第八章 老子の智慧
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「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。
道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。
其の中に象有り、恍たり惚たり。
其の中に物有り、窈たり冥たり。
其の中に精有り、其の甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。
古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。
吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」(「老子」二十一章)
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ここに古今東西の聖人賢人たちの智慧が凝縮されています。
愛は智慧に従う。
智慧の根源としての智慧と共に在る時、その時は恍惚。
智慧の根源としての智慧から発せられる智慧、それは真理に満ちており、信じるに足る。
その智慧が古今東西の聖人賢人たちを統べている。
何故私たちは古今東西の聖人賢人たちの状を知る事ができるのか。
それは智慧において。
何故なら、智慧こそが古今東西の聖人賢人哲人たちが求め続けてきたそのものだから。
智慧の根源としての智慧から発させられる智慧に従う事、それが愛。
智慧の根源としての智慧と共に在る時、その時は恍惚。
この事は智慧と共に在る事を体感した人は誰でも実感している事です。
それはこの世の愛の頂点と同じです。
智慧との交接。その頂点が恍惚。
哲学とはフィロソフィア、智慧を愛する事。
智慧を愛するとはどう言う意味か、この辺りで知って欲しいと思います。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)
第一の掟とは、智慧の根源としての智慧を愛する事。
第二の掟とは、智慧の根源としての智慧から発せられる智慧に従う事。これは隣人を自分のように愛しなさいと言う事以外の何ものでも無いのです。
第一の掟には物凄い報酬が伴います。
ですから智慧を知った者は挙って智慧を愛するのです。
一方第二の掟、これが如何に難しいか皆様はお分かりになると思います。
自らの心が命ずる事を、自ら律し、自らそのように行え。
この事が如何に難しいか皆様は良くお分かりになると思います。
ですからイエスは次のように言っているのです。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。
わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(「マタイ福音書」)
しかし皆様は未だ智慧の報酬を十分に受けている訳ではありませんので、当分の間は老子の教えに甘える事といたしましょう。
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「道の道とす可(べ)きは、常の道に非ず。
名の名づく可(べ)きは、常の名に非ず。
無名は天地の始め、名有あるは万物の母。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に欲有りて以てその徼(きょう)を観る。
此の両者は同じきより出でて而(しか)も名を異にす。
同じく之を玄と謂い、玄のまた玄、衆妙の門。」(「老子」一章)
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この世には妙なる世界と徼なる世界があります。
その境目は欲です。
もし無欲であれば更に妙なる世界が広がって行きます。
もし有欲であれば更に徼なる世界が広がって行きます。
それは欲が欲を生む欲の輪廻の世界。煉獄から地獄へと続く。
もし煉獄地獄に住む人が衆妙の世界へ渡りたいのなら、その方法は簡単です。
欲を捨てて、道へと還る事です。
そうすれば世界が一新されます。
「無名は天地の始め、名有あるは万物の母」
その際最初に生まれる言(ことば)には注意しなければなりません。
「道は一を生み、一は二を生み、二は三を生み、三は万物を生む」のですから。
「初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(「ヨハネ福音書」)
道とは何か。
それは智慧の事。
智慧とは何か。
そこには二つの概念があります。
一つは智慧の根源としての智慧の事であり、
他の一つはその智慧から発させられる智慧の事です。
「名の名づく可(べ)きは、常の名に非ず」と言う時の名とは、智慧の根源としての智慧から発せられる智慧の事を言っています。
さてそれではもう少し詳しく、老子の智慧、すなわち老子の「道」について見て行きたいと思います。
先ずは、「道とは何か」について見て行き、その後で「道と共に在る生き方」について見て行きたいと思います。
それでは先ずは「道とは何か」について。
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「道の道とす可(べ)きは、常の道に非ず。
名の名づく可(べ)きは、常の名に非ず。
無名は天地の始め、名有あるは万物の母。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に欲有りて以てその徼(きょう)を観る。
此の両者は同じきより出でて而(しか)も名を異にす。
同じく之を玄と謂い、玄のまた玄、衆妙の門。」(「老子」一章)
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「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。
道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。
其の中に象有り、恍たり惚たり。
其の中に物有り、窈たり冥たり。
其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。
古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。
吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」(「老子」二十一章)
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「道は沖にして之を用うれども或(つね)に盈(み)たず。
淵として万物の宗に似たり。
其の鋭を挫(くじ)き、其の紛を解き、其の光を和らげ、其の塵に同じ、堪として或(つね)に存するに似たり。
吾、誰の子なるかを知らず。
帝の先に象(に)たり。」(「老子」四章)
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「之を視れども見えず、名づけて夷(い)と曰う。
之を聴けども聞こえず、名づけて希(き)と曰う。
之を摶(さぐ)れども得ず、名づけて微(び)と曰う。
此の三者は詰を致す可からず、故に混じて一と為す。
其の上は皦(きょう)ならず、其の下は昧ならず。
縄縄として名づく可からず、無物に復帰す。
是を無状の状、無物の象と謂い、是を恍惚と謂う。
之を迎うれども其の首(こうべ)を見ず、之に随えども其の後(しり)えを見ず。
古の道を執りて、以て今の有を御す。
能く古始を知る、是を道紀と謂う。」(「老子」十四章)
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「谷神は死せず、是を玄牝と謂う。
玄牝の門、是を天地の根と謂う。
緜緜として存するが若く。
之を用うれども勤(つか)れず。」(「老子」六章)
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「道の常は名無し。
樸(はく)は小と雖も、天下に能く臣とする莫きなり。
侯王も若し能く之を守らば、万物将に自ら賓せんとす。
天地相和し、以て甘露を降し、民之に令する莫くして自ら均(ひと)し。
始め制して名有り。
名も亦た既に有れば、其れ亦た将に止まるを知らんとす。
止まるを知らば以て殆(あや)うからず。
道の天下に在るを譬うれば、猶川谷の江海に於けるがごとし。」(「老子」三十二章)
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「道の常なるは無為にして、而も為さざる無し。
侯王若し能く之を守らば、万物将に自ら化せんとす。
化して作(おこ)らんと欲せば、吾、将に之を鎮むるに無名の樸を以てせん。
無名の樸ならば、夫れ亦た将に無欲ならんとす。
欲せずして以て静かなれば、天下将に自ら定まらんとす。」(「老子」三十七章)
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「大象と執りて、天下を往かば、往くとして害あらず、安・平・太なり。
楽と餌とには、過客も止まる。
道の口より出ずるや、淡乎(たんこ)として其れ味わい無く、之を視れども見るに足らず、之を聴けども聞くに足らず、之を用いて既(つく)す可からず。」(「老子」三十五章)
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「道は万物の奥なり。
善人の宝、不善人の保(やす)んずる所なり。
美言は以て尊を市(か)う可く、行いは以て人に加う可し。
人の不善なるも、何の棄つることか之有らん。
故に天子を立て三公を置くに、拱璧の以て駟馬に先立つ有りと雖も、座して此の道を進むるに如(し)かず。」
古の此の道を貴ぶ所以の者は何ぞや。
以て求むれば得、罪有るも以て免ると曰わずや。
故に天下の貴為(た)り。」(「老子」六十二章)
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「道は隠れて名無きも、夫れ唯だ道のみ善く貸して且(か)つ成す。」(「老子」四十一章)
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「天下に始め有り、以て天下の母と為す。
既に其の母を得て、以て其の子を知る。
既に其の子を知り、復た其の母を守らば、身を没するまで殆(あや)うからず。
其の兌(あな)を塞ぎ、其の門を閉ざせば、終身勤(つか)れず。
其の兌(あな)を開き、其の事を済(な)せば、終身救われず。
小を見るを明と曰い、柔を守るを強と曰う。
其の光を用いて、其の明に復帰すれば、身の殃(わざわ)いを遣(のこ)す無し。
是を習常と為す。」(「老子」五十二章)
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「知る者は言わず、言う者は知らず。
其の兌(あな)を塞ぎ、其の門を閉ざす。
其の鋭を挫き、其の紛を解き、其の光を和らげ、其の塵に同ず。
是を玄同と謂う。
故に得て親しむ可からず、得て疎んず可からず。
得て利す可からず、得て害す可からず。
得て貴ぶ可からず、得て賤しむ可からず。
故に天下の貴為(た)り。」(「老子」五十六章)
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「虚を致すこと極まり、静を守ること篤し。
万物並び作(おこ)るも、吾、以て其の復を観る。
夫れ物の芸芸(うんうん)たる、各おの其の根に復帰す。
根に帰るを静と曰い、是を命に復(かえ)ると曰う。
命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰う。
常を知らざれば、妄作(もうさ)して凶なり。
常を知れば容なり。
容なれば及(すなわ)ち公なり。
公なれば及(すなわ)ち王なり。
王なれば及(すなわ)ち天なり。
天なれば及(すなわ)ち道なり。
道なれば及(すなわ)ち久し。
身を没するまで殆(あや)うからず。」(「老子」十六章)
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「道、之を生じ、徳、之を畜(たくわ)え、物として之を形づくり、勢、之に成る。
是を以て万物、道を尊び徳を貴ばざる莫し。
道の尊く、徳の貴きこと、夫れ之に命ずる莫くして、常に自ずから然り。
故に道、之生じ、徳、之を畜い、之を長じ、之を育み、之を亭(やす)んじ、之を毒(あつ)くし、之を養い、之を覆う。
生じて有せず、為して恃(たの)まず、長じて宰せず。
是を玄徳と謂う。」(「老子」五十一章)
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「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。
万物は陰を負い陽を抱き、沖気は以て和を為す。」(「老子」四十二章)
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「昔の一を得る者は、
天は一を得て以て清く、
地は一を得て以て寧(やす)く、
神は一を得て以て霊に、
谷は一を得て以て盈ち、
万物は一を得て以て生じ、
王は一を得て以て天下の貞と為る。
其の之を致すは一なり。」(「老子」三十九章)
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「物有り混成して、天地に先立ちて生ず、寂たり寥たり。
独立して改まらず、周行して殆(つか)れず。
以て天下の母と為す可(べ)し。
吾、其の名を知らず。
之に字(あざな)して道と曰う。
強いて之が名を為して大と曰う。
大なれば曰(ここ)に逝き、逝かば曰に遠く、遠ければ曰に反(かえ)る。
故に道は大、天も大、地も大、王も亦た大なり。
域中に四大有り、而(しこう)して王は其の一に居る。
人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。」(「老子」二十五章)
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道とは何でしょう。
それは智慧です。
「之を視れども見えず、名づけて夷(い)と曰う。
之を聴けども聞こえず、名づけて希(き)と曰う。
之を摶(さぐ)れども得ず、名づけて微(び)と曰う。
此の三者は詰を致す可からず、故に混じて一と為す。
其の上は皦(きょう)ならず、其の下は昧ならず。
縄縄として名づく可からず、無物に復帰す。
是を無状の状、無物の象と謂い、是を恍惚と謂う。」
「道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。
其の中に象有り、恍たり惚たり。」
「淵として万物の宗に似たり。」
「物有り混成して、天地に先立ちて生ず、寂たり寥たり。
独立して改まらず、周行して殆(つか)れず。
以て天下の母と為す可(べ)し。
吾、其の名を知らず。
之に字(あざな)して道と曰う。
強いて之が名を為して大と曰う。
大なれば曰(ここ)に逝き、逝かば曰に遠く、遠ければ曰に反(かえ)る。」
これが智慧の根源としての智慧です。
これまでソロモン、ダビデ、イエス、ブッダ、孔子、王陽明と視みて来ましたが、
彼らもまたこの智慧の根源としての智慧の有様を様々に語っています。
彼らの中で、智慧の根源として智慧と共に在る時の悦びを一番熱く語っていたのがダビデです。
ブッダもその事を割合熱く語っていまし、王陽明も割合詳しくその事を語っていました。
しかし彼らにも増して、智慧と共に在る時の悦びを直裁に語ったのが老子です。
「道の物たる、これ恍これ惚、惚たり恍たり、その中に象あり、恍たり惚たり。」
「これを無状の状、無物の象といい、これを恍惚という。」
これがそれです。
私たちはここにおいて智慧と共に在る時の様子を感じる事ができるのです。
皆様も大なり小なり『恍惚』を感じた事があると思います。
この時の状態が智慧と共に在る時の状態と言って良いでしょう。
皆様が恍惚を感じるのはどのような時でしょう。
多分何かに夢中になって、その事が一瞬果てた時に、恍惚が訪れるのではないでしょうか。
しかしそれは偶然であり、そしてそれ程長続きはしないと思います。
聖人賢人哲人と言う人たちは、自らの意志においてそれらを引き寄せ、そしてそこに長く滞在する事ができるのです。
ところでこの世の最大の恍惚はどんな時でしょう。
それは人が愛し合って、果てたその先に在ります。
そこは完全なる無ですが、しかし言葉にならない悦びで満たされているのです。
何故か。
何故なら、そこに新たな命(【有】)が宿っているから。
哲学者(智慧を愛する者)も同じです。
彼らは智慧を愛します。
そして智慧を愛し抜いたその先に無へと突入します。
そこは完全なる無ですが、しかし言葉にならない悦びで満たされる事になるのです。
何故か。
何故なら、そこに新たな言(【有】)が宿っているから。
そこから皆様方哲学者の新しい世界が生れていくのです。
「初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。」(「ヨハネ福音書」)
『恍惚』
これこそが哲学者(智慧を愛する者)への報酬です。
古今東西の聖人賢人哲人たちも皆、この恍惚を追い求めたのです。
何故ならそこには命への安らぎがあるから。
しかし彼らはそこに長く止まる事などありません。
何故ならそこには命の言が沸沸と湧いているから。
彼らはこの命の言をこの世に還元して行ったのです。
さて皆様、
智慧と共に在る時がどんなに悦びに満ちたものかお分かりになったでしょうか。
それは正に『恍惚』なのです。
そしてその恍惚の中いると、命の言が沸沸と湧いて来るのです。
その時の有様を、「老子」第二十一章でもう一度確認してみましよう。
「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。
道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。
其の中に象有り、恍たり惚たり。
其の中に物有り、窈たり冥たり。
其の中に精有り、其の精、甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。
古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。
吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」(「老子」二十一章)
「道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。其の中に象有り、恍たり惚たり。」
これが智慧の根源としての根源と共に在る時の状態です。
正に『恍惚』です。
「其の中に物有り、窈たり冥たり。其の中に精有り、其の精、甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。」
これが智慧の根源としての根源から発されられる智慧、すなわち命の言です。
何故この言に命があり、信(まこと)が有ると言われるのか。
それはその言が、皆様の真心の中のそのまた真心の中から生まれたものだからです。
人は何に依って生きるのか。それは言に依って。
さて次に移りましょう。
「古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」
老子は何に依って、古今東西の聖人賢人たちの状態を知る事が出来たのでしょうか
それは智慧に依ってです。
もう一度、智慧の根源としての智慧と共に在る時の事を思い出して下さい。
『恍惚』でしたよね。
これは人類全てにおける『至福』の時なのです。
至福とは、幸福×幸福×幸福×・・・・と言う風に表される幸福の事です。
この『恍惚』とも『至福』とも呼ばれる状態から発せられる言は世界人類共通なのです。
何故か。
何故なら、そこには命と至福があるから。
この『恍惚』とも『至福』と呼ばれる状態を別の言葉で言い表せば、『純粋無垢なる心』とも言い表す事もできます。
皆様も皆様の真心のそのまた真心の中に深く入り込み、そして沈潜してみて下さい。
そしてそこから生まれた言葉を掴み取ってみて下さい。
そうすればそれは聖人のそれと一寸も違わない事を確認する事でしょう。
「聖人の気象は、何に由って、認めん。自己の良知は、原(もと)、聖人と一般なり。若し、自己の良知を体認して、明白なれば、即ち、聖人の気象は、聖人に在らずして、我に在り。」(「伝習録」)
王陽明から学びましたよね。
さて最後に移りましょう。
「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。」
愛は智慧に従う。
智慧と愛。
この世には智慧と愛しかありません。
もっと端的に言えば、この世には愛しかないのです。
その愛とは、智慧への愛と隣人への愛です。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)
智慧への愛、これが如何なる報酬を伴うか、もう皆様は学びましたよね。
『恍惚』でしたよね。
そしてそこには命の言が沸沸と湧いて来る。
この命の言を如何に実践するか、それが隣人への愛なのです。
さてもう少し智慧の根源としての智慧に在る時の状態を老子の言葉に従って見て行きましょう。
「道は沖にして之を用うれども或(つね)に盈(み)たず。
淵として万物の宗に似たり。
其の鋭を挫(くじ)き、其の紛を解き、其の光を和らげ、其の塵に同じ、堪として或(つね)に存するに似たり。」
「知る者は言わず、言う者は知らず。
其の兌(あな)を塞ぎ、其の門を閉ざす。
其の鋭を挫き、其の紛を解き、其の光を和らげ、其の塵に同ず。
是を玄同と謂う。」
この中の「其の鋭を挫き、其の紛を解き、其の光を和らげ、其の塵に同ず」がそれです。
もう一度皆様が恍惚に在る時の状態を思い出してください。
そこでは鋭は挫かれ、紛は解かれ、光に和し、そして塵に同じているのではないでしょうか。
なお、ここで言う「塵」はちりと読まずにじんと読んでください。
それは微粒子みたいなものと考えた方がより理解し易いと思います。
正に皆様が恍惚の状態に在る時、皆様を包み込むようなあのものの事です。
ブッダであればそれを空と呼んだのかも知れません。
この「其の鋭を挫き、其の紛を解き、其の光を和らげ、其の塵に同ず」の状態が、正に智慧の根源としての智慧に在る時の状態です。
この中に皆様が皆様の意志を投入すると、
この智慧の根源としての智慧は、皆様の求めるものを惜しみなく与えてくれるのです。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(「マタイ福音書」)
もう一つだけ、智慧の根源としての智慧に在る時の状態を見て行きたいと思います。
「虚を致すこと極まり、静を守ること篤し。
万物並び作(おこ)るも、吾、以て其の復を観る。
夫れ物の芸芸(うんうん)たる、各おの其の根に復帰す。
根に帰るを静と曰い、是を命に復(かえ)ると曰う。
命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰う。
常を知らざれば、妄作(もうさ)して凶なり。
常を知れば容なり。
容なれば及(すなわ)ち公なり。
公なれば及(すなわ)ち王なり。
王なれば及(すなわ)ち天なり。
天なれば及(すなわ)ち道なり。
道なれば及(すなわ)ち久し。
身を没するまで殆(あや)うからず。」
この中の、「万物並び作るも、吾、以て其の復を観る。夫れ物の芸芸たる、各おの其の根に復帰す。根に帰るを静と曰い、是を命に復ると曰う。命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰う。」がそれです。
「根に帰るを静と曰い、是を命に復ると曰う。」
これが智慧の根源としての智慧に辿り着いた状態です。
これこそが正に『格物致知』の核心でもあります。
もう一度「大学」のあの一節を見て行く事にしましよう。
「古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。
その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。
その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修む。
その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。
その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。
その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致(きわ)む。
知を致むるは物に格(いた)るに在り。
物格りて后(のち)知至(きわ)まる。
知至まりて后(のち)意誠なり。
意誠にして后(のち)心正し。
心正しくして后(のち)身修まる。
身修まりて后(のち)家斉う。
家斉いて后(のち)国治まる。
国治まりて后(のち)天下平らかなり。」
この中の、「知を致むるは物に格(いた)るに在り。物格りて后(のち)知至(きわ)まる。」が、「根に帰るを静と曰い、是を命に復ると曰う。」に当たります。
ここは静かな上にも静かなのですが、もう既に命の言が沸沸と湧き出でようとしているのです。
皆様のあの恍惚の時を思い出してください。
ここに皆様の意志を投入すると、智慧の根源としての智慧は皆様が求めるものを惜しみなく与えてくれるのです。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。」
この辺りについて、老子はどのように言っているのでしょう。
「道は沖にして之を用うれども或(つね)に盈(み)たず。淵として万物の宗に似たり。」
「是を天地の根と謂う。緜緜として存するが若く。之を用うれども勤(つか)れず。」
「大象と執りて、天下を往かば、往くとして害あらず、安・平・太なり。」
「古の此の道を貴ぶ所以の者は何ぞや。以て求むれば得、罪有るも以て免ると曰わずや。」
「道は万物の奥なり。善人の宝、不善人の保(やす)んずる所なり。」
「道の常なるは無為にして、而も為さざる無し。侯王若し能く之を守らば、万物将に自ら化せんとす。」
「道の常は名無し。樸(はく)は小と雖も、天下に能く臣とする莫きなり。侯王も若し能く之を守らば、万物将に自ら賓せんとす。天地相和し、以て甘露を降し、民之に令する莫くして自ら均(ひと)し。」
「古の道を執りて、以て今の有を御す。能く古始を知る、是を道紀と謂う。」
「其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」
「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。」
「道は隠れて名無きも、夫れ唯だ道のみ善く貸して且(か)つ成す。」
「道の尊く、徳の貴きこと、夫れ之に命ずる莫くして、常に自ずから然り。故に道、之生じ、徳、之を畜い、之を長じ、之を育み、之を亭(やす)んじ、之を毒(あつ)くし、之を養い、之を覆う。」
「昔の一を得る者は、天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧(やす)く、神は一を得て以て霊に、谷は一を得て以て盈ち、万物は一を得て以て生じ、王は一を得て以て天下の貞と為る。其の之を致すは一なり。」
「物有り混成して、天地に先立ちて生ず、寂たり寥たり。独立して改まらず、周行して殆(つか)れず。以て天下の母と為す可(べ)し。吾、其の名を知らず。之に字(あざな)して道と曰う。」
「吾、其の名を知らず。之に字(あざな)して道と曰う。強いて之が名を為して大と曰う。大なれば曰(ここ)に逝き、逝かば曰に遠く、遠ければ曰に反(かえ)る。」
「天下に始め有り、以て天下の母と為す。既に其の母を得て、以て其の子を知る。既に其の子を知り、復た其の母を守らば、身を没するまで殆(あや)うからず。」
「根に帰るを静と曰い、是を命に復(かえ)ると曰う。命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰う。常を知らざれば、妄作(もうさ)して凶なり。常を知れば容なり。容なれば及(すなわ)ち公なり。公なれば及(すなわ)ち王なり。王なれば及(すなわ)ち天なり。 天なれば及(すなわ)ち道なり。道なれば及(すなわ)ち久し。身を没するまで殆(あや)うからず。」
これが智慧の根源としての智慧の有様です。
皆様がここに還れば、智慧の根源としての智慧は、皆様が求めるものを惜しみなく与えてくれるのです。
この中で最も大事な一節は、「根に帰るを静と曰い、是を命に復(かえ)ると曰う。命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰う。常を知らざれば、妄作(もうさ)して凶なり。常を知れば容なり。」だと思います。
「根に帰る」、それを「静」と言い、「命に復する」と言い、「常」と言い、
その事を知る事を「明」と言い、「容」だと言うのです。
この根に帰れば、智慧の根源としての智慧は皆様が求めるものを惜しみなく与えてくれるのです。
「これを天地の根と謂う。緜緜として存するが若く。之を用うれども勤(つか)れず。」
「道は沖にして之を用うれども或(つね)に盈(み)たず。」
「以て求むれば得、罪有るも以て免る。」
「道の常なるは無為にして、而も為さざる無し。」
「道は万物の奥なり。善人の宝、不善人の保(やす)んずる所なり。」
「其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。」等々。
何故、根に帰れば、智慧の根源としての智慧は、皆様が求めるものを惜しみなく与えてくれるのでしょう。
それは皆様が本当の自分自身に還ったからに他なりません。
智慧の根源としての智慧、それは本当の皆様自身の事なのです。
「初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(「ヨハネ福音書」)
この智慧の根源としての智慧に「神」と言う名を付ければ、神を求める事になりますが、
それは究極には、究極の本当の自分自身を求める事に他ならないのです。
そしてそれは世界人類に共通なのです。
「古の道を執りて、以て今の有を御す。能く古始を知る、是を道紀と謂う。」
「古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。」
何故私たちは智慧の根源としての智慧において、古今東西の聖人賢人たちの有様を知る事ができるのか、それは智慧の根源としての智慧が、究極の本当の自分自身と一緒だからです。
「聖人の気象は、何に由って、認めん。自己の良知は、原(もと)、聖人と一般なり。若し、自己の良知を体認して、明白なれば、即ち、聖人の気象は、聖人に在らずして、我に在り。」(「伝習録」)
何故私たちは智慧の根源としての智慧において、古今東西の聖人賢人たちの有様を知る事ができるのか、それは智慧の根源としての智慧が、究極においては無だからです。
その無とは純粋無垢な心の事です。
その純粋無垢な心から私たちの求める世界が生れて来るのです。
それは聖人賢人たちにおいても、私たちにおいても、その本質においては、何の変りもないのです。
「無垢であろうと努め、まっすぐ見ようとせよ。平和な人には未来がある。」(「詩篇」)
「あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら、そのことがわたしを守ってくれるでしょう。」)(「詩篇」)
「わたしは主に無垢であろうとし、罪から身を守る。」(「詩篇」)
「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。」
さて、それでは、次に「道と共に在る生き方」について見て行く事にしましよう。
先ずは道に至る方法について。
道、すなわち智慧の根源としての根源はどのような有様だったのでしょうか。
そうですね、「恍惚」でしたよね。
この恍惚に至る方法は、「虚を致すこと極まり、静を守ること篤し。」と言う事になります。
イエスは次のように言っています。
「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば隠れた事を見ておられるあなたの父が報いてくださる。」と(「マタイ福音書」)
「虚を致すこと極まり、静を守ること篤し。
万物並び作(おこ)るも、吾、以て其の復を観る。
夫れ物の芸芸(うんうん)たる、各おの其の根に復帰す。
根に帰るを静と曰い、是を命に復(かえ)ると曰う。
命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰う。
常を知らざれば、妄作(もうさ)して凶なり。
常を知れば容なり。
容なれば及(すなわ)ち公なり。
公なれば及(すなわ)ち王なり。
王なれば及(すなわ)ち天なり。
天なれば及(すなわ)ち道なり。
道なれば及(すなわ)ち久し。
身を没するまで殆(あや)うからず。」
「虚を致すこと極まり、静を守ること篤し。万物並び作(おこ)るも、吾、以て其の復を観る。夫れ物の芸芸(うんうん)たる、各おの其の根に復帰す。根に帰るを静と曰い、是を命に復(かえ)ると曰う。命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰う。・・・常を知れば容なり。」
一人静かにしていると、全てのものが一つの下に帰って行きます。
老子はそれを根に帰る(帰根)と呼んでいるのです。
その根に帰ると、そこは静かな上にも静かですが、言葉にならない命の言が今にも沸沸と湧き出ようとしているのです。
老子はその状態と『恍惚』とも呼んでいるのです。
皆様もあの最高の恍惚の時を思い出してください。
そこは静かな上にも静かなのですが、言葉に成らない命の言が宿っていたのではないですか。
そしてそこにおいて皆様は全てを受け入れていた。
その時には皆様は神を受け入れていたのです。
「初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。」(「ヨハネ福音書」)
しかしこの世の愛は儚い。
皆様のあの命の言は生まれる事なく、あの恍惚と共に去ってしまいました。
しかし皆様は幸いです。
皆様は哲学を手に入れたのですから。
智慧を愛すると言うその方法を。
皆様は何時でも好きな時に恍惚を手に入れる事ができるのです。
そして何時でも命の言を生み出す事ができるようになったのですから。
何故ならその命の言とは、皆様の心の中のその中のその真心の言なのですから。
それは古今東西の聖人賢人たちの言と、その本質においては一寸も違う事などないのです。
その為にも智慧を愛し抜いて、その智慧の根源としての智慧に辿り着く事が必要なのです。
全てはそこから始まるのです。
「初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(「ヨハネ福音書」)
「常を知れば容なり。
容なれば及(すなわ)ち公なり。
公なれば及(すなわ)ち王なり。
王なれば及(すなわ)ち天なり。
天なれば及(すなわ)ち道なり。
道なれば及(すなわ)ち久し。
身を没するまで殆(あや)うからず。」
ここで言う「常」とは、智慧の根源としての智慧と共に在る時の常態の事です。
ここから全てが始まるのです。
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「善く建てたる者は抜けず、善く抱ける者は脱せず。
子孫以て祭祀して輟(やめ)ず。
之を身に修むれば、其の徳及(すなわ)ち真(まこと)に、
之を家に修むれば、其の徳及(すなわ)ち余りあり、
之を郷に修むれば、其の徳及(すなわ)ち長(ひさ)し、
之を国に修むれば、其の徳及(すなわ)ち豊かに、
之を天下に修むれば、其の徳及(すなわ)ち遍(あまね)し。
故に身を以て身を観(しめ)し、
家を以て家を観(しめ)し、
郷を以て郷を観(しめ)し、
国を以て国を観(しめ)し、
天下を以て天下を観(しめ)す。
吾何を以て天下の然るを知るや。
此を以てなり。」(「老子」五十四章)
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ここで言う祭祀とは、哲学、すなわち智慧を愛する事です。
智慧を愛する事を身に修めれば、その人の愛は真(まこと)です。
智慧を愛する事を家に修めれば、その家の愛には余りあります。
智慧を愛する事を郷に修めれば、その郷の愛は長(ひさ)しきものです。
智慧を愛する事を国に修めれば、その国の愛は豊かです。
智慧を愛する事を天下に修めれば、その天下の愛は遍くに行き渡ります。
なお智慧を愛するとは一人一人が行うべき事です。
智慧を愛する事を家に修めるとは、家族の一人一人が智慧を愛すると言う事を身に修めると言う事になります。
それは郷においても、国においても、天下においても同じ事です。
もし天下国家において、その一人一人が智慧を愛する事を身に修めていれば、その国の愛は豊かで遍きものと成っている筈です。
「吾何を以て天下の然るを知るや。此を以てなり。」
さて、我が国、日本を見てみましょう。
そこには愛が豊かに在るのでしょうか。
もしそうでないとすれば、日本国民の一人一人が智慧を十分に愛していないと言う事になります。
「古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。
その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。
その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修む。
その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。
その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。
その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致(きわ)む。
知を致むるは物に格(いた)るに在り。
物格りて后(のち)知至(きわ)まる。
知至まりて后(のち)意誠なり。
意誠にして后(のち)心正し。
心正しくして后(のち)身修まる。
身修まりて后(のち)家斉う。
家斉いて后(のち)国治まる。
国治まりて后(のち)天下平らかなり。」(「大学」)
似たような言葉ですね。
本質においては全く一緒です。
全ては智慧の根源としての智慧を愛する事から始まるのです。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)
これが古今東西の聖人賢人たちの教えの本質です。
智慧の根源としての智慧を愛しなさい。これが第一の掟です。
智慧の根源としての智慧から発せられる智慧に従いなさい。これが第二の掟です。
古今東西の聖人賢人たちの教えは、全てこの掟に基づいているのです。
もう少し「道」、すなわち智慧の根源としての智慧に至る方法を見て行きましょう。
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「希言は自然なり。
故に飄風も終朝せず、驟雨も終日ならず。
孰(たれ)か此れを為す者ぞ、天地なり。
天地も尚お久しきを能(あた)わず、而(しか)るに況や人に於いてをや。
故に道に従事する者は、道に同じ、徳なる者は徳に同じ、失なる者は失に同ず。
道に同ずる者には、道も亦た之を得んことを楽(ねが)い、
徳に同ずる者には、徳も亦た之を得んことを楽(ねが)い、
失に同ずる者には、失も亦た之を得んことを楽(ねが)う。
信足らざれば、信ぜられること有り。」(「老子」二十三章)」
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常に道、すなわち智慧と共に在る事ができたらどんなに素敵な事でしょう。
しかしそれは私たちにはできない事です。
それができるのは伝説上の聖人だけです。
しかし皆様方哲学者(智慧を愛する者)は幸いです。
皆様方が智慧を求めれば、智慧は皆様の下に訪れるのですから。
「道に同ずる者には、道も亦た之を得んことを楽(ねが)う。」
「子の曰く、仁遠からんや、我仁を欲すれば、斯(ここに)仁至る。」(「論語」)
「わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを探し求める人はわたしを見いだす。」(「箴言」)
「求めなさい。そうすれば与えられる。」(「マタイ福音書」)
皆様方哲学者(智慧を愛する者)は幸いです。
皆様方が智慧を求めれば、智慧が皆様の下を訪れてくれるのですから。
何故智慧は皆様方哲学者(智慧を愛する者)の下を訪れてくれるのか。
それは皆様方哲学者(智慧を愛する者)が智慧を愛し続けているからに他になりません。
「わたしを愛する者をわたしも愛す。」
「信足らざれば、信じざれらることあり。」
要は如何に智慧を信じ、智慧を愛し抜くかと言う事です。
智慧とか智慧の根源としての根源を信じよと言ってもピンと来ませんよね。
ですから、この智慧の根源としての智慧に「神」と言う名を付したのです。
神であればみんなが信じているから私も信じられる。
これが宗教です。
しかしこの神とは、皆様の智慧の根源としての智慧の事であり、
それは本当の皆様自身に他ならないのです。
そして本当の自分自身とは無に他ならないのです。
この無の世界から理想世界を描く。
その全体系を皆様は神に付しているのです。
「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(「マタイ福音書」)
神様は皆様お一人お一人に存在しているのです。
そして神様は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのです。
何故なら、神とは究極の皆様ご自身の事なのですから。
そしてその究極は無。
無と言うと理解しがたいので、「無心」とか「無垢」とか「無為」等々の言葉に仮置きをする事になるのです。
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「学を為せば日に益し、道を為せば日に損(へ)る。
之を損らし又損らし、以て無為に至る。
無為にして為さざる無し。
天下を取るは、常に無事を以てす。
其の事有るに及んでは、以て天下を取るに足らず。」(「老子」四十八章)
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「あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら、そのことがわたしを守ってくれるでしょう。」)(「詩篇」)
「道を為せば日に損(へ)る。
之を損らし又損らし、以て無為に至る。
無為にして為さざるなし。」
もし皆様が智慧を愛して愛し抜けば、皆様は何時しか無心へと至ります。
そこが、皆様の本当の自分自身の在り処です。
そこは自由であり、
そしてそこには皆様の求めるものが沸沸と湧いて来るのです。
その沸沸と湧いて来るそのものとは、「愛」以外の何ものでも無いのです。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)
もし皆様が智慧を愛して愛し抜けば、皆様は智慧の根源としての智慧に至ります。
そこは恍惚です。
これが第一の掟に対する報酬です。
なおここでは掟と言っていますが、もし皆様が智慧を愛する事を覚えたら、皆様は智慧を愛する事を止められなくなります。
何故なら人間の第一の行動動機は快楽なのでしょうから。
よく宗教は阿片みたいなものだと言われる事がありますが、それはこの辺りに由来しているのです。
さて第二の掟「隣人を自分のように愛しなさい」ですが、
これは智慧の根源としての智慧から発せられる智慧に従いなさいと言う事以外の何ものでないのです。
何故なら智慧の根源としての智慧から発せられる智慧とは、愛以外の何ものでもないからです。
この智慧の根源としての智慧から発せられる智慧に従うと言う事、すなわち愛の実践には困難が伴います。
しかし皆様が、日々この愛を実践して行けば、その愛は何時しか皆様の性と成って行きます。
「習い性と成る」
この愛が皆様の性と成った時、皆様は聖人に成ったと言っても良いのかも知れません。
愛の実践における最高目標は「聖人に成る」と言う事なのかも知れませんね。
さてこの第二の掟に対する報酬は何なのでしょう。
それは恍惚ではありませんが、恍惚に近いものです。
それを一般的には愛の喜びと呼んでいます。
この愛の喜びは千差万別です。
もし智慧の根源としての智慧と智慧の根源としての智慧が交わるような愛であれば、その愛は恍惚に近いものとなるのでしょう。
智慧の根源としての智慧からから遠ざかれば遠ざかる程、その愛の喜びは薄れて行きます。
しかしその根源にあるのは、智慧の根源としての智慧であり、そしてその喜びの基は恍惚なのです。
それではこの愛の実践について、老子はどのように言っているのか、老子の言葉に即して見て行く事としましよう。
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「我に三宝あり、持して之を保つ。
一に曰く慈、二に曰く倹、三に曰く敢えて天下の先と為らずと。」(「老子」六十七章)
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老子は愛の実践において必要なものとして、「慈」と「倹」と「敢えて天下の先と為らず」の三つを挙げています。
この中の慈とは、愛のフィルターの事です。
智慧の根源としての智慧から発せられる智慧に、更に愛と言うフィルターをかけて遣る事です。
そうすれば全ての行為が愛と成ります。
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「夫れ慈なれば以て戦わば則ち勝ち、以て守れば則ち固し。
天将に之を救わんとし、慈を以て之を衛る。」(「老子」六十七章)
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愛は世界を救うのです。
なお、老子の「慈」に関する記事はこれだけです。
後は「倹」と「敢えて天下の先と為らず」だけです。
そしてほとんどが「敢えて天下の先と為らず」の記事となっています。
それでは次に倹について、見て行きたいと思います。
倹であってこそ、愛の実践がスムーズに行くのです。
何故なら、愛の実践とは、智慧の根源としての智慧から発せられる智慧に従う事ですから、余計なものが無い程、より良いのです。
愛の実践において最も大切な事は、智慧の根源としての智慧から離れない事なのです。
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「是を以て聖人は、終日行けども、輜重(しちょう)を離れず。」(「老子」二十六章)
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輜重(しちょう)とは軍隊における器物食料を乗せた荷車の事ですが、ここでは智慧の根源としての智慧を喩えています。
智慧の根源としての智慧はオールマイティです。
打ち出の小槌です。
ですから終日智慧の根源としての智慧から離れない事が大切なのです。
その為にも倹が必要なのです。
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「人を治め天に事(つか)うるには、嗇(しょく)に若(し)くは莫(な)し。
夫(そ)れ(ただ)嗇なり。
是を以て早く服す。
早く服する之を重ねて徳を積むと謂う。
重ねて徳を積まば、則ち克(よ)くせざる無し。
克(よ)くせざる無ければ、則ち其の極を知る無し。
其の極を知る無ければ、以て国を有(たも)つ可し。
国を有つの母は、以て長久なる可し。
是を根を深くして柢を固くし、長生久視の道を謂う。」(「老子」五十九章)
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「学を為せば日に益(ま)し、道を為せば日に損(へ)る。
之を損らし又損らし、以て無為に至る。
無為にして為さざるなし。」
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愛の実践の為に必要な事は、智慧の根源としての智慧から離れない事ですが、
その為には先ず智慧の根源としての智慧に至らなければなりません。
その為の方法として、老子はここでは「嗇(しょく)」(倹と同じ意味)と言う方法を挙げています。
それは全ての行為を、智慧の根源としての智慧を愛すると言う事に充てると言う事です。
そうすれば、早く智慧の根源としての智慧に至る。
智慧の根源としての智慧に至れば、後は智慧の根源としての智慧から発せられる智慧に従えば良いと言う事になるのですから。
その為にもまた倹が必要となるのです。
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「是の故に甚だ愛すれば必ず大いに費やし、多く蔵すれば必ず厚く亡う。
足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆(あや)うからず、以て長久なる可し。」(「老子」四十四章)
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「禍は足るを知らざるより大なるは莫(な)し。
咎は得んと欲するより大なるは莫(な)し。
故に足るを知るの足るは、常に足る。」(「老子」四十六章)
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「人を知る者は智なり、自らを知る者は明なり。
人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。
足ることを知る者は富み、強(つと)めて行う者は志有り。
其の所を失わざる者は久しく、死してもしかも亡びざる者は寿し。」(「老子」三十三章)
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「足るを知る」
これが「倹」の本質です。
もし皆様が智慧を愛する事を知ったら、皆様に他に何か必要なものがあるのでしょうか。
何故ならその智慧は皆様が心から求めているものを惜しみなく与えてくれるのですから。
皆様が心から求めているもの、それは愛以外の何かでしょうか。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。
一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富に使える事ができない」(「マタイ福音書」)
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。
わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(「マタイ福音書」)
皆様方は智慧の根源としての智慧から発せられる智慧を聞くには聞くが、実行できない。
何故か、それは皆様が常に人より一歩先を先んじようとするからです。
残念ながらそこには愛の道は無いようです。
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国ではいちばん偉いのだ。」(「マタイ福音書」)
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(「マタイ福音書」)
この辺り、すなわち「敢えて天下の先と為らず」について、老子はどのように言っているのでしょう。
老子の言葉に即して見て行く事にしましよう。
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「上善は水の若(ごと)し。
水は善く万物を利して而(しか)も争わず。
衆人の悪(にく)む所に処(お)る。
故に道に近し。」(「老子」八章)
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「江海の能く百谷の王為(た)る所以の者は、其の善く之に下ると以てなり。
故に能く百谷の王と為る。
是を以て上たらんと欲せば、必ず言を以て之に下り、民に先んぜんと欲せば、必ず身を以て之に後る。
是を以て聖人は、上に処るも而も民は重しとせず、前に処るも而も民は害とせず。
是を以て天下を推すことを楽しみて而も厭わず。
其の争わざるを以て、故に天下能く是と争う莫し。」(「老子」六十六章)
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「道の天下に在るを譬うれば、猶川谷の江海に於けるがごとし。」(「老子」三十二章)
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「大国は下流なり。
天下の交わり、天下の牝、牝は常に静を以て牡に勝つ。
静を以て下と為るなり。
故に大国は小国に下るを以て、則ち小国を取る。
小国は大国に下るを以て、則ち大国を取る。
故に或いは下りて以て取り、或いは下りて而も取る。
大国は人を兼ねて畜わんと欲するに過ぎず、小国は人に入りて、事えんと欲するに過ぎず。
其れ両者各おの其の欲する所を得んとせば、大なる者宜しく下為(た)るべし」(「老子」六十一章)
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「是を以て聖人云う、
国の垢を受く、是を社稷の主と謂い
国の不詳を受く、是を天下の王と為すと
正言は反するが若し。」(「老子」七十八章)
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「是を以て聖人はその身を後にして身は先んじ、その身を外して身は存す。
其の私無きを以てに非ずや、故に能く其の私を成す。」(「老子」七章)
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「故に貴は賤を以て本と為し、高は下を以て基と為す。
是を以て侯王、自ら孤・寡・不穀と謂う。
此れ賤を以て本と為すに非ずや。非なるか。」(「老子」三十九章)
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「人の悪(にく)む所は、唯だ孤・寡・不穀なるも、而(しか)も王公以て称す。」(「老子」四十二章)
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「曲げれば則ち全く、枉(ま)げれば則ち直なり。
窪めば則ち盈(み)ち、敞(やぶ)るれば則ち新たなり。
少なければ則ち得られ、多ければ則ち惑う。
是を以て聖人は一を抱きて天下の式となる。
自ら見ず、故に明らかなり。
自ら是とせず。故に彰(あら)わる。
自ら伐(ほこ)らず。故に功あり。
自ら矜(ほこ)らず。故に長し。
夫れ唯争わず、故に天下に能く之と争う莫し。
古の所謂、曲なれば則ち全しとは、豈(あ)に虚言ならんや。誠に全うして之を帰すなり。」(「老子」二十二章)
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「聖人は、自らを知りて自らを見(しめ)さず。
自らを愛して自らを貴ばず。」(「老子」七十二章)
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「聖人、為して恃(たの)まず、功成りて処(お)らず、其の賢(まさ)れるを見(あら)わすを欲せず。」(「老子」七十七章)
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「聖人は積まず。
既(ことごと)く以て人の為にするも、己れ愈(いよ)いよ有す。
既(ことごと)く以て人に与うるも、己れ愈(いよ)いよ多し。
天の道は、利して害せず、聖人の道は為して争わず。」(「老子」八十一章)
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「聖人は左契は執るも、而も責めず。」(「老子」七十九章)
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「是を以て聖人は、方なるも而も割かず、廉なるも而も劌(そこ)なわず、直なるも而も肆(し)ならず、光あるも而も耀かず。」(「老子」五十八章)
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「是を以て聖人は、甚だしきを去り、奢を去り、泰を去る。」(「老子」二十九章)
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「万物作(なさ)れて辞さず、生じて有せず、為して恃まず、功成りて居らず。
夫れ唯(ただ)居らず、是を以て去らず。」(「老子」二章)
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「功遂げて身退くは、天の道なり。」(「老子」九章)
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「其れ唯争わず、故に尤(とが)無し。」(「老子」八章)
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「善者は果たすのみ。
敢えて以て強を取らず。
果たして矜(ほこ)ること勿(なか)れ、果たして伐(ほこ)ること勿(なか)れ、果たして驕(おご)ること勿(なか)れ。
果たすも而(しか)も已むことを得ざれ。
是を果たし而も強きこと勿(な)しと謂う。」(「老子」三十章)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「天の道は、其れ猶弓を張るがごとき与(か)。
高き者は之を抑え、下(ひく)き者は之を挙げ、余りある者は之を損じ、足らざる者は之を補う。
天の道は、余りある者は之を損じ、足らざる者は之を補う。」(「老子」七十七章)
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「天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、召(まね)かずして自ら来る。
繟然(さんぜん)として善く謀る。
天網恢恢、疏にして失わず。」(「老子」七十三章)
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「其の雄を知り其の雌を守らば、天下の谿と為る。天下の谿為らば、常徳離れず、嬰児に復帰す。
其の白を知り其の黒を守らば、天下の式と為る。天下の式と為らば、常徳(たが)わず、無極に復帰す。
其の栄を知り其の辱を守らば、天下の谷と為る。天下の谷と為らば、常徳乃ち足り、樸に復帰す。
樸散じれば即ち器と為る。聖人之を用うれば、即ち官長と為る。」(「老子」二十八章)
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「営魄(えいはく)を載(にな)い一を抱き、能く離すこと無きか。
気を専らにし柔を致し、能く嬰児為(た)らんか。
滌除(てきじょ)し玄覧して、能く疵(し)無からしめんか。
民を愛し国を治め、能く無為ならんか。
天門開闔(かいこう)して、能く雌為(た)らんか。
明白四達して、能く無知ならんか。
之を生じ、之を畜(やしな)い、生じて有せず、為して恃まず、長じて宰せず、是を玄徳と言う。」(「老子」十章)
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「道、之を生じ、徳、之を畜(たくわ)え、物として之を形づくり、勢、之に成る。
是を以て万物、道を尊び徳を貴ばざる莫し。
道の尊く、徳の貴きこと、夫れ之に命ずる莫くして、常に自ずから然り。
故に道、之生じ、徳、之を畜い、之を長じ、之を育み、之を亭(やす)んじ、之を毒(あつ)くし、之を養い、之を覆う。
生じて有せず、為して恃(たの)まず、長じて宰せず。
是を玄徳と謂う。」(「老子」五十一章)
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「聖人云う。
我無為にして、民自ら化し、
我静を好みて、民自ら正しく、
我無事にして、民自ら富み
我無欲にして、民自ら樸なりと。」(「老子」五十七章)
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老子は愛の実践において必要なものとして、「慈」と「倹」と「敢えて天下の先と為らず」の三つを挙げていました。
この内、「慈」とは愛への意志の事です。
智慧の根源としての智慧から生まれる智慧、それは全て愛です。
しかしその愛はか弱いものです。
そこに愛の意志が無ければ、その愛は消えて萎んでしまいます。
また別の形になるかも知れません。
「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。」
もし皆様が聖人であれば、その愛は貫徹され、そこに愛の世界が生まれる事でしょう。
しかし私たち凡人は弱いものです。
その愛のほとんどが日の目を見ずに消えて行きます。
また例え生まれたとしても別の形を取って行く事になります。
「道は一を生じ、一は二を生じ」
道から生まれるものは全て愛ですが、
その愛は私たち凡人においては直ぐに二つに割れてしまいます。
それが善悪、美醜、好悪等々だったりするのです。
私たちの愛とはその二つの間を揺れ動く存在となってしまうのです。
しかしもし皆様が愛への強い意志を持っていれば、その愛は原型を保ったままこの世に存在し続ける事ができるのです。
愛とは智慧の根源としての智慧から生まれた智慧の事です。
智慧の根源としての智慧の特質、それは「恍惚」でしたよね。
ですから智慧の根源としての智慧から生まれた智慧、すなわち「愛」の最も純粋な特質もまた「恍惚」と言う事になるのです。
もし皆様がこの世においても、恍惚で在り続けられたら、そこに皆様の愛の世界が生れる事になるのです。
「聖人云う。
我無為にして、民自ら化し、
我静を好みて、民自ら正しく、
我無事にして、民自ら富み、
我無欲にして、民自ら樸なりと。」
この辺りがその辺の事を伝えています。
「無為」「無事」「無欲」そして「静」、この状態が正に恍惚なのです。
無心、これが最も純粋な愛の形です。
もし皆様がこの世に在る時も無心で在り続けられたら、そこには素敵な愛の世界が存在する事になるのです。
「天下皆美の美たるを知るは、斯れ悪なる已(のみ)。
皆善の善たるを知る、斯れ不善なる已(のみ)。
故に有無相生じ、難易相成り、長短相形し、高下相傾き、音声相和し、前後相従う。
是を以て聖人は、無為の事に処し、不言の教えを行う。」
「無為の事に処し、不言の教えを行う。」
これが最も素晴らしい愛の形です。
しかし「無為」「無事」「無名」「無心」「無私」「無我」「無欲」「無垢」「無」「静」等々と言っても、私達はその状態を理解する事ができません。
その為に、老子は取って置きの言葉を用意してくれたのです。
それが正に「恍惚」です。
「無為」「無事」「無名」「無心」「無私」「無我」「無欲」「無垢」「無」「静」等々の状態に在る時の人の気持ちが正に「恍惚」なのです。
皆様は恍惚なら理解できます。
そして皆様哲学者(智慧を愛する者)は好きな時にその恍惚を手に入れる事ができるのです。
ですからその恍惚を何度も何度も体験し、
そしてその恍惚を以て世に出てください。
そうすればこの世が如何に愛に充ちた世界であるかを理解できるようになる筈です。
その時には
「善人は、不善の人の師、不善の人は、善人の資なり。」(「老子」二十七章)
「善なる者は吾之を善しとし、不善なる者も吾亦た之を善しとす。善を徳とす。
信なる者は吾之を信とし、不信なる者も吾亦た之を信とす。信を徳とす。」(「老子」四十九章)
「聖人は常の心なく、百姓の心を以て心と為す。」(「老子」四十九章)
「聖人の天下に在るや、歙歙として天下の為に其の心を渾にす。百姓皆其の耳目を注ぐも、聖人は皆之を孩とす。」(「老子」四十九章)等々の心境になる筈です。
「中を守るに如かず」(「老子」五章)
これが「大学」「中庸」「論語」そして古今東西の聖人賢人たちに通じる愛の形なのです。
さて次に「倹」ですが、
その本質が「足るを知る」事だと言いました。
そして足るを知るの本質が智慧を愛する事だと言う事についても言及しました。
智慧の根源としての智慧と共に在る時が至福。
そしてその智慧から発せられるものが愛。
智慧を愛する事によって、至福と愛が得られるのです。
これ以外に何か必要でしょうか。
智慧の存在を知らない事を無知と言います。
仏教ではこれを無明と言い、最も重い罪の一つに数え上げています。
何故無知、無明が罪なのか、
何故ならそれは暗い心の事だから。
暗い所で動けばどうなるでしょう。
そうですね、ぶつかり合い、傷つけ合い、そして争いが起きてしまいますね。
だから無知、無明は罪だと言っているのです。
無知、無明は全ての罪の根源なのです。
もしこの世の全ての人が智慧の存在を知り、そして智慧を愛し抜いたら、
そこは光輝く天の国です。
しかし残念ながら、私たちはこの世に住んでいます。
天の国ばかりを求め続けている訳にはいかないのです。
この世を智慧の子として生きる事が求められる事になるのです。
その為に「敢えて天下の先と為(な)らず」と言う事が必要となるのです。
私たちのこの世における存在意義は何でしょう。
それは愛を分かち合う事です。
その為にも「敢えて天下の先と為らず」と言う事が必要なのです。
皆様も学校の道徳の時間に、勇気、忍耐、節制、寛容等々様々な徳を学んだと思いますが、その中で「敢えて天下の先と為る」と言うものが一つでもあったでしょうか。
一つも無かったと思います。
全て「敢えて天下の先と為らず」だったと思います。
皆様が道徳の時間に習った事は、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(「マタイ福音書」)と言う事ではなかったかと思います。
何故愛の実践においては「敢えて天下の先に為らず」と言う事が必要なのか。
それは愛の目的が愛の喜びにあるからです。
愛の喜びとはその愛を通じて、智慧の根源としての智慧に向かう時に生まれて来るものです
ですから、その前に猥雑物があってはいけないのです。
「聖人の天下に在るや、歙歙(きゅうきゅう)として天下の為にその心を渾にす。百姓皆其の耳目を注ぐも、聖人は皆之を孩とす。」(「老子」四十九章)
大きな愛の形です。
ソクラテスは産婆役に徹したと言われています。
それも大きな愛の形です。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすればあながたは安らぎを得られる。」(「マタイ福音書」)
愛の教師、イエスの言葉です。
皆様が皆様自身に成ってこそ、皆様自身の安らぎがあるのです。
大いなる愛の教師は、皆、皆様自身を生れさす為に存在しているのです。
その為にも「敢えて天下の先に為らず」と言う事が必要なのです。
もし誰かが、ああしなさい、こうしなさいと言い続けたら、皆様は皆様自身を生きる事ができるでしょうか。
もし皆様がその指示に従えば従がう程、皆様はその人の傀儡になるだけです。
愛の人は決して皆様の前にはいません。
愛の人は常に皆様の後にいて、皆様を後押しているか、
皆様の横にいて、皆様の手助けてしている筈です。
老子はその辺りをどのように言っているのでしょうか。
先ほど書き出しの中から更にその部分だけを抽出してみましよう。
「衆人の悪(にく)む所に処(お)る」
「其の善く之に下る」
「必ず言を以て之に下る」
「必ず身を以て之に後る」
「静を以て下と為るなり」
「その身を後にす」
「その身を外す」
「其の私無きを以てに非ずや」
「曲げれば則ち全く、枉(ま)げれば則ち直なり」
「道の天下に在るを譬うれば、猶川谷の江海に於けるがごとし」
「大国は下流なり」
「国の垢を受く、是を社稷の主と謂い、 国の不詳を受く、是を天下の王と為す」
「貴は賤を以て本と為し、高は下を以て基と為す」
「侯王、自ら孤・寡・不穀と謂う」
「人の悪(にく)む所は、唯だ孤・寡・不穀なるも、而(しか)も王公以て称す」
「此れ賤を以て本と為すに非ずや。非なるか」
「大なる者宜しく下為(た)るべし」
「自ら見ず」
「自ら是とせず」
「自ら伐(ほこ)らず」
「自ら矜(ほこ)らず」
「自らを知りて自らを見(しめ)さず」
「自らを愛して自らを貴ばず。」
「其の賢(まさ)れるを見(あら)わすを欲せず」
「功成りて処(お)らず」
「功成りて居らず。夫れ唯(ただ)居らず」
「功成るも名有せず」
「功遂げて身退く」
「生じて有せず」
「為して恃まず」
「長じて宰せず」
「積まず」
「其れ唯争わず」
「利して害せず」
「為して争わず」
「左契は執るも而も責めず」
「方なるも而も割かず」
「廉なるも而も劌(そこ)なわず」
「直なるも而も肆(し)ならず」
「光あるも而も耀かず」
「既(ことごと)く以て人の為にする」
「既(ことごと)く以て人に与うる」
「果たすのみ」
「果たして矜(ほこ)ること勿(な)し」
「果たして伐(ほこ)ること勿(な)し」
「果たして驕(おご)ること勿(な)し」
「果たすも而(しか)も已むことを得ざれ」
「果たし而も強きこと勿(な)し」
「其の雄を知り其の雌を守る」
「其の白を知り其の黒を守る」
「其の栄を知り其の辱を守る」
「能く嬰児為(た)らんか」
「嬰児に復帰す」
「能く雌為(た)らんか」
「足らざる者は之を補う。」
皆様、老子の「愛の人」の像が視えて来ましたか。
徹底して下っていますね。
例え愛の人がそこに居ても、見つけるのは難しいのかも知れませんね。
「見よ、わたしの選んだ僕。
わたしの心に適った愛する者。
この僕にわたしの霊を授ける。
彼は異邦人に正義を知らせる。
彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。」(「マタイ福音書」)
「争わず、叫ばず」
これが愛の人の特徴です。
何故なら愛の人とは恍惚の人なのですから。
よく無私の愛とか無心の愛と言う言葉を聞きますが、
これこそが愛の最高の形です。
恍惚とはその人が無心、無私で在る時の心持を表わした表現です。
ですから最高の愛の人とは、恍惚の人と言う事になるのです。
「是を以て聖人は、無為の事に処し、不言の教えを行う。」(「老子」二章)
「不言の教え、無為の益は、天下に之に及ぶもの希(な)し。」(「老子」四十三章)
「子言わく、無為にして治まるは者は其れ舜なるか。夫(そ)れ何をか為さんや。己を恭々しくして正しく南面するのみ」(「論語」)
薫陶と言う言葉があります。
これが愛の最高の形です。
もしイエスやブッダが皆様の目の前にいたらどうでしょう。
皆様はひとりでにその愛に薫陶されるのではないでしょうか。
そしてそのイエスやブッダが皆様の足を取り、水で洗い、そして手拭いで拭き取ってくれたらどうでしょう。
皆様の愛は極まるのではないでしょうか。
そこから愛が始まるのです。
「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。」(「論語」)
これが孔子が最晩年に達した心の境地、愛の形です。
しかし孔子とて、いきなりこの域に達したのではありません。
十五で哲学(智慧を愛する事)に志して、五十五年の末にこの境地に達したのです。
そしてその道のり全てが「敢えて天下の先に為らず」だったのです。
何故なら聖人とは、愛の実践を貫徹して、その愛に辿り着いた人の事を言うのですから。
「上徳は徳とせず、是れ徳有るを以てなり。
下徳は徳を失わず、是れ徳無きを以てなり。
上徳は無為にして、而も為さざる無し。
下徳は之を為して、而も以て為す有り。」(「老子」三十八章)
私たちは未だ決して上徳の人ではありません。
しかし下徳の人です。
いいえ下徳の人と思わなければなりません。
その思いによって上徳の人にも成れるのですから。
徳とは愛の事です。
イエスの言葉を借りれば隣人愛です。
愛の達人と成る為には愛の実践が必要です。
その為にも恍惚が必要なのです。
恍惚とは、無私、無心等々に在る時のその人の心持の事でしたよね。
これをこの世の中に在る時も常に持ち続ける事なのです。
そうすれば「習い性と成る」で、この恍惚の状態が皆様の性と成るのです。
そう成った時、皆様は愛の達人と成るのです。
老子の言葉で言えば、上徳の人と成るのです。
その時には、「無為にして而も為さざる無し」と言う事にもなるのです。
これは心と行為が一緒に成ったと言う事を意味しています。
これは孔子の言う「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」(「論語」)と同じ意味です。
私たちは未だ下徳の人です。
しかし私たちは哲学者(智慧を愛する者)です。
私たちは智慧の意味を知っています。
私たちが智慧を愛し続けて行けば、私たちもきっと上徳の人に成れるのです。
しかし哲学を覚えたからと言って直ぐに上徳の人に成れる訳ではありません。
私たちが上徳の人に成れるのは、私たちの性が「習い性と成る」により恍惚に成った時です。
そこに至るまでには十年、二十年、三十年あるいは五十五年かかるのかも知れません。
何故なら孔子でさえ五十五年かかったのですから。
もし皆様がこの世に在る時も恍惚で在り続けられたら、その時が皆様が上徳の人に成った時です。
その時は皆様自身が愛であり、皆様が行う行為もまた全て愛となるのです。
その愛の実践においては、「敢えて天下の先と為らず」と言う事が必要なのです。
「功遂げて身退くは、天の道なり」
これが愛の道です。
もし皆様がそこに居続けたら、
「生じて有せず」
「為して恃まず」
「長じて宰せず」
「積まず」
「其れ唯争わず」
「利して害せず」
「為して争わず」
「自ら見ず」
「自ら是とせず」
「自ら伐(ほこ)らず」
「自ら矜(ほこ)らず」
「自らを知りて自らを見(しめ)さず」
「自らを愛して自らを貴ばず。」
「其の賢(まさ)れるを見(あら)わすを欲せず」
「方なるも而も割かず」
「廉なるも而も劌(そこ)なわず」
「直なるも而も肆(し)ならず」
「光あるも而も耀かず」と言う事ができなくなるのです。
「子の曰く、巧言令色、鮮(すく)なし仁」(「論語」)
何故「功遂げて身退くは、天の道なり」なのか。
それは皆様がこの世に在っても、恍惚で在り続ける為です。
私たちはこの世に在って、何かを為す時には、一時恍惚から離れなければいけません。
もし皆様が何かを為し続けていたら、皆様はこの世に在って、恍惚で在り続けられません。
だから「功遂げて身退く」事が大切なのです。
皆様が恍惚で在ってこそ、全ての事に対応できるのです。
この世の出来事は、全て小さな出来事の積み重ねです。
その一つ一つの出来事に、皆様が恍惚を以て望めば、皆様の周りにはより大きな愛が生れる事になるのです。
その為にも、功遂げたら、瞬時に退く事が大切なのです。
そこに皆様の大きな愛が展開される事になるのです。
「是を以て聖人は、終に大を為さず。
故に能く其の大を為す。」(「老子」六十三章)
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)
皆様は先ず第一の掟を守らなければならないのです。
その掟とは智慧の根源としての智慧を愛する事。
その結果が恍惚(至福)です。
もし皆様が恍惚(至福)であれば、第二の掟はいとも容易くなるのです。
何故なら、第二の掟とは、その恍惚(至福)の状態から発せらる智慧(愛)に従う事なのですから。
しかし皆様が第一の掟を守らなければ、皆様の愛は偽善となります。
何故なら、恍惚、至福等々、それらに類するものをその相手に求めるようになるからです。
しかしそれらは決して得られる事はありません。
得られても、それはほんの一時の事。
何故か。
何故なら、恍惚とは智慧の根源としての智慧を愛する事から生まれるものだからです。
愛の人は、哲学者(智慧を愛する者)でなくてならないのです。
イエス、ブッダ、ソクラテス、孔子等々、
愛の達人たちを見てください。
彼らは皆哲学者、すなわち智慧を愛する人です。
彼らは智慧を愛して愛し抜いて、その恍惚(至福)へと達したのです。
彼らはその恍惚(至福)を分かち合いたくて、この世に出て行ったのです。
そしてそこで彼らが守った事が、
「慈」であり、「倹」であり、「敢えて天下の先と為らず」だったのです。
彼らの愛の軌跡の一つ一つ確認して見てください。
一寸も違わない筈です。
彼らと老子は皆一緒です。
そして皆様とも一緒なのです。
さてそろそろ老子を締めたいと思いますが、
老子の教えは如何でしたか。
老子の教えを一言で言えば『恍惚』ですね。
これにすっかりやられてしまいましたね。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)
これが古今東西の聖人賢人の教えであり、老子の教えでもあるのですが、
老子の教えはそこに『恍惚』が貫かれているのです。
智慧の根源としての智慧を愛する時も『恍惚』、
智慧の根源としての智慧から発せられる智慧に従う時、すなわち愛の実践においても『恍惚』、
老子においては、全てにおいて『恍惚』が貫かれているのです。
これが老子の人気のある理由です。
「良知は、是れ、造化の聖霊なり。(中略)人、若し、他(かれ)に復し、完完全全にして、少しの虧欠無くんば、自らの、手の舞、足の踏むを覚えざらん。知らず、天地の間、更に、何の楽しみの代わる可(べ)き有らん。」(「伝習録」)
智慧の根源としての智慧を愛する時に『恍惚』と言う事については、かなり多くの人が体感していると思いますが、
愛の実践において『恍惚』と言う事については、中々に難しい事です。
しかし実践あるのみです。
「習い性と成る」
その性が皆様の性と成った時、皆様は愛の達人と成るのです。
その時は、「自らの、手の舞、足の踏むを覚えざらん」と言う事にも成るのです。
愛の実践において、『恍惚』を保持して見てください。
そうすれば、きっと愛の実相が見えて来る筈です。
「あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら、そのことがわたしを守ってくれるでしょう。」)(「詩篇」)
「わたしは主に無垢であろうとし、罪から身を守る。」(「詩篇」)
さて次はソクラテス=プラトンです。
ソクラテスは、紀元前四六九年から紀元前三九九年まで生きた人ですが、彼は一冊の著書も残していません。
彼の言行は全てプラトンによるものです。
クセノフォーンもソクラテスの言行を記録していますが、今回は取り上げない事にします。
何故なら、私たちがソクラテスを知るのは、そのほとんどがプラトンの著作によるからです。
ソクラテスが亡くなった時、プラトンは二十七歳です。
多感な青年時代に、プラトンがソクラテスから多大な影響を受けた事は間違いありません。
しかし、プラトンがソクラテスの言行を著書として現したのは、それから更に何十年もかけてです。
その間にプラトンも様々な経験をしています。
ですから、プラトンの著すソクラテスについては、プラトンの思想の影響をかなり強く受けている事になります。
ですから、敢えて、ソクラテス=プラトンと表記することにします。
このソクラテス=プラトンから私たちが学ぶ事とは何か。
それこそが正に哲学です。すなわち智慧を愛する事なのです。
「哲学とはphilosophia、智慧を愛する事」と、この著作においても何度も書き著していますが、その原点はこのソクラテス=プラトンにあるのです。
プラトンの書き著すソクラテスは、哲学すなわち智慧を愛すると言う武器を持って、実に人生の様々な問題に取り組みました。
そしてそれら全てを実に掴み取ったとかのように思われたのでしたが、しかしどれもこれもその寸前の所で取り逃がしています。
何故か、それは善の実相(イデア)をこの世で掴み取る事ができなかったからです。
そして、この善の実相をこの世で掴み取ったのがイエスと言う事になるのです。
「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである。」
もし皆様が智慧と言う視点でソクラテス=プラトンを読んで行けば、その底流にイエスとの深い関係を読み解く事ができると思います。
前置きはこれ位にして、ソクラテス=プラトンの智慧と題して、プラトンの著すソクラテスの智慧を見て行きたいと思います。
最初の話題は善の実相(イデア)です。
「第九章 ソクラテス=プラトンの智慧」へ