第十二章 クリシュナ(バガヴァッド)の智慧について
【自己(アートマン)】
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「自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「自ら自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし自己を制していない人にとって、自己はまさに敵のように敵対する。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「自己を克服し寂滅した人の最高の自己(アートマン)は、寒暑や苦楽においても、毀誉褒亡貶においても、統一された状態でいる。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「自己において喜び、自己において充足し、自己において満ち足りた人、彼にはもはやなすべきことがない。」(「バガヴァッド・ギーター」第三章)
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「意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)において満足する時、その人は智慧が確立した言われる。」(「バガヴァッド・ギーター」第二章)
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「心が制御され、自己(アートマン)においてのみ安住する時、その人はすべての欲望を願うことなく『専心した者』であると言われる。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「理論知と実践知により自己(アートマン)が充足し、揺るぎなく、感官を克服し、土塊や石や黄金を平等に見るヨーギンが、『専心した者』と呼ばれる。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「欲望と怒りを離れ、心を制御し、自己(アートマン)を知った修行者たちにとって、ブラフマンにおける涅槃は近くにある。」(「バガヴァッド・ギーター」第五章)
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「外界との接触に執心せず、自己(アートマン)のうちに幸福を見出し、ブラフマンのヨーガに専心し、彼は不滅の幸福を得る。」(「バガヴァッド・ギーター」第五章)
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「愛憎を離れた、自己の支配下にある感官により対象に向かいつつ、自己を制した人は平安に達する。平安において、彼のすべての苦は滅する。」(「バガヴァッド・ギーター」第二章)
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「罪障を滅し、疑惑を断ち、自己(アートマン)を制御し、すべて生類の幸せを喜ぶ聖仙たちは、ブラフマンにおける涅槃に達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第五章)
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「清浄な知性をそなえ、堅固さにより自己(アートマン)を制御し、常に瞑想のヨーガに専念し、離欲を拠り所にし、我執、暴力、尊大さ、欲望、怒り、所有を捨て、『私のもの』という思いなく、寂静に達した人は、ブラフマンと一体化がすることができる。」(「バガヴァッド・ギーター」第十八章)
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「慢心と迷妄がなく、執着の害を克服し、常に自己(アートマン)に関することに専念し、欲望から離れ、苦楽という相対から解放され、迷わない人々は、かの不滅の境地に達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第十五章)
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「堅固に保たれた知性により、意を自己(アートマン)にのみ止めて、次第に寂静に達すべきである。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「『風のない所にある灯火が揺るがぬように』とは、心を制御し、自己(アートマン)のためのヨーガを修めているヨーギンの比喩であると伝えられる。そこにおいて、心はヨーガの実修により抑制されて静まり、人は自ら自己のうちに自己(アートマン)を見て満足し、そこにおいて、感官を越えた、知性により認識されるべき究極の幸福を人は知り、そこに止まって真理を逸脱することなく、それを得れば、他の利得を劣るものと考え、そこに止まれば、大きな苦しみによて動揺されることがない、そのような苦の結合から離れることが、ヨーガと呼ばれるものであると知れ。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「この身体におけるプルシャは、近くに見る者、承認者、支持者、享受者、偉大な主、最高の自己(アートマン)と言われる。」(「バガヴァッド・ギーター」第十五章)
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「ある人々は瞑想によって、自らの自己のうちに自己(アートマン)を見る。他の人々は、サ―ンキヤ(理論)のヨーガによって、また他の人は行為のヨーガによって見る。」(「バガヴァッド・ギーター」十三第章)
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「努力するヨーギンは、自己のうちに宿る彼を見る。しかし、自己を制御しない、思慮のない者は、努力しても彼を見ない。」(「バガヴァッド・ギーター」第十五章)
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【ブラフマン】
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「すべての欲望を捨て、願望なく、『私のもの』という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。アルジュナよ、これがブラフマンの境地である。それに達すれば迷うことはない。」(「バガヴァッド・ギーター」第二章)
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「内に幸福あり、内に楽しみあり、内に光明あるヨーギンは、ブラフマンと一体化し、ブラフマンにおける涅槃に達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第五章)
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「実に、意が静まり、激質が静まり、ブラフマンと一体化した罪障のないヨーギンに、最後の幸福が訪れる。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「常に専心し、罪障を離れたヨーギンは、ブラフマンとの結合と言う究極の幸福を得る。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「罪障を滅し、疑惑を断ち、自己(アートマン)を制御し、すべて生類の幸せを喜ぶ聖仙たちは、ブラフマンにおける涅槃に達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第五章)
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「欲望と怒りを離れ、心を制御し、自己(アートマン)を知った修行者たちにとって、ブラフマンにおける涅槃は近くにある。」(「バガヴァッド・ギーター」第五章)
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「不動の信愛のヨーガにより私に奉仕する人は、これらの諸要素を超越して、ブラフマンとなることができる。」(「バガヴァッド・ギーター」第十四章)
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「ヨーガに専心した聖者は、遠からずブラフマンに達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第五章)
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「意(こころ)が平等の境地に止まった人々は、まさにこの世で生存を征服している。というのは、ブラフマンは欠陥がなく、平等である。それ故、彼らはブラフマンに止まっている。」(「バガヴァッド・ギーター」第五章)
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「知性が確立し、迷妄なく、ブラフマンを知り、ブラフマンに止まる人は、好ましいものを得ても喜ばす、好ましくないものを得ても嫌悪しない。」(「バガヴァッド・ギーター」第五章)
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「ブラフマンと一体となり、その自己(アートマン)が平安になった人は、悲しまず、期待することもない。彼は万物に対して平等であり、私への最高の信愛を得る。信愛により彼は真に私を知る。私がいかに広大であるか、私が何者であるかを。かくて真に私を知って、その直後に彼は私に入る。」(「バガヴァッド・ギーター」第十八章)
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「私は知識の対象を告げよう。それを知れば人が不死に達するところの。それは無始なる最高のブラフマンである。それは有とも非有とも言われない。(中略)それは諸々の光明のうちの光明であり、暗黒の彼方にあると言われる。それは知識であり、知識の対象であり、知識により到達さるべきものである。それはすべてのものの心に存在する。」(「バガヴァッド・ギーター」第十三章)
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【ヨーガ】
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「ヨーガに専心した聖者は、遠からずブラフマンに達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第五章)
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「常に専心し、罪障を離れたヨーギンは、ブラフマンとの結合と言う究極の幸福を得る。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「実に、意が静まり、激質が静まり、ブラフマンと一体化した罪障のないヨーギンに、最後の幸福が訪れる。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「常に専心し、意を制御したヨーギンは、涅槃(ニルヴァーナ)をその極致とする、私に依拠する寂静に達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「常修のヨーガに専心し、他に向わぬ心によって念じつつ、人は神聖なるプルシャに達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第八章)
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「実に、感官の対象と行為に執着せず、すべての意図を放棄した人は、ヨーガに登った人と言われる。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「ヨーガに登ろうする聖者にとって、行為が手段であると言われる。ヨーガに登った人にとっては、寂静が手段であると言われる。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「常に心を他に向けることなく、絶えず私を念ずる者、その常に専心したヨーギンにとって、私は容易に到達される。私に到達して最高の成就に達した偉大な人々は、苦の巣窟である無常なる再生を得ることはない。」(「バガヴァッド・ギーター」第八章)
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「すべての行為をわたしのうちに放擲し、私に専念して、ひたむきなヨーガによって私を瞑想し、念想する人々、それら私に心を注ぐ人々にとって、私は遠からず生死流転の海から彼らを救済する者となる。」(「バガヴァッド・ギーター」第十二章)
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「常に専心し、喜びをもって私を信愛する彼らに、私はかの知性のヨーガを授ける。それによって彼らが私に至るところの。まさに彼らへの憐愍のために、私は個物(アートマン)の心に宿り、輝く知識の灯火により、無知から生ずる闇を滅ぼす。」(「バガヴァッド・ギーター」第十章)
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「清浄な知性をそなえ、堅固さにより自己(アートマン)を制御し、常に瞑想のヨーガに専念し、離欲を拠り所にし、我執、暴力、尊大さ、欲望、怒り、所有を捨て、『私のもの』という思いなく、寂静に達した人は、ブラフマンと一体化することができる。」(「バガヴァッド・ギーター」第十八章)
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「理論知と実践知により自己(アートマン)が充足し、揺るぎなく、感官を克服し、土塊や石や黄金を平等に見るヨーギンが、『専心した者』と呼ばれる。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「ヨーギンは苦行者よりも優れ、知識人よりも優れていると考えられる。またヨーギンは祭祀を行う者より優れていいる。それ故、アルジュナよ、ヨーギンであれ。すべてのヨーギンのうちでも、私に心を向け、信仰を抱き、私を信愛する者は、『最高に専心した者』であると、私は考える。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「ヴェーダ、祭祀、苦行、布施において功徳の果報が定められているが、ヨーギンはそのすべてを超越し、以上の教えを知って、最高なる本初の状態に達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第八章)
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「すべてのものに敵意を抱かず、友愛あり、憐れみ深く、『私のもの』という思いなく、我執なく、苦楽を平等に見て、忍耐あり、常に満足し、自己を制御し、決意も堅く、私に意(こころ)と知性を捧げ、私は信愛するヨーギン、彼は私にとって愛しい。」(「バガヴァッド・ギーター」第十二章)
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「ヨーガに専心し、一切を平等に見る人は、自己を万物に存すると認め、また万物を自己のうちに見る。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「私を一切のうちに認め、一切を私のうちに見る人にとって、私は失われることなく、また、私にとって、彼は失われることはない。一体感に立って、万物に存する私を信愛する者、そのヨーギンは、いかなる状態にあろうとも、私のうちにある。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「自己との類比により、幸福にせよ、不幸にせよ、それを一切においても等しいものと見る人、彼は最高のヨーギンであると考えられる。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「ヨーガに専心し、自己(アートマン)を清め、自己を制御し、感官を制し、自己が万物の自己となった者は、行為をしても汚されない。」(「バガヴァッド・ギーター」第五章)
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「ヨーガにより行為を放擲し、知識により疑惑を絶ち、自己を制御した人を、諸行為は束縛しない。それ故、知識の剣により、無知から生じた、自己の心にある疑惑を絶ち、ヨーガに依拠せよ。」(「バガヴァッド・ギーター」第四章)
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「行為の結果にこだわらず、なすべき行為をする人は、放擲者(サンニャーシン)でありヨーギンである。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「放擲と言われるもの、それをヨーガと知れ。アルジュナよ。というのは、意図を放棄しないヨーギンは誰もいないから。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「放擲は、ヨーガなしでは達成され難い。ヨーガに専心した聖者は、遠からずブラフマンに達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「執着を捨て、成功と不成功を平等のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。」(「バガヴァッド・ギーター」第二章)
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「『風のない所にある灯火が揺るがぬように』とは、心を制御し、自己(アートマン)のためのヨーガを修めているヨーギンの比喩であると伝えられる。そこにおいて、心はヨーガの実修により抑制されて静まり、人は自ら自己のうちに自己(アートマン)を見て満足し、そこにおいて、感官を越えた、知性により認識されるべき究極の幸福を人は知り、そこに止まって真理を逸脱することなく、それを得れば、他の利得を劣るものと考え、そこに止まれば、大きな苦しみによて動揺されることがない、そのような苦の結合から離れることが、ヨーガと呼ばれるものであると知れ。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「あなたの知性が迷妄の汚れを離れる時、あなたは、聞くであろうことと聞いたこととを厭うであろう。聞くことに惑わされたあなたの知性が、揺るぎなく確立し、三昧において不動になる時、あなたはヨーガに達するであろう。」(「バガヴァッド・ギーター」第二章)
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【祭祀】
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「執着を離れ、解放され、その心が知識において確立し、祭祀のために行為をする人にとって、その行為は完全に解消する。」(「バガヴァッド・ギーター」第四章)
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「祭祀のための行為を除いて、この世の人々は行為に束縛されている。アルジュナよ、執着を離れて、そのための行為をなせ。」(「バガヴァッド・ギーター」第三章)
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「実に祭祀により繁栄させられた神々は、汝らに望まれた享楽を与えるであろう。」(「バガヴァッド・ギーター」第三章)
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「祭祀の残りものという甘露を味わう人々は、永遠のブラフマンに達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第四章)
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「行為はブラフマンから生ずると知れ。ブラフマンは不滅の存在から生ずる。それ故、遍在するブラフマンは、常に祭祀において確立する。」(「バガヴァッド・ギーター」第三章)
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「祭祀と布施と苦行の行為は捨てるべきでなはない。それは行われるべきである。賢者たちにとって、祭祀と布施と苦行は浄化するものである。しかし、それらの行為は、執着と結果を捨てて行われるべきである。アルジュナよ、これが私の最高の結論である。」(「バガヴァッド・ギーター」第十八章)
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「私を祭祀と苦行の享受者、全世界の偉大な主、すべての生類の友であると知れば、寂静に達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第五章)
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「あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為の束縛から解放されるであろう。放擲のヨーガに専心し、解脱して私に至るであろう。」(「バガヴァッド・ギーター」第九章)
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【寂静】
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「すべての欲望を捨て、願望なく、『私のもの』という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。アルジュナよ、これがブラフマンの境地である。」(「バガヴァッド・ギーター」第二章)
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「清浄な知性をそなえ、堅固さにより自己(アートマン)を制御し、常に瞑想のヨーガに専念し、離欲を拠り所にし、我執、暴力、尊大さ、欲望、怒り、所有を捨て、『私のもの』という思いなく、寂静に達した人は、ブラフマンと一体がすることができる。」第十八章)
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「ヨーガに登ろうする聖者にとって、行為が手段であると言われる。ヨーガに登った人にとっては、寂静が手段であると言われる。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「専心しない人には知性はなく、専心しない人には瞑想はない。瞑想しない人には寂静はない。寂静でない者に、どうして幸福があろうか。」(「バガヴァッド・ギーター」第二章)
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「堅固に保たれた知性により、意を自己(アートマン)にのみ止めて、次第に寂静に達すべきである。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「専心した者は、行為の結果を捨て、究極の寂静に達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第五章)
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「全身全霊で彼にのみ庇護を求めよ。アルジュナよ。彼の恩寵により、あなたは最高の寂静、永遠の境地に達するであろう。」(「バガヴァッド・ギーター」第十八章)
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「私を祭祀と苦行の享受者、全世界の偉大な主、すべての生類の友であると知れば、寂静に達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第五章)
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「仮にあなたが、すべての悪人のうちで最も悪人であるとしても、あなたは知識の舟により、すべての罪を渡るであろう。あたかも燃火が薪を灰にするように、知識の火はすべての行為を灰にするのである。というのは、知識に等しい浄化具はこの世にないから。ヨーガにより成就した人は、やがて自ら、自己(アートマン)のうちにそれを見出だす。信頼を抱き、それに専念し、感官を制御する者は知識を得る。知識を得て、速やかに最高の寂静に達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第四章)
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【智慧】
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「私は知識の対象を告げよう。それを知れば人が不死に達するところの。それは無始なる最高のブラフマンである。(中略)それは知識であり、知識の対象であり、知識により到達さるべきものである。それはすべてのものの心に存在する。」(「バガヴァッド・ギーター」第十三章)
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「知識により自己(アートマン)の無知が滅せられた時、彼らの知識は太陽のように、かの最高の存在を照らし出す。それに知性を向け、それに心を向け、それを帰結とし、それに専念する人々は、知識により、罪障を滅し、不退転に至る。」(「バガヴァッド・ギーター」第五章)
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「知識の祭祀は財物よりなる祭祀よりも優れている。アルジュナよ。すべての行為は残らず知識において完結する。それを服従により、質問により、奉仕により知れ。真理を見る知者たちは、あなたに知識を教示するであろう。それを知れば、あなたは再び迷妄に陥ることはなかろう。」(「バガヴァッド・ギーター」第四章)
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「愛執、恐怖、怒りを離れ、私に専念し、私に帰依する多くの者は、知識という苦行によって浄化され、私の状態に達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第四章)
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「仮にあなたが、すべての悪人のうちで最も悪人であるとしても、あなたは知識の舟により、すべての罪を渡るであろう。あたかも燃火が薪を灰にするように、知識の火はすべての行為を灰にするのである。というのは、知識に等しい浄化具はこの世にないから。ヨーガにより成就した人は、やがて自ら、自己(アートマン)のうちにそれを見出だす。信頼を抱き、それに専念し、感官を制御する者は知識を得る。知識を得て、速やかに最高の寂静に達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第四章)
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「ヨーガにより行為を放擲し、知識により疑惑を絶ち、自己を制御した人を、諸行為は束縛しない。それ故、知識の剣により、無知から生じた、自己の心にある疑惑を絶ち、ヨーガに依拠せよ。」(「バガヴァッド・ギーター」第四章)
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「彼の企てがすべて欲望と意図を離れ、彼の行為が知識の火によって焼かれているなら、知者たちは彼を賢者と呼ぶ。」(「バガヴァッド・ギーター」第四章)
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「四種の善行者が私を信愛する。すなわち、悩める人、知識を求める人、利益を求める人、知識ある人である。彼らのうち、常に専心し、ひたむきな信愛を抱く、知識ある人が優れている。知識ある人にとって私はこの上なく愛しく、私にとって彼は愛しいから。これらの人々はすべて気高い。しかし、知識ある人は、まさに私と一心同体であると考えられる、というのは、彼は専心し、至高の帰趨である私に依拠しているから。」(「バガヴァッド・ギーター」第七章)
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「常に専心し、喜びをもって私を信愛する彼らに、私はかの知性のヨーガを授ける。それによって彼らが私に至るところの。まさに彼らへの憐愍のために、私は個物(アートマン)の心に宿り、輝く知識の灯火により、無知から生ずる闇を滅ぼす。」(「バガヴァッド・ギーター」第十章)
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「この世では、決定(けつじょう)を性とする知性は唯一である。決定を欠いた者たちの知性は、多岐に分かれ、限りない。」(「バガヴァッド・ギーター」第二章)
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「あなたの知性が迷妄の汚れを離れる時、あなたは、聞くであろうことと聞いたこととを厭うであろう。聞くことに惑わされたあなたの知性が、揺るぎなく確立し、三昧において不動になる時、あなたはヨーガに達するであろう。」(「バガヴァッド・ギーター」第二章)
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「アルジュナはたずねた。『クリシュナよ、智慧が確立し、三昧に住する人の特徴はいかなるものか。叡知が確立した人は、どのように語り、どのように座し、どのように歩むのか』
聖バガヴァッドは告げた。――アルジュナよ、意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)において満足する時、その人は智慧が確立した言われる。不幸においても悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は、叡知が確立した聖者と言われる。すべてのものに愛着なく、種々の善悪のものを得て、喜びも憎しみもしない人、その人の智慧は確立している。亀が頭や手足をすべて収めるように、感官の対象から感官のすべてを収める時、その人の智慧は確立している。」(「バガヴァッド・ギーター」第二章)
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「愛憎を離れた、自己の支配下にある感官により対象に向かいつつ、自己を制した人は平安に達する。平安において、彼のすべての苦は滅する。心が静まった人の知性は速やかに確立するから。」(「バガヴァッド・ギーター」第二章)
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「専心しない人には知性はなく、専心しない人には瞑想はない。瞑想しない人には寂静はない。寂静でない者に、どうして幸福があろうか。」(「バガヴァッド・ギーター」第二章)
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「我々のこの神聖な対話を学ぶ者は、知識の祭祀で私を供養したことになる。」(「バガヴァッド・ギーター」第十八章)
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【智慧の現人神クリシュナ)】
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「私は万物の心中に宿る自己(アートマン)である。私は万物の本初であり、中間であり、終末である。(中略)私は創造においては本初であり、終末であり、中間である。諸学においては、自己(アートマン)に関する知識である。私は語る者たちの言説である。(中略)私はまさに不滅の時間(カーラ)である。私はあらゆる方角に顔を向けた配置者である。私は一切を奪い去る死である。生まれるべきものの源泉である。(中略)私は統治者たちの杖である。征服を志す王たちの政策である。私は秘密事における沈黙である。知識ある人々の知識である。また、万物の種子、それは私である。アルジュナよ。動不動のもので、私なしで存在するようなものはない。私の神的な示現には限りがない。だが、私は示現の多様性の若干の例を述べたのである。いかなるものでも権威があり、栄光があり、精力あるもの、それを私の威光の一部から生じたものと理解せよ。だがアルジュナよ、そのように多く知っても何になろう。私はこの全世界を、ほんの一部分で支えて存在しているのだ。(中略の中に「私は○○である。」が六十近くにも及んでいます。その中でも、全て素晴らしきものは私であると言っているのです。あまりにも長すぎるし、あまりにもローカル的なものなので省略しています。)」(「バガヴァッド・ギーター」第十章)
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「私はこの世界の父であり、母であり、配置者であり、祖父である。知られるべき対象である。浄化具である。聖音オームである。讃歌、歌詠、祭詞である。私は帰結である。維持者である。主である。目撃者である。住処である。寄る辺である。友人である。本源であり終末であり維持である。宝庫であり、不滅の種子である。私は熱を発する。私は雨を収めて、また送り出す。私は不死であり死である。有であり無である。」(「バガヴァッド・ギーター」第九章)
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「私は不生であり無始である、世界の偉大な主であると知る人は、人間(じんかん)のあって迷わず、すべての罪悪から解放される。知性、知識、不惑、忍耐、真実、制御、寂静、苦楽、発生、消滅、恐怖、無畏、不殺生、平等心、満足、苦行、名誉、不名誉。これら万物の個々の状態は、ただ私のみから生ずる。」(「バガヴァッド・ギーター」第十章)
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「私は一切のものの心に入る。記憶、知識、および除去は、私に由来する。私はまた、すべてのヴェーダにより知らるべき対象である。私はヴェーダの終局の作者であり、まさにヴェーダを知る者である。」(「バガヴァッド・ギーター」十五第章)
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「私は多くの生を経て来た。あなたもそうだ。アルジュナよ。私はそれらすべてを知っている。だがあなたは知らない。私は不生であり、その本性は不変、万物の主であるが、自己のプラクリティ(根本原質)に由来して、自己の幻力により出現する。実に美徳が衰え、不徳が栄える時、私は自身を現すのである。」(「バガヴァッド・ギーター」第四章)
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「私は過去、現在、未来の万物を知っている。アルジュナよ、しかし何者も私を知らない。」(「バガヴァッド・ギーター」第七章)
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「私を万物の種子であると知れ。私は知性ある者たちの知性であり、威光ある者たちの威光である。」(「バガヴァッド・ギーター」第七章)
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「この全世界は、非顕現な形の私によって遍く満たされている。万物は私のうちにあるが、私はそれらのうちには存立しない。しかも万物は私のうちに存しない。見よ、私の神的なヨーガを。私の本性は万物を支え、万物を実現するが、万物のうちには存しない。」(「バガヴァッド・ギーター」第九章)
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「その非顕現の存在は不滅と言われる。最高の帰趨と言われる。人々はそれに達すれば回帰することはない。それは私の最高の住処である。アルジュナよ、それは最高のプルシャである。しかしそれはひたむきな信愛により得られる。万物はその中にあり、この全世界はそれにより遍く満たされている。」(「バガヴァッド・ギーター」第八章)
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「世界にはこれら二種のプルシャがある。可滅のものと不滅のものである。可滅のものは一切の被造物である。不滅のものは『揺るぎなき者』と言われる。しかし、それと別な至高のプルシャがあり、最高のアートマンと呼ばれる。それは不変の主であり、三界に入ってそれを支持する。私は可滅のものを超越して、不滅のものよりも至高であるから、世間においても、ヴェーダにおいても、至高のプルシャであると知られている。迷妄なく、このように私を至高のプルシャと知る人は、一切を知り、全身全霊で私を信愛するのである。」(「バガヴァッド・ギーター」第十五章)
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「この身体におけるプルシャは、近くに見る者、承認者、支持者、享受者、偉大な主、最高の自己(アートマン)と言われる。」(「バガヴァッド・ギーター」第十五章)
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「最高の主は万物の中に等しく存在し、万物が滅びても滅びることはないと見る人、彼は見るのである。というのは、主があらゆるものに等しく存在すると見る人は、自ら自己(アートマン)を害することがないから。かくて、彼は最高の帰趨に達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第十三章)
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「万物の個別の状態は唯一者のうちに存し、まさにそれから多様に展開すると見る時、その人はブラフマンに達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第十三章)
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「私を一切のうちに認め、一切を私のうちに見る人にとって、私は失われることなく、また、私にとって、彼は失われることはない。一体感に立って、万物に存する私を信愛する者、そのヨーギンは、いかなる状態にあろうとも、私のうちにある。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「私を祭祀と苦行の享受者、全世界の偉大な主、すべての生類の友であると知れば、寂静に達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第五章)
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「私は一切の本源である。一切は私から展開する。そう考えて、知者たちは愛情をこめて私を信愛するのである。私に心を向け、生命を私に捧げ、互いに目覚めさせつつ、彼らは常に私について語り、満足して楽しむ。常に専心し、喜びをもって私を信愛する彼らに、私はかの知性のヨーガを授ける。それによって彼らが私に至るところの。まさに彼らへの憐愍のために、私は個物(アートマン)の心に宿り、輝く知識の灯火により、無知から生ずる闇を滅ぼす。」(「バガヴァッド・ギーター」第十章)
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「私は万物に対して平等である。私には憎むものも好きなものもない。しかし信愛をこめて私を愛する人々は私のうちにあり、私もまた彼らのうちにある。たとい極悪人であっても、ひたすら私を信愛するならば、彼はまさしく善人であるとみなされる。彼は正しく決意した人であるから。速やかに彼は敬虔な人となり、永遠の寂静に達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第九章)
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「自己を静め、恐怖を離れ、梵行の誓いを守り、意を制御して、私に心を向け、私に専念し、専心して座すべきである。このように常に専心し、意を制御したヨーギンは、涅槃(ニルヴァーナ)をその極致とする、私に依拠する寂静に達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第六章)
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「常に心を他に向けることなく、絶えず私を念ずる者、その常に専心したヨーギンにとって、私は容易に到達される。私に到達して最高の成就に達した偉大な人々は、苦の巣窟である無常なる再生を得ることはない。」(「バガヴァッド・ギーター」第八章)
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「愛執、恐怖、怒りを離れ、私に専念し、私に帰依する多くの者は、知識という苦行によって浄化され、私の状態に達する。」(「バガヴァッド・ギーター」第四章)
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「あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為の束縛から解放されるであろう。放擲のヨーガに専心し、解脱して私に至るであろう。」(「バガヴァッド・ギーター」第九章)
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「私のために行為をし、私に専念し、私を信愛し、執着を離れ、すべてのものに対して敵意のない人は、まさに私に至る。」(「バガヴァッド・ギーター」第十一章)
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「私に意(こころ)を向け、私を信愛せよ。私を供養し、私を礼拝せよ。このように私を専念し、専心すれば、あなたはまさに私に至るであろう。」(「バガヴァッド・ギーター」第九章)
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「私にのみ意(こころ)を置け。私に知性を集中せよ。その後、あなたはまさに私の中に住むであろう。疑問の余地はない。」(「バガヴァッド・ギーター」第十二章)
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「私に意(こころ)を向け、私を信愛せよ。私を供養し、私を礼拝せよ。あなたはまさに私に至るであろう。私は必ずそうなると約束する。あなたにとって私は愛しいから。一切の義務を放棄して、ただ私にのみ庇護を求めよ。私はあなたを、すべての罪悪から解放するであろう。」(「バガヴァッド・ギーター」第十八章)
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「私に意(こころ)を結びつけ、私に帰依してヨーガを修めれば、あなたは疑いなく完全に私を知るだろう。」(「バガヴァッド・ギーター」第七章)
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「私に意(こころ)を注ぎ、私に常に専心して念想する、最高の信仰を抱いた人々は、『最高に専心した者』であると、私は考える。」(「バガヴァッド・ギーター」第十二章)
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「ひたすらに私を思い、念想する人々、彼ら常に念想する人々に、私は安寧をもたらす。」(「バガヴァッド・ギーター」第九章)
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「すべての行為をわたしのうちに放擲し、私に専念して、ひたむきなヨーガによって私を瞑想し、念想する人々、それら私に心を注ぐ人々にとって、私は遠からず生死流転の海から彼らを救済する者となる。」(「バガヴァッド・ギーター」第十二章)
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「すべての行為を私のうちに放擲し、自己(アートマン)に関することを考察し、願望なく、『私のもの』という思いなく、苦熱を離れて戦え。信仰を抱き、不満なく、常に私の教説に従う人々は行為から解放される。」(「バガヴァッド・ギーター」第三章)
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「人々がいかなる方法で私に帰依しても、私はそれに応じて彼らを愛する。人々はすべて私の道に従う。」(「バガヴァッド・ギーター」第四章)
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「それそれの信者が、信仰をもってそれぞれの神格を崇めようと望む時、私は各々の信仰を不動のものとする。彼はその信仰と結ばれ、その神格を満足させることを望む。そしてそれから諸々の願望をかなえられる。それらは実は私自身によりかなえられたものである。」(「バガヴァッド・ギーター」第七章)
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「信仰をそなえ、他の神格を供養する信者たちも、教令によってではないが、実は私を供養するのである。何故なら、私はすべての祭祀の享受者であり、主宰者であるから。」(「バガヴァッド・ギーター」第九章)
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「四種の善行者が私を信愛する。すなわち、悩める人、知識を求める人、利益を求める人、知識ある人である。彼らのうち、常に専心し、ひたむきな信愛を抱く、知識ある人が優れている。知識ある人にとって私はこの上なく愛しく、私にとって彼は愛しいから。これらの人々はすべて気高い。しかし、知識ある人は、まさに私と一心同体出ると考えられる、というのは、彼は専心し、至高の帰趨である私に依拠しているから。」(「バガヴァッド・ギーター」第七章)
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「すべてのものに敵意を抱かず、友愛あり、憐れみ深く、『私のもの』という思いなく、我執なく、苦楽を平等に見て、忍耐あり、常に満足し、自己を制御し、決意も堅く、私に意(こころ)と知性を捧げ、私を信愛するヨーギン、彼は私にとって愛しい。」(「バガヴァッド・ギーター」第十二章)
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「何ごとも期待せず、清浄で有能、中立を守り、動揺を離れ、すべての企図を捨て、私を信愛する人、彼は私にとって愛しい。」(「バガヴァッド・ギーター」十二第章)
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「敵と味方に対して平等であり、また尊敬と軽蔑に対しても平等であり、寒暑や苦楽に対しても平等であり、執着を離れた人、毀誉褒貶を等しく見て、沈黙し、いかなるものにも満足し、住処なく、心が確定し、信愛に満ちた人、彼は私にとって愛しい。」(「バガヴァッド・ギーター」第十二章)
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「この正しい甘露を念想し、信仰し、私に専念する信者たち、彼らは私にとってこよなく愛しい。」(「バガヴァッド・ギーター」第十二章)
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「私に最高の信愛を捧げ、私の信者たちの間にこの最高の秘密を説く人は、疑いなくまさに私に至るであろう。人のうちで、彼ほど私に好ましいことをする者はいない。またこの地上に、私にとって彼ほど愛しい者はいないであろう。」(「バガヴァッド・ギーター」第十八章)
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「ブラフマンと一体となり、その自己(アートマン)が平安になった人は、悲しまず、期待することもない。彼は万物に対して平等であり、私への最高の信愛を得る。信愛により彼は真に私を知る。私がいかに広大であるか、私が何者であるかを。かくて真に私を知って、その直後に彼は私に入る。私に帰依する人は、常に一切の行為をなしつつも、私の恩寵により、永遠で不変の境地に達する。心によりすべての行為を私のうちに放擲し、私に専念して、知性のヨーガに依存し、常に私に心を向ける者でであれ。私に心を向けていれば、私の恩寵により、すべての苦難を越えるであろう。」(「バガヴァッド・ギーター」第十八章)
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「私にとって大ブラフマンは胎である、私はそこに胎子を置く。それから万物の誕生が実現する。アルジュナよ、一切の母胎において諸々の形態が生れるが、大ブラフマンがそれらの胎である。私は種子を与える父である。」(「バガヴァッド・ギーター」第十四章)
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「あなたは本初の神であり、太古のプルシャであり、全世界の拠り所である。あなたは知るものであり、知られるべき対象であり、最高の住処である。全世界はあなたにより遍く満たされている。無限の姿を持つ方よ。」(「バガヴァッド・ギーター」第十一章)
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「動不動の諸物の世界にとって、あなたは父である。あなたは敬わるべきであり、最上の尊師である。三界において、あなたに等しい者はなく、いわんや勝る者は他にいない。無比の力を持つ方よ。」
(「バガヴァッド・ギーター」第十一章)
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さて皆様、クリシュナの智慧は如何だったでしょうか。
要領を掴めば分かり易いですよね。
ここでもう一度七つの概念
すなわち「自己(アートマン)」、「ブラフマン」、「ヨーガ」、「寂静」、「智慧」、「祭祀」、「クリシュナ(智慧の現人神クリシュナ」の七つの概念を整理して置こうと思います。
「自己」が「最高の自己(アートマン)」に成った時、「ブラフマン」の境地に達する。
ブラフマンの境地は「寂静」だが、「智慧」と愛に溢れている。
自己が最高の自己に成る為の方法それが「ヨーガ」。
ヨーガには様々のヨーガがあるが、
最高のヨーガは、「クリシュナ」への信仰。(それは「智慧」への信仰と同じ事。)
「祭祀」もまたクリシュナへの信仰と同じ事。(それもまた智慧への信仰とも同じ事。)
究極の祭祀とは、ブラフマンの中で行為する事。
それはクリシュナ、
すなわち智慧への信仰で可能と成る。
と言った事に成るのだと思いますが、
未だ少し分り辛いと思いますので、
もう少し噛み砕いて説明したいと思います。
やはり七つの概念の中で一番分り辛いのが、
クリシュナだと思います。
私はクリシュナについては智慧の現人神クリシュナと呼んで来ましたが。
ここでは智慧と愛の現人神クリシュナと呼ぶ事にします。
そうする事によって、祭祀の意味がより理解し易くなるからです。
クリシュナとは何者でしょう。
皆様はクリシュナの言葉を聞いてどう思いましたか。
そうですね。
全知全能の神ですよね。
「私は万物の本初であり、中間であり、終末である。」
「私は創造においては本初であり、終末であり、中間である。」
「私は一切の本源である。一切は私から展開する。」
「私はあらゆる方角に顔を向けた配置者である。」
「私はこの世界の父であり、母であり、配置者であり、祖父である。」
「私は帰結である。維持者である。主である。」
「私は不生であり無始である、世界の偉大な主である。」
「私は不生であり、その本性は不変、万物の主である。」
「私は不死であり死である。有であり無である。」
「私はまさに不滅の時間(カーラ)である。」
「私は一切を奪い去る死である。生まれるべきものの源泉である。」
「私は多くの生を経て来た。」
「私は過去、現在、未来の万物を知っている。」
「(私は)本源であり終末であり維持である。宝庫であり、不滅の種子である。」
「私は種子を与える父である。」
「万物の種子、それは私である。」
「私を万物の種子であると知れ。」
「私は可滅のものを超越して、不滅のものよりも至高であるから、世間においても、ヴェーダにおいても、至高のプルシャであると知られている。」
「私はまた、すべてのヴェーダにより知らるべき対象である。私はヴェーダの終局の作者であり、まさにヴェーダを知る者である。」
クリシュナとは時間と空間と万物の創始者なのですね。
そして今も万物を生み出し続けているのですね。
その種子と成って。
そして私たち哲学者に取って何よりも有難いのは、
クリシュナが哲学(ヴェーダ)の創始者だと言う事です。
私たちはクリシュナを愛する事に依って、
智慧の根源として智慧に辿り着ける事が出来るのです。
何故ならクリシュナは智慧の根源として智慧そのものなのですから。
学者には二通りの学者がいます。
すなわち哲学者と科学者です。
哲学者は智慧の根源として智慧に向かいます。
一方科学者は智慧の根源としての智慧から発せられたものを研究の対象とします。
すなわち時間と空間と万物です。
「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。」(「老子」)
道とは智慧の根源としての智慧の事です。
一とは愛の事です。
そして智慧と愛は同じなのです。
智慧が人間の形として現れたもの、それが愛です。
この智慧と愛から時間と空間が生れ、そして万物が生れて行くのです。
私たち哲学者は幸いです。
何故ならその智慧と愛を研究の対象とするのですから。
所で、その智慧と愛はクリシュナにどの様な形で現れているのでしょうか。
それが次です。
「私は万物の心中に宿る自己(アートマン)である。」
「(私は)知られるべき対象である。浄化具である。」
「私は知性ある者たちの知性であり、威光ある者たちの威光である。」
「(私は)諸学においては、自己(アートマン)に関する知識である。」
「私は語る者たちの言説である。」
「私は統治者たちの杖である。征服を志す王たちの政策である。」
「私は秘密事における沈黙である。知識ある人々の知識である。」
「(私は)主である。目撃者である。住処である。寄る辺である。友人である。」
「私は一切のものの心に入る。」
「知性、知識、不惑、忍耐、真実、制御、寂静、苦楽、発生、消滅、恐怖、無畏、不殺生、平等心、満足、苦行、名誉、不名誉。これら万物の個々の状態は、ただ私のみから生ずる。」
「私の神的な示現には限りがない。だが、私は示現の多様性の若干の例を述べたのである。いかなるものでも権威があり、栄光があり、精力あるもの、それを私の威光の一部から生じたものと理解せよ。」
「それと別な至高のプルシャがあり、最高のアートマンと呼ばれる。それは不変の主であり、三界に入ってそれを支持する。私は可滅のものを超越して、不滅のものよりも至高であるから、世間においても、ヴェーダにおいても、至高のプルシャであると知られている。」
「その非顕現の存在は不滅と言われる。最高の帰趨と言われる。人々はそれに達すれば回帰することはない。それは私の最高の住処である。アルジュナよ、それは最高のプルシャである。」
「この身体におけるプルシャは、近くに見る者、承認者、支持者、享受者、偉大な主、最高の自己(アートマン)と言われる。」
クリシュナは最高の自己(アートマン)であり、至高のプルシャ(神格)なのですね。
それは全ての人の心に宿る。
ぞれは智慧の根源としての智慧の事。
何故聖人賢人哲人と言う人たちが自分自身に満足しているのか。
それは自分の中にその智慧の根源としての智慧が存在しているからなのですよね。
その事については、
ソロモンから始まって、セネカまでの間に見て来ましたよね。
もう一度ここで復讐する事にしましょうか。
それは
ソロモンの知恵であり、
ダビデ、イエスの主であり、
孔子の仁であり、
老子の道であり、
王陽明の良知であり、
ソクラテス=プラトンの知恵であり、
エピクロスの知慮であり、
セネカの英知でしたよね。
彼らが如何に自分自身に満足していたか、
今更ながらに、良く分かますよね。
「私は一切の本源である。一切は私から展開する。そう考えて、知者たちは愛情をこめて私を信愛するのである。」
「迷妄なく、このように私を至高のプルシャと知る人は、一切を知り、全身全霊で私を信愛するのである。」
「一体感に立って、万物に存する私を信愛する者、そのヨーギンは、いかなる状態にあろうとも、私のうちにある。」
「信愛をこめて私を愛する人々は私のうちにあり、私もまた彼らのうちにある。」
「常に専心し、喜びをもって私を信愛する彼らに、私はかの知性のヨーガを授ける。それによって彼らが私に至るところの。」
「私に最高の信愛を捧げ、私の信者たちの間にこの最高の秘密を説く人は、疑いなくまさに私に至るであろう。」
「私に意(こころ)を向け、私を信愛せよ。私を供養し、私を礼拝せよ。このように私を専念し、専心すれば、あなたはまさに私に至るであろう。」
「私に意(こころ)を向け、私を信愛せよ。私を供養し、私を礼拝せよ。あなたはまさに私に至るであろう。」
「私のために行為をし、私に専念し、私を信愛し、執着を離れ、すべてのものに対して敵意のない人は、まさに私に至る。」
「ブラフマンと一体となり、その自己(アートマン)が平安になった人は、悲しまず、期待することもない。彼は万物に対して平等であり、私への最高の信愛を得る。信愛により彼は真に私を知る。私がいかに広大であるか、私が何者であるかを。かくて真に私を知って、その直後に彼は私に入る。」
何故聖人賢人哲人と言う人たちは、智慧を信愛するのでしょうか。
それは智慧に至る為。
「信愛によって彼は真に智慧を知る。智慧がいかに広大であるか、智慧が何者であるかを。かくて真に智慧を知って、その直後に彼は智慧に入る。」
所で智慧とは何でしょう。
そうですね。
クリシュナであり、神であり、主であり、最高のプルシャであり、最高の自己(アートマン)であり、そして本当の皆様ご自身の事ですね。
それではその智慧に至った時、皆様はどの様な状態に成るのでしょうか。
それがブラフマンが境地であり、
至福の境地であると言う様な事なのですが、
少し分り辛いですね。
次の言葉がクリシュナの言葉の中では、その境地をより具体的に表現していると思いますが、
これだけでは中々理解し辛いと思いますので、
その他の哲学者(智慧を愛する者)の言葉も添えて置きます。
「『風のない所にある灯火が揺るがぬように』とは、心を制御し、自己(アートマン)のためのヨーガを修めているヨーギンの比喩であると伝えられる。そこにおいて、心はヨーガの実修により抑制されて静まり、人は自ら自己のうちに自己(アートマン)を見て満足し、そこにおいて、感官を越えた、知性により認識されるべき究極の幸福を人は知り、そこに止まって真理を逸脱することなく、それを得れば、他の利得を劣るものと考え、そこに止まれば、大きな苦しみによて動揺されることがない、そのような苦の結合から離れることが、ヨーガと呼ばれるものであると知れ。」
「観自在菩薩、深般若波羅密多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。舎利子よ、色は空に異ならず。空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。受想行識もまたかくのごとし。舎利子よ、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず、この故に、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明もなく、また無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。菩提薩陲は、般若波羅密多に依るが故に、心に罣礙なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなく、顛倒夢想を遠離して涅槃を究竟す。三世諸仏も般若波羅密多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。故に知るべし、般若波羅密多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならざるの故に。」(「般若波羅密多心経」)
「ところが、魂が純粋に自分だけで何かを考察する場合には、魂は、あの純粋で永遠で不死で不変な存在へとおもむき、そして、そのような存在と同族であるがゆえに、常にそれとともにあるのではないか、魂が純粋に自分だけとなり、そうなるのが可能であるかぎりはね。そして魂は、もはや、さまようことをやめ、あの真実在との関係にあってはつねに同一不変な状態を保つのではないか。なぜなら魂は、まさにそのような存在に触れているのだから。で、魂のこの体験こそ知恵と呼ばれるものではないか。」(プラトン「パイドン」
「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。其の中に象有り、恍たり惚たり。其の中に物有り、窈たり冥たり。其の中に精有り、其の精、甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」(「老子」)
「良知は、夜気の発するにときに在っては、方に、是れ、本体なり。其の物欲の雑、無きを、以ってなり。(夜気清明の時、視ること無く、聴くこと無く、思うこと無く、作すこと無く、淡然として、平懐なるは、すなわち、是れ、義皇の世界なり。)」(「伝習録」)
「無心と言うは、即ち妄想無き心なり。」(「菩提達摩無心論」)
「問うて曰く、和尚は既に一切処に於いて皆無心なりと云う。木石も亦た無心なり、豈(あ)に木石に同じからざるか。答えて曰く、爾我の無心は、木石に同じからず。何を以ての故ぞ。譬えば天鼓の如し、無心なりと雖復(いえど)も、自然に種々の妙法を出して衆生を教化す。又如意珠の如し、無心なりと雖復(いえど)も、善能(よ)く諸法実相を覚了し、真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し。故に宝積経に云わく、無心意を以って現行す、と。豈(あ)に木石に同じからんや。夫(か)の無心なる者は真心なり、真心なる者は無心なり。」(「菩提達摩無心論」)
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(「詩編」)
「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いのほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」(「詩編」)
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を追い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(「マタイ福音書」)
これらの言葉が智慧を考える上で参考に成ると思いますが、
智慧を考える上で忘れてはならないのが、
「我思う、故に我在り」と言う時の私です。
この私が純粋に考える存在と成った時、
すなわち覚醒に至った時、
人は至福へと至るのです。
そこは純粋に考える私と「言」の饗宴の世界です。
そこには私は二人は居ません。
そこにいるのは純粋に考える私だけです。
この私が「言」を求める事になるのです。
なおここで言う「言」とは、主の事であり、神の事であり、仁の事であり、道の事であり、良知の事であり、英知の事であり、般若の事であり、智慧の事であり、最高の自己(アートマン)の事であり、クリシュナの事であり、そして皆様の本当の自分自身の事でもあるのです。
そこにおいて、純粋に考える私と「言」の饗宴が繰り広げられる事に成るのです。
その時の状態を「天鼓の如し」、「如意珠の如し」と譬えても良いのです。
「私に意(こころ)を結びつけ、私に帰依してヨーガを修めれば、あなたは疑いなく完全に私を知るだろう。」
「私にのみ意(こころ)を置け。私に知性を集中せよ。その後、あなたはまさに私の中に住むであろう。」
「常に心を他に向けることなく、絶えず私を念ずる者、その常に専心したヨーギンにとって、私は容易に到達される。」
「愛執、恐怖、怒りを離れ、私に専念し、私に帰依する多くの者は、知識という苦行によって浄化され、私の状態に達する。」
「自己を静め、恐怖を離れ、梵行の誓いを守り、意を制御して、私に心を向け、私に専念し、専心してざすべきである。このように常に専心し、意を制御したヨーギンは、涅槃(ニルヴァーナ)をその極致とする、私に依拠する寂静に達する。」
「ひたすらに私を思い、念想する人々、彼ら常に念想する人々に、私は安寧をもたらす。」
「心によりすべての行為を私のうちに放擲し、私に専念して、知性のヨーガに依存し、常に私に心を向ける者でであれ。私に心を向けていれば、私の恩寵により、すべての苦難を越えるであろう。」
「すべての行為をわたしのうちに放擲し、私に専念して、ひたむきなヨーガによって私を瞑想し、念想する人々、それら私に心を注ぐ人々にとって、私は遠からず生死流転の海から彼らを救済する者となる。」
しかし人は肉体に雁字搦めに縛りつけらています。
この肉体の縛めから完全に自由に成る事は人には出来ません。
あのソクラテス=プラトンですら出来なかったのですから。
「魂が純粋に自分だけとなり、そうなるのが可能であるかぎりはね」と言わせているのですから。
私たち哲学者はこの世から離れ、
「奥まって自分の部屋に入り戸を閉めた」時は
完全に自由に成る事は可能ですが、
この世に在る時は不可能です。
この不可能を可能にしたのが、
イエスであり、そしてクリシュナです。
何故なら彼らは常に智慧と共に在るのではなく、
彼ら自身が智慧そのものだからです。
それは神でなければ不可能な事なのです。
クリスチャンとは何者か。
それはイエス・キリストに倣う者、
イエス・キリストの真似人。
それで良いのはないでしょうか。
「信仰をそなえ、他の神格を供養する信者たちも、教令によってではないが、実は私を供養するのである。何故なら、私はすべての祭祀の享受者であり、主宰者であるから。」
「それぞれの信者が、信仰をもってそれぞれの神格を崇めようと望む時、私は各々の信仰を不動のものとする。彼はその信仰と結ばれ、その神格を満足させることを望む。そしてそれから諸々の願望をかなえられる。それらは実は私自身によりかなえられたものである。」
「人々がいかなる方法で私に帰依しても、私はそれに応じて彼らを愛する。人々はすべて私の道に従う。」
この世には沢山の宗教があります。
それらは皆クリシュナ、
すなわち智慧をその起源としているのです。
智慧は純粋概念、
神はそれに人格性を持たせたもの。
そう理解する事で、全ての哲学宗教が一揆貫通するのではないでしょうか。
「私は不生であり無始である、世界の偉大な主であると知る人は、人間(じんかん)にあって迷わず、すべての罪悪から解放される。知性、知識、不惑、忍耐、真実、制御、寂静、苦楽、発生、消滅、恐怖、無畏、不殺生、平等心、満足、苦行、名誉、不名誉。これら万物の個々の状態は、ただ私のみから生ずる。」
「私は一切の本源である。一切は私から展開する。そう考えて、知者たちは愛情をこめて私を信愛するのである。私に心を向け、生命を私に捧げ、互いに目覚めさせつつ、彼らは常に私について語り、満足して楽しむ。常に専心し、喜びをもって私を信愛する彼らに、私はかの知性のヨーガを授ける。それによって彼らが私に至るところの。まさに彼らへの憐愍のために、私は個物(アートマン)の心に宿り、輝く知識の灯火により、無知から生ずる闇を滅ぼす。」
「四種の善行者が私を信愛する。すなわち、悩める人、知識を求める人、利益を求める人、知識ある人である。彼らのうち、常に専心し、ひたむきな信愛を抱く、知識ある人が優れている。知識ある人にとって私はこの上なく愛しく、私にとって彼は愛しいから。これらの人々はすべて気高い。しかし、知識ある人は、まさに私と一心同体出ると考えられる、というのは、彼は専心し、至高の帰趨である私に依拠しているから。」
「愛執、恐怖、怒りを離れ、私に専念し、私に帰依する多くの者は、知識という苦行によって浄化され、私の状態に達する。」
智慧こそが皆様の救い主、キリストなのです。
「主は右にいまし。わたしは揺らぐことはありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。」
「主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる。」
「主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。」
「主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。」
「主はわたしの正しさに応じて返してくださる。」
「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。」
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」
「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いのほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」
「主はわたしの力、わたしの盾、わたしの心は主に依り頼みます。」
「主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。」
「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。」
「主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。」
「主はわたしの泣く声を聞き、主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受けてくださる。」
「主は油注がれた者の力、その砦、救い。」
「主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。」
「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。」
「主は、従う人に目を注ぎ、助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。」
「主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを救ってくださる。」
「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。」
「主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示してくださいます。」
「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を示してくださる。」
「主は正義を愛される。」
「主は命の神。」
「主は天から人の子を見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と」
(以上はすべて旧約聖書「詩編」から)
主とは何者でしょう。
それは皆様の心の奥深くに眠っている本当の皆様ご自身です。
すなわち最高の自己(アートマン)であり、そして智慧です。
「私は個物(アートマン)の心に宿り、輝く知識の灯火により、無知から生ずる闇を滅ぼす。」
主は皆様お一人お一人に、そして世界人類の全て人の一人一人の心に宿っているのです。
「主は右にいます。」
しかし多くの人の中ではそれは眠ったままです。
その深い眠りから目覚めた人たちが、
「油注がれた者」であり、「心のまっすぐな人」であり、「砕かれた心」であり、「悔いる霊」であり、「従う人」であり、「助けを求める人」であり、「貧しい人」であり、そして「罪人」なのです。
その本当の自分自身に目覚めた人たちに、
その本当の自分自身が、
皆様の主と成って、皆様ご自身を救って下さるのです。
本当の自分自身とは何者か。
それは「我思う、故に我在り」と言う時の純粋に考える私の事であり、
その私が向かうその存在の事でもあります。
純粋に考える存在と成った私が神の子となり、
その神を求める事に成ります。
そこに神の世界が展開される事になるのです。
それはブッダの世界やイエスの世界やクリシュナの世界であり、
そして古今東西の聖人賢人哲人たちが求めた世界でもあるのです。
さて皆様、クリシュナを理解出来たでしょうか。
クリシュナとは何者か。
それは『智慧』です。
それは古今東西の聖人賢人哲人の智慧と一寸も違いません。
私たちがこれまで見て来た、
ソロモン、ダビデ、イエス、パウロ、ブッダ、孔子、王陽明、老子、プラトン=ソクラテス、エピクロス、セネカの智慧と全く違いは無いのです。
なおこれまでに何度か言っていますが、
地域性と時代性の衣は剥がしてあげる必要があります。
哲学と科学。
科学は違いをとことん突き詰めて行きます。
一方哲学はとことん普遍と突き詰めて行きます。
万物の普遍をとことん突き詰めて行けば、「道」に当たるのです。
それを普遍的な言葉で言い表せば、「智慧」です。
「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。」(「老子」)
哲学は智慧と愛を対象とし、
科学はそこから生まれた万物を研究の対象とします。
私はこれまでどちらかと言うと、
智慧を中心に研究して来ましたが、
最近になって
愛も大きなテーマと成ってきているのです。
老子の辺りから関心が強まり、
そしてセネカを研究している中で、
「神は愛なり」と言う新約聖書の言葉について、
私なりの意味を見出した時、
愛が私に取ってクローズアップされて来たのです。
そして今回クリシュナを研究する中で、
「祭祀」に関して、
私なりの意味を見出した時、
「愛」が私に取って実践の対象と成って来たのです。
「あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為の束縛から解放されるであろう。」
「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして捧げなさい。これこそがあなたのなすべき礼拝です。」(「ローマ信徒への手紙」)
こう考える事で、
私はこの世の束縛から、
かなり自由に成れると感じたのです。
この世に在っても、
恍惚で在り続けられるかも知れない、
そんな風に思ったのです。
そしてここ数日それを試みています。
結構その成果は挙がっているように感じています。
私とは何者か。
それは「我思う、故に我在り」と言う時の「考える私」の事。
この「考える私」は、
この世に在る時は、
この世の私を守ろうとします。
すなわちエゴです。
このエゴが在る限り人は天の国、
すなわち恍惚へとは入って行けません。
しかしこの世の私を神への捧げものとする時、
そこからエゴが消えて行くのです。
尤も完全にエゴが消えて行く事はありませんが、
それを意識しない時に比べれば、
断然にエゴが減って行きます。
そこにおいて恍惚が見え隠れする様になるのです。
「奥まって自分の部屋に入り戸を閉めた」時は
私たちは完全に自由です。
私たちは本当の自分と成って、
精神世界を自由に遊び回ります。
しかしこの世に在る時はそうは行きません。
この世に在る時、
私たち哲学者はどの様に在るべきか。
その一つの理想像が「ブッダの微笑」です。
私が今チャレンジしているのがそれと言う事になります。
「在るがままに在れ」
「万物よ安穏たれ」
と言う思想です。
この思想により、
この世に在る時でも、
ある程度恍惚が保たれるている様な気がします。
この思想を保つ為に一番に必要な事が覚醒です。
一瞬一瞬の覚醒です。
一瞬一瞬において覚醒していれば、
人は不幸に成る事はありません。
しかしこの覚醒から離れると、
人はこれまでのこの世の人と成り、
またこの世に翻弄される事になります。
「ブッダの微笑」を維持する事もかなり難儀な仕事なのです。
「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」(「マタイ福音書」)
「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(「マタイ福音書」)
私たちがこの世に在って、天国に入る事は至難の業です。
何故なら、全ての瞬間において、智慧と共に在らなければいけないからです。
私たちは油断をすると直ぐにこの世の私に戻ってしまいます。
この世に在って、智慧と共に在り続ける事、
それははっきり言って不可能です。
しかし私たちは哲学者、すなわち智慧を愛する者です。
ですからどんなに困難が在っても、智慧を愛し続けなければならないのです。
私はこれまでこの世と天国をはっきり二分していました。
天国、すなわち「奥まって自分の部屋に入り戸を閉めた」時には、
智慧と思う存分に遊び、
そしてこの世に在る時は、
天国に居た時の属性を幾らかでも発揮できればそれで良いと。
しかし今回偉大な哲学者たちを訪問し、
そして老子、セネカそしてクリシュナに至った時、
そうではないのじゃないかと思う様に成ったのです。
その最大の契機は
何と言っても老子の『恍惚』です。
老子の『恍惚』に依って、
天国がより身近に成ったのです。
そしてこの世に在る時も、
恍惚で在る事が可能であると、
そう思ったのです。
そしてこの世に在る時も、
何度か恍惚であろうと実験しました。
そしてそれはある程度成功したのです。
その後、もう一つ大事な事を確認したのです。
それについては、これまで薄々は感じていたのですが、
はっきりと確信する事が出来なかった事なのですが、
セネカの言葉たちによって確信する様に成ったのです。
私とは何者か。
私とは「我思う、故に我在り」と言う時の考える私である。
この事については、随分前から確信があり、
それを自らにおいて実証し続けて来ました。
今回私が確信したのは、
この「考える私」とは瞬間瞬間の存在であり、
そしてこの考える私が純粋に考える存在で在る限り、
決して不幸に成る事は無いと。
と言うよりも、
考える私が純粋に考える存在で在る時、
その時こそが、無垢で在り、無心で在り、
中で在り、ニルヴァーナであり、恍惚で在り、ブラフマンの境地で在り、
心の平静の境地ではないかと。
「ところで徳において主に重大なことは何でしょう。将来を熱望しないことであり、自己の日々を数えないことです。ほんの僅かな時間に、徳はもろもろの永遠の善を完成します。」(セネカ「道徳書簡集」)
「君は或ることについてそんなに憤たり、あるいは不平を言っていますが、それらのうちには、この一事、つまり君が憤り、かつ不平を言っているということ以外には、何一つ悪いことはないのではありませんか。もしお尋ねでしたら、僕はこう考えていると申します――この自然の領域には、一人の人間が不幸と考えることがない限り、彼にとって何一つ不幸なことはない――と。」(セネカ「道徳書簡集」)
そして今回のクリシュナの「祭祀」の概念です。
「あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為の束縛から解放されるであろう。」
「執着を離れ、解放され、その心が知識において確立し、祭祀のために行為をする人にとって、その行為は完全に解消する。」
「祭祀のための行為を除いて、この世の人々は行為に束縛されている。アルジュナよ、執着を離れて、そのための行為をなせ。」
「実に祭祀により繁栄させられた神々は、汝らに望まれた享楽を与えるであろう。」
「祭祀の残りものを食べる善人は、すべての罪悪から解放される。」
「祭祀の残りものという甘露を味わう人々は、永遠のブラフマンに達する。」
「ブラフマンに捧げる行為に専心する者は、まさにブラフマンに達することができる。」
「行為はブラフマンから生ずると知れ。ブラフマンは不滅の存在から生ずる。それ故、遍在するブラフマンは、常に祭祀において確立する。」
「自己の行為にいそしむ人が、どのようにして成就を見出すか、それを聞くがよい。彼から万物の活動があり、彼によってこの全世界が遍く満たされている者、彼を自己の行為により崇拝して、人は成就を見出す。」
ここにおいて、私はこの世において天の国の実現を考える様に成ったのです。
その要目は次の三つです。
一つ目は瞬間瞬間ごとに純粋に考える私で在り続ける事。もしくは善き考えの輪廻を回す事。もしくは悪しき考えの輪廻を回さない事(悪しき考えが浮かんで来たら智慧の剣で瞬間に断ち切る事)。
二つ目が恍惚を常に感じつつ在る事。
三つ目が全ての行為を祭祀(智慧もしくは神への捧げものとする)と言う概念で捕える事。
以上です。
以上の事が可能がどうか、
今しばらく実験を続けたいと思います。
さてこの辺りで、クリシュナを終わりたいと思いますが、
クリシュナが言いたかった事は何でしょう。
そうですね、
自分が自分自身に成る事が最高の善なのです、
と言うセネカの思想と全く一緒ですね。
セネカはそこへ至る道として哲学を説きました。
クリシュナも同じく哲学(ヨーガ)を説いたのです。
セネカとクリシュナと違い、
それはセネカが智慧を求める者だったのに対して、
クリシュナが智慧そのものだったと言う事です。
そこにクリシュナへの信仰と言う概念が生まれたのですが、
それは私たち日本人に取っては、
智慧への信仰、
すなわち哲学と何ら変わりはないのです。
全ての哲学宗教の根本に在るのは智慧への信仰です。
この智慧に人格性を持たせれば、それが宗教と成り
この智慧を智慧のままに愛すれば、それがそのまま哲学です。
私たち日本人はヒンズー教の世界に居る訳ではありません。
ですからクリシュナを神として崇める必要も無いでしょう。
私たち日本人に取って、
クリシュナは偉大な哲学者の一人です。
彼は自らが智慧と成って、
すなわち智慧の現人神としての擬人化により、
皆様に智慧をより身近に感じて貰うよう努力したのです。
皆様は神の子であり、仏の子であり、
そして智慧の子です。
智慧は皆様に要求しているのです。
「私を求めよ」、と。
皆様が智慧を求めれは、そこに至福があるのです。
自分自身に成るのが最高の善なのです。
皆様も早く本当の自分自身を見つけて欲しいと思います。
「『風のない所にある灯火が揺るがぬように』とは、心を制御し、自己(アートマン)のためのヨーガを修めているヨーギンの比喩であると伝えられる。そこにおいて、心はヨーガの実修により抑制されて静まり、人は自ら自己のうちに自己(アートマン)を見て満足し、そこにおいて、感官を越えた、知性により認識されるべき究極の幸福を人は知り、そこに止まって真理を逸脱することなく、それを得れば、他の利得を劣るものと考え、そこに止まれば、大きな苦しみによて動揺されることがない、そのような苦の結合から離れることが、ヨーガと呼ばれるものであると知れ。」
「人は自ら自己のうちに自己(アートマン)を見て満足し、そこにおいて、感官を越えた、知性により認識されるべき究極の幸福を人は知る。」
皆様も早くこの幸福を知って欲しいと思います。
「それを得れば、他の利得を劣るものと考る。」
「仁を欲して仁を得たり、又た焉(なに)をか貪らん。」(「論語」)
「仁を求めて仁を得たり。又た何ぞ怨みん。」(「論語」)
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(「マタイ福音書」)
皆様も早くそれ、
すなわち本当の自分自身を見出して欲しいと思います。
それこそが「自ら自己の内に自己(アートマン)を見て満足する」と言う事なのです。
皆様にここで一つ大事な事を言って置きます。
それは比喩を読み解く力を身に付けると言う事です。
聖典は全て比喩です。
何故なら比喩でなけれな侮られるからです。
自らにおいて、比喩の中に自分自身を見出した時、
その時その聖典が皆様に取って聖典と成るのです。
その為にこそ聖典があるのです。
皆が皆その聖典の意味を理解したら、それは聖典として意味をなさないのです。
禅の用語で「公案」と言う言葉がありますが、
聖典は全て公案、
すなわち皆様自身を知る為の問題集だと考えた方が良い思います。
皆様は自分自身を離れては、
一切の事を理解出来ません。
何故なら皆様は「我思う、故に我在り」と言う時の「考える私」でしかないのですから。
皆様はこの考える私を無意識に意識しています。
この考える私を純粋に意識した時、悟りが生れるのです。
何故なら、私は何ものでもないが、何ものでもあるからです。
「わたしはアルファであり、オメガである。」(「ヨハネの黙示録」)
それは可能性の問題です。
「観自在菩薩、深般若波羅密多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。舎利子よ、色は空に異ならず。空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。受想行識もまたかくのごとし。舎利子よ、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず、この故に、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明もなく、また無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。菩提薩陲は、般若波羅密多に依るが故に、心に罣礙なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなく、顛倒夢想を遠離して涅槃を究竟す。三世諸仏も般若波羅密多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。故に知るべし、般若波羅密多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならざるの故に。」(「般若波羅密多心経」)
さてこの辺りでクリシュナを終わりにして、
愈々今回の哲学者の旅の最後の哲学者であるデカルトのもとを訪ねたいと思います。
「我思う、故に我在り」
デカルトはこの思想により、多くの真理を得たとの事。
皆様もこの思想を正しく理解すれば、
人生途上において、多くの真理と真実を見出し、
そして多くの幸福を勝ち得る筈です。
何故なら「私」とは考える存在なのですから。
それでは前置きはこれ位にして、
早速デカルトに入って行きたいと思います。
「第十三章 デカルトの智慧」へ