第十七章 哲学広場と哲学読本大全について
日本を哲学国家へと導くのは、哲学広場です。
何故なら、哲学広場から生まれれた聖人君子が日本を哲学国家へと導いて行く事に成るからです。
しかしその前に、哲学読本大全が無ければならないのです。
哲学広場と哲学読本大全が、車の両輪と成って、この日本を哲学国家日本へと導いて行く事に成るのです。
哲学広場は日本全国の、小学校、中学校、高校、大学、地区公民館に設置される事と成ります。
そこには様々な人が集い、哲学読本大全を基に様々な哲学的対話がなされ、更にそれらに基づいて様々な哲学的行為が実践されて行く事に成るのです。
その様な哲学的営為が、日本全国の小学校、中学校、高校、大学、地区公民館の哲学広場で営まれる事と成るのです。
そしてそれらの哲学広場が連携し合い、響き合う事に依って、そこに哲学的風土と言うものが生まれて来る事に成るのです。
その様な哲学的風土の中で、優秀な哲学者や聖人君子と呼ばれる哲学者たちが多数生まれて来る事に成るのです。
その事は火を見るよりも明らかなのです。
何故なら哲学、すなわち智慧を愛すると言う事は、人間の第二の本能だからです。
その本能に目覚めた者は、その本能に従って生きるより仕方が無くなるからです。
この世においては、その本能を目覚めさせない様にしています。
しかし哲学広場がお互いに響きあうその様な哲学風土の中においては、
その本能に従って生きよと勧める事に成るのです。
誰に遠慮もせずに、その本能に生きる事が可能と成るのです。
そのエネルギーたるや凄いものがあるのです。
もし「小中高校大学哲学一貫教育」や「大学教育学部における徹底した哲学教育」や「哲学読本大全」の下で、「哲学広場」が全国的に展開したらその力は物凄い力があるのです。
この日本を簡単に哲学国家へと変えてしまうのです。
何故なら、国家全体で、その本能に従って生きよと勧めるのですから・・
智慧、それこそが人間の本性です。
哲学はその智慧を愛せよと勧めるのです。
そして哲学国家日本もその様に生きよと勧めるのです。
その様な哲学風土の中で、
その本性が本能へと変わるのです。
それが本能と成った人はもう智慧を愛する事を止める事が出来なく成ります。
彼らが聖人君子と成って、
この日本を哲学国家へと変えて行く事に成るのです。
そしてその先に在るのが智慧と愛に満ちた哲学国家日本と言う事に成るのです。
そんな日本はお気に召しませんか?
しかし心配は要りません。
どんなに間違っても、
日本全部が哲学に染まる事はありませんので。
それが人類なのですから。
哲学国家日本の最高の理想の姿は、
半分が哲学の民で、半分が反哲学の民と言う事に成ります。
それでこそ、哲学国家日本が保たれる事と成るのです。
その半分の力を維持する為の力が哲学広場であり、
その哲学広場から生まれる聖人君子たちと言う事に成るのです。
少し形而上学的な言い回しに成りましたが、
哲学広場の究極的な目的はそう言う事に成るのです。
その為にも、全国の全ての小学校、中学校、高校、大学、地区公民館に哲学広場を設置する必要があるのです。
哲学広場を設置する為にはお金は一円も要りません。
会場はそれぞれの施設の研修室等を無償で使用します。
そして哲学ボランティア‘ソクラテス’は皆、無償です。
ですから、日本全国の全ての小学校、中学校、高校、大学、地区公民館に哲学広場を設置するとしてもお金は一円も要らないのです。
必要なのは、ただ熱意ある哲学ボランティア‘ソクラテス’だけなのです。
一つの哲学広場に、十二人の哲学ボランティア‘ソクラテス’が集まれば、その哲学広場は十二分に運営して行く事が出来ます。
哲学広場はとてもとても簡単な仕組みなのです。
皆様には皆様のその地区の哲学広場の哲学ボランティア‘ソクラテス’に成って頂きたいのです。
そうすれば、直に日本全国に哲学広場が設置される事と成るのです。
ここで皆様はこう思うかも知れません。
自分はとても哲学ボランティア‘ソクラテス’には成れないと。
大丈夫です。
その為にこそ「哲学読本大全」があるのです。
哲学読本大全に依って、既に古今東西の聖人賢人たちの智慧が一つに成っているのです。
後は皆様と哲学広場を訪れた方々と一緒に成って、「哲学読本大全」のその智慧の下に、対話を進めて行けば良いのです。
そうすれば、その智慧が皆様方をその智慧へと導いて呉れる事に成るのです。
「三人寄れば文殊の智慧」
「子の曰く、我れ三人行えば必ず我が師を得る」(「論語」)
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(「マタイ福音書」)
皆様のバックには、文殊様と孔子とイエスが付いているのです。
いいえ皆様のバックには、世界人類の智慧が付いているのです。
その智慧が、皆様方を世界人類の智慧へと導いて呉れるのです。
もし「大学教育学部における徹底した哲学教育」が完成していたら、
そこにいる教師の大半が哲学ボランティア‘ソクラテス’の有資格者です。
彼らが小中高大学哲学一貫教育の教師として児童生徒学生を哲学者(智慧を愛する者)に導くと共に、
更には哲学ボランティア‘ソクラテス’と成って、
それぞれの所属する小中高大学における哲学広場は勿論、
全ての哲学広場の中心的存在と成って、
哲学広場を牽引して行く事に成るのです。
彼らの力に依って、
あっという間に日本全国の小中高大学、地区公民館に哲学広場が設置される事に成るのです。
しかし先程述べた様に、
「小中高校大学哲学一貫教育」と「大学教育学部における徹底した哲学教育」については直ぐに実行する事が出来ないので、
先ずは皆様の力で「哲学広場」と「哲学読本大全」を先行させる事とするのです。
なお、哲学広場とは、日本全国の全ての小学校、中学校、高校、大学、地区公民館に設置する事と成っていますが、
今の時点で、これらの哲学広場全部を一気に設置する事にはやはり無理があると思いますので、
先ずは、日本全国の全ての市町村に一つの哲学広場を設置すると言う事を目標にして、哲学広場を展開して行きたいと思います。
全ての市町村に一つずつでも、それはそれでとても大きな力を発揮する事と成るのです。
何故ならその一つの哲学広場に、その市町村の英知が結集する事に成るのですから。
そしてその哲学広場を中心にして、その市町村における様々な哲学広場が展開される事にも成るのですから。
市町村に一つの哲学広場であれば、その哲学広場は直ぐにでも立ち上げる事が出来るのです。
それでは全国の各市町村に一つづつ設置されるその哲学広場の概要について見て行く事にしましょう。
先ず、設置場所ですが、
中央公民館(研修室)とします。
次に、設置時間ですが、
毎週土曜日の午後二時から午後五時までとします。
次に、哲学広場の開設時間に常駐する哲学ボランティア‘ソクラテス’の人数は、
二名以上とします。
次に、一つの哲学広場に所属する哲学ボランティア‘ソクラテス’の人数は、
十二名以上とします。
次に、一人の哲学ボランティア‘ソクラテス’が一年間に哲学広場を担当する回数は、
年九回程度とします。((五十五回×二人)÷十二人≒九回)
次に、哲学広場の名称は、
「哲学広場市町村名」とする事とします。
次に、哲学広場は中央公民館の自主活動グループとして位置付ける事とします。
これにより、会場使用料が無料と成ります。
以上が各市町村に設置される哲学広場に関する基本的事項です。
どうです。とても簡単でしょう。
そして無理のない運営でしょう。
皆様が中心と成って、
皆様が住んでいる市町村の中央公民館に、
哲学広場市町村を設置すれば、
忽ちの内に、日本全国の全ての市町村に哲学広場が設置される事と成るのです。
しかし皆様は言われるか知れません。
自分一人で哲学広場を立ち上げる自信がないと。
それも無理の無い事かも知れません。
その為にこそ、
「哲学広場日本」と「哲学広場都道府県」を設置する事とするのです。
哲学広場日本と哲学広場都道府県が連携して、各市町村の哲学広場を支援する事と成るのです。
それでは、その哲学広場日本と哲学広場都道府県の設置方法について、その概要を簡単に示して行きたいと思います。
先ずは哲学広場各都道府県の設置方法から説明して行きたいと思います。
哲学広場都道府県については、その事務局を、哲学広場都道府県所在地に置く事とします。
すなわち
哲学広場鹿児島県の事務局については、哲学広場鹿児島(市)に
哲学広場愛媛県の事務局については、哲学広場松山(市)に
哲学広場島根県の事務局については、哲学広場松江(市)に
哲学広場山梨県の事務局については、哲学広場甲府(市)に
哲学広場石川県の事務局については、哲学広場金沢(市)に
哲学広場岩手県の事務局については、哲学広場盛岡(市)に置く事とします。
何故哲学広場都道府県の事務局を哲学広場都道府県所在地に置くのか、
それは先ず哲学広場県庁所在地を成功させ、
その成功事例を都道府県内の市町村に波及させて行く為です。
哲学広場都道府県の構成員は、全員哲学ボランティア‘ソクラテス’とします。
原則的には、市町村の哲学広場の哲学ボランティア‘ソクラテス’が哲学広場都道府県の哲学ボランティア‘ソクラテス’(構成員)に成る事としますが、
哲学広場が設置されていない市町村に住む者で哲学広場に関心のある者は、直接、哲学広場都道府県の哲学ボランティア‘ソクラテス’(構成員)に成る事が出来る事とします。
そして哲学広場都道府県の哲学ボランティア‘ソクラテス’ (構成員)は、全ての市町村の哲学広場の哲学ボランティア‘ソクラテス’に成る事が出来る事とするのです。
これにより、哲学広場都道府県が、全ての市町村の哲学広場の設置運営を支援して行く事が出来る事に成るのです。
なおこの事は後でも述べますが、
哲学広場都道府県の哲学ボランティア‘ソクラテス’が、哲学広場日本の哲学ボランティア‘ソクラテス’(構成員)に成る事に成ります。
そして哲学広場日本の哲学ボランティア‘ソクラテス’(構成員)は、日本全国の全ての哲学広場の哲学ボランティア‘ソクラテス’に成る事が出来る事とするのです。
これにより、日本全国の全ての市町村における哲学広場の設置運営がより円滑に行われる事と成るのです。
何故なら、日本全国の全ての哲学広場の設置運営に関して、日本全国の全ての哲学ボランティア‘ソクラテス’が応援して呉れる事に成るのですから。
それではまた哲学広場都道府県の設置方法に還りたいと思います。
これまでの話の中では、全ての各市町村に一斉に哲学広場が設置されるかの様に話していますが、やはりそうはならないと思います。
先ずは都道府県所在地に哲学広場が設置され、その成功事例が各市町村に波及して行く事と成ると思います。
その為に、哲学広場都道府県所在地に哲学広場都道府県の事務局を置き、
哲学広場都道府県所在地と哲学広場都道府県を同時に設置する事とするのです。
先ずは哲学広場都道府県に、その都道府県の哲学に関心のある者が集まって来る事に成ります。
彼らは皆、哲学ボランティア‘ソクラテス’です。
彼ら全員が先ずは、哲学広場都道府県所在地の哲学ボランティア‘ソクラテス’と成って、哲学広場都道府県所在地の活動を支援する事と成るのです。
哲学広場都道府県所在地に、その都道府県の英知が結集する事と成ります。
その哲学広場都道府県所在地が成功しない訳がありません。
哲学広場は通常、二三人の哲学ボランティア‘ソクラテス’が常駐し、哲学広場を訪れた者と哲学ボランティア‘ソクラテス’とが哲学的対話を楽しむ事と成ります。
また哲学広場を訪れた者同士でも、哲学的対話を楽しむ事と成ります。
しかし哲学広場都道府県所在地には、その都道府県の全ての哲学ボランティア‘ソクラテス’が集結する事に成るのです。
哲学広場に常駐する哲学ボランティア‘ソクラテス’の数は、二三人ではなく、
或いは十人、
或いは二十人、
或いは三十人と成るのかも知れません。
彼らが哲学広場を訪れた人々と哲学的対話を楽しむ事と成るのです。
また哲学広場を訪れた者同士で、哲学的対話を楽しむ事にも成ります。
その有様は、まるでギリシアのアゴラかローマのフォーラムの様。
その評判を聞いて、更に市民が集まる事と成ります。
その有様は、ギリシアのアゴラやローマのフォーラム以上。
これで哲学広場都道府県所在地は成功と言う事に成るのです。
この哲学広場都道府県所在地の成功事例を、今度は各市町村に波及させて行く事に成るのです。
勿論、哲学広場都道府県の哲学ボランティア‘ソクラテス’全員が、全面的にバックアップする事に成ります。
哲学広場都道府県の哲学ボランティア‘ソクラテス’全員の全面的バックアップに依り、
程なく、その都道府県内の全ての市町村に、哲学広場市町村が設置される事と成るのです。
これで当初の哲学広場の展開は完成と言う事に成ります。
なお、この展開は、日本全国の全ての都道府県で同時的に行われるので、
各都道府県の市町村全てに哲学広場が設置された時、
日本全国の全ての市町村に哲学広場が設置された事に成るのです。
この哲学広場の全国的展開を、全国的規模で支援して行く組織が、哲学広場日本と言う事に成るのです。
すなわち哲学広場市町村の哲学ボランティア‘ソクラテス’が哲学広場都道府県の哲学ボランティア‘ソクラテス’と成り、
哲学広場都道府県の哲学ボランティア‘ソクラテス’が哲学広場日本の哲学ボランティア‘ソクラテス’と成る事に依って、
全国の全ての哲学ボランティア‘ソクラテス’が哲学広場日本に集結する事に成るのです。
そして、この哲学広場日本の哲学ボランティア‘ソクラテス’が、日本全国の全ての哲学広場をバックアップする事に成るのです。
どうです。
簡単に日本全国の全ての市町村に一つづつ哲学広場(哲学広場市町村)が設置されたでしょう。
これも偏に皆様の協力に依るのです。
どうか協力方よろしくお願いします。
なお日本全国の全ての市町村に一つづつの哲学広場の設置が完了したら、
次の目標は、日本全国の全ての高校、大学、地区公民館に哲学広場を設置する事とします。
ここまでが皆様方の力で行うべき哲学広場展開の最終目標とします。
小学校、中学校への哲学広場の設置については、その絶対数が多い事、また教育的配慮も必要な事から、「大学教育学部における徹底した哲学教育」と「小中高大学哲学一貫教育」の実現、すなわち哲学的素養の優れた教師の出現を待って行う事とします。
それではもう一度哲学広場都道府県と哲学広場日本の設置手順に戻りたいと思います。
先ずは哲学広場都道府県ですが、
これについては先にも述べました様に、
哲学広場都道府県と哲学広場都道府県所在地を同時に設置する事とします。
先ずは、皆様が中心と成って、
「哲学広場都道府県設立発起会」と「哲学広場都道府県所在地設発起人会」を組織し、哲学広場都道府県設立趣意書と哲学広場都道府県所在地設立趣意書を作成します。
次に、哲学広場都道府県設立発起会と哲学広場都道府県所在地設立発起人会の名において、哲学広場都道府県設立趣意書と哲学広場都道府県所在地設立趣意書を発表し、小学校、中学校、高校、大学、地区公民館、図書館等、更にはマスコミを通じて、それぞれの哲学ボランティア‘ソクラテス’(構成員)を募集する事とします。
原則として哲学広場都道府県の哲学ボランティア‘ソクラテス’(構成員)には、その都道府県に住所を有する者が成る事とし、
哲学広場都道府県所在地の哲学ボランティア‘ソクラテス’(構成員)には、その都道府県所在地に住所を有する者が成る事とします。
また哲学広場都道府県所在地の哲学ボランティア‘ソクラテス’(構成員)は、併せて哲学広場都道府県の哲学ボランティア‘ソクラテス’(構成員)にも成る事とします。
次に、哲学広場都道府県の哲学ボランティア‘ソクラテス’(構成員)が百名に、
哲学広場都道府所在地の哲学ボランティア‘ソクラテス’(構成員)が五十名に成った時点で、
「哲学広場都道府県」と「哲学広場都道府県所在地」を設立させます。
次に、大学の哲学担当教官等に、哲学広場都道府県の顧問団に成って頂きます。
その際に、大学教育学部の哲学担当教官には出来るだけ、顧問団に入って頂く事とします。何故なら彼らに依って、「大学教育学部における徹底した哲学教育」と「小中高大学哲学一貫教育」が実施されて行く事に成るのですから。
次に、大学の哲学担当教官等に講師に成って頂き、都道府県庁所在地の中央公民館で「哲学講座」(半年又は一年程度)を実施します。
この哲学講座には、出来るだけ哲学ボランティア‘ソクラテス’は参加する事とします。
次に、哲学講座を卒業した哲学ボランティア‘ソクラテス’が中心に成って、中央公民館の自主活動グループとしての「哲学広場都道府県所在地」を結成し、中央公民館に自主活動グループとしての届け出を行う事とします。
次に、毎週土曜日の午後二時から午後五時まで、中央公民館の研修室等を借用して、『哲学広場都道府県所在地』(哲学対話室)を開設する事とします。
この哲学広場都道府県所在地に、可能な限り、哲学広場都道府県の哲学ボランティア‘ソクラテス’は集結する事とします。
この哲学広場都道府県所在地においては、哲学ボランティア‘ソクラテス’は哲学広場を訪れた者とだけ哲学的対話を行うのではなく、
哲学ボランティア‘ソクラテス’同士でも哲学的対話を行う事とするのです。
哲学ボランティア‘ソクラテス’としての技量を高めて行く事ともするのです。
哲学広場都道府県所在地が、その都道府県内の哲学ボランティア‘ソクラテス’を育成する場所とも成って行くのです。
哲学広場都道府県所在地の哲学広場(中央公民館)には、哲学広場都道府県の哲学ボランティア‘ソクラテス’が集結する事になるので、そのエネルギーたるや物凄いものと成ります。
その数は、十人、二十人、三十人、或いは五十人、百人とも成るのでしょう。
彼ら哲学ボランティア‘ソクラテス’が哲学広場(中央公民館)を訪れた者と、
また彼ら哲学ボランティア‘ソクラテス’同士で、
更には哲学広場を訪れた者同士で、
哲学的対話を楽しむ事と成ります。
その有様は、アテネのアゴラかローマのフォーラムの様。
それが評判を生み、更に市民が集まる事と成ります。
その有様は、アテネのアゴラやローマのフォーラム以上。
その評判を聞いて、マスコミが取材する事と成り、
哲学広場の概念がその都道府県内に浸透する事と成り、
各市町村(中央公民館)への哲学広場の設置意欲が高まる事と成り、
哲学広場都道府県の哲学ボランティア‘ソクラテス’の全面的バックアップに依り、
その都道府県内の全ての市町村(中央公民館)に哲学広場が設置される事と成るのです。
この哲学広場の展開は、各都道府県で同時的に行われる事と成るので、
あっと言う間に、日本全国の全ての市町村(中央公民館)に一つづつ哲学広場(哲学広場市町村)が設置される事と成るのです。
この哲学広場の展開の中心と成るのが、「哲学広場都道府県」であり、
そして全国的展開を支援するのが「哲学広場日本」と言う事に成るのです。
哲学広場都道府県の構成員は全員、哲学ボランティア‘ソクラテス’とし、
哲学広場都道府県の哲学ボランティア‘ソクラテス’(構成員)は、原則として哲学広場市町村の哲学ボランティア‘ソクラテス’が成る事とするが、
哲学広場市町村が設置されていない市町村に住んでいる者で哲学に関心のある者は、直接、哲学広場都道府県の哲学ボランティア‘ソクラテス(構成員)’に成る事が出来る事としましたが、
哲学広場日本も、これと全く同じ仕組みを取る事とするのです。
すなわち、
哲学広場日本の構成員は全員、哲学ボランティア‘ソクラテス’とし、
哲学広場日本の哲学ボランティア‘ソクラテス’(構成員)は、原則として哲学広場都道府県の哲学ボランティア‘ソクラテス’が成る事とするが、
哲学広場都道府県が設置されていない都道府県住んでいる者で哲学に関心のある者は、直接、哲学広場日本の哲学ボランティア‘ソクラテス’(構成員)に成る事が出来る事とするのです。
そして哲学広場日本の哲学ボランティア‘ソクラテス’(構成員)は、日本全国の全ての哲学広場の哲学ボランティア‘ソクラテス’に成る事が出来る事とするのです。
これにより、哲学広場の全国的展開が加速度的に進む事と成るのです。
何故なら、日本全国の哲学ボランティア‘ソクラテス’が、日本全国の哲学広場を支援する事に成るのですから。
哲学ボランティア‘ソクラテス’は何処に居ても、哲学広場の設置支援要請等があれば、直ぐに駆けつける事になるのです。
何故なら、それが哲学ボランティア‘ソクラテス’の哲学ボランティア‘ソクラテス’たる由縁なのですから。
この様にしてあっという間に、日本全国に哲学広場が展開される事と成るのです。
それではその哲学広場日本の設立手順について説明して行きたいと思います。
先ずは、皆様方(哲学広場都道府県の哲学ボランティア‘ソクラテス’)が中心と成って、
哲学広場日本設立発起人会を組織し、哲学広場日本の設立趣意書を作成します。
次に、哲学広場日本設立発起人会の名において、哲学広場日本の設立趣意書を発表し、
日本全国の小学校、中学校、高校、大学、地区公民館、公立図書館等、更にはマスコミを通じて、
哲学ボランティア‘ソクラテス’(構成員)を募集します。
次に、哲学ボランティア‘ソクラテス’(構成員)が千人に成った時点で、
哲学広場日本を設立させます。
哲学ボランティア‘ソクラテス’(構成員)の最終的な人数は、何万人、何十万人(日本全国の小学校、中学校、高校、大学、地区公民館の哲学ボランティア‘ソクラテス’の数)にも成る事と成りますが、取り敢えずは千人に成った時点で、哲学広場を設立させる事とします。
次に、大学の哲学担当教官や学識経験者に、顧問団に入って頂きます。
なお大学教育学部の哲学担当教官には、出来るだけ顧問団に入って頂く事とします。
何故なら、彼らに依って、「大学教育学部による徹底した哲学教育」と「小中高大学哲学一貫教育」が実施される事に成るのですから。
以上が、設立手順です。
後は全国の哲学広場の展開に従って、必要な事業を展開して行く事に成ります。
なお哲学広場日本の最終的な事業体系を示すと次の様なものに成ると思います。
一 哲学ボランティア‘ソクラテス’の育成支援
二 全国の哲学広場の設置運営の支援
三 哲学読本大全の作成(哲学読本大全作成委員会の事務局を担当)
四 哲学講座の実施
五 哲学随想集の作成
六 哲学対話録の作成
七 ホームページの設置運営
八 機関誌「哲学広場」の発行
九 小中高大学哲学一貫教育及び大学教育学部における徹底した哲学教育の研究支援
十 智慧と愛の哲学学会事務局の運営
十一 哲学専門学校(智慧と愛の学校:聖人君子養成施設)の運営
以上が哲学広場日本の最終的な事業体系ですが、
先ずは、設立と同時に、哲学読本大全の作成とホームページの設置運営を行う事とします。
何故設立と同時に、哲学読本大全の作成とホームページの設置運営に取り組むのか。
それは、哲学読本大全が無ければ、哲学広場が一歩も進まないからです。
しかし哲学読本大全が有れば、哲学広場は自律的に運営される事と成り、
また哲学読本大全の存在に依って、日本全国の小学校、中学校、高校、大学、地区公民館に自律的に哲学広場が設置されて行く事に成るからです。
何故か、
それは、哲学読本大全に世界人類の智慧が宿っているからに他なりません。
その智慧が哲学広場を自律的に運営させる事と成り、
その智慧が日本全国の小学校、中学校、高校、大学、地区公民館に哲学広場を自律的に設置させる事と成るのです。
そしてその哲学読本大全を掲載する場所が、哲学広場日本のホームページ上と言う事に成るのです。
なお哲学読本大全は、哲学広場日本が作成するのではなく、
哲学読本大全作成委員会が作成する事と成ります。
哲学広場日本はその事務局を担当する事に成るのです。
哲学読本大全は国民的歴史的知的共有財産と成るものですので、
日本国民の英知を結集して作成しなけば成らないのです。
その為にも委員会方式で作成する事としなければならないと言う事に成るのです。
哲学読本大全については、前にも述べました様に、オンデマンド印刷製本用とウェブ閲覧用の二種類を作成する事となります。
この二種類の哲学読本大全を哲学広場日本のホームページ上に掲載する事と成るのです。
そして日本全国の小学校、中学校、高校、大学、地区公民館、公立図書館においては、このオンデマンド印刷製本原稿から哲学読本大全を印刷製本して、
図書室もしく図書館に開架図書として一般の用に供する事と成るのです。
これにより、哲学読本大全は、誰でも何処にいても自由に読める事が出来る事に成るのです。
パソコンを利用出来る人は、ウェブ上で読む事に成るでしょうし、
パソコンを利用出来ない人は、それぞれの図書室、図書館で読む事に成るのです。
この哲学読本大全の作成に依って、
哲学(智慧を愛する事)が日本中に浸透して行く事に成るのです。
何か悩みのある人は、
この哲学読本大全でその悩みの解決方向を見出す事でしょう。
何かを求めていた人は、
この哲学読本でその求めていた何かを予感する事でしょう。
しかし彼らは思うのです。
もっともっと突き詰めてみたい。
そしてその事を真剣に共有する事の出来る人(哲学ボランティア‘ソクラテス’)と話し合ってみたい。
そこに哲学広場が出現する事と成るのです。
彼らは哲学ボランティア‘ソクラテス’と話し合う事に成ります。
そして答えを見いだすのです。
二人は別れる時、微笑みながら握手をして、再会を約します。
何故なら彼ら二人は、智慧と愛の名に依って、友と成ったからです。
何故彼ら二人が急に友に成れたのか、
それは哲学読本大全に依って、世界人類の智慧を共有していたからに他なりません。
彼らは対話に依って、それを確認し合ったのです。
そしてその智慧と愛に名に依って、彼らは友と成ったのです。
この様にして、多くの人々が、その智慧と愛の名に依って、友と成って行くのです。
哲学読本大全、
そこにおいて、人々は智慧と愛を見出します。
哲学広場
そこににおいて、人々はその智慧と愛を確認し合うのです。
『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである』
哲学広場、
それはその智慧と愛を確認する場所なのです。
哲学読本大全には五十万編以上の古今東西の名著の中の名文が収められていますが、
それらは皆、その智慧と愛から発せられたものであり、
そしてそれは皆、その智慧と愛へと収束して行く事と成るのです。
『智慧と愛』
それを確認する場所が『哲学広場』と言う事に成るのです。
「智慧と愛」
それこそが幸福の源です。
「智慧と愛」
それを手に入れれば、誰でも幸せに成れます。
「智慧と愛」
それは何にも変え難いこの世の宝です。
「智慧と愛」
それを手に入れれば、誰でも幸せに成れるのです。
「哲学広場」
それがその智慧と愛を手に入れる場所なのです。
究極の智慧と愛、
それは一つです。
人が智慧を求めて智慧に至った時、
そこに愛が生まれるのです。
その智慧と愛は一つです。
その時のその智慧と愛とは原初の智慧と愛の事です。
それは「神は愛なり」と言う時のその境地。
そこは無心、無垢、無我、無念、無想の境地。
そこには一人で入って行かなければなりませんが、
そこから出る時、
人にこの世の智慧と愛が生まれる事に成るのです。
人はそこで思うのです。
この智慧と愛を実現させたい。
そこに哲学広場が出現する事に成るのです。
哲学広場において
その二人の智慧と愛が響き合う事に成るのです。
『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである』
その智慧と愛の中において、
その二人はその智慧と愛の世界を確認し合い、
そして聖人君子への道を進む事をお互いに約束する事と成るのです。
哲学読本大全に依って、皆様は真の哲学者(智慧を愛する者)に成ります。
そして哲学広場に依って、皆様は聖人君子への道へと進む事に成るのです。
究極の智慧と愛、
そこは恍惚です。
そこはニルヴァーナであり、涅槃であり、天の国であり、神の国です。
そしてそこに本当の皆様が存在しているのです。
そこにおいて、本当の皆様はこの世に生れたいと思うのです。
そして、友を得る事に依って、
その本当の皆様がこの世に生まれる事に成るのです。
その本当の皆様は、
その友に自らの本当の姿を見るのです。
そしてそれを見て皆様は善しと言うのです。
それが『愛』です。
智慧すなわち本当の皆様が、この世に生まれた時、それを愛と言うのです。
その智慧と愛の世界をこの世に実現しようとする者、
それが聖人君子と呼ばれるのです。
そしてそれを育てる場所が哲学広場と言う事に成るのです。
『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである』
そこで、智慧と愛が響き合い、
そこに、智慧と愛の世界が生まれ、
そしてそこから聖人君子が育って行く事に成るのです。
「神は愛なり」
そこは智慧と愛の原初の世界。
その智慧と愛の世界をこの世に実現させる場所、
それが哲学広場と言う事に成るのです。
皆様は智慧を愛し続けます。
そうすると皆様は恍惚の世界へと突入します。
そこが神の世界です。
そしてその恍惚こそが愛の実相なのです。
神は愛なり。
それはその恍惚の実相から生まれるのです。
その恍惚の分かち合い、それが愛なのです。
哲学広場でその愛の分かち合いが行われる事と成るのです。
無心、無垢、無我の境地。
そこにおいてその愛は隅々にまで行き渡る事と成るのです。
もし二人がお互いに無心、無垢、無我の境地に入る事が出来れば、
二人の愛は隅々にまでに行き渡る事と成ります。
これがこの世の愛の最高の姿。
これこそが哲学広場の最高の形。
それはブッダと迦葉の拈花の微笑み。
もし二人がその境地に入って行けば、
二人は必ずや聖人君子への道を進む事に成るのです。
その次の哲学広場の形、
それは愛の歓びに満ちた哲学広場。
これこそが普遍的な哲学広場の形。
そこでは哲学読本大全を基に、様々な対話が交わされていますが、
そこには常に愛の歓びに充ちているのです。
それは傍らに居る人にもはっきりと確認出来ます。
そしてその傍らに居る人にもその歓びが伝わって行くのです。
その歓びの形、それこそが微笑み。
その哲学広場には、常に微笑みが満ちているのです。
その次の哲学広場の形、
それは丁々発止の哲学広場。
そこにおいては哲学読本大全を基に、
様々な哲学対話が真剣に行われています。
しかしそれは議論ではありません。
しっかりとした対話です。
二人は対話に依って登り詰めようとしています。
その先には智慧と愛が待っているのです。
そこに辿りついた時、
二人は第二の段階へと上り詰める事に成ります。
そこにおいては二人は今度は微笑みながら対話を進めて行く事に成るのです。
その次の哲学広場の形、
そこでは正に議論が始まろうとしています。
しかし議論には成らないのです。
その時、哲学ボランティア‘ソクラテス’は言うのです。
先ずは一緒に哲学読本を読みましょうと。
その後、二人は丁々発止の哲学的対話に進む事に成るのです。
すなわち第三段階へと駆け上る事に成るのです。
そして更には第二段階へとも進む事と成るのです。
何故議論が、哲学的対話へと進んだか。
その秘密が哲学読本大全です。
何故なら哲学読本大全には古今東西の聖人賢人たちの智慧が一杯に詰まっているからです。
その聖人賢人たちの智慧に気付いた時、人は自らの愚かさに気付くのです。
そこから二人は、その智慧を求めて真剣に対話を進めて行く事に成るのです。
哲学広場の目的、
それはその智慧を見出す事。
もしそこに智慧を見出せば、
そこに智慧と愛の世界が生まれる事に成るのです。
智慧を見出す事は一人でも可能です。
しかしその智慧と愛をこの世に生み出すにはもう一人、人が必要と成るのです。
その場こそが、哲学広場なのです。
智慧がどんなに大きな力を持っているか。
皆様は十三人の哲学者(智慧を愛する者)たちに見て来ましたよね。
あれはほんの一部です。
偉大な哲学者(智慧を愛する者)たちは未だ未だたくさんいます。
みんなで一緒に成ってその智慧を探すのです。
そうすればその智慧はもっともっと大きな力を持つ事に成るのです。
この智慧を探す営みが、
日本全国の哲学広場で展開される事と成るのです。
そこには当然に智慧と愛が溢れる事に成ります。
それらが連携し、響き合って、日本は哲学国家日本としての道を歩む事に成るです。
哲学広場には二つの目的があります。
一つは日本国民の一人一人に智慧の存在を気付かせる事、
もう一つはその智慧から生まれる世界、すなわちその智慧と愛の世界をこの世に実現させる事です。
これが日本国中の全ての小学校、中学校、高校、大学、地区公民館で行われる事と成るのです。
そこに、哲学国家日本が生まれて来る事に成るのです。
「小中高大学哲学一貫教育」、
「大学教育学部における徹底した哲学教育」、
「哲学読本大全」は、
「哲学広場」の下支えと成るのです。
哲学広場での対話に依り、
人は智慧の存在を確信し、
そしてその智慧から生まれるその智慧と愛の世界をこの世に実現しようとする事に成るのです。
これが日本全国の小学校、中学校、高校、大学、地区公民館で行わる事と成るのです。
なお、哲学広場については、
小学校、中学校、高校については、毎週金曜日の午後三時から午後五時まで、
大学、地区公民館については、毎週土曜日の午後二時から午後五時まで開設される事としていますが、
その様の機運が高まれば、
週一回ではとても収まらなくなります。
きっと毎日開設される事と成るのでしょう。
そうなればもう誰も、哲学国家日本への道を止められなく成るのです。
智慧、それは人間の本性です。
哲学、すなわち智慧を愛する事もまた人間の本性です。
人類全てが智慧を愛しています。
しかしその事に気付いていないのです。
もしその事に気付けば、
人は智慧を愛する事が止められなく成るのです。
智慧とは何か。
それは本当の自分自身の事。
人類誰もが自分を愛しています。
しかし人類誰もが、本当の自分自身を愛している訳では無いのです。
多くの人類が本当の自分自身で無いものを、本当の自分自身だと思って愛しているのです。
その為に古今東西、聖人賢人がこの世に出でて、
本当の自分自身とは『それ』ですよと、
繰り返し繰り返し、述べ伝えているのです。
地域が異なる為、また時代が異なる為、
その呼び名は様々ですが、
その本質は何ら変わる事は無いのです。
何故なら、それに依って、人間が人間らしく在るのですから。
それを普遍的な言葉で言えば智慧。
智慧を愛する事と、
本当の自分自身を愛する事は同じ事なのです。
どうか一人に成って、
自らの心の奥深くに沈潜して下さい。
そこに本当の皆様、すなわち智慧が存在しているのです。
もっともっと沈潜して下さい。
この世の煩いを全て捨て去って、
更に沈潜して下さい。
更に更に沈潜して下さい。
もしそこに一瞬でもいいですので、無を発見出来れば大成功です。
そこに本当の皆様、すなわち智慧が存在しているのです。
後はその本当の皆様、
すなわち皆様の智慧と共に、皆様の理想の世界を描いて行けば良いのです。
本当の皆様、それは智慧の事なのです。
その無の中において、
皆様は無で在ると共に、無限なのです。
それが智慧の神秘と言う事に成るのです。
皆様がその智慧と共に描くその理想の世界、すなわちその智慧と愛の世界と、
古今東西の聖人賢人たちが実現しようとしたその世界、すなわちその智慧と愛の世界とは全く一緒なのです。
そしてその世界を共有するもう一人の友が、哲学広場には居るのです。
『止観』、
これこそが哲学です。
止、すなわち、この世を一切捨てる。すなわちこの世の思い煩いを一切捨てる。
そうすれば、そこがニルヴァーナ、極楽、天国、神の国。無心、無垢、無我の境地。
観、そこにおいて皆様は、皆様の理想の世界(智慧と愛の世界)を描く事に成るのです。
止観、それこそが哲学なのです。
「古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修む。その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致(きわ)む。知を致むるは物に格(いた)るに在り。物格りて后(のち)知至(きわ)まる。知至まりて后(のち)意誠なり。意誠にして后(のち)心正し。心正しくして后(のち)身修まる。身修まりて后(のち)家斉う。 家斉いて后(のち)国治まる。国治まりて后(のち)天下平らかなり。」
これも止観、すなわち哲学です。
古今東西の聖人賢人と言う人たちは、
誰もが異口同音にこの事を言っているのです。
宗教と哲学、
宗教も哲学も全て同じ事。
宗教ではその創始者のその言葉を信じます。
勿論その創始者も当然に哲学者(智慧を愛する者)です。
哲学では全ての哲学者にその言葉を見出そうとするのです。
この日本に宗教があれば、それはそれでとても良いと思うのです。
しかしこの日本には宗教がありません。
その為に今、日本の民は流浪の民と成ろうとしているのです。
「エコノミー」と言う神を信じられて居た時は、人はそれなりに幸せでした。
今、日本の民は何を信じようとしているのでしょう。
家族でしょうか、いいえ。
友でしょうか、いいえ。
自分でしょうか、そうです。しかしその自分が信じられないのです。
「小中高大学哲学一貫教育」、
「大学教育学部における徹底した哲学教育」、
「哲学読本大全」、
「哲学広場」はその為にこそ在るのです。
すなわち国民一人一人が
自分自身(智慧)を信じ、
自分自身(智慧)を愛し、
そして隣人をも心から愛する事が出来る様にする為です
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
その結果日本は、「言霊の幸(さきは)ふ国」と成るのです。
その為にも、古今東西の聖人賢人の言葉を学ばなければならないのです。
全ての人の心の中には智慧が宿っています。
それを本当の自分自身と呼んでも良いでしょうし、
神の心、仏の心と呼んでも良いのでしょう。
しかしほとんどの人はそれに気づいていません。
何故でしょう。
それは誰もその事を教えて呉れないからです。
宗教のある国では、宗教がそれを教えて呉れます。
しかしこの日本には宗教がありせん。
だから誰も教えて呉れないのです。
宗教のある国と日本を比較した場合、
日本の民は無知です。
何故ならその本当の自分自身(智慧)を知らないからです。
そんな無知なる日本国民の為に、
先ずは『哲学読本大全』を用意するのです。
「言霊の幸(さきは)ふ国」
それは言葉を知っていてこそ可能と成る国です。
今の日本は、「言霊の幸(さきは)ふ国」ではありません。
何故ならその基と成る、言葉さえを知らないからです。
前にも言いました様に、
名文と言うものには、言霊(智慧)が宿っているのです。
先ずはその言霊(智慧)に依って、
この日本国民の心を激しく揺さぶる事とするのです。
そうしてやっと始めて、
日本国民の心に智慧が芽生える事と成るのです。
智慧が芽生えたら、それを哲学広場で育てる事と成ります。
その為にも、先ずは『哲学読本大全』が無ければ成らないのです。
ここで皆様にお願いがあるのです。
それは皆様自身で「哲学読本」を作成して頂きたいのです。
皆様自身で哲学読本大全を作成する事は不可能です。
それは日本国民の英知を結集して始めて作成可能な事です。
しかし『哲学読本(智慧と愛の巻)』なら、皆様自身で作成する事は可能です。
皆様は皆、哲学ボランティア‘ソクラテス’です。
皆様が皆様自身で、『哲学読本(智慧と愛の巻)』を作成した時初めて、
皆様は哲学ボランティア‘ソクラテス’の有資格者と成るのです。
皆様が皆様自身でその智慧と愛を自らにおいて確認した時初めて、
皆様は哲学ボランティア‘ソクラテス’の有資格者と成るのです。
その為にも先ずは皆様自身で『哲学読本(智慧と愛の巻)』を作成しなければならないのです。
それではその作成方法について、お示ししたいと思います。
皆様がパソコンを持っているものと想定してお話します。
先ずは一番安いスキャナーで良いですので、購入して頂きたいと思います。
これで道具は全て揃いました。
後はその原稿を作成するだけです。
皆様が作成するのは、「哲学読本(智慧と愛の巻)」ですが、
先ずは愛は無視して下さい。
智慧だけに専念して下さい。
智慧だけに専念して、古今東西の聖人賢人たちの智慧に関する名文を集めるのです。
そうすればそこに愛も一緒に付いて来る事に成るのです。
ここで皆様には智慧の秘密を明かして置きます。
ここで言う智慧とは、古今東西の聖人賢人たちの中心概念を成す『それ』の事です。
そこから全てが生まれ、全てがそこへと収束して行く「それ」の事です。
十三人の哲学者たちがそれぞれに言っていた『それ』の事です。
クリシュナの「アートマン」と「ブラフマン」が一番分かり易いのかも知れません。
どちらも「それ」に関する言葉です。
「アートマン」とは、皆様お一人お一人に宿っているその智慧の事です。
「ブラフマン」とは、全ての人類に共通して存在している智慧の総称の事であり、また究極のアートマン(智慧)の事でもあります。
皆様が智慧を愛して、愛して、愛し抜いてその智慧の真髄に至った時、皆様はブラフマンへと至ると言う事に成るのです。
ですので、ブラフマンとは究極のアートマン(智慧)でもあると言う事に成るのです。
そしてそのブラフマンは世界人類に共通なのです。
このブラフマンにおいて、個々のアートマンが一つに成るのです。
皆様が究極のアートマンに至った時、皆様はブラフマンを体感する事が出来るのです、
その時の状態はと言えば、無であり無限であると言う事に成ります。
今私が読んでいる「大乗起信論」で言えば、如実空、如実不空と言う事に成ります。
大乗起信論で言えば、その正体は「如来」です。、
更にその正体を突き詰めれば「衆生心」、すなわち皆様の心と言う事に成るのです。
智慧は、皆様の心の中に存在しているのです。
そしてそれを突き詰めて行けば、
全ての人類に等しく存在しているそれに突き当たるのです。
皆様の心の中に存在しているそれがアートマンであり、
世界人類に等しく存在しているそれがブラフマンです。
そしてそれらはその究極では全く同じなのです。
それが如実空であり、如実不空と言う事に成るのです。
尤も如実不空については経験の差が出て来ます。
この如実不空の世界をより豊かなものにする為に、
哲学読本大全と哲学広場が必要に成ると言う事にも成るのです。
クリシュナはそれを「アートマン」と「ブラフマン」と呼んでいますが、
他の十二人の哲学者はそれをどの様に呼んでいるのでしょう。
先ずはイエスですが、彼はそれを様々に呼んでいますが、基本的に言えば、「聖霊」と「神」です。
パウロも同様ですが、彼は「聖霊」をキリストとも呼んでいます。キリストとはイエスの智慧を帯びたクリスチャン一人一人に内在する智慧の事です。
ダビデはそれを「主」と「神」と呼んでいます。
ソロモンも基本的には「主」と「神」ですが、ソロモンは主を智慧とも呼んでいるのです。これに依って、ソロモンはソロモンの智慧として有名に成ったのです。
ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカ、デカルトは、それを基本的には、「智慧」と「神」と呼んでいます。
孔子は、アートマンに関しては「仁」と呼んでいます。ブラフマンについては明確な概念付けはしていませんが、それは「天」でもあり、また「仁」でもあると言う事に成ります。
老子は、アートマン、ブラフマンを共に「道」と呼んでいます。時にはブラフマンの事を「天」とも呼んでいます。
王陽明は、アートマンに関しては「良知」と呼んでいます。ブラフマンについては基本的には「天」ですが、「良知」でもあると言う事に成っています。
ブッダは仏典に依って様々に呼んでいますが、般若心経に依れば、アートマン、ブラフマン共に、「般若」と呼んでいます。なおブラフマンに突入した時の状態を「涅槃」と呼んでいます。
以上が基本的な呼び名ですが、実際には様々に呼んでいます。
ここではその一つ一つは挙げない事にします。
それらを挙げると成ると、また原典に還って行かなければならなくなりますから。
今はもうそんな時間はありませんので。
兎に角その呼ばれ方は一様ではありません。
それが為、今のこの世界の様に混乱しているのです。
人々が文字に囚われてしまった為、この様な混乱が生じているのです。
「霊は生かすが、文字は殺す」。
皆様はこれから様々な智慧と愛の書を読み、
それを基に「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成して行く事に成りますが、
その際に大切な事は文字に囚われず、
霊に聴くと言う事です。
皆様は一心不乱に智慧をこそ求めなければなりません。
皆様が一心不乱に智慧を求めていれば、
智慧は向こうから皆様に反応するのです。
それが智慧の智慧たる由縁です。
智慧は皆様が求める事を求めているのです。
その求めに応じて、智慧は皆様に智慧を返すのです。
智慧とは何か。
それは本当の皆様の事です。
皆様が皆様を求めた時、皆様は皆様を皆様に返すのです。
皆様はこれから様々な「智慧と愛の書」を読んで行く事に成りますが、
そこにおいて皆様が熱く反応する事があります。
そこに皆様の智慧が存在しているのです。
何故なら智慧は「熱情の神」でもあるのですから。
少し脱線してしまいましたので
また「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成方法に戻りたいと思います。
パソコンとスキャナーが準備出来たので、道具は全部揃いました。
後は原稿を作成して行くだけです。
原稿と言っても、それは古今東西の名著の中の智慧に関する名文をスキャナーに読み込んで整理するだけの事です。
整理の方法は皆様にお任せしますが、
著者名、著書名、出版社名および出典頁は必ず付記して下さい。
何故なら皆様の「哲学読本(智慧と愛の巻)」を基に、『哲学読本大全(智慧と愛の巻)』を作成する事に成るのですから・・・
名文の量は、起承転結がはっきり分かる程度の分量にして頂きたいと思います。
例えば「神は愛なり」と言う一言だけを載せても、
その文章の出所を知らない人は理解する事は出来ません。
しかしもし次の様に形で示されたら、
分かる人は分かると思います。
『神は愛なり』
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。神は愛から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うのならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているです。
神はわたしたちのうちに、御自分の霊を分けて与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神がわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証しています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされないからです。わたしたちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(ヨハネ、「新約聖書、ヨハネの手紙一、4」四四五頁、日本聖書協会)
ここまで引用すれば、神は愛なりの意味も,その著書を全部読まなくても理解する事が出来ると思います。
尤もこの言葉がその人の智慧を刺激すれば、その人は新約聖書「ヨハネの手紙」を全部読む事に成るのでしょう。
更には新約聖書全部を読む事にも成るのでしょう。
そして神は愛なりの意味を更に深く知る事に成るのでしょう。
その様にして、その人の智慧は成長して行く事に成るのです。
ここで皆様に「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成法について示唆して置きたいと思います。
それは先ず聖典経典から入った方が良いと言う事です。
何故なら、聖典経典は、智慧と愛のオンパレードだからです。
そこで智慧と愛の真髄を知った上で、
俗に言う哲学者たちに入って行った方が良いと思います。
いきなり哲学者たちに入って行くと、
皆様は「智慧と愛」以外の所で迷ってしまう事に成るからです。
偉大な哲学者たちは皆、必ずその中心にその智慧と愛がありますが、
哲学者たちはそこにとどまらずに、
その智慧と愛から生まれた智慧と愛の世界の全体系をその著書に著そうとしているからです。
もしそこから入って行けば、
智慧と愛の本質を知らない人であれば、
必ず迷い子に成ります。
そして『哲学は難しい』と言って、哲学を投げ捨ててしまう事に成るのです。
ですから皆様が行べき哲学(智慧を愛する事)の道とは、
先ずは聖典経典でその智慧と愛の本質を知り、
その智慧と愛の本質を知り抜いたら、
今度は古今東西の偉大な哲学者たちのその智慧と愛に的を絞って、
偉大な哲学者を経巡る事です。
もし皆様が聖典経典それから偉大な哲学者たちの著書に基づいて、
「哲学読本(智慧と愛の巻)」を完成させたら、
その時、皆様は真の哲学者(智慧を愛する者)と成るのです。
何故ならそこに何十人、何百人の哲学者(智慧を愛する者)が居ようと、
そこにある智慧は唯一つなのですから。
その一つの智慧を発見した時、
皆様は真の哲学者と成り、
哲学ボランティア‘ソクラテス’有資格者と成るのです。
ですから皆様は先ずは『哲学読本(智慧と愛の巻)』を作成しなければならないと言う事に成るのです。
もし皆様が『哲学読本(智慧と愛の巻)』を完成させたら、
その時から哲学国家日本の胎動が始まるのです。
『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである』
もし皆様方、
皆様方は千人を下らないと思いますが、
皆様方千人がそれぞれに「哲学読本(智慧と愛の巻)」を完成させたら、
もう哲学国家日本への動きは止められなく成ります。
何故ならそこにおいて、
古今東西の何百人、何千人と言う聖人賢人哲学者たちの智慧が集結する事になるのですから。
そしてその智慧は一つです。
更に皆様方千人の智慧も一つです。
そこにおいて世界人類の智慧が一つに集結する事に成るのです。
そこにどの様なエネルギーが発生するのか、
想像するだけでも興奮しますよね。
そこにはこの日本を変えるだけのエネルギーが発生する事に成るのです。
宗教と哲学の違い。
宗教は一人の哲学者の智慧を信じます。
哲学は多くの哲学者を経巡り、そこに一つの智慧を見出します。
そしてその智慧を信じようとします。
そしてその智慧は古今東西の聖人賢人たちの智慧と何等違いが無いのです。
勿論、その智慧はその一人の哲学者(宗教の創始者)が見出した智慧とも全く同じなのです。
哲学と宗教には何の違いも無いのです。
違いと言えば、
一人の哲学者の智慧を信じるか、
多くの哲学者を経巡った上で自らが見出した智慧を信じるかの違いだけ。
そこには何の違いも無いのです。
寸分の違いさえ無いのです。
哲学国家日本においては、国民一人一人が多くの哲学者を経巡って、国民一人一人がそれぞれにその智慧を見出す事に成ります。
そしてその智慧は皆一緒なのです。
そこに哲学国家日本と言う概念が生まれる事に成るのです。
先ずは皆様方千人においてそれを実証する事とするのです。
皆様はこれから「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成する事に成りますが、
その際に念頭においておかなければならないのは、
「文字は殺すが、霊は生かす」と言う事です。
何故なら皆様が文字に囚われれば、
その文字は皆様を殺します。
しかし皆様が霊に聴けばば、
その文字は皆様を生き生きと生かす事と成るのです。
霊とは何か、
それは智慧の事、
そしてそれは本当の自分自身の事。
皆様はこれから古今東西の名著に、
智慧に関する名文を求めて行く事に成りますが、
その際に一番大事な事は文字を追う事では無く、
本当の自分自身を探す事です。
智慧は皆様が心から求めているものです。
何故ならそれは本当の皆様自身の事なのですから。
皆様はこれから「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成して行く事に成りますが、
自分自身をこそ真剣に求めて行かなければなりません。
本当の皆様とは本当に本当に素晴らしい存在なのです。
その本当の皆様とはどの様な人か。
それは神様の様な人であり、仏様の様な人です。
何故なら皆様は皆、
神の子であり、仏の子であり、智慧の子なのですから。
ですから皆様は先ず、
神や仏や智慧を求めなければ成らないのです。
それらは皆、皆様方の本当の姿なのです。
それらを皆様以外の所に求めたら、
それらは皆様自身とは何ら関係のないものに成ってしまいます。
時にはそれらが皆様を縛る事にも成ります
「霊は生かすが、文字は殺す」
皆様は文字を読む時は、霊で読まなければ成りません。
霊とは何か。
それこそが本当の自分自身です。
自分自身の心で文字を読むのです。
もしそこに霊(本当の自分自身)が宿っていたら、
そこに本当の自分自身が浮かび上がって来る事に成るのです。
その様にして古今東西の名著を読んで行けば、
そこに本当の皆様が無数に浮かび上がって来る事に成ります。
皆様はそれを見付ける度に、恍惚に満たされる事に成るのです。
何故ならそれこそが皆様が求め続けていた本当の皆様なのですから。
「本当の自分自身に成るのが、最高の善なのです」
「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成、
それは悦びに満ちた旅です。
これまで経験した事の無い様な旅です。
そこは目眩めく世界、恍惚の世界。
何故なら「哲学読本(智慧と愛の巻」の作成に依って、
神や仏や天や智慧が皆様の物に成って行くのですから。
それを悦びに満ちた世界と言わずに何と言うのでしょう。
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」
皆様の心の中には宝が隠されています。
皆様はこれまでその事について全くの無知でした。
しかし皆様のその事に気付いたのです。
皆様はこれからその宝の掘り出しに一生を捧げる事と成るのです。
何故ならその宝は無尽蔵だからです。
「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成に依って、
皆様は「天の国」へと、「神の国」へと、「仏の国」へと、「智慧の王国」へと導かれる事に成ります。
それは悦びに満ちた世界です。
何故ならそこには素晴らしき存在としての皆様が無数に存在しているのですから。
「哲学読本(智慧と愛の巻」の作成に依って、
皆様は本当の自分に成るのです。
ここで皆様にはっきり言って置きます。
「仏」も「神」も「天」も「智慧」も、
その他これに類する全ての全てが比喩です。
それは本当の皆様を表現する為の比喩に過ぎないのです。
それが比喩に過ぎない事を理解する為には、
皆様自身でニルヴァーナ、涅槃、極楽、天国、神の国、ブラフマン等々を体感しなければ成りません。
「霊は生かすが、文字は殺す」
もしそれらの国が、
皆様以外の何処かに存在すると思えば、
皆様は一生を掛けても、
もし皆様が千回生まれる事が出来るとして千生を掛けても、
決してその国に入る事は出来ません。
ニルヴァーナ、それは恍惚の世界。
それは皆様がこの世の「考える存在としての私」を全て捨て去った時に、
そこに存在するのです。
そしてその恍惚の世界の中で、
純粋に「考える存在としての私」が蘇る事に成るのです。
その純粋に考える存在としての私が蘇った時に、
そこに同時に愛が生まれるのです。
それが原初の智慧と愛の世界です。
すなわち「神は愛なり」と言う時のその世界なのです。
「復活」、「新生」、「再生」、「日々新たに」、そして『止観』等々、
その事を古今東西の聖人賢人たちが、様々に表現していますが、
それらは全て比喩に過ぎなのです。
それらの比喩全てを、自分自身で体感する事が出来て初めて、
皆様はそれらを心から理解する事が出来る様に成るのです。
「霊は生かすが、文字は殺す」
皆様はこれから「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成する事に成りますが、
その際一番大切な事は自分の心に素直に成ると言う事です。
自分の心に素直に成って、名著を読んで行けば、必ず本当の皆様が反応します。
その時の気持ちが如何なる気持ちかと言えば、
「恍惚の予感」と言う事に成ります。
恍惚の予感を感じたら、
果敢にその文字の中にこそ入って行かなければなりません。
何故なら、そこに本当の皆様が存在しているのですから。
しかしそこに書かれている事は、全てが比喩です。
神も仏も、それらに類する事も、全てが全て比喩です。
それらの比喩全てを自分自身に還元し、体感した時、
皆様は本当の自分自身と成るのです。
すなわち『恍惚』と成るのです。。
それが『哲学』の第一目的です。
『哲学』の第二目的、
それはその恍惚の世界から生まれた智慧と愛の世界をこの世に実現させて行く事にあるのです。
皆様はこれから「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成して行く事に成りますが、
先ずは智慧をこそ求めなければなりせん。
皆様が智慧に辿りついた時、
そこに恍惚が生れます。
それが原初の智慧と愛です。
その原初の智慧と愛をこの世に実現する事、
それが聖人君子への道なのです。
「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成が、
皆様を真の哲学者(智慧を愛する者)へと導き、
更には聖人君子への道へと導く事に成るのです。
皆様が「哲学読本(智慧と愛の巻)」を完成させてこそ、
皆様は哲学ボランティア‘ソクラテス’有資格者と成るのです。
その為にも皆様は先ず「哲学読本(智慧と愛の巻」を作成しなければならないのです。
ここで「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成方法について、もう一度整理して置きます。
もし皆様が智慧の本質を知っていたら、
皆様は積極果敢に聖典経典仏典に入って行かなければなりません。
先ずは新約聖書と旧約聖書。
これは世界人類の誰もが知っているもの。
もし皆様が新約聖書、旧約聖書に世界人類に共通のその智慧を見出せば、
皆様は新約聖書、旧約聖書を基に、
世界人類の人々と、その智慧について話し合う事が出来る様に成るのです。
次に仏典。
実に様々な仏典がありますが、
そこに在るのは一つの智慧だけです。
その智慧を見出した時、
皆様は少なくとも東アジアの人々と、
その仏典を基に、その智慧について話し合う事が出来る様に成るのです。
次にヒンズー経典やバラモン経典。
それらは日本にあまり紹介されていませんが、
代表的なもので良いと思います。
そこにも必ずその一つの智慧が在ります。
その一つの智慧を見出した時、
皆様はインドの人々と、
その経典を基に、その智慧について話し合う事が出来る様に成るのです。、
次にイスラム経典。
コーランと言う事に成るのでしょうか、
そこにも必ずその一つの智慧が在ります。
その一つの智慧を見出した時、
皆様はイスラム圏の人々と、
その経典を基に、その智慧について話し合う事が出来る様に成るのです。
次にユダヤ経典。
そこにも必ずその一つの智慧が在ります。
その智慧を見出した時、
皆様はユダヤ教の人々と、
その経典を基に、その智慧について話し合う事が出来る様に成るのです。
次に神道。
どの様な聖典経典があるのか知りませんが、
そこにも必ずその一つの智慧が在ります。
その智慧を見出した時、
その聖典経典を基に、その智慧について話し合う事が出来る様に成るのです。
この様にして全ての聖典経典に一つの智慧を見出した時、
皆様は世界人類の人々とその智慧について話し合う事が出来る様に成るのです。
そして皆様は世界人類の人々を心から理解する事が出来る様に成るのです。
何故ならそこに在るのは一つの智慧だからです。
その一つの智慧こそが、
仏の原点であり、全ての神の原点です。
それが何かと問われれば、
それは無心無垢無我の境地。
それを感覚で喩えれば『恍惚』。
その恍惚の中で、全ての人々が愛し合えるのです。
何故なら恍惚こそが、愛の実相なのですから。
「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」
三や万物の中で理解し合うと思っても、中々理解し合う事は出来ません。
何故ならそこには様々な要素が絡み合っているからです。
しかし「道」の中であれば、全ての人が理解し合えます。
何故なら道とは恍惚なのですから。(「道の物たる、惟れ恍、惟れ惚、惚たり恍たり。其の中に象有り、恍たり惚たり。」)
「一」の中でも全ての人が理解し合えます。
何故ならそれは愛なのですから。(「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。」)
「二」においても多くの人が理解し合えます。
何故ならそれは真善美の判断基準(真偽、善悪、美醜等々)、
すなわち俗に言う哲学なのですから。
なお、それが道と一から導き出されたものであれば、間違いはないと思いますが、
それが三から導き出されたものであれば、誤りもあると思います。
兎にも角にも、
皆様が一つの智慧を見出した時、
皆様は世界人類の人々と心から理解し合う事が出来る様に成るのです。
もし皆様が全ての聖典経典に、その智慧を見出す事が出来る様に成ったら、
次は俗に言う哲学者たちに、その智慧を見出す事に努めなければ成りません。
もし皆様が全ての聖典経典に、そして偉大な哲学者たちの著書に、その智慧を見出す事が出来る様に成ったら、皆様はもう完全な哲学者です。
皆様は全ての人とその智慧を分かち合う事が出来る様に成るのです。
その時皆様は哲学ボランティア‘ソクラテス’と成って、
聖人君子への道を進む事と成るのです。
その智慧と愛を実現させる事が、
皆様の一生の仕事と成るのです。
皆様は間違いなく、その様に志す事に成るのです。
もしそこに千人の仲間が居たらどうなるのでしょう・・・
それを皆様方千人で実証する事とするのです。
その為にも先ずは皆様方千人の方々がそれぞれに、
「哲学読本(智慧と愛の巻)」を完成させなければ成らないのです。
皆様方が「哲学読本(智慧と愛の巻)」を完成させた時、
皆様方はお互いに「哲学読本(智慧と愛の巻)」を見せ合う事に成ります。
そしてお互いににっこりと微笑み合う事と成るのです。
ブッダと迦葉の拈花の微笑み。
「世尊、昔、霊山会上に在って花を拈じて衆に示す。
是の時、衆皆な黙然たり。
惟だ迦葉尊者のみ破顔微笑す。
世尊云く、
『吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり。
不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す。』(「無門関」より)
皆様方は不立文字ではなく、
「哲学読本(智慧と愛の巻)」でその智慧を伝え合うのです。
そこに千人のブッダと迦葉が生まれる事に成ります。
それがどんな力を有する事と成るのか。
「哲学国家日本」の夜明けです。
それは皆様方の力に依って可能と成るのです。
「正法眼蔵」、「涅槃妙心」、「実相無相」、「微妙法門」とは何か。
それは皆様方の智慧の事です。
すなわち本当の皆様の事です。
皆様はそんなにも素晴らしい存在なのです。
もし皆様が本当の自分自身を、その心で体感する事が出来る様に成れば、
世界中の全ての素晴らしい言葉が皆、皆様自身を表現している事が分かる様に成るのです。
そうなれば皆様の前に聖人君子への道が広がって来る事に成るのです。
「だれがこの大地を征服するであろうか?
だれが閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろうか?
わざに巧みな人が花を摘むように、善く説かれた真理の言葉を摘み集めるのはだれであろうか。
学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界を征服するであろう。
わざに巧みな人が花を摘むように、学びつとめる人々こそ善く説かれた真理の言葉を摘み集めるであろう。」
何故ならそれらの素晴らしき言葉の一つ一つが皆様なのですから。
「では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。」
皆様はその言葉の一つ一つに依って、神様への道を進む事に成るのです。
『如実空』と『如実不空』。
如実不空の世界を彩り豊かな世界とする為には、
皆様は先ずは言葉集めをしなければならないのです。
皆様はその言葉たちと共に、その神の国の中で自分自身を創り上げて行く事に成るのです。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。」
皆様が神(智慧)の言葉を知れば知るほど、皆様の世界は彩り豊かな世界と成るのです。
皆様が神(智慧)の言葉を知れば知るほど、皆様は本当の皆様に近付いて行くのです。
その為の作業が、「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成と言う事に成るのです。
もし皆様が智慧の本質を知っていたら、「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成作業は楽しく楽しく仕方のないものと成る筈です。
何故ならそれは「What a wonderfull world(何と言う素晴らしき世界)」を求める事なのですから。
そしてその正体をと言えば、本当の皆様の事なのですから。
その一刻一刻が楽しくて楽しくて仕方が無い筈です。
智慧の本質を知っている皆様方は一刻も早く、「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成作業に着手して頂きたいと思います。
皆様方が「哲学読本(智慧と愛の巻)」を完成させた時、「哲学国家日本」は夜明けを迎える事と成るのです。
一緒に「哲学国家日本」を創って行きましょう・・・
もし未だ智慧の事が十分に分からないと言う皆様が居ましたら、
どうかこの書をもう一度読み返して頂きたいと思います。
そうすれば今より何倍も智慧の事が分かる様に成る筈です。
何故なら皆様自身が、心から皆様自身(智慧)を求めているのですから。
この書には偉大な十三人の哲学者(智慧を愛する者)たちの智慧が鏤められています。
その智慧が皆様のその求めに応じて、智慧(皆様自身)を与え返して呉れるのです。
それは間違いの無い事です。
皆様は今よりも何倍も智慧の事が良く分かる様に成るのです。
しかしそれだけは十分ではありません。
何故ならそれらはその智慧(皆様自身)の断片に過ぎないのですから。
皆様がその智慧を真に知る為にはその原典に入って行かなければなりません。
皆様がその原典に入る事に依って、
皆様はその智慧(皆様自身)をそのままに知る事が出来る様に成ります。
皆様がその智慧(皆様自身)をそのままに知る事が出来る様に成って始めて、
皆様は哲学者(智慧を愛する者)と成る事が出来るのです。
皆様がその智慧(皆様自身)をそのままに知る事が出来る様に成って始めて、
皆様は「哲学読本(智慧を愛の巻)」を作成する事が出来る様に成るのです。
何故なら智慧(皆様自身)を知らなければ、智慧(皆様自身)の書を作成する事は出来ないからです。
もし未だ智慧の事が十分に分からないと言う皆様がいらしゃいましたら、
どうかこの書を読み返し、そして原典に入って頂きたいと思います。
そうすれば十三人の哲学者たちが、皆様の為にその智慧をそのままに示して呉れると思います。
世界人類に共通して存在しているその智慧(本当の皆様自身)を、
十三人の哲学者たちがはっきりと目の前に在る様に見せて呉れる事に成ると思います。
皆様全員がそこまで辿り着けば、もうそこが哲学国家の夜明けです。
なお今回取り上げた十三人の哲学者の原典を取り上げた順番で挙げると、次の通りと成ります。
ソロモン 『箴言』(日本聖書協会「聖書」より)
ダビデ 『詩編』(日本聖書協会「聖書」より)
イエス 『マタイ福音書』(日本聖書協会「聖書」より)
『ヨハネ福音書』(日本聖書協会「聖書」より)
パウロ 『ローマ信徒への手紙』(日本聖書協会「聖書」より)
ブッダ 『菩提達摩無心論』(中央公論社「世界の名著 禅語録」より)
『般若心経』(岩波文庫「般若心経・金剛般若経」より)
『真理のことば』(岩波文庫「真理のことば・感興のことば」より)
孔子 『論語』(岩波文庫)
『大学』(岩波文庫「大学・中庸」より)
『中庸』(岩波文庫「大学・中庸」より)
王陽明 『伝習録』(明治書院)
老子 『老子』(講談社文庫)
プラトン 『饗宴』(岩波文庫)
(ソクラテス) 『パイドン』(岩波文庫)
エピクロス 『エピクロス』(岩波文庫)
セネカ 『道徳書簡集』(東海大学出版会)
クリシュナ 『バガヴァッド・ギーター』(岩波文庫)
デカルト 『方法序説』(岩波文庫)
もし智慧の事を十分に知らない皆様がこの順番に原典を読んで行けば、
皆様はきっと、途中で挫折してしまいます。
何故なら聖書にはたくさんの比喩が鏤められているからです。
もしその比喩を読み解く事が出来なければ、
皆様はその文字に囚われてしまう事に成るからです。
もし皆様が智慧の事を十二分に知っていたら、
その比喩解きがとても楽しいものと成ります。
そしてその比喩が解けた時、『分かった!』と合点して、
悦びに満たされる事と成るのです。
それが智慧の書を読む楽しみなのですが、
もし皆様が未だ智慧の事を十二分に知らないと言う事であれば、
次の順番で読むのが良いのかと思います。
① セネカ「道徳書簡集」
② エピクロス「エピクロス」
③ 孔子「論語」「大学」「中庸」
④ 王陽明「伝習録」
⑤ 老子「老子」
⑥ ブッダ「真理の言葉」「菩提達摩無心論」「般若心経」
⑦ クリシュナ「バガヴァッド・ギーター」
⑧ デカルト「方法序説」
⑨ ソクラテス=プラトン「パイドン」「饗宴」
⑩ ソロモン「箴言」
⑪ ダビデ「詩編」
⑫ パウロ「ローマ信徒への手紙」
⑬ イエス「ヨハネ福音書」「マタイ福音書」
これらの書の中で一番難しいのが「マタイ福音書」です。
何故なら比喩が一杯に鏤められているからです。
そしてその比喩解きがかなり難しいのです。
これらの書の中で一番簡単なのがセネカの「道徳書簡集」です。
何故なら比喩がほとんど無いからです。
もし智慧の事を十分に知らないと言う皆様であれば、
最高の哲学(智慧を愛する事)の入門書と成ると思います。
そこには何の比喩もありませんが、
しかし哲学の奥義をしっかりと示して呉れます。
その言葉通りに読んで行けば、
皆様は哲学の奥義を体得する事が出来る様に成る筈です。
「智慧とは何か」
「哲学とは何か」
「本当の自分自身とは何か」
「自由とは何か」
「神とは何か」
「善とは何か」
「至福とは何か」
「悦びとは何か」
「理性とは何か」
「愛(徳)とは何か」
それらに対する答えを、何の比喩も使わずにぴったりと回答を出して呉れます。
セネカの「道徳書簡集」については、何の疑いも持たず、その言葉通り読んで頂きたいと思います。
そうすればそれを読み終えた時、皆様はきっと哲学の奥義を体得している筈です。
「われわれの探し求むべきものは何かと言うに、それは抵抗し得ざる或る力の支配を毎日受けないもののことです。それは何でしょう。それは心ですが、それは正しい、善い、大きな心のことです。この心を、人間の肉体に宿る神という以外に何と呼ぶでしょうか。」
セネカは文字で皆様を殺す様な事はしませんので、安心してその智慧を求めて下さい。
次はエピクロスですが、
エピクロスは古代と言う時代に在って、透徹した現代の心を持ち合わせています。
エピクロスについても、皆様は何の疑いも差し挟まずにそのまま読む事が出来ます。
「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福にかけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。」
これがエピクロスの神の原点です。
「思慮ぶかく美しく正しく生きることなしには快く生きることもできず、快く生きることなしには思慮ぶかく美し正しく生きることもできない。」
これがエピクロスの(精神的)快楽主義の原点です。
エピクロスの精神的快楽主義と老子の『恍惚』とは全く同じ事。
そしてエピクロスのこの精神的快楽主義は、全ての聖人賢人に宿っているのです。
と言うよりも、人間の第二の本能なのです。
なおセネカはストア主義者ですが、エピクロスには心酔しています。
何故ならその『快楽』こそが哲学の原点である事を十二分に知っているからです。
次に孔子ですが、孔子も絶対に皆様を文字で殺す様な事はしません。
「季路、鬼神に事(つか)えんことを問う。子曰く、未だ人に事うること能(あた)わず、焉(いずく)んぞ鬼に事えん」
孔子は徹底して『仁』を説きます。
しかし仁は巷に言われている様な愛ではないのです。
「克己復禮を仁と為す」、これが孔子の仁です。
すなわち皆様が本当の皆様に還った時の皆様の事です。
そこに「神は愛なり」と言う、あの智慧と愛が存在しているのです。
「論語」だけで、そこまで読み解く事がかなり難しいと思いますが、
「大学」「中庸」を参考書にすれば、
「論語」においても、それを十分に読み取る事が出来る様に成ると思います。
次に王陽明ですが、
王陽明ほど、智慧、智慧、智慧・・・と叫び続けた人はいません。
「伝習録」の後半は智慧のオンパレードです。
王陽明に取って、智慧は全ての全てだったのです。
王陽明に取って、智慧は神であり、天であり、仏であり、アルファでありオメガであり、
そして『仁』だったのです。
王陽明は孔子の仁をコスモチックに表現したのです。
皆様は王陽明の智慧に依って、智慧の宇宙的広がりを感じる様に成る筈です。
何故なら智慧こそが宇宙の起源でもあるのですから。
王陽明に取って、智慧は正にアルフでありオメガだったのです。
出処進退、全て智慧と共に在れと、言い続けています。
王陽明も決して文字で皆様を殺す様な事はしませんので安心して下さい。
王陽明に依って皆様は、「私はアルファでありオメガで在る」と言うあの黙示録の真意を理解する事が出来る様に成ると思います。
次に老子ですが、老子は次の言葉に尽きます。
「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。
道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。
其の中に象有り、恍たり惚たり。
其の中に物有り、窈たり冥たり。
其の中に精有り、其の甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。
古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。
吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」
皆様は『恍惚』なら十分理解が出来ますよね。
恍惚こそが「克己復禮」した時のその状態なのです。
全ての聖人賢人が本当の自分に還った時の『体感』です。
皆様は何時如何なる時もこの『恍惚』を基準にしなければ成らないのです。
何故ならそこが皆様に取っての「神の国」なのですから。
勿論「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成する場合にも、この「恍惚」を基準にしなければならないのです。
なお、老子も決して文字で皆様を殺す様な事はしませんので、安心して『道』を求めて下さい。
次にブッダですが、
ブッダは仏典に依ってスタンスが様々に変わって来ます。
「真理の言葉」は、生のブッダに一番近いと言われています。
そこに居るのは生粋の哲学者(智慧を愛する者)です。
神仏の衣は一切着ていませんので、安心して対面して下さい。
本当の自分自身とは何か、
ニルヴァーナ(平安の境地)とは何か
バラモン(修行者=哲学者)とはどういう人を言うのか等々、
純粋に哲学(智慧を愛する事)を学んで下さい。
「菩提達摩無心論」では、皆様は悟りの瞬間を垣間見る事が出来ます。
とてもとても素敵な智慧の書です。
「無心と言うは妄想無き心なり」
今回の智慧の旅の中で最も収穫のあった言葉の一つです。
「般若心経」は、デカルトの「我思う、故に我在り」に通じて行きます。
「般若」(智慧)と共に在るのが、一番素敵な世界。
当たり前の事です。
なお、この三つの仏典は決して皆様を文字で殺す様な事はしませんので、安心してそのままに読み込んで下さい。
次にクリシュナですが、
クリシュナは喩えを用います。
「私を信じなさい、そうすれば幸せに成れると」
正にその通りなのですが、私=クリシュナと信じると、
皆様はクリシュナに囚われる事と成ります。
何故ならクリシュナと言う人物を探し出そうと思っても、何処にも探し出す事が出来ないからです。
クリシュナとは「マハーバーラタ」の登場人物の一人に過ぎないのですから。
『バガヴァッド・ギーター』の中のクリシュナとは「マハーバーラタ」の作者が描き出した作者自身の智慧に過ぎないのです。
しかしその智慧は世界人類共通の智慧です。
勿論その智慧と皆様の智慧は一緒です。
そしてその智慧とは本当の皆様の事を言うのです。
ですからクリシュナが言う
「私を信じなさい、そうすれば幸せに成れる」とは極言すれば、
「本当の自分自身を信じなさい、そうすれば幸せに成れる」と同じ事なのです。
しかしそうなると自己撞着を起こす事にも成り兼ねませんので、
「私」を「智慧」と読み替える位が適当かと思います。
そうすればその智慧が皆様を素晴らしい世界へと案内して呉れる筈です。
『バガヴァッド・ギーター』を読む際には、「クリシュナ」と言う文字に囚われない事が大切です。
次にデカルトですが、
デカルトにおいて大切な言葉は、
『方法序説』第四部における、「我思う、故に我在り」と言うあの件だけです。
しかし「我思う、故に我在り」だけでは、
デカルトが何故その様に思う様に成ったのか、
そしてその原理をデカルトがどの様に生かしたかまでは分かりませんよね。
その為に一応「方法序説」全部を読む事とするのです。
「我思う、故に我在り」
これこそが真理の中の真理の言葉です。
この言葉に依って、皆様は幸福にも不幸にも、神にも仏にも、
そして今皆様が一番熱望している聖人君子にも成る事が出来るのです。
要は皆様が何を思うか、そして思い続けるかと言う事だけなのですから。
人間とは考える動物である、そして一瞬たりとも考える事を止めようとしない・・
皆様とは『考える私』の事です。
もし皆様がこの世の「考える私」を全て捨て去って、
『恍惚』と成り、
その恍惚の中で純粋に「考える私」が蘇った時、
そこに生まれるのが『愛』なのです。
そして、その愛を育てる事が、聖人君子の仕事なのです。
その為には仲間が必要と成るのです。
それが皆様『哲学広場』の哲学ボランティア‘ソクラテス’と言う事に成るのです。
「私が思うから、私が存在する。
私が思わなければ、私は存在しない。
私は私が思う様な私に成る事が出来る。」
「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」
その順序を正しく追う事に依って、そこに素晴らし世界が生じる。
デカルトはその演繹の仕方についても述べていますので参考にして下さい。
兎にも角にも『我思う、故に我在り』は、全ての聖典経典の中心を貫徹し続けている真理です。
次にソクラテス=プラトンですが、
ソクラテス=プラトンも著書に依ってスタンスが変わって来ます。
「パイドン」、これこそがソクラテス=プラトンにおける智慧の書なのでしょう。
ここにおいてソクラテス=プラトンの智慧が明らかにされます。
それは世界人類の智慧と何等違いは無いのですが、
ソクラテス=プラトンはその純粋な智慧には、死後にしかお目にかかれないと言っていますが、
それでは哲学の意味が無くなります。
死後については、比喩なのか検証の余地が残されています。
「饗宴」においては、エロスからアガペーへの道程が示されています。
アガペーに達した時、「神は愛なり」の鐘が鳴り響く事に成ります。
次にソロモンですが、ここからは「聖書」の世界です。
「神」が出て来ます。
神をどう捉えるか、哲学の初心者に取って大きな課題です。
しかし皆様は哲学者(智慧を愛する者)です。
積極果敢にその神(智慧)に突入しなければなりません。勿論畏敬の念を持ちつつ。
もし皆様が神(智慧)の世界に突入出来た時、
皆様を拘束するものは何も無く成って来ます。
皆様は神の心を理解し、神の世界をこの世に実現しようとする気持ちに成るのです。
なおソロモンは、「ソロモンの智慧」で有名ですが、
ソロモンが「主」を「智慧」に置き換えて呉れたお蔭で、
ユダヤ教の神が世界に広がって行ったのです。
サバの女王は遠路遥々「ソロモンの智慧」を訪ねて、ソロモンに会いに来たのです。
次はダビデですが、
ダビデの主こそが、世界人類に共通する智慧のスタンダードです。
ダビデはその主を、
幼子がその母をそしてその父を慕う様に慕っています。
その主は甘く切なく優しくそして凛としています。
なおダビデは初代の王です。
そこには混沌からの戦がありました。
ダビデはその戦いの勝利をもその主に願いました。
ですから皆様には少し抵抗のある言葉も出て来ると思いますが、
それらは全て削ぎ落として、
皆様が必要な言葉だけを集めて下さい。
そうすればそこに世界人類のスタンダードとしてのダビデの智慧が浮かび上がって来ると思います。
次にパウロですが、
パウロはイエスの比喩の解釈者です。
パウロは比喩は用いませんので安心して下さい。
しかし「神」と「主」と「キリスト」の真の意味を理解していなければ、
パウロをも完全に理解する事は出来ません。
「神」と「主」と「キリスト」は皆様に取って大きな壁です。
この壁を乗り越えた時、そこに皆様の神の国が在るののです。
最後にイエスですが、
そこには比喩が満ち溢れています。
簡単な比喩から難しい比喩まで、実に様々です。
それらを一つ解く毎に、皆様はイエスに近付く事に成るのです。
皆様がそれらの比喩を全て解けた時、皆様はイエスと同じ立場に成るのです。
すなわちイエスの友と成るのです。
「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命をすてること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはやわたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがを友と呼ぶ。」
しかしここで聖書、特に福音書を読む際の注意事項を忠告して置きます。
それは全てを完全に理解しようと努めない事です。
何故ならそうすれば必ず文字に捕まるからです。
聖書の場合は、皆様が理解した範囲でそれを自分の物にすれば、それがベストです。
以上が十三人の哲学者の主要著書の概要ですが、
一通りこの順番で読み終えたら、
今度は反対の順番で読み返すのです。
そうすれば皆様は智慧の本質をしっかりと掴む事が出来る様に成ります。
皆様が智慧の本質をしっかりと掴んだ時、皆様は真の哲学者と成るのです。
そこから皆様は「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成に取り掛かる事と成ります。
皆様は積極果敢に聖典経典仏典に入って行かなければならないのです。
皆様はもう智慧の本質を知っていますので、
それら聖典経典仏典の一つ一つの言葉が、
皆様を更に奥深い智慧の世界へと導いて呉れる事に成るのです。
もう皆様の智慧の旅は終わらなく成ります。
その智慧の深奥を探す事が皆様の一生の仕事と成るのです。
それは当たり前の事ですよね。
何故ならその智慧とは本当の皆様の事なのですから。
皆様自身が汲み尽くす事の出来ない宝なのです。
「如実空」と「如実不空」の意味。
すなわち皆様自身が無であり無限で在ると言う意味。
それは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。」と言う意味なのです。
すなわち皆様自身は「言」であり「言葉」だと言う事です。
もし皆様自身の世界がこの上なく素晴らしい世界だと言うのなら、
それは皆様自身の世界がこの上なく素晴らしい言葉たちによって満たされていると言う事なのです。
その為にも言葉集めが必要と成るのです。
皆様が集めたその言葉たちは皆、皆様自身を表現しているのです。
その言葉が素晴らしければ素晴らしいほど、本当の皆様を表現しているのです。
皆様はそれらの言葉に自分自身を学んで行けば、
それらの言葉たちが皆様自身の物と成って行きます。
そこまで達すれば、
今度は皆様の心の中にその素晴らしい言葉たちが滾々と生まれて来る事に成るのです。
そこに至った時、始めて真の哲学者(智慧を愛する者)に成ったと言えるのです。
その為にも先ずは言葉集めが必要と成るのです。
その為の作業が「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成と言う事に成るのです。
ここでもう一度、「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成要領について纏めて置きます。
先ずは様式ですが、皆様がそれぞれに定めても良いのですが、
皆様が作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」を基に、
「哲学読本大全(智慧と愛の巻)」(仮本)を作成して行く事に成りますので、
出来たら次の様の様式で作成し頂ければと思います。
一 A4版印刷レイアウトに、スキャナーで読み込んだ名文をそのまま張り付けて行く。縦書きは縦書きのまま、横書きは横書きのまま読み込んで良い事とするが、余計な文章は削除する事とする。
二 名文には仮題を付ける。仮題については、名文の中のキーワードを使用する事とする。
三 名文の文章量については、名文の主題及び名文の起承転結が十分に分かる程度の文章量とする。一読して、その名文の主題がはっきり分かる程度の文章量とする。
(長過ぎると一読では文意が掴めなく成り、短過ぎると文意を理解する事は全く出来ません。既出の「神は愛なり」を参考にして頂ければと思います。その名文を基に哲学的対話を進めて行く事にも成りますので、一読でその真意が分かる位の文章量がベストと言う事に成ります。また何万編と言う名文が収まる事にも成りますので、一読でその真意が分かる量がベストと言う事にも成ります。)
四 名文の「著者名」「著書名」「出典頁」「出版社名」を付記する事とする。
以上が様式です。
次に分類の方法ですが、これも皆様がそれぞれに定めても良いのですが、
皆様が作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」を基に、
「哲学読本大全(智慧と愛の巻)」(仮本)を作成して行く事と成り、
また哲学広場での哲学対話が進められて行く事にも成りますので、
出来たら次の分類で整理して頂ければと思います。
一 智慧とは何か
二 智慧へと至るにはどうすれば良いのか
三 智慧へ至った時、人はどうなるのか
四 愛とは何か(智慧と愛の関係について)
五 その智慧と愛に依って、どの様な世界が生まれるのか
六 皆様が聖人君子と成る為には、皆様は何を為せば良いのか
もし皆様がこの分類で、古今東西の名著の中の、
「智慧と愛」に関する名文を集めて行けば、
皆様の中に「智慧と愛」に関する共通認識が生まれ、
そして共に聖人君子に成るのだと言う連帯意識が生まれる事に成ると思います。
一 智慧とは何か。
それは皆様の、神の事であり、仏の事であり、天の事であり、道の事であり、仁の事であり、如来の事であり、ブラフマンの事であり、アートマンの事であり、般若の事であり、主の事であり、聖霊の事であり、良知の事であり、智慧の事であり、そして本当の皆様の事なのです。
古今東西の聖人賢人たちの中心に在る概念です。
全てがそこから生まれ、全てがそこへと収束して行くところの『それ』の事です。
それについては実に様々な言葉で言い表されています。
その為に皆様は混乱すると思いますが、
それらは全て一つです。
それらが一つで在る事は、
皆様自身で体感するしか有りません。
近現代の哲学者であれば、
それを絶対者、超越者、実存等々と様々に呼んでいるのかも知れませんが、
大切な事は文字に囚われずに、皆様の心で聴くと言う事です。
そうすれば皆様の心が体感します。
それがそれなのです。
そしてそれらは全て一つのなのです。
兎にも角にも、『それ』に関する言葉を徹底的に集めて下さい。
少なくとも千編以上は集めて下さい。
そしてそれを二度三度と読み返して下さい。
そうすればそこに必ず皆様をその恍惚へと導くそれが存在している事に成るのです。
そこに至った時、皆様は真の哲学者(智慧を愛する者)と成るのです。
その智慧において、皆様は全ての事を了解する事と成るのです。
兎にも角にも、それに関する言葉を徹底的に集めて下さい。
そうすれば皆様はそれに関する真髄を掴む事が出来ます。
その真髄と掴んだ時から、皆様は真の哲学者と成るのです。
皆様は多分今は、「神」とか「仏」とか言う言葉に囚われていると思いますが、
心配は要りません。
それらに関する言葉を徹底的に集めて整理してみて下さい。
そうすれば、そこにその本質がくっきりと浮かび上がって来ます。
その時から皆様はもう迷わなく成ります。
その時から皆様は日々それを心から求める事に成るのです。
何故ならそれは皆様の心の中にきらきらと輝きながら存在しているのですから。
ダビデの『主』の事を思い返して下さい。
ダビデの主が如何にダビデに寄り添っていたかを。
ソロモンの智慧の事を思い返して下さい。
ソロモンの智慧が如何にソロモンに寄り添っていたかを。
孔子の仁の事を思い返して下さい。
孔子の仁が如何に孔子に寄り添っていたかを。
老子の道を思い返して下さい。
老子の道が如何に老子に寄り添っていたかを。
王陽明の良知を思い返して下さい。
王陽明の良知が如何に王陽明に寄り添っていたかを。
ブッダ(観自在菩薩、菩提薩陲、三世諸仏)の般若を思い返して下さい。
ブッダの般若が如何にブッダに寄り添っていたかを。
何故それらが彼らに常に寄り添っていたのか。
何故ならそれらが常に、彼らの心の中にこそ存在していたからです。
そしてそれらは全て、皆様の心の中にも存在しているのです。
皆様の心の中にはダビデの主も、ソロモンの智慧も、孔子の仁も、老子の道も、王陽明の良知も、ブッダ(観自在菩薩、菩提薩陲、三世諸仏)の般若も存在しているのです。
そしてそれらは皆、同じなのです。
地域が違い、時代が違うので、その名は異なりますが、
その本質は全く同じなのです。
それを普遍的な言葉で言えば『智慧』、
もっと端的な言葉で言えば「本当の自分自身」なのです。
皆様がそう悟った時から、
皆様は古今東西の聖人賢人たちのそれを一途に求める事と成るのです。
何故ならそれらは皆、本当の皆様の事なのですから。
本当の自分自身への回帰、それが哲学なのです。
神との相思相愛、仏との相思相愛、智慧との相思相愛、その他諸々のそれとの相思相愛、
それらの関係が全て成立した時、皆様は真の哲学者(智慧を愛する者)と成るのです。
その時、皆様は世界の全ての人々と相思相愛の関係に成るのです。
何故ならそれらは全ての人の心の中に平等に存在しているのですから。
その事に気付くか気付かないか、そこに天地の開きが出て来るのです。
その事に気付いた人の事を哲学者(智慧を愛する者)と言うのです。
そしてその哲学者だけがその天の国に入る事が出来るのです。
そしてその天の国に入った者は、そこから聖人君子の道へと進む事と成るのです。
何故なら天の国を独り占めにする訳にはいかないからです。
その天の国をこの世で分かち合おうとする者、それが聖人君子と言う事に成るのです。
兎にも角にも、それに関する言葉を徹底的に集めて下さい。
少なくとも千編以上は集めて下さい。
そこが皆様の哲学者(智慧を愛する者)としてのスタートであると同時に、
皆様の聖人君子としてのスタートとも成るのです。
そしてそれら全てを皆様自身に還元して下さい。
そうすれば皆様は神とも仏とも成るのです。
「では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。」
皆様ははっきり言って、神や仏の事に関しては全くの無知です。
今回の作業でその無知の闇をきれいさっぱり払い除けて下さい。
そうすればそこにはきらきらと輝く皆様が存在している事に成るのです。
皆様は皆様が大好きに成ります。
そして毎日毎日、本当の皆様(智慧)を追い求める事に成るのです。
「では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。」
二 智慧に至るにはどうすれば良いのか
皆様が智慧へと至る方法は一つしかありません。
その方法が哲学です。
すなわち智慧を愛すると言う事です。
智慧を愛する事以外に、皆様が智慧へと至る方法は無いのです。
皆様が智慧を愛して愛して愛し抜いた時、皆様は智慧へと至る事に成るのです。
そこがどの様な境地かと言えば『恍惚』です。
「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。道の物為(た)る、惟(こ)れ恍惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。其の中に象有り、恍たり惚たり。其の中に物有り、窈たり冥たり。其の中に精有り、其の甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」
その恍惚の中において皆様は全てを了解する事と成るのです。
古今東西の聖人賢人哲人たちが、そこへ至る様々な方法を示しています。
それらを徹底的に集めて整理して見て下さい。
そうすれば、そこに一つの道が見出される筈です。
その道を見出した時、皆様はもう哲学(智慧を愛する事)において迷わなく成ります。
皆様は徹底的にその道を進む事と成るのです。
人は何故念仏を唱えるのでしょう。
それはこの世の私を捨てて、
その仏へと至りたいが為です。
人は何故神に祈りを捧げるのでしょう。
それはこの世の私を捨てて、
その神に至りたいが為です。
人は何故瞑想するのでしょう。
それはこの世の煩いを全て捨て去って、
無心無垢無我の境地に入りたいが為です。
人は何故断食をするのでしょう。
それはこの世の肉の欲を全て捨て去って、
無心無垢無我の境地に入りたいが為です。
(断食こそが最も過酷な哲学です。イエスは四十日間の断食の末、この世の悪魔すなわちこの世の肉の欲を全ての自らの支配下に置いたのです。そして常に無心無垢無我の境地で在り続ける事が出来る様に成ったのです。その境地においてイエスは智慧の現人神と成ったのです。)
古今東西の聖人賢人哲人たちが、そこに至る様々な哲学の方法を示していますが、
そこに在るのは唯一つの道だけなのです。
それはこの世の私を捨てて智慧へと至る事、ただそれだけなのです。
そうすればそこにあの『恍惚』が在る、ただそれだけの事なのです。
そしてその恍惚の中で、皆様が本当の皆様と成るのです。
それが至福です。
そしてその至福の中に本当の愛が生まるのです。
その愛が「神は愛なり」と言う時の愛なのです。
智慧に至るまでが哲学の第一の目的、
そしてその智慧から生まれた愛をこの世に実現する事、それが哲学の第二の目的と成るのです。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
智慧を愛して智慧へと至る、これが哲学の第一の目的です。
そしてその智慧から生まれた愛をこの世に実現して行く、これが哲学の第二の目的です。
古今東西の聖人賢人たちが様々な哲学の方法を示していますが、
究極的にはこの二つに集約される事と成るのです。
兎にも角にも古今東西の聖人賢人たちの様々な哲学の方法を集めて整理して下さい。
そうすればそこに皆様の哲学の道がくっきりと浮かび上がって来ます。
それが皆様の歩むべき道です。
その道を歩み続ければ、そこに皆様の天の国が開けて来るのです。
「四諦八正道」
ブッダが示した哲学の道です。
四諦とは苦諦、集諦、滅諦、道諦。
八正道とは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。
この世は苦である。(苦諦)
この世は苦の集まりである。(集諦)
この世の苦の集まりを滅すれば、そこに皆様の天の国がある。(滅諦)
皆様を皆様の天の国へと導く道がある。それが八正道である。(道諦)
智慧と共に正しく見る。(正見)
智慧と共に正しく思う。(正思惟)
智慧と共に正しく語る。(正語)
智慧と共に正しく業ずる。(正業)
智慧と共に正しく命ずる。(正命)
智慧と共に正しく精進する。(正精進)
智慧と共に正しく定まる。すなわち常に智慧と共に在る。(正定)
これまで見て来た十三人の哲学者と全く同じ道です。
先ずはこの世の私を捨て去りなさい。
そうすればそこに智慧が在る。
出処進退全て智慧(恍惚)と共に在りなさい。
そうすればそこに皆様の智慧と愛の世界が現出する。
「子供のようにならなければ天の国に入る事はできない」
皆様の一番至福な時を思い浮かべて下さい。
それは無心無垢無我の境地。
その境地をこの世に実現する。
それが哲学の道なのです。
兎にも角にも、古今東西の聖人賢人たちの様々な哲学の方法を集めて整理して見て下さい。
そこに一つの道が見い出せれば、それが皆様の哲学の道です。
皆様はもう哲学を止める事が出来なく成ります。
なお皆様は皆、哲学者です。
ここで正統的な哲学の方法を示して置きたいと思います。
それが「読書」、「思索」、「作文」、「対話」、そして「実践」と言う事に成るのです。
これが『哲学一貫教育』における基本的な哲学的方法であり、
また『哲学広場』における基本的な哲学的方法なのです。
先ずは「読書」。
これが無ければ皆様は一歩も先に進む事は出来ないのです。
何故なら言葉を知らなければ皆様は一歩も先に進む事は出来ないからです。
『智慧』とは何か。
智慧の事を知らずに、智慧の中に入って行く事が出来るでしょうか。
はっきり言って不可能です。
しかし皆様が智慧の事を知っていれば、皆様は智慧の中へと入って行く事が出来ます。
もし皆様が一人の聖人から智慧の事を知らされた時、皆様は智慧の事についておぼろげに知る事に成ります。
十人の聖人賢人から智慧の事を聞かされた時、皆様は智慧についてより良く知る事が出来る様に成ります。
百人の聖人賢人哲人たちから智慧の事を聞かされた時、皆様は更に智慧の事について深く知る事が出来る様に成ります。
もし皆様が千人の聖人賢人哲人文人たちから智慧の事について聞かされ、
そしてそれらの表現方法は様々であるが、その本質が一つで在る事を発見した時、
皆様はもう智慧の事について迷う事は無く成るのです。
読書は皆様をそこへと導いて呉れるのです。
皆様が読書をする上で一番大切な事は、それを見出す事です。
何故ならそれこそが本当の皆様自身なのですから。
そしてそこから皆様の素敵な世界が生まれて行くのですから。
読書には二つの効能があります。
一つはその概念を確立させる事。
もう一つはその概念に依って、智慧への空間へと飛び立つ事です。
これこそが読書の究極の楽しみです。
智慧の真髄、そこが恍惚です。
そこは皆様が皆様で在る所。
そこにおいて皆様は自由自在です。
その恍惚の中で、皆様は皆様の言(智慧)に依って、皆様の言葉を紡ぎ出すのです。
それが何よりの楽しみなのです。
「詩を知りたければ詩の国へ行け、詩人を知りたければ詩人の国へ行け」
何故なら皆様は言葉だからです。
皆様の深奥は言の国です。
その言の国から言葉を紡ぎ出す。
それが皆様方です。
「我思う、故に我在り」
皆様が紡ぎ出したその言葉が皆様自身です。
皆様が紡ぎ出したその言葉、その言葉は皆様自身のお気に召しましたか。
「詩を知りたければ詩の国へ行け、詩人を知りたければ詩人の国へ行け」
皆様が皆様を好きに成る為には、
皆様のその心の深奥にある、「智慧の王国」、「言の王国」へと旅立たなければならないのです。
そこに皆様は飛ばさせて呉れるのが読書と言う事に成るのです。
その智慧の言葉たちが皆様を智慧(恍惚)の空間へと飛ばさしめて呉れます。
そこに飛び込めば皆様は自由自在です。
そこにおいて皆様は皆様が求めるものを皆様から求めれば良いのです。
それが『思索』と言う事に成るのです。
思索とは、恍惚の中で、皆様が純粋に考える存在と成って、
皆様が皆様の求めるものを皆様の中から求める事なのです。
「求めなさい、そうすれば与えられる。
探しなさい、そうすれば見つかる。
門をたたきなさい、そうすれば開かれる。」
これが皆様が皆様に与える報酬であり、
皆様の智慧が皆様に与える報酬です。
「読書」と「思索」に依って、皆様は日々至福に至る事は出来ますが、
しかし残念ながら、それはその日、その時、その場限りなのです。
もし皆様が智慧において進歩を願うのなら「作文」を覚えなければならないのです。
もし皆様が作文を覚えれば、皆様は智慧において日々進歩する事が出来ます。
また同じ思索の時間においても、より高く飛ぶ事が出来る様に成ります。
何故ならその瞬間瞬間の思索の結果が新たなスタート台と成るからです。
すなわち前の思索の結果を基に更に弁証する事が出来る様に成るからです。
もし皆様が何十もの何百もの思索の結果を頭脳の中で積み上げて行く事が出来れば、
作文は不要です。
しかし人間が頭脳の中で積み上げる事の出来る思索の結果は極く限られたものなのです。
しかし作文においてはそれが無限なのです。
前の思索の結果を基に更に高く、
更に前の思索の結果を基に更に高く、
その様にして時間が許す限り、高く飛ぶ事が出来る様に成るのです。
もし皆様が作文を覚えれば、
読書と思索の時だけに比べて、
比較に成らない程高く飛ぶ事が出来る様に成るのです。
読書と思索と作文、
この三種の神器に依って、
皆様は本当の皆様へとより近付く事が出来る様に成るのです。
皆様が真の哲学者を目指すのであれば、
『読書』『思索』『作文』は決して手放す事が出来ない三種の神器です。
「読書」と「思索」と「作文」、
これが皆様方哲学者が智慧へと至る最も正統的な方法と言う事に成り、
そして「対話」と「実践」、
これが皆様方哲学者の智慧から生まれた愛をこの世に実現させて行く最も正統的な方法と言う事に成ります。
三 智慧に至った時、人はどうなるのか
その時、人は『恍惚』と成るのです。
『恍惚』こそが、智慧に至った時の絶対基準です。
何故ならそこには何の煩いもありません。
そこにおいては、何処までも何処までも自分が自分なのですから。
そしてそこにおいて、自分が求めるものが何でも滾々と湧いて来るのです。
「問うて曰く、和尚は既に一切処に於いて皆無心なりと云う。木石も亦た無心なり、豈(あ)に木石に同じからざるか。答えて曰く、爾我の無心は、木石に同じからず。何を以ての故ぞ。譬えば天鼓の如し、無心なりと雖復(いえど)も、自然に種々の妙法を出して衆生を教化す。又如意珠の如し、無心なりと雖復(いえど)も、善能(よ)く諸法実相を覚了し、真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し。」
この事を譬えて、ニルヴァーナとも、涅槃とも、極楽とも、天国とも、神の国とも、ブラフマンとも呼んでいるのです。
皆様が智慧へと至った時、皆様は極楽へと渡る事と成るのです。
喩えです。
何故なら人間に取って、『恍惚』以上の快楽は無いのですから。
そしてその快楽の中で、皆様が心から求めるものが滾々と湧いて来るのです。
それを極楽、極めて楽しいと言った所で何もオーバーな表現をしている訳では無いのです。
皆様が心から求めるもの、それは愛です。
四 愛とは何か(智慧と愛の関係について)
皆様が智慧を愛して愛し抜いて智慧へと至った時、皆様は恍惚とります。
その恍惚の体感が愛なのです。
この恍惚の分かち合い、それもまた愛です。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
皆様が智慧を愛しに愛し抜いた時、皆様は智慧の真髄へと至ります。
そこは恍惚です。
そしてその体感こそが愛なのです。
その智慧の真髄、その恍惚において、
皆様の智慧と愛が同時に存在している事に成るのです。
その智慧と愛こそが、
「神は愛なり」と言う時の智慧と愛なのです。
原初の智慧と愛と言う事に成ります。
この原初の智慧と愛から、
皆様のこの世の智慧と愛の世界が生まれて行く事に成るのです。
この原初の智慧と愛のままにこの世を生きて行く事の出来る人の事を聖人と呼び、
この原初の智慧と愛のままにこの世を生きて行こうとする人の事を賢人(君子)と呼んでいるのです。
五 その智慧と愛からどの様な世界が生まれるのか
皆様が智慧を愛して愛し抜くと、皆様は恍惚に成ります。
そこに皆様の原初の智慧と愛が在ります。
この原初の智慧と愛から、皆様のこの世の智慧と愛の世界が生まれて行く事に成るのです。
皆様がその原初の智慧と愛のままにこの世を生きる事が出来れば、
そこに皆様の智慧の愛の世界が百パーセント実現する事に成ります。
皆様がその原初の智慧と愛のままにこの世を全く生きる事が出来なければ、
そこには皆様は智慧と愛の世界は全く生まれる事はありません。
イエスは、その智慧と愛のままにこの世を生きたのです。
ですからイエスの世界は全て、イエスのその智慧と愛の世界そのままです。
ブッダもまた、その智慧と愛のままにこの世を生きたのです。
ですからブッダの世界もまた全て、ブッダのその智慧と愛の世界そのままです。
何故彼らがその智慧の愛のままに生きる事が出来たのか、
それは彼らが神(智慧)であり、仏(智慧)だからです。
その智慧と愛をこの世にどれだけ実現する事が出来るか、
それに依って、位格が決まって来るのです。
智慧と愛の現人神、聖人、賢人(君子)、哲人(哲学者)、そして凡人。
イエスとブッダ、
彼らはその智慧と愛をそのままに実現する事が出来ました。
何故なら彼らは彼ら自身が智慧(神、仏)そのものだったからです。
ですから彼らについては、智慧と愛の現人神と呼んでも良いと思います。
生身の人間は聖人からです。
聖人とはその智慧と愛をほぼそのまま実現出来る人の事を言います。
孔子やソクラテスがその典型だと言って良いのでしょう。
賢人(君子)とはその智慧と愛をある程度実現出来る人の事を言います。
セネカや王陽明がその例だと言う事が出来ると思います。
哲人(哲学者)とはその智慧と愛の事を知っている人の事を言います。
その智慧と愛を実現出来たかは不問にする事とします。
しかし常にその智慧と愛を実現したいと願っているのです。
それが今の皆様方哲学者(智慧を愛する者)と言う事に成ります。
凡人とはその智慧と愛の事を知らない人の事を言います。
いわゆる「無知なる人々」です。
彼らはその智慧と愛を知らないので、敢えてその智慧と愛を実現させようとする事は無いのです。
皆様は皆、哲学者(智慧を愛する者)です。
皆様が目指すべきは聖人君子です。
皆様が聖人君子を目指す時、そこに皆様の聖人君子としての「智慧と愛の世界」が生まれる事に成るのです。
六 皆様が聖人君子と成る為には、皆様は何を為せは良いのか
皆様は皆、哲学者(智慧を愛する者)です。
皆様が聖人君子と成る為には、常に智慧と共に在り続ければ良いのです。
そうすれば皆様は聖人君子に成る事が出来るのです。
老子は道と共に、道の世界体系を創り上げました。
孔子は仁と共に、仁の世界体系を創り上げました。
王陽明は良知と共に、良知の世界体系を創り上げました。
ブッダは般若と共に、般若の世界体系を創り上げました。
クリシュナはアートマンと共に、アートマンの世界体系を創り上げました。
ダビデ、ソロモン、イエス、パウロは主と共に、主の世界体系を創り上げました。
ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカ、デカルトは智慧と共に、智慧の世界体系を創り上げました。
そして皆様は皆様の智慧と共に、皆様の智慧の世界体系を創り上げれば良いのです。
その為には、皆様は常に智慧と共に在り続けなければ成らないのです。
寝ている時も、起きている時も、常に智慧と共に在り続けなければ成らないのです
そうすればそこに、皆様の智慧の世界体系(皆様の智慧と愛の世界)が創り上げられる事と成るのです。
「子曰く、吾れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(した)がう。
七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。」(「論語」)
これが哲学者から君子を経て聖人に至る道です。
皆様が君子と成る為には天命を知る必要があります。
すなわち智慧(天)の命ずる声をはっきりと聞き取る事が出来る様に成らなければいけません。
そしてその智慧(天)の命じるままに行動するのだと言う強い意志を持たなければ成らないのです。
始めの内は、天命(智慧の命じる声)と皆様の行動の間には乖離があると思いますが、
強い意志を持って行動し続ければ、
その天命と皆様の行動の間の乖離はどんどん小さなものと成って行きます。
そして最後には天命のままに行動する事に何の違和感も無くなって来るのです。
その時が耳順です。
君子としての最高の姿です。
更に耳順を続けて行くと、「習い性と成る」のです。
その時には、皆様は天命(智慧の声)に耳を傾けずとも、
天命のままに行動している事に成るのです。
「心の欲する所に従って矩を踰えず」と言う事に成っているのです。
ここまで至った時、皆様は聖人と成るのです。
皆様はもう哲学者として哲学(智慧を愛する事)に志しています。
皆様が完全な哲学者に成る為には、智慧において立ち、智慧において惑わなくなる必要があります。
その為には、徹底的に智慧を学ばなければならないのです。
それが皆様自身で作成する「哲学読本(智慧と愛の巻)」と言う事に成るのです。
孔子は哲学に志してから君子と成るまで、すなわち天命を知るまで三十五年かかっています。
皆様は孔子が三十五年かかった所を短時間の内に消化しなければなりません。
ですので、徹底した哲学(智慧を愛する事)の勉強が必要と成るのです。
兎にも角にも、古今東西の聖人賢人哲人たちの『それ』に関する言葉を徹底的に集めて整理して下さい。
そうすればそこに智慧の本質がくっきりと浮かび上がって来ます。
更にその本質を突き詰めて下さい。
そうすればそこに天の声が聞こえて来ます。
「イエスは洗礼を受けると、すぐに水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。その時、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」
この声が聞こえた時、皆様は天命を知ったと言う事に成るのです。
喩えです。
皆様が古今東西の聖人賢人哲人たちの『それ』を徹底的に集めれば、
そこに皆様の『それ』が存在する事と成るのです。
その時皆様は「分かった!!!」と合点する事に成るのです。
その時の喩えが「天の声」でもある訳です。
その天の声を聞いた時から、
皆様はその天の声に従おうとする事と成るのです。
それが天命を知ると言う事にも成る訳です。
皆様はその天命を知った時から、聖人君子の道を歩む事に成るのです。
その声とは、智慧の事ですが、
それは本当の皆様の心からの声の事です。
その声に従う者、それが聖人君子と言う事に成るのです。
その声、すなわち天命を知った時から、
皆様の聖人君子としての修業が始まる事と成るのです。
それが「克己復禮」です。
この世の皆様を本当の皆様に従わせる事です。
「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。その時、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食をした後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。」
ここからイエスは様々な誘惑を受ける事に成りますが、
それらを悉く撥ね返して本当の自分自身(智慧)に成ったのです。
ここからイエスは智慧の現人神と成ってこの世に出て行ったのです。
四十日の断食の末に、イエスはこの世の肉の欲を全て智慧の支配下に置いたのです。
すなわちこの世の肉の欲の全てを十字架に磔にした後、キリスト(智慧:本当の自分自身)として蘇ったのです。
「克己復禮」に成功したのです。
全て喩えです・・・・
兎にも角にも、『それ』に関する言葉を徹底的に集めて整理して見て下さい。
そうすればそこにその本質が浮かび上がって来ます。
そこからが皆様の哲学者(智慧を愛する者)としてのスタートです。
皆様が『それ』に関する言葉を徹底的に集めて整理した時、
その時皆様の『哲学読本(智慧と愛の巻)』が完成した事に成るのです。
その時から『哲学国家日本』が胎動する事と成るのです。
一 智慧とは何か
二 智慧に至るには、何を為せば良いか
三 智慧に至った時、人はどの様に成るか
四 愛とは何か(智慧と愛の関係について)
五 その智慧と愛からどの様な世界が生まれるのか
六 皆様が聖人君子と成る為には、何を為せば良いのか
これらの視点で古今東西の聖人賢人たちの言葉を集めて下さい
そうすればそこに皆様の「哲学読本(智慧と愛の巻)」が完成する事に成ります。
なお実際の作業においては、古今東西の聖人賢人たちの『それ』に関する言葉だけに着目して集めて下さい。
そうすれば自然に上記の様な分類に成って行くと思います。
皆様が一人の聖人(一冊の本)にそれを見出した時、皆様はそれについておぼろげに知る事と成ります。
皆様が十人の聖人賢人(十冊の本)にそれを見出した時、皆様はそれについてかなり分かる様に成る筈です。
皆様が百人の聖人賢人哲人(百冊の本)にそれを見出した時、皆様はそれについてもう迷わなくなると思います。
兎にも角にも百冊の本を目指して、それに関する言葉を徹底的に集めて下さい。
そうすればそこに皆様の「哲学読本(智慧と愛の巻)」が完成する事に成ります。
そこからが本当の皆様のスタートです。
皆様はこれまでこの世の傀儡でした。
しかし皆様は「哲学読本(智慧と愛の巻)」を完成させる事に依って、
本当の皆様を知る事と成るのです。
そこから本当の皆様がスタートする事と成るのです。
皆様はそこにおいて、本当の自分自身を生きたいと願う様に成るのです。
しかし皆様はまたそこにおいてこの世の現実を知る事と成るのです。
皆様の心は萎えるかも知れませんが、心配要りません。
何故なら皆様のバックには、千人の皆様方が居るのですから。
皆様方は皆、「哲学読本(智慧と愛の巻)」の完成に依って、既に友と成っているのです。
皆様方は一二の三で、「哲学読本(智慧と愛の巻)」を見せ合います。
その時、皆様方は、一斉に『破顔微笑』する事と成るのです。(「世尊、昔、霊山会上に在って花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆な黙然たり。惟だ迦葉尊者のみ破顔微笑す。世尊云く、『吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり。不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す。』」)
友の誕生です。
そして皆様自身の誕生です。
「子曰く、吾れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(した)がう。
七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。」
皆様が君子の成る為には、智慧において立ち、智慧において惑わなくなり、
そして智慧の声(天命)をはっきりと聞き取る事が出来る様に成らなければ成りません。
もし皆様が一人でそれを行うとすれば、
天命を知るまでに少なくとも三十五年はかかります。
皆様はそんなには待てませんよね。
しかし千人の皆様が協力し合えば、
ほんの僅かな時間において天命を知る事が出来る様に成るのです。
皆様方は皆、「哲学読本(智慧と愛の巻)」を完成させています。
皆様方は皆、それぞれに智慧の概念を見出しています。
しかし皆様は皆、不安です。
その概念が果たして『それ』なのかと。
その時、皆様方は皆様方がそれぞれに作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」を見せ合う事と成るのです。
そして皆様は、一斉に微笑む事に成るのです。
友の誕生と共に、本当の皆様の誕生です。
その後、皆様方は切磋琢磨して、共に聖人君子への道を歩む事に成るのです。
皆様が君子と成る為には、
智慧において立ち、智慧において迷わず、
そして智慧の声(天命)をはっきり聞き取る事が出来る様に成らなければ成りませんが、
皆様が皆様それぞれが作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」を見せ合い、
そして『破顔微笑』した時、
皆様は既に孔子の四十歳の時に近い心境に至っているのです。
すなわち『不惑』に近い境地にまで至っているのです。
後は切磋琢磨です。
すなわち皆様方と対話を続けて行けば、
皆様はもうその智慧において惑わなく成ります。
それが孔子四十歳の時の境地「不惑」です。
皆様が「不惑」に達すれば、
「天命を知る」まではそうは長くはありません。
孔子は不惑から天命を知るまでに十年かかっていますが、
皆様はそんなにかかる事はありません。
それが皆様方千人の力、すなわち千人力の所以です。
皆様は切磋琢磨して天命を求めます。
そうこうする内に、一人また一人と言う風にして、
連鎖的に天命を知る者が増えて行きます。
その様にして程なく皆が、天命を知る様に成るのです。
何故この様に早く、そしてこの様に多くの者が天命を知る事が出来る様に成るのか。
それは全て「哲学読本(智慧と愛の巻)」の御蔭です。
何故なら皆様が作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」において、
古今東西の聖人賢人哲人たちの智慧が一つに成っているからです。
それらの智慧がこれでもか、これでもかと言う位に皆様を後押しする事に成るからです。
古今東西の聖人賢人哲人たちと皆様千人の哲学者たちの智慧が入り乱れて百花繚乱、
正に智慧のお花畑です。
その様な環境の中で、
多くの皆様がいち早く天命を知る事が出来る様に成るのです。
「哲学広場」と「哲学読本」、
これが両輪と成って、皆様を聖人君子へと導いて行く事に成るのです。
多くの皆様が「天命を知る」所まではそんなに難しくも無く行き着く事が出来るかも知れませんが、
「耳順」と「心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」までは、途轍も無く厳しい道のりと成るのです。
「耳順」まで至った時、皆様は本当の君子に成るのであり、
「心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」に至った時、皆様は聖人と成るのです。
「十有五にして学に志す」、「三十にして立つ」、「四十にして惑わず」、「五十にして天命を知る」、ここまでが第一哲学です。
そして「六十にして耳順(した)がう」、「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」までが第二哲学です。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二もこれと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
智慧(神もしくは仏あるいは天)を愛して、智慧に愛し返される。(天命を知る)
ここまでは多くの人が達する事が出来ます。
しかしこの後が途轍も無く難しいのです。
何故ならこの世において、その智慧と愛のままで在り続けれなれば成らないからです。
第一哲学はそれ程難しい事ではありません。
何故ならそこには常に恍惚が寄り添っているのですから。
それに哲学仲間(哲学ボランティア‘ソクラテス’)も居る事ですから。
しかし第二哲学においては、この世に在って皆様お一人です。
智慧と愛について無知なる人々の中に在って、
智慧と愛のままに在り続けなければならないのです。
そこにおいて頼りに成るのは皆様の自由意志、すなわち皆様の勇気のみだけなのです。
「子の曰く、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。」
「子の曰く、君子の道なる者三つ。我れ能くすること無し。仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼れず。子貢曰く、夫子自らを道(い)うなり。」
「子の曰く、徳ある者は必ず言あり。言ある者は必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり。 勇者は必ずしも仁あらず。」
勇者とは何者か、
それは智慧の命ずるままに行動できる人の事。
すなわち「耳順」の人であり、「心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」の人の事です。
皆様の聖人君子への道は途轍も無く厳しいのですが、
孔子が一人で歩いた道程よりはずっとずっと簡単なのです。
何故なら聖人君子を目指す人が、
孔子のあの時代に比べて、比べる事が出来ない程、沢山いるのですから。
それが『哲学広場』です。
『哲学広場』は、最終的には、日本全国の全ての小学校、中学校、高校、大学、地区公民館に設置される事と成ります。
そこには優秀な哲学者(智慧を愛する者)が居ます。
そして彼らが更に聖人君子を目指しているのです。
その様な環境下ですので、
孔子が一人で歩いたあの時代に比べて、
遥かに簡単に聖人君子に成る事が出来るのです。
「哲学広場」と「哲学読本」、これが車の両輪と成って、日本を哲学国家へと導く事に成るのです。
そこにおいて皆様は切磋琢磨する事に成ります。
その先に皆様の聖人君子としての道が広がっているのです。
そして更にその先に、「哲学国家日本」が在るのです。
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