼鏡を捨て切っていないのか
私たちは自然で差別なき心を知るべきだったのだ
全てのものに宿る美しさ
それを理解する為に自然から美を学ぶべきなのである
全てのものが美しい
だったら人間も皆美しいのでは無いか
人間が自然である限り
私は言った
少し補正してあげれば人間は皆美しいと
補正とは
正にその色眼鏡を取る事なのだ
色眼鏡を取ってその人を一心に見詰めて御覧なさい
その人に成りきる積りで
どうです
美しいでしょう
痛い位に
人はそれ程美しく在りたいのに
この世がそうさせて呉れないのである
すなわち私たち一人一人が身に付けているこの色眼鏡で
人は皆美しい
善き行いをしたいと望んでいる
しかし皆がそれぞれ身に付けている色眼鏡で見ているので
思う様に身動きが取れないのである
人間の美しさは無為自然の美しさ
色眼鏡を取り
この世の衣全て脱ぎ捨てた時
自然の輝きが眩いばかりに光出のである
あの花を覗き込んだ時の様に
何故なら人間もあの花と同様
一個の太陽なのだから
私の言う意味が分っただろうか
その人の富も名誉も地位も全部剥ぎ取って
生まれたばかりの赤子に戻してやるのである
その子が如何に輝いているか
その子の瞳を覗いて御覧なさい
眩いばかりに輝いているでしょう
その人がどんな人生を辿ったのか
それを補正して上げるのです
そうすれば人は皆美しいと言う事に気づく筈です
人は美しい
そして常に美しく在れと命ぜられている
しかし人は美しく在り続ける事が出来ない
何故か
それはその声を聞くまいとして常に耳に手を当てているからで
ある
そして終には聾と成りその声が聞えなく成ってしまうからであ
る
自然
自ずから然り
その事をよくよく理解している人は何時までも美しい
一般的に言って美しい女性とはどの様な女性を言うのか
それは幼子の様なあどけなさを失わない女性
自然の輝きを何時までも失わない様な女性の事ではないか
彼女たちが天性の賜物として または努力の賜物として
それを失わない様にと絶えず気を使っているからである
その自然の贈り物を大切に大切に守っているから
彼女は美しく見えるのである
その賜物を投げ捨てた時
彼女はこの世に泥み黒ずんでいくのである
森光子と言う女優を見て御覧なさい
80歳を越えているというのにあの様に美しくあろうとしている
それは彼女がその賜物を宝の様に守ろうとしているからである
幼子への回帰 無垢への回帰
そこに美しさの秘密がある
女性は割合美しく在り続ける事が出来る
しかし男性の場合はそうは行かない
何故なら男性は社会の生き物だからである
社会に出るや
男性はそれを捨てる様迫られる
しぶしぶ捨てる者も居るし 喜んで捨てる者も居る
喜んで捨てた者はこの世に馴染み泥みそして黒く成る
この世では早く黒く成った者が成功者と成る
この世で男性が何時までも無垢で在り続ける事は極めて難しい
しかしその方法がある
それが哲学
すなわち知恵を愛する事
知恵には自然無垢幼子その様なものが一杯に詰まっているからである
イエスを見なさい
白いどころか
あまりにも白すぎて眩いばかりではなかったか
知恵には幼子の無垢と賢者の無垢が
そして自ずから然りと言う自然が一杯に詰まっているのである
美は哲学の第一法門
善は哲学の第二法門
だから美しく且つ善く在りたいと思う男たちよ
先ずは哲学を学びなさい
そして同じ様に女性たちも
善と美は一卵性双子
善は美に寄り添い
美は善に寄り添う
だから別々に学ぶのではなく
哲学と言うフィールドの中で同時に学びなさい
善き人は美しき人
美しき人は善き人
そうあらんが為に哲学を学びましょう
第11章 学問について
学問とは学び問う事
それでは何に学び何に問うのか
勿論それは知恵
知恵に学び知恵に問う事に依って
全てのものが与えられるのである
「求めなさい そうすれば与えられる
探しなさい そうすれば見つかる
門を叩きなさい そうすれば開かれる」
これが学問である
人が知恵に学び知恵に問う事に依って
実に様々なものが
と言うよりこの世の全てのものが与えられる
これらを整理して系統立て行くと
それが現在私たちが俗に言っている学問と言う事に成る
では俗に言う学問に如何なるものがあるか
それらを見て行こう
学問の整理の仕方は色々あるが
大学の学部に擬えるのが一番いいだろう
何故なら人はそこで知恵を学び知恵に問い知恵を生み出し
そしてそこから世に出て行くのだろうから
大学の学部を見れば知恵の出入が分ると言うものである
さて大学には如何なる学部があるのか
先ず第一にあるのが哲学学部である
この学部が無ければ大学は成立しない
知恵が何かを知らずにどうして知恵を求められよう
次に来るのが宗教学部である
知恵に目覚めた者は哲学学部で学べばよい
しかしどうしても知恵に目覚め切れない者はここで学ぶ事に成
る
哲学学部の落ちこぼれ組みをここで拾う
次に来るのが科学学部である
宗教学部に進む者は
知恵を目指すが知恵に目覚め切れない者たちである
しかし科学学部に進む者たちは
知恵が何かを知らず知恵に無頓着で知恵の存在を知らない者た
ちである
すなわち無知なる者である
彼らは与えられた学科科挙を
それこそ馬車馬の如く突き進む
そしてこの世の使え人としてこの世に出て行く
哀れむべき人たちである
折角知恵の花園の入りながら
知恵が何たるかも知らずにこの世を卒業して行く人たちである
大学は大きく分けてこの三学部しかないのである
その他教養学部として
芸術学部 文学部 公理学部があるが
全て哲学学部の付属学部である
公理学部は自然社会における公理を見つけ出す学部である
人気の高い学部である
その他の大学として
法科専門大学と医科専門大学がある
法科専門大学はこの世の支配者が創設した大学で
ここを卒業した者はこの世の支配者階級へと進む
何故なら法はまたこの世の王でもあるからである
通常法学は哲学学部の学科として学ぶが
支配者階級は哲学学部から法学だけを独立させて
法科大学を創設する
これが世の倣いである
医科専門大学はヒポクラテスの系譜に繋がる伝統のある大学である
学問の王は哲学である
何故なら直接知恵に学び知恵に問うからである
次が宗教
宗教は宗主に学び宗主に問う
すなわち人間に学び人間に問うのである
最後が科学
科学は知識に学び知識に問う
それは知恵の欠片たち
例外としての法学
法学は法に学び法に問う
法はこの世の支配
だから支配者は法を独占しようとする
法学を哲学から独立させてはならない
しかし世の支配者は
法学を哲学から独立させ支配しようとする
例外の二としての医学
医学は命に学び命に問う
尊い事
ヒポクラテスをその祖とする
その他として
芸術学部はミューズに学びミューズに問い
文学部は文に学び文に問い
公理学部は理に学び理に問う
これが学問の系譜である
その他様々な学部があるが
それらはこれらの亜流若しくは分派である
哲学こそが学問の中の学問
学問の王
しかし現代では片隅に追い遣られている
現代では科学が徒党を組んで王道を突き進んでいる
誰も止められない程
しかし止めなければならない
元々学問は全て哲学であった
そこから先ず宗教が独立した
それから法学と医学が
そして最後に科学が独立した
現代では学問と言えば科学と言われるほど
科学が学問の主流である
法学 医学も科学と呼ばれる事を好む
だから学問には哲学宗教科学の三つしかないと言っても過言で
は無いのである
芸術 文学 公理学はその時々に依ってどちらかの学問に仕え
る事に成るが
哲学に仕える事が多い
しかし公理学は現代では科学に仕える事が多く成って来ている
学問と言えば哲学 知恵を愛する事であった
しかし現代では科学が主流となり
徒党を組んで王道を突き進んでいる
何故この様に成ったのか
それは人間が分断され続けているからである
このまま続けば
科学は更に発展し
人間は更に分断される事に成る
人間は科学と言う知識に支配される様に成る
「求めなさい そうすれば与えられる
探しなさい そうすれば見つかる
門を叩きなさい そうすれば開かれる」
そう知恵が叫んでいるのに
人は科学と言う知識に更に頼ろうとしている
本当にこれで良いのか
医学は命に学び命に問う学問であった
しかし現代では技術に学び技術に問う学問と成っている
現代の医学は科学以外の何物でも無いと言っても過言では無い
だからこの様に命が軽んじられる様に成ったのである
法学
ここには秘儀がある
だから支配者階級はこれを独占しようと努めたのである
しかし現代の法学は技術に学び技術に問う学問と成り下がって
いる
現代の法学も科学以外の何者でも無い
だからこの様に世が乱れているのである
哲学 宗教 科学
いずれを選択するかに依って時代が変わって来る
このまま科学を選択して
更に細断化された世界に進むのか
それとも一なる知恵に回帰するのか
正に選択の時期に来ているのである
私は期待する
哲学 宗教 科学のバランスの取れた世界を
もし人が哲学者であり宗教者であり科学者であれば
この世界はどんなに素敵かと
しかし私は恐れる
この世の99パーセントが科学者で
残りの1パーセントが哲学者宗教者ではないかと
哲学は知恵に学び知恵に問う
宗教は人に学び人に問う
科学は知識に学び知識に問う
この三つのバランスが取れた時
善き人が生まれ善き世界が生まれる
時代は何時も哲学に依って変わる
知恵を愛すると言う学問
すなわち哲学をもう一度学び直してみませんか
知恵を愛し知恵に学び知恵に問うと
求めているものが与えられ
探しているものが見つかり
そして新たな門が開かれるのである
ワンダフルワールドへの新たな門が
皆さん哲学と言う学問をもう一度愛してみましょう
第12章 読書について
読書に依って人は成長する
本を読まない者は成長する事が無い
知恵の顕現は言葉である
言葉を知らない者は成長も無いのである
私たちの周りに知恵者がたくさん居て
その知恵者から直接言葉を聞く事が出来れば
本を読む必要は無いのかも知れない
しかし私たちの周りに知恵者は居ない
居たとしても一人か二人である
知恵者と成る為にはたくさんの知恵の言葉を聞かなければ成らない
たとえ私たちの前にイエスが居たとして
たくさんの言葉を語って呉れたとしても
私たちは本を読まなければならないのである
ペテロもヨハネもパウロも
自ら読んだ本と比べて正しいと思ったから
イエスを信じたのである
もしイエスの言葉だけで信じたらそれは盲信である
何故なら何も拠り所がない信仰だから
ペテロ ヨハネ パウロが参考とした教科書は旧約聖書である
旧約聖書は正に知恵の書であった
イエスの言行がその知恵の書どおりだったから
彼らはイエスを信じたのである
現在私たちの周りには師は存在しない
師を求める為には本を読まなければならない
だから本を読まない者には師が存在しないと言う事に成る
師が存在しない者の生活は無軌道に成る
ここで言う師とは知恵に関する師の事である
だから現代の日本はこの様に無軌道なのである
特に知恵において
私たちは本を読んだだけでは成長しない
毎日12時間 本を読んだとしても成長しない
何故なら彼はただ単に活字を追っているだけだからである
知恵者として成長する為には
知恵の書を読まなければならないのである
知恵の言葉が一杯に詰まった知恵の書を読まなければ
たとえ幾らたくさん本を読んだとしても
知恵者としては成長しなのである
知恵の書が如何なる書かと問われれば
それはずばり古代の書
古代の書は数千年の歳月を経て
無駄が一切削ぎ落とされて
知恵そのものになっているからである
具体的にと問われれば
古代中国の哲学書
古代インドの哲学書
古代ユダヤので哲学書
古代ギリシアの哲学書
古代ローマの哲学書たちである
もっと具体的にと問われれば
古代中国の四書五経
古代インドのウパニシャッド 仏教典
古代ユダヤの旧約 新約聖書
古代ギリシアのプラトン エピクロス エピクテトス等の著書
古代ローマのセネカ マルクス キケロ等の著書
と言う事に成るのだろう
これらの書を読めば人間界の知恵を理解した事に成るだろう
この後中世近代現代と様々な哲学者が生まれて来ているが
それらは皆これらの亜流変形でしかない
これらの知恵の言葉を理解したら
人間界の知恵を理解したと言っても過言では無い
後はこれらの知恵の言葉を参考にしつつ
自らの知恵と語り合えば良いのである
つまりはこう言う事である
知恵との対話により言葉が生み出される
この言葉と聖賢の言葉を比較するのである
そしてもし聖賢の言葉と合っていたら善しとして
自らの知恵の体系へと取り込んで行くのである
これらの過程が知恵者への道程と成るのである
自らの知恵にだけ頼ると独善に成る
これらを指導し矯正する為にも
聖賢の言葉が必要と成るのである
その為にも読書が必要と成ると言う訳なのである
知恵者として成長する為には師が必要である
師は本の中に居る
だから読書をしなければならないのである
師を決める事において一つだけ勧告して置く
決して最初から一人の師を決めないと言う事である
最初の段階では幾人もの師を持つ事が望ましい
何故なら一人に決め込むと
その師に囚われる事に成るからである
知恵の遍歴を経て
最終的に一人の師を決める事ならそれはそれでいい
しかし若い内から一人の師に決め込む事は推奨出来ない
もし知恵者哲学者として成長したいのなら
宗教者に成りたいのならそれはそれでよいのかも知れないが
やはり積極的には賛成し難い
因みに私が師とする者と
その教科書を挙げると次の通りである
イエス「新約聖書」
ブッダ「法句経」他
孔子「論語」
老子「老子」
ソクラテス「国家」他
エピクロス「手紙」
エピクテトス「要録」
セネカ「道徳論」
マルクス「自省録」
ダビデ「詩編」
ソロモン「箴言」
私たちは読書に依って
時代を超えて師を持つ事が出来き
そしてその師と対話する事が出来る
私たちは師との対話に依って
知恵の言葉を得る事が出来る
そして自らの対話に依っても
知恵の言葉を得る事が出来る
これら二つの言葉を比較して
それが一致したものであれば
それは知恵の言葉として自らの内に登録すればいいのである
しかし私は知っている
同じ主題について様々な師対話する時
その答えは一つに成ると
例えば
「『心を尽くし 精神を尽くし 思いを尽くして貴方の神である主を愛しなさい』
これが最も重要な第一の掟である
第二もこれと同じ様に重要である
『隣人を自分の様に愛しなさい』
律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」
と言う言葉について
先の十一人の師に聞けば
何れの師もその通りだと答える筈である
ブッダも老子も
それが知恵の真髄なのである
読書は知恵を確認する為の作業である
だから読書をしない者は知恵者には決して成れないのである
自ら善しと幾ら主張してもそれは独善に過ぎないのである
過去の聖賢の言葉の裏付けがあってこそ
その者の言葉も知恵の仲間入りをする事が出来るのである
だから読書をしない者は決して知恵者として成長する事は出来ないのである
最も最初から神の知恵が宿っているなら別だが
その様な者が果たしているのだろうか?
第13章 哲人について
ここで言う哲人とは哲学者の事である
この哲学百章では標題を二字以下にしようとしたので
哲人という言葉を使用したが真の意味はそう言う事である
真の哲学者
真に知恵を愛した者たちをここでは哲人と呼び
表して行きたいと思う
私が哲人として挙げるのは
先ずは先の12章で挙げた十一人である
確認の意味で挙げると次の通りである
イエス ブッダ 孔子 老子 ソクラテス エピクロス エピクテトス セネカ マルクス ダビデ ソロモンである
この内二人を挙げれと言われれば イエスとブッダ
一人を挙げろと言われれば 今の所イエス
だからこの哲学百章ではイエスの言葉の引用が多く成っているのである
しかし私は知っている
この十一人は知恵に依って結ばれているのを
だから誰の言葉を引用しても同じなのだが
彼らを代表してイエスの言葉を引用しているだけであると
哲人 哲学者に共通している事は何か
それは唯一つ
知恵を愛し抜いたと言う事だけである
彼らは皆 知恵の言葉の人たちである
そしてその知恵の言葉は皆同じ泉から汲んでいるのである
知恵と言う泉から
時代 地域が異なれば
その同じ言葉が違った様に聞こえる事がある
しかしそれは同じなのである
人がもし知恵と言う存在に気付き
その知恵から汲まれたばかりの水を飲めば
それが全く同じである事に気づく筈である
しかしその水が地域と言う大地を潜り
時代と言う大気に触れる時
少しずつ変わって行く
イエスはユダヤの風土に合った様に
ブッダはインドの風土に合った様に
孔子老子は中国の風土に合った様に
ソクラテスエピクロスはギリシアの風土に合った様に語っただけである
しかしその源泉は一つである
その名は知恵
知恵に依って皆兄弟なのである
そしてその知恵の名も所が変われば変わってくる
その知恵の名を的確に捉える事が出来れば
私たちはその哲人の思想を的確に捉える事が出来る様に成る
何故なら知恵は名が変わろうともその本質は同じだからである
ここでもまたイエスの思想をスタンダードとして捉える事にしよう
イエスは知恵の事を何と言ったか
それはずばり聖霊
イエスはよく言っている
「父と子と聖霊の名に依って」と
ここで言う父とは神の事であり
子とはイエスの事である
そして聖霊は知恵の事である
私たちは誰も神を見る事が出来ない
私たちは通常知恵を通じて
神を見よう知ろうと努める
神はその求めに応じて神の知恵を分け与える
しかし誰も神を見る事は出来ない
キリスト教の教えはこうである
イエスは神の顕現であると
神が肉の形を取ったものがイエスであると
だからキリスト教の教えは分り易いのである
イエスに倣えば神に倣うのと同じだと
イエスに倣えば神に喜ばれると
イエスは死んでしまった
イエスに倣いたいがどうすればいいのか
それは聖霊に聞きなさい
すなわち知恵に聞きなさいと成るのである
とても分り易い
知恵は誰にでも存在している
そして知恵に善き事を求めれば
知恵は善き事をふんだんに与える
知恵にイエスの言行を求めれば
知恵はイエスの言行をふんだんに与えるのである
それが知恵と言う存在
「求めなさい そうすれば与えられる
探しなさい そうすれば見つかる
門を叩きなさい そうすれば開かれる」
これが知恵と言う存在である
キリスト教では知恵を聖霊と名を変えて
その働きを最大限に利用しているのである
この知恵の働きを
知恵と言う名で最大限に広めたのはソロモンである
ソロモンは知恵の人と良く言われる
それは伊達ではなくその通りなのである
旧約聖書「箴言」はソロモンの書である
これは正に知恵の書である
どの頁からも知恵と言う言葉が躍り出てくる
正に知恵のオンパレードである
その中でも第8章は珠玉である
これこそが知恵の真髄である
その一部はこの書の第2章にも掲出しているが
私は「箴言」に依って
そして「箴言」第8章に依って
知恵とは聖霊であると確信する様に成ったのである
もし知恵について学びたいのなら「箴言」を薦める
「箴言」こそが知恵に関する最高の教科書である
「箴言」には何の喩え何のカモフラージュも無く
知恵と言う言葉で知恵を語っているから
知恵を学ぶには最高の教科書である
ダビデは知恵を何と呼んだか
それは主
ダビデはイエスを知らなかったし
知恵と言う概念も持っていなかった
だから彼は偏に主よ主よと呼んだのである
ダビデには神と主と言う概念がある
神とは絶対的存在である
主とは神への執り成しをして呉れる存在である
神と主を同じ様に使っている様に思われるが
その二つを上手く使い分けているのである
絶対的存在を敬い奉る時は神
その神から執り成しをして貰う時は主
何故なら神の恵み神の慰め神の慈しみ等々
これらは全て知恵の言葉でなされるものであるから
知恵と言う主に呼びかけなければならないのである
神と主 または神と知恵
誰の取り計らいも無く
主を通じてまたは知恵を通じて神と交信すると言う遣り方
これが最も純粋な宗教の形態であり
また最も純粋な哲学の形態なのである
ダビデにはモーセと言う師が居たが
モーセに取り計らいを依頼する事無く
直接に主を通じて神と交信を計らうとした
だから純粋な信仰としてキリスト教に引き継がれて行ったのである
古代ギリシアローマおける知恵の名はダイモーンである
ウパニシャッドではアートマンである
老子においては道である
これらはキリスト教の聖霊と何ら変わる所は無い
孔子の場合見分けるのが少し難しいが
それは仁である
孔子は良く使っている 仁に問えと
これは知恵に問えと全く同じ用法である
ブッダの場合はなお難しい
キリスト経の様に聖霊に問えなどと言わないから
しかし知恵はしっかり働いているのである
奈良京都のお寺を訪ねて三尊像を見て見なさい
如来の脇に必ず智慧の菩薩が寄り添っているのを見るだろう
如来は智慧に依って働くのである
ブッダの思想はこう言う事である
無またはニルバーナに入り
そこから出て来る時
智慧が随伴して出て来ると
無と言う神はブッダだけの思想である
しかし考えれば無が一番神に近い表現かもしれない
無から最初に生まれるのが智慧(と愛で)あると
ブッダは知っていたのである
無を求めればそこに知恵が随伴して来ると言う事を
だから敢えて聖霊とかダイモーンと言う知恵を措定しなかったのである
知恵
これこそが全ての哲人の源である
哲人が如何に知恵を愛し抜いたか
それを知る事無しには
人は知恵の道を進む事は出来ない
私が挙げた十一人は知恵者の中の知恵者である
先ずは彼らから
知恵を愛する方法を学ぶのがいいだろう
そうすれば次から次に新たな師が現れて来る
新たな師に礼を尽くしつつ
彼らから知恵を愛する方法を学べばよい
二十人三十人四十人と
多くの師から知恵の愛し方を学ぶ内に
貴方にも知恵の愛し方が分って来るだろう
もうその時は師を通じて知恵を愛するのではなく
貴方自身の知恵を持って知恵を愛する事に成るだろう
すなわち貴方の主 聖霊 知恵を持って
神と交信する事に成るだろう
あのダビデの様に
またはイエスの様に
師とは知恵を愛する方法を教えて呉れる存在である
師を持たない者は知恵を愛する事が出来ない
彼は何時までも無知に止まる
哲人が何の為に存在するのか
それは貴方に知恵の愛し方を教える為に存在しているのである
だから恥ずかしがらすに
貴方の師に知恵の愛し方を教えて貰いなさい
「貴方方の誰がパンを欲しがる自分の子共に石をあたえるだろうか
魚を欲しがるのに蛇を与えるだろうか
このように貴方方は悪い者でありながら 自分の子供には良いものを与える事を知っている
まして貴方方の天の父は求める者には良いものを与えて下さる」
貴方方の師を天の父だと思って願い求めなさい
そうすれば貴方の師は貴方に巨万の富を見せて呉れるだろう
その時貴方はもう知恵以外は愛する事が出来なくなってしまうだろう
まるであの守銭奴の様に
何故なら知恵こそが全ての富の源泉でもあるのだから
知恵と言う巨万の富を得る為にも知恵を愛しなさいと
哲人はまた教える
天国とは何か
それは巨万の富の在処の事ではないのか
それは知恵
とにもかくにも哲人を師として持ちなさい
そうすれば貴方にも分限者の道が開かれる
哲人たちが如何に天国を夢想したか
それを夢想するのもまた楽しい事ではないか
貴方がイエスを師と仰ぎイエスと共に歩いたのなら
ひょとすると天国が開けるのかも知れない
しかしそれは誰も分からない
天国とは何か
これもまた哲人に聞かなければ成らない
とにもかくにも哲人を師に持つ事
これが無ければ知恵の道は一歩も進まないのではないか
勿論
無知のままに泥んでいたいと思うなら
話は別だが・・・
第14章 対話について
対話とは何か
マルティン・ブーバーの「我と汝」と言う本を読んだ事があるだろうか
あれが対話である
我と汝
私と貴方
私と聖霊
私と主
私とダイモーン
私と道
そして私と知恵
この両者間の言葉の遣り取り
これが対話である
この対話から世界が繰り広げられて行くのである
誰と対話するのを好むかと聞かれた時
聖霊と答える方々はクリスチャンである
主と答えるのはイエスやダビデである
ダイモーンと答えるのはソクラテスやマルクスである
道と答えるの老子
そして断然知恵と答えるのが私とかソロモンである
対話の本質を理解して頂けただろうか
それは知恵との対話以外の何物でも無い
その対話に依って世界が創り上げられて行くのである
あのソロモンの知恵の言葉を思い出して頂けただろうか
「主はその道の初めに私を造られた
いにしえの御業になお先立って
永遠の昔 私は祝別されていた
太初 大地に先立って・・・・」
知恵は天地創造の前に造られていたのである
天地は私と知恵の共同作業で創り上げられて行ったのである
神が「光あれ」といったその瞬間
すなわち私が生を受けた瞬間から
私と知恵の共同作業に依って
すなわち対話に依ってこの世界を創り上げて行ったのである
この比喩を いえこの実在を理解して頂けただろうか
不思議な事だが
光あれと言うその前に知恵は存在していたのである
「地は混沌であって 闇が深淵にの面にあり 神の霊が水の面を動いていた」
私たちが胎内に居る時から知恵は存在していたのである
「光あれ」と神が言った瞬間
すなわち私が誕生したその瞬間に
私は誕生したのであるが
その瞬間から私と私より少し先輩の知恵とは対話を進めながら
この世界を創り上げて行ったのである
始めはそれこそ言葉に成らない言葉で
世界創造の意味を理解して頂けただろうか
「貴方の天を 貴方の指の業を 私は仰ぎます
月も星も貴方が配置なさったもの
その貴方が心に留めて下さるとは 人間は何者なのでしょう
人の子は何者なのでしょう 貴方が顧みてくださるとは
神に僅かに劣るものとして人を造り
なお栄光と威光を冠としていだかせ
御手によって造られたものを全て治める様に その足元に置かれました
羊も牛も野の獣も空の鳥 海の魚 海路を渡るものも」
神に僅かに劣るものとして人を造ったのである
もし人と神が天地ほども離れていたら
私たちは神を求める事など出来ない
人は神に僅かに劣るものなのである
だから神を切実に求める事が出来るのである
神とは知恵
私たちより僅かに先輩なのである
しかし永遠に先輩である
だから私たちは神を敬いつつ
神から下される世界を仰いで行かなければならないのである
私たちは知恵との対話により
その世界を垣間見つつ少しずつ自分の物にして行かなければならないのである
御手に依って造られたものを全て治める様にと
私たちの足元に置かれているのである
羊も牛も野の獣も空の鳥 海の魚 海路を渡るものも
その羊 牛 野の獣 空の鳥 海の魚 海路を渡るものを
完全に手中にした時
私たちに栄光と威光の冠が授けられるのである
その為に必要な事 それが知恵との対話である
知恵との対話により
自然の美 自然の善 自然の真を見出した時
私たちは自然をそして世界を支配する事が出来る様に成るので
ある
その為に必要な事はやはり
その羊との対話であり その牛のと対話であり その野の獣との対話であり
その空の鳥 その海の魚 その海路を渡るものとの対話なのである
私たちはそれぞれ個々と対話を進める事により
自然の美を 自然の善を 自然の真を見出し
自然の体系を見出し 神の知恵を見出す事に成る
自然の体系を見出し 神の知恵を見出した時
自然は私たちの支配下となり
その時
神から自然の栄光と威光が授けられる事に成るのである
私たちは知恵と共に
常に自然と対話を続けなければならないのである
その栄光と威光が授けられる様に
これは何も自然だけに限った事では無い
人間界においても同じ事である
この人間界に存在する
一人一人と対話を進めて行き
人間の美 人間の善 人間の真を見出し
人間界の体系を見出し 神の知恵を見出した時
人間界が私たちの支配下に成り
その時 神からの人間界の栄光と威光が授けられる事に成るのである
最も人間も自然だから
これらの事はこう言う風に要約出来るのである
自然の美 自然の善 自然の真を見出し
自然界の体系を見出し 神の知恵を見出した時
この世界が私たちの支配下に成る
その時 神からの栄光と威光が授けられる事に成る
何故なら知恵は神だからである
私たちは神の世界を究明する為に
絶えず知恵と対話をしなければならないのである
私たちは全てのものと対話する時
神と対話しているのである
その牛も神であり
その花も神であり
そしてその人も神なのである
私たちは神との対話により
神の世界を究明して行かなければならないのである
それが知恵との対話である
だから私たちは一つ一つの言葉を蔑ろにしてはいけないのである
対話
それは知恵との対話の事であり
また神との対話の事である
だからその対話を蔑ろにしてはいけない
花の命を大切にしなければならない
乞食だからと言って
その対話を蔑ろにしてはいけない
そこに神が宿っているのだから
だから神と思って対話しなければならないのである
対話とは対面
「光あれ」と言われたその瞬間から
私たちは絶えず色々なものに対面しながら
対話を続けて来たのである
そしてその結果がこの世界である
そしてこの世界は今もまた成長し続けているのである
だから物事に対面した時は
敬意を表しつつ対話して行かなければならない
そうする事に依って
素晴しい世界が形成されて行くのである
この世界は全て対話に依って創り出された
だから対話を大切にしなければいけない
対話とは知恵のと対話の事であり
それは取りも直さず神との対話の事だから
第15章 知識について
知識と知恵
この二つは対立する概念である
この二つを正しく理解すれば
知識人と成り 知恵ある者と成る
そうでなければ常に無知なる者と呼ばれる
知恵とは何か
それについてはここまでに散々延べて来た
もう理解して頂けただろう
さて知識とは何か
それはずばり知恵の欠片
だから幾ら知識を集めた所で
知恵ある者と成る事は出来ないし
また知識人と呼ばれる事も無い
強いて言えばクイズ王
クイズ番組では持て囃されるかも知れないが
世に出れば誰も彼を知識人とは呼ばないし
ましてや知恵ある者ともとも呼ばない
強いて言えば物知り
私たちはクイズ王と成る為に知識を得るのか
そうでは無いであろう
であれば何の為に知識を得るのか
よい大学に入る為か
その通りだろう
よい会社に入る為か
その通りだろう
昇進試験に受かる為か
その通りだろう
知識とはこの世の通行手形
この手形を持っていれば
この世を何処までも駆け上って行く事が出来る
だからこの世では
知識がこれ程までに持て囃されているのである
科学と言う学問を知っているか
これこそがこの世の知識を集積し
そして分散させる為の方法なのである
科学と言う学問が一つの学問であれば
私たちはこの世の知識を全て手に入れる事が出来る
しかし科学はその名の通り 科(しな)の学である
私たちはその科々(しなじな)の学を学ばなければ
この世の知識を手に入れる事が出来ない
その科々の学は百とも千とも万とも言われる
だから私たちはこの世の知識は決して手に入れる事が出来ない
私たちはこの世の知識を手に入れたと幾ら騒いだ所で
それはこの世の知識の千分の一 万分の一 億分の一
いえいえそれは一兆分の一でも無く
無限分の一に過ぎないのである
先程のクイズ王
彼はその無限分の一を誇っているのである
これと似た事は
我々の身の回りは腐るほどある
その典型が
彼は東大卒である
彼は最も多くの知識を要する大学に入り
そして四年間を経過した
だだそれだけである
先程のクイズ王と何も変わらないのである
しかしその手形はこの世でもっと高く買われるのである
最も彼がその四年間の間に知恵を身に付ければ別である
その時 彼の知識は大いなる有機体へと変貌し
彼は知識人と成り 知恵ある者と呼ばれる事に成る
さてこの辺りで知識人の定義をしなければならないだろう
私たちはよく知識人とか教養人とか呼んで誉めそやす
では知識人とは何か 教養人とは何か
真の知識人とは知識に依って知恵を諭す事の出来る者であり
真の教養人とは知識に依って知恵を教え養う事の出来る者であ
る
だから知識人教養人は知恵ある者でなければならないのである
しかし知識が必要なのである
ではどれ程の知識が必要か
私は言う
中学までの知識で十分である
中学までの知識を縦横に駆使して
知恵を教え諭す事が出来れば
立派な知識人であり立派な教養人である
もし高校までの知識を駆使して
知恵を教え諭す事が出来れば
超一流の知識人教養人と呼ばれる
何故なら私たちは誰も
高校までの知識を完全にマスターしていないのだから
もしそれ以上の知識を使用する者が居るとすれば
それは単なる科学者か
単なる知ったかぶりである
私は共に高く評価しない
何故なら科学者とは知恵を知識を分断し続ける者であり
知ったかぶりはその名の通りだからである
私たちはどれ程の知識を学べば良いのだろう
私は言った
中学までの知識で十分だと
高校までの知識があれば十二分だと
しかし誰も高校までに知識を身に付けていない
もし身に付けていたら
皆が皆 東大に入っているだろうから
人は高校までの知識を身に付けていないのに
更に知識を求めている
ああ!である
私たちは何の為に知識を学ぶのか
それは知恵を学ぶ為である
私は最初に行った
知識は知恵の欠片だと
知識を何時までも集め続ければ
それこそ塵の山と成る
私たちは知恵を学ぶ為にこそ
知識を学んでいるのである
知識が塵の山ほどもあれば
私たちはどの様にして知恵を学ぶのか
その塵の山を整理するのに一生をかけるのか
それが科学者たちである
彼らはその整理の分担を決めて
その知識の塵の山を整理しているのである
私は貴方方に言う
決して科学者に成るな
また科学者もどきにも
私は言う
それよりも知恵ある者と成りなさいと
その為に必要な知識は中学まで十分
高校まであれば十二分だと
もし知識人と呼ばれたいのなら
もう一度高校までの知識を学び直しなおしなさい
そうすれば貴方へも知識人としても道が開ける
知識人とは何か
知識を用いて知恵を諭す事の出来る者である
高校までの教科書を学び直して御覧なさい
そこに生きた知恵がきらきら光っているのが見える筈ですから
その一例を取って知恵を諭して上げなさい
それが知識人と言うものであり 知恵ある者である
私は先程も言った
知識は無限だと
科学者たちはそれを追い求めている
まるでそれが有限であるかの様に
その限界を求めている
しかし私は言う
それは無限だと
無限のものを求める
それは雲を摑む様なものではないか
科学者はそれに一生をかけている
知恵が何かも知らないで
その欠片を夢中に追っている
ああ!である
もし貴方が科学者に成りたいのなら
知識を追い求め続けなさい
しかし私ははっきり言って置く
それは知恵を知識を分断するものである
そこには命は無い
それは命を細切れにする行為だと
もし知恵ある者と成りたいのなら
中学校の教科書 小学校の教科書に学びなさい
そこには知恵が一杯にきらきら輝いているからと
私たちにはどれ程の知識が必要なのだろうか
知恵ある者と成る為には
中学校の知識で十分
高校までの知識があれば
併せて知識人と呼ばれる事に成ると
しかし人は知識を求め
知識は分断され
科学は更に発展する
そこにあるのは命の分割
ひょっとしたら
どう仕様も処理出来ない知識の塵の山?
知識は無限である
私たちは何処までそれを求めようとするのか
絵描きには三十六色か七十二色の絵の具があれば十分だろう
だがコンピューター科学者は何色の色を生み出した事か
一億色?
誰がその色を見分けると言うのか
貴方たちは知らないのですか
色はその一色から生み出された事を
その色の名は光
私たちはそれを探す為に色を学び知識を学んでいるのである
光
全ての源
それを探す為に知識を学んでいるのである
貴方はその一億色から光を学びますか
私ははっきり言います
その色を数え上げた時 貴方の命は尽きると
それが科学者の宿命であると
しかし私たちの利便は科学者に負っている
だから彼らが好んでそれを行うのであれば敢て止めはしないし
感謝もする
古代ギリシア古代ローマには奴隷が居た
その奴隷の労働の上に市民の生活が成り立っていた
現在もそれと同じである
科学者と言う奴隷の労働の上に
知恵ある者たちの生活が成り立っているのである
だから好んで科学に従事する者には
最大限の感謝の言葉を述べる事にしよう
有り難し と
貴方は知恵ある知識人と成りたいですか
それとも科学者と成りたいですか
もし前者に成りたいと言うのなら
高校までの教科書をもう一度学び直しなさい
いいえ中学までで十分です
国語 社会 数学 理科 音楽 美術 保健体育 技術家庭
外国語 それに道徳
これらの教科書を買い求めもう一度学び直しなさい
きっとそこに一杯の知恵への道を見出す筈です
もし貴方が世の父親母親であれば
その知識の依って子供たちを知恵への道へ導いて上げなさい
きっと貴方には出来る筈です
知恵が何かを知っていれば・・・
知恵と知識は対立する概念である
もし貴方が知恵とは何か 知識とは何かを知っていれば
貴方は知恵ある知識人に成れる筈です
ところで知恵とは何か?
第16章 思想について
思想とは思い想う事
人間であれば誰でも行っている事である
いえ人間であれば
一時も休む事も無く思い想っているのである
死んだ様に眠って居る時以外は
何故なら人間は考える動物であり
思い想っていない瞬間は無いのである
後はそれを意識下に上げているかいないかだけの違いである
人間は考える動物である
死んだ様に眠っている時以外は
人間は常に思想しているのである
後はそれを意識しているか意識していないかだけである
人間には五感ある
それは感覚器官であると共に認識器官である
感覚している時
人は常に思想 すなわち思い想っているのである
寒い 暑い 臭い 痛い 痒い 旨い 不味い 辛い etc
これらはみんな思想ではないか
思う事であり 想う事ではないか
人間は思想する動物なのである
床に就いた貴方を想像して見て御覧なさい
如何に思想が渦巻いているか
人は思想しない瞬間など無いのである
貴方の一日を細切れにして見て御覧なさい
思想していない瞬間があるだろうか
一瞬たりともないのである
死んだ様に眠っている時以外は
何故なら人間は思想する動物だから
貴方は未だ私の言う事を理解していないようですね
死んだ様に眠っているとき以外は
人は一瞬たりとも思想していない瞬間は無いと言う事を
いいでしょう
今 貴方は私の文章を読んで思想していますよね
いやそれは違うとか その通りだとか
いいですか それでは私の文章を読むのを止めて
一分間だけ何も思わない様にして御覧なさい
どうですか
思想しない瞬間がありましたか
それこそ思想が渦巻いていたのではないですか
貴方はこう言うでしょう
私は今は思想の為に本を読んでいたのだ
急に思想は止められないと
いいでしょう
それでは三十分でも一時間でも一日でも
好きなだけ思想しない様にして御覧なさい
もし思想していない瞬間が一分以上あったら
私は貴方に表彰状を差し上げます
貴方は無の天才だと
もし思想しない瞬間が三十分以上も続くなら
私は貴方を師とします
無我の天使として
人は何時如何なる時でも思想しているのである
仕事をしている時も
遊んでいる時も
眠っている時も(死んだ様に眠っている時は別である)
用便をしている時も 風呂に入っている時も 食事をしている
時も
何時如何なる時も人は思想しているのである
ただ死んだ様に眠っている時は別である
何故ならその時は死の疑似体験だからである
だからこう言う事が出来る
人は死ぬその瞬間まで思想し続けると
死に依って人の思想は止むと
人は死後の世界に憧れる
何故か
それは死後の世界が無我の境地だから
もうその世界では思想しなくていいと思うから
人は安らかに眠れるのである
あの深い死んだ様な眠り
すなわち安眠を体験しているから
だから人は死を恐れずに死に入って行けるのである
もし死後の世界にも思想があるとぞっとする
その訳の分らない死後の世界
ひょっとした暗闇かもしれない
ひょっとしたら赤鬼青鬼が居る世界かも知れない
そんな世界で思想し続けなければならないと考えただけで
人は竦んで死後の世界へ安心して行けなくなるのである
思想
これはある意味で天国と地獄の分岐点である
もし死後の世界があるとしよう
それはどんな世界でも構わない
例えばそれが暗闇の世界だとしよう
そしてそこに誰も居ず自分一人だけが居るとしよう
そしてもう人は死ぬ事が出来ないとしよう
そんな世界に人が投げ込まれたら
大概の人は三日と待たずに狂い
そして幻視幻聴の世界に生きる事に成るだろう
その事を地獄と言うのかも知れない
しかしである
もし純粋に知恵を楽しむ者が居たとしよう
彼の死後の物語はこうである
彼は死後その世界に投げ込まれた時
こう問うのである
主よ(呼び方は好きな呼び方で良い)
ここは何処でしょうか
ここは死後の世界である
暗闇の世界であり 貴方一人だけの世界である
貴方はもうここで死ぬ事は出来ないと
彼はこう答えるのである
主よ 了解しました
私は私一人で いいえ貴方と二人で
新たな世界を築き上げますと
その時 彼のもう一人
生存中は知恵を呼ばれたその存在はこう言うのである
『善し』と
それから二人は二人三脚で
誰にも邪魔されない純粋な
二人だけの世界を築き上げて行くのである
もしお好みとあれば
人や動物を 木や森を
また大地や海や大空を配置してもいい
しかしそこに君臨するのは
私と知恵の二人だけのである
何故なら私と知恵の二人がこの世界の創造者なのだから
知恵を友とする者は
如何なる境遇に陥っても
天国を築き上げる事が出来るのである
ヘレンケラーを見なさい
光も音も無い
全くの暗闇の世界で
あの素晴しい世界を創り上げたのである
しかしヘレンケラーより優る者がここに居る
その名はイエス
イエスは死してその王国を築き上げた
その王国に住む者は分るだろう
その世界が如何に素晴しいか
しかしその王国はイエスが死して創り上げたものである
イエスと知恵とのその対話の中で
イエスの世界においては
皆がイエスの仕え人である
しかしその事が何より楽しいのである
何故なら彼らは皆イエスの作り物だからである
イエスとクリスチャンは
一体と成ってあの素晴しい世界を創っているのである
それもこれも
全てイエスと知恵との対話
すなわち思想から流れ出でたものなのである
思想の最も素晴しき形態
それが知恵との対話である
知恵を思い 知恵を想う時
そこから生まれいずる言葉たち
これが最も素晴しき思想の形態である
思想で最も低き段階にあるのは
感覚器官との対話である
熱い 冷たい 寒い 臭い 痛い 苦い etc
これらは最も低い段階の思想である
だからと言って等閑にしていいと言っているのではない
これらは生命の維持装置の役目をしているのだから
私が言いたいのは
人は一瞬たりとも思想していない瞬間は無いと言う事である
感覚器官との対話から知恵との対話まで
人は様々なものを対象としながら対話を続けているのである
一瞬も休む事無く
そしてこの対話の過程そのものが思想であると
だから誰と何を対話するか
そこに思想の格位が生まれて来るのである
私の言いたい事が分って頂けただろうか
私が言いたいのはこうである
思想をするのであれば
知恵を思い知恵を想いなさいと
そこに素晴しい世界 ワンダーワールドが生まれると
人は思想しない瞬間など無いのである
何時如何なる時も思想しているのである
死んだ様に眠っている時以外は
勿論感覚との対話は必要である
痛い痒い眠いetc
これらは生命の維持防御装置であり
これを疎かにする事は出来ない
また感情との対話も必要である
美しいetc
これらは人生に潤いを与える
それから友人妻家族etc
これらとの対話は人を成長させる
しかしこれらよりも何よりも増して重要なのが
知恵との対話である
この対話に依ってこそ
いいえこの対話だけが素晴しい世界
ワンダーワールドを創造して行けるのである
だからもし意識して思想するのであれば
知恵を思い知恵を想いなさいと
その知恵との対話から
貴方の素晴しい世界が生まれて行くのだと
第17章 作文にについて
作文 文に作る
これに依って人の思想は爆発的に膨らむ
ほとんど無限と言ってもいい程に
しかし人一人が生きられる時間には限りがある
その限りの範囲内で
人は無限と言われる程の思想をする事が出来る
もしこれを人類に置き換えれば
ほとんど無限と言ってもいいのだろう
さて文に作る事に依って
何故思想が爆発的に膨らむのか
それはその一瞬一瞬が知恵との対話と為り得るからである
知恵は太古の昔から尽きせぬ泉と言われて来た
しかし残念ながら
人の脳の記憶容量には限りがある
人は思想した事をほとんど記憶出来ない
試しに貴方が昨日思想した事を思い出して御覧なさい
どれだけ思い起こせますか
人の思想に関する記憶用容量とはそれ程の物なのである
思想とはアップツーデート
ある意味ではその場限りの物なのである
人が未だ文字を発明しない頃の思想
それはある意味では貧弱だったのである
千年一日 万年一日の如く
人類は思想し続けて来たのである
しかし文字が発明されてからの人類の思想の展開
それは私が言うまでも無い事でしょう
それは人類だけでなく
人そのものにも当て嵌める事が出来るのである
作文の技術を身に付けた者とそうでない者
そこには天地ほどの差が付くのである
作文の技術を身に付けた者は
日々の思想を文に託して行く
そして彼らはその思想を振り返る事が出来る
そして思うのである
ワンダフルと
その思想の日々を思い出して感謝するのである
私の主よ 私の知恵よ 有難うございますと
貴方が居なければ私は何者だったのでしょうと
貴方が居るお陰で
私はこの様に素晴しい時間を過す事が出来ました
それから今後も
たぶん死ぬまで永遠に
私は貴方との日々を楽しく思い出す事が出来るでしょうと
それが作文の効用である
思想は日々の命である
その思想を長らえさせて呉れるのが文なのである
イエスが何故永遠に生きながらえているか
それはあの聖書と言う作文があったからである
それは仏陀にしても同じ
ソクラテス プラトンにしても同じなのである
作文
文に作る技術を覚えれば
その命
すなわち知恵の命が
運が良ければ千年も万年も行き続ける事が出来るのである
作文 文に作る事に依って
私たちは長い思想の道のりを歩いて行ける
そしてその道程の中で
素晴しい知恵の贈り物の数々を受け取る事が出来る
それが何よりもの作文の効用である
私がこの哲学百章を書き始めてからどれ位になるのか
勘定していないから分らないが
今日で第17章である
その間に数々の知恵の贈り物を頂いた
私は知っている事を書いているのではない
その標題の下にただ書いているだけである
ある意味では自動書記である
その標題の下に流れ出す言葉を書き留めているだけである
その結果が今日までに17章と言う訳である
その間に私は様々な言葉を頂いた
それが知恵の贈り物で無くして何だと言うのか
こう言う人が居るかも知れない
それは過去の知識の産物だと
そうかも知れないが
その知識の産物が
私を生かして呉れるのであれば
やはり私はそれを知恵の贈り物と呼びたい
知恵とは何か
それは私たちを生き生きと生かす言葉
私は私の言葉に生き生きと生きる事が出来る
だからその言葉は知恵の贈り物 知恵の言葉たち
私たちは作文に依ってそれを生き生きと生かす事が出来るの
である
アップトーデートに
作文と技術を身に付けた者とそうでない者は
天地ほどの差が付く
何故なら作文の技術を身に付けた者は
日々をそして一瞬一瞬を
知恵を共に歩く事が出来るからである
知恵と共に歩いたその膨大な記録を目にする時
私たちはやはり感謝せざるにはいられないのである
私の神よ 私の主よ 私の知恵よ と
ダビデの詩篇を見た事があるだろうか
あの知恵と言う神と歩いた膨大な記録を
あの素晴しい記録を見る時
私は圧倒されてしまう
あれ程素晴しい言葉たちが
如何にダビデを慰め勇気付けた事かを
あの域に達する為には
やはり知恵を神までに格上げさせなければならないのである
私の場合は知恵を知恵と見ている
だから私の場合哲学と呼ばれる
何故なら知恵を知恵として愛しているから
時には不遜に聞えるかも知れないが
しかし私は変わらず常に知恵に敬意を表している
その敬意に応じて
知恵は私に言葉を下さるのである
もし私が知恵に神の様な敬意を表すれば
知恵は私に神の言葉を下すのである
この様なアップトーデートな知恵との遣り取りを
作文に依って記録する事が出来るのである
これらは全て知恵との遣り取り以外の何ものでも無い
作文 それは知恵を記録する為の媒体なのである
作文 文に作る技術が無ければ
知恵との対話は堂々巡りに陥り易い
無限の記憶力があれば別だが
先程試験をした様に
人の思想に関する記憶力はあれ程のものである
その小さな記憶容量の中で
知恵と対話を始めても直ぐにストップがかかってしまう
無限の地平線を知恵と共に歩く為には
また天上へと昇る階段を上って行く為には
知恵との対話を文に作ると言う技術がどうして必要と成ってく
るのである
パウロが後から生まれたのに
どうしてペテロ ヨハネと並んで
使徒の中であの様に傑出したのか
それはパウロが文に作る技術を持っていたからに他ならない
ヨハネもそうであるが
作文には三つの効能がある
一つ目は
知恵と共に無限の地平線を歩いて行けると言う事である
時間がある限り
私たちは知恵と共に在り続ける事が出来ると言う事である
この効能が何よりも大きい
二つ目は
知恵と共に歩いたその軌跡を振り返る事が出来ると言う事であ
る
これは何よりの楽しみとなり慰めとなる
三つ目は
時空を越える事が出来ると言う事である
作文に依って地域を超え時代を越えて
知恵が生き続ける事が出来ると言う事である
私がソクラテス プラトン イエスに会った様に
私もまた後世の人々と会える事が出来るのである
それは何よりの楽しみと成る
しかしその事を求めてはいけない
それはおまけ
神の思し召しによるものだから
作文の第一効用
それは常に知恵と共に
常に知恵から離れずに歩いて行けると言う事である
とにかく知恵と対話をし続けようと思うならば
作文 文に作る技術を覚えなければいけない
では作文 文に作る技術とは如何なるものか
それは一語に尽きる
すなわち「思いのままに」である
思いのままに書き続ける事
これが最高の作文の技術なのである
何故なら知恵とは
思いのままに流れ出る言葉そのものなのだから
そこに技巧や衒いが入れば
もうそれは知恵で無くなる
それはこの世のものとなる
作文の最高の技術
それは知恵から流れ出す瞬間を捉える技術である
そこには何の技巧も必要ない
強いて言えば 無垢な心
無垢な心に流れ出す言葉を書き留める技術
これが最高の作文の技術なのである
第18章 人生について
人生とは
人が生まれてから死ぬまでの
人が生きた軌跡
それは実に様々
光り輝く様な人生もあれば
暗く沈んだ人生もある
何故この様に色とりどりの人生が生まれのか
それは偏に知恵
知恵を烈しく求めた者の人生は光り輝き
知恵を求めなかった者の人生は暗闇の中の微かな光
満艦飾
これを楽しむ為に必要なものは光
夜陰の中では満艦飾がある事すら気付かないだろう
満艦飾を楽しむ為に必要なもの
それは日中の強烈な光
その光があってこそ
満艦飾も誇らしげに輝く事だろう
満艦飾の人生とは
小泉首相やブッシュ大統領の事を言うのか
そうだ
小泉首相は改革と言う知恵を信じ
ブッシュは正義の力と言うものを信じた
彼らがその旗頭の下に進む毎に
満艦飾の旗が振られた
彼らは思った
善しと
これが人生だ
しかし彼らも死ぬ間際に人生の総決算を迫られる
彼らもまたこの世で言う死を迎える
その死は心臓停止である
しかしこれが本当の人の死では無い
人は心臓停止後も精神は生き続けるのである
それが何時までかは知らない
心臓停止後1時間なのか24時間なのか
それとも火葬に付されるその時までなのか
しかしその間に人はその人生の総決算を迫られるのである
「その時には世界の始めから今までなく
今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである
神がその期間を縮めてくださらなければ誰一人救われない」
「その苦難の日々の後
たちまち太陽は暗くなり
月は光を放たず
星は空から落ち
天体は揺る動かされる
その時 人の子の徴が天に現れる」
「これらの事がみな起きるまではこの時代は決して滅びない
天地は滅びるが 私の言葉は決して滅びない」
さて小泉首相はどの様な総決算を迫られるのであろうか
私は改革を言う旗頭を高く掲げたが
あれは私の信じる道であったか
私の保身の為の道だったのではないか ふむふむ 一進一退
しかし彼が傷つけた人々が躍り出る
貴方の人生途上
私は貴方に依って傷つけられたと
彼の知恵はその時彼の為に戦って呉れるだろう
だが彼は成仏出来ない
彼は死後煉獄の中で暮らす事に成る
さてブッシュの場合どうだろう
死後直後に彼の良心が躍りだす
ああ私は私を偽ったと
その途端に
彼の言葉の為に死んだ亡霊たちが一斉に躍り出す
彼の知恵は彼を助ける事はしない
何故なら彼が彼の知恵を偽り侮り蔑していたから
彼は死後一生
地獄で暮らす事になる
その死後が
心臓停止後1時間なの24時間なのか
それとも火葬に付されるその時までなのか知らないが
それが死後の一生なのである
そして彼ら二人は共に成仏は出来ないのである
さてもう一度イエスの言葉を読み起こして頂きたい
「神がその期間を縮めてくださらなければ誰一人救われない」
「その時 人の子の徴が天に現れる」
「天地は滅びるが 私の言葉は決して滅びない」
神と言い 人の子と言い 私と言う
これこそが知恵である
もし人生において
純粋に混じりけなく知恵に勤しんでいたら
その時知恵が助けて呉れるのである
人生の途上で知恵と創り上げた理想世界が
そこに現出されるのである
それを天国とも言うのである
だから私は口を酸っぱくして言うのである
知恵とは仲良くしておきなさいと
この世の猥雑を交えずに 純粋に と
さてこれはあくまでも私の想像であるが
しかしこれが真実でないと誰が言えるのか
心臓死と脳死どちらが先に来るかと言えば
当然心臓だろう
一分の間でも
この世から放たれた時
人の脳は相当の働きをするのではないか
ビルから投身自殺を図ったものが奇跡的に助かった時
その落ちる瞬間に
人生の軌跡が走馬燈の様に駆け巡った言う話も聞くではないか
そして死を専門とする
宗教の数々の言葉もあるではないか
喩えそれが1時間でも
それはその人の心臓停止後の人生においては
永久の様に思えるのかも知れない
この事は誰も否定も肯定も出来まい
だから天国地獄煉獄の存在も
誰も否定出来ないのではないか
この事は取り敢えず差し置くとして
実際の死の間際の事を考えてみよう
やはりこの時 人は人生を総括するのではないか
ここでもう一度
小泉首相とブッシュ大統領に登場して頂く事にしよう
彼ら二人のこの様に死の宣告が告げられたとしよう
貴方方は明日一日意識の中で生き
二日目は無意識の夢の中で生き
そして三日目を迎えるその瞬間に死ぬと
彼らは一日目をどんな意識の下に生きるか
そして二日目にどんな夢を見るか
皆さんも想像して見て下さい
さて人生色々です
どの様な人生があるのか
その典型を見て行く事にしよう
典型的な人生は人生八十年である
男性の場合のその典型を描いてみよう
中流の家庭に生まれ
公立の小中学校に通い
中流の進学校に進み 中流の大学校を卒業し
中流の会社に入り
中流の家庭から妻を貰い 子供を二人ほど作り
中流の家庭を築き
中程度の出世をし
六十歳で退職し
中程度の年金を貰い
八十歳で三大成人病の一つで死ぬ
これが日本人の男性の典型的な人生である
ここに如何なる楽しみがあるのか
私は良き友達に恵まれ
良き妻 良き家庭 良き会社に恵まれ
良き老後を過す事が出来き 天寿を全うした
おお! 何と言う恵まれた方か
しかし私が相手にしているのはマジョリティである
読者にお聞きしたい
貴方方はどうですかと
おお! 何と言う結果か
半数がそうだと答えるとは
いい その様な方々に私は言う事は何もない
ただこう祈るだけだ どうか天寿を全うして下さいと
さて残りの半数の方々にお聞きしたい
何故貴方は残りの半数の方々の様に
幸せな人生を送る事が出来なかったのかと
確かに私は貴方の言う典型を歩いた
しかし私には良き友 良き妻 良き家庭 良き会社には恵まれなかった
その結果として私の老後は良きと言われるものからは程遠いものであった
貴方は七十九歳
貴方の寿命は後一年
貴方はそれで本当に善いのですか
善い筈がない
しかし仕方がない
私はこのまま朽ちるよ
あの死後の人生があってもですか
貴方のその悔恨の気持ちが貴方の死後の人生を苛みますよ
貴方は地獄に落ちる事はありませんが
煉獄の中で死後の一生を暮らす事になりますよ
それでも良いのですか
良い筈がない
しかし仕方がないだろう
仕方はあります
それは後一年を知恵と共に暮らす事です
そうすれば七十九年分の不幸を補っても未だ余りある幸福に在り付けますよ
そして死後はその知恵が貴方を天国に導いて呉れますよ
私はそれに賭けよう
これが第二の人生の典型である
年齢は関係ない
二十でも三十でも四十でも五十でも六十でも七十でも七十九でも構わない
死ぬ前に知恵に気付く事である
それが第二の人生の典型である
私はこれで人生の三大典型を述べた事になる
整理しよう
第一の典型は
自らの人生を幸福だったと言い切って死んで行くグループである
先程の世論調査では半分となっていたが
実際には一割にも満たないであろう
そして彼らとて自らを欺いて死んで行くのである
死後彼らは軽い煉獄で暮らす事になる
第二の典型は
人生とは何だったのだろう
私の人生は幸福と呼ばれるには程遠いものであったと
これがこの世の大半のクループである
彼らは死後どちらかと言うと重い煉獄で暮らす事になる
第三の典型は
先程述べた様に死ぬ前までに知恵に気付いたグループである
彼らは生前は知恵と共に暮らし
死後は知恵に導かれて天国に向かう事になる
最も恵まれた人々である
この三つの典型の他に
数は少ないが第四の典型がある
それは地獄へ行くグループである
ブッシュがその代表である
多くの人を人生途上において死に追い遣ったグループである
彼らは生前正義の哲学等を振り回すが
死後それは何の役にも立たないのである
死後直後から
彼の良心が彼を苛み
死者の亡霊が彼を苛む事になる
死後彼を助ける者は誰も居なくなるのである
第一第二第三のグループには少なからず知恵が寄り添っていた
例えれば第一のグループはランタン
彼らには人生の道がある程度見通せていたのである
第二のグループは裸のローソク
その途切れ途切れのローソクの明かりに
彼らは人生の二三歩先しか見えていなかったのである
第一第二のグループは知恵が何かを知らずに知恵を翳していたのである
だから知恵の働きをよく理解出来なかったのである
しかし第三のグループは知恵が何かを良く知っていたので
知恵の恩恵に十分に浴する事が出来たのである
知恵は文字通り太陽と成って
彼の行く先々を照らして呉れるのである
不幸の元凶である不安に彼らは苛まされる事はないのである
暗闇は人を不安にする
知恵と共に在る者が暗闇に目を向けると
それが白日の下に照らし出されるのである
だから彼は不幸になる事はないのである
さて第四のグループはどうかと言うと
彼らは知恵の事は良く理解しているが
知恵に感謝する事無く知恵を専らに自分の為にだけ利用するグループである
だから死後知恵が彼らを助ける事はないのである
何故なら彼らは生前知恵を侮り辱していたから
死後において知恵が関わらなければ
それは全くの暗闇
それは地獄も同じ
様々な不安が彼を苛む
さて人生とは何か
様々な人生がある
しかし基本形は三つ
知恵を愛し知恵に感謝しつつ天国に向かうか
知恵を徹底的に自らの為にだけ利用し地獄に向かうか
知恵の事を知らずにまた煉獄の世界に入るか
人生の基本形はこの三つ
この世で楽しく暮らし 彼の世でも楽しく暮らす
その為に必要な方法
それは知恵を愛し抜く事
それ以外に無いのではないか
人生を如何に生くべきか
結論
知恵を徹底的に愛し抜き
それをこの世に還元する
これ以上の人生は無い
第19章 幸福について
幸福とは何か
知恵と共に在る事
それ以上の幸福は無い
さて一般的に言う幸福とは如何なるものか
良き家庭に生まれ 良き友に恵まれ
良い会社に入り 良き妻を迎え 良き子供に恵まれ
そして自らも良き家庭を築き 良き老後を暮らし
そして天寿を全うする
これが幸福な人生の典型ではないか
私は前章でその典型を見た
中流と言われる人々の約一割の人が
自らの人生を振り返って
幸福だと言い切った
本当だろうか
私ははっきり言う
本当の幸福は死後に決まる
死後の総括の中で
自らの人生が幸福だったか不幸だったかは決まるのである
しかし今はその事は伏せて置こう
さて自らの人生を振り返って幸福だと言い切った人々
彼らは何を持って幸福だと言い切ったのだろうか
私は中流の家庭に生まれた
裕福ではなかったが貧乏でもなかった
必要な物は全て満たされた
私の両親は愛情豊かな人だった
死ぬまで私を愛し続けて呉れた
私は快活でお喋り好きだった
だから友達には欠く事は無かった
幼稚園小学校中学校高校大学会社と友達に欠く事は無かった
そして地域に入った今でも友達はたくさん居る
私は今その一人一人を思い出す事が出来る
それは私にとって掛け替えの無い財産である
私は一流ではないが
中流と呼ばれる会社に入り
一定のサラリーを得る事が出来た
この事が私の幸福の基盤を築いた
衣食足りて礼を知る
私は貧乏から来る不幸を免れる事が出来た
私は私にお似合いの妻を貰い
そして私たちにお似合いの子供を授かった
私たちの両親が私たちを愛して呉れた様に
私たちも子供を愛した
そして子供たちも愛し返して呉れた
その子供たちも今は立派な中流の家庭を築いている
私はその事を振り返る度に幸せな気持ちに成る
そして今 私は地域に入り
地域会 老人会にと活躍している
私は今七十九
来年は天寿を迎えて他界する事に成るが
私は私の人生を振り返って幸福だったと断言出来る
勿論人生だから波風はあったが
私の人生を総括すれば私は幸福だった
何と言う幸福な人生か
皆さんもそうですか
そうだ
私は皆さんを祝福します
幸せな方々だと
さて中流と言われた残り九割の方々よ
貴方方は不幸なのですか
そうではない
幸福でも不幸でもない
その中間と言った所だ
ところで貴方方は幸福には成りたくないのですか
勿論成りたい
しかし私には先程述べた人の様な幸福な履歴はない
私は今七十九
後一年間余生を送ってこの世を去って行くよ
幸福でもなく不幸でもなかったこの人生を
ご心配なく
一年もあれば立派に幸福に成れますよ
幸福とは履歴では無く
今在る事の幸せなのです
さて幸福とは知恵と共に在る事
それ以上の幸福はない
この事を噛み締めて見よう
何故知恵と共に在ると幸福に成るのか
答えは簡単
自分自身に還れるからである
素晴しい自分自身に
私とはこんなに素晴しい存在だったのか
そう自覚で出来る時
人は幸せな気持ちに成る
これこそが幸福の原点である
何故知恵と共に在る時
自分自身を素晴しい存在だと自覚出来るのか
それが三位一体の神秘である
私と知恵と素晴しい存在
その三者が一体と成る時
先程の自覚
私とはこんな素晴しい存在だったのかと自覚で出来るのである
知恵とはその素晴しい存在へと導く道案内
その道案内に従って道を歩いて行くと
知らず知らず山の高みへと上って行く予感を感じる
そして突如視界が開け
その素晴しい世界が現出する
そんな時人は思う ワンダフルと
それが自分自身に還る事
素晴しい自分自身に気付く事なのである
知恵と共に歩けば
毎日でもそんな世界が現出する
だから知恵と共に在る者は
常に幸福なのである
知恵と共に在る者は
毎日毎日知恵とのその遊びを楽しむ
だから彼には不幸に成る時間が無いのである
知恵と共にある者は毎日毎日が幸せだ言えるのである
この幸せは思い込み又は思い込ませの幸福とは違う
譬えれば流れいずる様な幸福感である
先程の中流の一割の方々
自らの人生を振り返って幸福だと言い切った方々
彼らの幸福と
知恵と共に在る者の幸福は質的に違うのである
例えば彼らの一日を輪切りにして見よう
彼らに幸福な時間があるだろうか
はっきり言って彼らには無い
彼らにあるのは
幸福でも不幸でも無い時間だ
先程の残り九割の方々を一緒だ
勿論知恵と共に在る人は別である
また知恵がたまたま訪れた時は別である
知恵と共に在る者は
常に知恵を呼び込む事が出来る
だから彼は毎日でも幸せに成る事が出来る
しかしそうでない者はそうではない
彼らに知恵が訪れるのは偶然でしかない
そんな時彼らは幸せだと感じる
しかし知恵が訪れる日を彼らは知る事が出来ない
彼らは気まぐれに幸福に成る事が出来るだけなのである
知恵と言う存在を知らない者
彼らの事を無知なる者と言う
この世の大半の者がそうである
先程の一割の方々も例外では無い
知恵を知っている人以外は
幸福に成る方法は簡単である
知恵を知り知恵を呼び込む事だけである
それに依って人は確実に幸福に成る
幸福とは三位一体のエクスタシーである
さて先程の九割の方々よ
そして幸福だと言い切った一割の方々よ
幸福に成る方法が分かっただろうか
幸福に成る方法はいとも簡単
知恵を知り 知恵と共に在る事
知恵を知り 知恵と共に在り
知恵と共にその素晴しき存在に突入する時
人はエクスタシーを覚える
それが至福の時
知恵を知る者はそれが楽しみで
毎日知恵と共に遊ぶ
さあ皆さんも知恵を知り
エクスタシーを楽しみましょう
第20章 平和について
平和とは何か
「平和がありますように」
これが使徒たちの挨拶であった
そしてその相手の人々が
それを受けるに相応しければ
その平和はまたその人に与えられた
平和は人から人へであった
「平和を実現する人たちは幸いである
その人たちは神の子と呼ばれる」
使徒たちはどの様にして平和を実現したのか
どうして使徒たちは神の子と呼ばれたのか
その辺りを分析すれば
平和の真の意味が分るのではないか
使徒たちがどの様にして平和を実現させたのか
その答えは簡単明瞭である
それは知恵から知恵へである
知恵から知恵に知恵が伝達する毎に知恵が花開き
平和が実現して行ったのである
彼らが何故神の子と呼ばれたか
それは知恵を宿していたから
神の子とは知恵と共に在る者の謂いなのである
知恵から知恵に知恵が伝達する毎に知恵が花開き
平和が拡大して行くのである
平和とは何か
それは知恵と共に在る者の状態の事
彼は平和の中に居る
それは彼は知恵と共に在ると同じ事なのである
知恵と共に在る者が居れば
彼の周りは平和に成る
もし彼が知恵の伝道に対して力強い意志を持ち
それを実行するならば
その平和は村を町を国を
そして世界をも被う様に成るだろう
イエスを見て見なさい
彼の知恵は世界を被った
ブッダを見なさい
彼の知恵もまた世界を被った
それは完全では無く不完全ではあるが
その被われた度合いに応じて
平和は広がって行った
私たちは一部には争いがあるものの
総体で言えば平和を享受している
そこにはイエスやブッダの知恵が
少なからず影響しているのである
知恵
これこそが平和の種である
その種を播き
それを育てる
これが知恵の伝道であり
平和を実現する事なのである
「平和を実現する人たちは幸いである
その人たちは神の子と呼ばれる」
この意味が分っただろうか
神の子
すなわち知恵と共に在る者が
その知恵を伝道する毎に
平和が実現して行くのである
「平和がありますように」
貴方にも知恵の種子が芽生えますようにと言う意味なのである
平和を実現する為にどうすれば良いか
その答えが分っただろうか
それは知恵の伝道
「知恵の花咲かせ」運動しかないのである
知恵の花咲かせ運動に対して
私は一つの希望を持っている
それは哲学革命である
すなわち知恵を愛する事に依って
この世界を変えて行こうと言う運動である
多くの者が知恵を愛すれば
あちこちに知恵の花が咲く
その花々が次第に集まり一つの群落を為す
すなわち知恵の花園を
その知恵の花園を訪れる者は
誰でも平和な気分に成り幸福な気分に成る
多くの人がその花園を訪れようになり
何時しかその花園が王国へと変わって行く
そんな革命である
その王国の名は知恵の王国
知恵を愛する事に依って知恵の王国を築く
それが哲学革命の趣旨である
私は思う
この日本こそが
哲学革命の舞台に相応しいと
何故ならこの国には
ブッダの思想とイエスの思想が上手く溶け合っているから
衣食足りて礼を知る
この国は今そんな時代に突入しようとしている
しかしこの国においては
誰も礼を教えず知恵を教えようとしていない
大学の哲学科の先生たちよ
貴方たちが知恵の伝道者と成るべきなのでないか
私はこの書をまず大学の哲学科の先生たちに贈ろうと思っている
最近はそんな気持ちで書き続けている
知恵これこそが全ての源ではないか
哲学科の先生たちよ
決して科学者と成るな
貴方たちは最後の最後まで
知恵を愛し続ける者でなくてはならないのである
貴方たちが最後の知恵の砦である
そしてまたそこから知恵の革命
哲学革命が起こって行くのである
中国の書に「大学」と言う書がある
大学の哲学科こそ正にその大学を担うべき所なのである
大学哲学科の先生方よ 心せよ
この章は平和を述べる章
それが大学哲学教授への檄と成ったが
しかし全く無関係なのではなく
平和と大いに関係があるのである
イギリス アメリカの大学で教鞭を取った
ラッセルと言う哲学者を知っているだろうか
彼が如何に知恵の伝道に心を配ったかか
それに依ってこの世界が如何に平和に向かったか
現在の日本の大学の哲学者にそんな者が居るだろうか
少なくとも私の耳には聞えて来ない
大学哲学科こそ
平和のセンターでなければならないのである
それを科学者の場としてはならない
それが私の持論だ
大学哲学科
ここから哲学革命が起こる
その為に
私はこの様にして書き続けているのかもしれない
哲学革命
これに依って国家としての日本は平和に成る
そして一人一人の日本国民は平和な気分の下に幸福になる
これが哲学革命後の日本の姿である
今この日本で
知恵の事を知っているのは
宗教者と大学哲学科の先生たちである
しかし宗教者はセクトがあるので
日本国民全てを束ねる事は出来ない
日本国民全てを知恵に依って束ねる事の出来るのは
大学哲学の先生たちである
だから私はこの様に口を酸っぱくして檄を飛ばしているのである
大学哲学科の先生は
決して文献学者に成ってはいけない
インド哲学専門中国哲学専門フラン主哲学専門ドイツ哲学専門
古代ギリシア哲学専門古代ローマ哲学専門
キリスト教学専門イスラム教学専門仏教学専門・・・等々
その様にあってはならない
勿論哲学科に仕える者としてその様な者があってもいいが
哲学科の先生はそれら全てに精通し
そこから知恵を抽出出来る者でなくてはならない
哲学科の先生は
その大学の中で最も優秀な先生でなくては成らない
何故なら
先程述べた学問だけでなく
大学の全ての学部学科からも知恵を抽出出来る者でなくてはならないからである
大学哲学科の先生は
その大学においてザ・教授と呼ばれる者でなくてはならい
それでこそ全ての教官学生が尊敬し
その知恵の伝道もまたい大いなるものと成る事だろう
もし各大学にその様なザ・哲学教授が一人ずつ居れば
日本は世界一平和な国と成り
知恵の王国日本と呼ばれる事に成るだろう
何故ならその教授に依って知恵が学生に伝播され
その卒業生から更に一般の人へと伝播し
その伝播に応じて平和も拡大して行くだろうから
大学哲学科こそ
平和センター 知恵の枢軸
大学哲学科の先生たちよ 心せよ
平和
その為に必要な事
それは知恵の伝道
それを誰がやるべきか?
私は大学哲学科の先生が遣るべきだと思う
その為に今私は旗を振り出した
それが私の平和運動??!
第21章 正義について
正義とは何か
正しくて義しい事
そんなものがこの世に有るのか
決して無い
有るのは党派の正義だけである
そしてその党派の正義に依って
争いが生み出されて行くのである
であれば正義を求める事は無駄な事か
決してそんな事は無い
正義とは一人一人の中にこそあるのである
そしてそれは知恵の中にこそあるのである
だからイエスは言ったのである
「義に飢え渇く人は幸いである
その人たちは満たされる」と
知恵に求め知恵に問い知恵に質し
そして知恵から与えられたもの
それが正義 正しくて義しい事
それはその人一人だけのもの
しかし不思議な事だが
それは知恵在る者たちの間で共有出来るのである
だから正義は表出しなければならないのである
そしてそこから知恵の連携が生まれて行くのである
正義とは正しくて義しい事
それは知恵から与えられたもの
だから一人一人のもの
しかしそれは知恵在る者の中で共有出来るのである
だから正義は表出しなければならない
しかし正義の表出は辛い
何故ならこの世の正義が束に成って襲って来るから
正義とは自分自身のもの
だから表出せずに自らにしまい込んで置いても良い
しかしそれでは正義は力を失い萎えてしまうのである
正義は表出し続けてこそ力を持ち続ける事が出来るのである
自ら正しいと思い義しいと思う事 正義
その正義を言い続け実行し続ける事
それはとても辛くまたとても難しい事
先ずはこの世の迫害を受ける
それはとても辛く耐える事が容易では無い
しかしそれにも増して困難な事は
常に知恵とあり続けなければならないと言う事である
それは至難な事
だから人はこの世の正義に組して流れて行くのである
しかし知恵を知り知恵に目覚め知恵から言葉を頂いた者は
その正義を表出しなければならない
何故ならその正義の表出が無ければ
知恵の連携が生まれないからである
知恵の連携が生まれなければ
この世の真の平和も生まれないからである
知恵の連携
知恵の大いなる連帯
ここから真の平和が始まって行くのである
だから自ら正しいと思い義しいと思い 知恵が保証した事
その正義は表出しなければならないのである
それは毎日毎日である必要は無い
特に強く感じたその時
その時だけでもいい
何故なら常に知恵と共に在る事など容易では無いだろうから
ところで正義
正しくて義しい事とは何だろう
私たちは一つの正義があると考えがちである
それに依ってマジックに掛かってしまうのである
しかし私は言う
人の行為の数だけ正義があると
何か事を起こそうとする時
人は判断する
これは善い事だろうか悪い事だろうかと
そこに正義が入り込むのである
ブッシュは善しと判断してイラク戦争を始めた
それはあくまでブッシュの正義である
決してアメリカの正義では無い
しかし人はマジックに掛かり
アメリカの正義だと勘違いし
その正義の波に乗ってしまうのである
私ははっきり言う
正義とは一人一人のものだと
そしてその時々のものだと
知恵に目覚めた者は時流に反してでも
正義の表出をしなければならないのである
そこから知恵の連帯が生まれるのである
さてここで個人の正義 知恵在る者の正義と
この世の正義 党派の正義との違いを述べて置こう
個人の正義とは知恵在る者の正義の事だが
それは自らが正しいと思い義しいと思い 知恵が保証した事
一方この世の正義とは党派の正義の事だが
それはある者が正しいと思い義しいと思った事に追従する事
知恵在る者の正義はそれぞれがそれぞれに独立しているが
しっかりとした連携が取られている
それに引き換えと党派の正義は常に徒党を組み
時の流れに応じて右往左往する
私はここではっきり言って置く
正義とは一人一人のもの
一人一人が正しいと思い義しいと感じ 知恵が保証した事
それは行為の数だけある
正義の表出はとても辛く難しい
先程も述べた様に
この世の迫害があり
常に知恵と共に在る事も困難だろうから
しかし時には
この世の平和の為に
我々の正義を輝かそうではないか
正義とは
一人一人が正しいと思い義しいと感じ 知恵が保証した事
第22章 信仰について
信仰とは信じて仰ぐ事
何を信じて仰ぐのか
神か
そうだろう
それでは神とは何か
結局信仰を語る場合
神を語らなければならないのである
神とは何か
私はそれをここで論じる積りは無い
何故なら「神について」は
この哲学百章の最終章で語る積りで居るから
ここでは
人は何故信仰に走るのか
そして人は何故信仰にこれ程までに冷淡なのか
その辺りを論及してみたいと思う
数は少ないが
熱烈な信仰に走る者がいる
彼らをそれほどまでに駆り立てているのは何か
それは熱情の神のせいか
きっとそうなのだろう
熱情の神に取り付かれた者は
その神の如く熱情的に神を信仰する事になるのだろう
彼らは言う
神が全てと
その通りなのだろう
しかしそうなのだろうか
神はそれほどまでに
表で騒がしいものなのだろうか
「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めて」
これがイエス流の祈りの方法ではなかったか
それを熱情的な信仰者は
「会堂や大通りの角に立って祈りたがる」
果たしてそんな所に神が居るのか
私はやはり言わなければならない
彼らは熱情の神に取り付かれていると
彼らは真の神は知っていないと
もし真の神を知っていたら
イエスの様に
奥まった自分の部屋に入って戸を閉めて祈るだろう
神よと
神は静謐な上にも静謐な所に存在するのだから
勿論そこから熱情の神が生まれる事もある
しかし最初から熱情の神に取り付かれた者は
常に熱情の神と一緒だ
彼は神の一面しか知る事が出来ない
しかしそれはそれでも良いのだ
少なくとも彼は神と言う存在を知る事が出来たのだから
さてもう一方の人々
すなわち信仰について冷淡な人々
彼らがこの世のマジョリティである
彼らが何故信仰について冷淡と言うか無関心なのか
それは取りも直さず
彼らが神を知らないからである
神を知らなければ
当然に信仰と言う概念も彼らには生まれて来ないのである
何故彼らが神を知る事が無いのか
それは偏に教育のせいである
確かに信仰とは知識を放擲する事である
しかし信仰に至るまでの導きは全てが知識に依るのである
神とは斯々然々のものである
そう教えて上げれば
誰もが神への道を信仰への道を踏み出す筈である 喜び勇んで
しかし現代では神は宗教の彼方である
だから誰もが懼れて踏み出せないで居るのである
何時から神は宗教の専売特許になったのか
しかし神を宗教から解き放つ人々がいる
彼らを神秘思想家と言う
神秘思想家の系譜は古い
ピタゴラスがそうだと言う
しかし私たちは文献でそれを確認する事は出来ない
ソクラテス プラトン
彼らは立派な神秘思想家だ
だがプラトンがあまりにも優秀な詩人であり作家であった為
その著作は暗喩比喩に満ちた物語となっている
そこから神秘思想を読み取る事は
相当に優秀な神秘思想家でなければ読み取れない
しかし私は言う
ソクラテス プラトンが文献上に残る
ギリシア最大の神秘思想家であったと
彼らの影響はアジアヨーロッパへと広がって行った
その影響を最も強く受けたのがイエスである
イエスに依って神秘思想が大衆へと広まって行ったのである
しかし大衆へと広まって行ったが故
またその弊害も出て来たのである
一方プラトンの神秘思想をそのまま受け
それを純化させた者がいる
プロティノスである
3世紀はイエスの神秘思想とプロティノスの神秘思想の凌ぎの場であった
そしてイエスの神秘思想が勝利した
その立役者はアウグスティヌスであった
アウグスティヌスの神秘思想の解説書
「神の国」に依って
イエス アウグスティヌス連合軍が勝利したのである
その後ルネサンスを経て近代に至るまで
その勝利は揺らぐ事は無かった
東洋の神秘思想家と言えば
釈迦 老子 孔子等々
古代ギリシアローマではソクラテス プラトンに
セネカ エピクロス マルクスアウレリウス等々
古代ユダヤで言えば
ダビデ ソロモン等々
神秘思想家は古代には綺羅星の如くいる
私の言う神秘思想家とは
神秘主義者より概念が広い
私の言う神秘思想家とは
神の秘密を思想する者の謂いである
上記で挙げた人々
彼らは自らの力で
神の秘密を解き放った人々である
そして彼らは皆
彼らの解き放った神に依って生きたのである
すなわちその神を信仰しつつ終世を迎えたのである
そしてその時こう言ったのである 善しと
最も偉大な神秘思想家は
勿論イエスと釈迦である
彼らは彼らが解き放った神に依って生きた
しかし彼の追随者たちは
イエス釈迦及び彼らに続く後継者たちの神秘思想に囚われる事になったのである
キリスト教であればイエスの系譜を継ぐ
パウロ ヨハネ アウグスティヌス トマスアクィナス等々の教父たちに
仏教であれば釈迦の意志を引き継いで
様々な仏典を作成したブッダや龍樹 無著 世親の論者たちに
私はあまり言いたくないがやはり言わなくてはならないと思う
熱烈なクリスチャン熱烈な仏教徒であればあるほど
彼らは自らの力で神を解き放つ事は出来ないだろうと
彼らはどうしても熱情の神に囚われてしまう事になるだろうと
しかしそれはそれで良いのである
何故なら彼らには立派に信仰する神があるのだから
さてもう一方の人たちを考えて見よう
すなわち神に冷淡な人たち
信仰に縁の無い人たちである
彼らが何故神に冷淡で信仰に縁が無いのか
それは先程も述べた様に教育のせいであると
神とは赫々然々のものであると教えて貰えば
皆喜んで信仰に向かうだろう
しかしこの日本では誰も教える事が無い
と言うより神の事を述べる事はタブー
若しくは忌むべき事だと考えている
その結果神は宗教の彼方へと去ってしまった
神は宗教の専売特許なのだろうか
信仰は宗教の専売特許なのだろうか
私は言う
神と言う概念も信仰も敬虔な人なら誰でも持っていると
敬虔な人であればあるほど
神に関する強い概念を持つ様になり
その神を信じ仰いで
自らの世界を構築して行く事になるのである
これが神秘思想家の系譜である
だから真の神秘思想家は
既存の宗教は参考書としては使うが
最後はその宗教も放擲して
自らの神の概念を持ち
その神を信じ仰いで
自らの世界を構築して行く事になるのである
偉大な神秘思想家を見て見なさい
私の言う神秘思想家を
ソクラテス プラトン イエス 釈迦 老子 孔子 セネカ エピクロス マルクアウレリウス ソロモン ダビデ等々
私は言う
彼らはそれぞれに神を見出し
それを信じ仰いで
彼らの世界を構築して行ったのである
だから私はここで新たな提案をしたいと思う
すなわち神に関して何らかのアレルギーを持っている人たちに
先ずはこれら偉大な神秘思想家が
神の事を如何に概念したか
そしてその神に依って如何なる恩恵を受けたのか
その事を理解すれば
きっと神への道を信仰への道を踏み出す筈である
その道先案内人が知恵である
やはり私はここでこう結論しなければならないのだろう
神への道信仰への道に至る為には
まず知恵を愛さなければいけないのだろうと
知恵の導きに依って神への道信仰への道が開けるのだから
知恵を愛する(哲学)の最も良い方法は
古代哲学者(神秘思想家)に学ぶのが最も良いと
何故なら彼らの中には
神 知恵 信仰が
それこそ火花が散る位に一杯に詰まっているのだからと
第23章 祈りについて
祈りとは何だろう
私はこれまで信仰と同じものであると考えていた
しかし違うのである
信仰とはその普遍なるものを信じて仰ぐ事
そして祈りとはその普遍なるものに祈る事
「求めなさい そうすれば与えられる
探しなさい そうすれば見つかる
門を叩きなさい そうすれば開かれる」
これが祈りである
祈りに依って
私たちの世界が構築されて行くのである
信仰とは無への道
祈りとは有への道
無に至る事がなければ有に至る事も出来ないのである
「日々新たに」「新生」
ここに信仰と祈りの秘密が隠されているのである
この世とかの世
良く使われる言葉である
かの世に渡る事がなければ
かの世の概念をこの世に齎す事は出来ないのである
ここに信仰と祈りの秘密がある
その普遍なるものを信じ仰ぐ事に依って
私たちはその普遍なるものに近づく事が出来る
その時その普遍なるものは言うでしょう
求めなさい 与えるからと
その時私たちは祈るのである
あれこれをお願いしますと
その時そのあれこれが
かの世からこの世に齎されるのである
これが信仰と祈りの関係である
最もこんなに直裁な遣り方で行われるのではなく
それこそ阿吽の呼吸で行われるのである
私たちの祈りがその普遍なるものの臨在の元に行われない時
その祈りは空念仏となる
空しく空に散って行く事となる
祈りとはその普遍なるもの属性を頂くと言う行為に他ならないのだから
私たちがよく挨拶とか手紙で
斯々云々を祈っていますなどと結ぶが
あれは空念仏の代表格である
その祈りは決して実現しないであろう
何故ならその普遍なるものの臨在に行われていないから
しかしもしその祈りが
その普遍なるものの臨在に行われているとしたら
その祈りは実現する事だろう
何故ならその祈りにはその普遍なるものの属性が身に付いているから
そうならなければならないと言う属性が
私たちは良く祈ると言う言葉を使うが
祈りの前にはその普遍なる者と言う存在がなければならないのである
その普遍なる者の存在がなければ
その祈りは何時も空念仏である
信仰と祈り
これは表裏一体のものである
信仰がなければその祈りは常に空念仏となる
私たちの祈りが無駄にならない為に
いえ私たちの祈りが生きる為に必要な事
それはやはり普遍なるものを信仰する事
しかし現代では信仰は宗教の彼方
私たちはもう信仰を取り戻す事は出来ないのか
私はその一つの方法を前章で述べた
すなわち古代の哲学者が如何に神を概念し
そしてその神を如何に信仰したかを学びなさいと
私はもっと簡単な方法を示す事にしよう
それが瞑想である
もし貴方が真に瞑想する事が出来れば
それだけでその普遍者を信仰するに至るだろう
何故なら瞑想の真の目的は
その普遍者を視る事なのだから
もし貴方が瞑想に依って普遍者を視る事が出来れば
貴方は必ず普遍者を信仰する事になるだろう
何故なら普遍者とはそれ程までに強烈な存在なのだから
しかし神の概念を何も知らずに瞑想に入っても
ただ眠くなるばかりか
若しくは様々な雑念に悩まされるだけであろう
やはり神と言う概念を知らなければ
その普遍者への信仰は起こって来ないのだろう
神と言う概念を知る方法
それはやはり古代哲学者に学ぶしかないのだと思う
さて私たちはその普遍者を垣間見
そしてその普遍者から
求めないさいと言われた時
私たちは一体何を祈るのか
国際平和をか家内安全をか
確かにこれらは求めるに価値のあるものだし
祈るに価値のあるものだ
しかし私の祈りは何時もこうだ
「御心のままに」と
そして私はその普遍者から下される甘露を味わう
何故もない
私は私の幸せだけを求めているのである
私の幸せが家族に普及すればそれはそれで良い
家族の幸せが地域に普及すればそれはそれで良い
地域の幸せが国家に波及すればそれはそれで良い
国家の平和が国際平和に波及すればそれはそれで良い
しかしその様な事はあり得ない事
だがである
多くの者がその様に祈り
その幸せが波及して行ったら
その結果として世界平和が実現されるのではないだろうか
私は思う
その時人間に新しい類が生まれている事になると
旧人類から現人類に移り変わった様に
新たな人類が生まれる事に成るのだろう
現人類の事をホモサピエンス(知性ある人)と言うらしいが
その新人類はその用法で行くと
ホモソフィア(知恵ある人)もしくは
神々に近い人と呼ばれのかも知れない
その時は争いが無く常に平和となる
イエスの「神の王国」に近い存在になるのかも知れない
私の祈りは何時も「御心のままに」である
そして多くの人がそう祈って欲しいと思う
因みにイエスが教えた祈りの文句は
「天におられる私たちの父よ
御名が崇められますように
御国が来ますように
御心が行われますように
天におけるように地の上にも」である
御心とは何か
その意味を見出す時
祈りの意味も浮き彫りにされる
その時その祈りの中に
御名が崇められ 御国が来 御心が行われるのである
祈りとは貴方の理想の世界を構築する事にある
第24章 天国について
天国とは何か
それは私たちが想像し得る最高の理想世界
百人居れば百人百様
かつて帰って来た酔っ払いと言う歌がヒットした事がある
その中に天国の描写があった
それはこんな風だった
天国よいとこ 一度はおいで
酒は美味いし 姉ちゃんはきれいだ・・・
酔っ払いの天国とはそんなところだろう
しかし今私が話題としようとしているのは
もっと聖なる天国の事だ
私はローマ法王に聞いて見たい
貴方の思い描く天国とはどんな天国ですか
そして全てのカソリックの人たちは
天国をその様に思い描いていますかと
彼はどう答えるのだろうか
こう答えるのだろうか
天国は貴方の心の中に在ると
その様に返されると
私は私自身で天国を描かなければならない
今しばらく天国の事について
聖職者に聞いて回る事にしよう
日本の臨済宗の最高位の人に聞いてみよう
貴方は天国と言うものを想像出来ますかと
彼はこう答えるのか
天国などと言うものはない
もし最高の理想世界を描けと言うのであれば
それは無の世界だと
私はそれに対してこう聞き返す事にしましょう
それは有余涅槃無余涅槃の事ですかと
彼はそれに対してそうだと答えるのか
もしそうだとすれば私もそうだと答えたい
私には有余涅槃無余涅槃以上の最高の状態は考えられない
特に有余涅槃は生きている限りにおいて最高の状態だ
それは恍惚であり法悦であり至福であり天国であり極楽だ
私はその様な状態を想像する事が出来る
それは完全な熟睡の中に覚醒している状態だ
しかしそれも一瞬
次の瞬間には思考が活動し始める
私たちは生きている限り
その一瞬を除いて完全なる無に成る事は出来ない
無余涅槃
それが完全なる無であれば
死はなんら怖れるに足らない
むしろ両手を広げて死を迎えたい
しかしそれは誰も知らない
そこには地獄があるかも知れない
だから宗教に涅槃を求めるのか
私たちは幼い時天国を次の様に描いた
そこには神様や天使や良い人たちが居て楽しく過す事が出来ると
それが天国の原型だ
そしてそれを私は想像出来る
それはかの有余涅槃から目覚めた時だ
私たちが完全なる熟睡の覚醒からこの世に目覚める時
私たちはその様な世界を思い描く事が出来る。
私は次第に天国を描き始めている様だが
今しばらく聖職者回りをする事にしよう
今度は浄土真宗の最高位の聖職者に聞く事にしよう
西本願寺と東本願寺の最高位のお二人に一度に聞く事にしよう
浄土真宗の根本経典である観無量寿経や阿弥陀経では西方浄土すなわち極楽を描きますが
あれは比喩ですかそれとも現実ですか
それは比喩でもあり現実でもある
それはどう言う意味でしょう
貴方はどちらとして捉えたいのだ
勿論比喩です
だったらそう捉えればよい
それに依って貴方の天国を描けばよい
後は経典に従ってそこに行けるよう祈れば良いのだ
とても有り難い説明有難うございました
私はその説明で十分なのですが
私の好奇の心がそれでは納得せず
こう聞けと言うのです
極楽が現実とはどう意味ですかと
簡単な事だ
死後極楽に行けると言う事だ
そんな事を信じる人がいるのですか
信じる者もいるし信じない者もいる
信じる者には現実だと説き
信じない者には比喩だと説く
よくそれで分裂しませんね
人の心は大きいのだ
もう一つ駄目押しで聞かせて下さい
その死後とは火葬に付されるまでの間の事ですか
それとも火葬に付され肉体が全く消滅した後もですか
貴方の思うとおりだ
いえ 今回はそれでは納得しません
前者か後者かはっきりさせて下さい
それでははっきり答えよう
前者だ
え! それで本当に良いのですか
死後とは荼毘に付されるまでのその間の事を言うのだ
その間に人は地獄と天国を見る
そこで地獄見ずに天国を見るようにと人は宗教に縋るのだ
たったそれだけの為に人は一生をかけて宗教に奉仕するのですか
そうだ たったそれだけの為にだ
しかし死んだその者にとってそれは永久なのだ
そこで無になれる者が最高 俗に言う涅槃
次が天国その次が煉獄そして地獄と成る
我々生きている人間にとっては僅かな時間だが
死んだ者にとってはそれが永久となるのだ
だから一生をかけて宗教に縋るのだ
本当ですか 私の思いをただ写しているだけでは無いですか
不服かね 私は貴方の鏡だ
先程駄目押しだと言いましたが
これが本当の駄目押しです
それは脳の働きによるものですか
すなわちその意味するところはこうです
人は死後 すなわち心臓死以後も脳は働いている
それが何時までかは分らない
しかし火葬以後ではあり得ない
その間に人は永遠の夢の様に天国を見地獄を見る
それは全て脳の働き
人は心臓死を死だと思っているが
本当の死は脳死
その死は現在考えている様な脳死ではない
もっともっと微妙な死だ
脳は心臓死以後も生きているのである
通夜葬式は遺族の為にあるのではない
あくまでも死者の為にあるのだ
すなわち心臓死になった者が脳死の間までに
天国に近づけるようにと祈る為の法事なのだ
そうなのでしょうか
その通りだ
その事を信じて私たちに付いて来なさい
やはり日本一の宗教だけありますね
説得力が違う
私を見透かしている
そしてこうも言うのでしょうか
「新曲」のダンテも
プラトンの「国家」最終章のあの逸話のエルも
そして死後から帰ってきた人たちも
全てこの死後
すなわちこの心臓死から脳死の間に体験した事なのだと
全くその通り
火葬に付された誰かが帰って来たと言う話を聞いた事があるか
こんな事を聞くべきでは無いですが
ラザロもそしてイエスもその死後から帰って来たのですか
その通り
だからこう言う事が出来るだろう
人は心臓死以後最高三日まで脳は生き続ける事が出来ると
そしてその脳が最高限度に働き続けた時
人は蘇生すなわち復活する事が出来ると
その為には心臓死に成っても
すなわち五感が全く機能しない状態
すなわち全くの暗黒の中に在っても
光り輝き続ける事の出来る脳が必要なのである
その様な脳があってこそ人は復活出来るのである
しかしそれは極々限られた人
我々凡人はその死後において地獄を見ずに天国を見る事が出来る様にと祈ればよいのである
それが宗教であり哲学なのだ
宗教 哲学は死を恐れずに死に入っていく為のレッスンなのである
どうも有り難うございます
私の弁を代弁して下さって
今日は貴方に乗せられてしまったようだな
どうもすみません
さて聖職者周りもこれ位にして
愈々自らの天国を語らなければならないのか
いやその前に訪れなければならない聖者がいる
その名はヨハネ
ヨハネは黙示録で神の都エルサレムすなわち天の国の事を語っている
それは次のようである
都は神の栄光に輝いていた
その輝きは最高の宝石の様であり透き通った碧玉の様であった
また都の城壁は碧玉で築かれ都は透き通ったガラスの様な純金であったと・・・
これらの表現は観無量寿経等の極楽浄土の表現と似ている
すなわち金銀瑠璃 玻瓈硨磲 赤珠瑪瑙 而厳飾之・・・と
ヨハネ様
貴方は黙示録で神の都の事を述べていらっしゃいますが
あれは比喩ですか現実ですか
貴方はどう思う
比喩だと思います
どうして神の国を具象として描けましょう
貴方の思うとおりに貴方の天の国を描きなさい
天の国は貴方の心の中にこそ在るのだ
有難うございました
もう無駄口は叩きません
さて愈々私は私自身で私の天国を描かなければならなくなった
私の天国とは?
私が何時までもそこに住みたいと思う様な国
もっと極端な言い方をすれば
私が完全な無になるまで
すなわち涅槃に至るまでに
私が住むべき国はどの様な国なのか
私はここで涅槃と天国の区別をしておく
私の言う涅槃とは完全なる無の状態と言う
私にとってはこれ以上の状態はない
天国とはそこに至るまでのステップである
と言うか涅槃の一歩前
私たちは天国に飽きた時
その時始めて涅槃へと渡る事が出来るのである
さて私が住むべき天国とはどの様な国なのか
私の天国にはどれ程の面積が必要なのか
大きければいいと言うものでは無い
何故ならその天国の住人である私は現在の私
すなわちこの現在の感覚を持つ私なのだから
だから天国はこの私の感覚の及ぶ範囲内で秩序付けられた世界でなければならないのである
ヨハネが描く神の都の面積は12,000スタディオン(2,220km)四方である
かなりの大きさである
多くのクリスチャンを受け入れる為にはそれ位の面積が必要なのだろう
しかし私の国土においてはそれほどの面積は必要としない
ここで私ははたと思った
私の思い描く天国の主権者は誰であるかと
私は先程天国の住人である私と書いた
私はそれを書いた時
私の天国の概念が広がっていった
最も天国については以前にも思いを巡らした事もあったであろうので
無意識下ではかなり進行していたのだろうが
今回天国の標題の基に書き始めたので
それが意識の上に上がって来たのだと思う
私の天国の主権者は誰であろう
この私である
この私がこの王国の王なのである
しかしこの王国には神の精神が漲っているのである
何故なら私の王権は神から授けられたもの
王権神授説
これが私の王国の基本法なのである
私は神からの付託を受けて私の王国を支配するのである
さて私の王国にどれ程の国土が必要なのか
私の王国にどれ程の国民が必要なのか
私の王国にどれ程の国法が必要なのか
それらは全て神から下されるもの
私はその神から下されるものをただ書き綴るだけ
その結果が私にとって神の王国すなわち天国となるのである
だから私は今日も明日も明後日もそして死ぬまで
神の言葉を書き続けなければならないのである
その結果が私の天国なのである
私の天国を何処まで拡げて行けるのか
それは全て私次第
神の言葉に注意深く耳を傾け
そしてそれを忠実に書き写して行く事
それが現世に私に課せられた宿題
そしてもし死後が在るのなら
その天国が私の死後を飾って呉れるのである
何と素晴しい事ではないか
天国を描く事は
現世でも楽しくそして死後楽しく暮らせるとは
天国を描く事
これが私たちに神から課せられた宿題なのである
私は死ぬまで真善美に溢れた世界を描きたいと思う
そして死後神様に会えたら
こう言う事にしよう
これが貴方から課せられた宿題ですと
そしてその永遠の様な夢の時を私の描いた天国の中で暮らす事にしよう
そして無の世界へと旅立って行きたいと思う
これが私の死後観であり天国観である
なお私の言う死後とは先程から言っている通り
心臓死から荼毘に付されるまでのある一定期間の事である
その間に永遠の様な地獄を見ずに天国を見るようにと
私は一生を神の言葉に捧げるのである
しかし私は最後に言いたい
死後が有ろうと無かろうと
現世において天国を描く事は楽しい事だと
私は死ぬまで私の天国を描き続けたい
第25章 死について
死とは何か
そこには二つの概念がある
一つは心臓死であり
もう一つは脳死である
心臓死は分り易い
心臓の鼓動が止まった時であり
誰でも判定出来る
しかし脳死はそうはいかない
現在は二人の専門医に依ってする事になっているらしいが
すこぶる怪しい
現在の脳死は臓器移植の為にその道の人たちが定めたものである
私が言う脳死とは精神の完全なる死の時を言う
完全なる脳死が何時かと聞かれても
私は分からないと答えるしかない
だた火葬の時には脳は完全に死ぬと言い切れる
しかしその時でも精神が完全に死ぬとは言い切れない
その時精神は灼熱地獄を味わっているのかもしれない
ここで私は三つの死の概念を提示しなければならなくなった
心臓死脳死は先にあげたが
もう一つの死は精神死である
精神の死が人間にとって本当の死である
さて精神死脳死心臓死
この三つの死がどんな順番で起きるのか
それに依って死後の概念が全然違って来る
この三つの死が同時に起きれば何の問題は無い
たぶん死後の世界と言う概念が発生しなかっただろう
しかし現実は違う
違うが故に死後の概念が生まれて来たのである
さて私は何が言いたいのか
その前に三つの死の順番を整理しよう
心臓死脳死精神死
これらの三つの死の内どれが一番先に来るのか
やはり私は言わなければならない
心臓死が一番先に来ると
もっと光を!と言って事切れた時
それと同時に脳が死んだのだろうか
精神が死んだのだろうか
確かにその時肉体運動は終わった
人はもう口を利く事も目を開ける事も手を上げる事も出来ない
しかし感覚器官は僅かにその機能を残している
そして精神活動が活発な活動を始めるのである
やがて感覚器官も働かなくなった
その時精神活動がこれまでも無くそして今後も無い様な
猛烈な活動を始めるのである
「その時には世界の初めから今まで無く今後も決して無いほどの大きな苦難が来るからである」と言われているように
私たちは知っている
運動器官が静かになれば精神活動が高まる事を
感覚器官が静かになれば精神活動が更に活発になることを
その事が死後これまでに無くそして今後も決して無い程に
烈しく起きるのである
その時人は原罪及びこの世で犯した罪々に苦しみ
地獄を見煉獄を見るのである
「神がその期間を縮めてくださらなければ誰一人として救われない」と言う様な苦しみを味わう事になるのである
私たちにとって死が重要性を持つのは死後の概念があるからである
死後と言う概念が無ければ死は何ら恐ろしいものでもなく
むしろこの世に疲れた者に好ましいものになる
ああ疲れた!死んできれいさっぱり無になるか
そう言って人々は自ら死を選んでいくかもしれない
しかし私たちは死を目の前にしてためらう
そして多くの者が死を取り止める
そこにあるのは死後の恐怖があるからではないか
よく言われる
「自殺した者は天国に行けない」と
そんな言葉が死を取り止めさせるのではないか
私たち現代人はよく死後の世界は無いなどと言う
しかし死を直前にした時死の恐怖に囚われる
そこにあるのは死後の概念では無いのか
こう言う人がいるかもしれない
この世への未練が死を止めさせると
私はその人にこう言おう
未練は断ち切る事が出来るが恐怖は断ち切れないと
恐怖を目の前にした時人は必ず逃げ惑う
これが本能なのである
この本能の中に如何なる恐怖が刻まれているのか
それが地獄煉獄か
だが現代人は言う
火葬されて灰と骨だけになった人間にどうして地獄が付き纏うのかと
私も全く同感だ
イエスは死んで三日目に復活した
私はこの三日の日々と言うものが
死後の概念に大きく影響していると思われる
人が人として在り得るのは三日目までであると
四日目以降は如何なる人といえども人としては在り得ないと
人はこの三日間に地獄を見天国を見そして全くの無に帰して行
くと
ダンテはこの三日間に地獄を見煉獄を見天国を見たのである
プラトン国家のあのエルもこの三日間にあの死後の世界を見たのである
そしてイエスも
そしてイエスは私たちに福音を齎したのである
私に付いて来なさい
そうすれば貴方たちを天の国へと連れて行ってあげると
私たち生きている人間にとっては僅かに三日だが
その死後の世界に生きる人間にとってはそれが永久の様に思えるのである
特に地獄煉獄に留まる者は
そしてそれは全て脳の働きであり
精神の働きなのである
例え脳と言う臓器が焼かれ灰になり
全く精神が機能しなくなっても
その者にとってはそこに地獄が永遠に存在している様に思えるのである
これが地獄の恐怖なのである
「その時には世界の初めから今まで無く今後も決して無いほどの大きな苦難が来るからである
神がその期間を縮めてくださらなければ誰一人として救われない」と言う恐怖が存在する事になるのである
神に縋っていた者はその三日間の内に
地獄煉獄そして天国へと渡り
そして完全なる無と成ってこの世から消えて行くのである
ダンテやエルは神の思し召しに依ってこの天国から帰還したの
であり
イエスはこの世界の民にその福音を齎す為に自らの意志で復活
したのである
完全な無に成らずに
これは菩薩たちも同じである
彼らはこの世の民を救う為
完全なる無に成らずに自らの意志でこの世に帰還したのである
これが死後三日間の神秘なのである
現代の人々よ 理解して呉れただろうか
だからゆめゆめ死後の世界など無いと高を括らずに
この世を神に縋って一生懸命生きて欲しい
神とは何か
最終章で明らかにする事としよう
今貴方方に言えるのは自分に正直に
そして知恵を大切にしなさいと言う事だけだ
そうすれば今世も楽しく来世も楽しくなる
死すなわち心臓死は
我々を今世と来世に分ける
今世は八十年そして来世はたったの三日
だが来世の方が今世に比べて何十倍も何百倍も
いえほとんど無限大と言う程に長いのである
何故なら地獄煉獄に留まる者にはその三日が永遠の様に思えるから
これが私の死後に関する一考察である
なお心臓死脳死精神死の死の順番は次の通りとなる
先ず始めに来るのが心臓死
それは誰も判定を間違う事は無いその時
次が脳死
それが何時かははっきりしないが
火葬の時には完全にその臓器は死ぬ
そして精神の死
それは今見て来た様に地獄煉獄に留まる者はほとんど死ぬ事が無いのである
それに引き換え地獄煉獄天国そして完全なる無を迎える事の出来る者は本の一瞬の内に精神の死を迎える事が出来る
完全なる無 これがも最も好ましい死の姿なのである
さて脳死と精神死とどちらが先かと言う疑問が残るが
それに対してはこう答える
完全なる無を迎える者は自らの意志に依って脳死の前に精神死を迎える
それに引き換え地獄に留まる者は脳死のその時まで精神が脳に留まる
だから彼らは火葬と言う灼熱地獄を味わう事になる
煉獄天国へと渡る者は自らの意志で脳死前にそれらのステージに渡るので灼熱地獄は体験する事が無いなどと
空想は空駆け回る
だが誰も死後の事は知らない
そして現代人と言われる人々も表上は死後は無いなどと言い切っているが
ほとんどの者が心から割り切っていないのである
そして死を直前にして慌てふためくのである
もしそうなのであれば
事前に死後を考察して
その時を慌てふためかないようにする事もまた哲学の役目かと思う
結局死を考察する時
その死後を考察する事になるのである
死後の恐怖を和らげる
これが死の哲学なのである
なお死の哲学には如何に現世を生きるかと言う事が含まれる
それに対してはこう答える
この世に天国を築く事
それが現世をよりよく生きる事であると
天国の事については前章で述べた
この世を如何に素晴しい言葉で飾るか
それが私にとっての天国構築
この天国が私の死後を飾って呉れたら私は嬉しい
結局心臓死以後の三日間
たぶんそれは本の短い時間かも知れない
未だ脳の能力が残っている間に
地獄から煉獄 煉獄から天国そして無へと
駆け上る練習をして置けば
その時慌てふためかずにきれいな死を迎える事が出来るのだと思う
この世で天国を構築する事
それがきれいな死を迎える為の最も素晴しいレッスンなのである
私たち人間には原罪がある
だから死後皆必ず地獄に行く
しかし原罪だけの者は直ぐにそこでそれを焼き尽くして
次の煉獄へと進む
煉獄での経験も既にこの世で経験済みの者は
そこに留まる事無く更に次の天国へと進む
天国での経験も既にこの世で経験済みの者は
そこに留まる事も無く速やかに無へと帰って行くのである
これが聖者と呼ばれる人たちのコースである
一方この世でたくさんの罪を犯した者は
その脳の能力が残っている間に
その全ての罪を焼き尽くす事が出来ないので
地獄に残ったままあの灼熱地獄を体験する事になるのである
煉獄天国に留まる者はその中間の人々である
などと連想は膨らむが
この辺りで「死について」の章を終わる事にする
第26章 無について
無とは何か
それは創造の起源
私たちは無になる事に依って新たなものを創造出来る
有から無
そして無から有
ここに創造の起源がある
有で在り続ければ私たちはそのまま
しかし無になる事が出来れば
私たちは新たなものを創造出来る
この世の楽しみは何かと問われれば
それは創造
創造の中にこの世の楽しみの全てが込められている
もし私たちが快楽の中に生きたいと言うのであれば
無にならなければならない
さて無とは何か
それはこの世の一切を捨てる事
その為に如何なる方法があるかと問われれば
この世に死ぬ事
そうすれば最も素晴しい創造
新生が待っている筈である
しかしそれは出来ぬ事
であれば他に方法があるのか
完全なる無に成る為には死ななければならない
しかしそれは出来ぬ事
であれば次善の策を考えねばならぬ
それが何かと問われれば
瞑想
瞑想とは瞑すなわち死を想う事
死を疑似体験する事により新たな生を得ようとする試みである
瞑想を自由自在に出来れば
私たちは何時でも新たな生を体験出来る
それは創造に満ち快楽に満ちた事
だがその様な瞑想を出来る者がどれ程いることか
確かにブッダは難無く瞑想に入る事が出来た
そしてその死を体験する事に依って
あの様な膨大な世界を創り上げる事が出来たのである
もしブッダが現世に生きたままであったなら
あの様な世界は創り上げる事は出来なかた
ブッダは疑似体験の死に依って
あの様な大きな世界を創り上げた
ではイエスはどうか
彼は本当の死に依って
あの様な大きな世界を創り上げたのである
私たちはどちらに習えばよいのか
疑似体験の死により新たな世界を創る事か
それとも本当に死んで新たな世界を創り上げる事か
確かにイエスは本当に死んで
あの様な世界を創り上げた
しかしイエスは我々に本当に死ねとは言っていない
イエスが我々に言っている事は
罪において死ねと言っているのである
それは簡単な様に思えた
それが為多くの人がその死に向かった
そして現在でも多くの人がその死に向かっている
しかしそれは思いの外難しいのである
多くの人がその罪に囚われて死ねないでいる
一方ブッダは全面的に死ねと言った
瞑想と言う疑似体験の死の中で
そして多くの者がその疑似体験の中に死んで新たな世界を創り上げた
しかしそれは軟弱に過ぎた
イエスの死とブッダの死
どちらに軍配を上げるか
この現実の中に新たな世界を創り上げた言う点からはイエス
創造に関する無常の喜びを多くの人に与えたと言う点からはブッダだと言う事になるのだろう
完全なる無とは死の事
その死の疑似体験が瞑想
ブッダはその擬似の死に依って我々に大いなる創造の喜びを与えた
イエスのそれはそれ程大きいものではなかった
何処に原因が有るかと言えば
死の大きさによる
ブッダは全てにおいて死ねと言い
イエスは罪において死ねと言った
死の度合いが大きければ大きいほど
創造の喜びもまた大きくなるのである
しかしそれはまた現実から遠のく
私は思う
イエスの罪の死と
ブッダの全面的な死を使い分ければ
この世はまた楽しいと
現実に生きる時はイエスの罪の死に倣い
現実を降りた時はブッダの全面的な死を楽しむ
そうすれば美しくかつ楽しく生きていく事が出来る
イエスの罪の死
これは途轍も無く難しい
しかしこれを諦めれば
私たちは美しく生きて行く事は出来ない
現実に生きている限り
イエスの罪の死に倣う
勿論私たちはその死に到達する事は出来ない
しかしその死に近づく事が出来る
その死に近付けば近付くほど
美しく生きる事が出来る
美しき人生
これがイエスの罪の死に対する報償である
しかしそれは途轍も無く辛い
いばらの道を十字架を背負って行くが如し
だからその現実の道を降りた時は
ブッダの全面的な死を楽しむ事にしよう
そうすれば毎日毎日生まれ変わる事が出来
イエスの罪の死もそれほど重荷にはならなくなるだろう
イエスの罪の死とブッダの全面的な死
これを上手く組み合わせる事により
この人生を美しくかつ楽しく生きていく事が出来る
イエスの罪の死に依って美しく
ブッダの全面的な死に依って楽しく
何と素晴らしき人生ではないか
死とはイノセント 無に帰する事
イエスの死に依って 罪が無に帰して無垢となる
その暁は美しき人生
ブッダの死に依って この世の全てが無に帰す
その暁は新生 日々新たに
ブッダの死には大いなる創造の喜びがある
イエスの罪の死に至る道は鳩の様に素直に蛇の様に賢く
切する如く磋する如く琢する如く磨する如く
難儀な仕事である
それに引き換えブッダの全面的な死に至る道は瞑想
一気にかの世へと渡る
何と楽しき道である事よ
しかし落とし穴もある
無が創造の起源と言う事であれば
軍配は圧倒的にブッダの死へ
しかし私たちがこの世に生きていると言う事を考えれば
ブッダの全面的な死とイエスの罪の死を上手く組み合わせていく必要があると言う結論になる
無とはこの世に死ぬ事
その最も簡便な方法が瞑想
次章ではその瞑想を考える
第27章 瞑想について
瞑想とは何か
それは瞑を想い 死を思い 無を思う事
完全に無に成った時
私たちは新たに生まれる事が出来る
その理想の世界に
しかしそれは私たちには出来ぬ事
その疑似体験をさせて呉れる方法が瞑想
瞑想の手法を取得すれば
私たちは身近に理想世界に近づく事が出来る
瞑想の手法を習得すれば
私たちは気軽に理想世界を描く事が出来る
瞑想の手法を修得すれば
理想世界が私たちにより身近になるのである
だから人が理想世界を望むのなら
先ずは瞑想の手法を収得しなければならないのである
瞑想の手法として最も知られている方法は座禅である
最も私は座禅をした事が無い
座禅をした事が無い者が
座禅の事をとやかく言う事はおこがましい事ではあるが
今回の主題が瞑想と言う限り
座禅の事を避けて通る事は出来ないのであろう
さて座禅の何が素晴らしいかと言えば
それは結跏趺坐である
何故ならそれによって不動になれるからである
生身の人間が不動になる事によって
その中で 生から死 そして死 更には死から生を体験する事が出来るからである 最も疑似ではあるが
生から死とは何か
それはこの世の穢れをすっかり洗い流す事
死とは何か
無になる事
死から生とは何か
それこそ新生
理想世界の創造
この世からかの世へ
自分自身が想像しうる限りの理想世界
もし死後があるのであれば住んでみたいと言う世界
そしてもしこの世界に創造する事が出来るのであれば創造したいと言うその世界
その世界を創造する事
それが死から生である
そしてそれが瞑想の最終目的なのである
いや瞑想には二つの目的があると言っていいだろう
一つは死ぬ事無になる事
もし人間が生きている中で死ぬ事無になる事が出来れば最高だろう
人はそこでは何にも悩まされる事はないだろうから
全くの無 これほど素敵な世界は無いだろう
しかし人間は生きている限り死ぬ事無になる事は出来ないのである
人間が生きている限りにおいて
死ぬ事無になる事が出来るのは一瞬
もし1分も死ぬ事が出来れば死の大大天才
もし1分でも完全に死ぬ事が出来れば
その人には新生が待っている事だろう
しかし人間は生きている限り死ぬ事は出来ないのである
先程から一瞬死ぬ事無になる事が出来ると言っているが
それはあくまでも擬似の死
人間は生きている限り死ぬ事は出来ないのである
だから瞑想の目的は
死ぬ事無になる事では無く
理想世界を想像し創造する事にあるのである
最もこの世の最後の瞑想の瞬間においては
完全なる死完全なる無を瞑想したいものである
ひょっとしたらその為に毎日毎日瞑想を続けるのかも知れない
最後のその瞑想の瞬間を入定と言う
もうこの世界で理想世界を十分に創り上げた
後は本当に完全に無に成って死ぬだけだと想いながら
結局瞑想もやはり死の準備訓練なのである
この世の想いを残さない為に
この世で想いを焼き尽くす為に
その為にこそ瞑想があるのである
この世で理想の世界を想い尽くす
もう想う事は何も無いと言う位に思う為に瞑想と言う手段があるのである
だから瞑想と言う手法を手に入れて
瞑想に毎日遊んだ者には
それ程死は恐いものでなくなるのである
瞑想とはそう言う為にあるのだ
だからブッダも瞑想を強く勧めるのだ
仏像を見てみなさい
全てが結跏趺坐ではないか
あれがどう言う事を言っているか分かりますか
私の様に常に瞑想に励みなさいと言っているのです
そしてその為には
この結跏趺坐が最も良いと言っているのです
私も結跏趺坐を習いたい
多分この結跏趺坐が瞑想には最も相応しい方法だと思う
最も瞑想に至る道は結跏趺坐だけでは無い
瞑想に至る道は様々に用意されている
そうでなければ仏教徒しか瞑想をする事が出来ないと言う事になってしまうだろうから
クリスチャンにもその方法は用意されている
それが何かと問われれば祈りである
しかし仏教ほどキリスト教においては瞑想を強く勧めていない
それはイエスキリストの肖像を見れば明らかだ
イエスキリストは若くそして精力的に活動している
その中に瞑想の姿を見ることは無い
唯一静止的な姿は祈りである
イエスは祈りに依ってこの世を焼き尽くしかの世を仰ぎ見たなのである
その最も象徴的な肖像はゲッセマネでの祈りであろう
私からこの杯を取り除いて下さい
いいえやはりそうでなく御心のままに
これが最後一人で余裕があった時の祈りである
私は前章でイエスの死はこの世における罪の死であり
ブッダの死は全面的な死であると言ったが
その意味が分って頂けただろうか
イエスはこの世の罪において死ねと言っているのである
それはとても辛い事である
ゲッセマネでのあの祈りを視れば分るだろう
あのイエスが汗が滲み出る程に祈り続けたのだから
ペテロやヤコブヨハネも正視出来ない位に
それに引き換えブッダの死は気軽である
全面的に死ねと言っているのだから
イエスのあの祈り
この世の罪おいて死ねと言うあの最後の祈りは
私たちに脈脈と受け継がれている
その祈りはその後の世界を少しずつ変えていき
現在においてもその祈りは息づいている
イエスの祈りはこの世界を変えよと言う祈りだったのである
それは私たち凡人には辛い
しかしそれを避けて通れば
私たちはイエスキリストに倣う事が出来ない
だから出来る限りは倣わなかればならない
だが全面的に倣えば私たち弱い者は潰されてしまう
そこでイエスはそう言う私たちの為に別の祈りを用意して呉れたのである
それは「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めて」の祈りである
これはブッダの全面的な死と同様なものである
これによって多くのクリスチャンが慰められているのである
クリスチャンには二つの祈りが課せられている
一つはそれこそ辛い祈りである この世を変えろとの祈り
もう一つは甘美で甘い祈り 私の中に安らぎなさいとの祈り
この二つの祈りによってクリスチャンは生かされているのである
「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めて」の祈りは
ブッダの全面的な死
すなわち仏教の専売特許の様に思われている瞑想と同じものなのである
私は今トマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」を読んでいる
これこそが正に全面的な死 瞑想のオンパレードである
彼は常に全面的な死だけを憧れている
それは甘美で甘い
この書「キリストにならいて」の表紙に
この書は世界中で聖書に次いで最もよく読まれている書物であると書かれている
さもなんと思う
何故なら甘い甘い書だから
イエスの中で全面的に死ねばイエスが与えられる
そう書かれているのだから
ブッダの全面的な死と同じ事をそのままに謳っているのだ
この世に疲れた者には限りなく甘い
「疲れた者 重荷を負う者は誰でも私のもとに来なさい
休ませてあげよう」
このイエスの言葉どおりの書である
しかしイエスは二つの事を課した
トマス・ア・ケンピスがよく引用している詩篇
その作者のダビデもよく二つの事を果たした
しかしトマス・ア・ケンピスはその内の一つの
甘い甘い瞑想だけをオンパレードさせた
しかしそれはそれでよい
私たち弱い人間にはそれだけで本当に十二分だ
「主よ主よと言う者が皆天の国に入るわけではない
私の天の父の御心を行なう者だけが入るのである」
などと私たちを責め立てはしないだろう
何故なら私たちは弱い人間
疲れた者 重荷を負う者だから
どうか貴方の中で休ませて下さいと祈る者だから
だから私たちに瞑想だけに耽るなどとは言わないでしょう
もし私がそこで十分に強くなったら
貴方の御心をこの世において行ないますから
それまではそうぞ私を休ませて下さい
私に猶予を与えて下さいと
そうイエス・キリストには祈る事としよう
瞑想
一言で言えば神の世界を想う事
二言で言えば
この世に死んでかの世を想う事
瞑想をもっと発展させるとこうなる
かの世をこの世に移し変える
神の世界をこの世に実現させる
「主よ主よと言う者が皆天の国に入るわけではない
私の天の父の御心を行なう者だけが入るのである」
イエスはこの様に瞑想に耽る事を戒めた
それが為
イエスの世界はこの世に実現していったのである
しかし私たち凡人には少し辛いですよね
だからこの世に在る時は
私たちは出来る限りにおいてイエスキリストに倣う事にしましよう
しかし現実を退いた時は
トマス・ア・ケンピスやその師であり神秘主義者の総帥であるエックハルトや
そして瞑想の本家本元のブッダに倣って瞑想に耽ることにしましょう
これほどこの世に甘美な事は無いのですから
瞑想それは神の世界を想う事ですから
これ程素晴らしい事が他に有り得るでしょうか
少なくとも「真善美」を求めている限りにおいては・・・
第28章 新生について
新生とは何か
新たに生まれる事
しかしそこには二つの意味がある
一つはその言葉どおりに新たに生まれる事
よく新生児と言う
その意味での新生である
全くの新たな意味での新生
そこには大いなる希望があるのだろう
もしその新生児に自我があれば
しかし新生児はほとんど全くの無である
その無から人生80年を生きて行く事になる
この世の荒波に揉まれながら
人生80年 その死に及んではその純粋無垢は跡形も無く消えている
その時彼は何と思うのか
一体私の人生80年は何だったのかと
私はこの世に従って生きた
しかしこの世は私に対して何の報償も与えて呉れない
そればかりか老年には老いを
そしてこの死の瞬間には死を
これがこの世の報いか
この世はあまりに酷い
そう言いながら彼は新生の頃を思い出すのだろうか
あの純粋無垢な時代を
いいえそれは有り得ぬ事
人が思い出せるのは
物心が付いた時代の頃
もうその頃は純粋無垢とは言えない
何故ならその言葉どおり物に執着する心が生まれているから
何にも囚われない純粋無垢な時代
それは人の記憶には有り得ない事なのである
しかしもう一つの意味での新生には
それがありありと残っているのである
そして彼はいつもその新生の時代を懐かしく思い出し
そして至福に浸るのである
ああ!あの新生の頃は何と幸せに満ちていた事か
物皆が全て私の新生を祝って呉れた
全てが私の為に
それから私はその新たな生から今日までを生きて来た
それは素晴らしき人生
更に驚く様な事を言うと
私の新生は一度ではないのだ
私は何度も何度も新たに生まれそして今日あるのだと
これが第二の意味で新生である
一つ目は肉体における新生
二つ目は精神における新生
一つ目は一回きりだが
二つ目は何度でも可能
その端的な言葉が「日々新たに」である
日々新たにとは
日々新たに生まれると言う事なのだ
貴方方は言うのだろうか
そんな事が可能かと
そんな風に直裁に聞かれれば
それは無理だろうと答えるしかないのかも知れない
多分彼は回向とか回心とか
そんな新生の頃の強烈な思い出を想い出しながら
日々新たに生きているのだろうと
しかしだがである
もし眠りを死と捉えたら
私たちは日々新たに生まれる事が出来る
朝日を浴びる毎に
ああ今日も私は新たに生まれる事が出来たと言いながら
その為に必要な事は何だろうか
それは日々この世に死ぬ事である
死ねば新生の可能性はある
しかし生きたままでは新生の可能性は無い
もし死んだ様に完全に熟睡出来たら
きっとその人はその目覚めの瞬間にこう思うだろう
ここは何処?私は誰?
私は今日ここに生まれたのかしら?などと
しかしその次の瞬間には昨日までのこの世のものが一斉に押し寄せ
彼は昨日までの人を今日も生きていく事になるのだろう
ところで新生とは何だろう
新生を新たな世界に生まれる
と言う風の解釈すれば
私たちはいつでも私たちの意志で新たな世界に生まれる事が出来る
その最も端的な言葉が
この世からかの世である
かの世に行く為には
この世で死にかの世に生まれなければならないのである
結局私の言いたい新生とはこの事を言っているのである
その為の最も手軽な方法が瞑想である
この世の死を思いかの世の生を想う
この手法によって
私たちは手軽に新生を体験できる
しかし瞑想だけがその手段では無い
先程述べた眠り
これも新生の手段である
もし完全に死んだ様な眠りの手法を習得出来たら
その人はあのことわざのとおり
「日々新たに」生まれそして生きて行く事が出来るだろう
その為に必要な事は何かとと問われれば
入眠の際に全くの無になる事
そしてその無の中に一粒のかの世の種を植えて置く事である
そうすれば目覚めのその瞬間に
かの世の花が一斉に咲く事でしょう
その時彼は言うのでしょう
What a wonderfull world
何と素晴らしい世界よと
そして彼はその素晴らしい世界を一日生きて行く事になるでしょう
少しはこの世に汚れながらも
しかし彼はまた入眠の際には一切のこの世の汚れを洗い落とし
そして全くの無になって眠りに就く事でしょう
勿論一粒種を植える事は決して忘れはしません
これが「日々新たに」生まれそして生きる人の日課なのです
新生とは何か
もう一つの新生がある
それはこの世に新たに生まれる事である
イエスの様に
仏教の世界で言えば菩薩の様に
この厳しい世界に生身の人間として
かの世を生きる様にこの世を生きるのである
イエスは少なからず私たちにもそれを強いている
それは私たち弱い人間には中々に難しい事
もしここからキリスト教に入れば
全ての人がその教義に潰されてしまうだろう
こんな弱い人間に
どうしてこの世をかの世の様にに生きて行く事が出来よう
それは聖人にだけ与えらものの様に思える
イエスは神の子であるから論外として
彼らの愛弟子たちはそれを立派に遣り遂げた
特にパウロとペテロにはその言行録が残っているから
私たちはそれを見本とする事が出来る
彼らはイエスを産婆として
この世に新たに生まれたのである
イエスは言う
私に倣え私に続く者に倣えと
余程の確信が無ければ出来ない事
かの世に生きる事
これは多くの人がしようと思えば出来る
しかしこの世をかの世の様に生きる事
それは中々に難しい
喩えれば
それは修道僧と伝道僧
修道僧とは自分自身を修める者の謂い
伝道僧とは自分自身を修め更にこの世を治める者の謂い
私たち弱い人間には中々に出来ぬ事
それでもイエスは私たちにそれを行なえと命じる
イエスの教えは中々に厳しい
しかし多くの人がそれをやり遂げようとして殉職した
そして次第次第にイエスの世界に染められていった
さて様々な新生を述べたが
私は先ず瞑想による新世界への新生を勧める
そこは私たちがこれまで体験した事の無い様な世界だ
そこに生まれるが良い
そこから更に伝道僧 菩薩と成って
この世をかの世の様に生きるかどうかは
きっと神様仏様が決めて呉れる事だろう
その前にやはり新世界を見て置かなければならない
その為に新生が必要なのだ
第29章 道について
道とは何か
それは私たちが目標を定めた時
私たちの目の前に現れて来る道である
山に登ろうとする時
私たちの前に道が現れて来る
その道に従えば
私たちは頂上を極め
そしてまた戻って来る事が出来る
もし道を反れたら
私たちは迷ってしまう
だから山に登る時は
私たちは細心の注意を払って道に従う
では私たちの身の回りを網の目の様に走っているこのみち
このみちを何と呼ぶのか
それは路
道と路
この二つから道路は出来ている
道とは私たちが目標を定めた時に現れるみちである
言わば旅路の道である
それに引き換え路とは生活路である
常に私たちの周りに在る
私たちはそれを道とは認識してしない それは路である
さて先程山登りの道を道と喩えたが
私たちの人生も山登り喩えられるのではないか
私たちが人生に目標を定め、人生を歩き出した時
私たちの前に道が現れる
それが道(タオ)であり Lordであり 導き手である
「道可道、非常道」(道の道とす可きは、常の道にあらず)
私たちが目標を定めた時
この道が現れて来るのである
一家を成す
すなわち道を極めた人たちは皆この道に従ったのである
強い目標を持てば持つ程
この道は私たちの前にはっきりと現れて来る
強い意志を持ち目標をしっかり見定めこの道に従えば
その目標は必ず達成されるのである
何故ならその道はLordであり導き手だからである
要は如何なる目標を持つかと言う事である
もし真善美を得たいと強く願うなら
その道は私たちの前に喜んで現れて来るだろう
老子の道にしたって
キリスト教のLordにしたって
主よ私に真善美を溢れんばかりに与えて下さいと
強く念じれば念じる程
その道(タオ)やLordは
私たちに真善美を与えて呉れるだろう
道は導き手であり道である
日々私たちを導くと共に
私たちが目標を見定めると
その目標までの道程を示して呉れるのである
道とはそう言うものである
道と歩くとはそう言う事なのである
勿論道を歩くと言ってもいい
さてこの辺りで私の目標を定めなければいけない
私はこれまで何をして来たのか
言葉遊びか
そう 最近特にその傾向が強かった
言葉は生かしてこそ生きる
言葉に戯れ過ぎると言葉は死ぬ
私のこれまでは迷い路
この迷い路から道へと向かわなければならない
その為には目標を持たなければならない
私の目標は何か
それは「哲学革命」ではなかったのか
この哲学百章もその為の道程だったのではなかったのか
私はここに「哲学革命」を高く掲げる
そうすれば私の前に道が現れるだろう
そしてその道は日々私を哲学革命へと導いて呉れるだろう
道とはそう言う存在である
さて私の言う哲学革命とは如何なる革命か
それは皆が知恵を愛する事に依って
この世を変えて行こうとする革命である
知恵を愛すれば愛するほど人は優しくなれる
この優しさに依って世界を変えて行こうとする革命である
知恵を愛する事
それはphilosophia哲学
私の使命はこの世に哲学を高く掲げる事
哲学
すなわち知恵を愛すると言う行為に多くの人が多く集えば集うほど
この世は優しくなる
私はこの世に哲学を高く掲げる
そうすれば私の前に道が現われて来るだろう
そして私を日々導いて呉れるだろう
道とはそう言うものである
さて私は遠く視る
そこには私の理想世界がある
人々は皆満ち足りて優しい
そこに在るのは自足と愛
皆満ち足りているから優しい
ただそれだけの世界だ
だが私にとっては理想世界だ
そこに至る私の道が見える
その世界の前に哲学革命の炎が視える
しかしその炎は限りなく優しい
キャンプファイヤーに集うが如く
皆哲学革命の炎に集っている
そして銘銘が呟き合っている
知恵とは何と優しい存在か
私も知恵を愛する仲間と成ろう
そう呟きながら
哲学者
すなわち知恵を愛する者の輪が大きく拡がっている
もう間も無く理想世界だ
その前に私の道が見える
その最初にこの哲学百章の完成がある
それまでは言葉に戯れていたが
この「道について」の章から使命が乗り移ったかの様だ
知恵から離れまいとする意志が在り在りと見える
知恵もそれに応じて知恵を授けている様だ
知恵との二人三脚が始まった様だ
哲学百章が冊子と成った
そしてその冊子は全ての大学の哲学教授の元へ送られた
哲学教授はその冊子を読んで思った
哲学とは何だったのか
私は何を教えていたのか
哲学とは知恵を愛する事
私に誰もその事を教えて呉なかった
私の目が覚めた
私も今日から
哲学者
すなわち知恵を愛する者に成ろうと
その様にして哲学革命の波が大学から起こった
もう誰も止める事が出来なかった
先ずは全ての大学に哲学科が出来た
そして哲学は大学の必修と成った
その次に哲学が高校の必修と成った
その次に哲学が中学の必修と成った
これで自我の目覚めから自我の完成まで
哲学が必修と成った
皆が皆知恵を愛し合った
優秀な学生が哲学科へと向かった
その為大学には哲学部が出来た
そして巷の生涯学習機関に
哲学コースが多く設けられた
皆が皆知恵を愛し合った
そしてこの日本は知恵の響き合う国と成った
「言霊の幸(さきは)う国 日本」に成ったのである
古代人が夢に見た日本が実現したのである
これが私の哲学革命への道である
何と至福に満ちた道である事か
私はその道を一心不乱に歩む
幸せとは知恵を愛する事
それ以外に無い事を
この日本国民の大多数が知るまで
私の革命への道は続く
第30章 自己について
自分 自己 自我 私
私を表現する言葉は様々にある
この中で何故自己を選んだのか
それは自己と言う言葉が
この世に強い意志を持って打って出る私と言うイメージがあったからである
私はこの哲学百章の序章の中で次の様に書いた
「その道を進む事に依って
真の自己が
そして強い意志が生まれる事を知る
強い意志を持つ自己が確立した時
人は徳を伴って
この世に撃って出る事になるのである」
その流れの中からも自己と言う言葉を選択せざるを得なかったのである
自分 自己 自我 私
共に私を表現する言葉だが
私はそれぞれに少しずつ違ったイメージを持っている
自分とは自らの分 すなわち私の分
私が創り上げたこの世界の総体を言う
その周辺部は極めて曖昧模糊としている
しかしこの世から自分を語りなさいと言われた時
その自分はぎゅっと集約する
それは自己に近い言葉となる
自己についても様々な意味合いに取れるが
今回私が取ったイメージは
自己紹介の時の自己である
この自己とは正に世に撃って出る時の私である
私は斯く斯く云々の者である
だから貴方方の仲間に入れて頂きたい
自己申告の時の自己である
私はこの様な者である
だから私をその位置に付けて頂きたい
この自己は自分にとっての客観的な自分であると共に
他人からも客観的な自分である事を望む自分である
私はこの章で自己紹介用の自分を語る事になる
次に自我だが
これも様々な意味合いに取れる
今回私が取ったイメージは
自我の目覚めの時の自我であり
よく言われている所のエゴである
一言で言えばこの世の私
肉体欲望本能情念等々と一緒に成った私である
自我は
肉体欲望本能情念等々と一体と成った自分を生かそうとする
だから時には肉体に欲望に本能に情念等々に従う事になる
そんな時若き自我は悩む
「若きウエルテルの悩み」と言う事になる
次に私
この定義は当分揺らぐ事は無い
自分 自己 自我は
今回初めて俎上に上げた様なものだが
私についてはもう何年来も定義し続けている
その定義は
「我思う 故に我在り」の私
すなわち考える存在としての私である
私の全ての基礎の基礎
この考える私の基に私の全ての世界が創り上げられる
この私は一時も休む事無く(完全に熟睡している時だけを除く)考え続けているのである
呼びかける者 問う者
知恵を受ける者
私とは考える存在
なお「私」については第1章で述べた
私を俎上に上げた時 私が生きて来る
自分 自己 自我
その全ての中に私は居る
しかしどの場合においても
私は純粋な形では存在していない
何らかの付属物がくっついている
自分 この概念が一番広い
時と場合によって様々な使われ方をする
自分の世界に遊ぶ
そんな使われ方が一般である
だが時には自己として使われる事もあり
自我として使われる事もある
しかし考える私として使われる事は無い
考える存在としての私は私だけである
自己は自己紹介の時の自己と考えるのが最も無難である
そして自我はエゴ
この整理の中でこれから私の「自己」を描く事にする
さて私はこれから私の自己紹介をしなければならないに事になる
私とは何か
私とは考える存在である
確かにそうだが
ここで言う私とは自己紹介用の私である
すなわち普遍としての私ではなく
個としての私である
この世に私が認めて貰いたいと思っている私である
と言うよりも
この世で私が生きたいと願っている私である
私はこの世に於いて
どの様に生きたいと願っているのか
その答えは一つ「哲学詩人」としてである
哲学詩人とは何か
それは知恵を愛する者としての詩(うたい)人である
私に何が幸せかと聞かれれば
知恵を愛する事 そしてそれを言葉にする事
だから貴方が何に成りたいかと問われれば
「哲学詩人」と言う事になる
知恵を愛する事(哲学)は
誰にとっても一番幸せな事である
私はその事を疑って止む事は無い
しかしほとんどの人がそれを知らない
その事も疑って止む事は無い
私はこの著書の序章で言った
私の目的は
多くの人を哲学者
すなわち知恵を愛する者に誘う事であると
その為にも
私は知恵を愛する者(哲学者)として知恵を愛する詩を(うた)い続けねばならないのである
私の詩(うた)に
一人でも知恵を愛する事に気付いて呉れたら私はそれで本望なのである
知恵から知恵へ
知恵への連鎖の中から
この日本が知恵の王国に成ったら私はそれで本望なのである
そしてこの世界が
知恵を愛する事
それは普遍を愛する事と同じ事
私たちが普遍を愛すれば愛する程
私たちは一つに成る
私たちは知恵を愛する事に依って
「人類皆兄弟」と言う境地まで行く事が出来るのである
人類皆兄弟
この境地に至る為には
知恵を愛する道以外に道は無いのである
私は前章で行った
私の道は哲学革命への道だと
その為に
私は哲学詩人として
知恵を愛する詩(うた)を詩(うた)い続けねばならないのである
世の者が私に貴方の職業は何かと問うたなら
私はこう答える事にしよう
「私は哲学詩人であると」
何の為に哲学詩人に成ったのかと問われれば
こう答える事にしよう
「哲学革命を行なう為」と
これで私の「自己」紹介を終わる事にしよう
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付状
国立大学教育学部哲学教育担当教官殿宛
拝啓
国立大学教育学部哲学教育担当教官 殿
私はこの度、冊子『哲学フォーラムと哲学一貫教育』を作成いたしました。
ご贈呈申し上げます。
哲学一貫教育とは、小学校、中学校、高校、大学、更には公民館において、哲学教育を一貫して行おうと言うものです。
哲学フォーラムとは、全ての小学校、中学校、高校、大学、そして公民館に哲学対話室(哲学フォーラム)を設置しようとするものです。
この哲学一貫教育と哲学フォーラムの仕組みが完成すれば、日本は間違いなく哲学的に成熟した国家と成ります。
しかし、この内の、小中高校における哲学教育については、文部科学省の学習指導要領を改訂しなければならず、直ぐに実施に移す事は難しい状況にあります。
大学、公民館における、哲学教育については、何の縛りもありませんが、教師、講師体制が十分でないので、やはり哲学的成熟を待つ必要があると思います。
次に、小中高校に設置する哲学対話室(哲学フォーラム)ですが、これは課外活動(クラブ活動的なもの)として実施するものであり、文部科学省の学習指導要領の縛りは受けませんが、学校内に設置するものであり、やはり哲学的成熟を待つ必要があると思います。
次に大学と公民館に設置する哲学対話室(哲学フォーラム)ですが、これは何の縛りもありません。
金銭的な制約もありません。
その大学に、その公民館に、ソクラテス(哲学的ボランティア)が十数人集れば、それで哲学フォーラム(哲学対話室)は始まります。
もし誰かが一二の三で、日本全国に号令をかければ、1年で、日本中の全ての大学と公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)が展開される事も可能です。
何故なら、人間は、本来、哲学する(知恵を愛する)存在なのですから。
哲学する(知恵を愛する)事に火が付けば、その火は一気に燃え上がる事となるのです。
公民館に設置される哲学フォーラム(哲学対話室)については、毎日開設されている事が望ましいのですが、当初はソクラテス(哲学的ボランティア)の人員も十分ではないと思いますので、当分の間は、毎週土曜日の午後2時から午後5時まで開設するものとします。
毎週土曜日の午後2時から午後5時まで、日本国中の全ての大学、公民館で哲学フォーラム(哲学対話室)が開設されている!!!!
これだけですが、これがどんなに悦ばしい事か、哲学教育担当の先生であればお分かりになると思います。
私たちは、毎週毎週、日本国中のソクラテスやそれぞれの市民と哲学的対話が出来るのです。
これだけですが、これがどんなに喜ばしい事か、哲学教育担当の先生であればお分かりになると思います。
哲学フォーラム(哲学対話室)は毎週土曜日の午後2時から午後5時まで開設されますが、その開設の時間には必ず数人のソクラテス(哲学ボランティア)が常駐するものとします。
哲学フォーラム(哲学対話室)は、大学においては、大学図書館の会議室で、公民館については、公民館の会議室において開設するものとします。
哲学フォーラム(哲学対話室)においては、数組の哲学的対話が、同時並行的に行われる体制を確保しておくものとします。
その内の1組は、プラトンの「饗宴」の様に数人が一つの哲学的話題について、対話を行うものとします。
この数人で行う対話については、ソクラテス(哲学的ボランティア)なり、その対話の中心と成る人が基調講演的なものを行い、その基調講演的なものを基に対話を発展させていくものとします。
残りの哲学的対話は、一対一の哲学的対話とします。
それぞれの市民が、その時の自分に取っての一番関心のあるテーマについて、ソクラテス(哲学ボランティア)もしくはそこに集った市民と自由に一対一で哲学的対話を進めて行く事に成ります。
この一対一の哲学的対話が多く行われれば行われるほど、その哲学フォーラムは充実したものとなります。
何故なら、一対一の対話において、人は、心から、内密に、そして思う存分、自らの関心のあるテーマについて、話し合う事が出来るからです。
自ら関心のあるテーマについては、対話は尽きないものです。
その尽きない対話の中から、友情が生まれ、師弟愛が生まれる事にも成るのです。
大学における哲学フォーラム(哲学対話室)については、大学教育学部の哲学教育の担当先生が中心になり、学生、院生、卒業生、哲学に関心のある人々十数名で「哲学フォーラム大学名」を組織し、毎週土曜日の午後2時から午後5時まで大学図書館の会議室を借りる事によって始まります。
公民館における哲学フォーラム(哲学対話室)については、その公民館の近くに住む哲学に関心のある十数名が「哲学フォーラム公民館名」と言うサークルを組織し、公民館長にサークル届けを行い、毎週土曜日の午後2時から午後5時まで会議室を借りる事によって始まります。
どちらも会議室使用料は要りません。
哲学フォーラム(哲学対話室)を始めるのに、お金は全く必要ないのです。
必要なものは、ソクラテス(哲学ボランティア)の情熱だけです。
勿論ソクラテスは、嘗て存在したソクラテスと同じく無報酬とします。
哲学フォーラム(哲学対話室)を始める事は極簡単な事であり、日本国中の大学及び公民館に哲学フォーラムを設置する事もそれ程難しい事ではありませんが、しかしこの事が自然発生的に起こる事は、決して有り得ません。
誰かが音頭を取らなければなりません。
では誰がその音頭を取るのでしょう。
私は、各都道府県に設置されている国立大学教育学部の哲学教育担当の先生方であるべきだと思います。
何故なら、教育学部哲学教室こそが、哲学フォーラム(哲学対話室)のそのものだからです。
文学部の哲学教育と教育学部の哲学教育は自ずから違います。
文学部の哲学教育は哲学文献を学ぶ方法を教えますが、教育学部の哲学教育は知恵を愛する方法を教えるのです。
しかし、知恵を愛する方法は、授業で一律に教える事は出来ません。
知恵を愛する方法を教える為には、以心伝心、秘伝、口伝と言う方法が必要となるのです。
嘗て、ソクラテスがプラトンに伝授した様に。
そしてその為にはフォーラムが必要なのです。
現在の日本において、その様な伝授が行われているのは、教育学部の哲学教室だけです。
教育学部の哲学教室こそが、古代ギリシアのフォーラムの精神を今に引き継いでいるのです。
だから私は言うのです。
教育学部の哲学担当の先生方が、哲学フォーラム(哲学対話室)の展開の音頭取りをすべきだと。
現在、教育学部哲学教室と言う極限られた場所でしか、哲学する(知恵を愛する)方法が伝授されていませんが、その様な場所が全国に広がれば、日本は確かに変わると思うのです。
教育学部哲学教室の先生は、日本のソクラテスです。
そしてそのソクラテスからまた新たなソクラテスが生まれていくのです。
教育学部哲学教室の先生方が、哲学フォーラム(哲学対話室)の音頭を取る事に依って、日本に多くのソクラテスが生まれ、そして多くのプラトンが生まれて行くのです。
ですからどうぞ、哲学フォーラム(哲学対話室)展開の、各都道府県のセンターとなって頂きたいと思います。
以上、送り状の積もりで書き始めましたが、長々と成ってしまいました。
冊子『哲学フォーラムと哲学一貫教育』は、これまで哲学一貫教育に関係のある機関に書き送った「哲学一貫教育に関する提唱文」と今回国立大学教育学部の哲学教育の先生方の為に書き下ろした「哲学フォーラムと哲学一貫教育に関する提唱文」を纏めたものです。
哲学一貫教育は制度上の壁が在り、中々難しいと思いますが、大学及び公民館に設置する哲学フォーラム(哲学対話室)については、上記に述べたように難しい事ではありません。
どうか各都道府県の哲学フォーラムの中心と成り、各都道府県の全ての公民館に哲学フォーラムを設置するよう頑張って頂きたいと思います。
スケジュールの理想を述べると次の様に成ります。
1年目に教育学部に哲学フォーラムを設置する。これが県内の哲学フォーラムの中心となる。
2年目に県庁所在地の中央公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する。
3年目に県内の主要な市の中央公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する。
4年目に県内の全ての市町村の中央公民館にフォーラム(哲学対話室)を設置する。
5年目に県内の全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する。
6年目に全国の全ての哲学フォーラムの連携組織として哲学フォーラム日本を設置する。
7年目から小中高校への哲学対話室の設置に取り組む。
10年目に全国の全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館への哲学フォーラムの設置を完了する。
なお、哲学フォーラム(哲学対話室)の展開と共に、哲学一貫教育についても研究を進める。
今回の冊子『哲学フォーラムと哲学一貫教育』は100部印刷し、別紙名簿の方々に送付しています。
もし、宜しければ、それぞれの方々と哲学フォーラムや哲学一貫教育の在り方等についてお話し合い頂ければと思います。
なお、当該冊子及び当該冊子に添付してあるCDに掲載している著作物は、全て著作権フリーです。
添付CD等を活用して、関係者に送信するなり、ホームページに貼り付けるなどしてご活用下さい。
私の希望を述べさせて貰えば、5年後に全ての国立大学教育学部(国立教育大学)と全ての市町村の中央公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)が設置されている事です。
その時は、日本国中の哲学フォーラム巡りを楽しみたいと思います。
お遍路も良いのですが、哲学フォーラム(哲学対話室)巡りも一つの社会現象と成れば良いと思います。
そんな時代が来れば、日本は確かに変わると思います。
以上、限がありませんので、これで終わりたいと思います。
哲学とはphilosophia、知恵を愛する事。
この意味を良く噛み締めて、哲学フォーラム(哲学対話室)を展開して頂きたいと思います。
敬具
平成20年11月 日
哲学哲男
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付状
東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官殿宛
拝啓
東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官 殿
私はこの度、冊子『哲学フォーラムと哲学一貫教育』を作成いたしました。
ご贈呈申し上げます。
なお、東京学芸大学の「哲学・倫理分野」の先生方には、平成20年4月7日付で、その時まで国の関係機関に送付した哲学一貫教育提唱文の写しを同封して、哲学一貫教育の提唱を行った所ですが、今回の冊子はそれらと、今回新たに国立大学教育学部の哲学教育担当の先生方に書き下ろした「哲学フォーラムと哲学一貫教育」に関する提唱文を纏めたものです。
前回4月7日の提唱文では、哲学一貫教育を中心に述べていますが、今回の国立大学教育学部の哲学教育の先生方には、その送り状(写し)を見て頂ければ分かると思いますが、哲学フォーラムを中心に述べています。
哲学一貫教育は制度上の壁がありますが、哲学フォーラムについては何の壁もありません。
また、予算的な制約も何もありません。
国立大学教育学部(教育大学)の哲学教育の先生方と多くの哲学ボランティア“ソクラテス”の情熱により、一気に全国の国立大学教育学部と公民館に哲学フォーラムが展開される事も予想されます。
もしそうなったら、どうか『哲学フォーラム日本』の事務局の労を取って頂きたいと思います。
『哲学フォーラム日本』の事務局は、東京学芸大学の「哲学・倫理グループ」しか有り得ないと思います。
哲学教育には大きく二つの流れがあります。
一つは文学部の哲学教育であり、他の一つは教育学部での哲学教育です。
この二つには大きな違いがあります。
文学部の哲学教育は文献哲学です。
その目的は文献を正確に研究する事です。
その為には正確な語学力が必要です。
その当然の成り行きとして分科が進む事となります。
すなわち古代ギリシア哲学、古代ローマ哲学、古代中国哲学、古代インド哲学、古代ユダヤ哲学、中世イスラム哲学、中世ヨーロッパ哲学、近現代ドイツ・フランス・イギリス哲学と言う風に。
その分科哲学に求めらるのは、正確の語学力です。。
当然、教育の中心もそこに向かいます。
しかし教育学部の哲学教育はそうであってはならないのです。
教育学部の哲学教育は、哲学そのもの教育でなくてはならないのです。
すなわち、哲学=philosophia=知恵を愛する事を、教え育むものでなくてはならないのです。
しかし、「知恵を愛する」事は誰も教える事が出来ません。
自らにおいて学ばなければならないのです。
しかし良い環境にあれば、学ぼうとしなくても自然に学ぶ事が出来ます。
その典型が、両親が哲学者(知恵を愛する者)である場合です。
しかし現在の日本においてその事は稀な事です。
現在の日本において、最も恵まれた環境とは、国立大学教育学部哲学教室です。
哲学教室の中では、哲学の先生から、薫陶、すなわち以心伝心、秘伝、口伝の中で、学ぼうとせずとも自然に「知恵を愛する」方法を学ぶ事が出来ます。
「知恵を愛する」方法は授業では決して教える事は出来ません。
以心伝心、秘伝、口伝の中で、自らの学ぶ意欲の中で学ばなければならないのです。
その為にも、哲学フォーラム(哲学対話室)と言う仕組みが必要なのです。
国立大学教育学部の哲学教室こそが正にそれであり、哲学フォーラム(哲学対話室)の原型と言う事になります。
「知恵を愛する」方法を学ぶ方法には、以心伝心、秘伝、口伝で、現存する哲学者(知恵を愛する者)から直接学ぶ方法もありますが、それ以外にもう一つ方法があります。
それは、過去に存在した、最も優れた哲学者(知恵を愛した者)たちから学ぶ方法です。
過去に存在した最も優れた哲学者(知恵を愛した者)たちとは、古代ギリシア哲学者たちの事であり、古代ローマ哲学者たちの事であり、古代中国哲学者たちの事であり、古代インド哲学者たちの事であり、古代ユダヤ哲学者たちの事であり、中世イスラム哲学者たちの事であり、中世ヨーロッパ哲学者たちの事であり、近現代ドイツ・フランス・イギリス哲学者たちの事であり、その他諸々の哲学者たちの事です。
彼ら、最も優れた哲学者たちから、知恵を愛する方法を学ぶのです。
その為には、なるべく多くの哲学者たちから学ばなければいけません。
そして彼らの知恵を愛する方法を自らにおいて抽出して行かなければなりません。
その抽出されたそのものが、その者に取っての知恵を愛する方法となります。
その為に必要な事、それがなるべく多くの知恵の中の知恵の書を読む事です。
知恵の中の知恵の書、それが現在私が提唱している『哲学読本大全(全100巻)』と言う事になります。
『哲学読本大全(全100巻)』に掲載されている知恵の言葉は、俗に言う哲学者たちの言葉だけではありません。
古今東西の偉人、聖人、賢人、哲人、英雄、大文学者、大芸術家、大科学者たちの言葉も掲載されています。
彼らがその名前で呼ばれるのは、知恵を愛し抜いた所以に依ります。
だから彼らの言葉を集めたその書が知恵の書と呼ばれる事になります。
『哲学読本大全(全100巻)』は、日本の哲学一貫教育のバイブルとなるのです。
現在の日本において、知恵を愛する方法を学ぶ場所は、国立大学教育学部哲学教室だけですが、この『哲学読本大全(全100巻)』が、全ての小学校図書室、中学校図書室、高校図書室、大学図書館、公立図書館、公民館図書室に備え付けられるようになれば、知恵を愛する方法を学ぶ場所が飛躍的に増える事に成ります。
そしてまた、全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)が設置されれば、更にそれを学ぶ場所が増えます。
更に、小学校、中学校、高校、大学、公民館にわたる哲学一貫教育が完成すれば、更に更に知恵を愛する場所が増える事に成ります。
哲学読本大全(全100巻)、哲学フォーラム(哲学対話室)、哲学一貫教育の3セットが完成した暁には、哲学者(知恵を愛する者)の国民比率が、現在の1000人に1人から、1000人に500人に増える事に成ります。
これにより、日本は哲学的国家と世界から呼ばれる事に成るのです。
以上、御伽噺を述べてきましたが、やはり哲学一貫教育は制度上の壁が厚いと思います。
しかし、大学教育学部及び公民館に設置する哲学フォーラム(哲学対話室)については、何の制約もありません。
どうか、東京学芸大学「哲学・倫理グループ」の先生方において、哲学フォーラム(哲学対話室)の全国展開にご尽力頂きたいと思います。
それから、東京学芸大学は先駆的な取り組みが出来る大学です。
平成20年4月10日付で提唱した「東京学芸大学付属中の中学校1年及び2年生を対象とした哲学一貫教育の試行」及び「東京学芸大学付属中の中学校1年及び2年生を対象とした哲学一貫教育の為の哲学読本の作成」並びに「大学教育学部における徹底した哲学教育の試行」についても、どうかご検討して頂きたいと思います。
東京学芸大学「哲学・倫理グループ」は、日本における哲学一貫教育のセンターとなるべき所です。
どうか、「小中高校哲学一貫教育」、「哲学読本大全(全100巻)」、「哲学フォーラム(哲学対話室)」、「教育学部における徹底した哲学教育(哲学的素養に優れた教師の育成)」、「哲学的風土づくり」等々についても、先駆的なご研究をお願いしたいと思います。
なお、当該冊子及び当該冊子添付のCDに掲載されている著作物は全て著作権フリーです。
添付CDを利用して、関係者にメール送信するなり、関係ホームページに貼り付けるなどしてご活用下さい。
敬具
平成20年11月 日
哲学哲男
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付状
文部科学省初等中等教育局初等中等教育企画課長殿宛
文部科学省初等中等教育局教育課程長殿宛
拝啓
文部科学省初等中等教育局初等中等教育企画課長 殿
私はこの度、冊子『哲学フォーラムと哲学一貫教育』を作成しました。
ご贈呈申し上げます。
この冊子は、これまで文部科学省初等中等教育局長、文部科学省生涯教育政策局長、内閣官房長官、文部科学省初等中等教育局教育課程課長、文部科学省初等中等教育局教育課程課学校教育官兼道徳教育調査官、東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官宛に書き送った「哲学一貫教育提唱文」と今回新たに国立大学教育学部哲学教育担当教官宛に書き下ろした「哲学一貫教育と哲学フォーラムに関する提唱文」を纏めたものです。
哲学一貫教育とは、全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館において、哲学教育を一貫して行おうとするものです。
哲学フォーラム(哲学対話室)とは、全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置しようとするものです。
この内、初等中等教育局企画課長に直接関連のあるものは、「小中高校哲学一貫教育」と「小中高校への哲学フォーラム(哲学対話室)の設置」です。
小中高校哲学一貫教育とは、小中高校に渡って、毎週2授業時間の哲学教育を一貫して実施するものです。
小中高校哲学一貫教育では、「哲学読本」と「哲学ノート」と言う教材を使用します。
「哲学読本」とは、各学年に相応しい哲学テーマ30程度を選び、それぞれの哲学テーマについて、古今東西の名著の中の名文中の名文を3編から5編集めたものです。
「哲学ノート」とは、哲学読本の読書を契機に、それぞれの哲学テーマについて、児童生徒が思索した結果を纏める為のノートとします。
授業については、月曜日の1限目に哲学読本を黙読し、金曜日の6限目に哲学読本を契機にその1週間にその哲学テーマについて思索した結果を哲学ノートに纏めるものとします。
これを小中高校の12年間一貫して実施します。
小中高校12年間の間に、360の哲学テーマ(1年間30テーマ×12年間=360テーマ)についての名著の中の名文中の名文を読み、360の哲学テーマについての作文を書く事になります。
これにより、世界に類例が無いと言う程に、哲学的に優れた児童生徒が育成される事になります。
次に、小中高校に設置される哲学対話室(哲学フォーラム)です。
哲学対話室(哲学フォーラム)とは、哲学テーマについて、児童生徒と哲学的素養のある大人が対話をする場所の事を言います。
哲学対話室(哲学フォーラム)は、授業では無く、課外活動として行います
哲学対話室(哲学フォーラム)は、毎日午後3時から午後5時まで開設するものとします。
哲学対話室(哲学フォーラム)の開設時間には、必ずソクラテス(哲学的素養のある大人)が常駐するものとします。
児童生徒は、自由勝手に哲学対話室(哲学フォーラム)に入室し、ソクラテスと哲学的テーマについて対話を行う事になります。
なお、ソクラテスについては、学校の教師だけでなく、哲学ボランティアを積極的に活用するものとします。
これにより、哲学的に成熟した児童生徒が育成される事になります。
哲学一貫教育と哲学対話室(哲学フォーラム)が両輪となって、日本の小中高校は世界に類例の無い、哲学的に成熟した学校となります。
これにより、現代の小中高校が抱えている問題、すなわち、いじめ、自殺、学力低下、モラル低下、言語力低下等々、全てが一切解決される事となります。
哲学一貫教育と哲学対話室(哲学フォーラム)は、現在の小中高校が抱えている一切の問題を解決してくれる魔法なのです。
どうかご検討下さる様お願い申し上げます。
なお、小中高校哲学一貫教育は、「学習指導要領」の改訂が必要となり直ぐには出来ないと思いますが、哲学対話室(哲学フォーラム)の設置は、学習指導要領の縛りは何もありません。
また予算的な制約も何もありません。哲学対話室は空き教室を利用すれば良いし、ソクラテスは無報酬です。
文部科学省のOKと号令が出れば、3年で日本の全ての小中高校に哲学対話室(哲学フォーラム)を設置する事も可能です。
国立大学教育学部に設置されている哲学フォーラム、この哲学フォーラムの連携組織としての『哲学フォーラム日本』(事務局は東京学芸大学予定)及び日本の全ての公民館に設置されている哲学フォーラムが全面的に支援する事となります。
これにより、日本の全ての、小学校、中学校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)が設置される事となり、日本に哲学的風土根付く事になります。
大学及び公民館への哲学フォーラムの設置は、今回、国立大学教育学部の哲学教育の先生方に呼びかけています。
もし、初等中等教育企画課長殿が、小中高校への哲学対話室(哲学フォーラム)について、ご理解ご協力して頂けるのであれば、これら一連の哲学フォーラムとの連携協力により、一気に日本中に哲学フォーラム(哲学対話室)が展開される事となります。
哲学一貫教育は、学習指導要領の壁が在りますが、哲学対話室(哲学フォーラム)については何の制約もありません。
必要なものは、初等中等教育企画課長の企画立案の意志だけです。
どうか、素晴らしき日本の為に、ご協力ください。
なお、当該冊子及び当該冊子添付のCDに掲載されている著作物は全て著作権フリーです。
CDを最大限活用して、是非、『小中高校における哲学フォーラムの設置』を実現させてください。
敬具
平成20年11月 日
哲学哲男
※ 文部科学省初等中等教育局教育課程課長宛に対しても、上記文部科学省初等中等教育局初等中等教育企画課長宛の送付文と全く同じ送付文を送付しています。
なお、送付文中の「初等中等教育企画課長」の箇所は「教育課程課長」と書き換えた上で、送付しています。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付状
文部科学省生涯学習政策局政策課長殿宛
文部科学省生涯学習政策局社会教育課長殿宛
拝啓
文部科学省生涯学習政策局政策課長 殿
私はこの度、冊子『哲学フォーラムと哲学一貫教育』を作成しました。
ご贈呈申し上げます。
この冊子は、これまで文部科学省初等中等教育局長、文部科学省生涯教育政策局長、内閣官房長官、文部科学省初等中等教育局教育課程課長、文部科学省初等中等教育局教育課程課学校教育官兼道徳教育調査官、東京学芸大学「哲学・倫理分野」哲学教育教官宛に書き送った「哲学一貫教育提唱文」と今回新たに国立大学教育学部哲学教育担当教官宛に書き下ろした「哲学一貫教育と哲学フォーラムに関する提唱文」を纏めたものです。
哲学一貫教育とは、全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館において、哲学教育を一貫して実施しようとするものです。
哲学フォーラム(哲学対話室)とは、全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置しようとするものです。
この内、政策課長に関連のあるものは、「公民館における哲学教育」と「公民館における哲学フォーラム(哲学対話室)の設置」と言う事になります。
公民館における哲学教育とは、小中高校哲学一貫教育の基礎の上に、更に公民館においても哲学教育を一貫して行おうとするものです。
具体的には、週1回の通年の哲学講座を公民館主催で開設する事となります。
なお、ここで言う哲学講座とは、デカルト、カント、ショウペンハウワー等、俗に言う哲学者の哲学文献を講義する事ではありません。
市民に取って身近な哲学テーマについて、市民自らが考える機会を提供する場となります。
具体的には、「哲学読本大全(全100巻)」等を使用して、市民に身近な哲学テーマについて、古今東西の名著の中の名文中の名文を通して、古今東西の偉大な、偉人、賢人、聖人、哲人、文学者、芸術家、科学者等々のそれぞれ哲学テーマに関する考え方等を紹介する事となります。
具体的な哲学テーマとしては、次の様なものが考えられます。
「幸福」、「人生」、「自殺」、「自由」、「いじめ」、「差別」、「友情」、「家族」、「人間」、「環境」、「自然」、「お化粧」、「季節」、「風土」、「宗教」、「戦争」、「精神」、「神」、「知恵」、「愛」、「富」、「地位」、「名誉」、「勉強」、「仕事」、「法律」、「経済」、「政治」、「社会」、「教育」、「平和」、「平等」、「花」、「春」、「海」、「川」、「空」、「子供」、「大人」、「音楽」、「絵画」、「芸術」、「文学」、「科学」、「技術」、「情報」、「テレビ」、「文化」、「文明」、「現代」、「時代」、「時」、「地球」、「宇宙」、「生命」、「学校」、「職場」、「死」、「流行」、「キリスト教」、「仏教」、「外国人」、「障害者」、「女性」、「旅」、「青春」、「老人」、「夢」、「希望」、「理想」、「性」、「瞑想、「競争」、「信仰」、「祈り」、「ユーモア」、「病」、「快楽」、「日本」、「世界」、「哲学(知恵を愛する事)」等々、
※「哲学読本大全(全100巻)」とは、日本国人にとって大切と思われる500の哲学テーマそれぞれについて、古今東西の名著の中の名文中の名文を100編集めたものです。「哲学読本大全(全100巻)」が日本における哲学一貫教育のバイブルとなります。なお、作成方法等については、冊子本文に詳しく記載していますので、後ほどお目通し下さい。
次に、公民館における哲学フォーラム(哲学対話室)ですが、これは哲学ボランティア‘ソクラテス’と一般市民が、または一般市民同士が哲学的対話を行う場所と言う事になります。
具体的には、公民館の会議室を使用します。
哲学フォーラム(哲学対話室)については、毎日開設されている事が理想ですが、当初は哲学ボランティア‘ソクラテス’の人員も十分ではありませんので、当分の間は、毎週土曜日の午後2時から午後5時まで開設するものとします。
哲学講座の開設は公民館長が行う事になりますが、哲学フォーラム(哲学対話室)については、哲学ボランティア‘ソクラテス’グループが開設する事になります。
哲学ボランティア‘ソクラテス’が十数名集まり、哲学フォーラム公民館名(例:哲学フォーラム宮崎市中央公民館)を組織し、公民館長にサークル届けを提出する事により開始される事となります。
哲学フォーラム公民館名は、毎週土曜日の午後2時から午後5時まで、公民館の会議室を借り、哲学フォーラム(哲学対話室)を開設する事となります。
哲学フォーラム(哲学対話室)の開設時間中には、必ず哲学ボランティア‘ソクラテス’が数名常駐するものとします。
哲学フォーラム(哲学対話室)では、プラトンの「饗宴」にある様な数人での対話が1組、一対一の対話が数組、同時に行えるような体制を整えておくものとします。
哲学フォーラム(哲学対話室)では、哲学ボランティア‘ソクラテス’と一般市民が、または一般市民同士が自由に哲学的対話を展開する事になります。
哲学フォーラム(哲学対話室)には、一般市民は何の制限も無く自由勝手に入室できるものとします。フォーラム(広場)の趣旨を最大限尊重するものとします。
以上が、「公民館における哲学教育」と「公民館における哲学フォーラム(哲学対話室)の設置」の概要です。
この内、「公民館における哲学教育」については、今回は、関係機関の方々には、あまり強調していません。
何故なら、講師体制が十分でないからです。
一方、「公民館における哲学フォーラム(哲学対話室)の設置」については、今回、関係機関の方々に対して、極めて強く主張しています。
何故なら、哲学フォーラム(哲学対話室)の展開については、予算を含め、何の制約もないからです。
一旦火が付けば、一気に日本国中の全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)が展開する事も有り得るのです。
哲学とはphilosophia、知恵を愛する事。
知恵を愛するとは人間の根源的欲求です。
もし日本中の全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)が設置されれば、日本に哲学の花が咲く事になります。
哲学フォーラム(哲学対話室)において、世代間交流が行われます。
哲学フォーラム(哲学対話室)において、知恵の伝達が行われます。
哲学フォーラム(哲学対話室)から、友情、師弟愛が生まれます。
哲学フォーラム(哲学対話室)から、ソクラテス、プラトン、哲人政治家が生まれる事になります。
哲学フォーラム(哲学対話室)巡りが、若者、哲学者等の大きな楽しみとなります。
哲学フォーラム(哲学対話室)巡りが活性化する事により、日本に哲学的風土が生まれる事になります。
等々、哲学フォーラム(哲学対話室)には、日本を変える大きな可能性があります。
つきましては、公民館における哲学フォーラム(哲学対話室) の全国展開について、どうか政策課長の方におきまして、企画立案して頂きたいと思います。
もし、政策課長の方で旗振りをして頂ければ、めらめらと火が燃え上がるように、日本全国の公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)が展開される事となります。
その時、日本は確かに変わると思います。
なお、今回の冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」については、100部印刷し、別紙名簿の方々に送付しています。
そして、それぞれの方々に、哲学フォーラム(哲学対話室)の展開を依頼しています。
もし政策課長が旗振りをすれば、その旗の下に皆さんが集結すると思います。
そうなれば、本当に「燃ゆるが如く」となります。
なお、当該冊子及び当該冊子添付のCDに記載された著作物については、全て著作権フリーです。
メール送信するなり、ホームページに貼り付けるなどして、最大限ご活用下さい。
敬具
平成20年11月 日
哲学哲男
※ 文部科学省初等生涯学習政策局社会教育課長宛に対しても、上記文部科学省生涯学習政策局政策課長宛の送付文と全く同じ送付文を送付しています。
なお、送付文中の「政策課長」の箇所は「社会教育課長」と書き換えた上で、送付しています。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付状
文部科学省高等教育局高等教育企画課長殿宛
拝啓
文部科学省高等教育局高等教育企画課長 殿
私はこの度、冊子『哲学フォーラムと哲学一貫教育』を作成しました。
ご贈呈申し上げます。
この冊子は、これまで文部科学省初等中等教育局長、文部科学省生涯教育政策局長、内閣官房長官、文部科学省初等中等教育局教育課程課長、文部科学省初等中等教育局教育課程課学校教育官兼道徳教育調査官、東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官宛に書き送った「哲学一貫教育提唱文」と今回新たに国立大学教育学部哲学教育担当教官宛に書き下ろした「哲学一貫教育と哲学フォーラムに関する提唱文」を纏めたものです。
哲学一貫教育とは、全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館において、哲学教育を一貫して実施しようとするものです。
哲学フォーラム(哲学対話室)とは、全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置しようとするものです。
この内、高等教育企画課長に関連のあるものは、「大学における哲学教育」と「大学における哲学フォーラムの設置」と言う事になります。
この内の、大学における哲学フォーラムの設置については、今回、国立大学教育学部(教育大学)の哲学教室の先生方にお願いしているので、ここでの説明は省略いたします。
私が、高等教育企画課長にお願いしたいのは、大学における哲学教育の事です。
なお、大学における哲学教育には三つの概念があります。
一つ目は、旧帝国大学系文学部における哲学教育です。
二つ目は、教育学部における哲学教育です。
三つ目が、その他学部における哲学教育です。
この内の、旧帝国大学系文学部における哲学教育は、正に専門哲学教育です。
私たちはこの恩恵を広く受けていると言って良いでしょう。
しかしこの日本においては、これだけが哲学だと言う風潮があります。
そして、その事が日本の哲学を退廃させていると言っても良いと思います。
今回は、私はこの哲学教育については、何も提唱するつもりはありません。
現在の哲学教育をそのまま続けて頂ければ良いと思います。
次に教育学部における哲学教育ですが、今回の一連の提唱の中で私が一番強調している哲学教育です。
現在の学校教育の荒廃、それは学校の教師に哲学的素養が無い事が最大の原因です。
哲学とはphilosophia、知恵を愛する事。
これこそが教育の中心にあるべきです。
しかしもし、教師がその事を知らなければどうなるのでしょう。
それが現在の日本の教育の荒廃です。
教育学部の哲学教育では、徹底して「知恵を愛する術」を教えます。
ところで、知恵を愛するとはどう言う事でしょう。
それは言葉を愛する事です。
教育学部の哲学教育においては、徹底して言葉を愛する術を教えます。
その為の教材が『哲学読本大全』と言う事になります。
『哲学読本大全』には、古今東西の哲学者(知恵を愛する者)の知恵がぎっしり詰まっています。
なお、ここで言う哲学者(知恵を愛する者)とは、俗に言う哲学者ばかりでなく、偉人、聖人、賢人、哲人、英雄、偉大な文学者・芸術家、科学者等々、いわゆる偉大な人と呼ばれる人たちの事です。
彼らがその名で呼ばれるのは、知恵を愛し抜いた所以に他ならないからです。
『哲学読本大全』が、日本における、最大最高級の「哲学の書」「知恵の書」となります。
『哲学読本大全』が、日本における哲学一貫教育のバイブルとなります。
教育学部の哲学教育においても、この『哲学読本大全』を最大限に活用する事になります。
教育学部の哲学教育のカリキュラムを示すと次の通りとなります。
①西洋思想史・・・4単位(代表的西洋思想家の500編の名文中の名文から学ぶ)
②東洋思想史・・・4単位(代表的東洋思想家の500編の名文中の名文から学ぶ)
③日本思想史・・・4単位(代表的日本思想家の500編の名文中の名文から学ぶ)
④宗教・・・・・・4単位(代表的宗教の聖典の500編の名文中の名文から学ぶ)
⑤道徳・・・・・・4単位(代表的な徳に関する500編の名文中の名文から学ぶ)
⑥哲学各論・・・・16単位(哲学各論に関する2000編の名文中の名文,各論40編程度)
「人生論」、「人間論」、「 自由論」、「平等論」、「平和論」、「幸福論」、「感情論」、「精神論」、「肉体論」、「生命論」、「死生論」、「男女論」、「青少年論」、「友情論」、「恋愛論」、「結婚論」、「家族論」、「生活論」、「習慣論」、「道徳論」、「国家論」、「社会論」、「宗教論」、「民族論」、「民俗論」、「時代論」、「革命論」、「戦争論」、「法律論」、「政治論」、「経済論」、「産業論」、「職業論」、「教育論」、「学問論」、「文化論」、「文学論」、「芸術論」、「文明論」、「科学論」、「時間論」、「自然観」、「歴史観」、「地球観」、「世界観」、「宇宙観」、「読書作文論」、「愛」論、「知恵」論、「言葉」論、「自分」論、「神」論 等々
⑦古代哲学講読・・4単位(古代哲学の古典中の古典10冊を学ぶ)
⑧教科哲学・・・・4単位(中学校の9教科を哲学する)
⑨哲学対話・・・・2単位(哲学対話の技術を学ぶ)
⑩哲学作文・・・・2単位(哲学作文の技術を学ぶ)
⑪哲学対話録作成・授業外(在学中に100の哲学対話を行いその対話録を作成する)
⑫哲学作文集作成・授業外(在学中に100の哲学テーマについての作文を作成する)
※このカリキュラムの内容の詳細については、平成20年3月9日付け文部科学省初等中等教育局教育課程課長宛及び平成20年4月7日付け東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官宛の「哲学一貫教育提唱文」をご覧頂きたいと思います。
教育学部においては、毎週3授業時間の授業を、4年間通年で受ける事になります。
単位数で言うと48単位となります。
多いと驚くかも知れませんが、これだけは必要最小限です。
教育学部の学生は、教師と成るべき人です。
教師とは知恵を愛する人の事です。
それでこそ、子供たちに知恵を愛する楽しさを伝えられるのです。
知恵とは何でしたか。そう言葉でしたね。
学校の教師はソクラテスです。
より善き言葉を自由に操る人でなくてはなりません。
その為の教育を徹底しないで、如何なる教育を行おうと言うのでしょう。
もし子供たちに知恵を愛する楽しさを伝える事が出来たら、
子供たちの言語力は倍増します。
もし子供たちに知恵を愛する楽しさを伝える事が出来たら、
子供たちの道徳力は倍増します。
もし子供たちに知恵を愛する楽しさを伝える事が出来たら、
子供たちの学力は倍増します。
教育学部の哲学教育はそこに焦点を当てるべきなのです。
次に、その他の学部における哲学教育ですが、これは小中高校哲学一貫教育の基礎の上に、更に行う哲学教育と言う事になります。
1年及び2年は教養哲学、3年及び4年は専門哲学とします。
1年及び2年においては、小中高校で学んだ哲学を集大成し、自らの哲学体系を完成させるものとします。
3年及び4年においては、専攻する学科に関する自らの哲学を完成させるものとします。法哲学、経済哲学、経営哲学、科学哲学、医療哲学、スポーツ哲学等々。
なお、その他の学部おける哲学の授業は、必修とし、毎週1授業時間、4年間通年で受講するものとします。
これにより、小学校1年から大学4年まで、毎週哲学の授業を受ける体制が整う事になります。
これにより、小中高校大学における哲学一貫教育が完成する事になります。
以上が、大学における哲学教育の概要ですが、ここで高等教育企画課長にお願いがあります。
それは途轍も無い事業です。
もしこの事業が完成すれば、その効果は百年,千年も続くものとなります。
それは、『哲学読本大全(全100巻)作成事業』です。
『哲学読本大全(全100巻)』は、日本の哲学一貫教育におけるバイブルです。
『哲学読本大全(全100巻)』は、百年,千年と読み継がれるべきものです
『哲学読本大全(全100巻)』は、国宝とも成るべきものです。
『哲学読本大全(全100巻)』については、今回、国立大学教育学部哲学教育の先生方の提唱文の中に「哲学読本大全(全100巻)作成要領」として示しています。この哲学読本大全(全100巻)については、国立大学教育学部哲学教育の先生方が中心に成って作成して頂く仕組みになっていますが、これを、高等教育企画課長が中心に成って、全ての大学の哲学の先生を総結集して作成して頂きたいと言う事です。
全ての大学の哲学の先生とは、国立大学文学部の哲学の先生の事であり、国立大学教育学部の哲学の先生の事であり、そして私立大学の哲学の先生の事です。
これらの哲学の先生が総結集すれば、哲学教育に核融合が起こります。
すなわち、文献哲学と本来の哲学(知恵を愛する事)の衝突による、核融合です。
これにより、大学における哲学教育が、太陽の如く、全ての大学を照らし出す事となるのです。
すなわち本当の意味での哲学の復権です。
現在の大学における哲学教育は、文献哲学オンリーです。
文献哲学はとても大切な学問ですが、死んだ学問です。
この文献哲学と本当の意味での哲学(知恵を愛する事)が融合する事に依って、新しい哲学が生まれる事に成るのです。
私が求めている哲学はその哲学なのです。
「學而不思則罔、思而不學則殆」(論語)
以上、長々となりましたが、『哲学読本大全(全100巻)』の作成について、どうかよろしくお願いします。
なお、当該冊子及び当該冊子添付のCDに掲載している著作物は全て著作権フリーです。
CDを活用して、関係者に送信するなり、ホームページに貼り付けるなどしてご活用下さい。
敬具
平成20年11月 日
哲学哲男
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付状
内閣官房教育再生懇談会担当室長殿宛
拝啓
内閣官房教育再生懇談会担当室長 殿
私はこの度、冊子『哲学フォーラムと哲学一貫教育』を作成しました。
ご贈呈申し上げます。
この冊子は、これまで文部科学省初等中等教育局長、文部科学省生涯教育政策局長、内閣官房長官、文部科学省初等中等教育局教育課程課長、文部科学省初等中等教育局教育課程課学校教育官兼道徳教育調査官、東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官宛に書き送った「哲学一貫教育提唱文」と今回新たに国立大学教育学部哲学教育担当教官宛に書き下ろした「哲学一貫教育と哲学フォーラムに関する提唱文」を纏めたものです。
哲学一貫教育とは、全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館において、哲学教育を一貫して実施しようとするものです。
哲学フォーラム(哲学対話室)とは、全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置しようとするものです。
私は、平成20年1月31日に教育再生会議の最終報告「社会総がかりで教育再生を」が出された時、平成20年2月17日付けで内閣官房長官に意見の提出を行っています。
勿論その意見とは、「哲学一貫教育」の提唱です。
しかし、その時は最終報告が出された後でしたので、私の意見を取り上げる機会は無かったと思います。
今回、新たに「教育再生懇談会」がスタートし、様々な検討を重ねている所だと思います。
その様な機会に再度、「哲学一貫教育」を提唱したいと思います
哲学とは何でしょう。
それは、philosophia、知恵を愛する事です。
それでは、知恵を愛するとは、どう言う事でしょう。
それは、言葉を愛する事です。
それでは、言葉を愛するとは、どう言う事でしょう。
それは、言葉の源泉を愛する事です。
それでは、言葉の源泉とは何でしょう。
それは、嘗ては形而学上の問題でしたが、現在でな脳内生理学で説明が出来るのかも知れませんが、どちらでもあまり問題はありません。
要はその源泉に注意を向けられるかどうかです。
もし、その源泉に注意を向ければ、その人は敬虔になります。
何故なら、そこから真善美に溢れた言葉が湧き出て来るからです。
しかし、その源泉に注意を向ける事が出来なければ、その人に取ってその源泉は全く関係の無いものです。
よく、「無知」と言う言葉を使いますが、無知とはこの源泉を知らない事意味します。
宗教では、この無知が、最大の悪だと言ったりしますよね。
それは当然の事ですよね。
その宗教の本元を知らないと言う事ですから。
この無知を解消する事が教育です。
ところで、この無知を解消する為にはどうしたら良いのでしょう。
簡単な事ですね。
その源泉を愛するように仕向ければ良いだけの話ですよね。
しかしその源泉そのもは、目に見える訳でもなく、耳に聞こえる訳でもなく、手で触れる訳でもありませんので、それを愛しなさいと言っても正に雲を掴むような話に成ってしまう訳ですよね。
それでは、と言う事で、偉大な教育家(イエスに、ブッダに、ソクラテスにその他諸々)たちが出現して、その源泉から発せられた言葉の一部を、皆様の前に披露した訳ですよね。
そして皆様はこう言った。
何と素晴らしき言葉の数々よ!と
それに対してそれら偉大な教育家たちはこう言いましたよね。
この言葉は貴方たちの基にある!と
哲学とは、素晴らしき言葉を頼りに、その源泉に向かう事です。
その為には、先ず素晴らしき言葉の数々を子供たちの目の前に見せてあげなければならないのです。
キリスト教国家においては、聖書があります。
イスラム教国家においては、コーランがあります。
今の日本には何もありません。だから日本人は無知なのです。
しかしもう直ぐ、『哲学読本大全(全100巻)』が刊行されます。
これが日本人におけるバイブルとなるのです。
この『哲学読本大全(全100巻)』は、小学校、中学校、高校、大学、公民館における哲学一貫教育の教科書となります。
また、この『哲学読本大全(全100巻)』は、全ての図書館、図書室、そして全ての哲学フォーラム(哲学対話室)に備え付けられる事になります。
この『哲学読本大全(全100巻)』が、日本人における「知恵の書」「哲学の書」となるのです。
現代日本人が如何に知恵を愛していないか。
その実証は私たちの周りの全てです。
いじめ、自殺、言語力低下、モラル低下、テレビ番組の低俗化等々
もし一つを挙げよと言われれば、私は「日本人女性の茶髪」を挙げます。
自然への反発、それはイブの原罪にも似た所がある様に思います。
なぞと、少し話がそれてしまいました。
とにかく日本の児童生徒学生そして国民に素晴らしい言葉のシャワーを浴びせてあげるのです。
その時彼らは気付くのです。
私って何と素晴らしい存在なのと。
『汝自身を知れ』
偉大な教育者、ソクラテスはこの事を言い続けました。
これこそが、哲学、知恵を愛すると言う事なのです。
この事は、イエスもブッダもそして全て偉大と言われる哲学者兼教育者たちは言い続けているのです。
ただ地域により、時代により、「知恵」が別な言葉に成っているだけなのです。
哲学一貫教育においては、喩えを使わず、「知恵」と言う概念で真正面から取り組む事にしています。
もし、今後の教育に「哲学(知恵を愛する)」と言う概念が中心に据え付けられれば、日本は今よりも少なくとは倍は良い国家に成ります。
なお、哲学一貫教育は大きく次の4つの柱から成っています。
① 小学校、中学校、高校、大学、公民館における哲学一貫教育の実施
② 小学校、中学校、高校、大学、公民館への哲学フォーラム(哲学対話室)の設置
③ 『哲学読本大全(全100巻)』の刊行
④ 大学教育学部における哲学教育の徹底(哲学的素養に優れた教師の育成)
哲学一貫教育においては、以上を通して、日本を哲学的に成熟した国家へと導く事にあります。
世界から、一目も二目もおかれる国家を目指します。
嘗てのギリシアと並んで、世界史に残るような国家を目指します。
以上の様に哲学一貫教育では非常に高い理想を掲げています。
私は言って置きます。
「哲学(知恵を愛する)」と言う概念を国民一人一人に認識させる事が無ければ、どんな施策を行っても徒労であると。
国家が変わる為には、国民一人一人が変わらなければ駄目です。
すなわち現在の「無知なる日本人」を「知恵を愛する日本人」へと導かなければ、どんな事を遣っても駄目駄目。
送付状が檄文になってしまいましたが、どうか『哲学一貫教育』をお願いします。
なお、当該冊子は別紙名簿の100人の方々に配っています。
100人で、百人委員会を作ってみてはどうでしょうか!?
おって、当該冊子及び当該冊子添付のCDに掲載している著作物は、全て著作権フリーです。
CDを活用して、多くの方に『哲学一貫教育』を広報して頂ければ有り難く思います。
敬具
平成20年11月 日
哲学哲男
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付状
(社)全国公民館連合会長殿宛
拝啓
(社)全国公民館連合会長 殿
私はこの度、冊子『哲学フォーラムと哲学一貫教育』を作成しました。
ご贈呈申し上げます。
この冊子は、これまで文部科学省初等中等教育局長、文部科学省生涯教育政策局長、内閣官房長官、文部科学省初等中等教育局教育課程課長、文部科学省初等中等教育局教育課程課学校教育官兼道徳教育調査官、東京学芸大学「哲学・倫理分野」哲学教育教官宛に書き送った「哲学一貫教育提唱文」と今回新たに国立大学教育学部哲学教育担当教官宛に書き下ろした「哲学一貫教育と哲学フォーラムに関する提唱文」を纏めたものです。
哲学一貫教育とは、全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館において、哲学教育を一貫して実施しようとするものです。
哲学フォーラム(哲学対話室)とは、全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置しようとするものです。
この内、(社)全国公民館連合会に関連のあるものは、「公民館における哲学教育」と「公民館における哲学フォーラム(哲学対話室)の設置」と言う事になります。
公民館における哲学教育とは、小中高校哲学一貫教育の基礎の上に、更に公民館においても哲学教育を一貫して行おうとするものです。
具体的には、週1回の通年の哲学講座を公民館主催で開設する事となります。
なお、ここで言う哲学講座とは、デカルト、カント、ショウペンハウワー等、俗に言う哲学者の哲学文献を講義する事ではありません。
市民に取って身近な哲学テーマについて、市民自らが考える機会を提供する場となります。
具体的には、「哲学読本大全(全100巻)」等を使用して、市民に身近な哲学テーマについて、古今東西の名著の中の名文中を通して、古今東西の偉大な、偉人、賢人、聖人、哲人、文学者、芸術家、科学者等々のそれぞれ哲学テーマに関する考え方等を紹介する事となります。
具体的な哲学テーマとしては、次の様なものが考えられます。
「幸福」、「人生」、「自殺」、「自由」、「いじめ」、「差別」、「友情」、「家族」、「人間」、「環境」、「自然」、「お化粧」、「季節」、「風土」、「宗教」、「戦争」、「精神」、「神」、「知恵」、「愛」、「富」、「地位」、「名誉」、「勉強」、「仕事」、「法律」、「経済」、「政治」、「社会」、「教育」、「平和」、「平等」、「花」、「春」、「海」、「川」、「空」、「子供」、「大人」、「音楽」、「絵画」、「芸術」、「文学」、「科学」、「技術」、「情報」、「テレビ」、「文化」、「文明」、「現代」、「時代」、「時」、「地球」、「宇宙」、「生命」、「学校」、「職場」、「死」、「流行」、「キリスト教」、「仏教」、「外国人」、「障害者」、「女性」、「旅」、「青春」、「老人」、「夢」、「希望」、「理想」、「性」、「瞑想、「競争」、「信仰」、「祈り」、「ユーモア」、「病」、「快楽」、「日本」、「世界」、「哲学(知恵を愛する事)」等々、
※「哲学読本大全(全100巻)」とは、日本国民にとって大切と思われる500の哲学テーマそれぞれについて、古今東西の名著の中の名文中の名文を100編集めたものです。「哲学読本大全(全100巻)」が日本における哲学一貫教育のバイブルとなります。なお、作成方法等については、冊子本文に詳しく記載していますので、後ほどお目通し下さい。
次に、公民館における哲学フォーラム(哲学対話室)ですが、これは哲学ボランティア‘ソクラテス’と一般市民が、または一般市民同士が哲学的対話を行う場所と言う事になります。
具体的には、公民館の会議室を使用します。
哲学フォーラム(哲学対話室)については、毎日開設されている事が理想ですが、当初は哲学ボランティア‘ソクラテス’の人員も十分ではありませんので、当分の間は、毎週土曜日の午後2時から午後5時まで開設するものとします。
哲学講座の開設は公民館長が行う事になりますが、哲学フォーラム(哲学対話室)については、哲学ボランティア‘ソクラテス’グループが開設する事になります。
哲学ボランティア‘ソクラテス’が十数名集まり、哲学フォーラム公民館名(例:哲学フォーラム宮崎市中央公民館)を組織し、公民館長にサークル届けを提出する事により開始される事となります。
哲学フォーラム公民館名は、毎週土曜日の午後2時から午後5時まで、公民館の会議室を借り、哲学フォーラム(哲学対話室)を開設する事となります。
哲学フォーラム(哲学対話室)の開設時間中には、必ず哲学ボランティア‘ソクラテス’が数名常駐するものとします。
哲学フォーラム(哲学対話室)では、プラトンの「饗宴」にある様な数人の対話が1組、一対一の対話が数組、同時に行えるような体制を整えておくものとします。
哲学フォーラム(哲学対話室)では、哲学ボランティア‘ソクラテス’と一般市民が、または一般市民同士が自由に哲学的対話を展開する事になります。
哲学フォーラム(哲学対話室)には、一般市民は何の制限も無く自由勝手に入室できるものとします。フォーラム(広場)の趣旨を最大限尊重するものとします。
以上が、「公民館における哲学教育」と「公民館における哲学フォーラム(哲学対話室)の設置」の概要です。
この内、「公民館における哲学教育」については、今回は、関係機関の方々には、あまり強調していません。
何故なら、講師体制が十分でないからです。
一方、「公民館における哲学フォーラム(哲学対話室)の設置」については、今回、関係機関の方々に対して、極めて強く主張しています。
何故なら、哲学フォーラム(哲学対話室)の展開については、予算を含め、何の制約もないからです。
一旦火が付けば、日本国中の全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)が展開する事も有り得ます。
哲学とはphilosophia、知恵を愛する事。
知恵を愛するとは人間の根源的欲求です。
もし日本中の全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)が設置されれば、日本に哲学の花が咲く事になります。
哲学フォーラム(哲学対話室)において、世代間交流が行われます。
哲学フォーラム(哲学対話室)において、知恵の伝達が行われます。
哲学フォーラム(哲学対話室)から、友情、師弟愛が生まれます。
哲学フォーラム(哲学対話室)から、ソクラテス、プラトン、哲人政治家が生まれる事になります。
哲学フォーラム(哲学対話室)巡りが、若者、哲学者等の大きな楽しみとなります。
哲学フォーラム(哲学対話室)巡りが活性化する事により、日本に哲学的風土が生まれる事になります。
等々、哲学フォーラム(哲学対話室)には、日本を変える大きな可能性があります。
なお、公民館における哲学フォーラム(哲学対話室)の全国展開については、別紙名簿の方々に依頼しています。
もし、哲学フォーラム(哲学対話室)の動きがありましたら、全面的にご協力くださるようお願い申し上げます。
なお、各都道府県に設置されている国立大学教育学部(国立教育大学)哲学教室の先生方と連携して、各都道府県の県庁所在地の中央公民館と対象にして、モデル事業を実施して頂ければ、公民館における哲学フォーラムの展開に弾みが付くと思います。
全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)が設置されれば、公民館が活性化されるだけでなく、その地域が活性化され、そして日本が活性化される事となるのです。
有名な哲学フォーラムには、全国から優秀な若者や哲学者が集る事になります。
それによって、その街は哲学の街と呼ばれる事に成るのです。
「哲学による街おこし」と言う観点から、モデル事業に取り組んでみたら如何でしょうか。
なお、モデル事業を行うのであれば、「哲学講座」と「哲学フォーラム」を一体として行って頂きたいと思います。
それにより、哲学フォーラムの効果は倍増します。
各国立大学の教育学部哲学教室の先生方が全面的に協力して呉れると思います。
なお、当該冊子及び当該冊子添付のCDに記載されている著作物については、全て著作権フリーです。
CD等を活用して、全国の全ての公民館に当該情報を伝えて頂ければ有り難く思います。
敬具
平成20年11月 日
哲学哲男
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付状
北海道大学教育学部教育哲学担当教官殿宛
東北大学教育学部教育哲学担当教官殿宛
東京大学教育学部教育哲学担当教官殿宛
名古屋大学教育学部教育哲学担当教官殿宛
京都大学教育学部教育哲学担当教官殿宛
大阪大学教育学部教育哲学担当教官殿宛
九州大学教育学部教育哲学担当教官殿宛
拝啓
北海道大学教育学部 ┐
東北大学教育学部 │
東京大学教育学部 │
名古屋大学教育学部 ├ 教育哲学担当教官 殿
京都大学教育学部 │
大阪大学教育学部 │
九州大学教育学部 ┘
私はこの度、冊子『哲学フォーラムと哲学一貫教育』を作成しました。
ご贈呈申し上げます。
この冊子は、これまで文部科学省初等中等教育局長、文部科学省生涯教育政策局長、内閣官房長官、文部科学省初等中等教育局教育課程課長、文部科学省初等中等教育局教育課程課学校教育官兼道徳教育調査官、東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官宛に書き送った「哲学一貫教育提唱文」と今回新たに国立大学教育学部哲学教育担当教官宛に書き下ろした「哲学一貫教育と哲学フォーラムに関する提唱文」を纏めたものです。
哲学一貫教育とは、全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館において、哲学教育を一貫して実施しようとするものです。
哲学フォーラム(哲学対話室)とは、全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置しようとするものです。
ところで、教育を哲学するとどう言う結論になるのでしょう。
答えは簡単です。
「教育は哲学(philosophia、知恵を愛する)の為にある」です。
それでは知恵を愛するとはどう言う事でしょう。
これも簡単です。
それは、言葉を愛すると言う事です。
それでは、言葉を愛するとはどう言う事でしょう。
これも簡単です。
言葉の源泉を愛する事です。
それでは言葉の源泉とは何でしょう。
嘗ては形而学上の問題でしたが、現在は脳内生理学で説明するのかも知れませんが、どちらでもあまり問題ではありません。
要はその源泉に意を向けられるかどうかです。
もしその源泉に意を向ければ、その人は敬虔になるでしょう。
何故なら、その源泉から真善美に溢れた言葉が出て来るからです。
しかしその源泉に意を向ける事が出来なければ、その源泉はその者に取っては全く関係のないものとなります。
よく、「無知は最大の悪」だと言われます。
そこで言う無知とはその源泉を知らない事を言います。
何故なら、真善美に溢れた言葉の源泉がそこにあるのに意を向けないからです。
彼らの暮らしはその日暮です。
彼らは何が善で何が悪かを知る事は出来ません。
その日暮です。善に振れたり、悪に振れたり。悲しい限りです。
この無知を解消する事を教育と言います。
ですから、教育とは知恵を愛するように仕向ける事となります。
これまで偉大な教育者たち(イエス、ブッダ、、ソクラテス等々)がそのように仕向けて来ました。
そして結果は何時も合い半ばです。
私の哲学一貫教育もその系譜を引くものです。
日本全国の半分の者が知恵を愛するようになれば大成功です。
その時、日本は哲学国家と成るのです。
その国家は、これまで存在したどの国家より素晴らしいものとなります。
私はその様な理想の基に、哲学一貫教育を提唱しています。
ですので、どうか、ご支援、ご協力よろしくお願いします。
なお、当該冊子及び当該冊子添付のCDに掲載されている著作物は全て著作権フリーです。
CDを活用して、哲学一貫教育の有用性を多くの方に広報して頂ければ、有り難く思います。
敬具
平成20年11月 日
哲学哲男
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付状
北海道大学文学部哲学担当教官殿宛
東北大学文学部哲学担当教官殿宛
東京大学哲学担当教官殿宛
名古屋大学文学部哲学担当教官殿宛
京都大学教文学部哲学担当教官殿宛
大阪大学文学部哲学担当教官殿宛
九州大学文学部哲学担当教官殿宛
拝啓
北海道大学文学部 ┐
東北大学文学部 │
東京大学文学部 │
名古屋大学文学部 ├ 哲学担当教官 殿
京都大学文学部 │
大阪大学文学部 │
九州大学文学部 ┘
私はこの度、冊子『哲学フォーラムと哲学一貫教育』を作成しました。
ご贈呈申し上げます。
この冊子は、これまで文部科学省初等中等教育局長、文部科学省生涯教育政策局長、内閣官房長官、文部科学省初等中等教育局教育課程課長、文部科学省初等中等教育局教育課程課学校教育官兼道徳教育調査官、東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官宛に書き送った「哲学一貫教育提唱文」と今回新たに国立大学教育学部哲学教育担当教官宛に書き下ろした「哲学一貫教育と哲学フォーラムに関する提唱文」を纏めたものです。
哲学一貫教育とは、全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館において、哲学教育を一貫して実施しようとするものです。
哲学フォーラム(哲学対話室)とは、全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置しようとするものです。
大学における哲学教育には、二つの流れがあります。
一つは文学部における哲学教育であり、もう一つは教育学部における哲学教育です。
文学部における哲学教育はプラトンの系譜を踏むものであり、教育学部の哲学教育はソクラテスの系譜を踏むものです。
文学部の哲学教育の目的は、偉大な哲学者の足跡をなるべく忠実に残す事です。
一方の教育学部における哲学教育の目的は、哲学者(知恵を愛する者)その者を育てる事です。
すなわち、ソクラテスを育てる事です。
自ずからそのカリキュラムは異なったものとなります。
私は今回、教育学部における哲学教育について、提唱しました。
その目的は、哲学的素養に優れた教師の育成です。
その為に、文学部哲学科と同じ位の分量のカリキュラムを組んでいます。
現在の教育学部の哲学教育の体制では、その実現は中々難しい所ですが、もしその様な取り組みがありました、どうか学部を超えて、場合によっては、大学を超えてご協力頂ければ有り難いと思います。
なお、今回は、哲学教育とは別に、哲学フォーラム(哲学対話室)と言う概念を強く打ち出しています。
哲学フォーラム(哲学対話室)とは、全ての、小学校、中学校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置しようと言うものです。
この内、小学校、中学校、高校については、学校教育の中ですの色々と制約はありますが、大学及び公民館においては、何の制約も無い為、今回国立大学教育学部の哲学教育担当先生方に、全ての公民館及び大学に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置して頂くようお願いしている所です。
大学における哲学フォーラム(哲学対話室)については、教育学部に設置して頂くようにしています。
何故なら、教育学部の哲学教育担当の先生は、ソクラテスだからです。
このソクラテスを中心に、哲学フォーラム(哲学対話室)を展開する事が理に適っていると思ったからです。
しかしここでお願いがあるのです。
今回この冊子を送付した大学の文学部においても、哲学フォーラム(哲学対話室)を設置して頂きたいと言う事です。
今回この冊子を送付した大学とは、旧帝国大学文学部哲学科の流れを踏む大学です。
そして、現在でも、哲学科のある大学です。
もし、ここに哲学フォーラム(哲学対話室)が設置されれば、多くの国民がそこで哲学対話をしたいと願うようになるでしょう。
それこそ、別格の哲学フォーラム(哲学対話室)が出来る事になるのです。
これは、哲学フォーラム(哲学対話室)を活性化させるのに大いに役立ちます。
元々、教育学部の哲学教育の先生方も、今回冊子を送付した文学部哲学科の卒業生が多いのでしょうから、今回冊子を送付した大学の文学部の哲学フォーラム(哲学対話室)を別格扱いする事に異を唱える人はいないと思います。
ある意味では、地域の哲学フォーラム(哲学対話室)のセンターと位置づけて良いのかも知れません。
すなわち、都道府県の哲学フォーラム(哲学対話室)のセンターは、各都道府県に設置されている国立大学教育学部に設置されている哲学フォーラムで、それぞれの地域、例えば九州とか北海道とか言う地域のセンターは、今回冊子を送付した大学文学部に設置される哲学フォーラムであると言う風に。
いいえそうあるべきです。
それによって、哲学フォーラム(哲学対話室)は、国民的に人気を博する事に成るのです。
なお、今回送付した大学文学部の哲学フォーラム(哲学対話室)は大人気を博する事は間違いありません。
多分、週1回開設の哲学フォーラム(毎週土曜日午後2時から午後5時まで開設)では、フォーラム訪問者が多くて対応で出来ないかも知れませんが、それはそれで良いのです。
この哲学フォーラム(哲学対話室)の繁栄が、日本全体における哲学フォーラム(哲学対話室)の象徴となるのです。
この繁栄を見て、人々は近くの哲学フォーラム(哲学対話室)へと出掛ける事となるのです。
文学部哲学科は象牙の塔となってはいけません。
現在生きている日本国民と哲学的対話を行ってこそ、現在日本の哲学(知恵を愛する事)が生まれるのです。
現在、文学部哲学科はプラトンに徹していますが、哲学フォーラム(哲学対話室)で現在の日本国民と対話する事により、現在日本のソクラテスが生まれる事となるのです。
文学部哲学科は象牙の塔となってはいけないのです。
生き生きとした哲学的対話が交わされるべきです。
どうか哲学フォーラム(哲学対話室)を設置してください。
なお、当初は毎週土曜日の午後2時から午後5時までで結構です。
場所については、大学図書館の会議室(多くの大学は図書館を国民に開放していると思いますが、そうでない大学については適当な場所でお願いします。)として下さい。
出来るなら、今年度から始めて頂きたいと思います。
哲学フォーラム(哲学対話室)は何の準備も要りません。
毎週土曜日の午後2時から午後5時まで図書館の会議室を借り、そこに数人のソクラテス(哲学ボランティア)が常駐するだけで良いのです。
日本国民が挙って、哲学フォーラム(哲学対話室)に向かいます。
商売大繁盛です。
今、日本国民が何を考えているのか、それを知らずに哲学者(知恵を愛する者)とは言えない筈です。
今回冊子を送った文学部の哲学科には、それこそ、ソクラテスが山の様にいると思います。
教師、院生、学生、卒業生その他諸々。
週1回の哲学フォーラムについては、それ程負担にはならないと思います。
どうか象牙の塔を打ち破って、国民と共に、哲学(知恵を愛して)してください。
どうか今回冊子を送付した7大学哲学科で哲学フォーラム(哲学対話室)連絡委員会なるものを設置して、共同で広報して下さい。
その時は、私も一目散に駆けつけたいと思います。
なお、日時は毎週土曜日午後2時から午後5時で統一して下さい。
全ての哲学フォーラム(哲学対話室)もこれで統一しています。
これにより全国哲学フォーラム(哲学対話室)巡りが可能となるのですから・・・。
おって、当該冊子及び当該冊子添付のCDに掲載されている著作物は全て著作権フリーです。
この冊子は、別紙名簿の通り、先生にしか送っていません。
ついては、冊子を回覧するなり、CDを利用してメール送信するなどして、他の哲学の先生方の方々にもお知らせ下さい。
そしてどうか、『哲学フォーラム(哲学対話室』を設置して下さい。
敬具
平成20年11月 日
哲学哲男
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付状
朝日新聞東京本社編集局教育担当部長殿宛
毎日新聞東京本社編集局教育担当部長殿宛
読売新聞東京本社編集局教育担当部長殿宛
産経新聞東京本社編集局教育担当部長殿宛
日本経済新聞編集局教育担当部長殿宛
拝啓
朝日新聞東京本社編集局 ┐
毎日新聞東京本社編集局 │
読売新聞東京本社編集局 ├ 教育担当部長 殿
産経新聞東京本社編集局 │
日本経済新聞編集局 ┘
私はこの度、冊子『哲学フォーラムと哲学一貫教育』を作成しました。
ご贈呈申し上げます。
この冊子は、これまで文部科学省初等中等教育局長、文部科学省生涯教育政策局長、内閣官房長官、文部科学省初等中等教育局教育課程課長、文部科学省初等中等教育局教育課程課学校教育官兼道徳教育調査官、東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官宛に書き送った「哲学一貫教育提唱文」と今回新たに国立大学教育学部哲学教育担当教官宛に書き下ろした「哲学一貫教育と哲学フォーラムに関する提唱文」を纏めたものです。
この冊子は、基本的には「哲学一貫教育」を提唱するものです。
哲学一貫教育とは、日本国民の生涯に渡って哲学の機会を提供する事により、日本がより哲学的に成熟した国家と成る事を目指すものです。
なお、哲学一貫教育における所の哲学とは、philosophia、知恵を愛すると言う事です。
哲学一貫教育は全てこの観点から行われる事になります。
哲学、すなわち知恵を愛するとは、人間の根源的欲求です。
哲学一貫教育では、この根源的欲求を目覚めさせ、更に発展させて行く事を目的として実施していきます。
この知恵を愛すると言う根源的欲求は、小学校1年生においても当然にあります。
ですから、小学校1年から哲学教育を始める事となります。
哲学一貫教育の基礎は、小中高校哲学一貫教育となります。
小中高校哲学一貫教育では、素晴らしい言葉を学ばさせ(読書させ)、そこからその言葉について、自ら考えさせ、そしてその言葉に関する自分自身の考えを作文に纏めさせると言う方法を取ります。
具体的には、小中高校に渡って、週2時間の哲学の授業を行います。
週の最初の時間に、ある哲学テーマについて、古今東西の名文中の名文を数編黙読します。
週の最後の時間に、その哲学テーマについて、その1週間に思索した結果を作文として纏めます。
これを小学校1年から高校3年まで12年間実施します。(小学校低学年では特別な配慮をします。)
小学校1年から高校3年までの12年間に、360(1年30テーマ×12年間=360)の哲学テーマについて、古今東西の名文中の名文を読み、360の哲学テーマについて作文を纏める事になります。
これにより、世界に類例が無いと言うほど、優れた高校3年卒業生が生まれる事になります。
この基礎の上に、更に様々な哲学一貫教育を行う事になります。
これにより、世界に類例が無い、哲学的に成熟した国民が生まれる事になります。
この結果、日本は哲学国家(知恵を愛する民の国家)と成り、世界から一目も二目も置かれる事になるのです。
これが哲学一貫教育の概要です。
なお、哲学一貫教育の体系を示すと次の様になります。
① 哲学一貫教育の実施
小学校、中学校、高校、大学、公民館において、哲学教育を一貫して行う。
② 哲学フォーラム(哲学対話室)の設置
全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館に、哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する。哲学フォーラム(哲学対話室)で世代を超えた哲学的対話が行われる事となる。
③ 哲学読本大全(全100巻)の刊行
哲学一貫教育の教材とする為、日本国民に取って大切な500の哲学テーマについて、それぞれのテーマごとに古今東西の名著の中の名文中の名文を100編集めたもの。哲学一貫教育のバイブルとなる。
④ 大学教育学部における徹底した哲学教育の実施
哲学的素養に優れた教師を育成する為、大学教育学部で哲学教育を徹底して行う。ソクラテス的な教師を育成する。
①の哲学一貫教育ですが、この内の小中高校哲学一貫教育は、文部科学省の学習要領を改訂しなければならず、直ぐに実施する事は難しい状況にあります。
大学、公民館における哲学教育は制度上の縛りはありませんが、哲学教師の体制が十分でないので、哲学的な成熟を待つ必要があります。
③の哲学読本大全(全100巻)ですが、編集体制及び予算の面から、これも直ぐに実施すると言う訳には行かない状況にあります。
④の大学教育学部における徹底した哲学教育の実施(哲学的優れた教師の育成)についても、教育学部の哲学教師の体制が十分でないので、やはり哲学的成熟を待つ必要があります。
②の哲学フォーラム(哲学対話室)の設置ですが、これについては予算的な制約、制度上の制約は全くありません。
始めようと思えば今日からでも始める事が出来るのです。
具体的な方法を述べると次の様になります。
小中高校の哲学対話室(哲学フォーラム)については、空き教室等を利用して、哲学対話室の看板を掲げます。
そして、そこにソクラテス(哲学的素養に優れた者)が常駐すれば、それで哲学対話室が始まります。
哲学対話室は、課外活動として行ないます。毎日、午後3時から午後5時まで開設するものとします。
児童生徒は、自由勝手に哲学対話室に入室し、そこに居るソクラテスと哲学対話を交わす事になります。
なお、ソクラテスは学校教師ばかりでなく、哲学ボランティアを積極的に活用するものとします。哲学ボランティア“ソクラテス”は嘗て存在したソクラテスト同様、無報酬とします。
この哲学対話室で、児童生徒は本当に優れた大人たちと哲学的対話を、交わす事が出来るのです。
この哲学対話室が、哲学的に優れた児童生徒を育成する事になります。
また、この哲学対話室で、優れた大人が子供たちの悩みを内密に聞いてあげる事により、その子供の悩みを解消してあげるだけでなく、哲学(知恵を愛する事)への道を切り開いてもあげる事も出来るのです。
小中高校に設置する哲学フォーラム(哲学対話室)について、優れて効用がありますが、学校内に設置するものであり、やはり哲学的成熟を待つ必要があるのかも知れませんが、どうでしょう???
次に、大学及び公民館に設置する哲学フォーラム(哲学対話室)ですが、これについては、制度上も予算上も何も制約がありません。
始めようとすれば、明日からでも始める事が出来ます。
具体的にその方法をお示ししたいと思います。
なお、この大学及び公民館に設置する哲学フォーラム(哲学対話室)のセンターは、各都道府県に設置されている国立大学教育学部の哲学教室の先生とします。
何故なら,彼こそがその都道府県のソクラテスであり、また多くのソクラテスを育てているその人だからです。(学校の教師はソクラテスであるべきだと思いませんか???)
大学教育学部に設置する哲学フォーラム(哲学対話室)については、哲学教室の先生を中心に学生、院生、卒業生等々で哲学フォーラム大学名を組織し、大学図書館の会議室を借り、『哲学フォーラム(哲学対話室)』の看板を掲げ、そこにソクラテスが常駐する事により、始まる事になります。
公民館に設置する哲学フォーラム(哲学対話室)については、その公民館の近くに住む人で哲学に関心のある哲学ボランティア‘ソクラテス’十数名で哲学フォーラム公民館名(例:哲学フォーラム宮崎市中央公民館)を組織し、そこの公民館長にサークル届けをし、公民館の会議室を借り、そこにソクラテスが常駐する事により、始まる事になります。
どちらも会議室使用料は無料です。
お金は全く必要ないのです。
必要なものは、ソクラテスの熱意だけと言う事になります。
なお、大学及び公民館に設置する哲学フォーラム(哲学対話室)については、毎日開設される事が望ましいのですが、哲学ボランティア‘ソクラテス’の人員もそれ程十分ではありませんので、当分の間は、毎週土曜日の午後2時から午後5時まで開設するものとします。
これにより、毎週土曜日の午後2時から午後5時までの間に、日本のどこの大学及び公民館に行っても、そこの哲学者(知恵を愛する者)たちと哲学的対話が出来る事になるのです。
喜ばしい事だとは思いませんか???
日本全国の全ての大学及び公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置するのに、お金は1円も要らないのでです。
要るのは、哲学ボランティア‘ソクラテス’の情熱だけです。
素晴らしいとは思いませんか???
私は今回、この「大学と公民館への哲学フォーラム(哲学対話室)の設置」を関係者に強く働きかけています。
関係者とは、各都道府県に設置されている国立大学教育学部の哲学教育担当先生であり、文部科学省生涯学習政策局の政策課長及び社会教育課長であり、(社)全国公民館連合会長であり、帝国大学系文学部の哲学担当の先生方です。
また、「小中高校への哲学フォーラム(哲学対話室)の設置」についても、文部科学省初等中等教育局初等中等教育企画課長及び教育課程課長に働きかけています。
もし哲学フォーラム(哲学対話室)の動きがあったら暖かく見守って欲しいと思います。
もし出来る事なら積極的応援して頂きたいと思います。
もし更に出来ましたら、新聞社が中心に成って哲学フォーラムのフォーラムを開催して頂けたら最高だと思います。
哲学、philosophia、知恵を愛する事は、人間の根源的欲求です。
もし、その場があれば、その欲求は一気に放たれるのです。
そのエネルギーは大いなるものです。
勿論、善い方向に。
知恵とは真善美の根源。
もしこれへの愛が日本に溢れたらどうなると思います。
真善美に溢れた日本です。
教育再生会議か、教育再生懇談会か何か知りませんが、この哲学(知恵を愛する)と言う概念が無い限り、何度同じ様な会議を繰り返しても、無駄無駄、同じ事。
日本全国の全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)が設置されたらどんなにか素敵な事でしょう。
記者の方々の間でこのような話が交わされる事にもなります。
「ちょっと哲学フォーラムで休憩しようか」
「あの学校の哲学フォーラムにおそろしく素晴らしい生徒が居たよ」
「今週の週末にはあそこの哲学フォーラムのあの先生に会いに行く積もりだよ」
「今日あそこのフォーラムでこんな素晴らしい話を聞いたよ」とか
どうか哲学フォーラム(哲学対話室)を応援して下さい。
なお、当該冊子及び当該冊子添付のCDに掲載されている著作物については、全て著作権フリーです。
CDを活用して、社内全員の方に、「哲学一貫教育」及び「哲学フォーラム」宣伝して下さい。
敬具
平成20年11月 日
哲学哲男
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付状
日本放送協会放送総局報道局教育担当部長殿宛
日本テレビ放送網報道局教育担当部長殿宛
東京放送報道本部教育担当部長殿宛
フジテレビ報道局教育担当部長殿宛
テレビ朝日報道局教育担当部長殿宛
拝啓
日本放送協会放送総局報道局 ┐
日本テレビ放送網報道局 │
東京放送報道本部 ├ 教育担当部長 殿
フジテレビ報道局 │
テレビ朝日報道局 ┘
※ 本文については、新聞社編集局教育担当部長殿宛と同文。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付状
岩波書店編集局教育・哲学担当編集長殿宛
講談社編集教育・哲学担当編集長殿宛局
小学館編集局教育・哲学担当編集長殿宛
新潮社編集局教育・哲学担当編集長殿宛
文芸春秋編集局教育・哲学担当編集長殿宛
角川書店編集局教育・哲学担当編集長殿宛
集英社編集局教育・哲学担当編集長殿宛
中央公論新社編集局教育・哲学担当編集長殿宛
NHK出版編集局教育・哲学担当編集長殿宛
拝啓
岩波書店編集局 ┐
講談社編集局 │
小学館編集局 │
新潮社編集局 │
文芸春秋編集局 ├ 教育・哲学担当編集長 殿
角川書店編集局 │
集英社編集局 │
中央公論新社編集局 │
NHK出版編集局 ┘
私はこの度、冊子『哲学フォーラムと哲学一貫教育』を作成しました。
ご贈呈申し上げます。
この冊子は、これまで文部科学省初等中等教育局長、文部科学省生涯教育政策局長、内閣官房長官、文部科学省初等中等教育局教育課程課長、文部科学省初等中等教育局教育課程課学校教育官兼道徳教育調査官、東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官宛に書き送った「哲学一貫教育提唱文」と今回新たに国立大学教育学部哲学教育担当教官宛に書き下ろした「哲学一貫教育と哲学フォーラムに関する提唱文」を纏めたものです。
この冊子は、基本的には、哲学一貫教育を提唱する為のものです。
哲学一貫教育とは、日本人の一生涯に渡って哲学の機会を提供し、日本人が哲学的に成熟し、もって日本を哲学的国家に導こうとするものです。
哲学一貫教育は、大きく次の4つの柱から成っています。
① 哲学一貫教育
小学校、中学校、高校、大学、公民館に渡って哲学教育を一貫して行う。
② 哲学フォーラム(哲学対話室)の設置
全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話知室)を設置する。
③ 哲学読本大全(全100巻)の作成
哲学一貫教育の教材として、哲学読本大全(全100巻)を作成する。哲学読本大全(全100巻)とは、日本国民にとって大切な500の哲学テーマについて、それぞれのテーマごとに、古今東西の名著の中の名文中の名文を100編集めたものとする。哲学読本大全(全100巻)が、日本における哲学一貫教育のバイブルとなる。
④ 大学教育学部における徹底した哲学教育の実施
哲学的に優れた教師を育成する為、大学教育学部において、哲学教育を徹底的に行う。
これらの詳細については、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」をご覧頂きたいと思いますが、今回、各出版社編集局の教育・哲学担当編集長にお願いしたい事は、「哲学読本大全(全100巻)」の作成についてです。
この哲学読本大全(全100巻)の作成要領については、冊子の10頁から19頁までに渡って「哲学読本大全(全100巻)作成要領」として、詳しく記載しています。
この哲学読本大全(全100巻)は日本の文化財ともなるべきものです。
日本における最大最高級の「知恵の書」「哲学の書」と成るものです。
この哲学読本大全(全100巻)は百年、千年と読み継がれるものとなります。
この哲学読本大全(全100巻)が完成すれば、日本の哲学一貫教育も一気に完成へと向かう事になります。
しかし、編集体制、予算面及び哲学教育に関する成熟度から、哲学読本大全(全100巻)が一気に完成へと向かう局面には無いと思います。
そこではと言っては何なのですが、各出版社の各編集長方において、各出版社ごとに、哲学読本を作成して頂きたいと思うのです。
下記にその作成要領をお示しいたします。
各編集長の裁量で十分出来ると思います。
「各出版社ごとに哲学読本を作成する為の要領」
1 岩波書店、講談社、小学館、新潮社、文芸春秋、角川書店、集英社、中央公論新社、NHK出版社において、それぞれ「哲学読本(全1巻)」を出版する。
なお、その他の大手出版社で希望するものがあれば、この要領上での出版を承諾するものとする。
ただし、20社までを限度とする。
2 「哲学読本」は各社とも全て同規格とする。
B5版とする。
製本及紙質は、「知恵蔵」「イミダス」程度とする。
総頁数は1200頁程度とする。
縦書き、4段組とする。
3 編集方法は次の通りとする。
① 各出版社ごとに、日本国民に取って大切と思われる100の哲学テーマを設定する。
なお、その際、小中高校生の事も念頭に入れる。
② 100の哲学テーマ毎に、それぞれに相応しい古今東西の名著の中の名文中の名文をそれぞれ5編選ぶ。勿論それぞれの出版社の中の出版物から選ぶ事になる。生存者の著作は選ばないものとする。古典と呼ばれるものを中心に選択するものとする。1編の長さは4000字以内とする。
③ 名文1編については、見開き2頁に収めるものとする。
④ 名文の見出しはその著書名とする。例「饗宴」より、「新約聖書‘マタイ福音書’」より、「純粋理性批判」より、「坊ちゃん」より、「ファウスト」より、「徒然草」より等々。
⑤ 名文の後に、その著者、著作等について、簡単な書誌を記載する。また出典も必ず記載する。例「岩波文庫『真理のことば、感興の言葉』」中村元訳」等々
⑥ 名文本文及び書誌等を必ず見開き2頁に収める。
⑦ 1つの哲学テーマについて、必ず5編とする。哲学テーマが100であるので、名文の数は全部で500編となる。
⑧ 序文、あとがき、解説、レイアウト、表装等、上記以外の編集方法については、各出版社に任せる。なお背表紙には「哲学読本」と「出版社名」だけを入れる。表表紙等には,出版社ごとに副題を入れても良い。
4 「哲学読本」についてはセットで、全ての公立図書館、大学図書館、小学校、中学校、高校及び公民館の図書室に納入するものとする。8社であれば8セット、20社であれば20セットとなる。なお、当該「哲学読本」のセット納入については、文部科学省が最大限の支援を行うものとする。当該「哲学読本」についてはセットで「図書館協会推薦本」とする。
5 「哲学読本」1冊の定価は3000円前後とする。8セットで24000円、20セットで60000円程度となる。各図書館経費、各学校経費、各公民館経費で十分に賄えると思われるが、文部科学省は支援を行うものとする。もし「言語力の向上」、「道徳力の向上」、「学力の向上」を文部科学省の省是とするならば!。哲学、知恵を愛する事、これがこれら全ての力の基となる。
6 当該哲学読本は、書店で販売する場合は、当然それぞれ毎に販売する事に成るが、出来るだけ同じ棚に飾って貰うものとする。
7 当該読本は、各出版社が既に出版している出版物から選ぶものであり、経費はほとんどかからないものであり、各出版社の出版物の宣伝にもなるものであり、誰も反対はしないと思いますが・・・。しかしその出版効果は大きいのです。社会貢献と言う事で、会社重役を説き伏せ、そして各出版社が協力して、是非実現させて頂きたいと思います。
多分、文部科学大臣、内閣官房長官、それから各大学長、各都道府県教育長、各学校長等々から高く評価されると思いますよ。
8 日本全国の全ての大学及び公民館において、哲学フォーラム(哲学対話室)が展開される事になりますが、その対話の素材としてこの上なく重宝されるものとなるのです。
9 この哲学読本は出来る事なら小学校高学年からを対象としたいので、出来る事なら振り仮名を付けて頂きたいのですが、経費がかかると言うのであれば無理強いはしません。その場合は対象年齢を引き上げる事にします。そうなった場合、小学校図書室への納入が少し難しくなるかも知れません。
10 この哲学読本を10社で出版したとなると、名文中の名文が全部でが5000編(500編×10社=5000編)集る事になります。児童生徒学生そして国民にとって「考えるヒント」となり、そして十二分に「知恵の書」「哲学(知恵を愛する)の書」として、社会的に評価される事となります。
以上、思いつくまま、ランダムに書いてきましたが、良い企画だとは思いませんか・・・。
哲学とはphilosophia、知恵を愛する事。
それは人間の根源的欲求です。
一旦火が付けば、この哲学読本シリーズはベストセラーとも成り得るのです・・・。
新聞社、放送局にも今回提唱していますので・・・。
とにかくみんなで力を合わせて、哲学教育に取り組もうではないですか・・・。
『教育の再生』、その為には哲学、知恵を愛する事以外にはないのですから・・・。
その為には善き言葉のシャワーを浴びなければならないのです・・・・。
善き言葉のシャワーを浴びて自らが綺麗になった時、その時始めて人は知るのです。
私って何て素晴らしい存在なの・・・。
「汝自身を知れ」
その為の手助けをどうか編集長お願いします・・・。
限が無いのでこれで終わります。
こんな本の出版なんていとも簡単でしょう・・。
しかしその効果は絶大なのです・・・。
限が無いのでこれで本当に終わります。
なお、この冊子及び冊子添付のCDに掲載している著作物については全て著作権フリーで
す。
CDを活用して、社内全員の方々にもご案内してください。
それからお知り合いの出版社にも呼びかけてみて下さい。
ただし20社まで限定と言う事で・・・。
ある意味ではこの「哲学読本(全1巻)」が各社の知恵比べと成るのかも知れませんね。
ところで『知恵』とは何でしょう。
敬具
平成20年11月 日
哲学哲男
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付状
各都道府県教育委員会小中高校教育担当課長殿宛
各都道府県教育委員会社会教育担当課長殿宛
拝啓
各都道府県教育委員会 小中高校教育担当課長┐
各都道府県教育委員会 社会教育担当課長 ┘ 殿
私は哲学一貫教育を提唱している者です。
哲学一貫教育とは、日本国民の一生涯に渡って哲学の機会を提供する事により、日本国民が哲学的に成熟し行く事を目指して行う教育の事です。
この哲学一貫教育は、5つの柱から成っています。
一つ目が、「小中高校哲学一貫教育」です。
これは、文字通り、小中高校に渡って哲学教育を一貫して行うものです。
具体的には、週2時間の哲学の授業を、小中高校の12年間に渡って実施します。
週の最初の時間に、ある一つの哲学テーマについて、古今東西の名著の中の名文中の名文を3編から5編程度黙読します。
週の最後の時間に、その哲学テーマについて、その児童生徒が、その一週間に思索した結果を作文に纏めます。
小学校低学年については、特別の配慮をしますが、単純に計算すると、小学校1年から高校3年までの12年間に、360の哲学テーマ(1年30哲学テーマ×12年間=360哲学テーマ)について、古今東西の名著の中の名文中の名文を読み、360の哲学テーマについて作文を書く事になります。
これにより、世界に類例が無いと言う程に、哲学的に成熟した児童生徒が育成される事になります。
なお、教材としては、「哲学読本」と「哲学ノート」を使用します。
哲学読本とは、各学年に相応しい30の哲学テーマについて、それぞれの哲学テーマ毎に古今東西の名著の中の名文中の名文を3編から5編程度集めたものです。
哲学ノートとは、児童生徒が、哲学テーマについて、自ら思索した結果を纏める為のノートです。
哲学テーマはそれぞれの学年に相応しいものを選択するものとします。
例としては、知恵、勇気、忍耐、習慣、努力、いじめ、差別、自由、平等,平和、友情、勉強、学校、家族、国家、郷土、自然、季節、風、土、風土、命、環境、挨拶等々、様々な哲学テーマが考えられます。
文部科学省学習指導要領「道徳」に定める、「主として自身に関する事」、「主として他の人とのかかわりに関する事」、「主として自然や崇高なものとのかかわりに関する事」「、主として集団や社会とのかかわりに関する事」の4つの分野からそれぞれバランスを取って選択するものとします。
二つ目が、「小中高校哲学一貫教育の基礎の上に行う一生涯にわたる哲学一貫教育」です。
具体的には、大学及び公民館等においても、哲学教育を一貫して行う事になります。
大学においては、哲学を必修として、1年から4年まで通年で、毎週1回、哲学の授業を受けるものとします。
1年及び2年は、教養哲学とし、小中高校で学んだ哲学を集大成します。
3年及び4年は、専門哲学とし、それぞれ学ぶ学科を哲学します。経済哲学、経営哲学、法哲学、医療哲学、スポーツ哲学等々
公民館においても、毎週1回、通年で、哲学講座を開設するものとします。
なお、大学における哲学教育も、公民館における哲学教育も、俗に言う哲学文献をまなぶのではなく、大学生及び国民にとって、大事な哲学テーマについて、古今東西の名著の中の名文中の名文から学ぶ事を基本とします。
三つ目が、「教育学部における徹底した哲学教育」です。
小中高校は全人教育です。
教師は、嘗て存在したソクラテス同様、知恵を愛する者(哲学者)でなくてはなりません。
教師が、知恵を愛する者(哲学者)であってこそ、児童生徒に知恵を愛する楽しさを伝える事が出来るのです。
しかし、現在の学校の教師には、この知恵を愛すると言う哲学的能力に欠けています。
この哲学的能力の無さが、現在の教育の荒廃を招いていると言っても良いと思います。
この哲学的能力を付ける為、大学教育学部において、徹底した哲学教育を行います。
なお、ここで言う哲学的能力、知恵を愛する能力とは、言葉を愛する能力と言い換えても良いと思います。
教育学部においては、哲学を必修とし、毎週3回、1年から4年まで通年で授業を受けるものとします。単位数で行くと48単位となります。
哲学の授業内容を例示すると次の通りです。
①西洋思想史・・・4単位(代表的西洋思想家の500編の名文中の名文から学ぶ)
②東洋思想史・・・4単位(代表的東洋思想家の500編の名文中の名文から学ぶ)
③日本思想史・・・4単位(代表的日本思想家の500編の名文中の名文から学ぶ)
④宗教・・・・・・4単位(代表的宗教の聖典の500編の名文中の名文から学ぶ)
⑤道徳・・・・・・4単位(代表的な徳に関する500編の名文中の名文から学ぶ)
⑥哲学各論・・・・16単位(哲学各論に関する2000編の名文中の名文,各論40編程度)
「人生論」、「人間論」、「 自由論」、「平等論」、「平和論」、「幸福論」、「感情論」、「精神論」、「肉体論」、「生命論」、「死生論」、「男女論」、「青少年論」、「友情論」、「恋愛論」、「結婚論」、「家族論」、「生活論」、「習慣論」、「道徳論」、「国家論」、「社会論」、「宗教論」、「民族論」、「民俗論」、「時代論」、「革命論」、「戦争論」、「法律論」、「政治論」、「経済論」、「産業論」、「職業論」、「教育論」、「学問論」、「文化論」、「文学論」、「芸術論」、「文明論」、「科学論」、「時間論」、「自然観」、「歴史観」、「地球観」、「世界観」、「宇宙観」、「読書作文論」、「愛」論、「知恵」論、「言葉」論、「自分」論、「神」論 等々
⑦古代哲学講読・・4単位(古代哲学の古典中の古典10冊を学ぶ)
⑧教科哲学・・・・4単位(中学校の9教科を哲学する)
⑨哲学対話・・・・2単位(哲学対話の技術を学ぶ)
⑩哲学作文・・・・2単位(哲学作文の技術を学ぶ)
⑪哲学対話録作成・授業外(在学中に100の哲学対話を行いその対話録を作成する)
⑫哲学作文集作成・授業外(在学中に100の哲学テーマについての作文を作成する)
四つ目が、「哲学読本大全(全100巻)」です。
「哲学読本大全(全100巻)」は、小学校、中学校、高校、大学、公民館等々における哲学一貫教育の教材となるものです。
また、日本国民における「知恵の書」とも成るものです。
キリスト教国家においては「聖書」が、イスラム教国家においては「コーラン」が、国民を育てていきますが、日本においては「哲学読本大全(全100巻)」が、国民を育てて行く事になるのです。
ですから、「哲学読本大全(全100巻)」は、国民の英知を結集して作成しなければならないと言う事になります。
なお、「哲学読本大全(全100巻)」とは、国民にとって大切な500の哲学テーマについて、古今東西の名著の中の名文中の名文を、それぞれ100編集めたものです。
ここで言う、名著とは、哲学書だけでなく、聖典、経典、文学書(小説、戯曲、詩、物語、随筆、紀行文、日記等)、科学書等々全ての名著と言われるものを含みます。
この「哲学読本大全(全100巻)」に、古今東西の偉大と言われる人々(哲学者、宗教家、教育家、文豪、芸術家、科学者、英雄等々)の知恵が凝縮される事になります。
この「哲学読本大全(全100巻)」が哲学(知恵を愛する事)への入り口となります
例えば、児童生徒が、『勇気』に関する、古今東西の名著の中の名文中の名文を100編読んだとします。
その児童生徒は、『勇気』関するある普遍的なものを予感するでしょう。
そして、その中でも特に強烈な印象を与えた名文の原典を図書館等で借り、その原典を何度も何度も読む事になるのでしょう。
その中で、児童生徒は、その著者と『勇気』に関する哲学的対話を進める事になります。
そして、自分なりに『勇気』に関する概念を身に付ける事になります。
その概念を、哲学的に優れた人々との対話(この対話を行う場所がこれから説明する哲学フォーラム(哲学対話室)と言う事になりますが・・)により、更に深化させ、確信し、そして実践へと結び付けて行く事になるのです。
「哲学読本大全(全100巻)」は、日本国民に哲学(知恵を愛する事)の入り口を示すものとなるのです
五つ目が、「哲学フォーラム(哲学対話室)」です。
これは、日本中の全ての、小学校、中学校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置すると言うものです。
哲学フォーラム(哲学対話室)とは、哲学的素養のある人(ソクラテス)と、小学生、中学生、高校生、大学生及び国民が、哲学テーマについて、対話をする場所となります。
また、小学生、中学生、高校生、大学生及び国民が、垣根を越えて、哲学的テーマについて対話する場所ともなります。
場所については、小中高校は空き教室等を、大学は大学図書館の会議室を、公民館は公民館の会議室を利用する事になります。。
哲学フォーラム(哲学対話室)は、それぞれの哲学対話室に、哲学的素養のある人(ソクラテス)が常駐する事により、開設される事になります。
小中高校の哲学フォーラム(哲学対話室)については、課外活動として実施するものとし、毎週月曜日から金曜日までの午後3時から午後5時まで開設するものします。
大学及び公民館に設置する哲学フォーラム(哲学対話室)については、毎週土曜日の午後2時から午後5時まで開設するものとします。
小中高校の哲学フォーラム(哲学対話室)のソクラテスについては、学校の教師だけでなく、哲学ボランティア“ソクラテス”を積極的に活用するものとします
大学及び公民館の哲学フォーラム(哲学対話室)については、哲学ボランティア“ソクラテス”が十数人集り、『哲学フォーラム○○』を組織した上で、運営するものとします。
以上が『哲学一貫教育』の概要です。
この内の、一番目の「小中高校哲学一貫教育」ですが、これについては、文部科学省の学習指導要領を改訂しなければならなず、哲学的成熟を待つ必要があります。
次に、二番目の「大学及び公民館における哲学教育」ですが、これについては、制度上の制約はありませんが、大学及び公民館における哲学教育の教師、講師体制が十分でないので、やはり哲学的成熟を待つ必要があります。
次に、三番目の「教育学部における哲学教育の徹底ですが、これについても制度上の制約はありませんが、教育学部における哲学教育の教師体制が十分でないので、やはり哲学的成熟を待つ必要があります。
次に、四番目の「哲学読本大全(全100巻)」ですが、これについても制度上の制約はありませんが、編集体制等についての国民的コンセンサスを得る必要があるので、やはり哲学的成熟を待つ必要があります。
次に、五番目の「哲学フォーラム(哲学対話室)」ですが、これについては、制度上の制約も、予算上の制約も、その他何の制約もありません。
設置しようと思えば、明日からでも設置出来るのです。
私は、平成20年2月3日付けの文部科学省初等中等局長宛を皮切りに、平成20年2月3日付で文部科学省生涯学習政策局長宛に、平成20年2月10日付けで内閣官房長官宛に、平成20年2月17日付で文部科学省初等中等教育局教育課程課長宛に、平成20年3月○日付で文部科学省初等中等教育局教育課程課学校教育官兼道徳教育調査官宛に、平成20年4月○日付けで東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官宛に、それぞれ哲学一貫教育を提唱してきましたが、その中心となるのは、上記の一番目から四番目で、五番目の「哲学フォーラム(哲学対話室)」については、その付属的なものとして、提唱してきました。
しかし、私は思ったのです。
無理な事を言い続けても先には進まないと。
それよりも、今出来る事から先に遣るべきだと。
そう言う事で、今回、哲学フォーラム(哲学対話室)を一斉に大々的に提唱する事としたのです。
その為に、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」を100部印刷し、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付先名簿一覧の100名の方々に送付しようと準備を進めていたのです。
しかし、その作業の最後の段階で思ったのです。
哲学フォーラム(哲学対話室)の直接の指揮官たちは、各都道府県教育委員会の「小中高校教育担当課長殿」と「社会教育担当課長殿」でないかと・・。
と言う事で、今回新たに、各都道府県の「小中高校教育担当課長殿」と「社会教育担当課長殿」宛に対しても提唱する事にしたのです。
なお、各課長殿宛に冊子を印刷して送付するとなると相当に負担となるので、メールで送信させて頂く事にしました。
今回のこの各課長殿宛の提唱文も、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」に掲載する事といたしております。
ですから、今回の提唱文ついても、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付先名簿一覧の100名の方々も知る事となります。
つきましては、100名の方々とも連係を取り合い、是非哲学フォーラムの実現に向けてご尽力頂きたいと思います。
それでは、「全ての小中高校及び公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する為の方法」と言うタイトルの下、哲学フォーラム(哲学対話室)の展開方法をお示ししたいと思います。
なお、「全ての大学に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する為の方法」については、今回の冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」の中で、国立大学教育学部(教育大学)の哲学教育の先生方に提唱している所です。
その提唱の中で、国立大学教育学部(教育大学)の哲学教育の先生方には、各都道府県の哲学フォーラムの中心に成って頂く様にもお願いしている所です。
つきましては、国立大学教育学部(教育大学)の哲学教育の先生方を中心に、各都道府県教育委員会の小中高校教育担当課長殿と社会教育担当課長殿が協力し合って、全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置して頂きたいと思います。
もし、日本全国の全ての、小学校、中学校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)が設置される事になれば、日本は確かに哲学的に成熟していきます。
この哲学的成熟の度合いに応じて、私がこれまで提唱してきた『哲学一貫教育』、すなわち
① 小中高校哲学一貫教育
② 一生涯に渡る哲学一貫教育(小中高校哲学一貫教育の基礎の上に行う大学、公民館、家庭等における哲学教育)
③ 大学教育学部における徹底した哲学教育(哲学的素養に優れた教師の育成)
④ 哲学読本大全(日本の『知恵の書』、百年・千年読み継がれる国宝的図書)
も独りでに完成の方向に向かう事になるのです
これにより、日本は世界に秀でた哲学国家と成るのです
哲学、知恵を愛するとは、人間の根源的欲求です。
哲学フォーラム(哲学対話室)で、その根源的欲求が開放されます。
哲学の本質は、『汝自身を知れ』
哲学フォーラム(哲学対話室)で、その素晴らしき自分自身を確認します
哲学とは真善美を求める事。
哲学フォーラム(哲学対話室)に、真善美の花が咲き誇ります。
哲学フォーラム(哲学対話室)が、日本全土に展開される事により、日本国民は確かに哲学的成熟して行くのです。
「全ての小中高校及び公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する為の方法」
1 趣旨
各都道府県の全ての小中高校及び全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する為の方法を述べる。
2 哲学フォーラム(哲学対話室)連絡会
各都道府県に設置されている国立大学教育学部(教育大学)の哲学教育の先生、各都道府県教育委員会の小中高校教育担当課長及び社会教育担当課長並びに各都道府県公民館連絡協議会長の四者で「哲学フォーラム(哲学対話室)連絡会」を設置する。
この連絡会は、審議機関的な存在とする。
3 哲学フォーラム都道府県の設置
国立大学教育学部(教育大学)哲学教室を事務局として、哲学フォーラム都道府県を設置する。
この哲学フォーラムは、大学教師、小中高校教師、教育行政関係者、公民館関係者、大学院生、学生、その他哲学教育に関心のある者の会員組織とする。
哲学フォーラム都道府県では、次の事を行う。
① 小学校、中学校、高校、大学、公民館における哲学フォーラム(哲学対話室)の試行
並びに支援
② 哲学フォーラム(哲学対話室)のノウハウの研究
③ 哲学ボランティア‘ソクラテス’の育成
④ 哲学フォーラム(哲学対話室)と学校教育の連係
⑤ 哲学フォーラム都道府県のホームページの作成(フォーラムの様々な広報を行う)
⑥ 哲学一貫教育の総合的研究
4 全ての小中高校に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する為の方法
① 県庁所在地の小学校、中学校、高校、各3校計9校に、哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する。哲学フォーラム(哲学対話室)試行の開始。
② 哲学フォーラム(哲学対話室)は、毎週月曜日から金曜日までの、午後3時から午後5時まで開設する。
③ 哲学フォーラム(哲学対話室)は、空き教室等を利用する。
④ 哲学フォーラム(哲学対話室)には、必ず二人以上のソクラテスが常駐するものとする。
⑤ 常駐するソクラテスの内訳は、一人がその学校の教師、他の一人が哲学ボランティアとする。なお、二人とも哲学ボランティアでも良い。
⑥ ソクラテスは、日替わりとする。曜日割り当てをする。哲学フォーラム(哲学対話室)を運営する為には、最低10名のソクラテスが必要となる。
⑦ 哲学ボランティア‘ソクラテス’については、特別の資格を要しない。哲学(知恵を愛する事)に興味のある者であれば誰でも良い。
⑧ その学校の哲学ボランティア‘ソクラテス’に成りたい者は、「哲学に関する児童生徒向けの作文」を学校長に提出し、受理され、かつまた学校長と哲学対話を行い、学校長が適性と判断した時、その学校の哲学ボランティア‘ソクラテス’に成る。なお、「哲学に関する児童生徒向けの作文」については、ファイルし、哲学フォーラム(哲学対話室)に備え付け、児童生徒の供覧に供する。この作文が、哲学ボランティア‘ソクラテス’を選択する、一つの基準となる。おって、その学校の教師がソクラテスに成る時は、作文及び学校長との哲学対話は課さない。
⑨ 哲学ボランティア‘ソクラテス’については、哲学(知恵を愛する事)に興味があり、児童生徒と対話を通じて知恵(ことば)を伝えたい者であれば、PTAの会員、老人クラブの会員、青年クラブの会員、商工会の会員、農業クラブの会員、教師、学生等々、誰でも良い。多くの哲学ボランティア‘ソクラテス’が集まれば集る程、その学校の哲学フォーラム(哲学対話室)は活況を呈し、充実する事となる。なお、その学校の教師がソクラテスとなる時には、勤務(課外活動)として扱う。おって、哲学ボランティア‘ソクラテス’については、嘗てギリシアに実在したソクラテスと同様、無報酬とする。
⑩ 哲学フォーラム(哲学対話室)における哲学的対話を通じて、児童生徒が、哲学的素養のある様々な大人を知る事となる。これにより、児童生徒は哲学(知恵を愛する事、言葉を愛する事)において、成熟する事となる。
⑪ 哲学フォーラム(哲学対話室)開設当初は、哲学ボランティア‘ソクラテス’が集まらないと思われるので、哲学フォーラム都道府県の会員が強力なバックアップを行う。
⑫ この小中高校の各3校計9校の試行期間中、哲学フォーラム都道府県の会員は積極的に哲学ボランティア‘ソクラテス’と成り、その学校の哲学フォーラム(哲学対話室)で児童生徒と対話を行い、哲学フォーラム(哲学対話室)のノウハウを取得するものとする。
⑬ 哲学フォーラム都道府県の各会員は、哲学フォーラム(哲学対話室)の試行で得たノウハウを国立大学教育学部の哲学教育の教官に報告するものとする。また、教官も自ら哲学フォーラム(哲学対話室)で児童生徒と哲学対話を交わし、そのノウハウを取得するものとする。教官は、これらを纏めて、哲学フォーラム(哲学対話室)の在り方等に関する提言を行うものとする。
⑭ この試行期間は2年間とする。この試行期間で得たデータ、ノウハウ等を基に、全ての小学校、中学校、高校に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置していくものとする。
教育委員会小中高校教育担当課長は最大限のバックアップをするものとする。
⑮ 小中高校の哲学フォーラム(哲学対話室)が成功する為には、どれだけ多くの哲学ボランティア‘ソクラテス’を集める事が出来るかに懸かっている。哲学ボランティア‘ソクラテス’は、上述した如く、哲学(知恵を愛する事、言葉を愛する事)に興味があり、対話を通じて知恵を伝えたいと言う思いがあれば誰でも良い。哲学ボランティア‘ソクラテス’を募集する場合は、そこに焦点をおかなければならない。哲学フォーラム(哲学対話室)を端的に表現すれば、それは良識のある大人と児童生徒が対話をする場所となる。これは、今の学校教育において、重視すべき事である。大人と子供の断絶!。哲学フォーラム(哲学対話室)が、大人と子供の架け橋となる。フォーラムとは広場。そこに大人と子供が集る。それは極めて自然な事。しかし日本ではその事が自然に行われていない。哲学フォーラム(哲学対話室)とは、その様な仕組みを整え、その仕組みの中で、大人と子供の対話を回復させようとするもの。勿論大人とは哲学的素養のある者=良識のある者。誰か哲学フォーラム(哲学対話室)に反対する者が居るだろうか?
⑯ 県庁所在地の小中高校の哲学フォーラム(哲学対話室)試行後、5年間で、全ての小中高校に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置するものとする。具体的にそのスケジュールを示すと次の通りとなる。
20年度を大学教育学部及び教育委員会における準備期間とし、
21年度を哲学フォーラム都道府県の組織作りに充て、
22年度から23年度において「都道府県所在地の小中高校(各3校、計9校)」において試行を行い、
24年度から28年度おいて、計画的に展開し、
28年度末に全ての小中高校に哲学フォーラム(哲学対話室)の設置を完了させる。
⑰ 各都道府県教育委員会の小中高校教育担当課長は、小中高校の哲学フォーラム(哲学対話室)の展開について、最大限の配慮を行うものとする。
⑱ 小中高校の哲学フォーラム(哲学対話室)の開設者は学校長とし、運営については、その学校の“ソクラテス”グループが行うものとする。なお、“ソクラテス”グループの中に、その学校の教師が必ず2人以上入るものとする。また、学校長は、適宜それぞれのソクラテスと対話を行い、それぞれの“ソクラテス”の資質及び哲学フォーラム(哲学対話室)の運営実態を把握するものとする。
⑲ 小中高校の哲学フォーラム(哲学対話室)とその地域の公民館に設置される哲学フォーラム(哲学対話室)は連係し合い、協力するものとする。児童生徒が、公民館の哲学フォーラム(哲学対話室)に参加し易いような環境を作る。
⑳ 哲学フォーラム都道府県は、小中高校の哲学フォーラム(哲学対話室)の展開について、最大限協力をするものとする。なお、小中高校の哲学フォーラム(哲学対話室)の“ソクラテス”については、なるべく哲学フォーラム都道府県の会員に成って頂くものとする。
○21 哲学フォーラムの展開については、文部科学省各課、各国立大学、各教育委員会、各新聞社、各放送局、各出版社等、主だった関係機関に対して、その支援をお願いしています。もし、各都道府県教育委員会の小中高校教育担当課長殿と社会教育課長殿が連係して、一斉に旗振りをして下されば、この哲学フォーラムは一気に国民的運動へと発展して行く事になるのです。哲学フォーラムから真善美のお花が、日本全土に広がって行く事になるのです。どうか、そう言う日本の為に、お骨折りを宜しくお願いいたします。
5 全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する為の方法
① 県庁所在地の公民館3ケ所に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する。なお、その内の1ケ所は中央公民館とする。哲学フォーラム(哲学対話室)試行の開始。
② 公民館に設置する哲学フォーラム(哲学対話室)については、哲学ボランティア“ソクラテス”十数人で、サークル「哲学フォーラム公民館名(例:哲学フォーラム宮崎市中央公民館)」を組織し、公民館長にサークル届出を提出する事により設置される。
③ 哲学フォーラム(哲学対話室)については、毎週土曜日の午後2時から午後5時まで開設する。哲学フォーラム(哲学対話室)には、誰でも(日本国民はもとより外国人でも)、自由に、勝手に、時間に囚われずに入室出来るものとする。フォーラム(広場)の趣旨を最大限尊重する。
④ 哲学フォーラム(哲学対話室)については、公民館の会議室を借りて行ものとする。
⑤ 哲学フォーラム(哲学対話室)には、必ず3人以上のソクラテスが常駐するものとする。
⑥ 公民館に設置する哲学フォーラム(哲学対話室)の“ソクラテス”と成る為には、サークル「哲学フォーラム公民館名」の代表者に、哲学ボランティア“ソクラテス”登録届けを行う事により、その公民館の“ソクラテス”と成る。“ソクラテス”と成る為には、哲学(知恵を愛する事)に興味があれば、資格は必要としない。ただし、登録届出と同時に、自らの『哲学に関する考えた方』を纏めた作文(A4版、5頁~10頁)を提出するものとする。この作文については、ファイルにして哲学フォーラム(哲学対話室)に備え付け、哲学フォーラム(哲学対話室)利用者の供覧に供する。これが、“ソクラテス”を知る最初の手掛りと成る。なお、哲学ボランティア“ソクラテス”は、嘗てギリシアに実在したソクラテスト同様、無報酬とする。
⑦ 哲学フォーラム(哲学対話室)においては、プラトンの「饗宴」にあるような数人における対話が1組、一対一の対話が数組、同時に行われる事が出来るような体制を整えた置くものする。一対一の対話が活発になればなるほど、そのフォーラムに多くの人が集る事になる。
⑧ 哲学フォーラム(哲学対話室)開設当初は、哲学ボランティア‘ソクラテス’が集まらないと思われるので、哲学フォーラム都道府県の会員が強力なバックアップを行う。
⑨ この公民館3ケ所の哲学フォーラム(哲学対話室)の試行期間中、哲学フォーラム都道府県の会員は積極的に哲学ボランティア‘ソクラテス’成り、その公民館の哲学フォーラム(哲学対話室)で一般市民と対話を行い、哲学フォーラム(哲学対話室)のノウハウを取得するものとする。
⑩ 哲学フォーラム都道府県の各会員は、哲学フォーラム(哲学対話室)の試行で得たノウハウを国立大学教育学部の哲学教育の教官に報告するものとする。また、教官も自ら哲学フォーラム(哲学対話室)で一般市民と哲学対話を交わし、そのノウハウを取得するものとする。教官は、これらを纏めて、哲学フォーラム(哲学対話室)の在り方等に関する提言を行うものとする。
⑪ この試行期間は2年間とする。この試行期間で得たデータ、ノウハウ等を基に、全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置していくものとする。
教育委員会社会教育担当課長は最大限のバックアップをするものとする。
⑫ 公民館の哲学フォーラム(哲学対話室)が成功する為には、どれだけ多くの哲学ボランティア‘ソクラテス’が、その公民館の哲学フォーラムに集るかに掛かっている。哲学ボランティア‘ソクラテス’は、哲学(知恵を愛する事)に興味があり、対話を通じて知恵を伝えたいと言う思いがあれば誰でも良い。哲学フォーラム都道府県でその事の大々的なキャンペーンを張る。
⑬ 県庁所在地の公民館の哲学フォーラム(哲学対話室)試行後、5年間で、全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置するものとする。具体的にそのスケジュールを示すと次の通りとなる。
20年度をそれぞれの機関における準備期間とし、
21年度を哲学フォーラム都道府県の組織作りに充て、
22年度から23年度において「都道府県所在地の公民館3ケ所」において試行を行い、
24年度から28年度おいて、計画的に展開し、
28年度末に全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)の設置を完了させる。
⑭ 公民館の哲学フォーラム(哲学対話室)の展開については、哲学フォーラム都道府県は強力なバックアップを行うものとする。
⑮ 各都道府県教育委員会社会教育担当課長は、哲学フォーラム(哲学対話室)展開に対して協力を行うものとする。
⑯ 小中高校に設置される哲学フォーラム(哲学対話室)とその地域の公民館に設置される哲学フォーラム(哲学対話室)は連係を図るものとする。
⑰ 公民館に設置される哲学フォーラム(哲学対話室)については、全ての国民に開放するものとする。これにより、哲学フォーラム(哲学対話室)巡りと言う、お遍路と同様な、社会的知的な楽しみが一つ増える事になる。
⑱ 哲学フォーラムの展開については、文部科学省各課、各国立大学、各教育委員会、各新聞社、各放送局、各出版社等、主だった関係機関に対して、その支援をお願いしています。もし、各都道府県教育委員会の小中高校教育担当課長殿と社会教育課長殿が連係して、一斉に旗振りをして下されば、この哲学フォーラムは一気に国民的運動へと発展して行く事になるのです。哲学フォーラムから真善美のお花が、日本全土に広がって行く事になるのです。どうか、そう言う日本の為に、お骨折りを宜しくお願いいたします。
6 『哲学フォーラム都道府県』について
哲学フォーラム都道府県については、「3の哲学フォーラムの都道府県の設置」の所で
概要を述べたが、この哲学フォーラム都道府県を中心に、各都道府県の小学校、中学校、
高校、大学、公民館の哲学フォーラム(哲学対話室)が展開される事になるので、「哲学
フォーラム都道府県について」と言うタイトルで、もう少し詳しく説明を行う事とする。
「哲学フォーラム都道府県について」
1 趣旨
哲学フォーラム都道府県は、各都道府県内の小学校、中学校、高校、大学、公民館に設
置される哲学フォーラム(哲学対話室)の哲学ボランティア“ソクラテス”の会員組織と
する。
なるべく多くの哲学ボランティア“ソクラテス”に会員に成って頂くものとするが、全
員加入ではなく、任意加入とする。
2 会員登録
哲学フォーラム都道府県の会員に成りたい者は、哲学フォーラム都道府県の事務局に、会員登録届けと「自らの哲学に関する考え方を纏めた作文」(A4版5頁~10頁程度)を提出するものとする。この作文については、各哲学フォーラム(哲学対話室)の哲学ボランティア“ソクラテス”に登録する際に提出した作文と同じもので良い。事務局は会員番号を付与して、本人に対して、登録完了通知を行うものとする。なお、これらの遣り取りは全てメールで行うものとする。
3 会費
入会費は0円、年会費も0円とする。
4 事務局
事務局を、各都道府県に設置されている国立大学教育学部(教育大学)の哲学教室に置く。
5 事務局員
事務局員は、事務局長以下、全て哲学ボランティア“ソクラテス”する。
哲学ボランティア“ソクラテス”は、嘗て実在したソクラテスと同様、無報酬とする。
大学教育学部哲学教室に負担をかけない様、なるべく多くの哲学ボランティア“ソクラテス”に事務局員と成って貰う。
6 事業
① 各哲学フォーラム(哲学対話室)の支援
特に各哲学フォーラム設立時においては、強力に支援するもとする。
哲学フォーラム都道府県の会員が、各哲学フォーラム(哲学対話室)の哲学ボランティア“ソクラテス”と成り支援する。
② 哲学フォーラム(哲学対話室)に関する調査研究及び提言
特に最初の数年間(試行期間等)においては、徹底的に調査研究を行い、様々な提言を行うものとする。
③ 哲学ボランティア“ソクラテス”の育成
定期的に哲学ボランティア“ソクラテス”育成講座等を開催する。
④ ホームページ『哲学フォーラム都道府県』の開設
このホームページにおいて、哲学フォーラム都道府県の広報を行う。
ホームページの内容については、次の通りとする。
ア 全ての公民館及び大学の哲学フォーラムの紹介。
①哲学フォーラム名、②所在地、③電話番号、④“ソクラテス”の人員、⑤特色等
※小中高校の哲学フォーラムについては、紹介しないものとする。
イ “ソクラテス”(会員)紹介
全ての“ソクラテス”について、会員登録の際に提出した「自らの哲学に関する考え方を纏めた作文」(A4版、5頁~10頁)をホームページ上に掲載する。なお、氏名については、ペンネーム、哲学名(例:哲学哲男)で良い。また、掲載を希望しない者については掲載しない。
ウ “ソクラテス”の著作紹介コーナー
“ソクラテス”の著作の紹介コーナーを設ける。
これにより、それぞれの“ソクラテス”の全容を知る事が出来る。
エ 哲学テーマに関する意見コーナー
毎月、一つの哲学テーマを決め、各会員の意見を投稿して貰い、掲示する。
これにより、会員の哲学に関する考え方を知る事が出来る。
※会員だけが意見を投稿出来るものとする。会員の考え方を広く知って貰う為のものとする。
オ 哲学フォーラム都道府県及び各哲学フォーラムのイベント等の紹介
シンポジウム、セミナー等の紹介
※当該ホームページにおいては、会員以外からの、意見、投稿、メールは受け付けないものとする。あくまでも、それぞれの哲学フォーラム(哲学対話室)とそれぞれの“ソクラテス”の紹介に徹する。実際の哲学対話は、このホームページの情報を元に、それぞれの哲学フォーラムにおいて、それぞれの“ソクラテス”と、目と目を合わせて行って貰うものとする。
⑤ 哲学一貫教育の調査研究及び試行
※「哲学一貫教育の調査研究及び試行」は哲学フォーラム(哲学対話室)が軌道に乗
った後、検討する。当初は俎上に上げない。二兎追う者は一兎も得ず。
7 哲学フォーラム都道府県の設立方法
① 教育学部哲学教室教官、都道府県教育委員会小中高校教育担当課長、同社会教育課長、都道府県公民館連絡協議会長の四者で「哲学フォーラム都道府県設立準備会」を組織する。
この設立準備会の下に、設立準備会事務局を設置する。
事務局員については、哲学ボランティア“ソクラテス”十数名(院生、卒業生、小中高校教師、教育行政関係者、哲学教育に関心のある者等)で組織する。
設立準備会の実際の作業は、この局員たちが担当する。
② 設立準備会において、設立趣意書、会則、事業計画等の素案を作成する。
③ 事務局員は、これら設立趣意書、会則、事業計画書等の素案を基に、設立賛同者を募る。
④ 設立賛同者が百名に成った時、その百名の連名で、正式な「設立趣意書」を作成し、大々的に会員の募集を図る。
⑥ 哲学フォーラム都道府県の設立と同時に、事務局の中に「哲学フォーラム設立支援部」を設置する。なるべく多くの哲学ボランティア“ソクラテス”にこの哲学フォーラム設立支援部員に成って頂くものとする。哲学フォーラム設立支援の要請があったら、この部員が中心と成って設立の支援を行う。具体的には、その哲学フォーラムの哲学ボランティア“ソクラテス”と成り、各哲学フォーラムの設立当初の運営に協力する。
8 哲学フォーラム都道府県の展開計画
日本全国に小学校が22,693校、中学校が10,995校、高校が5,313校、大学が短期大学を含めて1,190校、公民館が17,143館ある。
これを47都道府県で割り、端数を大胆に整理すると、小学校が400校、中学校が200校、高校が100校、大学が短期大学を含めて10校、公民館が300館となる。
これが各都道府県の平均的な学校数、公民館数である。
全国の約半分の都道府県がこの範囲内に納まる。
この学校数、公民館数を基に、哲学フォーラム都道府県のモデル的な展開計画を示す。
なお、各哲学フォーラム(哲学対話室)には、10名の哲学ボランティア“ソクラテス”が必要となる。
上記のモデルで行くと、各都道府県においては、10,100名(10名×(400校+200校+100校+10校+300館=10,100名)の哲学ボランティア“ソクラテス”(会員)が必要となる。
この数字を基に年次計画を示す。
会員数 哲学フォーラム数
1年目 100名 1(哲学フォーラム都道府県の設立:大学1)
2年目 200名 13(県庁所在地での試行:小3、中3、高3、公3、大1)
3年目 400名 51(近隣市町村での試行:小20、中10、高5、公15、大1)
4年目 1.000名 101(計画的展開:小 40、中 20、高 10、公 30、大1)
5年目 2,000名 201(計画的展開:小 80、中 40、高 20、公 60、大1)
6年目 4,000名 401(計画的展開:小160、中 80、 高 40、公120、大1)
7年目 8,000名 801(計画的展開:小320、中160、高80、 公240、大1)
8年目 10,100名 1,010(哲学フォーラムの完成:小400、中200、高1000、公300、大学10)
※哲学ボランティア“ソクラテス”については、小学校、中学校、高校、公民館の哲学
フォーラム(哲学対話室)のソクラテスを出来るだけ兼務して貰うものとする。それに
より、ソクラテスの視野も大きくなり、哲学的対話の幅も広がる。この事により、実際
には、上記会員(哲学ボランティア“ソクラテス”)の数は、半分以下で足りる事とな
る。
9 哲学ボランティア“ソクラテス”について
① 哲学ボランティア“ソクラテス”については、哲学(知恵を愛する事)が好きであれば、如何なる資格も必要としない。
② 小中高校及び公民館の哲学フォーラム(哲学対話室)の“ソクラテス”に成りたい者は、それぞれの哲学フォーラムに「“ソクラテス”登録届け」と「自らの哲学に関する考え方を纏めた作文」を提出する事により、それぞれの哲学フォーラム(哲学対話室)の“ソクラテス”に成る。
③ 哲学フォーラム都道府県の会員に成りたい者は、「会員登録届け」と「自らの哲学に関する考え方を纏めた作文」を提出する事により、哲学フォーラム都道府県の会員に成る。
④ 小中高校及び公民館の哲学フォーラム(哲学対話室)の“ソクラテス”は、なるべく哲学フォーラム都道府県の会員に成って頂くものとするが、任意加入とする。
⑤ 哲学ボランティア“ソクラテス”については、なるべく小学校、中学校、高校、公民館の哲学フォーラムの“ソクラテス”を兼務して貰うものとする。
⑥ 哲学ボランティア“ソクラテス”については、なるべく多くのご老人に成って貰う。ご老人の知恵を若者に伝達する。
⑦ 哲学ボランティア“ソクラテス”については、読書能力、思索能力、作文能力、対話能力そして徳の実践力のある事に越した事は無いが、しかし敢えてこれらの能力は問わない。唯一、問うのは、哲学(知恵を愛する事)が大好きである事である。
10 哲学フォーラム日本の設立
哲学フォーラム都道府県がある程度成熟したら、哲学フォーラム都道府県の連係組織と
して、哲学フォーラム日本を設立する。
この哲学フォーラム日本が、日本の哲学一貫教育のセンターと成って行く。
11 哲学フォーラムにおける『哲学』の意味
哲学フォーラムにおける『哲学』とは、philosophia、知恵を愛する事。
知恵を愛するとは、真善美に溢れた言葉を愛する事。
それは真善美に溢れた本当の自分自身を愛する事。
哲学フォーラムにおける『哲学』とは、決して、デカルト、カント、ショウペンハウワー等の哲学文献を研究する事ではない。
この定義付けにより、全ての日本国民に哲学が開放されるのである。
これにより、全ての日本国民が哲学者(知恵を愛する者)と成り得るのである。
哲学フォーラムは、日本国民が哲学者と成る為の第一歩である。
そして、哲学一貫教育の完成により、多くの日本国民が哲学者と成って行く。
敬具
平成20年11月 日
哲学哲男
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付状
(社)各大学哲学担当教官殿宛
拝啓
各大学哲学担当教官 殿
私は哲学一貫教育を提唱している者です。
哲学一貫教育とは、日本国民の一生涯に渡って哲学の機会を提供する事により、日本国民が哲学的に成熟する事を目指して行う教育の事です。
この哲学一貫教育は大きく次の5つの柱から成っております。
① 小中高校哲学一貫教育
② 小中高校哲学一貫教育の基礎の上に行う一生涯に渡る哲学一貫教育
③ 大学教育学部における徹底した哲学教育(哲学的素養に優れた教師の育成)
④ 哲学読本大全(全100巻)の作成
⑤ 哲学フォーラム(哲学対話室)の設置
①の「小中高校哲学一貫教育」とは、小中高校の12年間に渡って哲学教育を一貫して行うと言うものです。
具体的には、哲学の授業を週2時間とし、週の最初の時間にある哲学テーマについて、古今東西の名著の中の名文中の名文を3編から5編程度読み、週の最後の時間にその読書を契機とし、その1週間の間に、その哲学テーマについて思索した結果を作文として纏める事となります。
これを小中高校の12年間一貫して行います。
小学校低学年では特別な配慮をしますが、単純に計算すると、小中高校12年間の間に、360の哲学テーマ(1年30哲学テーマ×12年間=360哲学テーマ)について、古今東西の名著の中の名文中の名文を読み、360の哲学テーマについて作文を書く事になります。
これにより、世界に類例が無いと言う程に哲学的に成熟した児童生徒が育成される事に成ります。
②の「小中高校哲学一貫教育の基礎の上に行う哲学一貫教育」ですが、これについては、小中高校哲学一貫教育の基礎の上に、更に大学や公民館、家庭においても哲学教育を行うと言うものです。
大学については、哲学を必修とし、1年から4年まで通年で毎週1回哲学の授業を受講するものとします。
なお、1,2年においては、教養哲学とし、小中高校で学んだ事を集大成します。
3,4年においては専門哲学とし、自ら学ぶ各学科を哲学するものとします。経済哲学、経営哲学、法哲学、医療哲学、福祉哲学、スポーツ哲学、科学哲学等。
公民館においては、週1回の通年の哲学講座を開設するものとします。
家庭においても、哲学教育が行われるよう教材等の提供を行うものとします。
③の「大学教育学部における徹底した哲学教育」の実施ですが、これは哲学的に優れた教師を育成する為に行います。
教育学部において哲学を必修とし、1年から4年まで通年で、毎週3回の哲学の授業を受講するものとします。
④の「哲学読本大全(全100巻)」ですが、これは、小中高校哲学一貫教育、大学における哲学教育、公民館における哲学教育、家庭における哲学教育等、全ての哲学一貫教育における教材となるものです。
哲学読本大全(全100巻)とは、国民にとって大切な500の哲学テーマについて、古今東西の名著の中の名文中の名文を100編ずつ集めたものです。
哲学読本大全(全100巻)は、WEB上でも、無料で公開するものとします。
哲学読本大全(全100巻)は、小学校高学年でも読めるようルビを付すものとします。
哲学読本大全(全100巻)は、日本における『知恵の書』と成るものです。
⑤の「哲学フォーラム(哲学対話室)の設置」ですか、これは、全国全ての小学校、中学校、高校、大学、及び公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置すると言うものです。
哲学フォーラム(哲学対話室)とは、哲学的対話を行う部屋の事を言います。
以上が、哲学一貫教育の概要ですが、これらの詳細については、今回添付しています、平成20年2月○日付けの文部科学省初等中等教育局長殿宛提唱文、平成20年3月○日付けの文部科学省初等中等教育局教育課程課長殿宛提唱文、平成20年○月○日付けの東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官宛提唱文、平成20年11月○日付けの各国立大学教育学部哲学教育担当教官殿宛提唱文、平成20年11月○日付けの各都道府県教育委員会小中高校教育担当課長・社会教育担当課長殿宛提唱文に詳細に記載していますので、後程、ご覧頂きたいと思います。
なお、上記の①から⑤の内、①から④までは、予算上の制約、制度上の制約等があり、直ぐに実行に移す事は難しい状況にあります。
しかし、⑤の「哲学フォーラム(哲学対話室)の設置」については、何の制約もありません。
もし、設置しようと思えば、明日からでも設置する事が出来ます。
哲学フォーラム(哲学対話室)を設置するのにお金は1円も要らないのです。
ただ、哲学ボランティア“ソクラテス”の情熱だけがあれば良いのです。
そう言う事で今回私は、哲学フォーラム(哲学対話室)に関係のあると思われる機関に対して、哲学フォーラム(哲学対話室)の設置を提唱しています。
つきましては、貴大学においても、どうか哲学フォーラム(哲学対話室)を設置して頂きたいと思います。
下記に、参考までに、その設置要領をお示ししたいと思います。
『大学に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する為の要領』
1 趣旨
大学に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する為の要領を示す。
2 哲学フォーラム大学名
① 哲学担当教官を中心に、哲学に関心のある教官、院生、卒業生その他で哲学フォーラム大学名(例:哲学フォーラム東京大学)を組織する。
② 代表は哲学担当教官、事務局は哲学担当教官の研究室とする。
③ 哲学フォーラム大学名が哲学フォーラム(哲学対話室)を運営する。
哲学フォーラム(哲学対話室)とは、哲学的な対話を行う部屋の事である。
3 哲学ボランティア“ソクラテス”
① 哲学フォーラム大学名の構成員は全て、哲学ボランティア“ソクラテス”となる。
② 哲学ボランティア“ソクラテス”は、哲学フォーラム(哲学対話室)を訪れた者と哲学的対話を交わす事となる。
③ 哲学ボランティア“ソクラテス”は、嘗て実在したソクラテスと同様、無報酬とする。
④ 哲学ボランティア“ソクラテス”は、嘗て実在したソクラテスと同様、知恵を愛する事(哲学)に熱心な者とする。
⑤ 哲学フォーラム大学名の設置後は、なるべく多くの哲学ボランティア“ソクラテス”を募るものとする。
4 哲学フォーラム(哲学対話室)の開設
① 哲学フォーラム(哲学対話室)については、、毎週土曜日午後2時から午後5時の間、大学図書館の会議室を借りて開設するものとする。
② 哲学フォーラム(哲学対話室)は、その大学の関係者だけでなく、日本国民全てにその門戸を開くものとする。
③ 哲学フォーラムの開設時間中は、『哲学フォーラム(哲学対話室)』の表示を行い,更にその下に、「誰でも自由に勝手に許可無くお入り下さい」「この部屋は誰もが気軽に自由に哲学的テーマについてお話をする為の広場です」等々の表示をするものとする。フォーラム(広場)の趣旨を最大限アピールするものとする。
④ 哲学フォーラム開設時間中には、必ず二人以上の“ソクラテス”が常駐するものとする。なお、訪問者が多い場合は、それに応じて“ソクラテス”の数を増やして行くものとする。
⑤ 哲学フォーラム(哲学対話室)において、“ソクラテス”と訪問者が一対一で、または数人で様々な哲学テーマについて哲学対話を交わす事になる。
5 各大学、各公民館の哲学フォーラム(哲学対話室)との連係
各大学、各公民館の哲学フォーラム(哲学対話室)は、連携、交流を図るものとする。
なお、全国全ての大学及び公民館の哲学フォーラム(哲学対話室)は、必ず、毎週土曜
日の午後2時から午後5時まで開設するものとする。
これにより、『哲学フォーラム巡り』と言う新たな社会的な楽しみが生まれる事になる。
若者を中心に『土曜日の午後は哲学フォーラムで!』と言う合言葉も生まれる事になる。
6 小中高校及び公民館の哲学フォーラム(哲学対話室)との連携
大学の哲学フォーラムの“ソクラテス”は、なるべく多くの小中高校及び公民館の哲学
フォーラムの“ソクラテス”と成るものとする。
特に、院生、学生は積極的に小中高校の哲学フォーラムの“ソクラテス”と成るものと
する。
7 哲学ボランティア“ソクラテス”の誕生
哲学フォーラム(哲学対話室)において、哲学ボランティア“ソクラテス”との哲学対話を重ねる事により、哲学に熱心な者の中から、新たな哲学ボランティア“ソクラテス”が生まれる事となる。
この哲学ボランティア“ソクラテス”が、また地域で、学校で、家庭で哲学対話を重ねる事により、また哲学に熱心な者の中から、新たな哲学ボランティア“ソクラテス”が生まれる事になる。
この様にして、多くの哲学ボランティア“ソクラテス”が誕生して行く事となる。
8 哲学フォーラムにおける『哲学』の意義
哲学フォーラムにおける『哲学』とはphilosophia、知恵を愛する事。
知恵を愛するとは、真善美に溢れた言葉を愛する事。
真善美に溢れた言葉を愛するとは、真善美に溢れた自分自身を愛する事。
哲学フォーラムにおける『哲学』の本質は、『汝自身を知れ』にある。
なお、真善美に溢れた言葉を愛する為には、真善美に溢れた言葉に触れなければいけない。
この真善美に溢れた言葉を集めたものが、哲学読本大全(全100巻)である。
哲学読本大全により、真善美に溢れた言葉に触れる事により、その真善美に溢れた言葉が自分自身の中に存在している事を知るようになり、また哲学対話により、その真善美に溢れた言葉が相手の中にも存在している事を知るようになる。
この様な事を繰り返して行く内に、その真善美に溢れた言葉が自分自身のものと成って行く。
そして、その結果として、真善美に溢れた自分自身を知る事となるのである。
哲学フォーラム(哲学対話室)は、素晴らしき存在としての自分自身を確認する場となる。
哲学フォーラム(哲学対話室)は、必ずや、素晴らしき大学生を育てます。
どうか、貴大学においても、哲学フォーラム(哲学対話室)を設置して下さい。
敬具
平成20年11月 日
哲学哲男
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「哲学フォーラムと哲学一貫教育」送付状
各新聞社編集局長殿宛
各放送社報道局長殿宛
拝啓
各新聞社編集局教育担当部長┐
各放送社報道局教育担当部長┘ 殿
私は、哲学一貫教育を提唱している者です。
哲学一貫教育とは、日本国民の一生涯に渡って哲学の機会を提供する事により、日本国民が哲学的に成熟する事を目指して行う教育の事です。
この哲学一貫教育は、大きくの次の5つから成っております。
① 小中高校哲学一貫教育
小学校、中学校、高校に渡って、哲学教育を一貫して行う。
具体的には、週2時間の哲学の授業を小中高校12年間に渡って一貫して行う。
週の最初の時間にある哲学テーマに関して古今東西の名著中の名文中の名文を数編読み、週の最後の時間にその哲学テーマについて、その1週間の間に思索した結果を作文として纏める。これを小中高校一貫して行う。
この哲学一貫教育により、世界に類例が無いと言う程に、哲学的に成熟した児童生徒が育成される事となる。
② 小中高校哲学一貫教育を基礎とした一生涯に渡る哲学一貫教育
小中高校哲学一貫教育の基礎の上に、大学や公民館においても哲学教育を一貫して行う。
具体的には、大学においては、哲学を必修とし、大学1年から4年まで通年で、毎週1授業時間受講する。
公民館においては、通年で週1回の哲学講座を開設する。
また、家庭についても、哲学教育が行われるよう啓発する。
③ 大学教育学部における徹底した哲学教育の実施
哲学的素養に優れた教師を育成する為、大学教育学部において、哲学教育を徹底して行う。
具体的には、哲学を必修とし、大学1年から4年まで通年で、毎週3授業時間受講する。
④ 哲学読本大全(全100巻)の作成
小中高校哲学一貫教育、大学における哲学教育、公民館における哲学教育、家庭における哲学教育等、日本国民の一生涯に渡る哲学一貫教育の教材と成るべき哲学読本大全(全100巻)を作成する。
この哲学読本大全(全100巻)は、日本における『知恵の書』となる。
なお、哲学読本大全(全100巻)とは、日本国民にとって大切な500の哲学テーマについて、古今東西の名著の中の名文中の名文をそれぞれ100編集めたものである。無料WEB版も作成する。小学校高学年から読めるよう、ルビを付す。
⑤ 哲学フォーラム(哲学対話室)の設置
日本中の全ての、小学校、中学校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する。
哲学フォーラム(哲学対話室)とは、哲学的対話を行う部屋の事である。
この内、①から④までは、制度面、予算面の制約があり、直ぐに実行する事は難しい状況
にありますが、⑤の哲学フォーラム(哲学対話室)の設置については、何の制約もありませ
ん。
設置しようと思えば、明日からでも設置する事が出来るのです。
更に驚くべき事を言いますが、日本中の全ての、小学校、中学校、高校、大学、公民館に
哲学フォーラム(哲学対話室)を設置するのに、お金は1円も要らないのです。
それでは、その哲学フォーラム(哲学対話室)について、簡単に概要をご説明します。
なお、小中高校に設置する哲学フォーラム(哲学対話室)と、大学及び公民館に設置する哲学フォーラム(哲学対話室)に分けてご説明申し上げます。また、哲学フォーラム(哲学対話室)の中心的存在となる哲学ボランティア“ソクラテス”の概念についてもご説明申し上げます。
● 小中高校に設置する哲学フォーラム(哲学対話室)について
① 設置者は学校長とする。
② 運営は、哲学ボランティア“ソクラテス”グループとする。哲学ボランティア“ソクラテス”グループは、10名以上で組織する。その学校の哲学ボランティア“ソクラテス”と成りたい者は、「児童生徒向けへの自らの哲学に関する考え方を纏めた作文(A4版5頁~10頁)」を学校長に提出し、学校長との哲学対話を終了した時、その学校の“ソクラテス”と成る。なお当該作文は、哲学フォーラム(哲学対話室)に備え付け、児童生徒の供覧に供する。これにより、児童生徒は、“ソクラテス”を知る事となる。
③ 開設時間は、毎週月曜日から金曜日までの午後3時から午後5時までとする。
④ 開設時間には、必ず二人以上の哲学ボランティア“ソクラテス”が常駐する。
哲学ボランティア“ソクラテス”は日替わりとする。曜日割り当て表等を作成する。
⑤ 学校の教師が“ソクラテス”と成る時は勤務として扱う。なお、5時を過ぎてからの活動はボランティア扱いとする。
⑥ 場所については、空き教室等を利用する。
⑦ 哲学フォーラム(哲学対話室)は、課外活動として位置付ける。
⑧ 哲学フォーラム(哲学対話室)については、フォーラム(広場)の趣旨を最大限尊重する。児童生徒は、何時でも、自由に、勝手に入室出来、そして自由に“ソクラテス”と対話が出来るものとする。
● 大学及び公民館に設置する哲学フォーラム(哲学対話室)について
① 設置者及び運営者は、哲学ボランティア“ソクラテス”グループとする。その哲学フォーラムの哲学ボランティア“ソクラテス”に成りたい者は、その哲学フォーラムの代表者に「自らの哲学に関する考え方を纏めた作文(A4版5頁~10頁)」を提出し、その哲学フォーラムの代表者と哲学対話を終了した時に、その哲学フォーラムの“ソクラテス”と成る。なお、当該作文は、哲学フォーラムに備え付け、利用者の供覧に供する。利用者は、これにより、“ソクラテス”を知る事となる。
② 哲学ボランティア“ソクラテス”グループは、10名以上で組織する。
② 開設時間は、毎週土曜日の午後2時から午後5時までとする。
③ 場所についていは、大学については図書館会議室を、公民館については公民館会議室を利用する。
④ 開設時間中には、必ず二人以上の哲学ボランティア“ソクラテス”が常駐する。
なお、なるべく多くの哲学対話に応じる為、なるべく多くの哲学ボランティア“ソクラテス”が常駐するものとする。
⑤ フォーラム(広場)の趣旨を最大限尊重する。誰(児童生徒、国民、外国人等々)でも入室出来るものとする。一切の入室制限を行わない。ただし、入校制限を行っている大学においてはその範囲内とする。
※ 大学の哲学ボランティア“ソクラテス”グループの代表は,その大学の哲学担当教官とする。またなるべく多くの教官にも“ソクラテス”に成って頂くものとする。これにより、大学の哲学フォーラム(哲学対話室)が、その地域の哲学フォーラム(哲学対話室)の中心的存在となる。
● 哲学ボランティア“ソクラテス”について
① 哲学ボランティア“ソクラテス”は、嘗て実在したソクラテスをモデルとする。
② 哲学ボランティア“ソクラテス”は、その哲学フォーラム(哲学対話室)を訪れた者と哲学的対話を交わす事となる。
③ 哲学ボランティア“ソクラテス”については、「哲学」すなわち「知恵を愛する事」に熱心な者であれば、如何なる資格も問わない。
④ 哲学ボランティア“ソクラテス”は、それぞれの哲学フォーラム(哲学対話室)の所属とする。
⑤ それぞれの哲学フォーラムの“ソクラテス”に成りたい者は、それぞれの哲学フォーラムの代表者(小中高校の場合は学校長)に「自らの哲学に関する考え方を纏めた作文(A4版5頁~10頁)」を提出し、それぞれの代表と哲学対話を終了した時に、それぞれの哲学フォーラムの“ソクラテス”と成る。なお、大学の哲学フォーラムの“ソクラテス”については、その大学の教官、院生、学生、卒業生等に限っても良い。
⑥ 哲学ボランティア“ソクラテス”は、嘗て実在したソクラテスと同様、無報酬とする。
⑦ 哲学ボランティア“ソクラテス”の会員組織として、哲学フォーラム都道府県を組織する。哲学フォーラム都道府県においては、それぞれの哲学フォーラムやそれぞれの“ソクラテス”の紹介を行う。“ソクラテス”の著作や作文や意見等の紹介を行う。全てWEB上で行う。
⑧ 哲学フォーラム都道府県が成熟してきたら、『哲学フォーラム日本』を組織する。
以上が、哲学フォーラム(哲学対話室)の概要ですが、「日本全国の全ての小学校、中学
校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置するのに、お金が1円も要
らない。」と言う、皆様が少なからず疑問に思っている事にお答えしたいと思います・
なお、学校数については、小学校が22,694校、中学校が10,995校、高校が5,313校、
大学が短期大学を含めて1,190校で、合計で40,192校です。公民館については、17,143館
です。
日本全国の全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館、57,335箇所に哲学フォー
ラム(哲学対話室)を設置するのに、お金は1円も要らないのです。
勘の良い皆様の事ですから、もうお分かりになったと思いますが、敢えてご説明申し上げ
ます。
それぞれの哲学フォーラム(哲学対話室)に必要なものは、場所と人だけです。
場所については、小中高校については、空き教室等を使用しますので勿論無料です。
大学については、大学図書館の会議室(学習室・研究室等)を使用しますが、大学の自主
活動グループが、それらの施設を利用する時は、使用料は無料です。
公民館については、公民館の会議室(学習室・研究室等)を使用しますが、公民館の自主
活動グループが、それらの施設を利用する時は、使用料は無料です。
以上により、場所代は全て無料です。
次に人ですが、哲学フォーラム(哲学対話室)の運営は、全て哲学ボランティア“ソクラ
テス”により行われます。
哲学ボランティア“ソクラテス”については、上述したとおり、全て無報酬です。
以上の事から、哲学フォーラム(哲学対話室)の設置運営については、お金が1円も要ら
ない事になります。
哲学フォーラム(哲学対話室)の数が、5万であろうと、10万であろうと、20万であ
ろうとその仕組みは全く同じです。
哲学フォーラム(哲学対話室)は、とても簡単な仕組みです。
哲学フォーラム(哲学対話室)の開設時間に、二人以上の哲学ボランティア“ソクラテス”
が待機して居るだけで良いのです。
そして、そこを訪れた市民(児童生徒)と哲学ボランティア“ソクラテス”が哲学的対話
を交わす。
ただそれだけです。しかしその効用はとても大きいのです。
しかし、この哲学フォーラム(哲学対話室)に似た仕組みは、日本の何処にも見当たりま
せん。
何故でしょうか。
それは、『哲学』と言う言葉が悪弊に染まっているからに他なりません。
哲学と言うと、デカルト、カント、ショウペンハウワー等の難しい哲学書を研究する事と
言う風に相場が決まっています。
もし、哲学の定義がそう言う事であれば、ほとんどの国民に取って、哲学は縁の無いものとなります。
しかし、哲学(philosophia)とはそう言う事でしょうか。
いいえ、決してそうでありません。
哲学とはphilosophia、知恵を愛する事、それは人間の根源的な欲求なのです。
哲学とは人間が根本的に持っている欲求なのです。
哲学フォーラム(哲学対話室)は、この欲求を解放する事を目的としています。
この定義により、哲学フォーラム(哲学対話室)が国民により身近なものとなるのです。
以上の様に、哲学フォーラム(哲学対話室)は、とても簡単なものであり、お金も1円もかかりませんし、ある意味では、今の日本国民が最も求めているものなのかも知れません。
もしそうであれば、誰かが旗振りをすれば、一気に日本中に哲学フォーラム(哲学対話室)が展開される事になります。
それでは、誰が旗振りを行うのでしょうか。
それは、
文部科学省初等中等教育局初等中等教育企画課長殿であり
文部科学省生涯学習政策局社会教育課長殿であり
文部科学省高等教育局高等教育企画課長殿であり
(社)全国公民館連絡協議会長殿であり
各都道府県教育委員会小中高校教育担当課長殿であり
各都道府県教育委員会社会教育担当課長殿であり
各国立大学教育学部哲学教育担当教官殿であり
各大学哲学担当教官殿であり
各新聞社編集局教育担当部長殿であり
各放送社報道局教育担当部長殿です。
私は、今回これらの方々に一斉に、この哲学フォーラム(哲学対話室)を提唱しています。
もし、皆様が、一二の三で一斉に旗を振って下されば、5年後には、日本全国の全ての小学校、中学校、高校、大学、そして公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)が設置される事となるのです。
なお、『哲学=philosophia=知恵を愛する事』のこの概念を国民に広く知らしめる為には、各新聞社や各放送社の役割がとても大切になります。
この概念が広く国民に染み渡る事により、哲学が国民のものになるのです。
現在、旧帝国大学系の文学部で行われている哲学は、文献哲学です。
文献哲学と本当の意味での哲学(知恵を愛する事)の概念を明確にする事により、本当の意味での哲学が国民のものとなるのです。
そしてその哲学が日本を変えて行く事になるのです。
それからもう一つ哲学に関する大事な概念を述べると、哲学の本質、それは『汝自身を知れ』にあると言う事です。
ソクラテスはその事を一生涯かけて言い続けましたよね・・
夢は枯野を駆け巡る
その5年後の日本を語る事にします。
日本にあるブームが起こりました
それが「哲学フォーラム巡り」です。
知識人や若者を中心に、ソクラテスを求めて、哲学フォーラム巡りが活発に成ったのです。
優秀な小学生や中学生や高校生は、自らの学校の哲学フォーラムでは満足出来なくなり、ソクラテスを求めて、近くや遠くの公民館、更には大学の哲学フォーラムにまで足を延ばす様になったのです。
そして、そこで一生の師と成るソクラテスを見付ける事となるのです。
勿論この事は、大学生にも市民の中にも起こりました。
この様に「哲学フォーラム巡り」が活発になる事により、日本が哲学的に成熟した方向に向かう事に成ったのです。
そして、この哲学フォーラムで育った優れた若者たちが、日本をリードする様に成ったのです。
それからもう一つ大きな社会変革が生まれました。
それは学校にいじめが無くなり、その結果として自殺が激減したのです。
学校のフォーラムで、いじめっ子は、“ソクラテス”の導きの中、本当の自分自身を知る様になりました。
そして、いじめられっ子も、同様、本当の自分自身を知るようになりました。
その結果、いじめが無くなったのです。
いじめっ子もいじめられっ子も、いじめの本質を自分自身の中で深く知るようになったので、もういじめがなくなったのです。
小中高校における哲学フォーラムには二つ効用があります。
一つは極めて優秀な児童生徒を育成する事であり、
一つは、いわゆる“おちこぼれ”を救済する事です。
哲学フォーラムが、優秀な児童生徒を育成すると言う事については言及する必要は無いと思いますが、その本質だけを簡単に触れて置きます。
哲学とは、philosophia、知恵を愛する事。
知恵を愛するとは言葉を愛する事。
哲学の本質、それは『汝自身を知れ』
哲学フォーラムでのソクラテスとの対話により、児童生徒は、知恵の本質を知り、言葉の本質を知り、そして自分自身を知る事に成るのです。
その意味する事は、全ての言葉が自分自身から発せられる様に成ると言う事。
その意味する所は、確固たる自分自身の確立。
これこそが、優秀な児童生徒の指標なのではないでしょうか
それではもう一つの疑問、何故哲学フォーラムがおちこぼれを救う事になるのか。
その仕組みは、上述の優秀な児童生徒を育成する仕組みと全く同じです。
おちこぼれとは、何におちこぼれているのか。
それは、知恵を愛する事におちこぼれているであり、言葉を愛する事におちこぼれているのであり、本当の自分を知る事におちこぼれているです
原因が分かれば解決は簡単です。
ソクラテスとおちこぼれは対話を続けます。
おちこぼれは、ソクラテスの導きの中、現在思っている事を全部吐き出します。
そして、全部吐き出した時、また新たな言葉が次から次に生まれて来るのを感じます。
それこそが、知恵の源泉です。
知恵の源泉を見付けた者は、もう知恵を愛する事(哲学)を止めなくなるのです。
その結果はどうでしょう。
おちこぼれでしょうか。
いいえ、「優秀な哲学者の誕生」です。
結局、哲学フォーラムは優秀な児童生徒を育成する事となるのです。
哲学フォーラム(哲学対話室)には大きな可能性があります。
どうか皆様のご協力をお願いします。
もし、全国の各新聞社と各放送社が一斉にキャンペーンを張って下されば、日本は変わります。
知恵とは何か、知恵を愛する(哲学)とはどう言う事か
もう一度、皆様方お一人お一人で噛み締めて頂きたいと思います。
そうすれば、哲学フォーラム(哲学対話室)の意義も良く理解して頂ける様になると思います。
なお、各新聞社の編集局及び各放送社の報道局には、優秀な“ソクラテス”が一杯居ます。
彼らが、各小学校、各中学校、各高校、各公民館の哲学フォーラム(哲学対話室)の“ソクラテス”と成って頂ければ、それこそ、新聞社、放送社主導で、哲学フォーラム(哲学対話室)が一気に全国展開する事になります。
各新聞社の編集局員、各放送社の報道局員は、各小学校の事や各中学校の事や各高校の事や各地域の事を、今よりもずっと良く知るようになると思います。
それは共に益する事になると思います。
以上の事は別にしても、哲学フォーラム(哲学対話室)が成功する為には、それぞれの哲学フォーラム(哲学対話室)に多くの哲学ボランティア“ソクラテス”が集まらなければなりません。
その為には、大々的な“ソクラテス”募集のキャンペーンが必要なのです。
『哲学ボランティア“ソクラテス”求む。貴方の知恵を世の為に』とか・・・
少なくとも、それぞれの哲学フォーラム(哲学対話室)に10人の哲学ボランティア“ソクラテス”が必要です。
全国の哲学フォーラム(哲学対話室)の数が57,335ですので、全国で573,350人の哲学ボランティア“ソクラテス”が必要となります。
つきましては、大々的な大キャンペーンを張って頂きたいと思います。
なお、各都道府県における推進役は、各国立大学教育学部哲学担当教官殿、各都都道府県教育委員会小中高校教育担当課長殿、同社会教育課長殿、各都道府県公民館連絡協議会長殿となります。
その中に、各都道府県の新聞社編集局教育担当部長殿、放送社報道局教育担当部長長殿も是非入って頂き、一緒に成って、哲学フォーラム(哲学対話室)を推進して頂ければ、とても有り難く思います。
敬具
平成20年11月 日
哲学哲男
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき(または追伸)
当該冊子『哲学フォーラムと哲学一貫教育』は、これまで関係機関に提唱してきたて哲学一貫教育に関する提唱文を纏めたものです。
その一覧については、巻末の通りです。
それぞれの提唱の内容を簡単に示すと次の通りです。
1の文部科学省初等中等教育局長宛の提唱文が、哲学一貫教育に関する最初の提唱です。
この提唱では、主に小中高校哲学一貫教育の事を述べています。
2の文部科学省生涯学習政策局長宛の提唱文は、教育振興基本計画の策定に向けて広く意見を募集しているとの事であったので、それに合わせて提唱しています。
提唱の内容は、書き出しと結びを除いて、ほとんど1と同じ内容となっています。
3の内閣官房長宛の提唱文は、教育再生会議の最終報告「社会総がかりで教育再生を」が出されたので、それに対する意見と言う事で提唱しています。
提唱の内容は、書き出しと結びを除いて、ほとんど1と同じ内容となっています。
4の文部科学省初等中等教育局教育課程課長宛の提唱文は、文部科学省学習要領に関して広く意見を公募しているとの事であったので、それに合わせて提唱しています。
なお、この提唱の中で、哲学一貫教育に関する考え方が飛躍的に発展しています。
この提唱の中で、大学教育学部部における徹底した哲学教育(哲学的素養に優れた教師の育成)を提唱しています。
また、改定後の文部科学省学習要領の中での、小中高校哲学一貫教育の実施の方法についても提唱しています。
「哲学読本大全(全100巻)」と「哲学フォーラム」を除く、哲学一貫教育の考え方が、この提唱の中でほぼ確定しています。
5の文部科学省初等中等教育局教育課程課学校教育官兼道徳教育調査官宛の提唱文は、哲学一貫教育の直接の担当者である学校教育官兼道徳教育調査官宛に、これまでの1から4までの提唱文を添えて、哲学一貫教育の実施に関して檄文的に提唱しています。
6の東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官宛の提唱文は、東京学芸大学における哲学一貫教育の試行を提唱しています。
試行内容については、「東京学芸大学付属中学校1年及び2年生を対象とし哲学教育の試行について」、「中学生の為の哲学読本の作成について」、「教育学部における徹底した哲学教育の試行について」と言う形で示しています。
7の各国立大学教育学部哲学教育担当教官宛の提唱文は、これまでの哲学一貫教育に関する提唱の総まとめとして提唱しています。
この提唱の中で、「哲学読本大全(全100巻)」と「哲学フォーラム」の概念が強く打ち出される事になります。
それらについては、「哲学読本大全(全100巻)作成要領」、「哲学フォーラム実施要領」、日本の全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する方法について」と言う形でその内容を提示しています。
8の各国立大学教育学部哲学教育担当教官宛の提唱文は、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」の送付状として作成しています。
この提唱文の中で、各国立教育学部哲学教室が中心と成って、各都道府県の全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置するよう提唱しています。
9の東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官宛の提唱文は、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」の送付状として作成しています。
なお、この提唱の中で、東京学芸大学が、日本全国の全ての哲学フォーラムのセンターとしての『哲学フォーラム日本』の事務局の役割を担うよう提唱しています。
10の文部科学省初等中等教育局初等中等教育企画課長宛の提唱文及び、
11の文部科学省初等中等教育局教育課程課長宛の提唱文は、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」の送付状として作成しています。
この提唱の中で、両課長が中心と成って、日本全国の全ての小中高校に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置するよう提唱しています。
12の文部科学省生涯学習政策局政策課長宛の提唱文及び、
13の文部科学省生涯学習政策局社会教育課長宛の提唱文は、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」の送付状として作成しています。
この提唱の中で、両課長が中心と成って、日本全国の全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置するよう提唱しています。
14の文部科学省高等教育局高等教育企画課長宛の提唱文は、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」の送付状として作成しています。
この提唱の中で、高等教育企画課長が中心と成って、日本全国の大学に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置するよう提唱しています。
また、大学教育学部における徹底した哲学教育(哲学的に優れた教師の育成)の重要性も提唱しています。
更に、高等教育企画課長が中心と成って、全ての大学を結集して、『哲学読本大全(全100巻)』を作成するよう提唱しています。
15の内閣官房教育再生懇談会担当室長宛の提唱文は、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」の送付状として作成しています。
この提唱の中で、「哲学」による国創りを提唱しています。
16の(社)全国公民館連合会長宛の提唱文は、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」の送付状として作成しています。
この提唱の中で、日本全国の全ての公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置するよう提唱しています。
17の北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学の教育学部教育哲学担当教官宛の提唱文は、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」の送付状として作成しています。
この提唱の中で、教育哲学における哲学の意義を提唱しています。
18の北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学の文学部哲学担当教官宛の提唱文は、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」の送付状として作成しています。
この提唱の中で、それぞれの大学の文学部の哲学教室が中心となって、それぞれの大学に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置するよう提唱しています。
この7大学の哲学フォーラムが、日本における哲学フォーラムの象徴とも成るような事も提唱しています。
19の朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、産経新聞、日本経済新聞の編集局教育担当部長宛の提唱文は、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」の送付状として作成しています。
この提唱の中で、哲学フォーラムの全国展開に協力支援して下さるよう提唱しています。
20の日本放送協会、日本テレビ、東京放送網、フジテレビ、テレビ朝日の報道局教育担当部長宛の提唱文は、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」の送付状として作成しています。
この提唱の中で、哲学フォーラムの全国展開に協力支援して下さるよう提唱しています。
21の岩波書店、講談社、小学館、新潮社、文芸春秋、角川書店、集英社、中央公論新社、NHK出版の編集局「教育・哲学書」担当編集長宛の提唱文は、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」の送付状として作成しています。
この提唱の中で、各出版社毎に、『哲学読本大全(全1巻)』を出版するよう提唱しています。
また、上記出版社だけでなく、多くの出版社が『哲学読本大全(全1巻)』を出版するよう、併せて提唱しています。
以上の8から21の提唱文は、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」の郵送の際の、送付状として作成しています。
以下の22から24提唱文は、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」の内容を電子メールで送信する際の、送付状として作成しています。
22の各都道府県教育委員会小中高校教育担当課長と社会教育課長宛の提唱文は、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」の内容を電子メールで送信する際の、送付状として作成しています。
この提唱の中で、各都道府県における小中高校及び公民館の哲学フォーラム(哲学対話室)の具体的な展開方法を提唱しています。
また、各都道府県の哲学フォーラムの中心となる『哲学フォーラム都道府県』についても、「哲学フォーラム都道府県について」と言う形で明確に提唱しています。
23の各大学哲学担当教官宛の提唱文は、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」の内容を電子メールで送信する際の、送付状として作成しています。
この提唱の中で、それぞれの大学において哲学フォーラム(哲学対話室)を設置するよう提唱しています。
「大学に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する為の要領」と言う形でその具体的要領を提示しています。
24の各新聞社編集局長及び各放送社報道局長宛の提唱文は、冊子「哲学フォーラムと哲学一貫教育」の内容を電子メールで送信する際の、送付状として作成しています。
この提唱の中で、各都道府県の哲学フォーラム(哲学対話室)の展開について、積極的に
協力支援して下さるするよう提唱しています。
以上が、哲学一貫教育に関する提唱の一覧です。
この内、1から7までは、過去に提唱したものであり、8から24までは今回提唱するものです。
これまでは、主に小中高校哲学一貫教育や大学教育学部における哲学教育を提唱して来ましたが、今回は哲学フォーラム(哲学対話室)を中心に提唱しています。
小中高校哲学一貫教育や教育学部における徹底した哲学教育については、制度上や予算上の制約がありますが、哲学フォーラム(哲学対話室)については、制度上、予算上の制約は何もありません。
日本全国の全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置するのにお金は1円も要らないのです。
この事については,7から24までの提唱の中で繰り返し説明して来たので、もうお分かりに成って頂けていると思います。
今回、哲学フォーラム(哲学対話室)に関係あると思われる全ての機関に対して提唱しています。
つきましては、皆様方のそれぞれの場で、または関係機関と連係を取り合って、哲学フォーラム(哲学対話室)の全国展開の早期実現を図って頂きたいと思います。
なお、そうは言いましても、全ての小学校、中学校、高校、大学、公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置するとなると、相当数の哲学ボランティア“ソクラテス”が必要となります。
それら“ソクラテス”が一気に集まるとも思いません。
と言う事で、当座は、全国の全ての大学及び公民館に哲学フォーラム(哲学対話室)を設置する事を目標とする事といたしましよう。
そして開設日時も、毎週土曜日の午後2時から午後5時までとする事にいたしましよう。
これにより、哲学フォーラム(哲学対話室)の全国的展開が現実味を帯びる事になります。
大学の哲学フォーラム(哲学対話室)の“ソクラテス”は、大学関係者(教官、院生、卒業生等)や哲学に関心のある者で十分に賄えるでしょう。
公民館の哲学フォーラム(哲学対話室)の“ソクラテス”は、その地域の小中高校の教師や哲学に関心のある者で十分に賄えるでしょう。
大学及び公民館での哲学フォーラム活動が十分に成熟し、そこから多くの“ソクラテス”が生まれたら、その時小中高校の哲学フォーラム(哲学対話室)を考える事としましよう。
当座の目的はこうなります。
「全国の全ての大学及び公民館において、毎週土曜日の午後2時から午後5時まで哲学フォーラム(哲学対話室)を開設する。」と
これで、“全国哲学フォーラム巡り”が可能になりますが、
当座の合言葉はこうなります。
『土曜日の午後は哲学フォーラムで!』 お茶をとか
どうか皆さん、そんな楽しみの為、哲学フォーラムに集結して下さい!
今回の提唱は限がありませんので、これで終わりにします。
どうか皆様よろしくお願いいたします。
何時か何処かの哲学フォーラムでお会い出来る事を楽しみしています!
哲学哲男
※当該「あとがき(または追伸)」は、巻末「哲学教育提唱一覧」の7から24の送付状に追伸として添付したものです。
哲学一貫教育提唱一覧
(※実際に提唱したのは、1~7までです。平成27年4月追記)
提唱年月日 提唱文宛名 備考
1 H20.02.03 文部科学省初等中等教育局長 ☆
2 H20.02.10 文部科学省生涯学習政策局長
3 H20.02.17 内閣官房長
4 H20.03.09 文部科学省初等中等教育局教育課程課長 ☆
5 H20.03.18 文部科学省初等中等教育局教育課程課学校教育官兼道徳教育調査官
6 H20.04.07 東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官
7 H20.11.00 各国立大学教育学部哲学教育担当教官 ☆
8 H20.11.00 各国立大学教育学部哲学教育担当教官
9 〃 東京学芸大学「哲学・倫理分野」教官
10 〃 文部科学省初等中等教育局初等中等教育企画課長
11 〃 文部科学省初等中等教育局教育課程課長
12 〃 文部科学省生涯学習政策局政策課長
13 〃 文部科学省生涯学習政策局社会教育課長
14 〃 文部科学省高等教育局高等教育企画課長 ★
15 〃 内閣官房教育再生懇談会担当室長
16 〃 (社)全国公民館連合会長
17 〃 北海道大学教育学部教育哲学担当教官
東北大学教育学部教育哲学担当教官
東京大学教育学部教育哲学担当教官
名古屋大学教育学部教育哲学担当教官
京都大学教育学部教育哲学担当教官
大阪大学教育学部教育哲学担当教官
九州大学教育学部教育哲学担当教官
18 〃 北海道大学文学部哲学担当教官
東北大学文学部哲学担当教官
東京大学文学部哲学担当教官
名古屋大学文学部哲学担当教官
京都大学文学部哲学担当教官
大阪大学文学部哲学担当教官
九州大学文学部哲学担当教官 ★
19 〃 朝日新聞東京本社編集局教育担当部長
毎日新聞東京本社編集局教育担当部長
読売新聞東京本社編集局教育担当部長
産経新聞東京本社編集局教育担当部長
日本経済新聞編集局教育担当部長
20 〃 日本放送協会報道局教育担当部長
日本テレビ放送網報道局教育担当部長
東京放送報道局教育担当部長
フジテレビ報道局教育担当部長
テレビ朝日報道局教育担当部長
21 〃 岩波書店編集局「教育・哲学書」担当編集長
講談社編集局「教育・哲学書」担当編集長
小学館編集局「教育・哲学書」担当編集長
新潮社編集局「教育・哲学書」担当編集長
文芸春秋編集局「教育・哲学書」担当編集長
角川書店編集局「教育・哲学書」担当編集長
集英社編集局「教育・哲学書」担当編集長
中央公論新社編集局「教育・哲学書」担当編集長
NHK出版編集局「教育・哲学書」担当編集長 ★
22 〃 各都道府県教育委員会小中高校教育担当課長
各都道府県教育委員会社会教育担当課長 ★
23 〃 各大学哲学担当教官 ★
24 〃 各新聞社編集局長
各放送社報道局長 ★
25 〃 あとがき ◎最終結論
※1 1から6は提唱文、7から24は送付状兼提唱文。
※2 7から21の宛先には冊子「哲学フォーラムとと哲学一貫教育」を郵送。なお各大学には任意の1名の教官宛に1冊郵送。
※3 22から24の宛先には、冊子「哲学フォーラムとと哲学一貫教育」の内容を電子メールで送信。電子メール受付の無い機関には送信していない。
※4 ☆印の付いている、1、4,7は基本的な提唱文。
※5 ★印の付いている、14,18,21,22,23,24においては、基本的な提唱文で提唱していない新たな内容の提唱を行っている。
※6 提唱の内容は少しずつ変わって来ている。番号の大きい提唱が、現在の考え方と近いものとなる。
※7 25のあとがきが最終結論となる。すなわち
『全ての関係機関が協力し合って、全ての大学及び公民館において、毎週土曜日の午後2時から午後5時まで哲学フォーラム(哲学対話室)を開設する。』がこの冊子の最終結論となる。
哲学フォーラムと哲一貫教育
平成20年11月 日発行