第五章 ブッダの智慧

第五章 ブッダの智慧
 
「観自在菩薩、深般若波羅密多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。
 舎利子よ、色は空に異ならず。
 空は色に異ならず。
 色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。
 受想行識もまたかくのごとし。
 舎利子よ、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず、この故に、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。
 眼界もなく、乃至、意識界もなし。
 無明もなく、また無明の尽くることもなし。
 乃至、老も死もなく、また老と死の尽くることもなし。
 苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。
 得る所なきを以ての故に。
 菩提薩陲は、般若波羅密多に依るが故に、心に罣礙なし。
 罣礙なきが故に、恐怖あることなく、顛倒夢想を遠離して涅槃を究竟す。
 三世諸仏も般若波羅密多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。
 故に知るべし、般若波羅密多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。これ無等等咒なり。
 よく一切の苦を除き、真実にして虚ならざるの故に。
 般若波羅密多の咒を説く。
 すなわち咒を説いて曰く、
 掲帝(ぎゃてい)、掲帝(ぎゃてい)、波羅掲帝(はらぎゃてい)、波羅僧掲帝(はらそうぎゃてい)、菩提僧莎訶(ぼじそわか)。」(「般若波羅密多心経」全文)
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 以上が「般若波羅密多心経」の全文です。
 般若波羅密多心経は一般的には「般若心経」と呼ばれています。
 そしてこの般若心経は、空の極意の書でもあると言われています。
 読書百遍、意、自ずから通じる。
 これだけの短い文章ですので、どうか皆様も百篇読んで頂きたいと思います。
 もし皆様が、この書で、空の極意を理解できたら、全ての仏典もすらすらと理解できるようになります。
 そして全ての聖なる書も。
 何故なら、空こそが智慧の極意なのですから。

 ダビデが無垢と言う言葉をよく使っていましたが、これは空に通じます。
 それから、イエスの言っていた十字架、これが正に空です。
 死して生きる、これが空の極意なのです。

 近代哲学の祖デカルトの「我思う、故に、我在り」もここに通じて行きます。

 それではこの般若波羅密多心経を少し解説して行きたいと思います。
 この般若波羅密多心経で一番大切な言葉は、『般若』です。
 『般若』とは智慧の事です。
 私がこの書でこれまで言い続けている主題であり、そしてこの書で最後まで言い続ける主題です。
 智慧とは何か。
 それを皆様に理解して頂く為に、今私はこの書を書き続けているのです。

 この般若波羅密多心経の核心は次の三節です。
 「観自在菩薩、深般若波羅密多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。」
 「菩提薩陲は、般若波羅密多に依るが故に、心に罣礙なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなく、顛倒夢想を遠離して涅槃を究竟す。」
 「三世諸仏も般若波羅密多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。」

 観自在菩薩も菩提薩陲も三世諸仏も、『般若波羅密多』によって、自由自在な存在となったのです。
 それでは『般若波羅密多』とは何か。
 それこそが正に『哲学』なのです。
 すなわち智慧を愛する事なのです。
 観自在菩薩も菩提薩陲も三世諸仏も、智慧を愛して愛し抜いたその先に、空を見出したのです。
 なおここにおいても、やはり『私と智慧と神』と言う概念がどうしても必要になってきます。
 観自在菩薩も菩提薩陲も三世諸仏も智慧を愛し抜く事によって、その先に空と言う神の概念を見出したのです。

 デカルトは全てのものを疑ったその先に、『考える私』と言う真実を見出しました。
 しかしそれでもなお、その「考える私」のその先に、神の概念が必要だったのです。
 なおデカルトの神の概念は空ではなく、真理です。

 デカルトの「我思う、故に、我在り」と言う言葉の中に、空の極意があり、そして智慧の極意があるのです。

 『私が思うから、私が存在する。
  私が思わなければ、私は存在しない。
  私が存在するから、世界が存在する。』

 これが全ての哲学宗教の極意です。
 少なくとも私に取っては真理ですし、皆様に取っても真理だと思います。
 もし皆様お一人お一人に取って真理であれば、それは世界共通の真理と言う事になります。

 ここでは先ず『私』について考えなければいけません。
 私とは何者か。
 デカルトの「方法序説」(または「省察」)に倣って考えてみて下さい。
 そうすればそこに一つの答えが見出されると思います。
 すなわち、「私とは考える存在である」と。
 もし皆様がこの答えを見出せば、皆様に新しい世界が広がるのです。

 皆様のこれまでの世界はどんな世界でしたか。
 それはこの世の柵(しがらみ)に囚われた世界でしたよね。
 もし皆様が「私とは考える存在である」と言う真実に気付けば、皆様に新しい世界が展開される事になるのです。
 その世界は皆様御自身のワンダフルワールドです。

 デカルトは、「考える私」と言う真実を見出しました。
 しかし、観自在菩薩や菩提薩陲や三世諸仏たちは、その「考える私」をも捨て去さろうとしたのです。
 そしてそこには確かに空が実在していたのです。
 その事はデカルトも立証しています。

「しかしながら、このことをいっそう注意深く検討し、同時にまた、ここからとりだされる他のもろもろの真理の究明にとりかかるに先だって、ここでしばらく神そのものの観想のうちにとどまり、神の属性を静かに考慮し、このはかりしれない光の美しさを、そのまばゆさにくらんでしまった私の精神の眼のたえうるかぎり、凝視し、賛嘆し、崇敬するのがふさわしいであろう。
 けだし、神の荘厳のこの観想のうちにのみ来世の最高の浄福が存することをわれわれは信仰によって信じているのだが、そのように、現在においてもまた、以上のような観想から――もとよりこれははるかに不完全なものであるが――この世においてわれわれの享受しうる最大の満足が得られることを、われわれは経験するからである。」(デカルト「省察」三)

「心神は迥寂にして、色無く形なし。
 之を視れども見えず、之を聞けども声なし。
 暗に似て暗に非ず、明の如くして明ならず。」(「菩提達摩無心論」)

「之を視れども見えず、名づけて夷と曰う。
 之を聞けども聞こえず、名づけて希と曰う。
 之を摶れども得ず、名づけて微と曰う。
 此の三者は詰を致す可からず。
 故に混じて一と為す。
 其の上は皦ならず、その下は味ならず、縄縄として名づく可からず、無物に復帰す。
 是を無状の状、無物の象と謂い、是を恍惚と言う。」(「老子」十四章)

 私たちは神の観想の内に、「空」を実感するのです。
 そしてこの空において、充溢したエネルギーを実感する事になるのです。
 これが悟りです。
 この悟りの中から、ブッダやイエスが生まれ、諸々の使徒や菩薩が生まれ、そして私たち哲学者(智慧を愛する者)が生まれていくのです。

 悟りに必要な事。
 それは神の観相です。
 皆様の神様はどんな神様ですか。
 その神様をとことん思い続けて行けば、そこに空と言う実在を実感する事になるのです。

 なお、ここにデカルトの神の定義を置いて置きます。
「ここに私が神というのは、その観念がわたしのうちにあるその神、いいかえると、私が把握することはできないが、しかしあるしかたで思惟によって触れることはできるところの、すべての完全性をもっており、いかなる欠陥からもまったく免れている神である。」(デカルト「省察」三)

 さて、この辺りで「般若波羅密多心経」(般若心経)終わりにしたいと思いますが、皆様は観自在菩薩が語ったブッダの智慧を理解できましたか。
 彼らはこう言っているのです。
「私とは何者でもない。
 だから私は私が思う者に成る事ができる。
 その為にも、神の観想が必要である。
 何故なら、それにより、私が思う素晴らしい私に成る事ができるから。
 神の観想、それは智慧を愛する事。」
 智慧を愛し抜いたその先に「空」と言うエネルギーが待っているのです。


 さて以上で「般若波羅密多心経」は終わりにします。
 次は菩提達摩が語るブッダの智慧です。
 「菩提達摩無心論」に見て行きます。
 なお菩提達摩とは、私たちが慣れ親しんでいるあのダルマさんの事です。

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「無心と言うは、即ち妄想無き心なり。」(「菩提達摩無心論」)
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 「無心」、これが菩提達摩の智慧の極致です。
 この無心とは、この世の私を全て捨て去った時の私の事です。
 そこにあるがままの私、すなわち純粋無垢な「考える私」が存在する事になるのです。

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「問うて曰く、既に能く見聞覚知せば、即ち是れ有心なり。那ぞ無と称することを得ん。
 答えて曰く、只だ是れ見聞覚知する、即ち是れ無心なり。何処に見聞覚知を離れて、別に無心有らん。」(「菩提達摩無心論」) 
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 私たちは空と無心を同じように考えますが、空と無心は異なります。
 無心とは、空から目覚めた直後の純粋無垢な「考える私」の事です。
 この純粋無垢な「考える私」が見聞覚知する事になるのです。
 
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「問うて曰く、若為(いかん)が能く是れ無心と知ることを得ん。
 答えて曰く、汝子細に推求し看よ。
 心は何の相貌をか作す。
 其の心は復(は)た得可べきや。
 是れ心か、是れ心ならざるか、為復(は)た内に在るか、為復(は)た外に在るか、為復(は)た中間に在るか。
 是(かく)の如く三処に推求して心を覓(もと)むるに、了(つ)いに不可得にして、乃至、一切処に求覓(もと)むるも亦た不可得なり。
 当に知るべし、即ち是無心なることを。」(「菩提達摩無心論」) 
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 ここで言っているのは心など無いと言う事です。
 皆様も心を追い求めてみてください。
 心が何処に在りましたか。
 そんなものは何処にもありません。
 あるのは唯(ただ)一つ。
 只(ただ)の今を「考える私」だけです。
 もし皆様が空の存在を知り、空に浸かった後、目覚めた時は、正に智慧の如くになるのです。

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「問うて曰く、和尚は既に一切処に於いて皆無心なりと云う。
 木石も亦た無心なり、豈(あ)に木石に同じからざるか。
 答えて曰く、爾我の無心は、木石に同じからず。
 何を以ての故ぞ。
 譬えば天鼓の如し、無心なりと雖復(いえど)も、自然に種々の妙法を出して衆生を教化す。
 又如意珠の如し、無心なりと雖復(いえど)も、善能(よ)く諸法実相を覚了し、真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し。
 故に宝積経に云わく、無心意を以って現行す、と。
 豈(あ)に木石に同じからんや。
 夫(か)の無心なる者は真心なり、真心なる者は無心なり。」(「菩提達摩無心論」) 
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 「無心なる者は真心なり、真心なる者は無心なり。」
 無心と言うのは、皆様の真心だと言っているのです。
 皆様がこの世をすっかり捨て、そして空と言うシャワーを浴びて、皆様の真心の庭に入った時、皆様の真心は、天鼓の如く、如意珠の如く、皆様の欲するものを、皆様の目の前に展開してくれるのです。
 智慧の泉。それは言葉の泉です。
 その言葉が次第に形(色)を成して行くのです。
 「色は空に異ならず、空は色に異ならず。」(般若波羅密多心経)
 
 「真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し。」
 ここで言う般若とは智慧の事でしたよね。
 皆様が本当の智慧を見出した時、皆様は自由自在な存在と成るのです。
 「真理はあなたを自由にする。」(「新約聖書」)
 真理とは、真般若、皆様御自身の智慧の事です。

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「問うて曰く、弟子愚昧にして、心猶お未だ了せず。
 一切処に六根の用うる所、応答曰語、種々の施為を審かにするに、煩悩菩提、生死涅槃も、定めて無心なりや。
 答えて曰く、定めて是れ無心なり。
 只だ、衆生の妄りに心有りと執するが為に、即ち一切の煩悩生死、菩提涅槃有り。
 若し無心を覚らば、即ち一切の煩悩生死、菩提涅槃無し。
 是の故に如来は有心の為に、生死有りと説きたもう。
 菩提は煩悩に対して名を得、涅槃は生死に対して名を得たり。
 此は皆対治の法なり。
 若し心の得可べき無ければ、即ち煩悩菩提も亦た不可得、乃至、生死涅槃も亦た不可得なり。
 無心なれば即ち一切無なることを。
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 もし皆様が空と言う涅槃に入れば、そこには煩悩菩提も生死涅槃もありません。
 何故ならそこには「考える私」がいないからです。
 そしてその涅槃から目覚めた直後の「考える私」にも煩悩菩提も生死涅槃はありません。
 何故なら「考える私」の第一歩だからです。
 新生、蘇生、蘇り、そこに宗教の極意があるのです。
 悟りとは、この空と無心とを自覚的に継続して行う事なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「問うて曰く、今は心中に於いて作す。
 若為(いかん)が修行せん。
 答えて曰く、但(も)し一切事上に於いて無心なることを覚了せば、即ち是れ修行なり、更に別に修行有らず。
 故に、無心なることを知れば、即ち一切寂滅して、即ち無心なり。
 弟子、是において忽然として大悟し、始めて心外に物なく、物外に心無きことを知り、挙止動用(こしどうゆう)、皆自在なることを得て、諸の疑網を断じて更に罣碍なし。
 即ち起ちて作礼す。
 而して無心に銘して、頌を為(つく)りて曰く
 心神は迥寂にして、色無く形なし。
 之を視れども見えず、之を聞けども声なし。
 暗に似て暗に非ず、明の如くして明ならず。
 (中略)
 大道、寂として無相、万像、窈として無名。
 斯の如く運用自在なる、総に是無心の精なり。
 和尚、又告げて曰く、諸の般若の中、無心般若を以て最上と為す。」(「菩提達摩無心論」)
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 これが弟子が悟りを開いた瞬間です。
 そしてその悟りの状態です。
 皆様も、この世の私を捨て、瞑想に耽り、考える私をも捨て去り、空に浸り、そこから目覚めてみてください。
 そうすれば、この悟りを実感できる筈です。
 和尚は、この悟りを、一切事上において行えと言っていますが、この世に生きているわたしたちに取っては、中々にできない事です。
 しかし皆様ももしできる事なら、日に一度はこの悟りを実感してみてください。
 そうすれば、皆様の心身が軽くなる事、請け合いです。
 
 『無心般若』、これこそが最高の哲学です。

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「無心と言うは、即ち妄想無き心なり。」(「菩提達摩無心論」)
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「有心なれば即ち一切有なり、無心なれば即ち一切無なり。」(「菩提達摩無心論」)
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 ここに哲学宗教の極意があります。
 無心は天国、涅槃へと誘います。
 ここで二つの分派が起こります。
 一つは天国、涅槃へ渡る事を第一の目的とするものであり、
 他の一つはそこから還って、この現実をより良く生きようするものたちです。
 勿論良心的な哲学宗教は後者です。
 何故なら、哲学宗教とは、私たちがこの世をより良く生きる為にあるのですから・・・

 私たちは無心の世界を知る事により、有心の世界をより良く生きる事ができるようになるのです。


 さて以上で菩提達摩(ダルマさん)の「菩提達摩無心論」を終わります。
 「菩提達摩無心論」は菩提達摩の口を借りたブッダの言葉であり、「般若波羅密多心経」は観自在菩薩の口を借りたブッダの言葉でしたが、今度は正真正銘のブッダから言葉を頂こうと思います。
 採用する経典は、「真理のことば」(ダンマパダ)です。
 何故、「真理のことば」(ダンマパダ)なのか。
 それは、「真理のことば」(ダンマパダ)が実在したブッダの言葉により近いと言われているからです。

 「真理のことば」(ダンマパダ)は、四二三のブッダの言葉からなっています。
 そしてこの四二三の言葉は次の二六章に分けられています。
 「ひと組づつ」、「はげみ」、「心」、「花にちなんで」、「愚かな人」、「賢い人」、「真人」、「千という数にちなんで」、「悪」、「暴力」、「老いること」、「自己」、「世の中」、「ブッダ」、「楽しみ」、「愛するもの」、「怒り」、「汚れ」、「道を実践する人」、「道」、「さまざまなこと」、「地獄」、「象」、「愛執」、「修行僧」、「バラモン」
 これらの言葉は全て、人生をより良く生きて行く為に価値ある言葉たちですが、ここではあくまでもブッダ自身の智慧そのものに迫る言葉だけを拾い上げて行きたいと思います。
 そのキーワードは、「心」、「自己」、「ニルヴァーナ」等々になると思います。
 なお、「真理の言葉」(ダンマパダ)は、漢訳経典では「法句経」として知られているものですが、ここでは中村元氏がパーリ語原典から直訳したものを使用します。

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「一 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
   もし汚れた心で話したり行ったりすれば、苦しみはその人につき従う。
   ――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
 二 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
   もし清らかな心で話したり行ったりすれば、福楽はその人につき従う。
   ――影からそのからだが離れないように。」(「真理の言葉」第一章“ひと組づつ”)
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 心とは何でしょう。
 それは「考える私」です。
 「考える私」によって、苦楽が生まれて来るのです。

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「二一 つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。
    つとめ励む人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は、死者のごとくである。
 二二 このことをはっきりと知って、つとめはげみを能く知る人は、つとみはげみを喜び、聖者たちの境地を楽しむ。
 二三 思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、つねに健(たけ)く奮励する、思慮ある人は、安らぎに達する。
    これは無上の幸せである。
 三二 いそしむことを楽しみ、放逸におそれをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。」(「真理の言葉」第二章“はげみ”)
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 何にはげみ、何にいそしむのでしょう。
 ずばり哲学です。
 すなわち智慧を愛する事です。
 智慧を愛すれば、その先に空を見出し、そして無心の境地へと誘われるのです。
 空から無心の境地へと、それがニルヴァーナです。

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「四四 だれがこの大地を征服するであろうか?
    だれが閻魔の世界と神々ともなるこの世界とを征服するであろう。
    わざに巧みな人が花を摘むように、善く説かれた真理の言葉を摘み集めるのはだれであろうか。
 四五 学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界ともなるこの世界を征服するだろう。
    わざに巧みな人が花を摘むように、学びつとめる人々こそ善く説かれた真理の言葉を摘み集めるであろう。(「真理の言葉」第四章“花にちなんで”)
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 哲学にいそしむ人こそが真理の言葉を摘み集めるのです。
 哲学には二つの道があります。
 一つは古今東西の聖人賢人哲人たちの智慧の言葉を摘み集める事であり、
 もう一つは、その智慧の言葉を持って、自分自身の智慧に突入する事です。
 この二つによって、皆様も聖人賢人哲人たちと同じ道を歩む事になるのです。
 そこで皆様はニルヴァーナを体験する事になるのです。

 空から無心の境地へ。
 そこにキリストの蘇りが起きるのです。
 要は、皆様が、聖人賢人哲人たちの智慧の言葉をどれだけ集めたかです。

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「七九 真理を喜ぶ人は、心清らかに澄んで、安からに臥す。
    聖者の説きたもうた真理を、賢者はつねに楽しむ。
 八二 深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、心清らかである。
 八九 覚りのよすがに心を正しくおさめ、執著なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅び尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。」(「真理の言葉」第六章“賢い人”)
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 「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。」(「マタイ福音書」)
 心の清い人とは如何なる人か。
 それはこの世の私を捨て、考える私をも捨て去り、空に突入し、そして無心の中に蘇った人。
 彼はそこで我が神なる主を見る事になる。
 その属性は『愛』。
 我が神なる主とは智慧の事であり、その属性は愛。

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「九六 正しい智慧によって解脱して、やすらいに帰した人――そのような人の心は静かである。言葉も静かである。行いも静かである。
 九七 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、――かれこそ実に最上の人である。」(「真理の言葉」第七章“真人”)
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 日に一度、ニルヴァーナに達する事ができれば、その人の人生は豊かなものになります。
 一年三百六十五日二十四時間中、ニルヴァーナの中に在り続けられる人は誰もいません。
 私たち凡人は、日に一度僅かな時間でも良いのです。
 もし日に一度僅かな時間でも良いのでニルヴァーナに達する事ができれば、その人の生は豊かなものになります。
 人は何故祈るのか、人は何故瞑想するのか。
 それはニルヴァーナに達する為。
 究極の祈りは神と一体と成る事、それはニルヴァーナ。
 空から無心へ、そして智慧の蘇り。

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「一六〇 自分こそ自分の主である。
     他人がどうして主であろうか。
     自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
 一六一 自分がつくり、自分から生じ、自分から起こった悪が智慧悪しき人を打ちくだく。――金剛石が宝石を打ちくだくように。
 一六五 みずから悪をなすならば、みずからが汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。
     人は他人を浄めることができない。
 一六六 たとい他人にとっていかに大事であろうとも、他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。
     自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。」(「真理の言葉」第十二章“自己”)
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 皆様の目的は何なのでしょうか。
 それは自分自身を生きる事です。
 自分自身を生きる為に必要な事、それは日々ニルヴァーナに達し、そこで本当の自分自身を確認する事です。
 それが皆様のおつとめなのです。
 ですから、おつとめは、本当は朝が良いのです。
 何故なら、朝に確認したその本当の自分自身で、その日一日を過ごす事ができるから。

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「一七九 ブッダの勝利は敗れることがない。
     この世においては何人も、かれの勝利には達し得ない。
     ブッダの境地はひろく涯しがない。
     足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?
 一八〇 誘うために網のようにからみつき執著をなす妄執は、かれにはどこにも存在しない。
     ブッダの境地はひろく涯しがない。
     足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?
 一八一 正しい悟りを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。
     神々でさえもかれらを羨む。」(「真理の言葉」第十四章“ブッダ”)
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 瞑想に専中しているブッダを誰も掴まえる事はできない。
 何故なら無念無想だから。
 無念無想の人間がそこに存在していると言うだけで貴重である。
 何故なら私たちは彼を映し鏡として自分自身を見る事ができるから。
 私たちの心の何と穢れに蠢いている事か。
 しかし真のブッダの真骨頂は彼がその瞑想から目覚めた時である。
 彼に問いなさい。
 貴方が求めていたものが与えられるだろう。

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「一九〇 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)に帰依する人は、正しい智慧をもって、四つの尊い真理を見る。
 一九一 すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅におもむく八つの尊い道とを。
 一九二 これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。
     このよりどころによってあらゆる苦悩から免れる」(「真理の言葉」第十四章“ブッダ”)
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 四つの尊い真理を四諦と言い、苦しみの終滅におもむく八つの尊い道を八正道と言います。
 この四諦八正道こそが、仏法の核心です。
 四諦とは、漢訳用語では、苦諦、集諦、滅諦、道諦の事を言い、
 八正道とは、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の事を言います。

 先ずは四諦の中の苦諦から。
 苦諦とはこの世は苦であると言う事です。
 皆様の世界は苦しみに満ちた世界ですか。
 それとも楽しみに満ちた世界ですか。
 皆様は多分こう答えるのでしょう。
 苦楽相半ばしていると。
 多分そう言う事なのでしょうが、もう少し時間を差し上げますので、自分の心を駆け巡ってみてください。
 十分差し上げます。

 さて皆様の世界は苦楽どちらの世界でしたか。
 どちらかと言う苦の世界かな、苦に傾きがちな世界かな?
 有難うございます。
 その答えを頂かないと次へと進めないものですから。

 何故この世は苦なのか。
 簡単な事です。
 思いが適わないからです。
 その原因は煩悩。
 人間には百八の煩悩があるとも言われていますが、
 この煩悩が皆様を適わない思いに駆り立てているのです。
 これを集諦と言います。
 集諦とは、この世の苦の原因は、適わぬ思いに駆り立てる百八の煩悩であると言っているのです。

 さてさて、皆様へ、次のステップへの答えが出ましたね。
 もしこの世の苦の原因が、適わぬ思いに駆り立てる百八の煩悩であれば、この煩悩を滅すれば、苦の原因も除去されるではないかと。
 確かにその通りだと思います。
 皆様どうか、百八の煩悩の除去に取り掛かってください。
 どうですか、煩悩は取り払われましたか。
 感想!煩悩の森は密林の如く、切れども切れども涌いて来る。
 煩悩の木を切り尽くす事などできないのです。
 困ってしまいましたね。
 皆様は一生死ぬまで煩悩の森で暮らさなければならないのですね。

 ここに聖人たちが現れたのです。
 貴方方は誰も煩悩の森の木を切り尽くす事はできない。
 しかしその煩悩の森を一瞬にして消し去る事ができる。
 その方法とはこの世に死ぬという事である。
 これこそが全ての聖人たちの核心の教えなのです。

 貴方は何故この世に存在するのか。
 それは貴方が考える存在であるから。
 その考える私と言う存在を捨ててしまえ。
 そうすればそこには何も存在しない。

 そこから貴方の理想の世界へと進め。
 これが聖人たちの教えです。
  
 滅諦とはこの世に死ねと言う事です。
 そうすればこの世の苦しみは全てなくなる。
 そこに新たな自分が生まれる。
 新たな自分が生まれたら、そこからは正しい道を歩みなさい。
 それが道諦であり八正道です。

 八正道とは、正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく業じ、正しく命し、正しく精進し、正しく念じ、正しく定ずる事です。
 もし日々この八正道に励めば、嘗ての煩悩の密林は何時しか消えうせ、そこには皆様御自身の理想世界が築かれる事になるのです。

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「二〇三 餓えは最大の病であり、形成させられた存在(=わが身)は最もひどい苦しみである。
     このことわりを知ったならば、ニルヴァーナという最上の楽しみがある。
 二〇四 健康は最高の利得であり、満足は最大の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。」(「真理の言葉」第十五章“楽しみ”)
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 ニルヴァーナこそが最上の楽しみなのです。
 少し言葉を変えれば、最高の快楽なのです。
 それは充溢した無です。
 私はそれを最も素晴らしい喩えで言い表す事もできるのですが、この書では相応しくないので敢えて記さない事にします。
 
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「二〇五 孤独(ひとりい)の味、心の安らいのあじわったならば、恐れも無く、罪過(つみとが)も無くなる、――真理の味をあじわいながら。」(「真理の言葉」第十五章“楽しみ”)
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 これもニルヴァーナの味わいです。

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「二一八 ことばで説き得ないもの(=ニルヴァーナ)に達しようと志を起し、意(おもい)はみたされ、諸の愛欲に礙(さまた)げられることのない人は、<流れを上る者>と呼ばれる。」(「真理の言葉」第十六章“愛する者”)
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 もし皆様がニルヴァーナの味わいを知ったなら、皆様はニルヴァーナに達しようと志を起す筈です
 何故ならニルヴァーナがこの世の最高の快楽だからです。
 それは一瞬ではなく、長続きします。
 このニルヴァーナが続く時間によって、聖人、賢人、哲人そして私たち凡人の名が付くのかも知れません。
 ここで言うニルヴァーナとは、空から無心へと流れる心の境地を言います。
 神との交接、それがニルヴァーナの快楽なのです。

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「二二一 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛も超越せよ。名称と形態にこだわらず無一物となった者は、苦悩に追われることがない。」(「真理の言葉」第十七章“怒り”)
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 怒りはこの世の最大級の煩いです。
 もし皆様が怒っているのであれば、その怒りを捨て去りましょう。
 どうですか、捨て去る事ができましたか。
 捨て去る事などできませんよね。
 次から次に怒りを招く要因が訪れてきますよね。
 怒りを捨て去る最も効果的な方法は、この世の私を捨て去る事です。
 すなわち考える私を捨て去る事です。
 どうです、怒りどころか、慢心、束縛そして全ての名称と形態が跡形も無く消えてしまいましたね。
 祈り、瞑想、念仏等々、これらはこの世の私を捨て去る行為なのです。
  
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「二四二 不品行は婦女の汚(けが)れである。もの惜しみは恵み与える人の汚れである。悪事はこの世においてもかの世に汚れである。
 二四三 この汚れよりも更に甚だしい汚れがある。無明こそ最大の汚れである。修行僧らよ。この汚れをすてて、汚れ無き者となれ。」(「真理の言葉」第十八章“汚れ”)
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 「無明こそ最大の汚れである。」
 無明とは何でしょう。
 この「真理の言葉」の翻訳者中村元氏は、注釈の所で、それは無智だと言っています。
 そうなのです、無智こそが最大の汚れなのです。
 何故なら、それは無明、すなわち明かりが無いから。
 明かりの無い所でものを見てください。
 何か訳の分からないものどもが蠢いていますよね。
 それが汚れだと言っているのです。
 皆様の心の庭に智慧のあかりを灯してください。
 どうです、全てが明らかになりましたね。
 この世の最大の汚れ、無明を除き去る為には、哲学、すなわち智慧を愛するしかないのです。
 智慧を愛すれば愛するほど、皆様の智慧は、皆様のその心の中で明々と輝き出すのです。

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「二七三 もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれている。もろもろの真理のうちでは<四つの句>が最もすぐれている。
     もろもろの徳のうちでは<情欲を離れていること>が最もすぐれている。
     人々のうちでは<眼ある人>が最もすぐれている。
 二七四 これこそ道である。見るはたらきを清めるためには、この他に道はない。
     汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして打ちひしぐものである。
 二七五 汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすることができるだろう。
     矢を抜いて癒す方法を知って、わたしは汝らにこの道を説いたのだ。」(「真理の言葉」第二〇章“道”) 
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 四諦八正道こそが、仏への道です。
 私たちが日々ニルヴァーナに達したとしても、次の瞬間には元の「私」に戻っています。
 この元の「私」を矯正する方法が八正道なのです。
 『日々新たに』、ここに哲学の真髄があるのです。

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「二八二 実に心が統一されたならば、豊かな智慧が生じる。心が統一されていないならば、豊かな智慧がほろびる。
     生じることとほろびることのこの二種類の道を知って、豊かな智慧が生じるように自己をととのえよ。」(「真理の言葉」第二〇章“道”)        
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 心が統一されていれば、豊かな智慧が生じるのです。
 もし皆様の心が二つ以上に分かれていたら、皆様の心は内紛状態ですよね。
 そのような所に豊かな智慧が生じる筈はありませんよね。
 ところで皆様の心とは何だったでしょう。
 そうですね、「考える私」でしたね。
 考える私があちこちとさ迷っていたのでは、豊かな智慧など生じる筈もありません。
 豊かな智慧が生じる為に必要な事、それは私と智慧と神が一体と成る事。
 その為に必要な事、それはこの世の私を殺し、純粋無垢な私を蘇えらせる事。
 それが「自己をととのえる」と言う事なのです。

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「三二二 馴らされた騾馬は良い。インダス河のほとりの血統のよき馬も良い。クンジャラをいう名の大きな象も良い。
     しかし自己をととのえた人はそれよりもすぐれている。
 三二三 何となれば、これらの乗物によっては未踏の地(=ニルヴァーナ)に行くことはできない。
     そこへは、慎みある人が、おのれ自らをよくととのえておもむく。」(「真理の言葉」第二三章“象”)
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 皆様、自己をととのえましょう。
 そうすれば、未踏の地、ニルヴァーナが待っています。
 皆様自身が皆様自身の乗り物なのです

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「三二六 この心は、以前には、望むがままに、快きがままに、さすらっていた。
     今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう。
     ――象使いが鉤をもって発情期に狂う象をおさえつけるように。
 三二七 つとめはげむのを楽しめ。おのれの心を護れ。自己を難処から救い出せ。
     ――泥沼に落ち込んだ象のように。」(「真理の言葉」第二三章“象”)
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 皆様の心はひょっとしたら発情期に狂う象の如くではありませんか。
 もしそうであれば、鉤を以て、皆様の心を押さえつけましょう。
 ところでそのような鉤がありましたか。
 発情期に狂う象を押さえつける鉤はありますが、発情に狂う皆様の心を押させえつける鉤など何処にも無いのです。
 もし皆様の発情が終わったらこの書を読み直してください。
 そこに鍵があります。(答えは哲学、すなわち智慧を愛する事。)

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三五二 愛欲を離れ、執着なく、諸の語義に通じ諸の文章とその脈略を知るならば、その人は最後の身体をたもつものであり、『大いなる智慧ある人』と呼ばれる。」(「真理の言葉」第二四章“愛執”)
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 ここに哲学の究極の目的があります。
 「諸の語義に通じ諸の文章とその脈略を知る。」
 これが究極の哲学です。
 ロゴス。

 「初めに言(ことば)があった。
  言は神と共にあった。
  言は神であった。
  この言は、初めに神と共にあった。
  万物は言によってなった。
  成ったもので言によらず成ったものは何一つなかった。」(新約聖書「ヨハネ福音書」)

 ニルヴァーナは目的ではありません。手段です。
 ニルヴァーナから、言葉が生まれ、世界が生まれ、そして神さえも生まれるのです。

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「三六〇 眼について慎むのは善い。耳について慎むのは善い。鼻について慎むのは善い。舌について慎むのは善い。
 三六一 身について慎むのは善い。ことばについて慎むのは善い。心について慎むのは善い。あらゆることがらについて慎むのは善いことである。
     修行僧はあらゆることがらについて慎み、すべての苦しみから脱れる。
 三六二 手を慎み、足を慎み、ことばを慎み、最高に慎み、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している、――その人を<修行僧>と呼ぶ。」(「真理の言葉」第二五章“修行僧”)
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 修行僧が先ず最初に行う事、それは全てにおいて慎む事。
 そうすれば心が安定統一する。
 そこまで来れば、ニルヴァーナももう直ぐその先に在る。
 ここで言う修行僧は、この世をより良く生きようとしている皆様御自身の事です。
 先ずは全てにおいて慎みましょう。そうすれば必ず福が来ます。

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「三六四 真理を喜び、真理を楽しみ、真理をよく知り分けて、真理にしたがっている修行僧は、正しいことわりから堕落することはない。」(「真理の言葉」第二五章“修行僧”)
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 真理とは何か。
 それは皆様御自身の智慧の事です。
 自らの智慧を喜び、自らの智慧を楽しみ、自らの智慧をよく知り分けて、自らの智慧に従っている人は、正しいことわりから堕落する事はありません。
 何故なら、皆様の智慧は神に通じているからです。
 神とは何か、それは皆様に取っての真理。

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「三六七 名称とかたちについて、「わがもの」という思いが全く存在しないで、何ものも無いからといって憂えることの無い人、――かれこそ<修行僧>と呼ばれる。」(「真理の言葉」第二五章“修行僧”)
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 「諸行無常」、「諸法非我」。
 この世には何も存在しないのに、どうしてそれが私のものであろう。
 もしそれが欲しいのなら差し上げよう。
 ここに慈悲の原点が在る。

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「三六八 仏の教えを喜び、慈しみ住する修行僧は、動く形成作用の静まった、安楽な、静けさの境地に達するだろう。
 三六九 修行僧よ。この舟から水を汲み出せ。汝が水を汲み出したらば、舟は軽やかにやすやすと進むであろう。
     貪りと怒りを断ったならば、汝はニルヴァーナにおもむくであろう。」(「真理の言葉」第二五章“修行僧”)
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 修行僧の最初の目的地はニルヴァーナです。
 何故なら、そこに到達すれば、この世の楽しみなどとは比較にならない楽しみがあるからです。
 皆様も修行僧でしたよね。さあさあニルヴァーナへと向かう事にしましよう。
 先ずは、その貪りと怒りを断ちましよう。
 そして聖者たちの教えを楽しむ事としましよう。

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「三七二 明らかな智慧の無い人には精神の安定統一が無い。
     精神の安定統一していない人には明らかな智慧が無い。
     精神の安定統一と明らかな智慧とが備わっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。」(「真理の言葉」第二五章“修行僧”)
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 ここにニルヴァーナへ行く近道が示されているのです。
 その答えは精神の安定統一です。
 精神の安定統一がなされれば、明らかな智慧も備わるのですから。
 皆様の「考える私」はこの世のあちこちをさ迷っています。
 無念無想、瞑想等によりこの世の「考える私」を殺してしまいましょう。
 そして純粋無垢な「考える私」を蘇らせる事にしましよう。
 そしてそこから皆様の理想に向かって邁進する事にしましょう。
 所で皆様の理想は何ですか?
 『バラモン』であっても良いのではないですか。
 バラモンとは何か。
 「真理の言葉」最終章、第二六章“バラモン”にその答えが出て来ます。

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「三七四 個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく理解するのに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとっての喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。」(「真理の言葉」第二五章“修行僧”)
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 「その不死のことわりを知り得た人々にとっての喜びと悦楽なるもの」、それがニルヴァーナです。
 ニルヴァーナには喜びと悦楽があるのです。
 このニルヴァーナを体得しない限り、その修行僧の行う事は偽善となります。
 神の喜びと共に在ると言う実感こそが、人をして神に倣う者とさせるのです。

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「三七八 修行僧は、身も静か、語も静かで、よく精神統一をなし、世俗の享楽物を吐きすてたならば、<やすらぎに帰した人>と呼ばれる。」(「真理の言葉」第二五章“修行僧”)
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 ニルヴァーナはやすらぎです。
 それは静かな静かなやすらぎであり、そして静かな静かな喜びでもあります。
 ニルヴァーナとは、空から無心へと流れる心の境地の事ですが、
 空から無心へと移る際に、静かなエネルギーが生まれる事になります。
 このエネルギーは静かな上にも静かですが、しかし大きな力を秘めているのです。
 もし皆様がそこに理想をぶつければ、大きな力と成ります。

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「三七九 みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。
 三八〇 実に自己は自分の主である。自己は自分の帰趨(よるべ)である。故に自分をととのえよ。――商人が良い馬を調教するように。」(「真理の言葉」第二五章“修行僧”)
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 自己は自分の主である。自己は自分の帰趨である。
 ですから、皆様修行僧の方々は、自分を励まし、自分を反省し、自分を護り、自分を整える必要があるのです。
 なお、ここで言う自己は自分の主であると言う意味は、皆様の智慧が皆様自身の主だと言う事です。
 ここの自己には二つの意味があります。
 一つは「考える私」であり、他の一つは皆様御自身の智慧の事です。
 「考える私」が智慧を通じて、神や仏の御心を行う事になります。
 なお、「神」や「仏」は比喩です。
 もし皆様が真心に達したならば、その真心が求めるそれがそれと言う事になります。

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「三八一 喜びにみちて仏の教えを喜ぶ修行僧は、動く形成作用の静まった、幸いな、やすらぎの境地に達するであろう。」(「真理の言葉」第二五章“修行僧”)
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 「動く形成作用の静まった、幸いな、やすらぎの境地」、これがニルヴァーナです。
 空から無心へ。
 その境地は静かなのですが、その静かな中に、静かなやすらぎがあり、静かな幸福感があるのです。
 
 「喜びにみちて仏の教えを喜ぶ修行僧」、この言葉には、仏の教えを喜ぶ有様が良く表現されていますよね。
 皆様も聖人たちの教えを喜びに満ちて喜んで学んでください。
 そうすれば、皆様も聖人たちの境地に達する事ができます。
 ニルヴァーナはブッダだけの専売特許ではありません。
 全ての聖人たちが達した境地です。
 何故なら、そこから聖なる教えが生まれて来るのですから。

 さて愈々「真理の言葉」も最終章です。
 最終章は“バラモン”です。
 バラモンこそが、我々哲学者、すなわち智慧を愛する者の最終目標ではないでしょうか。
 バラモンとは如何なる人間が、我々は何処までバラモンに近づけるのか、そんな思いを抱きながら読み進めてください。

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「三八四 バラモンが二つのことがら(=止と観)について、彼岸に達したならば、かれはよく知る人であるので、かれの束縛はすべて消え失せるであろう。
 三八五 彼岸もなく、此岸もなく、彼岸・此岸なるものもなく、怖れもなく、束縛もない人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 三八六 静かに思い、塵垢(ちりけがれ)なく、為すべきことをなしとげ、煩悩を去り、最高の目的を達した人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 三九一 身にも、ことばにも、心にも、悪い事をなさず、三つのところについてつつしんでいる人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う、
 三九七 すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執著を超越して、とらわれることのない人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 三九九 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐力の力あり、心の猛き人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四〇〇 怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身を整え、最後の身体に達した人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四〇一 蓮葉の上の露のように、錐の先の芥子のように、諸の欲情に汚されない人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四〇二 すでにこの世において自分の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれの無い人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四〇三 明らかな智慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最高の目的を達した人、――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四〇六 敵意のある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあって執著しない人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四〇七 芥子粒が錐の先端から落ちたように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四〇八 粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、ことばによって何人の感情をも害することのない人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四一〇 現世を望まず、来世をも望まず、欲求がなくて、とらわれの無い人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四一一 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四一二 この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四一三 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四一四 この障害・険道・輪廻(さまよい)、迷妄を超えて、渡り終わって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく、疑惑なく、執著することなくて、心安らかな人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四一五 この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四一六 この世の愛著を断ち切り、出家して遍歴し、愛著の生存の尽きた人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四一七 人間の絆を捨て、天界の絆を越え、すべての絆を離れた人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四一八 快楽と不快とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った英雄、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四一九 生きとし生ける者の死生をすべて知り、執著なく、よく行きし人、覚った人、――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四二〇 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方を知り得ない人、煩悩の汚れを滅びつくした真人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四二一 前にも、後ろにも、中間にも、一物をも所有せず、無一物で、何ものをも執著して取りおさえることの無い人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四二二 牡牛のように雄雄しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望の無い人・沐浴者・覚った人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。
 四二三 前世の生涯を知り、また天上と地獄を見、生存をほろぼしつくすに至って、直感智を完成した聖者、完成すべきことを完成した人、
     ――かれをわれは<バラモン>と言う。」(「真理の言葉」第二六章“バラモン”)
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 さて皆様はバラモンの人間像を理解できたでしょうか。
 その答えは何時如何なる時でも一緒です。
 その答えは「智慧と愛」の人です。
 何故ならそれは、全ての聖人賢人哲人に共通の事なのですから。

 聖人賢人哲人と成る為の最初の条件、それが止と観です。
 すなわちこの世の「考える私」を殺し、蘇った純粋無垢な「考える私」でこの世を観る事です。
 しかしこの純粋無垢な「考える私」はとてもひ弱です。
 この純粋無垢な「考える私」を鍛える方法が八正道と言う事になります。

 「日々新たに」、これが聖人賢人哲人たちの道です。
 日々この世の「考える私」を殺し、日々蘇った純粋無垢な「考える私」で、八正道を以って、この世を観て行けば(生きて行けば)、純粋無垢な「考える私」がこの世の「考える私」を圧倒して行く事になるのです。
 その最終形が、四二二節にあるように、牡牛のように雄雄しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望の無い人・沐浴者・覚った人となるのです。

 なお、最終節四二三節の「直感智を完成した聖者」とは、智慧を最高度までに極めた人の事です。
 ここで言う直感智が「般若波羅密多心経」「菩提達摩無心論」で言う真般若の事です。
 この直感智こそが本当の智慧なのです。
 何故なら、それは智慧の根源から混じりけ無く生まれたものだからです。

 この直感智を養う方法が哲学、すなわち智慧を愛すると言う事になります。
 智慧を愛して愛し抜けば、その先に智慧の根源を観る事になります。
 そこに至って私たちは始めて、智慧から直接に智慧の言葉を聞く事になるのです。
 その為にも、前世を知り、天国を見、地獄を見る必要があるのです。
 なお、前世、天国、地獄は全て比喩です。

 以上でブッダの「真理の言葉」を終わります。
 この「真理の言葉」でブッダが最も言いたかったのは『ニルヴァーナ』でしたよね。
 ニルヴァーナに至れば、全ての悩みが消える。
 それは本当です。
 しかし誰も一年三六五日二四時間中、ニルヴァーナに在り続ける事はできません。
 ニルヴァーナに至った後は、またこの世に戻って来なければなりません。
 この世を如何に生きるか。
 それに対して、ブッダは八正道と言うとても素敵な道を示してくれましたよね。
 「ニルヴァーナ」と「八正道」、これに日々励めば、きっと素敵な人生が開けると思います。
 なお、「ニルヴァーナ」と「八正道」、これは正に哲学の事です。
 哲学、それは智慧と愛を完成させる事。

 さて以上でブッダの智慧を、観自在菩薩、菩提達摩、そしてブッダ自身の言葉に即して見てきましたが、その本質を理解できたでしょうか。
 彼らは、その中心となる概念について、独特の用語を用いていましたね。
 観自在菩薩は「空」であり、菩提達摩は「無心」であり、そしてブッダは「ニルヴァーナ」でしたね。
 それらはほとんど同じ概念なのですが、幅に少し違いがあります。
 「空」はその頂点です。
 私たち凡人は、それについてはほんの一瞬しか体験できません。
 聖人と言われる人たちはそこに長く滞在する事ができると言われているようですが・・
 「無心」とは「空」から目覚めた状態の事です。
 そして「ニルヴァーナ」とは、空から無心に至る一連の状態の事を言います。

 死して生きる。
 これこそが、全ての哲学宗教の根源にあるものです。
 私たちはブッダにもそれを読み取る事ができたと思いますが、
 次は孔子です。
 孔子は「道徳先生」の代表みたいに言われていますが、
 その孔子にそれを読み取る事ができるのでしょうか。

「第六章 孔子の智慧」へ