第二章 ダビデの智慧について
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「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩篇一)
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旧約聖書「詩篇」の全てが、ダビデの詩と言う訳ではありせん。
コラの子の詩とかアサフの詩とかソロモンの詩とか貧しい者の詩とかモーセの詩とか言うものもあります。
また銘の無い詩もあります。
これらについては、詩篇の番号の下に、それぞれ注のような形で挿入されています。
私はダビデの詩に基づき、ダビデの智慧を紹介したいと思っていますが、詩篇一、詩篇二については、その例外としたいと思います。
詩篇一及び詩篇二には、その注が全く無いのです。
多分、詩篇の編集者が巻頭詞として挿入したものだと思うのですが、その思想はダビデの智慧と何ら変わらないと思いますので、例外として入れる事にします。
やはり一番からスタートしたいので・・。
さて皆様は、上記詩篇一の言葉を理解できたでしょうか。
素晴らしい言葉のようだが、完全には理解できない。
何故なら主の教えが何か分からないから。
多分そんな所だと思います。
主の教えとは何でしょう。
クリスチャンであれば、聖書の教えとそれを基に、それぞれのクリスチャンが自分自身で築き上げた智慧の体系と言う事になるのでしょう。
しかし皆様はクリスチャンではありません。
聖書を完全に信じる事はできません。
それでは、皆様に取って、主の教えは、無縁なのでしょうか。
いいえ、皆様に取っても、主の教えは主の教えです。
主とは何でしょう。
それこそが智慧です。
智慧とは何でしょう。
それは理想を求める時に、臨在するそれです。
理想を強く求めれば求めるほど、その求めに応じて、智慧は智慧の言葉を下す事になるのです。
それが主の教えです。
しかしここで条件が一つあります。
それはただ理想を求めるだけでは駄目だと言う事です。
学ばなければ駄目だと言う事です。
「学んで思わざれば則ち罔(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし。」(論語)
クリスチャンは聖書に学び、そして祈ります。
そうすると、そこに聖霊(智慧)が臨在して、智慧の言葉が下される事になります。
クリスチャンは、それに基づき、それぞれ各人が、自らの智慧の体系を創り上げて行く事になります。
当然、そこにはイエス・キリストの思想が織り込まれる事になります。
さて、それでは、皆様はどうすれば良いのでしょう。
それが、私が提唱している哲学です。
古今東西の聖人賢人の言葉に学ぶのです。
それはイエスだけではありません。勿論イエスを含みます。
それはブッダだけにはありません。勿論ブッダを含みます。
全ての宗教の枠を超えて、哲学、すなわち智慧を愛すると言う視点から学ぶのです。
皆様がそれらの言葉を学び、そして自らの心からの「純粋な理想」、それは世界人類が共通に持つであろう「純粋な理想」になると思いますが、それを追い求め続けるのです。
そうすればその時、皆様の主である智慧が臨在して、主の教え(智慧の言葉)を下す事になるのです。
その主の教えに、皆様は驚く事になります。
さてそれではもう一度上記の詩篇一に戻って頂きたいと思います。
皆様、主の教えが如何に素晴らしいか理解できたでしょうか
多分できなかったと思いますが、これから徐々に理解する事ができるようになると思います。
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「主はわたしに告げられた。
『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。
求めよ。
わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。』」(詩篇二)
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この言葉は、ダビデに下り、そしてイエスに下りました。
この言葉により、ダビデはあの王国を築き上げました。
この言葉により、イエスは現在のこの精神の王国を築き上げたのです。
「主はわたしに告げられた。
『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。
求めよ。』
ここまでの主の言葉は皆様にも下るのです。
皆様が理想を高く掲げ、そして主(智慧)の言葉に耳を澄ませば・・
私にも、この言葉が下りました。
最初、この言葉が下った時、私は『哲学詩人』と成る事を願いました。
次に、この言葉が下った時、私は『哲学国家 日本』の実現を願いました。
皆様も理想を高く掲げ、そして主(智慧)の声に耳を澄まして下さい。
そうすれば、きっと、主(智慧)の言葉が聞き取れる筈です。
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「主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます。」(詩篇三)
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皆様は理想をお持ちですか。
皆様が理想に向かって声を上げれば、きっと皆様の主である智慧は、皆様のその理想に応じて答えを返してくれる筈です。
なお、ダビデは詩人です。
そこには比喩が充ちています。
皆様は比喩を読み取る力もつけなければなりません。
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「主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。
人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。
それにもまさる喜びを、わたしの心にお与えください。」(詩篇四)
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もし、皆様が智慧を愛する喜びを覚えたら、皆様は智慧を愛する事が止められなくなります。
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「主よ、わたしの言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分けてください。」(詩篇五)
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皆様の主である智慧は、皆様の一つ一つの言葉を聞き分け、そしてどんな些細なつぶやきも漏らさずに聞いています。
そして、皆様が理想を持つ限り、どんなささやかな言葉にも応えてれくれるのです。
それが本当の『私』の所以です。
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「主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。
あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。」(詩篇六)
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ダビデはいつも、理想と現実の狭間で揺れ動いています。
しかし、最後には理想が勝つのです。
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「主よ、諸国の民を裁いてください。
主よ、裁きを行って宣言してください。
お前は正しい、とがめるところはないと。」(詩篇七)
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これが王としてのダビデの正義です。
その心は次の通りです。
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「あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね、火を持ってわたしを試されますが、汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。
わたしの口は人の習いに従うことなく、あなたの唇の言葉を守ります。
暴力を避けて、あなたの道をたどり、一歩一歩、揺らぐことなく歩みます。」(詩篇一七)
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ダビデの理想に燃える姿が見て取れると思います。
これは若き日のダビデです。
こんなダビデですが、王国の安定と共に、理想と現実の狭間に揺れ動く事になります。
しかし最後には、必ず理想へと回帰する事になるのです。
ここにダビデの真骨頂があるのです。
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「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。
神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていだかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。
羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。」(詩篇八)
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ここにダビデとダビデの理想との関係を読み取る事ができます。
ダビデの理想としての神が、ダビデの少し先を行く存在だったからこそ、ダビデはその理想に倣う事ができたのです。
なお、ダビデの理想から齎された主と言う存在は、ダビデの智慧そのものの事です。
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「主は裁きのために御座を固く据え、とこしえに御座に着いておられる。
御自ら世界を正しく治め、国々の民を公平に裁かれる。
虐げられる人に、主が砦の塔になってくださるように、苦難の時の砦の塔になってくださるように。
あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。」(詩篇九)
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これがダビデの王としてスタンスです。
ここで言う主とは、ダビデが理想の王として描くダビデ自身なのですが、実際には、理想と現実の狭間で揺れ動く事になります。
なお、ダビデは常に虐げられている者、弱い者の味方です。
ここにダビデの王の王としての所以があります。
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「立ち上がってください、主よ。
神よ、御手を上げてください。
貧しい人を忘れないでください。」(詩篇一〇)
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貧しい人、虐げられた人、みなしご、弱い人の味方。
これが主(智慧)を愛する事に目覚めた人の特質です。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』」(新約聖書「マタイ福新書」)
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「主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。」(詩篇一一)
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皆様が、智慧に正しさを求めれば、智慧はそれに応じて正しさを返しくれます。
皆様が、智慧に恵みの業を求めれば、智慧はそれに応じて恵みの業を返してくれます。
皆様が、智慧に顔をまっすぐに向ければ、智慧はまっすぐに皆様に応えてくれます。
智慧(主)とはそう言う存在です。
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「主は言われます。
『虐げに苦しむ者と呻いている貧しい者のために、今、わたしは立ち上がり、彼らがあえぎ望む救いを与えよう』」(詩篇一二)
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これはダビデ自身の心からの言葉なのですが、それができない為、ダビデは葛藤し、祈ります。
このダビデの心優しき葛藤を、詩篇の随所に見る事ができます。
ダビデは心優しき王なのです。
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「あなたの慈しみに依り頼みます。
わたしの心は御救いに喜び踊り、主に向かって歌います。
『主はわたしに報いてくださった』と。」(詩篇一三)
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皆様の主(智慧)はとても慈しみ深いのです。
その主(智慧)に依り頼んで御覧なさい。
智慧は願いを叶えてくれます。
その時皆様はきっと、喜び歌い踊り出す事でしょう。
智慧は皆様の願いを叶える為に存在しているのです・・
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「神を知らぬ者は心に言う、『神などいない』と。」(詩篇一四)
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ダビデは王国の王です。
ダビデの思想が王国の思想です。
ダビデの思想の中心には、常に「神」と言う理想があります。
しかし王国の人々、特に家臣たちは言います。
ダビデの理想など我々とは関係は無い、と。
勿論、心の中だけで。
しかし、その心の思いが腐敗を生む事になるのです。
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「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょう。
それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。」(詩篇一五)
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これがダビデの理想です。
しかし、宮廷に宿る人で、これに倣う事のできる人がどれ程いる事でしょう。
ダビデは、常にこの宮廷の人々の事で悩む事になります。
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「主に申します。
あなたはわたしの主。
あなたのほかにわたしの幸いはありません。」(詩篇一六)
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もし皆様が、智慧の事を本当に知っていたら、上記の『主』を『智慧』に置き換えても、一言一句も違わない事を知るでしょう。
そうなのです。
皆様の智慧こそが、皆様の幸福の源なのです。
何故なら、智慧において全てが齎されるのですから。
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「主よ、正しい訴えを聞き、わたしの叫びに耳を傾け、祈りに耳を向けてください。
わたしの唇に欺きはありません。
御前からわたしのために裁きを送り出し、あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。
あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね、火をもってわたしを試されますが、汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。
わたしの口は人の習いに従うことなく、あなたの唇の言葉を守ります。
暴力を避けて、あなたの道をたどり、一歩一歩、揺らぐことなく進みます。」(詩篇一七)
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これがダビデの智慧への信仰です。
このダビデの智慧への信仰が、キリスト教へ、更にはイスラム教へと引継がれて行ったのです。
しかしダビデは生身の人間です。
常に、このような理想で在り続けた訳ではありません。
ダビデの一生涯を喩えれば、この理想と生身の人間の中を揺れ動いた一生だと言えるでしょう。
しかしダビデは、常に、その度ごとに、その理想へと、その智慧へと回帰しています。
この理想への回帰、智慧への回帰が、ダビデを「信仰の人」たらしめているのです。
そしてその信仰への熱情が時代を超えて、私たちにもひしひしと迫ってくるのです。
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「あなたの慈しみに生きる人に、あなたは慈しみを示し、無垢な人には無垢に、清い人には清くふるまい、心の曲がった者には背を向けられる。
あなたは貧しい民を救い上げ、高ぶる目を引き下される。
主よ、あなたはわたしの灯火を輝かし、神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。」(詩篇一八)
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もし皆様が、慈しみ生きようとすれば、智慧はその慈しみを示すでしょうし、もし皆様が、無垢に生きようとすれば、智慧はその無垢を示すでしょうし、もし皆様が清く生きようとすれば、智慧はその清さを示すでしょう。
もし皆様が、貧しい人を助けたいと思えば、智慧はその道を示すでしょう。
智慧こそが皆様の灯火なのです。
そして、もし皆様が何かの暗闇に落ちた時は、その時、智慧こそが、皆様のその暗闇を照らしてくれるのです。
智慧とはそう言う存在なのです、今も昔も変わらず。
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「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与え、主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒め清らかで、目に光を与える。
主への畏れは清く、いつまでも続き、主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
金にもまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」(詩篇一九)
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皆様の心の奥深く隠れているその智慧に目を向けてください。
そうすれば、その智慧が、如何に完全で、如何に真っ直ぐで、如何に清らかで、如何に誠があり正しいか分かる筈です、皆様が、この世の『私』をすっかり取り払ってしまえば。
智慧とはそう言う存在です。
皆様がこの世の『私』をすっかり捨て去ってしまえば、その時、皆様の本当の『私』と世界の理想が呼応する事になるのです。
それが智慧の神秘です。
その為には、先ず世界の理想を知らなければなりません。
それこそが哲学です。
今、私が遣ろうとしているこの事です。
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「今、わたしは知った、主は油注がれた方に勝利を授け、聖なる天から彼に答えて、右の御手による救いの力を示されることを。」(詩篇二〇)
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これは、ダビデが勝利した時に、主への賛歌として歌った中の一節です。
しかしこの言葉は、ダビデだけのものではありません。
皆様お一人お一人にも当て嵌まる言葉なのです、皆様が智慧に対して無垢であろうとすれば。
この世の『私』が消え去った時、皆様の智慧と世界の理想が呼応しあうのです。
その時、世界の理想が勝利するのです。
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「主よ、王はあなたの御力を喜び祝い、御救いのゆえに喜び踊る。
あなたは王の心の望みをかなえ、唇の願い求めるところを拒まず、彼を迎えて豊かな祝福を与え、黄金の冠をその頭におかれた。
願いを聞き入れて命を得させ、生涯の日々を世々限り無く加えられた。
御救いによって王の栄光は偉大なものになる。
あなたは彼に栄えと輝きを賜る。
永遠の祝福を授け、御顔を向けられると彼は喜び祝う。」(詩篇二一)
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これはダビデが王と成った時の喜びの詩です。
ダビデが理想を追い求め、王と成った時の喜びの詩です。
ところでダビデの理想とはどのようなものだったのでしょう。
それは「神の王国」であり「智慧の王国」でした。
しかしこの王国は、ダビデの代で実現する事はありませんでした。
この王国の実現には、イエスを待たなければならなかったのです。
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「地の果てまで、すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。
王権は主にあり、主は国々を治められます。」(詩編二二)
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イエスによってこの王国は実現しました。
この世のクリスチャンにとっては、一つの王国があるのです。
それは「神の王国」であり「智慧の王国」です。
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「主は羊飼い、わたしは何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」(詩編二三)
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何と素晴らしい詩(うた)でしょう。
皆様もどうか智慧に従ってください。
そうすれば、何も欠けることがない事を実感する筈です。
青草の原、憩いの水のほとりで、どうか皆様御自身の魂と遊んでください。
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「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。
それは、潔白な手と清い心をもつ人。」(詩編二四)
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ダビデの凛とした性格が浮び上がって来ると思います。
ダビデの智慧への強い意志が読み取れると思います。
ダビデが終始心がけた事は、神に対して無垢であろうとした事です。
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「主を畏れる人は誰か。
主はその人に選ぶべき道を示されるであろう」(詩篇二五)
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皆様も試みに、心から、神とも言われるその主を畏れ敬ってみてください。
そうすれば、その神とも言われる主は、皆様に善き道を示すのではないでしょうか。
神と言われる存在に貼り付けるレッテルは、悪ではなく善でしょうから。
神は善の権化となって、善の道を示す事なるのです。
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「主よ、あなたの裁きを望みます。
わたしは完全な道を歩いてきました。
主に信頼して、よろめいたことはありません。
主よ、わたしを調べ、試み、はらわたと心を火をもって試してみてください。」(詩編二六)
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ここにダビデの智慧への完全な信仰を見て取れますが、ダビデも生身の人間です。
常にこのように完全にあった訳ではありません。
生身の人間であり、揺れ動く存在です。しかし、その都度、その信仰へと帰って行ったのです。
そこに、私たちは生身の人間としてのダビデの信仰を見る事ができるのです。
詩篇が何故私たちの心を捉えるのか、それは「信仰の人」ダビデの一生涯を、それも心揺れ動く一生涯を見て取れるからです。
しかしダビデが信仰に帰った時は、不動そのものです。
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「心よ、主はお前に言われる、『わたしの顔を尋ね求めよ』と。
主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。」(詩篇二七)
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ここに主の二重構造があります。
一行目の言葉を放ったのは、智慧としての主ですが、この言葉の中の主とは、理想の存在としての神です。
この一行目を解釈すると次の通りとなります。
「理想を求めよ」もしくは「理想としての私を求めよ」と。
二行目の呼びかけの相手としての主とは、智慧の事です。
理想を求め、智慧に呼びかける事によって、智慧が理想に対する言(ことば)を下す事なります。
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「主は油注がれた者の力、その砦、救い。」(詩篇二八)
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智慧に目覚めた者に取って、智慧が力と成り、砦となり、救いとなる。
智慧は、智慧に目覚めた者に取ってのエネルギーなのです。
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「どうか主が民に力をお与えになるように。
主が民を祝福して平和をお与えになるように。」(詩篇二九)
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ダビデはヘブライ王国の民の平和を願いましたが、イエスは世界人類の平和を願ったのです。
ここにダビデとイエスの違いがあるのです。
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「わたしが死んで墓に下ることに、何の益があるのでしょう。
塵があなたに感謝をささげ、あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。」(詩篇三〇)
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この言葉は、ダビデの神を考える上でとても重要です。
ダビデの神は、死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのです。
これはイエスの神も、全ての神も同じです。
何故ならこの神とは、「私」が描く理想であり、その理想から齎される存在なのですから。
「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(新約聖書「マタイ福音書」)
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「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し、『あなたこそわたしの神』と申します。(詩篇三一)
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『あなたこそわたしの神』。
この言葉はとても重要な言葉です。
ここに三位一体の秘密もあります。
『私』と『貴方』と『神』、これが三位一体の秘密です。
なお、この秘密はイエスによって、解き明かされる事になります。
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「わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。
わたしは言いました。
『主にわたしの背きを告白しよう』と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」(詩篇三二)
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ダビデは常に完全な道を歩こうとしていました。
しかしダビデは生身の人間です。
咎を免れる事はできません。
ダビデはその都度その犯した咎を、主(智慧)に告白しました。
そして主(智慧)に赦して頂きました。
「日々新たに」、「新生」、これが「信仰の人」の歩む道です。
智慧は皆様の事を全て知っています。
皆様が背きを告白すれば、その時にはもう赦しを用意しているのです。
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「主に従う人よ、主によって喜び歌え。
主を賛美することは正しい人にふさわしい。
琴を奏でて主に感謝をささげ、十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。
新しい歌を主に向かってうたい、美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。」(詩篇三三)
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ダビデの詩(うた)は、全て賛歌であり、ほめ歌であり、感謝と喜びの歌です。
私たちはダビデの詩により、詩篇により、ダビデと共に、智慧と共にある喜びをうたう事ができるのです。
詩篇は、とても貴重な図書です。
詩篇は、智慧を楽しく学ぶ為の第一級の参考書なのです。
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「わたしは主に求め、主は答えてくださった。」(詩篇三四)
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これこそが、智慧(主)の智慧(主)たる所以です。
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「主よ、あなたは御覧になっています。
沈黙なさらないでください。
わたしの主よ、遠く離れないでください。
わたしの神よ、わたしの主よ、目を覚まし、起き上がり、わたしの為に裁きに望み、わたしに代わって争ってください。
主よ、わたしの神よ、あなたの正しさによって裁いてください。」((詩篇三五)
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ダビデは常に智慧と共に在った訳ではありません。
上記の詩は、ダビデが智慧から離れた時の詩です。
しかしこの熱愛に応じて、智慧はまた戻って来るのです。
哲学とはphilosophia、それは智慧を愛する事。
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「あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す。
命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」(詩篇三六)
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神の飲み物の事をネクターと言いますが、その所在はここに在るのです。
命の泉と智慧の泉は同じ事。
あなたの光と智慧の光も同じ事。
全ての源泉は、智慧にこそ在るのです。
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「無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。」(詩篇三七)
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ここに智慧の神秘があります。
無垢であろうと努めよとは、この世の囚われから自由になれと言う意味です。
この世の囚われから自由になり、そして無垢に成った時、智慧をまっすぐ見詰めてください。
そうすれば、智慧は皆様が心から求めているものを返してくれる筈です。
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「あなたの矢はわたしを射抜き、御手はわたしを押さえつけています。
わたしの肉にはまともなところもありません、あなたが激しく憤られたからです。
骨にも安らぎがありません、わたしが過ちを犯したからです。
わたしの罪悪は頭を超えるほどになり、耐え難い重荷となっています。
負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます、わたしが愚かな行いをしたからです。
わたしは身を屈め、深くうなだれ、一日中、嘆きつつ歩きます。
腰はただれに覆われています。
わたしの肉にはまともなところもありません。
もう立てないほど打ち砕かれ、心は呻き、うなり声をあげるだけです。
わたしの主よ、わたしの願いはすべて御前にあり、嘆きもあなたには隠されていません。
心は動転し、力はわたしを見捨て、目の光もまた、去りました。
疫病にかかったわたしを、愛する者も友も避けて立ち、わたしに近い者も、遠く離れて立ちます。
わたしの命をねらう者は罠を仕掛けます。
わたしに災いを望む者は、欺こう、破滅させよう、と決めて、一日中それを口にします。
わたしの耳は聞こえないかのように、聞こうとしません。
口は話せないかのように、開こうとしません。
わたしは聞くことのできない者、口に抗議することのできない者となりました。」(詩篇三八)
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それでもダビデは待ち続けました。
その結果はどうなったか。
皆様において、読み続けて頂きたいと思います。
智慧の勝利。
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「御覧下さい、与えられた生涯は、僅か、手の幅ほどのもの。
御前には、この人生も無に等しいのです。
ああ、人は確かに立っているようでも、すべて空しいもの。
ああ、人はただ影のように移ろうもの。
ああ、人はあせくせし、だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。
主よ、それなら何に望みをかけたらよいのでしょう。
わたしはあなたを待ち望みます。」(詩篇三九)
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それでもダビデは待ち続けました。
その結果はどうなったか。
皆様において、読み続けて頂きたいと思います。
智慧の勝利。
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「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も罪の代償の供え物も望まず、ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」(詩篇四〇)
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ここに、ダビデの智慧が、世界共通の智慧となる所以があるのです。
この智慧が、いけにえを求めないキリスト教へと引き継がれて行ったのです。
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「どうか、無垢なわたしを支え、とこしえに、御前に立たせてください。
主をたたえよ、イスラエルの神を、世々とこしえに。
アーメン、アーメン。」(詩篇四一)
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ここでダビデの一連の詩は終わりです。
「アーメン、アーメン」に象徴されています。
なお、ダビデの詩と銘のある詩は、詩篇の中の約半分です。
そして、そのダビデの詩の半分以上が、この一連の詩の中に収められています。
この詩篇一から詩篇四一までの一連の詩の中において、私たちは純粋にダビデと対峙する事ができます。
この一連のダビデの詩から読み取る事ができるのは、ダビデの智慧への熱烈な信仰です。
そしてその智慧への熱烈な信仰は、その熱情と共に、時代を超えて、智慧を求める人々に常に熱く語りかけているのです。
その熱波を受けた人々の数には限りがありません。
イエスもその中の一人ですし、マホメットもその中の一人です。
皆様もダビデの智慧の入門の書として、先ずは詩篇一から詩篇四一までを読んで頂きたいと思います
なお、上記の詩篇からの書き出しは、詩篇一から詩篇四一までの、それぞれの詩の中の最も象徴的な言葉を一つだけ取り出していますので、ダビデの智慧の全体像を掴む事ができなかったと思います。
ここに、再度、ダビデの智慧に関する言葉だけを集めて、書き出しますので、ここにおいて、再度ダビデの智慧を理解して頂きたいと思います。
なお、先程も述べましたが、ダビデは智慧の事を主と呼んでいますが、この主には二つの意味があります。
一つは究極の理想としての神の事であり、もう一つはその理想が言葉を齎す時のその存在(智慧)の事です。
この存在は、言(ことば)を持つので人格を持つものかのような存在に成る事になります。
ダビデはその辺りを微妙に使い分けていますが、どちらも主と言う言葉を使っています。
また時には、主を私の神とも呼んでいます。
理想が言(ことば)を齎す。
その言(ことば)を齎す存在は、智慧(主)。
だから、その理想と智慧は同じ事。
その理想を求めるのは『私』
だから、私と智慧(主)と理想(神)は同じ事。
これが三位一体の神秘ですが、ダビデの時代にはその事は意識されませんでした。
ダビデにおいては、私と智慧(主)が、常に対峙しています。
智慧は、言(ことば)を持つ存在として、常にダビデの傍らに居るのです。
この智慧を何処まで信じる事ができるか。
ダビデはその智慧を私の神(主)とした。
ここに私たちはダビデの智慧への熱烈な信仰を見る事ができるのです。
智慧の根源としての智慧、
その智慧に求めれば、
その智慧は皆様が求めるものを惜しみなく与えてくれるのです。
その智慧をダビデは主と呼んだのです。
皆様も主よと呼びかける代わりに、智慧の根源としての智慧よと呼びかけてみてください。
そうすればその智慧は皆様が求めるものを惜しみなく与えてくれます。
智慧の根源としての智慧とは何か。
それは皆様の中に在る光り輝く存在。
それは皆様が求め続けている本当の自分自身の事なのです。
「智慧の根源としての智慧よ、本当の私よ」と
以下の詩篇を読み替えて呼んでみてください。
そうすれば全ての詩篇が皆様の物に成る筈です。(この一節十三行は後日挿入)
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「主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます。」(詩篇三)
「呼び求めるわたしに答えてください。わたしの正しさを認めてくださる神よ。」(詩篇四)
「主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに住まわせてくださるのです。」(詩篇四)
「主よ、わたしの言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分けてください。」(詩篇五)
「主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き、まっすぐにあなたの道を歩ませてください。」(詩篇五)
「主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。」(詩篇五)
「主はわたしの泣く声を聞き、主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受けてくださる。」(詩篇六)
「主よ、裁きを行って宣言してください、お前は正しい、とがめるところはないと。」(詩篇七)
「主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることはない。」(詩篇九)
「主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け、その願いを聞き、彼らの心を確かにし、みなしごと虐げられて人のために、裁きをしてくださいます。」(詩篇一〇)
「主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。」(詩篇一一)
「主は言われます。『虐げに苦しむ者と呻いている貧しい者のために、今、わたしは立ち上がり、彼らがあえぎ望む救いを与えよう。』」(詩篇一二)
「わたしの神、主よ、私の目に光を与えてください。」(詩篇一三)
「わたしの心は御救いに喜び躍り、主に向かって歌います『主はわたしに報いてくださった』と。」(詩篇一三)
「主は天から人の子を見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と」(詩篇一四)
「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことできるのでしょうか。それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。」(詩篇一五)
「主に申します。『あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。』」(詩篇一六)
「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主は私の運命を支える方。」(詩篇一六)
「主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。」(詩篇一六)
「主は右にいまし。わたしは揺らぐことはありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。」(詩篇一六)
「命の道を教えてください。」(詩篇一六)
「主よ、正しい訴えを聞き、わたしの叫びに耳を傾け、祈りに耳を向けてください。」(詩篇一七)
「あなたを呼び求めます。神よ、わたしに答えてください。」(詩篇一七)
「主よ、わたしの力よ。わたしはあなたを慕う。」(詩篇一八)
「主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。」(詩篇一八)
「主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる。」(詩篇一八)
「主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。」(詩篇一八)
「わたしは主の道を守り、わたしの神に背かない。」(詩篇一八)
「わたしは主の裁きをすべて前に置き、主の掟を遠ざけない。」(詩篇一八)
「わたしは主に無垢であろうとし、罪から身を守る。」(詩篇一八)
「主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目に対してわたしの手は清い。」(詩篇一八)
「あなたの慈しみ生きる人にあなたは慈しみを示し、無垢な人には無垢に、清い人には清くふるまい、心の曲がった者には背を向けられる。」(詩篇一八)
「主よ、あなたはわたしの灯火を輝かし、神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。」(詩篇一八)
「主のほかに神はいない。神のほかに我らの岩はない。」(詩篇一八)
「神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を完全にし、わたしの足を鹿のように速くし、高い所に立たせ、手に戦いの技を教え、腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。」(詩篇一八)
「あなたは救いの盾をわたしに授け、右の御手で支えてくださる。あなたは自ら降り、わたしを強い者としてくださる。」(詩篇一八)
「主は命の神。」(詩篇一八)
「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に智慧を与える。」(詩篇一九)
「主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。」(詩篇一九)
「主への畏れは清く、いつまでも続き、主の裁きはまことで、ことごとく正しい。」(詩篇一九)
「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。」(詩篇一九)
「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前におかれますように。」(詩篇一九)
「主があなたの求めるところを、すべて実現させてくださるように。」(詩篇二〇)
「今、わたしは知った。主は油注がれた方に勝利を授け、聖なる天から彼に答えて、右の御手による救いの力を示されることを。」(詩篇二〇)
「主よ、あなただけは、わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ、今すぐわたしを助けてください。」(詩篇二二)
「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。」(詩篇二二)
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(詩篇二三)
「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いのほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」(詩篇二三)
「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。」(詩篇二三)
「主の家に帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」(詩篇二三)
「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心を持つ人。」(詩篇二四)
「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み、わたしの神よ、あなたに依り頼みます。」(詩篇二五)
「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。あなたのまことにわたしを導いてください。」(詩篇二五)
「主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示してくださいます。」(詩篇二五)
「主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。」(詩篇二五)
「主を畏れる人に、主は契約の奥義を悟らせてくださる。」(詩篇二五)
「あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら、そのことがわたしを守ってくれるでしょう。」(詩篇二五)
「主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。」(詩篇二六)
「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。」(詩篇二七)
「主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。」(詩篇二七)
「主よ、呼び求めるわたしの声を聞き、憐れんで、わたしに答えてください。」(詩篇二七)
「心よ、主はお前に言われる。『わたしの顔を尋ね求めよ』と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。」(詩篇二七)
「父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。」(詩篇二七)
「主よ、あなたの道を示し、平らな道に導いてください。」(詩篇二七)
「主はわたしの力、わたしの盾、わたしの心は主に依り頼みます。」(詩篇二八)
「主の助けを得て、わたしの心は喜び躍ります。」(詩篇二八)
「主は油注がれた者の力、その砦、救い。」(詩篇二八)
「わたしの神よ、主よ、叫び求めるわたしを、あなたは癒してくださいました。」(詩篇三〇)
「平穏なときには、申しました。『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と。主よ、あなたが御旨によって、砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると、わたしはたちまち恐怖に陥りました。」(詩篇三〇)
「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。」(詩篇三〇)
「主よ、耳を傾けて、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。」(詩篇三〇)
「あなたはわたしの嘆きを踊りにかえ、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。」(詩篇三〇)
「あなたの耳をわたしに傾け、急いでわたしを救い出してください。」(詩篇三一)
「主よ、憐れんでください。わたしは苦しんでいます。」(詩篇三一)
「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し、『あなたこそわたしの神』と申します。」(詩篇三一)
「主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。」(詩篇三一)
「雄々しくあれ、心を強くせよ、主を待ち望む人はすべて。」(詩篇三一)
「わたしは言いました。『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」(詩篇三二)
「あなたの慈しみ生きる人は皆、あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。」(詩篇三二)
「神に従う人よ、主によって喜び踊れ。すべての心正しい人よ、喜びの声をあげよ。」(詩篇三二)
「主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。」(詩篇三三)
「どのようなときにも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。」(詩篇三三)
「わたしは主に求め、主は答えてくださった。」(詩篇三四)
「主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。」(詩篇三四)
「味わい、見よ、主の恵みの深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」(詩篇三四)
「主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。」(詩篇三四)
「主は、従う人に目を注ぎ、助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。」(詩篇三四)
「主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを救ってくださる。」(詩篇三四)
「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。」(詩篇三四)
「わたしの魂は主によって喜び躍り、御救いを喜び楽しみます。」(詩篇三五)
「主よ、わたしの神よ、あなたの正しさによって裁いてください。」(詩篇三五)
「あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す。」(詩篇三六)
「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」(詩篇三六)
「主に自らをゆだねよ、主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇三七)
「無垢な人の生涯を、主は知っていてくださる。」(詩篇三七)
「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を示してくださる。」(詩篇三七)
「若いときにも老いた今も、わたしは見ていない、主に従う人が捨てられ、子孫がパンを乞うのを。」(詩篇三七)
「主は正義を愛される。」(詩篇三七)
「主に従う人は、口に知恵の言葉があり、その舌は正義を語る。」(詩篇三七)
「主に望みをおき、主の道を守れ。主はあなたを高く上げて、地を継がせてくれる。」(詩篇三七)
「無垢であろうと努め、まっすぐ見ようとせよ。平和な人には未来がある。」(詩篇三七)
「主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」(詩篇三七)
「主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。」(詩篇三八)
「わたしの主よ、わたしの神よ、御自身でわたしに答えてください。」(詩篇三八)
「わたしの救い、わたしの主よ、すぐにわたしを救ってください。」(詩篇三八)
「主よ、それなら、何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。」(詩篇三八)
「主よ、わたしの祈りを聞き、助けを求める叫びに耳を傾けてください。」(詩篇三八)
「主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。」(詩篇四〇)
「あなたはいけにえも、穀物の供えも望まず、焼き尽くす供え物も、罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」(詩篇四〇)
「どうか、無垢なわたしを支え、とこしえに、御前に立たせてください、主をたたえよ、イスラエルの神を、世々とこしえに、アーメン、アーメン。」(詩篇四一)
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皆様、ダビデの智慧を理解できたでしょうか。
ダビデの智慧は、要領を掴めばとても理解しやすいと思います。
ダビデの智慧とは主の事ですから、主を智慧と置き換えれば、私たちはダビデの智慧を理解する事ができます。
その智慧はソロモンの智慧とも同じですし、人類共通の智慧とも同じです。
ただ、ダビデ、ソロモンの智慧の前に、モーセの智慧がありましたので、それらの智慧はモーセの智慧の影響下に在る事になります。
「温故知新」、これにより、智慧は引継がれて行くのです。
ところで、皆様、ダビデの智慧は如何でしょうか。
ユダヤの神と言うその仮面をすっかり剥ぎ取った上で、その智慧をまっすぐに見詰めてください。
ダビデの智慧が如何に素晴らしいかお分かりになると思います。
ダビデの智慧で何か気に食わない事がありますか?
皆様も、理想を高く掲げ、そして無垢であれば、智慧は、皆様が求めるものを、惜しみなく与えてくれるのです。
ダビデは最後の詩篇四一で言っていますよね。
「どうか、無垢なわたしを支え、とこしえに御前に立たせてください、主をたたえよ」と。
どうか皆様も無垢になってください。
そうすれば、皆様の主である智慧は、皆様の理想に応じて、智慧の言葉を下す事になります。
その言葉に依って、皆様は皆様の理想の前に立つのです。
その時、皆様は皆様の主である智慧に感謝を捧げずにはいられなくなるのです。
ところで無垢な私とは何でしょう。
それはこの世の『私』を捨て去った本当の『私』と言う事になります。
その本当の『私』と智慧(主)は同じ事。
そしてその智慧が理想(神)の言(ことば)を語る事になるのです。
「この世の『私』=本当の『私』=智慧(主)=理想としての神」と言う状態に成った時、三位一体の神秘が起こる事になるのです。
このような事は、生身の人間では起こりません。
あのダビデさえ、そんな事は起こりませんでした。
しかしそんな事が起こったのです。
それがイエスです。
よくイエスは「人の子」であると同時に「神の子」であると言われます。
その言葉がその象徴です。
私たちは人の子です。
私たちはこの世に在る時は、人の子です。
この世をすっかり捨て去った時、私たちは神の子と成るができます。
しかしまたこの世に戻れば、私たちは神の子ではなく、人の子と成ります。
幾らか神の子の属性は帯びているかも知れませんが。
しかし一年三六五日二四時間中、人の子で在ると共に神の子で在り続ける人が生まれたのです。
それがイエスと言う事になります。
イエスは神の子ですので、何時如何なる時でも、世界人類の理想の神としての言(ことば)を語り続け、そしてそれに基づき行動し続ける事になります。
私たちは、イエスにおいて、智慧を形あるものとして見る事ができるのです。
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「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである。」(新約聖書「マタイ福音書」)
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私たちは智慧を人間の形として見る事ができるのです。
そして私たちはその人間から、智慧の言葉をそのままに聞く事ができるのです。
私たちはその言葉に倣い、その行いに倣う事によって、私たち自身において智慧を具現する事ができるようになったと言うのが、上記のイエスの言葉です。
イエス・キリストに倣う者をクリスチャンと言います。
それを普遍的な言葉で言えば、智慧に生きる人と言う事になります。
なお、キリストとは救い主と言う意味ですが、それは智慧の事です。
イエス=智慧(キリスト=主)=神、これが三位一体です。
イエスとは生身の人間、あの時代にこの世を生きた、かのイエスと言う事になります。
イエスは人の子、キリストは神の子。
ですからイエス・キリストは、人の子であり、神の子でもあると言う事になるのです。
ダビデは、智慧を熱烈に追い求めました、神として。
彼はそれを見る事も、聞く事もできませんでしたが、見えるかのように、聞こえるかのように、それを追い求め続けたのです。
古今東西の聖人賢人たちも皆同じです。
しかしイエスは、それを見、それを聞き、そしてそれを自らに具現したのです。
ですから、イエスの智慧の教えはとても強烈なのです。
ダビデは智慧を追い求め続けましたが、イエスは智慧そのものと成ったのです。
私たちは、新約聖書によって、智慧を人間の形として見る事ができるのです。
先ずは「マタイ福音書」において、イエスの智慧を見て行く事にしましよう。
「第三章 イエスの智慧」へ