第一章 ソロモンの智慧
「知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか。
高い所に登り、道のほとり、四つ角に立ち、城門の傍ら、町の入り口、城門の通路で呼ばわっている。
『人よ、あなたに向かって私は呼びかける。
人の子らに向かって私は声をあげる。
浅はかな者は熟慮することを覚え、愚か者は反省することを覚えよ。
聞け、わたしは指導者として語る。
わたしは唇を開き、公平について述べ、わたしの口はまことを唱える。
わたしの唇は背信を忌むべきこととし、わたしの口の言葉は正しく、よこしまなことも曲がったことも含んでいない。
理解力がある人には、それがすべて正しいと分かる。
知識に到達した人には、それがすべてまっすぐであると分かる。
銀よりもむしろ、わたしの諭しを受入れ、精選された金より、知識を受け入れよ。
知恵は真珠にまさり、どのような財宝も比べることはできない。
わたしは知恵。
熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている。
主を畏れることは、悪を憎むこと。
傲慢、驕り、悪の道、暴言をはく口を、わたしは憎む。
わたしは勧告し、成功させる。
わたしは見分ける力であり、威力を持つ。
わたしによって王は君臨し、支配者は正しい掟を定める。
君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆、わたしによって治める。
わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。
わたしのもとには富と名誉があり、すぐれた財産と慈善もある。
わたしの与える実りは、どのような金、純金にもまさり、わたしのもたらす収穫は、精選された銀にもまさる。
慈善の道をわたしは歩き、正義の道をわたしは進む。
わたしを愛する人は嗣業を得る。
わたしは彼らの倉を満たす。』」(旧約聖書「箴言」)
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さて、皆様はこの智慧の言葉が分かりますか。
もし皆様が、「理解力がある人」であり「知識に到達した人」であれば、この智慧の言葉が全て、正しくてまっすぐだと分かる筈です。
しかしそうでなければ、やはりこれから智慧の事を学ばなければならないと言う事になりますね。
この言葉は二つに分かれています。
一つはソロモン自身の言葉であり、もう一つは智慧の言葉です。
「」の最初の二行はソロモン自身の言葉であり、『』の中の言葉は、智慧の言葉です。
『』の中の言葉は、この世のソロモンの呼びかけに応じて、智慧が齎した言葉です。
勿論『』の中の言葉もソロモン自身の言葉なのですが、しかしそれは、ソロモンが理想を追い求めた時に、理想から齎された言葉なのです。
その関係を正しく理解しなければ、この言葉は理解できないと思います。
皆様もソロモンの立場に身を置いてください。
ソロモンはヘブライ王国の王です。
この王国を正しく治めたい。
そして立派な王でありたい。
そう切実に望み、理想としての神に臨んだ時、どんな言葉が齎されるか。
勿論、ただ望めば、ただで言葉が齎される訳ではありません。
ソロモンは様々な知識を追い求めました。
そして祈ったのです。
その時、それらの知識が総括されて、上記のような言葉が下されたのです。
正義とは何か、公平とは何か、慈善とは何か、王とは何か、君侯とは何か、自由人とは何か、裁きとは何か、掟とは何か、富とは何か、名誉とは何か、嗣業とは何か。
そんな事を切実に求めれば、上記の言葉が下されるのは誰にでも明らかな事でないですか。
「わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。」
「求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」(新約聖書「マタイ福音書」)
もし皆様が純粋に理想を求めれば、智慧はこれでもかと言わんばかり、溢れる言(ことば)を与えてくれるのです。
それが富です。
「天の国は次のようにたとえられる。
畑に宝が隠されている。
見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(新約聖書「マタイ福音書」)
宝とは智慧の事です。
智慧と言う一つの宝を得れば、全てが得られるのです。
正義も、公平も、慈善も、自由も、富も、名誉も、嗣業も。
それは全て言(ことば)の結果です。
皆様、試しに「正義」について考えてみてください
そうすれば智慧は次のように応えませんか。
「傲慢、驕り、悪の道、暴言をはく口を、わたしは憎む。」と。
皆様はまた一つ宝を得た事なりますよね。「正義」と言う宝を。
皆様の心(頭脳と言っても良いですが・・)には、無尽蔵の宝が隠されているのです。
それを引き出すのが智慧と言う事になります。
智慧はよく打出の小槌に喩えられます。
また智慧の泉とも譬えられます。
皆様の心の中には無尽蔵の宝が隠されています。
しかしそれらは眠ったままです。
それを引き出す方法が哲学です。
すなわち、智慧を愛すると言う事です。
そして、この智慧を愛する為には、先ずは、古今東西の聖人賢人が如何に智慧を愛したかを学ばなければならないのです。
それが、今、私が遣ろうとしているこの方法です。
皆様は、智慧の言葉を聞いた事がありますか。
多分、無いと思います。
何故か。
それはこの世の『私』に囚われているからです。
この世の『私』が失せた時、智慧が舞い降りて来る事になっているのです。
皆様は、忘我とか我を忘れてとかと言う状況を体験した事は、何度かあると思います。
そんな時は、何かしら心地良い気分になりますよね。
そして、何かを予感させますよね。
時には、何か素晴らしいアイデア(考え)が生まれる事もありますよね。
しかし大抵はそのままで、またいつもの『私』に戻ってしまいますよね。
何故皆様には、ソロモンのように素晴らしいアイデア(智慧の言葉)が雨のように降り注がないのでしょうか。
それは、皆様が理想を持っていないからです。
確かにこの世の『私』が失せた時、智慧は臨在します。
しかしそこに理想と言うエネルギーが無ければ、智慧はそのまま去ってしまうのです。
ですから皆様は、智慧の臨在については経験した事があるが、智慧の言葉が雨のように降り注ぐと言う事を経験した事が無いと言う事になるのです。
もう皆様は分かったと思います。
智慧の秘密が。
そこには二つの条件が必要なのです。
一つはこの世の『私』が失せると言う事です。
そうすれば、そこに本当の『私』、すなわち『智慧』が臨在する事になります。
その時は、何かしら心地良い気分になります。
しかし智慧の言葉が降り注ぐ事は無いのです。
智慧の言葉が降り注ぐ為にはもう一つの条件が必要なのです。
それが『理想』です。
この理想に応じて、智慧の言葉が降り注ぐ事になるのです。
すなわちこの世の『私』が失せ、この世の『私』が本当の『私』と成った時、智慧が理想に応じての理想の言葉を語り出す事になるのです。
もう一度ソロモンの言葉を読み返してみてください。
ソロモンはヘブライ王国の王です。
彼が如何に王として理想に燃えていたか、そしてその理想に応じて、如何に智慧の言葉が齎されていたかが、良く分かると思います。
この世の『私』が失せ、本当の『私』、すなわち智慧と成った時、智慧は、理想の下、人格を持つ者のように語る事になります。
「聞け、わたしは指導者として語る。
わたしは唇を開き、公平について述べ、わたしの口はまことを唱える。
わたしの唇は背信を忌むべきこととし、わたしの口の言葉は正しく、よこしまなことも曲がったことも含んでいない。」
「人よ、あなたに向かって私は呼びかける。
人の子らに向かって私は声をあげる。
浅はかな者は熟慮することを覚え、愚か者は反省することを覚えよ。」
もし皆様が万が一、「浅はかな者」「愚か者」であったなら、どうか智慧へと向かってください。
「わたしは知恵。
熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている。」のですから。
皆様!「知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか」
何故、皆様には智慧の声が聞こえないのですか?
旧約聖書「箴言」には、ソロモンの智慧が一杯詰まっています。
先ずは、旧約聖書「箴言」においてソロモンの智慧を学んで欲しいと思います。
もし皆様が、ソロモンの智慧の概念を理解できたら、これから読むであろう古今東西の聖人賢人たちの智慧の言葉が、皆様の心の中に強く響く事になります。
何故なら、それらの言葉は、皆様が心から求めていたが、求められなかった言葉たちだからです。
しかし、ソロモンの智慧の概念を理解できなければ、これまでと同じく馬耳東風、馬の耳に念仏です。
どうか、先ずは、旧約聖書「箴言」でソロモンの智慧を理解して頂きたいと思います。
ソロモンの智慧は人類共通の智慧です。
『知恵の初めとして、知恵を獲得せよ。』(旧約聖書「箴言」)
この言葉を理解できる人は、智慧を理解した人です。
どうか智慧の学びの初めに、旧約聖書「箴言」を置いて頂きたいと思います。
なお、旧約聖書「箴言」には、神と言う言葉が多く出て来ます。
もし神と言う言葉に違和感があるのであれば、それを「私の心からの純粋な理想」、そして全人類が持つであろう「心からの純粋な理想」と読み替えてみてください。
そうすれば、この旧約聖書「箴言」だけでなく、全ての聖なる書の意味が良く分かるようになる筈です。
『汝自身を知れ』。
これこそが哲学です。
その為にこそ、古今東西の聖人賢人たちの言葉があるのです。
先ずは、旧約聖書「箴言」を読んでください。
そしてソロモンの智慧の概念を理解してください。
ソロモンの智慧の概念が理解できたら、またここに戻って来てください。
それから次のステップに移る事としましよう。
皆様へ、どうもありがとうございます。
旧約聖書「箴言」を読んでくださって。
ソロモンの智慧の概念を薄々理解できたようですね。
「いかに幸いなことか、知恵に到達した人、英知を獲得した人は。」(旧約聖書「箴言」)
その智慧の理解を更に深める為に次のステップへ移る事としましよう。
次のステップはダビデです。
ダビデはヘブライ王国の初代の王です。
そしてソロモンはヘブライ王国の二代目の王です。
そうなのです、ダビデとソロモンは親子なのです。
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「わたしも父にとっては息子であり、母のもとでは、いとけない独り子であった。
父はわたしに教えて言った。
『わたしの言葉をお前の心に保ち、わたしの戒めを守って、命を得よ。
わたしの口が言い聞かせることを、忘れるな、離れるな。
知恵を獲得せよ、分別を獲得せよ。
知恵を捨てるな、彼女はあなたを見守ってくれる。
分別を愛せよ、彼女はあなたを守ってくれる。
知恵の初めとして、知恵を獲得せよ。
これまでに得たものすべてに代えても、分別を獲得せよ。
知恵をふところに抱け、彼女はあなたを高めてくれる。
分別を抱きしめよ、彼女はあなたに名誉を与えてくれる。
あなたの頭に優雅な冠を戴かせ、栄冠となってあなたを飾る。』」(旧約聖書「箴言」)
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ソロモンの思想は、ダビデの思想です。
ソロモンの智慧は、ダビデの智慧です。
こんな事を言ったら叱責を買うかも知れませんが、ソロモンの智慧は、ダビデの智慧の焼き増しです。
しかしとても優雅にそして洗練されたものとなりました。
この世の多くの人は、直接ダビデの智慧に向かう事ができませんが、ソロモンの智慧については、それほど抵抗無く入って行けるのです。
何故か。
それは、ソロモンが智慧を智慧と言う世界人類共通の言葉で語っているからです。
もし皆様がクリスチャンであれば、ダビデの智慧が良く分かると思いますが、ほとんどの皆様はクリスチャンではありませんので、ダビデの智慧が良く分からないと思います。
そこで皆様がダビデの智慧が良く分かるように、一つの言葉を置いておきます。
それは「純粋な理想」と言う事です。
この「純粋な理想」とは、皆様お一人お一人が持つ「純粋な理想」であり、そして世界人類が共通に持つであろう「純粋な理想」の事です。
古今東西の聖人賢人たちは皆、この「純粋な理想」を追い求め続けたのです。
そして、この「純粋な理想」に、それぞれにニックネームを付したのです。
ダビデは、この「純粋な理想」の事を、神とか主と呼びました。
なお、ダビデは、「主」を二つの意味で使っています。
一つは「純粋な理想」としての神の事です。
もう一つは、その「純粋な理想」が人格(言葉)を帯び、智慧の言葉を齎す時の、その存在の事もまた「主」と呼んでいます。
この使い分けを理解できたら、皆様もダビデの智慧が分かるようになると思います。
ダビデの智慧は、旧約聖書「詩篇」に集約されています。
どれもこれも素晴らしい言葉だらけで、どのように紹介して良いのか迷います。
本当は逐条解説をして行きたい所ですが、紙片の都合もありますので、とびっきりの言葉だけを集めて紹介して行きたいと思います。
しかしそれでもかなりの分量になるかも知れませんが、お付き合いを願いたいと思います。
このダビデの智慧を理解すれば、世界中の智慧を、少なくともキリスト教圏とイスラム教圏の智慧を理解する事が出来るようになるのですから。
なお、ダビデの詩には争いの詩が多いと思われるかも知れませんが、それはダビデがこの世において、どのような位置に居たかを理解してあげなければなりません。
ダビデはヘブライ王国初代の王です。
初代の王とはどのような事を意味しているのでしょう。
それは混沌からの統一です。
そこには当然、戦があります。
しかしそれでも、ダビデは智慧を旗頭に、正義を守り続けたのです。
ダビデの詩を読む時は、ダビデが如何に智慧を愛したかを読み込まなければなりません。
ダビデの智慧の愛し方は尋常ではありません。
熱烈そのものです。
熱烈そのものの故に、その熱情が私たちにも伝わって来るのです。
そして『智慧』への信仰です。
私たちは旧約聖書「詩篇」においては、ダビデの智慧への熱烈な信仰を読み取らなければならないのです。
さてそれでは、前置きはこの位にして、ダビデの智慧に入って行きたいと思います。
なお、ダビデの智慧は全て、旧約聖書「詩篇」からです。
あまりにも素晴らしい言葉が一杯あり、取捨選択する事ができそうにありませんので、順を追って紹介して行きたいと思います。
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