第四章 パウロの智慧
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「わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神だからです。
福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(「ローマ信徒への手紙一」)
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福音には、神の義が示されていますが、それは初めから終わりまで智慧への信仰を通して実現されるのです。
その他、聖なる書には神の義が示されていますが、それは初めから終わりまで智慧への信仰を通して実現されるのです。
正しい者は、智慧への信仰によって生きるのです。
皆様はこれまで、ソロモン、ダビデ、イエスの智慧への信仰を見てきましたが、ここではパウロの智慧への信仰を見る事になります。
それから今後古今東西の聖人賢人哲人たちの智慧の信仰も見て行く事になります。
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「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。
神がそれを示されたのです。
世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができるからです。」(「ローマ信徒への手紙一」)
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私たちは自然の中にそれをはっきり読み取る事ができます。
しかし人の中にそれをはっきりと読み取る事ができません。
その為に、イエスが現人神としてこの世に現れたのです。
イエスが人における神(智慧)の力であり性質なのです。
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「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
神は人を分け隔てなさいません。
律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法とは関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
律法を行う者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくても、自分自身が律法なのです。
こう言う人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。
また、彼らの良心もこれを証しており、また心の思いも、互いに責めたり弁明しあって、同じことを示しています。」(「ローマ信徒への手紙二」)
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イエス、パウロを通じてユダヤの神(智慧)が世界の智慧と成っていったのです。
ユダヤの智慧とは、ダビデの智慧であり、ソロモン智慧です。
またその外、諸々の預言者たちの智慧でもあります。
その智慧が世界共通の智慧と成っていったのです。
「律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくても、自分自身が律法なのです。」
皆様の心奥深くにはこの律法が記されています。
しかしそれが皆様の目の前に中々現れないのです。
その為に、イエスが智慧の現人神として皆様の前に現れたのです。
その律法とは簡単な事です。
その掟は二つです。
智慧(神)を愛しなさい、そして隣人を愛しなさい。
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「では、人の誇りはどこにあるのか。
それは取り除かれました。
どんな法則によってか。
行いの法則によるのか。
そうではない。
信仰の法則によってです。
なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えられるからです。
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。
異邦人の神でもないのですか。
そうです。
異邦人の神でもあります。
実に、神は唯一だからです。
この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。
決してそうではない。
むしろ、律法を確立するのです。」(「ローマ信徒への手紙三」)
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「実に、神は唯一だからです。」
神は皆様お一人お一人に内在しています。
智慧と言う神が。
この神を愛する事により、律法が確立するのです。
この智慧は皆様が一般的に考えているか智慧よりもはるかに大きな概念を含んでいます。
それは無であり、無限です。
この智慧の概念については、般若心経その他仏典の所で詳しく説明したいと思います。
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「それともあなたがたは知らないのですか。
キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
わたしたちの古い自分がキリスト共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じています。
そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。
死は、もはやキリストを支配しません。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対してしなれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(「ローマ信徒への手紙六」)
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イエス・キリストの死とキリストの復活。
それは智慧と肉の人イエス・キリストが死に、智慧と呼ばれるキリストが、イエス・キリストを信じる人に復活したと言う事を意味しています。
そのキリスト(智慧)を信じる限りそのキリスト(智慧)は不滅です。
もし、そのクリスチャンが、自らの肉を完全に捨てる事ができれば、その人は完全なるクリスチャン(完全なる智慧の人)として生きる事ができるでしょう。
しかしそれは理想論です。
それができたのはイエス・キリストだけであって、パウロもなし得なかった事です。
だからパウロは最後にこう言っているのです。
そのように考えて、そのように行動しなさいと。
肉を捨てるとはこの世を捨てると言う事です。
自分自身を顧みてください。
自分が如何にこの世に縛られているか。
そしてこの柵から完全に自由になり、そして智慧の命じるままに行動する事が如何に難しいかを。
しかしキリスト教世界では、その事が私たちに比して数倍も易しいのです。
何故なら、皆がその方向に向かおうとしているから。
「哲学国家 日本」の存在意義もその辺りにあるのです。
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「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。
しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。
その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」(「ローマ信徒への手紙七)
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「文字に従う生き方」と「霊に従う生き方」
ここに道徳教育と哲学教育の違いがあるのです。
道徳教育では規範を示しますが、哲学教育では自ら学び取ります。
なお、哲学教育の内容については、聖人賢人哲人たちへの智慧の旅が終わった後に纏めて述べたいと思っています。
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「それで善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気付きます。
『内なる人』としては、神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを五体のある罪の法則にとりこにしているのが分かります。
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。
死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょう。」
(中略)
もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(「ローマ信徒への手紙8」)
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私たちはいつも善悪の法則に囚われています。
そしてほとんどいつも悪の法則が勝利します。
何故なのでしょう。
それはこの世に囚われているからです。
この世を捨てれば、そこに智慧が輝く。
good God GOD 神(智慧)こそが善の法則なのです。
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「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。
わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っています。
“霊”は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくれるからです。」(「ローマ信徒への手紙八」)
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もし皆様が高い理想を持っているならば、一時的に悶々としようとも、智慧はそれを突き抜けて新しい展開を見せてくれます。
高い理想を、神の御心と言い換えても何ら差し支えありません。
文字は殺すが、霊は生かす。
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「しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。
なぜですか。
イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。」(「ローマ信徒への手紙九」)
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律法には一挙手一投足に至るまで掟がありました。
その文字の掟がイスラエルの人々を殺したのです。
智慧と愛、これによって律法は全うされるのです。
智慧と愛とは、智慧(神)のへ愛と隣人への愛の事です・・
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「『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」(「ローマ信徒への手紙九」)
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皆様の神のその言葉は、皆様のその心の中にあります。
その事を思い、そして口に出す。
その事により、皆様は善き人々の仲間入りをする事になるのです。
神の言葉は全ての人の心の中にあるが、人はそれに気付かない。
それを気付かせる為に、パウロは異邦の国へと宣教に出たのです。
皆様の下には、もうパウロは来ましたか?
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「実に、信仰は聞く事により、しかも、キリストの言葉を聞くことにより始まるのです。
それでは、尋ねよう。
彼らは聞いたことがなかったのだろうか。
もちろん聞いたのです。
『その言葉は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ』のです。」(「ローマ信徒への手紙一〇」)
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智慧の言葉は全世界に響き渡っています。
もし皆様が心を澄まして耳を澄ませば。
皆様の智慧は世界の智慧と共鳴したいのです。
温故知新、聖人賢人哲人に智慧を学びなさい。
そうすれば、皆様の智慧が踊り出します。
それは饗宴の世界です。
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「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして捧げなさい。
これこそがあなたのなすべき礼拝です。
あなたがたはこの世に倣ってはいけません。
むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善い事で、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(「ローマ信徒への手紙一〇」)
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ここにおいて神への愛と隣人への愛が完結するのです。
自らを神への生けにへとして捧げる。
こんな神々しい行為はありません。
この第一号は、イエス・キリストと呼ばれたかのイエスです。
さて皆様も自らの神、すなわち皆様の真心に捧げてみませんか。
皆様の全ての『我』を殺して。
無理、無理、無理!
確かにその通りです。
しかし私は多くの日本人がその様な方向に向かう国家を目指しているのです。
それが『哲学国家 日本』です。
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「互いに愛し合うことのほかには、だれに対しても借りがあってはありません。
人を愛する者は、律法を全うするのです。
『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』と言う言葉に要約されます。
愛は隣人に悪を行いません。
だから、愛は律法を全うするのです。」(「ローマ信徒への手紙一三」)
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日本国には刑法と言う法律があります。
もし日本人全てがこの愛を全うすれば、日本には刑法は必要なくなるのです。
勿論その他の全ての法律も。
愛は法を全うするのですから。
愛は世界を救う。
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「『主は言われる。
『わたしは生きている。
すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と』
それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。」(「ローマ信徒への手紙一四」)
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皆様の神様は、皆様の心の奥深い所にあるその神殿のその更に奥深い所にいつも鎮座しておられます。
そして皆様の一挙手一投足を監視なさっているのです。
もし皆様が何かの悪さをした時など、その神様が何かのサインを出す事などがありますよね。
もし皆様がその神様と対話をしたいのなら、その神殿の対話室へ入りなさい。
そうすれば、その神様は、皆様が心から求めているものを惜しみなく与えてくれる筈です。
何故なら、その神様とは、皆様自身の真心の事だからです。
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「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(「ローマ信徒への手紙一四」)
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皆様の中には、キリスト教の「神の国」は死後に存在する世界だと考えている人がいるかも知れませんが、そうではありません。
「神の国」は生きている人、一人一人の心の中に存在しているのです。
キリスト教の「神の国」の人々は、皆イエス・キリストを主と仰いでいます。
ですからキリスト教世界は、イエス・キリストを盟主とする、神の国々の連邦国家と言う事ができます。
智慧の王国は、飲み食いではなく、智慧によって与えられる義と平和と喜びなのです。
智慧の王国は、皆様のお一人お一人の智慧によって与えられる、皆様自身の義と平和と喜びの国なのです。
「哲学国家 日本」とは、この智慧の王国の連邦国家の事です。
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「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心をあわせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」(「ローマ信徒への手紙一五」)
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「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和であなたがたを満たして、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(「ローマ信徒への手紙15」)
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「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」(「ローマ信徒への手紙15」)
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「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」(「ローマ信徒への手紙一五」)
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神は忍耐と慰めと希望と平和の源です。
そして神は知恵の源であり、また智慧そのものであります。
皆様のその智慧を信仰してみましよう。
そうすれば、皆様に、きっと大きな変化が起こるはずです。
以上でパウロの智慧を終わります。
さてこれで、ソロモン、ダビデ、イエス、パウロとそれぞれの智慧を見てきましたが、皆様はそれぞれの智慧を理解できたでしょうか。
なお、パウロはイエスの解説者ですので、ここでは取り敢えず、ソロモン、ダビデ、イエスの智慧について、その特質を見ていく事にしましよう。
ソロモンの智慧、これは簡単でしたね。
ソロモンは智慧の事を智慧と呼んでいましたから、その言葉通りに読んでいけば、ソロモンの智慧を理解する事ができましたよね。
なお、ソロモンの智慧を理解する為にも、やはり『私と智慧と神』と言う概念が必要です。
ダビデの智慧も割合理解しやすかったですよね。
主を智慧と呼びかえれば、ダビデの智慧も理解しやすかったですよね。
なお、ダビデの智慧を理解する為にも、やはり『私と智慧と神』と言う概念が必要です
次にイエスの智慧ですが、これは中々に難しかったですよね。
何故なら、イエスの生存中のお話とイエス死後のお話を分けて考えなければいけないからです。
イエス生存中のお話は、イエスと智慧と神とのお話ですが、
イエスの死後は、皆様自身と智慧と神のお話になるのですから。
皆様自身に舞い降りて来るのが、聖霊と言う智慧です。
もし皆様が、イエス・キリストの生存中のお話を信じれば、イエスの善き性質を纏ったキリストとも聖霊とも言われる智慧が皆様を訪れる事なるのです。
イエスの智慧で象徴的な言葉は、「父と子と聖霊」ですが、これを『私と智慧と神』の言葉にならって入れ替えると「子と聖霊と父」と言う事になります。
イエス生存中は、子に相当するのは勿論イエスですが、イエスの死後は、子に相当するのは皆様自身と言う事になります。
勿論、イエス・キリストの生存中のお話を信じているとの前提の下に立ちますが・・
皆様自身が神の子となって、聖霊(智慧)を通じて父(神)の御心を行う事になります。
なお、イエスの智慧の中でもう一つ象徴的な言葉があります。
それが十字架です。
「私と智慧と神」と言う概念は世界人類に共通の事ですが、ここに十字架と言う死の概念を持ち込む事により、「私と智慧と神」と言う概念がより明確になったのです。
ダビデは詩篇の中でよく『無垢』と言う言葉を使っていましたが、これを十字架に置き換えたのです。
これにより、「私と智慧と神」と言う概念がより明確になったのです。
確かに私がこの世に死んでこそ「私と智慧と神」が輝き出すのです。
これからブッダの智慧を見て行く事になりますが、ブッダもこの世の死の事を、言葉を変えて繰り返し繰り返し述べています。
それでは先ず、般若心経にブッダの智慧を見て行く事にしましょう。
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