第三章 イエスの智慧

第三章 イエスの智慧

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「イエスは洗礼を受けると、すぐに水の中から上がられた。
 そのとき、天がイエスに向かって開いた。
 イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
 そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえて来た。」(「マタイ福音書三)
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 ここにおいて、イエスは智慧の人と成りました。
 皆様も一生懸命、智慧を愛する事に専念すれば、ここまで到る事は可能です。
 しかしここから荒野の試練が待っているのです
 この荒野の試練をパスできてこそ、始めてキリスト(この世の救い主=智慧の現人神)と成る事ができるのです。
 この荒野の試練とは、この世を完全に捨て去る事です。

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「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
 そして四十日間、昼も夜も断食をした後、空腹を覚えられた。
 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。」(「マタイ福音書四」)
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 ここからイエスは悪魔から様々な誘惑を受ける事になりますが、それらを悉く撥ね返して行きます
 そしてキリスト(この世の救い主=智慧の現人神)と成るのです。
 イエス・キリストの誕生です。
 悪魔の最後の誘惑とその直後の様子は次のとおりです。

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「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もしひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。
 すると、イエスは言われた。
『退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。』
 そこで悪魔は離れ去った。
 すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」(「マタイ福音書四」)
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 イエスが荒野で受けた試練は三つです。
 一つ目がこの世の肉からの解放であり、
 二つ目がこの世の運命からの解放であり
 三つ目がこの世の富からの解放です。
 イエスは荒野の試練でこれらを悉く撥ね返し、この世から全く自由になったのです。
 そしてその時からイエスは宣教を始めたのです。
 「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と宣べて。

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「その時から、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」(「マタイ福音書四」)
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 イエスは智慧の存在を知り、智慧と共にこの世の試練を受け、智慧においてこの世の欲の全てを撥ね返し、そして智慧と成り、この世に出て行ったのです。
 「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と宣べて。

 私はこのように智慧と成り、天の国を得た。
 貴方方にもその可能性が生まれた。
 だから悔い改めよ、と宣べて。

 何を悔い改めるのか。
 それは皆様方の生活全般を、です。
 皆様方は皆様の全てをこの世の肉の欲の為に仕えていますが、
 そうではなくて、皆様の全てを皆様の主とも言われる神、すなわち皆様の智慧に仕えなさいと言っているのです。
 そうすれば、自ずから天の国は近付いて来ると。
 何故なら、天の国とは智慧の王国の事でもあるのですから。

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「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
 義に餓え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(「マタイ福音書五」)
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 もし皆様が常に智慧と共に在れば、皆様は常に幸せです。
 何故なら智慧こそが、幸福の基(もとい)なのですから。
 もし皆様が今、心が貧しいと思うのなら智慧を愛しなさい。そうすれば皆様の心は豊かに成ります。
 もし皆様が今、悲しいのなら智慧を愛しなさい。そうすれば慰められます。
 柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義の為に迫害される人々、彼らは皆、智慧を愛する人々です。
 彼らは皆、幸せの中にいます。
 彼らは、この地を受け継ぎ、この地で満たされ、この地で憐れみを受け、更には神を見、神の子と成り、そして天の国の住人と成るのです。
 天の国とは、智慧の王国の事です。
 皆様が常に智慧を愛し続けて居れば、皆様は天の国の住人とも成り得るのです。
 
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「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(「マタイ福音書五」)
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 義とは何でしょう。
 それは義(ただし)き事。
 それは皆様の真心の中に宿っているのです。
 皆様が智慧を愛すれば愛する程、それは皆様の真心の中で輝き出すのです。
 皆様の真心が皆様の義で一杯に成った時、皆様は天の国に入る事が出来るのです。
 
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「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
 しかし、わたしは言っておく。
 敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
 あなたがたの天の父の子となるためである。
 父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたにどんな報いがあるであろうか。
 徴税人でも、同じことをしているではないか。
 自分の兄弟だけにだけ挨拶したところで、どんなに優れたことをしたことになろうか。
 異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
 だからあなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(「マタイ福音書五」)
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 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」
 「あなたがたの天の父の子となるためである」
 これが宗教の究極の教えです。
 すなわち皆様自身が神の子と成りなさい、と言っているのです。
 そうすれば天の国は皆様のものです。
 その為に必要な事は、「天の父の御心を行う事」です。
 
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「施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
 あなたの施しを人目につかせないためである。
 そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(「マタイ福音書六」) 
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 皆様の天の父は皆様と共に常に居ます。
 ですから誰にも知らせる事など無いのです。
 善き事は何も考えずに行う事が、ベストです。
 そうすれば、皆様の天の父が皆様を一歩ずつ天の国へと招き入れて呉れるのです。
 何故なら皆様の天の父とは、本当の皆様御自身の事なのですから。
 
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「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。
 そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(「マタイ福音書六」) 
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 「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めて」
 これが神との対話ではどうしても必要です。
 皆様も、「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めて」、一人静かに瞑想してみてください。
 そすれば、そこに皆様の神である主が舞い降りて来る筈です。
 そこから神との対話が始まる事になります。
 その対話は悦びに満ちたものとなります。
  
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「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。
 異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
 彼らのまねをしてはならない。
 あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(「マタイ福音書六」)
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 皆様の天の父は皆様の事は何でも知っています。
 ですからくどくどと述べる必要など何も無いのです。
 皆様の天の父は皆様が幸せに成る為に存在しているのです。
 ですからただただ、皆様の天の父を求めて下さい。
 そうすれば皆様は幸せに成ります。
 何故なら皆様の天の父とは本当の皆様御自身の事なのですから。
 本当の自分自身に成る事が最高の善なのです。

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「あなたは、断食するときは、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見てきただくためである。
 そうすれば、隠れたことを見ていておられるあなたの父が報いてくださる。」(「マタイ福音書六」)
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 断食とはこの世の肉の欲を断つ事です。
 この世の肉の欲を断った所に何が存在しているのか。
 そこに智慧が存在しているのです。
 イエスを見て下さい。
 この世の肉の欲を全て捨て去った後に、智慧の現人神と成ったのです。

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「あなたの富のあるところに、あなたの心もある。」(「マタイ福音書六」)
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 皆様の心こそが宝の宝庫です。
 皆様の心の中に智慧を常駐させて下さい。
 そうすれば皆様の智慧はこれでもかと言わんばかりに智慧を与えて呉れます。
 皆様は智慧に依って智慧の分限者と成るのです。

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「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。
 あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(「マタイ福音書六」)
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 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」
 神の義は、皆様の真心に記されています。
 皆様が智慧を愛すれば愛する程、皆様の真心はそれで満たされる事に成ります。
 そしてその時皆様は、「神は愛なり」と言う言葉を実感する事に成るのです。

 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
  これが最も重要な第一の掟である。
  第二もこれと同じように重要である。
  『隣人を自分のように愛しなさい。』
  律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書二二)

 第一の掟が、神の義を求める事であり、
 第二の掟が、神の国を求める事です。
 何故なら「神の国」とは、この世に実現すべき「愛の王国」の事なのですから。

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「求めなさい。そうすれば、与えられる。
 探しなさい。そうすれば、見つかる。
 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。
 まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物を与えてくださるにちがいない。(「マタイ福音書七」)
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 皆様の天の父とは皆様の智慧の事です。
 皆様の智慧は皆様が心から求めるものをこれでもかこれでもかと言う位与えて呉れるのです。
 皆様が心から求めるもの、それは「愛」です。
 皆様は智慧において、愛に富める者となるのです。

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「茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また悪い木が良い実を結ぶこともできない。」「マタイ福音書七」)
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 全ては皆様の心から生まれるのです。
 ですからどうか皆様の心の中に智慧を常駐させて下さい。
 そうすればそこは智慧の楽園です。
 皆様は一年中季節ごとに智慧の果実を食する事になります。
 いいえ皆様は、一瞬、一瞬ごとに智慧の果実を食する事になるのです。
 智慧の果実、それは愛の事です。

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「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。
 わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(「マタイ福音書七」)
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 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
  これが最も重要な第一の掟である。
  第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書二二」)

 もし皆様が智慧の事を知れば、皆様は心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして皆様の智慧を愛する事に成ります。
 何故ならそこには常に至福が伴うのですから。
 しかしそれだけでは天の国に入る事は出来ないのです。
 皆様が真に天の国に入る為には、皆様は心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして隣人をも愛さなければならないのです。
 何故なら天の国とは、この世に実現すべき「愛の王国」の事なのですから。
 そしてそれはまた「智慧の王国」の事でもあります。
 天の国とは、この世に実現すべき「智慧と愛の王国」の事なのです。
 それは「天の父の御心」を行う事に依って実現するのです。
 天の父の御心とは、智慧を愛し、隣人を愛すると言う事に成ります。
 
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「すると、一人のらい病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります』と言った。
 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、らい病は清くなった。」(「マタイ福音書八」)
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 ここからは信仰の記事が始まります。
 信仰によって全てが可能となるのです。
 何を信じるのか。
 それは「私の神である主」。
 「私の神である主」とは何か。
 それは智慧の事。
 イエスは智慧の現人神です。
 智慧は見る事も聞く事も触れる事も出来ません。
 その智慧が形あるものとして現れたのが人の子イエスと言う事になります。
 ですからイエスと信じると言う事は智慧を信じると言う事と同じ事でもあるのです。

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「『主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
 ただ、一言おしゃってください。
 そうすれば、わたしの僕はいやされます。』
 中略
 『帰りなさい。あなたが信じたとおりなるように。』ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。」(「マタイ福音書八」)
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 智慧への信仰は自らだけでなく隣人をも救うのです。
 ここに智慧の偉大な所があります。
 智慧への愛が隣人への愛へと繋がっていくのです。
「『心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
 これが最も重要な第一の掟である。
 第二もこれと同じように重要である。
 『隣人を自分のように愛しなさい。』」(「マタイ福音書二二」)

 さてイエスはどのようにして患いを癒したのでしょうか。

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「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を癒された。」(「マタイ福音書八」)
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 そうなのです。
 智慧は言葉によって、力を得るのです。
 どんな患いも言葉によって癒す事が可能となるのです。

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「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
 そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。
 イエスは眠っておられた。
 弟子たちは近寄って起し、『主よ、助けてください、おぼれそうです』と言った。
 イエスは言われた。
『なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。』
 そして、起き上がって風と湖をお叱りになると、すっかり凪になった。」(「マタイ福音書八」)
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 智慧は最大限の働きを要求します。
 考える事を止めると妄信にもなりかねません。
 皆様はこの公案をどのように解釈しますか。
 『心頭滅却すれば火もまた涼し』
 この世の私を捨てて、主に依り頼む。
 そうすれば主は、皆様を無心の世界へと誘って呉れます。
 世界のリセットです。
 そこから皆様の新しい世界が始まるのです。

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「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。
 徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子と同席していた。
 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに『なぜ、あなたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。
 イエスはこれを聞いて言われた。
『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である』。
『私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどう言う意味か、行って学びなさい。
 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」(「マタイ福音書九」)
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 「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」
 「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」(「歎異抄第3章」)
 心の貧しい人、罪人、悪人の為にこそ、智慧は存在しているのです。
 何故なら、智慧によって、それらの人は劇的に天の国に生まれ変わる事ができるからです。
 回心、回向、それらの言葉はこれらの人にあると言っても過言ではないでしょう。

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「そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食をしないのですか』と言った。
 イエスは言われた。
 『花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。
  しかし、花婿が奪い取られる時が来る。
  そのとき、彼らは断食することになる』」(「マタイ福音書九」)
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 智慧と共に居る時、人は断食する事はできない。
 何故なら天の国に居るのだから。
 しかし智慧が去った時、断食する事になる。
 断食とは、この世を捨て去る行為。
 この世を捨ててこそ、智慧がまた舞い降りて来る。

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「すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。
『この方の服に触れさせえすれば治してもらえる』と思ったからである。
 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。
『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』
 そのとき、彼女は治った。」(「マタイ福音書九」)
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 智慧への信仰が人々を救う。
 これはいつの世も同じ事。
 イエスは彼女の智慧を写す写し鏡だったのです。

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「イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、『ダビデの子よ、私たちを憐れんでください』と言いながらついて来た。
 イエスが家に入ると盲人たちがそばに寄って来たので、『わたしにできると信じるのか』と言われた。
 二人は、『はい、主よ』と言った。
 そこで、イエスが二人の目に触り、『あなたが信じているとおりになるように』と言われると、二人は目が見えるようになった。」(「マタイ福音書九」)
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 二人は盲人でしたが、心眼により、智慧の現人神としてのイエスに、自らの智慧を見たのです。
 「あなたが信じているとおりになるように」
 二人の盲人はそこに自らの天の国を見出したのです。

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「また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。
 引き渡されたときは、何をどう言おうか心配してはならない。
 そのとき、言うべき事は教えられる。
 実は、話すのはあなたがたではなく、あなたの中で語ってくださる、父の霊である。」(「マタイ福音書一〇」)
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 これは十二人の弟子の宣教の門出に語った言葉です。
 彼らはイエスを映し鏡として自らの智慧を学んでいました。
 彼らもまた、智慧の現人神としてのイエスを目指していました。
 そんな彼らの門出に贈った言葉です。
 人は試練の時にこそ、智慧の子となるのです。

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「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。
 わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(「マタイ福音書一〇」)
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 この世を捨ててこそ、智慧が輝く。
 これは何時の時代にも変わらぬ事。

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「はっきり言っておく。
 およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。
 しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」(「マタイ福音書一一」)
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 もし皆様が、ヨハネやイエスの言葉を聞かなければ、皆様はこれまでと何の変わりもなかった。
 しかし、皆様はヨハネやイエスの言葉と聞いてしまった。
 そこに天の国が現れたが、一方それを激しく襲い、奪おうと勢力があることにも目覚めてしまった。
 皆様はヨハネによりこの世の素晴らしい言葉を、そしてイエスにより自ら自身の素晴らしい言葉をイエスの口を借りて聞いてしまった。
 しかしそれをこの世で実行する事ができない。
 何故ならもう一人の皆様が激しく抵抗するから。

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「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。
 しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」(「マタイ福音書一11」)
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 「知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
 これが新約聖書全編で言われている事である。
 「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」
「木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。」
 智慧は言(ことば)に結実する。
 「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
 言(ことば)とは、言葉とならない言をも含む。
言(ことば)とは、言によって現わされる皆様御自身の事なのです。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(「ヨハネ福音書一)

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「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
 休ませてあげよう。
 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を追い、わたしに学びなさい。
 そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(「マタイ福音書一一」)
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 この言葉を知るものは智慧を知る者です。
 智慧は皆様にとってこの上なく柔和で優しい存在なのです。
 「主は羊飼い、わたしは何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」(「詩編」)

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「見よ、わたしの選んだ僕。
 わたしの心に適った愛する者。
 この僕にわたしの霊を授ける。」(「マタイ福音書一二」)
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 もし皆様が、この世を完全に捨て去り、智慧を愛し続けていれば、皆様の智慧が皆様にこのような言葉を授けて呉れるのかも知れませんね。
 要は、皆様がどこまで智慧を信じ切る事が出来るかです。

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「だから言っておく。
 人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。
 人の子に言い逆らう者は赦される。
 しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(「マタイ福音書一二」)
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 皆様を裁くのは本当の皆様御自身です。
 イエスの言葉を借りればそれは主であり、普遍的な言葉で言い換えればそれは智慧です。
 それは皆様の心の中に存在している純粋無垢な存在の事です。
 その霊に逆らえば、何時の世でも、何時何処おいても赦されないのは当然の理です。
 何故ならその霊が皆様を包んで、皆様を真っ白にして呉れるのですから。
 その霊に逆らえば、誰が皆様を清めて呉れると言うのでしょう。
 
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「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。
 木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。
 蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。
 人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。
 善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。
 言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。
 あなたは、自分の言葉によって義とされ、自分の言葉によって罪ある者とされる。」「マタイ福音書一二」)
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 「自分の言葉によって義とされ、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
 皆様自身を裁くのは皆様自身です。
 イエスの言葉を借りれば主です。
 一日を一生としましよう。
 その最後の夜、皆様はこの世を完全に捨て去りました。
 そこで皆様の主は、その一生の清算を迫る事になります。
 さて皆様は皆様に何点をつけますか。
 その点数のまま、皆様は明けない夜を迎える事になるのです。
 満点のままだと人は夢を見る事もありません。無心そのものです。
 しかし点数が悪いと、デフォルメした夢を見る事になります。
 一生覚めない夢を。

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「『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが決して認めない。
 この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。
 わたしは彼らをいやさない。』
 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。
 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
 はっきり言っておく。
 多くの預言者や正しい人は、あなたたちが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたが聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである。」(「マタイ福音書一三」) 
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 イエスは智慧の現人神です。
 皆様は皆様の智慧をイエスにどれ位見る事ができますか?

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「イエスはたとえを用いて彼らに多くの事を語られた。
『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。
 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。
 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。
耳ある者は聞きなさい。』(「マタイ福音書一三」) 
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「イエスは別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。
『天の国はからし種に似ている。
 人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長すれとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。』」(「マタイ福音書一三」)
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「また、別のたとえをお話になった。
『天の国はパン種に似ている。
 女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。』」(「マタイ福音書一三」)
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 天の国、それは皆様の智慧の王国の事です。
 皆様が智慧を愛すれば愛する程、皆様の智慧の王国は強大と成るのです。
 そのからし粒種程の智慧が世界を席巻する事とも成るのです。
 智慧とは何か。
 それは無で在る共に無限なるものです。
 
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「『あなたがたは、これらのことがみんな分かったか。』
  弟子たちは、『わかりました』と言った。
 イエスは言われた。
 『だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。』」(「マタイ福音書一三」)
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 「温故知新」
 天の国は智慧の蔵。
 そこには無窮の財産が眠っています。
 皆様が智慧を愛すれば愛する程、それらが皆様の前に姿を現して来ます。
 そしてそれらは全て皆様の為の物なのです。
 「温故知新」
 先ずは聖人賢人にその智慧を学んで下さい。
 そして次に自らにその智慧を学んで下さい。
 そうすれば皆様は日々成長して行く事と成ります。
 「苟(まこと)に日に新たに、日々新たに、又日に新たに」(「大学」)
 「温故知新」
 聖人賢人の智慧が皆様の智慧と成り、皆様の智慧が聖人賢人の智慧と成るのです。

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「イエスが言われた。
『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』
 シモン・ペテロが『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。
 するとイエスはお答えになった。
『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。
 あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
 わたしも言っておく。
 あなたはペテロ。
 わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。
 陰府の力もこれに対抗できない。
 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。
 あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。
 あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。』」(「マタイ福音書一六」)
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 「あなたはメシア、生ける神の子です」
 「あなたはペテロ(岩)」、この岩の上にわたしの教会を建てる。
 智慧への絶対的信仰によって、天の国が開けるのです。
 シモン・バルヨナは、智慧の現人神としてのイエスに対して、岩の様な絶対的信仰を持ち続けたのです。
 ですからイエスが死んだ後も、ペテロ(岩)として在り続ける事が出来たのです。

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「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
 はっきり、言っておく。
 ここに一緒にいる人々に中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」(「マタイ福音書一六」)
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 人の子と共にその国を見る。
 智慧と共にその理想の王国を見る。
 これが人生に与えられた課題です。
 自分の理想を何処まで実現させたか。
 この事を、人生最後の決算の時に問われるのです。
 この世を捨てれば、理想に生きる事が易しくなる。

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「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
 イエスの姿が彼らの目の前の変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
 ペトロが口をはさんでイエスに言った。
『主よ、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです。
 お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。
 一つはあなたのため、一つはモーセのため、もうひとつはエリヤのためです。』
 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。
 すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。』という声が雲の中から聞こえた。」(「マタイ福音書一七」)
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 智慧への絶対的信仰。
 ペトロはモーセの世界に住んでいた。
 そしてエリヤ(ヨハネ)から義の世界を聞いた。
 そして智慧の現人神イエスから智慧の事を学び、智慧に対する絶対的信仰を得たのである。
 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」
 智慧の現人神イエスに最初にそれを見、そして自らにそれを見出したのです。
 その名は智慧、ペトロの世界では主。

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「イエスは言われた。
『信仰が薄いからだ。
 もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになる。
 あなたがたにできないことは何もない。』」(「マタイ福音書一七」)
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 皆様は理想をお持ちですか。
 もし皆様が理想に向かっていれば、皆様の智慧が、皆様のそれを一歩ずつ切り開いてくれるのです。
 その結果、山が移ることにもなるのです
 「千里の道も一歩から」

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「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った。
 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。
『はっきり言っておく。
 心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入る事はできない。
 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ』」(「マタイ福音書一八」)
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 「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入る事はできない」
 天国は純真無垢な世界。
 そしてそこは至福(恍惚)の世界。
 その至福(恍惚)の分かち合い、それが愛なのです。
 天の国とは愛の国の事。
 愛の国で一番偉い人は、子供の様に純粋無垢な人の事。
 ですから「子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」と言う事に成るのです。
 
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「また、はっきり言っておくが、どんな願いことであれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(「マタイ福音書一八」) 
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 ここで言うわたしとは、イエス・キリストの事です。
 私と皆様とイエスが、心を一つにして求めるなら何でも得られるのです。
 キリストとは皆様の真心の事です。
 それは私の真心でもあります。
 三人が一緒にその真心を求めれば、そこに私たち共通の真心が存在する事になります。
 その共通の真心を体言したのがイエスと言う事になるのです。

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「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるでしょう。」(「マタイ福音書一八」)
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 皆様の心が皆様の天の父の御心なのです。
 皆様が心を清めれば、それだけ皆様の天の父の御心も清くなるのです。
 そしてそれは無限と言っても良いでしょう。
 皆様の心を清める事によって、皆様の天の父はより偉大な存在と成るのです。
 
 「心の清い人は幸いである、その人たちは神を見る」
 皆様が心を清めれば清めるほど、皆様は神に近付く事と成るのです。
 皆様の心を清める為の道具、それが哲学、すなわち智慧を愛すると言う事なのです。
 皆様が智慧を愛すれば愛する程、皆様の心は清らかに成るのです。
 「心の清い人は幸いである、その人たちは神を見る」
 それは哲学に依って可能と成るのです。

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「弟子たちは、『夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです』と言った。
 イエスは言われた。
『だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。
 結婚できないように生まれついた者、人から結婚されないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。
 これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。』」(「マタイ福音書一九」)
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 天の国の為に結婚しない者は、恵まれた者だけである。
 イエスについて然り、プラトンについて然り、カントについて然り。 
 しかし我が子よ、貴方は結婚しなさい。
 貴方一代で天の国を創造する事はできない。
 貴方はヨハネとなるべきである。
 そして続く代へと、天の国への鍵を渡し続けなさい
 貴方が先ずヨハネとなり、そしてその後に、神の子(智慧の子)の第一代となりなさい。
 そうすれば、貴方の子孫は神の子(智慧の子)の系譜と呼ばれる事だろう。
 我が子よ、その為にも先ず智慧を学びなさい。
 それから結婚だ!

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「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(「マタイ福音書一九」)
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 智慧の為に一生を捧げる。
 こんな楽しい事は無い。
 智慧があれば「知足」(足るを知る)。
 智慧さえあればこの世は楽しい。
 しかし我が子よ、貴方には家族の試練を課す。
 イエスが荒野の試練をパスしたように、貴方が家族の試練をパスしたら、貴方の愛は世界へと羽ばたく。
 貴方の父母、兄弟姉妹、そして子供への愛が、イエスの言う隣人愛へと変わった時、貴方の愛は完成する。
 智慧への愛と隣人への愛、これが全てである。
「『心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
 これが最も重要な第一の掟である。
 第二もこれと同じように重要である。
 『隣人を自分のように愛しなさい。』
 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

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「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。
 あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのと同じように。」(「マタイ福音書二〇」)
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 智慧は何の為に存在しているのでしょう。
 愛される為に、です。
 智慧を愛すればどうなるのでしょう。
 「愛」に成るのです。
 愛に成った人は、どうしても皆に仕える者と成るのです。

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「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
 そして言われた。
『こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』
 ところがあなたたちは、それを強盗の巣にしている。』」(「マタイ福音書二〇」)
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 皆様の心の中のその真ん中、そこが皆様の神殿です。
 皆様はそこを金儲けや色恋沙汰の巣窟にはしていませんか。

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「イエスはお答えになった。
『はっきり言っておく。
 あなたがたが信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。
 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。』」(「マタイ福音書二一」)
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 「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」
 皆様が心から求めるもの、それは山が立ち上がって海に飛び込む事なんかではありませんよね。
 皆様が心から求めるもの、それは「愛の王国」ですよね。
 多くの日本の人々が心から信じてそれを求めれば、この日本が「愛の王国」とも成り得るのです。

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「『ところでどうお思いでしょうか、お教えください。
  皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。』
  イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。
 『偽善者たち、なぜわたしを試そうとするのか。
  税金に納めるお金を見せなさい。』
  彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、『これはだれの肖像と銘か』と言われた。
  彼らは、『皇帝のものです』と言った。
  するとイエスは言われた。
 『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」(「マタイ福音書二二」)
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 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
 「あなたがたは、神と富に仕えることはできない。」
 皆様はこの世の富に仕えますか、それとも皆様自身の神(智慧)に仕えますか。
 もし皆様が智慧に仕えれば、この世の富よりも更に素晴らしいものが得られる事に成っているのです。
 それが何かと問われれば、それは皆様自身の「智慧と愛の王国」です。

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「イエスはお答えになった。
『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことはないのか。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。』」(「マタイ福音書二二」)
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 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」
 神とは生きている皆様の主、すなわち皆様御自身の智慧の事です。
 その智慧の存在を知らない状態の事を一般的に無知と呼んでいますが、それを死とも喩える事もあります。
 その死んだ状態の時に智慧の存在に気付けば、それが復活と言う事に成るのです。
 その時皆様はあまりの嬉しさに天使の様に成るのです。
 何故ならその時、皆様の目の前には、この世とも思えぬ素晴らしい光景が広がり、そしておまけに羽まで生えて来るのですから。

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「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』
 イエスは言われた。
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
 これが最も重要な第一の掟である。
 第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書二二」)
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 これが新約聖書の中でも最も重要な掟です。
 そして世界の全ての聖なる書における最も重要な掟です。
 哲学においても、勿論これが基礎の基礎となっています。
 先ずは智慧を愛する。
 これがなければ、人はより善き一歩は踏み出せません。
 次の「隣人を自分のように愛しなさい」、これは最も厳しい掟です。
 隣人を自分のように愛する。
 それは普通の人には中々できない事です。
 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのと同じように。」
 この精神が無ければできない事です。
 しかし皆様の本当の真心はそれを本当は切望しているのですね。
 しかしそれを実行する事が出来ない。

 そんな皆様の為にこそ「哲学」が存在しているのです。
 智慧を愛する、これが第一の掟です。
 皆様が智慧を愛すれば、皆様は愛の中に生まれます。
 この愛を実行する、それが第二の掟なのです。
 皆様が智慧を愛すれば愛する程、この愛の実行が軽やかに成るのです。
 そんな「哲学」に目覚めてみませんか。

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「ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
『あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。』
 彼らが、『ダビデの子です』と言うと、イエスは言われた。
 では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろう。
『主は、わたしの主にお告げになった。わたしの右の座につきなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで』と。」(「マタイ福音書二二」)
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 メシアとは翻訳すると救い主と言う意味ですが、それは皆様の主であり、皆様の智慧の事です。
 この智慧は人類が存在した時から存在しています。
 そして全世界の全ての人に存在していますが、しかしほとんどの人の中では眠ったままです。
 これがあるきっかけ目覚めます。
 そうすると、それはどんどん成長し、遂にはメシア、生ける神の子(智慧の子)にまで成長する事もあるのです。
 イエスも最初から神の子(智慧の子)であった訳ではありません。
 聖書に学び、学者に学び、そして最後はヨハネに学び、智慧への確信を得たのです。
 それ以後は智慧への絶対的信念の下、決して揺らぐ事のない行動へと移っていったのです。
 それにしてもイエスは大天才です。
 その言葉は全て、純粋無垢な智慧の言葉であり、そして理想としての神の言葉なのですから。
 後は、イエスの奇跡をどのように解釈するかだけです。

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「その日、その時は、だれも知らない。
 中略
 だから、目を覚ましていなさい。
 いつの日、自分の主が帰って来られるのかを、あなたがたは分からないからである。
 家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚まして、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
 だから、あなたがたも用意していなさい。
 人の子は思いがけない時に来るからである。」(「マタイ福音書二四」)
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 皆様の死は誰も予想する事はできません。
 それは突然にやってきます。
 その臨終の際、それは皆様のこの世の意識がなくなった時の事ですが、
 その時、皆様の中に眠っていた純粋無垢な智慧が皆様を裁く事になります。
 貴方はその一生において、私を完全に捨て去りましたねとか、
 もしくは私を心から愛してくれてありがとうとか。
 そして前者においては覚めない悪夢を見、後者においては無心と言う涅槃に眠るとか。
 これは全くの仮定ですが、
 しかし心臓が止まった後、無意識下の中で何らかの精神活動があるのかも知れませんね。
 とにかくこう言う事です。
 毎夜眠る時に三省し、自らに合格点を課し、そして何の夢も見ず、無心の中で朝を迎える事ができれば、その人は、「その日、その時」を迎えても慌てる事はないと思います。
 「曾子の曰わく、吾れ日に三たび吾が身を省みる。
  人の為に謀りて、忠ならざるか。
  盟友と交わりて、信ならざるか。
  習わざるを、伝うるか。」(論語学而第一)

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「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
 そして、全ての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。
 そこで、王は右側にいる人たちに言う。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
 お前たちは、わたしが餓えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
 すると正しい人たちが王に答える。
『主よ、いつわたしたちは、餓えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
 そこで、王は答える。
『はっきり言っておく。
 わたしの兄弟であるこの最も小さき者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 それから、王は左側にいる人たちにも言う。
『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
 お前たちは、わたしが餓えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さずし、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかったからだ。』
 すると彼らも答える。
『主よ、いつわたしたちは、あなたが餓えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話しなかったでしょうか。』
そこで王は答える。
『はっきり言っておく。
 この最も小さい者にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」(「マタイ福音書二五」)
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 「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。
 わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
 皆様の総決算の時、皆様自身の真心が、すなわち皆様の智慧の核心が、皆様自身を裁く事になるのです。
 確かに皆様自身の真心が小さな声で囁いていましたよね。
 手を差し伸べよ、と。
 しかし皆様はそれを実行する事ができませんでした。
 現代日本は、真心を行動に移すのがとても難しい国家となってしまいました。
 私はこの日本が真心を行動に移しやすい国家になればと願っています。
 私はその為に『哲学国家 日本』を提唱しているのです。
 『哲学国家 日本』とは、国民一人一人が智慧を愛する事に依って、成熟していく国家の事です。
 国民一人一人が智慧を、真心を愛するようになれば、それを行動に移すのはとても容易くなるのです。
 なお、『哲学国家 日本』の詳細については、聖人賢人たちの智慧への旅が終わった後に、纏めて述べる事にしています。

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「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネという所に来て、『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。
 ペトロ及びセベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
 そして、彼らに言われた。
『わたしは死ぬばかりに悲しい。
 ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。』
 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。
『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
 しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。』
 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。
『あなたがたはこのように、わずか一時も私と共に目を覚ましていられなかったのか。
 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。
 心は燃えても、肉体は弱い。』
 更に、二度目向こうに行って祈られた。
『父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。』
 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。
 ひどく眠かったのである。
 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。』」(「マタイ福音書二六」)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この後、イエスは捕まり、大祭司や総督の尋問を受けた後、十字架にかけられる事になります。
 イエスはその最後までを見通していました。
 イエスはここまで完全無欠な神の子でしたが、ここで始めて人の子としての表情を見せる事になります。
 「わたしは死ぬばかりに悲しい」と。
 死んでしまえば、もうイエスは存在しません。
 イエスの死後存在するは、イエスの言とそしてキリストだけです。
 イエスが死ぬ事により、彼を信じた者の心の中にキリストが復活し、そしてイエスの言(ことば)が永遠となるのです。
 その為にも、イエスは劇的に死ななければならなかったのです。
 「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
 「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
 これにより、イエスの死は、クリスチャンに取って最も大切な記念日となったのです。
 イエスの死を確認することにより、クリスチャンの心の中にイエスの言を語るキリストが復活する事になるのです。
 キリストとは救い主、それは皆さんの心の奥深くに眠る純粋無垢な智慧の事。
 イエスは、そのキリストを物の見事に体現したのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。
『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』
 これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と言う意味である。
 中略
 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」(「マタイ福音二七」)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 これにより、イエスは死に、そして三日後に彼を信じた弟子たちにキリストが復活する事になるのです。
 ここに私たちはイエスの人の子と神の子としての交錯を見る事ができます。
 もし、イエスが一から十まで神の子として生きたのであれば、それは神話ともなるのでしょう。
 しかしその最後の場面で、イエスが人の子としての情を見せる事により、イエスが人の子として神の子を生きた強靭さを見る事ができるのです。
 これにより、私たちはイエスをお手本とする事ができるのです。
 『智慧の子』として生きる事について。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
 そこで、イエスに会い、ひれ伏した。
 しかし、疑う者もいた。
 イエスは、近寄って言われた。
『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
 だから、あなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子としなさい。
 彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを全て守るよう教えなさい。
 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」(「マタイ福音書二八」)
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 ここでマタイ福音書は終わりです。
 このマタイ福音書でイエスは何を伝えたかったのでしょうか。
 それは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言う事です。
 キリストとも言われる智慧は、いつもあなたがたと共にいるのです。
 しかしあなたがたは気付いていない。
 イエスはその事を気付かせる為に様々に教えた。
 幸いにその教えが、「マタイ福音書」、「マルコ福音書」、「ルカ福音書」、「ヨハネ福音書」の四つの福音書に残されています。
 皆様もどうか四福音書に学んでください。
 そうすれば、皆様の心奥深くに死んだように眠っているキリストとも言われる智慧が復活する事でしょう。 

 さて以上で、「マタイ福音書」からの引用は終わりです。
 上記にも述べたように、イエスの言葉は、「マタイ福音書」、「マルコ福音書」、「ルカ福音書」、「ヨハネ福音書」の四福音書に残されています。
 この内の「マタイ福音書」、「マルコ福音書」、「ルカ福音書」については、同じような内容ですが、「ヨハネ福音書」は少し毛色が違っています。
 この「ヨハネ福音書」からもイエスの言葉を少し抽出していきたいと思います。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「初めに言(ことば)があった。
 言は神と共にあった。
 言は神であった。
 この言は、初めに神と共にあった。
 万物は言によって成った。
 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
 言の内に命があった。
 命は人間を照らす光であった。
 光は暗闇の中で輝いている。
 暗闇は光を理解しなかった。
 (中略)
 言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
 わたしたちはその栄光を見た。
 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」(「ヨハネ福音書一」)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 上記はヨハネ福音書の冒頭です。
 これは、イエスの言葉ではなく、福音記者ヨハネの言葉です。
 ヨハネが、世界創造から、イエス・キリストの誕生までを、彼自身の言葉により表現したものです。
 この一節の中でキーワードとなるのは、「言(ことば)」と言う言葉です。
 さて、言(ことば)とは何でしょう。
 それこそが、智慧です。
 上記の「言」と「智慧」に置き換えてください。
 一揆貫通する筈です。
 もし皆様が、この智慧の極意を会得すれば、全ての宗教、哲学を理解する事ができるようになります。
 ここで皆様に大事な事をお知らせしておきます。
 それは全てを、皆様との相似の中で考えなければ何も理解できないと言う事です。
 皆様は決して皆様を抜け出して考える事はできないのです。
 全ての言葉は皆様自身を理解する為の比喩だと考えた方が良いと思います。
 特に聖典と呼ばれるものは。

 キリスト教では、よく三位一体と言う言葉が使われます。
 先程まで見て来たマタイ福音書であれば、その最後の一節に「父と子と聖霊と」と言う言葉で出ていましたが、それがそれです。
 しかし、マタイ福音書ではそれを掘り下げて解説するような言葉はあまりありませんでしたが、ヨハネ福音書ではイエスの言葉でそれを解説しています。
 紙片の都合もありますので、ヨハネ福音書ではその部分だけを見ていきたいと思います。

 上記のヨハネ福音書冒頭も正に三位一体と記述です。
 「言(ことば)」と「肉と成った言」と「神」。
 言とは聖霊の事です。
 肉と成った言とは、イエスの事です。すなわち子の事です。
 神とは勿論父の事です。
 この記述は、正に「父と子と聖霊と」と言う三位一体の記述なのです。
 
 皆様は、この冒頭のヨハネの言葉をどのように解釈しますか。
 皆様との相似で考えなければ、決して理解する事はできないと思います。
 私はいつもこれを「私と智慧と神」と言う概念の下で理解しています。
 なお、ここで言う神とは概念です。
 それは様々に表現し得ますが、ここでは智慧の根源であると言っておきます。
 そしてそれは、無であり、無限であると。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「イエスは叫んで言われた。
『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。
 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。
 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として来た。
 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。
 わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。
 わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
 何故なら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきことと、語るべきことをお命じになったからである。
 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。
 だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。』(「ヨハネ福音書一二」)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 イエスは智慧の現人神です。
 イエスは智慧をそのままに語り、そして行動したのです。
 これが智慧の現人神の由縁です。
 私たちは智慧の言葉を聞きますが、それを口に出す事も、ましてやそれを実行することもできません。
 そんな私たちの為に、イエスは智慧の現人神としてこの世に現れたのです。
 私に倣いなさいと、言って。
 イエスは、私たち自身の智慧そのものです。
 だから私たちの智慧の現人神であるイエスが語った言葉そのものが、皆様を裁く事になるのです。
 皆様自身が皆様を裁くのです。
 はっきり言って皆様は、毎日、毎晩裁かれています。
 その心において、その夢において。
 智慧を信じなさい。
 その核心には光がある。
 その光が皆様をきれいにしてくれます。
 そこからが毎日毎日がスタートです。
 理想に向かって。
 『日々新たに』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「今や、人の子は栄光を受けた。
 神も人の子によって栄光をお受けになった。
 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。
 しかも、すぐにお与えになる。」(「ヨハネ福音書一三」)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「神が人の子によって栄光をお受けになった」
 神は見る事も聞く事もできません。
 イエスがその智慧の一つ一つを体現する事によって、神の属性であるその一つ一つを見る事ができるようになったのです。
 それにより、イエスとその智慧の源である神も栄光を受ける事なったのです。
 皆様も智慧のままに行動すれば、皆様自身が栄光を受け、そして皆様のその行動の源である皆様の智慧もまた栄光を受ける事になるのです。
 それも直ぐに。
 しかしその事の何と難しい事か。

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「イエスは言われた。
『わたしは道であり、真理であり、命である。
 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。
 あなたがたはわたしを知っているならば、わたしの父をも知ることになる。
 今から、あなたがたは父を知る。
 いや、既に父を見ている。』」(「ヨハネ福音書一四」)
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 智慧こそ、皆様の道であり、真理であり、命です。
 この事は智慧を探求して行けば、誰にでも明らかに成る事です。
 智慧を通らなければ、誰も理想の王国へは辿り着けないのです。
 どのような理想の王国を築くか。
 イエスは、イエスの様な人々が集まる国を理想の国として描いた。
 
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「イエスは言われた。
『フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。
 わたしを見た者は、父を見たのだ。
 なぜ、『わたしに御父をお示しください』と言うのか。
 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。
 わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。
 わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。』(「ヨハネ福音書一四」)
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 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる。」
 ここでは未だ一般的に言う三位一体は起こっていません。
 一般的に言われている三位一体は、イエスの死後に発生します。
 一般的に言われる三位一体は、父と子と聖霊と言う言葉で表されるものですが、この聖霊はイエス・キリストの死後、キリストとして復活する智慧の事だからです。
 しかし「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」と言う言葉の中に、イエス自身の三位一体は表されているのです。
わたしとはイエス・キリストの事です。
 イエスとはこの世を生きた一人の人間、イエスの事です。
 キリストとは智慧の事です。
 ですから、イエス・キリストとは、智慧と成った人間イエスと言う事になります。
 智慧の現人神の喩えです。
 この智慧の現人神イエスが、父と言う理想に向かった一生、それを記したものが福音書と言う事になります。
 そしてこの福音書において、皆様に、智慧の現人神イエスの如く、皆様も父と言う理想に向かいなさいと言っているのです。
 なお、父と言う理想は、クリスチャンでない皆様は、皆様自身が描く事になりますが、それが、イエスのそれと同様のものであれば間違いないはと思います。
 イエスのそれは、あの二つの掟に集約されます。(智慧への愛と隣人への愛)

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「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
 わたしは父にお願いしよう。
 父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
 この方は真理の霊である。
 世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。
 しかし、あなたがたはこの霊を知っている。
 この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
 わたしはあなたをみなしごにはしておかない。
 あなたがたのところに戻って来る。
 しばらくすると世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。
 わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたには分かる。」(「ヨハネ福音書一四」)
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 ここに一般的に言う三位一体が述べられています。
 真理の霊、これが「父と子と聖霊と」と言う時の聖霊の事です。
 これはイエス・キリストの死後、キリストとして復活する霊の事です。
 このキリストとは、イエスの智慧の事ですので、イエスの死後も、イエスを信じる人に中にイエスの智慧が存在し続ける事になるのです。
 なお、この真理の霊とは、一般的な言葉で言えば智慧の事です。
 ですから、この真理の霊は、クリスチャンだけでなく、全ての人に存在しているのです。
 しかしこの霊は、見ようとしなければ、知ろうとしなければ、その姿を現す事がないのです。
 その為に、イエスはその現人神として、その姿を現したのです。
 皆様も、イエスをその雛形として、皆様の心の中にそれを見出さなければ、何時まで経っても無知のままです。

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「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い出させてくださる。」(「ヨハネ福音書十四」)
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 「わたしが話したことをことごとく思い出させてくださる。」
 私たちは福音書によりそれらの事を思い描く事ができる。
 そして私たちの智慧は、それに対して善しと認証する。
 それにより、私たちはイエスの智慧に与る事が出来る様に成るのです。
 クリスチャンは何度も何度も福音書を読む。
 そしてそれらが彼らの血肉と成って行くのです。

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「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」(「ヨハネ福音書一五」)
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 私たちは福音書により、イエスの全軌跡を辿る事ができる。
 何と有り難い事か。
 私たちはクリスチャンではないが、イエスの軌跡に倣おうではないか。
 そこに在る掟は、ただ二つ。
 智慧(神)を愛しなさい、そして隣人を自分のように愛しなさい、だけなのですから。

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「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。
 わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。
 わたしが去って行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
 その方が来れば、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(「ヨハネ福音書一六」)
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 キリストの復活である。
 皆様も智慧の書を読めば、それが感動した本であればあるほど、その智慧が皆様に復活するでしょう。
 その応用です。
 ですから、皆様は智慧の本を読まなければ、何時まで経っても無知のままと言う事になります。

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「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。
 その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
 その方はわたしに栄光を与える。
 わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
 父が持っておられるものは、すべて、わたしのものである。
 だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。(「ヨハネ福音書十六」)
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 「父が持っておられるものは、すべて、わたしのものである。」
 真理の霊とは皆様の智慧の事です。
 皆様が智慧を愛すれば愛する程、その天の父の財産は皆様の物と成って行くのです。
 皆様の智慧、すなわち皆様の真理の霊は、天の父と直結しているのです。
 クリスチャンはイエスを仲介人としてその父と話し合う事に成りますが、皆様哲学者(智慧を愛する者)は直接その父と話し合う事に成るのです。

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「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、全ての人を一つにしてください。
 彼らもわたしの内にいるようにしてください。
 そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。
 わたしたちが一つであるように、彼らもまた一つになるためです。
 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(「ヨハネ福音書十七」)
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 「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」
 これがイエスの目指す神の王国です。
 私は『哲学国家 日本』を目指していますが、その原理は同じです。
 イエスの目指す神の王国については、イエス・キリスト(智慧の人イエス)の言葉が溢れていますが、『哲学国家 日本』においては、皆様お一人お一人の智慧が溢れている事に成るのです。
 その為にも、日本人は、多くの聖人賢人哲人たちから智慧を学ばなければならないと言う事になるのです。
なお、『哲学国家 日本』の実現方法については、聖人賢人哲人たちへの智慧への旅が終わった後に、纏めて著したいと思っています。

 さて、以上でイエスの智慧については終わりにしたいと思います。
 次には、全くキリスト教とは関係の無い、聖人賢人哲人たちを訪ねたい所ですが、やはりキリスト(智慧の教え)を更に良く理解する為には、パウロを訪ねない訳にはいかないと思います。
 パウロは、母親が食べ物を噛み砕いて子供に与えるように、イエスの比喩を紐解いて私たちに解説してくれるからです。
 それは、イエスの言葉を基にしていますが、パウロの智慧です。
と言う事で、次には「パウロの智慧」と題して、パウロの智慧を見ていきたいと思います。
 なお、パウロは、パウロの智慧を「手紙」と言う形で残していますが、ここでは「ローマ信徒への手紙」を取り上げたいと思います。

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