各大学哲学教官宛書簡

 拝啓 国立大学教育学部哲学担当教官 
 拝啓 国立大学文学部哲学担当教官    殿 
 拝啓 私立総合大学文学部哲学担当教官

 私は哲学(智慧を愛する事)に依って、日本が素晴らしい国家になると思っている者です。
 私はその為に、『哲学国家日本』と言う概念を提唱しています。
 また併せて、『哲学一貫教育』と言う概念も提唱しているところです。。
 今回これらに関する提言書として、別冊の通り『「哲学国家日本」の実現の為に』を作成致しましたので、贈呈いたします。
 
 哲学国家日本とは、国民の一人一人が智慧を愛する事に依って、哲学的に成熟して行く国家、日本の事を言っています。
 そして哲学一貫教育とは、その哲学国家日本を実現させる為の方法論と言う事に成ります。
 この哲学一貫教育は、次の四つの柱から成っています。
 一 「小中高大学哲学一貫教育」
 二 「大学教育学部における徹底した哲学教育」
 三 「哲学読本大全の作成」
 四 「哲学広場の設置」

 一番目の「小中高大学哲学一貫教育」とは、小学校、中学校、高校、大学の十六年間に渡って、哲学教育を一貫して行う教育の事を言います。
 この小中高大学哲学一貫教育は、「小中高校哲学一貫教育」と「大学哲学一貫教育」に分ける事ができます。
 小中高校哲学一貫教育とは、小学校、中学校、高校の十二年間に渡って、哲学教育を一貫して行う教育の事を言います。
 方法としては、小学校、中学校については、現在の道徳を廃止して哲学とし、高校については、現在の倫理を廃止して哲学とし、かつ必修とし、週二時間授業とします。
 教材としては「哲学読本」と「哲学ノート」を使用する事とします。
 哲学読本とは、それぞれの学年において相応しい哲学テーマについて、古今東西の名著の中の名文をそれぞれの哲学テーマ毎に数編集めて、編集した読本の事を言います。
 哲学ノートとは、哲学読本の読書等を契機にして、それぞれの哲学テーマについて、自ら考えた事を作文として纏める為のノートの事を言います。
 授業の進め方としては、週の最初の時間に、哲学読本を読み、週の最後の時間に、哲学読本の読書等を契機に、それぞれの哲学テーマについて、その一週間の間に考えた事を、哲学ノートに作文として纏める事にします。
 これを毎週、小中高校十二年間に渡って実施する事とします。
 一年間の授業週数を四十週と想定すると、四十の哲学テーマ×十二年間と言う事で、小中高校十二年間の間に、四百八十の哲学テーマについて、古今東西の名著の中の名文を読み、四百八十の哲学テーマについて、自ら考えた事を作文に纏める事に成ります。
 これにより、現在の児童生徒に比べて、格段に読書能力、作文能力に優れた児童生徒、すなわち智慧において優れた児童生徒が生まれて行く事に成ります。
 大学哲学一貫教育とは、大学の四年間に渡って、哲学教育を一貫して行う教育の事を言います。
 方法としては、哲学を必修とし、毎学年通年で受講する事とし、単位については、毎学年四単位の四年間で合計十六単位とします。
 一年目と二年目については、教養哲学とし、小中高校哲学一貫教育を更に発展させ、完成させる事とします。
 三年目と四年目については、専門哲学とし、それぞれの専門教育について、専門哲学(法哲学、政治哲学、行政哲学、経済哲学、経営哲学、社会哲学、医療哲学、福祉哲学、工業哲学等)を学ぶ事とします。
 この小中高校哲学一貫教育と大学哲学一貫教育が連携した小中高大学哲学一貫教育に依って、これまでの学生に比べて、格段に哲学的素養に優れた学生が生まれて行く事に成ります。

 二番目の「大学教育学部における徹底した哲学教育」ですが、教育の基礎は教師です。
 教師が智慧を愛する教師であってこそ、児童生徒学生も智慧を愛する事に成ります。
 教師が智慧の言葉を自由に操る事が出来てこそ、児童生徒学生も智慧への関心が高まる事と成ります。
 その為に「大学教育学部における徹底した哲学教育」においては、徹底して古今東西の聖人賢人哲人たちの智慧の言葉を学ぶ事とします。
 カリキュラムを例示すると次の通りです。
 一 日本思想史(四単位)・・日本を代表する哲学者たちから智慧に関する言葉を学ぶ。
 二 東洋思想史(四単位)・・東洋を代表する哲学者たちから智慧に関する言葉を学ぶ。
 三 西洋思想史(四単位)・・西洋を代表する哲学者たちから智慧に関する言葉を学ぶ。
 四 宗教(四単位)・・・・・主要な宗教の聖典において、智慧に関する言葉を学ぶ。
 五 哲学各論(十六単位)・・主要な哲学テーマについて、名著の中の名文から学ぶ。
 六 教科哲学(四単位)・・・小中高校の各教科について、哲学的視点から考える。
 七 哲学随想集の作成(二単位+課外) ・・百の哲学随想を作り、その文集を作成する。
 八 哲学対話録の作成(二単位+課外)・・百の哲学的対話を行い、その対話録を作成する。
 九 智慧と愛の哲学(二単位)・・・・・智慧と愛について、様々な講師から学ぶ。
「大学教育学部における徹底した哲学教育」に依って、真に智慧を愛する教師が生れる事と成ります。

 三番目目の「哲学読本大全」ですが、これについては「哲学読本大全(全百巻)」と「哲学読本大全(智慧と愛の巻全百巻)」に分ける事が出来ます。
 「哲学読本大全(全百巻)」とは、日本国民に取って大切であると思われる五百の哲学テーマについて、古今東西の名著の中の名文をそれぞれ百編以上集めて、編集したものの事を言います。
 「哲学読本大全(智慧と愛の巻全百巻)」とは、古今東西の聖人賢人哲人たちの中心概念をなす『それ』について、古今東西の名著の中から、『それ』に関連する名文だけを集めて、編集したものの事を言います。なお、『それ』とは、智慧、良知、仁、道、般若、真我、聖霊、主、天、神、仏、如来、絶対者、超越者、ブラフマン、アートマン、天の国、神の国、極楽、涅槃、ニルヴァーナ、悟り、無、無心、無垢、空、中、恍惚、至福そして本当の自分等々、それ及びそれに関連するものとします。「哲学読本大全(智慧と愛の巻全百巻)」においては、『それ』に関連する名文だけを集める事にしますが、それに関連する名文には自ずから「愛」(徳)も伴う事となるので、標題は「智慧と愛の巻」とする事とします。
 「哲学読本大全」については、ウェブ閲覧用とオンデマンド印刷製本用の二種類を作成し、インターネット上で無料公開する事とします。また日本全国の全ての小学校、中学校、高校、大学、地区公民館においては、オンデマンド印刷製本用から印刷製本を行い、それぞれの施設の図書室または図書館に開架図書として備え付けるものとします。
 この「哲学読本大全」に依って、哲学が日本中に浸透して行く事に成ります。
 またこの「哲学読本大全」は、「哲学一貫教育」の他の三つの柱である「小中高大学哲学一貫教育」、「大学教育学部における徹底した哲学教育」、「哲学広場」における基礎教材とも成って行きます。

 四番目の「哲学広場」ですが、哲学広場とは哲学的対話を行う部屋の事を言います。
 この哲学広場(哲学対話室)を日本全国の小学校、中学校、高校、大学、地区公民館に設置する事とします。
 哲学広場(哲学対話室)については、小学校、中学校、高校、大学、地区公民館の研修室等を一時借用して開設する事とし、開設時間については、小学校、中学校、高校については、毎週金曜日の午後三時から午後五時までとし、大学及び地区公民館については、毎週土曜日の午後一時から午後五時までとします。
 哲学広場(哲学対話室)には、哲学ボランティア‘ソクラテス’と言う者が、哲学広場の開設時間中は二名以上常駐し、哲学広場を訪れた者と哲学的対話を行う事と成ります。または哲学広場を訪れた者同士でも対話を行う事に成ります。更には哲学読本大全等を基に勉強会等も実施する事と成ります。
 それぞれの哲学広場(哲学対話室)については、それぞれの小学校、中学校、高校、大学、地区公民館の哲学広場ごとに、哲学ボランティア‘ソクラテス’十数名で「哲学広場○○」を組織する事とし、この「哲学広場○○」が哲学広場(哲学対話室)を運営する事に成ります。
 なお各市町村の哲学広場のセンター的なものとして「哲学広場各市町村」を、各都道府県の哲学広場のセンター的なものとして「哲学広場各都道府県」を、そして日本全国の全ての哲学広場のセンター的なものとして『哲学広場日本』を設置する事とします。
 これらの哲学広場、すなわち日本全国の「哲学広場○○小学校」、「哲学広場○○中学校」、「哲学広場○○高校」、「哲学広場○○大学」、「哲学広場○○地区公民館」、「哲学広場○○市町村」、「哲学広場○○都道府県」、そして『哲学広場日本』が連携し合い、響き合う事に依って、日本に哲学的風土と言うものが生まれて行く事に成り、その哲学的風土の中から多くの優れた哲学者(智慧を愛する者)が生まれて行く事に成るのです。

 以上が『哲学一貫教育』の概要です。
 この哲学一貫教育に依って、日本は哲学国家へと変貌して行く事に成るのです。
 この事については誰も異を挟まないと思いますが、この哲学一貫教育の内、一番目の「小中高大学哲学一貫教育」と二番目の「大学教育学部における徹底した哲学教育」については、制度的な制約があり直ぐに実行すると言う訳にはいかないのです。
 しかし、三番目の「哲学読本大全」と四番目の「哲学広場」については、哲学(智慧を愛する事)に関心のある者が集まれば、直ぐにでも実行する事が出来るのです。
 と言う事で、今回の提言書「『哲学国家日本』の実現の為に」においては、この『哲学読本大全』と『哲学広場』の事を熱く語っています。
 つきましては、先生方には、本文を読んで頂き、「哲学読本大全」の作成と「哲学広場」の設置について、ご協力を頂ければ有り難く思います、と言いたい所ですが、なにせこの提言書は五十五万字以上に及んでいますので、ここではその概要を簡単に示しておきたいと思います。
この提言書は次の様な構成に成っています。
 拝啓 日本国民の皆様へ
 第一章  ソロモンの智慧
 第二章  ダビデの智慧
 第三章  イエスの智慧
 第四章  パウロの智慧
 第五章  ブッダの智慧
 第六章  孔子の智慧
 第七章  王陽明の智慧
 第八章  老子の智慧
 第九章  ソクラテス=プラトンの智慧
 第十章  エピクロスの智慧
 第十一章 セネカの智慧
 第十二章 クリシュナの智慧
 第十三章 デカルトの智慧
 第十四章 智慧と愛
 第十五章 聖人君子もしくは哲学者に成ると言う強い意志を持つ事について
 第十六章 哲学一貫教育について
 第十七章 哲学広場と哲学読本大全について
 第十八章 哲学国家日本の実現の為に
 第十九章 最後に

 「拝啓 日本国民の皆様へ」は導入です。
 それから第一章から第十三章までは、ソロモン、ダビデ、イエス、パウロ、ブッダ、孔子、王陽明、老子、ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカ、クリシュナ、デカルトの十三人の哲学者(智慧を愛する者)について、彼らの言葉を引用しながら、彼らの智慧、すなわち彼らの『それ』を解説しています。
 ここにおいて、先生方には是非、検証をして頂きたいのですが、私は彼らの『それ』、すなわち彼らの智慧がその原点においては、寸分の違いも無く、一つであると言及しているのです。
 その最終的な結論については、「第十九章 最後に」の最後の所で述べていますが、その結論は『それ』が『恍惚』だと言っているのです。
 この事について、是非、先生方には検証をして頂きたいと思うのです。
 もし先生方が、それがそれだと言って下されば、この日本に大きな力が起こる事に成ります。
 何故ならそこには、ソロモン、ダビデ、イエス、パウロ、ブッダ、孔子、王陽明、老子、ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカ、クリシュナ、デカルトの智慧と彼らの大きな愛が一杯に詰まっている事に成るのですから。
 いいえ、そこには世界中の全ての智慧と愛が一杯に詰まっている事に成るのですから。

 先生方が、それがそれだと言って下されば、この日本に大きな力が湧き起る事に成るのです。
 何故なら多くの日本人が挙って、それを求める事に成るのですから。
 そしてその先に在るのが『哲学国家日本』なのです。
 『哲学国家日本』とは、国民一人一人の「智慧と愛」に依って靱帯される国家の事なのです。

 随分に飛躍的な言い回しに成ってしまいましたが、哲学(智慧を愛する事)に依って『恍惚』を何度も何度も経験した先生方であれば、私の言う事が理解できると思います。

 「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。
  道の物為(た)る、惟(こ)れ恍、惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。
  其の中に象有り、恍たり惚たり。
  其の中に物有り、窈たり冥たり。
  其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。
  古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。
  吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」(「老子」)

 これこそが哲学(智慧を愛する事)の真髄です。
 人は哲学(智慧を愛する事)に依って、『恍惚』と成り、
 人はその『恍惚』に依って、『智慧と愛の人』と成るのです。
 人はその『恍惚』の中で、「神は愛なり」と言う言葉を実感する事に成るのです。
 
 『恍惚』こそが、智慧を愛する者、すなわち哲学者の絶対基準です。
 何故なら、人はその『恍惚』の中で、古今東西の聖人賢人たちの言葉を、本当の自分の言葉として心から理解する事が出来る様になるからです。
 何故なら、その言葉たちはその『恍惚』の中から生まれた言葉たちなのですから。
 
 「初めに言(ことば)があった。
  言は神と共にあった。
  言は神であった。
  この言は、初めに神と共にあった。
  万物は言によって成った。
  成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
  言の内に命があった。
  命は人間を照らす光であった。
  光は暗闇の中で輝いている。」(新約聖書「ヨハネ福音書」)

 この『言』はその『恍惚』の中から生まれるのです。

 「顔淵、仁を問う。
  子の曰く、克己復禮を仁となす。
  一日、克己復禮すれば、天下仁に帰す。
  仁を為すこと己(おのれ)に由(よ)る。
  而して人に由(よ)らんや。
  顔淵の曰く、請う、その目(もく)を問わん。
  子の曰く、禮に非らざれば視ること勿かれ、禮に非らざれば聴くこと勿かれ、禮に非らざれば言うこと勿かれ、禮に非らざれば動くこと勿かれ。」(「論語」)

 「克己復禮を仁となす」、この『仁』が老子の言う『道』であり、『恍惚』です。
 この『恍惚』の中において、パウロの言う「神は愛なり」が実現しているのです。

 古今東西の聖人賢人たちが『それ』の事を様々な言葉で語っていますが、
 『それ』については、その『恍惚』の中で心の底から理解する事が出来る様に成るのです。
 何故なら『それ』はその『恍惚』の中から生まれたものだからです。

 「わたしは知恵。
  熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている。
  主を畏れることは、悪を憎むこと。
  傲慢、驕り、悪の道、暴言をはく口を、わたしは憎む。
  わたしは勧告し、成功させる。
  わたしは見分ける力であり、威力を持つ。
  わたしによって王は君臨し、支配者は正しい掟を定める。
  君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆、わたしによって治める。
  わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。
  わたしのもとには富と名誉があり、すぐれた財産と慈善もある。
  わたしの与える実りは、どのような金、純金にもまさり、わたしのもたらす収穫は、精選された銀にもまさる。
  慈善の道をわたしは歩き、正義の道をわたしは進む。
  わたしを愛する人は嗣業を得る。
  わたしは彼らの倉を満たす。』」(旧約聖書「箴言」)

 「わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。」
  人は智慧を愛すると智慧に至ります。
  その智慧の与える実りはどのような金、純金にもまさるのです。
  その智慧の与える実りとは何か、それこそが『恍惚』なのです。
  そしてその『恍惚』の中で、人は「智慧と愛の人」と成るのです。

 人は何故、その『恍惚』の中で、「智慧と愛の人」に成るのか。
 それはその『恍惚』の中にその智慧と愛の原型が宿っているからに他なりません。

 「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。
  月も、星も、あなたが配置なさったもの。
  そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。
  神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていだかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。
  羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。」(旧約聖書「詩篇」)

 「神に僅かに劣るものとして人を造り」と言う事で、人の中にはその『神』の原型が宿っているのです。
 それが「智慧と愛の人」です。
 それはその『恍惚』の中で実感される事なのです。

 「良知は、夜気の発するにときに在っては、方に、是れ、本体なり。其の物欲の雑、無きを、以ってなり。」(「伝習録」)
「夜気清明の時、視ること無く、聴くこと無く、思うこと無く、作すこと無く、淡然として、平懐なるは、就(すなわ)ち、是れ、義皇の世界なり。」(「伝習録」)
 「無心と言うは、即ち妄想無き心なり。」(「菩提達摩無心論」)
 「問うて曰く、和尚は既に一切処に於いて皆無心なりと云う。
  木石も亦た無心なり、豈(あ)に木石に同じからざるか。
  答えて曰く、爾我の無心は、木石に同じからず。
  何を以ての故ぞ。
  譬えば天鼓の如し、無心なりと雖復(いえど)も、自然に種々の妙法を出して衆生を教化す。
  又如意珠の如し、無心なりと雖復(いえど)も、善能(よ)く諸法実相を覚了し、真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し。」(「菩提達摩無心論」) 

 この時の「無心」の感覚が『恍惚』です。
 それは無で在ると共に無限です、と言うよりも、無であり無限であると感じるその感覚、その感覚の事を『恍惚』と呼んでいるのです。
 そこにおいて人が求めると、その求めに応じて、その人がそれまでに学んで来た事が、その人に取って最良の形で姿を現す事に成るのです。
 その時の感覚の事を、「天鼓の如し」と言い、「如意珠の如し」とも言う事に成るのです。
 全てが比喩の比喩です。

 『それ』とは何か、それが智慧なのです。
 古今東西の聖人賢人たちが、『それ』を様々に呼んでいますが、
 それを一般的な言葉で言い表せば、それが『智慧』なのです。
 今回私が取り上げた哲学書の中では、十三人の哲学者(智慧を愛する者)たちは『それ』を次の様に呼んでいます。
 ソロモンはそれを「智慧」とも「主」とも「神」とも呼んでいます。
 ダビデは基本的にはそれを「主」と呼んでいますが、時には「神」と呼んでいます。
 イエスはそれを「主」とも「神」とも「父」とも呼んでいます。
 パウロもそれを「主」とも「神」とも「父」とも呼んでいますが、「キリスト」とも呼んでいます。
 ブッダはそれを「般若」と呼んでいます。
 孔子はそれを「仁」と呼んでいます。
 王陽明はそれを「良知」と呼んでいます。
 老子はそれを「道」と呼んでいます。
 ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカ、デカルトは基本的にはそれを「智慧」と呼んでいますが、時には「神」と呼んでいます。
 クリシュナはそれを様々に呼んでいますが、基本的は「アートマン」と「ブラフマン」です。
 十三人の哲学者(智慧を愛する者)は、それを様々に呼んでいますが、それらは全て『智慧』なのです。
 何故それらが全て智慧であると言い切れるのか、それはそれら全てが『恍惚』の中で一つであると了解する事に成るからです。

 『恍惚』こそが、哲学(智慧を愛する事)の絶対基準です。
 何故なら『恍惚』の中において、人は全ての聖人賢人たちの言葉を自分の言葉として心から理解する事が出来る様に成るからです。
 何故なら、その『恍惚』の中において、全ての聖人賢人たちが一つなのですから。
 いいえ、その『恍惚』の中において、全ての人類が一つなのですから。

 『恍惚』とは何か、それは人が本当の自分自身に成った時の状態の事なのです。
 
 「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」
 「ごらんなさい。賢者がどんなふうに自分自身に満足しているかを。」
 「自己において喜び、自己において充足し、自己において満ち足りた人、彼にはもはやなすべきことがない。」
 「われわれの探し求むべきものは何かと言うに、それは抵抗し得ざる或る力の支配を毎日受けないもののことです。それは何でしょう。それは心ですが、それは正しい、善い、大きな心のことです。この心を、人間の肉体に宿る神という以外に何と呼ぶでしょうか。」
 「では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。」

 『汝自身を知れ』
 これこそが哲学なのです。
 何故なら本当の自分自身に依って、世界中の全ての人と繋がる事が出来るからです。
 その『恍惚』の中で、全ての人を心から理解する事が出来る様に成るのです。

 その「智慧と愛」に依って、靱帯される国家、それが哲学国家日本なのです。
 その為には先ず、多くの日本人が「智慧と愛」を知り抜かなければならないのです。
 その為の方法が、『哲学読本大全』と『哲学広場』と言う事に成るのです。

 と言う事で、先生方には、「哲学読本大全」の作成と「哲学広場」の設置について、御協力を頂きたいのです。

 先ずは「哲学読本大全」ですが、これについては「哲学読本大全(全百巻)」と「哲学読本大全(智慧と愛の巻全百巻)」から成っていると述べましたが、これらを一人の力で作成する事は不可能な事です。
 これらは国民の英知を結集して始めて作成可能と成るのです。
 しかしこれらの内、「哲学読本大全(智慧と愛の巻全百巻)」の縮小版なら、先生の御協力があれば直ぐにでも作成する事が出来るのです。
 「哲学読本大全(智慧と愛の巻全百巻)」と言ってしまうと、大全と言う言葉や全百巻と言う言葉に囚われてしまう事になりますので、ここからは「哲学読本(智慧と愛の巻)」と呼ぶ事にします。
 この「哲学読本(智慧と愛の巻)」なら先生の御協力があれば直ぐにでも作成する事が出来るのです。
 そしてこの「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成に依って、「哲学広場」が自律的に設置されて行く事に成るのです。
 そしてその先に在るのが、「哲学国家日本」と言う事に成るのです。
 
 それではその「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成方法を示したいと思います。
 先ずは先生御自身で、古今東西の聖人賢人哲人たちの『それ』に関する言葉を徹底的に集め、それに関する文章をその著作からスキャナーし、ワードのA4版の印刷形式のレイアウトに、一文章毎に一頁に張り付けて行って下さい。(一文章が二頁に渡っても構わないと思いますが、二頁が限度だと思います。あまり長いと一読でその文意を理解する事が困難と成ります。何故ならこの「哲学読本(智慧と愛の巻)」には、何千何万と言う『それ』に関する文章が集まる事にも成るのですから、一読でその文意を理解する事が出来る程度の文章量がベストと言う事に成るのです。しかしあまり短くても駄目です。何故なら起承転結が分からなければ、その文章の真意を理解する事は出来ないからです。一文章一頁程度を目安にしたら良いと思います。)

 その様にして、千の文章が集まったら、それぞれの文章毎に出典を付記し、それらを先生の分類に従って、整理して下さい。
 これで、先生の「哲学読本(智慧と愛の巻)」の完成です。

 先生が「哲学読本(智慧と愛の巻)」を完成させた時から、先生の大学から哲学(智慧を愛する事)の嵐が湧き起る事に成ります。
 何故なら、「哲学読本(智慧と愛の巻)」を完成させた時、先生はそこにある一つのものを発見する事に成るからです。
 『それ』を発見してしまえば、先生は事を起こさずにはいられなく成るのです。
 何故なら『それ』を何時までも一人で独占し続ける訳にはいかなくなるからです。
 『それ』とは何か、それこそが智慧なのです。
 その智慧は、智慧の根源としての智慧と言った方が理解し易いのかも知れませんが、ここでは『智慧』で統一して行きたいと思います。
 先生がその『智慧』に到達した時、先生は『恍惚』と成るのです。
 その『恍惚』の中で、先生は『愛』(徳)を実感する事に成るのです。
 そしてその『恍惚』の中で、先生がこれまでに集めて来た古今東西の聖人賢人哲人たちの言葉たちが、先生の求めに応じて、新たな形を取って先生自身の言葉として、先生の前に、現れて来るのです。
 
 「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。
  道の物為(た)る、惟(こ)れ恍、惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。
  其の中に象有り、恍たり惚たり。
  其の中に物有り、窈たり冥たり。
  其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。
  古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。
  吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」(「老子」二十一章)

 この『恍惚』の中で、愛を実感する事に成るのです。
 何故ならこの『恍惚』こそが、愛の実感なのですから。 
 この『恍惚』の中において、古今東西の聖人賢人たちの言葉が自分の言葉と成るのです。
 何故ならその言葉たちは全て、その『恍惚』の中から生まれたものだからです。

 『恍惚』とは何か。
 それは自分が本当の自分自身に成った時の感覚の事なのです。

 先生がこの事を理解した時から、先生の大学から哲学(智慧を愛する事)の嵐が湧き起る事に成るのです。

 先ずは、先生が作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」を基に先生の大学の先生や学生、更には先生の知人たちと対話を進めてみて下さい。
 先生の御話に共鳴する人たちがいましたら、その人たちにも自分自身で「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成する様に勧めて下さい。
 その様にして、先生の御話に共鳴する人が十人を超えた時、その時、その人たちと共に、『哲学広場○○』を組織して下さい。
 そして「哲学広場○○」の名において、ホームページ「哲学読本(智慧と愛の巻)」を開設して下さい。
 このホームページ「哲学読本(智慧と愛の巻)」には、先生が作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」は勿論、先生の御話に共鳴して、それぞれの人がそれぞれに作成した「哲学読本(智慧と愛の巻」も掲載する事とします。
 このホームページ「哲学読本(智慧と愛の巻)」は極々簡単なもので良いと思います。
 ホームページ「哲学広場(智慧と愛の巻)」の開設趣旨と次の様な目次だけで良いと思います。
 Aさんの「哲学読本(智慧と愛の巻)」・・・・・・・・・○○頁
 Bさんの「哲学読本(智慧と愛の巻)」・・・・・・・・・○○頁
 Cさんの「哲学読本(智慧と愛の巻)」・・・・・・・・・○○頁
 Dさんの「哲学読本(智慧と愛の巻)」・・・・・・・・・○○頁
 目次とそれぞれの「哲学読本(智慧と愛の巻)」がリンクされているものであればその程度で良いと思います。(A,B,C,Dはペンネームの方が良いと思います。)
 そしてこのホームページを通じて、読者にも「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成を勧め、「哲学読本(智慧と愛の巻)」が完成し次第、メールで送って貰う事とし、それをホームページ上にどんどん張り付けて行く事にするのです。
 その様にして、百人の人の「哲学読本(智慧と愛の巻)」がホームページ上に張り付けられた時、その時、愈々哲学対話室としての「哲学広場○○」を開設する事とするのです。

 「哲学広場○○」(哲学対話室)については、大学図書館の研修室を一時借用して開設する事とし、開設日時は毎週土曜日の午後一時から午後五時までとします。
 「哲学広場○○」(哲学対話室)の開設中は、哲学ボランティア‘ソクラテス’が二名以上常駐し、「哲学広場○○」(哲学対話室)を訪れた者と哲学的対話を行う事に成ります。また「哲学広場○○」(哲学対話室)を訪れた者同士でも哲学的対話を行う事に成ります。更には「哲学読本」等を基に勉強会等も実施される事に成ります。
 先生の大学の「哲学広場○○」(哲学対話室)は、日本全国に開かれたものと成ります。
 そこには、先生の大学の学生や教師だけでなく、日本全国の小学生、中学生、高校生、大学生そして一般市民が集まる事と成り、「智慧と愛」を基に、様々な哲学テーマについて、様々な哲学的対話が行われる事に成るのです。

 「哲学広場○○」(哲学対話室)が軌道に乗ったら、先生にはもう一つの事をして頂きたいのです。
 それが「哲学読本大全(テーマ別)」の作成です。
 「哲学読本大全(全百巻)」は、国民に取って大切と思われる五百の哲学テーマについて、古今東西の名著の中の名文を百編以上集めて、編集したものの事ですが、「哲学読本大全(テーマ別)」はこれの縮小版と言う事に成ります。

 何故「哲学読本大全(テーマ別)」が必要なのか。
 それは「哲学読本大全(テーマ別)」の存在に依って、「哲学広場」(哲学対話室)での哲学的対話が実り多いものと成るからです。

 「哲学広場」(哲学対話室)においては、様々な哲学テーマについて、様々な哲学的対話が交わされる事に成りますが、それぞれの哲学的対話が、それぞれの哲学テーマについて、古今東西の名著の名文を読んだ上で行われるのであれば、その哲学的対話は実り多いものと成るのです。
 何故なら、古今東西の聖人賢人哲人たちの智慧の上において、その哲学的対話が交わされる事に成るからです。
 名文には言霊が宿っています。
 その言霊の上で、哲学的対話が交わされる事になりますから、その哲学的対話は智慧において実りい多いものと成るのです。

 もしフリートーキングで行えば、それは議論、討論、争論に成って行きます。
 それは「哲学広場」が目指すべき哲学的対話では無いのです。
 哲学的対話は、弁証でなくてはならないのです。
 最高の御手本は、ソクラテスとその弟子たちの対話と言う事に成るのでしょう。

 例えば、「幸福について」哲学的対話を行う事とします。
 その際に、イエス、ブッダ、ソクラテス=プラトン、孔子、老子、王陽明、セネカ、エピクロス、エピクテトス、マルクス・アウレリウス、デカルト、カント、ショーペンハウアー、クリシュナ、ダビデ、ソロモン、パウロ等々、百人の聖人賢人哲人たちの「幸福」に関する文章を読んだ上で、哲学的対話を行ったとすれば、その哲学的対話はどの様なものに成るのでしょう。
 はっきり言って置きます。
 二人は程なく、幸福の真髄を掴む事に成るのです。
「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうちの二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(新約聖書「マタイによる福音書」)
 そこには二三人ではないのです。
 百人対百人なのです。
 それも飛びっきりの聖人賢人たちです。
 それらの智慧の上において、哲学的対話が交わされる事に成ります。
 すなわちそれらの智慧の上において、弁証が行われる事に成るのです。
 それらの弁証の結果から生み出された言葉たちについては、父からの言葉、すなわち智慧の根源としての智慧から生み出された言葉であると言っても差し支えはないのです。
 『わたし』とは智慧の事です。
 二人または三人が智慧の名において、智慧を求める所には、必ず『智慧』が臨在するのです。
 ましてや、そこには人類史上最高の智慧たちが集まって来るのです。
 そこにどうして『智慧』が臨在しない事が在るのでしょう。
 「わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。」

 「哲学読本大全(テーマ別)」が、智慧の呼び水と成るのです。

 「古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。
  その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。
  その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修む。
  その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。
  その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。
  その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致(きわ)む。
  知を致むるは物に格(いた)るに在り。
  物格りて后(のち)知至(きわ)まる。
  知至まりて后(のち)意誠なり。
  意誠にして后(のち)心正し。
  心正しくして后(のち)身修まる。
  身修まりて后(のち)家斉う。
  家斉いて后(のち)国治まる。
  国治まりて后(のち)天下平らかなり。」(「大学」)

 「知を致むるは物に格(いた)るに在り。 物格りて后(のち)知至(きわ)まる。」
 ここにおいて、智慧の根源としての智慧に至る事に成るのです。
 ここにおいて、『恍惚』と成るのです。
 ここから様々な徳(愛)が生まれて行く事に成るのです。
 ここから、意が誠に成り、心が正しく成り、身が修まり、
 そしてその結果として、家が斉い、国が治まり、天下が太平と成るのです。
 「この完全な理性が徳と呼ばれ、それがすなわち崇高なるものと同じです。」(セネカ「道徳書簡集」)
 「神は愛なり」 
 この『恍惚』の中で、『古の明徳』が明らかに成るのです。
 「其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」

 ここで、「哲学読本(智慧と愛の巻)」と「哲学読本大全(テーマ別)」との関係を示して置きます。
 「哲学読本(智慧と愛の巻)」においては、古今東西の聖人賢人哲人たちの『それ』に関する言葉(名文)を徹底的に集める事とするのです。
 すなわち、「それとは何か」とか、「それに至るにはどうすれば良いのか」とか、「それに至った時、人はどうなるのか」とかと言った事について、古今東西の名著の中から徹底的にそれに関する名文を集める事とするのです。
 なお、「智慧」には常に「愛」(徳)が寄り添って(孔徳の容、惟(ただ)道に従う)いるので、「智慧の巻」では無くて、「智慧と愛の巻」とするのです。
 
 一方、「哲学読本大全(テーマ別)」については、国民に取って大切と思われる哲学テーマについて、それぞれの哲学テーマ毎に、古今東西の名著の中から名文を選んで、編集する事とするのです。
 「哲学読本大全(全百巻)」は、国民に取って大切と思われる五百の哲学テーマについて、それぞれの哲学テーマ毎に百編以上集めて編集した百巻の読本と言う事に成りますが、「哲学読本大全(テーマ別)」はその縮小版と言う事に成るのです。

 「哲学読本大全(テーマ別)」については、哲学テーマを百とする事とします。
 そしてそれぞれの哲学テーマ毎に集める名文の数も、百編以上とはせずに集められるだけとします。
 また「百巻」を「テーマ別」と言う風に変更する事とするのです。
 その様な「哲学読本大全」であれば、先生の御力添えがあれば、作成は可能だと思います。

 それではその「哲学読本大全(テーマ別)」の作成方法について、示して行きたいと思います。
 なお、「哲学読本大全(テーマ別)」の作成に着手する時期は、「哲学広場○○」(哲学対話室)がある程度軌道に乗って来た時期とします。
 その時の「哲学広場○○」(哲学対話室)は、十数人以上の哲学ボランティア‘ソクラテス’で運営されているとの前提で、お話をします。

 先ずは、「哲学広場○○」の構成員全員(哲学ボランティア‘ソクラテス’全員)で協議の上、百の哲学テーマを決定する事とします。
 哲学テーマについては、国民に取って身近なテーマを選択する事が大切です。
その哲学テーマについて、語り合う事が楽しみに成る様な哲学的テーマを選択する事がとても大切な事と成ります。
 「自分」、「自由」、「喜び」、「幸福」、「心」、「人生」、「時間」、「命」、「死」「国家」、「結婚」、「家族」、「友情」、「仕事」、「学校」、「勉強」、「自然」等々様々な哲学テーマが考えられますが、「哲学広場○○」の構成員全員の協議の上、決定して頂きたいと思います。
 
 次に、百の哲学テーマが決まったら、先生の御指導の下、「哲学広場○○」の構成員全員(哲学ボランティア‘ソクラテス’全員)で、それぞれの哲学テーマ毎に、古今東西の名著の中の名文を徹底的に集め、それをスキャナーで読み込み、ワードのA4版印刷レイアウトの形式にどんどん張り付けて行く事にします。
 横書きは横書きのまま、縦書きは縦書きのまま、そのままのサイズで張り付けて行く事とします。
 一名文の文章量は、A4版一頁に収まる量をベストとします。(二頁に渡っても構いませんが一頁をベストとします。本文の二頁をA4版一頁に収める工夫があっても良いと思います。)

 その様にして、それぞれの哲学テーマ毎に、相当程度の古今東西の名著の中の名文が集まったら、それらを整理編集して、「哲学広場○○」の「哲学広場大全(テーマ別)」として、ホームページ上で公開する事とします。
 なお、この「哲学読本大全(テーマ別)」は最終版では無く、第一版と言う事に成ります。
 何故ならこの「哲学読本大全(テーマ別)」はどんどん成長して行く事に成るからです。
 すなわちホームページ上において、ホームページの読者に、それぞれの哲学テーマ毎に、古今東西の名著の中の名文をメールで送って貰う様に依頼するのです。
 そしてそれらをホームページ上の「哲学読本大全(テーマ別)」に張り付けて行く事とするのです。
 第一版の「哲学読本大全(テーマ別)」が、それぞれの哲学テーマ毎に三十編程度の名文であったとしても、直にそれはそれぞれの哲学テーマ毎に百編を超える事に成るのです。
 そして更に増え続けて行く事に成るのです。
 もし「哲学読本大全(テーマ別)」がそこまでに至ったら、今度は哲学テーマを増やして行く事にするのです。
 すなわち、哲学テーマを百から二百に、二百から三百に、三百から四百に、四百から五百にと増やして行く事にするのです。
 もし五百の哲学的テーマ毎に、百編以上の古今東西の名著の中の名文を集める事が出来れば、それは『哲学一貫教育』で想定している所の『哲学読本大全(全百巻)』と同規模の「哲学読本大全」が完成した事に成るのです。
 もしその様な「哲学読本大全」が完成したら、その「哲学読本大全(テーマ別)」は日本に取ってとても大きな財産と成るのです。
 先生の作成したその「哲学読本大全(テーマ別)」に依って、日本国中に哲学広場が設置される事に成り、その「哲学読本大全(テーマ別)」を基に様々な哲学的対話が展開されて行く事に成るのです。
 そしてその哲学的対話の中においては、常に「智慧と愛」が満ち溢れている事に成るのです。
 
 と言う事で、先生にはもう一つお願いがあるのです。
 それは「哲学読本(智慧と愛の巻)」の再編集です。
 先生が立ち上げた「哲学読本(智慧と愛の巻)」もどんどん成長しています。
 もう今では、千人の「哲学読本(智慧と愛の巻)」が集まっています。
 この「哲学読本(智慧と愛の巻)」はとても貴重な図書です。
 何故ならこの「哲学読本(智慧と愛の巻)」に依って、国民一人一人が『それ』をどの様に考えているかが、手に取って分かる様に成るからです。
この「哲学読本(智慧と愛の巻)」を読めば読む程、『それ』が一つである事を確信する事に成るのです。

 一人の「哲学読本(智慧と愛の巻)」を読んだだけでは、『それ』の事はほとんど分からないと思います。
 しかし十人の「哲学読本(智慧と愛の巻)」を読めば、『それ』の事がおぼろげに分かって来ます。
 そして百人の「哲学読本(智慧と愛の巻)」を読めば、『それ』の事がだんだんとはっきりと分かって来ます。
 そして更に千人の「哲学読本(智慧と愛の巻)」を読み終えた時、その時、『それ』が一つである事を確信する様に成るのです。
 しかし、一般の人々は、中々時間が無いので、千人の「哲学読本(智慧と愛の巻)」をそれぞれに読む事は、中々に出来ないと思います。
 と言う事で、先生にはその千人の「哲学読本(智慧と愛の巻)」を読み易い様に、再編集して頂きたいのです。
 
 なお、現在ある「哲学読本(智慧と愛の巻)」を再編集した場合、二つの「哲学読本(智慧と愛の巻)」が存在する事に成るので、ここからは便宜上、現在ある「哲学読本(智慧と愛の巻)」については、「哲学読本(智慧と愛の巻)」(合本版)と呼ぶ事とし、これから作成する「哲学読本(智慧と愛の巻)」については「哲学読本(智慧と愛の巻)」(編集版)と呼ぶ事とします。

 それではその「哲学読本(智慧と愛の巻)」(編集版)の作成方法について、述べて行きたいと思います。
 先ずは、「哲学広場○○」の構成員全員(哲学ボランティア‘ソクラテス’全員)で協議の上、分類項目を決定します。
 次に、「哲学広場○○」の構成員全員(哲学ボランティア‘ソクラテス’全員)で、「哲学読本(智慧と愛の巻)」(合本版)の中の名文を、その分類項目に従って張り付けて行きます。
 次に、「哲学読本(智慧と愛の巻)」(編集版)が完成したら、「哲学広場○○」の「哲学読本(智慧の愛の巻)」(編集版)として、ホームページ上に掲載する事とします。
 以上で、「哲学読本(智慧と愛の巻)」(編集版)の作成は終了です。

 なお、この「哲学読本(智慧と愛の巻)」(編集版)は、これまでに作成した「哲学読本」(合本版)や「哲学読本大全(テーマ別)」に比べて、少し作成が難しいものと成ります。
 何故なら、分類項目を決定するのが難しいからです。またその分類項目にどの名文を張り付けて行くのかも難しい作業となるからです。
 もし、その分類項目について、「哲学広場○○」の構成員全員(哲学ボランティア‘ソクラテス’全員)が納得し、そしてその分類項目に従って作成した「哲学読本(智慧と愛の巻)」(編集版)」についても、「哲学広場○○」の構成員全員(哲学ボランティア‘ソクラテス’全員)において納得するものであったならば、先生の大学の「哲学広場○○」は盤石なものとなります。
 何故なら先生の大学の「哲学広場○○」においては、「哲学読本(智慧と愛の巻)」(合本版)と「哲学読本(智慧と愛の巻)」(編集版)と「哲学読本大全(テーマ別)」がほぼ完全な形で存在する事と成り、そして何よりもこの事が大切な事なのですが、先生の大学の「哲学広場○○」においては、優秀な哲学ボランティア‘ソクラテス’が多数存在する事に成るからです。

 哲学読本を共同で作成して行く事に依って、哲学ボランティア‘ソクラテス’は智慧の事について、知識を深めて行く事に成ります。
 何故なら、何千何万何十万と言う智慧の言葉を読む事に成るのですから。
 そして「哲学読本(智慧と愛の巻)」(編集版)の編成作業に依って、哲学ボランティア‘ソクラテス’は智慧の真髄を知る事と成るのです
 何故なら、「哲学読本(智慧と愛の巻)」(編集版)は、正に智慧の書と呼ばれるべきものと成って行くからです。
 
 「古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。
  その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。
  その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修む。
  その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。
  その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。
  その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致(きわ)む。
  知を致むるは物に格(いた)るに在り。
  物格りて后(のち)知至(きわ)まる。
  知至まりて后(のち)意誠なり。
  意誠にして后(のち)心正し。
  心正しくして后(のち)身修まる。
  身修まりて后(のち)家斉う。
  家斉いて后(のち)国治まる。
  国治まりて后(のち)天下平らかなり。」(「大学」)

 「知を致むるは物に格(いた)るに在り。物格りて后(のち)知至(きわ)まる。」
 ここが智慧の真髄です。
 ここにおいて、全ての人が一つに成るのです。
 ここまでが哲学者の道であり、ここからが聖人君子への道と言う事に成ります。
 哲学者とは智慧を愛する者の事であり、
 聖人君子とはその智慧をこの世に実現して行く者の事です。
 聖人君子と成る為には、先ずは「知を致むるは物に格(いた)るに在り。物格りて后(のち)知至(きわ)まる。」ところ、すなわち智慧の根源として智慧に至らなければならないのです。
 智慧の根源として智慧に至って始めて、聖人君子への道を進む事が出来るのです。

 智慧の根源として智慧に至る為には、智慧を愛し続けなければ成りません。
 その為の教材として、「哲学読本大全(テーマ別)」と「哲学読本(智慧と愛の巻)」(合本版)と「哲学読本(智慧と愛の巻)」(編集版)が存在する事と成るのです。
 「哲学読本大全(テーマ別)」に依って、「明徳とは何か」、「天下とは何か」、「国とは何か」、「家とは何か」、「身とは何か」、「心とは何か」等々様々な哲学テーマについて学ぶ事に成ります。
 そして「哲学読本(智慧と愛の巻)」(合本版)と「哲学読本(智慧と愛の巻)」(編集版)において、「その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致(きわ)む。知を致むるは物に格(いた)るに在り。物格りて后(のち)知至(きわ)まる。知至まりて后(のち)意誠なり。」辺りを学ぶ事に成ります。
 すなわち『智慧は愛なり』を学ぶ事に成るのです。

 特に「哲学読本(智慧と愛の巻)」(編集版)に依って、その最終の仕上げをする事に成るのです。
 何故なら、「哲学読本(智慧と愛の巻)」(編集版)は、正に智慧の書と呼ばれるべきものと成っているからです。
 と言う事で、「哲学読本(智慧と愛の巻)」(編集版)の作成者たちは、智慧の真髄を知っていなくてはならないと言う事になるのです。
 その事については、先生の御指導の下で、哲学的対話を続けながら、哲学読本の作成作業を続けて行けば、必ずや全員がその様に成ると思います。
 そしてその様な素晴らしい哲学ボランティア‘ソクラテス’の下で作成されれる「哲学読本(智慧と愛の巻)」(編集版)は、正に智慧の書と呼ばれるに相応しいものと成るのです。

 なお編集版の分類項目については、様々に考えられると思いますが、一つの試案を次に示して置きたいと思います。
 なおこの試案は現段階での試案であり、どんどん変わって行くと思います。
 先生方にもこの試案を基に、様々に考えて頂きたいと思います。
 その試案とは次の通りです。

 一 「それとは何か」
 二 「それに至るには、どの様にすれば良いのか」
 三 「それに至った時、人はどの様に成るのか」
 四 「それをこの世に在る時も持続させる為には、どの様にすれば良いのか」
 五 「それ(智慧)を多くの人と共有する為には、どの様にすれば良いのか」
 六 「聖人君子とは何者か、その聖人君子と成る為には、何を為せば良いのか」

 一番目の「それとは何か」ですが、
 『それ』については、古今東西の聖人賢人哲人たちが実に様々な言葉で表現しています。
 それがどれ位あるのか想像が付きません。
 それらの言葉を探すのは、人が多ければ多いほど良いのです。
 と言う事で、先生の御指導の下、「哲学広場○○」の哲学ボランティア‘ソクラテス’全員で、徹底的にそれを探し出して、それの言葉の下に、名文を整理して行って頂きたいと思います。
 なお、『それ』については、大きく二つに分ける事が出来ると思います。
 「アートマン」と「ブラフマン」が最も分かり易いと思います。
 「アートマン(真の自己)」とは、一人一人に宿っている智慧の事であり、
 「ブラフマン」とは、世界人類に共通に存在している智慧の事と言う事に成ります。
 そして「アートマン」を極めて行くと、「ブラフマン」に達すると言う関係にあります。
 また最高の「アートマン」は「ブラフマン」であると言う関係もあります。
 クリシュナは最高の「アートマン」であるので、「ブラフマン」でもあると言う事に成るのです。
 すなわち生ける神と言う事に成るのです。
 新約聖書で言えば、
 「アートマン」に相当するのが、「聖霊」や「(私の神である)主」であり、
 「ブラフマン」に相当するのが、「父」や「神」と言う事に成ります。
 イエスは完全な「アートマン」であるので、生ける神でもあると言う事に成るのです。

 またこれとは別に、『それ』に達したと時の状態を現わす言葉もあります。
 「ニルヴァーナ」がその代表だと思います。
 「涅槃」、「天国」、「極楽」、「神の国」等もその系列の言葉です。
 また老子の「恍惚」やエピクロスの「アタラクシアー(心の平静)」もその系列の言葉と言う事に成ります。

 「それとは何か」の編成作業においては、この三つの系列の言葉を集めて、整理して行けば良いと思います。
因みに、今回私が取り上げた十三人の哲学者(智慧を愛する者)の著作で整理すると次の様に成ります。

 「アートマン(真の自己)」系の系列の言葉としては、
 ソロモン、ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカ、デカルトは、基本的にはそれを「智慧」と呼び、
 王陽明は、それを「良知」と呼び、
 孔子は、それを「仁」と呼び、
 老子は、それを「道」と呼び、
 ブッダは、それを「般若」と呼び、
 クリシュナは、それを「アートマン」と呼び、
 ソロモン、ダビデ、イエス、パウロは、それを「(私の神である)主」と呼んでいます。
 なおイエスはそれを「聖霊」とも呼んでいます。
 その他、上記の哲学者たちは上記以外の呼び名でも呼んでいますが、ここでは煩雑になるので、列挙しない事とします。

 次に「ブラフマン」系の系列の言葉としては、
 ソクラテス=プラトン、エピクロス、セネカ、デカルト、ダビデ、ソロモン、イエス、プロは、基本的にはそれを「神」と呼んでいますが、イエス、パウロはそれを「父」とも呼んでいます。
 孔子、老子、王陽明は、基本的には、それを「天」と呼び、
 クリシュナは、それを「ブラフマン」と呼んでいます。
 ブッダは、今回私が取り上げた著作の中では、それに該当する言葉はありませんが、他の著作においては、様々に言っていると思います。「仏」、「如来」等はそれに近い言葉だと思います。
 なお、「アートマン」系の系列の言葉と同じく、「ブラフマン」系の系列の言葉においても、上記哲学者たちは上記以外の呼び名でも呼んでいますが、ここでは煩雑に成るので、列挙しない事とします。

 次に「ニルヴァーナ」系の系列の言葉ですが、
 これについては、実は、明確な言葉を使って表現している哲学者は少ないのです。
 比喩、暗喩の中に潜り込ませたり、それぞれの場合において、それぞれの具体的表現に依って表現しているので、一律に掴む事は中々に難しいものと成っています。
 それを明確な言葉で表現しているのは、それこそブッダとクリシュナの「ニルヴァーナ」くらいです。
 勿論イエスやパウロの「天の国」もそれに関する言葉なのですが、それは比喩暗喩を多用していますので、その比喩暗喩を解かない限り、その言葉に囚われてしまう事になります。それに至っている時の状態を示す言葉としては、理解が難しい部類に入ると思います。
 なお今回私が取り上げ哲学者の著作においては次の通りです。
 イエスとパウロにおいては、「天の国」、「神の国」等々。
 ブッダにおいては、「ニルヴァーナ」、「無心」、「空」等々。
 クリシュナにおいては、「ニルヴァーナ」、「寂静」、「無」等々。
 ソクラテス=プラトンにおいては、「最高の快楽」等々。
 エピクロスにおいては、「アタラクシアー(心の平静)」等々。
 セネカにおいては、「不朽の喜び」、「心の平安」、「最高の幸福」等々。
 ダビデにおいて、「蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」等々。
 孔子においては、「天下仁に帰す」、「無悪」、「不憂」、「安」、「静」、「壽」等々
 王陽明においては、「自らの、手の舞、足の踏むを覚えざらん」、「穏当快楽」等々
 老子においては、「無心」、「無欲」、「無垢」、「無我」、「無」、「恍惚」等々

 『それ』に至った時の状態を、それぞれの哲学者ごとに、二言三言で説明しようと思いましたが、少し無理があった様です。
 今少し読み返してみたのですが、実に様々に表現している様です。
 それらを整理して説明し直す為には、もう一度原典を読み返さなけば成らない様です。
 今はもうその時間もありませんので、それについては省略したいと思います。

 なお十三人の哲学者の内、それに至った時の状態を明確な言葉で表現しているはイエスとブッダです。
 イエスはそれを「天の国」と言い、ブッダはそれ「ニルヴァーナ」と言いました。
 その為、多くの人がそれを求める事に成ったのですが、それはあまりにも比喩暗喩に充ち溢れていた為、多くの人が理解し得ていないのです。
 特に、イエスの「天の国」においてはそれが顕著です。
 それぞれの場面で、それぞれの最高の状態の時の事を、それも比喩暗喩を多用して表現しているので、その真髄を掴む事は中々に難しい事と成っています。
 一方、「ニルヴァーナ」は原典を読む限りはそれ程難しい概念では無いのですが、それが「涅槃」と訳されたり、「天国」、「極楽」と言う言葉に翻意されるに従って、その真髄を理解する事が難しく成っているのです。
 また、「無心」、「無欲」、「無垢」、「無我」等々も、「ニルヴァーナ」と同じく理解し易い言葉なのですが、多くの人がそれを理解し得ていないのです。何故なら、それを実感する事が出来ないからです。
 それに比べてダビデの「蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」、「あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す。」、「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」、「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いのほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」等々の方が『それ』への憧れを感じさせますが、それの真髄を理解していない限り、この詩の真髄も読み解く事が出来ないのです。

 実を言うと、私も今回十三人の哲学者の著書を読み直す前までは、『それ』について確信があった訳では無かったのです。
 しかし、ある一つの言葉を発見する事に依って、これらが全て一つである事を痛い程、了解する事に成ったのです。
 それが『恍惚』なのです。

 「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。
  道の物為(た)る、惟(こ)れ恍、惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。
  其の中に象有り、恍たり惚たり。
  其の中に物有り、窈たり冥たり。
  其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。
  古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。
  吾何を以て衆甫の状を知るや、此を以てなり。」

 私はここにおいて、全ての聖人賢人哲人たちの『それ』が一つである事を、心から了解する事に成ったのです。
 何故ならその『恍惚』をこの心身で体感する事が出来たからです。
 ここにおいて、全ての聖人賢人哲人たちのそれが一つに成ったのです。

 『恍惚』ほど、『それ』に至った時の事を理解し易い言葉は無いと思います。
 何故なら『恍惚』なら、多くの人が心から理解出来るからです。(心から体感する事が出来るからです)

 『恍惚』とは、この世の愛における最高の体感の事です。
 そこにおいては、この世の煩いは一切ありません。
 そこは温和な上にも温和です。
 そこは平安の上にも平安です。
 そこにおいては何処までも何処までも自分が自分です。
 そこにはこの世の私は居ません。
 そこには純粋な私が居るだけです。(純粋に考える私が居るだけです。)
 そこは静かな上にも静かなのですが、
 その静かな中にも大きなエネルギーを感じる事に成るのです。
 そしてそこにおいては、人は思うのです。
 「何でも出来ると!」
 しかし残念ながら、その愛は儚く散ってしまうのです。

 しかし智慧との愛はそうではないのです。
 それは永続し続けているのです。
 その愛を求めれば、その愛はそこに在るのです。
 そしてその愛には物凄い力が宿っているのです。
 イエスはその愛に依って、イエスのあの世界を、
 ブッダはその愛に依って、ブッダのあの世界を創り上げたのです。
 「子の曰く、克己復禮を仁となす。一日、克己復禮すれば、天下仁に帰す。」
 あの孔子でさえ、自らの言葉でその事をちゃんと言っているのです。
 そこにおいて、全ての聖人賢人は一つなのです。
 いいえ、そこにおいて全ての人類が一つなのです。

 その愛とは、智慧の根源として智慧に至った時の状態の事です。
 「知を致むるは物に格(いた)るに在り。物格りて后(のち)知至(きわ)まる。」
 この時、人は『恍惚』と成り、『愛』と成るのです。
 ここに『神は愛なり』の原点が在るのです。

 この『愛』から、意が誠に成り、心が正しく成り、身が修まり、
 家が斉い、国が治まり、天下は太平となるのです。
 「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」

 『智慧』とは何か。
 『愛』とは何か。
 多くの人がそれを言葉で言い表す事が出来ません。
 『恍惚』とは何か。
 多くの人がそれを心から理解する事が出来るのです。(心から体感する事が出来るのです。)
 
 『恍惚』とは智慧と愛の極致なり。
 その事を正しく理解した時から、人は心から智慧を愛し続ける事に成るのです。

 智慧を愛して智慧に至った時、人は恍惚に成ります。
 その感覚こそが愛なのです。
 そこにおいて「神は愛なり」と言う言葉が実現しているのです。

 そこにおいて、全ての聖人賢人たちの『それ』が一つに成るのです。
 その時、人は、本当の自分自身に成っているのです。

 人の最終目的、それは自分が本当の自分自身に成る事なのです。

 「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」
 「自己において喜び、自己において充足し、自己において満ち足りた人、彼にはもはやなすべきことがない。」
 「われわれの探し求むべきものは何かと言うに、それは抵抗し得ざる或る力の支配を毎日受けないもののことです。それは何でしょう。それは心ですが、それは正しい、善い、大きな心のことです。この心を、人間の肉体に宿る神という以外に何と呼ぶでしょうか。」
 「では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。」

 『恍惚』とは、自分が本当の自分自身に成った時の感覚の事なのです。
 その事を正しく理解した時から、人は智慧と愛を心から求める事に成るのです。
 何故なら、智慧も愛も全て、本当の自分自身そのものの事なのですから。

 少し脱線してしまいましたが、
 「それとは何か」については、「それ」に関する名文を徹底的に集めれば良いと思います。
 そうすればそこに必ず一つの『それ』が浮かび上がって来る事に成ります。
 『それ』とは何か、それこそが智慧と呼ばれる本当の自分自身の事なのです。

 「それとは何か」についてのその編集作業を終えた時、
 その人の心の中には、古今東西の聖人賢人たちの「神」や「仏」や「天」や「ブラフマン」や「神の国」や「天の国」や「極楽」や「涅槃」や「ニルヴァーナ」や「無」や「無心」や「無垢」や「空」や「中」や「平安」や「平静」や「寂静」や「至福」や「最高の快楽」や「恍惚」等々それらに類するものが、それこそてんこ盛りに盛られる事に成ります。
 しかしその人は決して混乱する事など無いのです。
 何故ならそれらは全て、ある一つのもので統べられているからです。
 その一つのものこそが、智慧と呼ばれる本当の自分自身(アートマン、聖霊、良知、般若、仁、道、真我、我が神なる主等々)に他ならないのです。

 『汝自身を知れ』、これこそが哲学の本質です。

 「それとは何か」の編集作業においては、古今東西の名著の中から『それ』に関する名文を徹底的に集めたら良いと思います。
 そうすれば必ずそこに『それ』の真髄が浮かび上がって来る事に成るのです。

 次に、二番目の「それに至る為にはどの様にすれば良いのか」ですが、
 それに至る為には、それを愛して、愛し抜くしかその方法は無いのです。
 それを愛して愛し抜いて、それに至る、それしかそれに至る方法は無いのです。

 それを愛し抜く方法、それが「哲学」、すなわち智慧を愛する事なのです。
 智慧を愛すれば愛する程、智慧へと近付きます。
 そして遂には智慧へと至る事に成るのです。
 「哲学は道を行き、英知は道の終わりです」(セネカ「道徳書簡集」)

 なお、哲学(智慧を愛する事)は大きく二つに分ける事が出来ます。
 それが哲学的方法と宗教的方法です。
 哲学的方法においては、様々な古今東西の聖人賢人哲人たちに、それを愛する方法を学ぶ事に成ります。
 一方宗教的方法においては、その宗教の創始者、勿論その創始者も哲学者(智慧を愛する者)なのですが、その創始者から直接に、それを愛する方法を学ぶ事と成ります。
 どちらもそれを愛する事なのですが、その愛し方に実に様々な方法があると言う事になるのです。
 と言う事で、先生には、先生の御指導の下、「哲学広場○○」の哲学ボランティア‘ソクラテス’全員と共に、それの愛し方、すなわち「それに至る方法」について、古今東西の名著の中からそれに関する名文を徹底的に拾い出して頂きたいと思います。
 なお、「祈り」、「瞑想」、「断食」、「念仏」、「読経」、「座禅」、「ヨーガ」等々も全て、それに至る為の方法なのです。
 何故人々はその事を為すのか。
 それはそこに至りたいから。
 何故そこに至りたいのか。
 何故ならそここそが、本当の自分自身が存在し得る場所だから。
 そこは「如実空」であり、「如実不空」である世界。
 そこは『恍惚』の世界。
 そこは智慧と愛の根源の世界。
 「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。」と言う世界なのです。

 なお、それに至る方法は様々にあると思いますが、私はやはり哲学こそがその王道だと思います。
 ここで言う哲学とは、古今東西の聖人賢人哲人たちの智慧の言葉に学び、その智慧の言葉に依って智慧へと至る方法ですが、この方法こそが最高最善の道だと思います。
 何故ならそれに至った時、それまでに学んで来た聖人賢人たちの智慧の言葉が、全て自分自身の物と成って行くからです。

 古今東西の聖人賢人たちの智慧の言葉を学び、それらの言葉を愛する事に依って、人はそれへと至る事に成ります。
 それに至った時、人は最高最善の状態に成るのです。
 すなわち、『恍惚』(無心無我の境地=本当の自分自身)と成るのです。
 そしてそこにおいて人が求めると、その求めに応じてその求めるものが滾々と湧いて来ると言う事に成るのです。
 その事を「天鼓の如し」と言ったり、「如意珠の如し」と言ったりするのですが、
 それらは全て、その人がそれまでに学んで来た事がその人に取って最高の形で現れると言う事に過ぎないのです。
 それはそれまでに学びが在ったからこそ可能と成るのです。
 もしそこまでに学びが無ければ、それは危ういものとも成るのです。

 「子曰く、学んで思わざれば則ち(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし。」(「論語」)

 学んで思って対話して、更に学んで思って対話する。
 これが私が提唱している『哲学読本大全』と『哲学広場』の世界なのです。
 この世界においては、どうしても『哲学読本大全』が必要なのです。
 何故なら哲学読本大全が無ければ、それぞれ銘々が勝手に思うだけの世界、
 それは議論討論争論と成って、程なく空中分解する事に成ってしまうのです。
 しかしそこに「哲学読本大全」があれば、学んで思って対話して、更に学んで思って対話してと言う、哲学(智慧を愛する事)の輪廻が続く事に成るからです。
 哲学広場には哲学読本大全が絶対的に必要なのです。
 と言う事で、先生の御指導の下、「哲学広場○○」の‘哲学ボランティア’全員で、「それへと至る様々な方法」を、古今東西の名著の中から徹底的に拾い出して頂きたいと思います。
 そうすればそれらの名文たちが、きっと多くの人たちをその境地へと導いて行く事に成ると思います。

 次に三番目の「それに至った時、人はどの様になるのか」ですが、
 人は『それ』に至った時、『恍惚』に成るのです。
 人は『それ』に至った時、本当の自分自身と成るのです。
 そこは、如実空であり、如実不空であると言うその世界。
 そこは、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。」と言う世界。
 そこは神の国、天の国、極楽、涅槃、ニルヴァーナ、
 無心、無垢、無我の世界、
 空、中、無の世界、
 そして至福とも呼ばれる世界。
 何故ならそこにおいては、何の煩いも無く、何処までも何処までも自分が自分自身で在り、そしてそこにおいて求めると、心から求めるものが滾々と湧いて来る事に成るのですから。
 「無心なりと雖復(いえど)も、善能(よ)く諸法実相を覚了し、真般若を具して、三身自在に応用して妨ぐる無し。」と言う世界。
 それは智慧と愛の根源の世界。
 人は智慧を愛すると、そこに至る事に成るのです。
 そしてそこから、この世の智慧と愛の世界が生まれて行く事に成るのです。

 古今東西の聖人賢人たちが、それに至った時の状態の事とそこから生まれる智慧と愛の世界の事を、様々に表現していますので、古今東西の名著の中からそれらに関する名文を徹底的に拾い出して頂きたいと思います

 「孔徳の容、惟(ただ)道に従う。道の物為(た)る、惟(こ)れ恍、惟(こ)れ惚、惚たり恍たり。其の中に象有り、恍たり惚たり。其の中に物有り、窈たり冥たり。其の中に精有り、其の精甚(はなは)だ真にして、其の中に信(まこと)有り。古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。」
 「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」
 「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」
 「物格りて后(のち)知至(きわ)まる。知至まりて后(のち)意誠なり。意誠にして后(のち)心正し。心正しくして后(のち)身修まる。身修まりて后(のち)家斉う。家斉いて后(のち)国治まる。国治まりて后(のち)天下平らかなり。」

 「この完全な理性が徳と呼ばれ、それがすなわち崇高なるものと同じです。」
 「神は愛なり」

 その智慧が極まった時、そこからその人の智慧と愛の世界が生まれて行くのです。

 イエスはその智慧が極まった時から、その智慧と愛の世界をこの世に実現すべく、今も活動し続けているのです。
 ブッダもその智慧が極まった時から、その智慧と愛の世界をこの世に実現すべく、今も活動し続けているのです。
 そして「哲学国家日本」の原理もそれと一緒なのです。
 すなわち多くの日本人がその智慧に至る事に依って、その智慧に依って実現される智慧と愛の世界、その世界の事を哲学国家日本と呼んでいるのです。
 その為にも多くの日本人が、それに至った時の状態の事を知らなければならないのです。
 そしてそこから生まれる智慧と愛の世界も知らなければ成らないのです。
 と言う事で、先生には「それに至った時の状態の事」、そして「そこから生まれる智慧と愛の世界の事」について、古今東西の名著の中からそれに関する名文を徹底的に拾い出して頂きたいと思います。

 なお、人はそれに至った時、『恍惚』と成るのです。
 それは一番目の「それとは何か」の中で集めたニルヴァーナ系の系列の言葉と同じと言う事に成ります。
すなわち、ニルヴァーナ、涅槃、天の国、神の国、平安、平静、寂静、至福、快楽,悦び、恍惚、無、無心、無垢、無我、中、空、無等々と言う事に成ります。

 それから「そこから生まれる智慧と愛の世界」とは、俗に言う「徳(愛)の世界」と言う事に成ります。
 すなわち、勇気、忍耐、節制、寛容、誠実、優雅、友愛、慈愛等々が織りなす「徳(愛)の世界」の事なのです。

 哲学の事を真善美を求める事だとも言います。
 「真」とは何か。
 それが『それ』の事です。すなわち智慧(本当の自分自身)の事です。
 「善」「美」とは何か。
 それが「徳(愛)」の事なのです。すなわ智慧(本当の自分自身)がこの世と接触した時に、形あるものとして生まれて来るもの、それが徳(愛)なのです。(「善」「美」とは何か、それはこの世の形あるものの最高の形容表現の事なのです。)

 勇気、忍耐、節制、寛容、誠実、優雅、友愛、慈愛等々様々な徳がありますが、
 それらは全て、智慧(本当の自分自身)が、この世に形あるものとして生まれて来たものたちなのです。
 それは無数にあり、そして様々に変化して行きます。
 その徳(愛)から、この世の素晴らしい世界、すなわち智慧と愛の世界が生まれて行く事に成るのです。
 はっきり言って、その世界は無限です。
 例え、百億冊の本があったとしても、それを表現する事など出来ないのです。
 何故なら世界中の全ての人が一人で一冊の本に、それらを表現しようと思ってもとても表現し切れるものでは無いからです。
 もしそれらを本気で表現しようと思い始めたら、それは一人で、十冊、百冊、千冊と成って行く事に成るからです。
 「イエスのなさったことは、このほかにも、まだまだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(新約聖書「ヨハネによる福音書」)

 人は智慧を愛すると『恍惚』(本当の自分自身)になります。
 この『恍惚』(本当の自分自身)から「徳」(愛)が生まれ、
 そしてこの徳(愛)からこの世の素晴らしき世界、すなわち智慧と愛の世界が生まれて行く事に成るのです。

 「What a wonderful world」(何と言う素晴らしい世界)。
 それはその『恍惚』から生まれて行く世界なのです。
 それは「神は愛なり」と言うその世界でもあるのです。

 と言う事で、先生の御指導の下、「哲学広場○○」の哲学ボランティア‘ソクラテス’全員で、
 それに至った時の状態の事(恍惚等々)と、
 そこから生まれる様々な徳(愛)の事と、
 それらの徳(愛)から生まれる様々な智慧と愛の世界の事について、
 古今東西の名著の中から、それらに関する名文を徹底的に集めて頂きたいと思います。
 そうすればそれらの名文たちが、きっと多くの人をそこへと誘う事に成ると思います。

 次に四番目の「それをこの世に在る時も持続させる為には、どの様にすれば良いのか」ですが、実は、これは六番目の「聖人君子とは何者か、聖人君子と成る為には何を為せば良いのか」と全く同じ事なのです。
 聖人君子とは何者か、それはこの世に在る時も、『恍惚』で在り続ける事(智慧と共に在り続ける事、本当の自分自身で在り続ける事)の出来る人たちの事を言うのです。
 君子とは、この世に在る時も、その『恍惚』を維持し続けようと努力し続ける人の事であり、
 聖人とは、「習い性と成る」と言う事で、その『恍惚』が自らの性と成った人の事を言うのです。

 「子曰く、吾れ十有五にして学に志す。
  三十にして立つ。
  四十にして惑わず。
  五十にして天命を知る。
  六十にして耳順(した)がう。
  七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。」(「論語」)

 これが、学者から哲学者へ、哲学者から君子へ、君子から聖人へと至る道です。

 孔子は、
 十五歳で『それ』(智慧)に志し、
 三十歳で『それ』(智慧)において立ち、
 四十歳で『それ』(智慧)において惑わななく成り、
 五十歳で『それ』(智慧)の命ずる事を心から理解する事が出来る様に成り、
 六十歳で『それ』(智慧)の命ずる事に心から従う事が出来る様に成り、
 七十歳で自らの心が『それ』(智慧)と同じに成ったのです。
 すなわち心のままに動いて智慧のままに成ったのです。
 すなわち「本当の自分自身」に成ったのです。
 「哲学は道を行き、英知は道の終わりです」
 『汝自身を知れ』。
 「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」
 「では、どういうものが賢者を作るのか、とお尋ねですが。それは神を作るものです。」
 と言う事で、孔子は七十歳にして聖人と成ったのです。

 孔子は
 十五歳で哲学に志し、
 四十歳で真の哲学者と成り、
 五十歳で君子と成り、
 六十歳の時には君子を楽々と熟し、
 そして七十歳で聖人と成ったのです。

 孔子は四十歳の時に、「不惑」に成りました。
 「知者は惑わず」(「論語」)と言う事で、四十歳で真の哲学者(智慧を愛する者)と成ったのです。

 孔子は五十歳の時に、「天命を知る」事に成りました。
 ここにおいて、孔子は君子への道を進む事に成ったのです。
 何故なら天の命ずる事に、背く事など出来なかったからです。
 天(本当の自分自身)はこう命じたのです。
 「この世に在って、私と共に在れ」と。

 孔子は六十歳の時には、「耳順」の境地に達しています。
 天の命ずるままに行動する事に対して、違和感が無く成ったのです。

 そして七十歳の時に、孔子は「心の欲する所に従って矩を踰えず」と言う境地に達したのです。
 すなわち聖人の領域に達したのです。
 天命(本当の自分自身が命じる事)とこの世の孔子の心が一緒に成ったのです。
 この世の孔子がそのままに生きる事に依って、そこに天の世界、すなわち智慧と愛の世界が実現して行く事に成ったのです。

 天とは何か、それは智慧の事であり、本当の自分自身の事です。
 天命とは何か、それは智慧の命ずる事であり、本当の自分自身が命ずる事です。
 『汝自身を知れ』、孔子は五十歳の時に、本当の自分自身を知ったのです。
 そして七十歳の時に、本当の自分自身に成ったのです。
 「自分が自分のものになることが、計り知れない善なのです。」(セネカ「道徳書簡集」)

 自分が本当の自分自身で在る時の証明、それこそが『恍惚』なのです。

 聖人君子とは、この世に在る時も、常に智慧と共に在り続けらる人の事、
 すなわち、この世に在る時も、知恵、良知、聖霊、アートマン、仁、道、主、般若等々共に、在り続けられる人の事なのです。
 そしてその時の態様が如何なるものであるかと問われれば、それが『恍惚』と言う事に成るのです。
 『ブッダの微笑み』がその象徴と成るのかも知れませんね。
 勿論聖母マリアの微笑みもその象徴です。

 と言う事で、先生の御指導の下、「哲学広場○○」の哲学ボランティア‘ソクラテス’全員で、聖人君子に関する名文を、古今東西の名著の中から徹底的に集めて頂きたいと思います。
 そうすればそこに必ず一つのものが浮かび上がって来る筈です。
 その事に依って、多くの人が聖人君子に成るのだと言う強い意志を持つ事に成るのです。
 何故なら聖人君子に成ると言う事は本当の自分自身に成る事であり、そこには『恍惚』と言う報酬が伴う事に成るのですから。

 多くの日本人が本当の自分自身を探し求めています。
 しかし多くの日本人が本当の自分自身を探し得ていません。
 何故でしょう。
 何故なら多くの日本人が本当の自分自身とは何かを知らないからです。
 本当の自分自身が何かを知らなければ、そこに至る事も出来ないと言う事に成るのです。
 その為にも、聖人君子に関する情報をたくさん集めなければ成らないと言う事に成るのです。
 何故なら、聖人君子とは本当の自分自身に成った人たちの事なのですから。

 次に五番目の「それ(智慧)を多くの人と共有する為には、どの様にすれば良いのか」ですが、それについては実に様々な方法があると思います。
 古今東西の名著の中から、それらに関する名文を徹底的集めて頂きたいと思います。
 そうすればきっと素晴らしい方法が見い出せると思います。
 なお「仏法僧」もその一つの方法です。
 「仏」とは、『それ』の事であり、
 「法」とは、『それ』に関する書の事であり、
 「僧」とは、『それ』を共にする人々の事であり、その集いの事です。
 それらが有機的に結合する事に依って、多くの人がそれを共有する事が出来る様に成るのです。
 実を言うと、「哲学国家日本」もこの理念上に在るのです。
 「哲学国家日本」における『それ』とは、古今東西の聖人賢人哲人たちがそれぞれに言っている『それ』の事です。それらは全て『それ』なのですが、それらを一つ一つ分別して行くと、とても煩わしく成るので、それを便宜上『智慧』と呼ぶ事にするのです。何故ならそれは「本当の自分自身」の事なのですから。
 次の『それ』に関する書ですが、これが「哲学読本大全」と言う事に成るのです。
 次の『それ』を共にする人々の事ですが、これが「哲学広場」に集う人々と言う事に成るのですが、実を言うと日本国民の全ての人が、それを共にする人々なのです。

 哲学とは、philosophis、智慧を愛する事。
 それは本当の自分自身を知り、本当の自分自身を愛する事と同じ事。
 それは多くの日本人が心から切望している事であり、
 またある意味では全ての日本国民の義務でもあるのです。
 哲学国家日本とは、多くの国民がそれを愛する事に依って、成熟して行く国家の事です。
 その為の機会として、「哲学一貫教育」を提供する事とするのですが、それらの内、「小中高大学哲学一貫教育」と「大学教育学部における徹底した哲学教育」については、制度上の制約があるので、先ずは有志で、「哲学広場大全」と「哲学広場」を始める事とするのです。

 「それ(智慧)を多くの人と共有する為には、どの様にすれば良いのか」
 それについては、古今東西の聖人賢人たちが、様々な方法を提示していると思います。
 古今東西の名著の中からそれらに関する名文を徹底的に集めて頂きたいと思います。
 そうすればそこに素晴らしい方法が浮かび上がって来ると思います。

 以上が「哲学読本(智慧と愛の巻)」(編集版)に関する試案ですが、先生においても様々に考えて頂きたいと思います。
 そうすればきっと、素晴らしい「哲学読本(智慧と愛の巻)」(編集版)が完成する事に成ると思います。

 と言う事で、先生が「哲学読本(智慧と愛の巻)」(合本版)と「哲学読本(智慧を愛の巻)」(編集版)と「哲学読本大全(テーマ別)」を作成し、「哲学広場○○」(哲学対話室)を開設した時から、この日本に大きな哲学(智慧を愛する事)のうねりが起きて行く事に成るのです。
 何故なら先生の大学の「哲学広場○○」から多くの哲学者(智慧を愛する者)が生まれ、そして彼らが聖人君子を目指す事に成るのですから。

 先生の大学の「哲学広場○○」の哲学ボランティア‘ソクラテス’は全員、既に君子です。
 「哲学読本(智慧と愛の巻)」(合本版)と「哲学読本(智慧を愛の巻)」(編集版)と「哲学読本大全(テーマ別)を共同で作成し、共同で「哲学広場○○」を設置し、そしてその「哲学広場○○」の哲学ボランティア‘ソクラテス’に成ろうと意志した時から、先生の大学の哲学ボランティア‘ソクラテス’は全員、『君子』と成っているのです。

 君子とは、『それ』を知り、この世に在る時も『それ』と共に在る事を意志する者の事です。
 先生の大学の「哲学広場○○」の哲学ボランティア‘ソクラテス’は、「哲学読本」の作成に依って、『それ』の真髄を知り抜いており、そしてこの世に在る時も『それ』と共に在る事を意志しており、更には『それ』を多くの人と共有しようと言う強い意志を持っているのですから、上等の君子と言う事に成ります。

 先生の大学の「哲学広場○○」に集う人々は、直に哲学者(智慧を愛する者)に成ります。
 何故なら智慧は、以心伝心と言う、伝播し易い性質を持っているからです。
 先生の大学の「哲学広場○○」の哲学ボランティア‘ソクラテス’は全員君子です。
 彼らの智慧が以心伝心で、「哲学広場○○」に集う人々に伝播して行く事に成るのです。
 先生の大学の「哲学広場○○」に集う人々は、直に哲学者(智慧を愛する者)と成り、更には聖人君子を目指す事に成るのです。

 先生の大学の「哲学広場○○」は、既に多くの人の憧れの場と成っているのです。
 何故なら先生の大学の「哲学広場○○」には、素晴らし『哲学読本』があり、
 そして先生の大学の「哲学広場○○」には、素晴らしい哲学ボランティア‘ソクラテス’が大勢いるのですから。

 先生の大学の「哲学広場○○」の「哲学読本」を読む事に依って、多くの人が哲学(智慧を愛する事)への憧れを持つ事に成ります。
 そして彼らが先生の「哲学広場○○」に集う事に成るのです。
 彼らは「哲学読本」に依って智慧の事を予め学んでいますので、哲学ボランティア‘ソクラテス’(君子)たちと哲学的対話を進めて行く内に、自らにおいてその智慧の真髄を知る事と成るのです。
 その智慧の真髄を知った時、真の哲学者(智慧を愛する者)に成ったと言う事に成るのです。

 真の哲学者(智慧を愛する者)と成った者は、更には聖人君子への道を進む事に成るのです。
 何故ならそれを知った者は、それをひとりで独占しようとする訳にはいかなくなるからです。
 それの分かち合い、それこそが愛なのですから。
 しかし現実には多くの人が真の哲学者までで留まっているのが現状なのです。
 何故ならそれと共にこの世に在ると言う事については、非常に勇気がいる事なのですから。

 しかし先生の大学の「哲学広場○○」に集う人々は何の躊躇も無く、聖人君子への道を進む事に成るのです。
 何故なら先生の大学の「哲学広場○○」の哲学ボランティア‘ソクラテス’は全員君子なのですから。

 先生の大学の「哲学広場間○○」において、真の哲学者(智慧を愛する者)と成った者は、先生の大学の「哲学広場○○」の哲学ボランティア‘ソクラテス’に倣って、何の躊躇も無く聖人君子への道を進む事に成るのです。
 勿論彼らが先生の大学の「哲学広場○○」の哲学ボランティア‘ソクラテス’と成って行く事に成ります。
 その様にして、先生の大学の「哲学広場○○」の哲学ボランティア‘ソクラテス’は級数的に増えて行く事に成るのです。
そして先生の大学の「哲学広場○○」がその地域における哲学の中心地と成って行くのです。

先生の大学の「哲学広場○○」(哲学対話室)は、毎週土曜日の午後一時から午後五時まで開設される事と成りますが、その広場には実に多くの人々が集まる事に成ります。
それはローマの『フォーラム』やアテネの『アゴラ』の観を呈する事と成るのです。
そこにおいて多くの人々が、哲学ボランティア‘ソクラテス’と様々な哲学的対話を重ねて行く事に成るのです。
その有様は、あのアテネのアゴラにおけるソクラテスとその若者たちとの哲学的対話の様なものと成って行くのです。

何故先生の大学の「哲学広場○○」がその様なものと成って行くのか。
それは全て『哲学読本』の御蔭なのです。
何故なら、先生の大学の「哲学広場○○」(哲学対話室)に集う人々は、その『哲学読本』において、『それ』を知り抜いているからなのです。
後は『それ』を哲学ボランティア‘ソクラテス’との哲学的対話において確認する事だけに成っているからです。

先生の大学の「哲学広場○○」から多くの哲学者が生まれ、そして彼らが聖人君子を目指す事に成るのです。
そして彼らに依って、日本は哲学国家へと向かう事と成るのです

それらは全て、先生が作成した「哲学読本(智慧を愛の巻)」から始まるのです。

先生が「哲学読本(智慧と愛の巻)」を完成させた時、先生は『それ』を知る者と成り、
先生はその「哲学読本(智慧を愛の巻)」を基に、様々な人と哲学的対話を行う事と成り、
そして先生の御話に共鳴した人々と「哲学広場○○」を組織する事と成り、
その「哲学広場○○」の名において、「哲学読本(智慧を愛の巻)」(合本版)、「哲学読本(智慧を愛の巻)」(編集版)、「哲学読本大全(テーマ別)」を作成する事と成り、
これらの哲学読本を基に、先生の「哲学広場○○」では多くの人たちが様々な哲学的対話を交わす事と成り、
 それらが評判を呼んで、先生の大学の「哲学広場○○」には多くの哲学者志願者が集まる事と成り、
 先生の大学の「哲学広場○○」がその地域の哲学の一大中心地と成り、
 その様な中で多くの優れた哲学ボランティア‘ソクラテス’(君子)が生まれて行く事と成り、
 彼らが日本各地に『哲学広場』を開設する事に成り、
 それらの「哲学広場」が連携し、響き合う事に依って、
 日本は「哲学国家日本」へと進む事に成るのです。
 それらは全て、先生が「哲学読本(智慧と愛の巻)」を完成させた時から始まる事と成るのです。

 何故先生に「哲学読本(智慧と愛の巻)」の作成を勧めるのか。
 それは先生が大学の哲学の先生だからです。
 もし一般の人々が「哲学読本(智慧を愛の巻)」を作成するとなると何年かかるか分かりません。
 しかし先生ならごく短期間の内に「哲学読本(智慧を愛の巻)」を完成させる事が出来るのです。
 先生はこれまでにたくさんの哲学書を読んでいます。
 それらの中から『それ』に関する文章を拾い出し、スキャナーで読み込んで、それらを分類整理するだけの事ですから、ごく短期間でそれを完成させる事が出来るのです。
 しかしその効果は絶大なのです。
 
 先生が「哲学読本(智慧と愛の巻)」を完成させ、
 先生が『それ』を知った時から、日本は大きく変わる事と成るのです。
 何故なら先生には元々大きな力が宿っているからです。

 先生は大学の哲学(智慧を愛する事)の先生です。
 大学には皆が智慧を求めてやって来るのです。
 先生は、先生の中の先生なのです。
 
「大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しましむるに在り、至善に止まるに在り。」(「大学」)

 「大学の道は、明徳を明らかにするに在り」。
 先生が明徳を天下に明らかにした時、すなわち「哲学読本(智慧と愛の巻)」を発表した時から、哲学の道が明らかに成るのです。

 その「哲学読本(智慧と愛の巻)」から、「哲学広場」が設置され、「哲学読本大全」が作成され、それらに基づいて様々な哲学的対話が交わされる事と成り、その様な中で多くの優れた哲学者が生まれて行く事に成るのです。
そして彼らは皆、「明徳が明らかであり、民に親しんでおり、そして至善に止まろうとしているのです」(智慧と愛に満ち、そして恍惚の中に止まろうとしているのです)
 何故その様な事が可能と成るのか。
 それは先生が大学の哲学の先生だからです。

 大学の哲学の先生とは何者か。
 それは「智慧を愛する事」の大先生なのです。

 その大先生が「智慧とは何か」、「愛とは何か」と言う事について、その真髄を発表した時、先生の下には智慧を愛する人が大勢集まって来る事に成るのです。

 先生が大学の哲学の先生と言う名を得た時から、先生には大きな力が宿る事に成るのです。
 何故なら先生はその時、大学における「智慧を愛する事」の先生の名を得たのですから。
 多くの人が潜在的に先生に注目しているのです。
 その先生が「哲学読本(智慧と愛の巻)」を発表した時、先生の下には多くの智慧を愛する人々が集まる事に成るのです。
 何故なら人間とは元々智慧を愛する存在なのですから。
 そして大学にはその中でも特に智慧を愛する人々が集まっているのですから。
 先生が『それ』を発表した時から、先生の下には大勢に人が集まる事に成っているのです。
 そして先生のその名に依って、多くの人が智慧を愛する人と成って行くのです。
 
 「哲学国家日本」とは、国民一人一人が智慧を愛する事に依って、成熟して行く国家の事です。
 極々当たり前の事なのですが、この日本においては、極々当たり前で無いのです。
 何故か。
 何故なら多くの日本人が哲学(智慧を愛する事)の本当の意味を知らないからです。
 今回私が作成した提言書「哲学国家日本の実現の為に」は、多くの日本人に、哲学(智慧を愛する事)の本当の意味を知らせる為に作成したのですが、いくら私が声を限りに叫んでもそれは知れているのです。
 しかし先生がその事を発すれば、忽ちの内に日本中に広がって行く事と成るのです。
 何故なら先生はその名に依って、その秘めたる力を持っているのですから。

 「哲学国家日本」は、先ずは先生から始まる事と成っているのです。
 
 先生が作成したその「哲学読本(智慧と愛の巻)」から、日本は哲学国家へと向かう事と成るのです。
 それは間違いの無い事なのです。
 何故なら先生は大学の哲学の先生なのですから。
 先生の御一人の力で日本は哲学国家への向かう事と成るのです。
 それは間違いの無い事です。

 しかしもし万が一、全ての大学の哲学の先生が「哲学読本(智慧と愛の巻)」を作成したらどうなるのでしょう。
 はっきり言って置きます。
 一気にあのプラトンの「哲学国家」を超え、その何倍も美しい「哲学国家」が生まれる事と成るのです。
 何故ならプラトンの「哲学国家」においては、為政者だけが「哲学者」でしたが、
 「哲学国家日本」においては、多くの国民が「哲学者」なのですから。

 その「哲学国家日本」は、大学の哲学の先生から始まる事と成っているのです。

 哲学とはphilosophia、智慧を愛する事。
 これは全ての人間に宿っている力です。
 この力に依って、素晴らしい国家を創って行こうとする概念、それが哲学国家なのです。
 その為には多くの日本人が、「哲学とはphilosophia、智慧を愛する事」と言う意味での『哲学』の概念を知り抜かなければならないのです。
 私はその為に今回の提言書「哲学国家日本の実現の為に」を作成したのですが、その力はあまりにも微力です。
 しかし先生方が同じ事をして頂ければ、その力は絶大なものと成るのです。
 何故なら全ての国民が先生方に注目する事になるのですから。

 哲学とはphilosophia、智慧を愛する事、
 それは全ての人間に隠された限り無いエネルギーなのです。

 もし大学の哲学の先生方が共同で「哲学とはphilosophia、智慧を愛する事」と言うこの哲学の概念を日本国中に広めて行ったら、この日本に限り無いエネルギーが生まれて行く事に成ります。
 何故なら国民一人一人がその智慧を愛する事に成るのですから。
 そこには途轍も無く大きなエネルギーが生まれて行く事に成るのです。
 そのエネルギーは途轍も無く大きなエネルギーなのですが、
 それは静かな上にも静かで、そしてクリーンな上にもクリーンなエネルギーなのです。
 そのエネルギーとは何か、それこそが『愛』なのです。
 「神は愛なり」、「智慧は愛なり」。
 そこに智慧と愛に溢れた国家、すなわち『哲学国家日本』が生まれて行く事に成るのです。

 今回の冊子「哲学国家日本の実現の為に」は、
 日本全国の国立大大学教育学部の哲学の先生と
 日本全国の国立大学文学部の哲学の先生と
 日本全国の私立総合大学の文学部の哲学の先生に送付しています。
 具体的な宛先については、送付先一覧表(別冊三七七~三八二頁)の通りです。
 どうか全ての先生方において共同で『それ』に関する研究をして頂きたいと思います。
 そうすればこの日本に途轍も無く大きなエネルギーが生まれて行く事に成るのです。

 『それ』は様々な言葉で表現され、そして様々な比喩暗喩の中に隠されています。
 一人でそれを研究すると成ると、『それ』に囚われる事に成るかも知れません。
 しかし多くの人で一同に研究して行けば、必ずやその真髄を掴む事に成るのです。
 その為にも多くの人で『それ』に関する言葉を集め、
 それを更に集成して行く事がとても大切な事と成るのです。
 全ての先生が「哲学読本(智慧を愛の巻)」を作成し、
 それらを集成して「哲学読本大全(智慧を愛の巻)」(哲学の先生編集版)を作成した時、
 全ての先生がそれらの言葉や比喩暗喩を全て飛び越えてそこに、
 或る一つのものを発見(体感)する事に成るのです。
 その一つのものこそが『本当の自分自身』(無心無我の中の私=恍惚の中の私=愛)なのです。

 『汝自身を知れ』、これこそが究極の哲学の目的です。
 どうか全ての哲学の先生方において、
 『それ』を徹底的に研究し
 『それ』を自分のものとし、
 そして『それ』を多くの日本人と分かち合って頂きたいと思います。
 『それ』の分かち合い、それもまた『愛』なのです。

 なおこの冊子「哲学国家日本実現の為に」は、
 上記の大学の哲学の先生の他、
 大手出版社編集局哲学担当編集長、
 大手新聞社編集局哲学担当編集長、
 大手放送社編集局哲学担当編集長宛に送付しています。
 また
 文部科学大臣 
 文部科学省初等中等教育局長
 文部科学省高等教育局長
 文部科学省生涯学習政策局長     
 文部科学省中央教育審議会長
 文部科学省国立教育政策研究所長        
 文部科学省高等教育局高等教育企画課長
 文部科学省高等教育局大学振興課長
 文部科学省高等教育局国立大学法人支援課長
 文部科学省初等中等教育局初等中等教育企画課長
 文部科学省初等中等教育局教育課程課長
 日本教育再生会議会長宛にも送付しています。
 具体的な送付先については、別紙送付先一覧の通りです。

 どうか皆様方で連携し合って、
 「哲学とはphilosophia、智慧を愛する事」と言うこの哲学の概念を日本国中に広めて頂きたいと思います。
 そうすれば先生の大学の「哲学広場」は大繁盛をする事に成るのです。
 その「哲学広場」から多くの哲学者(智慧を愛する者)が生まれる事と成り、
 彼らに依って、この日本は哲学国家へと変貌して行く事に成るのです。

 「哲学国家日本」、
 すなわち国民一人一人が智慧を愛する事に依って成熟して行く国家日本は、
 全て先生から始まる事と成っているのです。

 どうか先生方には『それ』について徹底的に研究して頂きたいと思います。
 そうすれば日本は必ず変わって行くのです。

 今回のこの書簡については、別冊の提言書のごく簡単な概要をお知らせする積りで書き始めたのですが、随分に長く成ってしまいました。
 未だ未だ書きたい事は一杯あるのですか、切が有りませんので、この辺りで終わりたいと思います。
 この書簡については、別冊の提言書のごく簡単な概要をお知らせする積りで書き始めたのですが、最終的には先生方への檄文的なものに成ってしまった様です。
 これも偏に智慧を愛する思いからそうなったのであり、どうか御許し頂きたいと思います。

 なお別冊「哲学国家日本の実現の為に」は、次に様な構成に成っていますが、
 拝啓 日本国民の皆様へ
 第一章  ソロモンの智慧
 第二章  ダビデの智慧
 第三章  イエスの智慧
 第四章  パウロの智慧
 第五章  ブッダの智慧
 第六章  孔子の智慧分
 第七章  王陽明の智慧
 第八章  老子の智慧
 第九章  ソクラテス=プラトンの智慧
 第十章  エピクロスの智慧
 第十一章 セネカの智慧
 第十二章 クリシュナの智慧
 第十三章 デカルトの智慧
 第十四章 智慧と愛
 第十五章 聖人君子もしくは哲学者に成ると言う強い意志を持つ事について
 第十六章 哲学一貫教育について
 第十七章 哲学広場と哲学読本大全について
 第十八章 哲学国家日本の実現の為に
 第十九章 最後に
 この内、第十四章から第十九章までの概要を今回の書簡文で述べた事に成ります。
 しかし第一章から第十三章までの事についてはほとんど触れていません。
 第一章から第十三章までは、十三人の哲学者(智慧を愛する者)の『それ』について、それに関する名文を引用しながら、『それ』の事を解釈しています。

 今回の冊子が、先生方が『それ』について考える機会になれば、これ以上の喜びはありません。
 どうか先ず十三人の哲学者たちについて、『それ』の真髄を掴んで頂きたいと思います。
 そして更には先生方で、百人、千人、万人の聖人賢人哲人文人たちの『それ』に関する真髄を掴んで頂きたいと思います。
 そうすればそれらの全ての『それ』がその真髄においては、何の違いも無い事を発見する事に成ると思います。
 先生方が『それ』を発見した時、日本は大きく変わる事と成るのです。

 哲学国家日本とは、全ての宗教、全ての哲学の『それ』を内包した国家の事なのです。
 哲学国家日本は、『それ』に依って大きなエネルギーを持つ事に成るのです。
 何故なら『それ』とは、智慧に裏付けられた愛の事なのですから。
 哲学国家日本とはその智慧と愛に溢れた国家の事なのです・・・

 またまた檄文的なものに成って来ましたので、この辺りで本当に終わりにしたいと思います。
 先生方には御精読本当に有難うございました。

 心より 哲学哲男から
 平成二十五年五月吉日

「東京大学文学部思想文化学科各研究室哲学担当教官宛て冊子送付時同封メモ」