大学哲学科における「それ」(智慧)に関する研究プロジェクトの提案書
●●大学文学部哲学科における『それ』に関する研究プロジェクトについて
~~~「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成について~~~
●●●● 先生へ
はじめまして
私は哲学(philosophia=智慧を愛する事)に非常に関心のある者です。
そして哲学(philosophia=智慧を愛する事)に依って、日本が素晴らしい国家に成ると思っている者です。
私はその為に、『哲学国家日本の実現の為に』と言う冊子を作成し、昨年五月末に、日本全国の全ての国立総合大学の文学部と教育学部の哲学の先生と、日本全国の主要私立総合大学の文学部と教育学部の哲学の先生と、関係機関の方々に送付した所です。
この冊子においては、哲学国家日本の実現の為の方策として、次の四つを掲げている所です。
一 小中高大学哲学一貫教育
二 大学教育学部における徹底した哲学教育
三 哲学読本大全の作成
四 哲学広場の設置
一番目の「小中高大学哲学一貫教育」とは、小学校、中学校、高校、大学に渡って哲学教育を一貫して行う教育の事です。
この哲学一貫教育において、哲学的に優れた(「智慧と愛」に溢れた)児童、生徒、学生が生まれて行く事に成ります。
二番目の「大学教育学部における徹底した哲学教育」とは、大学教育学部において、徹底した哲学教育を行う教育の事です。
この大学教育学部における徹底した哲学教育に依って、哲学的に優れた(「智慧と愛」に溢れた)教師が生れて行く事に成ります。
三番目の「哲学読本大全」とは、国民に取って大切だと思われる五百の哲学的テーマについて、古今東西の名著の中の名文をそれぞれに百編以上集めて編集した読本の事です。なお智慧と愛については、それぞれに千編以上集める事とします。
この哲学読本大全は、インターネット上で作成する事とし、WEB閲覧版と印刷製本原稿版を作成する事とします。
WEB閲覧版は、誰でも自由に無料で閲覧が出来る事とし、印刷製本原稿版については、日本全国の小学校、中学校、高校、大学、各市町村中央公民館等において、この印刷製本原稿版からオンデマンドで印刷製本し、それぞれの図書室等において開架図書として備え付ける事とします。
この哲学読本大全の完成に依って、日本全国に哲学的雰囲気(智慧と愛に溢れた雰囲気)が醸成される事に成ります。
四番目の「哲学広場」とは、哲学読本大全等を基にして、哲学的対話等を行う部屋の事です。
この哲学広場を、日本全国の小学校、中学校、高校、大学、各市町村中央公民館等に設置する事とします。(なお、当初は、各都道府県の県庁所在地の中央公民館と全国の主要総合大学に設置する事とします)
この哲学広場から、哲学的に優れた(「智慧と愛」に溢れた)児童、生徒、学生、市民が生まれ行く事に成ります。
この四つの方策に依って、日本が哲学的に成熟した国家に成って行くと、私は思っています。
しかし、この四つの方策の内、一番目の「小中高大学哲学一貫教育」と二番目の「大学教育学部における徹底した哲学教育」については、制度的な制約が有り、直ぐに実行する訳には行かないと思っています。
しかし、三番目の「哲学読本大全の作成」と四番目の「哲学広場の設置」については、哲学に関心の有る者が集まれば、直ぐにでも実行する事が出来るのです。
と言う事で、私は現在、この「哲学読本大全の作成」と「哲学広場の設置」を関係者に勧めている所なのです。
昨年五月末に、全国の大学の文学部と教育学部の哲学の先生方に、冊子「哲学国家日本の実現の為に」を送付した際にも、それぞれの先生方に、それぞれの大学で「哲学読本」を作成し、それぞれの大学で「哲学広場」を設置して頂きたいと言う様な送付文(別添1)を添付した所です。
しかし実際の所、それぞれの大学で「哲学広場」を設置する事はとても簡単な事だと思いますが、それぞれの大学で「哲学読本」を作成する事はかなり難しい事だと思ってはいます。
と言う事で、それぞれの大学の文学部と教育学部の哲学の先生方とは別に、●●大学文学部哲学科の各研究室の哲学の先生方にも、冊子「哲学国家日本の実現の為に」を送付し、その際の送付文(別添2)において、●●大学文学部哲学科において、『それ』に関する徹底的な研究をして頂きたいと言う様な事お願いした所なのです。
しかしその際には、●●大学文学部哲学科各研究室哲学担当教官様宛と言う事で、それぞれの研究室に一冊ずつしか送付していませんので、ほとんどの先生方には目にも留まっていないし、ましてや心には留まっていないと思います。
と言う事で、今回再度、●●先生に、ピンポイントでお願いする事に成った次第なのです。
今回、●●先生にお願いする「●●大学文学部哲学科における『それ』に関する研究プロジェクト」はとても簡単なプロジェクトです。
しかしこのプロジェクトは、●●大学文学部に大きな哲学の嵐を巻き起こし、そしてこの日本に大きな哲学(智慧を愛する事)の潮流を引き起こす事に成るのです。
そして更には、宮村先生を日本における偉大な哲学者(智慧を愛する者)と為さしめる事に成るのです。
と言う事ですので、どうか御協力をお願いしたいと思います。
それでは、「●●大学文学部哲学科における『それ』に関する研究プロジェクト」について、説明して行きたいと思います。
先ずは、このプロジェクトについては、先生が現在所属している「●●センター」と先生の出身母体である「哲学科」との共同研究プロジェクトとして実施する事とします。
その方が、先生が研究し易く成ると思います。
と言う事で、「●●センター」のセンター長と「哲学科」の学科長の承諾を受けてから、当該研究を実施する事とします。
研究体制については、先生が担当研究員と成り、先生の研究助手として臨時職員を一名付ける事とします。
研究期間については、概ね二年間とします。
研究費用については、文部科学省の研究助成金等を活用する事とします。
それでは次に、「●●大学文学哲学科における『それ』に関する研究プロジェクト」の具体的内容について、説明して行きたいと思います。
なお、「●●大学文学部哲学科における『それ』に関する研究プロジェクト」については、大きく五期に分ける事が出来ますが、今回先生が二年間で実施する研究プロジェクトは、その内の第一期と言う事に成ります。
参考までに、五期全ての計画を示すと次の通りと成ります。
第一期 ●●大学文学部哲学科における「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)の作成
第二期 ●●大学文学部哲学科における「哲学広場(哲学的対話室)」の設置
第三期 ●●大学文学部哲学科における「哲学的エッセイ集(智慧と愛の巻)」の作成
第四期 ●●大学文学部における『哲学読本大全』の作成
第五期 「哲学広場●●大学」の設置
この五期の完成に依って、●●大学文学部に哲学(智慧を愛する事)の嵐が巻き起こり、先生がその中心的存在と成って行く事に成るのですが、この第一期がその基礎の基礎と成って行くのです。
この第一期が成功すれば、第五期まで自然に流れて行く事に成ります。
それでは、第一期の●●大学文学部学科にお哲ける「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)の作成方法について、説明して行きたいと思います。
この第一期における「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)とは、古今東西の哲学的名著の中から、『それ』に関する名文を集めて編集した読本と言う事に成ります。
具体的には、西洋の百冊以上の哲学的名著、東洋の百冊以上の哲学的名著、日本の百冊以上の哲学的名著の中から、『それ』に関する名文を集めて、編集した読本と言う事に成ります。
一 『それ』とは何か
二 『それ』に至るには、どの様にすれば良いのか
三 『それ』に至った時、人はどの様に成るのか
等々の視点から、『それ』に関する名文を集めて編集する事に成ります。
『それ』とは何か。
それこそ、古今東西の聖人賢人哲人たちの中心にある中心概念です。
全てがそこから生まれ、全てがそこへと収束して行く『それ』の事です。
古今東西の聖人賢人哲人たちは、『それ』の事を実に様々な言葉で表現しています。
神、仏、天、ブラフマン、主、般若、聖霊、仁、道、智慧、アートマン、良知、良心、絶対者、超越者、根源的存在者、最高善、実存、そして真我、真吾、本当の自分自身等々、実に様々な言葉で表現しています。
その為、私たちは惑わされてしまいます。
しかしそれら全ては、一つなのです。
それら全てが、一つである事を心身両面から理解(体感)出来た時、私たちは『それ』に対して絶対的な確信を持つ事が出来る様に成るのです。
それは実に様々な言葉で表現されている為、惑わされてしまいますが、それを哲学的な言葉で言えば、それが『智慧』と言う事に成るのです。
哲学の事をphilosophia、智慧(sophia)を愛する(philo)事だと言いますが、その原点はここにあるのです。
●●先生は、●●学教室で、プラトンをも、旧約聖書をも、新約聖書をも、仏教典をも、孔子老子をも、そしてドイツ観念論をも研究しているので、この事については、概念的に理解していると思いますが、それを体感した事が無いと思います。
実を言うと、私も「哲学国家に日本の実現の為に」を作成するまでは、その事を概念的に理解はしていましたが、体感する事が無かったのです。
しかし古今東西の聖人賢人たちの言葉を集めて行く内に、段々とその事を体感する事が出来る様に成ったのです。
その中で最も決定的な役割を果たしたのが、
『菩提達摩無心論』の
「無心と言うは、即ち妄想無き心なり。」であり、
『老子』の
「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。
道の物為(た)る、惟(こ)れ恍、惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。
其の中に象有り、恍たり惚たり。
其の中に物有り、窈たり冥たり。
其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。
古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。
吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」です。
勿論これ以外の言葉もそれらを裏打ちして呉れました。
私は「哲学国家日本の実現の為に」を作成する事に依って、『それ』の事を心身両面から理解(体感)する事が出来る様に成ったのです。
●●先生は、未だ『それ』の事を心身両面からは理解(体感)していないと思いますので、どうか先ずは、「哲学国家日本の実現の為に」を読んで頂きたいと思います。
「哲学国家日本の実現の為に」においては、ソロモン、ダビデ、イエス、パウロ、ブッダ、孔子、王陽明、老子、ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカ、クリシュナ、デカルトの偉大な十三人の哲学者(智慧を愛した者)の『それ』に関する言葉を集められています。
偉大な十三人の哲学者の『それ』を読む事に依って、『それ』への理解が、自然に深まって行く事に成ると思います。
『それ』への理解が深まれば深まる程、『それ』を心身両面から体感する事が出来る様に成るのです。
先生が『それ』を心身両面から完全に体感(理解)する事が出来る様に成った時、今回のプロジェクトは成功する事と成るのです。
何故なら「神は愛なり」であり、智慧は愛なりなのですから。
私がやらずに、誰がやる、そんな思いに駆られる事に成るのです。
それではここで、一「それとは何か」、二「それに至るには、どの様にすれば良いのか」、三「それに至った時、人はどの様に成るのか」と言う事について、簡単に概念説明をして置きます。
その方が、先生が研究に入り易いと思いますので。
先ず一番目の「それとは何か」と言う事ですが、
それは一般的には神、仏、天等々と呼ばれていますが、
それを哲学的な言葉で言えば、それが智慧と言う事に成るのです。
そしてそれを更に究極的な言葉で言えば、それが『本当の自分自身』と言う事に成るのです。
哲学の究極の目的は、本当の自分自身を知り、本当の自分自身を愛し、そして本当の自分自身に成る事です。
「汝自身を知れ」
「自分が自分のものになることがはかり知れない善なのです」(セネカ)
『それ』は実に様々に言われていますが、『それ』ら全てを本当の自分自身に還元出来た時、人はその本当の自分自身に対して絶対的な確信を持つ事が出来る様に成るのです。
二番目の「それに至るには、どの様にすれば良いのか」と言う事ですが、
「則天去私」
「克己復禮」
「敬天愛人」
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
と言う事に成ります。
「則天去私」、これこそがそこに至る方法です。
そこに至れば、老子が説くあの『恍惚』へと至る事に成るのです。
三番目の「それに至った時、人はどの様に成るのか」と言う事ですが、
人はそれに至った時、
恍惚、至福、エクスタシー、法悦、無心、無垢、無我、空、中、無と成り
神の国、天の国、仏の国に至る事に成るのです。
そしてその至福を多くの人々と分かち合いたいと言う、強い気持ちが湧いて来る事に成るのです。
そこに聖人君子の道が開けて来る事に成るのです。
人はそこに至らない限りは、決して本当の愛の人と成る事は出来ないのです。
何故ならそここそが、「神は愛なり」と言う神の国なのですから。
(●●先生には念を押す必要は無いとは思いますが、神の国、天の国、仏の国は全て喩えです。その様に智慧と愛に溢れた気分に成ると言う事なのです・・・)
この事を古今東西の聖人賢人たちは異口同音に言っているのです。
古代の哲学者(智慧を愛する者)たちは、この事を大胆な比喩を使って、大胆に謳い上げました。
その為、私たちは古代哲学者に憧れます。
一方、近現代の哲学者(智慧を愛する者)たちは、この事をかなり控えめにしか表現していません。
しかしその哲学者(智慧を愛する者)が五百年後にも生き残る哲学者であれば、必ずその事を表現しています。
何故なら、それこそが人間に取っての至福なのですから。
先生が研究の対象としているカント、フィヒテ、シェリングもその事を表現していますよね。
カントに至っては、その事を表現している個所は、ほんの僅かかも知れませんが、確かにその事を表現していますよね。
今回の●●大学文学部哲学科の哲学の先生たちの仕事は、その部分を切り取って、国民の目の前に見せて上げる事なのです。
私に百年の時間があれば、西洋の哲学者百人もしくは千人、東洋の哲学者百人もしくは千人、日本の哲学者百人もしくは千人の名著の中から、その事を拾い出し、国民の目の前に見せて上げる事が出来るのですが、私にはその様な時間が無いのです。
と言う事で、●●先生を通して、●●大学文学部哲学科の先生たちに、その事をお願いすると言う次第なのです。
●●大学文学部哲学科の先生方はたくさんの本を読んでいるので、その視点からその事を拾い出す事については、それほど難しくないと思います。
宮村先生を中心にして、●●大学文学哲部学科の先生たちが集中して仕事をすれば、「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)は簡単に仕上がると思います。
この「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)が完成した時、日本に大きな哲学(智慧を愛する事)の嵐が湧き起る事に成ります。
何故なら、日本国民の全ての人が、心から『それ』を熱望しているからです。
しかし、多くの日本の人々に取っては、『それ』は闇に閉ざされたままです。
何故なら、この日本においては、『それ』の事を体系的に教えて呉れる人が誰もいないからです。
もし●●大学文学部哲学科において、「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)が完成したら、多くの日本の人々がそれを貪る様に読む事に成ります。
何故ならそこには、権威によって、たくさんの『それ』が、一杯に詰め込まれる事に成るのですから。
そして、多くの日本の人々が、そのたくさんの『それ』の中から、一つの『それ』、すなわち『本当の自分自身』を見出す事に成るのです。
そこから、この日本にも哲学的(智慧を愛する事)な潮流が生まれて来る事に成るのです。
先生は「人格」を研究しているとの事、そして「『人間とは何か』という根源的な問いを、過去の偉大な思想家たちの思索に学びながら考えるために、倫理学の研究者になることを志しました」との事ですが、これらに対しても全て『それ』で説明が付くのです。
先ずは「人格」についてですが、
人には、「聖人」、「賢人」、「哲人」、「凡人」と言う人格の人々がいます。
「聖人」とは、長年の修業の上、『それ』に成った人の事です。
すなわち、長年の修業の上、自分自身が、自分自身が理想とするその『本当の自分自身』に成った人の事です。
「賢人」とは、『それ』を見出し、『それ』に成ろうと努力している人の事です。
すなわち、「本当の自分自身」を見出し、その「本当の自分自身」に成ろうと努力している人の事です。
「哲人」(ここでは初学の哲学者の事を言う事とします)とは、『それ』を見出そうと一生懸命努力をしている人の事です。
すなわち、「本当の自分自身」を一生懸命に見出そうと努力している人の事です。
もしくは、その「本当の自分自身」を見出して、喜びを感じている人の事です。
「凡人」とは、『それ』の事に関して全く無知な人の事です。
これらの内、聖人、賢人、哲人は皆、哲学者(智慧を愛する者)です。
その智慧(本当の自分自身)をどこまで実現出来たかに依って、それぞれの名前で呼ばれる事に成るのです。
なお、この他に神人と呼ばれる人々がいます。
すなわち、智慧がそのままに人に成った人の事です。
聖典上の、イエス、ブッダ等がその人と言う事に成ります。
彼らは人で在りながら、智慧ですので、完全なる人間と呼んでも良いと思います。
宗教上では彼らは信仰の対象と成りますが、哲学上においても、彼らを理想の人とする事が出来るのです。
何故なら哲学とはphilosophia、智慧を愛する事。彼らは、その智慧そのものに成った人の事なのですから、哲学上においても理想の人と言う事に成るのです。
今回の哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)においては、古今東西の聖人賢人哲人たちの『それ』を徹底的に集める事に成ります。
なお、ここで言う聖人賢人哲人の中には、イエスやブッダ、その他、空海、親鸞、道元等々の宗教的な指導者と成った哲学者(智慧を愛する者)を含む事に成ります。
この「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)においては、古今東西の英知の『それ』が、それこそ山の様に詰め込まれる事に成るのです。
この「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)において、多くの日本の人々が『それ』に関心を持つ様に成り、そして多くの日本の人々が『それ』らが一つである事を体感する様に成るのです。
多くの日本の人々が、『それ』らが一つである事を体感する様に成った時、この日本にも大きな哲学(智慧を愛する事)の潮流が生まれて来る事に成るのです。
この第一期の「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)が成功すれば、
第二期の●●大学文学部哲学科における「哲学広場(哲学的対話室)」の設置
第三期の●●大学文学部哲学科における「哲学的エッセイ集(智慧と愛の巻)」の作成
第四期の●●大学文学部における「哲学読本大全」の作成
第五期の「哲学広場●●大学」の設置まで自然に流れて行く事に成り、もう誰も哲学(智慧を愛する事)の潮流を止める事が出来なく成るのです。
何故なら、『それ』は全ての人間の本性であり、『それ』を愛する事は人間の第二の本能なのですから。
その本能に火が付いたら、もう誰も止められなく成るのです。
男が女を愛する様に、女が男を愛する様に、人間はそれを愛する様に仕組まれているのです。
そしてその恍惚(エクスタシー、法悦、至福)は、男と女の愛と違って、温和で永続し続ける事に成るのです。
もし先生がこのプロジェクトの中心的役割を果たす事に成れば、先生は全ての東京大学文学部の先生と超えて偉大な哲学者(智慧を愛する者)と成ります。
何故ならその過程において、古今東西の聖人賢人哲人たちの智慧が先生の物と成り、
そして●●大学文学部の先生たちの智慧が先生の物に成るのですから。
このプロジェクトは、正に先生の為に用意されたものなのです。
先生は若くて、そして倫理(智慧と愛)に高い関心を持っています。
だからこそ、先生がこのプロジェクトの中心と成らなければ成らないのです。
先生がこのプロジェクトの中心的役割を果たし、更に「智慧と愛」に没頭したら、先生が五十歳に成る頃までには、先生は日本における偉大な哲学者(智慧を愛する者)と成ります。
何故なら、その頃までには、古今東西の聖人賢人哲人たちの智慧が全て先生の智慧と成り、先生の智慧が古今東西の聖人賢人哲人たちの智慧と一緒に成って行くからです。
すなわち、その智慧と目と目を合せて見る事に成るのです。(天命を知る)
そしてそれから更に、聖人君子の道を歩み始める事に成るのです。
「子曰く、吾れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(した)がう。
七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。」
これが、先生がこれから歩む道と言う事に成ります。
先生は七十歳を超える頃には、聖人(本当の自分自身をこの世に実現した者)として、この日本に屹立する事と成るのです。
と言う事で、どうかこのプロジェクトに従事する事を決意して頂きたいと思います。
それでは、今回のプロジェクト「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)の具体的作成方法について、説明して行きたいと思います。
先ずは先生の方で、『それ』が掲載されていると思われる、西洋の哲学的名著百冊、東洋の哲学的名著百冊、日本の哲学的名著百冊の目星を付ける事とします。
ここで言う名著には、勿論、聖典も含まれます。
すなわち、旧約聖書、新約聖書、仏教典、イスラム経典、ヒンズー経典、バラモン経典、神道経典等々も対象と成ると言う事に成ります。
一冊の捉え方については、それぞれの独立した書を一冊として数える事とします。
例えば、旧約聖書であれば「創世記」、「詩編」、「箴言」、「イザヤ書」をそれぞれ一冊と数え、新約聖書であれば「マタイによる福音書」、「ヨハネによる福音書」、「ローマ信徒への手紙」をそれぞれ一冊と数える事とします。
哲学者については、近代までの有名な哲学者については全て網羅する事とします。
現代の有名な哲学者については、その哲学者の哲学書が、五百年後も読まれ続けられる哲学者だけを対象とする事とします。
すなわち『それ』の事を、誰にでもはっきりを分かる形で著している哲学者だけを対象とする事とします。
哲学者については、西洋、東洋、日本、それぞれに百人以上を対象とする事とします。
それでは、ここで先生において、旧約聖書、新約聖書、仏教典、イスラム経典、ヒンズー経典、バラモン経典、神道経典等の中で対象としたい経典と、百人の西洋の哲学者と、百人の東洋の哲学者と、百人の日本の哲学者をイメージして、それを書き出して頂きたいと思います。
もし先生が、ここでこれらを書き出す事が出来れば、「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)は、間違いなく完成します。
次に図書館に籠って頂き、それぞれの経典については、現物をぱらぱらと捲り読みをして頂き、対象とする経典(哲学的名著)を確定して頂きたいと思います。
哲学者の哲学書の方については、それぞれの哲学者の全集の目次等を開き、『それ』が掲載されている書と、『それ』が掲載されている個所について、目星を付け、それらをぱらぱらと捲り読みをして頂き、対象とする哲学書(哲学的名著)を確定して頂きたいと思います。
少し大変な作業ですが、この作業を行う事に依って、「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)のイメージが、はっきりと湧いて来ます。
先生はカントを研究しているとの事、私はカントはほとんど読んでいません。
カントで読んだのは、「道徳形而上学原論」だけで、後は「純粋理性批判」をぱらぱらと捲り読みをしただけです。
今どちらも蔵書としてここにあるので、その要領で、それを試みたいと思います。
以下はその結果です。
先ずは目次を見、『それ』が出ている様な箇所を探しました
そして、正にその様な目次を探し出したのです。
それは、「純粋理性批判」の、Ⅱ「先験的法方法論」の、第二章「純粋理性の規準」の、第二節「純粋理性の究極的目的の規定根拠としての最高善の理想について」でした。
私はそれをぱらぱらと捲り読みをしてみました。
そしてそこにカントの『それ』があるだろうと確信したのです。
何故なら『それ』に関する言葉が山ほど詰められていたからです。
先ずは目次の「純粋理性の究極的目的の規定根拠としての最高善の理想」、これは『それ』以外の何ものでもありません。
それから、出て来る順番に「最高目的」、「幸福」、「自由」、「自由意志」、「道徳的法則」、「理性的存在者」、「道徳的世界」、「叡智的直観」、「神秘的集団」、「可想的世界」、「最高の意志(神的意志)」、「最高の理性(神)」、「叡智者」、「完全な意志」、「最高の聖福」、「世界における一切の幸福の原因」、「最高善の理想」、「根源的な最高善の理想」、「唯一の存在者」、「恩寵の国」、「神」、「道徳神学」、「先験的神学」、「自然的神学」、「目的の完全な統一」、「世界の最高福祉」、「全知」、「全能」、「偏在」、「永遠」、「叡智者達の住むかかる世界」、「最高の存在論的完全性」、「実践的理性と思弁的理性の合一」、「唯一の根源的存在者の絶対的必然性」、「神性」、「我々の宗教(キリスト教)における至純な道徳的法則」、「神的存在者」、「純粋理性の最も本質的な目的に対して絶対に必然的な」、「唯一の根源的な存在者」、「神の命令」、「神聖」、「神の意志」等々と、『それ』に関する言葉が次から次へと出て来たのです。実にたくさんの『それ』が詰め込まれていたのです。
この第二章第二節「純粋理性の究極的目的の規定根拠としての最高善の理想」は、僅かに十二頁程度でしたので、通読してみました。
そして私はここにおいて、カントの『それ』を発見したのです。
象徴的な個所を拾い出して置きます。
「そしてかかる自由そのものが一般的幸福の原因をなし、従って理性的存在者はかかる原理を手引きとして、自分自身及び諸他いっさいの理性的存在者の永続的な幸福の創始者となるのである。」(838)
「かかる叡智者という理念においては、道徳的に最も完全な意志と最高の聖福とが結びついて、世界における一切の幸福の原因をなしている。私はかかる理念が道徳性(幸福をうけるに値すること)と厳密に対応する限り、この叡智者の理念を最高善の理想と名づける。それだからこそ純粋理性は、根源的な最高善の理想においてのみ派生的な最高善を、従ってまた仮想的世界すなわち道徳的世界を形成する両つの要素の実践的に必然的な結合の根拠を見出し得るのである。」(839)
「自分は恩寵の国に住んでいる、という自覚が即ち理性の実践的に必然的な理念なのである。」(840)
「叡智者達の住むかかる世界は、単なる自然としてみれば感覚界にほかならない、しかし自由の体系としては、可想的世界即ち道徳的世界(恩寵の国)と名付けられてよい。叡智者たちの世界に存する諸般の目的のかかる体系的統一は、この偉大な全体を形成するところの一切の物の合目的統一に必然的に到達せざるを得ない、そして物のかかる合目的統一が普遍的自然法則に従うのは、なお目的の体系的統一が普遍的、必然的な道徳的法則に従うのと同様である。こうして叡智者達の世界における目的の体系的統一は、実践理性と思弁的理性とを合一するのである。」(844)
「もしわれわれが自分自身の目的を立てないのなら、いったい我々は経験に関してさえ自分の悟性をどのように使用できるだろうか。ところで最高の目的といえば、それは道徳性の目的である、そして道徳性のかかる最高目的を我々に認知せしめるのは、ひとり理性のみである。」(845)
「実践理性が我々を指導する権利を有する以上、我々が道徳的行為を我々に課せられた責務と考えるのは、道徳的行為が神の命令と見なされるからではなくてむしろかかる行為を果たすべき責務が我々にあるからこそ、我々はこれを神の命令を見なすのである。我々は、理性の従うところの合目的統一のもとで、自由を学ぶことになるだろう、そして理性がかかる道徳的行為そのものの本性にかんがみて我々に教えるところの道徳的法則を我々が神聖に保つ限り、我々は神の意志に適うものであると信じ、また我々自身及び他の人達が相共に世界の福祉を促進することによってのみ、神の意志に仕えるものと信じるのである。」(847)
私はこれらの言葉に依って、カントの『それ』を理解したのです。
これらの言葉の内、最も大事な言葉は「自由」と言う言葉です。
カントはそれの事を、自由と言う極めて控えめな言葉でしか表現していませんが、それは自由と悦びと平安と至福と、そして智慧と愛に満ちた世界の事なのです。
老子の言うあの『恍惚』の世界です。
それは「神の国」であり、「仏の国」であり、「天の国」であり、カントの言う「恩寵の国」の事なのです。
その「恩寵の国」の住民として、至福に満ちているからこそ、その至福を分かち合う為にこの世に出て行く事に成るのです。
もしそれに成功すれば「幸福の創始者」とも呼ばれ、聖人とも呼ばれる事に成るのです。
カントは難しい言葉を多用している為、難しく感じますが、何の難しい事も有りません。
それは古今東西の聖人賢人哲人たちの『それ』と何の違いも無いのです。
「文字は殺すが、霊は生かす」
「大要、良知の同じきに出づれば、便ち、各々、説を為すも何の害あらん。」
「良知、同じければ、更に、異なる處、有るを妨げず」
『智慧と愛』と『恍惚』、これに依って、古今東西の聖人賢人哲人たちの全ての『それ』を説明する事が出来ます。
カントで言えば、純粋な「純粋理性」が智慧であり、純粋な「実践理性」が愛と言う事に成ります。
純粋な「純粋理性」でそれに向かうと、カントはそれの事を「根源的な最高善の理想」と呼んでいますが、私はそれの事を「智慧の根源としての智慧」と呼び、また「愛の根源としての愛」と呼んでいますが、カントの場合、純粋な「純粋理性」で、それ(「根源的な最高善の理想」)へ向かうと、「自由」に至る事に成ると言っているのですが、私はカントの自由と言う概念に、老子の『恍惚』と言う言葉を当てているのです。
老子の『恍惚』と言う言葉を使う事に依って、それに至った時の概念がとても分かり易く成るのです。
その頂点は無ですが、概して言えば、無心、無垢、無我の世界です。
そこに純粋な意志を投入すると、そこに純粋な愛が生まれる事に成ります。
最も究極的な純粋な意志とは、その無心、無垢、無我の世界で生まれた意志の事です。
その無心、無垢、無我の世界で生まれた意志(神の意志)を、その無心、無垢、無我の世界(智慧の根源としての智慧の世界であり、愛の根源としての愛の世界)に投入すると、無心、無垢、無我の愛(神の愛)が生まれる事に成ります。
これが神の愛と言う事に成るのです。
何故老子は、「衆甫(しゅうほ)」のそれ(智慧と愛)を知り得たのか。
それはその『恍惚』の世界の中においては、古今東西の聖人賢人たちのそれ(智慧と愛)が全く一つであるからに他ならないからです。
その「恍惚の世界」の事を「神の国」、「天の国」、「仏の国」と呼び、カントは「恩寵の国」と呼んでいるのです。
この「恍惚」を知れば、古今東西の聖人賢人たちのそれ(智慧と愛)は、いとも簡単に手に入れる事が出来る様に成ります。
しかしこの「恍惚」を知らなければ、古今東西の聖人賢人たちのそれ(智慧と愛)は、常に闇に閉ざされたままです。
私が何故『恍惚』と言う言葉を強調して使うかと言うと、『恍惚』(エクスタシー)とう言葉が、それに至った時の『体感』を最も分かり易く説明して呉れるからです。
この世の最高の快楽は何でしょう。
それは愛する人と愛し合って、果てた時です。
人は一瞬、無に成って、そして無心、無垢、無我の世界へと流れて行きます。
そこは無ですが、そこには満たされた無があり、そしてそこには既に新しい命が宿っているのです。
智慧との愛も正にそれと同じです。
それを愛して愛し抜いた時、人は一瞬、無と成って、そして無心、無垢、無我の世界へと流れて行きます。
そこは無ですが、そこには満たされた無があり、そしてその満たされた無の中に、純粋な智慧と愛が宿っているのです。
そこに純粋な意志を投入すると、そこにその人が理想とする智慧と愛の世界が現出する事に成るのです。(孔徳の容、惟(ただ)道に従う)
「問うて曰く、和尚は既に一切処に於いて皆無心なりと云う。木石も亦た無心なり、豈(あ)に木石に同じからざるか。答えて曰く、爾我の無心は、木石に同じからず。 何を以ての故ぞ。譬えば天鼓の如し、無心なりと雖復(いえど)も、自然に種々の妙法を出して衆生を教化す。又如意珠の如し、無心なりと雖復(いえど)も、善能(よ)く諸法実相を覚了し、真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し。故に宝積経に云わく、無心意を以って現行す、と。豈(あ)に木石に同じからんや。夫(か)の無心なる者は真心なり、真心なる者は無心なり。」
「無心と言うは、即ち妄想無き心なり。」
私はこれらの言葉を、百でも、千でも、一万でも並べる事が出来ます。
古今東西の聖人賢人と言う人たちがあれば、彼らの書の中から、必ずそれらの言葉を引き出す事が出来ます。
何故なら彼らが聖人賢人と呼ばれる所以は、彼らの中に『それ』が在るからに他ならないからです。
それは先生も一緒です。
先生が『それ』を完全に体感する事が出来れば、先生もそれらに関する言葉を百でも、千でも、一万でも簡単に拾い出す事が出来ます。
しかし先生にも限られた時間しか無いのです。
ですから先生を中心として、●●大学文学部哲学科の先生の御協力を頂くと言う次第なのです。
●●大学文学部哲学科の先生たちは、『それ』の事を概念的に知っていますので、先生が『それ』の事を完全に体感した上で、先生たちを暗に『それ』に導いて上げれば、多くの先生方が今回のプロジェクトに協力して呉れる事と成るのです。
先生は●●学教室の出身です。そして『それ』(根源的な智慧と愛)に関して高い関心を持っており、そして何よりも若い。
先生以外にこのプロジェクトの中心に成れる人は居ないのです。
先生が『それ』を完全に体感する事が出来れば、今回の仕事ほど楽しいものは無いと思います。
何故ならこの仕事の過程において、その満たされた無の中で、古今東西の聖人賢人たちの智慧が先生の物と成り、●●大学文学部の先生たちの智慧が先生の物に成るのですから。
しかし先生が『それ』を体感する事が出来ない限り、今回のプロジェクトは一歩も進まないのです。
ですからどうか騙されたと思って、「哲学国家日本の実現の為に」を読んで頂きたいと思います。
「哲学国家日本の実現の為に」では、十三人の偉大な哲学者たちが、彼ら自身の言葉に依って、先生を『それ』へと導いて呉れます。
先生が『それ』を体感した時、今回のプロジェクトは第一歩を踏み出す事に成り、そして先生の偉大な哲学者(聖人賢人)への道が始まる事と成るのです。
と言う事で、どうか騙されたと思って、「哲学国家日本の実現の為に」を読んで、「それ」を体感して頂きたいと思います。
それでは先生が『それ』を体感したとの前提で、次の作業に入って行きたいと思います。
先生は図書館に籠って、旧約聖書、新約聖書、仏教典、イスラム経典、ヒンズー経典、バラモン経典、神道経典等の経典と、西洋の百人の哲学者の哲学書と、東洋の百人の哲学者の哲学書と、日本の百人の哲学者の哲学書について目星を付けたと思いまので、それらをここに書き出して下さい。
どうです。
もう目の前に「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)が見えて来ましたね。
後はそれらを、それぞれの先生に割り振って、それらの哲学的名著から、『それ』に関する名文を拾い出して貰うだけです。
どうです。
先生の為の「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)が完成しましたね。
そして日本国民の為の「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)が。
勿論この「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)は、私の為の物でもあります。
と言うか、現在の所、私がそれを最も熱望しているのです。
私はこの「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)に依って、私の智慧と愛を確定する事が出来ます。
私は古今東西の聖人賢人たちの『それ』であれば、『それ』らに関する名文が、百あろうと、千あろうと、一万あろうと、『それ』らを全てを自分自身に還元する事が出来ます。
『それ』らに関する名文が多ければ多い程、私は『それ』に対して強い確信を持つ事が出来る様に成るのです。
そしてこの「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)に依って、私は多くの人と『それ』を共有する事が出来る様に成り、そしてその事に依って、多くの人に『それ』を知らせる事が出来る様に成るのです。
勿論、それは私だけでなく、多くの日本の人々がその様に成るのです。
勿論、先生もです。
と言うより、先生こそが、この「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)の編者として、誰よりも先に、全ての古今東西の聖人賢人哲人たちの『それ』に宿る一つの『それ』を掴む事に成るのです。
先生が『それ』(本当の自分自身)を掴んだ時、先生は『それ』において立つ事に成るのです。
「子曰く、吾れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(した)がう。
七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。」
先生は三十代で、『それ』において立ち、
四十代で、『それ』において惑わなく成り、
五十代で、『それ』と目と目を合せて見る事と成り、
六十代では、『それ』に従う事が何の苦も無く成り
そして七十代で、『それ』と先生自身が何の違いも無くなるのです。
すなわち先生は七十代で、この日本に聖人(『それ』を実現した者:本当の自分自身を実現した者)として屹立する事に成るのです。
それではまた、具体的な作業に戻りたいと思います。
ここで僭越ではありますが、私の方で、『それ』の記載があるであろう、西洋の哲学的名著百冊、東洋の哲学的名著百冊、日本の哲学的名著百冊を挙げたいと思います。
なお、私は近現代の哲学書ついては、ほとんど読んでいません。
ですからここに挙げる哲学書については、ほとんどは空想で挙げるものであり、その哲学書に『それ』の記載があるかどうかは分かりません。
しかし私はここで言って置きたいと思います。
その哲学者が偉大な哲学者であれば、必ず『それ』の記載があると。
何故なら偉大な哲学者(智慧を愛する者)とは、『それ』を熱心に求め続け、そして『それ』を私たちの目の前に現わして呉れた人の事なのですから。
私に一週間ほどの時間があれば、図書館に籠って、それらの哲学書を捲り読みし、ある程度確定させる事が出来るのですが、その様な時間が無いので、私の僅かばかりの蔵書(世界の名著全81巻と日本の名著全50巻と岩波文庫百冊程度+α)と国立国会図書館の「蔵書検索システム」とウィキペディアの「思想家一覧」に基づいて、ある程度、空想で挙げさせて頂きたいと思います。
以下が、その結果と言う事に成ります。
なお、旧約聖書、新約聖書については、地理的は東洋に属しますが、西洋の思想の原点がここにありますので、これらについては、西洋に分類したいと思います。
【西洋の哲学的名著】
モーセ? 「創世記」(旧約聖書)
ダビデ 「詩編」(旧約聖書)
ソロモン 「箴言」(旧約聖書)
コレヒト 「コレヒトの言葉」(旧約聖書)
イザヤ 「イザヤ書」(旧約聖書)
ヨブ 「ヨブ記」(旧約聖書)
イエス(マタイ) 「マタイによる福音書」(新約聖書)
イエス(ヨハネ) 「ヨハネによる福音書」(新約聖書)
パウロ 「ローマ信徒への手紙」(新約聖書)
ペテロ 「ペテロの手紙」(新約聖書)
ヨハネ 「ヨハネの手紙」(新約聖書)
プラトン(ソクラテス) 「国家」「饗宴」「パイドン」(岩波文庫)
クセノポン 「ソクラテスの思い出」(岩波文庫)
アリストテレス 「二コマコス倫理学」(岩波文庫)
エピクロス 「エピクロス」(岩波文庫)
ルクレティウス 「物の本質について」(岩波文庫)
キケロ 「神々の本性について」(キケロ選集11:岩波書店)
フィロン 「観想的生活・自由論 」(ユダヤ古典叢書:教文館)
セネカ 「道徳書簡集」、「道徳論集」(東海大学出版会)
エピクテトス 「語録」、「要録」(世界の名著13:中央公論社)
プルタルコス 「モラリア」(京都大学学術出版会)
マルクス・アウレリウス 「自省録」(岩波文庫)
プロチノス 「善なるもの一なるもの」(岩波文庫)
ラエルティオス 「ギリシア哲学者列伝」(岩波文庫)
アウグスティヌス 「神の国」(岩波文庫)
アンセルムス 「モノロギオン」(岩波文庫)
ボエティウス 「哲学の慰め」(岩波文庫)
アベラール 「アベラールとエロイーズ愛の往復書簡 」(岩波文庫)
トマス・アクィナス 「神学大全」(創文社)
エックハルト 「エックハルト説教集」(岩波文庫)
ダンテ 「神曲」
クザーヌス 「神を観ることについて」(岩波文庫)
トマス・ア・ケンビス 「キリストにならいて」(岩波文庫)
シレジウス 「シレジウス瞑想詩集」(岩波文庫)
エラスムス 「平和の訴え」(岩波文庫)
トーマス・モア 「ユートピア」(岩波文庫)
ルター 「キリスト者の自由・聖書への序言」(岩波文庫)
カルヴァン 「キリスト教綱要」(新教出版社)
モンテーニュ 「エセー」(岩波文庫)
ベーコン 「ベーコン随筆集」(岩波文庫)
ベーメ 「ヤコブ・ベーメ」(キリスト教神秘主義著作集13:教文館)
ホッブス 「リヴァイアサン」(岩波文庫)
デカルト 「方法序説」、「哲学原理」(岩波文庫)
パスカル 「パンセ」(岩波文庫)
スピノザ 「エチカ(倫理学)」(岩波文庫)
ジョン・パニヤン 「天路遍歴」(岩波文庫)
ロック 「人間知性論」(岩波文庫)
ライプニッツ 「形而上学叙説」(世界の名著25:中央公論社)
ヴィーコ 「新しい学」(世界の名著 続6:中央公論社)
バークリ 「人知原理論」(岩波文庫)
スウェーデンボルグ 「神の愛と知恵」(スヴェーデンボリ出版)
モンテスキュー 「法の精神」(岩波文庫)
ヒューム 「人性論」(世界の名著27:中央公論社)
ルソー 「エミール」(岩波文庫)
アダム・スミス 「道徳感情論」(岩波文庫)
カント 「純粋理性批判」「実践理性批判」「道徳形而上学原論」
レッシング 「理性とキリスト教 」(レッシング哲学・神学論文集:新地書房)
ヘルダー 「人間性形成のための歴史哲学異説」(世界の名著 続7)
ベンサム 「道徳及び立法の諸原理序説」(世界の名著38)
ゲーテ 「神と世界」(ゲーテ全集1:潮出版社)
フィヒテ 「人間の使命」(岩波文庫)
シュライエルマッハー 「独白」(岩波文庫)
ヘーゲル 「精神哲学」(岩波文庫)
J.S.ミル 「自由論」(岩波文庫)
シェリング 「人間的本質の自由」(岩波文庫)
コント 「実証精神論」(世界の名著36:中央公論社)
ショーペンハウワー 「意志と表象」(世界の名著 続10:中央公論社)
エマーソン 「精神について」(エマーソン選集2:日本教文社)
フォイエルバッハ 「将来の哲学の根本命題」(岩波文庫)
キルケゴール 「死にいたる病」
ウェーバー 「古代ユダヤ教」(岩波文庫)「儒教と道教」(創文社)
スペンサー 「知識の価値」(世界の名著36:中央公論社)
トルストイ 「人生の道」(岩波文庫)
ヒルティ 「幸福論」(岩波文庫)
ディルタイ 「倫理学・教育学論集」(ディルタイ全集6:法政大学)
ブレンターノ 「道徳的認識の源泉について」(世界の名著51)
バース 「論文集」(世界の名著48:中央公論社)
ジェームズ 「哲学の根本課題」(世界の名著48:中央公論社)
ニーチェ 「悦ばしき知恵」(ニーチェ全集8:ちくま学芸文庫)
フロイト 「自我論文集」(ちくま学芸文庫)
ジンメル 「哲学の根本問題」(ジンメル著作集6:白水社)
デューイ 「倫理学」(デューイ=ミード著作集10:人間の科学社)
フッサール 「デカルト的省察」(世界の名著51:中央公論社))
ベルクソン 「道徳と宗教の二つの源泉」(世界の名著53中央公論社)
ホワイトヘッド 「観念の冒険」(世界の名著58:中央公論社)
アラン 「幸福論」(岩波文庫)
シュタイナー 「人智学・心智学・霊智学」(ちくま学芸文庫)
ラッセル 「神秘主義と理論」(ラッセル著作集4:みすず書房)
ヴァレリー 「神について」(ヴァレリー全集カイエ編7:筑摩書房)
ユング 「結合の神秘」(ユングコレクション5:人文書院)
シュバイツァー 「キリスト教と世界の宗教」(シュバイツァー著作集8)
フーバー 「我と汝・対話」(岩波文庫)
オルテガ 「哲学とは何か」(オルテガ著作集6:白水社)
ヤスパース 「理性と実存」(ヤスパース選集29:理想社)
ブロッホ 「希望の原理」(白水社)
ティリッヒ 「絶対者の問い」(ティリッヒ著作集4:白水社)
バルト 「神認識と神奉仕」(バルト著作集9:新教出版社)
マルセル 「存在の神秘」(マルセル著作集5:春秋社)
ハイデッガー 「哲学とは何か」(ハイデッガー選集7:理想社)
サルトル 「真理と実存」「自我の超越」(人文書院)
レヴィナス 「実存から実存者へ」(ちくま学芸文庫)
※近代までの哲学書については、聖書及び「世界の名著81巻」(中央公論社)を中心に選択しています。現代の哲学書については、その哲学者の哲学全集が発行されている哲学者を対象に、「国立国会図書館蔵書検索システム」に基づき、『それ』の記載があるであろうと思われる哲学書を選択しています。
【東洋の哲学的名著】
(中国哲学)
古代中国詩人 「詩経」(岩波文庫)
古代中国聖人賢人 「書経」(漢文大系25:明治書院)
古代中国哲人 「易経」(岩波文庫)
老子 「老子」(岩波文庫)
孔子 「孔子」(岩波文庫)
曾子・孔子 「孝経」(岩波文庫)
曾子・孔子 「大学」(岩波文庫)
子思・孔子 「中庸」(岩波文庫)
墨子 「墨子」(岩波文庫)
列子 「列子」(岩波文庫)
荘子 「荘子」(岩波文庫)
孟子 「孟子」(岩波文庫)
劉安 「淮南子」(漢文大系34:明治書院)
朱子 「朱子文集・語類抄」(世界の名著 続4:中央公論社)
王陽明 「伝習録」(漢文大系22:明治書院)
呂新吾 「呻吟語」(講談社学術文庫)
洪自誠 「菜根譚」(講談社学術文庫)
(中国仏教)
僧肇 「肇論」(大乗仏典 中国日本編2:中央公論社) 384
僧祐 「出三蔵記集」「弘明集」(大乗仏典 中国日本編3,4)445
曇鸞 「浄土論註」(大乗仏典 中国日本編5:中央公論社) 476
慧皎 「高僧伝」(岩波文庫) 497
菩提達磨 「菩提達磨無心論」(世界の名著 続3:中央公論社) 500
智顗 「摩訶止観」(大乗仏典 中国日本編6:中央公論社) 538
吉蔵 「三論玄義」(大乗仏典 中国日本編2:中央公論社)549
法融 「絶観論」(大乗仏典 中国日本編11:中央公論社)594
道宣 「広弘明集」「続高僧伝」(大乗仏典 中国日本編4,14)596
玄奘三蔵 「大唐西域記」(大乗仏典 中国日本編9) 602
弘忍 「修心要論」(大乗仏典 中国日本編11) 602
神秀 「観心論」(大乗仏典 中国日本編11:中央公論社) 606
善導 「観経疏」(大乗仏典 中国日本編5:中央公論社) 613
慧能 「六祖壇教」(世界の名著 続3:中央公論社) 638
法蔵 「華厳五教」「金師子章」(大乗仏典 中国日本編7)643
道世 「法苑珠林」(大乗仏典 中国日本編5:中央公論社)668
圭峯宗密 「原人論」(大乗仏典 中国日本編7:中央公論社) 780
洞山 「洞山録」(世界の名著 続3:中央公論社) 807
臨済 「臨済録」(岩波文庫) ~867
賛寧 「宋高僧伝」(大乗仏典 中国日本編14:中央公論社)919
静・均二禅徳 「祖堂集」(世界の名著 続3:中央公論社) 952
圜悟 「碧巌録」(岩波書店) 1063
無門 「無門関」(岩波文庫) 1183
ツォンカパ 「菩提道次第大論」(大乗仏典 中国日本編15) 1357
※中国仏教については、「大乗仏典 中国日本編(1~15)」(中央公論社)に基づいて選択しています。「大乗仏典 中国日本編」は現代語訳でとても読み易いものです。この機会に「大乗仏典 中国日本編」を一揆読みして、中国仏教の『それ』の核心を掴んで頂きたいと思います。中国仏教の『それ』の核心を掴む事が出来れば、日本仏教の『それ』の核心も、インド仏教の『それ』の核心も簡単に掴む事が出来る様に成ります。そして更には、世界の全ての哲学宗教の『それ』の核心をも簡単に掴む事が出来る様に成ります。ショーペンハウワーやニーチェがブッダの『それ』を掴む事に依って、あの様に偉大な哲学者に成った様に、●●先生も中国仏教の『それ』の核心を掴む事に依って、偉大な哲学者の道を歩む事に成ります。先生であれば、一週間ほどで読み切る事が出来ると思います。この「大乗仏典 中国日本編」を読み切った後の●●先生とその前の●●先生では『それ』に関する理解度が何倍も違って来る事に成ると思います。「大乗仏典 中国日本編」では、何十人もの高僧が、先生の為に様々な視点から『それ』を講釈して呉れます。先生はここにおいて、中国仏教の『それ』、それは全ての宗教哲学の『それ』でもあるのですが、『それ』を掴む事に成ります。先生が『それ』を掴んだ時から、先生の本当の哲学者としての道が始まる事に成ります。なお「大乗仏典 中国日本編」を読む際に注意して置きたい事が一つだけあります。それは唯、『それ』にだけに集中して読むと言う事です。それ以外は一切捨て去ると言う事です。そうすれば物の見事に『それ』が浮かび上がって来ます。その時、先生は『それ』と掴んだと言えるのです。
(インド哲学)
古代インド詩人 「リグ・ベーダ賛歌」(岩波文庫)
古代インド哲人 「ウパニシャット全書1~9」(世界文庫刊行会)
(ヤージニャヴァルキヤ 「ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド」)
マヌ 「マヌの法典」(岩波文庫)
クリシュナ 「バガヴァッド・ギーター」(岩波文庫)
イーシュヴァラクリシュナ「サーンキヤ・カーリカー」(世界の名著1:中央公論社)
バタンジャリ 「ヨーガ・スートラ」(世界の名著1:中央公論社)
ヴァーツャーヤナ 「ニヤーヤ・バーシュヤ」(世界の名著1:中央公論社)
シャンカラ 「ブラフマ・スートラ註解」(世界の名著1:中央公論社)
シャンカラ 「ウパデーシャ・サーハスリー : 真実の自己の探求」(岩波文庫)
ラマーヌジャ 「ヴェーダの要義」(世界の名著1:中央公論社)
吟遊詩人 「バーガヴァッタ・プラーナ」(世界の名著1)
マーダヴァ 「全哲学要綱」(世界の名著1:中央公論社)
ラーマクリシュナ 「ラーマクリシュナの福音」(日本ヴェーダーンタ協会)
ダゴール 「哲学・思想論集」(タゴール著作集7:第三文明社)」
ダゴール 「ダゴール詩集:ギタンジャリ」(岩波文庫)
ガンジー 「ガンジー聖書」(岩波文庫)
ヴィヴェーカーナンダ 「最高の愛」(日本ヴェーダーンタ協会)
オーロビンド 「神の生命 : 霊的進化の哲学」(文化書房博文社)
ラマナ・マハルシ 「ラマナ・マハルシとの対話」(ナチュラルスピリット)
クリシュナムルティ 「英知の探求 : 人生問題の根源的知覚」(たま出版)
ラジネーシ 「存在の詩」(めるくまーる社)
※●●先生においては、「ウパニシャット全書」(世界文庫刊行会:特に「ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド」)は必ず読んで頂きたいと思います。この「ウパニシャッド全書」には全ての哲学宗教の『それ』の奥義が隠されています。この「ウパニシャッド全書」で全ての哲学宗教の奥にある『それ』を掴めば、世界中の全ての哲学宗教の奥にある『それ』をいとも簡単に掴む事が出来る様に成ります。この「ウパニシャット全書」(世界文庫刊行会)と次に述べる「南伝大蔵経)」(大蔵出版)が『それ』に関する双璧です。これに「聖書」を加えれば、世界中の全ての哲学宗教の『それ』がこれらの中に網羅される事と成ります。『それ』らは全ての一つなのですが、「ウパニシャット全書」(特に「ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド」)では、『それ』ら全ての中に宿る一つの『それ』を大げさな比喩は使わずに、直截に簡単に説明して呉れると思います。なお、ここでもう一度先生には念を押して置きたいと思いますが、これらの書を読む上で大切な事は、唯『それ』にだけ注目し、それ以外は一切捨て去ると言う事です。そうすれば、物の見事に『それ』が浮かび上がって来ます。その時、先生は『それ』を掴んだと言えるのです。先生が『それ』を掴んだ時から、先生の本当の哲学者(智慧を愛する者=本当の自分自身を愛する者)としての道が始まる事に成るのです。
(インド仏教)
ブッダ 「南伝大蔵経(1~64)」(大蔵出版)
ブッダ 「ブッダのことば(スッタニパータ)」(岩波文庫)
ブッダ 「真理のことば(ダンマパダ)・感興のことば(ウダーナヴァルガ)」 (岩波文庫)
ブッダ 「ブッダ最後の旅(大パリニッバーナ経)」(岩波文庫)
ブッダ 「金剛般若経」「善勇猛般若経」(大乗仏典1:中央公論社)ブッダ 「八千頌般若経」(大乗仏典2,3:中央公論社)
ブッダ 「法華経.」(大乗仏典4,5:中央公論社)
ブッダ 「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」(大乗仏典6)
ブッダ 「維摩経」「首楞厳三昧経」(大乗仏典7:中央公論社)
ブッダ 「十地経」(大乗仏典8:中央公論社)
ブッダ 「宝積部経典」(大乗仏典9:中央公論社)
ブッダ 「三昧王経」(大乗仏典10,11:中央公論社)
ブッダ 「如来蔵経」「不増不減経」「勝鬘経」「智光明荘厳経」(大乗仏典12).
ブッダ 「大日経」「.金剛頂経」「菩提心論」「摂無礙経」(大乗仏典 中国日本編8).
ブッダ 「ブッダ・チャリタ」(大乗仏典13:中央公論社)
馬鳴 「大乗起信論」(岩波文庫)
竜樹 「竜樹論集」(大乗仏典14:中央公論社)
竜樹 「大智度論」(大乗仏典 中国日本編1:中央公論社)
竜樹 「廻静論」(世界の名著2:中央公論社)
月称 「明らかなことば」(世界の名著2:中央公論社)
清弁 「知恵のともしび」(世界の名著2:中央公論社)
世親 「倶舎論」「釈論」「唯識二十論」(世界の名著2)
世親 「世親論集」(大乗仏典15:中央公論社)
グプタ 「論理のことば」(世界の名著2:中央公論社)
※大乗仏典については、「大乗仏典(1~15)」(中央公論社)に基づいて選択しています。なお小乗仏典については、「南伝大蔵経」(大蔵出版)が最適です。現代語訳でとても読み易いものです。64巻と巻数が多いので『それ』だけを摘み読みをすれば良いと思います。この際、「大乗仏典」(中央公論社)と「南伝大蔵経」(大蔵出版)を一揆読みして、インド仏教の核心を掴んで頂きたいと思います。そうすれば、全ての哲学宗教の核心を簡単に掴む事が出来る様に成ります。
(イスラム哲学)
マホメット 「コーラン」(岩波文庫) 570
ブハーリー 「真正集」(ハディース イスラーム伝承集成:中央公論社)870没
キンディー 「知性に関する書簡」(中世思想原典集成11:平凡社) 801
ファーラービー 「有徳都市の住民がもつ見解の諸原理」(中世思想原典集成11)870
イブン・スィーナー 「救済の書」(中世思想原典集成11) 980
ガザーリー 「イスラーム神学綱要」「光の壁龕」(中世思想原典集成11)
ガザーリー 「誤りから救うもの」(ちくま学芸文庫) 1058
イブン・バーッジャ 「知性と人間の結合」(中世思想原典集成11) 1095
イブン・トファイル 「ヤクザーンの子ハイイの物語」(中世思想原典集成11)1105
イブン・ルシュド 「矛盾の矛盾」(中世思想原典集成11) 1126
劉智 「天方性理」(イスラーム古典叢書:岩波書店) 1660
(その他の東洋哲学)
古代エジプト聖典 「エジプト死者の書」(アケト)
チベット仏教聖典 「チベット死者の書」(ちくま学芸文庫)
ゾロアスター経典 「アヴェスター」(ちくま学芸文庫)
【日本の哲学的名著】
(日本仏教)
聖徳太子 「勝鬘教義流」(大乗仏典 中国日本編16:中央公論社) 574
最澄 「願文」「顕戒論」(大乗仏典 中国日本編17) 767
円仁 「金剛頂大教王経疏」(大乗仏典 中国日本編17) 794
空海 「秘密曼荼羅十住心論」(大乗仏典 中国日本編18) 774
安然 「真言宗教時義」(大乗仏典 中国日本編19) 841
源信 「往生要集」(大乗仏典 中国日本編19) 942
栄西 「金剛頂宗菩提心論口決」(大乗仏典 中国日本編20)1141
明恵 「光明真言土沙勧信記」(大乗仏典 中国日本編20) 1173
法然 「選択本願念仏集」(大乗仏典 中国日本編21) 1133
一遍 「一遍上人語録.」(大乗仏典 中国日本編21) 1239
親鸞 「浄土文類聚鈔」「教行信証」(大乗仏典 中国日本編22)1173
道元 「正法眼蔵」(大乗仏典 中国日本編23) 1200
日蓮 「観心本尊抄」「立正安国論」(大乗仏典 中国日本編24)1222
無住 「沙石集」「聖財集」(大乗仏典 中国日本編25) 1227
虎関 「元亨釈書序」(大乗仏典 中国日本編25) 1278
一休 「狂雲集」(大乗仏典 中国日本編26) 1394
良寛 「良寛道人遺稿」(大乗仏典 中国日本編26) 1758
白隠 「息耕録開筵普説」(大乗仏典 中国日本編27) 1686
※日本仏教については、全て「大乗仏典 中国日本編15~27)に基づいています。
(日本哲学)
聖徳太子 「十七条憲法」(日本の名著2:中央公論社) 574
中江藤樹 「翁問答」(日本の名著11) 1608
熊沢蕃山 「集義和書」「集義外書」(日本の名著11) 1619
山鹿素行 「山鹿語類」「配所残筆」(日本の名著12) 1622
伊藤仁斎 「論語古義」「童子問」(日本の名著13) 1627
貝原益軒 「大和俗訓」「楽訓」「大疑録」(日本の名著14) 1630
山本常朝 「葉隠」(日本の名著17) 1659
荻生徂徠 「学則」「弁道」(日本の名著16) 1666
石田梅岩 「都鄙問答」(日本の名著18) 1685
富永沖基 「翁の文」「出定後語」(日本の名著18) 1715
三浦梅園 「玄語」「贅語」(日本の名著20) 1723
本居宣長 「宇比山踏」「直毘霊」(日本の名著21) 1730
山片蟠桃 「夢の代」(日本の名著23) 1748
海保青陵 「天王談」(日本の名著23) 1755
佐藤信淵 「鎔造化育論」(日本の名著24) 1769
平田実篤 「古道大意」「霊能真柱」(日本の名著24) 1776
鈴木雅之 「衝賢木」(日本の名著24) 1837
二宮尊徳 「二宮翁夜話」(日本の名著26) 1787
佐藤一斎 「言志四録」(日本の名著27) 1772
大塩中斎 「洗心洞剳記」(日本の名著27) 1793
藤田東吾 「弘道館記述義」(日本の名著29) 1774
会沢正志斎 「新論」(日本の名著29) 1782
西郷隆盛 「西郷南洲遺訓」「敬天愛人」(岩波文庫) 1827
吉田松陰 「講孟余話」(日本の名著31) 1830
福沢諭吉 「学問のすすめ」(日本の名著33) 1835
西周 「百一新論」(日本の名著34) 1829
中江兆民 「続一年有半」(日本の名著36) 1847
内村鑑三 「求安録」(日本の名著38) 1861
岡倉天心 「東洋のめざめ」(日本の名著39) 1862
徳富蘇峰 「吉田松陰」(日本の名著40) 1863
山路愛山 「現代日本教会史論」(日本の名著40) 1864
森鴎外 「智恵袋」(日本の名著41) 1862
夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」「則天去私」(日本の名著41) 1867
清沢満之 「精神主義」(日本の名著42) 1863
鈴木大拙 「日本的霊性」(日本の名著42) 1870
西田幾多郎 「善の研究」「叡智的世界」(日本の名著47) 1870
新渡戸 稲造 「武士道」(新渡戸稲造全集1:教文館) 1862
田辺 元 「実存と愛と実践」(田辺元全集9:筑摩書房) 1885
折口 信夫 「神道宗教篇」(折口信夫全集20:中央公論社) 1887
九鬼 周造 「人間と実存」(九鬼周造全集3:岩波書店) 1888
和辻 哲郎 「倫理学」(和辻哲郎全集10:岩波書店) 1889
三木 清 「語られざる哲学」(三木清全集18:岩波書店) 1897
清水 幾太郎 「心の法則」(清水幾太郎著作集:講談社) 1907
亀井 勝一郎 「日本の智慧」「西洋の智慧」(亀井勝一郎全集7:講談社)1907
森 有正 「思想の神秘主義的要素」(森有正全集9:筑摩書房) 1911
中村 元 「普遍思想」(中村元選集決定版別巻2:春秋社) 1912
井筒 俊彦 「神秘哲学」(井筒俊彦著作集1:中央公論社) 1914
梅原 猛 「人間の発見」(梅原猛著作集12 :小学館) 1925
河合 隼雄 「魂の知と信」(河合隼雄著作集11:岩波書店) 1928
※近代(西田幾多郎)までについては、「日本の名著全50巻」(中央公論社)に基づいて選択しています。それ以降の哲学書については、その哲学者の哲学全集が発行されている哲学者を対象に、「国立国会図書館蔵書検索システム」に基づき、『それ』の記載があるであろうと思われる哲学書を選択しています。
(神道)
神道聖典 「古事記」(岩波文庫)
神道聖典 「日本書紀」(岩波文庫)
神道聖典 「古語拾遺」(岩波文庫)
神道聖典 「祝詞」「宣命」(神道大系 古典註釈編6:神道大系編纂会)
以上、私の方で勝手に、『それ』の記載があるであろう哲学的名著を挙げさせて頂きましたが、しかしこれではやはり不十分です。
何故なら、これらの哲学的名著については、ほとんど「世界の名著(全81巻)」(中央公論社)と「日本の名著(全50巻)」(中央公論社)に依っているからです。
確かに、「世界の名著」と「日本の名著」においては、古今東西の代表的な哲学者の代表的な哲学的名著が掲載されていますが、しかし必ずしもその哲学者の『それ』の記載がある哲学的名著が掲載されている訳ではないからです。
やはり古今東西の代表的な哲学者の、『それ』の記載のある哲学的名著については、図書館に籠って、探し出して行かなければならないのです。
と言う事で、ここで先生にお願いがあるのです。
先生は●●大学の先生です。
先生は●●大学図書館を自由に使える立場にあります。
●●大学図書館には、日本で発行された全ての図書が揃っています。
ついては、●●大学図書館に籠って頂き、古今東西の代表的な哲学者の『それ』の記載がある著書を探し出して頂き、そしてそれらに基づいて、先生御自身で「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成して頂きたいのです。
今回私の方で勝手に『それ』の記載があるであろう哲学的名著を挙げさせて頂きましたが、これを作成する前までは、先生において、西洋の百人以上の代表的な哲学者と、東洋の百人以上の代表的な哲学者と、日本の百人以上の代表的な哲学者の、『それ』の記載がある哲学的名著を挙げて頂き、これらに基づいて、もしくはこれらを参考にして、●●大学文学部哲学科のそれぞれ研究室のそれぞれの先生方に、それぞれの専門分野の哲学者の哲学的名著の中から、『それ』に関する名文を拾い出して提供して頂き、それらの名文を先生が編集する事に依って、●●大学文学部哲学科における『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)を作成して頂こうと考えていたのですが、しかし幾らたくさんの『それ』の記載がある名著を挙げて、これらに基づいて、もしくはこれらを参考にして、それぞれの専門分野の哲学的名著の中から『それ』に関する名文を拾い出し提供して頂きたいとお願いしても、先生方には『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)の作成の真意が中々伝わらないのではないかと思う様に成ったのです。
そんな時、とても素敵な道具を発見したのです。
それがスキャナーと言う事に成ります。
スキャナーがあれば、先生御自身で簡単に「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成する事が出来る事を発見してしまったのです。
先生が自分自身で「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成し、この「哲学読本(智慧と愛の巻)」を、●●大学文学部哲学科のそれぞれの研究室のそれぞれの先生方に提示し、この「哲学読本(智慧と愛の巻)」の大規模な物を、●●大学文学部哲学科で作成したいのです、ついては、●●大学文学部哲学科のそれぞれの研究室のそれぞれの先生方におかれましては、それぞれの専門分野の哲学者の哲学的名著の中から『それ』に関する名文を拾い出して提供して頂きたいと言う風にお願いすれば、●●大学文学部哲学科のそれぞれの研究室のそれぞれの先生方は、先生が作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」を見て、●●大学文学部哲学科で作成する『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)の作成の真意を即座に理解し、それぞれの専門分野の哲学者の哲学的名著の中から、『それ』に関する名文をたくさん拾い出して、提供して呉れる事と成るのです。
たくさんの『それ』に関する名文が集まれば、それで●●大学文学部哲学科における『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)は完成する事に成ります。
●●大学文学部哲学科における『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)が完成すれば、●●大学文学部に哲学(智慧を愛する事)の大きな嵐が巻き起こる事と成り、そしてそこから日本に哲学(智慧を愛する事)の潮流が湧き起る事と成るのです。
そして先生がその中心的存在と成って行くのです。
と言う事で、先ずは先生において、「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成して頂きたいと思います。
なお、先生が作成する「哲学読本(智慧と愛の巻)」は、完成された「哲学読本(智慧と愛の巻)」ではありません。
先生が作成する「哲学読本(智慧と愛の巻)」は、●●大学文学部哲学科で作成する『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)のモデル的、見本的な物と成って行くものです。
ですから、西洋の哲学者百人以上、東洋の哲学者百人以上、日本の哲学者百人以上の哲学的名著に基づく「哲学読本(智慧と愛の巻)」である必要は無いのです。
と言う事で、先生が作成する「哲学読本(智慧と愛の巻)」は、古今東西の百人の哲学者の百冊の哲学的名著に基づく「哲学読本(智慧と愛の巻)」とする事するのです。
この程度の「哲学読本(智慧と愛の巻)」であれば、先生であれば簡単に作成する事が出来ると思います。
それでは、先生が作成する、古今東西の百人の哲学者の百冊の哲学的名著に基づく「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成手順について、簡単に説明して行きたいと思います。
先ずは、先生において、古今東西の百人の哲学者を決めます。
次に、それぞれの哲学者ごとに、『それ』の記載がある哲学的名著を一冊選定します。
次に、その哲学的名著の中から、『それ』に関する名文をスキャナーに読み込んで行きます。
次に、スキャナーで読み込んだ『それ』に関する名文を、一つの名文毎に、ワードのA4版一枚に張り付けて行きます。なお一つの名文の文章量は、起承転結がはっきりと分かる程度の文章量とします。
次に、それぞれの名文毎に、標題と出典を付記します。標題については、その名文の言葉から引用する事とします。
次に、それぞれの名文を哲学者毎に整理します。整理の仕方は、それぞれの哲学者毎に、一「それとは何か」、二「それに至るには、どの様にすれば良いのか」、三「それに至った時、人はどの様に成るのか」等々の視点から整理する事とします。
次に、目次、前書き、後書き、奥書を作成します。
次に、これらをオンデマンドで、印刷製本し、一冊の冊子に仕上げます。
これで先生が作成する「哲学読本(智慧と愛の巻)」は完成です。
どうです。とても簡単でしょう。
しかし、この「哲学読本(智慧と愛の巻)」が、完成する事に依って、この日本に哲学(智慧と愛する事)の大きな潮流が生まれる事に成るのです。
と言う事で、先ずは先生において、「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成して頂きたいと思います。
なお、上記の作成手順だけでは、具体的な作成要領が今一つ分からないと思いますので、作成要領についてもう少し具体的に説明して行きたいと思います。
今回、先生が「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成するに当たって、重要なポイントが二つほどあります。
その一つが「古今東西の百人の哲学者」の選定と言う事であり、もう一つが『それ』の概念の明確化と言う事に成ります。
先ず、「古今東西の百人の哲学者」の選定と言う事ですが、今回先生が作成する「哲学読本(智慧と愛の巻)」は、●●大学文学部学科で作成する『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)を作成する為、●●大学文学部哲学科のそれぞれの研究室のそれぞれの先生方に、それぞれの専門分野の哲学者の哲学的名著の中から、『それ』に関する名文を拾い出し提供して頂く為に、モデル的、見本的な物として作成するものです。
ですので、「古今東西の百人の哲学者」についても、●●大学文学部哲学科のそれぞれの研究室、すなわち●●研究室、●●研究室、●●学研究室、●●研究室、●●研究室、研究室●●、●●研究室のそれぞれの先生方が納得する様な「古今東西の百人の哲学者」でなくてはならないと言う事に成るのです。
古今と言う事ですので、古代、中世、近世・近代、現代のバランスを考えなければいけません。
東西と言う事ですので、西洋、東洋、日本のバランスを考えなければいけません。
また、東洋については、中国、インド、イスラムのバランスも考えなければいけません。
また、哲学と宗教のバランスも考えなければいけません。
それから、●●大学文学部哲学科で作成する「哲学読本(智慧と愛の巻)」(哲学的名著版)は、最終的には日本国民の為に作成する物ですので、多くの日本の人々が納得する様な「古今東西の百人の哲学者」でもなくてはならないのです。
その様な「古今東西の百人の哲学者」に基づいて作成された「哲学読本(智慧と愛の巻)」であれば、その「哲学読本(智慧と愛の巻)」は、●●大学文学部哲学科のそれぞれの研究室のそれぞれの先生方から好意を持って迎え入れられる事と成り、●●大学文学哲学科で作成する『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)の為に、それぞれの専門分野の哲学者の哲学的名著の中から、『それ』に関する名文をたくさん拾い出して、提供して頂ける事と成るのです。
(なお、「古今東西の百人の哲学者」の中に、私が「哲学国家日本の実現の為に」で取り挙げた、ソロモン、ダビデ、イエス、パウロ、ブッダ、孔子、王陽明、老子、ソクラテス(プラトン)、エピクロス、セネカ、クリシュナ、デカルトも是非入れて頂きたいと思います。それから、イザヤ、ヨブ、ペテロ、ヨハネ、アリストテレス、フィロン、エピクテトス、プルタルコス、マルクス・アウレリウス、プロチノス、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、エックハルト、ダンテ、クザーヌス、トマス・ア・ケンビス、ルター、パスカル、スピノザ、ルソー、ロック、カント、ゲーテ、ヘーゲル、ショーペンハウワー、エマーソン、キルケゴール、トルストイ、ヒルティ,ニーチェ、ベルクソン、ユング、フーバー、ヤスパース、バルト、マルセル、ハイデッガー、ゾロアスター、マホメット、ガザーリー、ヤージニャヴァルキヤ、シャンカラ、ゴダール、ガンジー、クリシュナムルティ、ラジネーシ、竜樹、世親、馬鳴、菩提達磨、智顗、善導、無門、曾子、子思、孟子、荘子、墨子、朱子、劉安、洪自誠、聖徳太子、空海、親鸞、道元、伊藤仁斎、荻生徂徠、石田梅岩、本居宣長、佐藤一斎、大塩中斎、西郷隆盛、内村鑑三、鈴木大拙、西田幾多郎、田辺元、九鬼周造、和辻哲郎、中村元等々が、百人の中に入って行く事に成るのでしょうか?先生は、たくさんの哲学書を読んでいると思いますので、きっと●●大学文学部哲学科のそれぞれの研究室のそれぞれの先生方が納得する様な、素晴らしい百人の哲学者を選択する事が出来ると思います。)
次に、『それ』の概念の明確化と言う事ですが、先生が『それ』の概念を明確に、本当に本当の自分自身の物にしていれば、先生が作成する「哲学読本(智慧と愛の巻)」は、●●大学文学部哲学科のそれぞれの研究室のそれぞれの先生方から熱狂的に迎え入れられ、そして多くの日本の人々からも熱狂的に迎え入れられる事と成るのです。
何故なら先生が作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」には、先生の取っての本当の自分自身が溢れんばかりに存在するだけでなく、●●大学文学部哲学科の先生方一人一人に取っての本当の自分自身も、そして日本国民全ての人の一人一人に取っての本当の自分自身も溢れんばかりの存在する事に成るからです。
●●大学文学部哲学科の先生方も日本国民の全ての人も、先生が作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」に本当の自分自身を見出し、そして喜びに満たされる事に成るのです、
世界人類全ての人の心から願いは、本当の自分自身に成る事です。
●●大学文学部哲学科の先生方も日本国民の全ての人も、先生の作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」に依って、本当の自分自身を見出し、そして本当の自分自身に成ろうと決意する事と成るのです。
本当の自分自身を知り、本当の自分自身を愛し、そして本当の自分自身に成る。
これが究極の哲学です。
●●大学文学部哲学科で作成する『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)は、その為の啓蒙の書と成るのです。
ですから先ずは先生が、『それ』の概念を明確に、本当に本当の自分自身の物にしなければ成らないのです。
先生が『それ』の概念を明確に、本当に本当の自分自身の物にする方法、それが「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成と言う事に成るのです。
先生が先生御自身で「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成して行けば、先生は『それ』の概念を明確に、本当に本当の自分自身の物にして行く事が出来る様に成ります。
最初の内は、『それ』の概念は朧げかも知れませんが、「哲学読本(智慧と愛の巻)」を完成する頃には、『それ』の概念が明確に、本当に本当の自分自身の物となり、そしてもう『それ』においてもう迷わなく成ります。
先生が『それ』において迷わなく成った時、●●大学文学部哲学科における『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)作成が、愈々、本格的に胎動する事と成るのです。
なお、次の事を押さえて置くと、その哲学者の哲学的名著から『それ』を拾い出す事が容易に成ると思います。
一 その哲学者は、『それ』を何と呼んだか。
二 その哲学者は、『それ』に至った時の状態をどの様に表現したか。
三 その哲学者は、『それ』に至る為には何をすれば良いと説いたか。
四 その哲学者は、『それ』に至った人の事、もしくは『それ』に至ろうと努力している人の事を何と呼んだか。
五 その哲学者は、『それ』に至った人の人格をどの様に表現したか。
これらの事を念頭に置いておくと、その哲学者の哲学的名著から『それ』を拾い出す事が容易に成ると思います。
先ずは一番目の、その哲学者は『それ』を何と呼んだかと言う事ですが、古今東西の哲学者は、『それ』の事を様々に呼んでいます。
その為、私たちは惑わされてしまいますが、『それ』は『本当の自分自身』以外の何ものでも無いのです。
先生がその事を、心底から理解した時、先生は『それ』において迷わなく成ります。
なお、「哲学国家日本の実現の為に」では、十三人の哲学者の『それ』を集めていますが、それぞれの哲学者は、『それ』の事を次の様に呼んでいます。
ソロモンは、『それ』の事を主とも神とも、また智慧とも呼んでいます。
ダビデは、『それ』の事を主に主と呼んでいます。また時には神とも呼んでいます。
イエスは、『それ』の事を主とも神とも父とも聖霊とも呼んでいます。
パウロは、『それ』の事を主とも神ともキリストとも聖霊とも呼んでいます。
ブッダは、『それ』の事を般若とも仏とも呼んでいます。また仏典に依ってその呼び名が様々に変わって来ます。
孔子は、『それ』の事を仁と呼んでいます。また時には天とも道とも呼んでいます。
王陽明は、『それ』の事を良知と呼んでいます。また時には天とも道とも神とも一とも聖霊とも呼んでいます。
老子は、『それ』の事を道と呼んでいます。また時には天とも呼んでいます。
ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカ、デカルトは、『それ』の事を知恵と呼んでいます。また時には神とも呼んでいます。
クリシュナは、『それ』の事を様々に呼んでいますが、基本的はアートマン(本当の自分自身)とブラフマンです。
これら十三人の哲学者の『それ』ら全てが、先生に取っての本当の自分自身であると言う事を、先生が心底から理解した時、先生は『それ』の事を完全に理解したと言えるのです。
なおこれら十三人の哲学者の『それ』らの内、最も基本的な『それ』は、ダビデの『主』と言う事に成ります。
何故ならこのダビデの主から、キリスト教が生まれ、そしてイスラム教が生まれて行ったのですから。
このダビデの主については、「哲学国家日本の実現の為に」において、たくさん取り上げています。
先ずはこのダビデの主において、本当の自分自身(『それ』)を学んで頂きたいと思います。
その学び方ですが、それはダビデの言葉の中の主と言う言葉を、本当の自分自身と言う言葉に置き換えて、ダビデの言葉を読んで行く事とするのです。
そうすれば、ダビデの主と言う存在が、本当の自分自身で在ると言う事が分かる様に成って来ます。
その様にして、ダビデの全ての言葉の中の主と言う存在が、本当の自分自身であると言う事が分かった時、先生はダビデの『それ』を理解したと言う事に成るのです。
ダビデの『それ』を理解したら、次には、残りの十二人の哲学者についても、同じ要領で『それ』を学んで頂きたいと思います。
先生が十三人の哲学者の『それ』が、本当の自分自身以外の何ものでも無いと言う事を理解した時、先生は『それ』の概念を明確に、本当に本当の自分自身の物にしたと言う事に成るのです。
先生が『それ』の概念を明確に本当に、本当の自分自身の物にすれば、「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成は、楽しくて、楽しくて仕方が無いと言う事に成って来ます。
何故なら、その一つ一つの作業が、本当の自分自身を集める事に他ならないからです。
先生が「哲学読本(智慧と愛の巻)」を完成させた時には、そこには溢れんばかりの本当の自分自身が存在する事と成るのです。
先生はその「哲学読本(智慧と愛の巻)」を読み返す毎に、悦びに満たされる事に成ります。
何故なら、そこには正真正銘の本当の自分自身が溢れんばかりに存在する事に成るのですから。
そしてその「哲学読本(智慧と愛の巻)」は、●●大学文学部哲学科の先生方にも熱狂的に迎え入れられる事と成るのです。
何故なら●●大学文学部哲学科の先生方も、そこに溢れんばかりの本当の自分自身を見出し、そしてその本当の自分自身を更に追求しようと決意する事に成るからです。
先生が作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」は、●●大学文学部哲学科の先生方の『それ』に火を灯す事に成るのです。
ここにおいて、先生が●●大学文学部哲学科の先生方に次の様にお願いする事と成るのです。
この「哲学読本(智慧と愛の巻)」の大規模な物となる『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)を●●大学文学部哲学科において作成したいと考えています。
ついては、それぞれの先生方の専門分野の哲学者の哲学的名著から『それ』に関する名文を拾い出して、提供して下さい。もしくは、私が「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成した様に、先生方においても「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成し、それを提供して下さい。これらに基づいて、私の方で、●●大学文学部哲学科における『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)をします。と言う風にお願いする事とするのです。
この様にして、●●大学文学部哲学科における『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)を作成して行けば、●●大学文学部哲学科に哲学(智慧と愛する事)の嵐が巻き起こる事と成り、そしてこの日本にも大きな哲学(智慧を愛する事)の潮流が生まれる事と成るのです。
次に、二番目の、その哲学者は『それ』に至った時の状態をどの様に表現したかと言う事ですが、
人は『それ』に至った時、無心、無垢、無我、空、中、無と成り、そして自由と悦びと平安と至福に満たされ、極楽、涅槃、ニルヴァーナ、天国、神の国、仏の国、恩寵の国へと至り、そして最終的には智慧と愛の王国(すなわち本当の自分自身の王国)へと至る事に成るのです。
比喩的な言葉の為、惑わされてしまいますが、これらはカントが『純粋理性批判』の、Ⅱ「先験的法方法論」の、第二章「純粋理性の規準」の、第二節「純粋理性の究極的目的の規定根拠としての最高善の理想について」で言っている事と全く同じ事なのです。
「霊は生かすが、文字は殺す」
特にそれに至った時の表現については、その比喩を読み解く事が大切に成って来ます。
人はそれに至った時、自由と悦びと平安と至福と、そして智慧と愛に満ち溢れた気分と成り、そして自分が本当の自分自身で在る事に何にも代え難い至福を感じる事に成るのです。
「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです」(セネカ)
「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」(孔子)
今回●●大学文学部哲学科で作成する『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)では、それらの比喩を読み解く鍵を示す事にも成るのです。
次に、三番目の、その哲学者は『それ』に至る為には何をすれば良いと説いたかと言う事ですが、
人が『それ』に至る為には、智慧を愛する事(哲学)以外にその方法は無いのです。
祈り、瞑想、座禅、念仏等々、古今東西の哲学者(智慧を愛する者)、特に宗教的な哲学者が様々な方法を説いていますが、それらは全て、智慧を愛する為の方法以外の何ものでもないのです。
何故なら『それ』は無心無垢無我の境地にしか存在しないので、『それ』を愛する為には、先ずはその無心無垢無我の境地に入らなければ成らないからです。
その無心無垢無我の境地に入る為の方法が、祈り、瞑想、座禅、念仏等々だったりするのですが、一般的な哲学の方法、すなわち読書、思索、作文、対話、そして瞑想も、無心無垢無我の境地に入り、それを愛する為の立派な方法なのです。
と言うよりも、この哲学の方法こそが、それを愛する為の王道なのです。
ですから、哲学の事をphilosophia、智慧を愛する事と言うのです。
今回●●大学文学部哲学科で作成する『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)は、その為の啓蒙の書にも成って行く事と成るのです。
次に、四番目の、その哲学者は『それ』に至った人の事、もしくは『それ』に至ろうと努力している人の事を何と呼んでいるかと言う事ですが、
『それ』に至った人の事を、日本では一般的には聖人と呼び、『それ』に至ろうと努力している人の事を君子と呼んでいます。
『それ』に至った人の事については、洋の東西と問わず、一般的に聖人と呼ばれていますが、『それ』に至ろうと努力している人の事については、地域、宗教等に依って、様々に呼ばれています。
『それ』に至ろうと努力している人の呼び名については、賢人が最も一般的ですが、クリスチャン、ヨーギン、バラモン、仏教徒、沙弥、修験者、修行僧等々も、その意味では、『それ』に至ろうと努力している人の呼び名と言う事に成ります。
なお、『それ』に至ろうと努力している人の呼び名について、世間一般的には通用していませんが、普遍的な呼び名があります。
それが哲学者、すなわち智慧を愛する者と言う事に成ります。
ここで言う哲学者とは文献哲学者の事ではありません。
あくまでも、『それ』を愛し、『それ』に至ろうと努力している人の事です。
すなわち、本当の自分自身を知り、本当の自分自身を愛し、そしてその本当の自分自身に成る為に、古今東西の哲学者の『それ』を研究し、そして『それ』を実践しようとしている人の事です。
今回の哲学ムーブメントの中では、その様な人をこそ哲学者、すなわち智慧を愛する者と呼ぶ事とするのです。
今回●●大学文学部哲学科で作成する『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)は、正にそれら哲学者(智慧を愛する者)たちの為の参考書と成って行く事と成るのです。
次に、五番目の、その哲学者は『それ』に至った人の人格をどの様に表現しているかと言う事ですが、
『それ』に至った人は、自由と悦びと平安と至福と智慧と愛に満ち、そして勇気、忍耐、節制、寛容、誠実等々の様々な徳を身に付ける事と成るのです。
すなわち聖人に成るのです。
そして哲学者、すなわち智慧を愛する者は、この聖人に成る事をこそ一生の目標としなければならないのです。
生まれつき聖人と言う者はいません。
また一朝一夕に聖人に成る事も出来ないのです。
一生をかけて始めて聖人に成る事が出来るのです。
「子曰く、吾れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(した)がう。
七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。」
これが哲学者(智慧を愛する者)の歩む道と言う事に成ります。
孔子も七十歳に成って始めて聖人の域に達したのです。
しかし聖人は、雲の上の人ではありません。
全ての人が限りなく、その聖人に近付く事が出来るのです。
そして全ての人は、その聖人に成る為に努力をしなければ成らないのです。
何故ならその聖人とは、本当の自分自身以外の何ものでもないからです。
本当の自分自身を知り、本当の自分自身を愛し、そしてその本当の自分自身に成る。
これが全ての人に課せられた義務なのです。
本当の自分自身を知り、その本当の自分自身を愛すると言う所までは、多くの人が達する事が出来ます。
しかしその次の、本当の自分自身に成ると言う事が限りなく難しいのですが、努力次第では、限りなくその本当の自分自身に近付く事が出来るのです。
今回●●大学文学部哲学科で作成する『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)においては、哲学者(智慧を愛する者)にこれらの道筋を示す事にも成るのです。
以上の様な視点を持って、「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成して行けば、とても素晴らしい「哲学読本(智慧と愛の巻)」が出来ると思います。
先生が作成したその「哲学読本(智慧と愛の巻)」について、先生御自身が得心した時、愈々、●●大学文学部哲学科における『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)の作成が胎動する事と成るのです。
先ずは、「哲学読本(智慧と愛の巻)」をオンデマンドで、三冊印刷製本する事とします。
そして、「●●センター」のセンター長と「哲学科」の学科長と「文学部」の学部長に、冊子「哲学読本(智慧と愛の巻)」を添付して、「●●大学文学部哲学科における『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)」の作成計画書を提出して、その承認を受ける事とします。
何故、文学部長の承認まで受けるかと言うと、この「●●大学文学哲学科における『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)」を基礎として、最終的には、●●大学文学部において『哲学読本大全』を作成して行く事に成るからです。
なお先生が作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」を最終的に確認すると、目次は次の様に成ると思います。
はじめに
(西洋編)
第一章 ○○の智恵(「著書名」より)
第一節 『それ』とは何か
第二節 『それ』に至るには、何を為せば良いか
第三節 『それ』に至った時、人はどの様に成るか
第二章 □□の智恵(「著書名」より)
第一節 『それ』とは何か
第二節 『それ』に至るには、何を為せば良いか
第三節 『それ』に至った時、人はどの様に成るか
・
・
(中東・イスラム編)
(インド編)
(中国編)
(日本編)
・
・
第百章 △△の智恵(「哲学著書名」より)
第一節 『それ』とは何か
第二節 『それ』に至るには、何を為せば良いか
第三節 『それ』に至った時、人はどの様に成るか
あとがき(解説)
「編」については、「西洋編」、「中東・イスラム編」、「インド編」、「中国編」、「日本編」に分けると良いと思います。
「章」については、編に関わらず、一章から百章までの通しの方が良いと思います。その方が、引用がし易く成ると思います。
「節」については、百章全て、同じ節にした方が良いと思います。その様にすれば、百人の哲学者の智慧を比較する事が非常に容易に成ります。すなわち、百人の哲学者の智慧が何ら違いの無い事を、簡単に一覧する事が出来る様に成ります。
以上が、編、章、節の分け方と言う事に成ります。
次に、「はじめに」と「あとがき」ですが、どちらも東京大学文学部思想文化学科のそれぞれの研究室のそれぞれの先生方を対象に書く事に成ります。
「はじめに」の内容は、次の様な内容に成ると思います。
私は●●大学文学部哲学科において、『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)を作成したいと考えています。
『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)とは、古今東西の偉大な三百人以上(西洋百人以上、東洋百人以上、日本百人以上)の哲学者の哲学的名著の中から、『それ』に関する名文を集めて、体系的に整理した読本と言う事に成ります。
なお、ここで言う『それ』とは、偉大な哲学者の中心にある中心概念の事です。
すなわち、『それ』から全てが生まれ、全てが『それ』へと収束して行く所の『それ』の事です。
『それ』については、それぞれの哲学者が様々な言葉を使用して様々に表現しています。
その為、『それ』については、これまでも様々な議論が成されて来ている所です。
今回、●●大学文学部哲学科で『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)を作成する目的は、●●大学文学部哲学科の全ての先生の御協力を得て、古今東西の偉大な哲学者の哲学的名著の中から『それ』に関する名文を拾い出して頂き、それに基づいて『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)を作成し、この『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)を基本テキストとして、『それ』について徹底的に議論して頂く為に作成するものです。
もしこれらの議論の中から、『それ』に関する明確な概念が生まれて来れば、この日本にも大きな哲学(智慧を愛する事)の力が生まれて来る事に成ると思います。
その様な視点も念頭に置きながら、作成したいと考えています。
なお、『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)については、「●●大学文学部哲学科『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)作成委員会」を設置して作成して行きたいと考えています。
また、『哲学読本(智慧と愛の巻)』が完成した暁には、「●●大学文学部哲学科『哲学広場』運営委員会」を設置して、この哲学広場の中で『それ』について、様々な哲学対話(シンポジウムを含む)を実施する事とし、その哲学対話の結果を哲学対話要録として纏め、公表したいとも考えています。
また、「●●大学文学部哲学科『哲学エッセイ集(智慧と愛の巻)』作成委員会」を設置して、先生方に『それ』に関するエッセイを書いて頂き、それらを纏めて『哲学エッセイ集(智慧と愛の巻)』も作成したいとも考えています。
そして最終的には、●●大学出版会の御協力を得て、『哲学読本(智慧と愛の巻)』と『哲学エッセイ集(智慧と愛の巻)』を出版すると共に、●●大学の『哲学広場』を広く国民に開放し、『それ』に関する議論を国民的議論にまでを高めて行きたいと考えています。
もし『それ』に関して国民的コンセンサスが生まれて来れば、この日本にも大きな哲学(智慧を愛する事)の力が湧き起こって来る事に成ると思います。
その為にも、哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)が必要と成って来るのです。
つきましては、先生方におきましては、それぞれの専門分野の哲学者の哲学的名著の中から、『それ』に関する名文をたくさん拾い出し、そして提供して頂きたいと思います。と言う様な内容に成ると思います。
なお、ここで委員会の話が出て来ましたが、
『哲学読本(智慧と愛の巻)』は、「●●大学文学部哲学科『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)作成委員会」で作成される事と成り、
『哲学広場』(哲学的対話室の運営及び哲学対話要録の作成等)は、「●●大学文学部哲学科『哲学広場』運営委員会」で運営される事と成り、
『哲学エッセイ集(智慧と愛の巻)』は、「●●大学文学部哲学科『哲学エッセイ集(智慧と愛の巻)』作成委員会」で作成される事と成ります。
その方が先生の負担が少なく成ると思います。
しかしその中心的役割を果たすのは先生でなくてはならないのです。
先生がその中心的役割を果たす事に依って、先生は古今東西の偉大な哲学者たちの『それ』だけでなく、●●大学文学部哲学科の先生方の『それ』をもしっかりと掴む事に成り、先生はもう『それ』において迷う余地が無く成るのです。
先生はこのプロジェクトに従事する事に依り、『それ』において立ち、そして『それ』において惑わなく成るのです。
「(子曰く、吾れ)三十にして立つ。四十にして惑わず。」
先生は三十代で、孔子の三十代の心境に立ち、そしてそこから一挙に孔子の四十代の心境にまで突入する事に成るのです。
なお、「●●大学文学部哲学科『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)作成委員会」と、「●●大学文学部哲学科『哲学広場』運営委員会」と、「●●大学文学部哲学科『哲学エッセイ集(智慧と愛の巻)』作成委員会」は、最終的には哲学科だけでなく、文学部も、また●●学部その他の学部も吸収して『哲学広場●●大学』に発展して行く事に成ります。
この『哲学広場●●大学』では、『それ』に関してだけでは無く、様々な哲学的課題について対話を深め、それらを実践して行く事に成ります。
更に、この『哲学広場●●大学』をモデルとして、日本全国の大学、高校等に『哲学広場』が設置される事と成り、それらのネットワークの中心的な機関として『哲学広場日本』が設置される事と成り、これらの哲学広場の全国的展開に依って、日本が哲学的に成熟した国家へと成って行く事に成るのですが、その詳細については、『哲学国家日本の実現の為に』の第十七章「哲学広場と哲学読本大全について」を読んで頂きたいと思います。
なお先生が従事するのは、●●大学文学部哲学科における『哲学読本(智慧と愛の巻)』の作成と『哲学広場』の運営と『哲学エッセイ集(智慧と愛の巻)』の作成までと言う事に成ります。
具体的は、●●大学出版会において『哲学読本(智慧と愛の巻)』と『哲学エッセイ集(智慧と愛の巻)』を出版するまでと言う事に成ります。
大体、五年間位と言う事に成ります。
この五年間は、「●●大学文学部哲学科の『それ』に関する研究プロジェクト」に従事して頂きたいと考えています。
その後は、この五年間で研究した成果を基に、更に『それ』の研究と実践に励んで頂きたいと思います。
そうすれば必ず孔子と同じ道を歩む事が出来る様に成ります。
「子曰く、吾れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(した)がう。
七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。」
先生は今回のプロジェクトに従事する事により、必ず「不惑」まで達する事は出来ます。
後は何歳で天命を知る事が出来る様に成るかだけです。
先生が天命を知った時から、先生はこの世において動く事に成るのです。
是非とも孔子を超えて頂きたいと思います・・・
先生が聖人君子の道を歩む為にも、またこの日本が哲学国家として成熟して行く為にも、先ずは先生が「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成しなければならないのです。
なお、先程は古今東西の百人の哲学者の百冊の哲学的名著に基づく「哲学読本(智慧と愛の巻)」と言いましたが、やはり百人百冊では相当に時間がかかってしまうと思います。
と言う事で、先生が最終的に作成する「哲学読本(智慧と愛の巻)」は、西洋の哲学者十人の哲学的名著十冊と、東洋の哲学者十人の哲学的名著十冊と、日本の哲学者十人の哲学的名著十冊に基づく「哲学読本(智慧と愛の巻)」と言う事にしたいと思います。
三十人三十冊であれば、それぞれの哲学者とそれぞれの名著を十分に玩味した上で、「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成する事が出来ると思います。
今回先生が作成する「哲学読本(智慧と愛の巻)」は、完成された「哲学読本(智慧と愛の巻)」では無く、●●大学文学部哲学科の先生方がそれぞれの専門分野の哲学者の哲学的名著から『それ』に関する名文を拾い出し、そして提供して頂く為に、モデル的に見本的に作成するものですので、三十人三十冊の内容を十分に理解した上で作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」の方が良いと思います。
なお、あとがきについては、先生が「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成して行く上で知った、それぞれの哲学者の智慧について、それぞれの哲学者毎に数頁程度を使用して、先生の研究成果を述べて行けば良いと思います。
そして最終的な結論としては、次の様に成ると思います。
私は実の所、『それ』について深く研究した事はありませんでした。
『それ』については、それぞれの哲学者ごとに『それ』があるのだろうと言う位に思っていました。
しかし今回、自分自身で「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成する事に依って、『それ』が、智慧(哲学とはphilosophia、智慧を愛すると言う時の智恵)の事であり、そして究極的には『本当の自分自身』以外の何ものでも無いと言う事を心から知る様に成りました。
しかし現在の所、それは全く、私の主観的観念でしかありません。
しかしもし、日本の多くの人々がそれについては同じ様な考えを持つ様に成れば、それはもう私の主観的観念では無く、日本における客観的観念と成り、その客観的観念に依って、この日本にも大きな哲学の力が生まれる事と成るのです。
今回●●大学文学部哲学科で作成する『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)には、その様な大きな可能性が秘められているのです。
つきましては、『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)の作成にどうか御協力下さる様お願いします。
なお、今回私が自分自身で「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成した様に、先生方においても先生方御自身「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成する事とお勧めします。
そうすれば、『それ』とは智慧の事であり、究極的には『本当の自分自身』以外の何ものでも無い事が、痛い様に分かる様に成ると思います。
もしその様にして、多くの先生方がその事を理解して行けば、●●大学文学部哲学科に大きな哲学の嵐が巻き起こる事と成り、そしてそこからこの日本にも大きな哲学の潮流が起こる事と成るのです。
その潮流の本質を一言で言えば、『日本における哲学の解放』と言う事に成ります。
多くの人々が、その本当の自分自身に気付き、その本当の自分自身を知り、その本当の自分自身を愛し、そしてその本当の自分自身に成るように努力する事と成るのです。
今回●●大学文学部哲学科で作成する『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)にはその様な秘めた力が隠されているのです。
その為にも先生方がそれぞれの名文に、先生方お一人お一人の本当の自分自身を重ね合わせた上で、それぞれの名文を提出して頂く必要があるのです。
そうすれば、その名文を見た人々も、その名文に本当の自分自身を重ね合わせる事が出来る事に成るのです。
その様にして、その本当の自分自身がこの日本中に広がって行く事に成り、その結果、この日本も嘗てのアテネの様に哲学的に成熟した国家と成って行くのです、と言った様な内容に成って行くと思います。
さて以上で、『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)が完成しましたが、もう一度その内容を簡単に確認して置きたいと思います。
先ずは「はじめに」ですが、これは●●大学文学部哲学科の先生方に、それぞれの専門分野の哲学者の哲学的名著から『それ』に関する名文をたくさん拾い出し提供して頂く為に作成する事になるので、『それ』とは智慧の事であり、究極的は本当の自分自身であると言う事については明言にせず、『それ』については、古今東西、様々な哲学者が様々に述べて来てます、ついては、●●大学文学部哲学科の先生方の協力を得て、『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)を作成し、『それ』に関する議論を深めて行きたいと思いますので、御協力お願いします。と言う位に簡単な内容で良いと思います。
その方が、それぞれの先生が自分自身で『それ』を研究する事に成ると思います。
それぞれの先生が哲学者、すなわち智慧を愛する者であれば、『それ』を徹底的に研究して行けば、『それ』が智慧であり、更に突き進めて考えて行けば、『それ』が『本当の自分自身』以外の何ものでも無いと言う事がはっきりと分かる様に為るのです。
ですので、「はじめに」においては、それぞれの先生を暗にそこに導いて行く様な内容であれば最高の内容と言う事に成ります。
「あとがき」においては、先生の研究成果を思う存分書いて良いて頂ければ良いと思います。
先生の「あとがき」に依って、多くの先生がそこへ導かれて行く様な内容であれば、最高の「あとがき」と言う事に成ります。
なお、本文については、これまであまり具体的な内容を述べていませんので、ここで少し具体的に述べて行きたいと思います。
本文は「標題」、「本文」、「出典」で構成される事と成ります。
具体的なイメージは次の通りです。
『標題○○○○』
著者○○○「原典著書名○○○」より
本文
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○『○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○』○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
出典 「メノイケウス宛の手紙」
(岩波文庫:「エピクロス」)65頁
(岩波書店:1996年7月8日 第27刷発行)
出典 「パイドン」(33)
(「世界の名著6:「プラトン1」)352~353頁
(中央公論社:昭和41年4月20日 初刷発行)
出典 「道徳書簡集(倫理の手紙集)」(第53)
(セネカ:「道徳書簡集(倫理の手紙集)」)176~177頁
(東海大学出版会:1994年5月25日 第2刷発行)
出典 「哲学の原理」(著者から仏訳者にあてた手紙――序文にかえて――)
(「世界の名著22:「デカルト」)315~317頁
(中央公論社:昭和42年1月20日初刷発行)
出典 旧約聖書「箴言」(8)
(聖書:「聖書新共同訳」)旧1000~1001頁
(日本聖書協会:1992年刷発行)
出典 「論語」(巻第六、顔淵第十二)
(岩波文庫:「論語」)156~157頁
(岩波書店:1993年11月5日第50刷発行)
出典 「老子」(二十一章)
(講談社文庫:「老子」)47~48頁
(講談社:1993年8月30日第4刷発行)
出典 「伝習録」(巻中 道通に啓問する書)
(新釈漢文大系13:「伝習録」)278~279頁
(明治書院:平成8年6月30日33刷発行)
出典 「真理のことば(ダンマパダ)」(第十二章)
(岩波文庫:「ブッダの真理のことば・感興のことば」)32~33頁
(岩波書店:1993年12月5日第36刷発行)
出典 「バガヴァッド・ギーター」(第十八章)
(岩波文庫:「バガヴァッド・ギーター」)138~139頁
(岩波書店:1995年4月5日 第5刷発行)
出典 旧約聖書「詩編」(18)
(聖書:「聖書新共同訳」)旧848頁
(日本聖書協会:1992年刷発行)
出典 新約聖書「ヨハネによる福音書」(1)
(聖書:「聖書新共同訳」)新163頁
(日本聖書協会:1992年刷発行)
出典 新約聖書「ヨハネの手紙一」(4)
(聖書:「聖書新共同訳」)新445頁
(日本聖書協会:1992年刷発行)
出典 新約聖書「ローマ信徒への手紙」(7)
(聖書:「聖書新共同訳」)新282~283頁
(日本聖書協会:1992年刷発行)
標題については、本文の中の言葉を使用して作成する事します。
そして更にその標題の下に、その哲学者名とその著書名を付記する事とします。
例示すると次の様に成ります。
『哲学(知恵の愛求)の勧め』
エピクロス「メノイケウス宛の手紙」より
『真の徳は智恵を伴う』
プラトン「パイドン」より
『哲学の力は信じられないほど強力である』
セネカ「道徳書簡集」より
『哲学とは最高の善(智恵)を求める事である』
デカルト「哲学の原理」より
『智恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか』
ソロモン「旧約聖書 箴言」より
『克己復禮を仁と為す』
孔子「論語」より
『道の物たる惟れ恍、惟れ惚、惚たり、恍たり』
老子「老子」より
『聖人の気象は聖人に在らずして我に在る』
王陽明「伝習録」より
『自己こそ自己の主である』
ブッダ「真理のことば(ダンマパダ)」より
『アートマンとブラフマン』
クリシュナ「バガヴァッド・ギーター」より
『主は無垢な人には無垢に、清い人には清くふるまう』
ダビデ「旧約聖書 詩編」より
『言は神である』
イエス「新約聖書 ヨハネによる福音書」より
『神は愛である』
ヨハネ「新約聖書 ヨハネの手紙」より
『肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和である』
パウロ「新約聖書 ローマ信徒への手紙」より
本文については、スキャナーした頁をそのまま複写した上で、本文の個所を『』で示す事とします。
なお、本文については、出来る限り一頁の範囲内に収める事としますが、止むを得ない場合は、二頁に渡っても良い事とします。
出典については、既出の様に成ります。
一行目には、「」の中に著書名を、()の中に章節名を書く事します
二行目には、()の中に文庫名もしくはシリーズ名と:の後に発行図書名を、欄外に頁数を書く事とします。
三行目には、()の中に出版社名と:の後には発行年月日と発行版数を書く事とします。
以上が「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成要領と言う事に成りますが、中々具体的なイメージが湧かないと思いますので、私の方で実際に作ってみました。
それが別添と言う事に成ります。
この「哲学読本(智慧と愛の巻)」では、「哲学国家日本の実現の為に」で取り上げた、エピクロス、プラトン、セネカ、デカルト、ソロモン、孔子、老子、王陽明、ブッダ、クリシュナ、ダビデ、イエス、パウロの十三人にヨハネを加えた十四人の哲学者を対象にしていますが、それぞれの哲学者ごとの『それ』に関する名文は、一名文だけしか掲載していません。
これだけでは、それぞれの哲学者が『それ』についてどの様に言っているかは分からないと思いますが、十四人の『それ』を通読する事に依って、『それ』に共通する何かを感じる事が出来ると思います。
●●大学文学部思想文化学科で作成する『哲学読本(智慧と愛の巻)』(名著版)も正にこの原理を応用する事と成るのです。
●●大学文学部哲学科で作成する『哲学読本(智慧と愛の巻)』(名著版)においては、西洋の哲学者百人以上、東洋の哲学者百人以上、日本の哲学者百人以上の『それ』に関する名文が集められる事に成ります。
一人の哲学者について一つの名文でも、●●大学文学部哲学科で作成する『哲学読本(智慧と愛の巻)』(名著版)では、三百人以上の哲学者の三百以上の『それ』に関する名文が集められる事に成ります。
三百人以上の哲学者の三百以上の『それ』に関する名文を通読すれば、●●大学文学部哲学科の先生方であれば、『それ』らに共通する一つの概念を見出す事が出来る様に成ります。
『それ』らに共通する一つの概念とは何か、それは『智慧』以外の何ものでもありません。
●●大学文学部哲学科の先生方は、必ずそれを見出します。
何故なら●●大学文学部哲学科の先生方は皆、哲学者(智慧を愛する者)だからです。
偉大な哲学者たちの『それ』をたくさん読む事に依って、そこにその智慧を必ず見出す事に成るのです。
そしてそこにおいて更に、『それ』(智慧)が本当の自分自身以外の何ものでも無いと言う事に気付く事に成るのです。
●●大学文学部哲学科の全ての先生がその事に気付いた時、●●大学文学部哲学科に大きな哲学の嵐が巻き起こる事と成るのです。
なお折角●●大学文学部哲学科の先生方の協力を得て作成する事とするので、それぞれの哲学者毎の『それ』に関する名文の数は一つでは無く、その名文に依って、それぞれの哲学者の『それ』の概要が分かる程度の名文の数とする事とします。
少なくとも一人の哲学者について、十以上の名文を集める事とします。
一人の哲学者について十以上の名文と言う事であれば、●●大学文学部哲学科で作成する『哲学読本(智慧と愛の巻)』(名著版)には、三百人以上の哲学者の三千以上の『それ』に関する名文が集められる事に成ります。
三百人以上の哲学者の三千以上の『それ』に関する名文を通読すれば、●●大学文学部哲学科の全ての先生が『それ』が智慧の事であり、究極的は本当の自分自身以外の何ものでも無いと言う事をはっきりと認識する事に成るのです。
●●大学文学部哲学科の全ての先生がその事をはっきりと認識した時、東京大学文学部哲学科の哲学の嵐は、●●大学文学部哲学科でだけで収まる事無く、日本全国に広がって行く事と成るのです。
それらも全て、先生が「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成し、その「哲学読本(智慧と愛の巻)」を添付して、「●●大学文学部哲学科における『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)作成計画書」を●●大学文学部の「哲学科長」と「●●センター長」と「学部長」に提出する事に依って始まる事と成るのです。
と言う事で先ずは、「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成に全力を傾注して頂きたいと思います。
なお先ほど、それぞれの哲学者の章の節については、
第一節 『それ』とは何か
第二節 『それ』に至るには、何を為せば良いか
第三節 『それ』に至った時、人はどの様に成るか
の三つの節に分けて整理した方が、それぞれの哲学者の『それ』を比較する事が極めて容易に成ると言いましたが、実際の名文の中ではこれら三つの内容が入り交じって来る事に成り、この様に綺麗に整理する事は中々出来ないと思いますので、これらの事を常に念頭に置きながら、私が作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」(別添)の様に、それぞれの標題を節にすれば良いと思います。
そしてそれぞれの標題(節)が連関し合いながら、その哲学者の『それ』(智慧)を浮かび上がらせる様な構成にして行けば良いと思います。
なお一人の哲学者の『それ』(智慧)に関する名文の数は、その哲学者の『それ』(智慧)の概念が有る程度浮かび上がって来るだけの数とします。
少なくと、一人の哲学者について、十以上の名文を挙げて頂きたいと思います。
と言う事で、先生が作成する「哲学読本(智慧と愛の巻)」は、最終的には古今東西の三十人(西洋十人、東洋十人、日本十人)の哲学者の三十冊の哲学的名著の中の三百以上の『それ』に関する名文で構成される事と成ります。
すなわち三編(西洋編、東洋編、日本編)、三十章(三十人の哲学者)、三百以上の節(三百以上の名文)で構成される事と成ります。
この三篇、三十章、三百以上の節から成る「哲学読本(智慧と愛の巻)」に依って、●●大学文学部哲学科の先生方に、●●大学文学部哲学科で作成する『哲学読本(智慧と愛の巻)』の作成について、共通理解を得させる事が出来れば、先生が作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」は、成功したと言う事に成るのです。
そして先生が作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」は、日本哲学史上、記念碑的な作品とも成って行く事と成るのです。
なお、三編、三十章、三百以上の節では十分で無いと言う事であれば編数、章数、節数は増やして行けば良いと思います。
確かに、インド、中国、中東・イスラムを東洋編一編の十冊に纏める事に無理があるのかも知れませせん。
それから西洋についても、聖書の哲学者(イエス、ヨハネ、パウロ、ダビデ、ソロモン等)を含めての十人十冊についても無理があるのかも知れません。
編数、章数、節数については、先生が納得する様な物にして行けば良いと思います。
兎に角、先生の時間が許す限りで、先生が納得する「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成して頂きたいと思います。
先生が作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」について、先生御自身が心から納得した時、その「哲学読本(智慧と愛の巻)」は●●大学文学部哲学科の先生方にも御理解して頂ける事と成るのです。
「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成については、かなり時間を要する事に成るかも知れませんが、先生の哲学人生において決して無駄には成らないと思います。
ですからどうか先ずは「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成して頂きたいと思います。
そうすればそこに必ず、先生の哲学の道が見えて来る事に成ると思います。
先生の哲学の道、それは孔子の哲学の道と同じ道に成ると思います。
すなわち『それ』を自らにおいて実践し、そして『それ』を求める者には、誰にでも優しく説明してあげられる哲学者に成る事です。
その為には、古今東西の聖人賢人たちの全ての智慧を自分の物にして行かなければ成らないのです。
その為の方法が、『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)の作成と言う事に成るのです。
「子曰く、十室の邑、必ず忠信、丘が如き者あらん。丘の学を好むに如(し)かざるなり。」
無意識の内に、本当の自分を生きている者は居るかも知れません。
しかし彼らはその事を意識する事も無く、ましてやその事を人に説明する事は出来ません。
孔子が他の人に優れているのは、本当の自分自身を生きている事を強く自覚し、そしてその事を多くの人々に説明する事が出来たからこそ、あの様に持て囃されたのです。
「聖人の気象は、聖人に在らずして、我に在り。」
先生がこの事を強く自覚すれば、先生は古今東西の聖人賢人たちの言葉を自由に駆使して、それの事を縦横無尽に説明する事が出来る様に成るのです。
先生は倫理(智慧と愛)の先生です。
その為には、ドイツ観念論だけでなく、古今東西の聖人賢人たちの智慧をも自分の物にして行かなければ成らないのです。
古今東西の聖人賢人たちの智慧を自分の物にする為の方法、それが『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)の作成と言う事に成るのです。
この『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)は、先生を役するだけでなく、この日本に計り知れない恩恵を齎す事に成るのです。
ですからどうか、『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)の作成に従事する事を決意して頂きたいと思います。
この辺りでこの書簡を締めたいと思いますが、先生にはただの文献哲学者では無く、本当の哲学者に成って頂きたいと思います。
先生にはそれが可能だと思います。
「子曰く、後生畏るべし、焉(いずく)んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯(こ)れ亦た畏るるに足らざるのみ。」
先生は未だ三十代だと思います。
「後生畏るべし」なのです。
先生が『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)の作成に従事すれば、先生は四十歳で不惑に達し、更に智慧と愛に精進すれば、先生は五十歳で天命を知る事に成るのです。
「後生畏るべし」先生は孔子と肩を並べる事に成るのです。
更にはイエスとも肩を並べる事に成るのです。
そして先生は「天の国は近付いた」と言って、この世に打って出る事に成るのです。
「聖人の気象は、聖人に在らずして、我に在り」
先生が全ての聖人賢人の気象を理解した時、すなわち全ての聖人賢人たちの言葉を、自分自身の物として心から理解する事が出来る様に成った時、先生は天命を知ったと言う事に成り、そして先生の為に天国の門が開く事に成るのです。
しかし先生が天命を知ったからと言って、先生が聖人に成る訳では無いのです。
先生が天命を知った時から、先生の本当の哲学者へ道、すなわち聖人への道が始まる事と成るのです。
「子曰く、吾れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(した)がう。
七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。」
先生が天命を知った時、その天が先生にこう命じる事に成るのです。
私と共に、この世を生きなさい、と。
イエスはその天命を聞いた時から、ガリラヤ中の集会堂を巡って、様々な人々と話し合いました
孔子もその天命を聞いた時から諸国を巡って、様々な人と話し合ったのです。
それでは先生が天命を聞いたら、先生は何処に向かう事に成るのでしょう?
それが『哲学広場』と言う事に成るのです。
『哲学広場』は、日本全国の(小学校、中学校、)高校、大学、そして各市町村の中央公民館等に設置されています。
『哲学広場』では、様々な人が『それ』を求め、『それ』をこの世に実践したいともがいています。
先生はその『哲学広場』に向かい、そこで様々な人々と話し合う事に依り、そこにおいて、それらの人々の心の中に『それ』の火を灯し、そして『それ』がそれらの人々の心の中で赤々と燃え上がる事に成るのです。
その様にして、先生は様々な『哲学広場』の中で、様々な人の心の中に智慧と愛の灯を燃え上がらせる事に成るのです。
最初は一人目の人に、次に二人目の人に、それから三人、四人、五人、十人、百人、千人目の人にと、一人一人と話し合いながら、それぞれの人の心の中に、智慧と愛の灯を燃え上がらせる事に成るのです。
その様にして、先生が多くの人々の心の中に智慧と愛の灯を燃え上がらせる事が出来る様に成った時、先生は聖人とも偉大な哲学者とも呼ばれる事と成るのです。
その為には、イエスの様に、孔子の様に、そしてソクラテス、ブッダの様に、自由に言葉を操る事が出来なければ成らないのです。
「初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
(中略)
言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
わたしたちはその栄光を見た。
それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」
先生はこの「言」を無意識の内に、心から熱望しています。
そしてこの「言」をこの世に実現したいと、無意識の内に、心から熱望しているのです。
先生が『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)を作成する事に依って、その「言」が先生の心の中で形を取って現れて来る事に成るのです。
そこまで来たら、先生はこの世に打って出て行かなければ成らないのです。
なお、実を言うと先生が偉大な哲学者と成る為には、もう一つ●●大学文学部での仕事が残されているのです。
それが『哲学読本大全』の作成と言う事に成るのです。
『哲学読本(智慧と愛の巻)』(哲学的名著版)は、『それ』に関する名文だけを集めて編集した読本でしたが、『哲学読本大全』は哲学の主要課題について、古今東西の名文を集めて編集した読本と言う事に成るのです。
『哲学読本大全』は、最終的には「哲学広場日本」において、国民の英知を結集して作成して行く事に成りますが、●●大学文学部においては、それのモデル的な物を作成して行く事に成るのです。
哲学広場日本で最終的に作成する『哲学読本大全』は、日本国民が必要とする全ての哲学的課題(五百以上の哲学的課題)について、古今東西の名著の中の名文を集めて編集する事に成りますが、●●大学文学部で作成する『哲学読本大全』は、それらの中でも国民が真に必要とする百の哲学的課題について、古今東西の名著の中の名文を集めて編集する事に成るのです。
『哲学読本(智慧と愛の巻)』においては、『それ』に関する名文だけを集めましたが、そこには「智慧と愛」が溢れんばかりに存在しています。
何故なら「智慧は愛なり」であり、『神は愛なり』なのですから。
『哲学読本大全』は、その愛を形あるものにして行く為の物と言う事に成るのです。
自由、悦び、平安、至福、勇気、忍耐、節制、寛容、正義、誠実そして友情、更には仕事、家族、勉強等々、
様々な愛の形を形あるものにして行く為の物、それが『哲学読本大全』と言う事に成るのです。
例えば『自由』について書かれた古今東西の名文を百編読む事にします。
そうすればそこに自由と言う愛の本質が浮かび上がって来ます。
例えば『勇気』について書かれた古今東西の名文を百編読む事とします。
そうすればそこに勇気と言う愛の本質が浮かび上がって来るのです。
その様にして百の哲学的課題についての古今東西の名文を読む事に依って、そこにおいて「智慧と愛」の本質が赤々と燃え上がって来る事に成るのです。
『哲学読本(智慧と愛)』と『哲学読本大全』に依って、「智慧と愛」が完結する事に成るのです。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』、この為の参考書が『哲学読本(智慧と愛の巻)』と言う事に成り、
『隣人を自分のように愛しなさい。』、この為の参考書が『哲学読本大全』と言う事に成るのです。
この二つの読本に依って、日本国中に智慧と愛が溢れる事に成るのです。
先生はこの二つの読本に依って「智慧と愛」を完全に自分の物にした上で、イエスや孔子の様に、日本国中の哲学広場を巡り、様々な人と対話を重ね、そしてそれらの人の心の中に「智慧と愛」の炎を燃え上がらせる事に成るのです。
先生がそこまで達した時、先生は偉大な哲学者とも聖人とも呼ばれる事に成るのです。
なお『哲学読本(智慧と愛の巻)』は、●●大学文学部哲学科で作成しましたが、
『哲学読本大全』は、●●大学文学部で作成する事とするのです。
何故なら、愛はこの世の全てに渡っているので、●●大学文学部の全ての先生方の協力を頂く事とするのです。
(※この書簡における先生方とは、原則的には院生以上の事を言っています。)
この『哲学読本(智慧と愛の巻)』と『哲学読本大全』に依って、日本国中に「智慧と愛」の灯が灯される事に成るのです。
先ずは、先生の心の中に「智慧と愛」の灯が灯され、
次に、●●大学文学部の先生方の心の中に「智慧と愛」の灯が灯され、
そして最終的には、日本国中の全ての人の心の中に「智慧と愛」の灯が灯される事と成るのです。
そして常に、先生がその中心に存在して行く事に成るのです。
今回のプロジェクトに依って、日本国中に「智慧と愛」の灯が灯され、そして先生は偉大な哲学者と成って行く事に成るのです。
ですのでどうかこのプロジェクトに従事する事を決意して頂きたいと思います。
なお、今回のプロジェクトを整理すると次の様に成ります。
先ずは、先生御自身で「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成する。
次に、この「哲学読本(智慧と愛の巻)」をモデルとして、●●大学文学部哲学科の先生方の協力を得て、●●大学文学部哲学科において『哲学読本(智慧と愛の巻)』(原案)を作成する。
次に、この『哲学読本(智慧と愛の巻)』(原案)等に基づいて、『それ』について対話を行う場として、●●大学文学部哲学科に『哲学広場』を設置し、様々な哲学的対話を行う。
次に、『哲学読本(智慧と愛の巻)』(原案)や『哲学広場』における対話等を基に、●●大学文学部哲学科の先生方に『それ』に関するエッセイを作成して頂き、これらを纏めて『哲学エッセイ集(智慧と愛の巻)』を作成する。
次に、東京大学出版会において、『哲学読本(智慧と愛の巻)』と『哲学エッセイ集(智慧と愛の巻)』を出版すると共に、『哲学読本(智慧と愛の巻)』については、WEB上で無料公開する。
次に、●●大学文学部の全ての先生方の協力を得て、●●大学文学部において『哲学読本大全』(原案)を作成する。
次に、●●大学出版会において、『哲学読本大全』を出版すると共に、これをWEB上で無料公開する。
次に、様々な哲学的課題について、「対話」や「実践」を行う場として、『哲学広場●●大学』を設置する。
以上の様な内容に成ると思います。
先生が集中してこのプロジェクトに取り組めば、六年でこのプロジェクトを完成させる事が出来ます。すなわち、
一年目で、先生御自身で「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成し、
二年目で、『哲学読本(智慧と愛の巻)』(原案)を作成し、
三年目で、『哲学広場』を設置し、『それ』に関する哲学的対話を集中的に実施し、
四年目で、『哲学エッセイ集(智慧と愛の巻)』(原案)を作成し、
五年目で、『哲学読本(智慧と愛の巻)』と『哲学エッセイ集(智慧と愛の巻)』を出版すると共に、『哲学読本大全』(原案)を作成し、
六年目で、『哲学読本大全』を出版すると共に、『哲学広場●●大学』を設置すると言う事に成ると思います。
勿論これらについては、先生御一人で行うのでは無く、
『哲学読本(智慧と愛の巻)』の作成については、「『哲学読本(智慧と愛の巻)』」作成委員会」で作成される事と成り、
『哲学広場』の運営については、「『哲学広場』運営委員会」で運営される事と成り、
『哲学エッセイ集(智慧と愛の巻)』の作成については、「『哲学エッセイ集(智慧と愛の巻)』作成委員会」で作成される事と成り、
『哲学読本大全』の作成については、「『哲学読本大全』作成委員会」で作成される事に成ります。
そしてこれらの委員会が最終的には、『哲学広場●●大学』に引き継がれて行く事に成ります。(なおこれらの事務については、臨時職員が担当する事に成ります。)
このプロジェクトに従事する事に依って、先生はこれまで日本には存在しなかった様な偉大な哲学者と成るのです。
すなわち、イエスやブッダや孔子やソクラテスの様に、自由自在に言葉を操りながら、多くの人の心の中に『智慧と愛』の灯を灯して行く哲学者に成るのです。
先生はまだ若いので、それが可能です。(「後生畏るべし」)
ですのでどうか、このプロジェクトに従事する事を決意して頂きたいと思います。
最後に、先生のますますの御活躍を心から祈念して、この書簡を閉じたいと思います。
敬具
平成26年5月25日
哲学哲男
●●大学文学部哲学科
●●●●先生 殿
『哲学読本(智慧と愛の巻)』出版メモ
先生が作成する「哲学読本(智慧と愛の巻)」及び●●大学文学部哲学科で作成する『哲学読本(智慧と愛の巻)』の原案までは、私が見本として作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」の様な貼り付けの形式で良いと思います。なお、●●大学出版会において出版する時は、別添「哲学国家日本の実現の為に」の様に、A4版、二段組み、縦書きとし、OCR等で統一字体に揃えた上で、かつ不必要な個所をカットし、『それ』に関する名文の個所のみを掲載する事とします。一冊の頁数は千五約頁以上、出来るだけたくさんの頁数とし、製本、紙質は、かつて朝日新聞が出版していた「智恵蔵」や自由国民社が出版していた「現代用語の基礎知識」の様に安価な体裁のものとします。●●大学出版会で出版する『哲学読本(智慧と愛の巻)』は、西洋編、東洋編、日本編の三分冊とする事とします。販売価格は誰でもが、特に高校生、大学生等が手に入れ易い様な安価の価格を設定する事とします。また、著作権や出版権等については、東京大学出版会において調整して頂く事とします。先生が作成する哲学読本(智慧と愛の巻)」及び●●大学文学部哲学科で作成する『哲学読本(智慧と愛の巻)』の原案については、●●大学文学部哲学科において、研究目的にのみ使用するのであれば、著作権及び出版権の問題は出て来ませんので、『哲学読本(智慧と愛の巻)』の原案作成まで一直線に突き進んで頂きたいと思います。『哲学読本(智慧と愛の巻)』の原案が完成した時、日本は変わる事に成ると思います。何故ならこれまで闇に隠されていた『それ』が日の目を見る事に成るのですから。そしてそこにおいて多くの人が『智慧と愛』の本質を見抜く事に成るのです。『汝自身を知れ』