第七章 王陽明の智慧

第七章 王陽明の智慧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「『一を以って之を貫く』は、其の良知を致すに非ずして、何ぞや」(巻中、二四四)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「一を以って之を貫く」は孔子の言葉です。
 孔子は論語の中でこの言葉を二回発しています。
 それが次の二つです。

 「子の曰わく、賜(し)や、女(なんじ)予(わ)れを以て多く学びてこれを識(し)る者と為すか。
  対(こた)えて、曰わく、然り、非なるか。
  曰わく、非なり。予れは一以ってこれを貫く。」(「論語」巻第八“衛霊公第十五”)

 「子の曰く、参(しん)よ、吾が道は一以ってこれを貫く。
  曾子の曰く、唯(い)。
  子出ず。
  門人問うて曰く、何の謂いぞや。
 曾子の曰く、夫子の道は忠恕のみ。」(「論語」巻第二“里仁第四”)

 良く読み込むとニュアンスに少し違いがあるようですね。

 この「一を以って之を貫く」に対して孔子自身は答えを出していません。

 二番目については答えが出ていますが、その答えは孔子自身の言葉ではなく曾子の言葉です。
 しかし孔子の言葉を代弁したものとして良いと思います。
 孔子の道は「忠恕のみ」。
 この答えは絶対に間違いの無いものです。
 それはまたイエスの道でもあり、ブッダの道でもあり、聖人賢人と言われる人たちの道でもあるのですから。
 「智慧と愛」、これこそが古今東西の聖人賢人哲人たちが求め続けて来ているものなのですから。

 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
   これが最も重要な第一の掟である。
   第二もこれと同じように重要である。
  『隣人を自分のように愛しなさい。』
   律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ福音書)

 それでは一番目の答えについても「忠恕のみ」で良いのでしょうか。
 いいえ。
 その答えは王陽明の言う「其の良知を致す」(致良知)であるべきなのです。

 「これを識(し)る」とは、一体何を知るのか。
 勿論、智慧です。
 智慧を知る為には智慧を愛するしか、その方法が無いのです。
 すなわち「致良知」しかないのです。

 「致良知」、「良知」は王陽明の中心概念です。
 王陽明の思想は「伝習録」に集約されています。
 伝習録は巻上、巻中、巻下の三巻に分かれています。
 巻上は、王陽明の四十歳代の思想が中心であり、巻中と巻下は王陽明の五十歳前後から晩年までの思想が中心だと言われています。
 この内、巻上において、良知と言う言葉が出て来るのは僅か一箇所だけです。
 その一箇所についても、孟子の「良知良能」からの引用に過ぎません。
 しかし巻中と巻下は良知のオンパレードです。
 巻中と巻下においては、良知の事しか言っていないと言って良い位です。
 巻中と巻下において、王陽明はそれこそ良知を熱く語っています。
 次もその中の一節です。
 「私は、南京に行く前には、未だ幾らか世間に迎合して、評判を良くしようとする郷愿的な気持ちが残っていた。しかし、今では、この良知を絶対に信じているから、良知の命じる本当の是非を、そのまま実行して、少しも隠そうとしなくなった。私は、今やっと、孔子の言う狂者の心境に立つ事ができた訳で、世間の人に、私の行動が、言葉と一致しないと言われても、それでも構わないのである。」

 「良知」とは何か、それは智慧です。
 「致良知」とは何か、それは智慧を愛する事、すなわち哲学の事なのです。
 (なおここで言う哲学とはphilosophia、智慧を愛すると言う意味での哲学の事です。この事については念には念を押して置きます。)
 
 智慧とは何か。
 そこには二つの概念があります。
 一つは智慧の根源としての智慧の事であり、
 もう一つはその智慧から発せられる智慧の事です。

 「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。
  発して皆な節に中(あた)る、これを和(か)と謂う。」(「中庸」)

 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
   これが最も重要な第一の掟である。
   第二もこれと同じように重要である。
  『隣人を自分のように愛しなさい。』
   律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)

 「大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しむるに在り、至善に止まるに在り。」(「大学」)

 智慧の根源としての智慧とは何か。
 その智慧から発せられる智慧とは何か。
 この事を常に念頭において置けば、王陽明の良知が良く理解できるようになると思います。

 それでは「伝習録」に従って、王陽明の智慧、すなわち王陽明の良知を視て行きたいと思います
 なお便宜上、次の二つに分けて説明したいと思います。
 一 良知とは何か
 二 良知はどのような働きをするのか。
   どのようにすれば最も良知が働くのか。すなわち「致良知」について
 
 それでは先ず「良知とは何か」について。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「『一を以って之を貫く』は、其の良知を致すに非ずして、何ぞや」(巻中、二四四)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 良知は「一」だと言うのです。
 なおここで言う一とは、孔子が「克己復禮を仁と為す」と言う時の仁の事です。
 すなわち皆様が智慧に還った時の状態の事を言います。
 それは大学の言う「至善」であり、中庸の言う「中」であり、ブッダの言う「ニルヴァーナ」であり、
 そしてイエスやダビデやソロモンが神と共に在る時の状態の事です、
 
 「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。
  発して皆な節に中(あた)る、これを和(か)と謂う。」(「中庸」)

 この「一」、すなわち「中」であり、「至善」であり、「ニルヴァーナ」が発せられて和と成ります。
 この中から和に至る過程を王陽明は「致良知」(良知を致す)と呼んでいるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「夫れ、良知は、一なり。其の妙用を以って言えば之を神と謂い、其の流行を以って言えば之を気と謂い、其の凝聚(ぎょうしゅう)を以って言えば之を精と謂う。」(巻中、二九二)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 良知は一であり、神であり、気であり、精だと言うのです。
 皆様が智慧の根源としての智慧とそれから発せられる智慧を自らにおいて体認すれば、その事が良く理解できる筈です。
 聖人賢人哲人たちの言葉は、自分を離れて理解しようと思っても決して理解する事はできません。
 王陽明は特にその事を強調しています。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「盡(けだ)し、良知の人心に在るや、万古に亘り、宇宙に塞って、同じからざる無し。」(巻中、三三七)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知の人心に在るは、聖愚を間(へだ)つる無く、天下古今の同じき所なり。」(巻中、三六〇)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「這(こ)の良知は、人人、皆有り。聖人は、只だ、これを保全して、些(いささか)の障蔽無し。」(巻下、四二八)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「夫れ、良知は、即ち、是れ、道にして、良知の人心に在るは、但だに、聖賢のみならず、常人と雖も、亦、此(かく)の如からざるは無し。
 若し、物欲の牽蔽有る無く、但に、良知に循(したが)ひ、発用流行し、将(も)ち去(ゆ)けば、即ち、是れ、道ならざるは無し。
 但だ、常人に在りては、多く物欲に牽蔽され、良知に循(したが)う能わず。」(巻中、三一六)
 ※発用流行=発現活動。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知良能は、愚夫愚婦も聖人も同じ。但(た)だ惟(た)だ、聖人のみ能くその良知を致して、愚夫愚婦は致す能わず。此れ、聖愚の分かるる所なり。」(巻中、二三八)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「聖人の気象は、何に由って、認めん。自己の良知は、原(もと)、聖人と一般なり。若し、自己の良知を体認して、明白なれば、即ち、聖人の気象は、聖人に在らずして、我に在り。」(巻中、二七九)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「『惟だ、天下の至聖のみ、能く、聡明叡智を為す』と
 舊(もと)は、何と玄妙と看しが、今看れば、原(もと)、是れ、人人に自有の的(もの)なり。
 耳は、原(もと)、是れ聡、目は、原(もと)、是れ明、心思は、原(もと)、是れ叡智なり、
 聖人は、只だ、是れ、一に、之を能くするのみ。
 能くする處は、正に、是れ、良知なり。」(巻下、四九三)
 ※自有=生まれながらに持っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 皆様と聖人は「良知」(智慧の根源としての智慧)において一緒だと言うのです。
 この「良知」(智慧の根源としての智慧)は人類皆に等しく存在していると言うのです。
 当たり前の事ですよね。
 この「良知」(智慧の根源としての智慧)において、人類皆兄弟なのですから。

 皆様も、聖人の気象を理解しようと思えば、この良知に還れば良いのです。
 その方法はとても簡単です。
 王陽明はここでは物欲を去ればと言うような事を言っていますが、私はもっと端的に言います。
 「この世の私を捨て去れ」と。
 そうすればそこに光り輝く「良知」が存在すると。

 皆様も、強い意志を持って、この良知に従って行けば、聖人にも成れるのです。

 もう少し、王陽明の言葉に従って、「良知」の正体を視て行きたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、心の本体にして、所謂、恒に照らす者なり。心の本体は、起こること無く、起こらざること無し。
 妄念の発すると雖も、良知は、未だ嘗て、在らずんばあらず。但だ、人、在するを知らざれば、即ち、時、有って、或いは、放つのみ。
 昏塞の極と雖も、良知は、未だ嘗て、明らかならずんばあらず。但だ、人、察するを知らざれば、即ち、時、有って、或いは、弊(おお)わるるのみ。」(巻中、二八九)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、即ち、之、『未発の中』なり。即ち、是れ、『廓然大公』、『寂然不動』にして、人人の同じく具する所の者なり。
 但だ、物欲に昏蔽されざる能はず。故に、須く、学んで、以って、其の昏蔽を去るべし。
 然れども、良知の本体に於いて、初めより、毫末も、加損、有る能わず。」(巻中、二九四)
 ※『未発の中』=中庸の言葉。心が寂然不動であって、しかも万事に応じ得る状態を謂う。 ※『廓然大公』=易の言葉。 ※『寂然不動』=明道の定性書の言葉。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「未発の中は、即ち、良知なり。前後内外、無くして、渾然一体の者なり。
 事有ると事無きとは、以って、動静と言う可し。而れども、良知は、事有ると事無きに、分かるる無きなり。
 寂然と感通とは、以って、動静と言う可し。而れども、良知は、寂然と感通に、分かるる無きなり。」(巻中、二九六)
 ※寂然と感通=易の「寂然として動かず、感じて遂に通ず。」に基づく。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「心は身の主なり。而して、心の虚霊明覚は、即ち、所謂、本然の良知なり。
其の虚霊明覚の良知が、感に応じて動く者、之を意と言う。」(巻中、二三一)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、是れ、只だ、一箇の良知にして、善悪、自ら弁ず。
 更に何の善、何の悪を思う可きことかあらん。
良知の体は、本(もと)、是れ、寧静なり。」(巻中、三〇九)」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 良知は、心の本体であると言うのです。
 そして、その良知は常に存在し、常に皆様を照らし続けていると言うのです。
 その性質と言えば、「未発の中」であり、「廓然大公」であり、「寂然不動」であり、「虚霊明覚」であり、「寧静」であると言うのです。
 「未発の中」、「廓然大公」、「寂然不動」、「虚霊明覚」、「寧静」とは何か。
 皆様の中で深く考えて欲しいと思います。
 そうすれば、良知の概念が浮かび上がって来ると思います。
 それは神とは何か、天とは何かを考える事と一緒です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、是れ、天理の照明霊覚の處なり。
 故に、良知は、即ち、是れ、天理なり。
 思いは、是れ、良知の発用なり。
 若し、是れ、良知の発用の思いならば、則ち、思う所は、天理に非らざるは無し。
 良知の発用の思いは、自然に明白簡易にして、良知は、亦、自ら能く知る。」(巻中、三三〇)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「天理の人心に在るや、古に亘(わた)り、今に亘り、終始有ること無し。
 天理は、即ち、是れ、良知なり。
 千思万慮して、只だ、是れ、良知を致さんとことを要(もと)むるなり。
 良知は、愈々、思えば、愈々、精明なり。」(巻下、四九四)
 ※この一節は重要。知恵の本質を説く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「吾が心の良知は、即ち、所謂、天理なり。吾が心の良知の天理を、事事物物に致せば、則ち、事事物物は皆、その理を得(う)るなり。
 吾が心の良知を致すは、致知なり。事事物物、皆、その理を得るは、格物なり。」(巻中、二二一)」   
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「昏闇の士も、果たして、能く、事に随い、物に随って、此の心の天理を精察し、以って、其の本然の良知を致さば、即ち、愚と雖も必ず明に、柔と雖も必ず強に、大本立って、達道行われ、九経の属も、一を以って之を貫いて、遺(のこ)すこと無かる可べきなり。」(巻中、二三一)
 ※九経=中庸にある天下国家を治める九つの道。 ※「一を以って之を貫く」=論語の言葉。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「幸いとする所は、天理の人心に在るや、終に泯(ほろぼ)す可からず所ありて、良知の明らかなること、万古一日なれば、則ち、其れ、吾が抜本塞源の論を聞けば、必ず惻然として悲しみ、戚然として痛み、憤然として起ち、沛然として江河を決するが若くにして、防ぐ可からざる所ある者あらん。
夫の豪傑の士の、待つ所無くして興起する者に非ずんば、吾誰と興(とも)にか望まんや。」(巻中、二六九)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 良知は天理であり、天理は良知であると言うのです。
 ここに王陽明の良知が集約されています。
 良知は天理ですので、致良知(良知を致す)、すなわち智慧を愛すれば、そこに天の思いが実現されると言う事になります。
 天の思いは明々白々です。
 ここにおいてわたしたちは、古今東西の聖人賢人哲人たちの万古一日の思いを視て取る事ができるのです。

 なお、最後の「幸いとする所は」云々は、王陽明の「抜本塞源論」として、王陽明の言葉の中で最も有名な言葉であると言われています。
 この言葉を受けて、西郷隆盛は明治維新を起こしたのだと私は思っています。
 皆様も強い意志を持って、智慧を愛しましょう。
 そうすれば社会は変わります。
 その社会は哲学国家日本とも呼ばれる事になります。
 次の言葉にも王陽明の良知に対する熱い思いが見て取れます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「僕、誠に、天の霊に頼(よ)って、偶々(たまたま)、良知の学を見る有り。
以為(おも)へらく、必ず、此に由って、而(しか)る後に、天下を得て、治べしと。
是を以って、斯(こ)の民の陥溺を念(おも)う毎に、則ち、之が為に、戚然として、心を痛め、其の身の不肖を忘れて、此を以って、之を救わんことを思う。」(巻中、三六四) ※僕=私
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ここには学者としての王陽明ではなく、哲学(智慧を愛する事)によって、国を救いたいと言う熱い思いの王陽明が見て取れます。
 この言葉をも受けて、西郷隆盛は明治維新を起こしたのでしょう。
 皆様も強い意志を持って、智慧を愛しましょう。
 そうすれば、皆様の智慧が求める社会が実現します。
 その社会は、哲学国家日本とも呼ばれる事になります。
 哲学国家日本とは、国民の一人一人が智慧を愛する事に依って、実現する国家日本の事です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、即ち、是れ、天の植えたる霊根にして、自ら生生して、息まず。」(巻下、四五五)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「アルファでありオメガである」(新約聖書「黙示録」)
「これを放てば則ち六合に弥(わた)り、これを巻けば則ち密に退蔵す。その味わい窮まりなし。」(「中庸」宋朱熹章句)
 「道は沖として之を用うれども或(つね)に満たず。淵として万物の宗に似たり」(「老子」上編)
 「谷神は死せず。是を玄牝(げんぴん)と言う。玄牝の門、これを天地の根と謂う。緜緜(めんめん)として存するが若く。之を用うれ勤(つか)れず」(「老子」上編)

 これが智慧の特質です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、是れ、造化の聖霊なり。
 這些(この)聖霊は、天を生じ、地を生じ、鬼を成し、帝を成す。
 皆、此より、出ず。真に、是れ、物と対する無し。
 人、若し、他(かれ)に復し、完完全全にして、少しの虧欠無くんば、自らの、手の舞、足の踏むを覚えざらん。
 知らず、天地の間、更に、何の楽しみの代わる可(べ)き有らん。」(巻下、四七〇)
 ※この一節は重要。ここに全ての宗教の天地創造論とエクスタシー論を見る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「天地も、人の良知無くんば、亦、天地為(た)る可からず。
 蓋し、天地万物は、人と、原(もと)、是れ、一体にして、その発竅(はつけう)の最も精なる虚は、是れ、人心の一点の霊明なり。」(巻下、四八三)
 ※発竅=竅は穴。発竅は発する穴。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、只だ、是れ、一箇にして、他(かれ)の発見流行する處に随い、當下(ただち)に具足す。」(巻中、三八一) 
※発見=発現。※流行=活動。※去く=行く。※假借=借りる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「此れ、良知の妙用の、方体無く、窮盡無く、『大を語れば、天下も能く載する莫く、小を語れば、天下も能く破る莫き』所以の者なり。」(巻中、三八一)
 ※『大を語れば・・・』=中庸の言葉。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知の虚は、便ち、是れ、天の太虚なり。
 良知の無は、便ち、是れ、天の無形なり。
 日月風雷、山川民物、凡そ、貌象形色有るは、皆、太虚無形中に在って、発用流行し、未だ嘗て、天の障碍(しょうがい)を作(な)さず。
 聖人は、只だ、是れ、其の良知の発用に順(した)い、天地の万物共(とも)に、我が良知の発用流行中に在り。」(巻下、四七八)
 ※発用流行する=自由に活動する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、即ち、是れ、易なり。
 其の道たるや、屢々(しばしば)、遷り、変動して、居らず、六虚に周流し、上下常無く、剛柔相易って、典要を為す可からず、惟(た)だ、変の適(ゆ)く所のままなり。
 此の知は、如何ぞ、捉摸(そくぼ)せん。
 見て透る時は、便ち、是れ、聖人なり。」(巻下、五六五)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「『天に先立って、天、違(たが)はず』とは、天は、即ち、良知なればなり。
 『天に遅れて、天の時を奉ず』とは、良知は、即ち、天なればなり。」(巻下、四九八)
  ※『天に先立って・・』『天に遅れて・・』=易の乾卦文言伝の言葉。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ここに智慧の天地創造論が謳われています。
 表現がオーバーなので惑わされがちですが、智慧の本質を見極めれば何の不思議もありません。

 「初めに言(ことば)があった。
  言は神と共にあった。
  言は神であった。
  この言は、初めに神と共にあった。
  万物は言によってなった。
  成ったもので言によらず成ったものは何一つなかった。」(新約聖書「ヨハネ福音書」)

 皆様の世界は皆、皆様の智慧と皆様の共同作業で創り上げたものです。
 もし皆様が、今の世界を気に入らないのなら、もっと智慧を愛すべきです。
 そうすれば、智慧は皆様の求める世界を、皆様と一緒に創り上げてくれる筈です。

 「What a wonderful world」(何と言う素敵な世界)
 それは皆様と皆様の智慧との共同作業で創り上げるべき世界なのです。

 智慧とは何か。
 皆様の一歩先を行く存在です。
 智慧こそが、皆様の個人教授なのです。
 智慧は皆様の事を何でも知っています。
 智慧は皆様が求めるものを皆様が求める先から知っているのです。
 智慧は皆様の心の教師なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「道は、即ち、是れ、良知なり。
 良知は、原(もと)、是れ、完完全全なり。
 是なる的(もの)は、他(かれ)の是とするに還(かえ)し、非なる的(もの)は、非とするに還(かえ)し、是非、只だ、他(かれ)に依れば、更に、不是の處有ること無し。
 這(こ)の良知は、是(こ)れ、你(なんじ)の明師なり。」(巻下、四七四)
 ※この一節は重要。良知は、貴方の師(先生)なのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 良知は皆様の先生であり、そして皆様の神様でもあるのです。
 「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。
  月も、星も、あなたが配置なさったもの。
  そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。
  神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていだかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。
  羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。」(「詩篇」)

 皆様と神様は遠く隔たってはいません。
 「神に僅かに劣るものとして人を造り」なのですから。
 喩えれば、皆様の一歩先を行く存在です。
 一歩先を行く存在だからこそ、皆様は神様に従う事ができるのです。

 王陽明の言う「良知」とダビデの言う「神」は一緒です。

 「良知は、原(もと)、是れ、完完全全なり。」

 良知の性格をもう少し詳しく見ていきましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「爾(なんじ)の邦(か)の、一点の良知は、是れ、爾の自家の準則なり。
 爾の意念の着く處、他(かれ)は、是は便ち是と知り、非は便ち非と知り、更に、他(かれ)を、一些(いささか)も、欺き得ず。
 爾、只だ、他(かれ)を欺くを要せず、実実落落に、他(かれ)に依(よ)って、做(な)し去(ゆ)けば、善は便ち存し、悪は便ち去らん。 (巻下、四一四) 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「夫(そ)れ、良知の節目時変に於けるは、猶(なお)、規矩尺度の方円長短に於けるがごときなり。」(巻中、二三八)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知、誠に致せば、天下の節目時変は、応ずるに勝(た)う可からざるなり。」(巻中、二三八)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、是れ、只だ、一箇の良知にして、善悪、自ら弁ず。」(巻中、三〇九)」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「義は、即ち、是れ、良知なり。」(巻下、四五八)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、只だ、是れ、箇(こ)の『是非の心』なり。」(巻下、四九九)
 ※『是非の心』=孟子公孫丑上編の言葉。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「是非の心は、慮(おもんばか)らずして、知り、学ばずして、能くす。所謂、良知なり。」(巻中、三六〇)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「盡(けだ)し、思いの是非邪正は、良知の自ら知らざる者は無し。」(巻中、三三〇)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「誠は、是れ、実理なり。只だ、是れ、一箇の良知なり。」(巻下、四九一)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「父を見れば自然に孝を知り、兄を見れば自然に弟を知り、孺子の井に入るを見れば自然に惻隠を知る。此れ便ち、是れ良知にして、外に求むるを假(か)らず。」(巻上、四九)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「孺子の井に入らんとするを見れば、必ず惻隠の理あり。この惻隠の理は、果たして孺子の身に在りや。抑々(そもそも)、吾が心の良知に在りや。」(巻中、二二一)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「盡(けだ)し、良知は、只だ、是れ、一箇の天理の、自然に明覚発見する處、只だ、是れ、一箇の真誠惻怛、便ち、是れ、他(か)れの本体なり。」(巻中、三八一)
 ※真誠惻怛=真の誠の惻(いたむ)怛(いたむ)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、喜怒憂懼に滞らずと雖も、喜怒憂懼も、亦、良知に外ならず。」(巻中、三〇二)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「能く、戒慎恐懼する者は、是れ、良知なり。」(巻中、三〇四)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「所謂『人、知らずと雖も、己、独り知る所』とは、此は、正に、我が心の良知の處なり。」(巻下、五三七)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、本来、自ら、明らかなり。」(巻中、三一四)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、原(もと)、是れ、精精明明の的(もの)なり。」(巻下、五〇二)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、本(もと)、是れ、明白なれば、実落に、功を用ひば、便ち、是なり。」(巻下、四九〇)※実落に=実際に。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「其の良知の体は、皦として、明鏡の如く、略々(ほぼ)、纎翳(せんえい)無し。」(巻中、三二二)  ※皦=明らかなこと。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、心の本体にして、所謂、恒に照らす者なり。」(巻中、二八九)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「夫れ、良知は、即ち、是れ、道にして、良知の人心に在るは、但だに、聖賢のみならず、常人と雖も、亦、此(かく)の如からざるは無し。」(巻中、三一六)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、是れ、造化の聖霊なり。
 這些(この)聖霊は、天を生じ、地を生じ、鬼を成し、帝を成す。
 皆、此より、出ず。真に、是れ、物と対する無し。
 人、若し、他(かれ)に復し、完完全全にして、少しの虧欠無くんば、自らの、手の舞、足の踏むを覚えざらん。」(巻下、四七〇)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「我、今、這(こ)の、良知を信じ、真是真非、手に任せて、行ひ去(ゆ)き、更に、些かの覆蔵(ふくぞう)を著せず。」(巻下、五二四)※覆蔵=隠す。 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 良知は皆様の人生の羅針盤です。
 もし皆様がこの良知に完全に従えば、「自らの、手の舞、足の踏むを覚えざらん」と言う事にもなるのです。

 良知を別の言葉で表せば道です。
 「天の命ずるをこれ性と言う。性に従うこれを道と謂う」(「中庸」)
 「わたしは道である」(「新約聖書」)
 「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」(「論語」)

 この良知を如何に信じ、そしてこの良知に如何に従うか、そこに皆様の全人生があるのです。
 「我、今、這(こ)の、良知を信じ、真是真非、手に任せて、行ひ去(ゆ)き、更に、些かの覆蔵(ふくぞう)を著せず」
 これは王陽明の良知に関する信仰表明です。

 もし皆様が智慧(良知)に対するもっと熱き信仰を視たいのなら、もう一度ダビデの「詩篇」を読み返して下さい。
 あれこそが生身の人間における最も強烈な智慧への信仰表明です。
 
 ダビデ、ソロモン、イエスは、智慧を「我が神なる主」と言う人格を持つ存在に置き換えました。
 それにより、智慧に対するより強い信仰が生まれました。
 王陽明は、智慧を概念として理解し、そして概念のまま信じました。
 どちらを選択するかは各人各様の事です。
 しかし智慧と言う概念に対して理解が無ければ、その人の人生は闇のままです。

 さてそれでは、この良知にどのように従えば良いのか。
 それに対する答えは既に出ています。
 この世の私を殺し、時々刻々、事事物物に良知に従へと言う事です。
 すなわち「致良知」です。
 そうすれば良知が皆様をその世界へと誘ってくれるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「夫れ、良知は、即ち、是れ、道にして、良知の人心に在るは、但だに、聖賢のみならず、常人と雖も、亦、此(かく)の如からざるは無し。
 若し、物欲の牽蔽有る無く、但に、良知に循(したが)ひ、発用流行し、将(も)ち去(ゆ)けば、即ち、是れ、道ならざるは無し。
 但だ、常人に在りては、多く物欲に牽蔽され、良知に循(したが)う能わず。(巻中、三一六) ※発用流行=発現活動。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、本来、自ら、明らかなり。
 気質の美ならざる者は、渣滓(さし)多く、障蔽厚くして、開明し易からず。
 質の美なる者は、渣滓、原(もと)、少なく、障蔽多きこと無し。
 略々(ほぼ)、致知の功を加ふれば、此の良知は、便ち、自ら栄徹し、些少の渣滓は、湯中に雪を浮かぶるごとし。」(巻中、三一四)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「人心は、是れ、天淵なり。
 心の本体は、該(か)ねざる所無く、原(もと)、是れ、一箇の天なり。只だ、私欲の為に、障礙さるれば、則ち、天の本体を失はる。
 心の理は、窮盡無く、原(もと)、是れ、一箇の淵なり。只だ、私欲の為に、窒塞さるれば、則ち、淵の本体を失はる。
 如今(いま)、念念、良知を致し、此の障礙窒塞を将(も)て、一斉に去り盡せば、則ち、本体、已(すで)に復す。
 便ち、是れ、天淵なり。」(巻下、四二八)
 ※天淵=天の如く高く、淵の如く深し。 ※該(か)ねる=包む。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「只だ、是れ、物欲の遮蔽するも、良心の内に在るは、自ら失うを会(え)ざるなり。
 雲の自ら、日を蔽うが如し。日、何ぞ、嘗て、失はれん。」(巻下、四一五)※日=太陽
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「若(も)し、良知の発して、更に、私意の障碍無ければ、即ち所謂、『其の惻隠の心を充たせば、仁、用うるに勝(た)う可からざる』なり」(巻上、四九)
 ※『其の惻隠の心を充たせば、仁、用うるに勝(た)う可からざる』=孟子の言葉に基づく。 ※用うる・・・=用いきれないほど大きなものとなる
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 良知が存在する事においては、私たちと聖人は何の違いもありません。
 只、私たちはこの世の欲に囚われて、中々に良知が発現しないのです。
 良知が発現する為の方法、それはこの世の私を殺す事。
 
 この世の私を殺す方法については、イエスやブッダであれば、祈りや瞑想を勧めるのでしょうが、王陽明は時々刻々、事事物物に智慧と共に在りなさい(致良知)と勧めます。
 それはとても難しい事です。
 孔子の教えと一緒です。
 王陽明の時代には、ブッダも老子もいます。
 その時代の人々には孔子の教えのままでは中々に受け入れられなかったのです。
 そこで王陽明は「静處に体悟するもよし」としたのです。勿論これも王陽明の言う所の「致良知」と言う事になります。
 実際王陽明もブッダや老子の教えを受け入れて、静處に体悟し続けたのですから。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、明白にして、你(なんじ)の去(ゆ)いて、静處に体悟するに随うも、也(また)、好く、你(なんじ)の去(ゆ)いて、事上に磨練するに随うも、也(また)、好し。
 良知の本体は、原(もと)、是れ、動無く、静無き的(もの)なり。
 此は、便ち、是れ、学問の頭脳なり。」(巻下、四七一) 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「黙而識之(黙して之を識る)」(「論語」)
 これが良知を知る一番良い方法です。
 私たちは良知(智慧)を体感してこそ、良知(智慧)に従う事ができます。
 それではその良知(智慧)とはどのような感じなのでしょうか。
 かなり控えめではありますが、王陽明はそれに対して答えを出しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、夜気の発するにときに在っては、方に、是れ、本体なり。
 其の物欲の雑、無きを、以ってなり。
 学者は、事物扮擾(じぶつふんそう)のときをして、常に夜気の如く、一般ならしむるを要す。」(巻下、四七七)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「学者、良知を信じて、気の乱す所と為らずんば、便ち、常に、義皇以上の人と做(な)らん。」(巻下、五二二)
 ※義皇=古代の聖人たち。「夜気清明の時、視ること無く、聴くこと無く、思うこと無く、作すこと無く、淡然として、平懐なるは、就(すなわ)ち、是れ、義皇の世界なり。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 夜気清明の時とは、この世の私への囚われが無くなった時の事を言います。
 ですから人によっては、ぐっすり眠れた天気の良い日の休日の朝となるのかも知れません。
 とにかくこの世の私への囚われが全く無くなり、「聴くこと無く、思うこと無く、作すこと無く、淡然として、平懐なる」気分になったら、その時が良知の体と言う事になります。
 この良知の体を「事物扮擾」の時も保ち続けなさいと王陽明は教えます。
 この教えは孔子の教えでもあり、また古今東西の聖人賢人哲人たちの教えでもあるのですが、如何に難しいか、皆様には良くお分かりになると思います。

 さて、それではこの良知に如何に従えば良いのか、王陽明の言葉に従って見ていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「你(なんじ)、真に、必ず、聖人為(た)るの志、有らば、良知上に、更に、盡(つく)さざること無からん。
 良知上に、些子(いささか)の別念を、留めて、掛帯せば、便ち、必ず聖人為(た)るの志に非ず。」(巻下、四六九) ※掛帯=離れない事。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「若し、時々刻々、自らの心上に就(つ)いて、義を集むれば、則ち、良知の体、洞然として、明白にして、自然に、是は是、非は非として、纖毫(せんごう)も遁(のが)るること無し。」(巻中、三七六)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「吾、人に、良知を致すには、格物上に在って、功を用ふるを教ふ。
 卻(かえ)って、是れ、根本の有るの学問にして、日は、一日より長進し、愈々久しければ、愈愈清明なるを覚ゆ。」(巻下、四四七)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「此の良知に依り、忍耐して做(な)し去(ゆ)き、人の非笑に管せず、人の毀謗に管せず、人の栄辱に管せず。
 他(かれ)の功夫(くふう)の、進有り、退有るに任せ、我は、只だ、是れ、這(こ)の良知の主宰息まずんば、久々にして自然に力を得るの處有らん。」(巻下、四五三)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「汝、只だ、良知上に在って、功を用ふるを要す。
 良知、存すること久しければ、黒卒卒(こくそつそつ)なるもの、自ら、能く、光明ならん。」(巻下、四四六) ※黒卒卒=真っ黒
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「須要(かなら)ず、時時、良知を致すの功夫(くふう)を用ふれば、方才(まさ)に、『活発発地』なり。」(巻下、四六二) ※活発発地=論語の言葉=心の生き生きとした様子。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「若し、頭脳を曉(さと)って、吾が良知上に依り、説き出し来れば、行ひ将(も)て去(ゆ)くも、便ち、自ら、是れ、停當(ていとう)す。」(巻下、四五一) 
※頭脳=根本。※停當=道理に適う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知の頭脳を認むること、是當(しとう)し、去(ゆ)いて、朴実に功を用ふれば、自ら透徹して、此に到るべし。」(巻下、四七二) 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「人、若し、這(こ)の良知の訣窮(けつけう)を知れば、隋(たと)ひ、他(かれ)、多少、邪思枉念(じゃしわうねん)するも、這裏(ここ)、一たび覚むれば、都(すべて)、自ら消融する。」(巻下、四一七) ※訣窮=要点
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「即(も)し、心の良知にして、更に、障碍無く、以って、充塞流行するを得ば、便ち、是れ、其の知を致すなり。知(ち)致(いたれ)ば、意(い)誠(まこと)なり。」(巻上、四九) ※充塞・流行=充実・活動
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「毫釐千里(ごうりせんり)の繆(あやまり)は、吾が心の良知の一念の微に於いて、之を察せずんば、亦将(またまさ)に、何れの所にか、其の学を用いんとするや。」(巻中、二四一) ※毫釐千里=毫釐の差が千里の違いとなる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、只だ、是れ、箇(こ)の『是非の心』なり。
 是非は、只だ、是れ、箇(こ)の『好悪』なり。
 只だ、好悪は、就(すなわ)ち、是非を蓋(つく)す。
 只だ、是非は、就(すなわ)ち、万事万変を蓋(つく)す。」(巻下、四九九)
 ※『是非の心』=孟子公孫丑上編の言葉。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「『夫れ、必ず事とする有り』とは、只だ是れ、義を集むるなり。義を集むるは、只だ是れ、良知を致すなり。
 義を集むると説けば、則ち、一時、未だ頭脳を見ざるも、良知を致すと説けば、則ち、當下(ただち)に、便ち、実地歩に、功を用ふ可べき有り。
 故に、區區は、専ら、良知を致すを説く。」(巻中、三七六)   
※區區=私。  ※必ず事とする有り=常に修行に努めて=孟子の言葉。 ※頭脳=根本
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「問う、先儒謂う、『鳶飛魚躍』と『必ず事とする有り』とは、同一に、『活発発地』なりと。
 先生曰く、亦、是れ、天地間活発発地として、此の理に非らざる無し。
 便ち、是れ、吾が良知の流行にして、息まざるなり。
 良知を致すは、便ち、是れ、必ずこととする有りの功夫(くふう)なり。」(巻下、五五四)
 ※『鳶飛魚躍=詩経の言葉。 ※『必ず事とする有り』=孟子の言葉。 ※『活発発地』=生命が躍動している有様。 ※流行=活動
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「世の君子、惟だ、その良知を致すを務むれば、則ち、自ら能く、是非を公にし、好悪を同じくし、人を視ること、猶、己のごとくにして、国を視ること、猶、家のごとくして、天地万物を以って、一体と為す。」(巻中、三六〇)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「君子の学は、何ぞ嘗て、事為を離去し、論説を廃せんや。但だ、其の事為論説に従事するは、要するに、皆、知行合一の功にして、正に、本心の良知を致す所以なり。」(巻中、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「『多くを聞いて、其の善なる者を撰んで、之に従い、多くを見て、之を識(しる)す』は、既に撰ぶと云ひ、又、識(しる)すと云えば、其の良知も、亦、未だ嘗て、其の間に、行われずんばらず。」(巻中、三二七)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、見聞に由って、有らず、而かれども、見聞は、良知の用に非らざる莫(な)し。
 故に、良知は、見聞に滞らざるも、亦、見聞を離れず。」(巻中、三二七)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「若し、主意頭脳、専ら、良知を致すを以って、事と為せば、則ち、凡そ、多聞多見は、良知を致すの功に非らざるは無し。
 盡(けだ)し、日用の間、見聞酬酢(しゅうさく)して、千頭万緒と雖も、良知の発用流行に非らざる莫く、見聞酬酢を除けば、亦、良知を致す可き無し。」(巻中、三二七)
 ※主意=主旨。 ※頭脳=根本   酬酢=杯のやりとり。応接。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「只だ、良知の、真切ならんことを要(もと)めば、挙業を做(な)すと雖も、心の累を為さず。」(巻下、四四九) ※挙業=科挙の為の受験勉強。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「七情も、其の自然の流行に順えば、皆、是れ、良知の用にして、善悪を分別す可からず。只だ、著する所有る可からず。
 七情にして、著する所有れば、倶(とも)に、之を欲と謂ひ、倶(とも)に、良知の蔽をなす。
 然れども、纔(わづか)に、著する有る時は、良知も亦、自ら覚るを会す。
 覚れば、即ち、蔽去って、其の体に復す。」(巻下、五〇〇)
 ※七情=喜怒哀懼愛悪欲(きどあいくあいをよく)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、只だ、声色貨利の上に在って、功を用ふ。
 良知を致して、精精明明に、豪髪も、蔽無ければ、則ち、声色貨利の交はるも、是れ、天則の流行に非(あら)ざる無し、と。」(巻下、五五一) ※天則の流行=天理の活動
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「既に、良知を致す(致良知)を知れば、又、何ぞ、講明す可べけん。
 良知は、本(もと)、是れ、明白なれば、実落に、功を用ひば、便ち、是なり。」(巻下、四九〇) ※講明する=研究して明らかにする。※実落に=実際に。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「我輩の致知は、只だ、是れ、各々、分限の及ぶ所に随う。
 今日、良知、見在、此くの如くんば、只だ、今日の知る所に随って、拡充到底し、
 明日、良知、亦、開悟する有れば、便ち、明日、知る所に従って、拡充到底す。」(巻下、四三一)  ※到底=徹底。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 王陽明はこう言っています。
 一挙手一投足ごとに智慧(良知)と共に在りなさい。
 そうすれば、徐々にその智慧が皆様の智慧と成って行くからと。

 「君子、仁を去りて、悪(いず)くにか名を成さん。君子は食を終うる間も仁に違うことなし。造次(ぞうじ)にも必ず是(ここ)に於いてし、顛沛(てんぱい)にも必ず是(ここ)に於いてす。」(「論語」)

 孔子の言葉だったですよね。
 孔子はこう言っているのです。
 食事をしている間も、急変の時にも、ひっくり返った時にも、常に智慧と共に在りなさいと。

 もし皆様が智慧を自らのものにしたいと言うのであれば、その方法は一つです。
 それは哲学者(智慧を愛する者)に成ると言う強い意志を持つ事です。
 すなわち智慧を愛し、常に智慧と共に在ると言う強い意志を持つ事です。
 そうすれば、何時しか智慧は皆様のものと成ります。
 「習い性と成る」(「書経」太甲)
 
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。
  探しなさい。そうすれば、見つかる。
  門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(「マタイ福音書」)
 
 「わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。」(「箴言」)

 「道に同じる者には、道もまた之を得んことを楽(ねが)い、
  徳に同じる者には、徳もまた之を得んことを楽(ねが)う。」(「老子」)

 皆様も常に智慧を求めて下さい。
 そうすれば智慧は皆様が求めるものを与えてくれます。
 それが智慧と言う存在なのです。

 孔子は私たちの為に卑近な言葉で教えてくれていますが、
 それを更に卑近に引き寄せましょう。
 食事をしている間も、急変の時も、ひっくり返った時も、更には用便の時にも、常に智慧を共に在るようにしましょう。
 そうすれば皆様は美しく成ります。

 智慧とは何か。
 もう一度その本体に還りましょう。
 「夜気清明の時、・・・・」
 そこから皆様の智慧が生まれて来ているのです。

 「我輩の致知は、只だ、是れ、各々、分限の及ぶ所に随う。
  今日、良知、見在、此くの如くんば、只だ、今日の知る所に随って、拡充到底し、
  明日、良知、亦、開悟する有れば、便ち、明日、知る所に従って、拡充到底す。」

 「荀(まこと)に日に新たに、日日新たに、又日に新たなれ」
 これが哲学者(智慧を愛する者)の道でしたよね。

 さて何故私たちは哲学(智慧を愛する事)を学ばなければならないのでしょうか。
 それは素晴らしい自分自身に成る為です。
 それ以外に哲学の目的はありません。
 しかし皆様が素晴らしい存在に成れば、皆様の世界もまた素晴らしい世界へと変貌して行くのです。
 これこそが哲学(智慧を愛する事)の報酬です。
 
 「君子の学は、以って、己の為にす。」

 王陽明はどのように続けているのでしょうか。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「君子の学は、以って、己の為にす。
 未だ嘗て、人の己を欺くを、慮(おもんばか)らざるなり。恒に、自ら、其の良知を欺かざるのみ。
 未だ嘗て、人の己に信ならざるを、慮(おもんばか)らざるなり。恒に、自ら、其の良知に信なるのみ。
 未だ嘗て、先ず人の詐と不信とを、覚る求めざるなり。恒に、自ら、其の良知を覚らんことを務むるのみ。
 是の故に、欺かざれば、則ち、良知、偽る所無くして、誠なり。誠なれば、則ち、明らかなり。
 自ら信なれば、則ち、良知、惑う所無くして、明らかなり。明らかなれば、則ち、誠なり。
 明誠、相生ず。
 是の故に、良知は、常に覚り、常に照らす。」(巻中、三三七)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、原(もと)、是れ、精精明明の的(もの)なり。
 親に孝ならんと欲するが如き、『生知安行』の的(もの)は、只だ、是れ、此の良知に依って、実落に、孝を蓋(つく)すのみ。
 『学知利行』の的(もの)は、只だ、是れ、時時、省覚し、務めて、此の良知に依って、孝を蓋(つく)さんことを要(もと)めるのみ。
 『困知勉行』の者に至っては、蔽錮(へいこ)、すでに深く、此の良知に依り、去(ゆ)いて、孝ならんことを要(もと)と雖も、又、私欲の阻む所と為り、是を以って、能わず。
 必須(かなら)ず、『人、一たびすれば、己、百たびし、人、十たびすれば、己、千たびする』の功を加えて、方に、能く、此の良知に依り、以って、其の孝を蓋(つく)す。(巻下、五〇二)
 ※『生知安行』『学知利行』『困知勉行』『人、一たびすれば・・・』=中庸の言葉。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「其の所謂、学なる者は、正に惟だ、その良知を致して、以って、此の心の天理を精察するものにして、後世の学とは同じからざるのみ。」(巻中、二三八)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 王陽明は哲学の学びについて次のように言っています。
 只、智慧を信じて、智慧に従えと。

 さて「生知安行」、「学知利行」、「困知勉行」と言う三つのタイプの人が挙げられていますが、皆様は何れでしょう。
 「生知安行」の人とは、生まれながらにして智慧を知る人の事です。彼は智慧を実に安々と実行します。
 「学知利行」の人とは、学んで智慧を知る者と成った人の事です。彼は智慧を信じていますので、智慧に従って智慧を実行する事になります。
 「困知勉行」の人とは、ある困難に遭遇して、偶然に智慧を知る者となった人の事です。彼は未だ智慧に対して確信がありません。ですから人の十倍も百倍も千倍も勉強して、智慧を学ぶ事になります。(「善人もてなお往生をとぐ。いわんや悪人をや」、この人たちが最も劇的に変る事になります。)

 哲学とはphilosophia、智慧を愛する事。
 それは、『心の天理を精察する』事以外の何でもないのです。

 『敬天愛人』、西郷隆盛の言葉です。
 天を敬い、天を愛すれば、人を愛せずにはいられなくなるのです。

 ところで智慧とは何でしょう。
 それは本当の自分自身の事です。
 皆様が本当の自分自身を知り、本当の自分自身を愛する事ができるようになれば、皆様は隣人を愛せずにはいれなくなるのです。
 何故なら、智慧によってみんなが繋がっているからです。
 智慧は天理なのですから。

 「君子の学は、以って、己の為にす。」
 それはまた隣人の為にする事にもなるのです。

 さて古今東西の聖人賢人哲人たちは何故あのように哲学、すなわち智慧を愛する事に熱心なのでしょうか。
 名誉の為でしょうか。
 勿論それもありますが、直接の動機はそんな所にはありません。
 直接の動機、それは快楽です。
 古今東西の聖人賢人哲人たちは皆、精神的快楽主義者だったのです。
 その事は皆様が、智慧を愛するようになれば分かる事です。

 王陽明はその辺りをどのように言っているのでしょう。
 王陽明の言葉に従って見ていきましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「義は宜なり。心、其の宜しきを得る、之を、義と謂う。
 能く、良知を致せば、則ち、心は、其の宜しきを得るなり。
 故に、『集義』も、亦、只だ、是れ、良知を致すなり。」(巻中、三三二)
 ※この一節も重要。良知とは、心の宜しき(たのしさ)を得る事。 ※集義=義を集める事もまた心楽しき事。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「斟酌調停、是れ、其の良知を致して、以って、自ら、慊(こころよ)きを、求むるに非らざるなり。」(巻中、三三二)
 ※エピクロスの快楽主義=何故知恵を愛するのか?快いから!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「其の良知を致して、自ら、慊(こころよ)からんことを、求むるを務めるのみ。」(巻中、三六〇)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「爾(なんじ)の邦(か)の、一点の良知は、是れ、爾の自家の準則なり。
 爾の意念の着く處、他(かれ)は、是は便ち是と知り、非は便ち非と知り、更に、他(かれ)を、一些(いささか)も、欺き得ず。
 爾、只だ、他(かれ)を欺くを要せず、実実落落に、他(かれ)に依(よ)って、做(な)し去(ゆ)けば、善は便ち存し、悪は便ち去らん。
 他(かれ)の這(こ)の裏(うち)、何等の穏当快楽ぞや。
 此れ、便ち、是れ、格物の真訣にして、致知の実功なり。」(巻下、四一四)
 ※何等の穏当快楽ぞや=何と穏やかで楽しい事か!=精神的快楽主義の原点。※実実落落=実際に
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、是れ、造化の聖霊なり。
 這些(この)聖霊は、天を生じ、地を生じ、鬼を成し、帝を成す。
 皆、此より、出ず。真に、是れ、物と対する無し。
 人、若し、他(かれ)に復し、完完全全にして、少しの虧欠無くんば、自らの、手の舞、足の踏むを覚えざらん。
 知らず、天地の間、更に、何の楽しみの代わる可(べ)き有らん。」(巻下、四七〇)
 ※この一節は重要。ここに全ての宗教の天地創造論とエクスタシー論を見る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「自らの、手の舞、足の踏むを覚えざらん。
  知らず、天地の間、更に、何の楽しみの代わる可(べ)き有らん。」

 これが王陽明の精神的快楽の表明です。
 智慧と共に在る事、これ以上の快楽が、この天地の間に有るだろうか。
 典型的な精神的快楽主義者ですよね。

 これまで、ソロモン、ダビデ、イエス、ブッダ、孔子と見て来ましたが、彼らも皆、この精神的快楽の事を述べています。
 何故なら、この精神的快楽こそが、彼らを哲学、すなわち智慧を愛する事に向かわせているのですから。
 しかしその事はあまり直裁には言っていません。
 ほとんど暗喩の中に潜り込ませています。
 ただブッダとダビデは割合と直裁にその事を述べています。

 ニルヴァーナ、そこは快楽の地である、そんな事をブッダは何度か言っていましたよね。
 しかしこれは概念です。

 生身の人間が智慧と共に在る時、どのような悦びに満たされるのか。
 そして智慧から離れた時、どう成るのか。
 その事を熱く謳ったのがダビデです。
 その熱き思いは、「第二章 ダビデの智慧」で見ましたよね。
 ここにそのほんの一部を再掲して置きます。

「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いのほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」(詩篇二三)
「あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す。」(詩篇三六)
「主に申します。『あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。』」(詩篇一六)
「主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。」(詩篇一九)
「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に智慧を与える。」(詩篇一九)
「あなたはわたしの嘆きを踊りにかえ、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。」(詩篇三〇)
「わたしの魂は主によって喜び躍り、御救いを喜び楽しみます。」(詩篇三五)
「主の助けを得て、わたしの心は喜び躍ります。」(詩篇二八)
「味わい、見よ、主の恵みの深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」(詩篇三四)
「平穏なときには、申しました。『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と。主よ、あなたが御旨によって、砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると、わたしはたちまち恐怖に陥りました。」(詩篇三〇)

 これがダビデの智慧と共に在る時の悦びです。
 なおこの悦びは主に智慧の根源としての智慧から発せられる智慧と共に在る時の悦びです。
 それでは智慧の根源としての智慧と共に在る時の悦びは如何なるものなのか。
 その究極は無です。
 人々が愛し合った時の頂点の悦びと一緒です。
 そこは無ですが、そこには既に新たな有(命)が宿っているのです。
 
 智慧との愛も全く一緒です。
 人々は智慧と愛し合います。
 そしてその頂点において無へと突入します。
 そこは無ですが、そこには既に新たな言(有)が宿っているのです。
 そこから新たな言(ことば)の世界が生まれていく事なるのです。
 そしてその言には確かに命が在るのです。

 「初めに言(ことば)があった。
  言は神と共にあった。
  言は神であった。
  この言は、初めに神と共にあった。
  万物は言によって成った。
  成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
  言の内に命があった。
  命は人間を照らす光であった。」(「ヨハネ福音書」)

 「荀(まこと)に日に新たに、日日新たに、又日に新たなれ」(「大学」)
 これが哲学者の道です。
 もし日々新たに生まれる事ができれば、それこそが哲学者の最大の悦びなのです。

 「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。
  発して皆な節に中(あた)る、これを和(か)と謂う。」(「中庸」)

 智慧の根源としての智慧、
 これは人類が生まれた時から現在まで、そして人類が存在する限り、人類に存在し続けるものです。
 もし皆様が何か分からない事があれば、この智慧に問えば良いのです。
 何故なら智慧はアルファであり、オメガなのですから。

 「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『私はアルファであり、オメガである。』」(新約聖書「黙示録」)

 さて王陽明はこの辺りをどのように表現しているのでしょうか。
 彼の言葉に即して視ていきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知の人心に在るや、万古に亘り、宇宙に塞って、同じからざる無し。」(巻中、三三七)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知の人心に在るは、聖愚を間(へだ)つる無く、天下古今の同じき所なり。」(巻中、三六〇)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「這(こ)の良知は、人人、皆有り。」(巻下、四二八)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「夫れ、良知は、即ち、是れ、道にして、良知の人心に在るは、但だに、聖賢のみならず、常人と雖も、亦、此(かく)の如からざるは無し。(巻中、三一六)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「天理の人心に在るや、古に亘(わた)り、今に亘り、終始有ること無し。天理は、即ち、是れ、良知なり。」(巻下、四九四)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知良能は、愚夫愚婦も聖人も同じ。」(巻中、二三八)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「聖人の気象は、何に由って、認めん。自己の良知は、原(もと)、聖人と一般なり。若し、自己の良知を体認して、明白なれば、即ち、聖人の気象は、聖人に在らずして、我に在り。」(巻中、二七九)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「本来の面目は、即ち、吾が聖門の、所謂、良知なり。」(巻中、三〇九)
 ※本来の面目=「天然のままにして、少しも人為を加えない衆生の心の本性を言う。仏性」(広辞苑より)
※この一節はとても重要。良知と仏教が根底で通じる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「這(こ)の些子(良知)、看て、透徹すれば、隋(たと)ひ、他(かれ)、千言万語するも、是非誠偽は、前に到れば、便ち、明らかなり。仏家の心印を説くが如く、相似たり。」(巻下、四一七)
 ※良知を仏教の心印に喩える。 ※心印=「禅宗で、決定普遍な悟の体。仏印。仏心印。」(広辞苑)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「若し、良知を信じて、只だ、良知上に在って、功を用いば、千経万典と雖も、;脗合(ふんごう)せざる無く、異端曲学は、一勘して、盡(ことごと)く、破れん。」(巻中、三二五)
※この一節も重要。この一節によって、良知(すなわち知恵)の本質を理解して頂きたい。 脗合=一致。 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「聖賢の学を論ずる、多くは、是れ、時に随い、事に就く。言、人ごとに、殊(こと)なる若しと雖も、その工夫頭脳を求むれば、符節を合するが若し。天地の間、原(もと)、只だ、此の性有り、只だ、此の理有り、只だ、此の良知あり、只だ、此の一件、有るに縁るのみ。」(巻中、三七八)※この一節も重要。智慧の普遍性を説く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「大要、良知の同じきに出づれば、便ち、各々、説を為すも何の害あらん。」(巻下、五〇四)
 ※大要=根本において。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知、同じければ、更に、異なる處、有るを、妨げず」(巻下、五〇四)
 ※知恵は、時代や地域により、其の呼び名、其の説き方も変わって来るが、本質は同じ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「問う、聖賢の言語は許多なり。如何(いかん)ぞ、卻(かえ)って、打して、一箇の做(な)さんと要するや、と。曰く、我は、是れ、打して、一箇の做(な)さんと要するにあらず。『夫れ道は一のみ』と曰ひ、又、『其の物たる二ならざれば、則ち、其の物を生ずること測られず』と曰うが如き、天地聖人は、皆、是れ、一箇なり。如何(いかん)ぞ、二にし得ん、と。」(巻下、五四五)※この一節も重要。智慧の普遍性を説く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「即ち、我が良知の二字の如き、一たび講ずれば、便ち、明らかにして、誰か知らざらん。
 若し、良知を的見(てきけん)せんと欲せば、卻(かえ)って、誰か能く見ん。」(巻下、五六五)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「此の致知の二字は、真に、是れ、箇の、千古聖伝の秘にして、百世以って、聖人を俟(ま)ちて、惑わず。」(巻下、四一九)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「只だ、是れ、良知を致す(致良知)の三字は、病無し。」(巻下、四七一)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「幸いとする所は、天理の人心に在るや、終に泯(ほろぼ)す可からず所ありて、良知の明らかなること、万古一日なれば、則ち、其れ、吾が抜本塞源の論を聞けば、必ず惻然として悲しみ、戚然として痛み、憤然として起ち、沛然として江河を決するが若くにして、防ぐ可からざる所ある者あらん。
夫の豪傑の士の、待つ所無くして興起する者に非ずんば、吾誰と興(とも)にか望まんや。」(巻中、二六九)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「夫れ、良知は、一なり。其の妙用を以って言えば、之を神と謂い、其の流行を以って言えば、之を気と謂い、其の凝聚(ぎょうしゅう)を以って言えば、之を精と謂う。」(巻中、二九二)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、是れ、造化の聖霊なり。這些(この)聖霊は、天を生じ、地を生じ、鬼を成し、帝を成す。皆、此より、出ず。」(巻下、四七〇)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「夫れ、良知は、即ち、是れ、道にして、良知の人心に在るは、但だに、聖賢のみならず、常人と雖も、亦、此(かく)の如からざるは無し。」(巻中、三一六) 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「吾が心の良知は、即ち、所謂、天理なり。」(巻中、二二一)」   
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「良知は、心の本体にして、所謂、恒に照らす者なり。」(巻中、二八九)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 王陽明はこう言っています。
 良知(智慧の根源としての智慧)は、「一」であり、「神」であり、「聖霊」であり、「道」であり、「天理」であり、「恒照」であると。
 また仏教で言う所の「本来の面目」であり、「心印」であると。
 そしてその良知は、「天下古今」、「万古宇宙」、「万古一日」、「千言万語」、「千教万典」、「天地聖人」、「千古聖伝」、「聖愚無間」に渡って存在し続けていると。

 「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『私はアルファであり、オメガである。』」(「黙示録」)

 王陽明の表現と黙示録の作者の表現と何か違う所が有るでしょうか。
 本質においては全く一緒です。

 「大要、良知の同じきに出づれば、便ち、各々、説を為すも何の害あらん。」
 「良知、同じければ、更に、異なる處、有るを、妨げず」(共に巻下、五〇四)

 私が王陽明の思想において最も共鳴した部分です。
 これまで、ソロモン、ダビデ、イエス、ブッダ、孔子と視て来ましたが、彼らの智慧の根源としての智慧において何か違いがあるでしょうか。
 何の違いもありません。全く一緒です。
 只、智慧の根源としての智慧から生まれて来る智慧については、様々なバリエーションはありますが・・・
 
 「イエスのなさったことは、このほかにも、まだまだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(「ヨハネ福音書」最終章最終節)
 
 智慧は無限です。
 智慧から万物が生まれるのです。

 「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。」(「老子」)

 私たちは常に「道」と共に在り続けなければなりません。
 そして道から生まれる「一」については特に気を付けなければなりません。
 智慧と愛、これこそが人類普遍の真理です。

「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。
 発して皆な節に中(あた)る、これを和(か)と謂う。」(「中庸」)
 
 「聖人の気象は、何に由って、認めん。自己の良知は、原(もと)、聖人と一般なり。若し、自己の良知を体認して、明白なれば、即ち、聖人の気象は、聖人に在らずして、我に在り。」(巻中、二七九)

 智慧の根源としての智慧において、皆様と聖人は何の違いもありません。
 もし皆様が聖人の気象を知りたいと思うなら、智慧の根源としての智慧に目を向ければ良いのです。
 しかしまたこうも言って置きます。
 聖人の気象を知らなければ比較の仕様も無いと。
 ここ学びの必要性が生まれて来るのです。

 もし皆様が狼少年として狼に育てられ、そしてそのまま狼男に成ったとします。
 その狼男に私が智慧の根源としての智慧に目を向けなさいと言ったら彼はどうするでしょう。
 そうですね。牙を剥き出しにして私に吠え掛かるでしょう。
 彼には全く学びの機会が無かったからです。

 しかしそんな彼ですが、そんな彼に熱心に智慧とその智慧が生まれ来る智慧の根源としての智慧について、教え諭す者がいたら、彼も何時しかその智慧について知る者と成るでしょう。
 もし彼が智慧を知る者と成れば、彼は聖人の気象を知る事になります。
 聖人の気象を知ったその時から更に人の十倍も百倍も千倍も努力をして聖人の道に向かう事も有り得るのです。
 「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。」
 彼らこそが最も劇的に変化するのです。
 回心、回向と言う言葉は、彼らの為にこそあるのです。

 「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。」、そんな例は、様々な聖典に見出されますが、また私たちの身近にもそんな例を見出します。
 死刑囚の方々にそんな例をよく見聞するのではないでしょうか。
 
 死刑囚の方々は生まれた時から、悪人であり、死刑囚であった訳ではないのです。
 彼らは環境によって死刑囚と成ってしまったのです。
 もし彼らが智慧を知る機会があったら彼らは決して死刑囚には成らなかったのです。

 哲学国家日本とは、国民の一人一人が智慧を愛する事に依って、成熟して行く国家日本の事です。
 そこには「哲学一貫教育」と言う哲学教育プログラムが組み込まれる事になります。

 「子曰く、訴えを聴くは、吾れ猶お人のごときなり。
  必ずや訴えを無からしめんか。」(「論語」)

 「必ずや訴えを無からしめんか」
 ここに教育者としての孔子の大きな目標があります。
 その具体的手法については、「大学」に結実しています。

「古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。
 その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。
 その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修む。
 その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。
 その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。
 その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致(きわ)む。
 知を致むるは物に格(いた)るに在り。
 物格りて后(のち)知至(きわ)まる。
 知至まりて后(のち)意誠なり。
 意誠にして后(のち)心正し。
 心正しくして后(のち)身修まる。
 身修まりて后(のち)家斉う。
 家斉いて后(のち)国治まる。
 国治まりて后(のち)天下平らかなり。」

 『知を致むるは物に格(いた)るに在り。物格りて后(のち)知至(きわ)まる。』
 これこそが哲学です。
 もし皆様が天下太平な日本をお望みなら、皆様御一人御一人が智慧を愛するしかその方法は無いのです

 皆様が智慧を愛すれば、皆様の意は誠になります。
 皆様の意が誠になると、皆様の心が正しくなります。
 皆様の心が正しくなると、皆様の身が修まります。
 皆様の身が修まると、皆様の家が斉います。
 皆様の家が斉うと、皆様の国が治まります。
 皆様の国が治まると、皆様の天下は太平となるのです。
 
 これが『大学』の教育プログラムであり、そして私が提唱している『哲学一貫教育』のプログラムでもあるのです。
 もし皆様が天下太平な日本をお望みなら、皆様御一人御一人が智慧を愛するしかその方法は無いのです
 なお、哲学一貫教育の詳細については、この古今東西の聖人賢人たちへの智慧の旅が終わった後に纏めて著したいと思っています。

 以上で王陽明の智慧を終わりたいと思いますが、最後に伝習録の宣伝をして置きたいと思います。
 伝習録は、王陽明が語った言葉や手紙を弟子たちが集めて編集したもので、巻上、巻中、巻下の三巻に分かれています。
 この内、巻上は王陽明の四十歳代の思想が中心で、巻中巻下は王陽明の五十歳前後から晩年までの思想が中心だと言われています。
 この内、巻上に良知と言う言葉が出て来るのは僅か一箇所だけです。
 それも孟子の良知良能から引用であり、ここにおいては未だ良知は王陽明自らの思想とは成っていません。
 しかし巻中巻下になると良知のオンパレードです。
 王陽明の良知を知る為には、先ずは巻中巻下から読みなさいと言われているそうです。
 今回私が「王陽明の智慧」を纏め上げる為に、「良知」と言う言葉が出て来る一節を書き出しましたが、それは全部で百二十近くでした。(今回はその半分くらいしか使用していません。)
 しかしそれで全部ではありません。
 今回書き出したものは、断定的な部分であり、導入、修飾、説明的な部分については書き出してありません。
 多分それらを入れると、百二十の二倍にも三倍にも四倍にもなると思います。
 今回私が使用した本は明治書院の新釈漢文大系の伝習録ですが、全部で約五百六十頁です。
 ここに本文、読下文、通釈、語釈、余説が収められています。
 本文はこれらの内の約四分の一ですので、本文を頁数に換算すると約百四十頁となります。
 更に巻上、巻中、巻下が各三分の一として想定すると、巻中、巻下の頁数は約九十二頁です。
 この九十二頁の中に、百二十の二倍も三倍も四倍もの「良知」を言う言葉が鏤められているのです。
 この良知と言う言葉に従って読み進んで行けば、きっと王陽明の智慧が一人でに浮かび上がって来ると思います。

 王陽明は何の暗喩も使う事も無く、智慧を智慧(良知)と呼んでいます。
 ですからとても智慧を理解し易いのです。
 私は王陽明の「伝習録」を知るまでは、ソロモンの「箴言」を智慧の参考書として推薦していました。
 しかし今では両方を智慧の参考書として推薦しています。
 何故ならどちらも智慧を智慧と言う言葉のままに表現しているからです。
 智慧をとても理解し易いからです。
 その他の聖人賢人たちにおいては、智慧は暗喩の中です。
 ここにおいて智慧を視出す為には、暗喩を自らの力で読み解かなければなりません。

 暗喩の中に自らの力で智慧を読み取るか、それとも智慧を智慧と言う言葉のままに信じるか、それは各人各様の事です。
 しかし智慧と言う概念への理解が無ければその人の人生は闇のままです。
 何故なら智慧こそが光なのですから。
 「光あれ」
 そこから皆様の新しい世界が広がって行くのです。

 
 さて次は老子です。
 老子はよく孔子と比較されます。
 
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
   これが最も重要な第一の掟である。
   第二もこれと同じように重要である。
 『隣人を自分のように愛しなさい。』
   律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)

 これが古今東西の聖人賢人哲人たちの教えです。
 勿論、老子と孔子の教えでもあります。
 二人はこの二つの掟をしっかりと守り、そしてその中庸に生きた人です。
 何故なら聖人とはそのような人を言うのですから。

 しかし彼らの教えが伝承されるに従ってある傾向が生まれてきました。
 老子の教えが伝承された人々の間においては、第一の掟が重視されるようになり、
 孔子の教えが伝承された人々の間においては、第二の掟が重視されるようになったのです。

 老子の教えは一般民衆に間に広がって行きました。
 こんな事を言っては失礼に当たるのですが、一般的に言って一般民衆の人々は自ら一代において智慧に気付く事が多いのです。
 ですからどうしても第一の掟が重視される事になったのです。

 一方、孔子の教えは為政者階級に広がって行きました。
 為政者階級においては、祭祀により、先祖代々、智慧が継承されていました。
 その前提の下に、第二の掟が重視される事になったのです。
 隣人を愛する、これが為政者階級の仕事でもあったからです。

 さて現代においてはどうでしょう。
 老子は依然として根強い人気がありますが、孔子の方はあまり人気が無いようですね。
 何故でしょう。
 それは老子が智慧と共に在る時の報酬を熱く説いているのに対し、孔子がそれをそれとはっきり分かるようにと説いていないからです。
 しかし私は言って置きます。
 もし皆様が智慧と共に在る時の悦びを知っているなら、孔子のそれが痛いように分かる筈であると。

 それはさておき、老子は智慧と共に在る時の報酬をどのように説いているのでしょう。
 老子はこう説いているのです。
 智慧と共に在る時、それは恍惚だと。

 「智慧と共に在る時、それは恍惚」
 こんな素敵な教えはありませんよね。
 飛び込まない訳にはいきませんよね。

 これが老子の人気のある理由です。
 それでは早速、老子に飛び込む事としましよう。

「第八章 老子の智慧」へ