第十三章 デカルトの智慧

第十三章 デカルトの智慧について

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「けれども私が選んだ土台がしっかりしたものであるかどうか、判断してもらうために、私はそれについて語ることを、ある意味で強いられているのである。さて、前にも言ったように、実生活にとっては、きわめて不確実と分かっている意見にでも、それが疑いえぬものであるかのように、従ううことが、ときとして必要であると、私はずっと前から気づいていた。しかしながら、いまや私はただ真理の探究のみにとりかかろうと望んでいるのであるから、まったく反対のことをすべきである、と考えた。ほんのわずかの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げすて、そうしたうえで、まったく疑いえぬ何ものかが、私の信念のうちに残らぬかどうか、を見ることすべきである、と考えた。かくて、われわれの感覚がわれわれをときには欺くゆえに、私は感覚がわれわれの心に描かせるようなものは何ものも存在しない、と想定しようとした。次に、幾何学の最も単純な問題についてさえ、推理をまちがえて誤謬推理をおかす人々がいるのだから、私もまた他のだれも同じく誤りうると判断して、私が以前には明らかな論証と考えていたあらゆる推理を、偽なるものとして投げすてた。そして最後に、われわれが目覚めているときにもつすべての思想がそのまま、われわれが眠っているときにもまたわれわれに現れうるものであり、しかもこの場合はそれら思想のどれも、真であるとはいわれない、ということを考えて、私は、それまでに私の精神に入りきたったすべてのものは、私の夢の幻想と同様に、真ならぬものである、と仮想しようと決心した。しかしながら、そうするとただちに、私は気づいた、私がこのように、すべては偽であると、考えている間も、そう考えている私は必然的に何ものかでなければならぬ、と。そして『私は考える、ゆえに私はある』というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができると、判断した。」(デカルト「方法序説」第四部)
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「次いで、私がなんであるかを注意深く吟味し、次のことを認めた。すなわち、私は、私が身体をもたず、世界というものも存在せず、私のいる場所というものもない、と仮想することはできるが、しかし、だからといって、私が存在せぬ、とは仮想することができず、それどころか反対に、私が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的に確実に、私があるということが帰結する、ということを。逆にまた、もし私がただ考えることだけを止めたとしたら、たとえ私が想像したすべての他のものが真であったとしても、だからといって私がその間存在していたと、信ずべきなんの理由もない、ということを。さて、これらのことから私は次のことを知った、すなわち、私は一つの実態であって、その本質あるいは本性はただ、考えるということ以外の何ものでもなく、存在するためにはなんらの場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、ということを。」(デカルト「方法序説」第四部)
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「次に私は、一般に一つの命題が真に確実であるために必要な条件を考察した。というのは、真で確実だと私の知る一つの命題をいま見出したのであるから、その確実性が何において成立するかをも、やはり知りうるはずだと考えたのである。『私は考える、ゆえに私はある』という命題において、私が真理を言明していることを私に確信させるものは、考えるためには存在せなばならぬということをきわめて明晰に私が見るということより以外に、まったく何もない、ということを認めたから、私は、『われわれがきわめて明晰に判明に理解するところのものはすべて真である』ということを、一般的規則として認めてよいと考えた。ただしかし、われわれが判明に理解するものがいかなるものであるかを、正しく認めるには、いくらかの困難がある、と考えた」(デカルト「方法序説」第四部)
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「それにつづいて私は、私が疑っているということ、したがって私の存在はあらゆる点で完全なのではないということ〔というのは、疑うよりも認識することのほうが、より大なる完全性であることを、私は明晰に見るから〕を反省し、私は私自身より完全な何ものかを考えることをいったいどこから学んだのであるか、を探求することに向かった。そして私は、それが、現実に私より完全であるところのなんらかの存在者から、でなければならぬということを明証的に知った。私の外にある多くの他のもの、たとえば天や地や光や熱やその他無数のものについて、私がもっている思想の中には、それらを私自身よりすぐれたものたらしめるように見える点は、何も認められなかったから、それらが真である場合は、それらは、私の本性がなんらかの完全性をもつかぎりにおいて、この私の本性に依存するものである、と私は考えることができたし、またそれが偽である場合には、それらが無からきたものである、いいかえれば、私が欠陥をもつがゆえに、それらは私のうちにあるのだ、と考えることができたからでる。しかしながら、私の存在よりも完全な存在者の観念に関しては、同じようにはいえなかった。というのは、そういう観念を無からとりだすことは明白に不可能であるし、また、それを私自身からとりだすこともできなかったからである。なんとなれば、より完全なものが、より不完全なものの結果であり、これに依存するものである、というのは、無からあるものが生ずる、というのに劣らず、矛盾だからである。したがって、当の観念は、私よりも完全でかつ私が考えうるあらゆる完全性をみずからのうちにもつところの存在者、すなわちひとことでいえば、神であるところの存在者、によって私のうちにおかれたものである、というほかなかった。」(デカルト「方法序説」第四部)
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「なぜならば、まず第一に、さきに私が規則として定めたこと、すなわちわれわれがきわめて明晰に判明に理解するところのものはすべて真である、ということすらも、神があり現存するということ、神が完全な存在者であること、および、われわれのうちにあるすべては神に由来しているということ、のゆえにのみ、確実なのである。そしてこのことから、われわれの観念や概念は、それらの明晰判明な部分のすべておいて、ある実在性を有し、かつ神に由来するからこそ、その点において真ならざるをえないのだ、ということになる。したがってまた逆に、われわれの観念や概念がしばしば虚偽を含むことがあるのは、それらの観念や概念の混乱した不明晰な部分についてであり、そういう点においてそれらは無を分有しているからなのである。いいかえれば、それらがわれわれのうちでそのように混乱しているのは、われわれがあらゆる点において完全なのではないからである。そして、虚偽または不完全性が、虚偽または不完全性であるかぎりにおいて、神に由来する、ということは、真理または完全性が無から由来する、というのと同様に、矛盾であることは明らかである。しかし、われわれのうちにあって、実在性をもち真であるところのすべてのものは、完全で無限な存在者から由来すると、われわれが確かに知るのでなかったならば、われわれの観念がいかに明晰に判明であろうとも、それらの観念が「真である」という完全性をもつことを、確信しうる理由を、われわれはもたないであろう。」(デカルト「方法序説」第四部)
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「私が疑うということ、すなわち私が不完全で依存的なものであるということ、に注意するとき、独立で完全な存在者、いいかえれば神の、観念が、私の心にきわめて明晰にかつ判明に浮かんでくる。そして、このような観念が私のうちにある、すなわち、その観念を有する私が存在する、というこの一つのことからして、私は、神もまた存在するということを、そして、私の全存在は各瞬間ごとに神に依存するということを、きわめて明証的に結論するので、人間の精神にとってこれ以上明証的に、これ以上確実に認識されるものはなにもない、と私は確信をいだくのである。そしてすでに私には、真なる神――知識と知恵の宝がすべて秘められている真なる神――の、かかる観想から、その他のものの認識にいたるある道が見通せるように思われる。」(デカルト「省察四)
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「実際、私が神のことのみを考えている間は、そして私の心をまったく神のことのみに集中している間は、私は誤謬あるいは虚偽の原因となるものを何も認めなかった。」(デカルト「省察四)
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「ここに私が神というのは、その観念が私のうちにあるその神、いいかえると、私が把握することはできないが、しかしあるしかたで思惟によって触れることはできるところの、すべての完全性をもっており、いかなる欠陥からもまったく免れている神である。」(デカルト「省察三)
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 これが「我思う、故に我在り」と言う時の、デカルトの思想です。
 なお、私はこれまで「我思う、故に我在り」と言う言葉を使用して来ましたが、
 今回のテキストでは「私は考える、ゆえに私はある」と言う言葉を使用していますので、
 この章においては、
 「私は考える、ゆえに私はある」と言う言葉で統一したいと思います。

 上記の引用において、
 「私は考える、ゆえに私はある」と言う思想の全てを言い尽くしていると思います。
 八節に分けましたが、
 それぞれに述べている事は次の通りです。

 第一節においては、「私は考える、ゆえに私はある」と言う事。
 第二節においては、「私とは考える存在である、私が考えていない時は私は存在していない」と言う事。
 第三節においては、「私が真であると考える事は真である、ただし条件がある」と言う事。
 第四、第五、第六、第七、第八節においては、「私が真であると考える事は真である、ただし条件がある。その条件とは私が神(智慧)と共に考える時、その時、私が真であると考える事は真である」と言う事です。

 この思想こそが、古今東西の聖人賢人たちの根本思想です。
 この根本思想により、古今東西の聖人賢人たちは自らが生み出した思想に確信を持ち、
 そしてその思想をこの世に強く打ち出して行ったのです。

 何故彼らが自らの思想にそれ程までに確信を持ち、
 そしてその確信の下、その思想をそれ程までにこの世に強く打ち出すことが出来たのか。
 それは、彼らのその思想が全て神(智慧)と共に生まれたからに他ならないからです。

 皆様もこの世の私を捨て、
 純粋に考える存在と成って、
 神(智慧)と共に、
 皆様が求める理想を追い求めてみて下さい。
 そうすればそこに皆様に取っての最高最善の答えが待っている筈なのです。

「君は或ることについてそんなに憤たり、あるいは不平を言っていますが、それらのうちには、この一事、つまり君が憤り、かつ不平を言っているということ以外には、何一つ悪いことはないのではありませんか。もしお尋ねでしたら、僕はこう考えていると申します――この自然の領域には、一人の人間が不幸と考えることがない限り、彼にとって何一つ不幸なことはない――と。」(セネカ「道徳書簡集」)

「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もし汚れた心で話したり行ったりすれば、苦しみはその人につき従う。 ――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もし清らかな心で話したり行ったりすれば、福楽はその人につき従う。――影からそのからだが離れないように。」(ブッダ「真理の言葉」)

「観自在菩薩、深般若波羅密多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。舎利子よ、色は空に異ならず。空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。受想行識もまたかくのごとし。舎利子よ、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず、この故に、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明もなく、また無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。菩提薩陲は、般若波羅密多に依るが故に、心に罣礙なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなく、顛倒夢想を遠離して涅槃を究竟す。三世諸仏も般若波羅密多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。故に知るべし、般若波羅密多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならざるの故に。」(「般若波羅密多心経」)

「あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら、そのことがわたしを守ってくれるでしょう。」(ダビデ「詩編」)

「無心と言うは、即ち妄想無き心なり。」(「菩提達摩無心論」)
「問うて曰く、和尚は既に一切処に於いて皆無心なりと云う。木石も亦た無心なり、豈(あ)に木石に同じからざるか。答えて曰く、爾我の無心は、木石に同じからず。何を以ての故ぞ。譬えば天鼓の如し、無心なりと雖復(いえど)も、自然に種々の妙法を出して衆生を教化す。又如意珠の如し、無心なりと雖復(いえど)も、善能(よ)く諸法実相を覚了し、真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し。」(「菩提達摩無心論」) 

 皆様も無心、無垢と成って、
 神様(智慧)を皆様のもとに引き寄せて下さい。
 そうすればそこに在るのは恍惚であり、涅槃であり、ニルヴァーナです。
 そこにおいて皆様が心から求めるものを求めれば、
 智慧は皆様が心から求めるもをふんだんに与えて呉れるのです。
 そしてそれは皆様に取って真なのです。
 何故ならそれは皆様が心から求めていたものだからです。
 その皆様の心の中のその真心、それこそが皆様に取っての神(智慧)なのですから。
 
「道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。其の中に象有り、恍たり惚たり。其の中に物有り、窈たり冥たり。其の中に精有り、其の甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」(「老子」)

 神様(智慧)は、皆様が心から求める事を求めているのです。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(「マタイ福音書」)

「わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。」(「箴言」)

「故に道に従事する者は、道に同じ、徳なる者は徳に同じ、失なる者は失に同ず。道に同ずる者には、道も亦た之を得んことを楽(ねが)い、徳に同ずる者には、徳も亦た之を得んことを楽(ねが)い、失に同ずる者には、失も亦た之を得んことを楽(ねが)う。」(「老子」)

「常に専心し、喜びをもって私を信愛する彼らに、私はかの知性のヨーガを授ける。私にいたるところの。」(「バガヴァッド・ギーター」)

 神様(智慧)は皆様が神様(智慧)を愛する事を待っているのです。
 もし皆様が神様(智慧)を愛すれば、
 神様(智慧)は皆様が求めるものを与えて呉れると同時に、
 更に皆様にこの上ない報酬を下さる事に成っているのです。
 その報酬が何かと言えば、それこそが恍惚(至福)です。
 
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「しかしながら、このことをいっそう注意深く検討し、同時にまた、ここからとりだされる他のものもろの真理の究明にとりかかるに先だって、ここでしばらく神そのものの観想のうちにとどまり、神の属性を静かに考量し、このはかりしれない光の美しさを、そのまばゆさにくらんでしまった私の精神の眼のたえうるかぎり、凝視し、賛嘆し、崇敬するのがふさわしいであろう。けだし、神の荘厳のこの観想のうちに、来世の最高の浄福が存することをわれわれは信仰によって信じているのであるが、そのように、現在においてもまた、以上のような観想から、――もとよりこれははるかに不完全なものであるが――この世においてわれわれの享受しうる最大の満足が得られることを、われわれは経験するのである。」(デカルト「省察三)
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「そして私は、この方法を用いはじめて以来、つねにこのうえない満足をおぼえてきたのであって、この世にこれ以上に快く、また罪のない、満足をもつことはできまい、と思われたほどである。そしてこの方法によって、私には相当大切だと思われるがほかのたいていの人には知られていない、いくつかの真理を、日々発見していったので、そこから得られる満足は私の精神を完全にみたし、ほかのことはすべて、私にはどうでもよいとおもわれたほどであった。」(デカルト「方法序説」第三部)
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この恍惚、至福については、これまで見て来た聖人賢人たちも様々に述べて来ていましたよね。
この恍惚、至福があるからこそ、古今東西の聖人賢人たちは、智慧を愛し、そして智慧を愛し抜いて来たのでのす。

 さてそれでは、この辺りでデカルトを終わる事にしたいと思いますが、
 最後にデカルトの哲学の原理に関する言葉を置いておこうと思います。
 もし皆様が「哲学とは何か」と聞かれた時の模範解答になると思います。
 何故なら近代哲学の祖デカルトの言葉のなのですから・・・

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「私が序文を書くとしたなら、先ず第一に、哲学とはなんであるかを明らかにしようとして、次のような周知のことがらからはじめたでありましょう。すなわち『哲学』という語が知恵の探求を意味すること。知恵とはたんに実生活における分別をさすばかりでなく、人間の知りうるあらゆることについての完全な知識――自分の生活の指導のためにも、健康の保持やあらゆる技術の発明のためにも役立つような知識――をもさすこと。この知識がこれらの目的に役立つものであるためには、それが第一原因から導きだされることが必要であり、したがってこういう知識の獲得に努める――これが本来、哲学すると名づけられることです――ためには、そのような第一原因の、すなわち原理の、探求ということからはじめなくてはならないこと、これらの原理が二つの条件をそなえなければならないこと。その一つは、それらがきわめて明晰できわめて明証的であって、人間精神がそれらを注意深く考察しようと心がけるかぎり、その真理性を疑えないほどであるということ。もう一つは、他の事物の認識がそれらの原理に依存しており、したがって、原理のほうは他の事物をまたずに知られうるが、逆に、他の事物のほうは原理なくしては知られないということ。つづいて、それら原理から、それに依存する事物の認識を演繹するに努めることになるわけですが、それはこの演繹の全過程のうちに、きわめて明白なもの以外の何ものもない、というふうにすすめなれねばならぬこと。
 実際、完全な知恵をそなえているのは、すなわちすべての事物についてあますところのない知恵をもっているのは、ひとり神のみでありますが、しかしながら人間とても、きわめて重要な真理について、あるいは多くあるいは少なく、知識をもっているに応じて、そのぶんだけは知恵をそなえているといわれることができるのです。その点はすべての学者が一致して承認することろであると信じます。
 次いで私は、この哲学の効用についてこう考慮を促し、次のことを示したでありしょう。すなわち、(哲学は人間精神の知りうるあらゆる事がらにわたるものであるから)われわれを未開で野蛮な人種から区別するのは哲学のみであり、それぞれの民族は、そこに属する人々が哲学することにひいでていればいるほど、それだけ開花し洗練されていること、したがってまた、真の哲学者をかかえていることが一国の手に入れうる最大の幸福であること、これらのことを信ずべきであるということ。なおまた、一私人の場合をいえば、この研究にたずさわっている人々と交わるだけでも有益であるが、みずからのこの研究にたずさわることは、それとは比較にならぬほどすばらしいことであること。あたかも、自分の目を用いて歩みを進め、わが目で色や光の美しさを楽しむほうが、目を閉じて他人の導きに従うよりは、疑いもなく、ずっとまさっているようなものです。もっとも他人の導きに従うのも、目を閉じたまま自分一人で歩こうとするより、まだしもましではありますが。
 ところで、哲学することなして生きてゆこうとするのは、まさしく、目を閉じて決して開こうとしないのと同じことです。しかも、われわれの肉眼にうつしだされるすべての事物を見る喜びは、哲学によって見いだされる事物の認識が与えてくれる満足とは、比較にならず小さなものです。そして最後に、この研究は、われわれの行動を律してこの世の生においてわれらを導くために、われわれの目の使用がわれわれの歩みを進めるために必要であるようりも、はるかに必要なものなのです。
 理性をもたぬ動物は、自分の身体さえ保存すればよいわけですから、たえず身体の養いとなるものをさがすことをかかりきっています。しかし人間は、精神を主要な部分とするのですから、精神の真の糧である知恵を求めることを主たる関心事とすべきでありましょう。そして、実際、もしもこの仕事において成功をおさめる見通しがつき、自分にもどれほど多くのことがやれるかがわかりさえするなら、少なからぬ人々がそれに取り組んでくえるにちがいない、と私は確信しております。どんなに卑しい心でも、まったく感覚の対象のとりこになっているわけではなくて、ときにはそれから離れ、ほかのもっと大きな善を望むものなのです(たとえこの大きな善が何に存するかを知らない場合が多いにしても)。たいそう運にめぐまれて、健康や名誉や富を十分すぎるほどもっている人々も、そういう欲求をおぼえずにいられない点では、他の人々とちがいがありません。むしろ反対に、そのような人々こそ、現に所有しているすべての善とは別個の、もっと高い善を、極めて熱烈に渇望するものだ、と私は信じます。ところでこの最高の善というのは、信仰の光の助力なしに自然的な理性によって考察するかぎり、第一原因による真理の認識、すなわち知恵にほかならず、これの探求が哲学なのであります。」(「哲学の原理」著者から仏訳者にあてた手紙~序文にかえて~)
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 皆様、哲学が如何に素晴らしいものかお分かりになりましたか。

「哲学することなして生きてゆこうとするのは、まさしく、目を閉じて決して開こうとしないのと同じことです。しかも、われわれの肉眼にうつしだされるすべての事物を見る喜びは、哲学によって見いだされる事物の認識が与えてくれる満足とは、比較にならず小さなものです。」

 皆様は肉眼でこの世界を眺めて素晴らしいと思う事があるかも知れません。
 しかし哲学の目で眺めたその世界は、肉眼で眺めたその世界に比べて、
 比較にならない程素晴らしい世界なのです。
 何故か、
 何故ならそこには何時も至福が伴っているからです。
「そこから得られる満足は私の精神を完全にみたし、ほかのことはすべて、私にはどうでもよいとおもわれたほどであった。」

「最高善というのは、(中略)知恵にほかならず、これの探求が哲学なのです。」

 究極の最高善とは何か、それは神の事。
 ですから究極の哲学とは、神を求める事。
 神とは何か、それは完全な知恵の事、それを智慧と呼んでも良い。
 ですから哲学とは智慧を愛する事であると同時に神を愛する事でもあるのです。

「実際、完全な知恵をそなえているのは、すなわちすべての事物についてあますところのない知恵をもっているのは、ひとり神のみであります。」

「ここに私が神というのは、その観念が私のうちにあるその神、いいかえると、私が把握することはできないが、しかしあるしかたで思惟によって触れることはできるところの、すべての完全性をもっており、いかなる欠陥からもまったく免れている神である。」

 哲学とはphilosophia、智慧を愛する事、
 それはまた神を愛する事でもあるのです。

 尤も皆様は哲学者(智慧を愛する者)です。
 ですから智慧を愛すると言うスタンスで智慧を愛し続ければ良いと思います。
 そうすれば、そこにソクラテス=プラトンやデカルトが約束した至福の世界が現出する事になると思います。

 そしてもし皆様が人生途上において大きな悩みを抱えた時は、
 その時はその智慧を神様と置き換えても良いと思います。
 その時はその神様が皆様の救い主(キリスト)と成って、
 皆様をその悩みから救って呉れると思います。
 何故ならその神様とは究極の皆様御自身の事なのですから。

「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
  神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。』」(「マタイ福音書」)

「主は右にいまし。わたしは揺らぐことはありません。」
「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。」(「詩編」)

「私は万物の心中に宿る自己(アートマン)である。」
「私は個物(アートマン)の心に宿り、輝く知識の灯火により、無知から生ずる闇を滅ぼす。」(「バガヴァッド・ギーター」)

「われわれの探し求むべきものは何かと言うに、それは抵抗し得ざる或る力の支配を毎日受けないもののことです。それは何でしょう。それは心ですが、それは正しい、善い、大きな心のことです。この心を、人間の肉体に宿る神という以外に何と呼ぶでしょうか。」
「神は君の近くに、君と一緒に、君の内部にいるのです。」
「では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。」(セネカ「道徳書簡集」)

 この辺りで、デカルトを終わりにしたいと思います。
 そして偉大な十三人の哲学者(智慧を愛する者)の旅も終わりにしたいと思いますが、
 皆様は智慧の本質を理解できたでしょうか。

 「智慧とは何か」
 
 それについてはもう一度、
  章を第十四章「智慧と愛」と改めて、
 彼らの言葉に従って、
 彼らの智慧を総括したいと思います。

 なお十四章「智慧と愛」以下については、
 次の様な章立てで進めたいと思っています。
 第十四章「智慧と愛」
 第十五章「聖人君子もしくは哲学者に成ると言う強い意志について」
 第十六章「哲学一貫教育について」
 第十七章「哲学広場について」
 第十八章「哲学国家日本の実現の為に」
 第十九章「最後に」

 ここにおいて「哲学国家日本」の実現の為の方策をも述べて行きたいと思っています。

「第十四章 智慧と愛」へ