第十四章 智慧と愛

第十四章 智慧と愛

 ソロモン、ダビデ、イエス、パウロ、ブッダ、孔子、王陽明、老子、ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカ、クリシュナ、デカルトと十三人の偉大な哲学者(智慧を愛する者)たちの智慧を見てきましたが、
 智慧の本質を理解できたでしょうか。

 智慧とは何か。
 それは皆様に取って最高最善のもの。
 皆様に取っての主であり、皆様に取っての神である、
 そう言い切っても良いと思います。

 それに求めれば、それが与え返して呉れる。
 それに強く求めれば強く求めるほど、それは強く与え返して呉れる。
 それに最高最善のものを求めれば、それは最高最善のものを与え返して呉れる。
 それが智慧と言う存在です。
 智慧は皆様が心から強く求めるものを、何でも与え返して呉れるのです。

 もし皆様が一心不乱にそれを求めれば、
 智慧は皆様にそれを与えて呉れる事でしょう。
 それとは何か。
 それこそが
 イエス、ダビデ、ソロモン、パウロ、ブッダ、孔子、王陽明、老子、ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカ、クリシュナ、デカルト等々の偉大な哲学者たちに共通して存在しているそれ、すなわち智慧なのです。
 それを得れば皆様は、
 イエス、ダビデ、ソロモン、パウロ、ブッダ、孔子、王陽明、老子、ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカ、クリシュナ、デカルト等々の偉大な哲学者たちを完全に理解する事が出来るようになります。
 何故ならそこにおいては全てが一つなのですから。
 「哲学は道を行き、英知は道の終わりです」(セネカ「道徳書簡集」)
 その時皆様の智慧が、世界共通の智慧と成るのです。

 イエスの智慧で何か難しい事があるでしょうか。
 ブッダの智慧で何か難しい事があるでしょうか。
 孔子の智慧で、老子の智慧で、クリシュナの智慧で何か難しい事があるでしょうか。
 何も有りません。
 何故ならそれらは皆、皆様の真心に記された言葉なのですから。
 その真心において人類皆兄弟と成るのです。

 しかしここで皆様に大事な事を言って置きます。
 偉大な哲学者(智慧を愛する者)たちの智慧を学ぶ事には何の難しさもありません。
 何故ならそれらは皆様の真心の中に記された言葉を学ぶ事なのですから。
 しかしそれを実行する事が途轍も無く難しいのです。

 智慧から愛へ。
 「神は愛なり」
 ここにおいて智慧が完成するのです。
 それはまた聖人君子への道でもあるのです。

 さてそれでは前置きはこれ位にして、
 「智慧とは何か」について、
 彼ら十三人の哲学者の言葉に依って、
 彼らの智慧を総括する事としましょう。
 それは一に収束する事に成るなのです。

 私と皆様と十三人の智慧が一つに収束した時、
 その時から「哲学国家日本」が胎動する事に成るのです。
 ですからどうか全身全霊で私に付いて来て下さい。

 それでは彼らの言葉に従って、
 彼らの智慧を見て行きたいと思いますが、
 智慧をより良く理解し易い様に、
 次の三つに分けて見て行く事にします。

 先ずは「智慧とは何か」と言う事について、
 次に「智慧へと至る方法」について
 最後に「智慧と共に在る時、人はどの様に成るか」と言う事について

 この三つの視点を持っていれば、
 皆様は全ての偉大な哲学者(智慧を愛する者)たちの智慧を、
 一瞥の下に了解する事が出来る様に成る筈です。
 何故なら偉大な哲学者(智慧を愛する者)たちは、この事しか言っていないのですから。

 先ず一番目の「智慧とは何か」についてですが、
 これについては、彼らがそれを何と呼んだかを見付ける事に依って全て了解します。
 何故なら、そこから彼らの全ての智慧の体系が生まれているのですから。

 次の「智慧への至る方法」ですが、
 これについては孔子の「克己復禮を仁と為す」が、
 最も要を得て簡です。
 この世を捨てて、霊に還った時、皆様は智慧へと至っているのです。
 その方法と言えば、
 philosophia(哲学),
 すなわち智慧を愛する事です。
 智慧の言葉を愛する事に依って智慧へと至る、
 これこそが哲学の王道です。
 古今東西の聖人賢人たちの智慧の言葉に智慧を学べば、
 何時しか皆様の心がそれらの言葉で一杯に成ります。
 その時皆様はこの世からかの世に渡った事に成るのです。
 すなわち、その時皆様は智慧へと渡った事に成るのです。
 そこは閃きの世界です。
 「求めよ、さらば与えられん」
 そこにおいて皆様が心から求める事は何でも与えられると言う事に成るのです。
 そしてそれはイエスやブッダや孔子のそれと何の違いも無く成るのです。
 これこそが哲学(智慧を愛する事)の奥義とも言うべき原理なのです。

 最後の「智慧と共に在る時、人はどの様に成るか」と言う事については、
 老子の「恍惚」が最も象徴的で、
 最も理解し易いものです。

「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。
 道の物為(た)る、惟(こ)れ恍、惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。
 其の中に象有り、恍たり惚たり。
 其の中に物有り、窈たり冥たり。
 其の中に精有り、其の精、甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。
 古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。
 吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」(「老子」)

 この引用において
 「智慧と共に在る時、人はどの様に成るか」と言う事について、
 百パーセント言い尽くしていると思います。
 智慧と共に在る時、人はどの様に成るか。
 人は先ず「恍惚」に成るのです。
 そしてその「恍惚」の中で、
 人は古今東西の聖人賢人たちのそれを知る事に成るのです。
 それとは智慧の事ですが、それは「甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り」と言う事に成るのです。
 そしてこれが一番大事な事なのですが、
 その「恍惚」の中において、
 人が意志を投入すると、
 そこに愛が生まれる事に成るのです。
 「孔徳の容、惟(ただ)道に従う」と言う事に成るのです。
 ここにおいて「神は愛なり」と言う言葉が成就する事に成るのです。
 ここにおいて哲学、すなわち智慧を愛すると言う事が完成する事に成るのです。
 「哲学は道を行き、英知は道の完成です」
 これが皆様哲学者(智慧を愛する者)の最終目標であり、
 「哲学国家日本」の国民の一人一人の最終目標とも成るのです。
 そしてこれこそが「哲学国家日本」の基本原理とも成るのです。

 以上で、
 「智慧とは何か」と言う事と
 「智慧に至る方法」と
 「智慧と共に在る時、人はどの様に成るか」と言う事の概要説明を終わる事にして、
 愈々この三つの主題について、
 かの偉大な十三人の哲学者がどの様に言っているかを、
 彼らの言葉に即して見て行きたいと思います。
 これがこの著書の前半の大きな山場と成ります。
 ここにおいて皆様には智慧をその真髄から理解して頂きたいと思っているのです。
 そしてこの章を読み終えた時、
 皆様は「哲学国家日本」のリーダーとして、
 この日本を牽引して行く事に成るのです。
 何故ならそこにおいて皆様は智慧の真髄を掴み取る事に成るのですから・・

 それでは先ず最初の「智慧とは何か」と言う事について、
 十三人の哲学者たちの言葉に即してそれを見て行く事にしましょう。
 なお先程も言いました様に、
 彼らがそれを何と呼んだかを見付ける事が一番の近道です。


 先ずはソロモンからです。
 彼はそれを何と呼んだのでしょか、そうですね知恵ですね。
 また主とも神とも呼んでいます。
 今回のこの著書においては、
 ソロモンの言葉については、引用が極めて少なかったので、
 主とか神とかと言う言葉はあまり出て来ていませんが、
 今回の引用の基である「箴言」を読めば、
 主とか神と言う言葉もかなり出て来ます。
 しかし知恵も主も神も、それらは全てその根源では一緒なのです。
 と言う事で、ここでは「ソロモンの知恵」で有名なその知恵でそれを見て行く事にしましょう。

「わたしは知恵。
 熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている。
 主を畏れることは、悪を憎むこと。
 傲慢、驕り、悪の道、暴言をはく口を、わたしは憎む。
 わたしは勧告し、成功させる。
 わたしは見分ける力であり、威力を持つ。
 わたしによって王は君臨し、支配者は正しい掟を定める。
 君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆、わたしによって治める。
 わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。
 わたしのもとには富と名誉があり、すぐれた財産と慈善もある。
 わたしの与える実りは、どのような金、純金にもまさり、わたしのもたらす収穫は、精選された銀にもまさる。
 慈善の道をわたしは歩き、正義の道をわたしは進む。
 わたしを愛する人は嗣業を得る。
 わたしは彼らの倉を満たす。』」(旧約聖書「箴言」)

 この智慧こそが、皆様の真心のその奥つ城に存在しているのです。
 皆様がこの世を捨て、皆様の真心に還った時、
 そこにこの智慧が存在している事に成るのです。
 そしてこの智慧から皆様の智慧の体系が生まれて行く事に成るのです。
 そしてそれはソロモンの智慧と何の違いも無くなるです。

 皆様が純粋に成れば成るほど、皆様の智慧とソロモンの智慧は何の違いも無くなるのです。
 皆様が純粋無垢の極致に達した時、
 それは老子の言葉で言えば「恍惚」と言う事に成りますが、
 その境地に達した時、
 皆様とソロモンとだけでなく、
 皆様と十三人の偉大な哲学者たちとは何の違いも無くなるのです。
 その境地が如何なる境地かと問われれば、
 それがニルヴァーナであり、涅槃であり、ブラフマンであり、神の国であり、天の国であると言う事に成り、
 その時の気持ちが如何なる気持ちであるかと問われれば「恍惚」と言う事に成るのです。
 そこに皆様が皆様の意志を投入すると、
 愛が生まれる事に成るのです。
 そこにおいて「神は愛なり」と言う言葉が成就する事に成るのです。
 最初から少し飛ばし過ぎましたが、そう言う事なのです。


 それでは次にダビデです。
 ダビデは智慧の事を何と呼んだか。
 そうですね、主でしたよね
 時には神とも呼んでいます。

 ダビデの主と呼ばれる智慧こそが、
 智慧のスタンダードです。
 この智慧がイエスに引き継がれ、
 マホメットに引き継がれ、
 そして今や全世界の智慧のスタンダードと成っているのです。
 ダビデの智慧が、
 如何に甘く切なく優しいか、
 皆様はもう理解して頂いていますよね。

「主に申します。『あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。』」
「主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。」
「主は右にいまし。わたしは揺らぐことはありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。」
「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主は私の運命を支える方。」
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」
「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いのほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」
「命の泉は貴方に在り、貴方の光に、私たちは光を見る。」
「主よ、あなたはわたしの灯火を輝かし、神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。」
「主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。」
「味わい、見よ、主の恵みの深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」
「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し、『あなたこそわたしの神』と申します。」
「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み、わたしの神よ、あなたに依り頼みます。」
「主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。」
「主はわたしの力、わたしの盾、わたしの心は主に依り頼みます。」
「主よ、わたしの力よ。わたしはあなたを慕う。」
「呼び求めるわたしに答えてください。わたしの正しさを認めてくださる神よ。」
「主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに住まわせてくださるのです。」
「主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。」
「主のほかに神はいない。神のほかに我らの岩はない。」
「主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。」
「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。」
「主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます。」
「わたしは主に求め、主は答えてくださった。」

「あなたを呼び求めます。神よ、わたしに答えてください。」
「主よ、わたしの言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分けてください。」
「あなたの耳をわたしに傾け、急いでわたしを救い出してください。」
「主よ、呼び求めるわたしの声を聞き、憐れんで、わたしに答えてください。」
「主よ、あなただけは、わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ、今すぐわたしを助けてください。」
「主よ、耳を傾けて、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。」
「平穏なときには、申しました。『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と。主よ、あなたが御旨によって、砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると、わたしはたちまち恐怖に陥りました。」
「わたしは言いました。『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」
「主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる。」
「父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。」
「主はわたしの泣く声を聞き、主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受けてくださる。」
「わたしの神よ、主よ、叫び求めるわたしを、あなたは癒してくださいました。」
「あなたはわたしの嘆きを踊りにかえ、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。」
「わたしの心は御救いに喜び躍り、主に向かって歌います『主はわたしに報いてくださった』と。」
「わたしの魂は主によって喜び躍り、御救いを喜び楽しみます。」

「わたしは主に無垢であろうとし、罪から身を守る。」(詩篇18)
「あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら、そのことがわたしを守ってくれるでしょう。」
「どうか、無垢なわたしを支え、とこしえに、御前に立たせてください。」
「主よ、あなたの道を示し、平らな道に導いてください。」
「わたしの神、主よ、私の目に光を与えてください。」
「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。あなたのまことにわたしを導いてください。」
「主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き、まっすぐにあなたの道を歩ませてください。」
「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前におかれますように。」
「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。」
「主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。」
「主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。」
「わたしは主の道を守り、わたしの神に背かない。」
「わたしは主の裁きをすべて前に置き、主の掟を遠ざけない。」
「神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を完全にし、わたしの足を鹿のように速くし、高い所に立たせ、手に戦いの技を教え、腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。」
「主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目に対してわたしの手は清い。」
「主よ、わたしの神よ、あなたの正しさによって裁いてください。」
「主よ、裁きを行って宣言してください、お前は正しい、とがめるところはないと。」
「どのようなときにも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。」

 皆様は、ダビデの智慧を理解して頂けましたか。
 ダビデの智慧が如何に甘く切なく優しいか。
 そして如何に凛としているか。
 ダビデの智慧は皆様の魂を浄化し、
 そして皆様の魂を凛と立たせて呉れるのです。
 世界の智慧のスタンダードですよね。
 この智慧を心から理解すれば皆様もきっと、
 この智慧を心から得たいと望む筈です。
 この智慧を了解する事も何も難しい事はありません。
 皆様が純粋無垢、すなわち老子の言う所の「恍惚」に至れば、
 皆様の魂は自然に浄化され、
 そこに皆様の智慧が存在し、
 そしてそこに愛の力が漲る事に成るのです。
 それが皆様の主であり、皆様の神であると言う事にも成るのです。

「わたしは主の道を守り、わたしの神に背かない。」
 その為には強い意志が必要と成ります。
 それが聖人君子への道と言う事に成るのです。

 なお今回掲出したダビデの智慧の言葉、
 すなわち詩編の中の主もしくは神と言う言葉が出て来る文章は
 詩編の中の主もしくは神と言う言葉が出て来る文章の五十分の一にも満たないと思います。
 もう一度皆様御自身で詩編を読み、
 そして主もしくは神と言う言葉が出て来る文章を拾い出し、
 そして皆様御自身の真心に従ってそれらを整理して見て下さい。
 そうすればそこに皆様の真心が映し出される事に成る筈です。
 その時皆様が愕然とする筈です。
 私とはこんなに素晴らしい存在だったのかと。
 何故ならダビデの一つ一つの言葉は皆様御自身の真心からの言葉なのですから。

 その事に気付いた時、
 その時から皆様は聖人君子への道を歩む事に成るのです。


 さてそれでは次にイエスです。
 イエスは智慧の事を、主とも神とも父とも聖霊とも呼んでいます。
 また福音記者たちはそれを「言」ともキリストとも呼んでいます。
 言と言う言葉は少し毛色が違っていますので、先ず掲出したいと思います。

「初めに言(ことば)があった。
 言は神と共にあった。
 言は神であった。
 この言は、初めに神と共にあった。
 万物は言によって成った。
 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
 言の内に命があった。
 命は人間を照らす光であった。
 光は暗闇の中で輝いている。
 暗闇は光を理解しなかった。
 (中略)
 言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
 わたしたちはその栄光を見た。
 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」(「ヨハネ福音書」)

 言が智慧です。
 言(智慧)は神と共に在り、
 そして言(智慧)は神なのです。
 この言に依り、皆様の世界が創造されたのです。
 そしてこの言(智慧)は今もなお、命ある光、光ある命として、
 皆様の真心の中に存在し続けているのです。
 この事は、皆様がその智慧を体感すれば分かる事なのです。
 しかし多くの人がそれを実感する事が出来ない。
 その為にイエスが自らにそれを具現して、皆様の目の前に現れて呉れたのです。
 ですから、イエスの事を智慧の現人神と言うのです。
 そしてそれはまた智慧と愛の現人神の事でもあるのです。

「『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。
 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
 はっきり言っておく。
 多くの預言者や正しい人は、あなたたちが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたが聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである。」(「マタイ福音書」) 

 何故皆様はそれを見る事が出来ず、それを聞く事が出来ないのでしょうか。
 それは皆様が「恍惚」を体現出来ないからです。
 「恍惚」こそが正にそれが生まれる現場なのです。
 もし皆様が恍惚を体現出来れば、
 そこにそれが生まれるのを見る事が出来るのです。
 しかしたとえ、そこでそれが生まれるのを見る事が出来たとしても、
 それが人間の形に成るまでを見る事が出来ない。
 だからその為に、イエスが智慧の現人神として、
 その姿を私たちの目の前に現わして呉れたのです。

「イエスは叫んで言われた。『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。』」
「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。あなたがたはわたしを知っているならば、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。』」
「イエスは言われた。『フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。』 (「ヨハネ福音書」)

 イエスは先ず言います。
 私を見よ、と。
 そして更に言います。
 そこから私の源である智慧(神)を見よ、と。
 そうすれば真理の霊(智慧)を授けよう、と。

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は真理の霊である。」
「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い出させてくださる。」
「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」
「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが去って行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」
「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」 (「ヨハネ福音書」)

 イエスキリストの復活に関する記事です。
 「真理の霊」、「聖霊」とは、
 イエスの智慧を帯びたキリスト(智慧)の事です。
 この霊(智慧)がクリスチャンの心の中に復活する事に成るのです。
 ここにおいて、クリスチャンはイエスの智慧に倣う事が出来る様に成るのです。
 
 クリスチャンはイエスの形からイエスの智慧に入って行き、
 そしてそこから更に自らの智慧へと入って行く事に成るのです。
  新約聖書は物語仕立てで、
 クリスチャンと成るべき人をその智慧へと導いているのです。
 皆様も新約聖書からその智慧に入って行くのも一つの方法ですが、
 やはり皆様は哲学者(智慧を愛する者)です。
 多くの聖人賢人哲人たちの智慧から智慧へと入って行く方が良いと思います。
 その方が智慧に対する柔軟性が生まれますので。

 それにしても新約聖書は智慧の宝庫です。
 主、神、父、聖霊、言、キリスト、
 そして智慧の現人神イエス
 それらに関する言葉は全て智慧の言葉です。
 これらの言葉を拾い集めて、
 皆様の真心に従って整理してみて下さい。
 そうすれば、皆様はまた愕然として知る筈です。
 皆様が如何に素晴らしき存在であるかを。
 何故ならそれらは皆様が心の奥底から求めていたが、求められなかった言葉たちだからです。
 そこからもまた、皆様は聖人君子への道を歩む事に成るのです。


 次はパウロです。
 パウロもイエスも新約聖書の中の登場人物ですが、
 その智慧(神)は少し違うのです。
 イエスは純粋に自らの神(智慧)に向かい合っていますが、
 パウロはイエスキリスト(イエスの智慧)を通してその神(智慧)と向かい合っているのです。
 しかし究極においては一緒です。

「『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」
「実に、信仰は聞く事により、しかも、キリストの言葉を聞くことにより始まるのです。 それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。『その言葉は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ』のです。」
「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。 異邦人の神でもあります。
「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」(「ローマ信徒への手紙」) 

 パウロはイエスキリストの智慧を通して自らの智慧と向かい合いました。
 しかしその究極ではイエスが向かい合ったその智慧と全く一緒だったのです。

「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができるからです。」
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」

 これが智慧の神秘です。

 なお、パウロは智慧の事を主とも神ともキリストとも呼んでいます。
 パウロの言う主、パウロの言うキリストとは、イエスの智慧を帯びた智慧、もしくはイエスの智慧そのものを言います。
 そして神とは、
 そのイエスキリストを通してまみえる智慧の事ですが、
 その智慧は皆様お一人お一人に存在している智慧と何ら違いは無いのです。
 その智慧はイエスキリストの衣をも脱ぎ去った先にある純粋な智慧の事なのです。
 その智慧において人類皆兄弟と成るのです。
 その智慧において、仏教徒もキリスト教徒もイスラム教徒もそして皆様も皆兄弟と成るのです。


 次はブッダです。
 ブッダは智慧の事を何と呼んだか?
 『般若』です。
 般若こそがブッダの智慧の神髄なのです。

「観自在菩薩、深般若波羅密多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。舎利子よ、色は空に異ならず。空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。受想行識もまたかくのごとし。舎利子よ、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず、この故に、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明もなく、また無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。菩提薩陲は、般若波羅密多に依るが故に、心に罣礙なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなく、顛倒夢想を遠離して涅槃を究竟す。三世諸仏も般若波羅密多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。故に知るべし、般若波羅密多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならざるの故に。」(「般若波羅密多心経」)

「観自在菩薩、深般若波羅密多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。」
「菩提薩陲は、般若波羅密多に依るが故に、心に罣礙なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなく、顛倒夢想を遠離して涅槃を究竟す。」
「三世諸仏も般若波羅密多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。」

 観自在菩薩も菩提薩陲も三世諸仏も皆、
 「般若波羅密多」すなわち哲学すなわち智慧を愛する事に依って、
 自由自在な存在と成ったのです。

 観自在菩薩も菩提薩陲も三世諸仏も古今東西の聖人賢人たちの智慧を愛する事に依って、
 その智慧の根源としての智慧へと至ったのです。
 正しく哲学の王道です。
 彼らはその智慧の根源としての智慧に至る事に依り、
 そこに空を涅槃をニルヴァーナを神の国を天の国を視い出し、
 そして「恍惚」を実感したのです。
 そこに達した彼らにはもうこの世の煩いは何も無いのです。
 何故ならそこに在るのは、純粋に考える存在としての私だけなのですから。
 その至福(恍惚)の中で、彼らは純粋に考える存在そのものと成るのです。

「無心と言うは、即ち妄想無き心なり。」
「夫(か)の無心なる者は真心なり、真心なる者は無心なり。」 
「爾我の無心は、木石に同じからず。何を以ての故ぞ。譬えば天鼓の如し、無心なりと雖復(いえど)も、自然に種々の妙法を出して衆生を教化す。又如意珠の如し、無心なりと雖復(いえど)も、善能(よ)く諸法実相を覚了し、真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し。」
「和尚、又告げて曰く、諸の般若の中、無心般若を以て最上と為す。」(「菩提達摩無心論」)

 無心、無垢、無我の中で、
 皆様の智慧は最上の働きをするのです。
 何故ならそこは神(智慧)の国なのですから。
 皆様はこの世に在りながら、
 「純粋に考える存在」と成って神(智慧)の国の住人と成るのです。

「愛欲を離れ、執着なく、諸の語義に通じ諸の文章とその脈略を知るならば、その人は最後の身体をたもつものであり、『大いなる智慧ある人』と呼ばれる。」
「前世の生涯を知り、また天上と地獄を見、生存をほろぼしつくすに至って、直感智を完成した聖者、完成すべきことを完成した人、――かれをわれは<バラモン>と言う。」(「真理の言葉」)

 「直観智の完成」
 これこそが哲学の完成です。
 その意味する所は神(智慧の根源としての智慧)と共に在ると言う事です。
 直観智とは智慧の根源としての智慧から、何の媒介も無しに、何の演繹も無しに、生まれて来る智慧の事です。
 それこそが正に神(智慧の根源として)の智慧と言う事に成ります。

 直観智と真般若は同じ事です。
 「真般若を具して、三身自在に応用し妨ぐる無し」

「諸の語義に通じ諸の文章とその脈略を知るならば、その人は最後の身体をたもつものであり、『大いなる智慧ある人』と呼ばれる。」 
 その為にも、古今東西の聖人賢人哲人たちの智慧に学ばなければならないのです。
 これこそが何時の時代にも変わらぬ哲学の王道なのです。

 古今東西の聖人賢人たちの智慧を知り、
 それを心に銘記しているならば、
 その人の力は如何程のものと成るのでしょう。
 後は実行するのみです。
 そこに聖人君子への道が開けて来る事に成るのです。


 次は孔子です。
 孔子は智慧を何と呼んだのでしょう。
 そうですね、仁ですね。
「顔淵、仁を問う。子の曰く、克己復禮を仁となす。一日、克己復禮すれば、天下仁に帰す。」
「子の曰く、(中略)能く一日も其の力を仁に用いること有らんか、我れ未だ力の足らざるを見ず。蓋しこれ有らん、我れ未だこれを見ざるなり。」
「子の曰く、仁に里(お)るを美(よ)しと為す。択んで仁に処(お)らずんば、焉(いずく)んぞ、知なることを得ん。」
「仁に志せば、悪しきこと無し。」
「子の曰く、人にして仁ならずんば、禮を如何。人にして仁ならずんば、樂を如何。」(「論語」)
「子の曰く、仁遠からんや、我仁を欲すれば、斯(ここに)仁至る。」
「仁を欲して仁を得たり、又た焉(なに)をか貪らん」
「仁を求めて仁を得たり。又た何ぞ怨みん。」

 仁が如何に力があり、
 仁が如何に人の近くにあり、
 そして仁が如何に喜びに満ちているか、
 他の十二人の哲学者(智慧を愛する者)たちの智慧全く同じですよね。

「天下仁に帰す」
 仁の力は凄いですね。天下が仁に帰すのですから。
「能く一日も其の力を仁に用いること有らんか、我れ未だ力の足らざるを見ず。」
 仁は出来ない事は何も無いのですね。
「仁に志せば、悪しきこと無し。」
 仁に志さない訳にはいかないですね。
「子の曰く、仁遠からんや、我仁を欲すれば、斯(ここに)仁至る。」
 仁は私たちのすぐ近くにあるのですね。いいえ、仁は私たちの心の中にこそにあるのです。
「仁を欲して仁を得たり、又た焉(なに)をか貪らん」「仁を求めて仁を得たり。又た何ぞ怨みん。」
 聖人君子は仁を得るだけで満足するのですね。それは当たり前の事ですね。何故なら仁を得れば全てのものを得られるのですからね。しかしそれよりももっと大事な事があります。それは仁と共に在る事が喜びなのですから。そんな事は書いていませんが、孔子の人格を見れば一目ですよね。そして他の十二人の哲学者を見ても。哲学は皆様を至福に導く為にこそあるのです。

 なお仁には二つの概念があります。
 一つは今見て来た通りの智慧です。
 もう一つは愛です。
 孔子の仁は智慧と愛が合体しているのです。

「樊遅、仁を問う。子の曰く、人を愛す。」
「仲弓、仁を問う。子の曰く、門を出(い)でては大賓(だいひん)を見るが如く、民を使うには大祭に承(つか)えるが如くす。己の欲せざる所は人に施す勿かれ。邦に在りても怨み無く、家に在りても怨み無し。」
「子張、仁を孔子に問う。孔子の曰く、能く五つの者を天下に行うを仁と為す。これを請い問う。曰く、恭寛信敏恵なり。」(「論語」)

 これが愛の概念です。
 この愛の概念はイエスの愛の概念と全く一緒です。
 すなわち神(智慧)に裏付けされた愛なのです。

『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
 これが最も重要な第一の掟である。
 第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)

 多くの哲学者(智慧を愛する者)は、
 智慧(神)への愛と隣人への愛を二つに分けています。
 その方が、智慧への愛から隣人への愛へと移行し易いからです。
 何故なら智慧(神)への愛は易しいが、
 隣人への愛は難しいからです。
 何故なら智慧(神)への愛においては至福が伴いますが、
 隣人への愛においては大いなる意志(すなわち勇気)を必要とするからです。
 智慧(神)を愛する事に依って、智慧(神)が自分を愛して呉れた様に、
 隣人をその自分の様に愛する。
 こう理解し、こう体感する事に依って、大いなる意志が生まれるのです。
 それは智慧(神)への愛、そして智慧(神)からの愛、すなわち智慧との相思相愛があってこそ、初めて可能な事なのです。
 孔子はこの智慧への愛と隣人への愛を一つに纏めてしまったのです。
 それが為その実行がとても難しく成ったのです。

「曾子の曰く、士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任と為す、亦た重からずや。死して後已(や)む、亦た遠からずや。」
 孔子の高弟、曾子の言葉です。
 仁への道は悲壮感さえ漂っていますよね。

 仁者は知者であると同時に勇者でなければならないのです。

「曰く、未だ知ならず、焉(いずく)んぞ仁なることを得ん。」
「子曰く、君子の道なる者三つ。(中略)仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼れず。」
「子の曰く、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。」
「子の曰く、徳ある者は必ず言あり。言ある者は必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり。 勇者は必ずしも仁あらず。」
「子の曰く、志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無し。身を殺して以て仁を成すこと有り。」
「微子はこれを去り、箕子はこれが奴と為り、比干は諌めて死す。孔子曰く、殷に三仁あり。」

 孔子は智慧の概念を十分に述べないまま、
 また智慧を愛する方法を十分に述べないまま、
 智慧と愛を、仁と言う一つの概念に纏めてしまったのです。
 その為、仁の実行がとても難しく成ったのです。
 その為、後代の儒学者たちが、孔子のこの仁を、智慧と愛の二つに分かつ事に成ったのです。
 その代表格が「大学」と「中庸」と言う事に成るのです。
 これにより、孔子の仁が、より多くの人々に明らかに成ったのです。

 それでは先ず「大学」から。
 
「大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しむるに在り、至善に止まるに在り。
 止まるを知りて后(のち)定まる有り、定まりて后(のち)能(よ)く静かに、静かにして后能く安く、安くして后能く慮(おもんばか)り、慮りて后能く得。
 物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば則ち道に近し。
 古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。
 その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。
 その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修む。
 その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。
 その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。
 その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致(きわ)む。
 知を致むるは物に格(いた)るに在り。
 物格りて后(のち)知至(きわ)まる。
 知至まりて后(のち)意誠なり。
 意誠にして后(のち)心正し。
 心正しくして后(のち)身修まる。
 身修まりて后(のち)家斉う。
 家斉いて后(のち)国治まる。
 国治まりて后(のち)天下平らかなり。
 天子より以て庶人に至るまで、壱(い)つに是れ皆身を修むる本と為す。
 その厚かる所(べ)き者薄くして、その薄かる所(べ)き者厚きは、未だこれあらざるなり。
 此れ本を知ると謂い、此れを知の至(きわ)まりと謂うなり。」(「大学」第一章)

 これこそ論語の要約と言うべきものです。
 「大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しむるに在り、至善に止まるに在り。」
 ここにおいて、仁が智慧と愛に分かたれたのです。
 明徳を明らかにすると至善に止まるが智慧への愛であり、
 民を親しむるが隣人への愛です。
 
 それから「格物致知」の知こそが智慧です。
 この「格物致知」こそが、智慧へと至る方法であり、そしてこの智慧から愛が生まれて行くのです。
 「古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む」から「国治まりて后(のち)天下平らかなり」までが、人が智慧へと至り、その智慧から愛が生まれ、そしてその智慧と愛が全うされる全過程なのです。
 すなわち聖人君子の道です。
 

 次に「中庸」です。

「天の命ずるをこれ性と謂う。
 性に率(したが)うをこれ道と謂う。
 道を修むるをこれ教えと謂う。
 道なる者は、須臾(しゅゆ)も離るるべからざるなり。
 離るるべきは道に非ざるなり。
 是の故に君子はその睹(み)ざる所に戒慎し、その聞かざる所に恐懼す。
 隠れたるよりは見(あら)わるるは莫(な)く、微(かす)かなるよりは顕(あら)わるるは莫し。
 故に君子はその独を慎むなり。
 喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。
 発して皆な節に中(あた)る、これを和(か)と謂う。
 中なる者は天下の大本(たいほん)なり。
 和なる者は天下の達道なり。
 中和を致して、天地位し、万物育す。」(「中庸」第一章)

「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。発して皆な節に中(あた)る、これを和(か)と謂う。中なる者は天下の大本(たいほん)なり。和なる者は天下の達道なり。中和を致して、天地位し、万物育す。」

 「中」が智慧の根源としての智慧の事であり、
 「和」が智慧の根源としての智慧から発せられる智慧、すなわち愛の事です。
 「中和を致して、天地位し、万物育す。」が、
 「哲学国家日本」の理想像と言う事に成るのです。

 「天の命ずるをこれ性と謂う。性に率(したが)うをこれ道と謂う。」
 この時は「天」が智慧の根源として智慧の事と成り、
 「性」が智慧の根源としての智慧から発せられる智慧、すなわち愛の事と成るのです。
 そして「道」が哲学と言う事に成ります。
 すなわち聖人君子への道です。
 
 「大学」と「中庸」に依って、
 孔子の仁が智慧と愛に分かたれ、
 孔子の仁の真の意味が再び明らかにされ
 そして儒学が再興する事に成ったのです。
 ここにおいて、孔子論語が再び、
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。
 第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と言うあの哲学の王道に戻る事に成ったのです。
 そして王陽明がこの儒学再興の最後に咲いた勿忘草と言う事に成ってしまったのです。
 王陽明は声のあらん限りを尽くして、智慧、智慧、智慧・・・と叫び続けたのです。


 それではここから王陽明の智慧に入って行きたいと思います。
 王陽明は智慧を何と呼んだか。
 そうですね。「良知」ですよね。
 私は王陽明の様に、
 智慧を智慧と言う言葉のままに高らかに叫んだ人を知りません。
 王陽明に取っては、智慧(良知)が全ての全てだったのです。
 特に晩年においては。
 最晩年において、王陽明は自分自身に辿り着いたと、そう思ったのかも知れません。
 「吾が心の良知は、即ち、所謂、天理なり。」

 王陽明は五十歳で「天命を知り」(良知の説は正徳辛巳の年に発す)
 そして最晩年(五十七歳)には「耳順う」(我、今、這(こ)の、良知を信じ、真是真非、手に任せて、行ひ去(ゆ)き、更に、些かの覆蔵(ふくぞう)を著せず。)の境地にまで達していたのかも知れません。
 「子曰く、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(した)がう。七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。」(「論語」)
 もし王陽明が七十歳まで生きていたら、孔子と同じく聖人と呼ばれる事に成っていたかも知れませんね・・
 
 それでは王陽明の言葉に従って、その良知を見て行く事にしましょう。

【良知とは何か、それは神であり、天であり、全ての善きものの根源であり、そして本当の自分自身である】
「夫れ、良知は、一なり。其の妙用を以って言えば、之を神と謂い、其の流行を以って言えば、之を気と謂い、其の凝聚(ぎょうしゅう)を以って言えば、之を精と謂う。」
「良知は、是れ、造化の聖霊なり。這些(この)聖霊は、天を生じ、地を生じ、鬼を成し、帝を成す。皆、此より、出ず。」
「良知は、即ち、是れ、天の植えたる霊根にして、自ら生生して、息まず。」
「良知は、是れ、天理の照明霊覚の處なり。故に、良知は、即ち、是れ、天理なり。」
「吾が心の良知は、即ち、所謂、天理なり。」
「天理の人心に在るや、古に亘(わた)り、今に亘り、終始有ること無し。天理は、即ち、是れ、良知なり。」
「『天に先立って、天、違(たが)はず』とは、天は、即ち、良知なればなり。『天に遅れて、天の時を奉ず』とは、良知は、即ち、天なればなり。」
「良知は、只だ、是れ、一箇の天理の、自然に明覚発見する處、只だ、是れ、一箇の真誠惻怛、便ち、是れ、他(か)れの本体なり。」
「良知は、即ち、是れ、易なり。其の道たるや、屢々(しばしば)、遷り、変動して、居らず、六虚に周流し、上下常無く、剛柔相易って、典要を為す可からず、惟(た)だ、変の適(ゆ)く所のままなり。」
「良知の虚は、便ち、是れ、天の太虚なり。良知の無は、便ち、是れ、天の無形なり。」
「天地も、人の良知無くんば、亦、天地為(た)る可からず。」
「夫れ、良知は、即ち、是れ、道にして、良知の人心に在るは、但だに、聖賢のみならず、常人と雖も、亦、此(かく)の如からざるは無し。」
「道は、即ち、是れ、良知なり。良知は、原(もと)、是れ、完完全全なり。」
「良知は、原(もと)、是れ、精精明明の的(もの)なり。」
「良知の体は、本(もと)、是れ、寧静なり。」
「良知は、本来、自ら、明らかなり。」
「其の良知の体は、皦として、明鏡の如く、略々(ほぼ)、纎翳(せんえい)無し。」
「良知は、夜気の発するにときに在っては、方に、是れ、本体なり。其の物欲の雑、無きを、以ってなり。」
「本来の面目は、即ち、吾が聖門の、所謂、良知なり。」
「良知は、心の本体にして、所謂、恒に照らす者なり。」
「心は身の主なり。而して、心の虚霊明覚は、即ち、所謂、本然の良知なり。」
「良知は、只だ、是れ、一箇にして、他(かれ)の発見流行する處に随い、當下(ただち)に具足す。」
「良知は、即ち、之、『未発の中』なり。即ち、是れ、『廓然大公』、『寂然不動』にして、人人の同じく具する所の者なり。」
「良知は、是れ、只だ、一箇の良知にして、善悪、自ら弁ず。」
「良知は、只だ、是れ、箇(こ)の『是非の心』なり。」
「『是非の心』は、慮(おもんばか)らずして、知り、学ばずして、能くす。所謂、良知なり。」
「道心とは良知の謂いなり。」
「義は、即ち、是れ、良知なり。」
「誠は、是れ、実理なり。只だ、是れ、一箇の良知なり。」
「能く、戒慎恐懼するものは、是れ、良知なり。」
「所謂『人、知らずと雖も、己、独り知る所』とは、此は、正に、我が心の良知の處なり。」
「爾(なんじ)の邦(か)の、一点の良知は、是れ、爾の自家の準則なり。」
「這(こ)の良知は、是(こ)れ、你(なんじ)の明師なり。」
「良知は、喜怒憂懼に滞らずと雖も、喜怒憂懼も、亦、良知に外ならず。」
「良知は、見聞に由って、有らず、而かれども、見聞は、良知の用に非らざる莫(な)し。」 

【良知は全ての人の心の中に存在している、勿論皆様の心の中にも】
「盡(けだ)し、良知の人心に在るや、万古に亘り、宇宙に塞って、同じからざる無し。」
「這(こ)の良知は、人人、皆有り。聖人は、只だ、これを保全して、些(いささか)の障蔽無し。」
「天理の人心に在るや、古に亘(わた)り、今に亘り、終始有ること無し。天理は、即ち、是れ、良知なり。」
「良知の人心に在るは、聖愚を間(へだ)つる無く、天下古今の同じき所なり。」
「良知良能は、愚夫愚婦も聖人も同じ。但(た)だ惟(た)だ、聖人のみ能くその良知を致して、愚夫愚婦は致す能わず。此れ、聖愚の分かるる所なり。」
「聖人の気象は、何に由って、認めん。自己の良知は、原(もと)、聖人と一般なり。若し、自己の良知を体認して、明白なれば、即ち、聖人の気象は、聖人に在らずして、我に在り。」
「『惟だ、天下の至聖のみ、能く、聡明叡智を為す』と。舊(もと)は、何と玄妙と看しが、今看れば、原(もと)、是れ、人人に自有の的(もの)なり。」

【聖賢の学(哲学)は、ただ良知に依ってのみ貫かれている。惑わされない事が大事】
「『一を以って之を貫く』は、其の良知を致すに非ずして、何ぞや」
「聖賢の学を論ずる、多くは、是れ、時に随い、事に就く。言、人ごとに、殊(こと)なる若しと雖も、その工夫頭脳を求むれば、符節を合するが若し。天地の間、原(もと)、只だ、此の性有り、只だ、此の理有り、只だ、此の良知あり、只だ、此の一件、有るに縁るのみ。」
「問う、聖賢の言語は許多なり。如何(いかん)ぞ、卻(かえ)って、打して、一箇の做(な)さんと要するや、と。曰く、我は、是れ、打して、一箇の做(な)さんと要するにあらず。『夫れ道は一のみ』と曰ひ、又、『其の物たる二ならざれば、則ち、其の物を生ずること測られず』と曰うが如き、天地聖人は、皆、是れ、一箇なり。如何(いかん)ぞ、二にし得ん、と。」
「大要、良知の同じきに出づれば、便ち、各々、説を為すも何の害あらん。」
「良知、同じければ、更に、異なる處、有るを、妨げず」

【常に良知と共に在れば、皆様も聖人君子にも成れる】
「学者、良知を信じて、気の乱す所と為らずんば、便ち、常に、義皇以上の人と做(な)らん。」
「汝、只だ、良知上に在って、功を用ふるを要す。良知、存すること久しければ、黒卒卒(こくそつそつ)なるもの、自ら、能く、光明ならん。」
「昏闇の士も、果たして、能く、事に随い、物に随って、此の心の天理を精察し、以って、其の本然の良知を致さば、即ち、愚と雖も必ず明に、柔と雖も必ず強に、大本立って、達道行われ、九経の属も、一を以って之を貫いて、遺(のこ)すこと無かる可べきなり。」
「人、若し、這(こ)の良知の訣窮(けつけう)を知れば、隋(たと)ひ、他(かれ)、多少、邪思枉念(じゃしわうねん)するも、這裏(ここ)、一たび覚むれば、都(すべて)、自ら消融する。」
「若し、時々刻々、自らの心上に就(つ)いて、義を集むれば、則ち、良知の体、洞然として、明白にして、自然に、是は是、非は非として、纖毫(せんごう)も遁(のが)るること無し。」
「吾が心の良知の天理を、事事物物に致せば、則ち、事事物物は皆、その理を得(う)るなり。」
「七情にして、著する所有れば、倶(とも)に、之を欲と謂ひ、倶(とも)に、良知の蔽をなす。然れども、纔(わづか)に、著する有る時は、良知も亦、自ら覚るを会す。覚れば、即ち、蔽去って、其の体に復す。」
「良知を致して、精精明明に、豪髪も、蔽無ければ、則ち、声色貨利の交はるも、是れ、天則の流行に非(あら)ざる無し、と。」
「如今(いま)、念念、良知を致し、此の障礙窒塞を将(も)て、一斉に去り盡せば、則ち、本体、已(すで)に復す。」
「世の君子、惟だ、その良知を致すを務むれば、則ち、自ら能く、是非を公にし、好悪を同じくし、人を視ること、猶、己のごとくにして、国を視ること、猶、家のごとくして、天地万物を以って、一体と為す。」
「吾、人に、良知を致すには、格物上に在って、功を用ふるを教ふ。卻(かえ)って、是れ、根本の有るの学問にして、日は、一日より長進し、愈々久しければ、愈愈清明なるを覚ゆ。」
「良知の頭脳を認むること、是當(しとう)し、去(ゆ)いて、朴実に功を用ふれば、自ら透徹して、此に到るべし。」
「即(も)し、心の良知にして、更に、障碍無く、以って、充塞流行するを得ば、便ち、是れ、其の知を致すなり。知(ち)致(いたれ)ば、意(い)誠(まこと)なり。」
「若(も)し、良知の発して、更に、私意の障碍無ければ、即ち所謂、『其の惻隠の心を充たせば、仁、用うるに勝(た)う可からざる』なり」
「須要(かなら)ず、時時、良知を致すの功夫(くふう)を用ふれば、方才(まさ)に、『活発発地』なり。」
「只だ、是れ、良知を致す(致良知)の三字は、病無し。」
「這(こ)の些子(良知)、看て、透徹すれば、隋(たと)ひ、他(かれ)、千言万語するも、是非誠偽は、前に到れば、便ち、明らかなり。」
「若し、良知を信じて、只だ、良知上に在って、功を用いば、千経万典と雖も、吻合(ふんごう)せざる無く、異端曲学は、一勘して、盡(ことごと)く、破れん。」
「此れ、良知の妙用の、方体無く、窮盡無く、『大を語れば、天下も能く載する莫く、小を語れば、天下も能く破る莫き』所以の者なり。」
「此の致知の二字は、真に、是れ、箇の、千古聖伝の秘にして、百世以って、聖人を俟(ま)ちて、惑わず。」

【哲学者(良知を愛する者)の心得、それは聖人君子に成ると言う強い意志を持つ事】
「你(なんじ)、真に、必ず、聖人為(た)るの志、有らば、良知上に、更に、盡(つく)さざること無からん。」
「僕、誠に、天の霊に頼(よ)って、偶々(たまたま)、良知の学を見る有り。以為(おも)へらく、必ず、此に由って、而(しか)る後に、天下を得て、治べしと。是を以って、斯(こ)の民の陥溺を念(おも)う毎に、則ち、之が為に、戚然として、心を痛め、其の身の不肖を忘れて、此を以って、之を救わんことを思う。」
「幸いとする所は、天理の人心に在るや、終に泯(ほろぼ)す可からず所ありて、良知の明らかなること、万古一日なれば、則ち、其れ、吾が抜本塞源の論を聞けば、必ず惻然として悲しみ、戚然として痛み、憤然として起ち、沛然として江河を決するが若くにして、防ぐ可からざる所ある者あらん。夫の豪傑の士の、待つ所無くして興起する者に非ずんば、吾誰と興(とも)にか望まんや。」
「此の良知に依り、忍耐して做(な)し去(ゆ)き、人の非笑に管せず、人の毀謗に管せず、人の栄辱に管せず。他(かれ)の功夫(くふう)の、進有り、退有るに任せ、我は、只だ、是れ、這(こ)の良知の主宰息まずんば、久々にして自然に力を得るの處有らん。」
「君子の学は、以って、己の為にす。未だ嘗て、人の己を欺くを、慮(おもんばか)らざるなり。恒に、自ら、其の良知を欺かざるのみ。未だ嘗て、人の己に信ならざるを、慮(おもんばか)らざるなり。恒に、自ら、其の良知に信なるのみ。未だ嘗て、先ず人の詐と不信とを、覚る求めざるなり。恒に、自ら、其の良知を覚らんことを務むるのみ。是の故に、欺かざれば、則ち、良知、偽る所無くして、誠なり。誠なれば、則ち、明らかなり。自ら信なれば、則ち、良知、惑う所無くして、明らかなり。明らかなれば、則ち、誠なり。明誠、相生ず。是の故に、良知は、常に覚り、常に照らす。」
「其の所謂、学なる者は、正に惟だ、その良知を致して、以って、此の心の天理を精察するものにして、後世の学とは同じからざるのみ。」

【哲学者(良知を愛する者)への報酬、それは喜び】
「其の良知を致して、自ら、慊(こころよ)からんことを、求むるを務めるのみ。」
「斟酌調停、是れ、其の良知を致して、以って、自ら、慊(こころよ)きを、求むるに非らざるなり。」
「義は宜なり。心、其の宜(よろ)しきを得る、之を、義と謂う。能く、良知を致せば、則ち、心は、其の宜しきを得るなり。」
「爾(なんじ)の邦(か)の、一点の良知は、是れ、爾の自家の準則なり。爾の意念の着く處、他(かれ)は、是は便ち是と知り、非は便ち非と知り、更に、他(かれ)を、一些(いささか)も、欺き得ず。爾、只だ、他(かれ)を欺くを要せず、実実落落に、他(かれ)に依(よ)って、做(な)し去(ゆ)けば、善は便ち存し、悪は便ち去らん。他(かれ)の這(こ)の裏(うち)、何等の穏当快楽ぞや。」
「良知は、是れ、造化の聖霊なり。這些(この)聖霊は、天を生じ、地を生じ、鬼を成し、帝を成す。皆、此より、出ず。真に、是れ、物と対する無し。人、若し、他(かれ)に復し、完完全全にして、少しの虧欠無くんば、自らの、手の舞、足の踏むを覚えざらん。知らず、天地の間、更に、何の楽しみの代わる可(べ)き有らん。」

 長い引用に成ってしまいましたが、止むを得ないと思います。
 何故なら王陽明はこれでもかこれでもかと言う位、
 良知(智慧)と言う言葉を繰り出して来るのですから。
 今回掲出した良知に関する言葉は、
 伝習録全体の中の良知に関する言葉の三十分の一にも満たないと思います。
 伝習録巻中巻下においてはこれでもかこれでもかと言う位、
 良知に関する言葉が繰り出されて来ます。
 何故これ程までに良知と言う言葉が繰り出されて来るのか、
 それは王陽明に取って、良知が全ての全てだったからです。
 
「道なる者は、須臾(しゅゆ)も離るるべからざるなり。離るるべきは道に非ざるなり。」(「中庸」)

「子の曰く、(中略)君子、仁を去りて、悪(いず)くにか名を成さん。君子は食を終うる間も仁に違うことなし。造次(ぞうじ)にも必ず是(ここ)に於いてし、顛沛(てんぱい)にも必ず是(ここ)に於いてす。」(「論語」)

「曾子の曰く、士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任と為す、亦た重からずや。死して後已(や)む、亦た遠からずや。」(「論語」)

 王陽明に取って、
 彼が天命(良知)を知ってから死ぬまでの七年間においては、
 良知が全ての全てだったのです。
 彼はこう勧めます。
 起きている時も、寝ている時も、
 時時刻刻、事事物物、良知と共に在りなさい。
 すなわち全ての時、全ての事において良知と共に在りなさいと。  
 そうすれば聖人君子への道が開けて来るからと。
 何故なら良知は、
 一であり、主であり、神であり、天であり、道であり、
 完完全全のものであり、精精明明のものであり、
 未発の中であり、廓然大公であり、寂然不動であり、虚霊明覚であり、
 恒照であり、道心であり、義であり、誠であり、是非の心であり、惻隠の心、準則であり、明師であり、
 その他最高最善のそのものだから。
 その良知に従えば何も悪い事は起こらないと。
「子の曰く、荀(まこと)に仁に志せば、悪しきこと無し。」(「論語」)

 その時の境地はと問われれば、
 「何等の穏当快楽ぞや。」と言う事に成り、
 その最高の状態はと問われれば、
 「自らの、手の舞、足の踏むを覚えざらん。知らず、天地の間、更に、何の楽しみの代わる可べきあらん」と言う事に成ります。

 しかしこうは言っても良知そのものの正体は中々分かりませんよね。
 良知の正体、それは無心、無垢、無我。
「無心と言うは、即ち妄想無き心なり。」
「夫(か)の無心なる者は真心なり、真心なる者は無心なり。」 
「爾我の無心は、木石に同じからず。何を以ての故ぞ。譬えば天鼓の如し、無心なりと雖復(いえど)も、自然に種々の妙法を出して衆生を教化す。又如意珠の如し、無心なりと雖復(いえど)も、善能(よ)く諸法実相を覚了し、真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し。」(「菩提達摩無心論」)

「良知は、夜気の発するにときに在っては、方に、是れ、本体なり。其の物欲の雑、無きを、以ってなり。」
「学者は、事物扮擾(じぶつふんそう)のときをして、常に夜気の如く、一般ならしむるを要す。」
「学者、良知を信じて、気の乱す所と為らずんば、便ち、常に、義皇以上の人と做(な)らん。(注:夜気清明の時、視ること無く、聴くこと無く、思うこと無く、作すこと無く、淡然として、平懐なるは、就(すなわ)ち、是れ、義皇の世界なり。)」

 皆様も良知を体感しているのです。
 王陽明はそれを夜気清明の時と喩えていますが、
 これでは中々理解しづらいと思います。
 私は休日の朝、ぐっすり眠れて、何の囚われも無く目覚めたその時と喩えます。
 何故ならその時には「視ること無く、聴くこと無く、思うこと無く、作すこと無く、淡然として、平懐」なのですから。
 その時の状態を一日中維持し続ける事の出来る人、その人を聖人と呼ぶのです。
 その時、皆様の心は漲っていましたよね。
 そしてこうも思いましたよね、何でも出来ると。
 「能く一日も其の力を仁に用いること有らんか、我れ未だ力の足らざるを見ず。」(「論語」)と。
 しかし皆様は次の次の瞬間には、もうこの世の囚われ人と成ってしまっているのですよね。
 悲しいですね。

 何故聖人はその心を一日中維持し続ける事が出来るのか。
 それは聖人が常に智慧を愛し続けているからです。
 智慧を愛し続けていれば、その時は常に「恍惚」なのですから。
 「恍惚」とは、「視ること無く、聴くこと無く、思うこと無く、作すこと無く、淡然として、平懐」なる状態を言うのです。
 そこに意志を投入すると愛が生まれる事に成るのです。
 智慧から愛へ、愛から智慧へ、そしてまた智慧から愛へ。
 これを連続して行っている人の事を聖人と呼ぶのです。
 その結果、国が治まり、天下は太平と成るのです。

「古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。
 その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。
 その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修む。
 その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。
 その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。
 その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致(きわ)む。
 知を致むるは物に格(いた)るに在り。
 物格りて后(のち)知至(きわ)まる。
 知至まりて后(のち)意誠なり。
 意誠にして后(のち)心正し。
 心正しくして后(のち)身修まる。
 身修まりて后(のち)家斉う。
 家斉いて后(のち)国治まる。
 国治まりて后(のち)天下平らかなり。」(「大学」)

 これこそが皆様哲学者(智慧を愛する者)の道です。
 すなわち聖人君子への道なのです。

 「古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する」
 すなわち、皆様が「千古聖伝の秘」である智慧を天下に明らかにしようとした時から、
 「哲学国家日本」への道が始まる事に成るのです。
 その全過程が、上記の大学の言葉です。
 もし皆様が古えの明徳を天下に明らかにせんと欲しようとした時、
 その力は如何程のものに成るのでしょうか。
 必ずや「家は斉い、国は治まり、天下は平らかに」成るのです。
 そしてその全過程において、皆様は「恍惚」で在り続けるのです。
 哲学が如何に素敵かお分かりに成りましたか。

 王陽明はこの哲学の力に依り、天下を治めようとしましたが、
 力足らざる事を知り、
 その意を皆様に託したのです。

「僕、誠に、天の霊に頼(よ)って、偶々(たまたま)、良知の学を見る有り。以為(おも)へらく、必ず、此に由って、而(しか)る後に、天下を得て、治べしと。是を以って、斯(こ)の民の陥溺を念(おも)う毎に、則ち、之が為に、戚然として、心を痛め、其の身の不肖を忘れて、此を以って、之を救わんことを思う。」
「幸いとする所は、天理の人心に在るや、終に泯(ほろぼ)す可からず所ありて、良知の明らかなること、万古一日なれば、則ち、其れ、吾が抜本塞源の論を聞けば、必ず惻然として悲しみ、戚然として痛み、憤然として起ち、沛然として江河を決するが若くにして、防ぐ可からざる所ある者あらん。夫の豪傑の士の、待つ所無くして興起する者に非ずんば、吾誰と興(とも)にか望まんや。」

 哲学には至福が伴います。
 どうか皆様も聖人君子への道を歩いて頂きたいと思います。
 なお伝習録には「良知」と言う言葉が山ほどに出て来ます。
 これを皆様自身で拾い出し、
 そして皆様の真心に従って整理し直して見て下さい。
 そうすれば皆様はまたも愕然とする筈です。
 私とはこんなに素晴らしい存在だったのかと。
 そこからもまた、皆様は聖人君子への道を歩む事に成るのです。

 皆様が古今東西の多くの聖人賢人を経巡り、
 そして智慧の同一性を見出した時、
 その時から皆様の智慧への信仰が生まれる事に成るのです。
 何故ならその智慧において、人類皆兄弟なのですから。
 その呼び名に囚われない事が大切です。


 次は老子です。
 老子は智慧を何と呼んだのでしょうか。
 そうですね、道でしたね。

「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。
 道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。
 其の中に象有り、恍たり惚たり。
 其の中に物有り、窈たり冥たり。
 其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。
 古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。
 吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」

 この老子の言葉は、
 今回の聖人賢人たちの旅の中で最も収穫のあったものの一つです。
 何故ならこの言葉に依って、
 智慧を余す所なく、表現する事が出来るからです。

「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。」
 愛は智慧に従う。
 『神は愛なり』
 ここにおいて、哲学(智慧を愛する事)の最終目標をずばり言い当てているのです。

「道の物為(た)る、惟(こ)れ恍、惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。其の中に象有り、恍たり惚たり。」
『恍惚』、この言葉に依って、老子は智慧と共に在る時の心の状態をずばり言い当てて呉れたのです

「其の中に物有り、窈たり冥たり。其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。」
 智慧の泉、打ち出の小槌。
 ここから皆様の智慧の言葉、真理の言葉が生まれて来るのです。
「爾我の無心は、木石に同じからず。何を以ての故ぞ。譬えば天鼓の如し、無心なりと雖復(いえど)も、自然に種々の妙法を出して衆生を教化す。又如意珠の如し、無心なりと雖復(いえど)も、善能(よ)く諸法実相を覚了し、真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し。」(「」)

「古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」
 何故皆様は聖人賢人の言葉を完全に理解する事が出来るのか。
 それはそれらの言葉が皆、皆様自身の真心に記された言葉たちだからです。

 「恍惚」においては、皆様と聖人賢人は何の違いも無くなるのです。
「聖人の気象は、何に由って、認めん。自己の良知は、原(もと)、聖人と一般なり。」
「盡(けだ)し、良知の人心に在るや、万古に亘り、宇宙に塞って、同じからざる無し。」
(「伝習録」)

 「恍惚」とは至福の事です。
 それは幸福×幸福×幸福×幸福・・・・・と言う風に表現出来ます。

 その恍惚(至福)こそが全ての根源なのです。
 ここから全てのものが生まれて行くのですが、
 その最初に生まれるのが、一と言う事に成るのです。
 「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。」
 その一が何かを問われれば、
 それが愛なのです。
 「神は愛なり」、智慧は愛なり。
 ここから全てのものが生まれて行くのです。
 これが全ての哲学宗教の根本原理であり、そしてその全体系です。

 皆様が「道」から始めれば、その世界は素晴らしいものです。
 「二」から始めれば、その世界はつまらないものです。
 「万物」から始めれば、皆様はこの世に翻弄される事に成ります。

「之を視れども見えず、名づけて夷(い)と曰う。
 之を聴けども聞こえず、名づけて希(き)と曰う。
 之を摶(さぐ)れども得ず、名づけて微(び)と曰う。
 此の三者は詰を致す可からず、故に混じて一と為す。其の上は皦(きょう)ならず、其の下は昧ならず。縄縄として名づく可からず、無物に復帰す。
 是を無状の状、無物の象と謂い、是を恍惚と謂う。
 之を迎うれども其の首(こうべ)を見ず、之に随えども其の後(しり)えを見ず。
 古の道を執りて、以て今の有を御す。能く古始を知る、是を道紀と謂う。」

 この恍惚が「古の道を執りて、以て今の有を御す」のです。
 そして「能く古始を」を教えて呉れるのです。
 ですから哲学の事を「道紀と謂う」のです。
 恍惚に在る時とは、道に在る時の事、それは智慧と共に在る時の事なのです。
 智慧と共に在る時、皆様は古今東西の聖人賢人の智慧を完全に理解する事が出来る様に成るのです。
 何故なら、その智慧において、皆様も古今東西の聖人賢人も皆、一緒だからです。

「道の道とす可(べ)きは、常の道に非ず。
 名の名づく可(べ)きは、常の名に非ず。
 無名は天地の始め、名有あるは万物の母。
 故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に欲有りて以てその徼(きょう)を観る。
 此の両者は同じきより出でて而(しか)も名を異にす。同じく之を玄と謂い、玄のまた玄、衆妙の門。」

 もし皆様が道と共に在れば、「其の妙」すなわち天国を見、
 もし皆様が道と共に無ければ、「其の徼」すなわち地獄を見るのです。
 「此の両者は同じきより出でて而(しか)も名を異にす」
 世界は一つでもそこには二つの世界が在るのです。
 いいえ、そこには人の数だけの世界が在るのです。

「道は沖にして之を用うれども或(つね)に盈(み)たす。淵として万物の宗に似たり。 其の鋭を挫(くじ)き、其の紛を解き、其の光を和らげ、其の塵に同じ、堪として或(つね)に存するに似たり。」
「道の口より出ずるや、淡乎(たんこ)として其れ味わい無く、之を視れども見るに足らず、之を聴けども聞くに足らず、之を用いて既(つく)す可からず。」
「道の常なるは無為にして、而も為さざる無し。侯王若し能く之を守らば、万物将に自ら化せんとす。」
「道の常は名無し。樸(はく)は小と雖も、天下に能く臣とする莫きなり。侯王も若し能く之を守らば、万物将に自ら賓せんとす。天地相和し、以て甘露を降し、民之に令する莫くして自ら均(ひと)し。」
「道は万物の奥なり。善人の宝、不善人の保(やす)んずる所なり。」
「古の此の道を貴ぶ所以の者は何ぞや。以て求むれば得、罪有るも以て免ると曰わずや。故に天下の貴為(た)り。」
「天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、召(まね)かずして自ら来る。 繟然(さんぜん)として善く謀る。天網恢恢、疏にして失わず。」

「仁に志せば、悪しきこと無し。」(「論語」)
 道に志せば、悪い事は何も無いのです。
「克己復禮を仁となす。一日、克己復禮すれば、天下仁に帰す。」
 克己復禮、その時の状態が「恍惚」。
 ですから、仁も道も同じ。
 仁と共に在る時、道と共に在る時、智慧と共に在る時、
 その時、世界がそれに帰すのです。
 それは仁も道も良知も智慧もそして神も同じ事。
 それはオールマイティ。
 道は皆様の悩みを洗い流し、皆様を幸福に導き、そして皆様に愛を漲らせるのです。
 そして皆様を聖人君子への道へと勧めるのです。

「道に従事する者は、道に同じ、徳なる者は徳に同じ、失なる者は失に同ず。
 道に同ずる者には、道も亦た之を得んことを楽(ねが)い、
 徳に同ずる者には、徳も亦た之を得んことを楽(ねが)い、
 失に同ずる者には、失も亦た之を得んことを楽(ねが)う。
 信足らざれば、信ぜられること有り。」
「天道親(しん)無く、常に善人に与(くみ)す。」

 皆様が道(智慧)を愛すれば、道(智慧)は皆様を愛し返して呉れるのです。
 道(智慧)は道(智慧)を愛する者と善人には限りなく優しいのです。
「四種の善行者が私を信愛する。すなわち、悩める人、知識を求める人、利益を求める人、知識ある人である。彼らのうち、常に専心し、ひたむきな信愛を抱く、知識ある人が優れている。知識ある人にとって私はこの上なく愛しく、私にとって彼は愛しいから。これらの人々はすべて気高い。しかし、知識ある人は、まさに私と一心同体出ると考えられる、というのは、彼は専心し、至高の帰趨である私に依拠しているから。」(「バガヴァッド・ギーター」)
「至高の帰趨である私」とは智慧の事です。
「わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。」(「箴言」)

 以上、老子の「道」に関する代表的な言葉を取り上げましたが、
 「道」に関する言葉はまだまだたくさんあります。
 と言うよりも『老子』それ自体全てが「道」に関する言葉です。
 どうか皆様も皆様自身で『老子』を読んで頂き、
 そして皆様のキーワードで整理して見て下さい。
 そうすればそこにもまた、本当の皆様自身を見出す筈です。
 そこからもまた、皆様の聖人君子への道が始まる事に成るのです。


 次はソクラテス=プラトンです。
 ソクラテス=プラトンは智慧を何と呼んだか、
 そうですね、知恵そのままにだったですよね。

「ところが、魂が純粋に自分だけで何かを考察する場合には、魂は、あの純粋で永遠で不死で不変な存在へとおもむき、そして、そのような存在と同族であるがゆえに、常にそれとともにあるのではないか、魂が純粋に自分だけとなり、そうなるのが可能であるかぎりはね。そして魂は、もはや、さまようことをやめ、あの真実在との関係にあってはつねに同一不変な状態を保つのではないか。なぜなら魂は、まさにそのような存在に触れているのだから。で、魂のこの体験こそ知恵と呼ばれるものではないか。」(プラトン「パイドン」)

 知恵とは何か、それは神と共に在る事。
 智慧の根源としての智慧と共に在る事。
 その時の境地は無心、無我。
 その時の感覚は『恍惚』。
 その時「魂が純粋に自分だけになる」
 そこから智慧と愛が溢れ出す。 
 その時、皆様は純粋に考える存在と成っているのです。

「こんなふうに、快楽と快楽、苦痛と苦痛、恐怖と恐怖を、まるで貨幣でもあるかのように、大きいのと小さいのを交換するのは、徳を得るための正しい交換とは言えないだろう。そうではなくて、われわれがこれらすべてをそれを交換すべきただ一つの真正な貨幣があるだろう。知恵こそ、それなのだ。そして、もしすべてがそれを得るために、あるいは、それを用いて売買されるなら、そのときこそ真の勇気、節制、正義、一言にしていえば真の徳が存在するのだ。真の徳は知恵を伴うのであて、快楽、恐怖、その他、すべて、そういうものが加わろうが、とり去られれようが、それは問題ではない。しかしこれらが、知恵からきり離されて、相互のあいだで交換されるなら、そのような徳は、いわばまさに絵に描いた餅にすぎないのであり、まさに奴隷の徳であり、なんらの健全さ真実も含まないであろう。真の徳とは、節制であり、正義であり、勇気であれ、すべて、そのような情念からの、まさに浄化(カタルシス)であって、知恵こそこの浄めの役を果たすのではないか。』」
「浄化(カタルシス)とは、さっきから論じられてきたように、魂をできるだけ肉体からきり離し、そして、魂が肉体のあらゆる部分から自分自身へと集中し、結集して、いわば肉体の縛めから解放され、現在も、未来も、できるだけ純粋に自分だけになって生きるように魂を習慣づけることを意味するのではないか」
「肉体のことだけに気をとられていないで、自分自身の魂のことを少しでも心にかかえて生きる人たちは、いま述べてきたような人たちのすべてに別れを告げるのだ。彼らは、自分たちがどこへ行くのかわかっていないような人たちとはたもとを分かち、みずから、哲学に反することはなずべきでないと、哲学の与える解放と浄化(カタルシス)に反することはなすべきでないという信念のもとに、哲学にしたがい、哲学の導くままに進んで行くのだ。」
「そして、われわれの言うところでは、魂の解放を最も熱望するのが真の哲学者であり、と言うよりも、彼らのみがそれを熱望するものであり、哲学者の仕事とはまさにそのこと、すなわち、魂の肉体からの解放にほかならない。そうではないか。」
「哲学者の魂は、いま述べたように考えるに相違ない。そして、魂の解放こそ哲学の仕事であるのに、その解放のさなかに自分を勝手に快楽や苦痛にゆだねてもう一度肉体に縛りつけ、せっかく織った布をまたほどくペネロペのように、実りなき仕事をしなければならぬなどとは、考えないだろう。いや、そういった情念にわずらわされない平和を得、思惟にしたがってつねにそのなかに休らい、真実なもの、神的なもの、たんなる憶測の対象でないものを見、それに養われて生きているかぎりこのように生きなければぬと考えるのだ。」(プラトン「パイドン」)

 皆様が智慧を愛すれば愛するほど、皆様の魂は浄化されて行きます。
 その行き着いた所が、恍惚の地です。
 この恍惚の地こそが、真の徳(勇気、忍耐、節制、寛容等々)が生まれる場所なのです。
 この恍惚の地こそが、愛の発祥の地なのです。
 「神は愛なり」、智慧は愛なり、愛は恍惚なり。
 愛とはこの恍惚を分かち合う事なのです。

「自分自身へと集中し、結集し(中略)純粋に自分だけになる」
 この時、本当の自分自身に成るのです。
 ここが恍惚の地です。
 この恍惚の地から、本当の愛が生まれるのです。
 イエス、ブッダ、ソクラテス、孔子等々、
 彼らは皆、この恍惚を体感したのです。
 そしてこの恍惚の地からこの世に出て行ったのです。
 イエスはこの恍惚の地からこの世に出て行く時、こう宣言しました。
 「天の国は近づいた」と。
 何故ならイエスはこの恍惚の地、すなわち天の国を体感したのですから。
 そしてこう皆様にも宣言したのです。
 皆様にもその恍惚の地は近い、と。

「そういった情念にわずらわされない平和を得、思惟にしたがってつねにそのなかに休らい、真実なもの、神的なもの、たんなる憶測の対象でないものを見、それに養われて生きる。」
 これこそが聖人君子たちの天の国です。
 そこには本当の自分自身に成った者だけが入る事が出来るのです。

「学を愛する人たちは、次のことに気づくのだ。哲学が自分たちの魂をあずかろうとするばあい、魂はどうしようもないほどに肉体に縛りつけられ、膠着させられてしまっており、事物を考察するにも、まるで牢獄の格子をとおしてのように、肉体をとおして見ることを余儀なくされ、自分たちだけでは自由に見ることができずに、そのため、まったく無知のなかに落ちこんでいるということに。そして哲学は、この肉体という牢獄の巧妙さを知っているのだということにね。この牢獄は人間の肉体的欲望を利用することによって、とらわれている者自身がすすんで自分を束縛することに、できるだけ協力するような仕組みになっているのだ。こうしてぼくの言うように、学を愛する人たちは気づくのだ、哲学こそはそのような状態にある自分たちの魂をとりあげて、やさしく慰め、その解放に努力してくれるものだということに。哲学は、肉眼による考察も、耳も他の感覚による考察も、すべて偽りにみちたものであることを示して、どうしてもそれらの感覚を使わなくてならないばあいは以外はそれらから離れているようにと説得する。そして、魂が自分自身に集中し、沈潜して、自分自身以外の何ものも信頼せず、純粋に自分自身で純粋な「そのもの」を直観したときにだけこれを信じて、これに反してさまざまな事物のなかにあって異なった形をとるものを、自分以外のものを用いて考察するばあいには、そのような対象をけっして真実なものであるとしてはならぬ、そのようなものは感覚的な可視的なものであり、それに対し、魂が自分だけで見るものが叡智的な不可視的なものだと、教えてくれる。こうして真の哲学者の魂は、このような解放に対してけっして反対すべきではないと考え、そのゆえに、快楽や欲望や苦痛からできるかぎり離れるのだ。」(プラトン「パイドン」)

 哲学は、
 「魂が自分自身に集中し、沈潜して、自分自身以外の何ものも信頼せず、純粋に自分自身で純粋な「そのもの」を直観したときにだけこれを信じる」と言う事や、
 「魂が自分だけで見るものが叡智的な不可視的なものだ」と言う事等々を、
 教えて呉れるのです。
 「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」「ごらんなさい。賢者がどんなふうに自分自身に満足しているかを。」(セネカ「道徳書簡集」)
 「自分の本性に適したものによって満たされることが快であるとするならば、より本当の意味で満たされ、そしてよりすぐれて存在するものによって満たされるものは、より本当の意味で、またより真実の仕方で、われわれに真実の快楽を楽しませるのだということになる。」(プラトン「国家」)
 哲学の究極の目的、それは本当の自分自身に成る事です。
 本当の自分自身、本当の私とは何者か。
 それは無心、、無我の境地、すなわち『恍惚』の中で純粋に考える私の事です。

「無心と言うは、即ち妄想無き心なり。」
「夫(か)の無心なる者は真心なり、真心なる者は無心なり。」 
「爾我の無心は、木石に同じからず。何を以ての故ぞ。譬えば天鼓の如し、無心なりと雖復(いえど)も、自然に種々の妙法を出して衆生を教化す。又如意珠の如し、無心なりと雖復(いえど)も、善能(よ)く諸法実相を覚了し、真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し。」
「和尚、又告げて曰く、諸の般若の中、無心般若を以て最上と為す。」(「菩提達摩無心論」)

「ところが真に知恵を愛し、ハデスにおいて、しかも、そこにおいてのみ、知恵に正々堂々と会えるという、同じ希望をもっている人が、死にのぞんで嘆き、あの世へ行くのを喜ばないなんてありうることだろうか。なぜなら、あの世以外のところでは決して純粋な知恵に到達しえぬことを、彼は確信しているのだから。」
「何かを純粋に見ようとするなら、ものそのものを見なければならぬということは、われわれには明白な事実なのだ。そしておもうに、そのときにこそ、われわれが求めあこがれている知恵が、われわれのものになりうるのだ。ぼくたちの議論が示すように、それは死んでからであって、生きているうちには不可能なのだ。」
「魂が清浄な状態で肉体を離れる場合を考えてみよう。この魂は肉体的なものは何一つ、ひきずっていない。これは、魂が一生のあいだ、自分からすすんで肉体と協同したことはなく、肉体を避けて、自分自身に集中してきたからであり、このことをいつも練習してきたからである。これこそ、真に哲学することであり、真の意味で平然と死ぬことを練習することにほかならない。」
「神々の種族へは、哲学を学んで、まったく浄らかなさまで世を去った者以外は、入ることを許されない。学を愛する者のみがそれを許されている。」
「彼ら自身のうち、とくに哲学によってじゅうぶんに身を浄めた人たちは、以後はまったく肉体なしに生き、ほかの人たちよりもいっそう美しい住家いたるのだ。」(プラトン「パイドン」)

 ソクラテス=プラトンは、純粋な智慧には、あの世でしかお目にかかれないと言っています。
 私もそうだと思います。
 尤もソクラテス=プラトンが言うあの世とは、死後の事を言っている様ですが、
 私の言うあの世とは、そうではありません。
 私の言うあの世とは、この世に死んだ時の事、
 すなわちこの世の煩いを一切捨て去った時の事、
 すなわち「無心と言うは、即ち妄想無き心なり」の時の事です。
 ここに天の国が生まれる事に成るのです。
 イエスは何と言ってこの世に出て行ったのでしょうか。
 「天の国は近づいた」ではなかったですか。

「ひとりひとりの人間がもっているそのような機能と各人がそれによて学び知るところの器官とは、はじめから魂のなかに内在しているのであって、ただそれを――あたかも目を暗闇から光明へ転向させるには、身体の全体といっしょに転向させるのでなければ不可能であったように――魂の全体といっしょに生成流転する世界から一転させて、実在及び実在のうち最も光り輝くものを観ることに堪えうるようになるまで、導いていかなければならないのだ。そしてその最も光輝くものというのは、われわれの主張では善にほかならぬ。そうではないか?」
「ただし、これが真実にまさしくこのとおりであるかどうかということは、神だけが知りたおうところだろう。とにかくしかし、このぼくに思われるとおりのことといえば、それはこうなのだ――知的世界には、最後にかろうじて見てとられるものとして、善の実相(イデア)がある。いったんこれが見てとれたならば、この善の実相こそはあらゆるものにとって、すべて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ、考えが至らなければならぬ。すなわちそれは、見られるものの世界においては、光と光の主を生み出し、思惟によって知られる世界においては、自ら主となって君臨しつつ、真実性と知性とを提供するものであるのだ、と。そして、公私いずれにおいても思慮ある行いをしようとする者は、この善の実相をこそ見なければならぬ、ということもね。」(プラトン「国家」)

 これは「国家」におけるソクラテス=プラトンの智慧の概念です。
 ここにおける智慧の概念とは「善」です。
 その「善」とは如何なるものか。
 それは「光輝くもの」であり、
 「光と光の主を生み出すもの」であり、
 「自ら主となって君臨しつつ、真実性と知性とを提供するもの」です。
 そしてそれは何処に存在しているかと言えば、
 「はじめから魂のなかに内在している」のです。
 これまで見て来た聖人賢人たちの智慧と何か違う所があるでしょうか。
 何の違いもありません。
 「霊は生かすが、文字は殺す」
 文字に囚われない事が大切です。
 比喩を読み取る力が大切です。

 ソクラテス=プラトンは膨大な著書を残しています。
 何処の図書館にも「ソクラテス=プラトン全集」があります。
 どうか図書館に籠って、
 智慧に関する言葉を拾い出し、
 そして皆様のキーワードに従って整理し直して見て下さい。
 そうすれば皆様はまた愕然とする筈です。
 私とはこんなにも素晴らしい存在だったのかと。
 そこからもまた、皆様の聖人君子への道が始まる事に成るのです。

「何故なら、僕は、哲学こそ最高の文芸(ムーシケー)であり、僕はそれをしているのだ、と考えていたからである。」(プラトン「パイドン」)

 哲学は最高の文芸である。
 哲学は最高の芸術である。
 哲学とは皆様の智慧を最高に輝かす事以外の何物でもないのです。
 それが何かと問われれば、
 それは『愛』です。
 皆様の智慧が最高に輝いた時、皆様の愛が最高に輝くのです。
 「神は愛なり」、「智慧は愛なり」。
 そこを目指して歩む事、
 それが聖人君子への道です。

 なお聖人君子への道には報酬が伴います。
 その報酬が何かと問われれば、
 ソクラテス=プラトンの言葉を借りれば「快楽」です。

「真実在の観得がどのような楽しみをもたらすかということは、知を愛する人をのぞいて、他の誰も味わうことができません。」
「知を愛する人間は、真理がいかにあるかを知ることの快楽や、学びながらつねいそのような営為のうちにあることの快楽に比べて、その他の快楽をどのように評価するとわれわれは考えるべきだろうか。はるかにかけ隔たったとみなすのではなかろうか?」
「魂の全体が知を愛する部分の導きに従っていて、そこに内部分裂がないような場合には、それぞれの部分は、一般的に他の事柄に関しても、自己自身の仕事と任務を果たしつつ、正しくあることができるとともに、とくに快楽に関しても、それぞれが自己の本来の快楽、最も優れた快楽、そして可能のかぎりで最も真実な快楽を享受することができるのだ。」
「自分の本性に適したものによって満たされることが快であるとするならば、より本当の意味で満たされ、そしてよりすぐれて存在するものによって満たされるものは、より本当の意味で、またより真実の仕方で、われわれに真実の快楽を楽しませるのだということに
なる。」(プラトン「国家」)


 次はエピクロスです。
 エピクロスは智慧を何と呼んだか。
 知恵もしくは知慮と呼んでいます。

「人はだれでも、まだ若いからといって、知恵の愛求(哲学)を延び延びにしてはならず、また年取ったからといって、知恵の愛求に倦むことがあってはならない。なぜなら、なにびとも、霊魂の健康を得るためには、早すぎるも遅すぎるもないからである。また知恵を
愛求する時期ではないだの、もうその時期が過ぎ去っているのだという人は、あたかも、幸福を得るのに、まだ時期がきていないだの、もはや時期ではないのだという人と同様である。それゆえ、若いものも、年老いているものも。ともに、知恵を愛求せねばならない。年老いたものは、老いてもなお、過去を感謝することによって、善いことどもに恵まれて若々しくいられるように、若いものはまた、未来を恐れないことによって、若くして同時に老年の心境にいられるように。そこでわれわれは、幸福をもたらすものどもに思いを致せねばならない。幸福が得られていれば、われわれは全てを所有しているのだし、幸福が欠けているなら、それを所有するために、われわれは全力を尽くすのだから。」(エピクロス「メノイケウス宛の手紙」)

 哲学、すなわち知恵の探求は、
 若い人を老年の心境に導き、
 老いた人々を若くするのです。
 そして更に人々を幸せへと導くのです。
 哲学とは何と言う素晴らしい学問でしょう。
 もう皆様は、哲学に一生を捧げる準備は出来ましたか?

「ところで、これらすべての始源であり、しかも最大の善で在るのは、思慮である。(中略)思慮からこそ、残りの徳のすべては由来しているのであり、かつ、思慮は、思慮ぶかく美しく正しく生きることなしには快く生きることもできず、快く生きることなしには思慮ぶかく美し正しく生きることもできない、と教えるのである。というのは、残りの徳はみな快く生きることと由来をともにしているのであり、快く生きることは、それらの徳から離すことができないからである。」

「思慮ぶかく美しく正しく生きることなしには快く生きることもできず、快く生きることなしには思慮ぶかく美し正しく生きることもできない。」

「思慮ぶかく生きる」すなわち智慧と共に生きると言う事と、
「美しく正しく生きる」すなわち愛に生きると言う事と、
「快く生きる」すなわち至福の中に生きると言う事とは同じなのです。
思慮ぶかく美しく正しく快く生きる、ここにエピクロスの快楽主義の原点があるのです。

「それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、――一一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとはちがって、――道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(霊魂の平静)ことにほかならない。」
「けだし身体の健康と心境の平静こそが祝福ある生の目的だからである。なぜなら、この目的を達するために、つまり、苦しんだり恐怖をいだいたりすることがないために、われわれは全力をつくすのだからである。ひとたびこの目的が達せられると、霊魂の嵐は全くしずまる。そのときにはもはや、生きているものは、何かかれに欠乏しているものを探そうとして歩きまわる必要もなく、霊魂の善と身体の善を完全に満たしてくれるようなものを何か別に探し求める必要もないのである。なぜなら、快が現に存しないために苦しんでいるときにこそ、われわれは快を必要とするのであり、苦しんでいないときには、われわれはもはや快を必要としないからである。まさにこのゆえに、われわれは、快は祝福ある生の始めであり終りである、と言うのである。というのは、われわれは、快を、第一の生れながらの善と認めるのであり、快を出発点として、われわれは、全ての選択と忌避をはじめ、また、この感情を規準として全ての善を判断することによって、快へと立ち帰るからである。」(以上エピクロス「メノイケウス宛の手紙」)
「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福にかけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。」(エピクロス「断片」)

「肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(霊魂の平静)こと」
 これがエピクロスの快楽主義に原点です。
 エピクロスの快楽は実に簡単に手に入るのです。
 先ずは「肉体において苦しみのないこと」、これは実に簡単にクリア出来ますよね。
 何故なら肉体の要求は「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと」なのですから。
 次に「霊魂において乱されない(霊魂の平静)こと」、これも簡単な事ですよね。
 哲学、すなわち智慧を愛し抜けば恍惚に至るのですから。
 もう皆様はエピクロスの快楽を手に入れたのです。
 そしてそれは世界共通の快楽(恍惚)なのです。
 エピクロスの快楽主義の人気のある理由。
 それは、世界共通のその快楽を実に簡単に手に入れる事が出来るからなのです。

 「快は祝福ある生の始めであり終りである。」
 「快を出発点として、われわれは、全ての選択と忌避をはじめ、また、この感情を規準として全ての善を判断することによって、快へと立ち帰る。」
 哲学に依る『恍惚』、
 これを体感出来る様に成れば、この言葉の意味が良く分かる様に成ります。
 何故なら全ての善は、この恍惚(至福)の中から生まれて来るのですから。

「さて、わたしが君にたえず説き勧めてきたことを、それこそが美しく生きるための基本原理であると理解しておこなうべきである。先ず第一に、神について共通な観念として人々の心に銘さているとおり、神は不死で至福な生者である、と信じ、神の不死性に縁遠いものや、至福性に不似合なものを神におしつけることなく、かえって、神の至福性と不死性とを保持することのできるものをことごとく、神のものと考うべきである。」(エピクロス「メノイケウス宛の手紙」)

「われわれの探し求むべきものは何かと言うに、それは抵抗し得ざる或る力の支配を毎日受けないもののことです。それは何でしょう。それは心ですが、それは正しい、善い、大きな心のことです。この心を、人間の肉体に宿る神という以外に何と呼ぶでしょうか。」
「では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。」(セネカ「道徳書簡集」)

 賢者とは如何なる人の事を言うのか。
 「それは神を作るもの」です。
 「神の至福性と不死性とを保持することのできるものをことごとく、神のものと考うべきである。」その様にして神を作る者の事を賢者と言うのです。

 神とは全人類における先取概念です。
 何故ならそれは「善」なのですから。
 この善を大きなものとして育てる、
 それが「神を作る」と言う事なのです。
 皆様の心がより大きな善で満たされれば、
 皆様はどの様な幸福感で満たされる事に成るのでしょう。
 それこそが正に、天にも昇る気持ちなのです。

「真の哲学への愛によって、平静な心境を乱すやっかいな欲望は、ことごとく解消される。」
「最大の善については、それが生じるのと、われわれがそれを楽しむのとは、同じである。」
「その他の仕事の場合には、それが完了したときに、はじめて成果が得られるのであるが、哲学研究の場合には、その喜ばしさは、認識のすすむのといっしょに進む。というのは、学び知ったのちに楽しさがあるのではなくて、学び知ってゆくことと楽しさが同時的だから。」(以上エピクロス「断片」)

 哲学は、
 皆様の魂を浄化し、
 そして皆様を至福(恍惚)へと導いて呉れるのです。
 哲学は何と言う素敵な学問なのでしょうね。
 
「人間のどんな悩みをも癒さないようなあの哲学者の言説はむなしい。というのは、あたかも、医術が身体の病気を追い払わないならば、何の役にも立たないように、そのような哲学も、もし霊魂の悩みを追い払わないのならば、何の役にも立たないからである。」(エピクロス「断片)」)

 哲学は皆様の魂を徹底的に浄化して呉れるのです。
 哲学以外に皆様の魂を浄化して呉れるものは何も無いのです。
 何故哲学が皆様の魂を浄化して呉れるのか。
 それは哲学が皆様を本当の自分自身に導いて呉れるからに他ならないからです。
 皆様が本当の自分自身に成った時、その時が至福の時です。
 そこには何の煩いもありません。
 何故ならそこにおいては、何処までも何処までも自分が自分だからです。
 それを完全なる自由と呼んでも良いと思います。

「自己充足を、われわれは大きな善と考える。」(エピクロス「メノイケウス宛の手紙」)
「自己充足は、あらゆる富のうちの最大のものである。」
「自己充足の最大の果実は自由である。」(以上エピクロス「断片」)

「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」「ごらんなさい。賢者がどんなふうに自分自身に満足しているかを。」(セネカ「道徳書簡集」)
「ほんとうに存在するものによって自分を満たす。」「自分の本性に適したものによって満たされることが快である。」(プラトン「国家」)

 何故賢者は自分自身に満足しているのか。
 それは心に何の煩いも無く、
 そしてより大きな心で満たされているから。
 この心は無限大です。
 この心を何処まで伸ばせるか、そこに聖人君子への道が在るのです。

「わずかなもので十分と思わない人、すくなくともこのような人には、十分なものは存しない。」
「これらのものの欠けていることが苦痛なのではなく、むしろ、むなしい臆見によって無益な苦痛のもたらされることが、苦痛なのである。」
「自然の目的にかんして貧しく、むなしい臆見にかんして富んでいる人を見出すのが、普通である。というのは、愚かな人は、だれも、もっているもので満足せず、むしろ、持っていないもののために苦しんでいるからである。」
「ひとは、恐怖のために、あるいは際限のないむなしい欲望のために、不幸になる。」
「君が途方にくれてこまっているかぎり、それは、君が自然を忘却しているからでる。というのは、君は自分でわざわざ不確定な恐怖と欲望を作り出しているのだから。」(以上エピクロス「断片」)

 もし皆様が苦悩の中に居たら、
 哲学、すなわち智慧を愛して下さい。
 そうすれば皆様の魂は浄化されます。
 そこにおいては、皆様にはこの世の煩いが無くなります。
 そこから皆様の聖人君子への道、
 すなわち「神を作る」作業が始まる事に成るのです。
 
「われわれの生れたのは、ただ一度きりで、二度と生まれることはできない。これきりで、もはや永遠に存しないものと定められている。ところが、君は、明日の主人でさえないのに、喜ばしいことをあとまわしにしている。人生は延引によって空費され、われわれはみな、ひとりひとり、忙殺のうちに死んでゆくのに。」(エピクロス「断片)
「若いものには、美しく生きるように、また、年老いたものには、美しく生を終えるように、と説き勧める人は、ばかげている。なぜなら、生きるということがそれ自体好ましいものだからであるばかりでなく、美しき生きる習練とと美しく死ぬ習練とは、ひっきょう、同じものだからである。」
「それゆえ、以上のこと、そのた同類のことについて、君は、自分ひとりで、また、同好の友といっしょに、昼も夜も、思いをいたすべきである。そうすれば、君は、目覚めているときも眠っているときも、決して霊魂の動揺することなく、人間のあいだで神のごとく生きることになろう。なぜなら、不死なる諸善のただなかで生を送る人間は、可死的な生をもつものとは、いささかも、似るとろこがないからである。」(以上エピクロス「メノイケウス宛の手紙」)

「人間のあいだで神のごとく生きる」
 これこそ聖人君子への道です。
 とても難しそうに見えますが、とても簡単なのです。
 その極意はと言うと、次の通りです。
「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福にかけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。」

 「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと」この肉体の要求を満たしてやれば、
 皆様にはゼウスへの道が広がっているのです。

「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福にかけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。」
 この言葉こそが、エピクロスの智慧の極言だと思います。

 以上とても簡単ですが、これでエピクロスを終わります。
 エピクロスの著作はほとんど残っていません。
 岩波文庫の『エピクロス』に、現存するエピクロスほとんどの著作が網羅されているとの事です。
 どうか『エピクロス』を丸ごと読み、
 エピクロスの智慧の言葉を拾い出し、
 そして皆様のキーワードに従ってその智慧を整理して見て下さい。
 そうすればそこにもまた、皆様の聖人君子への道が見えて来ると思います。


 次はセネカです。
 セネカは智慧を何と呼んだのか。
 そうですね。英知でしたね。

 セネカは英知(智慧)を愛する事、すなわち哲学を高らかに叫び、
 本当の自分自身に成る事を高らかに叫び、
 神に倣う事を高らかに叫び、
 そして愛(徳)を高らかに叫んだのです。

 そして本当の自分自身と智慧と神と愛とが同じものであると言う、
 哲学の奥義を私たちに示して呉れたのです。

【哲学の目的、それは皆様を神に倣わせる事】
「『この道は天の星に通ずるや。』実際、哲学が僕に約束しているのは、僕を神に匹敵させることです。このために僕は招かれ、このために僕は来たのです。哲学よ、約束を守ってください。」
「精神のすべてを哲学に向け、その足下に座しそれを敬慕しなさい。すると、大きな間隔が君と他人との間に出来るでしょう。あらゆる人間どもを君は遥か遠くに追い越すでしょう。いや、神々でさえも君をそれほど遠くに追い越していないでしょう。」

 哲学は皆様を神様に匹敵させる為にこそあるのですね。
 それは言葉を換えれば、聖人君子への道です。

【哲学の力は強力】
「哲学の力は信じられないほど強力です。哲学の体の中には如何なる矢も刺さっていません。守りが固く、何ものをも突き通せないからです。哲学は或る矢の力は弱め、軽い矢でもあるかのごとく、自分の着物のゆったりとした襞でこれを避けるし、また或る矢は追い払い、それを射た者の方へそれを投げ返すのです。」
「われわれは哲学で周りを囲まねばなりません。それは奪取し難い城壁で、運命がそれを沢山の兵器を持って攻撃しても越えられません。」
「しかるに生活の技術を教えると自ら称するもの(哲学)は、如何なる状況によってもその働きを禁じられることはありません。なぜなら、それらはもろもろの妨害を打ち砕き、もろもろの障害を突破しているからです。」

「哲学の力は信じられないほど強力なのです」
 ダビデの智慧(主)の事を彷彿させますね。
 それから孔子の智慧(仁)の事も。「能く一日も其の力を仁に用いること有らんか、我れ未だ力の足らざるを見ず。」
 更にはこれまで見て来た聖人賢人たちの智慧の事も。
 セネカはこの力を信じて聖人君子への道へと進めと、私たちに勧めるのです。

【哲学は皆様を癒し、そして元気づける】
「哲学が至る所でわれわれをどれほど励ましてくれるか、またキケロの言葉を借りれば、哲学は最大の事柄において如何にわれわれを助け、同時に最小の事柄にまでも降ってくるかを、君はまだご存知ないのです。どうか僕を信じ、哲学を相談相手に招きなさい。」
「君に出来る限り、哲学に戻るべきです。哲学はその胸に君を抱いて保護するでしょう。」
「僕が立ち上がり、回復したのは一に哲学の賜だと思います。僕の生は哲学のおかげであり、しかも偏に哲学のおかげです。」
「『君は哲学に仕えねばならぬ――真の自由が君に与えられるために。』哲学に自己を委ね託する者は拘留されることはありません。彼は直ちに釈放されます。というのは、哲学に仕えることそれ自体が、自由だからです。」
「『道は力で作られる。』そして、この道を君に与えるのは哲学でしょう。哲学の勉強に没頭しなさい――もし君が健康であり、心配がなく、幸福で有る事を望むならば。要するに、もし君が自由であること――これが最も重要なことですが――を望むならばです。これに到達するためには他の方法はありません。」
「ところで、われわれを目覚ますのは哲学だけでしょう。これのみが深い夢を振り払うでしょう。哲学に君のすべてを捧げなさい。君は哲学に適していますし、哲学も君に適しています。互いに抱き合ってください。」
「死の影が見えてきても、哲学は人を晴れやかにし、肉体がどんな状態にあっても人を強くし、かつ喜ばしく、またたとえ肉体は衰えても、人を衰えさえることはありません。」
「他の薬は健康になってからの楽しみですが、哲学という薬は健康によいと同時に美味でもあります。」
「ローマの古い習わしで、現にわれわれの時代まで残っているものですが、手紙の始めに「貴下ますますお元気の段大慶に存じます。当方も元気に過ごしております。」という言葉を付けることです。われわれなら「貴下ますます哲学に御精進の段大慶に存じます」と付けるのが正しいでしょう。つまり「元気」というのは全くこういう意味ですから。哲学することがなければ心は病んでいるのです。」
「無知は低級なものであり、卑しく、下品で、卑屈で、様々な欲情、しかもきわめて残酷な欲情のとりこになります。このよう大変酷い主人であるもろもろの欲情は、時には交互に、また時には一緒になって命令を下しているのですが、それらを君から解き離すものは英知で、これのみが真の自由です。」

 哲学は、皆様を励まし、皆様の相談相手になり、皆様を抱き、皆様を保護し、皆様を立ち上がらせ、皆様に自由を与え、皆様を幸福に導き、皆様を目覚まし、皆様の心を晴れやかにし、皆様の心を健康にし、皆様を元気にし、そしてあの残酷無比な欲情から皆様を解き放って呉れるのです。
 哲学とは何と素晴らしい学問なのでしょう。
 皆様はもう、本腰を入れて哲学を学ぶ準備は出来ましたか。
 哲学は先ずは皆様の魂を浄化し、
 そして皆様を聖人君子への道へと導いて呉れるのです。

【哲学とは智慧(神)を愛し、そして隣人を愛する事】
「哲学の唯一の任務は、神および人間の事柄について真実を発見することです。哲学からは宗教心も義務感も正義感も離れませんし、その他、もろもろの徳が組み合わさり互いに密着し合っている一団の全体も、哲学から離れません。哲学がわれわれに教えているのは、神々のことを崇め尊び、人間的なことを愛することです。」

「哲学がわれわれに教えているのは、神々のことを崇め尊び、人間的なことを愛することです」

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
  これが最も重要な第一の掟である。
  第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
  律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)

 これこそが全ての哲学宗教の基礎の基礎です。
 「あなたの神である主」とは皆様の智慧の事です。
 皆様の智慧を愛し、皆様の隣人を愛す、これが全ての哲学宗教の基礎の基礎です。

【智慧と愛が一つに成る、これこそが哲学の完成、それは「神は愛なり」と同じ事】
「哲学が教えるのは行うことであって、語ることではありません。哲学が要求するのはこういうことです――各人は自己の方式に則って生活すること、言うことと生活が矛盾しないこと、更に、内なる生活そのものが自己のあらゆる行為と一つであって、色の違いがないことです。」
「哲学の進歩は通俗的な技巧ではなく、みせびらかすために用意されたものでもありません。言葉ではなく、内実が問題です。何かの慰安で一日を費やし、暇な生活から退屈を取り除くために利用されるものではありません。それは心を形づくり、精巧に仕上げます。生活を秩序だて、行動を規定し、為すべきことと為すべからざることを教えます。操縦席に座って、荒波に揺れる不安のなかに進路を開いてくれます。」
「君は哲学を心の底に沈め、君の進歩の証拠を単に言うことや書く物だけでなく、君の精神の強固さと、欲望の減少とをもって受け取るように勧めます。君の言葉を君の行為によて証明してください。」
「英知の最高の義務と証拠は、言葉と行動が調和を保つことであり、自己が何処においても自己自身と同等であり同一であることです。」

「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(「マタイ福音書」)

 自らの心が自らに命ずる事を、その命ずるままに行う。これが愛です。
 これこそが「神は愛なり」の起源なのです。
 「自己が何処においても自己自身と同等であり同一である」
 これが皆様の完成された姿であり、皆様が求める聖人君子像です。
 そのひな形をイエスに求める事はとても素敵な事です。

【哲学は人を高貴にする】
「善良な精神は、すべての人に開かれています。これに従えばわれわれはすべて高貴です。何人をも退けず、また選ばないのが哲学です。哲学はすべての人間に輝きます。」
「もし哲学に何か善いことが別にあるとすれば、家柄を問わないことです。人間は誰でも、最初の起源に戻れば、みな神々から発しています。」
「哲学者たちの一覧表を手に取ってごらんなさい。そうすること自体が君を強いて目覚めさせるでしょう――なんと多くの人たちが、君のために骨折っているかを見るならば。君も彼らの中の一人でありたいと熱望するでしょう。なぜなら、高貴なものに駆り立てられる最も善いものを、それ自らの中にもっているのは高邁な精神ですから。」

 皆様は皆、高貴で高邁です。
 何故なら、皆様は智慧を知り、神を知り、愛を知り、そして本当の自分自身を知っているのですから。
 「高貴なものに駆り立てられる最も善いもの」
 これこそが、智慧であり、愛であり、神で在あり、本当の自分自身の事なのですが、
 老子はそれを道と呼び、孔子はそれを仁と呼び、イエス、ダビデはそれを主と呼び、ソロモン、ソクラテス=プラトン、セネカ、エピクロス、王陽明等々はそれを智慧を呼びました
 それこそが皆様に取って最高最善のものなのですが、
その奥義が何かと問われれば、それが『恍惚』と言う事に成るのです。
 何故なら、この恍惚から全ての善きものが生まれるのですから。
 「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。其の中に象有り、恍たり惚たり。其の中に物有り、窈たり冥たり。其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」(「老子」) 

【哲学は一生の仕事、手を休めてはならない】
「暇になったとき哲学の勉強をするのではいけません。他のことはすべてなおざりにしても、哲学には仕えなければなりません。哲学のためには、どんなたくさんの時間があっても多過ぎることはありません――たとえ少年期から、人間の寿命の最大限まで命が延ばされたとしても。」
「哲学は暇つぶしにやるものではなく、常にやるべきものです。それは女主人であって、それに近付くことを命じます。」
「哲学の勉強を放棄するといっても、あるいは中止するといっても、大した違いはありません。それは中断されたところに留まるのではなく、あたかもぴんと張られたものが切れるように、忽ちその始めにまで戻ります。連続が断たれたからです。」

 哲学とは智慧と愛を学ぶ事。
 それは皆様が皆様を生んでから、皆様が死ぬまでの一生の仕事です。
 皆様が皆様を生む?
 イエスは十二歳で自らを生み、
 孔子は十五歳で自らを生みました。
 それは彼らが本当の自分自身に目覚めた年の時の事。
 皆様は何時、本当の自分自身に目覚めましたか?
 ひょっとしたら、皆様は未だ目覚めていないのでは無いですか?
 もしそうであるとすれば、皆様は未だ本当の自分自身を生きていないのです!

 もし皆様が皆様自身を心から本当に素晴らしい存在だと言い切る事が出来れば、
 皆様は本当の自分自身を生きています。
 しかしそうでなければ、皆様は未だ皆様を生んでさえいないのです。

【智慧(英知)と哲学の関係について】
「英知と哲学はどこが違うかを申しましょう。英知は人間精神の完全な善です。哲学は英知への愛であり、またそれへの渇望です。哲学は、英知がすでに達したところに達しようと努めます。哲学がそう呼ばれる理由は明らかです。つまり哲学はその名称そのものによって、その愛の対象を表しているのです。」
「哲学と英知の間には何らかの相違があることは、ほぼ確定しています。なぜなら、求められるものと求めるものが同じになることは不可能だからです。貪欲と金銭の間には大きな相違があります――前者は願い求め、後者は願い求められるものだからです。それと同じような相違が哲学と英知の間にもあります。つまり後者は前者の結果であり報酬です。哲学は道を行き、英知は道の終わりです。」
「英知は大きく、かつ広いものです。それには自由な場が必要です。神的なことも人間のことも学ばねばなりません。また過去のことも未来のことも、束の間のことも永遠のことも、また時間のことも。」
「英知の勉強に努めないならば、幸福に生きることも、あるいは生きることに我慢さえ出来る者はありません。」
「しかもなお唯だ一つの真に自由な勉強があります。すなわち自由を創造する勉強です。それは英知に関する勉強であり、崇高で、強力で、しかも雅量のある勉強です。」
「英知は幸福な状態に向かって進み、それに向ってわれわれを導き、それに向って道を開きます。」
「英知は平和を愛し、人類を和合に呼び寄せるのです。」
「僕にとっては英知を熟考すること自体は、いつも多くの時間を奪い取ります。僕はそれを呆然として眺めますが、正に天空を眺める時と少しも変わりません。」
「英知の結果はこれ、すなわち喜びが常に一様である。」

「哲学は道を行き、英知は道の終わりです」

 哲学とは智慧(英知)を愛する事。
 人は何故智慧(英知)を愛するのか。
 それは智慧(英知)に依って、
 人が幸福に成り、自由に成り、喜びに満たされる事に成り、
 更には、人類に平和と和合を齎す事に成るからなのです。

 智慧とは何と言う素晴らしい存在なのでしょう。
 古今東西の聖人賢人たちが、どうしてその様に智慧を熱く求めたか、
 良く分かりますよね。
「僕にとっては英知を熟考すること自体は、いつも多くの時間を奪い取ります。僕はそれを呆然として眺めますが、正に天空を眺める時と少しも変わりません。」
 カントも同じ様な事を言っています。
「ここに二つの物がある、それは――我々がその物を思念すること長くかつしばしばなるに連れて、常に思いいや増すところなく充足する、すなわち私の上なる星をちりばめた空と私のうちなる道徳法則である。」(カント「実践理性批判」結論)
「我が上なる星空と我が内なる道徳律」に思いを寄せる時、○○と成る。
 道徳律と英知とは一緒です。

【愛こそすべて、神は愛なり、愛は全てを包む】
「徳こそ人間を高め、死すべき人間どもが愛するものを越えた所に、人間を置きます。」
「徳よりも優れたもの、また美しいものは何一つありません。徳の命令に従って行われることは、すべての善きものであり願わしきものです。」
「徳を心から愛慕するならば、徳が触れるものすべて、他人にはそれがどのようなものに見えようとも、君には祝福と幸福をもたらすでしょう。」
「徳は自己の似姿にそれを引き寄せて、自己の色に染め付けてしまいます。それは行為でも友情でも、時としては、それが入り込んで整頓したすべての家庭を、美しく飾ります。その取り扱ったものが何であろうと、徳はそれを愛すべきもの、勝れたもの、驚くべきものにします。」
「徳はわれわれのうちの何処をも空っぽにしておきません。それは心全体を占めていて、あらゆるもののの欲望を取り去ります。それのみで十分です。あらゆる善の力と源とが徳そのものにあるからです。」
「なぜ徳は何ものも要求しないのか、とお尋ねですか。それは徳が、現にもっているものを喜び、現にもっていないものを望まないからです。徳にとっては、満足しているものが全て偉大なのです。」
「辛いことでも苦しいことでも、その他どんな災いでも、何ら大きな力はもっていません。それらは徳によって包み隠されるからです。あたかも僅かな光を太陽の輝きが覆うように、もろもろの苦しみや悩みや不正を、徳がその偉大さによって打ち砕き圧し潰します。」
「それは、徳がそのすべての活動を、あたかも自分の子供たちを眺めるがごとく、同じ眼でながめるものであることを、君に知ってもらいたいからです。すなわち徳が全ての活動に等しく配慮し、なかんずく困っている者たちには、いっそう深く配慮することをです。」

 セネカの言う徳とイエスの言う愛とは同じです。
 それは「神は愛なり」と言う時の愛と同じです。
 神は愛なり、智慧は愛なり。
 神と智慧と愛は同じもの。
 セネカはその奥義を私たちに示して呉れたのです。
 そしてそれはイエスに引き継がれて行きました。
 「神は愛なり」、その起源はセネカにあるのです。
 上記の徳を、神と読み替えて下さい、智慧と読み替えて下さい、愛と読み替えて下さい。
 一揆貫通する筈です。
 「神は愛なり」、これが智慧と愛の奥義です。

【愛とは完全な理性の事】
「人間の徳には、ただ一つの尺度が使われるだけです。正しく純粋な一つの理性があるだけですから。」
「この完全な理性が徳と呼ばれ、それがすなわち崇高なるものと同じです。」

 「正しく純粋な理性」、「完全な理性」
 これが智慧であり、神であり、愛です。
 ここに「神は愛なり」の起源があるのです。
 セネカの徳とイエスの愛は同じす。
 愛とは皆様が皆様以外の人との関わりの中で生まれて来る智慧の事であり、
 智慧とは皆様が皆様自身の中に在る時の智慧(神)の事であり、そこから生まれて来る智慧(知恵)の事です。
 それらは共に同じです。
 それらに共通する一つの事、それが喜び(恍惚)です。
 
【愛は一瞬にして永遠の善を完成する】
「ところで徳において主に重大なことは何でしょう。将来を熱望しないことであり、自己の日々を数えないことです。ほんの僅かな時間に、徳はもろもろの永遠の善を完成します。」

 ほんの僅かな時間に、愛は永遠の善を完成します。
 その時、皆様の智慧と愛が融合しているのです。
 その時、皆様は本当の自分自身に成っているのです。
 その時の皆様の気持ちは『恍惚』です。
 その恍惚の中から、皆様の諸々の善(諸々の愛、諸々の徳)が生まれて行くのです。

【神とは、正しい、善い、大きな心の事】
「われわれの探し求むべきものは何かと言うに、それは抵抗し得ざる或る力の支配を毎日受けないもののことです。それは何でしょう。それは心ですが、それは正しい、善い、大きな心のことです。この心を、人間の肉体に宿る神という以外に何と呼ぶでしょうか。」
「神には何も閉ざさていません。神はわれわれの心の間にあり、われわれの思考の真ん中に入って来ます。」
「人々が神のところへ行くことを君は驚くのですか。神は人のところへ来ます。いや、それよりももっと近く、人の中に入って来ます。」
「神は君の近くに、君と一緒に、君の内部にいるのです。」
「どの善き人間にも『いかなる神かは知らねど、神が在ます。』」
「君は尋ねられます、『お前は神々のうちどういう神をお前の証人に受け入れたのか』と。無論、誰をも、つまり正しく善いことを愛する心を、傷つけない神です。」
「神々は選り好みもしないし嫉妬もしません。人々を誰でも引き入れるし、昇りつつある者たちに手を貸します。」
「では、どういう理由で神々は善を行うのでしょう。それは神々の本性です。」
「実際、善き人間は誰も神なしではありえません。神の助けなくして誰が運命を乗り越えて立ち上がれるでしょうか。神は高貴にして崇高な忠告を与えてくれるのです。」
「神のいない精神は善き精神ではありません。神の種子が人間の体内にばら蒔かれているのです。これらの種子は、もし善き農夫がそれを受け取るならば、それらの始源と同様なものとなって現れ、それが発し来った源と同等なものに成長します。」
「われわれは、この神の仲間であり、またその手足です。われわれの心は感受性が強く、悪徳がそれを抑え付けない限り、あの神的なものに運ばれて行きます。われわれの体の姿勢は直立していて、天を眺めていますが、それと同じように心も、自ら欲するだけ遠くに達することが出来て、結局は神々と同等であることを望むことになるように、自然の力によって造られているのです。」

「それは心ですが、それは正しい、善い、大きな心のことです。この心を、人間の肉体に宿る神という以外に何と呼ぶでしょうか。」
 何と言う神の定義でしょう。
 「神は君の近くに、君と一緒に、君の内部にいるのです」
 何故なら神とは「正しい、善い、大きな心」の事なのですから。
 この心をこそ皆様は日頃から求めているのですよね。
 であれば、神様を愛さなければならないと言う事に成りますよね。
 皆様が神様を愛すれば愛するほど、皆様の心は「正しい、善い、大きな心」に成るのですから。
「結局は神々と同等であることを望むことになるように、自然の力によって造られているのです。」
 自然の力に依って、皆様は神様を愛するように仕組まれているのです。
 もし皆様が神様を愛したくないと言うのであれば、
 それは自然に反しています。
 それは皆様を「間違った、悪い、小さな心」に育てます。

【賢者とは神と育てる者の事】
「では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。」
「天上へは貧民窟からでも飛び上がってよいのです。ただ立ち上がり、『かつまたなんじを、神にふさわしき者に作り上げよ。』」
「君は神々の情けに浴したいは思いませんか。それなら善き人でありなさい。神々を真似る者は誰でも、神々を十分に崇め尊ぶ者です。」
「そういう者たちの心の方向に向きを変えさせましょう。そうすれば、この者たちはやがて神を標準にして人間を評価するでしょう。」
「『勇気と生気が体内に宿る者』、こういう人こそ、神々にも比せられ、自己の始源を覚えていて、そこに達しようと努めているのです。」
「もし君の見た人間が、危険にあっても恐れることなく、欲望にも煩わされず、逆境にあっても幸福であり、嵐の真ん中にいても平静であり、またいっそう高い見地から人々を、また同等の見地から神々を眺める、そういった人間であるならば、そのような人に対する尊敬の念が、密かに君に近付かないでしょうか。君はこう言いませんか、『こういう心の態度は、その在り場所である、このちっぽけな肉体に似ているの考えるよりも、ずっと偉大な、ずっと崇高なものではないか。神的な力が、この人に天下ったのだ』と。

 「では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。」
 何故なら神様とは「正しい、善い、大きな心」の事なのですから。
 皆様の心を神様に匹敵にするまでに、皆様の心を作り上げる事、
 それが皆様の仕事です。
 その為には、全ての善きものを神様に帰して行く必要があるのです。
 それこそが哲学です。
 古今東西の聖人賢人たちのその善きものを、
 自分自身の心に帰して行くのです。
 そうすれば、皆様の心は神様に匹敵する事に成るでしょう。
 何故なら古今東西の聖人賢人たちのそれらは皆、
 そこから生まれて行ったのですから。
 それが何かと問われればそれが『智慧』です。
 智慧と神は畢竟同じ事なのです。
 皆様がそれを手に入れれば、皆様も聖人賢人の仲間入りです。

【自分が自分に成る事が最高の善】
「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」
「ごらんなさい。賢者がどんなふうに自分自身に満足しているかを。」
「賢者でなければ自己自身のもっているものに満足しません。」
「賢者は満ち足りているのです。たとえ何かが起こっても、別に気にも止めずそれを受け取って、側へ置くだけです。賢者の受ける楽しみは極めて大きく、永続するものであり、しかも真に自分自身のものです。」
「出来るだけ長い間自分自身と一緒にいるのは、人が自分自身を楽しむに値するものとしたときは、快いことです。」
「『君は、わたしが今どんな利益を受けたかを尋ねるのかね。わたしは自分自身と友達になり始めたのだ。』彼は沢山の利益を受けたのです。」
「自分自身をもっている者は何も失いませんでした。しかし、自分自身をもつことに成功する者は、何と少ないことでしょう。」
「幸福な生活の原因や支柱である唯一の善は、自分自身を信頼することです。」
「もし心が自分自身に満足し、自分自身を信頼し、さらに、死すべき人間どものらゆる願望も、与えられ求められる恩恵も、それらはすべて、幸福な生活においては何ら価値をもっていないことを知るならば、それが健康だと僕は考えます。」
「いつわれわれはあらゆる欲情を抑え付け、われわれ自身の支配下に置いて、『われ勝てり』という言葉を発することに成功するのでしょうか。」
「何に喜ぶべきかを知り、自己の幸福を他のものの支配の下においていない者は、すでに頂上に達しています。」
「僕が尋ねるのは、人間は自己のうちにどんな最も大きいものをもっているかではなくて、どんな自分自身のものをもっているかです。」
「人は自分自身のもの以外のものを誇ってはいけません。」
「僕は君に一つの簡潔な法則を差し上げましょう。君はそれによって自分自身を評価することが出来るでしょうし、またそれによって君がすでに完全な域に達していることを感ずることができるでしょう。すなわち、不幸な者こそが幸福であることを悟ったとき、君は本当の君自身を得るであろう、ということです。」

 「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」
 これこそがセネカが一番言いたかった事です。
 何故なら自分自身の中にこそ、智慧も愛も神も、その他諸々の善きものが存在しているのですから。
 その本当の自分自身に気付く事、それが最高の善なのです。
 全ての聖人賢人たちも、その本当の自分自身から色々な物を取り出して、皆様にお見せしているだけの事なのですから。

 「不幸な者こそが幸福であることを悟ったとき、君は本当の君自身を得るであろう」
 これは「道徳書簡集」の最後の最後に置いた言葉です。
 セネカはこの事を余程言いたかったのでしょう。
 「善人もてなお往生をとぐ、いわんや悪人おや」(「歎異抄」)
 「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」(「マタイ福音書」)
 不幸な者の為にこそ、哲学が在るのです。
 何故なら、哲学はそれらの人を、地獄煉獄から天国に引き上げて呉れるのですから。
 天国とは何か、それは自分が本当の自分自身に成った時の境地の事です。
 地獄煉獄とは何か、それは人がこの世に囚われている時の境地の事です。
 「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです」、最高に素晴らしい言葉です。

【心とは本当の自分自身の在り処】
「心のみがわれわれを高貴にします。心はどんな境遇からでも、運命を飛び越えて成長することが出来るのです。」
「心が大きなものになるには、自らが外的なものを切り放し、何ものをも恐れることなしに自らに平和をもたらし、何ものをも求めることなしに自らに財を作ったとき以外のときでは決してありません。」
「心をこそ、あらゆるものを支配する地位に据え付けることが許されます。心をこそ、自然の力を所有することに導き入れて、その領域を東西の境界によってのみ限り、また神々のように、あらゆるものを悉く所有すること許されます。」
「心こそ楽しく、自信を持ち、すべてのものに超然として立ち続けねばなりません。」
「どんな運命よりも強力なものは心であって、心自らの力で自らの行状を善悪いずれの方面にも導き、自らの幸福、あるいは不幸な人生の原因だからです。」
「最高善のある場所はどこかとお尋ねですか。心です。」

 心こそ、皆様を高貴にし、そして皆様を幸福に導きます。
 何故ならこの心の中にこそ、本当の皆様自身が存在し、
 そして皆様の智慧と皆様の神様が存在しているのですから。
 「最高善のある場所はどこかとお尋ねですか。心です。」
 最高善とは何か、
 それは本当の皆様御自身の事であり、皆様の智慧の事であり、皆様の神様の事です。
 この最高善(智慧)からあの最高善(愛)が生まれるのです。
 神は愛なり、これが最高最善です。

【本当の自分自身を目指せば、そこに英知が在り、神が居る】
「この場合本当に大切なことは、君が君自身をどのように思うかということであって、他人が君をどう思うかということではありません。」
「急いで君が君自身のほうに向かうことのほうが先決です。前進してください。そして何よりもまず、君が君自身に忠実であるように配慮してください。」
「君の思考の向かうところや、気遣うべきことや、選ぶべきことは――その他すべての願いは神に委ねるとして――君が本当の自分自身と、君自身から生まれた善きものとに満足することです。」
「真の善のみを目差し、君のものだけにしなさい。」
「善の大部分は善人なろうとする意志です。」
「君を善にすることが出来るものは、すべて君自身のうちにあるのです。君が善になるためには、何が君に必要でしょう。善を望むことです。」
「君が多数の者の理解しうる人間であっても、果たして君が自分自身の気に入るという理由があるでしょうか。」
「いちばん面倒なことは君の側にあります。君自身が君の厄介ものなのです。」
「君は或ることについてそんなに憤たり、あるいは不平を言っていますが、それらのうちには、この一事、つまり君が憤り、かつ不平を言っているということ以外には、何一つ悪いことはないのではありませんか。もしお尋ねでしたら、僕はこう考えていると申します――この自然の領域には、一人の人間が不幸と考えることがない限り、彼にとって何一つ不幸なことはない――と。」

 もし皆様が皆様自身に満足していれば、皆様は幸福です。
 もし皆様が皆様自身に満足していなければ、皆様は不幸です。
 「故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に欲有りて以てその徼(きょう)を観る。此の両者は同じきより出でて而(しか)も名を異にす。同じく之を玄と謂い、玄のまた玄、衆妙の門。」(「老子」)
「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福にかけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。」(エピクロス「断片」)
もし皆様が自足していれば、皆様の前には広大な幸福の広野が広がっている筈なのです。

【平静、平安とは智慧と共に在る時の事、それは恍惚の時】
「真の安静とは、その中において健全な精神が解き離れた境地です。」
「とにかく、心の平静のうちには不安はありません。」
「どんな方法でわれわれは、この不安動揺から遠ざかれるのでしょうか。唯一つの方法があります。ただし、われわれの生活が将来に進み出るのではなく、それ自体に集中する場合です。」
「夢路につこうとするとき嬉しく楽しい気持ちで、こう歌いましよう。『われは生涯を終え、運命の定めし道を歩み終りぬ。』そしてもし明日を神様が加えてくださるならば、喜んでそれをお迎えしましよう。明日を何の不安もなく待つ人こそ最も仕合せな人であり、自己を平静に保つ人です。」
「もしわれわれが何時かこのような汚泥から脱して、あの荘厳にして卓越した高みに登るならば、そこには心の平安がわれわれを待っているとともに、もろもろの過ちが駆逐されたときは、完全な自由が待っています。この自由が何かをお尋ねですか、それは人間をも、神々をも恐れないことです。不品行も過度も望まないことです。自分自身のうちに最高の力をもつことです。自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」
「ああ、君はいつあの時を体験し得るのでしょうか。つまりそれは、時間が君には無関係だと分かる時であり、また君が平静で温和である時であり、しかも君は最高に満ち足りていているので、明日には関心のない時です。」

 「真の安静」、「健全な精神が解き離れた境地」、「心の平静」、「心の平安」、「完全な自由」
 そして「ああ、君はいつあの時を体験し得るのでしょうか。つまりそれは、時間が君には無関係だと分かる時であり、また君が平静で温和である時であり、しかも君は最高に満ち足りていているので、明日には関心のない時です。」とは、『恍惚』の時の事です。
 それは智慧を共に在る時の感覚の事です。

【喜び(恍惚)とは智慧の共に在る時の事、それは自分自身の中に沈潜した時に生まれる】
「なかんずく君にしてもらいたいことがあります。それは、喜ぶことを学べ、ということです。」
「僕の語る喜び、つまり君をそこに案内しようと思っている喜びは堅固なものですが、中に入れば入るだけ、ますます先が開けてきます。」
「この大きな喜びを君にもってもらいたいと僕は望むのです。ひとたび、その出どころを見付ければ、それは決して君は見捨てないでしょう。」
「喜びは君自身の内部にありさえすれば生じます。」
「不朽の喜びをもちたいと思う者は、真に自分自身を楽しまねばなりません。」
「自分自身の内から生じた喜びは確固にして不動であり、またますます力を増し、最後に至るまで本人に随行します。」
「賢者というものは喜びでいっぱいであり、活気に満ち、また柔和で、しかも不動です。彼は神々と同等に生きています。」
「賢者は満ち足りているのです。たとえ何かが起こっても、別に気にも止めずそれを受け取って、側へ置くだけです。賢者の受ける楽しみは極めて大きく、永続するものであり、しかも真に自分自身のものです。」
「賢者の喜びはしっかりと編み合わされていて、どんな原因によっても、どんな運命によっても引き裂かれることはなく、常に、また何処でも平静です。」
「神々やその忠実な継承者たちに付き従う喜びは、中断されることもなく、止む事もありません。」
「何に喜ぶべきかを知り、自己の幸福を他のものの支配の下においていない者は、すでに頂上に達しています。」
「精神があらゆる汚れから清められて輝くとき、その精神の思索から得られる楽しみは、また格別のものです。今でも覚えておられるでしょうが、君が子供服を脱いで大人の着物を着、大広場に連れて行かれたとき、どんなに喜びを感じたことでしょう。しかし子供の心を捨て、哲学が君を大人の世界に移し入れたときにはもっと大きな喜びを期待してよいでしょう。」
「それゆえ思い出してください――英知の結果はこれ、すなわち喜びが常に一様であるということを。賢者の心と言えば、月の上方に広がる天空のごときものです。そこには、常に晴朗な大気があるのです。ですから、賢者には喜びのないことが絶対にないとすれば、賢者であることを望むのは当然理由があることです。」
「ああ、君はいつあの時を体験し得るのでしょうか。つまりそれは、時間が君には無関係だと分かる時であり、また君が平静で温和である時であり、しかも君は最高に満ち足りていているので、明日には関心のない時です。」

 セネカの喜びと老子の恍惚は同じ事。
 その在り処は、智慧であり、英知であり、道であり、仁であり、良知であり、主であり、神である。
「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。其の中に象有り、恍たり惚たり。其の中に物有り、窈たり冥たり。其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」(「老子」) 

「われわれは、快は祝福ある生の始めであり終りである、と言うのである。というのは、われわれは、快を、第一の生れながらの善と認めるのであり、快を出発点として、われわれは、全ての選択と忌避をはじめ、また、この感情を規準として全ての善を判断することによって、快へと立ち帰るからである。」(エピクロス「メノイケウス宛の手紙」)

 セネカの喜びと老子の恍惚とエピクロスの快は同じ事。
 全ての善の起源はここに在る。
 何故ならそれは、智慧と共に在る事であり、道と共に在る事であり、仁と共に在る事であり、神と共に在る事で在り、主と共に在る事であり、
 そして本当の自分自身と共に在る事なのですから。

【幸福の在り処は心。心が英知に満たされている時が至福、それは本当の自分自身に成った時と同じ事。】
「幸福な生活は英知の完成によって始めて実現されます。」
「幸福な人生に達する最も勝れた方法は、崇高な善のみが唯一の善であるという信念をもつことに外なりません。」
「幸福な生活の原因や支柱である唯一の善は、自分自身を信頼することです。」
「幸福な生活とは何ですか。それは心の落ち着きと不断の平静です。」
「幸福な生活の総体は確固たる平静と、揺るぎない自信であります。」
「賢者の幸福は心の内のものです。」
「なぜならその幸福は、ただ一つの場所に置かれているからです。つまり心そのものの中です。それは崇高であり、安定しており、平静です。」
「すべての善を崇高なる善で囲む者は、自己そのものの内部で幸福なのです。」
「君は自分を幸福だと思うべきときは、君のあらゆる喜びが理性から生まれるときです。」
「幸福な生活が基づくところはこの一事、つまり、われわれのうちにある理性が完全になるということです。」
「人間に独自なものは何でしょう。理性です。これが正しく、しかも完全であれば、人間の幸福は満たされることになります。」
「理性だけが人間を完全にするのですから、理性が完成されれば、それのみが人間を幸福にします。つまりこれが唯一の善であり、それによってのみ人間は幸福にされます。」
「エピクロスは言います、『自分の財産が十二分にあると思わない者は、たとえ当人が全世界の主人であるとしても、それでもなお不幸である』と。あるいは、もし次のように語られることが、君にとっていっそう適当と思われるならば、こう言えるでしょう。『自分を最も幸福と判断しない者は、たとえ世界を支配するとも、不幸である。』ところで、このような考え方が世間に共通であり、明らかに自然の教え示すところであることを知ろうとすれば、次の滑稽詩にそれを見付けるでしょう。自分が仕合せだと考えない者は、仕合せでない。」

 幸福とは何か、
 それは智慧と共に在る時の事、道と共に在る時の事、仁と共に在る時の事、神と共に在る時の事、主と共に在る時の事、
 そして本当の自分自身と共に在る時の事。
 その時の理性こそが完全な理性だと、セネカは言っているのです。

 完全な理性は、恍惚、すなわち無心、無垢、無我の境地から生まれるのです。

「無心と言うは、即ち妄想無き心なり。」
「夫(か)の無心なる者は真心なり、真心なる者は無心なり。」 
「爾我の無心は、木石に同じからず。何を以ての故ぞ。譬えば天鼓の如し、無心なりと雖復(いえど)も、自然に種々の妙法を出して衆生を教化す。又如意珠の如し、無心なりと雖復(いえど)も、善能(よ)く諸法実相を覚了し、真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し。」
「和尚、又告げて曰く、諸の般若の中、無心般若を以て最上と為す。」(「菩提達摩無心論」)

「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。其の中に象有り、恍たり惚たり。其の中に物有り、窈たり冥たり。其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」(「老子」) 

「わたしは主に無垢であろうとし、罪から身を守る。」
「あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら、そのことがわたしを守ってくれるでしょう。」(ダビデ「詩編」)

 無心、無垢、無我、すなわち恍惚以上に素晴らしい境地は無いのです。
 何故ならそこは至福の地であり、
 そして完全な理性、すなわち愛が生まれる場所なのですから。
 智慧と愛の母体、それが無心、無垢、無我、すなわち恍惚の境地なのです。

【知足と自足】
「『楽しい貧乏というものは立派なことだ』と。実際、貧乏が楽しかったら、それは貧乏ではありません。貧乏なのは過小を有する者ではなく、過大を求める者なのです。」
「『最大の富というものは、自然の法則に従った貧乏のことである』というのです。ところで、その自然の法則は、どれほどの限界をわれわれに課しているのか、ご存知ですか。飢えない程度、渇かない程度、冷えない程度です。」
「十分なものはすぐ手元にあります。貧乏にうまく適応する者こそ富者なのです。」
「『最小の富を望む者は最大の富を受ける。』」
「われわれは知らないのです――何ものも欲しくないということがどんなに楽しいことかを、また十分に満ち足りていて、運命には頼らぬということがどんなに素晴らしいことかを。」
「しかしなぜそれを欲しがるのでしょうか。人間のはかなさを忘れて積み上げているのでしょうか。何のために苦労せねばならないのでしょうか。そら、今日が最後の日です。そうではなくても、最後の日から遠くないのです。」
「『多くの者たちにとって、富を得たことは苦難の終わりではなく、苦難の変様であった。』こういうこも僕には不思議とは思いません。なぜなら過ちは財産にあるのではなく、心そのものにあるからです。」
「『自然に従って生きれば、決して貧者にはならないだろう。俗見に従って生きれば決して富者にはならないだろう。』自然の望むものは僅少ですが、俗見の望むものは限りがありません。」
「自然の欲求は限られています。しかし偽りの俗見より生じた欲求は何処で思い留まるか、それを知りません。偽りの俗見には限度がないからです。」
「自然は要るだけのものには十分に足りています。ところが自然から遠ざかっているのが贅沢です。」
「世に賢者、ないしは少なくとも賢者に近い者というのは、肉体の保護が容易だった人たちです。質素な世話であれば必需品には事欠きません。享楽を求めれば苦労させられます。」
「『客人よ、思い切って富を軽んじ、貴君をも神に値するまで造り上げよ。』神に値するのは富を軽んじる者だけです。」
「『エピクロスの小さな庭に行って、その庭に刻まれている銘文を読みなさい。客人よ、ここに留まるこそ良けれ。ここは最高の善が快楽であるところ。』すると、その家の客好きの親切な管理人が早速出迎えに出て、君を大麦パンでもてなし、水もたっぷり飲ませてくれて、こう言うでしょう、『おもてなしご満足でしたでしょうか』と。そしてこう続けます。『この庭は食欲をそそるどころか、逆に静めます。またこれ以上は、どの飲み物にも喉の渇きは起きません。自然でただの薬でもって鎮めます。この快楽の中で私は年を取りました。』
「『富裕とは自然の法則に適応した貧乏である。』このことをエピクロスは、いろいろな言い方で、よく言っています。しかし、このことは幾度言っても言い足りることではありません――それは十分に理解されることが決してないからです。」
「われわれが所有しているものは何一つ肝心なものはありません。自然の道に帰ろうではありませんか。そこにこそ富が用意されています。われわれが必要とするものは無料であるか、あるいは安価なものです。パンと水だけが自然の欲するものです。このような状況の内に自己の欲求を閉じ込めた者は誰でも、ゼウスの神とさえ幸福を競え合えるのです。」

 「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福にかけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。」(エピクロス「断片」)

 皆様が幸福に成る為の最短の道は、「知足」です。
 皆様が足るを知れば、そこにはゼウスの道が広がっているのです。
 何故なら皆様の肉体が要求する事は、「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと」なのですから。
 皆様のこの肉体の要求が満たされれば、皆様には広大な幸福の広野が広がっているのです。

 「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福にかけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。」
 このエピクロスの言葉は、皆様が聖人君子への道を進むに当たって、大きな道標と成ります。
 皆様が皆様の肉体を皆様の支配下に完全に置いた時、
 そこには皆様の聖人君子への道を阻むものは何も有りません。
 それは死をも皆様の支配下に置いた事を意味するからです。
 皆様が皆様の死を皆様の支配下に置いた時、
 皆様の聖人君子へ道を阻むものは何も無いのです。

 何故皆様は聖人君子への道を躊躇するのか、
 それはそこに死の影が見え隠れしているから。

 死の影を払拭しなさい。
 そうすれば、そこに聖人君子へ道がくっきりと浮かび上がって来ます。
 死の影を払拭する方法、
 それは肉体の自然の声を正しく聞く事です。

 肉体はこう言う筈です。
 「飢えない様にして下さい、渇かない様にして下さい、寒くない様にして下さい」と。
 その時、皆様はこう応えれば良いのです。
 「分かった」と。
 そして更にこう加えるのです。
 「分かった。貴方の要求は全て満たして上げよう。その代り、私の手足と成って、私の聖人君子への道を助けて呉れ」と。
 その時、肉体はこう応える筈です。
 「分かりました、御主人様」と。
 ここにおいて、皆様と肉体との主従関係が成立する事に成るのです。

 人は一瞬一瞬に生きています。
 そこにおいて肉体が要求する事は、「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと」です。
 この肉体の要求を満たして遣りさえすれば、
 皆様には広大なる聖人君子への道が広がっているのです。
 皆様はその一瞬一瞬において、
 何処までも何処までも聖人君子への道を歩み続ける事が出来るのです。
 その行先は何処まででしょう。
「『この道は天の星に通ずるや。』実際、哲学が僕に約束しているのは、僕を神に匹敵させることです。このために僕は招かれ、このために僕は来たのです。」

 すなわち神に匹敵するまでです。
 そうすれば、イエスやブッダや孔子、老子、ソクラテスもその手中に在るのです。
 人は何の為に生まれて来たのか。
 それは神の子、仏の子、智慧の子と成る為。
 
 さあさあ皆様、特に若い皆様へ
 どうか聖人君子への道へと踏み出して下さい。
 そうすればそこに「哲学国家日本」が現出する事に成るのです。

 セネカは皆様を高揚させると思います。
 どうかセネカの「道徳書簡集」を丸ごと読み、、
 皆様自身でセネカの智慧の言葉を拾い出し
 そしてそれを皆様のキーワードに従って整理して見て下さい。
 そうすればそこにもまた皆様の聖人君子への道が浮かび上がって来る筈です。

 
 次はクリシュナです。
 クリシュナは智慧を何と呼んだか。
 アートマン(最高の自己)です。
 
「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」「ごらんなさい。賢者がどんなふうに自分自身に満足しているかを。」(セネカ「道徳書簡集」)
「ほんとうに存在するものによって自分を満たす。」「自分の本性に適したものによって満たされることが快である。」(プラトン「国家」)

 本当の自分自身、それこそが智慧なのです。
 私がこれまで述べて来た事です。

 このアートマン(最高の自己)に至る方法がヨーガ、すなわち哲学なのです。
 智慧を愛する事に依って智慧に至る。
 智慧の根源としての智慧から発せられた智慧を愛する事に依って、
 智慧の根源としての智慧(本当の自分自身すなわちアートマン)に至る、
 これが哲学です。
 智慧の根源としての智慧から発せられる智慧とは、
 皆様が発し続けているその智慧でもあるでしょうし、
 古今東西の聖人賢人たちが発し続けているその智慧でもあります。
 その智慧を愛する事に依って、
 智慧の根源としての智慧に至る、
 それが哲学です。

 この智慧の根源としての智慧(本当の自分自身)に至った時、
 皆様はニルヴァーナ、涅槃、天の国等々に入る事に成るのです。
 クリシュナはその涅槃の事をブラフマンと呼んでいます。
 ヨーガに依り、皆様がアートマン(本当の自分自身)に成った時、
 皆様はブラフマン(神の国)に入る事に成るのです。
 このブラフマンの境地は、老子の言う『恍惚』の世界であり、ブッダのニルヴァーナの世界であり、イエスの言う神の国であり、セネカやエピクロスの言う平静、平安の世界であり、その他の聖人賢人たちがそれぞれに言うその世界です。
 
 そしてこのブラフマンこそが愛が生まれる場所なのです。
 このブラフマンで生まれた愛を、
 この世で実現する為の方法、
 それが『祭祀』と言う事に成ります。
 祭祀とは、「神は愛なり」、智慧は愛なり、を実現させる為の方法と言う事に成るのです。
 
「行為はブラフマンから生ずると知れ。ブラフマンは不滅の存在から生ずる。それ故、遍在するブラフマンは、常に祭祀において確立する。」
「あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。」(「バガヴァッド・ギーター」)
「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして捧げなさい。これこそがあなたのなすべき礼拝です。」(「ローマ信徒への手紙」) 

 クリシュナとは何者か。
 それは智慧と愛の現人神です。
 イエスと全く同じです。
 クリシュナは智慧を愛する方法、
 そしてその智慧から生まれた智慧、すなわち愛を、この世に実現させる為の方法を、
 私たちに身を以て示して呉れたのです。

 これが「バガヴァッド・ギーター」の全体系であり、
 そしてクリシュナの智慧の全体系でもあります。

 それではもう少し詳しくクリシュナの智慧を見て行きたいと思います。
 智慧は皆様の魂を浄化して呉れるのでしたよね。
 哲学は最高の浄化具だったですね。
 クリシュナはその辺りをどの様に表現しているのでしょう。

 【哲学は最高の浄化具である。皆様を幸福へと導き、そして聖人君子への道を歩ませる】
「あなたに最高の秘密を説こう。理論知と実践知とを。それを知れば、あなたが不幸から解脱できるような。これは王者の学術、王者の秘密、最高の浄化具である。」
「仮にあなたが、すべての悪人のうちで最も悪人であるとしても、あなたは知識の舟により、すべての罪を渡るであろう。あたかも燃火が薪を灰にするように、知識の火はすべての行為を灰にするのである。というのは、知識に等しい浄化具はこの世にないから。」
「愛執、恐怖、怒りを離れ、私に専念し、私に帰依する多くの者は、知識という苦行によって浄化され、私の状態に達する。」
「彼の企てがすべて欲望と意図を離れ、彼の行為が知識の火によって焼かれているなら、知者たちは彼を賢者と呼ぶ。」
「知識により自己(アートマン)の無知が滅せられた時、彼らの知識は太陽のように、かの最高の存在を照らし出す。」

 智慧は皆様の魂を浄化し、
 皆様自身を最高に輝かし、
 そして皆様を聖人君子への道へと進ませて呉れるのですね。
 これまで見て来た哲学者たちの言葉と全く同じですね。

 智慧とは何か。
 それはアートマン、すなわち最高の自己(本当の自分自身)の事です。
 皆様がアートマンに成る方法、それがヨーガです。
 皆様がヨーガに依り、アートマンに成った時、
 皆様はブラフマンの境地に達しているのです。
 
 皆様が哲学に依り、
 すなわち智慧を愛する事に依り智慧に達した時、
 皆様は本当の自分自身と成り、至福の中へと入るのです。
  
【本当の自分自身(アートマン)に成れば、そこがブラフマンの境地。本当の自分自身(アートマン)に成る為の方法、それがヨーガ】
「自己において喜び、自己において充足し、自己において満ち足りた人、彼にはもはやなすべきことがない。」
「自ら自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし自己を制していない人にとって、自己はまさに敵のように敵対する。」
「自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。」
「自己を克服し寂滅した人の最高の自己(アートマン)は、寒暑や苦楽においても、毀誉褒亡貶においても、統一された状態でいる。」
「心が制御され、自己(アートマン)においてのみ安住する時、その人はすべての欲望を願うことなく『専心した者』であると言われる。」
「理論知と実践知により自己(アートマン)が充足し、揺るぎなく、感官を克服し、土塊や石や黄金を平等に見るヨーギンが、『専心した者』と呼ばれる。」
「意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)において満足する時、その人は智慧が確立した言われる。」
「愛憎を離れた、自己の支配下にある感官により対象に向かいつつ、自己を制した人は平安に達する。平安において、彼のすべての苦は滅する。」
「慢心と迷妄がなく、執着の害を克服し、常に自己(アートマン)に関することに専念し、欲望から離れ、苦楽という相対から解放され、迷わない人々は、かの不滅の境地に達する。」
「ヨーガに専心し、自己(アートマン)を清め、自己を制御し、感官を制し、自己が万物の自己となった者は、行為をしても汚されない。」
「ヨーガに専心し、一切を平等に見る人は、自己を万物に存すると認め、また万物を自己のうちに見る。」
「ある人々は瞑想によって、自らの自己のうちに自己(アートマン)を見る。他の人々は、サ―ンキヤ(理論)のヨーガによって、また他の人は行為のヨーガによって見る。」
「ヨーガにより成就した人は、やがて自ら、自己(アートマン)のうちにそれを見出だす。」
「ヨーガに専心した聖者は、遠からずブラフマンに達する。」
「常に専心し、罪障を離れたヨーギンは、ブラフマンとの結合と言う究極の幸福を得る。」
「実に、意が静まり、激質が静まり、ブラフマンと一体化した罪障のないヨーギンに、最後の幸福が訪れる。」
「外界との接触に執心せず、自己(アートマン)のうちに幸福を見出し、ブラフマンのヨーガに専心し、彼は不滅の幸福を得る。」
「内に幸福あり、内に楽しみあり、内に光明あるヨーギンは、ブラフマンと一体化し、ブラフマンにおける涅槃に達する。」
「罪障を滅し、疑惑を断ち、自己(アートマン)を制御し、すべて生類の幸せを喜ぶ聖仙たちは、ブラフマンにおける涅槃に達する。」
「欲望と怒りを離れ、心を制御し、自己(アートマン)を知った修行者たちにとって、ブラフマンにおける涅槃は近くにある。」
「清浄な知性をそなえ、堅固さにより自己(アートマン)を制御し、常に瞑想のヨーガに専念し、離欲を拠り所にし、我執、暴力、尊大さ、欲望、怒り、所有を捨て、『私のもの』という思いなく、寂静に達した人は、ブラフマンと一体化がすることができる。」
「ブラフマンと一体となり、その自己(アートマン)が平安になった人は、悲しまず、期待することもない。」
「すべての欲望を捨て、願望なく、『私のもの』という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。アルジュナよ、これがブラフマンの境地である。」
「知性が確立し、迷妄なく、ブラフマンを知り、ブラフマンに止まる人は、好ましいものを得ても喜ばす、好ましくないものを得ても嫌悪しない。」
「意(こころ)が平等の境地に止まった人々は、まさにこの世で生存を征服している。というのは、ブラフマンは欠陥がなく、平等である。それ故、彼らはブラフマンに止まっている。」
「『風のない所にある灯火が揺るがぬように』とは、心を制御し、自己(アートマン)のためのヨーガを修めているヨーギンの比喩であると伝えられる。そこにおいて、心はヨーガの実修により抑制されて静まり、人は自ら自己のうちに自己(アートマン)を見て満足し、そこにおいて、感官を越えた、知性により認識されるべき究極の幸福を人は知り、そこに止まって真理を逸脱することなく、それを得れば、他の利得を劣るものと考え、そこに止まれば、大きな苦しみによて動揺されることがない、そのような苦の結合から離れることが、ヨーガと呼ばれるものであると知れ。」

 皆様はこれらの言葉たちから、
 皆様とアートマンとヨーガとブラフマンの関係を読み取れたでしょうか。
 皆様の目的は何でしょう。
 そうですね、皆様が本当の皆様(アートマン)に成る事ですよね。
 その為の方法は何でしょう、そうですね、ヨーガ(哲学)ですよね。
 皆様がヨーガ(哲学)に励めば、
 皆様は本当の皆様(アートマン)に成り、
 そしてブラフマン(至福の国)に入る事に成るのです。
 とても簡単な教えですね。
 そしてこれまで見て来た聖人賢人たちの教えと全く一緒ですよね。
 「文字は殺すが、霊は生かす」
 皆様は聖人賢人たちの智慧こそを読み取らなければならないのです。
 皆様が聖人賢人たちの智慧を読み取った時、
 皆様は本当の自分自身、すなわちアートマンへの道が開ける事に成るのです。
 アートマンにおいて、全ての聖人賢人たちは一緒です。
 そして全ての人類も。
 全ての人類にその智慧は内在しているのです。
 その智慧を見出した者が聖人君子と呼ばれる事に成るのです。

 皆様には二人の皆様がいます。
 一人は今この著書を見ている皆様、
 すなわちこの世の皆様です。
 もう一人の皆様は、皆様が理想とする皆様です。
 皆様がその理想を追い求めれば追い求めるほど、
 その皆様は高く舞い上がって行きます。
 そして最後にはその皆様は、
 天の国へと至る事に成るのです。
 この天の国に至った皆様の事を、
 古今東西の聖人賢人たちは様々な名で呼んだのです。
 クリシュナはそれをアートマンと呼んだのです。
 老子はそれを道と呼びました。
 孔子はそれを仁と呼びました。
 ブッダはそれを般若と呼びました。
 ダビデやイエスやパウロはそれを主と、
 そしてソロモンやソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカ、王陽明等々は智慧と。
 古今東西の聖人賢人たちは、この天の国に昇った皆様の事を様々に呼んだのです。
 そしてこの天の国に昇った皆様を愛する事が哲学なのです。
 
 哲学は皆様を本当の自分自身に導き、
 そして皆様を高貴にするのです。
 何故ならその天の国に昇った皆様の事を神とも呼ぶのですから。

「『この道は天の星に通ずるや。』実際、哲学が僕に約束しているのは、僕を神に匹敵させることです。このために僕は招かれ、このために僕は来たのです。哲学よ、約束を守ってください。」
「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」「ごらんなさい。賢者がどんなふうに自分自身に満足しているかを。」
「では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。」

 自己において喜ぶ人、
 自己において充足している人、
 自己において満ち足りている人、
 自己において満足している人、
 自己の内に自己を見て満足している人、
 自己において自己を高めている人、
 自己の内に幸福を見出している人、
 自己において安住している人、
 自己が平安になった人、
 自己を清めた人、
 自己を克服した人、
 自己を制した人、
 自己を制御した人、
 自己の事に専念している人、
 自己を知った人、
 自らの内に自己を見る人、
 自己が自己の友である人、
 自己を万物に認める人、
 自己が万物の自己となった人、
 この様な人がどの様な人だとお分かりになりますか。
 この様な人たちをこそ聖人君子と呼ぶのです。

「いつわれわれはあらゆる欲情を抑え付け、われわれ自身の支配下に置いて、『われ勝てり』という言葉を発することに成功するのでしょうか。」(セネカ「道徳書簡集」)

「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」「ごらんなさい。賢者がどんなふうに自分自身に満足しているかを。」(セネカ「道徳書簡集」)
「ほんとうに存在するものによって自分を満たす。」「自分の本性に適したものによって満たされることが快である。」(プラトン「国家」)
「人知らずして慍(いか)らず、亦(また)君子ならずや」(「論語」)
「君子の学は、以って、己の為にす。未だ嘗て、人の己を欺くを、慮(おもんばか)らざるなり。恒に、自ら、其の良知を欺かざるのみ。未だ嘗て、人の己に信ならざるを、慮(おもんばか)らざるなり。恒に、自ら、其の良知に信なるのみ。未だ嘗て、先ず人の詐と不信とを、覚る求めざるなり。恒に、自ら、其の良知を覚らんことを務むるのみ。是の故に、欺かざれば、則ち、良知、偽る所無くして、誠なり。誠なれば、則ち、明らかなり。自ら信なれば、則ち、良知、惑う所無くして、明らかなり。明らかなれば、則ち、誠なり。明誠、相生ず。」(「伝習録」)

「私は万物の心中に宿る自己(アートマン)である。」
「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている。主を畏れることは、悪を憎むこと。傲慢、驕り、悪の道、暴言をはく口を、わたしは憎む。わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力を持つ。わたしによって王は君臨し、支配者は正しい掟を定める。君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆、わたしによって治める。 わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。」(「箴言」)

 何故聖人賢人たちは自分自身に満足しているのか。
 それは自分自身の中に最高の自己が、
 すなわちアートマンが、智慧が、良知が、仁が、道が、主が存在しているからに他ならないのです。
 自分が最高の自己に成った時、
 その時がブラフマンの境地です。
 ブラフマンに達するにはヨーガ(哲学)しかないのです。
 
「ヨーガに専心した聖者は、遠からずブラフマンに達する。」
「常に専心し、罪障を離れたヨーギンは、ブラフマンとの結合と言う究極の幸福を得る。」
「実に、意が静まり、激質が静まり、ブラフマンと一体化した罪障のないヨーギンに、最後の幸福が訪れる。」
「外界との接触に執心せず、自己(アートマン)のうちに幸福を見出し、ブラフマンのヨーガに専心し、彼は不滅の幸福を得る。」
「内に幸福あり、内に楽しみあり、内に光明あるヨーギンは、ブラフマンと一体化し、ブラフマンにおける涅槃に達する。」
「罪障を滅し、疑惑を断ち、自己(アートマン)を制御し、すべて生類の幸せを喜ぶ聖仙たちは、ブラフマンにおける涅槃に達する。」

 皆様もヨーガ(哲学)に専念して下さい。
 そうすれば皆様もアートマンへと至り、そしてブラフマンの境地へと達します。
 それは全ての聖人賢人たちが約束している事です。
 しかし片手間ではいけません。
 全身全霊を傾けて、哲学、すなわち智慧を愛さなけれないけないのです。
 これまで見て来た十三人の哲学者の様に。
 その中でも、一番のお手本はダビデなのかも知れませんね。
 熱情の神に取りつかれる事が必要なのかも知れません。

 クリシュナも皆様を熱情の神へと誘います。
 すなわち、智慧と愛へと
 何故ならクリシュナ自身が智慧と愛の現人神なのですから。

【私は智慧で在り、アートマンであり、万物の創造主である。それは皆様御自身の事】
「私は万物の心中に宿る自己(アートマン)である。私は万物の本初であり、中間であり、終末である。(中略)私は創造においては本初であり、終末であり、中間である。諸学においては、自己(アートマン)に関する知識である。私は語る者たちの言説である。(中略)私はまさに不滅の時間(カーラ)である。私はあらゆる方角に顔を向けた配置者である。私は一切を奪い去る死である。生まれるべきものの源泉である。(中略)私は統治者たちの杖である。征服を志す王たちの政策である。私は秘密事における沈黙である。知識ある人々の知識である。また、万物の種子、それは私である。アルジュナよ。動不動のもので、私なしで存在するようなものはない。私の神的な示現には限りがない。だが、私は示現の多様性の若干の例を述べたのである。いかなるものでも権威があり、栄光があり、精力あるもの、それを私の威光の一部から生じたものと理解せよ。だがアルジュナよ、そのように多く知っても何になろう。私はこの全世界を、ほんの一部分で支えて存在しているのだ。(中略の中に「私は○○である。」が六十近くにも及んでいます。その中でも、全て素晴らしきものは私であると言い続けているのです。あまりにも長すぎるし、あまりにもローカル的なものなので省略しています。)」
「私はこの世界の父であり、母であり、配置者であり、祖父である。知られるべき対象である。浄化具である。聖音オームである。讃歌、歌詠、祭詞である。私は帰結である。維持者である。主である。目撃者である。住処である。寄る辺である。友人である。本源であり終末であり維持である。宝庫であり、不滅の種子である。私は熱を発する。私は雨を収めて、また送り出す。私は不死であり死である。有であり無である。」
「私は不生であり無始である、世界の偉大な主であると知る人は、人間(じんかん)のあって迷わず、すべての罪悪から解放される。知性、知識、不惑、忍耐、真実、制御、寂静、苦楽、発生、消滅、恐怖、無畏、不殺生、平等心、満足、苦行、名誉、不名誉。これら万物の個々の状態は、ただ私のみから生ずる。」
「私は一切のものの心に入る。記憶、知識、および除去は、私に由来する。私はまた、すべてのヴェーダにより知らるべき対象である。私はヴェーダの終局の作者であり、まさにヴェーダを知る者である。」
「私は不生であり、その本性は不変、万物の主であるが、自己のプラクリティ(根本原質)に由来して、自己の幻力により出現する。実に美徳が衰え、不徳が栄える時、私は自身を現すのである。」
「私を万物の種子であると知れ。私は知性ある者たちの知性であり、威光ある者たちの威光である。」
「私にとって大ブラフマンは胎である、私はそこに胎子を置く。それから万物の誕生が実現する。」
「私は種子を与える父である。」
「この全世界は、非顕現な形の私によって遍く満たされている。」
「その非顕現の存在は不滅と言われる。最高の帰趨と言われる。人々はそれに達すれば回帰することはない。それは私の最高の住処である。アルジュナよ、それは最高のプルシャである。しかしそれはひたむきな信愛により得られる。万物はその中にあり、この全世界はそれにより遍く満たされている。」
「最高の主は万物の中に等しく存在し、万物が滅びても滅びることはないと見る人、彼は見るのである。」
「世界にはこれら二種のプルシャがある。可滅のものと不滅のものである。可滅のものは一切の被造物である。不滅のものは『揺るぎなき者』と言われる。しかし、それと別な至高のプルシャがあり、最高のアートマンと呼ばれる。それは不変の主であり、三界に入ってそれを支持する。私は可滅のものを超越して、不滅のものよりも至高であるから、世間においても、ヴェーダにおいても、至高のプルシャであると知られている。」
「この身体におけるプルシャは、近くに見る者、承認者、支持者、享受者、偉大な主、最高の自己(アートマン)と言われる。」
「あなたは本初の神であり、太古のプルシャであり、全世界の拠り所である。あなたは知るものであり、知られるべき対象であり、最高の住処である。全世界はあなたにより遍く満たされている。無限の姿を持つ方よ。」

 私とは何者か?
 私とは智慧である!
 私とはアートマンであり、智慧であり、神であり、創造主であり、クリシュナであり、イエスであり、
 そして皆様御自身なのです。
 何故なら智慧は全ての人類に等しく存在しているのですから。
 その智慧を何処まで表現し得るか、それが皆様哲学者(智慧を愛する者)の全人生です。

【私は知識ある人の知識(智慧)、知性ある人の知性(智慧)、すなわち創造主である】
「私は万物の心中に宿る自己(アートマン)である。」
「(私は)知識ある人々の知識である。」
「私は知性ある者たちの知性であり、威光ある者たちの威光である。」
「私はヴェーダの終局の作者であり、まさにヴェーダを知る者である。」
「私は一切のものの心に入る。記憶、知識、および除去は、私に由来する。」
「(私は)知られるべき対象である。」
「私は種子を与える父である。」
「私を万物の種子であると知れ。」
「(私は)宝庫であり、不滅の種子である。」
「万物の種子、それは私である。」
「私は万物の本初であり、中間であり、終末である。」
「(私は)本源であり終末であり維持である。」
「私は創造においては本初であり、終末であり、中間である。」
「私はこの世界の父であり、母であり、配置者であり、祖父である。」
「私はあらゆる方角に顔を向けた配置者である。」
「私は帰結である。維持者である。主である。」
「私の本性は万物を支え、万物を実現するが、万物のうちには存しない。」

【私は不滅の時間、すなわちカーラである】
「私はまさに不滅の時間(カーラ)である。」
「私は不死であり死である。有であり無である。」
「私は一切を奪い去る死である。生まれるべきものの源泉である。」
「私は不生であり無始である」

【私は浄化具であり、友である】
「(私は)浄化具である。」
「(私は)住処である。寄る辺である。友人である。」
「私は統治者たちの杖である。」
「私は不生であり、その本性は不変、万物の主であるが、自己のプラクリティ(根本原質)に由来して、自己の幻力により出現する。実に美徳が衰え、不徳が栄える時、私は自身を現すのである。」
「知性、知識、不惑、忍耐、真実、制御、寂静、苦楽、発生、消滅、恐怖、無畏、不殺生、平等心、満足、苦行、名誉、不名誉。これら万物の個々の状態は、ただ私のみから生ずる。」

【私は最高のアートマンであり、最高のプルシャである。すなわち智慧である。】
「あなたは本初の神であり、太古のプルシャであり、全世界の拠り所である。あなたは知るものであり、知られるべき対象であり、最高の住処である。全世界はあなたにより遍く満たされている。」
「この全世界は、非顕現な形の私によって遍く満たされている。」
「その非顕現の存在は不滅と言われる。最高の帰趨と言われる。人々はそれに達すれば回帰することはない。それは私の最高の住処である。アルジュナよ、それは最高のプルシャである。」
「世界にはこれら二種のプルシャがある。可滅のものと不滅のものである。可滅のものは一切の被造物である。不滅のものは『揺るぎなき者』と言われる。しかし、それと別な至高のプルシャがあり、最高のアートマンと呼ばれる。それは不変の主であり、三界に入ってそれを支持する。私は可滅のものを超越して、不滅のものよりも至高であるから、世間においても、ヴェーダにおいても、至高のプルシャであると知られている。」

 私たちはクリシュナを知っています。
 イエスも知っています。ブッダも知っています。
 孔子も老子も王陽明も知っています。
 ソクラテス=プラトンも、エピクロスもセネカも
 それからソロモン、ダビデも。
 そして私たちは彼らを心から理解しています。
 何故私たちは彼らを心から理解出来るのでしょう。
 それは全ての人類の中に智慧が存在しているからに他ならないのです。
 「人類皆兄弟」、それは智慧において可能と成る事なのです。

 「道は一生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。」(「老子」)

 道において全ての人が理解し合えます。
 何故なら道において、人は恍惚、至福の状態に在るのですから。
 すなわち、神の国、天の国、涅槃、ニルヴァーナ等々に在るのですから。
 そこにおいて人々は理解し合えます。
 何故なら何の悩みも無い、何の煩いも無い、至福の世界に居るのですから。
 
 道から一が生まれます。
 すなわち、その恍惚(至福)から愛が生まれるのです。
 その愛が生まれた瞬間においても、人々は理解し合えます。
 何故ならその時において「神は愛なり」が実現しているのですから。

 愛とは恍惚(至福)を分け与え合う事なのです。

 「道と一」、すなわち「智慧と愛」においては、人類皆兄弟なのです。

 しかしもし皆様が万物の一でありながら、
 世界人類と兄弟に成ろうとしてそれは無理です。
 何故なら万物の中の一としての皆様は、エゴそのものだからです。
 皆様が世界人類と兄弟に成りたいと言うのであれば、
 万物の一から三に、三から二に、二から一に、
 そして一から道に戻らなければならないのです。
 もし皆様がその順序で道に辿り着いた時、
 そこに皆様の愛が沸々と湧き上がる事に成るのです。
 そこから皆様の愛が二へと、そして二から三へと、三から万物へと及んで行く事に成るのです。
 すなわち全人類に及んで行く事に成るのです。
 イエスを見て下さい。
 ブッダを見て下さい。
 皆様も彼らに見倣うべきではないでしょうか。

 皆様が聖人君子に成る方法、
 それはとても簡単なのです。
 その方法とは智慧を愛する事(哲学)です。
 何故なら、智慧は皆様を愛したがっているのですから。
 智慧は智慧が持つ全財産を皆様に分け与えがっているのです。
 しかし皆様は智慧を無視し続けています。
 何故でしょう。
 皆様が悪いのでしょうか。
 いいえ、この世の君が悪いのです。
 この世の君は皆様に智慧の存在を隠し続けているのです。

 しかし皆様は智慧の存在を知ってしまった。
 皆様はもう後戻りは出来ないのです。
 皆様こそが『哲学国家日本』のリーダーと成らなけれなならないのです。
 『哲学国家日本』とは、国民一人一人が智慧を愛する事に依って実現される、
 哲学(智慧を愛する事)的に成熟した国家、日本の事です。

 『哲学国家日本』の実現の為には、
 如何なる哲学宗教の信条も必要ありません。
 そこに必要な事は、ただ智慧を愛する事だけなのです。全ての哲宗教学の枠を超えて。
 皆様にはその為のリーダーに成って頂きたいと思うのです。
 なお『哲学国家日本』の実現の為の方策については、
 章を別にして説明する予定ですので、その時はどうかよろしくお願いします。

 さてクリシュナの智慧に戻りたいと思います。
 皆様が哲学国家日本のリーダー、
 すなわち聖人君子と成る為の方法はとても簡単です。
 智慧を愛しさえすれば良いのです。
 何故なら智慧は皆様を愛したがっているのですから。

【私は智慧、私を愛する者を私は愛す。皆様の智慧は皆様を愛したがっているのです。】
「私は一切の本源である。一切は私から展開する。そう考えて、知者たちは愛情をこめて私を信愛するのである。私に心を向け、生命を私に捧げ、互いに目覚めさせつつ、彼らは常に私について語り、満足して楽しむ。常に専心し、喜びをもって私を信愛する彼らに、私はかの知性のヨーガを授ける。それによって彼らが私に至るところの。まさに彼らへの憐愍のために、私は個物(アートマン)の心に宿り、輝く知識の灯火により、無知から生ずる闇を滅ぼす。」
「四種の善行者が私を信愛する。すなわち、悩める人、知識を求める人、利益を求める人、知識ある人である。彼らのうち、常に専心し、ひたむきな信愛を抱く、知識ある人が優れている。知識ある人にとって私はこの上なく愛しく、私にとって彼は愛しいから。これらの人々はすべて気高い。しかし、知識ある人は、まさに私と一心同体であると考えられる、というのは、彼は専心し、至高の帰趨である私に依拠しているから。」

「私に意(こころ)を結びつけ、私に帰依してヨーガを修めれば、あなたは疑いなく完全に私を知るだろう。」
「私に意(こころ)を向け、私を信愛せよ。私を供養し、私を礼拝せよ。あなたはまさに私に至るであろう。私は必ずそうなると約束する。」
「私に意(こころ)を向け、私を信愛せよ。私を供養し、私を礼拝せよ。このように私を専念し、専心すれば、あなたはまさに私に至るであろう。」
「私にのみ意(こころ)を置け。私に知性を集中せよ。その後、あなたはまさに私の中に住むであろう。疑問の余地はない。」
「私に最高の信愛を捧げ、私の信者たちの間にこの最高の秘密を説く人は、疑いなくまさに私に至るであろう。」
「私のために行為をし、私に専念し、私を信愛し、執着を離れ、すべてのものに対して敵意のない人は、まさに私に至る。」
「愛執、恐怖、怒りを離れ、私に専念し、私に帰依する多くの者は、知識という苦行によって浄化され、私の状態に達する。」
「あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為の束縛から解放されるであろう。放擲のヨーガに専心し、解脱して私に至るであろう。」
「私を一切のうちに認め、一切を私のうちに見る人にとって、私は失われることなく、また、私にとって、彼は失われることはない。一体感に立って、万物に存する私を信愛する者、そのヨーギンは、いかなる状態にあろうとも、私のうちにある。」
「ブラフマンと一体となり、その自己(アートマン)が平安になった人は、悲しまず、期待することもない。彼は万物に対して平等であり、私への最高の信愛を得る。信愛により彼は真に私を知る。私がいかに広大であるか、私が何者であるかを。かくて真に私を知って、その直後に彼は私に入る。私に帰依する人は、常に一切の行為をなしつつも、私の恩寵により、永遠で不変の境地に達する。」

「私を祭祀と苦行の享受者、全世界の偉大な主、すべての生類の友であると知れば、寂静に達する。」
「自己を静め、恐怖を離れ、梵行の誓いを守り、意を制御して、私に心を向け、私に専念し、専心して座すべきである。このように常に専心し、意を制御したヨーギンは、涅槃(ニルヴァーナ)をその極致とする、私に依拠する寂静に達する。」
「私は万物に対して平等である。私には憎むものも好きなものもない。しかし信愛をこめて私を愛する人々は私のうちにあり、私もまた彼らのうちにある。たとい極悪人であっても、ひたすら私を信愛するならば、彼はまさしく善人であるとみなされる。彼は正しく決意した人であるから。速やかに彼は敬虔な人となり、永遠の寂静に達する。」
「ひたすらに私を思い、念想する人々、彼ら常に念想する人々に、私は安寧をもたらす。」
「すべての行為をわたしのうちに放擲し、私に専念して、ひたむきなヨーガによって私を瞑想し、念想する人々、それら私に心を注ぐ人々にとって、私は遠からず生死流転の海から彼らを救済する者となる。」
「心によりすべての行為を私のうちに放擲し、私に専念して、知性のヨーガに依存し、常に私に心を向ける者でであれ。私に心を向けていれば、私の恩寵により、すべての苦難を越えるであろう。」
「常に心を他に向けることなく、絶えず私を念ずる者、その常に専心したヨーギンにとって、私は容易に到達される。私に到達して最高の成就に達した偉大な人々は、苦の巣窟である無常なる再生を得ることはない。」
「すべての行為を私のうちに放擲し、自己(アートマン)に関することを考察し、願望なく、『私のもの』という思いなく、苦熱を離れて戦え。信仰を抱き、不満なく、常に私の教説に従う人々は行為から解放される。」

「人々がいかなる方法で私に帰依しても、私はそれに応じて彼らを愛する。人々はすべて私の道に従う。」
「信仰をそなえ、他の神格を供養する信者たちも、教令によってではないが、実は私を供養するのである。何故なら、私はすべての祭祀の享受者であり、主宰者であるから。」
「それそれの信者が、信仰をもってそれぞれの神格を崇めようと望む時、私は各々の信仰を不動のものとする。彼はその信仰と結ばれ、その神格を満足させることを望む。そしてそれから諸々の願望をかなえられる。それらは実は私自身によりかなえられたものである。」

「すべてのものに敵意を抱かず、友愛あり、憐れみ深く、『私のもの』という思いなく、我執なく、苦楽を平等に見て、忍耐あり、常に満足し、自己を制御し、決意も堅く、私に意(こころ)と知性を捧げ、私を信愛するヨーギン、彼は私にとって愛しい。」
「何ごとも期待せず、清浄で有能、中立を守り、動揺を離れ、すべての企図を捨て、私を信愛する人、彼は私にとって愛しい。」
「敵と味方に対して平等であり、また尊敬と軽蔑に対しても平等であり、寒暑や苦楽に対しても平等であり、執着を離れた人、毀誉褒貶を等しく見て、沈黙し、いかなるものにも満足し、住処なく、心が確定し、信愛に満ちた人、彼は私にとって愛しい。」
「この正しい甘露を念想し、信仰し、私に専念する信者たち、彼らは私にとってこよなく愛しい。」

 皆様!!
 智慧は皆様を愛したがっているのです。
 その心のその奥底から。
 智慧は皆様にその全財産を与えたがっているのです。
 どうして皆様は智慧に対してそんなにも素気無いのですか。

 智慧は誰よりも皆様を愛したがっているのです。
 皆様が智慧を愛すれば、智慧はこれでもかこれでもかと言う位皆様を愛して呉れるのです。
 どうして皆様は智慧を愛さないのですか。

 智慧とは何か、それは「至高の帰趨である私」です。
 ここではクリシュナと言う事に成ります。
 何故ならクリシュナは智慧の現人神なのですから。
 しかし皆様に取っての「至高の帰趨である私」とは、皆様の智慧の事です。
 この皆様の智慧は、世界人類に共通している智慧の事なのです。
 皆様がこの智慧を愛すれば愛する程、
 皆様の智慧は、クリシュナの智慧と同じ様な智慧と成り、
 イエスやブッダやソロモンやダビデや孔子や老子やソクラテス=プラトン等々の智慧と同じ様な智慧と成って行くのです。
 これが智慧の神秘です。
 これが全ての哲学宗教の基です。

「人々がいかなる方法で私に帰依しても、私はそれに応じて彼らを愛する。人々はすべて私の道に従う。」
「信仰をそなえ、他の神格を供養する信者たちも、教令によってではないが、実は私を供養するのである。何故なら、私はすべての祭祀の享受者であり、主宰者であるから。」
「それそれの信者が、信仰をもってそれぞれの神格を崇めようと望む時、私は各々の信仰を不動のものとする。彼はその信仰と結ばれ、その神格を満足させることを望む。そしてそれから諸々の願望をかなえられる。それらは実は私自身によりかなえられたものである。」

 皆様の願いを叶えて呉れるのはクリシュナでしょうか、イエスでしょうか。
 いいえ、そうではありません。皆様御自身なのです。
 すなわち皆様の智慧であり、皆様のアートマンであり、
 皆様の主であり、皆様の神であり、皆様の仁であり、皆様の道であり、皆様の良知なのです。
 
 皆様はクリシュナの智慧を学ぶ事に依り、
 イエスの智慧を学ぶ事に依り、
 ダビデの智慧を学ぶ事に依り、
 ソロモンの智慧を学ぶ事に依り、
 ソクラテス=プラトンの智慧を学ぶ事に依り、
 老子、孔子、ブッダの智慧を学ぶ事に依り、
 王陽明、セネカ、エピクロスの智慧を学ぶ事に依り、
 その智慧を学ぶ事に成るのです。

 もし皆様がその智慧に辿り着いた時、皆様の哲学の道は終わりです。
「哲学は道を行き、英知は道の終わりです。」(セネカ「道徳書簡集」)

 その時、皆様の智慧は、
 クリシュナやイエスはダビデやソロモンやソクラテス=プラトンや老子、孔子、ブッダ、セネカ、エピクロスたちとの智慧と何等違いが無くなるのです。
 その時、皆様の智慧が人類共通の智慧と成るのです。

「私は万物の心中に宿る自己(アートマン)である。」
 皆様がこの自己を自らの内に見出した時、
 皆様の聖人君子への道が始まる事に成るのです。

 皆様の聖人君子への道は前途洋洋です。
 何故ならそこには、イエスはブッダや老子、孔子、ダビデ、ソロモン、セネカ、クリシュナ等々の智慧が、
 そして人類共通の智慧が寄り添って呉れるのですから。

 そして何よりも嬉しいのは、
 その聖人君子への道には常に、恍惚(至福)が寄り添って呉れるのですから。

「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。其の中に象有り、恍たり惚たり。其の中に物有り、窈たり冥たり。其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」(「老子」) 

 聖人君子への道、それは「智慧と愛」の道の事です。
 そこには常に恍惚が寄り添って呉れるのです・・
 とても楽しい道のりだと思いますよ。

 「バガヴァッド・ギーター」は、第一級の智慧の書です。
 どうかギーターを丸ごと読み、
 智慧の言葉を拾い出し、
 そして皆様のキーワードに従って整理して見て下さい。
 そうすれば、そこにも皆様の聖人君子への道が広がっている筈なのです。


 それでは以上でクリシュナを終わりにして、
 愈々最後の哲学者、デカルトに入って行こうと思いますが、
 デカルトの智慧の言葉は唯、次の言葉に集約されれます。

『私は考える、ゆえに私はある』

「私は考える、ゆえに私はある」、「我思う、故に我在り」。
 これこそが全ての聖人賢人たちの智慧の基礎の基礎です。
 私が考えるから、私が存在する。
 私が考えなければ、私は存在しない。
 これこそが全ての哲学宗教の基礎の基礎の基礎です。

 皆様は幸福ですか。
 もし皆様が幸福だと言うのなら、
 それは皆様が皆様自らを、幸福だと思っているからに他なりません。
 皆様は不幸ですか。
 もし皆様が不幸だと言うのなら、
 それは皆様が皆様自らを、不幸だと思っているからに他ならないのです。

 とても簡単な原理ですが、
 骨の髄まで正しい原理です。

「私は考える、ゆえに私はある」、「我思う、故に我在り」。
 この原理を正しく理解すれば、
 皆様は決して不幸に成る事は有りません。

 そこに悟りの原理も在るのです。

 悟りとは何でしょう。
 それは妄想無き心の事です。
「無心と言うは、即ち妄想無き心なり。」(「菩提達摩無心論」)

 皆様が無心に成った時、そこに悟りが在るのです。

「問うて曰く、和尚は既に一切処に於いて皆無心なりと云う。木石も亦た無心なり、豈(あ)に木石に同じからざるか。答えて曰く、爾我の無心は、木石に同じからず。何を以ての故ぞ。譬えば天鼓の如し、無心なりと雖復(いえど)も、自然に種々の妙法を出して衆生を教化す。又如意珠の如し、無心なりと雖復(いえど)も、善能(よ)く諸法実相を覚了し、真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し。故に宝積経に云わく、無心意を以って現行す、と。豈(あ)に木石に同じからんや。夫(か)の無心なる者は真心なり、真心なる者は無心なり。」(「菩提達摩無心論」) 

 無心とは、「木石の心」の事ではありません。
 無心とは、「天鼓の如し」、「如意珠の如し」なのです。
 無心とは、「真般若」の事なのです。
 無心とは、皆様が智慧に辿り着いた時の事なのです。
 無心とは、皆様が本当の自分自身(「真心」)に達した時の事なのです。
 無心とは悟りの事。悟りとは、
 皆様が智慧と共に在り、アートマンと共に在り、主と共に在り、神と共に在り、仁と共に在り、道と共に在り、般若と共に在り、智慧と共に在る時の事なのです。
 その時の感覚は恍惚であり、平安であり、平和であり、平静です。
 その時の感覚を比喩して、
 ニルヴァーナとも、涅槃とも、天の国とも、神の国とも、極楽とも言うのです。
 全てが比喩の比喩です。

 悟りとは、皆様が無心の中で、一瞬一瞬に目覚めている状態の時の事を言うのです。
 
「問うて曰く、今は心中に於いて作す。若為(いかん)が修行せん。答えて曰く、但(も)し一切事上に於いて無心なることを覚了せば、即ち是れ修行なり、更に別に修行有らず。 故に、無心なることを知れば、即ち一切寂滅して、即ち無心なり。弟子、是において忽然として大悟し、始めて心外に物なく、物外に心無きことを知り、挙止動用(こしどうゆう)、自在なることを得て、諸の疑網を断じて更に罣碍なし。」(「菩提達摩無心論」)

 悟りとは、皆様が無心の中で、純粋に考える存在に成った時の事なのです。

 そこにおいては、皆様が皆様です。
 そこにおいて、皆様は何処までも何処までも自由自在な存在です。

「無心なる者は真心なり、真心なる者は無心なり。」

 真心、すなわち皆様の本当の真心は、無心です。
 しかし皆様は無心と言っても中々理解する事は出来ません。
 その為に老子が取って置きの言葉を私たちに用意して呉れたのです。
 それこそが『恍惚』なのです。
 恍惚、エクスタシーならば、多くの人が理解出来ます。
 何故ならそれは、人類全ておいて、同じ様に至福なのですから。
 その至福こそが、ニルヴァーナであり、無心であり、悟りなのです。
 その悟りの中から皆様の真心から求めるものが何でも生み出される事に成るのです。

 悟りとはその至福(恍惚)の時の事です。
 そこにおいては、あくまでも私が私です。
 その時の私こそがアートマンであり、本当の私なのです。
 悟りとは、私が私に成る事。
 悟りとは、私が本当の私に成る事。

「我思う、故に我あり」、「私は考える、ゆえに私は在る」
 ここに悟りの神秘が在るのです。

 悟りとは、智慧を悟る事。
 悟りとは、般若を悟る事。
 悟りとは、仁を悟る事。
 悟りとは、道を悟る事。
 悟りとは、神を悟る事。
 悟りとは、主を悟る事。
 悟りとは、本当の自分自身(アートマン)を悟る事。

「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」「ごらんなさい。賢者がどんなふうに自分自身に満足しているかを。」(セネカ「道徳書簡集」)
「ほんとうに存在するものによって自分を満たす。」「自分の本性に適したものによって満たされることが快である。」(プラトン「国家」)

「我思う、故に我在り」
 皆様が本当の自分を悟った時、皆様は本当の自分に成るのです。
 それが悟りです。

 しかし皆様はこの世に囚われています。
 皆様はこの世の妄想、雑念に強く囚われています。
 皆様は自分自身に還る事無く、
 常にこの世に振り回されているのです。

「我思う、故に我在り」
 皆様は思います。私は幸福では無いと。
 そこにその皆様が存在する事に成るのです。

 聖人賢人と言う人たちのベースに在るのは、
 「私とは素晴らしい存在である」と言うその確信です。
 何故彼らが自分自身に対して、そんなにも強い確信を持てるのか。
 それは彼らが常に、
 「神と共に在る」、「智慧と共に在る」、「アートマンと共に在る」、
 「仁と共に在る」、「道と共に在る」、「般若と共に在る」と思っているからに他ならないのです。
 『我思う、故に我在り』
 これこそが皆様を聖人君子への導く道なのです。

 皆様は素晴らしい存在ですか?
 皆様は素晴らしい存在なのです!!!

 皆様が自らをそう言い切る為に必要な事は何でしょう。
 そうですね、哲学(智慧を愛する事)ですよね。
 これは私一人が言っている事ではないですよね。
 十三人の哲学者も異口同音に言っていましたよね。
 もし聖人賢人と言う人がいたら、
 彼らは皆、異口同音にそう言う事に成っているのです。
 何故なら彼らが聖人賢人である由縁は、その智慧にこそ在るのですから。

 皆様にこれまでも何度か言っていますが、
 文字に囚われない事が大切です。
 その智慧(霊)をこそ見抜かなければならないのです。
 「文字は殺すが、霊は生かす」
 皆様が文字を超えて、
 その世界人類に普遍的に存在しているその霊(智慧)を見出した時、
 皆様の聖人君子への道が始まる事に成るのです。

「初めに言(ことば)があった。
 言は神と共にあった。
 言は神であった。
 この言は、初めに神と共にあった。
 万物は言によって成った。
 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
 言の内に命があった。
 命は人間を照らす光であった。
 光は暗闇の中で輝いている。
 暗闇は光を理解しなかった。
 (中略)
 言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
 わたしたちはその栄光を見た。
 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」(「ヨハネ福音書1」)

 皆様は先ず「言」を見出さなければなりません。
 皆様が「言」を見出した時、そこに神が生まれます。
 そして神の体系が。
 そこから皆様は命ある者として、
 その神の体系を実現して行く事に成るのです。

「我思う、故に我在り」
 皆様の本当の皆様は無心です。
 その無心の中で皆様が目覚めると、
 皆様は言と成り、その言から言葉が生まれて行く事に成るのです。
 そこに皆様の神(智慧)の体系が生まれて行く事に成るのです。
「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。」(「老子」)

「では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。」
「神のいない精神は善き精神ではありません。神の種子が人間の体内にばら蒔かれているのです。これらの種子は、もし善き農夫がそれを受け取るならば、それらの始源と同様なものとなって現れ、それが発し来った源と同等なものに成長します。」
「われわれは、この神の仲間であり、またその手足です。われわれの心は感受性が強く、悪徳がそれを抑え付けない限り、あの神的なものに運ばれて行きます。われわれの体の姿勢は直立していて、天を眺めていますが、それと同じように心も、自ら欲するだけ遠くに達することが出来て、結局は神々と同等であることを望むことになるように、自然の力によって造られているのです。」(「道徳書簡集」)

「結局は神々と同等であることを望むことになるように、自然の力によって造られているのです。」
 何故でしょう。
 それは皆様の心の中に『神の種子』、
 すなわち『言』が、『智慧』が、『仁』が、『道』が、『アートマン』が、『良知』が、『主』が、その他それぞれに『それ』と呼ばれるそのものが存在しているからに他ならないのです。
 そしてその究極のその奥義、
 すなわち「それ」とは、『本当の自己(アートマン)』に他ならないのです。

『我思う、故に我在り』
 これこそが全ての哲学宗教の奥義です。
 皆様は皆様が思うものに成れるのです。
 皆様の目的、
 それ本当の自分自身に成る事です。
 皆様が本当の自分自身に成った時、そこに愛が生まれるのです。
そこから皆様は聖人君子としての道を歩む事に成るのです。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
  これが最も重要な第一の掟である。
  第二もこれと同じように重要である。
 『隣人を自分のように愛しなさい。』
  律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(「マタイ福音書」)

 この掟を貫徹した人の事を聖人君子と呼ぶのです。
 皆様が神(智慧)を愛して、神(智慧)に至った時、
 「神は愛なり」と言う言葉が実現する事と成るのです。
 その時皆様は愛です。
 そこから皆様の聖人君子の道が始まる事と成るのです。

「古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。
 その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。
 その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修む。
 その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。
 その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。
 その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致(きわ)む。
 知を致むるは物に格(いた)るに在り。
 物格りて后(のち)知至(きわ)まる。
 知至まりて后(のち)意誠なり。
 意誠にして后(のち)心正し。
 心正しくして后(のち)身修まる。
 身修まりて后(のち)家斉う。
 家斉いて后(のち)国治まる。
 国治まりて后(のち)天下平らかなり。」(「論語」)

 これこそが聖人君子への道であり、智慧への道であり、愛への道なのです。
 皆様が「古えの明徳を天下に明らかにせんと欲した」時、
 すなわち皆様が哲学に目覚めた時、
 すなわち皆様が智慧(神)の体系を明らかにしようと欲した時、
 皆様は智慧(神)の核心への向かう事に成るのです。

 「物格りて后(のち)知至(きわ)まる」
 ここにおいて、皆様は智慧(神)の核心へと至る事に成るのです。

 皆様が智慧(神)の核心に至った後、
 皆様は愛の道をまっしぐらに進む事に成るのです。

 皆様の意は、誠に成り、
 皆様の心は、正しく成り
 皆様の身は、修まり、
 そして皆様の家は斉い、皆様の国は治まり、皆様の天下は太平と成るのです。

 哲学こそが、
 皆様を智慧と愛の人、すなわち聖人君子へと導くのです。
 「我思う、故に我在り」
 皆様は何を思うべきか。
 智慧(神)をこそ思わなければならないのです。
 そうすれば、皆様は智慧と愛の人と成るのです。
 「我思う、故に我在り」
 「私は智慧を思う、そうすればそこに智慧と愛の人としての私が存在する。」
 これこそが、古今東西の聖人賢人たちが言い続けている事です。

皆様は何を思いますか、
この世の思い煩いを思い続けますか、
それとも智慧を思い続けますか。

 もし皆様が不幸を望むのなら、
 今のままこの世の思い煩いを思い続けるが良いでしょう。
 皆様は不幸の中に在り続けられます。
 しかしもし皆様が幸福を望むのなら、
 智慧をこそ思い続けるべきです。
 何故ならそこには何時も至福(恍惚)が伴っているのですから。
 至福とは最高の幸福の事です。
 これ以上の幸福は無いのです。
 皆様が幸福で在り続けていたいと思うなら、
 智慧を愛し続けるしか、その方法は無いのです。
 そしてそこに皆様の智慧と愛の世界も生まれて来るのです。

 以上でデカルトの智慧を終わりにしますが、
 デカルトの智慧で皆様が覚えておくべき言葉は唯一つ、
 すなわち「我思う、故に我在り」だけです。
 そしてこの言葉は、皆様が決して忘れてはならない智慧の言葉なのです。
 何故ならこの言葉に依って、
 皆様が思う皆様に成る事が出来るのですから。
「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」「ごらんなさい。賢者がどんなふうに自分自身に満足しているかを。」(セネカ「道徳書簡集」)

 更に「我思う、故に我在り」の中には、
 死をも超克する神秘が隠されているのです。
 私が思うから、私が存在する。
 私が思わなければ、私は存在しない。

「観自在菩薩、深般若波羅密多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。舎利子よ、色は空に異ならず。空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。受想行識もまたかくのごとし。舎利子よ、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず、この故に、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明もなく、また無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。菩提薩陲は、般若波羅密多に依るが故に、心に罣礙なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなく、顛倒夢想を遠離して涅槃を究竟す。三世諸仏も般若波羅密多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。故に知るべし、般若波羅密多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならざるの故に。」(「般若波羅密多心経」)

 そこには無余涅槃の神秘も隠されているのです。

 以上で十三人の哲学者たちの智慧が如何なるものであるかと言う事についても終わりにします。

 なお、この章の始めの所で、
 智慧について、
 「智慧とは何か」、
 「智慧へと至る方法」
 そして「智慧と共に在る時、人はどの様に成るか」と言う事の三つに分けて説明する様な事を言っていましたが、
 結局はそれらを分けずに纏めて説明してしまった様です。

 これからそれぞれ十三人の哲学者たちについて、
 「智慧へと至る方法」と「智慧と共に在る時、人はどの様に成るか」と言う事について、
 それぞれに説明して行く事に成ると、
 冗長に成るし、また重複する事に成りますから、
 ここでは、
 「智慧とは何か」、「智慧へと至る方法」、そして「智慧と共に在る時、人はどの様に成るか」と言う事を纏めて、総括的に説明する事にします。

 先ずは、「智慧とは何か」ですが、
 皆様はもうその真髄を理解して下さっていますよね。
 智慧とは何か。
 もう一度、十三人の哲学者たちが、それを何と呼んだかと言う事から、整理する事にしましょう。

 ソロモンは、それを知恵と呼びました。また主とも神とも呼んでいます。
 ダビデは、それを主と呼びました。また神とも呼んでいます。
 イエスは、それを父とも神とも主とも聖霊とも言とも呼びました。
 パウロは、それを主とも神ともキリストとも呼びました。
 ブッダは、それを般若と呼びました。
 孔子は、それを仁と呼びました。
 王陽明は、それを良知と呼びました。
 老子は、それを道と呼びました。
 ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカ、デカルトは、それを基本的には知恵と呼びました。時には、神とも呼んでいます。
 クリシュナは、主とも神ともその他様々に呼んでいましたが、基本的にはアートマンです。

 十三人の哲学者たちは、それを様々に呼んでいますが、
 私はそれを『智慧』と言う言葉で総括しているのです。

 十三人の哲学者たちが、
 その智慧を如何に愛し、
 その智慧から如何に愛し返されたか、
 そしてその智慧において、
 如何に確固とした素晴らしい世界を築き上げたか、
 皆様はその目で確かめましたよね。
 そしてそれは皆様の理想とする世界と一寸も違わない事を。
 勿論、時代性と地域性の衣を剥がした上での事です。

 何故なら、そこに在るのは、
 「本当の皆様」であり、
 「愛」であり、
 「至福」なのですから。

 智慧のその真髄において、
 「神は愛なり」と言う言葉が実現しているのです。
 そこから、皆様は、皆様のその世界に応じて、
 皆様の理想の世界を創り上げて行く事に成るのです。
 「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。」
 もしこの全ての過程において、皆様の智慧が貫徹しているならば、
 そこに在るのは、智慧の世界であり、愛の世界であり、神の世界なのです。
 それをこの世において、最も純粋に求めた者が、イエスと言う事に成ります。
 それはイエスの「神の国」に象徴されます。
 「神の国」とは死後の世界の事ではありません。
 この世において、皆様が創り上げるべき世界の事なのです。
 その世界がどの様な世界かと問われれば、
 「智慧と愛の世界」と言う事に成るのです。

 皆様が皆様の理想とする「智慧と愛の世界」を何処まで築き上げられるか、
 それが皆様方哲学者の全人生と言う事に成るのです。
 そして皆様方の聖人君子への道と言う事に成るのです。

 哲学者とは智慧を愛する者の事です。
 そして聖人君子とは、その智慧をこの世に実現する者の事です。
 智慧を愛する事を覚えた者は、
 聖人君子への道を進まなければならないのです。
 何故なら、もし皆様が聖人君子に成らなければ、
 それらの智慧全てが、日の目を見ずに死んでしまう事になるからです。

 智慧とは何か、
 それは本当の皆様の事です。
 この本当の皆様をこの世に実現する事、
 それが聖人君子への道なのです。

 皆様は、本当の自分でこの世を生きなくて良いのですか。
  
 皆様は何の為に生きているのか。
 本当の自分自身に成る為です。
 本当の自分自身とは何か。
 それこそが智慧なのです。

 この智慧から愛が生まれます。
 智慧と愛に満ちた世界、
 それが皆様が心から求めている世界なのです。
 
 皆様は何時も何か満たされない思いに満たされています。
 何故でしょう。
 それは皆様が心から求めているものが何であるかを知らないからです。
 皆様が心から求めているもの、それは智慧と愛の世界以外の何ものでも無いのです。
 皆様はそれをおぼろげに感じる事は有っても、
 それをはっきりと意識する事が出来なかったのです。
 勿論その為に、その世界をこの世に実現しようとする事も無かったのです。
 皆様が何時も何か満たされない思いで満たされている理由、
 それは皆様の智慧と愛の世界がこの世に実現され得ていないからに他ならないのです。

 皆様はこれまでその事について、全く無知でした。
 しかし皆様は哲学者(智慧を愛する者)として、その事をしっかり見極めたのです。
 皆様はもう後戻りは出来ないのです。
 皆様の前に在るのは、ただ聖人君子への道だけなのです。
 それこそが皆様が本当の自分自身に成る為の方法であり、
 そして皆様の智慧と愛の世界をこの世に実現させる為の方法なのです。

 皆様の智慧と愛の世界をこの世に実現させる為の方法、
 それが『祭祀』と言う事に成るのです。
 すなわち皆様自身を、智慧(神)に捧げると言う行為です。
 皆様の全ての行為を智慧(神)に捧げれば、そこに在るのは愛のみです。
 そこにおいて「神(智慧)は愛なり」の言葉が実現する事に成るのです。
 そこにおいて、皆様がこれまで無意識の中で思い続けていた智慧と愛の世界がこの世に顕現する事になるのです。
 その時、皆様は本当の自分自身(アートマン)に成り、ブラフマンの境地へと入って行く事に成るのです。

 智慧とは何か。
 それは本当の自分自身の事。
 それを古今東西の聖人賢人たちは様々なニックネームで呼んだのです。
 それが、道だったり、仁だったり、良知だったり、知恵だったり、アートマンだったり、主だったりしたのです。
 そしてその極めつけが「神」や「仏」と言う事になるのです。
 皆様は神の子であり、仏の子です。
 皆様は神の子として、神を求める様に出来ているのです。
 皆様は仏の子として、仏を求める様に出来ているのです。
 何故なら、それらは全て、究極の本当の皆様自身の事なのですから。
 これが全ての哲学宗教の奥義です。

 何故哲学者は、あれ程までに激しく智慧を求めるのか。
 何故宗教者は、あれ程までに激しく神を求めるのか。
 何故なら、それらが全て、本当の自分自身に他ならないからです。

 本当の皆様自身がどれ程、素晴らしい存在か。
 それは皆様が智慧を愛する様に成れば、分かる事なのです。

 智慧を愛するとは、
 古今東西の聖人賢人たちの智慧の言葉を愛する事であり、
 皆様自身の心の奥底から湧いて来る智慧の言葉を愛する事です。
 それらを愛すれば愛する程、
 皆様は皆様の智慧を自らにおいて実感する事が出来る様に成るのです。
 何故ならそこにおいて、
 皆様の智慧が古今東西の聖人賢人たちの智慧と一つに融合する事に成るからです。
 そしてそこに在るのが『恍惚』と言う事に成るのです。
 この恍惚と言う感覚こそが、皆様が智慧と共に在ると言う時の証明と成るのです。
 
 この辺りで、
 「智慧とは何か」
 「智慧に至る方法」そして
 「智慧と共に在る時、人はどの様に成るのか」を
 総括的に纏めて見ようと思います。

 「智慧とは何か」、
 それは最高最善のもの、
 それは人類全ておいて、平等に存在している。
 そしてそれは一人一人においては、最高の自己(アートマン)として存在している。

 「智慧へと至る方法」、
 それは哲学。
 すなわち古今東西の聖人賢人たちの智慧の言葉を愛する事であり、
 皆様自身の心の中から湧き出て来る皆様自身の智慧の言葉を愛する事。
 これらの智慧の言葉を愛し続けていれば、
 皆様は何時しかその智慧へと至る事に成るのです。
 その時皆様は恍惚に成るのです。
 この恍惚こそが皆様が智慧に至った時の証明と成るのです。
  
 「智慧と共に在る時、人はどの様に成るのか」
 人は恍惚に成るのです。
 恍惚とは、自由と喜びと平安に満ちた世界の事です。

 その恍惚の中で、皆様は至福を感じる事に成るのです。
 その恍惚の中で、皆様は皆様自身が如何に素晴らしい存在であるかを知る事に成るのです。
 その恍惚の中で、皆様は皆様の智慧と古今東西の聖人賢人たちの智慧がその本質において何の違いも無い事を了解する事に成るのです。
 その恍惚の中で、皆様は古今東西の聖人賢人たちの智慧を一瞥の下に了解する事に成るのです。
 その恍惚の中で、皆様は皆様の智慧を強く愛する様になり、そして隣人をも強く愛する様に成るのです。
 その恍惚の中で、皆様は智慧(神)は愛なり、と言うその言葉の意味をはっきり認識する様に成るのです。
 そしてこの『恍惚』こそが、皆様が智慧と共に在る時の証明と成るのです。
 その恍惚の中で、皆様は全てにおいて満たされたと感じる様に成るのです。
「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。
 道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。
 其の中に象有り、恍たり惚たり。
 其の中に物有り、窈たり冥たり。
 其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。
 古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。
 吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」(「老子」)

 以上で、「智慧とは何か」、「智慧に至る方法」、「智慧と共に在る時、人はどの様に成るのか」についての、総括説明を終わる事にします。

 皆様!!
 智慧が如何に素晴らしい存在であるか分かりましたか?
 智慧を求めない人生が、如何に心貧しい世界であるか分かりましたか。
 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(「マタイ福音書」)

 皆様が智慧を求めれは、そこに天の国があるのです。
 それは恍惚の世界です。
 それは自由と喜びと平安と至福に満ちた世界です。
 そこに入ると、古今東西の聖人賢人たちの智慧が一瞥の下に了解する事が出来る様に成るのです。
 智慧を求めた先にはそんな素敵な世界が待っているのです。

 智慧は皆様の幸せを約束します。
 少なくとも、皆様が智慧を愛している間だけは、智慧は皆様に幸福を約束して呉れるのです。これは間違いの無い事です。
 もし皆様が不幸せであるのなら、智慧を愛して下さい。
 そうすれば智慧は皆様のその不幸の源を綺麗に洗い流し、
 そして皆様を至福(恍惚)へと導いて呉れます。
 「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」(「マタイ福音書」)

 哲学(智慧を愛する事)には三つの段階があります。
 一つ目は皆様の悩みを綺麗に洗い流し、
 皆様を恍惚(至福)へと導く事です。
 「哲学は最高の浄化具である」

 二つ目はその恍惚の中で、
 古今東西の聖人賢人たちの智慧を了解する事に成る事です。
「道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。其の中に象有り、恍たり惚たり。其の中に物有り、窈たり冥たり。其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」
 
 三つ目はその恍惚の中で、強く愛を感じる様に成ると言う事です。
 何故なら恍惚こそが、愛の実相なのですから。
 ここおいて「神(智慧)は愛なり」と言う言葉の意味をはっきりと認識する様に成るのです。
 「心の清い人は幸いである、その人たちは神を見る」(「マタイ福音書」)
 ここまでが哲学者の仕事と言う事に成ります。

 ここから一歩踏み出した人の事を聖人君子と呼ぶ事になります。
 すなわち「神(智慧)は愛なり」の愛を、
 この世に実現させようとの強い意志を持って、
 この世に踏み出した人の事を聖人君子と呼ぶ事に成るのです。
 「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(「マタイ福音書」)

 智慧の世界(神の世界、仏の世界)とは恍惚の世界。
 それは自由と喜びと平安と至福に満ちた世界。
 その様な世界をこの世に実現しようとする者こそが、
 神の子と呼ばれ、仏の子と呼ばれ、智慧の子と呼ばれるのです。
「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」
「義に飢え渇く人々は幸いである、その人たちは満たされる」(「マタイ福音書」)
 今、私はその様な人の事を、聖人君子と呼ぼうとしているのです。

 哲学者とは、自らの内に、智慧の世界(恍惚の世界)を持つ者の事。
 そして聖人君子とは、その世界をこの世に実現しようとする者の事。
 今、私はその様に整理しようとしているのです。

 智慧から愛へ、智慧は愛なり。
 「智慧と愛に満ちた世界の実現」、
 これが、哲学の最終目標なのです。
 そして「哲学国家日本」の最終目標でもあるのです。
 その為には、皆様が先ず哲学者と成り、
 そして次には、皆様が聖人君子と成らなければならないのです。
 皆様が聖人君子と成る事に依って始めて、
 この日本が哲学国家へと変貌して行く事に成るのです。

「子曰く、吾れ十有五にして学に志す。
 三十にして立つ。
 四十にして惑わず。
 五十にして天命を知る。
 六十にして耳順(した)がう。
 七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。」(「論語」)

 これこそが、皆様が哲学者と成り、
 そして哲学者から君子へ、
 更には君子から聖人への道のりを示したものと言えます。
 皆様が聖人と成る為には、十五歳で哲学に志さなければならない様です。

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