第九章 ソクラテス=プラトンの知恵
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「『それでは、このように、認識される対象には真理性を提供し、認識する主体には認識機能を提供するものこそが、善の実相(イデア)にほかならないのだと、確言してくれたまえ。それは知識と真理の原因なのであって、たしかにそれ自身認識の対象となるものと考えなければならないが、しかし認識と真理はどちらもかくも美しいものではあるけれども、善はこの両者とは別のものであり、これよりもさらに美しいものと考えてこそ、君の考えは正しいことになるだろう。これに対して知識と真理とは、ちょうど先の場合に、光と視覚を太陽ににたものとみなすのは正しいけれども、それがそのまま太陽で在ると考えるのは正しくなかったのと同じように、この場合も、この両者を善に似たものとみなすのは正しいけれども、しかし両者のどちらかでも、これをそのまま善にほかならないと考えるのは正しくないのであって、善のあり方はもっと貴重なものとしなければならないのだ』
『あなたのお話ですと、それはまことに、はかりしれぬ美しさのものですね』と彼は言った、『知識と真理を提供するものでありながら、それ自身は美しさにおいてそれらを越えるものだとすれば。よもやあなたは、それによって快楽のことをおっしゃっているわけではないでしょうからね』
『言葉を慎みたまえ!』とぼくは言った、『それよりも次のようにして、それの似像となるものの考察を、さらに一歩進めてもらいたいのだ』
『どのようにしてですか?』
『ぼくの思うには、太陽は、見られる事物に対して、ただ見られるというはたらきを与えるだけではなく、さらに、それらを生成させ、成長させ、養い育むものでもあると、君は言うだろう――ただし、それ自身がそのまま生成ではないけれども』
『ええ、むろん生成ではありません』
『それなら同様にして、認識の対象となるもろもろのものにとって、さらに、あるということ・その実在性もまた、善によってこそ、それらのものにそなわるようになるのだと言わなければならない――ただし、善は実在とそのまま同じではなく、位においても力においても、その実在のさらにかなたに超越してあるのだが』」(プラトン「国家」六巻一九:六一頁)
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「ただし、これが真実にまさしくこのとおりであるかどうかということは、神だけが知りたおうところだろう。とにかくしかし、このぼくに思われるとおりのことといえば、それはこうなのだ――知的世界には、最後にかろうじて見てとられるものとして、善の実相(イデア)がある。いったんこれが見てとれたならば、この善の実相こそはあらゆるものにとって、すべて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ、考えが至らなければならぬ。すなわちそれは、見られるものの世界においては、光と光の主を生み出し、思惟によって知られる世界においては、自ら主となって君臨しつつ、真実性と知性とを提供するものであるのだ、と。そして、公私いずれにおいても思慮ある行いをしようとする者は、この善の実相をこそ見なければならぬ、ということもね。」(プラトン「国家」七巻三:p102)
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「ひとりひとりの人間がもっているそのような機能と各人がそれによて学び知るところの器官とは、はじめから魂のなかに内在しているのであって、ただそれを――あたかも目を暗闇から光明へ転向させるには、身体の全体といっしょに転向させるのでなければ不可能であったように――魂の全体といっしょに生成流転する世界から一転させて、実在及び実在のうち最も光り輝くものを観ることに堪えうるようになるまで、導いていかなければならないのだ。そしてその最も光輝くものというのは、われわれの主張では善にほかならぬ。そうではないか?」(プラトン「国家」七巻四:一〇三頁)
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善の実相(イデア)こそ、古今東西の聖人賢人哲人たちが求め続けて来たそれです。
皆様はこれまでに古今東西の聖人賢人哲人たちにそれを見て来ましたから、それについてはある程度想像がつきますよね。
それではこれまで見て来た聖人賢人哲人たちにおいて、それを整理する事としましよう。
ソロモンはそれを何と呼んでいたでしょうか。神であり、主であり、知恵でしたね。
ダビデは神であり、主でしたね。
イエスは神であり、主であり、父でしたね。
ブッダは真般若や空や無心やニルヴァーナでしたね。
孔子は仁であり、大学ではそれを至善と呼び、中庸ではそれを中とも呼んでいましたね。
王陽明は良知でしたね。
老子は道でしたね。
そして私はそれを智慧の根源としての智慧と呼んでいるのです。
所変われば名も変わる。
またどの側面から見るかによっても名は変わります。
しかしその本質は一緒です。
それによって、私たち人間は一緒なのです。
私たちが理想を求める時、臨在するそれがそれです。
所でそれ、
ソクラテス=プラトンはそれを善の実相と呼んでいますが
それは何処に在るのでしょうか。
山の彼方にでも在るのでしょうか。
そうでは有りませんね。
自分自身の中にこそ在るのですね。
プラトン=ソクラテスはそれを一生涯をかけて追い続けましたが、結局それを掴む事はできませんでした。
何故でしょう。
それは智慧の根源としての智慧から発せられる智慧を追い続け過ぎた為です。
ソクラテス=プラトンのあの膨大な著書群を見て下さい。
私は読み返す気にはなれません。
ソクラテス=プラトンは智慧の根源として智慧から発せられる智慧を追い求め続けました。
最後の最後まで。
その為、結局智慧の根源としての智慧を掴む事ができなかったのです。
智慧の根源としての智慧は、そこに在るのに、結局それに気付かなかったのです。
何故か、それはあまりにも学が有り過ぎたからです。
「そのとき、イエスはこう言われた。
『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。
これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりまし
た。
そうです、父よ、これを御心に適うことでした。
すべてのことは父からわたしに任せられています。
父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかには父を知る者はいません。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』」(「マタイ福音書」)
ソクラテス=プラトンの教えを忠実に守っても決して安らぎを得る事はできません。
何故か。
それは最後の最後まで、智慧の根源としての智慧から発せられる智慧を追い求め続けなければならないからです。
そこには完全な安らぎはありません。
その行為を止めた時、そこに完全な安らぎとしての智慧の根源としての智慧が存在しているのです。
『恍惚』、老子から学びましたよね。
それからもう一つ
ソクラテス=プラトンが最後まで智慧の根源としての智慧から発せられる智慧を追い求め続けた理由、
それは完全な安らぎは死後にしか得られないと言う信念を持っていたからです。
かの世で完全な安らぎを得る為にも、
この世においては最後の最後まで智慧の根源として智慧のから発せられる智慧を追い求め続けなければならないと言う信念を持っていたからに他なりません。
それを「パイドン」に見る事ができます。
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「むしろそれとは反対に彼は今や美の大海に乗り出してこれを眺めながら、限り無い愛智心(フィロソフィア)から、多くの美しく崇高な言説と思想とを生み出し、ついにはこれによって力を増しかつ成熟して、これから私が述べようとしているような美へと向うある唯一無類の認識を観ずるまでになることが必要なのです。
で、どうかこの先は、できるだけよく注意して私の話を聴いてください。
さて順序を追うて正しい仕方でさまざまな美しいものを観つつ、愛の道についてここまで教導を受けてきた者は、今やようやく愛の道の極致に近づくとき、突如として一種驚嘆すべき性質の美を観得するでしょう。
それこそソクラテス、今までのあらゆる労苦も皆そのためのものであったところの彼(あ)のものなのです。」(プラトン「饗宴」:一二三頁)
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「生がここまで到達してこそ、親愛なるソクラテスよ、美そのものを観るに至ってこそ、人生は生甲斐があるのです、いやしくもどこかで生甲斐があるのならば。」(プラトン「饗宴:一二三頁)
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所でこの美の極致、愛の極致すなわち善の実相を、
ソクラテス=プラトンは掴み取る事ができたのでしょうか。
その答えはノーです。
ソクラテス=プラトンは女教師ディオマティオに説得されたのです。
その教説があまりにも素晴らしかったので、それを信念としたのです。
そして智慧の根源としての智慧から発せられる智慧を追い求め続けたのです。
しかしその先には智慧の根源としての智慧は在りませんでした。
智慧の根源としての智慧、それはそれらの智慧を全部捨てた時に、そこに存在しているのです。
そうでなければ誰も善の実相(智慧の根源としての知恵)に辿り着く事はできません。
善の実相、すなわち善とはgood、God、GOD、神の事だからです。
神の概念は人類全ての一人一人に内在しているものです。
それはこの世を捨てればそこに存在しているのです。
ですからイエスの教えを受けた人々はそれを確信できたのです。
一方ソクラテス=プラトンの教えを受けた人々は未だにそれを確信できないでいるのです。
善の実相を最も簡単に教えてくれるのは「般若心経」だと思います。
善の実相は空なり。そこから皆様の素晴らしい世界を築けば良いのです。
「初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(「ヨハネ福音書一)
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「ファイドロスならびに他の諸君、このような事をディオマティオは話してくれたのであったが、私はそれに説得された。それで私は、今や自ら説得された以上、この宝を得るためには、人性にとってはエロス以上の好き助力者を見出すことは容易でないということを他の人々にも納得させるように努めるつもりである。それだからこそ私はあえて主張するのである、人は皆エロスを尊重せねばならぬと、そして私自身も愛の道を尊び何よりも熱心に練習してもいるし、また他人にもそれを勧告している。で、また私は今もいつまでも、エロスの威力と勇気とを微力の及ぶかぎり賛美するのである。」(プラトン「饗宴」:一二三頁)
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エロスとは何か、それは智慧。
智慧には三つの概念があります。
一つ目は智慧の根源としての智慧。
二つ目は智慧の根源としての智慧から発せられる智慧。
三つ目は一つ目と二つ目を仲介する智慧です。
エロスとはこの三つ目の智慧、すなわち仲介する智慧の事なのです。
さてそれではここから「パイドン」において、ソクラテス=プラトンの智慧の概念、哲学の概念を見て行きたいと思います。
哲学とはphilosophia、智慧を愛する事。
ソクラテス=プラトンはその純粋な智慧については、死後でしかお目にかかれないと言う信念を持っています。
しかし私はそうではありません。
私に取って智慧とは、この世において最高の喜びを齎してくれる存在です。
その点が私とソクラテス=プラトンと異なります。
しかしそれ以外は全く一緒です。
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「何故なら、僕は、哲学こそ最高の文芸(ムーシケー)であり、僕はそれをしているのだ、と考えていたからである。」(プラトン「パイドン」四)
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哲学とは最高の文芸である。
哲学とは最高の芸術である。
哲学とは、皆様誰もができる最高の芸術です。
哲学とは皆様自身を最高に美しく表現する事なのです。
その思いにより、その言葉により、その仕草・行為により。
それは自分自身の為にする事ですが、
それは周りの人をも魅了するのです。
これまでの最高の芸術は何か。
それはイエスの存在であり、ブッダの存在でしょう。
イエスのあの美しさを見て下さい。
まるで神の様です。
ブッダのあの美しさを見て下さい。
まるで仏の様です。
神、仏、云々、
これこそが芸術の真髄です。
ここから詩や絵や音楽や踊りが生れて来るのです。
神、仏、云々とは何か。
それは智慧の根源としての智慧の事です。
それは無で有り、無限ですが、究極においては無です。
その無に皆様の美しさを投影する事、それが芸術です。
もし皆様が鉛筆も絵筆もピアノも無いと言われるのなら、皆様自身の美しさをそのままにそこに投影すれば良いのです。
それこそが皆様に取っての最高の芸術です。
尤も皆様は紙と鉛筆くらいは持っていますよね。
それを使って皆様自身の美しさを表現して見て下さい。
それは皆様を更に美しくします。
美に美を重ねて行くと、何時しか善の実相に出会う。
「饗宴」のソクラテス=プラトンはそのように言っています。
智慧の根源として智慧から発せられる智慧に従う事、それが最高の芸術です。
それは愛の事でもあります。
ですから最高の芸術とは『愛』そのものの事なのです。
ソクラテス=プラトンは、愛そのものを実践していたのです。
イエスもブッダも孔子もその他諸々の聖人も。
彼らは最高の芸術だったのです。その模倣としての言行録も勿論最高の芸術です。
さてそれでは、ここからは「パイドン」におけるソクラテス=プラトンの哲学論です。
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「真に哲学にたずさわる人たちは、ただひたすら死ぬこと、死を全うすることを目指しているのだけれど、ほかの人々はおそらく、これに気づいていないのだろう。」(プラトン「パイドン」:九
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「真の哲学者たちの心には次のような考えが浮かび、おたがいにこんなふうに話し合うにちがいない。
(中略)
何かを純粋に見ようとするなら、ものそのものを見なければならぬということは、われわれには明白な事実なのだ。そしておもうに、そのときにこそ、われわれが求めあこがれている知恵が、われわれのものになりうるのだ。ぼくたちの議論が示すように、それは死んでからであって、生きているうちには不可能なのだ。なぜなら、肉体とともにあっては何ごとをも純粋にとらえることができないとすれば、残るところは二つに一つ、つまり、決して知に到達しえないか、あるいは死後になってから到達できるかではないか。死んではじめて、魂は肉体から離れ、純粋に魂だけになるが、それまでは不可能なのだから。そして生きているあいだは、つぎのようにすれば、知に最も近づきうるだろうと思う。すなわち、どうしえもやむをえないばあい以外はできるだけ肉体と交わったり協同したりすることを避け、肉体の本性に染まらず、清浄であるようにつとめ、神ご自身がわれわれを解き放してくださるのを待つことだ。こうして、肉体の愚かさから離れて清浄であれば、われわれは、おそらく同じように汚れていない人々ともにあり、われわれ自身をとおして汚れのない真実を知るにいたるだろう。清浄でないものが清浄なものに触れることはゆるされないことだから。
シミアス、真に学ぶことを愛する人たちはきっと、みんな、たがいにこんなふうに語り合い、また考えるにちがいないと僕は思う。君にはそう思えないかね。」(プラトン「パイドン」:一一
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「真の哲学者は死ぬことを心がけている者であり、彼らが誰よりも死を恐れないということは、ほんとうなのだ。こいうふうに考えみたまえ。もし、彼らがつねに肉体とあらそい、魂を魂だけにしたいと願っておきながら、それがいざ実現するとなると、恐れたり嘆いたりするとしたら、ずいぶん不合理ではないか。そこに行けば、生涯恋してきたのである知恵が手に入り、あらそいつづけてきた相手といっしょにいることから解放されるという希望があるのに、そこへ行くのをよろこばないとはね。対象が人間であるばあいには、つまり、恋人や妻や息子たちに死なれたばあいには、あの世で求める人にめぐり会い、いっしょになれると希望にかられて、そのあとを追い、自分からハデスにおもうことうとした人は多い。ところが真に知恵を愛し、ハデスにおいて、しかも、そこにおいてのみ、知恵に正々堂々と会えるという、同じ希望をもっている人が、死にのぞんで嘆き、あの世へ行くのを喜ばないなんてありうることだろうか。なぜなら、あの世以外のところでは決して純粋な知恵に到達しえぬことを、彼は確信しているのだから。もしいま述べたことが事実なら、哲学者が死を恐れるとは、ずいぶんおかしなことではないか。」(プラトン「パイドン」:一二)
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「魂が清浄な状態で肉体を離れる場合を考えてみよう。この魂は肉体的なものは何一つ、ひきずっていない。これは、魂が一生のあいだ、自分からすすんで肉体と協同したことはなく、肉体を避けて、自分自身に集中してきたからであり、このことをいつも練習してきたからである。これこそ、真に哲学することであり、真の意味で平然と死ぬことを練習することにほかならない。それとも、これは死の練習とは言えないだろうか。」(プラトン「パイドン」:二九)
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「神々の種族へは、哲学を学んで、まったく浄らかなさまで世を去った者以外は、入ることを許されない。学を愛する者のみがそれを許されている。このゆえにこそ、シミアスとケベス、真の哲学者たちはすべての肉体的欲望から離れ、かたく身をまもって、それらの欲望のおもむくままにはならないのであって、財を愛する人たちのように財産をなくして貧乏になることを恐れるゆえにではない。また、彼らは、権力や名誉を愛する人たちのように悪しき生活にともなう不名誉や不評判を恐れるゆえにそれから離れているのでもない。」(プラトン「パイドン」:三二)
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「彼ら自身のうち、とくに哲学によってじゅうぶんに身を浄めた人たちは、以後はまったく肉体なしに生き、ほかの人たちよりもいっそう美しい住家いたるのだ。その住家がどのようなものであるかを明らかにすることは、容易なことではないし、いまはもう、その時間もない。しかし、いままで述べてきたようなわけで、シミアス、われわれはこの人生において、徳と知恵とにあずかるために、できるだけのことをしなければならないのだ。なぜなら、報われるところはすばらしく、希望には大なるものがあるのだから。」(プラトン「パイドン」:六二)
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哲学とはphilosophia、智慧を愛する事。
ソクラテス=プラトンが智慧を如何に考えていたかが良く分かると思います。
ソクラテス=プラトンは、純粋な知恵については、死後にしかお目にかかれないと考えているのです。
何故か。
それは魂の不死を信じていたからです。
輪廻転生、復活、それを信じていたからです。
輪廻転生、復活、それは譬えとしてはとても素晴らしいものです。
しかしそれを事実として理解せよと言われても、それは理解する事のできないものです。
それは信仰の世界です。
しかしソクラテス=プラトンはそれを理路整然と説明しようとしたのです。
そこにソクラテス=プラトンの限界があったのです。
イエスは復活と言う言葉を使っていますが、それは暗喩の中です。
私たちは暗喩の中にそれを比喩として捉える事もできます。
そこに私たちの智慧が働く事もできるのです。
「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』とあるではないか。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(「マタイ福音書」)
素晴らしい言葉です。
死して生きる、
この事を見事に言い表しています。
もし皆様がこの世に完全に死んで、そして生き返ってみて下さい。
そうすれば皆様は感じる筈です。
私は天使かと?
そしてそこに皆様は神様を身近に感じる事ができるのです。
この死とは実際の死ではありません。
この世を完全に捨て去る事です。
そしてそこから、純粋に考える私に蘇った時、その時こそ皆様は天使のようになるのです。
そこに在るのは神々の世界です。「What a wndefull world」なのです。
死して生きる。
十字架によるこの世の封印。そしてキリスト(智慧)の蘇り。
「荀(まこと)に日に新たに、日々新たに、又日に新たなり」(「大学」)
これこそが哲学の道だと思います。
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「浄化(カタルシス)とは、さっきから論じられてきたように、魂をできるだけ肉体からきり離し、そして、魂が肉体のあらゆる部分から自分自身へと集中し、結集して、いわば肉体の縛めから解放され、現在も、未来も、できるだけ純粋に自分だけになって生きるように魂を習慣づけることを意味するのではないか」(プラトン「パイドン」:一二)
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「そして、われわれの言うところでは、魂の解放を最も熱望するのが真の哲学者であり、と言うよりも、彼らのみがそれを熱望するものであり、哲学者の仕事とはまさにそのこと、すなわち、魂の肉体からの解放にほかならない。そうではないか。」(プラトン「パイドン」:一二)
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「肉体のことだけに気をとられていないで、自分自身の魂のことを少しでも心にかかえて生きる人たちは、いま述べてきたような人たちのすべてに別れを告げるのだ。彼らは、自分たちがどこへ行くのかわかっていないような人たちとはたもとを分かち、みずから、哲学に反することはなずべきでないと、哲学の与える解放と浄化(カタルシス)に反することはなすべきでないという信念のもとに、哲学にしたがい、哲学の導くままに進んで行くのだ。」(プラトン「パイドン」:三二)
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哲学とは魂の肉体からの解放。カタルシス(浄化)。
正にその通りです。。
それについては、死後で無く、この世で行うべき事。
魂の肉体からの解放、カタルシス(浄化)の先には何が在るのでしょう。
そうですね。
この世の最高の快楽、『恍惚』が在るのでしたね。
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「こんなふうに、快楽と快楽、苦痛と苦痛、恐怖と恐怖を、まるで貨幣でもあるかのように、大きいのと小さいのを交換するのは、徳を得るための正しい交換とは言えないだろう。そうではなくて、われわれがこれらすべてをそれを交換すべきただ一つの真正な貨幣があるだろう。知恵こそ、それなのだ。そして、もしすべてがそれを得るために、あるいは、それを用いて売買されるなら、そのときこそ真の勇気、節制、正義、一言にしていえば真の徳が存在するのだ。真の徳は知恵を伴うのであて、快楽、恐怖、その他、すべて、そういうものが加わろうが、とり去られれようが、それは問題ではない。しかしこれらが、知恵からきり離されて、相互のあいだで交換されるなら、そのような徳は、いわばまさに絵に描いた餅にすぎないのであり、まさに奴隷の徳であり、なんらの健全さ真実も含まないであろう。真の徳とは、節制であり、正義であり、勇気であれ、すべて、そのような情念からの、まさに浄化(カタルシス)であって、知恵こそこの浄めの役を果たすのではないか。』(プラトン「パイドン」:一二)
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智慧こそが浄め(カタルシス)の役を果たす。
これは古今東西の聖人賢人哲人たちが異口同音に言っている事です。
何故なら、智慧を愛し抜いて行けばその先に無垢と言う神(智慧の根源としての智慧)が存在するのですから。
智慧こそが徳の基準(スタンダード)。
これも古今東西の聖人賢人哲人たちが異口同音に言っている事です。
何故なら徳とは、智慧の根源としての智慧から発せられる智慧、すなわち愛の事なのでから。
「君子の学は、以って、己の為にす。
未だ嘗て、人の己を欺くを、慮(おもんばか)らざるなり。恒に、自ら、其の良知を欺かざるのみ。
未だ嘗て、人の己に信ならざるを、慮(おもんばか)らざるなり。恒に、自ら、其の良知に信なるのみ。
未だ嘗て、先ず人の詐と不信とを、覚る求めざるなり。恒に、自ら、其の良知を覚らんことを務むるのみ。
是の故に、欺かざれば、則ち、良知、偽る所無くして、誠なり。誠なれば、則ち、明らかなり。
自ら信なれば、則ち、良知、惑う所無くして、明らかなり。明らかなれば、則ち、誠なり。
明誠、相生ず。
是の故に、良知は、常に覚り、常に照らす。」(「伝習録」)
良知(智慧=聖霊)を欺かず、
良知(智慧=聖霊)を信じ、
良知(智慧=聖霊)を覚る。
そうすれば良知(智慧の根源としての智慧=神)は常に皆様を照らしてくれるのです。
良知こそ、徳の基準(スタンダード)です。
決して人を基準にしてはならないのです。
所で智慧とは何でしょう。
そこには三つの概念があります。
一つは智慧の根源としての智慧です。これが俗に言う神の事です。
二つ目は智慧の根源としての智慧から発せられる智慧です。これが俗に言う愛の事です。
三つ目は前の二つの智慧を仲介する智慧です。これが俗に言う聖霊の事です。
なお、世間一般的には三番目の智慧を智慧と呼んでいます。
この三番目の智慧をソクラテス=プラトンがどのように言っているか見て行く事にしましよう。
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「ところが、魂が純粋に自分だけで何かを考察する場合には、魂は、あの純粋で永遠で不死で不変な存在へとおもむき、そして、そのような存在と同族であるがゆえに、常にそれとともにあるのではないか、魂が純粋に自分だけとなり、そうなるのが可能であるかぎりはね。そして魂は、もはや、さまようことをやめ、あの真実在との関係にあってはつねに同一不変な状態を保つのではないか。なぜなら魂は、まさにそのような存在に触れているのだから。で、魂のこの体験こそ知恵と呼ばれるものではないか。」(プラトン「パイドン」:二七)
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「『ではエロスとはいったい何でしょう?滅ぶべき者なのですか、』と私は聞いた。
『けっしてそんなことはありません。』
『ではいったい何ですか。』
『さっきもいったように、滅ぶべき者と滅びざる者との中間に在る者なのです。』
『では何ですか、ディオマティオよ。』
『偉大な神霊(ダイモーン)なのです、ソクラテスよ。なぜなら、すべて神霊的な者は神的な者と滅ぶべき者との中間に在るのですから。』
『ではどんな能力を持っているのですか?』と私は訊いた。
『それは、人間から出たことを神々へ、また神々から来たことを人間へ通訳し伝達する です。すなわち一方からは祈願と犠牲を、他方からは命令と報償とを。それはまた両者の中間に介在してその間隔を充たします。その結果万有は結合され完き統一体となるのです。あらゆる卜占も、犠牲や密議や巫術やその他すべて予言や魔術に携わる僧侶の技術もまたこの神霊の仲介を経て行われるのです。ところで神は人間と直接交わるようなことはありません。むしろ神々と人間との間の交通と対話とは――覚醒中であれ、睡眠中であれ――すべてこの神霊を通じて行われるのです。』」(プラトン「饗宴」:一〇七頁)
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「ところがエロスとは美を求める愛なのです。そうするとエロスは必然愛智者であるということになり、また愛智者として智者と無知者との中間に位する者となる訳です。」(プラトン「饗宴」:一〇九頁)
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「真実はといえば、どうやら、正義とは、たしかに何かそれに類するものではあるけれども、しかし自分の仕事をするといっても外的な行為にかかわるものではなくて、内的な行為にかかわるものであり、本当の意味での自己自身と自己自身の仕事にかかわるものであるようだ。すなわち、自分の内なるそれぞれのものにそれ自身の仕事でないことをするのを許さず、魂の中にある種族に互いに余計な手出しをすることも許さないで、真に自分の固有のことを整え、自分で自分を支配し、秩序づけ、自己自身と親しい友となり、三つあるそれらの部分を、いわばちょうど音階の調和をかたちづくる高音・中音・低音の三つの音のように調和させ、さらに、もしそれらの間に別の何か中間的なものがあればそのすべ
てを結び合わせ、多くのものであることをやめて節制と調和を堅持した完全な意味での一人の人間になりきって――かくてそのうえで、もし何かをする必要があれば、はじめて行為に出るということになるのだ。それは金銭の獲得に関することでも、身体の世話に関することでも、あるいはまた何か政治のことでも、私的な取引のことでもよいが、すべてそうしたことを行うにあたって、いま言ったような魂の状態を保全するような、またはそれをつくり出すのに役に立つような行為をこそ、正しく美しい行為と考えてそう呼び、そしてまさにそのような行為を監督指導する知識のことを知恵と考えてそう呼ぶわけだ。」(プラトン「国家」4巻:三二八頁)
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聖霊とも、神霊とも、ダイモーンとも、「あなたの神である主」とも、知恵とも呼ばれる智慧、
その智慧とは如何なる存在なのか。
それは皆様に取っての最高の教師なのです。
その教師は皆様を「本当の自分自身」に招き入れてくれるのです。
そしてその「本当の自分自身」の事を神と呼んでも差し支えないのです。
何故なら、神とはその本当の自分自身が思い描く最高の存在者の事なのですから。
「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』とあるではないか。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(「マタイ福音書」)
所で、皆様には神を思い描く力がどれだけありますか。
この現代日本においては、その力が極端に低くなっているように思えます。
その為に私は「哲学国家 日本」を提唱しているのです。
「哲学国家 日本」とは、国民一人一人が智慧を愛する事に依って、実現して行く国家の事です。
人は智慧を愛すれば愛するほど理想に燃えます。
その理想と現実の狭間を埋める。
それもまた哲学者(智慧を愛する者)の仕事です。
国民一人一人が哲学者に成る事に依って実現して行く国家、それが「哲学国家 日本」です。
それでは哲学が皆様にどのような事をして呉れるのか、ソクラテス=プラトンに見て行く事にしましよう。
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「学を愛する人たちは、次のことに気づくのだ。哲学が自分たちの魂をあずかろうとするばあい、魂はどうしようもないほどに肉体に縛りつけられ、膠着させられてしまっており、事物を考察するにも、まるで牢獄の格子をとおしてのように、肉体をとおして見ることを余儀なくされ、自分たちだけでは自由に見ることができずに、そのため、まったく無知のなかに落ちこんでいるということに。そして哲学は、この肉体という牢獄の巧妙さを知っているのだということにね。この牢獄は人間の肉体的欲望を利用することによって、とらわれている者自身がすすんで自分を束縛することに、できるだけ協力するような仕組みになっているのだ。こうしてぼくの言うように、学を愛する人たちは気づくのだ、哲学こそはそのような状態にある自分たちの魂をとりあげて、やさしく慰め、その解放に努力してくれるものだということに。哲学は、肉眼による考察も、耳も他の感覚による考察も、すべて偽りにみちたものであることを示して、どうしてもそれらの感覚を使わなくてならないばあいは以外はそれらから離れているようにと説得する。そして、魂が自分自身に集中し、沈潜して、自分自身以外の何ものも信頼せず、純粋に自分自身で純粋な「そのもの」を直観したときにだけこれを信じて、これに反してさまざまな事物のなかにあって異なった形をとるものを、自分以外のものを用いて考察するばあいには、そのような対象をけっして真実なものであるとしてはならぬ、そのようなものは感覚的な可視的なものであり、それに対し、魂が自分だけで見るものが叡智的な不可視的なものだと、教えてくれる。こうして真の哲学者の魂は、このような解放に対してけっして反対すべきではないと考え、そのゆえに、快楽や欲望や苦痛からできるかぎり離れるのだ。」(プラトン「パイドン」:三三)
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「哲学者の魂は、いま述べたように考えるに相違ない。そして、魂の解放こそ哲学の仕事であるのに、その解放のさなかに自分を勝手に快楽や苦痛にゆだねてもう一度肉体に縛りつけ、せっかく織った布をまたほどくペネロペのように、実りなき仕事をしなければならぬなどとは、考えないだろう。いや、そういった情念にわずらわされない平和を得、思惟にしたがってつねにそのなかに休らい、真実なもの、神的なもの、たんなる憶測の対象でないものを見、それに養われて生きているかぎりこのように生きなければぬと考えるのだ。」(プラトン「パイドン」:三四)
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哲学、それは皆様を慰め、そして皆様を平安に導いて呉れるのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(「マタイ福音書」)
安らぎ、それは皆様が本当の自分自身に成った時に齎されるものなのです。
その時の気持ちが如何なるものなのか
老子はそれに対して『恍惚』と言う答えを呉れましたよね。
さてそれではソクラテス=プラトンはそれに対して、私たちにどのような答えを呉れるのか、
最大の関心を持って見て行く事にしましよう。
何故なら快楽こそが私たちを駆り立てるのですから。
そしてその快楽により自分が幸せになり、
そして隣人も幸せになるのなら、
これよりも素晴らしい事は無いでしょうから。
私の提唱する「哲学国家 日本」もこの快楽が無ければ、決して実現し得ないのです。
さてそれでは。
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「真実在の観得がどのような楽しみをもたらすかということは、知を愛する人をのぞいて、他の誰も味わうことができません。」(プラトン「国家」九巻八:二七二頁)
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「知を愛する人間は、真理がいかにあるかを知ることの快楽や、学びながらつねいそのような営為のうちにあることの快楽に比べて、その他の快楽をどのように評価するとわれわれは考えるべきだろうか。はるかにかけ隔たったとみなすのではなかろうか?」(プラトン「国家」九巻七:二六九頁)
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「魂の全体が知を愛する部分の導きに従っていて、そこに内部分裂がないような場合には、それぞれの部分は、一般的に他の事柄に関しても、自己自身の仕事と任務を果たしつつ、正しくあることができるとともに、とくに快楽に関しても、それぞれが自己の本来の快楽、最も優れた快楽、そして可能のかぎりで最も真実な快楽を享受することができるのだ。」(プラトン「国家」九巻一〇:二八六頁)
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「自分の本性に適したものによって満たされることが快であるとするならば、より本当の意味で満たされ、そしてよりすぐれて存在するものによって満たされるものは、より本当の意味で、またより真実の仕方で、われわれに真実の快楽を楽しませるのだということに
なる。」(プラトン「国家」九巻一〇:二八三頁)
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「したがって、思慮(知)と徳に縁のない者たち、にぎやかな宴やそれに類する享楽につねになじんでいる者たち、彼らはどうやら、<下>へ運ばれてはまたふたたび<中>のところまではこばれると言うようにして、生涯を通じてそのあたりをさまよいつづけるもののようだ。彼らはけっして、その領域を超えて真実の<上>のほうを仰ぎ見たことも無ければ、実際にそこまで運び上げられたこともなく、また真の存在によって満たされたこともなく、確実で純粋な快楽を味わったこともない。むしろ家畜たちがするように、いつも目を下に向けて地面へ、食卓へとかがみこみ、餌をあさったり交尾をしたりしながら身を肥やしているのだ。そしてそういったものを他人より少しでも多くかち取ろうとして、鉄の角や蹄で蹴り合い突き合いしては、いつまでも満たされることのない欲望のために、互いに殺し合うのだ。ほかでもない、いくら満たそうとしても、彼らはほんとうに存在するものによって自分を満たすのではないし、また自己の内なる真に存在する部分、取り入れたものをしっかりともちこたえることのできる部分を満たすのでもないのだから。」(プラトン「国家」九巻八:二八四頁)
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「それでは、もし快楽の点で、善い人・正しい人が悪い人・不正な人に対してこれほどまでに勝っているとするならば、生活の気品と美しさと徳の点では、その勝利はさらに計り知れるほど大きなものとなるのではなかろうか。」(プラトン「国家」九巻一一:二八九頁)
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哲学、すなわち智慧を愛する事がこの世の最高の快楽である。
この事は古今東西の聖人賢人哲人たちが異口同音に言っている事です。
ソクラテス=プラトンも勿論そのように言っていますよね。
「最も優れた快楽」であるとか、「最も真実な快楽」であるとか、「確実で純粋な快楽」であるとか、「かけ隔った快楽」であるとか、
しかしそのように言われてもその快楽を実感する事は中々できませんよね。
その快楽の有様を私たちにリアルに再現して呉れたのが老子だったですね。
老子はそれを『恍惚』と言う言葉で表現して呉れましたよね。
恍惚なら私たちは実感できます。
それはこの世における最高の快楽です。
その快楽を哲学が齎して呉れる。
何と言う素晴らしい事でしょう。
私はその事を実感できます。
そして皆様以外の多くの方々も実感しています。
皆様方もどうか私たちと一緒にその快楽を実感する事といたしましょう。
その方法は簡単です。
智慧を愛する事なのです。
智慧を愛する事に依って、智慧に満たされる。
それが快楽です。
その智慧とは本当の自分自身の事です。
自分自身が本当の自分自身で満たされる、それが悦楽です。
「自分の本性に適したものによって満たされることが快であるとするならば、より本当の意味で満たされ、そしてよりすぐれて存在するものによって満たされるものは、より本当の意味で、またより真実の仕方で、われわれに真実の快楽を楽しませるのだということになる。」
「本当に存在するものによって自分を満たす。」
「本当に存在するもの」とは何でしょう。
本当の自分自身です。
本当の自分自身の事を智慧とも呼んでいるのです。
智慧にも三つの概念があったように、本当の自分自身にも三つの概念があります。
一つ目が神としての本当の自分自身の事であり、
二つ目が聖霊としての本当の自分自身の事であり、
三つ目が神の子・人の子として本当の自分自身の事です。
この三つが一緒に成った時、三位一体の神秘が起こるのです。
それがイエスです。
イエスは人の子であり、神の子。
その言葉に象徴されています。
私たち凡人にはけっしてそんな奇跡は起こりません。
ですから少し考え方を変えるのです。
本当の自分自身の事を神と言えば、自己撞着を起こします。
それでその本当の自分自身の事を様々なニックネームで呼ぶ事になるのです。
それについては、ソロモン、ダビデ、イエス、ブッダ、孔子、王陽明、老子において見て来ましたよね。
思い起こして頂きたいと思います。
次に聖霊としての本当の自分自身、聖霊=自分自身、そんな事も決して起こり得ません。
ですから私と聖霊とか、私と智慧とか、私と私の神である主とか、私と良知とか
そのような概念を立てる事になるのです。
なおここで言う『私』はとても大切な概念です。
ここで言う『私』とは、「我思う、故に我在り」と言う時の『私』の事ですが、これについてはまた後ほど述べたいと思います。
最後の神の子・人の子として本当の自分自身とは愛の人の事です。
智慧の根源として智慧から発せられる智慧に従う人の事です。
クリスチャンはイエスをその見本として倣う事になります。
仏教徒はブッダをその見本として倣う事になります。
神の子・仏の子として本当の自分自身、その言葉は受け入れても良いのではないでしょうか。
さて、最後に「我思う、故に我あり」の『私』について見て行く事にします。
「我思う、故に我在り」の『私』、
この『私』については、近代哲学の祖デカルトが言い始めたように言われていますが、そうではありません。
古今東西の聖人賢人哲人たちが異口同音に言っている事です。
何故ならこの『私』がいなければ、全ての宗教哲学が成り立たないからです。
と言うよりもこの『私』が存在しなければ、皆様自身が存在し得ないのです。
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「ともかくも、ぼくの新しいやり方は、こうなのだ。つまり、それぞれのばあいに、ぼくが最も確実だと判断するロゴスを前提にして、その前提と一致すると思われるものを真であるとし、一致しないと思われるものを真でないとする。原因についてであれ、ほかの何についてであれ、同様である。」(プラトン「パイドン」:四八)
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「我思う、故に我在り」です。
デカルトの言い分と何か違いが有るでしょうか。
全く一緒です。
要はこの考える『私』が何処に向かうかと言う事です。
ソクラテス=プラトンは哲学に依ってこの世の私が浄められない限り、この世の私はこの世に囚われていると言います。
それは古今東西の聖人賢人哲人たちが異口同音に言っている事です。
そしてこの世の私を浄める事(カタルシス)が哲学の役目であるとの事。
この事も古今東西の聖人賢人哲人たちが異口同音に言っている事です。
皆様が智慧を愛して愛し抜けべ、何時しか、皆様は無垢へと突入します。
その無垢から目覚めた時の『私』、それは純粋に考える『私』の事ですが、
その時の『私』の事を智慧とも聖霊とも神霊ともデーモンとも呼んでも構わないのです。
その時の『私』が最初に考える事、と言うよりもその時の『私』の属性、
それが愛なのです。
神は愛なり。
聖霊は神の属性。
それは純粋に考える私の事。ですからその属性も愛と言う事になるのです。
「無心と言うは、即ち妄想無き心なり。」(「菩提達摩無心論」)
「無心なる者は真心なり、真心なる者は無心なり。」(「菩提達摩無心論」)
「答えて曰く、爾我の無心は、木石に同じからず。
何を以ての故ぞ。
譬えば天鼓の如し、無心なりと雖復(いえど)も、自然に種々の妙法を出して衆生を教化す。
又如意珠の如し、無心なりと雖復(いえど)も、善能(よ)く諸法実相を覚了し、真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し。
故に宝積経に云わく、無心、意を以って現行す、と。」(「菩提達摩無心論」)
もし皆様が日々智慧を愛し抜けば、皆様は何時しか無へと突入します。その属性は愛。
その時、皆様は愛の人と成って、天鼓を鳴らし、如意珠を鳴らす事になるのです。
無心、無垢こそが神様が存在する所、
そこから目覚めた時の『私』は「自然に種々の妙法を出して衆生を教化し」、「善能(よ)く諸法実相を覚了し、真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し」と言う事になるのです。
「無心、意を以って現行す」
哲学者(智慧を愛する者)の理想像だと思います。
哲学とはphilosophia、智慧を愛する事。
智慧には三つの概念があります。
一つ目は智慧の根源としての智慧、
二つ目は智慧の根源としての智慧から発せられる智慧
三つ目は智慧の根源としての智慧と智慧の根源としての智慧から発せらる智慧の仲介をする智慧。
「我思う、故に我在り」と言う時の『私』と三番目の『智慧』がタッグを組む時、
その時その『私』は哲学者と成り、
この世に理想の世界を築こうとする事となるのです。
その動機は快楽です。
これが『哲学国家 日本』の行動原理ともなるのです。
哲学とはphilosophia、智慧を愛する事。
ソクラテス=プラトンは、人生の様々な課題について、哲学と言う武器を持って果敢に攻めましたが、それら全てを直前に取り逃がしています。
何故か。
それは善の実相をこの世において掴み取る事ができなかったからです。
「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
『荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』』
ソクラテス=プラトンは「荒れ野で叫ぶ者の声」だったのかも知れません。
「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。
(中略)
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(「マタイ福音書」)
ソクラテス=プラトンは、「哲学的問答法」において、それに迫りましたが、結局それを掴む事はできませんでした。
やはりそれを掴むにはその具現が必要だったのです。
水ではなく、火と聖霊、すなわち情熱、すなわち言、すなわち言葉と行為、すなわちイエスと言う体が必要だったのです。
私たちはソクラテス=プラトンからイエスまでの流れを概観する事ができます。
それはとても喜びに満ちた経緯です。
なお哲学的問答法は、「哲学国家 日本」の実現の為にとても有効な方法です。
私はその具体的な方法について、「哲学広場(哲学対話室)」と言う形で考えています。
その詳細については、この聖人賢人哲人たちの旅が終わった時に著したいと思っています。
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「ひとが哲学的な対話・問答によって、いかなる感覚にも頼ることなく、ただ言論を用いて、まさにそれぞれであるところのものへと前進しようとつとめ、最後にまさに善であるところのものそれ自体を、知性的思惟のはたらきだけによって直接把握するまで退転することがないならば、そのときひとは、思惟される世界の究極に至ることになる。」(プラトン「国家」七巻一二:一四二頁)
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「哲学的問答法の探求の行程だけが、そうした仮設を次々を破棄しながら、始源そのものに至り、それによって自分を完全に確実なものとする、という行き方をするのだ。そして、文字どおり異邦の泥土のなかに埋もれている魂の目を、おだやかに引き起こして上へと導いて行くのだ――われわれが述べたもろもろの学術を、この転向への仕事における補助者としてまた協力者として用いながらね。」(プラトン「国家」七巻一四:一四六頁)
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読書、思索、作文、対話そして実践。
これが「哲学国家 日本」の実現方法です。
私の中では対話はその一つの方法でしかありません。
「あなたがたは祈るときは、奥まった部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」(「マタイ福音書」)
「始源そのものに至り、それによって自分を完全に確実なものとする」
その為の方法としては、祈りや瞑想がより効果的だと思います。
尤も対話の相手が導師であれば別です。
何故ならその導師は本当の自分自身でもあるのでしょうから。
しかしソクラテス=プラトンは導師と言うよりもあまりにも偉い先生だったような気がします。
何故なら誰もソクラテス=プラトンと超える事ができないのですから。
導師が弟子をそこに導けば、後は友です。
「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。
これがわたしの掟である。
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。
僕は主人が何をしているか知らないからである。
わたしはあなたがを友と呼ぶ。」(「ヨハネ福音書」)
導師にはやはりパッションが必要です。
導師には燃えるような情熱、火と聖霊が必要なのです。
それではそろそろソクラテス=プラトンを終わりにしたいと思いますが。
ソクラテス=プラトンについては纏りの無いものと成ってしまいました。
それはあまりにも著書が多くにどれをテキストにして良いか迷った為です。
今回は「国家」の一部と「饗宴」の一部と「パイドン」の全文を対象としました。
それぞれニュアンスが違いどのように纏めて良いのか迷ったのも事実です。
そして今回は上記以外の著書は一切読んでいません。
プラトンの全著作を「智慧」と「哲学(智慧を愛する事)」と言う視点で読み込んで行けば、もっとプラトンの智慧を浮き彫りにできたと思いますが、敢えてそれはしませんでした。
何故なら時間が無いから。
後は皆様の方で、「智慧」と「哲学(智慧を愛する事)」と言う視点でプラトンの全著作を読み込んで頂きたいと思います。
そうすれば、皆様にきっとソクラテス=プラトンの素晴らしい智慧が浮き彫りに成って来ると思います。
哲学(智慧を愛する事)のスタンダード、それはソクラテス=プラトン以外には無いと思います。
何故なら世の全ての人が、ソクラテス=プラトンを哲学の神様に仕立てているのですから。
その権威を利用しましよう。
そしてその権威は間違いのないものです。
ソクラテス=プラトンにおいては、先ず智慧と智慧を愛する事(哲学)を学びましょう。
そうすれば、そこから皆様の素晴らしい智慧の世界が展開する事になります。
イエスの智慧も、ブッダの智慧も、
それから古今東西の聖人賢人哲人たちの智慧も分かるようになると思います。
哲学事始め、
特に若い人たちが哲学を始める為には、
ソクラテス=プラトンが最適だと思います。
何故なら、ソクラテス=プラトンの著す著作は全て、
ソクラテス=プラトンと若者との対話録なのですから。
ソクラテス=プラトンはその対話により、
全てをそして最高の秘密をも解き明かそうとしましたが、
結局最後にはそれを取り逃がしています。
何故ならその最高の秘密について確信を持ち得ていなかったからです。
ですから最後の最後でそれは霧の中に消えて行きます。
だからこそ、皆様を更に掻き立てるかも知れませんね・・・
さて次はエピクロスです。
エピクロスは快楽主義者と呼ばれています。
勿論そこで言う快楽とは精神的快楽の事です。
私もこれまで自らを精神快楽主義者とも呼んで来ました。
なぜなら哲学、すなわち智慧を愛する事が楽しいから。
これ以上の楽しみは無いと考えていたからです。
それは勿論今でも変わりませんが、
この楽しみ、この快楽の極致とは一体何だろうか。
そんな事を今回の一連の聖人賢人哲人たちの旅で思い、
そしてその極致を新たに発見したのです。
その極致とは正に『恍惚』です。
老子の差し出す『恍惚』と言う概念にそれを了解し、
更には無についての概念まで了解したのです。
「無心と言うは、即ち妄想無き心なり。」(「菩提達摩無心論」)
「無心なる者は真心なり、真心なる者は無心なり。」(「菩提達摩無心論」)
無心と言うは、即ち妄想無き心なり。
私はこの言葉により無の概念を了解しました。
今回の旅の中で、最初に無の概念に当たったのは、
ダビデの『無垢』と言う言葉でした。
「無垢であろうと努め、まっすぐ見ようとせよ。平和な人には未来がある。」(「詩篇」)
「あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら、そのことがわたしを守ってくれるでしょう。」)(「詩篇」)
「わたしは主に無垢であろうとし、罪から身を守る。」(「詩篇」)
私は無垢と言う言葉に憧れを持ちましたが、その概念をしっかり掴む事ができなかったのです。
そこに現れたのが、「菩提達摩無心論」の「無心と言うは、即ち妄想無き心なり」と言う言葉です。
ここで私は「無垢」と「無心」と更には「無」そのものまでも了解したのです。
そしてその後に現れたのが老子の『恍惚』と言う概念です。
ここにおいて私は「無心」「無垢」を体感する事ができるようになったのです。
「有余涅槃」と「無余涅槃」。
この世に私が存在する限り、考える『私』は存在し続けます。
この考える私が全く存在しなくなった時が「無余涅槃」です。
それは完全なる死です。
そこには一切の悩みはありません。
この「無余涅槃」を心臓が鼓動している間にも感じる事ができます。
と言うよりも追体験と言う事になると思いますが・・
それは死んだように爆睡した時です。
その時には考える私は存在していないのです。
本当に爆睡した後に目覚めた時に、皆様はこう感じます。
「生き返った様だ」と。
これが復活、蘇りの原型です。
その時、皆様はきっと天使のようだと思います。
もしくは幼子のよう。
荒井由美の歌に次の様な詩(うた)があります。
「小さい頃は神様がいて、不思議に夢をかなえてくれた。
やさしい気持ちで目覚めた朝は、おとなになっても奇蹟はおこるよ。
カーテンを開いて、静かな木漏れ日のやさしさにつつまれたら、
きっと、目にうつる全てのことは、メッセージ♪」と
爆睡して目覚めた朝には、目に映る全ての事が神様からのメッセージのように思えます。
しかし皆様はまた直ぐに元のこの世の私に戻って行きます。
この爆睡から目覚めた『私』、この私こそが本当の『私』です。
この『私』を目覚めている間中、保持し続ける事ができれば、皆様は聖人です。
その時の皆様は、その一瞬一瞬において、神様からのメッセージを受け取る事になるのです。
その時の状況をと言えば『恍惚』であり、また「天鼓の如く」、「如意珠の如く」ともなるのです。
「道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。
其の中に象有り、恍たり惚たり。
其の中に物有り、窈たり冥たり。
其の中に精有り、其の精、甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。」(「老子」)
これが「有余涅槃」の状況でしょう。
その時は『恍惚』ですが、必要であれば「天鼓」、「如意珠」を鳴らす事にもなるのでしょう。
恍惚、快楽は、老子だけの専売特許ではありません。
古今東西の聖人賢人哲人たちは異口同音にこの事を述べています。
何故なら、この快楽、この恍惚こそが、人をして哲学、すなわち智慧を愛する事に向かわせるのですから。
しかしその恍惚、快楽の表現方法は様々です。
それを前面にあからさまに打ち出すものもあれば、暗喩の中に潜り込ませているものもあります。
この恍惚、快楽を前面にあからさまに打ち出したのが、老子であり、そしてこれから述べるエピクロスなのです。
エピクロスは快楽主義者と呼ばれており、そして自らもそのように言っています。
エピクロスの快楽と老子の快楽とは全く一緒です。
すなわち『恍惚』です。
エピクロスはそれを、「平静な心境」(ト・アタラコン)もしくは「心境の平静」(アタラクシアー)と呼んでいます。
それでは前置きはこの位にして、エピクロスに入って行きたいと思います。
先ずは哲学(知恵の愛求)について。
「第十章 エピクロスの智慧」へ