第十章 エピクロスの智慧
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「人はだれでも、まだ若いからといって、知恵の愛求(哲学)を延び延びにしてはならず、また年取ったからといって、知恵の愛求に倦むことがあってはならない。なぜなら、なにびとも、霊魂の健康を得るためには、早すぎるも遅すぎるもないからである。また知恵を愛求する時期ではないだの、もうその時期が過ぎ去っているのだという人は、あたかも、幸福を得るのに、まだ時期がきていないだの、もはや時期ではないのだという人と同様である。それゆえ、若いものも、年老いているものも。ともに、知恵を愛求せねばならない。年老いたものは、老いてもなお、過去を感謝することによって、善いことどもに恵まれて若々しくいられるように、若いものはまた、未来を恐れないことによって、若くして同時に老年の心境にいられるように。そこでわれわれは、幸福をもたらすものどもに思いを致せねばならない。幸福が得られていれば、われわれは全てを所有しているのだし、幸福が欠けているなら、それを所有するために、われわれは全力を尽くすのだから。」(エピクロス「メノイケウス宛の手紙」:六五頁)
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人々に幸福を齎すものが哲学である。
これはいつの世にも変わらぬ真実です。
何故なら人が哲学、すなわち智慧を愛し抜けば、そこには至福が待ち受けているのですから。
至福とは幸福×幸福×幸福・・云々の事です。
至福とは如何なる状態の事か、それは『恍惚』。
哲学とは人を『恍惚』に招き入れる為のものなのです。
エピクロスはそれを「平静な心境」(ト・アタラコン)もしくは「心境の平静」(アタラクシアー)と呼んでいます。
心に何の煩いも無い事、それがエピクロスの快楽です。
皆様も想像して見て下さい。
皆様もそれによって恍惚に至りました。
平安な上にも平安です。
皆様はそこにおいて涼みそして和みます。
そこに一風の涼風が大きく開いた窓から入って来ました。
その涼風と共に閃きが。
そこから神様との第二の交接が始まります。
そこに何の煩いもありません。
また神様との交接が始まりました。
それはめくるめく世界。
そのめくるめく世界から二度目のエクスタシー(恍惚)へ。
その日その人は二度のエクスタシー(恍惚)へと至ったのです。(ある晴れた夏の朝に)
目くるめく世界から恍惚へ。
これが哲学です。
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「真の哲学への愛によって、平静な心境を乱すやっかいな欲望は、ことごとく解消される。」(エピクロス「断片(その二)」:六六)
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「その他の仕事の場合には、それが完了したときに、はじめて成果が得られるのであるが、哲学研究の場合には、その喜ばしさは、認識のすすむのといっしょに進む。というのは、学び知ったのちに楽しさがあるのではなくて、学び知ってゆくことと楽しさが同時的だから。」(エピクロス「断片(その一)」:二七)
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「最大の善については、それが生じるのと、われわれがそれを楽しむのとは、同じである。」(エピクロス「断片(その一)」:四二)
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哲学によって、先ずはこの世の煩いを全て解消し、そしてその後に最大の善(智慧の根源としての智慧)に向かう。
その最大の善に向かう事は快楽。
その快楽の頂点が恍惚(エクスタシー)。
哲学者(智慧を愛する者)は、この報酬があるからこそ、日々哲学(智慧を愛する事)へと向かうのです。
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「さて、わたしが君にたえず説き勧めてきたことを、それこそが美しく生きるための基本原理であると理解しておこなうべきである。先ず第一に、神について共通な観念として人々の心に銘さているとおり、神は不死で至福な生者である、と信じ、神の不死性に縁遠いものや、至福性に不似合なものを神におしつけることなく、かえって、神の至福性と不死性とを保持することのできるものをことごとく、神のものと考うべきである。というのは、神々はたしかに存在はしてはいる、なぜなら、神々ついての認識は、明瞭であるから。しかし、神々は、多くの人々が信じているようなものではない、というのは、多くの人々は、かれらが一方では神々についてもっている考えを他方では捨てているからである。そこで多くの人々のいだいている神々を否認する人が不敬虔なのではなく、かえって多くの人々のいだいている臆見を神々におしつけるのが不敬虔なのである。というのは、多くの人々が神々について主張するところは、先取観念ではなくて、偽りの想定であって、それによると、悪人には最大の禍いが、いや最大の利益さえもが、神々からふりかかるというのだからである。けだし、神々は、つねにかれら固有の徳に親しんでいるので、かれら自身と類似した人々を受け入れ、そうでないものはみな、縁遠いものと考えるのである。」(エピクロス「メノイケウス宛の手紙」:六六頁)
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神様は皆様の『先取観念』です。
神様は皆様お一人お一人に内在しているのです。
何故なら、神様が存在しなければ、皆様のような素晴らしい人は存在し得ないからです。
神様とは皆様の中に在る皆様の原型なのです。
ですから神様を愛する人はそのような人に成るでしょうし、
そうでない人はそのような人になるのです。
もし皆様が神様を愛すれば、神様は愛し返してくれます。
それこそが無限の愛なのです。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきない。そうすれば開かれる。」(「マタイ福音書」)
「わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを探し求める人はわたしを見いだす。」(「箴言」)
「道に同ずる者には、道も亦た之を得んことを楽(ねが)う。」(「老子」)
「子の曰く、仁遠からんや、我仁を欲すれば、斯(ここに)仁至る。」(「論語」)
以上の人にも増して、神の愛を熱く語ったのがダビデです。
ダビデの神とは主の事です。
この主は皆様の主でもあります。
そしてこの主とは智慧の根源としての智慧の事であり、
そしてそれは皆様の「本当の自分自身」の事なのです。
この「本当の自分自身」において、ダビデの神と皆様の神が一緒なのです。
神は『先取観念』です。
「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』とあるではないか。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(「マタイ福音書」)
神様とは皆様の中に生きている『先取観念』なのです。
さてそれでは皆様の神様がどんな神様なのか、ダビデの詩編に見てく事にしましよう。
皆様は、きっと、皆様の神様とダビデの神が一寸も違わない事を確認する事でしょう。
以下は、「第二章 ダビデの智慧」で掲載したものの編集し直したものです。
なお、皆様の神とは皆様の本当の自分自身の事です。
皆様が理想とする本当の自分自身の事です。
それを皆様からちょっと切り離して、皆様のちょっと先にそれを置けば、俗に言う神様と言う概念が生れる事になるのです。
「神について共通な観念として人々の心に銘さているとおり、神は不死で至福な生者である、と信じ、神の不死性に縁遠いものや、至福性に不似合なものを神におしつけることなく、かえって、神の至福性と不死性とを保持することのできるものをことごとく、神のものと考うべきである。」
「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、・・・・・」(旧約聖書「詩篇」)
ダビデの詩編への前置きが長くなりましたが、以下からがダビデの詩編です。
長い引用になりますが、ここでしっかりと神の概念を掴んで頂きたいと思います。
ダビデの神の概念は世界の神の概念のスタンダードです。
そしてそれは皆様の本当の自分自身の事でもある筈なのです。
皆様が心の奥底から求めている本当の自分自身の事でもある筈なのです。
「ほんとうに存在するものによって自分を満たす。」(プラトン「国家」)
皆様の本当の自分自身は皆様を愛したくてうずうずしているのです。
その本当の自分自身に気付き、その本当の自分自身を愛し始めた時、
皆様はその本当の自分自身によって満たされる事になるのです。
その先に在るのが、至福とか恍惚とか法悦とか言う状態なのです。
ダビデは詩人ですので、そこで歌い踊る事にもなるのです。
なお、至福とか恍惚までいかないまでも、「平静な心境」(ト・アタラコン)もしくは「心境の平静」(アタラクシアー)は十分に保たれる事になります。
またまた前置きが長くなりましたが、以下からがダビデの詩編です。
ここで本当の自分自身をしっかり掴み取って下さい。そして決して離さないで下さい。
【主は】
「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。」
「主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる。」
「主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。」
「主はわたしの泣く声を聞き、主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受けてくださる。」
「主は右にいまし。わたしは揺らぐことはありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。」
「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いのほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」
「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主は私の運命を支える方。」
「主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。」
「主はわたしの正しさに応じて返してくださる。」
「主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。」
「主はわたしの力、わたしの盾、わたしの心は主に依り頼みます。」
「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。」
「主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。」
「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。」
「主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを救ってくださる。」
「主は、従う人に目を注ぎ、助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。」
「主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示してくださいます。」
「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。」
「主は言われます。『虐げに苦しむ者と呻いている貧しい者のために、今、わたしは立ち上がり、彼らがあえぎ望む救いを与えよう。』」
「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を示してくださる。」
「主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。」
「主は天から人の子を見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と」
「主は油注がれた者の力、その砦、救い。」
「主は命の神。」
「主は正義を愛される。」
【主よ】
「主よ、憐れんでください。わたしは苦しんでいます。」
「主よ、耳を傾けて、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。」
「主よ、呼び求めるわたしの声を聞き、憐れんで、わたしに答えてください。」
「主よ、わたしの祈りを聞き、助けを求める叫びに耳を傾けてください。」
「主よ、わたしの言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分けてください。」
「主よ、正しい訴えを聞き、わたしの叫びに耳を傾け、祈りに耳を向けてください。」
「主よ、あなただけは、わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ、今すぐわたしを助けてください。」
「主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き、まっすぐにあなたの道を歩ませてください。」
「主よ、わたしの神よ、あなたの正しさによって裁いてください。」
「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。」
「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み、わたしの神よ、あなたに依り頼みます。」
「主よ、わたしの力よ。わたしはあなたを慕う。」
「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。」
「主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます。」
「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し、『あなたこそわたしの神』と申します。」
「主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。」
「主よ、それなら、何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。」
「主よ、あなたはわたしの灯火を輝かし、神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。」
「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。あなたのまことにわたしを導いてください。」
「主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに住まわせてくださるのです。」
「主よ、裁きを行って宣言してください、お前は正しい、とがめるところはないと。」
「主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。」
「主よ、あなたの道を示し、平らな道に導いてください。」
「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことできるのでしょうか。それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。」
「主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。」
「主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることはない。」
「主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け、その願いを聞き、彼らの心を確かにし、みなしごと虐げられて人のために、裁きをしてくださいます。」
【主に】
「主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。」
「主に申します。『あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。』」
「主に自らをゆだねよ、主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」
「主に望みをおき、主の道を守れ。主はあなたを高く上げて、地を継がせてくれる。」
「主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。」
「主に従う人は、口に知恵の言葉があり、その舌は正義を語る。」
【主を】
「主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。」
「主を畏れる人に、主は契約の奥義を悟らせてくださる。」
「主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」
「主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。」
【主の】
「主のほかに神はいない。神のほかに我らの岩はない。」
「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に智慧を与える。」
「主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。」
「主の家に帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」
「主の助けを得て、わたしの心は喜び躍ります。」
「主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。」
「主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。」
「主があなたの求めるところを、すべて実現させてくださるように。」
「主への畏れは清く、いつまでも続き、主の裁きはまことで、ことごとく正しい。」
【あなた】
「あなたはいけにえも、穀物の供えも望まず、焼き尽くす供え物も、罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」
「あなたはわたしの嘆きを踊りにかえ、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。」
「あなたは救いの盾をわたしに授け、右の御手で支えてくださる。あなたは自ら降り、わたしを強い者としてくださる。」
「あなたを呼び求めます。神よ、わたしに答えてください。」
「あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら、そのことがわたしを守ってくれるでしょう。」
「あなたの耳をわたしに傾け、急いでわたしを救い出してください。」
「あなたの慈しみ生きる人にあなたは慈しみを示し、無垢な人には無垢に、清い人には清くふるまい、心の曲がった者には背を向けられる。」
「あなたの慈しみ生きる人は皆、あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。」
「あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す。」
【わたし】
「わたしは主に求め、主は答えてくださった。」
「わたしは主の道を守り、わたしの神に背かない。」
「わたしは主の裁きをすべて前に置き、主の掟を遠ざけない。」
「わたしは主に無垢であろうとし、罪から身を守る。」
「わたしは言いました。『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」
「わたしの神よ、主よ、叫び求めるわたしを、あなたは癒してくださいました。」
「わたしの神、主よ、私の目に光を与えてください。」
「わたしの心は御救いに喜び躍り、主に向かって歌います『主はわたしに報いてくださった』と。」
「わたしの魂は主によって喜び躍り、御救いを喜び楽しみます。」
「わたしの主よ、わたしの神よ、御自身でわたしに答えてください。」
「わたしの救い、わたしの主よ、すぐにわたしを救ってください。」
皆様を救ってくれるのは誰でしょう。
皆様しかいませんよね。
その皆様が皆様の「本当の自分自身」です。
そしてその「本当の自分自身」がダビデの言う主に他ならないのです。
しかし皆様はその本当の自分自身の事を知らない。
それで何日も何日もこの世の私が悩む事になる。
それがループしてその悩みが消えない事も。
もし皆様がこの本当の自分自身の事を知っていたら、その悩みはその日一日にで十分です。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすればこれらのものはみな加えて与えられる。
だから明日のことを思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労はその日だけで十分である。」(「マタイ福音書」)
「神の国と神の義を求める」
これは智慧の王国を求める事です。
すなわち哲学です。
智慧を愛する事なのです。
智慧には三つの概念があります
一つは智慧の根源としての智慧、これが俗言う神の事ですが、ここでは神の国と言う事になります。
二つ目が智慧の根源としての智慧から発せられる智慧、これが俗に言う愛の事ですが、ここでは神の義と言う事になります。
三つ目は一番目と二番目の智慧を仲介する智慧の事です。
すなわち一番目の智慧の言を翻訳して二番目の智慧へと向かわせる智慧の事です。
一番目の智慧へ向かう事で、この世の悩みは解消されます。
何故ならそこは無垢なる世界。恍惚の世界。
そこから人はこの世へ向かいます。
そこに二番目の智慧が生れます。すなわち愛が。
智慧と愛に満ちた世界。
そこに何の煩いが生れる事がありましょう。
しかし私たちは聖人ではありません。
やはりこの世には大波小波そして荒波があります。
一日終わった所でへとへとになる事があります。
しかし哲学、すなわち智慧を愛する習慣のある人は幸いです。
何故なら哲学はカタルシスなのですから。
「すべて、そのような情念からの、まさに浄化(カタルシス)であって、知恵こそこの浄めの役を果たすのではないか。」(プラトン「パイドン」)
哲学はその為にこそあるのです。
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「人間のどんな悩みをも癒さないようなあの哲学者の言説はむなしい。というのは、あたかも、医術が身体の病気を追い払わないならば、何の役にも立たないように、そのような哲学も、もし霊魂の悩みを追い払わないのならば、何の役にも立たないからである。」(エピクロス「断片(その二)」:五四)
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もう皆様は哲学の事をすっかり理解して下さっていますよね。
哲学とはphilosophia、智慧を愛する事。
その目的は自分自身が幸せになる事。
そしてそれに依って隣人も幸せになる事。
その連鎖の中で日本がそして世界が幸せになる事。
『哲学国家 日本』はその旗艦と位置づけます。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)
これこそが全ての哲学宗教の基礎の基礎です。
イエスのこの教えはとても素晴らしい教えです。
この教えにより、一人の人が、隣人が、そして世界は幸せになろうとしていますが、
残念ながら、この日本にはこの思想が全く浸透していないのです。
その為に私は『哲学国家 日本』と言う旗を揚げようとしているのです。
「あなたの神である主を愛する」とはどう言う事だったでしょうか。
そうですね。智慧を愛する事ですね。
智慧を愛すればどうなるのでしょう。
至福に至るのでしたね。
至福に至ればどうなるのだったでしょう。
そうですね、その至福から愛が生れるのでしたよね。
「隣人を自分のように愛しなさい」
それは自分自身を愛する事と同じ事。
何故ならその智慧の根源とも言われる智慧、すなわち神は世界人類において全く同じだからです。
ついさっき、ダビデから学びましたよね。
私たちが純粋に本当の自分自身を求める時、そこに現れて来るのは、人類普遍に存在する『先取観念』としての神なのですから。
この日本はあまりにも忙しすぎます。
テレビを全ての日本国民から取り上げて見ましょう。
そうすればそこに神が存在する事でしょう。
「奥まった部屋に入って戸を閉め」れば、
そこに神様が存在している事でしょう。
本当の自分自身に気付いた時、皆様は幸福に成るのです。
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「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福にかけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。」(エピクロス「断片(その一)」:三三)
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さてそれでは愈々エピクロスの快楽主義の原点に迫ろうと思います。
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「つぎに熟考せねばならないのは、欲望のうち、或るものは自然的であり、他のものは無駄であり、自然的な欲望のうち、或るものは必須なものであるが、他のものはたんに自然的であるにすぎず、さらに、必須な欲望のうち、或るものは幸福を得るために必須であり、他のものは肉体の煩いのないことのために必須であり、他のものは生きることそれ自身のために必須である、ということである。これらの欲望について迷うことのない省察が得られれば、それによって、われわれは、あらゆる選択と忌避とを、身体の健康と心境の平静とへ帰着させることができる。けだし身体の健康と心境の平静こそが祝福ある生の目的だからである。なぜなら、この目的を達するために、つまり、苦しんだり恐怖をいだいたりすることがないために、われわれは全力をつくすのだからである。ひとたびこの目的が達せられると、霊魂の嵐は全くしずまる。そのときにはもはや、生きているものは、何かかれに欠乏しているものを探そうとして歩きまわる必要もなく、霊魂の善と身体の善を完全に満たしてくれるようなものを何か別に探し求める必要もないのである。なぜなら、快が現に存しないために苦しんでいるときにこそ、われわれは快を必要とするのであり、苦しんでいないときには、われわれはもはや快を必要としないからである。まさにこのゆえに、われわれは、快は祝福ある生の始めであり終りである、と言うのである。というのは、われわれは、快を、第一の生れながらの善と認めるのであり、快を出発点として、われわれは、全ての選択と忌避をはじめ、また、この感情を規準として全ての善を判断することによって、快へと立ち帰るからである。」(エピクロス「メノイケウス宛の手紙」:六九頁)
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「つぎに自己充足を、われわれは大きな善と考える、とはいえ、それは、どんな場合にも、わずかなものだけで満足するためにではなく、むしろ、多くのものを所有していない場合に、わずかなもので満足するためにである。つまり、ぜいたくを最も必要としない人こそが最も快くぜいたくを楽しむということ、また、自然的なものはどれも容易に獲得しうるが、無駄なものは獲得しにくいということを、ほんとうに確信して、わずかなもので満足するためになのである。質素な風味も、欠乏にもとづく苦しみがことごとく取り除かれれば、ぜいたくな食事と等しい大きさの快をわれわれにもたらし、パンと水も、欠乏している人がそれを口にすれば、最上の快をその人に与えるのである。」(エピクロス「メノイケウス宛の手紙」:七一頁)
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「それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、――一一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとはちがって、――道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(霊魂の平静)ことにほかならない。けだし、快の生活を生み出すものは、つづけざまの飲酒や宴会騒ぎでもなければ、また、美少年や婦女子と遊びたわむれたり、魚肉その他、ぜいたくな食事が差し出すかぎりの美味美食を楽しむたぐいの享楽でもなく、かえって、素面の思考(ネーボーン・ロギスモス)が、つまり、一切の選択と忌避の原因を探し出し、霊魂を捉える極度の動揺の生じるもととなるさまざまな臆見を追い払うところの、素面の思考こそが、快の生活を生み出すのである。」(エピクロス「メノイケウス宛の手紙」:七二頁)
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「ところで、これらすべての始源であり、しかも最大の善で在るのは、思慮である。このゆえに、思慮は知恵の愛求よりもなお尊いのである。思慮からこそ、残りの徳のすべては由来しているのであり、かつ、思慮は、思慮ぶかく美しく正しく生きることなしには快く生きることもできず、快く生きることなしには思慮ぶかく美し正しく生きることもできない、と教えるのである。というのは、残りの徳はみな快く生きることと由来をともにしているのであり、快く生きることは、それらの徳から離すことができないからである。なぜなら、だれがつぎのような人より優れていると、君は考えるか。すなわち、神々については敬虔な考えをもち、死についてはつねに恐怖をいだかず、自然的な快をすでに省察しており、善いことどもの限度は容易に達せられ容易に獲得されるものであるし、悪いことどもの限度は、時間的にも、痛みの点でも、わずかであるということを理解しており、また、一部の人が万物の女王として導きいれたところの運命を嘲笑している人、このような人より以上にだれがすぐれていると、君は考えるか。」(エピクロス「メノイケウス宛の手紙」:七二頁)
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「それゆえ、以上のこと、そのた同類のことについて、君は、自分ひとりで、また、同好の友といっしょに、昼も夜も、思いをいたすべきである。そうすれば、君は、目覚めているときも眠っているときも、決して霊魂の動揺することなく、人間のあいだで神のごとく生きることになろう。なぜなら、不死なる諸善のただなかで生を送る人間は、可死的な生をもつものとは、いささかも、似るとろこがないからである。」(エピクロス「メノイケウス宛の手紙」:七四頁)
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以上が「メノイケウス宛の手紙」からです。
以下は「主要教説」「断片」からです。
【自己充足】
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「自己充足の最大の果実は自由である。」(エピクロス「断片(その一)」:七七)
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「自己充足は、あらゆる富のうちの最大のものである。」(エピクロス「断片(その二)」:七〇)
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「むなしい臆見にはしたがわないで、自然にしたがう人は、すべてのことにおいて、自己充足的である。なぜなら、自然において十分なものにかんしては、それを所有しさえすれば、それで富であるが、際限のない欲求にかんしては、最大の富ですら、実は富ではなくて貧であるから。」(エピクロス「断片(その二)」:四五)
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「生の限度を理解している人は、欠乏による苦しみを除き去って全生涯を完全なものとするものが、いかに容易に獲得されうるかを知っている。それゆえに、かれは、その獲得のために競争を招くようなものごとをすこしも必要としない。」(エピクロス「主要教説」:二一)
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「肉体はそれ自身としては、快の限度を限りないものとしている、そして、このような快を生み出すためには、限りない時間が必要である。しかし、精神は、肉体の目的と限度について考慮し、永遠に関する恐怖を解消することによって、完全な生活をわれわれに与え、かくて、われわれはもはや、限りない時間を必要としなくなるのである。」(エピクロス「主要教説」:二〇)
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「ひとは、恐怖のために、あるいは際限のないむなしい欲望のために、不幸になる。だが、もしこれらに手綱をつけるならば、祝福された思考を自分自身にかちとることができる。」(エピクロス「断片(その二)」:七五)
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「わずかなもので十分と思わない人、すくなくともこのような人には、十分なものは存しない。」(エピクロス「断片(その二)」:六九)
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「貧乏は、自然の目的によって測れば、大きな富である。これに反し、限界のない富は、大きな貧乏である。」(エピクロス「断片(その一)」:二五)
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「自然のもたらす富は限られており、また容易に獲得することができる。しかし、むなしい臆見の追い求める富は、限りなく広がる。」(エピクロス「主要教説」:一五)
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「欲望のうち、或るものは自然的でかつ必須であり、或るものは自然的だが必須ではなく、他のものは自然的でも必須でもなくて、むなしい臆見によって生まれたものである。」(エピクロス「主要教説」:二九)
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「これらのものの欠けていることが苦痛なのではなく、むしろ、むなしい臆見によって無益な苦痛のもたらされることが、苦痛なのである。」(エピクロス「断片(その二)」:七五)
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「自然の目的にかんして貧しく、むなしい臆見にかんして富んでいる人を見出すのが、普通である。というのは、愚かな人は、だれも、もっているもので満足せず、むしろ、持っていないもののために苦しんでいるからである。ちょど、熱病にかかっている人が、病気の悪性のためにいつものどが渇いていて、正反対のものを求めるのと同じように、霊魂が悪い状態におかれている人も、つねに、あらゆるものと必要とし、貪欲のために、移りやすい気まぐれな欲望に落ち込む。」(エピクロス「断片(その二)」:六八)
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「すべての欲望にたいし、次の質問を提起するべきである、すなわち、その欲望によって求められている目的がもし達成されたならば、どういうことがわたしに起こるであろうか、また、もし達成されなかったならば、どういうことが起こるであろうかと。」(エピクロス「断片(その一)」:七一)
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「君が途方にくれてこまっているかぎり、それは、君が自然を忘却しているからでる。というのは、君は自分でわざわざ不確定な恐怖と欲望を作り出しているのだから。」(エピクロス「断片(その二)」:四六)
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「最大の富を所有しても、多くの人々から尊敬と注目を受けても、その他、無際限な多くの原因からどのような結果が生じても、そんなものは、霊魂の動揺を解消しはしないし、値打のある喜びを生み出しもしない。」(エピクロス「断片(その一)」:八一)
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「明日を必要としない者が、最も快く明日に立ち向かう。」(エピクロス「断片」:七八)
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【心の平静】
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「平静な心境の人は、自分自身にたいしても他人にたいしても、煩いをもたない。」(エピクロス「断片(その一)」:七九)
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「正しい人は、最も平静な心境にある、これに反し、不正な人は極度の動揺に満ちている。」(エピクロス「主要教説」:一七)
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「正義の最大の果実は、心境の平静である。」(エピクロス「断片(その二)」:八〇)
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「心境の平静(アタラクシアー)とは、これらすべてからの全く解放されていることであり、全般的でしかも最も重要な事柄をたえず記憶していることである。」(エピクロス「ヘロドトス宛の手紙」:三九頁)
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「心境の平静と肉体の無苦とが、静的な快である。これに反し、喜びや満悦は動的な現実的な快とみなされる。」(エピクロス「断片(その二)」:一)
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「幸福と祝福とは、財産がたくさんあるとか、地位が高いとか、何かの権勢だのがあるとか、こんなことに属するのではなく、悩みのないこと、感情の穏やかなこと、自然にかなった限度を定める霊魂の状態、こうしたことに属すのである、」(エピクロス「断片(その二)」:八五)
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「至福な不死のものは、かれ自身、煩いごとをもたないし、また、他のものにそれを与えもしない。したがって、怒りだの愛顧だのによって動揺させられることもない。というのは、このようなことはみな、弱者にのみ属することだから。」(エピクロス「主要教説」:一)
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「われわれは、人生の真実の目的と、われわれがもろもろの判断を帰着させるあの全き明瞭生とを、考慮すべきである。もしそうしないならば、万事は、非決定と混乱でいっぱいになるであろう。」(エピクロス「主要教説」:二二)
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「人類の目的をかち得ている人は、だれもそこにいないときにも、いつもと同じように善い人である。、」(エピクロス「断片」:八三)
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「人々から損なわれることのない安全は、煩いごとを排除しうる何らかの力によっても或る程度までは得られるけれども、その最も純粋な源泉は、多く人々から逃れた平穏な生活から生まれる安全である。」(エピクロス「主要教説」:一三)
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「明日を必要としない者が、最も快く明日に立ち向かう。」(エピクロス「断片(その二)」:七八)
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以上でエピクロスの快楽主義に関する言説のほとんどです。
エピクロスの快楽主義の原点、それは「身体の健康と心境の平静」です。
その為にこそ哲学を行うのです。
この内の身体の健康、
これは簡単に手に入れる事ができますよね。
すなわち「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと」ですものね。
これさえ手に入れれば、幸福についてはゼウスとも競う事ができるのでしたよね。
「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福かけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。」
一方の「心境の平静」、これはとても難しいですよね。
何故でしょう。それは欲望と恐怖の為です。
人に取っての最大の恐怖とは何でしょう。
そうですね、「死」ですよね。
エピクロスはそれを自然研究を行う事に依って徹底的に退けたのです。
まるで私たち現代人のように。
現代人でも未だ死を恐れている人があるかも知れませんので、その一節を次に掲げて置く事にしましよう。
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「また、死はわれわれにとって何ものでもない、と考える事に慣れるべきである。というのは、善いものと悪いものはすべて感覚に属するが、死は感覚の欠如だからである。それゆえ死がわれわれにとって何ものでもないことを正しく認識すれば、その認識はこの可死的な生を、かえって楽しいものとしてくれるのである。というのは、その認識は、この生にたいし限りない時間を付け加えるのではなく、不死へのむなしい願いを取り除いてくれるからである。なぜなら、生のないところには何ら恐ろしいものがないことを本当に理解した人にとっては、生きることにも何ら恐ろしいものがないからである。」(エピクロス「メノイケウス宛の手紙」:六七頁)
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「だが、多くの人々は、死を、あるときは、もろもろの悪いもののうち最大なものとして忌避し、あるときにはまた、この生におけるもろもろの悪いものからの休息としてむなしく願っている。しかし、智者は、生を逃れようとすることもなく、生のなくなることを恐れもしない。なぜなら、かれにとっては、生は何らの煩いともならず、また、生のなくなることが、何か悪いものであると思われてもいないからである。あたかも、食事に、いたずらにただ、量の多いのを選ばす、口に入れて最も快いものを選ぶように、知者は、時間についても、最も長いことを楽しむのではなく、最も快い時間を楽しむのである。」(エピクロス「メノイケウス宛の手紙」:六八頁)
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「若いものには、美しく生きるように、また、年老いたものには、美しく生を終えるように、と説き勧める人は、ばかげている。なぜなら、生きるということがそれ自体好ましいものだからであるばかりでなく、美しき生きる習練と美しく死ぬ習練とは、ひっきょう、同じものだからである。」(エピクロス「メノイケウス宛の手紙」:六八頁)
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死に関する記述はかなり端折ってします。
この頃は未だ世間の神々が存在し、そして死後の世界の事が考えられていたのです。
エピクロスはそれを自然研究により、徹底的に退けたのです。
エピクロスの神の概念は理解して貰っていますよね。
それは私たち現代人の神です。
すなわち神の概念です。
「神について共通な観念として人々の心に銘さているとおり、神は不死で至福な生者である、と信じ、神の不死性に縁遠いものや、至福性に不似合なものを神におしつけることなく、かえって、神の至福性と不死性とを保持することのできるものをことごとく、神のものと考うべきである。」
神は私たちの中に『先取観念』として存在しています。
この「先取観念」を更に育てる。それに依って皆様は神の子とも仏の事も成るのです。
もう一度、エピクロスの神に関する記述を読み直して下さい。
徹底して迷信を退けています。
そしてただ『先取観念』だけを高く掲げているのです。
死後に神々が統治する世界は存在しない。
その前提の基に、死に関しても自然研究により徹底的に退けました。
「死は感覚の欠如」。すなわち考える私の不存在。
すなわち「無余涅槃」です。
皆様は無余涅槃を爆睡により体験していますよね。
あれよりも素晴らしい事があるでしょうか。それが死です。
エピクロスはそのように説いているのです。
後はこの世に如何に生きるか。
それだけが問題です。
「生きるということがそれ自体好ましいもの」
「美しき生きる習練と美しく死ぬ習練とは、ひっきょう、同じ」
エピクロスはその基準に『快楽』を持って来たのです。
「われわれは、快を、第一の生れながらの善と認めるのであり、快を出発点として、われわれは、全ての選択と忌避をはじめ、また、この感情を規準として全ての善を判断することによって、快へと立ち帰るからである。」
快楽には実に様々な快楽があります。
どの快楽を選ぶか、それによってその人の人生が決まるのです。
エピクロスはそこに 「心境の平静」(「平静な心境」)を持って来たのです。
これによって、エピクロスも古今東西の聖人賢人たちの仲間入りをしたのです。
このエピクロスの「心境の平静」は老子の「恍惚」と同じですし、
ブッダの「ニルヴァーナ」とも一緒ですし、
これまで見て来た聖人賢人たちが暗喩比喩の中で述べてきたそれと同じです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(「マタイ福音書」)
すなわち神や仏や智慧と共に在る時の状態と言う事になります。
そこから徳が生れて行くのです。
「ところで、これらすべての始源であり、しかも最大の善で在るのは、思慮である。(中略)思慮からこそ、残りの徳のすべては由来しているのであり、かつ、思慮は、思慮ぶかく美しく正しく生きることなしには快く生きることもできず、快く生きることなしには思慮ぶかく美し正しく生きることもできない、と教えるのである。というのは、残りの徳はみな快く生きることと由来をともにしているのであり、快く生きることは、それらの徳から離すことができないからである。」
ここにエピクロスの快楽主義の全てのエッセンスが詰まっています。
「これらすべての始源であり、しかも最大の善で在るのは、思慮である」
ここで言う所の『思慮』こそが、私がこれまで述べて来た『智慧』そのものです。
この智慧と共に在る事が快楽なのです。
それはこれまでも再三述べてきた事です。
そしてこの智慧(思慮)から全ての徳が生れて行くのです。
ですから、
「思慮ぶかく美しく正しく生きることなしには快く生きることもできず、快く生きることなしには思慮ぶかく美し正しく生きることもできない」と言う事になるのです。
もし皆様が快く生きようと思えば、智慧を愛するしかその方法は無いのです。
「こんなふうに、快楽と快楽、苦痛と苦痛、恐怖と恐怖を、まるで貨幣でもあるかのように、大きいのと小さいのを交換するのは、徳を得るための正しい交換とは言えないだろう。そうではなくて、われわれがこれらすべてをそれを交換すべきただ一つの真正な貨幣があるだろう。知恵こそ、それなのだ。そして、もしすべてがそれを得るために、あるいは、それを用いて売買されるなら、そのときこそ真の勇気、節制、正義、一言にしていえば真の徳が存在するのだ。真の徳は知恵を伴うのであて、快楽、恐怖、その他、すべて、そういうものが加わろうが、とり去られれようが、それは問題ではない。しかしこれらが、知恵からきり離されて、相互のあいだで交換されるなら、そのような徳は、いわばまさに絵に描いた餅にすぎないのであり、まさに奴隷の徳であり、なんらの健全さ真実も含まないであろう。真の徳とは、節制であり、正義であり、勇気であれ、すべて、そのような情念からの、まさに浄化(カタルシス)であって、知恵こそこの浄めの役を果たすのではないか。』(プラトン「パイドン」)
エピクロスはここに快楽を付け加えたのです。
勿論プラトンもこの事が快楽である事は知っていましたが、プラトンの性格上、それをしなかったと言う事だけです。
「『あなたのお話ですと、それはまことに、はかりしれぬ美しさのものですね』と彼は言った、『知識と真理を提供するものでありながら、それ自身は美しさにおいてそれらを越えるものだとすれば。よもやあなたは、それによって快楽のことをおっしゃっているわけではないでしょうからね』
『言葉を慎みたまえ!』とぼくは言った・・」(プラトン「国家)
ソクラテス=プラトンはアテネと言うポリスの一員、それも重要な一員。
一方エピクロスはアレクサンダー大王帝国領と言うコスモポリタンの一員、それも片隅に住む一市井人。
その違いがそのような言葉遣いになったのだと思います。
尤もソクラテス=プラトンも「パイドン」では、哲学の事を最高の快楽だと言っていましたよね。
「最も優れた快楽」であるとか、「最も真実な快楽」であるとか、「確実で純粋な快楽」であるとか、「かけ隔った快楽」であるとか言う風に言っていましたよね。
ソクラテス=プラトンは著書によって、その表現が微妙に違っています。
哲学、すなわち智慧を愛する事が、最大の善であり、最高の快楽であると言う事、
この事については古今東西の聖人賢人哲人たちが異口同音に言っている事です。
そしてこの智慧から愛(徳)が生れて行くのです。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)
またまた引用してしまいましたが、
これこそが全ての哲学宗教の基礎です。
言葉に囚われない事が大事です。
「思慮ぶかく美しく正しく生きることなしには快く生きることもできず、快く生きることなしには思慮ぶかく美し正しく生きることもできない」
哲学、すなわち智慧を愛する事に依って、皆様には快楽が齎されます。
そしてその副賞として、清く正しく美しく生きる事になるのです。
哲学とは何と素晴らしい行為なのでしょう。
ですから、哲学、すなわち智慧を愛すると言う行為は人類が存在する限り決して止む事は無いのです。
皆様もそろそろ哲学者(智慧を愛する者)に成る覚悟はできましたか。
「それゆえ、以上のこと、そのた同類のことについて、君は、自分ひとりで、また、同好の友といっしょに、昼も夜も、思いをいたすべきである。そうすれば、君は、目覚めているときも眠っているときも、決して霊魂の動揺することなく、人間のあいだで神のごとく生きることになろう。なぜなら、不死なる諸善のただなかで生を送る人間は、可死的な生をもつものとは、いささかも、似るとろこがないからである。」
これこそが哲学者(智慧を愛する者)としての理想像です。
哲学者として生きると言う事と、神の子、仏の子として生きると言う事は一緒です。
その根元は一緒です。
すなわち、それを愛すると言うその事なのです。
『それ』とは何か。それこそが智慧。
最後にエピクロスの言葉をもう一つ。
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「われわれの生れたのは、ただ一度きりで、二度と生まれることはできない。これきりで、もはや永遠に存しないものと定められている。ところが、君は、明日の主人でさえないのに、喜ばしいことをあとまわしにしている。人生は延引によって空費され、われわれはみな、ひとりひとり、忙殺のうちに死んでゆくのに。」(エピクロス「断片(その一)」:14)
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私たちの人生は一回限りです。
楽しまなければ損です。
哲学はその楽しみを齎して呉れます。
もし皆様が純粋な哲学者に成れば、一日中喜びに満たされる事も可能でしょう。
しかしやはりそれは無理な事。
しかし哲学は一日の内、何時間かはその喜びを約束してくれます。
それは恍惚をも齎して呉れる事でしょう。
もし皆様が愛し合う人が居て、
日々毎日その喜びその恍惚で満たしてくれるのなら、
断然そちらを選ぶべきでしょう。
しかしもしそうでないのなら哲学を選びましょう。
哲学は決して約束を破る事はありませんから・・
いえいえ、やはりこう言うべきです。
智慧を愛し、そして愛する人を愛しましよう、と。
これこそが全ての宗教哲学の基礎なのですから・・・
さて、次はセネカです
セネカは私の大好きな哲学者です。
何故か。
それは一頁一頁毎に、いえ、一行一行毎に、私を哲学へと駆り立てるからです。
哲学とはphilosophia、智慧を愛する事。
この事をセネカは熱く語っているのです。
哲学とはphilosophia、智慧を愛する事。
智慧を愛する事に依って、本当の自分自身に成る。
この事をセネカは熱く語っているのですが、
その思想は私の思想と全く一緒です。
ですからその一行一行が私を熱くするのです。
セネカの哲学書には、「道徳論集」と「道徳書簡集」があります。
今回は「道徳書簡集」をテキストとして使いました。
道徳書簡集は、セネカの友人で、当時シチリアの行政長官だったルキリウスに宛てた手紙の形式を取っています。
百二十四の手紙から成っていますが、その百二十四の手紙で私たちはセネカの哲学の全体系を見る事ができます。
それはとても喜ばしい事です。
哲学書簡集はセネカ最晩年の著作だと言われています。
そこには勿論道徳論集のエッセンスも含まれています。
セネカの一冊と言う事であれば、この道徳書簡集一冊で十分だと思います。
さてこの道徳書簡集で、セネカは一体何を言っているのでしょう。
そこで言われている事は唯一つ、
哲学、すなわち智慧を愛しなさいと言う事だけです。
二言で言えば、智慧を愛する事に依って、本当の自分自身に成りなさいと言う事だけです。
しかしそれだけでは、百二十四の手紙は書けません。
そこに様々な哲学の概念を鏤めて、人を飽きさせない様にしているのです。
「哲学は最高の文芸である。」(プラトン「パイドン」)
「善く説かれた真理の言葉を摘み集めるのだれであろう。」(ブッダ「真理の言葉」)
セネカ自身も次の様に言っています。
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「ところで、それが誰の言葉か、などということはどうでもよいことではありませんか。それは、すべての人類に向かっての言葉です。」セネカ「道徳書簡集」:第十四)
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「僕は今もなお他人の財産で大盤振舞いをしているのですから。しかしなぜ『他人』と言ったのでしょう。誰かが立派なことを言った。それが僕のものです。」(セネカ「道徳書簡集」:第十六)
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「君は言う、『それはエピクロスの言ったことだ。他人のもので君はどうしようというのか』と。真実なものはみな僕のものです。」(セネカ「道徳書簡集」:第十二)
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「そういう言葉がエピクロスだけの言葉と考えてもらいたくはありません。それらは万人のものですし、特にわれわれのものです。」(セネカ「道徳書簡集」:第三三)
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この事は今私がやっている事でもあります。
古今東西の聖人賢人哲人たちの智慧の言葉を集めて、皆様に紹介しているのですから。
ところで、セネカはその哲学にどの様な概念を鏤めたのでしょうか。
実に沢山の、と言う事になりますが、
ここでは次の十の概念を取り上げてみました。
【哲学】、【理性】、【徳】、【善】、【神】、【自分】、【自由】、【自足】、【喜び】、【幸福】の十です。
さて、この十の概念でセネカは何を言っているのでしょう。
それは【哲学】(智慧を愛する事)によって、本当の【自分】自身に成りなさい、と言う事だけです。
その他の、【理性】、【徳】、【善】、【神】、【自由】、【自足】、【喜び】、【幸福】は、それを補足説明する為だけのものなのです。
『自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。』
これこそが、セネカの哲学の中心概念です。
この為にこそ、哲学を行うのです。
哲学とはphilosophia、智慧を愛する事。
セネカは智慧と言う言葉に換えて「英知」と言う言葉を使っています。
こちらの言葉の方が皆様には理解しやすいのかも知れませんね。
因みに王陽明は「良知」と言う言葉を使っていましたよね。
ところで英知(智慧)とは何でしょう。
それこそが皆様だと言っているのです。
皆様の最高最善なものが英知だと言っているのです。
「ほんとうに存在するものによって自分を満たす。」(プラトン「国家」)
皆様を皆様自身の英知で満たす、それこそが本当の自分自身に成ると言う事なのです。
『最高善のある場所はどこかとお尋ねですか。心です。』
皆様の心を最高善に満たす、それこそが本当の自分自身に成ると言う事なのです。
この為にこそ、哲学を行うのです。
哲学とはphilosophia、智慧を愛する事。
セネカは英知を愛する事と言い換えていますが、
この英知(智慧)とその他の九つの概念、すなわち「理性」、「徳」、「善」、「神」、「自分」、「自由」、「自足」、「喜び」、「幸福」とはどの様な関係にあるのでしょう。
次の様な順序で見て行く事にします。
先ずはこの英知(智慧)と「理性」、「徳」、「善」、「神」との関係から見て行く事にします。
何故なら、これら五つの概念は全て同義語なのですから。
次にこれら五つの概念と「自分」との関係について見て行きます。
これら五つのものが自分自身のものになる、これが本当の自分自身に成ると言う事なのですから。
『自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。』
「ほんとうに存在するものによって自分を満たす。」(プラトン「国家」)
そんな事について見て行きます。
次に「自分」と「自由」、「喜び」、「幸福」の関係について見て行きます。
自由、喜び、幸福とは、「自分が自分のものに成った」時の態様、有様の事である。
そんな事について見て行きます。
最後に「自足」について見て行く事にします。
それは「自分が自分に成る為」の方法論と言う事になります。
特に肉体についての。
その方法論と言えば、ただ自然に従えと言う事だけです。
「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福にかけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。」(エピクロス「断片」)
飢えない事、渇かない事、寒くない事、これらが満たされれば、その人の前には、広大な幸福の広野が広がっているのです。
そんな事について見て行きます。
それでは、英知(智慧)と九つの概念について、上記の順番で見て行きたいと思いますが、
その前にセネカが英知の事をどの様に言っているかを見る事にしましよう。
セネカは次の様に言っています。
『英知は人間精神の完全な善です。』と。
これで英知(智慧)の定義は十分だとして置きましょう。
それでは先ずこの英知と理性の関係について。
セネカは次の様に言っています。
『理性は人間の肉体のうちに隠された神的な魂の一部です』と。
ここでは理性は神の一部であると言っていますが、
それは理性は英知の一部でもあると言う事とも一緒なのです。
何故なら、神と英知は同義語なのですから。
なお、英知と神が同義語だと言う事については、「第十一章 セネカの智慧について」の中で、これらに関するセネカの言葉を纏めて掲載しますので、そこで皆様自身でその概念を得心して頂きたいと思います。
次に英知と理性と徳の関係について。
セネカは次の様に言っています。
『この完全な理性が徳と呼ばれ、それがすなわち崇高なるものと同じです』と。
この言葉には大きな意味が隠されています。
新約聖書に「神は愛なり」と言う言葉がありますが、
それと同じなのです。
完全な理性とは、英知の事であり、神の事です。(これについては、「第十一章 セネカの智慧について」において、これらに関するセネカの言葉を纏めて掲載しますので、そこにおいて皆様自身でご理解して頂きたいと思います。)
崇高とは神の態様表現です。
それからこれが一番大事なのですが、
セネカの言う所の徳とは、新約聖書で言う所の愛と同じ意味なのです。
ですから、『この完全な理性が徳と呼ばれ、それがすなわち崇高なるものと同じです』と言う事と、新約聖書の「神は愛なり」と言う事とは同じなのです。
もう少し補足説明をすると次の様になります。
完全な理性とは、英知の事であり、神の事であり、徳の事であり、愛の事であり、そしてそれは崇高なものであると言う事になりますが、それを要約して、引き締まった表現に直すと「神は愛なり」と言う言葉に成ると言う事なのです。
神とは、英知であり、愛であり、徳であり、完全な理性の事であり、そしてそれは崇高なものであると言う事なのですから。
少し分りづらいですが、そう言う事です。
後ほど、これらに関するセネカの言葉を纏めて「第十一章 セネカの智慧において」掲載しますので、そこにおいて皆様自身で理解して頂きたいと思いますが、
その前にセネカの徳に関する概念を少しだけ置いておきます。
『徳こそ人間を高め、死すべき人間どもが愛するものを越えた所に、人間を置きます。』
『徳よりも優れたもの、また美しいものは何一つありません。徳の命令に従って行われることは、すべての善きものであり願わしきものです。』
『徳を心から愛慕するならば、徳が触れるものすべて、他人にはそれがどのようなものに見えようとも、君には祝福と幸福をもたらすでしょう。』
『徳は自己の似姿にそれを引き寄せて、自己の色に染め付けてしまいます。それは行為でも友情でも、時としては、それが入り込んで整頓したすべての家庭を、美しく飾ります。その取り扱ったものが何であろうと、徳はそれを愛すべきもの、勝れたもの、驚くべきものにします。』
『なぜ徳は何ものも要求しないのか、とお尋ねですか。それは徳が、現にもっているものを喜び、現にもっていないものを望まないからです。徳にとっては、満足しているものが全て偉大なのです。』
『それは、徳がそのすべての活動を、あたかも自分の子供たちを眺めるがごとく、同じ眼でながめるものであることを、君に知ってもらいたいからです。すなわち徳が全ての活動に等しく配慮し、なかんずく困っている者たちには、いっそう深く配慮することをです。』
『徳に対立するものは、徳から何ものをも取り去りません。小さくなることもありません。ただ少し光を減ずるだけです。われわれの目にはおそらく前とは等しく見えず、それほど輝かないかも知れませんが、それ自体は同じであって、曇り空の太陽のように、隠れてはいますが、その力を絶えず働かしています。』
『辛いことでも苦しいことでも、その他どんな災いでも、何ら大きな力はもっていません。それらは徳によって包み隠されるからです。あたかも僅かな光を太陽の輝きが覆うように、もろもろの苦しみや悩みや不正を、徳がその偉大さによって打ち砕き圧し潰します。』
『徳の現れるところでは、どんな行為もみな同じ大きさと価値を持っています。』
『徳の精神は依然として偉大であり高潔であり、その英知は完全であり、その公正は不屈だからです。』
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」(新約聖書「コリントの信徒への手紙一」)
「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(新約聖書「ヨハネの手紙一」)
セネカの徳と新約聖書の愛は同なのです。
それでは次に善を見て行きましょう。
セネカは最高善と言うものを措定しています。
最高善とは何か。
もう皆様ははもう理解して下さっていますよね。
そうです、それが英知であり、完全なる理性であり、徳であり、そして神です。
神の事は後ほど述べますが、そうなのです。
それを様々な視点から見た場合その様に呼ばれる事になるのです。
英知とは求めれらるべきそのもの。
理性とは英知の働き。
徳とは理性の社会への働きかけ。
最高善とはそれらの概念、態様。
そして神とはそれらを人格化したもの。
さてそれでは、セネカは最高善をどの様に概念化しているのでしょう。
『最高善の何であるかを推量するには、沢山の言葉も遠回りの論議も要しません。言わば指先で指し示すだけでよく、多くの部分に分ける必要もありません。』
この表現は、『それ』を表現する時によく使用される表現です。
それとは何か。
『あの真の善は死滅しません。それは確実にして不変です、英知であり美徳です。』
ここに半分の答えが出ています。
すなわち英知であり美徳であると。
もう一つの答えは神です。
『最高善のある場所はどこかとお尋ねですか。心です。』
『われわれの探し求むべきものは何かと言うに、それは抵抗し得ざる或る力の支配を毎日受けないもののことです。それは何でしょう。それは心ですが、それは正しい、善い、大きな心のことです。この心を、人間の肉体に宿る神という以外に何と呼ぶでしょうか。』
最高善とは、英知(智慧)であり、徳(愛)であり、神であると。
それではその態様は如何なるものなのでしょう。
それこそが正に恍惚です。
これは老子が言った言葉ですが、
ブッダはそれをニルヴァーナと言いました。
エピクロスはそれを心の平静と言っていますが、
セネカもエピクロスと同じく心の平静と言っているのです。
『エピクロスの書物の中に二つの善のことがあります。その二つから、あの最高、ないし至福の善は形成されています。つまり苦痛のない体と、激情のない心です。これらの善は、十分に完全であれば、それ以上増大しません。十分なものが、どうして増大するでしょう。体に苦痛がないとすれば、この無苦痛に何が近寄れるでしょうか。心が変わらず平静であれば、この平穏に何が近寄れるでしょうか。』
『ああ、君はいつあの時を体験し得るのでしょうか。つまりそれは、時間が君には無関係だと分かる時であり、また君が平静で温和である時であり、しかも君は最高に満ち足りていているので、明日には関心のない時です』
これがセネカの求めた最高の状態です。
体に苦痛が無い事、これは飢えない事、渇かない事、寒くない事が満たされればそれで満足するのですから、後は心の平静を求めれば良いと言う事になります。
「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福かけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。」(エピクロス「断片」)
心の平静を求めて、常に心が平静である。
この様な人の事を神の如きと呼んでも何の差し支えないと思います。
しかし人間は肉体と欲情の生きものです。
決してそんな事は有り得ないのです。
しかしそんな事が有り得たのです。
それがイエスです。
イエスはあのゲッセネマの祈りの時を除いて何時でも何処でも平静そのものでした。
ですから、イエスの事を神の子と言い、愛の人と言い、智慧溢れる人と呼ぶのです。
何故イエスは、神の子と成り得たか、それは肉体と欲情を十字架に磔にしたからです。
もしセネカがイエスの事を知っていらら、イエスこそを最高善を体現したその人であると言った事でしょう。
『もし君の見た人間が、危険にあっても恐れることなく、欲望にも煩わされず、逆境にあっても幸福であり、嵐の真ん中にいても平静であり、またいっそう高い見地から人々を、また同等の見地から神々を眺める、そういった人間であるならば、そのような人に対する尊敬の念が、密かに君に近付かないでしょうか。君はこう言いませんか、『こういう心の態度は、その在り場所である、このちっぽけな肉体に似ているの考えるよりも、ずっと偉大な、ずっと崇高なものではないか。神的な力が、この人に天下ったのだ』と。』
それでは最後に神を見て行く事にしましよう。
神と英知と理性と徳と最高善の関係については、ほぼ理解して頂けましたよね。
それらは同じであると。
その視点が変わればと呼ばれ方も変わると。
それでは神について、セネカがどの様に表現しているのか見て行く事にしましよう。
『われわれの探し求むべきものは何かと言うに、それは抵抗し得ざる或る力の支配を毎日受けないもののことです。それは何でしょう。それは心ですが、それは正しい、善い、大きな心のことです。この心を、人間の肉体に宿る神という以外に何と呼ぶでしょうか。』
『神は君の近くに、君と一緒に、君の内部にいるのです。』
『どの善き人間にも『いかなる神かは知らねど、神が在ます。』』
『君は尋ねられます、『お前は神々のうちどういう神をお前の証人に受け入れたのか』と。無論、誰をも、つまり正しく善いことを愛する心を、傷つけない神です。』
『神には何も閉ざさていません。神はわれわれの心の間にあり、われわれの思考の真ん中に入って来ます。』
『人々が神のところへ行くことを君は驚くのですか。神は人のところへ来ます。いや、それよりももっと近く、人の中に入って来ます。』
神が皆様の心の中に鎮座しているのか、それとも入って来るのか、それはどちらでも良い事です。
もし皆様が賢人に近ければ、神様は皆様の心に鎮座しているでしょうし、そうでなければ時々皆様の心に入って来るのでしょう。
何故なら、それは正しい、善き、大きな心なのですから。
『では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。』
賢者は自らの心の中に神を創り上げているのですね。
神は『先取観念』です。
賢者はこの先取観念をより大きく育てているのです。
神とは人類における先取観念である。
この事はエピクロスが言いました。
そしてセネカはそれを更に発展させたのです。
セネカの神はエピクロスの神と全く一緒です
それは神の概念なのです。
私たち現代人が受け入れる事の出来る神なのです。
『われわれは、この神の仲間であり、またその手足です。われわれの心は感受性が強く、悪徳がそれを抑え付けない限り、あの神的なものに運ばれて行きます。われわれの体の姿勢は直立していて、天を眺めていますが、それと同じように心も、自ら欲するだけ遠くに達することが出来て、結局は神々と同等であることを望むことになるように、自然の力によって造られているのです。』
『神のいない精神は善き精神ではありません。神の種子が人間の体内にばら蒔かれているのです。これらの種子は、もし善き農夫がそれを受け取るならば、それらの始源と同様なものとなって現れ、それが発し来った源と同等なものに成長します。』
『神々を尊敬する第一歩は神々を信じることです。次は神々の尊厳を神々自身に帰し、かつ尊厳に必要不可欠である善意をも神々自身に帰すことです。』
「先ず第一に、神について共通な観念として人々の心に銘さているとおり、神は不死で至福な生者である、と信じ、神の不死性に縁遠いものや、至福性に不似合なものを神におしつけることなく、かえって、神の至福性と不死性とを保持することのできるものをことごとく、神のものと考うべきである。というのは、神々はたしかに存在はしてはいる、なぜなら、神々ついての認識は、明瞭であるから。しかし、神々は、多くの人々が信じているようなものではない、というのは、多くの人々は、かれらが一方では神々についてもっている考えを他方では捨てているからである。そこで多くの人々のいだいている神々を否認する人が不敬虔なのではなく、かえって多くの人々のいだいている臆見を神々におしつけるのが不敬虔なのである。というのは、多くの人々が神々について主張するところは、先取観念ではなくて、偽りの想定であって、それによると、悪人には最大の禍いが、いや最大の利益さえもが、神々からふりかかるというのだからである。けだし、神々は、つねにかれら固有の徳に親しんでいるので、かれら自身と類似した人々を受け入れ、そうでないものはみな、縁遠いものと考えるのである。」(エピクロス「メノイケウス宛の手紙」)
さて以上、英知と理性と徳と善と神の関係について述べて来ましたが、理解して頂けたでしょうか。
それらは皆同じです。
ただ視点が違っているだけす。
これらは人類が存続し続ける限り存続し続けるのです。
「光あれ」
そう言われた時、それは生まれたのです。
「主は、その道の初めにわたしを造られた。
いにしえの御業になお、先だって。
永遠の昔、わたしは祝別されていた。」(旧約聖書「箴言」)
これらを一言で纏めると『智慧』と言う事になります。
私は智慧について、三つの概念を立てています。
一番目の智慧は、智慧の根源として智慧の事です。
二番目の智慧は、智慧の根源として智慧から生まれて来る智慧の事です。
三番目の智慧は、一番目の智慧と二番目の智慧の橋渡しの役をする智慧の事です。
セネカの英知、理性、徳、善、神の五つの概念を分類すると次の様になります。
英知と神が、一番目に智慧に該当します。
英知とは一番目の智慧の純粋概念であり、神とはそれに人格性を持たせたものと言う事になります。
徳、これはキリスト教では愛、仏教では慈悲と言う事になると思いますが、これが二番目の智慧と言う事になります。
そして(完全な)理性、これはキリスト教では聖霊と言う事になりますが、これが三番目の智慧と言う事になります。
善とはこれらの智慧の実相(態様)と言う事になりますが、最高善と言う言葉を使う時は、英知であり、神であり、徳(「神は愛なり」と言う時の徳)の事を言う事になります。
哲学とはphilosophia、智慧を愛する事。
哲学とはこれらの智慧を熱烈に求める事なのです。
そしてセネカは正にその人であり、その一行一行毎にその情熱が迸っているのです。
ですから私はセネカが大好きなのです。
さてそれでは、次に「自分」について。
この事こそ、セネカが最も熱く語っている事です。
本当の自分自身に成る、
これが最高の善である。
この為には哲学しかその道は無い。
哲学とはpilosophia、智慧(英知)を愛する事。
それは理性を愛する事であり、徳を愛する事であり、善を愛する事であり、神を愛する事。
セネカはその事を熱く語っているのです。
『自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。』
『ごらんなさい。賢者がどんなふうに自分自身に満足しているかを。』
『賢者でなければ自己自身のもっているものに満足しません。』
『賢者は満ち足りているのです。たとえ何かが起こっても、別に気にも止めずそれを受け取って、側へ置くだけです。賢者の受ける楽しみは極めて大きく、永続するものであり、しかも真に自分自身のものです。』
『自分自身をもっている者は何も失いませんでした。しかし、自分自身をもつことに成功する者は、何と少ないことでしょう。』
『出来るだけ長い間自分自身と一緒にいるのは、人が自分自身を楽しむに値するものとしたときは、快いことです。』
『自分自身の内から生じた喜びは確固にして不動であり、またますます力を増し、最後に至るまで本人に随行します。』
『幸福な生活の原因や支柱である唯一の善は、自分自身を信頼することです。』
『『君は、わたしが今どんな利益を受けたかを尋ねるのかね。わたしは自分自身と友達になり始めたのだ。』彼は沢山の利益を受けたのです。』
『この自然の領域には、一人の人間が不幸と考えることがない限り、彼にとって何一つ不幸なことはない。』
『実際、哲学が僕に約束しているのは、僕を神に匹敵させることです。このために僕は招かれ、このために僕は来たのです。哲学よ、約束を守ってください。』
『自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。』
これこそがセネカの中心概念です。
その為にこそ哲学を行うのです。
哲学とはphilosophia、英知(智慧)を愛する事。
これは第一義ですが、
これは理性を愛する事であり、
徳を愛する事であり、
善を愛する事であり、
神を愛する事でもあるのです。
何故ならこれらは同義語なのですから。
そしてその目的は神の如き人間に成ると言う事になるのです。
所で私たち人間が、神の如き人間に成る事が可能なのでしょうか。
一年三百六十五日、神の如き人間である事は不可能です。
しかしほんの僅かな時間であればそれは可能なのです。
そこに哲学の神秘があるのです。
『ところで徳において主に重大なことは何でしょう。将来を熱望しないことであり、自己の日々を数えないことです。ほんの僅かな時間に、徳はもろもろの永遠の善を完成します。』
このほんの僅かな時間の間に、皆様は神の如き人間と成る事が出来るのです。
「神は愛なり」
一年三百六十五日、愛の人で在り続ける事は不可能です。
しかしほんの僅かな時間であれば、私たちは愛の人とも成る事が出来るのです。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」(新約聖書「コリントの信徒への手紙一」)
皆様もほんの僅かな時間で良いですので、忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたす、恨みを抱かず、不義を喜ばす、真実を喜び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐えて下さい。
そうすればその時皆様は、愛の人と成っているのです。
それは取りも直さず神の如き人間に成っていると言う事と同じ事なのです。
これこそが全ての哲学宗教の神秘、奥義なのです。
愛の人とは如何なる人でしょう。
それは忍耐強く、勇気があり、節制に富み、寛容であり、優しく柔和であり等々と言う事になりますが、
それを皆様の心の中の一瞬に閉じ込めるのです。
そうすればその時、皆様は愛の人です。
そしてその時、皆様は神の如き人間とも成っているのです。
何故なら「神は愛なり」なのですから。
その為にも哲学(智慧を愛する事)が必要なのです。
愛とは何か、徳とは何か、善とは何か、理性とは何か、英知とは何か、神とは何か、忍耐とは何か、節制とは何か、勇気とは何か、寛容とは何か、柔和とは何か等々、
そんな事を古今東西の聖人賢人哲人たちから学び、
それらを愛もしくは徳と言う形で、皆様の心の中に閉じ込めて置くのです。
そして皆様が社会に出た時、
社会とは皆様と皆様以外の人が関係する場と言う事になりますが、
その社会の一瞬一瞬において
その愛もしくはその徳を保持するのです。
そうすれば皆様は愛の人と成り、神の如き人間と成るのです。
しかし一年三百六十五日八七六〇時間中、それを保持する事は不可能です。
ですから私たちは完全なる愛の人、完全なる神の如き人間に成るのは不可能なのです。
しかし私たちは愛の人、神の如き人間に成る事に憧れています。
ですから私たちはそれを求める事になるのです。
一日に何回か、出来たら一時間ごとにとか、そんな風に自分を掻き立てるのです。
そうすれば、皆様も愛の人、神の如き人間に近付いて行く事が出来る様になるのです。
愛(徳)、
これは古今東西の聖人賢人哲人たちにおける中心概念です。
何故なら愛(徳)こそが智慧(英知)の実相なのですから。
ここで少しお浚いの意味を含めて孔子の「仁」に、その智慧と愛の実相を見て行く事にしましょう。
何故ここで孔子の仁なのか、それは孔子の仁には、智慧と愛(徳)の概念が一緒になっているので、「神は愛なり」と言う比喩をとても理解し易いと思ったからです。
神は英知。完全な理性が英知であり徳(愛)である。
これがセネカの思想ですが、孔子の仁はこれらを一纏めにした概念でもあるのです。
尤も孔子に神と言う概念はありませんが、セネカの言う神が「それは正しい、善き、大きな心」と言う事であれば、孔子の仁とセネカの神は全く一緒なのです。
孔子の仁の中には、セネカの言う英知、完全な理性、徳、そして神の全ての概念が含まれているのです。
ですから、孔子の言う仁の力も凄いのです。
「能く一日も其の力を仁に用いること有らんか、我れ未だ力の足らざるを見ず。」
もしその力を用いれば、出来ない事は無いも無いと、言う事なのですから。
その真髄は「克己復禮を仁となす」です。
これは「神は愛なり」と同じ言葉なのです。
己を殺して禮(聖霊)に復帰した時、皆様は神と成り、本当の自分と成り、そして仁と成り、愛と成り、徳と成るのです。
そしてその時、その皆様に天下が帰すのです。
「克己復禮を仁となす。一日、克己復禮すれば、天下仁に帰す。」
これが孔子の中心概念です。
智慧と愛の完成、これが全ての聖人賢人哲人たちの道です。
勿論孔子とセネカも。
「能く一日も其の力を仁に用いること有らんか、我れ未だ力の足らざるを見ず。蓋しこれ有らん、我れ未だこれを見ざるなり。」(「論語」)
「顔淵、仁を問う。子の曰く、克己復禮を仁となす。一日、克己復禮すれば、天下仁に帰す。」(「論語」)
「子の曰く、仁遠からんや、我仁を欲すれば、斯(こに)至る。」(「論語」)
「子の曰く、仁に里(お)るを美(よ)しと為す。」(「論語」)
「子の曰く、荀に仁に志せば、悪しきこと無し。」(「論語」)
「子の曰く、人にして仁ならずんば、禮を如何。人にして仁ならずんば、樂を如何。」(「論語」)
「君子、仁を去りて、悪(いず)くにか名を成さん。君子は食を終うる間も仁に違うことなし。造次(ぞうじ)にも必ず是(ここ)に於いてし、顛沛(てんぱい)にも必ず是(ここ)に於いてす。」(「論語」)
「曾子の曰く、士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任と為す、亦た重からずや。死して後已(や)む、亦た遠からずや。」(「論語」)
「顔淵、仁を問う。子の曰く、克己復禮を仁となす。一日、克己復禮すれば、天下仁に帰す。仁を為すこと己(おのれ)に由(よ)る。而して人に由(よ)らんや。顔淵の曰く、請う、その目(もく)を問わん。子の曰く、禮に非らざれば視ること勿かれ、禮に非らざれば聴くこと勿かれ、禮に非らざれば言うこと勿かれ、禮に非らざれば動くこと勿かれ。」(「論語」)
「仲弓、仁を問う。子の曰く、門を出(い)でては大賓(だいひん)を見るが如く、民を使うには大祭に承(つか)えるが如くす。己の欲せざる所は人に施す勿かれ。邦に在りても怨み無く、家に在りても怨み無し。」(「論語」)
「仲弓、仁を問う。子曰く、弟子、入りては則ち孝、出(い)でては則ち弟、慎みて信あり、汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しみ、行ないて余力あれば、則ち以て文を学ぶ。」(「論語」)
「司馬牛、仁を問う。子の曰く、仁者は其の言や訒(じん)。曰く、其の言や訒、斯れこれを仁と謂うべきや。子の曰く、これ為すこと難(かた)し。これを言うこと訒なること無きや。」(「論語」)
「樊遅、仁を問う。子の曰く、人を愛す。」(「論語」)
「子張、仁を孔子に問う。孔子の曰く、能く五つの者を天下に行うを仁と為す。これを請い問う。曰く、恭寛信敏恵なり。恭なれば則ち侮られず、寛なれば則ち衆を得、信なれば則ち人任じ、敏なれば則ち功あり、恵なれば即ち人を使うに足る。」(「論語」)
「子の曰く、志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無し。身を殺して以て仁を成すこと有り。」(「論語」)
「子貢が曰く、如(も)し能く博く民に施して能く衆を済(すく)わば、如何。仁と謂うべきか。子曰く、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。尭舜も其れ猶お諸(こ)れを病めり。夫れ仁者は己を立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近くを取りて譬う。仁の方(みち)と謂うべきのみ。」(「論語」)
「子曰く、剛毅木訥、仁に近し。」(「論語」)
「子曰く、巧言令色、鮮(すく)なし仁。」(「論語」)
「仁を好みて学を好まざれば、其の蔽や愚。」(「論語」)
「子夏が曰く、博く学びて篤く志し、切に問いて近くに思う、仁其の中に在り。」(「論語」)
「子曰く、民の仁に於けるや、水火よりも甚だし。水火は吾踏みて死する者を見る。未だに仁を踏みて死する者を見ざるなり。」(「論語」)
「仁を欲して仁を得たり、又た焉(なに)をか貪らん。」(「論語」)
「仁を求めて仁を得たり。又た何ぞ怨みん。」((「論語)
「子の曰く、朝に道を聞きては、夕べに死すとも可なり。」(「論語」)
本当の自分自身に成る、
その方法は哲学以外にはありません。
智慧を愛して愛し抜けば、皆様も何時しか、愛の人、徳の人、仁の人と成ります。
それを一年三百六十五日、保持し続ければ、神の如き人間と言う事に成るのです。
セネカが求め続けたそれです。
しかしセネカはそれを達成する事は出来ませんでした。
そして私たちも出来ないのでしょう。
何故ならあの孔子さえ出来なかったのですから。
「能く一日も其の力を仁に用いること有らんか、我れ未だ力の足らざるを見ず。蓋しこれ有らん、我れ未だこれを見ざるなり。」
しかしその力は大きなものがあります。
もし皆様が日に何度か、愛を徳を仁を自らに体感すれば、そこに大きな力を実感する筈です。
何故ならそれは英知(智慧)であり、神なのですから。
そこには自分の必要とする徳が全て詰め込まれているのですから。
「子夏が曰く、博く学びて篤く志し、切に問いて近くに思う、仁其の中に在り。」(「論語」)
これが哲学の道です。
もし万が一皆様が、自分一人で居る時も、社会に在る時も、常に、愛を、徳を、仁を、英知を、智慧を保持し続ける事が出来れば、皆様の哲学の道はそこで終了です。
『哲学は道を行き、英知は道の終わりです。』
その時皆様はきっとこう言う筈です。
「朝に道を聞きては、夕べに死すとも可なり。」(「論語」)と。
その英知(智慧)に辿り着いた時の状態が、自由であり、喜びに満ち、幸福であると言う事になるのです。
「真理はあなたを自由にする」
この真理こそが、英知(智慧)であり、キリスト(救い主)です。
皆様を自由と喜びと幸福に中に招き入れるのが、皆様の英知(智慧)であり、皆様のキリストなのです。
それこそが皆様の本当の自分自身なのです。
『自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。』
セネカの言うこの意味が分かって頂けたでしょうか。
もし一年三百六十五日、英知(智慧)と共に在り続けられたら、それこそ正に神の人です。
しかし私たち人間にはそんな事は不可能ですが、
一日の内何時間かはそこに在り続けらる事が出来るのです。
もし皆様がそれを求めて、
そこに喜びがあり、自由であり、幸福であり、無垢であり、そして心に何の煩いも無ければ、その時皆様は英知(智慧)と共にあると考えて良いのです。
何故なら英知(智慧)とは本当の自分自身の事なのですから。
自分が自分に成る、
それは皆様が自分自身で感じる事が出来る筈です。
何故なら自分が自分に成るのですから。
自分が自分に成る、
これ以上に素敵な感覚はありません。
皆様がその感覚を感じた時、
皆様は自分自身に成っているのです。
『自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。』
その時の感覚が至福。
老子はそれを恍惚と言い、ブッダはそれをニルヴァーナと言い、エピクロスはそれを心の平静と言い、セネカも同じく心の平静と言っているのです。
それを心の平安と呼んでも良いと思います。
それは自分が自分自身に成った時の心の状態の事なのです。
『もしわれわれが何時かこのような汚泥から脱して、あの荘厳にして卓越した高みに登るならば、そこには心の平安がわれわれを待っているとともに、もろもろの過ちが駆逐されたときは、完全な自由が待っています。この自由が何かをお尋ねですか、それは人間をも、神々をも恐れないことです。不品行も過度も望まないことです。自分自身のうちに最高の力をもつことです。自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。』
『ああ、君はいつあの時を体験し得るのでしょうか。つまりそれは、時間が君には無関係だと分かる時であり、また君が平静で温和である時であり、しかも君は最高に満ち足りていているので、明日には関心のない時です。』
セネカはこれを体験したのでしょうか。
体験しました。
だからこの様に記述出来たのです。
古今東西の聖人賢人哲人たちもこの事を体験しました。
だから記述出来たのです。
何もこれは事難しい事では無いのです。
誰でも体験可能な事なのです。
ですから私たちはこの記述へと惹かれて行くのです。
一年三百六十五日は無理ですが、
一日の内何時間かは可能なのです。
だから皆様もこの記述に惹かれて行くのです。
ニルヴァーナ、恍惚、心の平静、中、無心、無垢、神と共に在る等々、表現は様々ですが、
皆様お一人お一人に可能なのです。
哲学者は何故智慧を愛するのか、
それはこの恍惚が在るからに他ならないのです。
以上で自分と自由、喜び、幸福との関係についても、説明を終わった事にします。
最後に自足について。
自足については主に肉体の事を言っています。
その方法と言えば、ただ自然に従えと言う事だけです。
「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福かけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。」(エピクロス「断片」)
飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、この肉体の要求さえ満たされれば、皆様の前には広大な幸福の広野が広がっています。
何故ならそこに在るのは精神の広野だからです。
そここそが皆様の遊び場なのですから。
ここにおいて、皆様は本当の自分自身に成るのです。
自足とは主に肉体の事を言っていますが、大きな意味では精神の自足の事をも言っています。
『『富裕とは自然の法則に適応した貧乏である。』このことをエピクロスは、いろいろな言い方で、よく言っています。しかし、このことは幾度言っても言い足りることではありません――それは十分に理解されることが決してないからです。』
『『最大の富というものは、自然の法則に従った貧乏のことである』というのです。ところで、その自然の法則は、どれほどの限界をわれわれに課しているのか、ご存知ですか。飢えない程度、渇かない程度、冷えない程度です。』
『われわれが所有しているものは何一つ肝心なものはありません。自然の道に帰ろうではありませんか。そこにこそ富が用意されています。われわれが必要とするものは無料であるか、あるいは安価なものです。パンと水だけが自然の欲するものです。このような状況の内に自己の欲求を閉じ込めた者は誰でも、ゼウスの神とさえ幸福を競え合えるのです。』
『『自然に従って生きれば、決して貧者にはならないだろう。俗見に従って生きれば決して富者にはならないだろう。』自然の望むものは僅少ですが、俗見の望むものは限りがありません。』
『自然は要るだけのものには十分に足りています。ところが自然から遠ざかっているのが贅沢です。』
『自然の欲求は限られています。しかし偽りの俗見より生じた欲求は何処で思い留まるか、それを知りません。偽りの俗見には限度がないからです。』
『われわれは知らないのです――何ものも欲しくないということがどんなに楽しいことかを、また十分に満ち足りていて、運命には頼らぬということがどんなに素晴らしいことかを。』
さて以上で、英知(智慧)と理性、徳、善、神、自分、自由、自足、喜び、幸福の関係について見て来ましたが、未だ「第十一章 セネカの智慧について」には入っていません。
何故か、
それは私の解説なしに、皆様に、セネカの哲学への熱き思いを一気に読み込んで頂きたいからに他なりません。
断片ですが、それでもセネカの熱き思いは伝わると思います。
この断片を機に、皆様には是非セネカの「道徳書簡集」全部を読んで頂きたいのです。
ここで言う皆様とは日本国民皆様の事です。
もし日本国民皆様がセネカの「道徳書簡集」を読んで頂ければ、
この日本に哲学への熱き思いが湧き起こる事になると思います
これが『哲学国家日本』への第一歩です。
セネカの思想と私の思想は全く一緒です。
セネカが私の思想の代弁者として、その権威で以て、この日本を席巻して呉れる事でしょう。
この日本に哲学への熱き思いを、
そんな願いを込めて、「第十一章 セネカの智慧について」を始めたいと思います。
なお、「第十一章 セネカの智慧について」は、「哲学」、「理性」、「徳」、「善」、「神」、「自分」、「自由」、「自足」、「喜び」、「幸福」の標題の下に纏めていますが、簡単にもう一度、そのエッセンスを記して置きます。
先ずは「哲学」、
ここにおいて、セネカの哲学への熱き思いを感じて取って下さい。
哲学とはphilosophia、智慧(英知)を愛する事。
この哲学こそが、皆様に幸福を齎すのです。
それは何時の世においても変わらない事。
何故なら、その智慧とは世界人類普遍の智慧の事であり、そして皆様お一人お一人の智慧の事なのですから。
智慧とは何か。
それは皆様の本当の自分自身。
それは最高最善のもの。
そしてそれは人類全てにおいて同じ。
皆様自身が本当の自分自身に成る、
それは皆様に取っての最高の善であると同時に、
人類にとってもまた最高の善なのです。
その善に一生を捧げる、それが哲学者(智慧を愛する者)の仕事と言う事に成るのです。
どうか、皆様も哲学者と成って、この世に皆様自身を輝かせて下さい。
次に「理性」、
これは智慧(英知)の働きの事です。
皆様が常に最高最善のもの、それは智慧(英知)とも呼ばれるし、徳とも呼ばれるし、神とも呼ばれるし、時には本当の自分自身と呼ばれる事も有るかも知れませんが、それを求める時にそれらから齎される働きと言って良いのでしょう。
それをセネカ風に言うと、その時々における最善の判断力と言う事にも成るのでしょう。
その個々の判断力を養う為にも哲学が必要となるのです。
『何ごとが起こっても、賢者は言います、『わたしはそれを知っていた』と。』
理性の働きをここまで高めて置く必要があります。
その為にも哲学(智慧を愛する事)が必要となるのです。
次に「徳」、
これはイエスの愛の事であり、ブッダの慈悲の事です。
徳、それは社会の中における理性の働きと言う事になるのでしょう。
セネカは完全な理性の働きの事を徳と呼んでいます。
それはまたイエスの愛の概念とも同じです。
それは「神は愛なり」と言う新約聖書の言葉に集約されます。
何故なら、完全な理性とは、英知の事であり、神の事なのですから。
ここにおいてもまた哲学が必要となります。
何故なら『哲学は徳の勉強ですが、しかし徳そのものによっての勉強です』なのですから。
次に「善」、
これは英知の、理性の、徳の、そして神の実相(態様)と言う事になるのでしょう。
最高善と言う言葉を使う時は、それは英知(智慧)の事であり、完全な理性の事であり、徳の事であり、神の事であると言う事になります。
『われわれは眼前に最高善という目的を置いて、それを目当てに努力し、それを目当てにして、われわれの行うべきこと言うべきことのすべてを考慮しなければなりません。』
ここで言う最高善とは、その時々において、智慧(英知)ともなり、完全な理性ともなり、徳ともなり、神となりますが、
最も実相として現れるは、「神は愛なり」と言う時の徳(愛)の時となります。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(「マタイ福音書」)
愛(徳)をこの世に実現した時に、皆様は神の国、天の国に入る事になるのです。
その時、「神は愛なり」と言う鐘が鳴り響く事になるのです。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)
この黄金律は全ての哲学宗教に貫かれているのです。
次に「神」、
これについては皆様が最も興味のある所だと思います。
この定義如何によって、皆様は神を受け入れる事も出来るし、また忌避する事にもなるのですから。
セネカは神をどの様に定義しているのでしょう。
『われわれの探し求むべきものは何かと言うに、それは抵抗し得ざる或る力の支配を毎日受けないもののことです。それは何でしょう。それは心ですが、それは正しい、善い、大きな心のことです。この心を、人間の肉体に宿る神という以外に何と呼ぶでしょうか。』
何と言う神の定義でしょう。
セネカはこう言っているのです。
神とは『正しい、善い、大きな心』だと。
その心は皆様が常日頃から求めているものではありませんか。
だったら神を求めましょう、そして愛しましょう。
そんな事を学んで欲しいと思います。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)
勿論隣人を愛する事も一緒に学びましょう。
次に「自分」、
『自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。』
セネカが言いたかったのはこの事だけです。
この事を皆様に説得させる為に実に沢山の概念を繰り出して来たのです。
皆様が飽きない様に、様々な視点から、そして様々な比喩を用いて皆様を説得しようと頑張ったのです。
それは古今東西の聖人賢人哲人たちについても同じ事。
『自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。』
これ以上に素晴らしい事の何があるでしょう。
何時でも何処でも自分が自分である、何と素晴らしい事でしょう。
上記の神の喩もその一つです。
自分自身の心が『正しい、善い、大きな心』であればどんなにか嬉しい事でしょう。
何故なら、それは神なのですから。
神以上に素晴らしい存在があるでしょうか。
そんな様々な比喩をここでは楽しんで下さい。
なお、本当の自分自身に成った時の有様を最も適格に表現したのは老子の次の言葉だと思います。
気分は恍惚ですが、そこには智慧と愛が溢れています。
そして古今東西の聖人賢人哲人たちもその智慧と愛について、善しと認証して呉れているのです。
すなわち、古今東西の聖人賢人哲人たちがこの『私』をまるまま善し認めて呉れているのです。
こんな素晴らしい事が何処にあるでしょう。
自分が自分に成るとはこう言う事なのです。
その為にも古今東西の聖人賢人哲人たちにその事を学ばなければならないと言う事にもなるのです。
「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。
道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。
其の中に象有り、恍たり惚たり。
其の中に物有り、窈たり冥たり。
其の中に精有り、其の精、甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。
古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。
吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」(「老子」)
次に「自由」、
これは自分が自分に成った時の有様の事です。
そこには何の煩いもありません。
その時の心の状態を、心の平静、無心、無垢、中、ニルヴァーナ、恍惚等々と呼んでもいいと思います。
「真理はあなたを自由にする」(新約聖書)
真理とは何かをも一緒に考えて欲しいと思います。
次に「喜び」、
これも自分が自分に成った時の有様の事です。
これも、心の平静、無心、無垢、中、ニルヴァーナ、恍惚等々を別な角度から見た表現と言う事になります。
皆様にはどうかこの喜びを学んで欲しいと思います。
何故なら喜びなら皆様も理解できるからです。
皆様がこの喜びを知った時から、
哲学は皆様から離れず、
皆様もまた、哲学から離れられなくなります。
次に「幸福」、
これも自分が自分に成った時の有様と言う事になりますが、
突き詰めるとただの概念と言う事になります。
自分は不幸で無いと表明する時の反対概念と言う事にもなる様です。
『この自然の領域には、一人の人間が不幸と考えることがない限り、彼にとって何一つ不幸なことはない。』
勿論、自らを幸福であると表明する時、そこには自由があり、そして喜びに満ちていると言う事になります。
最後に「自足」ですが、
これは肉体を満足させる方法です。
その方法は自然に従えと言う事になります。
「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福かけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。」(エピクロス「断片」)
そこには幸福の広野が広がっている筈です。
さてさて前置きが非常に長くなりましたが、
愈々「第十一章 セネカの智慧について」の始まりです。
どうかセネカの哲学に対する熱き思いを感じて取って頂きたいと思います。
そして皆様の心の中に哲学に対する熱き思いを湧き上がらせて下さい。
なお、皆様が一通り読み終わりましたら、また再会いたしましょう。
その時こそ、哲学への熱き思いを一緒に語り合いましょう。
それではセネカの哲学を堪能して下さい。
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