第十一章 セネカの智慧について
【哲学】
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「『この道は天の星に通ずるや。』実際、哲学が僕に約束しているのは、僕を神に匹敵させることです。このために僕は招かれ、このために僕は来たのです。哲学よ、約束を守ってください。」(セネカ「道徳書簡集」:第四八)
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「確かに賢者の心は哲学の全体の塊を抱いていて、われわれの視力が天空に達するにも劣らない速さで、哲学に達します。」(セネカ「道徳書簡集」:第八九)
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「哲学が単に地上の援助だけしか君に約束しないと考えたら、それは間違いです。哲学はそれ以上に高きを志します。哲学はこう申します――わたしは世界全体を隈無く探しても、自分を人間の共同生活のうちに留めおいて、諸君を励ましたり戒めたりするだけでは満足しない――と。偉大なものが僕たちを呼んでいます――われわれの遥か上部に置かれているものたちです。」(セネカ「道徳書簡集」:第九五)
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「ただ願わくは、たとえば宇宙全体の容貌がわれわれの眼界に現れるように、哲学の全体も同じように、われわれの心に浮かぶことが出来れば幸いです――宇宙に最もよく似た光景として。」(セネカ「道徳書簡集」:第八九)
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「精神のすべてを哲学に向け、その足下に座しそれを敬慕しなさい。すると、大きな間隔が君と他人との間に出来るでしょう。あらゆる人間どもを君は遥か遠くに追い越すでしょう。いや、神々でさえも君をそれほど遠くに追い越していないでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第五三)
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「僕が立ち上がり、回復したのは一に哲学の賜だと思います。僕の生は哲学のおかげであり、しかも偏に哲学のおかげです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七八)
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「君に出来る限り、哲学に戻るべきです。哲学はその胸に君を抱いて保護するでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第一〇三)
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「『君は哲学に仕えねばならぬ――真の自由が君に与えられるために。』哲学に自己を委ね託する者は拘留されることはありません。彼は直ちに釈放されます。というのは、哲学に仕えることそれ自体が、自由だからです。」(セネカ「道徳書簡集」:第八)
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「哲学が至る所でわれわれをどれほど励ましてくれるか、またキケロの言葉を借りれば、哲学は最大の事柄において如何にわれわれを助け、同時に最小の事柄にまでも降ってくるかを、君はまだご存知ないのです。どうか僕を信じ、哲学を相談相手に招きなさい。」(セネカ「道徳書簡集」:第十七)
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「ところで、われわれを目覚ますのは哲学だけでしょう。これのみが深い夢を振り払うでしょう。哲学に君のすべてを捧げなさい。君は哲学に適していますし、哲学も君に適しています。互いに抱き合ってください。その他の事柄はすべて退けてください――勇敢に、断固として。」(セネカ「道徳書簡集」:第五三)
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「『道は力で作られる。』そして、この道を君に与えるのは哲学でしょう。哲学の勉強に没頭しなさい――もし君が健康であり、心配がなく、幸福で有る事を望むならば。要するに、もし君が自由であること――これが最も重要なことですが――を望むならばです。これに到達するためには他の方法はありません。」(セネカ「道徳書簡集」:第三七)
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「哲学の力は信じられないほど強力です。哲学の体の中には如何なる矢も刺さっていません。守りが固く、何ものをも突き通せないからです。哲学は或る矢の力は弱め、軽い矢でもあるかのごとく、自分の着物のゆったりとした襞でこれを避けるし、また或る矢は追い払い、それを射た者の方へそれを投げ返すのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第五三)
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「われわれは哲学で周りを囲まねばなりません。それは奪取し難い城壁で、運命がそれを沢山の兵器を持って攻撃しても越えられません。」(セネカ「道徳書簡集」:第八二)
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「哲学に難を避けねばなりません。この研究は善き人々にはもちろん、半悪人たちにとっても、言わば頭の飾りのようなものと思います。つまり、裁判所での弁論や、その他民衆を扇動するたぐいの者には敵対者がいますが、哲学は平穏であり、自らの勤めだけに関わり、軽蔑をうけることはありえず、あらゆる職業から――たとえ極悪人でさえも――尊敬されます。」(セネカ「道徳書簡集」:第十四)
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「しかるに生活の技術を教えると自ら称するもの(哲学)は、如何なる状況によってもその働きを禁じられることはありません。なぜなら、それらはもろもろの妨害を打ち砕き、もろもろの障害を突破しているからです。」(セネカ「道徳書簡集」:第九五)
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「死の影が見えてきても、哲学は人を晴れやかにし、肉体がどんな状態にあっても人を強くし、かつ喜ばしく、またたとえ肉体は衰えても、人を衰えさえることはありません。」(セネカ「道徳書簡集」:第三〇)
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「他の薬は健康になってからの楽しみですが、哲学という薬は健康によいと同時に美味でもあります。」(セネカ「道徳書簡集」:第五○)
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「そうなると彼らは最後に、恐怖の揚句哲学を学ぶことになり、悲惨な運命から健全な助言を求めるのをごらんになるでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第九四)
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「精神があらゆる汚れから清められて輝くとき、その精神の思索から得られる楽しみは、また格別のものです。今でも覚えておられるでしょうが、君が子供服を脱いで大人の着物を着、大広場に連れて行かれたとき、どんなに喜びを感じたことでしょう。しかし子供の心を捨て、哲学が君を大人の世界に移し入れたときには、もっと大きな喜びを期待してよいでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第四)
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「善良な精神は、すべての人に開かれています。これに従えばわれわれはすべて高貴です。何人をも退けず、また選ばないのが哲学です。哲学はすべての人間に輝きます。」(セネカ「道徳書簡集」:第四四)
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「もし哲学に何か善いことが別にあるとすれば、家柄を問わないことです。人間は誰でも、最初の起源に戻れば、みな神々から発しています。」(セネカ「道徳書簡集」:第四四)
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「哲学者たちの一覧表を手に取ってごらんなさい。そうすること自体が君を強いて目覚めさせるでしょう――なんと多くの人たちが、君のために骨折っているかを見るならば。君も彼らの中の一人でありたいと熱望するでしょう。なぜなら、高貴なものに駆り立てられる最も善いものを、それ自らの中にもっているのは高邁な精神ですから。」(セネカ「道徳書簡集」:第三九)
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「ローマの古い習わしで、現にわれわれの時代まで残っているものですが、手紙の始めに「貴下ますますお元気の段大慶に存じます。当方も元気に過ごしております。」という言葉を付けることです。われわれなら「貴下ますます哲学に御精進の段大慶に存じます」と付けるのが正しいでしょう。つまり「元気」というのは全くこういう意味ですから。哲学することがなければ心は病んでいるのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第十五)
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「暇になったとき哲学の勉強をするのではいけません。他のことはすべてなおざりにしても、哲学には仕えなければなりません。哲学のためには、どんなたくさんの時間があっても多過ぎることはありません――たとえ少年期から、人間の寿命の最大限まで命が延ばされたとしても。」「道徳書簡集」:第七二)
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「哲学は時間は与えますが、それを受け取りません。哲学は暇つぶしにやるものではなく、常にやるべきものです。それは女主人であって、それに近付くことを命じます。」(セネカ「道徳書簡集」:第五三)
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「哲学の勉強を放棄するといっても、あるいは中止するといっても、大した違いはありません。それは中断されたところに留まるのではなく、あたかもぴんと張られたものが切れるように、忽ちその始めにまで戻ります。連続が断たれたからです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七二)
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「君は哲学を心の底に沈め、君の進歩の証拠を単に言うことや書く物だけでなく、君の精神の強固さと、欲望の減少とをもって受け取るように勧めます。君の言葉を君の行為によて証明してください。」(セネカ「道徳書簡集」:第二十)
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「哲学が教えるのは行うことであって、語ることではありません。哲学が要求するのはこういうことです――各人は自己の方式に則って生活すること、言うことと生活が矛盾しないこと、更に、内なる生活そのものが自己のあらゆる行為と一つであって、色の違いがないことです。」(セネカ「道徳書簡集」:第二十)
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「哲学の進歩は通俗的な技巧ではなく、みせびらかすために用意されたものでもありません。言葉ではなく、内実が問題です。何かの慰安で一日を費やし、暇な生活から退屈を取り除くために利用されるものではありません。それは心を形づくり、精巧に仕上げます。生活を秩序だて、行動を規定し、為すべきことと為すべからざることを教えます。操縦席に座って、荒波に揺れる不安のなかに進路を開いてくれます。」(セネカ「道徳書簡集」:第十六)
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「哲学の唯一の任務は、神および人間の事柄について真実を発見することです。哲学からは宗教心も義務感も正義感も離れませんし、その他、もろもろの徳が組み合わさり互いに密着し合っている一団の全体も、哲学から離れません。哲学がわれわれに教えているのは、神々のことを崇め尊び、人間的なことを愛することです。」(セネカ「道徳書簡集」:第九〇)
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「哲学は徳の勉強ですが、しかし徳そのものによっての勉強です。」(セネカ「道徳書簡集」:第八九)
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「ところでどうでしょう。哲学は人生の法律ではありませんか。」(セネカ「道徳書簡集」:)
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「哲学というものは良い忠告です。」(セネカ「道徳書簡集」:第三八)
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「それでは、あの賞賛すべき、またあらゆる学術、あらゆる事物に優っているとされる哲学は、一体何を行うのでしょうか。」(セネカ「道徳書簡集」:第二九)
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「神々は哲学の知識は誰にも与えませんでした――その能力はすべての人に与えましたが。と言うのは、もし神々が哲学をも普通一般の善としていたならば、またもしわれわれが生まれつき賢明であったならば、英知はそのうちにもっている最良のものを失っていたでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第九〇)
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「誰が次のことを疑うことが出来るでしょうか。われわれが生きるのは不死なる神々の御手のおかげであるが、善く生きるのは哲学のおかげであることを。ですから、単に生きることよりも、善く生きることがもっと大きな恩恵でればあるだけ、われわれは神々によりも哲学に一層多くの御蔭をこうむっているわけですが、このことは、哲学そのものを神々がわれわれに与えてくれなかったとすれば、正しいことと認められたでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第九〇)
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「英知と哲学はどこが違うかを申しましょう。英知は人間精神の完全な善です。哲学は英知への愛であり、またそれへの渇望です。哲学は、英知がすでに達したところに達しようと努めます。哲学がそう呼ばれる理由は明らかです。つまり哲学はその名称そのものによって、その愛の対象を表しているのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第八九)
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「哲学と英知の間には何らかの相違があることは、ほぼ確定しています。なぜなら、求められるものと求めるものが同じになることは不可能だからです。貪欲と金銭の間には大きな相違があります――前者は願い求め、後者は願い求められるものだからです。それと同じような相違が哲学と英知の間にもあります。つまり後者は前者の結果であり報酬です。哲学は道を行き、英知は道の終わりです。」(セネカ「道徳書簡集」:第八九)
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「英知は幸福な状態に向かって進み、それに向ってわれわれを導き、それに向って道を開きます。」(セネカ「道徳書簡集」:第九〇)
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「それゆえ思い出してください――英知の結果はこれ、すなわち喜びが常に一様であるということを。賢者の心と言えば、月の上方に広がる天空のごときものです。そこには、常に晴朗な大気があるのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第五九)
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「僕にとっては英知を熟考すること自体は、いつも多くの時間を奪い取ります。僕はそれを呆然として眺めますが、正に天空を眺める時と少しも変わりません。」(セネカ「道徳書簡集」:第六四)
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「では、人生の最も充実した期間とはいつのことかとお尋ねですか。それは英知に達するまでの生活です。それに達した者は最も遠い終点ではなく、最も重大な終点に到着したのです」(セネカ「道徳書簡集」:第九三)
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「なかんずく次のような利点を英知はもっています。誰も上昇中でない限り他の者に負ける気遣いはないということです。いったん頂点に達してしまえば、誰も甲乙はありません。もう上昇の余地はありません。勝負は終わりです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七九)
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「この道は恐らく忠告しなくても、英知は自分で自分自身に示すでしょう。英知はすでに心を正しい心を正しい方向でなければ動かせないところまで導いてしまたのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第九四)
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「英知の最高の義務と証拠は、言葉と行動が調和を保つことであり、自己が何処においても自己自身と同等であり同一であることです。」(セネカ「道徳書簡集」:第二十)
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「英知は大きく、かつ広いものです。それには自由な場が必要です。神的なことも人間のことも学ばねばなりません。また過去のことも未来のことも、束の間のことも永遠のことも、また時間のことも。」(セネカ「道徳書簡集」:第八八)
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「英知は平和を愛し、人類を和合に呼び寄せるのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第九〇)
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「英知のことを或る人々は、神的なことと人間的なこととの知を言う、と定義しています。」(セネカ「道徳書簡集」:第八九)
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「英知の勉強に努めないならば、幸福に生きることも、あるいは生きることに我慢さえ出来る者はありません。」(セネカ「道徳書簡集」:第十六)
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「しかもなお唯だ一つの真に自由な勉強があります。すなわち自由を創造する勉強です。それは英知に関する勉強であり、崇高で、強力で、しかも雅量のある勉強です。」(セネカ「道徳書簡集」:第八八)
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「たとえ旅費はなくても、哲学に至る旅はできるのです。正に然りです。あらゆるもの手に入れてから、英知をも手に入れようと思うのですか。英知は人生の最後の道具で、言わば付け足しでしょうか。」(セネカ「道徳書簡集」:第十七)
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「君が無知である限り、その間は勉強を続けるべきです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七六)
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「無知は低級なものであり、卑しく、下品で、卑屈で、様々な欲情、しかもきわめて残酷な欲情のとりこになります。このよう大変酷い主人であるもろもろの欲情は、時には交互に、また時には一緒になって命令を下しているのですが、それらを君から解き離すものは英知で、これのみが真の自由です。」(セネカ「道徳書簡集」:第三七)
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「『わたしはどれだけ進歩するだろうか』と君はおっしゃる。君が得ようと試みただけ進歩します。何を待つことがありましょう。誰も偶然に賢明になることはありません。」(セネカ「道徳書簡集」:第七六)
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「英知の原理は潜伏しています。あたかも宗教儀式の、なかんずく神聖な部分は、その宗教の奥義を伝授された者のみが知っているだけですが、それと同じように哲学における秘密も、その神聖な儀式に引き入れられ受け入れられた者たちにのみ開示されるのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第九五)
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【理性】
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「理性は人間の肉体のうちに隠された神的な魂の一部です。」(セネカ「道徳書簡集」:第六六)
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「真の理性が勧めることは堅実で永続します。それは心を強固にし高揚させます。」(セネカ「道徳書簡集」:第六六)
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「理性が強固になり不変になればなるほど、それはいっそう逞しく、恐怖や危険を通り抜けて進んで行く事でしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第七四)
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「理性を愛しなさい。理性への愛は、君を最大の危機に対して武装させるでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第七四)
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「理性のみが不変であり、その判断を固守します。理性は感覚の奴隷ではなく、その支配者ですから。理性が理性に等しいのは、直線が直線に等しいのと同じです。」(セネカ「道徳書簡集」:第六六)
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「人間に独自なものは何でしょう。理性です。これが正しく、しかも完全であれば、人間の幸福は満たされることになります。」(セネカ「道徳書簡集」:第七六)
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「この完全な理性が徳と呼ばれ、それがすなわち崇高なるものと同じです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七六)
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「人間の徳には、ただ一つの尺度が使われるだけです。正しく純粋な一つの理性があるだけですから。」(セネカ「道徳書簡集」:第六六)
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「理性から徳が生じ、徳は真実と共にあり、真実は理性なくしてはあり得ません。」
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「徳は真っ直ぐな理性に他なりません。」(セネカ「道徳書簡集」:第六六)
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「理性だけが人間を完全にするのですから、理性が完成されれば、それのみが人間を幸福にします。つまりこれが唯一の善であり、それによってのみ人間は幸福にされます。」(セネカ「道徳書簡集」:第七六)
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「すなわち幸福な生活が基づくところはこの一事、つまり、われわれのうちにある理性が完全になるということです。なぜなら、完全な理性のみが精神を屈服させず、運命に対して厳として向かい立っているからです。人々の境遇がどんな状態にあっても、この理性は人々を安全に保ちます。しかも、これのみが決して破砕されることのない唯一の善です。」(セネカ「道徳書簡集」:第九二)
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「真の善は、理性が与え、強固で不変で、さらに、堕落することはあり得ず、減少することもあり得ません。」(セネカ「道徳書簡集」:第七四)
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「もしあらゆるものを君に従わせようと望むならば、君自身を理性に従わせなさい。理性が君を支配したならば、君は多くのものを支配するでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第三七)
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「君は理性的な生きものです。では、君のうちにはどういう善があるのでしょう。完全な理性です。君はこれをその究極まで呼び込みませんか――それが最大に発展することが出来る程度まで。」(セネカ「道徳書簡集」:第一二四)
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「自慢すべきものは、奪い取られることも与えられることも出来ないもので、それこそ人間に固有のものです。そのものが何かを問われるのですか。それは心であり、心の中で成熟した理性です。」(セネカ「道徳書簡集」:第四一)
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「この理性が人間に要求するものは何でしょうか。それは最も容易なことです。すなわち人間の本性に従って生活することです。」(セネカ「道徳書簡集」:第四一)
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「『では理性とは何か。』自然を見習うことです。」(セネカ「道徳書簡集」:第六六)
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【徳】
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「徳こそ人間を高め、死すべき人間どもが愛するものを越えた所に、人間を置きます。」(セネカ「道徳書簡集」:第八七)
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「徳よりも優れたもの、また美しいものは何一つありません。徳の命令に従って行われることは、すべての善きものであり願わしきものです。」(セネカ「道徳書簡集」:第六七)
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「徳を心から愛慕するならば、徳が触れるものすべて、他人にはそれがどのようなものに見えようとも、君には祝福と幸福をもたらすでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第七一)
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「徳は自己の似姿にそれを引き寄せて、自己の色に染め付けてしまいます。それは行為でも友情でも、時としては、それが入り込んで整頓したすべての家庭を、美しく飾ります。その取り扱ったものが何であろうと、徳はそれを愛すべきもの、勝れたもの、驚くべきものにします。」(セネカ「道徳書簡集」:第六六)
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「ところで徳において主に重大なことは何でしょう。将来を熱望しないことであり、自己の日々を数えないことです。ほんの僅かな時間に、徳はもろもろの永遠の善を完成します。」(セネカ「道徳書簡集」第九二:)
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「なぜ徳は何ものも要求しないのか、とお尋ねですか。それは徳が、現にもっているものを喜び、現にもっていないものを望まないからです。徳にとっては、満足しているものが全て偉大なのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七四)
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「徳はわれわれのうちの何処をも空っぽにしておきません。それは心全体を占めていて、あらゆるもののの欲望を取り去ります。それのみで十分です。あらゆる善の力と源とが徳そのものにあるからです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七四)
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「徳は、たとえそれ自らの中に引き下がって、到る所から締め出されても、大きさは同じです。というのは、たとえそういう状況にあっても、徳の精神は依然として偉大であり高潔であり、その英知は完全であり、その公正は不屈だからです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七四)
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「徳に対立するものは、徳から何ものをも取り去りません。小さくなることもありません。ただ少し光を減ずるだけです。われわれの目にはおそらく前とは等しく見えず、それほど輝かないかも知れませんが、それ自体は同じであって、曇り空の太陽のように、隠れてはいますが、その力を絶えず働かしています。それゆえ徳に対しては幾多の災害も損害も不正も、ちょど太陽に対して雲がもっているような力をもっているに過ぎません。」(セネカ「道徳書簡集」:第九二)
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「辛いことでも苦しいことでも、その他どんな災いでも、何ら大きな力はもっていません。それらは徳によって包み隠されるからです。あたかも僅かな光を太陽の輝きが覆うように、もろもろの苦しみや悩みや不正を、徳がその偉大さによって打ち砕き圧し潰します。」(セネカ「道徳書簡集」:第六六)
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「それは、徳がそのすべての活動を、あたかも自分の子供たちを眺めるがごとく、同じ眼でながめるものであることを、君に知ってもらいたいからです。すなわち徳が全ての活動に等しく配慮し、なかんずく困っている者たちには、いっそう深く配慮することをです。」(セネカ「道徳書簡集」:第六六)
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「徳の現れるところでは、どんな行為もみな同じ大きさと価値を持っています。」(セネカ「道徳書簡集」:第七一)
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「徳のすべての働きは、徳自らと調和し一致します。」(セネカ「道徳書簡集」:第七四)
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「もし彼がどんな場合でも崇高なことに従い、どんな場合でも下劣なことを避け、また生活のあらゆる行動において次の二つのこと、つまり崇高なこと以外を善とは考えず、また下劣なこと以外を悪とも考えないとするならば、そして、徳だけが無傷なままであり、かつそれ自体の統一を持続するならば、そのときには徳が唯一の善であり、徳が善でなくなるという事態は最早起こり得ません。」(セネカ「道徳書簡集」:第七六)
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「徳の一部は学問に基づき、一部は訓練に基づきます。学ぶとともに、学んだことを実行によって確かめねばなりません。」(セネカ「道徳書簡集」:第九四)
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「『徳は唯一の善である。確かに徳がなければ如何なる善もない。そして徳そのものはわれわれの、より善き部分、すなわち理性的部分に置かれている。』では、この徳とはどういうものでしょうか。真の、しかも不動の判断力です。なぜなら、ここから心の躍動が生ずるでしょうし、ここから、躍動を刺激するあらゆる理想像が明瞭なものに変えられるでしょうから。この判断力に一致することによって、徳に色付けられたすべてのものを、善であり、相互に同等であると判断することが出来るでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第七一)
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「徳が心に生ずるのは、心が仕付けられ、教えられ、さらに不断の修練によって最高位に導かれることによる以外にはありません。無論われわれはこれを目的にして、しかしこれをもたずに、生れてきたのです。たとえ最善の人々にも、教えを受ける以前には、徳の素材はあっても、徳はありません。」(セネカ「道徳書簡集」:第九〇)
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「徳自体を学ぶためには、徳自体に関係することをすべて学ばねばなりません。行為が正しくあるためには、その意思が正しくあることを要します。その意思から行為が生ずるからです。また、意思が正しくあるためには、心の持ち方正しくあることを要します。その持ち方から意思が生ずるからです。さらに、心の持ち方が最も善い状態にあるためには、人生のあらゆる法則を吸収し、判断しなければならないことをも熟考することを要し、諸事実を真理に帰すことを要します。心の安静を得るのは、不変にして確実の判断を得た人々だけです。」(セネカ「道徳書簡集」:第九五)
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「徳は真っ直ぐな理性に他なりません。すべての徳は理性です。もしずべての徳が真っ直ぐであれば、それは理性です。もしそれらが真っ直ぐであれば両者は等しくもあります。」(セネカ「道徳書簡集」:第六六)
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「人間の徳には、ただ一つの尺度が使われるだけです。正しく純粋な一つの理性があるだけですから。」(セネカ「道徳書簡集」:第六六)
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「理性から徳が生じ、徳は真実と共にあり、真実は理性なくしてはあり得ません。」(セネカ「道徳書簡集」:第七六)
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「この完全な理性が徳と呼ばれ、それがすなわち崇高なるものと同じです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七六)
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「徳は自然に従っていますが、悪は自然に逆い敵意をもっています。」(セネカ「道徳書簡集」:第五○)
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【善】
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「最高善の何であるかを推量するには、沢山の言葉も遠回りの論議も要しません。言わば指先で指し示すだけでよく、多くの部分に分ける必要もありません。一体、最高善を崇高なものであると言うことが出来るとき、それを細部に分割することが、問題に何の関係がありましょう。さらに、もっと驚くべきことには、崇高な善のみが唯一の善であって、その他は偽りの、不純な善です。」(セネカ「道徳書簡集」:第七一)
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「最高善のある場所はどこかとお尋ねですか。心です。」(セネカ「道徳書簡集」:第八七)
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「この後者の部分に、人間のあの最高善がおかれています。そして、この善が十分に満たされないうちには、精神の不安定な動揺が止みません。それが十分に満たされたとき、精神の不動な安定が生じるのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七一)
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「あの真の善は死滅しません。それは確実にして不変です、英知であり美徳です。これだけが滅ぶべきものどもに与えられている唯一の不滅のものです。」(セネカ「道徳書簡集」:第九八))
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「最高善は外部からの救助を求めません。それ自体での内部で世話され、それ自体から全体を構成しています。」(セネカ「道徳書簡集」:第九)
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「最高の善は傷つけられも、大きくもされませんから。それは自らの境界のうちに、いつまでも存続します。」(セネカ「道徳書簡集」:第七四)
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「最高善なるものは、徳がその人のうちにありさせすれば、また逆境が人を弱めないならば、さらに肉体は消耗しても徳が無傷のままでいるならば、それ自体以上の段階はもっていません。依然として、そのままでいるのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七一)
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「われわれは眼前に最高善という目的を置いて、それを目当てに努力し、それを目当てにして、われわれの行うべきこと言うべきことのすべてを考慮しなければなりません。」(セネカ「道徳書簡集」:第九五)
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「何ごとを避くべきであり、何ごとを求むべきかであることを知ろうと思うときは、そのたびごとに、全生涯の目的である最高善を見返らねばなりません。」(セネカ「道徳書簡集」:第七一)
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「幸福な人生に達する最も勝れた方法は、崇高な善のみが唯一の善であるという信念をもつことに外なりません。」(セネカ「道徳書簡集」:第七四)
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「幸福になろうと心に決めている人があれば、崇高なるものが唯一の善であることを信じねばなりません。」(セネカ「道徳書簡集」:第七四)
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「すべての善を一挙に得ようとする努力にも、それ相応の甲斐はあります。つまり、崇高なる善は唯一つですから。」(セネカ「道徳書簡集」:第七六)
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「善き人には唯一の善、すなわち崇高なものがあります。」(セネカ「道徳書簡集」:第七六)
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「善の大部分は善人なろうとする意志です。」(セネカ「道徳書簡集」:第三四)
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「君を善にすることが出来るものは、すべて君自身のうちにあるのです。君が善になるためには、何が君に必要でしょう。善を望むことです。」(セネカ「道徳書簡集」:第八〇)
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「その善とは一体どういうものでしょう。すなわち、それは欠点のない清純な心であって神とも競い合い、人事をはるかに超越しており、自己以外の何ものをも自己とみなしません。」(セネカ「道徳書簡集」:第一二四)
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「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七五)
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「もし君が悲嘆に暮れることは決してなく、今後の予想によっても君の心は如何なる不安にも乱されることがないならば、さらに高潔にして自らに満足している心の持続が、昼夜を問わず等しく同じであるならば君は最高の善に達しているのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第五九)
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「英知によって、崇高なる善は一つであることを納得するでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第七一)
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「『では人間にとって最高の善は何か。』自然の意志に即して振舞うことです。」(セネカ「道徳書簡集」:第六六)
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「エピクロスの書物の中に二つの善のことがあります。その二つから、あの最高、ないし至福の善は形成されています。つまり苦痛のない体と、激情のない心です。これらの善は、十分に完全であれば、それ以上増大しません。十分なものが、どうして増大するでしょう。体に苦痛がないとすれば、この無苦痛に何が近寄れるでしょうか。心が変わらず平静であれば、この平穏に何が近寄れるでしょうか。」(セネカ「道徳書簡集」:第六六)
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「ああ、君はいつあの時を体験し得るのでしょうか。つまりそれは、時間が君には無関係だと分かる時であり、また君が平静で温和である時であり、しかも君は最高に満ち足りていているので、明日には関心のない時です。」(セネカ「道徳書簡集」:第三二)
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【神】
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「われわれの探し求むべきものは何かと言うに、それは抵抗し得ざる或る力の支配を毎日受けないもののことです。それは何でしょう。それは心ですが、それは正しい、善い、大きな心のことです。この心を、人間の肉体に宿る神という以外に何と呼ぶでしょうか。」(セネカ「道徳書簡集」:第三一)
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「神には何も閉ざさていません。神はわれわれの心の間にあり、われわれの思考の真ん中に入って来ます。」(セネカ「道徳書簡集」:第八三)
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「人々が神のところへ行くことを君は驚くのですか。神は人のところへ来ます。いや、それよりももっと近く、人の中に入って来ます。」(セネカ「道徳書簡集」:第七三)
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「神は君の近くに、君と一緒に、君の内部にいるのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第四○)
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「どの善き人間にも『いかなる神かは知らねど、神が在ます。』」(セネカ「道徳書簡集」:第四○)
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「君は尋ねられます、『お前は神々のうちどういう神をお前の証人に受け入れたのか』と。無論、誰をも、つまり正しく善いことを愛する心を、傷つけない神です。」(セネカ「道徳書簡集」:第八二)
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「神ご自身が人間どもに手伝うのであって、到る所に、またすべての人々の間近に神はいるからです。」(セネカ「道徳書簡集」:第九五)
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「神々は選り好みもしないし嫉妬もしません。人々を誰でも引き入れるし、昇りつつある者たちに手を貸します。」(セネカ「道徳書簡集」:第七三)
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「では、どういう理由で神々は善を行うのでしょう。それは神々の本性です。」(セネカ「道徳書簡集」:第九五)
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「実際、善き人間は誰も神なしではありません。神の助けなくして誰が運命を乗り越えて立ち上がれるでしょうか。神は高貴にして崇高な忠告を与えてくれるのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第四○)
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「神のいない精神は善き精神ではありません。神の種子が人間の体内にばら蒔かれているのです。これらの種子は、もし善き農夫がそれを受け取るならば、それらの始源と同様なものとなって現れ、それが発し来った源と同等なものに成長します。」(セネカ「道徳書簡集」:第七三)
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「われわれは、この神の仲間であり、またその手足です。われわれの心は感受性が強く、悪徳がそれを抑え付けない限り、あの神的なものに運ばれて行きます。われわれの体の姿勢は直立していて、天を眺めていますが、それと同じように心も、自ら欲するだけ遠くに達することが出来て、結局は神々と同等であることを望むことになるように、自然の力によって造られているのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第九二)
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「天上へは貧民窟からでも飛び上がってよいのです。ただ立ち上がり、『かつまたなんじを、神にふさわしき者に作り上げよ。』」(セネカ「道徳書簡集」:第三一)
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「神々を尊敬する第一歩は神々を信じることです。次は神々の尊厳を神々自身に帰し、かつ尊厳に必要不可欠である善意をも神々自身に帰すことです。」(セネカ「道徳書簡集」:第九五)
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「善き人々は神々に対して最高の畏敬の念をもたねばなりません。」(セネカ「道徳書簡集」:第七六)
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「君は神々の情けに浴したいは思いませんか。それなら善き人でありなさい。神々を真似る者は誰でも、神々を十分に崇め尊ぶ者です。」(セネカ「道徳書簡集」:第九五)
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「それは、われわれが神々に認めてもらえるように、将来は神々と等しく見られるように、さらに永遠の世界に眼を置くように命じます。」(セネカ「道徳書簡集」:第一〇二)
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「そういう者たちの心の方向に向きを変えさせましょう。そうすれば、この者たちはやがて神を標準にして人間を評価するでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第七一)
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「次のような言葉は、人間にとって有益な教えになりうるのではないか、と考えてください――あたかも神が見ているごとくに人間とともに生きよ。あたかも人間が聞いているごとくに神と語れ。」(セネカ「道徳書簡集」:第十)
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「『勇気と生気が体内に宿る者』、こういう人こそ、神々にも比せられ、自己の始源を覚えていて、そこに達しようと努めているのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第九二)
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「もし君の見た人間が、危険にあっても恐れることなく、欲望にも煩わされず、逆境にあっても幸福であり、嵐の真ん中にいても平静であり、またいっそう高い見地から人々を、また同等の見地から神々を眺める、そういった人間であるならば、そのような人に対する尊敬の念が、密かに君に近付かないでしょうか。君はこう言いませんか、『こういう心の態度は、その在り場所である、このちっぽけな肉体に似ているの考えるよりも、ずっと偉大な、ずっと崇高なものではないか。神的な力が、この人に天下ったのだ』と。(セネカ「道徳書簡集」:第四一)
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「では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。」(セネカ「道徳書簡集」:第八七)
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【自分】
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「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七五)
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「ごらんなさい。賢者がどんなふうに自分自身に満足しているかを。」(セネカ「道徳書簡集」:第九)
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「賢者でなければ自己自身のもっているものに満足しません。自分自身を軽視することによって苦労するのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第九)
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「賢者は満ち足りているのです。たとえ何かが起こっても、別に気にも止めずそれを受け取って、側へ置くだけです。賢者の受ける楽しみは極めて大きく、永続するものであり、しかも真に自分自身のものです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七二)
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「幸福な生活の原因や支柱である唯一の善は、自分自身を信頼することです。」(セネカ「道徳書簡集」:第三一)
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「不朽の喜びをもちたいと思う者は、真に自分自身を楽しまねばなりません。」(セネカ「道徳書簡集」:第七二)
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「自分自身の内から生じた喜びは確固にして不動であり、またますます力を増し、最後に至るまで本人に随行します。」(セネカ「道徳書簡集」:第九八))
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「自分自身をもっている者は何も失いませんでした。しかし、自分自身をもつことに成功する者は、何と少ないことでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第四二)
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「出来るだけ長い間自分自身と一緒にいるのは、人が自分自身を楽しむに値するものとしたときは、快いことです。」(セネカ「道徳書簡集」:第五八)
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「『君は、わたしが今どんな利益を受けたかを尋ねるのかね。わたしは自分自身と友達になり始めたのだ。』彼は沢山の利益を受けたのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第六)
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「人生は充実しておれば長いものです。しかし、それが充実するのは、心がその本来の善を自らに与え、それ自らの支配力を自らに及ぼすときです。」(セネカ「道徳書簡集」:第九三)
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「われわれの心すべきことは、すべての時間はわれわれのものである、ということです。しかしこのことは、まずそれ以前に、われわれ自身がわれわれのものになり始めなければ不可能です。一体われわれはいつ幸・不幸いずれの運命をも軽蔑することに成功するのでしょうか。いつわれわれはあらゆる欲情を抑え付け、われわれ自身の支配下に置いて、『われ勝てり』という言葉を発することに成功するのでしょうか。」(セネカ「道徳書簡集」:第七一)
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「君はこう言うでしょう。『ではなんのために、こんなことを学んだのか』と。君は骨折り損をしたと恐れる理由はありません。君の学んだことは君自身のためなのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七)
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「よく整えられた精神の第一の証拠は、しっかりと立ち止まって、おのれ自らとともに静かに落ち着くことの出来ることだと思います。」(セネカ「道徳書簡集」:第二)
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「英知の最高の義務と証拠は、言葉と行動が調和を保つことであり、自己が何処においても自己自身と同等であり同一であることです。」(セネカ「道徳書簡集」:第二十)
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「何に喜ぶべきかを知り、自己の幸福を他のものの支配の下においていない者は、すでに頂上に達しています。」(セネカ「道徳書簡集」:第二三)
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「運命が睨みを利かしているすべてのものは、それらを自分のものにしている本人が、自分自身を自分のものにし、いやしくも自分の所有物の支配下にいない限りにおいてのみ、実りをもたらす楽しいものになります。」(セネカ「道徳書簡集」:第九八))
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「幸福で、完全に有徳な人は、最も勇敢に試練に堪えたときに自己を最もよく愛します。」(セネカ「道徳書簡集」:第七一)
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「賢者は自己をよく訓練してますから、逆境においても順境においても、いつも自己の徳を示し、徳が関係する事柄よりも、徳そのものに眼を向けます。」(セネカ「道徳書簡集」:第八五)
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「自分の力というものは、幾多の困難が方々から現れて、時にはわれわれに肉薄するまでに近付かない限りは、自分自身への確実な信頼を決して示すものではありません。このようにしてのみ、あの本当の心、つまり他者の判断のいいなりにはならない心が試練を受けるのです。これが心の試金石というものです。」(セネカ「道徳書簡集」:第十三)
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「僕は君に一つの簡潔な法則を差し上げましょう。君はそれによって自分自身を評価することが出来るでしょうし、またそれによって君がすでに完全な域に達していることを感ずることができるでしょう。すなわち、不幸な者こそが幸福であることを悟ったとき、君は本当の君自身を得るであろう、ということです。」(セネカ「道徳書簡集」:第一二四)
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「もし心が自分自身に満足し、自分自身を信頼し、さらに、死すべき人間どものらゆる願望も、与えられ求められる恩恵も、それらはすべて、幸福な生活においては何ら価値をもっていないことを知るならば、それが健康だと僕は考えます。」(セネカ「道徳書簡集」:第七二)
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「分別のある人の誰が、自分自身に固有でないもののために自らを誇るでしょうか。」(セネカ「道徳書簡集」:第九二)
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「人は自分自身のもの以外のものを誇ってはいけません。」(セネカ「道徳書簡集」:第四一)
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「各人は自分に自分自身の性格を与えます。」(セネカ「道徳書簡集」:第四七)
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「君は自分で自分を見て、自分で自分を誉めなさい。」(セネカ「道徳書簡集」:第七八)
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「僕が尋ねるのは、人間は自己のうちにどんな最も大きいものをもっているかではなくて、どんな自分自身のものをもっているかです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七六)
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「この場合本当に大切なことは、君が君自身をどのように思うかということであって、他人が君をどう思うかということではありません。」(セネカ「道徳書簡集」:第二九)
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「君の心がそれ自身に満足し、真の善、すなわち、それは認識されると同時に所有されるものですが、この善が認識されれば、君の心がそれ以上に年齢を加えることを望まないようになる能力です。」(セネカ「道徳書簡集」:第三二)
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「急いで君が君自身のほうに向かうことのほうが先決です。前進してください。そして何よりもまず、君が君自身に忠実であるように配慮してください。」(セネカ「道徳書簡集」:第三五)
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「君の思考の向かうところや、気遣うべきことや、選ぶべきことは――その他すべての願いは神に委ねるとして――君が本当の自分自身と、君自身から生まれた善きものとに満足することです。」(セネカ「道徳書簡集」:第二十)
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「君を善にすることが出来るものは、すべて君自身のうちにあるのです。君が善になるためには、何が君に必要でしょう。善を望むことです。」(セネカ「道徳書簡集」:第八〇)
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「真の善のみを目差し、君のものだけにしなさい。しかしこの『君のものに』というのはどういう意味でしょう。君自身に、つまり君の最善の部分に、ということです。」(セネカ「道徳書簡集」:第二三)
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「もしあらゆるものを君に従わせようと望むならば、君自身を理性に従わせなさい。理性が君を支配したならば、君は多くのものを支配するでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第三七)
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「君は出来る限り自分で自分を試し、自分を吟味すべきです。まず告訴人の、次に裁判官の、最後に謝罪人の役を演ずべきです。時には自分自身に苛酷に当らねばなりません。」(セネカ「道徳書簡集」:第二八)
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「君が多数の者の理解しうる人間であっても、果たして君が自分自身の気に入るという理由があるでしょうか。」(セネカ「道徳書簡集」:第七)
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「いちばん面倒なことは君の側にあります。君自身が君の厄介ものなのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第二一)
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「君が何ものにも満足しない限りは、君自身が他の人たちに満足を与えないでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第十九)
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「もし君が自分に役立つ、しかも誰の重荷にもならない統治を実行しようと望むなら、君自身の悪徳を追い払うことです。」(セネカ「道徳書簡集」:第九四)
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「君がそのように長い旅をし、そのようないろいろな地方を回ったとしても、心の悲しみ苦しみは追い払えなかった、ということです。君は心を変えるべきです、気候を変えることではありません。たとえ巨大な海を渡り、またヴェルギリウスが言っているように、たとえ『陸も町も次々に遠ざかって行く』としても、君の欠点は何処へ旅しようとも、後から後から付いてくるでしょう。これと同じ不満を述べた或る者に向かってソクラテスもこう答えました。方々へ旅しても、それが君には無益であったことをどうして君は驚くのか――君自身を持って回っているのに。君を遠くに追い出した同じ原因が、今も君の後を追っているのだ。」(セネカ「道徳書簡集」:第二八)
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「そんなに動き回っても、結局はなんの得にもなりません。そんな逃亡がなぜ君を助けないのか、その理由をお尋ねですか。君は自分と一緒に逃亡しているからです。心の重荷を捨てねばなりません。そうしないうちは、何処へ行っても君の気に入る所はないでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第二八)
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「しかし君は今旅をして回っているのではなく、場所から場所へとうろつき回り、追い立てられているのです――君の求めるもの、つまり良く生きるということは、あらゆる場所で見付かるものですが。」(セネカ「道徳書簡集」:第二八)
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「君は或ることについてそんなに憤たり、あるいは不平を言っていますが、それらのうちには、この一事、つまり君が憤り、かつ不平を言っているということ以外には、何一つ悪いことはないのではありませんか。もしお尋ねでしたら、僕はこう考えていると申します――この自然の領域には、一人の人間が不幸と考えることがない限り、彼にとって何一つ不幸なことはない――と。」(セネカ「道徳書簡集」:第九六)
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「病める心が財産の中に置かれようが貧乏の中に置かれようが、なんら変わりはありません。病める心の悩みは、その心に付いて行くのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第十七)
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「どんな運命よりも強力なものは心であって、心自らの力で自らの行状を善悪いずれの方面にも導き、自らの幸福、あるいは不幸な人生の原因だからです。」(セネカ「道徳書簡集」:第九八))
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「心のみがわれわれを高貴にします。心はどんな境遇からでも、運命を飛び越えて成長することが出来るのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第四四)
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「心が大きなものになるには、自らが外的なものを切り放し、何ものをも恐れることなしに自らに平和をもたらし、何ものをも求めることなしに自らに財を作ったとき以外のときでは決してありません。」(セネカ「道徳書簡集」:第八七)
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「心をこそ、あらゆるものを支配する地位に据え付けることが許されます。心をこそ、自然の力を所有することに導き入れて、その領域を東西の境界によってのみ限り、また神々のように、あらゆるものを悉く所有すること許されます。」(セネカ「道徳書簡集」:第九二)
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「心がいつも君の役に立っているならば、君は諭し教え、聞き学び、探求し回想するでしょう。そのうえ何が必要でしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第七八)
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「心の平静のためには場所は大して関係はありません。心こそ、あらゆるものを自らのために楽しくすべきものです。」(セネカ「道徳書簡集」:第五五)
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「真の安静とは、その中において健全な精神が解き離れた境地です。」(セネカ「道徳書簡集」:第五六)
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「とにかく、心の平静のうちには不安はありません。」セネカ「道徳書簡集」:)
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「どんな方法でわれわれは、この不安動揺から遠ざかれるのでしょうか。唯一つの方法があります。ただし、われわれの生活が将来に進み出るのではなく、それ自体に集中する場合です。」(セネカ「道徳書簡集」:第一〇一)
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「もしわれわれが何時かこのような汚泥から脱して、あの荘厳にして卓越した高みに登るならば、そこには心の平安がわれわれを待っているとともに、もろもろの過ちが駆逐されたときは、完全な自由が待っています。この自由が何かをお尋ねですか、それは人間をも、神々をも恐れないことです。不品行も過度も望まないことです。自分自身のうちに最高の力をもつことです。自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七五)
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「ああ、君はいつあの時を体験し得るのでしょうか。つまりそれは、時間が君には無関係だと分かる時であり、また君が平静で温和である時であり、しかも君は最高に満ち足りていているので、明日には関心のない時です。」(セネカ「道徳書簡集」:第三二)
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【自由】
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「まず自由を眼前に置かねばなりません。そしてこの獲物のために努力がなされるのです。自由とは何か、とお尋ねですが。どんな境遇にも、どんな困難にも、どんな不幸にも屈従しないことであり、運命の力をわれわれと対等のところまで引き下ろすことです。運命よりも僕の力が強いことを知る日が来れば、運命は何も出来なくなるでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第五一)
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「災いは何かとお尋ねですか。それは災いと呼ばれるものどもに屈従することであり、またそれらに自己の自由を明け渡すことです――この自由のためにわれわれはすべてを我慢すべきであるのに。自由というものは、われわれを頸木で押え付けるような束縛を軽蔑しない限り、失われてしまいます。」(セネカ「道徳書簡集」:第八五)
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「自分の肉体を軽蔑することこそ断固とした自由です。」(セネカ「道徳書簡集」:第六五)
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「その心は重い荷物に押え付けられているので、そこから解放され、かつてそれが属していたものに復帰することを願い求めているのです。なぜなら、この肉体は心の重荷であり苦しみです。この重荷に圧迫されて心はひどく悩まされ、がんじがらめにされているのです。――もし哲学がここに近付いて、自然の大法を観察することによって、心に新しい息吹を甦らせることを命じ、地上のものどもから天上のものに心を向けさせない限りは。これが心の自由であり、心の放浪です。」(セネカ「道徳書簡集」:第六五)
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「『不自由の中に生きることは悪である。しかし不自由の中に生きることの中に何の不自由もない。』もちろんありません。あらゆる方向から自由に通ずる沢山の近い、しかも楽な道があります。何人も生活に束縛され得ないことを、神様に感謝しましよう。不自由は踏みつぶすこともできます。」(セネカ「道徳書簡集」:第十二)
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「『死を省みよ。』こういう彼は、自由を省みることをわれわれに命じるのです。死ぬことを学んだ者は、奴隷根性を忘れた者です。」(セネカ「道徳書簡集」:第二六)
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「死がわれわれの支配下にあるときは、われわれは如何なる支配下にもおりません。」(セネカ「道徳書簡集」:第九一)
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「自由は買うことが出来ません。ですから金銭出納帳には自由の項目を入れても無駄です。自由は売った者も買った者も、もってはいないからです。君はこの善を君自身に与えれななりませんし、君自身より求めねばなりません。」(セネカ「道徳書簡集」:第八〇)
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「君はこうなさったらよいでしょう。――自分自身のために自分を自由にし、今まで君から奪い去られ、盗み取られ、あるいは逃げ去った時間を拾い集め、それを守ることです。」(セネカ「道徳書簡集」:第一)
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「『君は哲学に仕えねばならぬ――真の自由が君に与えられるために。』哲学に自己を委ね託する者は拘留されることはありません。彼は直ちに釈放されます。というのは、哲学に仕えることそれ自体が、自由だからです。」(セネカ「道徳書簡集」:第八)
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「『道は力で作られる。』そして、この道を君に与えるのは哲学でしょう。哲学の勉強に没頭しなさい――もし君が健康であり、心配がなく、幸福で有る事を望むならば。要するに、もし君が自由であること――これが最も重要なことですが――を望むならばです。これに到達するためには他の方法はありません。」(セネカ「道徳書簡集」:第三七)
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「もしわれわれが何時かこのような汚泥から脱して、あの荘厳にして卓越した高みに登るならば、そこには心の平安がわれわれを待っているとともに、もろもろの過ちが駆逐されたときは、完全な自由が待っています。この自由が何かをお尋ねですか、それは人間も、神々をも恐れないことです。不品行も過度も望まないことです。自分自身のうちに最高の力をもつことです。自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七五)
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【自足】
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「『楽しい貧乏というものは立派なことだ』と。実際、貧乏が楽しかったら、それは貧乏ではありません。貧乏なのは過小を有する者ではなく、過大を求める者なのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第二)
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「富の限界は何かと尋ねられるのですか。それは第一に必要なものを、そして第二に満足するものを持つことです。」(セネカ「道徳書簡集」:第二)
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「『最大の富というものは、自然の法則に従った貧乏のことである』というのです。ところで、その自然の法則は、どれほどの限界をわれわれに課しているのか、ご存知ですか。飢えない程度、渇かない程度、冷えない程度です。」(セネカ「道徳書簡集」:第四)
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「十分なものはすぐ手元にあります。貧乏にうまく適応する者こそ富者なのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第四)
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「『最小の富を望む者は最大の富を受ける。』」(セネカ「道徳書簡集」:第十四)
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「われわれは知らないのです――何ものも欲しくないということがどんなに楽しいことかを、また十分に満ち足りていて、運命には頼らぬということがどんなに素晴らしいことかを。」(セネカ「道徳書簡集」:第十五)
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「しかしなぜそれを欲しがるのでしょうか。人間のはかなさを忘れて積み上げているのでしょうか。何のために苦労せねばならないのでしょうか。そら、今日が最後の日です。そうではなくても、最後の日から遠くないのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第十五)
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「『多くの者たちにとって、富を得たことは苦難の終わりではなく、苦難の変様であった。』こういうことも僕には不思議とは思いません。なぜなら過ちは財産にあるのではなく、心そのものにあるからです。」(セネカ「道徳書簡集」:第十七)
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「『自然に従って生きれば、決して貧者にはならないだろう。俗見に従って生きれば決して富者にはならないだろう。』自然の望むものは僅少ですが、俗見の望むものは限りがありません。」(セネカ「道徳書簡集」:第十六)
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「自然の欲求は限られています。しかし偽りの俗見より生じた欲求は何処で思い留まるか、それを知りません。偽りの俗見には限度がないからです。」(セネカ「道徳書簡集」:第十六)
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「自然は要るだけのものには十分に足りています。ところが自然から遠ざかっているのが贅沢です。」(セネカ「道徳書簡集」:第九〇)
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「世に賢者、ないしは少なくとも賢者に近い者というのは、肉体の保護が容易だった人たちです。質素な世話であれば必需品には事欠きません。享楽を求めれば苦労させられます。名工などと欲しいと思ってはなりません。自然に従いなさい。」(セネカ「道徳書簡集」:第九〇)
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「『客人よ、思い切って富を軽んじ、貴君をも神に値するまで造り上げよ。』神に値するのは富を軽んじる者だけです。」(セネカ「道徳書簡集」:第十八)
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「『エピクロスの小さな庭に行って、その庭に刻まれている銘文を読みなさい。客人よ、ここに留まるこそ良けれ。ここは最高の善が快楽であるところ。』すると、その家の客好きの親切な管理人が早速出迎えに出て、君を大麦パンでもてなし、水もたっぷり飲ませてくれて、こう言うでしょう、『おもてなしご満足でしたでしょうか』と。そしてこう続けます。『この庭は食欲をそそるどころか、逆に静めます。またこれ以上は、どの飲み物にも喉の渇きは起きません。自然でただの薬でもって鎮めます。この快楽の中で私は年を取りました。』(セネカ「道徳書簡集」:第二一)
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「『富裕とは自然の法則に適応した貧乏である。』このことをエピクロスは、いろいろな言い方で、よく言っています。しかし、このことは幾度言っても言い足りることではありません――それは十分に理解されることが決してないからです。」(セネカ「道徳書簡集」:第二七)
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「われわれが所有しているものは何一つ肝心なものはありません。自然の道に帰ろうではありませんか。そこにこそ富が用意されています。われわれが必要とするものは無料であるか、あるいは安価なものです。パンと水だけが自然の欲するものです。このような状況の内に自己の欲求を閉じ込めた者は誰でも、ゼウスの神とさえ幸福を競え合えるのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第二五)
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【喜び】
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「喜びは君自身の内部にありさえすれば生じます。もろもろの他の面白おかしい喜びは心を満たしません、相好をくずさせるだけです。多分、笑う者が喜ぶ者だとでも考えない限り、それらは軽薄なものです。心こそ楽しく、自信を持ち、すべてのものに超然として立ち続けねばなりません。」(セネカ「道徳書簡集」:第二三)
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「なかんずく君にしてもらいたいことがあります。それは、喜ぶことを学べ、ということです。」(セネカ「道徳書簡集」:第二三)
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「僕の言うことを信じてください。真の喜びは厳粛なものです。」(セネカ「道徳書簡集」:第二三)
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「この大きな喜びを君にもってもらいたいと僕は望むのです。ひとたび、その出どころを見付ければ、それは決して君は見捨てないでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第二三)
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「僕の語る喜び、つまり君をそこに案内しようと思っている喜びは堅固なものですが、中に入れば入るだけ、ますます先が開けてきます。」(セネカ「道徳書簡集」:第二三)
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「賢者の喜びはしっかりと編み合わされていて、どんな原因によっても、どんな運命によっても引き裂かれることはなく、常に、また何処でも平静です。」(セネカ「道徳書簡集」:第七二)
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「賢者というものは喜びでいっぱいであり、活気に満ち、また柔和で、しかも不動です。彼は神々と同等に生きています。」(セネカ「道徳書簡集」:第五九)
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「神々やその忠実な継承者たちに付き従う喜びは、中断されることもなく、止む事もありません。」(セネカ「道徳書簡集」:第五九)
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「賢者は満ち足りているのです。たとえ何かが起こっても、別に気にも止めずそれを受け取って、側へ置くだけです。賢者の受ける楽しみは極めて大きく、永続するものであり、しかも真に自分自身のものです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七二)
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「夢路につこうとするとき嬉しく楽しい気持ちで、こう歌いましよう。『われは生涯を終え、運命の定めし道を歩み終りぬ。』そしてもし明日を神様が加えてくださるならば、喜んでそれをお迎えしましよう。明日を何の不安もなく待つ人こそ最も仕合せな人であり、自己を平静に保つ人です。」(セネカ「道徳書簡集」:十二)
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「不朽の喜びをもちたいと思う者は、真に自分自身を楽しまねばなりません。」(セネカ「道徳書簡集」:第七二)
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「自分自身の内から生じた喜びは確固にして不動であり、またますます力を増し、最後に至るまで本人に随行します。」(セネカ「道徳書簡集」:第九八))
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「何に喜ぶべきかを知り、自己の幸福を他のものの支配の下においていない者は、すでに頂上に達しています。」(セネカ「道徳書簡集」:第二三)
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「精神があらゆる汚れから清められて輝くとき、その精神の思索から得られる楽しみは、また格別のものです。今でも覚えておられるでしょうが、君が子供服を脱いで大人の着物を着、大広場に連れて行かれたとき、どんなに喜びを感じたことでしょう。しかし子供の心を捨て、哲学が君を大人の世界に移し入れたときには、もっと大きな喜びを期待してよいでしょう。」(セネカ「道徳書簡集」:第四)
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「それゆえ思い出してください――英知の結果はこれ、すなわち喜びが常に一様であるということを。賢者の心と言えば、月の上方に広がる天空のごときものです。そこには、常に晴朗な大気があるのです。ですから、賢者には喜びのないことが絶対にないとすれば、賢者であることを望むのは当然理由があることです。」(セネカ「道徳書簡集」:第五九)
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「われわれの心が自分自身に喜んで感謝するきっかけを得るのは、心がその中で右往左往している暗闇から解放されて、弱い視力で明るいものを遠方に見るときではないでしょう。そうではなくて、昼の光全体を受け入れて、それ自らの天に復帰したときでしょう。心を上方に呼び寄せるものは、それ自身の源です。」(セネカ「道徳書簡集」:第七九)
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「ああ、君はいつあの時を体験し得るのでしょうか。つまりそれは、時間が君には無関係だと分かる時であり、また君が平静で温和である時であり、しかも君は最高に満ち足りていているので、明日には関心のない時です。」(セネカ「道徳書簡集」:第三二)
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【幸福】
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「幸福な生活は英知の完成によって始めて実現されます。」(セネカ「道徳書簡集」:第十六)
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「幸福な人生に達する最も勝れた方法は、崇高な善のみが唯一の善であるという信念をもつことに外なりません。」(セネカ「道徳書簡集」:第七四)
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「幸福な生活の原因や支柱である唯一の善は、自分自身を信頼することです。」(セネカ「道徳書簡集」:第三一)
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「幸福な生活とは何ですか。それは心の落ち着きと不断の平静です。」(セネカ「道徳書簡集」:第九二)
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「幸福な生活の総体は確固たる平静と、揺るぎない自信でありますが、しかし人々は不安の原因を拾い集め、危険な人生の道を歩みながら、単に重荷を運ぶのみならず、それを自分たちの方に引き寄せているのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第四四)
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「賢者の幸福は心の内のものです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七二)
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「なぜならその幸福は、ただ一つの場所に置かれているからです。つまり心そのものの中です。それは崇高であり、安定しており、平静です。」(セネカ「道徳書簡集」:第七四)
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「すべての善を崇高なる善で囲む者は、自己そのものの内部で幸福なのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第七四)
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「君を真に幸福にすることの出来るただ一つのことをしてください。外側だけはぴかぴかであったり、また他人によって、ないしは他人の財産から君に約束されるようなものは、打ち砕き踏みつぶしなさい。真の善のみを目差し、君のものだけにしなさい。」(セネカ「道徳書簡集」:第二三)
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「君は自分を幸福だと思うべきときは、君のあらゆる喜びが理性から生まれるときです。」(セネカ「道徳書簡集」:第一二四)
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「幸福な生活が基づくところはこの一事、つまり、われわれのうちにある理性が完全になるということです。」(セネカ「道徳書簡集」:第九二)
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「人間に独自なものは何でしょう。理性です。これが正しく、しかも完全であれば、人間の幸福は満たされることになります。」(セネカ「道徳書簡集」:第七六)
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「理性だけが人間を完全にするのですから、理性が完成されれば、それのみが人間を幸福にします。つまりこれが唯一の善であり、それによってのみ人間は幸福にされます。」
(セネカ「道徳書簡集」:第七六)
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「エピクロスは言います、『自分の財産が十二分にあると思わない者は、たとえ当人が全世界の主人であるとしても、それでもなお不幸である』と。あるいは、もし次のように語られることが、君にとっていっそう適当と思われるならば、こう言えるでしょう。『自分を最も幸福と判断しない者は、たとえ世界を支配するとも、不幸である。』ところで、このような考え方が世間に共通であり、明らかに自然の教え示すところであることを知ろうとすれば、次の滑稽詩にそれを見付けるでしょう。自分が仕合せだと考えない者は、仕合せでない。」(セネカ「道徳書簡集」:第九)
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「君は或ることについてそんなに憤たり、あるいは不平を言っていますが、それらのうちには、この一事、つまり君が憤り、かつ不平を言っているということ以外には、何一つ悪いことはないのではありませんか。もしお尋ねでしたら、僕はこう考えていると申します――この自然の領域には、一人の人間が不幸と考えることがない限り、彼にとって何一つ不幸なことはない――と。」(セネカ「道徳書簡集」:第九六)
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さて皆様、セネカの哲学は如何だったでしょうか。
皆様を高揚に導いて呉れたでしょうか。
皆様を哲学への熱い思いに駆り立てたでしょうか。
皆様はここできっとこう言う筈です。
断片で良く分からなかったと。
だったらどうか「道徳書簡集」を
最初から最後まで読んで頂きたいと思います。
そうすればその時、皆様に哲学への熱き思いが浮かんで来ます。
何故ならそこにあるのは、「自分探しへの道」なのですから。
皆様は大なり小なり自分探しを行っています。
しかしほとんどの人は自分を探し出せません。
何故でしょう。
それは目標が間違っているからです。
目標を正しく見据えた時、そこに本当の自分自身が浮かび上がって来るのです。
古今東西の聖人賢人哲人と呼ばれる人たちは、
自らにおいてその目標を見出し、
そしてそれを皆様に紹介しているのです。
勿論セネカもその一人です。
もし皆様が自分探しをしているのであれば、
セネカ「道徳書簡集」こそが、
皆様に取って最も適したテキストになると思います。
何故なら「道徳書簡集」全編が自分探しの記事であり、
そして皆様宛そのものだからです。
哲学書簡集においてはルキリウス君宛てになっていますが、
それは皆様宛です。
ルキリウス君とは自分探しを始めようとしている皆様の事なのですから。
「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」
この為には哲学(智慧を愛する事)しかないのです。
「『この道は天の星に通ずるや。』実際、哲学が僕に約束しているのは、僕を神に匹敵させることです。このために僕は招かれ、このために僕は来たのです。」
皆様は何の為にこの世に来たのでしょうか。
それは自分が自分に成る為ではないでしょうか。
それも最高の自分に成る為ではないでしょうか。
その為にも神と言う概念が必要なのです。
セネカは神の事を「それは正しい、善い、大きな心のことです」と概念付けをしました。、
皆様は皆様の神をどの様に概念付けしますか。
「精神のすべてを哲学に向け、その足下に座しそれを敬慕しなさい。すると、大きな間隔が君と他人との間に出来るでしょう。」
何故でしょう。
それは哲学に依って、古今東西の聖人賢人哲人たちが求めたそれを知る事になるからです。
このそれこそが、聖人賢人哲人たちを聖人賢人哲人たらしめているそれだからです。
皆様がそれを知れば、皆様も聖人賢人哲人たちに近付く事が出来る様になるのです。
それを知らない事を無知蒙昧と言います。
ですからその差歴然と言う事になるのです。
「僕が立ち上がり、回復したのは一に哲学の賜だと思います。僕の生は哲学のおかげであり、しかも偏に哲学のおかげです。」
現在哲学(智慧を愛する事)を学んでいる人は皆そう言うでしょう。
何故ならそれ以前は無知蒙昧だったのですから。
「君に出来る限り、哲学に戻るべきです。哲学はその胸に君を抱いて保護するでしょう。」
これは哲学(智慧を愛する事)をしている人であれば誰でも実感している事です。
「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。」(「詩篇」)
「主は羊飼い、わたしは何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」(「詩編」)
「疲れた者、重荷を担う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば安らぎを得られる。」(「マタイ福音書」)
主とは何者、わたしとは何者。それは皆様ご自身です。
皆様を神に近い所まで引き上げて呉れるのが哲学なのです。
「『君は哲学に仕えねばならぬ――真の自由が君に与えられるために。』哲学に自己を委ね託する者は拘留されることはありません。彼は直ちに釈放されます。というのは、哲学に仕えることそれ自体が、自由だからです。」
皆様はこの世に囚われています。
この世から皆様を解放するのが哲学と言う事になるのです。
自由とは何か。
それはこの世の煩いの全く無い世界。
それを天国と譬えても良い。
そこには喜びが満ちている。
「どうか僕を信じ、哲学を相談相手に招きなさい。」
私も同感です。
皆様の相談相手は皆様ご自身しかいないのですから。
そしてそこにいる皆様ご自身とは世界人類の英知なのですから・・
尤もそこまで皆様ご自身を高める必要もあるようですね。
その為にもまた哲学(智慧を愛する事)が必要となると言う事にもなるのです。
「ところで、われわれを目覚ますのは哲学だけでしょう。これのみが深い夢を振り払うでしょう。」
皆様の深い所に本当の皆様ご自身が眠っています。
どうか哲学に依って目覚めます様に。
「哲学に君のすべてを捧げなさい。君は哲学に適していますし、哲学も君に適しています。互いに抱き合ってください。」
智慧との交接後の快楽、それが恍惚でありニルヴァーナです。
「哲学の勉強に没頭しなさい――もし君が健康であり、心配がなく、幸福で有る事を望むならば。要するに、もし君が自由であること――これが最も重要なことですが――を望むならばです。これに到達するためには他の方法はありません。」
皆様が幸福に成る方法、自由に成る方法、喜びを得る方法、
その方法としては哲学(智慧を愛する事)しかありません。
何故ならそれらは、皆様が智慧に到達した時の有様、すなわち自分が自分自身に成った時の有様の事なのですから。
「哲学の力は信じられないほど強力です。哲学の体の中には如何なる矢も刺さっていません。守りが固く、何ものをも突き通せないからです。」
「われわれは哲学で周りを囲まねばなりません。それは奪取し難い城壁で、運命がそれを沢山の兵器を持って攻撃しても越えられません。」
哲学には凄い力があるようですね。
「能く一日も其の力を仁に用いること有らんか、我れ未だ力の足らざるを見ず。」(「論語」)
「死の影が見えてきても、哲学は人を晴れやかにし、肉体がどんな状態にあっても人を強くし、かつ喜ばしく、またたとえ肉体は衰えても、人を衰えさえることはありません。」
何故でしょう。
それまでに哲学に依って死を学んで来たからです。
中高年の皆様そろそろ哲学を学び始めましょうか。
この世を晴れやかに去って行く為に?
いいえ、この世をもっと喜びをもって生きて行く為に。
「他の薬は健康になってからの楽しみですが、哲学という薬は健康によいと同時に美味でもあります。」
何故なら哲学(智慧を愛する事)そのものが快楽なのですから。
ちょと不謹慎は言い方ですが、実は哲学は魔薬なのです。
しかしこの魔薬は幾ら飲んでも体を壊す事はありません。
人の体を更に健康にします。
しかしその真の効用は、人を神に近付ける事なのです。
人を神に近付ける魔法の薬、だから魔薬です。
「子供の心を捨て、哲学が君を大人の世界に移し入れたときには、もっと大きな喜びを期待してよいでしょう。」
大人の世界とは如何なる世界の事か、それは大きな心の世界。
そこにあるのは大きな喜び。
「われわれの探し求むべきものは何かと言うに、それは抵抗し得ざる或る力の支配を毎日受けないもののことです。それは何でしょう。それは心ですが、それは正しい、善い、大きな心のことです。この心を、人間の肉体に宿る神という以外に何と呼ぶでしょうか。」
この大きな心の世界を目指して哲学に励む事になるのです。
「善良な精神は、すべての人に開かれています。これに従えばわれわれはすべて高貴です。何人をも退けず、また選ばないのが哲学です。哲学はすべての人間に輝きます。」
「もし哲学に何か善いことが別にあるとすれば、家柄を問わないことです。人間は誰でも、最初の起源に戻れば、みな神々から発しています。」
「哲学者たちの一覧表を手に取ってごらんなさい。そうすること自体が君を強いて目覚めさせるでしょう――なんと多くの人たちが、君のために骨折っているかを見るならば。君も彼らの中の一人でありたいと熱望するでしょう。なぜなら、高貴なものに駆り立てられる最も善いものを、それ自らの中にもっているのは高邁な精神ですから。」
皆様は皆、高貴で高邁でそしてその起源を神に持っています。
どうか哲学(智慧を愛する事)に邁進して頂きたいと思います。
智慧において私たちは兄弟です。
「君は哲学を心の底に沈め、君の進歩の証拠を単に言うことや書く物だけでなく、君の精神の強固さと、欲望の減少とをもって受け取るように勧めます。君の言葉を君の行為によて証明してください。」
これがセネカの哲学の真髄です。
「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」とは、ここまでを言っているのです。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(「マタイ福音書」)
この時天国の扉が開く事になりますが、それは聖人賢人の領域です。
「英知の最高の義務と証拠は、言葉と行動が調和を保つことであり、自己が何処においても自己自身と同等であり同一であることです。」
言動においても行動においても、常に自分自身である。
それは聖人賢人の領域。
しかし私たちが求める理想像ではあります。
「英知と哲学はどこが違うかを申しましょう。英知は人間精神の完全な善です。哲学は英知への愛であり、またそれへの渇望です。哲学は、英知がすでに達したところに達しようと努めます。哲学がそう呼ばれる理由は明らかです。つまり哲学はその名称そのものによって、その愛の対象を表しているのです。」
「哲学と英知の間には何らかの相違があることは、ほぼ確定しています。なぜなら、求められるものと求めるものが同じになることは不可能だからです。貪欲と金銭の間には大きな相違があります――前者は願い求め、後者は願い求められるものだからです。それと同じような相違が哲学と英知の間にもあります。つまり後者は前者の結果であり報酬です。哲学は道を行き、英知は道の終わりです。」
哲学とはphilosophia、智慧(英知)を愛する事。
智慧(英知)とは何か、セネカはそれに対して「人間精神の完全な善」ですと定義しています。
これが哲学者の最終目標と言う事になります。
この最終目標に向かう途中に様々な徳(愛)が鏤められているのです。
これらの徳(愛)を一つ一つ拾い集めて一つの大きな徳(愛)と成った時、智慧(英知)、すなわち「人間精神の完全な善」の完成です。
その時、「神は愛なり」と言う言葉が鳴り響く事になるのです。
「英知は幸福な状態に向かって進み、それに向ってわれわれを導き、それに向って道を開きます。」
智慧(英知)と愛。
それは求めるものとその働らきの事。
智慧を求めれば、そこに愛が働きます。
その智慧と愛は、私たちを幸福へ導きそして道を開きます。
「英知は平和を愛し、人類を和合に呼び寄せるのです。」
智慧(英知)と愛。
そこに世界人類の平和があるのです。
「それゆえ思い出してください――英知の結果はこれ、すなわち喜びが常に一様であるということを。」
智慧を愛し抜けば、何時しか恍惚へと誘われます。
それがその日その時の智慧の到達点です。
その時は常に喜びが一様です。
この事を日々体感する事が出来れば、
その人は日々幸福に成る事が出来ます。
僅かな時間かも知れませんが。
これが哲学者(智慧を愛する者)への報酬です。
「無知は低級なものであり、卑しく、下品で、卑屈で、様々な欲情、しかもきわめて残酷な欲情のとりこになります。このよう大変酷い主人であるもろもろの欲情は、時には交互に、また時には一緒になって命令を下しているのですが、それらを君から解き離すものは英知で、これのみが真の自由です。」
「君が無知である限り、その間は勉強を続けるべきです。」
「『わたしはどれだけ進歩するだろうか』と君はおっしゃる。君が得ようと試みただけ進歩します。何を待つことがありましょう。誰も偶然に賢明になることはありません。」
「哲学の勉強を放棄するといっても、あるいは中止するといっても、大した違いはありません。それは中断されたところに留まるのではなく、あたかもぴんと張られたものが切れるように、忽ちその始めにまで戻ります。連続が断たれたからです。」
哲学(智慧を愛する事)は間断なく続けなければなりません。
もしそれを中断すると、そこに無知が入り込んできます。
無知は低級で、卑しく、卑屈で、欲情の虜です。
この欲情こそが人を不幸にします。
恋慕こそが最も酷い欲情です。
「愛欲にひとしい火は存在しない。」(ブッダ「真理の言葉」)
「愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。束縛の絆にしばられて執着になずみ、永いあいだくりかえし苦悩を受ける。」(ブッダ「真理の言葉」)
(これは、今私が経験している事です。2011.6~2011.9現在)
「英知の原理は潜伏しています。あたかも宗教儀式の、なかんずく神聖な部分は、その宗教の奥義を伝授された者のみが知っているだけですが、それと同じように哲学における秘密も、その神聖な儀式に引き入れられ受け入れられた者たちにのみ開示されるのです。」
全ての哲学宗教の奥義、それはニルヴァーナであり、恍惚です。
この幸福感を味わいさせたい為、古今東西の聖人賢人哲人たちは、手を変え品を変え、皆様の説得に努めているのです。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)
これが全ての哲学宗教の奥義です。
智慧を愛する事に依って、先ず自分自身が幸せに成る。
そして自分自身が智慧を愛する事に依って幸せに成ったように、隣人をもその様に愛すると言う事です。
これに依って、「英知は平和を愛し、人類を和合に呼び寄せるのです。」と言う事になるのです。
これが全ての哲学宗教の奥義です。
さて皆様セネカの哲学は如何だったでしょうか。
皆様はやはりこう仰います。
やはり分からないと。
やはり皆様には、セネカ「道徳書簡集」を最初から最後まで読んで頂く必要があるようです。
その時、私と皆様方との間に哲学的基盤が出来上がる事になると思います。
私はこれまで、ソロモン、ダビデ、イエス、パウロ、ブッダ、孔子、王陽明、老子、ソクラテス=プラトン、エピクロスそしてセネカの智慧と題して見て来ました。
そしてそのテキストは次の通りです。
ソロモン・・「旧約聖書 箴言」
ダビデ・・・「旧約聖書 詩編」
イエス・・・「新約聖書 マタイ福音書 ヨハネ福音書」
パウロ・・・「新約聖書 ローマ人への手紙」
ブッダ・・・「ブッダ真理のことば」「般若波羅密多心経」「菩提達摩無心論」
孔子・・・・「論語」「大学」「中庸」
王陽明・・・「伝習録」
老子・・・・「老子」
ソクラテス=プラトン・・・「パイドン」「国家」「饗宴」
エピクロス・・・「エピクロス」
セネカ・・・・・「道徳書簡集」
この中で先ず皆様に読んで頂きたいのがセネカの「道徳書簡集」です。
何故か、
それは哲学、すなわち智慧を愛すると言う事を、何の暗喩も使わずに、直裁に語っているからです。
哲学、すなわち智慧を愛すると言う事をとても理解し易いからです。
そして更に良い理由は、
これでもかこれでもかと言う位に哲学と言う言葉を多用しているからです。
皆様に対して哲学を焚き付けているのです。
これ程立派な哲学の入門書は無いと思います。
そして更に良い事は、
「自分自身に成る」と言う事を、
その「哲学」と言う言葉以上に更に多用しているからです。
本当の自分自身に成る、
これ以上に素敵な事はありません。
皆様はきっとこの「道徳書簡集」で自分探しの旅を始めると思います。
そしてきっとその道を見出だすと思います。
その道とは哲学、すなわち智慧を愛する事です。
哲学(智慧を愛する事)以外に本当の自分自身に到達する道は無いのです。
何故なら智慧こそが本当の自分自身なのですから。
なお皆様がこの「道徳書簡集」を読む上で参考になる様に、
もう一度、「哲学」、「理性」、「徳」、「善」、「神」、「自分」、「自由」、「自足」、「喜び」、「幸福」の十の概念を整理して置こう思います。
「哲学」とはphilosophia、「英知」(智慧)を愛する事。
「英知」とは、「人間精神の完全な善」の事。
これこそが「最高善」。
「徳」とは「完全な理性」の事。
セネカの言う「徳」とは、新約聖書で言う「神は愛なり」と言う時の愛と同じもの。
その「徳」も「最高善」。
そして「完全な理性」も「最高善」。
勿論「神」も「最高善」。
ですから、「英知(智慧)」=「完全な理性」=「徳(愛)」=「神」=「最高善」となるのです。
私たちは一般的にこれらを別々のものとして視ますが、
これらを一つのものとして視た時、そこに大きな力を感じる事になるのです。
「神は愛なり」
刺激的な言葉です。
「能く一日も其の力を仁に用いること有らんか、我れ未だ力の足らざるを見ず。」
この言葉も刺激的です。
神と英知(智慧)と徳(愛)は同じなのです。
その態様を表現すれば最高善となるのでしょう。
神と英知(智慧)と徳(愛)については、そのまま最高善と呼ぶ事には何の抵抗もありませんが、
やはり理性については、そのままで最高善と呼ぶわけにはいかない様です。
完全なと言う形容詞を付けて始めて、最高善と呼ばれる事になります。
何故か、理性についてもぴんからきりまであるからです。
今回使用した東海大学出版会のテキストでは「理性」と言う言葉を使っていますが、
岩波書店のテキストでは「魂」と言う言葉を使っている様です。
それはまた霊とも同じ事。
霊には悪霊と聖霊があるのと同じ様に、理性にも形容詞を付ける必要があった様です。
さてここで勘の良い皆様は分かったと思いますが、
セネカの教えはイエスの教えとほぼ同じなのです。
この「完全な理性」を聖霊を置き換えてみて下さい。
更に、ここにイエスと言う智慧の現人神を登場させれば、新約聖書の出来上がりです。
「英知(智慧)」=「完全な理性(聖霊)」=「徳(愛)」=「神」=「最高善」=「智慧の現人神イエス」となるのです。
「神は愛なり」と言う言葉が成就するのです。
ここに智慧の現人神イエスの挿話を挿入すれば、更に福音書の出来上がりです。
三位一体のお話です。
セネカはBC4年生まれ、AD65年没。
イエスはAD1年生まれ。
二人は全く同時代を生きたのです。
セネカはローマ、イエスはイスラエル。
二人は全く知りあう事は無かったと思います。
しかしその思想は驚く程、似ているのです。
二人は全く知りあう事は無かったと思いますが、後代の福音記者たちはひょっとしたらセネカの事を知っていたのかも知れません。
偽文書とされていますが、セネカとパウロの往復書簡がある位ですから。
セネカが如何に人間愛に燃えていたか。
それはセネカの奴隷に対する人間愛を見れは明らかです。
セネカはローマ帝国の宰相だった人です。
そして暴君ネロの家庭教師でもあった人なのですが・・
その人の言葉です。
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「御地から来る人たちの話では、君がお宅の奴隷たちと親しくやっておられる由、僕も喜んでおります。これは君の英知、君の教養に相応しいことです。『彼らは奴隷だ。』いや、人間です。『彼らは奴隷だ。』いや、仲間です。『彼らは奴隷だ。』いや、身分の低い友達です。『彼らは奴隷だ。』いや奴隷仲間です――運命がわれわれにも全く同じことをすることがゆるされていると考えたならばです。」(セネカ「道徳書簡集」:第四七)
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「どうか考えていただきたい――君が自分の奴隷と呼ぶ者は、種族としてわれわれと同じ源から由来し、同じ天を頂き、同じように呼吸し、同じように生き、同じように死ぬ、といことを。君は彼を自由人とみることも出来れば、彼が君を奴隷とも見ることも出来るのです。」(セネカ「道徳書簡集」:第四七)
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「奴隷には親切に、また丁寧なくらいにまでして、一緒に暮らすべきです。話にも、協議にも、また宴会にも入れるべきです。」(セネカ「道徳書簡集」:第四七)
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「われわれの祖先は、妬みを受けるような態度をすべて主人から取り去り、また奴隷からは無礼な態度をすべて取り去ったことを。奴隷たちは主人を『家の父』と呼び、主人たちは奴隷を――今でも芝居の中では相変わらず続いていることですが――『家の子』と呼びました。主人たちは祭りの日を定め、その日には主人が奴隷と会食をしました。もちろんその日ばかりではありませんが、特にその日は、主人は奴隷に家内での名誉ある職分を担うことや、家事に裁定を下すことを許しました。そして家を小さな共和国と考えました。」(セネカ「道徳書簡集」:第四七)
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「『彼は奴隷だ。』しかし多分、心は自由人でしょう。『彼は奴隷だ。』それが彼の妨げになるのでしょうか。奴隷でない人間があったら教えてください。或る者は情欲の、或る者は貪欲の、或る者は野望の、そして全ての者は恐怖の奴隷です。」(セネカ「道徳書簡集」:第四七)
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「ですから君は、このような高慢な連中には妨げられずに、自分の奴隷たちに愛想よく振舞い、いやしくも傲慢に威張りくさることのないように対応すべきです。彼らをして君を恐れるよりも、むしろ尊ぶようにすべきです。」(セネカ「道徳書簡集」:第四七)
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「人はこう言うのです。『あれが話すことは要するに奴隷が、子分のように、また朝参りの客のように主人を尊べ、という意味だ』と。こんなことを言う者は次のことを忘れているのです。神にとって十分なものは、主人にとって決して少な過ぎることはない、ということを。尊ばれる人は、愛されもします。愛と恐れは混じ合わされません。」(セネカ「道徳書簡集」:第四七)
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これがローマ帝国の宰相であった人のお話です。
その当時のローマ帝国の奴隷が如何に厳しい境遇にあったか。
奴隷剣闘士スパルタクスの反乱を思い出して頂ければ良いと思います。
彼らは毎日毎日殺されていたのです。
見世物の為に。
現在の格闘技と言えば、
プロレス、ボクシング、剣道、柔道等々と言う事に成るのでしょうが、
これらが全て、最後の死の瞬間まで執り行われていたのです。
当時最も人気のあった格闘技とは、
剣闘と野獣との格闘試合だったようです。
剣闘は勿論真剣、最後の止めを刺すとき、観衆は最高潮に達したそうです。
ライオンやトラやクマとの格闘試合、
どちらが勝つか明らかですよね。
こんな時代にあっての、ローマ帝国の宰相だった人のお話です。
何故セネカがあの時代にあってこれほどまでに透徹した人間愛に到達できたのか、
それは人類普遍の英知(智慧)に到達したからに他なりません。
人類普遍の英知(智慧)においては人は皆一緒なのです。
「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。其の中に象有り、恍たり惚たり。其の中に物有り、窈たり冥たり。其の中に精有り、其の精、甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」(「老子」)
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)
セネカは智慧を愛し抜きました。
そして愛を知りました。
しかしその愛をこの世において実現する事が出来なかったのです。
その為「智慧と愛の現人神イエス」の出現が必要となったのです。
セネカこそ、イエスの出現を預言した直近の預言者だったと言う事になるのでしょう。
純粋な愛をこの世に実現する為には、神の子、すなわち神の衣を着た人間が必要だったのです。
私たちは、智慧と愛の現人神イエスにおいて、その神の形を具に見る事が出来る様になったのです。
「『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは眼で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(「マタイ福音書」)
セネカは神の概念をはっきりと打ち出しました。
そして福音記者たちはその神の概念を人間の形に写し出したのです。
それが智慧と愛の現人神イエスなのです。
神を迷信から引き出したのです。
エピクロス、セネカ、イエスそして福音記者たちによって、神が人間の形に整えられたのです。
「われわれの探し求むべきものは何かと言うに、それは抵抗し得ざる或る力の支配を毎日受けないもののことです。それは何でしょう。それは心ですが、それは正しい、善い、大きな心のことです。この心を、人間の肉体に宿る神という以外に何と呼ぶでしょうか。」
「先ず第一に、神について共通な観念として人々の心に銘さているとおり、神は不死で至福な生者である、と信じ、神の不死性に縁遠いものや、至福性に不似合なものを神におしつけることなく、かえって、神の至福性と不死性とを保持することのできるものをことごとく、神のものと考うべきである。というのは、神々はたしかに存在はしてはいる、なぜなら、神々ついての認識は、明瞭であるから。しかし、神々は、多くの人々が信じているようなものではない、というのは、多くの人々は、かれらが一方では神々についてもっている考えを他方では捨てているからである。そこで多くの人々のいだいている神々を否認する人が不敬虔なのではなく、かえって多くの人々のいだいている臆見を神々におしつけるのが不敬虔なのである。というのは、多くの人々が神々について主張するところは、先取観念ではなくて、偽りの想定であって、それによると、悪人には最大の禍いが、いや最大の利益さえもが、神々からふりかかるというのだからである。けだし、神々は、つねにかれら固有の徳に親しんでいるので、かれら自身と類似した人々を受け入れ、そうでないものはみな、縁遠いものと考えるのである。」(エピクロス「メノイケウス宛の手紙」)
皆様も迷信迷妄から早く抜け出して、
自らの神の概念を見出すべきです。
「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(「マタイ福音書」)
皆様が自らにおいて自らの神の概念を見出した時、
皆様は真の哲学者(智慧を愛する者)に成るのです。
何故なら智慧の概念と神の概念は全く一緒なのですから。
より善き方向へ、
そこに神が存在するのです。
good、God、GOD
皆様がより善き方向へ向かおうとする時、
そこに智慧が現れ、神が現れる事になるのです。
善悪の彼岸と言う言葉があります。
そこがニルヴァーナであり、恍惚です。
しかしそこに至るまでは善悪の戦いに勝ち続けなければなりません。
その善悪の戦いに勝ちづつける方法、
それが哲学、すなわち智慧を愛する事です。
皆様が智慧を愛し続けている間には、決して悪が入り込む事はありません。
そこには智慧の戦士、神の戦士が幾重にも連なって、本当の皆様自身、すなわち考える「私」を守って呉れます。
智慧の戦士、神の戦士とは何ものか、
それを天使と譬える事もあるかも知れませんが、
それは善き言(もしくは言葉)の事です。
皆様が智慧を愛し続けていたら、そこに悪が這い込む事はありませんが、
皆様が智慧を愛する事を止めた時、そこに悪がすっと這い込みます。
悪とは何か。
それは欲望欲情の事。
その欲望欲情が因果の輪廻を回し続けます。
そして皆様の心は、ニルヴァーナ、恍惚もしくは「心の平静」(天国、極楽、神の国)から遠のいてしまうのです。
もし心の平静を保ち続けたかったら、
哲学、すなわち智慧を愛し続けるしかその方法な無いのです。
賢人は常に智慧を愛し続けています。
ですから常に平静なのです。
「道は須臾(しゅゆ)も離る可からざるなり。離る可きは道に非ざるなり。」(「中庸」)
この事は古今東西の聖人賢人哲人たちが異口同音に常に言っている事です。
常に道と共に在りなさい、常に仁と共に在りなさい、常に智慧と共に在りなさい、常に神と共に在りなさい、常に主と共に在りなさい、常に良知と共に在りなさい。
これが出来るのが聖人賢人と呼ばれる人たちです。
私たちは聖人賢人ではありません。
だから日に日に欲望欲情の虜となり、そして日に日にその因果に回され続けられます。
しかし一方では心の平静を求めています。
だからこそ哲学が必要なのです。
もし皆様が哲学により、神の概念を極めたら、
その神の概念が皆様を救って呉れます。
何故ならその神の概念は、
皆様の神で在ると同時に世界人類に共通な神なのですから。
「人類皆兄弟」
そこに愛があるのです。
神の概念とは如何なる概念なのか。
もう一度ダビデに学んでください。
そしてイエス、ソロモン、ソクラテス=プラトン、エピクロス、ブッダ、孔子、老子、王陽明に。
彼らに共通するそれ、それが皆様の神でもあるのです。
神は先取観念ではありますが、
それがひとりでに浮かび上がって来る事はありません。
やはり学びが必要なのです。
孔子が如何に先人賢人哲人に学んだか。学び直して下さい。
勿論イエス、ダビデ、ソロモン、ソクラテス=プラトン、エピクロス、ブッダ、老子、王陽明も学びに学んだのです。
そしてその学びの末にそれを見出だしたのです。
それとは何か、
それこそが智慧であり、
本当の自分自身であり、
神です。
そしてそれは愛なのです。
「神は愛なり」
神を二つの概念に分ける事があります。
アートマンとブラウマンがその典型です。
アートマンとは皆様お一人お一人に宿る神の事であり、
ブラフマンとは世界人類に共通な神の事ですが、
究極的にはそれは一つです。
皆様のアートマンが、イエス、ダビデ、ソロモン、ソクラテス=プラトン、エピクロス、ブッダ、孔子、老子、王陽明等々のアートマンと一緒に成った時
その時皆様のアートマンがブラフマンと成ったと言っても良いのです。
その為にこそ哲学の勉強をするのです。
「『この道は天の星に通ずるや。』実際、哲学が僕に約束しているのは、僕を神に匹敵させることです。このために僕は招かれ、このために僕は来たのです。哲学よ、約束を守ってください。」
「『わたしはどれだけ進歩するだろうか』と君はおっしゃる。君が得ようと試みただけ進歩します。何を待つことがありましょう。誰も偶然に賢明になることはありません。」
皆様はひとりでに賢人に成る事は決してありません。
皆様が学びに学んだ末に神の概念を見出した時、
その時、皆様の前に神に通じる道が開ける事になるのです。
この事は古今東西の聖人賢人哲人たちが約束している事です。
どうか古今東西の聖人賢人哲人たちに学んで下さい。
先ずは、ソロモン、ダビデ、イエス、パウロ、ブッダ、孔子、王陽明、老子、ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカに。
そしてクリシュナ(バガヴァッド)に。
さて次はクリシュナ(バガヴァッド)ですが、
その前に十の概念を整理して置きます、
「哲学」とは英知(智慧)を愛する事。
それは「理性」を「徳」を「善」を「神」を愛する事と同じ事。
何故英知(智慧)を愛するのか。
それは「自分」が自分に成る為。
「自由」「喜び」「幸福」とは、自分が自分に成った時の有様の事。
「自足」とは自分が自分に成る為の肉体的な前提条件と言う事になるようです。
以上で十の概念の纏めとしたいと思います。
次にクリシュナ(バガヴァッド)ですが、その前に哲学の具体的方法について述べて置きたいと思います。
私は「哲学一貫教育」及び「哲学広場」と言うものを提唱していますが、
それは読書、思索、作文、対話そして実践で完結します。
この内の、読書、思索、作文こそが、個々人の哲学的基盤を作って行きます。
セネカはこの事について次の様に言っています。
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「物を書くばかりでもいけないし、本を読むばかりでもいけません。書くばかりでは、文章の表現力について言うと、自分の力を衰えさせ空にするでしょう。読むばかりでは自分の力を弱め洗い去ることになるでしょう。ですからこれとあれとに交互に往来し、一方を他方に程よく混ぜ合わせて、読書によって集めたものをすべて、文章の表現力を用いて一つの著述に移さねばなりません。」(セネカ「道徳書簡集」:第八四)
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「子の曰わく、学んで思わざれば則ち罔(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし」(「論語」)
読書、思索、作文が皆様の哲学的基盤です。
読書、思索までは分かるが、何故作文までもが哲学的基盤なのか。
そんな風に思われた人もあると思いますが、
その理由は二つです。
一つは人の記憶が極めて貧弱であると言う事。
もう一つは一番目の理由とも重なるのですが、
智慧とは瞬間瞬間のものであると言う事です。
智慧は瞬間瞬間に舞い降りて来ます。
その瞬間に智慧を書き留めなければ、
智慧は次の瞬間にはいずこかに去ってしまいます。
この世とかの世。
この世とはこの世の娑婆世界。
かの世とはこの世の娑婆世界を去った所にある世界。
一般的にはこの世とは皆様が生きている間の世界の事を言い、
かの世とは皆様が死んだ後の世界の事を言いますが、
私は次の様に定義します。
この世とは、私が私以外の人々と関係している時の世界、
かの世とは、私が一人に成った時の世界、
すなわち「奥まった部屋に入って戸を閉め」(マタイ福音書)た時のその世界と。
そしてこれを更に反転させます。
すなわち、
この世とは私が一人でいる時の世界、
かの世とは私が私以外の人々と関係している時の世界と。
こう定義する事で、
あの黄金律が良く分かる様に成る筈です。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)
皆様は「奥まった部屋に入って戸を閉めた」時、
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛する」事になると思います。
その時、皆様は神と共に在るのです。
なお、ここで言う神とは、「あなたの神である主」の事ですが、
これは皆様自身の智慧の事であり、
究極的には本当の皆様自身の事です。
これらを皆様から引き離して、人格性を持たせると「あなたの神である主」、
すなわちアートマンとなるのです。
このアートマンを通して、世界人類に共通のブラフマンを探し出そうとするその時、
アートマンとブラフマンが共同して、
皆様に智慧の言葉を齎して呉れると言う事に成っているのです。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛する」方法、
それが読書であり、思索であり、作文と言う事に成るのです。
皆様の中にはアートマンが存在していますが、
皆様には独りでにそれが浮かび上がって来る事はありません。
その為に学びが必要になるのです。
皆様が学べば、そこにアートマンが浮かび上がて来ます。
その時にこそ、皆様はアートマンと共に思う事に成るのです。
「学んで思わざれば則ち罔(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし」
もし皆様が学ばずに思うだけでは、
そのアートマン、すなわち皆様の神である主、すなわち皆様の智慧、
すなわち究極の皆様は殆(あや)うい者と成るのです。
「学んで思い、思って学び、学んで思い、思って学ぶ・・・・」
これこそが哲学です。
その為の方法が、読書、思索、作文と言う事に成るのです。
ここでまた最初の疑問に返る事にします。
読書、思索までは分かるが、何故作文までなのか。
それは人の記憶が極めて貧弱だからです。
もし皆様が智慧に智慧を求めれば、
智慧は皆様にこれでもかと言わんばかりに智慧を与えて呉れます。
それは私たちの記憶の容量から溢れてしまいます。
「イエスのなさったことは、このほかにも、まだまだたくさんある。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(「ヨハネ福音書」)
これこそが皆様自身です。
皆様は瞬間瞬間に生きています。
その瞬間瞬間に智慧は皆様に沢山の贈物をして下さいます。
その一つ一つを書き留めて、
それらを自分自身のものにする事によって、
皆様は智慧への確信が深まる事になるのです。
そこに書かれたものは全て皆様自身です。
そしてそれは皆、智慧からの贈り物です。
ここにおいて、皆様は智慧への確信と神への愛を深める事になるのです。
哲学とはphilosophia、
それは智慧を愛する事、
それは本当の自分自身を愛する事、
それは神を愛する事。
ここにおいて皆様の大きな神の体系が創り上げられる事になるのです。
「皆様のなさったことは、このほかにも、まだまだたくさんある。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれたものを収めきれないであろう。」
皆様が智慧を愛する事に依って、
智慧は皆様に贈物をして下さいます。
それを書き留める事、
それもまた皆様方哲学者(智慧を愛する者)の仕事なのです。
書く事に依って、言(智慧)が言葉へと変換されます。
この言葉に依って、皆様はこの世を生きて行く事に成るのです。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。」(「ヨハネ福音書」)
もし皆様の記憶力が抜群であれば、書く必要など無いでしょう。
全てを頭脳の内で処理すれば良いのでしょう。
しかし残念ながら、私たちの頭脳の処理能力は限られているのです。
その補助手段として、どうしても書くと言う事が、
哲学者、すなわち智慧を愛する者には必要なのです。
哲学は対話です。
対話には二つの対話があります。
一つは自分自身との対話であり、
他の一つは他人との対話です。
他人との対話、
これは言葉に依る対話です。
他人との対話においては、
ある程度、言が言葉に成っていなくては成立しません。
他人との哲学的対話、
それは言葉に依って、智慧へと向かう行為です。
一方自分自身との対話は、
言に依る対話であり、言葉に依る対話です。
自分自身との哲学的対話の大半は、言を言葉に換えて行く行為です。
しかしまた言葉での対話でもあります。
少し分かりづらいかも知れませんが、
こう言う事です。
自分自身との哲学的対話は、
言葉を基礎とした言との対話だと言う事です。
智慧との対話は瞬間瞬間です。
そこに在るのは全て目新しいものです。
その目新しさが人を惹き付けて止まないのですが、
それらは全て言葉の基礎の上に成り立っていると言う事なのです。
「荀(まことに)日に新たに、日々に新たに、又日に新たなり」(「大学」)
これこそが哲学の楽しみです。
その為にも言葉の基礎が必要なのです。
この言葉の基礎を固める行為が書くと言う事なのです。
私たちの記憶量は極めて貧弱です。
そして覚束ないものです。
閃きの大半はもう全て失われてしまいました。
しかし書くと言う行為に依って、言を言葉に留める事が出来るのです。
言葉と成った言はもう言葉です。
それこそが哲学の基礎と成って行くのです。
哲学とは、その瞬間以前のその人の言葉を基礎とした言との対話である。
その様に言っても良いと思います。
「学んで思わざれば則ち罔(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし」(論語)
古今東西の聖人賢人哲人たちの言葉に学び、
その言葉を基礎として、言と遊び
その結果を書き留め、自分自身のものとし、
その言葉を基礎に、また古今東西の聖人賢人哲人たちの言葉に学び
その言葉を基礎にして、更に言(智慧)と遊ぶ。
これが哲学者の道です。
そしてその代表格が孔子です。
「子曰く、十室の邑、必ず忠信、丘が如き者あらん。丘の学を好むに如(し)かざるなり。」(「論語」)
「子曰く、黙してこれを識し、学びて厭わず、人を誨(おし)えて倦まず。何か我に有らん。」(「論語」)
「子曰く、吾れ嘗て終日食らわず、終夜寝ねず、以て思う。益なし。学ぶに如かざるなり。」(「論語」)
「子曰く、学びて時に習う、亦た説(よろこ)ばしからずや。」(「論語」)
「子曰く、故きを温めて新しきを知る、以て師と為るべし。」(「論語」)
「子曰く、君子、博く文を学びて、これを約するに禮を以てせば畔(そむ)かざるべきか。」(「論語」)
「子曰く、生まれながらにしてこれを知る者は上(かみ)なり。学びてこれを知る者は次ぎなり。困(くるし)みてこれを学ぶは又其の次ぎなり。困(くるし)みて学ばざる、民斯(こ)れを下(しも)と為す。」(「論語」)
「子曰く、(前略)学べば則ち固ならず。(後略)」(「論語」)
「子曰く、教えありて類なし。」(「論語」)
「子曰く、性、相い近し。習えば、相い遠し」(「論語」)
「子曰く、学んで思わざれば則ち罔(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし」(論語)
「子曰く、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(した)がう。七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。」(「論語」)
孔子は本当に学ぶ事が好きでした。
十軒ほどの小さな村にも、私くらいの忠信の者はいるでしょうが、私ほど学ぶ事を好む者はいないでしょう、と。
孔子の一生は学びの一生でした。
十五で学びに志して、七十で学びを完成させたのです。
読書、思索、作文、対話そして実践、これが孔子の学びです。
読書、思索、作文で自分自身を固め、
すなわち言を言葉に換えて、
その言葉に依って対話を進め、そしてそれを社会において還元して行ったのです。
すなわち実践と言う行為に写して行ったのです。
これが孔子の学びの一生です。
「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。」
そこにおいては、もう言が言葉です。
「あなたがたは今はおぼろげにみているが、その時は目と目を合わせてはっきり見る事になるだろう(後で確かめる事)」(○○福音書)
「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(「マタイ福音書」)
言を言葉としてはっきり見る事が出来る時、その時が哲学の到達点です。
その為にも、読書、思索、作文、対話そして実践により、
その言をより確かな言葉に換え、より大きな言(言葉)の世界を創り上げて行く必要があるのです。
「では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。」(セネカ「」)
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ福音書)
読書、思索、作文がそれの基礎の基礎となるのです。
何故なら、言とは瞬間瞬間の閃きの事なのですから。
その結果が「イエスのなさったことは、このほかにも、まだまだたくさんある。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(「ヨハネ福音書」)と言う事になるのです。
「初めに言があった・・・」は、ヨハネ福音書の冒頭の言葉です。
そして「イエスのなさったことは・・・収めきれないであろう。」がヨハネ福音書の最後の言葉です。
この二つの言葉の間に、イエスの言すなわち、イエスの智慧と愛が一杯詰まっているのです。
その基礎の基礎は何かと言えば、
全てはヨハネの閃きです。
そのヨハネの閃きが言葉に成ったもの、それがヨハネ福音書なのです。
ヨハネはイエスへの閃きの基、もっともっと福音書を書き続ける事も出来たでしょう。
しかしそれでは冗長になる。
皆様を退屈させる事になる。
と言う事であの分量に成ったのです。
そしてそれは神の思し召しにより、最適な福音書と成ったのです。
皆様も書く事を覚えて下さい。
そうすれば実感します。その閃きを。
その閃きこそが哲学者の恍惚の基(もとい)なのです。
この報酬を受ける為に、
哲学者は日々哲学に勤しんでいるのです。
読書だけでも閃きは起こりますが、
作文においてはその閃きが連続して起こる事に成るのです。
何故かと言うに、
書く事によって言葉に成った言を前提に、
更に言のフロンティアに向かう事に成るからです。
「荀(まことに)日に新たに、日々に新たに、又日に新たなり」(「大学」)
「哲学は最高の文芸である。」(プラトン「パイドン」)
「善く説かれた真理の言葉を摘み集めるのだれであろう。」(ブッダ「真理の言葉」)
ここで皆様に哲学の奥義をお伝えして置こうと思います。
それは哲学とは言(もしくは言葉)の「饗宴」だと言う事です。
何故なら人は言(もしくは言葉)に依って生きているのですから。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」
もし皆様の言(もしくは言葉)が神の如き言葉であったら、
その時の喜びは如何ほどのものでしょう。
哲学者は日々それを求めて精進しているのです。
さて次はバガヴァッド・ギーターです。
バガヴァッド・ギーターとは神の詩(うた)、もしくは神の言葉と言う意味です。
もし皆様の言葉が、バガヴァッド(神)の言葉と何ら異ならなければ、
皆様の哲学の道はそこで終わりです。
「『この道は天の星に通ずるや。』実際、哲学が僕に約束しているのは、僕を神に匹敵させることです。このために僕は招かれ、このために僕は来たのです。」
「哲学は道を行き、英知は道の終わりです。」
さてそれではこの辺りでセネカを終わりにして、
クリシュナ(バガヴァッド)の智慧に入って行きたいと思います。
テキストは「バガヴァッド・ギーター」です。
バガヴァッドとは神と言う意味です。
そしてギーターは詩(うた)と言う意味です。
ですからバガヴァッド・ギーターとは神の詩(うた)と言う事に成ります。
一方クリシュナとは、バガヴァッド・ギーターの中の登場人物の二人の中の一人であり、もう一人の登場人物アルジュナの師と言う事になっています。
クリシュナとアルジュナは師弟関係にあり、バガヴァッド・ギーターは全編この二人の対話で成り立っていますが、クリシュナが途中で神に変貌します。
クリシュナが神に変貌してからの対話は、どちらかと言うと、神としてのクリシュナとその信者としてのアルジュナとの対話と言う形を取る事になります。
バガヴァッド・ギーターは、ヒンズー教典の中で最も世界中で読まれている聖典であると言われています。
特にキリスト教圏では。
何故ならその構成が福音書と同じだからです。
福音書は、智慧と愛の現人神イエスとその弟子(信者)との対話及び行状録ですが、
バガヴァッド・ギーターは、智慧と愛の現人神クリシュナとその弟子(信者)との対話録だからです。
バガヴァッド・ギーターの方が、純粋な対話だけから成り立っていますから、福音書より、より純粋に智慧と愛を引き立たせている事に成っているようです。
しかし日本人にはバガヴァッド・ギーターは少し難しいのかも知れません。
何故なら、日本人は智慧と愛と言う概念を十分に理解していないからです。
しかし皆様は大丈夫です。
ソロモンから始まって、セネカまでの間で十分に智慧と愛を学んで来ましたから。
古今東西の聖人賢人哲人たちは、ただ二つの事しか言っていないのです。
それは智慧と愛。
しかしそれだけではお話にならないから、沢山の概念を鏤めて、皆様を楽しませているのです。
智慧と愛、
これだけをしっかり掴んでいれば、
皆様は幸せそのものです。
何故なら、神(智慧)は愛なのですから。
古今東西の偉大な聖典経典哲学書を理解する為の方法は唯一つです。
それは智慧の概念をその図書に見出す事です。
智慧の概念を見出せば、
後は独りでに展開して行きます。
何故なら全てはその智慧から展開して行くのですから。
孔子は智慧を何と呼んだでしょう。
仁でしたね。
仁の概念を掴む事で、私たちは孔子の智慧の体系を理解しました。
老子の智慧の概念は何だったでしょう。
そうですね。道でしたよね。
道の概念を掴む事で、私たちは老子の智慧の体系を理解しました。
ダビデの智慧の概念は何だったでしょう。
そうですね。主でしたよね。
主の概念を掴む事で、私たちはダビデの智慧の体系を理解しました。
ソロモンの智慧の概念は何だったでしょう。
そうですね、知恵そのものでしたね。
その知恵の概念を掴む事で、私たちはソロモンの智慧の概念を理解しました。
王陽明の智慧の概念は何だったでしょう。
そうですね、良知でしたよね。
良知の概念を掴む事で、私たちは王陽明の智慧の体系を理解しました。
セネカのそれは何だったでしょう。
そうですね。英知でしたよね。
セネカの英知の概念を掴む事で、私たちはセネカの智慧の体系を理解しました。
さてそれではクリシュナ(バガヴァッド)の智慧の概念は何なのでしょう。
それこそが「私」です。
ここで言う「私」とはクリシュナの事であり、バガヴァッド(=神)の事であり、そして本当の皆様自身の事です。
この本当の皆様自身の事を「最高の自己(アートマン)」と呼んでいます。
この最高の自己(アートマン)がこれまで見て来た智慧に該当します。
すなわち、孔子の仁、老子の道、ダビデの主、ソロモンの知恵、王陽明の良知、セネカの英知等々に該当する事になります。
なお、クリシュナはこの最高の自己(アートマン)の事を主とも呼んでいますので、
それはソロモン、ダビデ、イエスの主とも直接的に繋がる事になるのです。
ここで簡単にクリシュナの智慧の相関を示して置きます。
それはおおよそ次の通りです。
私=クリシュナ=神=主=最高のプルシャ=最高の自己(アートマン)=智慧。
プルシャについては神格と訳しているようです。
「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」(セネカ「道徳書簡集」)
「ほんとうに存在するものによって自分を満たす。」(プラトン「国家」)
ここにおいてもセネカの智慧の系譜が続いているのです。
クリシュナは智慧と愛の現人神です。
それはイエスと同じです。
ですからイエスの教えと同じく、クリシュナの教えも強烈です。
その為、人はその人への信仰へと入って行く事も出来るのです。
ここに二つの道が生れて来る事になります。
すなわち哲学と宗教です。
その結末はどちらも同じです。
智慧と愛に満ちた世界、すなわち至福の世界です。
どちらがより簡便かと言えば、
断然に宗教です。
もしその宗教の教えが正しい教えであれば、
人は数回の説教でその教えの世界に入って行く事も可能です。
後はその智慧と愛の現人神の教えを信じて行けば、
その智慧と愛の現人神が約束する智慧と愛の世界、
すなわち至福の世界へと導いて行って呉れる事に成るのだと思います。
一方哲学には多大な困難が伴います。
何故なら一人で『それ』を探し出さなければいけないからです。
とても高貴な事ですが、多大な困難が伴います。
何故なら、それは見る事も、聞く事も、触る事も出来ないからです。
その辺りをクリシュナは次の様に言っています。
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「私に意(こころ)を注ぎ、私に常に専心して念想する、最高の信仰を抱いた人々は、『最高に専心した者』であると、私は考える。ただし、不滅で、説明され得ず、非顕現で、いたる所にあり、不可思議で、揺るぎなく、不動であり、堅固なものを念想する人々、感官の群を制御して、一切に対して平等に考え、万物の幸福を喜ぶ人々も、他ならぬ私に達する。だが、非顕現なものに専念した人々の苦労はより多大である。というのは、非顕現な帰結は、肉体を有する人々にとっては到達され難いから。一方、すべての行為を私のうちに放擲し、私に専念して、ひたむきなヨーガによって私を念想する人々、それらを私に注ぐ人々にとって、私は遠からず生死流転の海から彼らを救済する者となる。」(「バガヴァッド・ギーター」第十二章)
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「不滅で、説明され得ず、非顕現で、いたる所にあり、不可思議で、揺るぎなく、不動であり、堅固なもの」、
これが智慧です。
「感覚の群れを制御して、一切に対して平等に考え、万物の幸福を喜ぶ」、
これが愛です。
智慧と愛の完成、
これが哲学と宗教の道です。
要は皆様がどちらを選ぶかと言う事なのです。
もし皆様がキリスト教世界、イスラム教世界に住んでいたら、
断然に宗教を選択する事でしょう。
それしか選択の余地が無い事もあるでしょう。
しかし日本は信教の自由な国です。
そして無宗教の国です。
皆様は好きな宗教を選ぶ事は出来ますが、
全ての皆様が躊躇します。
何故でしょう。
簡単な事です。
宗教的基盤が無いからです。
宗教は祭祀と密接に関連しています。
祭祀は先祖代々に、と言う事になります。
その基盤が無いのにどうして宗教に入って行けましょう。
可愛そうな事ですが、
日本には全く宗教的基盤が無いのです。
その意味する所は、「智慧と愛」に対して無知だと言う事です。
その為に私は、
「哲学国家日本の実現の為に」と言うスローガンを掲げているのです。
哲学と宗教の終局的目標は、智慧と愛の完成です。
そして哲学と宗教以外に、智慧と愛を完成させる方法は無いのです。
さて皆様はどちらを選択しますか。
宗教ですか? 哲学ですか? 哲学しかありませんよね。
クリシュナは哲学の道には多大な困難が伴うと言っていますが、
実際そうだと思います。
一人で哲学の道を完成させるとなると
何十年もかかるのかも知れません。
あの孔子の様に。
孔子は十五で学びに入り、七十で学びを完成させたのでしたよね。
あの孔子の時代においてはそれ位の時間が必要だったのでしょう。
この現代日本においてはもっとかかるのかも知れません。
ひょっとしたら、死ぬまでの間には哲学の道を完成させる事は出来ないのかも知れません。
しかしちょっとした方法で、
その時間を極端に短縮させる事が出来るのです。
それが『哲学一貫教育』による『哲学国家日本』の実現です。
そこには、ソロモン、ダビデ、イエス、パウロ、ブッダ、孔子、王陽明、老子、ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカ級の哲学者が多数輩出する事になるのかも知れません。
そこまで行かないまでも諸子百家の世界が実現するのかも知れません。
何故なら誰でも何時でも自由に哲学の道に入る事が出来るからです。
そして高校卒業までに、ソロモン、ダビデ、イエス、パウロ、ブッダ、孔子、王陽明、老子、ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカ等々の哲学者の智慧を一通り学んでいる事になるのですから。
後はそれらを基盤に、彼らが智慧と愛を何処まで完成させる事が出来るかと言う事になるのですから。
そこに彼らの切磋琢磨の世界が展開される事に成るのです。
何故哲学国家においては、智慧と愛の完成が簡単なのか。
それはみんなが智慧と愛に向かっているからです。
そこには智慧と愛のエネルギーが満ち溢れているからです。
そこにおいては、ソロモン、ダビデ、イエス、パウロ、ブッダ、孔子、王陽明、老子、ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカ等々の一流の哲学者(智慧を愛する者)の智慧を視い出す事が、より容易に成るのです。
智慧に気付けば、そこに愛が展開される事に成るのです。
『哲学国家日本』と『哲学一貫教育』
これがこの日本に智慧と愛を齎すメソッドなのです。
なお『哲学国家日本』と『哲学一貫教育』については、
別に章を立てて詳しく説明する予定ですので、
そこにおいてご理解して頂ければと思っています。
さてまたクリシュナ(バガヴァッド=神)の智慧に戻りたいと思いますが、
皆様はクリシュナへの信仰に入りますか、
それとも智慧への信仰すなわち哲学の道を進みますか。
答えは一緒です。
何故なら、クリシュナとは智慧の現人神の事ですから、智慧と同じ事なのです。
そして智慧と神は同じなのです。
智慧とは智慧の純粋概念の事であり、
神とは智慧に人格性を持たせたものの事だからです。
なお智慧と書くとおばあちゃんの智慧とか悪智慧とか言う智慧を思い出す方もいるかも知れませんが、
ここで言う智慧とはもっと根源的な智慧の事です。
それは全ての智慧の根源としての智慧と言う意味での智慧なのです。
ですからセネカは敢えて使い古された智慧と言う言葉を使わずに英知と言う言葉と使っていましたよね。
王陽明もそうです、智慧と言う言葉を使わずに良知と言う言葉と使っていましたよね。
それはこれまで見て来た偉大な哲学者(智慧を愛する者)たちも同じです。
ダビデは主と言う言葉を使い、
孔子は仁と言う言葉を使い、
老子は道と言う言葉と使っていましたよね。
これまで見て来た哲学者(智慧を愛する者)たちの中で、
智慧と言う言葉を純粋に智慧と言う言葉で使っていたのは、ソロモンとソクラテス=プラトンだけです。
だからこそ、彼らが智慧を愛する者の代表格の様に扱われているのです。
ソロモンはソロモンの智慧で有名ですし、
ソクラテス=プラトンは、最高の哲学者、すなわち最高に智慧を愛した者として讃えられているのです。
しかしこれまで見て来た偉大な哲学者(智慧を愛する者)たちは皆一緒です。
彼らは皆、智慧を愛し抜いたのです。
ただその名前が違ったと言うだけの事なのです。
ですからクリシュナへの信仰は、智慧への信仰、すなわち哲学と全く同じなのです。
その様な理解の下で、「第十二章 クリシュナ(バガヴァッド)の智慧について」に入って行きたいと思います。
なおクリシュナの智慧を理解し易いように、「バガヴァッド・ギーター」から次の七つの概念を拾い出してみました。
「ヨーガ」、「自己(アートマン)」、「ブラフマン」、「智慧の現人神クリシュナ」、「智慧」、「寂静」、「祭祀」の七つです。
クリシュナ(バガヴァッド)の智慧の本編に入る前に、これらの概念について簡単に説明して置きたいと思います。
セネカの智慧において中心となる概念は何だったでしょう。
そうですね。「哲学」と「自分」でしたよね。
哲学(智慧を愛する事)に依って、本当の自分自身に成る。これが最高の善である。
この事を言う為に、セネカは実に沢山の概念を繰り出して来たのですよね。
クリシュナも全く同じです。
クリシュナの中心概念も哲学と自己です。
なおクリシュナは哲学と言う言葉は使わずに「ヨーガ」と言う言葉を使っています。
クリシュナの中心概念は「ヨーガ」と「自己(アートマン)」です。
ヨーガ(智慧を愛する事)により本当の自分自身に成る。これが最高の善である。
クリシュナの言いたい事もこの事だけです。
後の概念はそれらを補足説明する為だけのものなのです。
七つの概念の相関を簡単に説明すると次の通りになります。
ヨーガにより、自己が最高の自己(アートマン)に成った時、ブラフマンの境地へと達する。
そこは寂静の境地だが智慧に溢れている。
それはクリシュナの境地であり、神の境地。
また行為の全てを神への捧げもの、すなわち祭祀とする時においても、人はブラフマンに達する事が出来る。何故なら行為はブラフマンから発せられるものだから。
と言う様な事ですが、
かなり分かりづらいと思いますので、
七つの概念をもう少し噛み砕いて説明したいと思います。
先ずはヨーガについて。
私はヨーガとは哲学(智慧を愛する事)だと言う様な事を言いましたが、
ヨーガの概念は一般に考えらえれている哲学の概念より大きなものがあります。
尤もこのヨーガの概念こそが正に哲学なのですが・・・
私は先に「哲学一貫教育」及び「哲学広場」と言うものを提唱しており、
それは読書、思索、作文、対話そして実践(行為)で完結すると述べましたが、
これこそが正にヨーガなのです。
ヨーガは大きく二つに分けられます。
すなわち、知識のヨーガと実践(行為)のヨーガです。
読書、思索、作文、対話、これが知識のヨーガに該当し、
実践(行為)はその言葉通り実践(行為)のヨーガとなります。
この二つのヨーガにより、
人は智慧が約束する智慧と愛の世界、
すなわち至福の世界へと導かれる事になるのです。
この事はこれまで見て来た、
ソロモン、ダビデ、イエス、パウロ、ブッダ、孔子、王陽明、老子、ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカも異口同音に言っている事です。
その代表格がイエスのあの黄金律です。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)
この内の第一の掟については、これまで何度も説明して来ましたのでその説明は省略しますが、
第二の掟については、まだ十分に説明し切っていないと思いますので、
ここで再度説明し直したいと思います。
「隣人を自分のように愛しなさい」とはどう言う事でしょう。
それは本当の自分を愛するように隣人を愛しなさい、と言う事です。
所で、本当の自分とは何だったでしょう。
そうですね、神であり、智慧でしたよね。
であれば、隣人を自分のように愛しなさいとはどう言う意味になるのでしょうか。
そうですね、皆様が神様を愛して神様に返された様に、隣人をもその様に愛しなさいと言う事になるのです。
『私は万物の心中に宿る自己(アートマン)である。』
この神様を愛するように隣人をも愛しなさいと言う事となるのです。
何故ならその自己(アートマン)はすべての人の心に宿っているのですから。
『最高の主は万物の中に等しく存在し、万物が滅びても滅びることはないと見る人、彼は見るのである。というのは、主があらゆるものに等しく存在すると見る人は、自ら自己(アートマン)を害することがないから。』
『私を一切のうちに認め、一切を私のうちに見る人にとって、私は失われることなく、また、私にとって、彼は失われることはない。』
『万物の個別の状態は唯一者のうちに存し、まさにそれから多様に展開すると見る時、その人はブラフマンに達する。』
『この全世界は、非顕現な形の私によって遍く満たされている。万物は私のうちにあるが、私はそれらのうちには存立しない。しかも万物は私のうちに存しない。見よ、私の神的なヨーガを。私の本性は万物を支え、万物を実現するが、万物のうちには存しない。』
『ヨーガに専心し、一切を平等に見る人は、自己を万物に存すると認め、また万物を自己のうちに見る。』」
『自己との類比により、幸福にせよ、不幸にせよ、それを一切においても等しいものと見る人、彼は最高のヨーギンであると考えられる。』
イエスのあの黄金律は二つの掟から成っていますが、
究極的には一つの掟から成っているのです。
それは「最高の自己(アートマン)」を愛しなさいと言う事だけなのです。
何故なら「最高の自己(アートマン)」は、全ての皆様の心の中に存在しているのですから・・・
しかし多くの人がそれに気付いていない。
だからこそ、いがみ合いが続いているのです。
そんな私たちに、
クリシュナは隣人を愛する為のとても素敵な方法を教えて呉れました。
それは次の言葉に集約されます。
『あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為の束縛から解放されるであろう。』
以下はその補足として。
『ブラフマンに捧げる行為に専心する者は、まさにブラフマンに達することができる。』
『行為はブラフマンから生ずると知れ。ブラフマンは不滅の存在から生ずる。それ故、遍在するブラフマンは、常に祭祀において確立する。』
『執着を離れ、解放され、その心が知識において確立し、祭祀のために行為をする人にとって、その行為は完全に解消する。』
『祭祀の残りものという甘露を味わう人々は、永遠のブラフマンに達する。』
『実に祭祀により繁栄させられた神々は、汝らに望まれた享楽を与えるであろう。』
『祭祀のための行為を除いて、この世の人々は行為に束縛されている。アルジュナよ、執着を離れて、そのための行為をなせ。』
皆様が隣人と関係を持つ時、そこに在るべきものは愛です。
愛とは何か。
それは神への愛です。
その愛はどの様にすれば成就するのか。
それは自分の全ての行為を神に捧げる事によって成就する。
クリシュナはそう教えて呉れたのです。
そこにおいては全てのエゴが排除される事になります。
『皆様が行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを皆様の神への捧げものとせよ。皆様。かくて皆様は、善悪の果報をもたらす行為の束縛から解放されるであろう。』
皆様の全ての行為を皆様の神様への捧げものとする。
そうすればそこにエゴが入って来る事はありません。
なお、皆様の神様とは、皆様の智慧の事であり、究極的は皆様の本当の自分自身の事なのですが、
ここで本当の自分自身と言う言葉を出してしまうと自己撞着を起こしてしまいますので、
あくまでも神様へとした方が良いと思います。
神様へ!その方が本当の自分自身へ!と呼びかけるよりも、その本当の自分自身は皆様の言う事を良く聞いて呉れるのではないでしょうか・・・
「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(「マタイ福音書」)
この辺りで皆様も本気で神様の概念を考えた方が良いと思います。
そしてその呼び名についても。
主よ、神よと呼びかける時、
皆様の神である主、すなわち智慧は、
皆様が心から欲するものを何でも与えて呉れる筈です。
何故なら「皆様の神である主」とは本当の皆様ご自身の事なのですから。
少し脱線してしまいましたので、
またヨーガの概念に戻りたいと思います。
ヨーガとは何か。
ヨーガの概念は本当に幅広いものです。(本当の哲学の概念もそうなのですが・・)
ヨーガ一本で全ての人を至福に導く事が出来ます。
何故なら全ての行為がヨーガがそのものだからです。
その辺りをもう少し詳しく見て行こうと思います。
全ての宗教において、祭祀、苦行、布施が定められていますが、
それらは全てのヨーガの中に内包されているのです。
なお苦行については、バガヴァッド・ギーターでは次の様に定義されています。
『神々、バラモン、師匠、知者の崇拝、清浄、廉直、梵行、不殺生。以上は身体的な苦行と言われる。不安を起こさせない、真実で、好ましい有益な言葉、及び、ヴェーダ学習の常修。以上は言語的な苦行と言われる。意(こころ)の平安、温和、沈黙、自己抑制、心の清浄。以上は心的な苦行と言われる。』と。
これらは全てヨーガに内包されているのです。
祭祀とは、自らの全ての行為を神に捧げる事であり、
苦行も、自らの全ての行為を神に捧げる事であり、
布施も、自らの全ての行為を神に捧げる事です。
祭祀、苦行、布施は全てヨーガに内包されているのです。
ですからヨーギンは、祭祀、苦行、布施をそれぞれに行う者を越えて、いち早くその至福に到達する事になるのです。
『ヴェーダ、祭祀、苦行、布施において功徳の果報が定められているが、ヨーギンはそのすべてを超越し、以上の教えを知って、最高なる本初の状態に達する。』
『ヨーギンは苦行者よりも優れ、知識人よりも優れていると考えられる。またヨーギンは祭祀を行う者より優れていいる。』
『祭祀と布施と苦行の行為は捨てるべきでなはない。それは行われるべきである。賢者たちにとって、祭祀と布施と苦行は浄化するものである。』
さてヨーガに専念すれば、ヨーギンはどの様な状態に達する事になるのでしょう。
『ヨーガに専心した聖者は、遠からずブラフマンに達する。』
『常に専心し、罪障を離れたヨーギンは、ブラフマンとの結合と言う究極の幸福を得る。』
『内に幸福あり、内に楽しみあり、内に光明あるヨーギンは、ブラフマンと一体化し、ブラフマンにおける涅槃に達する。』
『実に、意が静まり、激質が静まり、ブラフマンと一体化した罪障のないヨーギンに、最後の幸福が訪れる。』
『清浄な知性をそなえ、堅固さにより自己(アートマン)を制御し、常に瞑想のヨーガに専念し、離欲を拠り所にし、我執、暴力、尊大さ、欲望、怒り、所有を捨て、『私のもの』という思いなく、寂静に達した人は、ブラフマンと一体化することができる。』
『外界との接触に執心せず、自己(アートマン)のうちに幸福を見出し、ブラフマンのヨーガに専心し、彼は不滅の幸福を得る。』
ヨーガに専念したヨーギンはブラフマンに達するのですね。
それではブラフマンとはどの様な状態を言うのでしょうか。
『すべての欲望を捨て、願望なく、『私のもの』という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。アルジュナよ、これがブラフマンの境地である。それに達すれば迷うことはない。』
寂静、
これこそがブラフマンの境地ですが、
ここに達する事が出来れば、
人は至福へと至る事が出来るのです。
何故ならそこは精神の遊び場だからです。
『私は知識の対象を告げよう。それを知れば人が不死に達するところの。それは無始なる最高のブラフマンである。(中略)それは知識であり、知識の対象であり、知識により到達さるべきものである。それはすべてのものの心に存在する。』
『知性を備えた賢者らは、行為から生じる結果を捨て、生の束縛から解脱し、患いのない境地に達する。』
『あなたの知性が迷妄の汚れを離れる時、あなたは、聞くであろうことと聞いたこととを厭うであろう。聞くことに惑わされたあなたの知性が、揺るぎなく確立し、三昧において不動になる時、あなたはヨーガに達するであろう。』
そこにおいて、皆様はクリシュナと成り、イエスと成り、ブッダと成り、それらの世界を創造するのではなく、
そこにおいて、皆様が皆様自身と成り、
皆様の世界を築き上げて行く事になるのです。
尤もその世界は、
クリシュナの世界やイエスの世界やブッダの世界とは、
ほとんど変わらない世界とは成ると思いますが・・
何故ならその世界は人類全てに、普遍的に先験的に存在しているものだからです。
それを二言で言えば智慧と愛です。
一言で言えば『言』です。
この言の世界に、如何に智慧と愛を鏤めるか、
それが皆様方哲学者(智慧を愛する者)の仕事なのです。
さてそれでは「ヨーガ」はこの位にして、
次に「自己(アートマン)」に入って行きたいと思います。
『自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。』
『自ら自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし自己を制していない人にとって、自己はまさに敵のように敵対する。』
『自己において喜び、自己において充足し、自己において満ち足りた人、彼にはもはやなすべきことがない。』
皆様に取って、
自分は自分の友達ですか。
もしそうだと言う人がいらしたら、その人はこれまでに哲学を十分に学んで来た人です。
勿論皆様もそうです。
この長い文章をここまで読んで来て呉れた人は、
それへの確信があったからか、
もしくはそれへの予感があったからこそ、
ここまで一緒に来て呉れたのだと思います。
自己には二つの自己があります。
一つは考える私としての「自己」です。
これはデカルトの「我思う、故に我在り」と言う時の自己です。
もう一つは、「最高の自己(アートマン)」です。
これこそが神であり、智慧であり、本当の皆様ご自身です。
これは目で見る事は出来ませんが、
予感があります。
その予感を高い所に引き上げる事により、
考える私としての「自己」と
「最高の自己(アートマン)」との間に、
素晴らしい『言』の世界が現出する事に成ります。
そこは言の閃きの世界です。
この至福の世界が
自分自身の中に在るからこそ、
自己が自己の友達と成る事が出来るのです。
『意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)において満足する時、その人は智慧が確立した言われる。』
『心が制御され、自己(アートマン)においてのみ安住する時、その人はすべての欲望を願うことなく『専心した者』であると言われる。』
『外界との接触に執心せず、自己(アートマン)のうちに幸福を見出し、ブラフマンのヨーガに専心し、彼は不滅の幸福を得る。』
『自己において喜び、自己において充足し、自己において満ち足りた人、彼にはもはやなすべきことがない。』
『理論知と実践知により自己(アートマン)が充足し、揺るぎなく、感官を克服し、土塊や石や黄金を平等に見るヨーギンが、『専心した者』と呼ばれる。』
『欲望と怒りを離れ、心を制御し、自己(アートマン)を知った修行者たちにとって、ブラフマンにおける涅槃は近くにある。』
『『風のない所にある灯火が揺るがぬように』とは、心を制御し、自己(アートマン)のためのヨーガを修めているヨーギンの比喩であると伝えられる。そこにおいて、心はヨーガの実修により抑制されて静まり、人は自ら自己のうちに自己(アートマン)を見て満足し、そこにおいて、感官を越えた、知性により認識されるべき究極の幸福を人は知り、そこに止まって真理を逸脱することなく、それを得れば、他の利得を劣るものと考え、そこに止まれば、大きな苦しみによて動揺されることがない、そのような苦の結合から離れることが、ヨーガと呼ばれるものであると知れ。』
自己において自己を見出し、
自己において満足し、
自己において安住し、
自己において充足し、
自己において幸福を感じている人々において
その自己以外に求める何かがあるのでしょうか。
この自己とは何か、
それこそが「最高の自己(アートマン)」なのです。
それは智慧の事であり、「あなたの神なる主」の事です。
またクリシュナ(バガヴァッド=神)の事でもあるのです。
クリシュナが智慧の現人神と成って、
皆様に智慧の事を懇切丁寧に教えているのです。
バガヴァッド・ギーターの中のクリシュナの言葉を智慧の言葉と置き換えて下さい。
そうすればバガヴァッド・ギーターもまた最高級の「智慧の書」と成るのです。
クリシュナの智慧も世界人類に普遍的に存在する智慧と一寸も違いませんので。(但し時代性と地域性の衣は丁寧に剥がして下さいね。)
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「私は万物の心中に宿る自己(アートマン)である。私は万物の本初であり、中間であり、終末である。(中略)私は創造においては本初であり、終末であり、中間である。諸学においては、自己(アートマン)に関する知識である。私は語る者たちの言説である。(中略)私は統治者たちの杖である。征服を志す王たちの政策である。私は秘密事における沈黙である。知識ある人々の知識である。また、万物の種子、それは私である。アルジュナよ。動不動のもので、私なしで存在するようなものはない。私の神的な示現には限りがない。だが、私は示現の多様性の若干の例を述べたのである。いかなるものでも権威があり、栄光があり、精力あるもの、それを私の威光の一部から生じたものと理解せよ。だがアルジュナよ、そのように多く知っても何になろう。私はこの全世界を、ほんの一部分で支えて存在しているのだ。」(「バガヴァッド・ギーター」第十章)(※私の事を十分の九位省略しています。素晴らしいものの全ては私であり、そして私から生まれる。)
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「世界にはこれら二種のプルシャがある。可滅のものと不滅のものである。可滅のものは一切の被造物である。不滅のものは『揺るぎなき者』と言われる。しかし、それと別な至高のプルシャがあり、最高のアートマンと呼ばれる。それは不変の主であり、三界に入ってそれを支持する。私は可滅のものを超越して、不滅のものよりも至高であるから、世間においても、ヴェーダにおいても、至高のプルシャであると知られている。」(「バガヴァッド・ギーター」第十五章)
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「この身体におけるプルシャは、近くに見る者、承認者、支持者、享受者、偉大な主、最高の自己(アートマン)と言われる。」(「バガヴァッド・ギーター」第十五章)
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「ある人々は瞑想によって、自らの自己のうちに自己(アートマン)を見る。他の人々は、―ンキヤ(理論)のヨーガによって、また他の人は行為のヨーガによって見る。」(「バガヴァッド・ギーター」十三第章)
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「努力するヨーギンは、自己のうちに宿る彼を見る。しかし、自己を制御しない、思慮のない者は、努力しても彼を見ない。」(「バガヴァッド・ギーター」第十五章)
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「わたしは知恵。
熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている。
主を畏れることは、悪を憎むこと。
傲慢、驕り、悪の道、暴言をはく口を、わたしは憎む。
わたしは勧告し、成功させる。
わたしは見分ける力であり、威力を持つ。
わたしによって王は君臨し、支配者は正しい掟を定める。
君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆、わたしによって治める。
わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。
わたしのもとには富と名誉があり、すぐれた財産と慈善もある。
わたしの与える実りは、どのような金、純金にもまさり、わたしのもたらす収穫は、精選された銀にもまさる。
慈善の道をわたしは歩き、正義の道をわたしは進む。
わたしを愛する人は嗣業を得る。
わたしは彼らの倉を満たす。」(旧約聖書「箴言」)
自分自身の中に智慧を見出した時、
皆様は次の言葉を実感する事に成るでしょう。
何故なら、そこにおいては全てが皆様自身なのですから。
『あなたの知性が迷妄の汚れを離れる時、あなたは、聞くであろうことと聞いたこととを厭うであろう。聞くことに惑わされたあなたの知性が、揺るぎなく確立し、三昧において不動になる時、あなたはヨーガに達するであろう。』
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(新約聖書「マタイ福音書」)
皆様において何ものにも換え難い宝とは智慧の事なのです。
何故なら智慧において全てが満たされるからです。
以上で「自己(アートマン)」については終わりにし、
次に「ブラフマン」に入りたいと思います。
ブラフマンとは何か。
それはヨーガにより、自己が「最高の自己(アートマン)」に成った時の境地です。
そこは「寂静」ですが、智慧に充ち溢れています。
それは老子の恍惚、ブッダのニルヴァーナと同じです。
またエピクロス、セネカの「心の平静」とも同じです。
そこにおいて、「神は愛なり」と言う言葉が成就するのです。
『ヨーガに専心した聖者は、遠からずブラフマンに達する。』
『内に幸福あり、内に楽しみあり、内に光明あるヨーギンは、ブラフマンと一体化し、ブラフマンにおける涅槃に達する。』
『常に専心し、罪障を離れたヨーギンは、ブラフマンとの結合と言う究極の幸福を得る。』
『罪障を滅し、疑惑を断ち、自己(アートマン)を制御し、すべて生類の幸せを喜ぶ聖仙たちは、ブラフマンにおける涅槃に達する。』
『実に、意が静まり、激質が静まり、ブラフマンと一体化した罪障のないヨーギンに、最後の幸福が訪れる。』
『欲望と怒りを離れ、心を制御し、自己(アートマン)を知った修行者たちにとって、ブラフマンにおける涅槃は近くにある。』
『外界との接触に執心せず、自己(アートマン)のうちに幸福を見出し、ブラフマンのヨーガに専心し、彼は不滅の幸福を得る。』
『意(こころ)が平等の境地に止まった人々は、まさにこの世で生存を征服している。というのは、ブラフマンは欠陥がなく、平等である。それ故、彼らはブラフマンに止まっている。』
『清浄な知性をそなえ、堅固さにより自己(アートマン)を制御し、常に瞑想のヨーガに専念し、離欲を拠り所にし、我執、暴力、尊大さ、欲望、怒り、所有を捨て、『私のもの』という思いなく、寂静に達した人は、ブラフマンと一体化することができる。ブラフマンと一体となり、その自己(アートマン)が平安になった人は、悲しまず、期待することもない。』
『すべての欲望を捨て、願望なく、『私のもの』という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。アルジュナよ、これがブラフマンの境地である。それに達すれば迷うことはない。』
『ブラフマンに捧げる行為に専心する者は、まさにブラフマンに達することができる。』
『祭祀の残りものという甘露を味わう人々は、永遠のブラフマンに達する。』
『行為はブラフマンから生ずると知れ。ブラフマンは不滅の存在から生ずる。それ故、遍在するブラフマンは、常に祭祀において確立する。』
ブラフマンに達した時、
皆様は「神は愛なり」と言う言葉を実感する筈です。
それはブッダの微笑みたいなものなのかも知れません。
以上で「ブラフマン」を終わり、
次に「クリシュナ(智慧の現人神クリシュナ)」に入りたいと思います。
バガヴァッド・ギーターは、
クリシュナとアルジュナとの対話録ですが、
ほとんどはクリシュナの言葉から成っています。
バガヴァッド・ギーターではクリシュナと言う言葉はほとんど出て来ません。
アルジュナがクリシュナを呼びかける時に出て来る位です。
クリシュナが話す時、
その時は「聖バガヴァッド(クリシュナ)が告げた」と言う言葉で始まります。
( )書きは翻訳者の訳注と成っています。
ですから、バガヴァッド・ギーターの中のバガヴァッドの言葉は、全ての神の言葉と言う事になります。
しかしアルジュナが相手にしている人物はあくまでもクリシュナです。
この構成が何を意味しているかと言うと、
クリシュナは現人神だと言う事です。
私はそれを智慧の現人神と呼ぶ事にしています。
本当は智慧と愛の現人神なのですが、
そうすると議論が複雑になるので、
ここでは智慧の現人神とする事にします。
何故なら智慧に辿り着けばそこに愛が生れるからです。
第一の現人神はやはり智慧の現人神なのです・・・
こう理解する事で、
バガヴァッド・ギーターはとても読み易くなる筈です。
智慧は見る事も聞く事も出来ません。
それは神も同じですし、
本当の自分自身もそうです。
それを見える形にして呉れたのがクリシュナなのです。
それはイエスも同じ事なのですが。
所で、神とは何でしょう。智慧とは何でしょう。
そうですね、本当の皆様自身の事ですね。
クリシュナは皆様に変わって、
本当の皆様自身を皆様に現して呉れたのです。
バガヴァッド・ギーターは、
皆様と本当の皆様自身との対話録と言う事に成ります。
クリシュナが本当の皆様自身に変わって、
皆様と対話を進めて呉れているのです。
さて、皆様は本当の自分自身に何処まで迫る事が出来るのでしょうか・・・
『私は万物の心中に宿る自己(アートマン)である。私は万物の本初であり、中間であり、終末である。(中略)私は創造においては本初であり、終末であり、中間である。諸学においては、自己(アートマン)に関する知識である。私は語る者たちの言説である。(中略)私はまさに不滅の時間(カーラ)である。私はあらゆる方角に顔を向けた配置者である。私は一切を奪い去る死である。生まれるべきものの源泉である。(中略)私は統治者たちの杖である。征服を志す王たちの政策である。私は秘密事における沈黙である。知識ある人々の知識である。また、万物の種子、それは私である。アルジュナよ。動不動のもので、私なしで存在するようなものはない。私の神的な示現には限りがない。だが、私は示現の多様性の若干の例を述べたのである。いかなるものでも権威があり、栄光があり、精力あるもの、それを私の威光の一部から生じたものと理解せよ。だがアルジュナよ、そのように多く知っても何になろう。私はこの全世界を、ほんの一部分で支えて存在しているのだ。』(中略の中に「私は○○である。」が六十近くにも及んでいます。その中でも、全て素晴らしきものは私であると言っているのです。あまりにも長すぎるし、あまりにもローカル的なものなので省略しています。)
『私はこの世界の父であり、母であり、配置者であり、祖父である。知られるべき対象である。浄化具である。聖音オームである。讃歌、歌詠、祭詞である。私は帰結である。維持者である。主である。目撃者である。住処である。寄る辺である。友人である。本源であり終末であり維持である。宝庫であり、不滅の種子である。私は熱を発する。私は雨を収めて、また送り出す。私は不死であり死である。有であり無である。』
『私は不生であり無始である、世界の偉大な主であると知る人は、人間(じんかん)にあって迷わず、すべての罪悪から解放される。知性、知識、不惑、忍耐、真実、制御、寂静、苦楽、発生、消滅、恐怖、無畏、不殺生、平等心、満足、苦行、名誉、不名誉。これら万物の個々の状態は、ただ私のみから生ずる。』
クリシュナは随分高い所に本当の皆様を据え付けてしまいましたね。
だからこそ遣り甲斐もあると言うものです。
「わたしは知恵。(中略)
わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。」(旧約聖書「箴言」)
「求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」(新約聖書「マタイ福音書」)
『私は一切の本源である。一切は私から展開する。そう考えて、知者たちは愛情をこめて私を信愛するのである。私に心を向け、生命を私に捧げ、互いに目覚めさせつつ、彼らは常に私について語り、満足して楽しむ。常に専心し、喜びをもって私を信愛する彼らに、私はかの知性のヨーガを授ける。それによって彼らが私に至るところの。まさに彼らへの憐愍のために、私は個物(アートマン)の心に宿り、輝く知識の灯火により、無知から生ずる闇を滅ぼす。』
これが智慧と皆様方の約束です。
神様(智慧)は皆様の中に最高の自己(アートマン)として宿っているのです。
それは輝く智慧の灯火。
ですから、私とかクリシュナとかバガヴァッドとかそう言う言葉に囚われずに、
バガヴァッド・ギーターの智慧に
「愛情を込め」「信愛し」「心を向け」「命を捧げ」
バガヴァッド・ギーターの智慧と共に
「語り」「満足して楽しみ」「喜び」「専心」して下さい。
そうすれば皆様もきっと、
バガヴァッド・ギーターの智慧を見出す筈です。
『すべてのものに敵意を抱かず、友愛あり、憐れみ深く、『私のもの』という思いなく、我執なく、苦楽を平等に見て、忍耐あり、常に満足し、自己を制御し、決意も堅く、私に意(こころ)と知性を捧げ、私を信愛するヨーギン、彼は私にとって愛しい。』
『何ごとも期待せず、清浄で有能、中立を守り、動揺を離れ、すべての企図を捨て、私を信愛する人、彼は私にとって愛しい。』
『敵と味方に対して平等であり、また尊敬と軽蔑に対しても平等であり、寒暑や苦楽に対しても平等であり、執着を離れた人、毀誉褒貶を等しく見て、沈黙し、いかなるものにも満足し、住処なく、心が確定し、信愛に満ちた人、彼は私にとって愛しい。』
『この正しい甘露を念想し、信仰し、私に専念する信者たち、彼らは私にとってこよなく愛しい。』
『私に最高の信愛を捧げ、私の信者たちの間にこの最高の秘密を説く人は、疑いなくまさに私に至るであろう。人のうちで、彼ほど私に好ましいことをする者はいない。またこの地上に、私にとって彼ほど愛しい者はいないであろう。』
智慧を愛すれば、
智慧は倍返し以上で愛し返して呉れる筈です・・・
さて以上で、「クリシュナ(智慧の現人神クリシュナ)」を終わりにして、
次は「智慧」に入りたいと思います。
智慧と愛。
智慧に到達してこそ、愛が生れます。
愛だけを求めれば、それは愛執です。
『仮にあなたが、すべての悪人のうちで最も悪人であるとしても、あなたは知識の舟により、すべての罪を渡るであろう。あたかも燃火が薪を灰にするように、知識の火はすべての行為を灰にするのである。というのは、知識に等しい浄化具はこの世にないから。ヨーガにより成就した人は、やがて自ら、自己(アートマン)のうちにそれを見出だす。信頼を抱き、それに専念し、感官を制御する者は知識を得る。知識を得て、速やかに最高の寂静に達する。』
『愛執、恐怖、怒りを離れ、私に専念し、私に帰依する多くの者は、知識という苦行によって浄化され、私の状態に達する。』
『知識により自己(アートマン)の無知が滅せられた時、彼らの知識は太陽のように、かの最高の存在を照らし出す。それに知性を向け、それに心を向け、それを帰結とし、それに専念する人々は、知識により、罪障を滅し、不退転に至る。」』
『四種の善行者が私を信愛する。すなわち、悩める人、知識を求める人、利益を求める人、知識ある人である。彼らのうち、常に専心し、ひたむきな信愛を抱く、知識ある人が優れている。知識ある人にとって私はこの上なく愛しく、私にとって彼は愛しいから。これらの人々はすべて気高い。しかし、知識ある人は、まさに私と一心同体であると考えられる、というのは、彼は専心し、至高の帰趨である私に依拠しているから。』
「浄化(カタルシス)とは、さっきから論じられてきたように、魂をできるだけ肉体からきり離し、そして、魂が肉体のあらゆる部分から自分自身へと集中し、結集して、いわば肉体の縛めから解放され、現在も、未来も、できるだけ純粋に自分だけになって生きるように魂を習慣づけることを意味するのではないか」(プラトン「パイドン」)
「そして、われわれの言うところでは、魂の解放を最も熱望するのが真の哲学者であり、と言うよりも、彼らのみがそれを熱望するものであり、哲学者の仕事とはまさにそのこと、すなわち、魂の肉体からの解放にほかならない。そうではないか。」(プラトン「パイドン」)
「肉体のことだけに気をとられていないで、自分自身の魂のことを少しでも心にかかえて生きる人たちは、いま述べてきたような人たちのすべてに別れを告げるのだ。彼らは、自分たちがどこへ行くのかわかっていないような人たちとはたもとを分かち、みずから、哲学に反することはなずべきでないと、哲学の与える解放と浄化(カタルシス)に反することはなすべきでないという信念のもとに、哲学にしたがい、哲学の導くままに進んで行くのだ。」(プラトン「パイドン」)
「こんなふうに、快楽と快楽、苦痛と苦痛、恐怖と恐怖を、まるで貨幣でもあるかのように、大きいのと小さいのを交換するのは、徳を得るための正しい交換とは言えないだろう。そうではなくて、われわれがこれらすべてをそれを交換すべきただ一つの真正な貨幣があるだろう。知恵こそ、それなのだ。そして、もしすべてがそれを得るために、あるいは、それを用いて売買されるなら、そのときこそ真の勇気、節制、正義、一言にしていえば真の徳が存在するのだ。真の徳は知恵を伴うのであて、快楽、恐怖、その他、すべて、そういうものが加わろうが、とり去られれようが、それは問題ではない。しかしこれらが、知恵からきり離されて、相互のあいだで交換されるなら、そのような徳は、いわばまさに絵に描いた餅にすぎないのであり、まさに奴隷の徳であり、なんらの健全さ真実も含まないであろう。真の徳とは、節制であり、正義であり、勇気であれ、すべて、そのような情念からの、まさに浄化(カタルシス)であって、知恵こそこの浄めの役を果たすのではないか。』(プラトン「パイドン」)
智慧こそが、皆様の心を綺麗にして呉れる浄化具なのです。
智慧を愛し抜いて下さい。
そうすればそこに恍惚(もしくはニルヴァーナ)が生れます。
そこが皆様の神様の住処です。
そこにおいて真の徳(節制、正義、勇気等々)、すなわち愛が生れるのです。
神は愛なり、
それは恍惚(もしくはニルヴァーナ)の世界で生まれるのです。
「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。」(「マタイ福音書」)
皆様の心を清くし、そして神様にお目通りをさせる為の道具、
それこそが哲学なのです。
智慧を愛し抜いて下さい。
そうすれば、そこに恍惚の世界が待っています。
そこが皆様と神様の遊び場です。
すなわち「言」の世界です。
「知識ある人は、まさに私と一心同体であると考えられる、というのは、彼は専心し、至高の帰趨である私に依拠しているから。」
クリシュナも認めていますよね。
智慧こそが私であると。
「至高の帰趨である私」とは智慧の事であると。
以上で「智慧」は終わりにして、
次に「寂静」に入りたいと思います。
「寂静」は、
エピクロス、セネカの「心の平静」と同じ境地です。
そして恍惚、ニルヴァーナの入口でもあります。
それはまた天国、極楽、神の国の入口でもあるのです。
この世の穢れをすっかり洗い流した状態の事です。
この後、皆様は神様と「言」の世界で饗宴を繰り広げる事に成るのです。
『専心した者は、行為の結果を捨て、究極の寂静に達する。』
『堅固に保たれた知性により、意を自己(アートマン)にのみ止めて、次第に寂静に達すべきである。』
『ヨーガに登ろうする聖者にとって、行為が手段であると言われる。ヨーガに登った人にとっては、寂静が手段であると言われる。』
『すべての欲望を捨て、願望なく、『私のもの』という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。アルジュナよ、これがブラフマンの境地である。』
『清浄な知性をそなえ、堅固さにより自己(アートマン)を制御し、常に瞑想のヨーガに専念し、離欲を拠り所にし、我執、暴力、尊大さ、欲望、怒り、所有を捨て、『私のもの』という思いなく、寂静に達した人は、ブラフマンと一体がすることができる。』
『全身全霊で彼にのみ庇護を求めよ。アルジュナよ。彼の恩寵により、あなたは最高の寂静、永遠の境地に達するであろう。』
『私を祭祀と苦行の享受者、全世界の偉大な主、すべての生類の友であると知れば、寂静に達する。』
『私は万物に対して平等である。私には憎むものも好きなものもない。しかし信愛をこめて私を愛する人々は私のうちにあり、私もまた彼らのうちにある。たとい極悪人であっても、ひたすら私を信愛するならば、彼はまさしく善人であるとみなされる。彼は正しく決意した人であるから。速やかに彼は敬虔な人となり、永遠の寂静に達する。』
『仮にあなたが、すべての悪人のうちで最も悪人であるとしても、あなたは知識の舟により、すべての罪を渡るであろう。あたかも燃火が薪を灰にするように、知識の火はすべての行為を灰にするのである。というのは、知識に等しい浄化具はこの世にないから。ヨーガにより成就した人は、やがて自ら、自己(アートマン)のうちにそれを見出だす。信頼を抱き、それに専念し、感官を制御する者は知識を得る。知識を得て、速やかに最高の寂静に達する。』
『専心しない人には知性はなく、専心しない人には瞑想はない。瞑想しない人には寂静はない。寂静でない者に、どうして幸福があろうか。』
智慧を愛し抜いて下さい。
そうすれば皆様は寂静の世界へと導かれます。
そこが天国の入口です。
後は天国に入って神様とご自由に遊んで下さい。
天国とは皆様のアートマン(智慧)がブラフマンに溶け込んだ時の世界の事です。
以上で「寂静」を終わりにして、
次に「祭祀」に入りたいと思います。
祭祀とは何か。
私はこれまで何か特別なものだと思っていました。
しかしこのバガヴァッド・ギーターでその概念が全くひっくり返ったのです。
『あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為の束縛から解放されるであろう。』
祭祀とは、
私の行う全ての行為を全て神様に捧げる事、
そう理解する事により、
私の体は羽根が生えた様に軽くなったのです。
そう理解する事で、
私は天使にも成れた様な気になったのです。
そう理解する事で、
この世に在りながらも、
ブラフマンの世界、ニルヴァーナの世界、
すなわち恍惚の世界に在り続けられるのではないかと考えたのです。
この世とかの世。
かの世、すなわち「奥まった部屋に入って戸をしめれば」
私たちはブラフマン、ニルヴァーナ、恍惚の世界に入って行く事は出来ますが、
この世、すなわち私以外の人々と共に在る時は、
その世界に入って行く事は非常に困難です。
何故なら常に行為し続けなければならないからです。
そこにおいては常に自我が付き纏います。
何故ならこの世の私を守らなければいけないからです。
しかしそこに「祭祀」と言う概念を持ち込む事により、
この世に在りながらも、かの世を生きる事が可能になるのではないかと思う様に成ったのです。
何故なら、私の行う全ての行為は神様への捧げものなのですから。
「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい」(「ローマ信徒への手紙」)
そう考える事で、
この世に在りながらも、ブラフマンの世界を生きられるのではないかと考えた次第です。
とてもとても難しい事ですが、とてもとても遣り甲斐のある仕事ではないでしょうか。
祭祀とは、
この世の私を殺して
アートマン(智慧)と共にこの世を生きる事。
それに専念すればするほど、ブラフマンに近付く。
祭祀の究極は愛。
祭祀の究極は「神は愛なり」と言う事に成る様です。
『あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為の束縛から解放されるであろう。』
『祭祀のための行為を除いて、この世の人々は行為に束縛されている。アルジュナよ、執着を離れて、そのための行為をなせ。』
『執着を離れ、解放され、その心が知識において確立し、祭祀のために行為をする人にとって、その行為は完全に解消する。』
『ブラフマンに捧げる行為に専心する者は、まさにブラフマンに達することができる。』
『行為はブラフマンから生ずると知れ。ブラフマンは不滅の存在から生ずる。それ故、遍在するブラフマンは、常に祭祀において確立する。』
『実に祭祀により繁栄させられた神々は、汝らに望まれた享楽を与えるであろう。』
『祭祀の残りものという甘露を味わう人々は、永遠のブラフマンに達する。』
『私を祭祀と苦行の享受者、全世界の偉大な主、すべての生類の友であると知れば、寂静に達する。』
この世で本当の私に成る、
それは本当に難しい事だと思いますが、
そこに向かって行くのが哲学者の仕事だと思います。
「祭祀」(神は愛なり)もその一つの方法です。
「『この道は天の星に通ずるや。』実際、哲学が僕に約束しているのは、僕を神に匹敵させることです。このために僕は招かれ、このために僕は来たのです。」(セネカ「道徳書簡集」)
「哲学は道を行き、英知は道の終わりです。」(セネカ「道徳書簡集」)
以上で「ヨーガ」、「自己(アートマン)」、「ブラフマン」、「智慧の現人神クリシュナ」、「智慧」、「寂静」、「祭祀」の七つの概念説明は終わりにしたいと思いますが、
もう一度、この七つの概念を体系的に整理したいと思います。
バガヴァッド・ギーターは世界中の全ての人に読まれている第一級の哲学書です。
何故バガヴァッド・ギーターが世界一級の哲学書と成っているのでしょうか。
それは自分が本当の自分に成ると言う事を殊更に強調しているからです。
世界人類の一人一人の目的は何でしょう。
それは自分が本当の自分に成る事です。
自分が自分に成ったら、人はそれ以上の事は決して求めないと思います。
何故なら、そこには自分の欲するもの全てが在るのですから。
皆様方はもうその事を理解していらっしゃいますよね。
「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。
道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。
其の中に象有り、恍たり惚たり。
其の中に物有り、窈たり冥たり。
其の中に精有り、其の精、甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。
古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。
吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」(「老子」)
智慧と愛の完成と恍惚(至福)
これ以外に人は何を求める事があるのでしょう。
言っては悪いですが、
世界人類の全ての人は、智慧と愛はどうでも良いが、
恍惚(至福)だけは例外なく手に入れたいと思っているのではないでしょうか。
そして全ての宗教哲学の目的はこの恍惚(至福)、
すなわちニルヴァーナ、涅槃、天国、極楽等々への導きなのです。
しかし残念ながら智慧と愛を完成させない限りは、
人は恍惚(至福)へとは入って行けないのです。
何故なら恍惚(至福)とは、智慧と愛の完成の事なのですから。
尤も私たちが生きている間に、
智慧と愛を完成させる事は出来ませんが、
それでもそれに近付く事は出来ます。
これに近付く事に依って、
私たちは恍惚(至福)の属性を頂いているのです。
これが哲学者(智慧を愛する者)の報酬なのです。
そして万が一、臨終の際までに智慧と愛を完成さる事が出来れば、
そこに無余涅槃と言う最高の至福が待っている事になるのです。
バガヴァッド・ギーターもその事を言っているのです。
バガヴァッド・ギーターの体系を先に挙げた七つの概念で整理すると次に様になります。
自己が最高の自己(アートマン)に達した時、
人はブラフマンへと達する。
そこは寂静の境地だが、
智慧に溢れている。
自己が最高の自己(アートマン)に至る方法、
それがヨーガである。
ヨーガには様々な方法があるが、
最も強力なヨーガが智慧の現人神クリシュナ(智慧)への信仰である。
祭祀、すなわち自分の行為の全てを神(智慧)に捧げると言う行為も、その信仰の中に含まれる。
と言う事になります。
「霊は生かすが、文字は殺す。」
このバガヴァッド・ギーターを読む上で躓きとなるのが、
私、クリシュナです。
皆様はヒンズー教の世界に住んでいる訳ではありませんから、
クリシュナは皆様と何の関係も無い人物です。
しかしそこで言われている事は神の言葉なのかも知れない。
そんなジレンマの中で、
ついついクリシュナを遠ざけてしまう。
これはイエスにおいて最も典型的に現れるのですが・・・
しかし皆様は哲学者、すなわち智慧を愛する者です。
そこに智慧の予感が在ったら、果敢に入り込んでいかなければなりません。
もし果敢にそこに入っていったら、
イエスやクリシュナは限りなく優しい存在に成る筈です。
なお、その場合、前にも言いましたが、時代性や地域性の衣は丁寧には剥がしてやる必要があります。
そうすればそこに在るのは人類普遍の智慧です。
そこに本当の皆様ご自身が居る筈なのです。
「文字は殺すが、霊は生かす。」
そこに書かれてある全てを信じようとすれば、
その文字に殺されかねられません。
皆様は考える存在です。
その純粋に考える存在としての私が善しと認めたものを、
皆様の中に取り込んで行けば良いのです。
そうすればそこに皆様の智慧の体系が創り上げられて行く事になるのです。
「ほんとうに存在するものによって自分を満たす。」(プラトン「国家」)
「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」(セネカ「道徳書簡集」)
皆様は哲学者(智慧を愛する者)です。
皆様は本当の自分自身に成る為に智慧を愛し抜かなければならないのです。
と言う事で、
「第十二章 クリシュナ(バガヴァッド)の智慧について」に入って行こうと思います。
なお順番は、概要説明をした順番ではなく、次の様な順番で見て行こうと思います。
「自己(アートマン)」、「ブラフマン」、「ヨーガ」、「祭祀」、「寂静」、「智慧」、「クリシュナ(智慧の現人神クリシュナ)」の順番で。
この内、「クリシュナ(智慧の現人神クリシュナ)」の所が一番理解し難いと思います。
クリシュナは、本文中ではほとんど「私」と言う言葉を使っていますので、
この「私」と言う言葉に注意して下さい。
クリシュナは智慧の現人神ですので、
「私」と言う所を「智慧」と読み替えて下さい。
そうすれば、少しは気楽に読めると思います。
またクリシュナは、様々な呼称で呼ばれるていますので、それにも注意して下さい。
代表的な呼称は次の通りです。
「主」、「神」、「最高の自己(アートマン)」、「最高のプルシャ(神格)」です。
それでは、「第十二章 クリシュナ(バガヴァッド)の智慧について」入って行こうと思いますが、
その前にクリシュナの哲学に関する取って置きの宣伝文句を掲げて置きます。
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「あなたに最高の秘密を説こう。理論知と実践知とを。それを知れば、あなたが不幸から解脱できるような。これは王者の学術、王者の秘密、最高の浄化具である。」(「バガヴァッド・ギーター」第二章)
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皆様を至福へと導いて呉れるものは哲学しかありません。
そして皆様の心を綺麗にして呉れるのも哲学しかありません。
「哲学は王者の学術、王者の秘密、最高の浄化具である」
間違いの無い事です。
それではクリシュナ(バガヴァッド)の智慧へと入って行く事にしますが、
かなり読み辛く、理解し辛いと思いますが、
最後まで頑張って読み通して下さい。
最後まで読み終わっりましたら、
また再会いたしましょう。
「第十二章 クリシュナの智慧」へ